公孫度字升濟、本遼東襄平人也。度父延、避吏居玄菟、任度為郡吏。時玄菟太守公孫琙、子豹、年十八歳、早死。度少時名豹、又與琙子同年、琙見而親愛之、遣就師學、為取妻。後舉有道、除尚書郎、稍遷冀州刺史、以謠言免。同郡徐榮為董卓中郎將、薦度為遼東太守。度起玄菟小吏、為遼東郡所輕。先時、屬國公孫昭守襄平令、召度子康為伍長。度到官、收昭、笞殺于襄平市。郡中名豪大姓田韶等宿遇無恩、皆以法誅、所夷滅百餘家、郡中震慄。東伐高句驪、西撃烏丸、威行海外。
公孫度、字は升済。もとは遼東襄平の人である。公孫度の父の公孫延が吏を避けて玄菟に居住し、公孫度は任じられて郡吏となった。時の玄菟太守公孫琙の子の公孫豹は、齢十八歳で早くに死んだ。公孫度の少時の名は豹であり、又た公孫琙の子と同齢であり、公孫琙は見るとこれを親愛し、遣って師に就いて学ばせ、妻を取らせた。後に有道に挙げられ、尚書郎に叙され、稍遷(漸遷)して冀州刺史となったところで謠言によって免じられた。同郡の徐栄は董卓の中郎将となり、公孫度を薦めて遼東太守とした。公孫度は玄菟の小吏から立ち、そのため遼東郡に軽んじられた。これより先、遼東属国の公孫昭が襄平令を守(兼)ね、公孫度の子の公孫康を召して伍長とした。公孫度は官に到ると、公孫昭を収監し、襄平の市場で笞殺した。郡中の名豪大姓の田韶らは宿(か)ねての待遇に恩愛が無く、皆な法を以て誅して夷滅すること百余家となり、郡中は震慄した。東のかた高句驪を伐ち、西は烏丸を撃ち、威は海外に行なわれた。
初平元年、度知中國擾攘、語所親吏柳毅・陽儀等曰:「漢祚將絶、當與諸卿圖王耳。」時襄平延里社生大石、長丈餘、下有三小石為之足。或謂度曰:「此漢宣帝冠石之祥、而里名與先君同。社主土地、明當有土地、而三公為輔也。」度益喜。故河内太守李敏、郡中知名、惡度所為、恐為所害、乃將家屬入于海。度大怒、掘其父冢、剖棺焚屍、誅其宗族。
分遼東郡為遼西中遼郡、置太守。越海收東萊諸縣、置營州刺史。自立為遼東侯・平州牧、追封父延為建義侯。立漢二祖廟、承制設壇墠於襄平城南、郊祀天地、藉田、治兵、乘鸞路、九旒、旄頭羽騎。太祖表度為武威將軍、封永寧郷侯、度曰:「我王遼東、何永寧也!」藏印綬武庫。度死、子康嗣位、以永寧郷侯封弟恭。是歳建安九年也。
初平元年(190)、公孫度は中国の擾攘
(動乱)を知り、親しい吏の柳毅・陽儀らに語るには 「漢祚は絶えようとしており、諸卿らと王事を図ろう」
[1] と。時に襄平の延里の社に大石が生じ、長さは丈余、下に三つの小石があって足となっていた。或る者が公孫度に謂うには 「これぞ漢宣帝の冠石の瑞祥であり、しかも里名は先君と同じであります。社は土地の主であり、土地を有して三公が輔弼すること明白であります」 と。公孫度は益々喜んだ。故河内太守李敏は郡中に名を知られており、公孫度の為しようを悪んでいたが、害される事を恐れ、かくして家属を率いて海上に入った。公孫度は大いに怒り、その父の冢を掘り、棺を剖って屍を焚き、その宗族を誅した
[2]。
遼東郡を分けて遼西中遼郡とし、太守を置いた。海を越えて
東萊郡の諸県を収め、営州刺史を置いた。自立して遼東侯・平州牧となり、父の公孫延を追封して建義侯とした。漢の二祖廟を立て、承制として襄平城の南に壇墠
(祭壇)を設けて天地を郊祀し、藉田
(耕田)・治兵
(練兵)し、鸞輅
(鸞車)に乗って九旒旗を用い、羽林騎には旄頭
(ヤクの尾の頭飾り)させた。曹操は上表して公孫度を武威将軍とし、永寧郷侯に封じたが、公孫度曰く 「我は遼東の王だ。永寧とは何だ!」 、印綬を武庫に蔵った。公孫度が死に、子の公孫康が位を嗣ぐと、永寧郷侯を以て弟の公孫恭を封じた。この歳は建安九年(204)である。
十二年、太祖征三郡烏丸、屠柳城。袁尚等奔遼東、康斬送尚首。語在武紀。封康襄平侯、拜左將軍。康死、子晃・淵等皆小、衆立恭為遼東太守。文帝踐阼、遣使即拜恭為車騎將軍・假節、封平郭侯;追贈康大司馬。
