三國志修正計画

三國志卷八 魏志八/二公孫陶四張傳 (三)

公孫度

 公孫度字升濟、本遼東襄平人也。度父延、避吏居玄菟、任度為郡吏。時玄菟太守公孫琙、子豹、年十八歳、早死。度少時名豹、又與琙子同年、琙見而親愛之、遣就師學、為取妻。後舉有道、除尚書郎、稍遷冀州刺史、以謠言免。同郡徐榮為董卓中郎將、薦度為遼東太守。度起玄菟小吏、為遼東郡所輕。先時、屬國公孫昭守襄平令、召度子康為伍長。度到官、收昭、笞殺于襄平市。郡中名豪大姓田韶等宿遇無恩、皆以法誅、所夷滅百餘家、郡中震慄。東伐高句驪、西撃烏丸、威行海外。

 公孫度、字は升済。もとは遼東襄平の人である。公孫度の父の公孫延が吏を避けて玄菟に居住し、公孫度は任じられて郡吏となった。時の玄菟太守公孫琙の子の公孫豹は、齢十八歳で早くに死んだ。公孫度の少時の名は豹であり、又た公孫琙の子と同齢であり、公孫琙は見るとこれを親愛し、遣って師に就いて学ばせ、妻を取らせた。後に有道に挙げられ、尚書郎に叙され、稍遷(漸遷)して冀州刺史となったところで謠言によって免じられた。同郡の徐栄は董卓の中郎将となり、公孫度を薦めて遼東太守とした。公孫度は玄菟の小吏から立ち、そのため遼東郡に軽んじられた。これより先、遼東属国の公孫昭が襄平令を守(兼)ね、公孫度の子の公孫康を召して伍長とした。公孫度は官に到ると、公孫昭を収監し、襄平の市場で笞殺した。郡中の名豪大姓の田韶らは宿(か)ねての待遇に恩愛が無く、皆な法を以て誅して夷滅すること百余家となり、郡中は震慄した。東のかた高句驪を伐ち、西は烏丸を撃ち、威は海外に行なわれた。

 初平元年、度知中國擾攘、語所親吏柳毅・陽儀等曰:「漢祚將絶、當與諸卿圖王耳。」時襄平延里社生大石、長丈餘、下有三小石為之足。或謂度曰:「此漢宣帝冠石之祥、而里名與先君同。社主土地、明當有土地、而三公為輔也。」度益喜。故河内太守李敏、郡中知名、惡度所為、恐為所害、乃將家屬入于海。度大怒、掘其父冢、剖棺焚屍、誅其宗族。
分遼東郡為遼西中遼郡、置太守。越海收東萊諸縣、置營州刺史。自立為遼東侯・平州牧、追封父延為建義侯。立漢二祖廟、承制設壇墠於襄平城南、郊祀天地、藉田、治兵、乘鸞路、九旒、旄頭羽騎。太祖表度為武威將軍、封永寧郷侯、度曰:「我王遼東、何永寧也!」藏印綬武庫。度死、子康嗣位、以永寧郷侯封弟恭。是歳建安九年也。

 初平元年(190)、公孫度は中国の擾攘(動乱)を知り、親しい吏の柳毅・陽儀らに語るには 「漢祚は絶えようとしており、諸卿らと王事を図ろう」[1] と。時に襄平の延里の社に大石が生じ、長さは丈余、下に三つの小石があって足となっていた。或る者が公孫度に謂うには 「これぞ漢宣帝の冠石の瑞祥であり、しかも里名は先君と同じであります。社は土地の主であり、土地を有して三公が輔弼すること明白であります」 と。公孫度は益々喜んだ。故河内太守李敏は郡中に名を知られており、公孫度の為しようを悪んでいたが、害される事を恐れ、かくして家属を率いて海上に入った。公孫度は大いに怒り、その父の冢を掘り、棺を剖って屍を焚き、その宗族を誅した[2]
 遼東郡を分けて遼西中遼郡とし、太守を置いた。海を越えて東萊郡の諸県を収め、営州刺史を置いた。自立して遼東侯・平州牧となり、父の公孫延を追封して建義侯とした。漢の二祖廟を立て、承制として襄平城の南に壇墠(祭壇)を設けて天地を郊祀し、藉田(耕田)・治兵(練兵)し、鸞輅(鸞車)に乗って九旒旗を用い、羽林騎には旄頭(ヤクの尾の頭飾り)させた。曹操は上表して公孫度を武威将軍とし、永寧郷侯に封じたが、公孫度曰く 「我は遼東の王だ。永寧とは何だ!」 、印綬を武庫に蔵った。公孫度が死に、子の公孫康が位を嗣ぐと、永寧郷侯を以て弟の公孫恭を封じた。この歳は建安九年(204)である。

 十二年、太祖征三郡烏丸、屠柳城。袁尚等奔遼東、康斬送尚首。語在武紀。封康襄平侯、拜左將軍。康死、子晃・淵等皆小、衆立恭為遼東太守。文帝踐阼、遣使即拜恭為車騎將軍・假節、封平郭侯;追贈康大司馬。

 十二年(207)、曹操は三郡の烏丸を征伐し、柳城を屠った。袁尚らが遼東に奔ると、公孫康は袁尚の首を斬って送った。物語は武帝紀に在る。公孫康を襄平侯に封じ、左将軍に拝した。公孫康が死ぬと、子の公孫晃・公孫淵らは皆な年小だったので、衆人は公孫恭を立てて遼東太守とした。文帝は踐阼すると、遣使して公孫恭を拝して車騎将軍・仮節として平郭侯に封じ、公孫康に大司馬を追贈した。
公孫淵

 初、恭病陰消為閹人、劣弱不能治國。太和二年、淵脅奪恭位。明帝即(位)拜淵揚烈將軍・遼東太守。淵遣使南通孫權、往來賂遺。權遣使張彌・許晏等、齎金玉珍寶、立淵為燕王。淵亦恐權遠不可恃、且貪貨物、誘致其使、悉斬送彌・晏等首、明帝於是拜淵大司馬、封樂浪公、持節・領郡如故。使者至、淵設甲兵為軍陳、出見使者、又數對國中賓客出惡言。

 嘗て公孫恭は陰消(陰部の萎消)を病んで閹人となり、劣弱であって国を治められなかった。太和二年(228)、公孫淵は公孫恭の位を脅奪した。明帝は即座に公孫淵を揚烈将軍・遼東太守に拝した。公孫淵は遣使して南のかた孫権に通じさせ、賂遺(贈答)を往来させた[3]。孫権は使者として張彌・許晏らを遣り、金玉珍宝を齎させ、公孫淵を立てて燕王とした。公孫淵は亦た孫権が遠く恃めないのを恐れ、しかも貨物を貪らんとし、その使節を誘致して悉く張彌・許晏らの首を斬送した[4]。明帝はここに公孫淵を大司馬に拝して楽浪公に封じ、持節・領郡は以前通りとした[5]。使者が至ると、公孫淵は甲兵を設けて軍を布陣し、出て使者にまみえた。又たしばしば国中の賓客に対面して(魏への)悪言を出した[6]

 景初元年、乃遣幽州刺史毌丘儉等齎璽書徴淵。淵遂發兵、逆於遼隧、與儉等戰。儉等不利而還。淵遂自立為燕王、置百官有司。遣使者持節、假鮮卑單于璽、封拜邊民、誘呼鮮卑、侵擾北方。
二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。淵遣將軍卑衍・楊祚等歩騎數萬屯遼隧、圍塹二十餘里。宣王軍至、令衍逆戰。宣王遣將軍胡遵等撃破之。宣王令軍穿圍、引兵東南向、而急東北、即趨襄平。衍等恐襄平無守、夜走。諸軍進至首山、淵復遣衍等迎軍殊死戰。復撃、大破之、遂進軍造城下、為圍塹。會霖雨三十餘日、遼水暴長、運船自遼口徑至城下。雨霽、起土山・脩櫓、為發石連弩射城中。淵窘急。糧盡、人相食、死者甚多。將軍楊祚等降。八月丙寅夜、大流星長數十丈、從首山東北墜襄平城東南。壬午、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。城破、斬相國以下首級以千數、傳淵首洛陽、遼東・帶方・樂浪・玄菟悉平。

