三國志修正計画

三國志卷二十六 魏志二十六/滿田牽郭傳

満寵

 滿寵字伯寧、山陽昌邑人也。年十八、為郡督郵。時郡内李朔等各擁部曲、害于平民、太守使寵糾焉。朔等請罪、不復鈔略。守高平令。縣人張苞為郡督郵、貪穢受取、干亂吏政。寵因其來在傳舍、率吏卒出收之、詰責所犯、即日考竟、遂棄官歸。

 満寵、字は伯寧。山陽昌邑の人である。齢十八で郡督郵となった。時に郡内の李朔らは各々部曲を擁して平民を害し、太守は満寵に糾察させた。李朔らは贖罪を請い、復た鈔略しなかった。高平令をした。県人の張苞が郡督郵となり、貪穢にして(賄賂を)受取し、吏政を干乱した。満寵は伝舎に来在している時に乗じ、吏卒を率いて出てこれを収捕し、犯した事を詰責して即日に考竟(処断)し、かくて棄官して帰郷した。

 太祖臨兗州、辟為從事。及為大將軍、辟署西曹屬、為許令。時曹洪宗室親貴、有賓客在界、數犯法、寵收治之。洪書報寵、寵不聽。洪白太祖、太祖召許主者。寵知將欲原、乃速殺之。太祖喜曰:「當事不當爾邪?」故太尉楊彪收付縣獄、尚書令荀ケ・少府孔融等並屬寵:「但當受辭、勿加考掠。」寵一無所報、考訊如法。數日、求見太祖、言之曰:「楊彪考訊無他辭語。當殺者宜先彰其罪;此人有名海内、若罪不明、必大失民望、竊為明公惜之。」太祖即日赦出彪。初、ケ・融聞考掠彪、皆怒、及因此得了、更善寵。

 曹操は兗州に臨むと辟して従事とし、大将軍になるに及んで辟して西曹属に署(つ)け、許県令とした。時に曹洪は宗室の親貴で、界内にいる賓客がしばしば法を犯し、満寵はこれを収捕して治めた。曹洪は書簡で満寵に報じたが、満寵は聴かなかった。曹洪は曹操に白(もう)し、曹操は許の主者(主任者)を召した。満寵は原(ゆる)そうとしている事を知り、かくして速やかにこれを殺した。曹操は喜んで 「事に当るにはこのようでなくてはな」。
 旧の太尉楊彪が県獄に付された。尚書令荀ケ・少府孔融らが揃って満寵に嘱託するには 「ただ辞述を受けるだけにして、拷掠を加えてはならない」 と。満寵は一つとして返報せず、法の通りに考訊した。数日して曹操に通見を求めて言うには 「楊彪を考訊したところ他の辞語はありませんでした。殺す場合は先んじてその罪を彰かにするのが妥当ですが、この人は海内に名声があり、もし罪が明らかでなければ必ず民望を大いに失いましょう。竊かに明公の為に惜しむものであります」 曹操は即日に楊彪を赦して出した。初め、荀ケ・孔融は楊彪の拷掠を聞くと皆な怒ったが、ここに及んで了解し、更めて満寵を善しとした[1]

 一見、法を厳守しつつ情理も弁えている風に描写していますが、「考訊如法」 とある以上は、ほぼ間違いなく拷問を加えています。還暦間近の、しかも三公経験者を拷問にかけておいて 「更善寵」 も無いものです。この時点までの満寵はSっ気の薄い酷吏であり、情誼に関するエピソードが無い以上は、それが満寵の本質かと思われます。

 時袁紹盛於河朔、而汝南紹之本郡、門生賓客布在諸縣、擁兵拒守。太祖憂之、以寵為汝南太守。寵募其服從者五百人、率攻下二十餘壁、誘其未降渠帥、於坐上殺十餘人、一時皆平。得戸二萬、兵二千人、令就田業。

 時に袁紹は河朔で盛んで、そして汝南は袁紹の本郡であり、門生・賓客が諸県に布在して兵を擁して拒守していた。曹操はこれを憂え、満寵を汝南太守とした。満寵は服従者五百人を贖募し、率いて二十余(の県・邑・塢の)壁を攻め下し、未だ降らない渠帥を招誘し、宴坐に於いて十余人を殺し、一時で皆な平らげた。戸二万と兵二千人を得、命じて田業に就かせた。

 建安十三年、從太祖征荊州。大軍還、留寵行奮威將軍、屯當陽。孫權數擾東陲、復召寵還為汝南太守、賜爵關内侯。關羽圍襄陽、寵助征南將軍曹仁屯樊城拒之、而左將軍于禁等軍以霖雨水長為羽所沒。羽急攻樊城、樊城得水、往往崩壞、衆皆失色。或謂仁曰:「今日之危、非力所支。可及羽圍未合、乘輕船夜走、雖失城、尚可全身。」寵曰:「山水速疾、冀其不久。聞羽遣別將已在郟下、自許以南、百姓擾擾、羽所以不敢遂進者、恐吾軍掎其後耳。今若遁去、洪河以南、非復國家有也;君宜待之。」仁曰:「善。」寵乃沈白馬、與軍人盟誓。會徐晃等救至、寵力戰有功、羽遂退。進封安昌亭侯。

 建安十三年(208)、曹操の荊州征伐に従った。大軍が還る時、満寵を留めて行奮威将軍とし、当陽に駐屯した。孫権がしばしば東陲(東辺)を擾乱したので、復た満寵を召し還して汝南太守とし、爵関内侯を賜った。
 関羽が襄陽を囲むと、満寵は征南将軍曹仁を助けて(倶に)樊城に駐屯してこれを拒いだ。

 豫州の一太守が荊州の危機に派遣され、それも樊城内部にいるのが不自然です。おそらく宛城の侯音が叛いた時に何らかの人事があったものと思われます。

左将軍于禁らの軍は霖雨による漢水の膨張によって関羽に覆没された。関羽は急(きび)しく樊城を攻め、樊城は水を得て往々に崩壊し、衆人は皆な色を失った。
或る人が曹仁に謂うには 「今日の危難は力で支えられるものではありません。関羽の包囲が未だ結合せぬうちに軽船に乗って夜間に走(のが)れれば、城を失いはしてもその身は全うできましょう」
満寵 「山の水は速く疾く、現状が久しくない事が冀(こいねが)われます。聞けば関羽は別将を遣って已に郟(平頂山市)下に在り、許より以南の百姓は擾擾としているとか。関羽が敢えて進もうとしないのは、吾が軍がその背後を掎(つ)く事だけを恐れているからです。今もし遁去すれば、洪河(黄河)以南は再びは国家の所有とはなりません。君よ、待たれるのが妥当です」
曹仁 「善」 満寵はかくして白馬を沈め、軍人と盟誓した。折しも徐晃らが救援に至り、満寵は力戦して功があり、関羽は遂に退いた。安昌亭侯に進封された。

文帝即王位、遷揚武將軍。破呉於江陵有功、更拜伏波將軍、屯新野。大軍南征、到精湖、寵帥諸軍在前、與賊隔水相對。寵敕諸將曰:「今夕風甚猛、賊必來燒軍、宜為其備。」諸軍皆警。夜半、賊果遣十部伏夜來燒、寵掩撃破之、進封南郷侯。(1)黄初三年、假寵節鉞。五年、拜前將軍。明帝即位、進封昌邑侯。太和二年、領豫州刺史。三年春、(2)降人稱呉大嚴、揚聲欲詣江北獵、孫權欲自出。寵度其必襲西陽而為之備、權聞之、退還。秋、使曹休從廬江南入合肥、令寵向夏口。寵上疏曰:「曹休雖明果而希用兵、今所從道、背湖旁江、易進難退、此兵之窪地也。若入無彊口、宜深為之備。」寵表未報、休遂深入。賊果從無彊口斷夾石、要休還路。休戰不利、退走。會朱靈等從後來斷道、與賊相遇。賊驚走、休軍乃得還。是歳休薨、寵以前將軍代都督揚州諸軍事。汝南兵民戀慕、大小相率、奔隨道路、不可禁止。護軍表上、欲殺其為首者。詔使寵將親兵千人自隨、其餘一無所問。
 満寵伝の特にこのあたりは、バラけた木簡の復元に失敗したかのように記事が前後し、例えば下線部(1)は蔣済伝によって黄初六年の事だと判ります。又た(2)に続く事件は曹丕の死亡直後の江夏襲撃と太和二年の石亭の役なので、下線部(2)も紛れ込みだと思われます。その他、気付く事ができれば直していきます。