十二年(207)、曹操は三郡の烏丸を征伐し、柳城を屠った。袁尚らが遼東に奔ると、公孫康は袁尚の首を斬って送った。
物語は武帝紀に在る。公孫康を襄平侯に封じ、左将軍に拝した。公孫康が死ぬと、子の公孫晃・公孫淵らは皆な年小だったので、衆人は公孫恭を立てて遼東太守とした。文帝は踐阼すると、遣使して公孫恭を拝して車騎将軍・仮節として平郭侯に封じ、公孫康に大司馬を追贈した。
初、恭病陰消為閹人、劣弱不能治國。太和二年、淵脅奪恭位。明帝即(位)拜淵揚烈將軍・遼東太守。淵遣使南通孫權、往來賂遺。權遣使張彌・許晏等、齎金玉珍寶、立淵為燕王。淵亦恐權遠不可恃、且貪貨物、誘致其使、悉斬送彌・晏等首、明帝於是拜淵大司馬、封樂浪公、持節・領郡如故。使者至、淵設甲兵為軍陳、出見使者、又數對國中賓客出惡言。
嘗て公孫恭は陰消
(陰部の萎消)を病んで閹人となり、劣弱であって国を治められなかった。太和二年(228)、公孫淵は公孫恭の位を脅奪した。明帝は即座に公孫淵を揚烈将軍・遼東太守に拝した。公孫淵は遣使して南のかた孫権に通じさせ、賂遺
(贈答)を往来させた
[3]。孫権は使者として張彌・許晏らを遣り、金玉珍宝を齎させ、公孫淵を立てて燕王とした。公孫淵は亦た孫権が遠く恃めないのを恐れ、しかも貨物を貪らんとし、その使節を誘致して悉く張彌・許晏らの首を斬送した
[4]。明帝はここに公孫淵を大司馬に拝して楽浪公に封じ、持節・領郡は以前通りとした
[5]。使者が至ると、公孫淵は甲兵を設けて軍を布陣し、出て使者にまみえた。又たしばしば国中の賓客に対面して(魏への)悪言を出した
[6]。
景初元年、乃遣幽州刺史毌丘儉等齎璽書徴淵。淵遂發兵、逆於遼隧、與儉等戰。儉等不利而還。淵遂自立為燕王、置百官有司。遣使者持節、假鮮卑單于璽、封拜邊民、誘呼鮮卑、侵擾北方。
二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。淵遣將軍卑衍・楊祚等歩騎數萬屯遼隧、圍塹二十餘里。宣王軍至、令衍逆戰。宣王遣將軍胡遵等撃破之。宣王令軍穿圍、引兵東南向、而急東北、即趨襄平。衍等恐襄平無守、夜走。諸軍進至首山、淵復遣衍等迎軍殊死戰。復撃、大破之、遂進軍造城下、為圍塹。會霖雨三十餘日、遼水暴長、運船自遼口徑至城下。雨霽、起土山・脩櫓、為發石連弩射城中。淵窘急。糧盡、人相食、死者甚多。將軍楊祚等降。八月丙寅夜、大流星長數十丈、從首山東北墜襄平城東南。壬午、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。城破、斬相國以下首級以千數、傳淵首洛陽、遼東・帶方・樂浪・玄菟悉平。
景初元年(237)、かくして幽州刺史毌丘倹らを遣り、璽書を齎させて公孫淵を徴した。公孫淵はかくて兵を発し、遼隧
(遼寧省鞍山市海城)に逆
(むか)えて毌丘倹らと戦った。毌丘倹らは勝利せず還った。公孫淵はかくて自立して燕王となり、百官・有司を置いた。使者を遣って節を持たせ、鮮卑単于に璽を仮し、辺民(の上に)封拝し、鮮卑を誘呼して北方を侵擾させた
[7]。
二年(238)春、太尉司馬懿を遣って公孫淵を征伐させた。六月、軍は遼東に至った
[8]。公孫淵は将軍卑衍・楊祚らと歩騎数万を遣って遼隧に駐屯させ、囲・塹を営むこと二十余里。司馬懿の軍が至ると、卑衍に命じて逆戦
(迎撃)させた。司馬懿は将軍胡遵らを遣ってこれを撃破させた。司馬懿は軍に命じて囲に穿たせ、兵を引率して東南に向ってから急ぎ東北し、即時に襄平
(遼寧省遼陽市区)に趨った。卑衍らは襄平が無守となるのを恐れ、夜間に逃走した。諸軍が進んで首山に至ると、公孫淵は復た卑衍らを遣って軍を迎撃させ、殊に死戦させた。復た撃ち、大いにこれを破り、かくて進軍して城下に造
(いた)り、囲塹を為した。折しも霖雨すること三十余日で、遼水は暴長し、運船は遼口より城下に経至した。雨が霽