 景初元年(237)、かくして幽州刺史毌丘倹らを遣り、璽書を齎させて公孫淵を徴した。公孫淵はかくて兵を発し、遼隧(遼寧省鞍山市海城)に逆(むか)えて毌丘倹らと戦った。毌丘倹らは勝利せず還った。公孫淵はかくて自立して燕王となり、百官・有司を置いた。使者を遣って節を持たせ、鮮卑単于に璽を仮し、辺民(の上に)封拝し、鮮卑を誘呼して北方を侵擾させた[7]
 二年(238)春、太尉司馬懿を遣って公孫淵を征伐させた。六月、軍は遼東に至った[8]。公孫淵は将軍卑衍・楊祚らと歩騎数万を遣って遼隧に駐屯させ、囲・塹を営むこと二十余里。司馬懿の軍が至ると、卑衍に命じて逆戦(迎撃)させた。司馬懿は将軍胡遵らを遣ってこれを撃破させた。司馬懿は軍に命じて囲に穿たせ、兵を引率して東南に向ってから急ぎ東北し、即時に襄平(遼寧省遼陽市区)に趨った。卑衍らは襄平が無守となるのを恐れ、夜間に逃走した。諸軍が進んで首山に至ると、公孫淵は復た卑衍らを遣って軍を迎撃させ、殊に死戦させた。復た撃ち、大いにこれを破り、かくて進軍して城下に造(いた)り、囲塹を為した。折しも霖雨すること三十余日で、遼水は暴長し、運船は遼口より城下に経至した。雨が霽(晴)れると、土山を起こし、櫓を修築し、発石連弩で城中を射た。公孫淵は窘急(困窮)した。糧は尽き、人は相い食み、死者は甚だ多かった。将軍楊祚らが降った。八月丙寅(七日)の夜、大流星の長さ数十丈が、首山より東北して襄平城の東南に墜ちた。壬午(二十三日)、公孫淵の軍兵は潰え、その子の公孫脩と数百騎を率いて包囲を突いて東南に逃走したが、大兵で急しくこれを撃ち、まさに流星の墜ちた処で公孫淵父子を斬った。城は破れ、相国以下を斬って首級は千を以て数え、公孫淵の首を洛陽に伝送し、遼東・帯方・楽浪・玄菟は悉く平らいだ。

 初、淵家數有怪、犬冠幘絳衣上屋、炊有小兒蒸死甑中。襄平北市生肉、長圍各數尺、有頭目口喙、無手足而動搖。占曰:「有形不成、有體無聲、其國滅亡。」始度以中平六年據遼東、至淵三世、凡五十年而滅。

 当初、公孫淵の家ではしばしば怪異があり、犬が幘(頭巾)を冠り絳衣(赤服)して屋根に上ったり、炊飯中に甑(蒸器)の中で小児が蒸死していたりと。(また)襄平の北市に肉塊が生じ、長さ・周囲は各々数尺あり、頭や目・口・喙があったが、手足は無く揺れ動いていた。占者が曰く 「形はあって成らず、体はあって声はない。国が滅亡しよう」 と。公孫度が中平六年(189)に遼東に拠るに始まり、公孫淵に至るまで三世、凡そ五十年で滅んだ[9]
 遼東公孫氏の存在を以て、「三国時代は実は四極時代だ」 との論が時に提起されます。約50年間、四代に亘って幽州の東半以北を支配して半独立状態を維持した点、高句麗などの東北種族に多大な影響力を行使した点、魏の遠征を一度は撃退した点などを評価したものです。公孫淵の敗滅によって東夷諸国が魏に朝貢するようになりますが、日本古代史の華とも謂える卑弥呼の遣魏使もその中に含まれていますし、後世、遼東地方は中国と東北諸種にとっての最重要の係争地となるので、日本人や東北地方の人にとっては遼東公孫氏を大きく評価したい処でしょう。しかし公孫氏の基本方針が魏との対決姿勢を示すのを極力避けていた事は、公孫康の曹操への対応や、事がバレそうになった時の公孫淵の変身からも明らかです。国力も半州分に及ばず、せいぜい河西に君臨した宋建とどっこいで、十六国時代ならともかく、三国時代の第四極だと考えるのは過大評価ではないかと思えます。
 