曹丕が王位に即くと、揚武将軍に遷った。江陵に呉を破った事に功があり、(黄初四年(223)に)更めて伏波将軍に拝し、新野に駐屯させ、満寵に節鉞を仮した。五年、前将軍を拝命した。

 上記の江陵の役は223年まで継続しているので、仮節鉞が黄初三年なら参戦に当っての措置となります。ですが既に仮節鉞の曹真が総帥として当事していて、同じ戦線に二人の仮節鉞というのはちょっと考え難いので黄初四年としました。

(黄初六年、)大軍が南征して精湖に到った時、満寵は諸軍を帥いて前部に在り、賊と水を隔てて相対した。満寵が諸将に命じるには 「今夕の風は甚だ猛く、賊は必らず軍を焼きに来よう。備えを為すのが宜しい」 諸軍は皆な警戒した。夜半になって、賊は果たして十部の伏兵を遣って夜間に焼きに来させたが、満寵は掩撃してこれを破り、南郷侯に進封された。

 満寵はがんばりました。蔣済もがんばりました。曹丕は龍舟を放棄してさっさと許昌に還りました。そんな戦いでした。

明帝が即位し、昌邑侯に進封された。降人が称すには、呉は大いに厳装(戎装)し、江北に詣って猟をすると揚声(喧伝)し、孫権自ら出征しようとしていると。満寵が度(はか)るに、必ず西陽(河南省信陽市光山)を襲うと考えて備えを為し、孫権はこれを聞くと退還した。
太和二年(228)秋、曹休に合肥より南のかた廬江に入らせ、満寵に命じて夏口に向わせた。満寵は上疏し、「曹休は明晰果断とはいえ兵を用いた事は希です。今、使っている道は湖を背にした長江の傍らで、進むに易く退くに難く、これは兵家の謂う窪地です。もし無彊口に入ったら、深く備えを為されますよう」
満寵の上表に未だ答報されぬうちに曹休は深入した。賊は果たして無彊口より夾石を断ち、曹休の還路を要(さえぎ)った。曹休は戦いに利あらず、退走した。たまたま朱霊らが後から来て道を断ち、賊と遭遇した。賊は驚いて走(のが)れ、曹休の軍はかくして還る事ができた。(賈逵の死で)豫州刺史を兼領した。
この歳に曹休が薨じた。三年春、満寵は前将軍のまま都督揚州諸軍事に代った。汝南の兵民は恋慕して大小が相い率い、道路に奔随して禁止できなかった。護軍が表を上奏し、その首魁を殺したいと。詔にて満寵に自発的に随う親兵千人を率いさせ、その他は一つとして問題にしなかった。

 四年、拜寵征東將軍。其冬、孫權揚聲欲至合肥、寵表召兗・豫諸軍、皆集。賊尋退還、被詔罷兵。寵以為今賊大舉而還、非本意也、此必欲偽退以罷吾兵、而倒還乘虚、掩不備也、表不罷兵。後十餘日、權果更來、到合肥城、不克而還。其明年、呉將孫布遣人詣揚州求降、辭云:「道遠不能自致、乞兵見迎。」刺史王淩騰布書、請兵馬迎之。寵以為必詐、不與兵、而為淩作報書曰:「知識邪正、欲避禍就順、去暴歸道、甚相嘉尚。今欲遣兵相迎、然計兵少則不足相衞、多則事必遠聞。且先密計以成本志、臨時節度其宜。」寵會被書當入朝、敕留府長史:「若淩欲往迎、勿與兵也。」淩於後索兵不得、乃單遣一督將歩騎七百人往迎之。布夜掩撃、督將迸走、死傷過半。初、寵與淩共事不平、淩支黨毀寵疲老悖謬、故明帝召之。既至、體氣康彊、見而遣還。寵屡表求留、詔報曰:「昔廉頗彊食、馬援據鞍、今君未老而自謂已老、何與廉・馬之相背邪?其思安邊境、惠此中國。」

 四年(230)、満寵を征東将軍に拝した。その冬、孫権が合肥に至る事を揚声し、満寵は兗・豫の諸軍を召す事を上表し、皆な集まった。賊は尋(つ)いで退還し、詔にて兵事を罷めさせた。満寵が思うに、今、賊は大挙しながら還ったが、本意ではなく、これは必ず偽退によって吾が兵を罷めさせ、虚に乗じて倒還し、不備を掩撃しようとするものだと。上表して罷兵させなかった。十余日の後、孫権は果たして更めて来襲し、合肥城に到ったが、克てずに還った。
 その明年(231)、呉将の孫布が人を遣って揚州に詣らせて受降を求めた。その辞に云う。「道が遠く自ら致る事ができません。兵にて迎えられん事を」 刺史王淩は孫布の書簡を騰(つた)え、兵馬で迎える許可を請うた。
満寵は必ず詐計だと考えて兵を与えず、王淩への報書を作り、「邪正を知識し、禍を避けて順に就こうとするのは、暴を去って道に帰す為のもので、甚だ嘉尚すべきものだ。今、兵を遣って迎えたいが、兵を計るに少なければ護衛するのに不足で、多ければ必ず事は遠方に聞こえよう。先ずは密かに計って(孫布を迎える)本志を成し、(こちらも)時に臨んで適宜に節度しよう」
満寵はたまたま入朝すべしとの書を被り、留府長史に命じるには 「もし王淩が往迎しようとしても兵を与えてはならない」 と。王淩は後に兵を索(もと)めて得られず、かくして単独で一督将と歩騎七百人を遣り、往ってこれを迎えさせた。孫布は夜間に掩撃し、督将は迸走して死傷者は半数を超えた。
かねて満寵と王淩とは共同の事で不和となっており、王淩の支党は満寵が老い疲れて悖謬(惑乱)していると毀議しており、そのため明帝が召したのだった。既に至るや体気とも康彊(壮健)で、通見すると遣って還らせた[2]。満寵はしばしば上表して(朝廷に)留まる事を求めたが、詔報には 「昔、廉頗は強いて食べ、馬援は鞍に拠った。今、君は未だ老いず、しかし自ら已に老いたと謂う。どうして廉頗・馬援に背こうとするのか? 辺境を安んじる事を思い、この中国に恩恵を施すように」

 明年、呉將陸遜向廬江、論者以為宜速赴之。寵曰:「廬江雖小、將勁兵精、守則經時。又賊舍船二百里來、後尾空縣、尚欲誘致、今宜聽其遂進、但恐走不可及耳。」整軍趨楊宜口。賊聞大兵東下、即夜遁。時權歳有來計。青龍元年、寵上疏曰:「合肥城南臨江湖、北遠壽春、賊攻圍之、得據水為勢;官兵救之、當先破賊大輩、然後圍乃得解。賊往甚易、而兵往救之甚難、宜移城内之兵、其西三十里、有奇險可依、更立城以固守、此為引賊平地而掎其歸路、於計為便。」護軍將軍蔣濟議、以為:「既示天下以弱、且望賊煙火而壞城、此為未攻而自拔。一至於此、劫略無限、必以淮北為守。」帝未許。寵重表曰:「孫子言、兵者、詭道也。故能而示之以弱、不能驕之以利、示之以懾。此為形實不必相應也。又曰『善動敵者形之』。今賊未至而移城卻内、此所謂形而誘之也。引賊遠水、擇利而動、舉得於外、則福生於内矣。」尚書趙咨以寵策為長、詔遂報聽。其年、權自出、欲圍新城、以其遠水、積二十日不敢下船。寵謂諸將曰:「權得吾移城、必於其衆中有自大之言、今大舉來欲要一切之功、雖不敢至、必當上岸耀兵以示有餘。」乃潛遣歩騎六千、伏肥城隱處以待之。權果上岸耀兵、寵伏軍卒起撃之、斬首數百、或有赴水死者。明年、權自將號十萬、至合肥新城。寵馳往赴、募壯士數十人、折松為炬、灌以麻油、從上風放火、燒賊攻具、射殺權弟子孫泰。賊於是引退。三年春、權遣兵數千家佃於江北。至八月、寵以為田向收熟、男女布野、其屯衞兵去城遠者數百里、可掩撃也。遣長吏督三軍循江東下、摧破諸屯、焚燒穀物而還。詔美之、因以所獲盡為將士賞。