(晴)れると、土山を起こし、櫓を修築し、発石連弩で城中を射た。公孫淵は窘急
(困窮)した。糧は尽き、人は相い食み、死者は甚だ多かった。将軍楊祚らが降った。八月丙寅(七日)の夜、大流星の長さ数十丈が、首山より東北して襄平城の東南に墜ちた。壬午(二十三日)、公孫淵の軍兵は潰え、その子の公孫脩と数百騎を率いて包囲を突いて東南に逃走したが、大兵で急しくこれを撃ち、まさに流星の墜ちた処で公孫淵父子を斬った。城は破れ、相国以下を斬って首級は千を以て数え、公孫淵の首を洛陽に伝送し、遼東・帯方・楽浪・玄菟は悉く平らいだ。
初、淵家數有怪、犬冠幘絳衣上屋、炊有小兒蒸死甑中。襄平北市生肉、長圍各數尺、有頭目口喙、無手足而動搖。占曰:「有形不成、有體無聲、其國滅亡。」始度以中平六年據遼東、至淵三世、凡五十年而滅。
当初、公孫淵の家ではしばしば怪異があり、犬が幘
(頭巾)を冠り絳衣
(赤服)して屋根に上ったり、炊飯中に甑
(蒸器)の中で小児が蒸死していたりと。(また)襄平の北市に肉塊が生じ、長さ・周囲は各々数尺あり、頭や目・口・喙があったが、手足は無く揺れ動いていた。占者が曰く 「形はあって成らず、体はあって声はない。国が滅亡しよう」 と。公孫度が中平六年(189)に遼東に拠るに始まり、公孫淵に至るまで三世、凡そ五十年で滅んだ
[9]。
遼東公孫氏の存在を以て、「三国時代は実は四極時代だ」 との論が時に提起されます。約50年間、四代に亘って幽州の東半以北を支配して半独立状態を維持した点、高句麗などの東北種族に多大な影響力を行使した点、魏の遠征を一度は撃退した点などを評価したものです。公孫淵の敗滅によって東夷諸国が魏に朝貢するようになりますが、日本古代史の華とも謂える卑弥呼の遣魏使もその中に含まれていますし、後世、遼東地方は中国と東北諸種にとっての最重要の係争地となるので、日本人や東北地方の人にとっては遼東公孫氏を大きく評価したい処でしょう。しかし公孫氏の基本方針が魏との対決姿勢を示すのを極力避けていた事は、公孫康の曹操への対応や、事がバレそうになった時の公孫淵の変身からも明らかです。国力も半州分に及ばず、せいぜい河西に君臨した宋建とどっこいで、十六国時代ならともかく、三国時代の第四極だと考えるのは過大評価ではないかと思えます。
[1]
公孫度が柳毅・陽儀に語るには 「讖書では“孫登當為天子”と云っている。太守の姓は公孫、字は升済であり、升とは即ち登である」 と。 (『魏書』)
[2]
李敏の子は李敏を追い求めて出塞し、二十余年を越えても娶らなかった。州里の
徐邈がこれを責めて 「不孝として後嗣の無きより大なるは莫い。どうして終身娶らずにおれようか!」 と。かくして妻を娶り、子の李胤が生まれると妻を(実家に)遣り、常の如く喪礼に居り、憂いに勝えずに数年で卒した。李胤は生後も父母を識らなかったが、識るに及んで蔬食して哀戚すること亦た三年の喪の如くした。祖父の存亡が不明なので主
(位牌)を設けてこれを奉じた。これにより名を知られ、出仕して司徒に至った。 (『晋陽秋』)
―― 裴松之が調べた処、本伝では李敏は家属を率いて海に入ったと云い、(『晋陽秋』では)復た子と相い失ったとある。その理由は詳らかではない。
[3]
公孫淵による孫権への上表 「臣伏惟遭天地反易
(転覆)、遇无妄
(真実)之運;王路未夷、傾側擾攘
(傾覆騒乱)。自先人以来、歴事漢・魏、階縁際会、為国効節、継世享任、得守藩表、猶知符命未有攸帰
(帰す所)。毎感厚恩、頻辱顕使、退念人臣交不越境、是以固守所執、拒違前使。雖義無二信、敢忘大恩! 陛下鎮撫、長存小国、
前後裴校尉・葛都尉等到(裴校尉については、[注4]の裴潜の事かと。葛校尉の名は不明)、奉被敕誡、聖旨彌密、重紈累素、幽明備著、所以申示之事、言提其耳。臣昼則謳吟、宵則発夢、終身誦之、志不知足。季末凶荒、乾坤否塞、兵革未戢、人民蕩析
(離散)。仰此天命将有眷顧