[1] 公孫度が柳毅・陽儀に語るには 「讖書では“孫登當為天子”と云っている。太守の姓は公孫、字は升済であり、升とは即ち登である」 と。 (『魏書』)
[2] 李敏の子は李敏を追い求めて出塞し、二十余年を越えても娶らなかった。州里の徐邈がこれを責めて 「不孝として後嗣の無きより大なるは莫い。どうして終身娶らずにおれようか!」 と。かくして妻を娶り、子の李胤が生まれると妻を(実家に)遣り、常の如く喪礼に居り、憂いに勝えずに数年で卒した。李胤は生後も父母を識らなかったが、識るに及んで蔬食して哀戚すること亦た三年の喪の如くした。祖父の存亡が不明なので主(位牌)を設けてこれを奉じた。これにより名を知られ、出仕して司徒に至った。 (『晋陽秋』)
―― 裴松之が調べた処、本伝では李敏は家属を率いて海に入ったと云い、(『晋陽秋』では)復た子と相い失ったとある。その理由は詳らかではない。
[3] 公孫淵による孫権への上表 「臣伏惟遭天地反易(転覆)、遇无妄(真実)之運;王路未夷、傾側擾攘(傾覆騒乱)。自先人以来、歴事漢・魏、階縁際会、為国効節、継世享任、得守藩表、猶知符命未有攸帰(帰す所)。毎感厚恩、頻辱顕使、退念人臣交不越境、是以固守所執、拒違前使。雖義無二信、敢忘大恩! 陛下鎮撫、長存小国、前後裴校尉・葛都尉等到(裴校尉については、[注4]の裴潜の事かと。葛校尉の名は不明)、奉被敕誡、聖旨彌密、重紈累素、幽明備著、所以申示之事、言提其耳。臣昼則謳吟、宵則発夢、終身誦之、志不知足。季末凶荒、乾坤否塞、兵革未戢、人民蕩析(離散)。仰此天命将有眷顧(恩顧)、私従一隅永瞻雲日。今魏家不能採録忠善、褒功臣之後、乃令讒譌得行其志、聴幽州刺史・東萊太守誑誤之言、猥興州兵、図害臣郡。臣不負魏、而魏絶之。蓋聞人臣有去就之分;田饒適斉、楽毅走趙、以不得事主、故保有道之君;陳平・耿況、亦覩事変、卒帰於漢、勒名帝籍。伏惟陛下徳不再出、時不世遇、是以慺慺懐慕自納、望遠視険、有如近易。誠願神謨蚤定洪業、奮六師之勢、収河・洛之地、為聖代宗。天下幸甚!」 。 (『呉書』)
―― 国家は公孫淵が両端を持しているのを知り、そして遼東の吏民が公孫淵に誤たれるのを恐れた。ゆえに公文書を遼東に下して赦免するには 「告遼東・玄菟将校吏民:逆賊孫権遭遇乱階、因其先人(孫策)劫略州郡、遂成群凶、自擅江表、含垢蔵疾(忍辱匿悪)。冀其可化、故割地王権、使南面称孤、位以上将、礼以九命。権親叉手、北向稽顙(頓首)。仮人臣之寵、受人臣之栄、未有如権者也。狼子野心、告令難移、卒帰反覆、背恩叛主、滔天逆神、乃敢僭号。恃江湖之険阻、王誅未加。比年已来、復遠遣船、越渡大海、多持貨物、誑誘辺民。辺民無知、與之交関。長吏以下、莫肯禁止。至使周賀浮舟百艘、沈滞津岸、貿遷有無。既不疑拒、齎以名馬、又使宿舒随賀通好。−先年以来、船を派遣して海上を渡来させ、多くの物資で辺境の民を誑誘している。辺民は無知であってこれと交易し、長吏以下は禁じる者がおらず、(呉は)周賀に舟百艘で津岸に停滞して有る物と無い物とを交易させるに至っている。(遼東は)疑いも拒みもせず、名馬をもたらし、又た宿舒を周賀に随わせて通好している。−十室之邑、猶有忠信、陥君於悪、春秋所書也。今遼東・玄菟奉事国朝、紆青拖紫(青綬と紫綬=九卿と三公)、以千百為数、戴纚垂纓(髪包と冠の綬)、咸佩印綬、曾無匡正納善之言。亀玉毀于匵、虎兕(虎と水牛)出于匣、是誰之過歟? 国朝為子大夫羞之! 昔狐突有言:『父教子弐、何以事君? 策名委質、弐乃辟也。』 今乃阿順邪謀、脅従姦惑、豈独父兄之教不詳、子弟之挙習非而已哉! 若苗穢害田、随風烈火、芝艾(霊芝と雑草)倶焚、安能白別乎? 且又此事固然易見、不及鑑古成敗、書伝所載也。江南(與)海北有万里之限、遼東君臣無怵タ(危慮)之患、利則義所不利、貴則義所不貴、此為厭安楽之居、求危亡之禍、賤忠貞之節、重背叛之名。蛮・貊之長、猶知愛礼、以此事人、亦難為顔! 且又宿舒無罪、擠(強要)使入呉、奉不義之使、始與家訣、涕泣而行。及至賀死之日、覆衆成山、舒雖脱死、魂魄離身。何所逼迫、乃至於此! 今忠臣烈将、咸忿遼東反覆攜弐、皆欲乗桴浮海、期於肆意。朕為天下父母、加念天下新定、既不欲労動干戈、遠渉大川、費役如彼、又悼辺陲遺余黎民、迷誤如此、故遣郎中衛慎・邵瑁等且先奉詔示意。若股肱忠良、能効節立信以輔時君、反邪就正以建大功、福莫大焉。儻恐自嫌已為悪逆所見染汙、不敢倡言、永懐伊戚。其諸與賊使交通、皆赦除之、與之更始」 。 (『魏略』)
[4] 公孫淵の上表 「臣は前に校尉宿舒・郎中令孫綜を遣わし、甘言と厚礼で呉賊を誘いました。幸いに天道が福なす大魏の助けにより、この賊虜を暗然として迷惑させて群下に違戻させ、衆の諫めにも従わせず、臣の言葉を承け信じさせ、遠くに船使を遣わし、多くの士卒を率いさせ、封拝に来致させました。臣が執行して得たのは本志の通りであり、罪釁を憂えたとはいえ、私かに幸甚を懐いております。賊衆はもとは万人を号し、宿舒・孫綜が伺察(覗察)するに七・八千人との事で、沓津に到りました。偽使者の張彌・許晏と中郎将萬泰・校尉裴潜は吏兵四百余人を率い、文書・命服(官服)・什物を齎し、臣の郡に到りました。萬泰・裴潜は別に贈与の貨物を齎致し、馬と市易したいと。軍将の賀達・虞咨は余衆を領して停泊所におりました。臣はもとより涼節(涼風の季節)を須ってから張彌らを取りたく思っておりましたが、張彌らの兵衆は多く、臣がただちには呉の命令を承受しないのを見ると意(心)に猜疑を持ちました。その先んじて作し、事態を変じて妄(乱)を生ずるのを懼れ、即座に兵を進めて取囲み、張彌・許晏・萬泰・裴潜らの首級を斬りました。その吏や従兵は皆な士伍ていどの小人で、給使(使役)されて東西するだけで自由を得られぬ者で、面縛乞降した者を誅殺するに忍びず、納受を聴許し、徙して辺城に充てました。別に将の韓起らを遣って三軍を率いさせ、馳行して沓に至らせました。領長史柳遠をして賓主の礼を設けて賀達・虞咨を誘請させ、三軍を潜伏させてその下船を待ち、又た群馬・貨物を駆って交市をしようと示しました。賀達・虞咨は猜疑を懐いて下りず、諸々の市買者五・六百人を下船させて交市しようとしました。(そこで)韓起らは金鼓を始めて震わし、鋒矢は乱れ発し、斬首すること三百余級、被創して水に赴き没溺した者は二百余人、山谷に散走(逃散)し(た者で)、帰降したり蔵竄(潜伏)して飢餓死したものは数に入っておりません。得た銀印・銅印・兵器・資貨は勝げて数えられません。謹んで西曹掾公孫珩を派遣し、賊たる孫権が臣に仮した節・印綬・符策・九錫・什物および張彌らの偽の節・印綬・首級を奉送するものであります」 。