 明年(232)、呉将の陸遜が廬江に向った。論者は速やかに赴くべきだと唱えた。満寵 「廬江は小城とはいえ将は勁く兵は精鋭で、守れば時を経る事ができよう。又た賊は船を捨てて二百里を来ており、後尾との懸隔を空け、尚お誘致しようとしている。今はその進行を聴(ゆる)すのが宜しく、ただ退走する敵に及べない事を恐れるだけだ」 軍を整えて楊宜口に趨った。賊は大兵が東下したと聞くと夜間に遁走した。時に孫権には歳々に来攻の計画があった。
 青龍元年(233)、満寵が上疏するには 「合肥城は南を江湖に臨み、北のかた寿春は遠く、賊がこれを攻囲するには水に拠って勢いとする事ができ、官兵はこれを救おうにも、先ず賊の大輩を破らねばならず、然る後に囲みを解く事ができる有様です。賊が往くには甚だ易く、官兵が往って救うには甚だ困難です。城内の兵をその西三十里の、依るべき奇険に移し、更めて城を立てて固守するのが妥当です。これは賊を平地に引き込んでその帰路を掎(ひ)く地であり、計る上で好都合であります」
護軍将軍蔣済が議すには 「既に天下に弱きを示し、しかも賊の煙火を望んで城を壊すとは。これこそ未だ攻めずに自ら抜くというもの。一たびこの様に至れば、劫略は限りなく、必ず淮北を守る事になりましょう
帝が聴許しないうちに、満寵が重ねて上表するには 「孫子が言うには “兵とは詭道である。だから能であれば弱きを示し、能でなければ利に驕ってみせて懾(おそ)れを示す” とか。これは形と実際を必ずしも相い応じさせない事であります。又た “善く敵を動かす者はこれ(弱き)を形す” とも。今、賊が未だ至らぬうちに城を移して内に卻(しりぞ)けるのは、これぞ所謂る形を示してこれを誘うと謂うものです。賊を水の遠きに引き込み、利を択んで動けば、外に利得を挙げ、内に福を生じると謂うものです」。
尚書趙咨は満寵の策を長じているとし、詔してかくて聴許を報じた。その年、孫権自ら出戦し、合肥新城を囲もうとしたが、水から遠く、二十日を積んでも下船しようとしなかった。満寵が諸将に謂うには 「孫権は私が城を移した事で、必ずその軍兵の中で自ら大言を吐き、今にも大挙来攻して一切の功を要(もと)めようとしているのだろう。至ろうとしないとはいえ、必ず岸に上って兵を耀かせ、余裕がある事を示すだろう」
かくして潜かに歩騎六千を遣り、肥城の隠し処に伏せてこれを待った。孫権は果たして岸に上がって兵を耀かせた。満寵は伏軍を卒(にわか)に起してこれを撃ち、数百を斬首し、或いは水に赴いて死ぬ者もあった。
 明年、孫権は(蜀の北伐に呼応して)自ら号十万を率い、合肥新城に至った。満寵は馳せて往赴し、壮士数十人を募り、松を折って炬(たいまつ)とし、麻油を灌ぎ、風上より火を放って賊の攻具を焼き、孫権の弟孫匡の子の孫泰を射殺した。賊はこのため引き退いた。

 実際には、合肥に赴いた満寵にとって十万は想定外だったようで、守備兵の撤去と寿春での迎撃案を上書しています。明帝曰く 「俺が征くまで耐えろ」 と。

三年(235)春、孫権は兵数千家を遣って江北で佃(こさく)させた。八月に至って満寵は、田が収熟に向い、男女が野に布(つら)なり、その屯衛兵が城を去ること遠き者は数百里となり、掩撃の時だと考えた。長吏を遣って三軍を督して長江に循って東下させ、諸屯を摧破し、穀物を焚焼して還った。詔にてこれを賞美し、獲たものを悉く将士への賞とした。

 景初二年、以寵年老徴還、遷為太尉。寵不治産業、家無餘財。詔曰:「君典兵在外、專心憂公、有行父・祭遵之風。賜田十頃、穀五百斛、錢二十萬、以明清忠儉約之節焉。」寵前後摎W、凡九千六百戸、封子孫二人亭侯。正始三年薨、諡曰景侯。子偉嗣。偉以格度知名、官至衞尉。

 景初二年(238)、満寵を老年だとして徴還し、遷して太尉とした。満寵は産業を治めず、家には余財が無かった。詔 「君は外に在って兵を典り、心は公事を憂うことを専らにし、行父(季孫氏)祭遵の風がある。田十頃、穀五百斛、銭二十万を賜い、清忠倹約の節を明らかにする」 満寵は前後の増邑にて凡そ九千六百戸となり、子・孫の二人が亭侯に封じられた。正始三年(242)に薨じ、景侯と諡した。子の満偉が嗣いだ。満偉は品格と度量で名を知られ、官は衛尉に至った[3]
[1] 裴松之が考えるに、楊公は積徳の門で、身ずからも名臣であり、たとえ愆負(過失)があっても猶お祐け続けるのが妥当で、ましてや淫りに刑を濫用し、楚掠(拷問)を加えて良かろうか? もし考訊に応じるのが道理なら、荀ケ・孔融の二賢がどうして妄りに請属しようか? 満寵はこれによって有能とされたが、酷吏が用心(配慮)しただけである。後に善行があったとはいえ、どうして前の虐行が解かれよう?
[2] 王淩は満寵が耽酒が過ぎ、方面の任に居れないと上書した。帝が満寵を召そうとすると、給事中郭謀が 「満寵は汝南太守・豫州刺史となって二十余年、方岳[※]としての勲があり、淮南に鎮するに及んでは呉人が憚っております。もし上表の通りでなければ(虚を)闚(うかが)われましょう。朝廷に還らせ、方面の事を問うて推察なされませ」 帝はこれに従った。満寵が至ると進見し、飲酒は一石に至っても乱れなかった。帝はこれを慰労し、遣って還らせた。 (『魏晋世語』)

※ 一方面の統率者。四岳。

[3] 満偉は字を公衛といった。満偉の子の満長武は満寵の風があり、齢二十四で大将軍掾となった。高貴郷公の難では掾として閶闔門の掖門(脇門)を守った。司馬昭の弟の安陽亭侯司馬幹が入ろうとした。司馬幹の妃は満偉の妹である。満長武が司馬幹に謂うには 「この門は公に近く、しかも来ても入る者はおりません。東の掖門よりどうぞ」 司馬幹はかくてこれに従った。司馬昭が司馬幹に入るのが何故遅れたのか問うた為、司馬幹はその理由を言った。参軍王羨も亦た入れず、これを恨んだ。後に王羨はこのため王の左右の者から王に申し、満掾が門を断って内に人を入れず、弾劾すべきだと。
 (嘗て)寿春の役に際して満偉は司馬昭に従って許に至り、疾によって進めなかった。満長武も従っており、還って疾を見舞う事を求めた。事が定まってから帰ったが、これに由って(司馬昭に)内心で恨まれた。(以上の事もあって王羨が劾奏すると)満長武を収捕して杖罰によって拷問して死なせ、満偉を免官して庶人とした。時人はこれを冤罪だとした。満偉の弟の子の満奮は晋の元康中に尚書令・司隸校尉に至った。満寵・満偉・満長武・満奮は皆な身長八尺だった。 (『魏晋世語』)
―― 満奮の性は清平で、識検(識見)があった。 (荀綽『冀州記』)
―― 満奮の体量(心身)とも通雅で、満寵の風があった。 (『晋諸公賛』)
 

田豫

 田豫字國讓、漁陽雍奴人也。劉備之奔公孫瓚也、豫時年少、自託於備、備甚奇之。備為豫州刺史、豫以母老求歸、備涕泣與別、曰:「恨不與君共成大事也。」
 公孫瓚使豫守東州令、瓚將王門叛瓚、為袁紹將萬餘人來攻。衆懼欲降。豫登城謂門曰:「卿為公孫所厚而去、意有所不得已也;今還作賊、乃知卿亂人耳。夫挈瓶之智、守不假器、吾既受之矣;何不急攻乎?」門慚而退。瓚雖知豫有權謀而不能任也。瓚敗而鮮于輔為國人所推、行太守事、素善豫、以為長史。時雄傑並起、輔莫知所從。豫謂輔曰:「終能定天下者、必曹氏也。宜速歸命、無後禍期。」輔從其計、用受封寵。太祖召豫為丞相軍謀掾、除潁陰・朗陵令、遷弋陽太守、所在有治。