(恩顧)、私従一隅永瞻雲日。今魏家不能採録忠善、褒功臣之後、乃令讒譌得行其志、聴幽州刺史・東萊太守誑誤之言、猥興州兵、図害臣郡。臣不負魏、而魏絶之。蓋聞人臣有去就之分;田饒適斉、楽毅走趙、以不得事主、故保有道之君;陳平・耿況、亦覩事変、卒帰於漢、勒名帝籍。伏惟陛下徳不再出、時不世遇、是以慺慺懐慕自納、望遠視険、有如近易。誠願神謨蚤定洪業、奮六師之勢、収河・洛之地、為聖代宗。天下幸甚!」 。 (『呉書』)
―― 国家は公孫淵が両端を持しているのを知り、そして遼東の吏民が公孫淵に誤たれるのを恐れた。ゆえに公文書を遼東に下して赦免するには 「告遼東・玄菟将校吏民:逆賊孫権遭遇乱階、因其先人
(孫策)劫略州郡、遂成群凶、自擅江表、含垢蔵疾
(忍辱匿悪)。冀其可化、故割地王権、使南面称孤、位以上将、礼以九命。権親叉手、北向稽顙
(頓首)。仮人臣之寵、受人臣之栄、未有如権者也。狼子野心、告令難移、卒帰反覆、背恩叛主、滔天逆神、乃敢僭号。恃江湖之険阻、王誅未加。
比年已来、復遠遣船、越渡大海、多持貨物、誑誘辺民。辺民無知、與之交関。長吏以下、莫肯禁止。至使周賀浮舟百艘、沈滞津岸、貿遷有無。既不疑拒、齎以名馬、又使宿舒随賀通好。−先年以来、船を派遣して海上を渡来させ、多くの物資で辺境の民を誑誘している。辺民は無知であってこれと交易し、長吏以下は禁じる者がおらず、(呉は)周賀に舟百艘で津岸に停滞して有る物と無い物とを交易させるに至っている。(遼東は)疑いも拒みもせず、名馬をもたらし、又た宿舒を周賀に随わせて通好している。−十室之邑、猶有忠信、陥君於悪、春秋所書也。今遼東・玄菟奉事国朝、紆青拖紫
(青綬と紫綬=九卿と三公)、以千百為数、戴纚垂纓
(髪包と冠の綬)、咸佩印綬、曾無匡正納善之言。亀玉毀于匵、虎兕
(虎と水牛)出于匣、是誰之過歟? 国朝為子大夫羞之! 昔狐突有言:『父教子弐、何以事君? 策名委質、弐乃辟也。』 今乃阿順邪謀、脅従姦惑、豈独父兄之教不詳、子弟之挙習非而已哉! 若苗穢害田、随風烈火、芝艾
(霊芝と雑草)倶焚、安能白別乎? 且又此事固然易見、不及鑑古成敗、書伝所載也。江南(與)海北有万里之限、遼東君臣無怵タ
(危慮)之患、利則義所不利、貴則義所不貴、此為厭安楽之居、求危亡之禍、賤忠貞之節、重背叛之名。蛮・貊之長、猶知愛礼、以此事人、亦難為顔! 且又宿舒無罪、擠
(強要)使入呉、奉不義之使、始與家訣、涕泣而行。及至
賀死之日、覆衆成山、舒雖脱死、魂魄離身。何所逼迫、乃至於此! 今忠臣烈将、咸忿遼東反覆攜弐、皆欲乗桴浮海、期於肆意。朕為天下父母、加念天下新定、既不欲労動干戈、遠渉大川、費役如彼、又悼辺陲遺余黎民、迷誤如此、故遣郎中衛慎・邵瑁等且先奉詔示意。若股肱忠良、能効節立信以輔時君、反邪就正以建大功、福莫大焉。儻恐自嫌已為悪逆所見染汙、不敢倡言、永懐伊戚。其諸與賊使交通、皆赦除之、與之更始」 。 (『魏略』)
[4]
公孫淵の上表 「臣は前に校尉宿舒・郎中令孫綜を遣わし、甘言と厚礼で呉賊を誘いました。幸いに天道が福なす大魏の助けにより、この賊虜を暗然として迷惑させて群下に違戻させ、衆の諫めにも従わせず、臣の言葉を承け信じさせ、遠くに船使を遣わし、多くの士卒を率いさせ、封拝に来致させました。臣が執行して得たのは本志の通りであり、罪釁を憂えたとはいえ、私かに幸甚を懐いております。賊衆はもとは万人を号し、宿舒・孫綜が伺察
(覗察)するに七・八千人との事で、沓津に到りました。偽使者の張彌・許晏と中郎将萬泰・校尉裴潜は吏兵四百余人を率い、文書・命服
(官服)・什物を齎し、臣の郡に到りました。萬泰・裴潜は別に贈与の貨物を齎致し、馬と市易したいと。軍将の賀達・虞咨は余衆を領して停泊所におりました。臣はもとより涼節
(涼風の季節)を須ってから張彌らを取りたく思っておりましたが、張彌らの兵衆は多く、臣がただちには呉の命令を承受しないのを見ると意
(心)に猜疑を持ちました。その先んじて作し、事態を変じて妄