又た曰く:「宿舒・孫綜が前に呉に到った折、賊の孫権が臣の家内の大小を問うた処、宿舒・孫綜が対えるには臣に三子息があり、公孫脩は別に亡弟を属(つ)いだと。孫権は姦巧な事に、ただちに擅ままに拝命いたしました。謹んで印綬・符策を封送するものであります。臣には昔人のような洗耳之風は無いとはいえ、賊の孫権汙によって加えられた損汚を慚じ、天誅が行なわれたとしても猶お忿りには余りあるものがあります」 。
又た曰く:「臣父康、昔殺権使、結為讐隙。今乃譎欺、遺使誘致、令権傾心、虚国竭禄、遠命上卿、寵授極位、震動南土、備尽礼数。又権待舒・綜、契闊委曲(緊密な結盟)、君臣上下、畢歓竭情。而令四使見殺、梟示万里、士衆流離、屠戮津渚、慚恥遠布、痛辱彌天。権之怨疾、将刻肌骨。若天衰其業、使至喪隕、権将内傷憤激而死。若期運未訖、将播毒螫、必恐長虵来為寇害。徐州諸屯及城陽諸郡、與相接近、如有船衆後年向海門、得其消息、乞速告臣、使得備豫。 −前文略−(孫権は)四使(張彌ら)を殺され、梟首を万里に示され、士衆は流離して津渚で屠戮され、慚恥は遠きに流布し、痛辱は天を彌(み)たすほどです。孫権の怨疾は肌骨を刻むものでしょう。もし天がその業を衰えさせ、喪隕に至らせようとしているなら、孫権は内傷の憤激から死にましょう。もし命運を訖えておらねば、毒螫を播き、必ずや恐るべき長虵となって来攻して寇害を為しましょう。徐州の諸屯および城陽諸郡は呉と相い接近しており、もし船団が後に海門に向かい、その消息を得たなら、どうか速やかに臣に告げ、予め備えられるようして頂きたい」 。
又た曰く:「臣門戸受恩、実深実重、自臣承摂即事以来、連被栄寵、殊特無量、分当隕越、竭力致死。而臣狂愚、意計迷闇、不即禽賊、以至見疑。前章表所陳情趣事勢、実但欲罷弊此賊、使困自絶、誠不敢背累世之恩、附僭盗之虜也。而後愛憎之人、縁事加誣、偽生節目、卒令明聴疑於市虎、移恩改愛、興動威怒、幾至沈没、長為負忝。幸頼慈恩、猶垂三宥、使得補過、解除愆責。如天威遠加、不見仮借、早当麋砕、辱先廃祀、何縁自明、建此微功。臣既喜於事捷、得自申展、悲於疇昔、至此変故、余怖踊躍、未敢便寧。唯陛下既崇春日生全之仁、除忿塞隙、抑弭纖介、推今亮往、察臣本心、長令抱戴、銜分三泉。−意訳− 臣の家門は国恩を受けること実に深く重く、臣も栄寵を被ること無量であり、死力を竭くすつもりでした。臣は愚かで、すぐに賊を捕えなかったせいで疑われてしまいました。前の章表で陳べたのは、ただ賊を疲弊させて自滅させる為で、累世の恩に背く気は毛頭ありませんでした。しかし後に愛憎之人(感情で判断する人?)が何かに乗じて事細かに誣告したので、聖聴すら市に虎を生じたかと疑い、それまでの恩愛は威怒に変じました。幸いに慈恩のお陰で三宥(不識・過失・うっかりに対する減刑)を下され、過ちを補えるようにして愆責を解除して頂きました。天威が仮借なく加えられていたなら早々に麋砕され、先祀も廃されてどうやって潔白を証明できたでしょう。臣は捷報で潔白を示せた事を喜んでおりますが、これまでの事を思うと怖れから踊躍し、未だ安寧にはなれません。どうか陛下は春の日が全てを生かす仁を崇敬し、忿りを除き隙を塞ぎ、纖介を抑弭して臣の本心を察せられますよう」
又た曰く:「臣被服光栄、恩情未報、而以罪釁、自招譴怒、分当即戮、為衆社戒。所以越典詭常、偽通於呉、誠自念窮迫、報効未立、而為天威督罰所加、長恐奄忽不得自洗。故敢自闕替廃於一年、遣使誘呉、知其必来、権之求郡、積有年歳、初無倡答一言之応、今権得使、来必不疑、至此一挙、果如所規、上卿大衆、翕赫豊盛、財貨賂遺、傾国極位、到見禽取、流離死亡、千有余人、滅絶不反。此誠暴猾賊之鋒、摧矜夸之巧、昭示天下、破損其業、足以慚之矣。臣之慺慺念効於国、雖有非常之過、亦有非常之功、願陛下原其踰闕之愆、采其亳毛之善、使得国恩、保全終始矣」 。 (『魏略』)
[5] 中領軍夏侯献の上表:「公孫淵は昔年に王命に違え、計貢(会計報告と貢納)を廃絶したのは、実に両端を持すものでした。険阻を恃み、又た孫権を怙り、ゆえに跋扈して、海外で恣睢(横恣)したのです。宿舒は親しく賊たる孫権の軍衆・府庫を見、その弱小にして憑恃するに不足なのを知り、これを以て賊の使者を斬る計を決したのです。又た高句麗・濊貊は公孫淵とは仇敵であり、揃って寇鈔を為しております。今、外は呉の援を失い、内には胡族の寇があり、心では魏国が陸道を用いられるのを知っており、勢いとして惶懼の心を懐かずにはおられないのです。この時に乗じ、遣使して示すに禍福を以てするのが宜しいでしょう。奉車都尉鬷弘は武皇帝の時に始めて使命を奉じ、(遼東への)道路を開通しました。文皇帝は即位すると使命を通したいと考え、鬷弘が妻子を率いて郷里(遼東)に還帰できるよう遣り、その為の車・牛や、絹百匹を賜いました。鬷弘は受恩を以て国朝で死に帰し、還る意図は無く、乞うて妻子を留め、身は使命を奉じたものです。公孫康はかくて臣妾を称したのです。鬷弘は使命を奉じて意に称い、爵関内侯を賜わりました。
 鬷弘の性は果烈で、国事を心し、夙夜に拳拳(真摯)として効験を竭くそうと念じております。冠族(名族)の子孫であって若くして学問を好み、書籍・記録に博通して多くに関渉し、口論は速捷ながら弁辞は卑俗ではなく、典誥(典籍)に附依しつつ胸臆から湧出するようです。加えて本郡に出仕すれば常に人の右位(上位)に在り、彼の地方の士人は素より敬服しております。もし使者として遣るなら、鬷弘を行かせるべきであります。鬷弘にとっては旧土であってその国俗に習熟しており、利害を説けば、弁はその意思を動かすに足り、明察さは事実を見抜くに足り、才は使命を行なうに足り、言辞は信用されるに足るものです。もしこの計に従えば、酈生が斉王を降し、陸賈が尉佗を説いた事も、遠く過(すぐ)れた事とはなりますまい。遠路を進もうとするなら、騏驥(駿馬)を釈くのは妥当ではなく、已に疾病が篤くなった時、扁鵲(伝説の名医)を廃してはならぬものです。願わくば愚言を察せられん事を」 。 (『魏名臣奏』)
[6] 魏は使者の傅容・聶夔を遣り、公孫淵を拝して楽浪公とした。(先行した)公孫淵の計吏が洛陽より還って公孫淵に語るには 「使者の左駿伯は、使者に皆な勇力な者を択んでおり、非凡な人であります」 と。公孫淵はこれによって疑い怖れた。傅容・聶夔は至ると、学館の中に駐まった。公孫淵は先ず歩騎によってこれを囲み、かくして入って受拝した。傅容・聶夔は大いに怖れ、これによって洛陽に還ると実状を言上した。 (『呉書』)