 田豫、字は国譲。漁陽雍奴の人である。劉備が公孫瓚に奔った時、田豫は時に年少だったが、自らを劉備に託し、劉備は甚だ奇とした。劉備が豫州刺史になると、田豫は母の老いを理由に帰郷を求め、劉備は涕泣して別れつつ 「君と共に大事を成せないのは恨(お)しい」。
 公孫瓚は田豫を東州令とした。公孫瓚の将の王門が公孫瓚に叛き、袁紹の為に万余人を率いて来攻した。人々は懼れて降ろうとした。田豫は城門に登って謂うには 「卿が公孫氏に厚遇されながらも去ったのは、意(おも)うに已むを得ぬ理由があったのだろうと。今、還って賊を為しているからには、卿は乱人でしかないと知った。挈瓶(汲水者)の智恵でも、守(か)りた器は仮さないものだ。私は既に受領している。どうして急(きび)しく攻めぬ?」 王門は慚じて退いた。公孫瓚は田豫に権謀がある事を知りはしたが任用できなかった。
公孫瓚が敗れ、鮮于輔が国人に推されて太守の事を代行すると、素より田豫と親善でもあって長史とした。時に雄傑が並び起き、鮮于輔は従うべき相手が分らなかった。田豫が鮮于輔に謂うには 「最後に天下を平定できるのは、きっと曹氏でしょう。速やかに帰命して後禍を期す事の無いようにするのが宜しかろう」 鮮于輔はその計りごとに従い、封と寵とを受けて用いられた。
曹操は田豫を召して丞相軍謀掾とし、潁陰令・朗陵令に叙し、弋陽太守に遷した。所在で治績があった。

 鄢陵侯彰征代郡、以豫為相。軍次易北、虜伏騎撃之、軍人擾亂、莫知所為。豫因地形、回車結圜陳、弓弩持滿於内、疑兵塞其隙。胡不能進、散去。追撃、大破之、遂前平代、皆豫策也。
 遷南陽太守。先時、郡人侯音反、衆數千人在山中為羣盜、大為郡患。前太守收其黨與五百餘人、表奏皆當死。豫悉見諸繋囚、慰諭、開其自新之路、一時破械遣之。諸囚皆叩頭、願自效、即相告語、羣賊一朝解散、郡内清靜。具以状上、太祖善之。

 鄢陵侯曹彰が代郡を征伐した時、田豫を国相とした。軍が易の北に次(やど)った時、虜の伏騎が撃ち、軍人は擾乱してどうしていいか分る者が莫かった。田豫は地形に因り、車を回(めぐ)らして圜陣を結び、弓弩兵は陣内で満を持し、疑兵でその隙を塞いだ。胡は進めずに散去した。追撃してこれを大破し、かくて前(すす)んで代を平らげたのは皆な田豫の策であった。
 南陽太守に遷った。先に郡人の侯音が反いた折、軍兵数千人が山中に在って群盗を為し、大いに郡の患いを為した。前太守はその党与五百余人を収捕し、表書を上奏して皆な死刑に当てていた。田豫は諸々の繋囚を悉く見て慰諭し、自新(更生)の路を開き、一時的に械(かせ)を破って遣(はな)った。諸囚は皆な叩頭して自ら効を願い、即座に相い語り告げ、群賊は一朝にして解散し、郡内は清静となった。具さに状況を上言し、曹操はこれを善しとした。

 盗賊の一部を官側に採り込み、これを利用して賊の本体を一網打尽にするというのは名吏の手法として『後漢書』などでも散見されますが、自壊を促すというのはなかなかお目にかかれません。すごい度胸だ。大局を見る目もあるし、軍略も統治能力も優秀で、もし劉備に従い続けていれば…との空想を禁じ得ません。

 文帝初、北狄彊盛、侵擾邊塞、乃使豫持節護烏丸校尉、牽招・解儁并護鮮卑。自高柳以東、濊貊以西、鮮卑數十部、比能・彌加・素利割地統御、各有分界;乃共要誓、皆不得以馬與中國市。豫以戎狄為一、非中國之利、乃先搆離之、使自為讐敵、互相攻伐。素利違盟、出馬千匹與官、為比能所攻、求救於豫。豫恐遂相兼并、為害滋深、宜救善討惡、示信衆狄。單將鋭卒、深入虜庭、胡人衆多、鈔軍前後、斷截歸路。豫乃進軍、去虜十餘里結屯營、多聚牛馬糞然之、從他道引去。胡見烟火不絶、以為尚在、去、行數十里乃知之。追豫到馬城、圍之十重、豫密嚴、使司馬建旌旗、鳴鼓吹、將歩騎從南門出、胡人皆屬目往赴之。豫將精鋭自北門出、鼓譟而起、兩頭倶發、出虜不意、虜衆散亂、皆棄弓馬歩走、追討二十餘里、僵尸蔽地。又烏丸王骨進桀黠不恭、豫因出塞案行、單將麾下百餘騎入進部。進逆拜、遂使左右斬進、顯其罪惡以令衆。衆皆怖慴不敢動、便以進弟代進。自是胡人破膽、威震沙漠。山賊高艾、衆數千人、寇鈔、為幽・冀害、豫誘使鮮卑素利部斬艾、傳首京都。封豫長樂亭侯。

 文帝の初期には北狄が彊盛で、辺塞を侵し擾しており、かくして田豫を持節・護烏丸校尉とし、牽招・解儁と併せて鮮卑を護(す)べさせた。高柳(大同市陽高)より以東、濊貊以西の鮮卑数十部を、軻比能・彌加・素利が地を割(わ)けて統御しており、各々には界域の分ちがあった。

 当時の鮮卑は大まかに東中西の三部構成で、彌加・素利は東部の大人で、軻比能は中部の有力者として歩度根と並立していました。ここでの記述などから、西部鮮卑は中部の統制下にあったとされます。

そして共に要誓し、皆な馬を中国と市(交易)する事ができなかった。田豫は戎狄が一つとなる事は中国の利ではないと考え、かくして先んじて離間を搆じ、自身らで讐敵同士となって互相に攻伐するようにさせた。素利が盟約に違え、馬千匹を出して官に与え、軻比能に攻められて田豫に救援を求めた。田豫はどちらかが兼併すれば害を為すこといよいよ深くなる事を恐れ、(中国にとっての)善を救って悪を討ち、衆狄に信を示すのが妥当だとした。単独で鋭卒を率い、深く虜庭に入ったが、胡人の軍兵は多く、軍の前後を鈔掠し、帰路が断截した。田豫はかくして軍を進め、虜を去ること十余里に屯営を結び、多くの牛馬の糞を聚めて燃やし、他道より退去した。胡は烟火が絶えないのを見て尚おも在ると思い、(田豫が)去ってから行くこと十数里にして知った。田豫を追って馬城に到り、これを十重に囲んだ。田豫は密かに厳装(軍装)し、司馬に旌旗を建てて鼓吹を鳴らし、歩騎を率いて南門より出撃させると、胡人は皆な嘱目して往赴した。田豫は精鋭を率いて北門より出撃し、鼓を譟がしくして起ち、両頭が倶に発して虜の意(おも)わざるに出、虜衆は乱れ散じた。皆な弓馬を棄てて歩走し、追討すること二十余里、僵尸(倒屍)は地を蔽った。
又た烏丸王骨進桀黠が恭(まつろ)わず、田豫はこのため出塞して案行し、単独で麾下の百余騎を率いて部落に進入した。骨進桀黠が逆(むか)えて拝礼すると、左右の者に骨進桀黠を斬らせ、その罪悪を顕わして人々に布令した。衆人は皆な怖慴して動こうともせず、そこで骨進桀黠の弟を骨進桀黠に代えた。これより胡人は胆を破り、威は沙漠を震わせた。
山賊の高艾が数千人を衆(あつ)めて寇鈔し、幽・冀州に害を為していた。田豫は誘って鮮卑の素利の部に高艾を斬らせ、首を京都に伝えた。田豫を長楽亭侯に封じた。

為校尉九年、其御夷狄、恆摧抑兼并、乖散彊猾。凡逋亡姦宄、為胡作計不利官者、豫皆構刺攪離、使凶邪之謀不遂、聚居之類不安。事業未究、而幽州刺史王雄支黨欲令雄領烏丸校尉、毀豫亂邊、為國生事。遂轉豫為汝南太守、加殄夷將軍。