(乱)を生ずるのを懼れ、即座に兵を進めて取囲み、張彌・許晏・萬泰・裴潜らの首級を斬りました。その吏や従兵は皆な士伍ていどの小人で、給使
(使役)されて東西するだけで自由を得られぬ者で、面縛乞降した者を誅殺するに忍びず、納受を聴許し、徙して辺城に充てました。別に将の韓起らを遣って三軍を率いさせ、馳行して沓に至らせました。領長史柳遠をして賓主の礼を設けて賀達・虞咨を誘請させ、三軍を潜伏させてその下船を待ち、又た群馬・貨物を駆って交市をしようと示しました。賀達・虞咨は猜疑を懐いて下りず、諸々の市買者五・六百人を下船させて交市しようとしました。(そこで)韓起らは金鼓を始めて震わし、鋒矢は乱れ発し、斬首すること三百余級、被創して水に赴き没溺した者は二百余人、山谷に散走
(逃散)し(た者で)、帰降したり蔵竄
(潜伏)して飢餓死したものは数に入っておりません。得た銀印・銅印・兵器・資貨は勝げて数えられません。謹んで西曹掾公孫珩を派遣し、賊たる孫権が臣に仮した節・印綬・符策・九錫・什物および張彌らの偽の節・印綬・首級を奉送するものであります」 。
又た曰く:「宿舒・孫綜が前に呉に到った折、賊の孫権が臣の家内の大小を問うた処、宿舒・孫綜が対えるには臣に三子息があり、公孫脩は別に亡弟を属
(つ)いだと。孫権は姦巧な事に、ただちに擅ままに拝命いたしました。謹んで印綬・符策を封送するものであります。臣には昔人のような洗耳之風は無いとはいえ、賊の孫権汙によって加えられた損汚を慚じ、天誅が行なわれたとしても猶お忿りには余りあるものがあります」 。
又た曰く:「
臣父康、昔殺権使、結為讐隙。今乃譎欺、遺使誘致、令権傾心、虚国竭禄、遠命上卿、寵授極位、震動南土、備尽礼数。又権待舒・綜、契闊委曲
(緊密な結盟)、君臣上下、畢歓竭情。而令四使見殺、梟示万里、士衆流離、屠戮津渚、慚恥遠布、痛辱彌天。権之怨疾、将刻肌骨。若天衰其業、使至喪隕、権将内傷憤激而死。若期運未訖、将播毒螫、必恐長虵来為寇害。徐州諸屯及城陽諸郡、與相接近、如有船衆後年向海門、得其消息、乞速告臣、使得備豫。
−前文略−(孫権は)四使(張彌ら)を殺され、梟首を万里に示され、士衆は流離して津渚で屠戮され、慚恥は遠きに流布し、痛辱は天を彌(み)たすほどです。孫権の怨疾は肌骨を刻むものでしょう。もし天がその業を衰えさせ、喪隕に至らせようとしているなら、孫権は内傷の憤激から死にましょう。もし命運を訖えておらねば、毒螫を播き、必ずや恐るべき長虵となって来攻して寇害を為しましょう。徐州の諸屯および城陽諸郡は呉と相い接近しており、もし船団が後に海門に向かい、その消息を得たなら、どうか速やかに臣に告げ、予め備えられるようして頂きたい」 。
又た曰く:「臣門戸受恩、実深実重、自臣承摂即事以来、連被栄寵、殊特無量、分当隕越、竭力致死。而臣狂愚、意計迷闇、不即禽賊、以至見疑。前章表所陳情趣事勢、実但欲罷弊此賊、使困自絶、誠不敢背累世之恩、附僭盗之虜也。而後愛憎之人、縁事加誣、偽生節目、卒令明聴疑於市虎、移恩改愛、興動威怒、幾至沈没、長為負忝。幸頼慈恩、猶垂三宥、使得補過、解除愆責。如天威遠加、不見仮借、早当麋砕、辱先廃祀、何縁自明、建此微功。臣既喜於事捷、得自申展、悲於疇昔、至此変故、余怖踊躍、未敢便寧。唯陛下既崇春日生全之仁、除忿塞隙、抑弭纖介、推今亮往、察臣本心、長令抱戴、銜分三泉。
−意訳− 臣の家門は国恩を受けること実に深く重く、臣も栄寵を被ること無量であり、死力を竭くすつもりでした。臣は愚かで、すぐに賊を捕えなかったせいで疑われてしまいました。前の章表で陳べたのは、ただ賊を疲弊させて自滅させる為で、累世の恩に背く気は毛頭ありませんでした。しかし後に愛憎之人(感情で判断する人?)が何かに乗じて事細かに誣告したので、聖聴すら市に虎を生じたかと疑い、それまでの恩愛は威怒に変じました。幸いに慈恩のお陰で三宥(不識・過失・うっかりに対する減刑)を下され、過ちを補えるようにして愆責を解除して頂きました。天威が仮借なく加えられていたなら早々に麋砕され、先祀も廃されてどうやって潔白を証明できたでしょう。臣は捷報で潔白を示せた事を喜んでおりますが、これまでの事を思うと怖れから踊躍し、未だ安寧にはなれません。どうか陛下は春の日が全てを生かす仁を崇敬し、忿りを除き隙を塞ぎ、纖介を抑弭して臣の本心を察せられますよう」