[7] 公孫淵は、この変事が独り毌丘倹のみから出たのではないと察知し、備えを為した。遣使して呉に謝罪し、自ら燕王を称し、与国たらんと求めた。しかも猶お官属に命じ、自らの直しきを魏に上書させて曰く:「大司馬長史臣郭マ・参軍臣柳浦等七百八十九人言:奉被今年七月己卯詔書(明帝紀景初元年七月、毌丘倹が撤退した後、遼東の将吏士民で公孫淵に脅略されて降伏できなかった者の一切を赦した己卯の詔書)、伏読懇切、精魄散越、不知身命所當投措! マ等伏自惟省、螻蟻小醜、器非時用、遭値千載、被受公孫淵祖考以来光明之徳、恵沢沾渥、滋潤栄華、無寸尺之功、有負乗之累;遂蒙褒奨、登名天府、並以駑蹇附龍託驥、紆青拖紫、飛騰雲梯、感恩惟報、死不択地。臣等聞明君在上、聴政采言、人臣在下、得無隠情、是以因縁訴譲、冒犯愬寃。ここまで前置き。郡在藩表、密邇不羈、平昔三州、転輸費調、以供賞賜、歳用累億、虚耗中国。然猶跋扈、虔劉辺陲、烽火相望、羽檄相逮、城門昼閉、路無行人、州郡兵戈、奔散覆没。淵祖父度初来臨郡、承受荒残、開日月之光、建神武之略、聚烏合之民、掃地為業、威震燿于殊俗、徳沢被于群生。遼土之不壊、実度是頼。孔子曰:『微管仲、吾其被髮左袵。』向不遭度、則郡早為丘墟、而民係於虜廷矣。遺風余愛、永存不朽。「管仲がいなければ我らは胡俗にまみれていただろう」という孔子の言葉を譬えに、公孫度が烏桓を抑えていた大功を陳べています。度既薨殂、吏民感慕、欣戴子康、尊而奉之。康踐統洪緒、克壮徽猷、文昭武烈、邁徳種仁;乃心京輦、翼翼虔恭、佐国平乱、効績紛紜、功隆事大、勲蔵王府。度・康當値武皇帝休明之会、合策名之計、夾輔漢室、降身委質、卑己事魏。匪処小厭大、畏而服焉、乃慕託高風、懐仰盛懿也。武皇帝亦虚心接納、待以不次、功無巨細、毎不見忘。又命之曰:『海北土地、割以付君、世世子孫、実得有之。』皇天后土、実聞徳音。臣庶小大、予在下風、奉以周旋、不敢失墜。公孫康の功を、曹操による本領安堵のお墨付きを交えて陳べています。淵生有蘭石之姿、少含ト悌之訓、允文允武、忠恵且直;生民欽仰、莫弗懐愛。淵纂戎祖考、君臨万民、為国以礼、淑化流行、独見先覩、羅結遐方、勤王之義、視険如夷、世載忠亮、不隕厥名。孫権慕義、不遠万里、連年遣使、欲自結援、雖見絶殺、不念旧怨、纖纖往来、求成恩好。淵執節彌固、不為利迴、守志匪石、確乎彌堅。猶懼丹心未見保明、乃卑辞厚幣、誘致権使、梟截献馘、以示無二。呉雖在遠、水道通利、挙帆便至、無所隔限。淵不顧敵讐之深、念存人臣之節、絶彊呉之歓、昭事魏之心、霊祇明鑑、普天咸聞。陛下嘉美洪烈、懿茲武功、誕錫休命、寵亜斉・魯、下及陪臣、普受介福。誠以天覆之恩、當卒終始、得竭股肱、永保禄位、不虞一旦、横被残酷。惟育養之厚、念積累之効、悲思不遂、痛切見棄、挙国号咷、拊膺泣血。夫三軍所伐、蛮夷戎狄、驕逸不虔、於是致武、不聞義国反受誅討。公孫淵の道義を慕った孫権がしつこかったので、使節を殺して朝廷に赤心を示した。呉と遼東とは海上交通が容易だが、それでも敢えて呉使を殺したのは、ただただ臣節を全うする為だった。陛下もそれを嘉してくれたのに!いきなりの酷い仕打ちとは!蓋聖王之制、五服之域、有不供職、則修文徳、而又不至、然後征伐。淵小心翼翼、恪恭于位、勤事奉上、可謂勉矣。尽忠竭節、還被患禍。小弁之作、離騷之興、皆由此也。就或佞邪、盗言孔甘、猶當清覧、憎而知善;讒巧似直、惑乱聖聴、尚望文告、使知所由。若信有罪、當垂三宥;若不改寤、計功減降、當在八議。而潜軍伺襲、大兵奄至、舞戈長躯、衝撃遼土。犬馬悪死、況於人類! 吏民昧死、挫辱王師。淵雖寃枉、方臨危殆、猶恃聖恩、悵然重奔、冀必姦臣矯制、妄肆威虐、乃謂臣等曰:『漢安帝建光元年、遼東属国都尉龐奮、受三月乙未詔書、曰収幽州刺史馮煥・玄菟太守姚光。推案無乙未詔書、遣侍御史幽州〔收〕考姦臣矯制者。今刺史或儻謬承矯制乎?』臣等議:以為刺史興兵、揺動天下、殆非矯制、必是詔命。淵乃俛仰歎息、自傷無罪。聖王の征伐は最終手段。小人の甘言が原因かも知れず、まずは実態調査をするのが筋では? なのにいきなり遠征されれば抵抗したっていいじゃない。刺史が勅命をデッチ上げるのは漢安帝の建光元年の事件の例もあり、公孫淵はその事に言及したが、どうも今度は本当の詔勅らしいのでションボリしている。深惟土地所以養人、竊慕古公杖策之岐、乃欲投冠釋紱、逝歸林麓。臣等維持、誓之以死、屯守府門、不聽所執。而七營虎士、五部蠻夷、各懷素飽、不謀同心、奮臂大呼、排門遁出。近郊農民、釈其耨鎛、伐薪制梃、改案為櫓、奔馳赴難、軍旅行成、雖踏湯火、死不顧生。淵雖見孤棄、怨而不怒、比遣敕軍、勿得干犯、及手書告語、懇惻至誠。而吏士凶悍、不可解散、期於畢命、投死無悔。淵懼吏士不従教令、乃躬馳騖、自往化解、僅乃止之。一飯之恵、匹夫所死、況淵累葉信結百姓、恩著民心。自先帝初興、爰曁陛下、栄淵累葉、豊功懿徳、策名褒揚、弁著廊廟、勝衣挙履、誦詠明文、以為口実。埋而掘之、古人所恥。小白・重耳、衰世諸侯、猶慕著信、以隆霸業。詩美文王作孚万邦、論語称仲尼去食存信;信之為徳、固亦大矣。今呉・蜀共帝、鼎足而居、天下揺蕩、無所統一、臣等毎為陛下懼此危心。淵拠金城之固、仗和睦之民、国殷兵彊、可以横行。策名委質、守死善道、忠至義尽、為九州表。方今二敵闚𨵦、未知孰定、是之不戒、而淵是害。茹柔吐剛、非王者之道也。臣等雖鄙、誠竊恥之。若無天乎、臣一郡吉凶、尚未可知;若云有天、亦何懼焉! 臣等聞仕於家者、二世則主之、三世則君之。臣等生於荒裔之土、出於圭竇之中、無大援於魏、世隸於公孫氏、報生與賜、在於死力。昔蒯通言直、漢祖赦其誅;鄭・辞順、晋文原其死。臣等頑愚、不達大節、苟執一介、披露肝胆、言逆龍鱗、罪當万死。惟陛下恢崇撫育、亮其控告、使疏遠之臣、永有保持。公孫氏が遼東に施した恩愛、藩屏としての実績、魏に対する忠節は天下が範とするもので、今、二賊を放置して来攻するのは王者の作法ではない。どうか漢高祖や晋文公が直言の臣を赦したように、我ら疎遠の臣が身命を保持できるよう計らっていただきたい」 。 (『魏書』)
[8] 公孫淵は自立し、紹漢元年と称した。魏人が討とうとしていると聞き、復た呉に称臣し、北伐して救ってくれる兵を乞うた。呉人はその使者を刑戮したく思ったが、羊衜曰く
「不可。それは匹夫の怒りを肆(ほしいまま)にし、霸王の計を捐てるというものです。これを厚遇し、奇兵を遣って潜かに往かせてその成果を要(もと)めるに越した事はありません。もし魏が公孫淵を伐って克たねば、我が軍が遠きに赴き、これぞ遐(遥)かに夷に恩を結び、義は万里を蓋うというもの。もし兵を連ねる事が解かれねば、首と尾とは離隔します。則ち我らはその傍郡(の人)を虜とし、駆り略(かす)めて帰り、これも亦た天の罰として来致し、曩事(往時の事)に報い雪ぐに充分でありましょう」 。
孫権 「善し」 。かくして兵を勒(ととの)えて大いに出した。公孫淵の使者に謂うには 「後の音信を俟っている。きっと書簡に従い、必ず弟と休戚(悲喜)を同じくし、存亡を共にしよう。中原に隕ちはしても、吾れは甘心(納得)するものである」 。又た曰く 「司馬懿の向かう処に前障は無く、深く弟の為に憂うものである」 。 (『漢晋春秋』)
[9] 始め公孫淵の兄の公孫晃は公孫恭の任子[※]として洛陽に在った。