校尉となって九年、その夷狄を御すのは恒に兼併を抑え摧(くだ)き、彊猾を乖散(離散)させるものだった。凡そ亡命した姦宄や、胡の為に計って官の不利を作す者を逋(とら)える場合、田豫は皆な刺(そし)りや攪乱を構じて離間させ、凶邪の謀りごとを遂げさせず、聚居の類いに安住させないものだった。

 田豫と鮮卑の攻防については鮮卑伝にあります。軻比能の実力を見誤った田豫が安易に素利に肩入れした為に、軻比能が反中国に舵を切ったとも見做せますが、当時の鮮卑は発展期にあったので、懐柔策メインで対処していても衝突は避けられなかったでしょう。田豫は太和二年(228)には“馬城の囲”と呼ばれる屈辱を受けていて、必ずしも常に鮮卑に優勢を保っていた訳ではありません。

事業が未だに究まらぬうちに、幽州刺史王雄の支党が王雄に烏丸校尉を兼領させようとし、田豫が辺境を乱して国に事態を生じさせると毀議した。かくて田豫を転じて汝南太守とし、殄夷将軍を加えた。

 王雄は琅邪王氏で、王戎の祖父。後に軻比能を暗殺し、鮮卑の再統合を阻止した事でそれなりに評価されています。田豫が更迭された経緯は不明ですが、場所が場所だけに利権争いではなく、鮮卑政策の考え方の違いである事は、王雄の着任後に幷州刺史畢軌が攻勢に転じている点や、後の軻比能暗殺から窺う事ができます。タイミング的に、軻比能と諸葛亮が手を組んだ事が決め手になったような気がしなくもありません。調略メインの田豫と討伐主義の王雄という事で、漢霊帝の時の張奐段熲の関係に通じるものがあります。王雄の子は王渾といいますが、晋の征呉の将帥の王渾とは別人です。

 太和末、公孫淵以遼東叛、帝欲征之而難其人、中領軍楊曁舉豫應選。乃使豫以本官督青州諸軍、假節、往討之。會呉賊遣使與淵相結、帝以賊衆多、又以渡海、詔豫使罷軍。豫度賊船垂還、歳晩風急、必畏漂浪、東隨無岸、當赴成山。成山無藏船之處、輒便循海、案行地勢、及諸山島、徼截險要、列兵屯守。自入成山、登漢武之觀。賊還、果遇惡風、船皆觸山沈沒、波蕩著岸、無所蒙竄、盡虜其衆。初、諸將皆笑於空地待賊、及賊破、競欲與謀、求入海鉤取浪船。豫懼窮虜死戰、皆不聽。初、豫以太守督青州、青州刺史程喜内懷不服、軍事之際、多相違錯。喜知帝寶愛明珠、乃密上:「豫雖有戰功而禁令ェ弛、所得器仗珠金甚多、放散皆不納官。」由是功不見列。

 太和の末に公孫淵が遼東を以て叛くと、明帝は征伐しようとしたものの適任者に難儀し、中領軍楊曁が選に応じて田豫を挙げた[1]。かくして田豫にを本官のまま青州の諸軍を督させ、節を仮して往討させた。

 この時点では公孫淵の離叛は確定事項ではなく、孫権と通誼した“らしい”というのがほぼ確定情報として流れているレベルです。実際、田豫を幽州ではなく青州方面に派遣し、しかも水軍を用意していない以上、遼東を討つ計画ではなく示威行動でしょう。

おりしも呉賊が遣使して公孫淵と相い結び、明帝は賊の軍兵が多く、又た渡海している事で、田豫に軍事を罷めさせた。田豫が度(はか)るに、賊船が還ろうとする頃には晩歳となって風は急しく、必ず漂浪を畏れて東のかたの無岸の地に随い、成山に赴くだろうと。成山には船を藏(かく)す処は無く、ただちに海を循って地勢および諸々の山島を案行し、険要を徼截(遮断)して兵を列べて屯守した。自ら成山に入り、漢武の観楼に登った。
賊は還路で果たして悪風に遇い、船は皆な山に接触して沈没し、波蕩が岸に著けたものの蒙竄(逃げ隠れ)する場所とて無く、悉くその軍兵を虜とした。初め諸将は皆な空き地に賊を待っている態を笑ったが、賊が破れるに及び、競って謀りごとに与しようとし、海に入って浪船を鉤取せんことを求めた。田豫は窮虜が死戦する事を懼れ、皆な聴許しなかった。
田豫が太守として青州を督した当初、青州刺史程喜は内心に不服を懐き、軍事の際には多く違錯した。程喜は明帝が明珠を宝として愛している事を知り、かくして密かに上言するには 「田豫は戦功があるとはいえ禁令はェ弛で、得た器仗・珠・金は甚だ多く、放散して皆な官に納めておりません」 これによって功は列記されなかった。

 杜畿伝によれば、程喜には “讒言マニア要注意”のレッテルが貼られていたようです。幽州刺史杜恕もこれで罷免されていますが、寧ろ杜恕の手法に問題があったようにしか見えませんが。

 後孫權號十萬衆攻新城、征東將軍滿寵欲率諸軍救之。豫曰:「賊悉衆大舉、非徒投射小利、欲質新城以致大軍耳。宜聽使攻城、挫其鋭氣、不當與爭鋒也。城不可拔、衆必罷怠;罷怠然後撃之、可大克也。若賊見計、必不攻城、勢將自走。若便進兵、適入其計。又大軍相向、當使難知、不當使自畫也。」豫輒上状、天子從之。會賊遁走。後呉復來寇、豫往拒之、賊即退。諸軍夜驚、云:「賊復來!」豫臥不起、令衆「敢動者斬」。有頃、竟無賊。

 後(234)に孫権が十万と号する軍兵で合肥新城を攻めた時、征東将軍満寵は諸軍を率いて救おうとした。
田豫 「賊は悉くの軍兵を大いに挙っており、徒らに小利の為に投射したのではなく、合肥新城を質として大軍を誘致しようとしているのです。攻城させる事を聴(ゆる)してその鋭気を挫くのが宜しく、鋭鋒を争ってはなりません。城が抜けねば軍兵はきっと罷怠(疲怠)しましょう。罷怠した後に撃てば、大いに克てます。もし賊が計りごとを見れば、必ず城を攻めず、勢いとして自ずと退走しましょう。もしただちに兵を進めれば、その計りごとに入るというものです。又た大軍が向う場合は知り難くさせるべきで、自ら計画させてはなりません」
田豫はただちに実状を上言し、天子はこれに従った。ちょうど賊は遁走した。後に呉が復た来寇すると、田豫は往ってこれを拒ぎ、賊は即座に退いた。諸軍が夜に驚倒して云うには 「賊が復た来た!」。 田豫は臥して起きず、軍兵に命じるには 「動いた者は斬る」 と。しばらくしても、竟(つい)に賊は無かった。

 景初末、摎W三百、并前五百戸。正始初、遷使持節護匈奴中郎將、加振威將軍、領幷州刺史。外胡聞其威名、相率來獻。州界寧肅、百姓懷之。徴為衞尉。屡乞遜位、太傅司馬宣王以為豫克壯、書喩未聽。豫書答曰:「年過七十而以居位、譬猶鐘鳴漏盡而夜行不休、是罪人也。」遂固稱疾篤。拜太中大夫、食卿祿。年八十二薨。子彭祖嗣。

 景初の末に食邑三百を増し、前と併せて五百戸となった。正始(240〜49)の初めに使持節・護匈奴中郎将に遷り、振威将軍を加えられ、幷州刺史を兼領した。外地の胡はその威名を聞き、相い率いて来献した。州界は粛として寧んじ、百姓は懐いた。徴されて衛尉となった。しばしば位を遜(ゆず)る事を乞うたが、太傅司馬懿は田豫が克壮(強壮)であると思い、書簡で喩して聴許しなかった。田豫は書簡で答えるには 「齢は七十を過ぎても位に居り、譬えるなら猶お鐘鳴漏尽[※]して夜行を休まぬようなもので、これでは罪人であります」 かくて固く疾が篤い事を称し、太中大夫(秩千石)に拝されて卿の禄(秩中二千石)を食んだ。齢八十二で薨じ、子の田彭祖が嗣いだ[2]