又た曰く:「臣被服光栄、恩情未報、而以罪釁、自招譴怒、分当即戮、為衆社戒。所以越典詭常、偽通於呉、誠自念窮迫、報効未立、而為天威督罰所加、長恐奄忽不得自洗。故敢自闕替廃於一年、遣使誘呉、知其必来、権之求郡、積有年歳、初無倡答一言之応、今権得使、来必不疑、至此一挙、果如所規、上卿大衆、翕赫豊盛、財貨賂遺、傾国極位、到見禽取、流離死亡、千有余人、滅絶不反。此誠暴猾賊之鋒、摧矜夸之巧、昭示天下、破損其業、足以慚之矣。臣之慺慺念効於国、雖有非常之過、亦有非常之功、願陛下原其踰闕之愆、采其亳毛之善、使得国恩、保全終始矣」 。 (『魏略』)
[5]
中領軍夏侯献の上表:「公孫淵は昔年に王命に違え、計貢
(会計報告と貢納)を廃絶したのは、実に両端を持すものでした。険阻を恃み、又た孫権を怙り、ゆえに跋扈して、海外で恣睢
(横恣)したのです。宿舒は親しく賊たる孫権の軍衆・府庫を見、その弱小にして憑恃するに不足なのを知り、これを以て賊の使者を斬る計を決したのです。又た高句麗・濊貊は公孫淵とは仇敵であり、揃って寇鈔を為しております。今、外は呉の援を失い、内には胡族の寇があり、心では魏国が陸道を用いられるのを知っており、勢いとして惶懼の心を懐かずにはおられないのです。この時に乗じ、遣使して示すに禍福を以てするのが宜しいでしょう。奉車都尉鬷弘は武皇帝の時に始めて使命を奉じ、(遼東への)道路を開通しました。文皇帝は即位すると使命を通したいと考え、鬷弘が妻子を率いて郷里
(遼東)に還帰できるよう遣り、その為の車・牛や、絹百匹を賜いました。鬷弘は受恩を以て国朝で死に帰し、還る意図は無く、乞うて妻子を留め、身は使命を奉じたものです。公孫康はかくて臣妾を称したのです。鬷弘は使命を奉じて意に称い、爵関内侯を賜わりました。
鬷弘の性は果烈で、国事を心し、夙夜に拳拳
(真摯)として効験を竭くそうと念じております。冠族
(名族)の子孫であって若くして学問を好み、書籍・記録に博通して多くに関渉し、口論は速捷ながら弁辞は卑俗ではなく、典誥
(典籍)に附依しつつ胸臆から湧出するようです。加えて本郡に出仕すれば常に人の右位
(上位)に在り、彼の地方の士人は素より敬服しております。もし使者として遣るなら、鬷弘を行かせるべきであります。鬷弘にとっては旧土であってその国俗に習熟しており、利害を説けば、弁はその意思を動かすに足り、明察さは事実を見抜くに足り、才は使命を行なうに足り、言辞は信用されるに足るものです。もしこの計に従えば、
酈生が斉王を降し、
陸賈が尉佗を説いた事も、遠く過
(すぐ)れた事とはなりますまい。遠路を進もうとするなら、騏驥
(駿馬)を釈くのは妥当ではなく、已に疾病が篤くなった時、扁鵲
(伝説の名医)を廃してはならぬものです。願わくば愚言を察せられん事を」 。 (『魏名臣奏』)
[6]
魏は使者の傅容・聶夔を遣り、公孫淵を拝して楽浪公とした。(先行した)公孫淵の計吏が洛陽より還って公孫淵に語るには 「使者の左駿伯は、使者に皆な勇力な者を択んでおり、非凡な人であります」 と。公孫淵はこれによって疑い怖れた。傅容・聶夔は至ると、学館の中に駐まった。公孫淵は先ず歩騎によってこれを囲み、かくして入って受拝した。傅容・聶夔は大いに怖れ、これによって洛陽に還ると実状を言上した。 (『呉書』)
[7]