※ 後世の恩蔭と類似の、官吏登用法の一種。二千石以上の官僚の子弟を官吏候補として挙任するもの。

公孫淵が公孫恭の位を劫奪したと聞くと、公孫淵には終には保てないだろうと謂(かんが)え、しばしば表聞し、国家に公孫淵討伐を命じさせたようとした。帝は公孫淵が已に秉権しており、ゆえにこれを按撫した。公孫淵が叛くに及び、国法によって公孫晃を繋獄した。公孫晃には前の言葉があり、連坐せぬ事を冀ったが、内心では骨肉関係である事から、公孫淵が破れれば己れにも及ぶと知っていた。公孫淵の首が到ると、公孫晃は自身が必ず死ぬと審判し、その子と相対して啼哭した。時に上も亦たこれを活かしたく思ったが、有司が不可とし、かくてこれを殺した。(『魏略』)
 

張燕

 張燕、常山真定人也、本姓褚。黄巾起、燕合聚少年為群盜、在山澤韈z攻、還真定、衆萬餘人。博陵張牛角亦起衆、自號將兵從事、與燕合。燕推牛角為帥、倶攻廮陶。牛角為飛矢所中。被創且死、令衆奉燕、告曰:「必以燕為帥。」牛角死、衆奉燕、故改姓張。燕剽捍捷速過人、故軍中號曰飛燕。其後人衆寢廣、常山・趙郡・中山・上黨・河内諸山谷皆相通、其小帥孫輕・王當等、各以部衆從燕、衆至百萬、號曰K山。靈帝不能征、河北諸郡被其害。燕遣人至京都乞降、拜燕平難中郎將。
是後、董卓遷天子於長安、天下兵數起、燕遂以其衆與豪傑相結。袁紹與公孫瓚爭冀州、燕遣將杜長等助瓚、與紹戰、為紹所敗、人衆稍散、太祖將定冀州、燕遣使求佐王師、拜平北將軍;率衆詣鄴、封安國亭侯、邑五百戸。燕薨、子方嗣。方薨、子融嗣。

 張燕は常山真定の人で、本姓は褚といった。黄巾が起つと、褚燕は少年を合聚して群盜となり、山沢の間にあって転攻し、真定に還った時の手勢は万余人だった。博陵の張牛角も亦た軍兵を起こし、自ら将兵従事と号し、褚燕と合流した。褚燕は張牛角を推して帥とし、倶に廮陶(邢台市寧晋)を攻めた。張牛角は飛矢に中り、創を被って死ぬ際に、人々に褚燕を奉じる事を命じ、「必ず褚燕を帥とせよ」 と告げた。張牛角が死ぬと、人々は褚燕を奉じ、そのため張と改姓した。
 張燕は剽捍捷速なこと人に過ぎ、そのため軍中では飛燕と呼号した。その後、人衆は寖広(次第に広がり)し、常山・趙郡・中山・上党・河内の諸々の山谷は皆な相い通じ、その小帥の孫軽・王当らは各々部衆を以て張燕に従い、人々は百万に至って黒山と号した。霊帝は征する事ができず、河北諸郡がその害を被った。張燕は人を遣って京都に至らせて受降を乞い、張燕は平難中郎将を拝命した[1]
この後、董卓が天子を長安に遷し、天下の兵がしばしば起ち、張燕はかくてその軍兵を以て豪傑と相い結んだ。袁紹と公孫瓚とが冀州を争うと、張燕は将の杜長らを遣って公孫瓚を助けて袁紹と戦い、袁紹に敗られて人衆がようよう散じた。曹操が冀州を定めようとすると、張燕は遣使して王師を佐ける事を求め、平北将軍を拝命した。軍兵を率いて鄴に詣り、安国亭侯に封じられ、食邑は五百戸だった。張燕が薨じ、子の張方が嗣いだ。張方が薨じ、子の張融が嗣いだ[2]
[1] 張角が反くと、黒山・白波・黄龍・左校・牛角・五鹿・羝根・苦蝤・劉石・平漢・大洪・司隸・縁城・羅市・雷公・浮雲・飛燕・白爵・楊鳳・于毒らが各々兵を起し、大きいもので二・三万、小さいものでも数千を下らなかった。霊帝は討つ事ができず、かくして遣使して楊鳳を拝して黒山校尉とし、諸々の山賊を領し、孝廉・計吏を挙げられるようにした。(賊は)後には遂に彌漫(蔓延)し、復た数える事はできない。 (『九州春秋』)
―― 黒山・黄巾の諸帥は、本々から冠蓋(士大夫)ではなく、自ら字名を相い号し、白馬に騎乗している者を張白騎と謂い、軽捷な者を張飛燕と謂い、大声の者を張雷公と謂い、その鬚が饒かな者は于羝根と自称し、その眼が大きな者は李大目と自称した。 (『典略』)
―― 又た左校・郭大賢・左髭丈八の三部があった。 (張璠『漢紀』)
[2] 門下通事令史の張林は、張飛燕の曾孫である。張林は趙王司馬倫と乱を為し、未だ周年(満一年)に及ばずして官位は尚書令・衛将軍に至り、郡公に封じられた。ついで司馬倫に殺された。 (陸機『晋恵帝起居注』)
 

張繡

 張繡、武威祖諮l、驃騎將軍濟族子也。邊章・韓遂為亂涼州、金城麴勝襲殺祖賜キ劉雋。繡為縣吏、闔f殺勝、郡内義之。遂招合少年、為邑中豪傑。董卓敗、濟與李傕等撃呂布、為卓報仇。語在卓傳。繡隨濟、以軍功稍遷至建忠將軍、封宣威侯。濟屯弘農、士卒飢餓、南攻穰、為流矢所中死。繡領其衆、屯宛、與劉表合。太祖南征、軍淯水、繡等舉衆降。太祖納濟妻、繡恨之。太祖聞其不ス、密有殺繡之計。計漏、繡掩襲太祖。太祖軍敗、二子沒。繡還保穰、太祖比年攻之、不克。
太祖拒袁紹於官渡、繡從賈詡計、復以衆降。語在詡傳。繡至、太祖執其手、與歡宴、為子均取繡女、拜揚武將軍。官渡之役、繡力戰有功、遷破羌將軍。從破袁譚於南皮、復摎W凡二千戸。是時天下戸口減耗、十裁一在、諸將封未有滿千戸者、而繡特多。從征烏丸于柳城、未至、薨、諡曰定侯。子泉嗣、坐與魏諷謀反誅、國除。

 張繡は武威祖獅フ人で、驃騎将軍張済の族子である。辺章・韓遂が涼州を乱した時、金城の麴勝が祖詞ァ長劉雋を襲殺した。張繡は県吏であり、間隙を伺って麴勝を殺し、郡内はこれを義とした。かくて少年を招合し、邑中の豪傑となった。董卓が敗れると、張済は李傕らと与に呂布を撃ち、董卓の為に仇を報じた。物語は董卓伝に在る。張繡は張済に随い、軍功によってようよう遷って建忠将軍に至り、宣威侯に封じられた。張済は弘農に駐屯し、士卒が飢餓した為に南のかた壌(南陽市ケ州)を攻め、流矢に中って死んだ。張繡はその軍兵を領し、宛に駐屯して劉表と合流した。
 曹操が南征して淯水に駐軍すると、張繡らは衆を挙げて降った。曹操が張済の妻を納れた為、張繡はこれを恨んだ。曹操は(張繡が)不快としていると聞くと、密かに張繡殺害の計を有したが、計が漏れ、張繡は曹操を掩襲した。曹操の軍は敗れ、曹氏の二子[※]が歿した。張繡は還って穣に保(こも)[1]、曹操は比年(連年)これを攻めたが克たなかった。

 武帝紀によれば、死んだのは曹操の子の曹昂と、弟の子の曹安民。

曹操が袁紹を官渡で拒ぐと、張繡は賈詡の計に従い、復た手勢を以て降った。物語は賈詡伝に在る。張繡が至ると曹操はその手を執り、与に歓宴して子の曹均の為に張繡の娘を嫁取し、揚武将軍に拝した。官渡の役では、張繡は力戦して功があり、破羌将軍に遷った。袁譚を南皮に破るのに従い、復た食邑を増して凡そ二千戸となった。この時、天下の戸口は減耗して十分の一が在り、諸将の封邑は未だ千戸に満たない者もあったが、張繡(の封邑)は特に多かった。柳城に烏丸を征するのに従い、至る前に薨じ、諡は定侯といった[2]。子の張泉が嗣いだが、魏諷の謀反に連坐して誅され、国を除かれた。
[1] 張繡が親しくしている胡車児という者があり、勇はその軍の冠だった。曹操はその驍健を愛し、手ずから金をこれに与えた。張繡は聞くと、曹操が左右の者に刺させようとしているかと疑い、かくて反いた。 (『傅子』)
―― 張繡は降ると、賈詡の計を用い、軍を高道に徙す為に曹操の屯営中を通る事を乞うた。張繡は又た 「車が少数で重いので、兵が各々被甲できるようしたい」 と云い、曹操は張繡を信じ、皆な聴許した。張繡はかくして兵を厳装して屯営に入り、曹操を掩襲した。曹操は備えておらず、そのため敗れた。 (『呉書』)
[2] 五官将(曹丕)はしばしば会合の席で怒りを発し、「君は吾が兄を殺したのに、どうしてその顔を視る事を忍べようか!」 張繡は心中で安んぜず、かくして自殺した。 (『魏略』)