※ 時報の鐘が鳴り、刻漏(水時計)の水が尽きる事。夜更けの事。

 豫清儉約素、賞賜皆散之將士。毎胡・狄私遺、悉簿藏官、不入家;家常貧匱。雖殊類、咸高豫節。嘉平六年、下詔褒揚、賜其家錢穀。語在徐邈傳。

 田豫は清倹かつ約素(質素)で、賞賜は皆な将士に散じた。胡・狄が私(ひそ)かに遺(おく)る毎に、悉く簿記して官に藏(おさ)めて家には入れず、家は常に貧匱(貧乏)していた。類を異にするとはいえ、(胡・狄は)咸な田豫の節を高しとしていた[3]。嘉平六年(254)、詔を下して褒揚し、その家に銭穀を賜った。物語は徐邈伝に在る
[1] 裴松之が調べた処、楊曁は字を休先といい、滎陽の人である。事績は劉曄伝に見える。楊曁の子の楊肇は晋の荊州刺史である(この時に歩闡の救援に失敗しています)。『山濤啓事』では楊肇に才能があると称えている。楊肇の子の楊潭の字は道元、次子の楊歆の字は公嗣、楊潭の子の楊ケの字は長文、次子の楊経の字は仲武。皆な『潘岳集』に見える。
[2] 田豫は官を罷めると魏県に居した。折しも汝南では健歩(健脚者)を遣って征北将軍に詣らせたが、田豫の宿恩に感謝する者が通過する際に表敬した。田豫は雞を殺して黍を炊き、陌頭(道端)まで送った処で謂うには 「老い疲れ、汝を来過させるだけなのが心苦しい。益する事ができぬのはどうしたものか?」 健歩者はその貧羸を愍れみ、流涕しつつ去り、還ると以前の吏民にこの事を説いた。汝南では帛数千匹を資具し、人を遣って田豫に贈らせたが、田豫は一つとして受けなかった。
病んで亡くなる折にその妻子を戒めるには 「私を葬るのは必ず西門豹祠の側にするのだ」 妻がこれに難色して言うには 「西門豹は古えの神人です。どうしてその側に葬れましょう?」 田豫 「西門豹が履行したのは私と敵等(匹敵)するだけだ。死んで霊があれば、きっと私を善しとしよう」 妻子はこれに従った。汝南ではその死を聞くと悲しみ、その像を画き、又た(魏県に)就いて碑銘を立てた。 (『魏略』)
[3] 鮮卑の素利らはしばしば客として来て通見し、多く牛馬を田豫へ贈ったが、田豫は官に転送した。胡は前に田豫に与えた物は露顕するもので、金を持参するに越した事はないと考えた。かくして密かに金三十斤を懐にし、田豫に謂うには 「左右の者を斥けて頂きたい。私には申し上げたい事があります」 田豫が従うと胡は跪き 「私は公が貧しいのを拝見し、そのため前後して公に牛馬を贈りましたが、公はそのたび官に送られました。今、密かにこれを公に上呈致します。家資として下さい」 田豫は袖を張って受け、その厚意に答えた。胡が去った後、皆な悉く外に付し、具さに状況を奏聞した。詔褒があり 「昔、魏絳は懐を開いて戎の賂を納め、今、卿は袖を挙げて狄の金を受けた。朕は甚だ嘉するものである」 かくして絹五百匹を賜った。田豫は賜物を得ると、分けてその半ばを小府に藏め、後に胡が復た来ると、(残る)半ばを与えた。 (『魏略』)
 

牽招

 牽招字子經、安平觀津人也。年十餘歳、詣同縣樂隱受學。後隱為車騎將軍何苗長史、招隨卒業。値京都亂、苗・隱見害、招倶與隱門生史路等觸蹈鋒刃、共殯斂隱屍、送喪還歸。道遇寇鈔、路等皆悉散走。賊欲斫棺取釘、招垂涙請赦。賊義之、乃釋而去。由此顯名。
 冀州牧袁紹辟為督軍從事、兼領烏丸突騎。紹舍人犯令、招先斬乃白、紹奇其意而不見罪也。紹卒、又事紹子尚。建安九年、太祖圍鄴。尚遣招至上黨、督致軍糧。未還、尚破走、到中山。時尚外兄高幹為幷州刺史、招以幷州左有恆山之險、右有大河之固、帶甲五萬、北阻彊胡、勸幹迎尚、并力觀變。幹既不能、而陰欲害招。招聞之、闕s而去、道隔不得追尚、遂東詣太祖。太祖領冀州、辟為從事。

 牽招、字は子経。安平観津の人である。齢十余歳にして同県の楽隠に詣って学問を受けた。後に楽隠が車騎将軍何苗の長史となり、牽招は随行して学業を卒(お)えた。京都で乱に遭遇し、何苗・楽隠は害され、牽招は楽隠の門生の史路らと倶に鋒刃を触踏し、共に楽隠の屍を殯斂し、喪を送りつつ(冀州に)還帰した。道中で寇鈔に遇い、史路らは皆な悉く散じ走った。賊が棺を斫って釘を取ろうとした処、牽招は垂涙して容赦を請うた。賊はこれを義とし、かくして釈(ゆる)して去った。これによって名を顕した。
 冀州牧袁紹が辟して督軍従事とし、烏丸突騎を兼領した。袁紹の舍人が令を犯した時、牽招は先んじて斬ってから白(もう)し、袁紹はその意思を奇として罪とはしなかった。袁紹が卒し、又た袁紹の子の袁尚に事えた。建安九年(204)、曹操が鄴を囲んだ。袁尚は牽招を遣って上党に至らせ、軍糧の送致を督させた。帰還する前に袁尚が破れ走って中山に到った。時に袁尚の外兄の高幹は幷州刺史であり、牽招は幷州の左(東)には恒山の険があり、右には大河の固めがあり、甲兵五万を帯びて北の彊胡を阻(たの)んでいる事から、高幹に袁尚を迎えて力を併せて変事を観望する事を勧めた。高幹はそうしなかった上、陰かに牽招を害しようとした。牽招はこれを聞くと間行して去ったが、道が隔たって袁尚を追う事ができず、かくて東して曹操に詣った。曹操は冀州を所領すると、辟して従事とした。

 太祖將討袁譚、而柳城烏丸欲出騎助譚。太祖以招嘗領烏丸、遣詣柳城。到、値峭王嚴、以五千騎當遣詣譚。又遼東太守公孫康自稱平州牧、遣使韓忠齎單于印綬往假峭王。峭王大會羣長、忠亦在坐。峭王問招:「昔袁公言受天子之命、假我為單于;今曹公復言當更白天子、假我真單于;遼東復持印綬來。如此、誰當為正?」招答曰:「昔袁公承制、得有所拜假;中間違錯天子命、曹公代之、言當白天子、更假真單于、是也。遼東下郡、何得擅稱拜假也?」忠曰:「我遼東在滄海之東、擁兵百萬、又有扶餘・濊貊之用;當今之勢、彊者為右、曹操獨何得為是也?」招呵忠曰:「曹公允恭明哲、翼戴天子、伐叛柔服、寧靜四海、汝君臣頑嚚、今恃險遠、背違王命、欲擅拜假、侮弄神器、方當屠戮、何敢慢易咎毀大人?」便捉忠頭頓築、拔刀欲斬之。峭王驚怖、徒跣抱招、以救請忠、左右失色。招乃還坐、為峭王等説成敗之效、禍福所歸、皆下席跪伏、敬受敕教、便辭遼東之使、罷所嚴騎。

 曹操が袁譚を討とうとした時、柳城の烏丸が騎兵を出して袁譚を助けようとした。曹操は牽招が嘗て烏丸を領(ひき)いていた事から、遣って柳城に詣らせた。到るや峭王が厳装(戎装)し、五千騎を遣って袁譚に詣らせようとしており、又た遼東太守公孫康が自ら平州牧を称し、使者の韓忠を遣って単于の印綬を齎し、峭王に仮そうとしているのに遭遇した。峭王は群長と大いに会同し、韓忠も亦た坐に在った。
峭王が牽招に問うには、「昔、袁公は天子の命を受けていると言い、(印綬を)仮して私を単于とした。今、曹公も復た更めて天子に建白し、私に真単于(の印綬)を仮すと言う。遼東も復た印綬を以て来た。この通りで誰がいったい正しいのだ?」
牽招が答えるには 「昔、袁公は承制し、拝仮する権限を得ていました。(今に至るまでの)中間で天子の命に違錯し、(今は)曹公がこれに代り、天子に建白して更めて真単于に仮すと言っているのが正しいのです。遼東は下郡にすぎず、どうして勝手に拝仮を称す事ができましょう?」
韓忠 「我が遼東は滄海の東に在り、兵百万を擁し、又た扶餘・濊貊の用(はたら)きがあり、現今の勢いは彊者の右を為すもの。曹操独りをどうして是とできましょう?」
牽招は韓忠を呵責し 「曹公は允恭明哲であり、天子を翼戴し、叛者を伐ち服者を柔(なつ)け、四海を寧静させた。汝ら君臣は頑嚚(頑冥固陋)で、今も険阻遼遠を恃み、王命に背違し、勝手に拝仮して神器を侮弄している。まさに屠戮されるべきであり、どうして敢えて大人を慢易咎毀(軽侮誹謗)するのか?」
ただちに韓忠の頭を捉えて頓築(叩頭させ)し、抜刀して斬ろうとした。峭王は驚怖し、徒跣して牽招を抱えて韓忠の為に救請し、左右の者は色を失った。牽招はかくして坐に還り、峭王らに成敗の効、禍福の帰す所を説くと、皆な席を下りて跪伏し、敬服して教書を受け、ただちに遼東の使者に辞退し、騎兵の厳装を罷めた。