公孫淵は、この変事が独り毌丘倹のみから出たのではないと察知し、備えを為した。遣使して呉に謝罪し、自ら燕王を称し、与国たらんと求めた。しかも猶お官属に命じ、自らの直しきを魏に上書させて曰く:「大司馬長史臣郭マ・参軍臣柳浦等七百八十九人言:奉被今年七月己卯詔書
(明帝紀景初元年七月、毌丘倹が撤退した後、遼東の将吏士民で公孫淵に脅略されて降伏できなかった者の一切を赦した己卯の詔書)、伏読懇切、精魄散越、不知身命所當投措! マ等伏自惟省、螻蟻小醜、器非時用、遭値千載、被受公孫淵祖考以来光明之徳、恵沢沾渥、滋潤栄華、無寸尺之功、有負乗之累;遂蒙褒奨、登名天府、並以駑蹇附龍託驥、紆青拖紫、飛騰雲梯、感恩惟報、死不択地。臣等聞明君在上、聴政采言、人臣在下、得無隠情、是以因縁訴譲、冒犯愬寃。
ここまで前置き。郡在藩表、密邇不羈、平昔三州、転輸費調、以供賞賜、歳用累億、虚耗中国。然猶跋扈、虔劉辺陲、烽火相望、羽檄相逮、城門昼閉、路無行人、州郡兵戈、奔散覆没。淵祖父度初来臨郡、承受荒残、開日月之光、建神武之略、聚烏合之民、掃地為業、威震燿于殊俗、徳沢被于群生。遼土之不壊、実度是頼。孔子曰:『微管仲、吾其被髮左袵。』向不遭度、則郡早為丘墟、而民係於虜廷矣。遺風余愛、永存不朽。
「管仲がいなければ我らは胡俗にまみれていただろう」という孔子の言葉を譬えに、公孫度が烏桓を抑えていた大功を陳べています。度既薨殂、吏民感慕、欣戴子康、尊而奉之。康踐統洪緒、克壮徽猷、文昭武烈、邁徳種仁;乃心京輦、翼翼虔恭、佐国平乱、効績紛紜、功隆事大、勲蔵王府。度・康當値武皇帝休明之会、合策名之計、夾輔漢室、降身委質、卑己事魏。匪処小厭大、畏而服焉、乃慕託高風、懐仰盛懿也。武皇帝亦虚心接納、待以不次、功無巨細、毎不見忘。又命之曰:『海北土地、割以付君、世世子孫、実得有之。』皇天后土、実聞徳音。臣庶小大、予在下風、奉以周旋、不敢失墜。
公孫康の功を、曹操による本領安堵のお墨付きを交えて陳べています。淵生有蘭石之姿、少含ト悌之訓、允文允武、忠恵且直;生民欽仰、莫弗懐愛。淵纂戎祖考、君臨万民、為国以礼、淑化流行、独見先覩、羅結遐方、勤王之義、視険如夷、世載忠亮、不隕厥名。孫権慕義、不遠万里、連年遣使、欲自結援、雖見絶殺、不念旧怨、纖纖往来、求成恩好。淵執節彌固、不為利迴、守志匪石、確乎彌堅。猶懼丹心未見保明、乃卑辞厚幣、誘致権使、梟截献馘、以示無二。呉雖在遠、水道通利、挙帆便至、無所隔限。淵不顧敵讐之深、念存人臣之節、絶彊呉之歓、昭事魏之心、霊祇明鑑、普天咸聞。陛下嘉美洪烈、懿茲武功、誕錫休命、寵亜斉・魯、下及陪臣、普受介福。誠以天覆之恩、當卒終始、得竭股肱、永保禄位、不虞一旦、横被残酷。惟育養之厚、念積累之効、悲思不遂、痛切見棄、挙国号咷、拊膺泣血。夫三軍所伐、蛮夷戎狄、驕逸不虔、於是致武、不聞義国反受誅討。
公孫淵の道義を慕った孫権がしつこかったので、使節を殺して朝廷に赤心を示した。呉と遼東とは海上交通が容易だが、それでも敢えて呉使を殺したのは、ただただ臣節を全うする為だった。陛下もそれを嘉してくれたのに!いきなりの酷い仕打ちとは!蓋聖王之制、五服之域、有不供職、則修文徳、而又不至、然後征伐。淵小心翼翼、恪恭于位、勤事奉上、可謂勉矣。尽忠竭節、還被患禍。小弁之作、離騷之興、皆由此也。就或佞邪、盗言孔甘、猶當清覧、憎而知善;讒巧似直、惑乱聖聴、尚望文告、使知所由。若信有罪、當垂三宥;若不改寤、計功減降、當在八議。而潜軍伺襲、大兵奄至、舞戈長躯、衝撃遼土。犬馬悪死、況於人類! 吏民昧死、挫辱王師。淵雖寃枉、方臨危殆、猶恃聖恩、悵然重奔、冀必姦臣矯制、妄肆威虐、乃謂臣等曰:『漢安帝建光元年、遼東属国都尉龐奮、受三月乙未詔書、曰収幽州刺史馮煥・玄菟太守姚光。推案無乙未詔書、遣侍御史幽州〔收〕考姦臣矯制者。今刺史或儻謬承矯制乎?』臣等議:以為刺史興兵、揺動天下、殆非矯制、必是詔命。淵乃俛仰歎息、自傷無罪。