 曹丕だから有り得ないとは云えないのが困りもので、実際に張繡を嫌っていた事に盛った創話でしょう。当時の曹丕の実権や年齢を考えると、張繡の自殺は有り得ないと云っていいと思われます。寧ろ張泉の不幸の伏線でしょう。

 

張魯

 張魯字公祺、沛國豐人也。祖父陵、客蜀、學道鵠鳴山中、造作道書以惑百姓、從受道者出五斗米、故世號米賊。陵死、子衡行其道。衡死、魯復行之。益州牧劉焉以魯為督義司馬、與別部司馬張脩將兵撃漢中太守蘇固、魯遂襲脩殺之、奪其衆。焉死、子璋代立、以魯不順、盡殺魯母家室。

 張魯、字は公祺。沛国豊の人である。祖父の張陵は蜀に客居し、鵠鳴山中で道術を学び、道書を造作して百姓を惑わせ、受道者より五斗米を出させ、そのため世に米賊と呼号した。張陵が死に、子の張衡がその道を行なった。張衡が死に、張魯も復たこれを行なった。益州牧劉焉は張魯を督義司馬とし、別部司馬張脩と兵を率いて漢中太守蘇固を撃たせ、張魯はかくて張脩を襲って殺し、その軍兵を奪った。劉焉が死に、子の劉璋が代って立つと、張魯が順わない事から、張魯の母と家室(家族)を尽く殺した。

魯遂據漢中、以鬼道教民、自號「師君」。其來學道者、初皆名「鬼卒」。受本道已信、號「祭酒」。各領部衆、多者為治頭大祭酒。皆教以誠信不欺詐、有病自首其過、大都與黄巾相似。諸祭酒皆作義舍、如今之亭傳。又置義米肉、縣於義舍、行路者量腹取足;若過多、鬼道輒病之。犯法者、三原、然後乃行刑。不置長吏、皆以祭酒為治、民夷便樂之。雄據巴・漢垂三十年。
漢末、力不能征、遂就寵魯為鎮民中郎將、領漢寧太守、通貢獻而已。民有地中得玉印者、群下欲尊魯為漢寧王。魯功曹巴西閻圃諫魯曰:「漢川之民、戸出十萬、財富土沃、四面險固;上匡天子、則為桓・文、次及竇融、不失富貴。今承制署置、勢足斬斷、不煩於王。願且不稱、勿為禍先。」魯從之。韓遂・馬超之亂、關西民從子午谷奔之者數萬家。

張魯はかくて漢中に拠り、鬼道によって民を教導し、自ら“師君”と号した。来て道術を学ぶ者は、初めは皆な“鬼卒”を名乗った。本道を受けて已に信じた者を“祭酒”と号し、各々が部衆を領し、多い者を治頭大祭酒とした。皆な誠信にして欺詐しない事を教え、病むとその過ちを自首(自白)させ、大都(大綱)は黄巾と相い似ていた。諸祭酒は皆な義舍を作り、現今の亭伝(駅亭)のようだった。又た義米・義肉を置いて義舍に懸け、行路者は腹を量って足る分を取ったが、もし過多だった場合は鬼道によってたちまち病ませた。犯法者は三たび原(ゆる)し、然る後に刑を行なった。長吏を置かず、皆な祭酒が治め、民・夷ともこれを便宜として楽しんだ。巴・漢中に雄拠すること三十年に垂(なんな)んとした[1]

 張魯は漢中地方の他、巴地方の少なくとも巴河〜渠江流域を押さえ、対する劉璋は巴郡を分割して閬中(南充市)を治所とする巴西郡を新設し、張魯に対処しなければなりませんでした。

漢末には力で征する事ができず、かくて現地で張魯を寵して鎮民中郎将・領漢寧太守とし、貢献を通ずるだけとした。民の中に地中より玉印を得た者がおり、群下は張魯に尊号して漢寧王にしようとした。張魯の功曹で巴西の閻圃が張魯を諫めるには 「漢川の民の戸数は十万を超え、財は富み土地は肥沃で、四面は険固です。上策は天子を匡けて桓・文となり、次策は竇融に及ぶ事で、富貴を失いはしますまい。今、承制にて(官を)署置しており、勢いは斬断(刑罰を執行)するに足りており、王としての煩いは不要です。願わくば称王せず、禍を先にすること勿れ」 張魯はこれに従った。韓遂・馬超の乱では、関西の民で子午谷より数万家が来奔した。

 建安二十年、太祖乃自散關出武都征之、至陽平關。魯欲舉漢中降、其弟衞不肯、率衆數萬人拒關堅守。太祖攻破之、遂入蜀。魯聞陽平已陷、將稽顙、圃又曰:「今以迫往、功必輕;不如依〔杜濩〕赴朴胡相拒、然後委質、功必多。」於是乃奔南山入巴中。左右欲悉燒寶貨倉庫、魯曰:「本欲歸命國家、而意未達。今之走、避鋭鋒、非有惡意。寶貨倉庫、國家之有。」遂封藏而去。太祖入南鄭、甚嘉之。又以魯本有善意、遣人慰喩。
魯盡將家出、太祖逆拜魯鎮南將軍、待以客禮、封閬中侯、邑萬戸。封魯五子及閻圃等皆為列侯。為子彭祖取魯女。魯薨、諡之曰原侯。子富嗣。

 建安二十年(215)、曹操は散関より武都に出てこれを征し、陽平関に至った。張魯は漢中を挙げて降ろうとしたが、その弟の張衛が肯んぜず、軍兵数万人を率いて関を堅守して拒いだ。曹操はこれを攻破し、かくて入蜀した[2]