 この時点で烏桓が袁譚を支持したとしても大勢は変らなかったでしょうが、それより牽招の外交官然とした応対が素晴らしい。袁紹が承制したこと自体は批判せず、途中で献帝に敵対してしまった事が間違いだと声明しています。

 太祖滅譚於南皮、署招軍謀掾、從討烏丸。至柳城、拜護烏丸校尉。還鄴、遼東送袁尚首、縣在馬市、招覩之悲感、設祭頭下。太祖義之、舉為茂才。從平漢中、太祖還、留招為中護軍。事罷、還鄴、拜平虜校尉、將兵督青徐州郡諸軍事、撃東萊賊、斬其渠率、東土寧靜。
 文帝踐阼、拜招使持節護鮮卑校尉、屯昌平。是時、邊民流散山澤、又亡叛在鮮卑中者、處有千數。招廣布恩信、招誘降附。建義中郎將公孫集等、率將部曲、咸各歸命;使還本郡。又懷來鮮卑素利・彌加等十餘萬落、皆令款塞。

 曹操は南皮に袁譚を亡ぼすと牽招を軍謀掾に署(つ)けた。烏丸討伐に従い、柳城に至ると護烏丸校尉に拝された。鄴に還り、遼東が袁尚の首を送ると馬市に懸けられたが、牽招はこれを観ると悲しみに感(うご)かされ、頭の下で祭祀を設けた。曹操はこれを義とし、挙げて茂才とした。

 賊に義人と謂わせ、曹操に義人と謂わせ、陳寿は牽招の行動理念を“義”だと定義しています。この時の曹操の内心がどうだったかは知りませんが、曹操だって自分の政治演出の為に袁紹に哭して見せているんだから牽招を罰する事は出来ませんわな。それならいっそ恩を売っておこうと茂才に挙げるあたりが曹操の政治センスの光っている点です。牽招を義と謂わず奇にとどめた袁紹には知人の才がなかったね…。

漢中平定に従い、曹操は還る際に牽招を留めて中護軍とした。事を罷めると鄴に還り、平虜校尉に拝され、兵を率いて督青徐州郡諸軍事として東萊の賊を撃ち、その渠率を斬り、東土を寧静にした。

 都督制が定まっていない曹操の時代のことなので、督青徐州“郡”諸軍事という聞き慣れない呼称が出てきています。これ、牽招の官位からして督青徐州諸軍事ではなく、青州と徐州の数郡の督軍事かと想像します。

 文帝が踐阼すると牽招は拝されて使持節・護鮮卑校尉とされ、昌平(北京市)に屯した。この時、辺民は山沢に流散し、又たは亡命叛抗して鮮卑の中に在り、そうした場処は千を単位に数えた。牽招は広く恩信を布き、降附する者を招誘した。建義中郎将公孫集らは部曲を率将して咸な各々命に帰し、本郡に還らせた。又た鮮卑の素利・彌加らの十余万落が懐き来たり、皆な款塞(長城を叩いての降伏)させた。

 大軍欲征呉、召招還、至、値軍罷、拜右中郎將、出為雁門太守。郡在邊陲、雖有候望之備、而寇鈔不斷。招既教民戰陳、又表復烏丸五百餘家租調、使備鞍馬、遠遣偵候。虜毎犯塞、勒兵逆撃、來輒摧破、於是吏民膽氣日鋭、荒野無虞。又搆阯」散、使虜更相猜疑。鮮卑大人歩度根・泄歸泥等與軻比能為隙、將部落三萬餘家詣郡附塞。敕令還撃比能、殺比能弟苴羅侯、及叛烏丸歸義侯王同・王寄等、大結怨讎。是以招自出、率將歸泥等討比能於雲中故郡、大破之。招通河西鮮卑附頭等十餘萬家、繕治陘北故上館城、置屯戍以鎮内外、夷虜大小、莫不歸心、諸叛亡雖親戚不敢藏匿、咸悉收送。於是野居晏閉、寇賊靜息。招乃簡選有才識者、詣太學受業、還相授教、數年中庠序大興。郡所治廣武、井水鹹苦、民皆擔輦遠汲流水、往返七里。招準望地勢、因山陵之宜、鑿原開渠、注水城内、民ョ其益。

 大軍で呉を征伐しようとした時、牽招を召し還したが、至ると軍事を罷める処に遭遇し、右中郎将に拝され、転出して雁門太守となった。郡は辺陲(辺境)に在り、候望(斥候と哨戒)の備えがあるとはいえ、寇鈔が断えなかった。牽招は民に戦陣の事を教え、又た上表して烏丸五百余家の租と調とを復(ほく/免除)し、鞍置いた馬を備えさせ、遠くに偵候に遣った。虜が犯塞する毎に兵を勒(ひき)いて逆(むか)え撃ち、来襲のたびに摧破し、こうして吏民の胆気は日々鋭く、荒野に虞れは無くなった。又た間隙を搆じて離散させ、虜に更めて相い猜疑させた。鮮卑大人の歩度根・泄帰泥らは軻比能と隙を為し、部落三万余家を率いて郡に詣り、塞に附した。命じて還って軻比能を撃たせ、軻比能の弟の苴羅侯および叛いた烏丸の帰義侯王同・王寄らを殺し、大いに怨讐を結ばせた。

 これは護鮮卑校尉の引き継ぎの際に、田豫と協議して幽州・幷州の北辺諸郡が共有するよう定めた計略でしょう。これは閻柔の方針とは相容れないものなので、この頃には閻柔は度遼将軍から異動になっていたか、さもなくば死んでいたかと思われます。

こうしてから牽招は自ら出撃し、将たる泄帰泥らを率いて軻比能を旧の雲中郡で討ち、大破した。牽招は河西鮮卑の附頭ら十余万家と通じ、陘北の旧の上館城を繕治し、屯戍を置く事で内外を鎮め、夷虜は大小となく帰心せぬ者は莫く、諸々の叛亡は親戚であっても藏匿しようとせず、咸な悉く収捕して送った。こうして野の居宅も安閑として閉じ、寇賊は息を静(ひそ)めた。牽招はかくして才識あるものを簡抜・選抜し、太学に詣って学業を受けさせ、還って相い授教させ、数年のうちに庠序(学問所)が大いに興った。郡を治める広武(忻州市代県)は、井水の鹹(しおから)さに苦しみ、民は皆な輦を担いで遠くに流水を汲み、七里を往返した。牽招は地勢を準望し(準は水平計測)、山陵の宜しきに因って原を鑿って渠(水路)を開き、城内に水を注いで民はその益に頼った。

 明帝即位、賜爵關内侯。太和二年、護烏丸校尉田豫出塞、為軻比能所圍於故馬邑城、移招求救。招即整勒兵馬、欲赴救豫。幷州以常憲禁招、招以為節將見圍、不可拘於吏議、自表輒行。又並馳布羽檄、稱陳形勢、云當西北掩取虜家、然後東行、會誅虜身。檄到、豫軍踴躍。又遺一通於虜蹊要、虜即恐怖、種類離散。軍到故平城、便皆潰走。比能復大合騎來、到故平州塞北。招潛行撲討、大斬首級。招以蜀虜諸葛亮數出、而比能狡猾、能相交通、表為防備、議者以為縣遠、未之信也。會亮時在祁山、果遣使連結比能。比能至故北地石城、與相首尾。帝乃詔招、使從便宜討之。時比能已還漠南、招與刺史畢軌議曰:「胡虜遷徙無常。若勞師遠追、則遲速不相及。若欲潛襲、則山溪艱險、資糧轉運、難以密辦。可使守新興・雁門二牙門、出屯陘北、外以鎮撫、内令兵田、儲畜資糧、秋冬馬肥、州郡兵合、乘釁征討、計必全克。」未及施行、會病卒。招在郡十二年、威風遠振。其治邊之稱、次于田豫、百姓追思之。而漁陽傅容在雁門有名績、繼招後、在遼東又有事功云。