聖王の征伐は最終手段。小人の甘言が原因かも知れず、まずは実態調査をするのが筋では? なのにいきなり遠征されれば抵抗したっていいじゃない。刺史が勅命をデッチ上げるのは漢安帝の建光元年の事件の例もあり、公孫淵はその事に言及したが、どうも今度は本当の詔勅らしいのでションボリしている。深惟土地所以養人、竊慕古公杖策之岐、乃欲投冠釋紱、逝歸林麓。臣等維持、誓之以死、屯守府門、不聽所執。而七營虎士、五部蠻夷、各懷素飽、不謀同心、奮臂大呼、排門遁出。近郊農民、釈其耨鎛、伐薪制梃、改案為櫓、奔馳赴難、軍旅行成、雖踏湯火、死不顧生。淵雖見孤棄、怨而不怒、比遣敕軍、勿得干犯、及手書告語、懇惻至誠。而吏士凶悍、不可解散、期於畢命、投死無悔。淵懼吏士不従教令、乃躬馳騖、自往化解、僅乃止之。一飯之恵、匹夫所死、況淵累葉信結百姓、恩著民心。自先帝初興、爰曁陛下、栄淵累葉、豊功懿徳、策名褒揚、弁著廊廟、勝衣挙履、誦詠明文、以為口実。埋而掘之、古人所恥。小白・重耳、衰世諸侯、猶慕著信、以隆霸業。詩美文王作孚万邦、論語称仲尼去食存信;信之為徳、固亦大矣。今呉・蜀共帝、鼎足而居、天下揺蕩、無所統一、臣等毎為陛下懼此危心。淵拠金城之固、仗和睦之民、国殷兵彊、可以横行。策名委質、守死善道、忠至義尽、為九州表。方今二敵闚𨵦、未知孰定、是之不戒、而淵是害。茹柔吐剛、非王者之道也。臣等雖鄙、誠竊恥之。若無天乎、臣一郡吉凶、尚未可知;若云有天、亦何懼焉! 臣等聞仕於家者、二世則主之、三世則君之。臣等生於荒裔之土、出於圭竇之中、無大援於魏、世隸於公孫氏、報生與賜、在於死力。昔蒯通言直、漢祖赦其誅;鄭・辞順、晋文原其死。臣等頑愚、不達大節、苟執一介、披露肝胆、言逆龍鱗、罪當万死。惟陛下恢崇撫育、亮其控告、使疏遠之臣、永有保持。
公孫氏が遼東に施した恩愛、藩屏としての実績、魏に対する忠節は天下が範とするもので、今、二賊を放置して来攻するのは王者の作法ではない。どうか漢高祖や晋文公が直言の臣を赦したように、我ら疎遠の臣が身命を保持できるよう計らっていただきたい」 。 (『魏書』)
[8]
公孫淵は自立し、紹漢元年と称した。魏人が討とうとしていると聞き、復た呉に称臣し、北伐して救ってくれる兵を乞うた。呉人はその使者を刑戮したく思ったが、羊衜曰く
「不可。それは匹夫の怒りを肆(ほしいまま)にし、霸王の計を捐てるというものです。これを厚遇し、奇兵を遣って潜かに往かせてその成果を要(もと)めるに越した事はありません。もし魏が公孫淵を伐って克たねば、我が軍が遠きに赴き、これぞ遐(遥)かに夷に恩を結び、義は万里を蓋うというもの。もし兵を連ねる事が解かれねば、首と尾とは離隔します。則ち我らはその傍郡(の人)を虜とし、駆り略(かす)めて帰り、これも亦た天の罰として来致し、曩事(往時の事)に報い雪ぐに充分でありましょう」 。
孫権 「善し」 。かくして兵を勒
(ととの)えて大いに出した。公孫淵の使者に謂うには 「後の音信を俟っている。きっと書簡に従い、必ず弟と休戚
(悲喜)を同じくし、存亡を共にしよう。中原に隕ちはしても、吾れは甘心
(納得)するものである」 。又た曰く 「司馬懿の向かう処に前障は無く、深く弟の為に憂うものである」 。 (『漢晋春秋』)
[9]
始め公孫淵の兄の公孫晃は公孫恭の任子
[※]として洛陽に在った。
※ 後世の恩蔭と類似の、官吏登用法の一種。二千石以上の官僚の子弟を官吏候補として挙任するもの。
公孫淵が公孫恭の位を劫奪したと聞くと、公孫淵には終には保てないだろうと謂
(かんが)え、しばしば表聞し、国家に公孫淵討伐を命じさせたようとした。帝は公孫淵が已に秉権しており、ゆえにこれを按撫した。公孫淵が叛くに及び、国法によって公孫晃を繋獄した。公孫晃には前の言葉があり、連坐せぬ事を冀ったが、内心では骨肉関係である事から、公孫淵が破れれば己れにも及ぶと知っていた。公孫淵の首が到ると、公孫晃は自身が必ず死ぬと審判し、その子と相対して啼哭した。時に上も亦たこれを活かしたく思ったが、有司が不可とし、かくてこれを殺した。(『魏略』)