 漢中は巴蜀=広義の蜀に含まれる為、曹操を讃える事を兼ねて蜀と表現したのでしょう。洛陽から出奔して宛に入った袁術が 「楚に入った」 と書かれるような感じで。

張魯は陽平関が已に陥ちたと聞くと、稽顙(頓首)しようとしたが、閻圃が又た 「今、迫られて往けば、功は必ず軽んじられましょう。杜濩・朴胡に依り赴いて相い拒ぐに越した事はありません。しかる後に委質(臣従)すれば、功は必ず多くなりましょう」 こうして南山に奔って巴中に入った。左右の者は宝貨の倉庫を悉く焼こうとしたが、張魯は 「本々は国家に帰命しようとして、意思が達せられなかったのだ。今、逃走するのは鋭鋒を避ける為で、悪意からではない。宝貨の倉庫は国家の所有である」 遂に蔵に封印して去った。曹操は南鄭に入ると、その措置を甚だ嘉した。又た張魯には本から善意がある事から、人を遣って慰喩させた。
張魯が家人を尽く率いて出頭すると、曹操は逆(むか)えて張魯を鎮南将軍に拝し、客礼で待遇し、閬中侯に封じて食邑は万戸だった。張魯の五子および閻圃ら皆なを封じて列侯とした[3]。子の曹彭祖の為に張魯の娘を嫁取した。張魯が薨じると、諡して原侯といった。子の張富が嗣いだ[4]
[1] 熹平中(172〜78)、妖賊が大いに起ち、三輔には駱曜がいた。光和中(178〜84)、東方には張角がおり、漢中には張脩がいた。駱曜は民に緬匿法を教え、張角は太平道を為し、張脩は五斗米道を為した。太平道とは、師が九節杖を持って符で祝(まじな)い、病人に叩頭して過ちを想起させてから符水を飲む事を教え、病を得てから日の浅いうちに癒えた者は、この人は道を信じたと云い、癒えなかった者には道を信じなかったとした。張脩の法はほぼ張角と同じで、加えて静室で施術し、病人にはその中で過ちを想起させた。又た姦令祭酒という人がいた。祭酒に『老子』五千文を習わせる事を統べ、そのため姦令と号したのである。鬼吏とは、主に病人の為に請禱した。請禱の法とは、病人の姓名を書き、服罪の意図を説いた。三通を作り、その一つは天に上せる為に山上に着け、その一つは地に埋め、その一つは水に沉(しず)め、これを三官手書と謂った。病人の家には米五斗を出させる事を常とし、そのため五斗米師と号した。実際には治病には益無く、ただ妄を淫りにするだけだったが、小人は昏愚であり、競って共に事えた。後に張角が誅され、張脩も亦た亡んだ。張魯が漢中に在るに及び、その民が張修の業を信行している事に因み、かくてこれに増飾した。義舎を作らせ、米・肉をその中に置いて旅行者を止める事を教えた。又た隠し事が小さい過ちの者には、道を百歩修治させて罪が除かれると教え、又た月令に依拠して春夏は殺生を禁じ、又た酒を禁じた。流移してその地に寄在している者で、奉じない者はなかった。 (『典略』)
―― 裴松之が思うに、張脩は張衡の事であり、『典略』の過失でなければ、伝を写した際の誤りであろう。

 張衡が歿した後、張脩が張魯に匹敵する勢力を有していた事は、劉焉による叙任が張魯:督義司馬・張脩:別部司馬という点からも明らかです。五斗米道にも教団としての規律が整った時期、政治集団としての組織化が進んだ時期があった筈で、そのどちらかに張脩が大きくかかわっていた事は否定できません。

[2] 董昭の上表

「武皇帝は涼州従事および武都の降人が、張魯を攻めるのは易く、陽平城下は南北とも山から遠く、守れないと説くのを信じて然りとしました。往って臨場するに及び、聞いたのと異なっている事から 『他人の商度(判断)が意に沿う事は少ない』 と歎じました。陽平山上の諸屯を攻め、すぐには抜けず、士卒の傷夷者が多数でした。武皇帝は意を沮喪し、ただちに山路を開いて軍を抜いて還ろうと考え、故の大将軍夏侯惇・将軍許褚を遣って山上の兵を呼び還させました。たまたま前軍が還る前に、夜に迷い惑い、誤って賊の軍営に入り、賊はたちまち退散しました。侍中辛毗・劉曄らは兵の後方に在り、夏侯惇・許褚に語って『官兵は已に賊の要屯を得て拠り、賊は已に散走した』 と言いましたが、猶おも信じようとしませんでした。夏侯惇が前行して自ら見て、還ってから武皇帝に申し、兵を進めてこれを定め、幸いにして克ちを獲たのです。これは最近の事で、吏士の知ることであります」

又た楊曁の上表には

「武皇帝が張魯を征し始めた折、十万の軍兵を以て身ずから親しく臨場し、方略を指授し、現地民の麦を軍糧としました。張衛の守備は言うに足りないとしていました。土地の険阻は守るに易く、精兵・虎将であっても手を施せませんでした。対峙すること三日、軍を抽抜して還ろうとして言うには 『軍事を為して三十年、一朝を持して人に与えるのはどうか』 と。この計が已に定まったものの、天は大いに魏に祚(さいわい)し、張魯の守備は自ら壊れ、こうしてこれを定めました」

(『魏名臣奏』)
―― 張魯は五官の掾を遣って降ったが、弟の張衛が山を横切って陽平城を築いて拒いだ為、王師は進めなかった。張魯は巴中に走った。軍糧が尽き、曹操は還ろうとした。西曹掾である東郡の郭ェが 「なりません。張魯は已に降り、使者を留めて未だに反しておらず、張衛は同意していないとはいえ、偏攜(一方に離れて)しているので攻める事ができます。懸隔に軍を深く入れ、進めば必ず克ち、退けば必ず(敗北を)免れますまい」 と言った。曹操はこれを狐疑したが、夜間に野麋数千頭が張衛の軍営を突壊し、軍は大いに驚いた。夜、高祚らは誤って張衛の手勢と遭遇し、高祚らは多く鼓角を鳴らして軍兵を集会した。張衛は懼れ、大軍に掩撃されたと思い、かくて降った。 (『魏晋世語』)
[3] 裴松之が考えるに、張魯には善心があったとはいえ、要するに敗れた後に降ったのであり、今、万戸にて寵し、五子を皆な封侯したのは過りである。
―― 習鑿歯が曰く、張魯は称王しようとしたが、閻圃がこれを諫止し、今、閻圃を封じて列侯とした。賞罰とは、懲悪勧善の為であり、苟くも軌訓を明らかに出来るのならば、遠近や幽深を問うものではない。今、閻圃は張魯を王たる勿れと諫め、曹操が追ってこれを封じたからには、将来の人で孰れが従順たる事を思ないであろうか! その本源を塞げば末流は自ずと止まるとは、この事を謂うのではないか! もしこの事を明らかにせぬまま燋爛(戦火)の功を重んじ、豊爵・厚賞を死戦の士に止めるなら、民は乱を利とし、世俗は殺伐を競い、兵を恃んで力に依り、干戈は戢(や)むまい。曹操がこれを封じたのは、賞罰の根本を知っていると謂うべきで、湯王・武王であっても加えるものは無いであろう。
―― 黄初中、閻圃の爵邑を増し、中朝で礼遇されるようになった。十余歳の後に病死した。 (『魏略』)
―― 西戎司馬閻纘は、閻圃の孫である。 (『晋書』)
[4] 劉雄鳴は藍田の人である。若い頃より薬草の採取や射猟を生業とし、常に覆車山の下に居住し、晨夜の毎に雲霧中に出行しても、道を識って迷わず、時人はこのため雲霧を為す能力者だと謂った。郭・李傕の乱では、人が多くこれに就いた。建安中、州郡に附属し、州郡では上表して小将に薦めた。馬超らが反くと従う事を肯んぜず、馬超はこれを破った。後に曹操に詣ると、曹操はその手を執って謂うには 「孤が入関しようとした時、夢に一神人を得た。それが卿だ!」 かくして厚く礼遇し、上表して将軍に拝し、遣ってその部党を迎えるよう命じた。部党は降る事を欲せず、かくて劫脅して反き、諸々の亡命者が皆な往ってこれに依拠し、軍兵は数千人となって武関道口に拠った。曹操は夏侯淵を遣ってこれを討破させ、劉雄鳴は漢中に南奔した。漢中が破れ、窮して行く所とて無く、かくして復た帰降した。曹操はその鬚を捉えつつ 「老賊め。真実、汝を得たぞ!」。その官位を復し、勃海に徙した。
 時に又た程銀・侯選・李堪らがおり、皆な河東の人であり、興平の乱では各々が手勢として数千家を擁していた。建安十六年(211)、揃って馬超と合流した。馬超が破走した時、李堪は戦陣に臨んで死んだ。程銀・侯選は南のかた漢中に入り、漢中が破れると曹操に詣って降り、皆な官爵を復した。 (『魏略』)
 

 評曰:公孫瓚保京、坐待夷滅。度殘暴而不節、淵仍業以載凶、秖足覆其族也。陶謙昏亂而憂死、張楊授首於臣下、皆擁據州郡、曾匹夫之不若、固無可論者也。燕・繡・魯舍群盜、列功臣、去危亡、保宗祀、則於彼為愈焉。


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