 明帝が即位すると爵関内侯を賜った。太和二年(228)、護烏丸校尉田豫が出塞し、軻比能に故の馬邑城(朔州市朔城区)で囲まれ、牽招に移書して救援を求めた。牽招は即座に兵馬を整え勒いて田豫の救援に赴こうとした。幷州では常憲(常法)によって牽招を禁じたが、牽招は持節の将が囲まれているからには吏議では拘束できないとし、自ら上表して輒(ただち)に行った。又た同時に(田豫に)羽檄(緊急の檄文)を馳せて布告し、形勢を陳べ、云うには “西北して虜家を掩取し、然る後に東行し、会同して虜身を誅す”と。檄が到り、田豫の軍は踴躍した。又た一通を虜の蹊(みち)の要衝に遣り、虜は恐怖して鮮卑種の類は離散した。軍が故の平城(大同市区)に到ると、たちまち皆な潰走した。軻比能は復た大いに騎兵を糾合して来襲し、故平州の塞北に到った。牽招は潜行して撲討し、大いに首級を斬った。
 牽招は蜀虜の諸葛亮がしばしば出征し、しかも軻比能は狡猾であって能く相い交通している為、防備を為すよう上表した。議者は(両者が)懸遠であると考えて未だに信じようとしなかった。おりしも諸葛亮は祁山に在り、果たして使者を遣わして軻比能と連結した。軻比能は故の北地郡の石城に至って相い首尾を為した。
 諸葛亮伝を補う『漢晋春秋』によれば、太和5五年(231)の事です。諸葛亮伝本文で言及されていないのは已む無しとして、明帝紀・鮮卑伝でもスルーされているので、実害は軽微だったと思われます。

「三月、諸葛亮が天水に寇した。夏四月、鮮卑の軻比能がその種族人や丁零大人を率いて幽州に名馬を貢いだ。護匈奴中郎将を復置した。秋七月、諸葛亮撃退の論功行賞をした」 (明帝紀より)

 護匈奴中郎将は、下記の陘北の屯兵を統制するために復置したものと思われます。
帝はかくして牽招に詔し、便宜によってこれを討たせた。時に軻比能は已に漠南に還っており、牽招は幷州刺史畢軌と議すには 「胡虜は遷徙して常留しない。もし師を労して遠くに追えば、遅速からして及ぶまい。もし潜襲しようにも、山溪の艱険によって、資糧の転運を密かに辦(つとめ)るのは困難だ。新興・雁門を守る二牙門を陘北に出屯させ、外に向っては鎮撫し、内に対しては兵に田事を命じ、資糧を儲畜し、馬が肥える秋冬に州郡と兵を合わせ、釁(虚)に乗じて征討するのだ。計るに必らず完全に克つだろう」。
未だ施行に及ばずしてたまたま病んで卒した。牽招は郡に在ること十二年、威風は遠くにも振った。その辺境統治の称(ほまれ)は田豫に次ぎ、百姓はこれを追思した。そして漁陽の傅容が雁門に在って治績の名声があり、牽招の後を継ぎ、遼東に在っても又た事に功があったと云う。

 招子嘉嗣。次子弘、亦猛毅有招風、以隴西太守隨ケ艾伐蜀有功、咸熙中為振威護軍。嘉與晉司徒李胤同母、早卒。

 牽招の子の牽嘉が嗣いだ。次子の牽弘も亦た猛毅にして牽招の風があり、隴西太守としてケ艾の伐蜀に随って功があり、咸熙中に振威護軍となった。牽嘉と晋の司徒李胤とは同母で、早くに卒した[1]
[1] 『晋書』を調べた処、牽弘は後に揚州・涼州刺史となり、果烈によって辺境に死事した。
牽嘉の子の牽秀は、字を成叔といった。
―― 牽秀には雋才があり、性は豪侠で気概があり、弱冠にして美名を得た。太康中(280〜89)に衛瓘・崔洪・石崇らと提攜し、新安令・博士として司空従事中郎となった。帝舅の黄門侍郎王トとは平素より相い軽侮していた。王トは司隸校尉荀トに諷し、都官に、牽秀が夜間に道中で高平国の守士の田興の妻を車に載せたと誣奏させた。牽秀は即座に上表して誣陥を被った由を訴え、王トの穢行を論じ、文辞は甚だ厳しかった。時の朝臣の多くが証明したが、牽秀の名誉もこれによって損なわれた。後に張華が請うて長史とし、ようよう遷って尚書に至った。河間王は牽秀を平北将軍とし、節を仮した。馮翊に在る時に害に遇った。世人はその辞賦を愛玩し、その才幹を惜しんだ。 (荀綽『冀州記』)

 当時の人間関係がとても判り易く述べられています。王ト荀トらは外戚派で、衛瓘・崔洪・石崇張華らはその反対派。親賈充か反賈充かという朋党の中に牽秀もいた事になります。というか、当時は無所属は許されない風潮でした。尤も、武帝の死後は両者の融和が図られたようで、牽秀も賈充の甥の賈謐の文学サロンに名を連ねたりもしています。あと、陸機の軍事に非協力的で、敗戦した陸機を処刑するために誣告したとかしなかったとか。

 

郭淮

 郭淮字伯濟、太原陽曲人也。建安中舉孝廉、除平原府丞。文帝為五官將、召淮署為門下賊曹、轉為丞相兵曹議令史、從征漢中。太祖還、留征西將軍夏侯淵拒劉備、以淮為淵司馬。淵與備戰、淮時有疾不出。淵遇害、軍中擾擾、淮收散卒、推盪寇將軍張郃為軍主、諸營乃定。其明日、備欲渡漢水來攻。諸將議衆寡不敵、備便乘勝、欲依水為陳以拒之。淮曰:「此示弱而不足挫敵、非算也。不如遠水為陳、引而致之、半濟而後撃、備可破也。」既陳、備疑不渡、淮遂堅守、示無還心。以状聞、太祖善之、假郃節、復以淮為司馬。文帝即王位、賜爵關内侯、轉為鎮西長史。又行征羌護軍、護左將軍張郃・冠軍將軍楊秋討山賊鄭甘・盧水叛胡、皆破平之。關中始定、民得安業。

 郭淮、字は伯済。太原陽曲の人である[1]。建安中に孝廉に挙げられ、平原府丞に叙された。曹丕は五官将になると、郭淮を召して門下賊曹に署(つ)け、転じて丞相兵曹議令史となり、漢中征伐に従った。曹操は還る時、征西将軍夏侯淵を留めて劉備を拒がせ、郭淮を夏侯淵の司馬とした。夏侯淵が劉備と戦った時、郭淮は疾によって出戦していなかった。夏侯淵が害に遇い、軍中が擾擾とした時、郭淮は散卒を収容し、盪寇将軍張郃を推して軍主とし、諸営はかくして定まった。その明日、劉備が漢水を渡って来攻しようとした。諸将が議すに 「衆寡敵せず、劉備は勝ちに乗じているので、水に依って布陣して拒ごう」 と。
郭淮 「ここで弱きを示しても敵を挫くには足りず、算(はかりごと)とはできません。水より離れて布陣し、引き寄せて誘致し、半ばを済(わた)った後に撃てば、劉備を破れましょう」
布陣した後、劉備は懐疑して渡らず、郭淮はかくて堅守して還る心を示さなかった。状況を奏聞すると曹操はこれを善しとし、張郃に節を仮し、復た郭淮を司馬とした。
 曹丕が王位に即くと、爵関内侯を賜り、転じて(曹真の)鎮西長史となった。又た征羌護軍を行(か)ね、左将軍張郃・冠軍将軍楊秋が山賊鄭甘・盧水の叛胡を討つのを監護し、皆な破って平らげた。関中は始めて定まり、民は生業に安んじる事ができた。

 黄初元年、奉使賀文帝踐阼、而道路得疾、故計遠近為稽留。及羣臣歡會、帝正色責之曰:「昔禹會諸侯於塗山、防風後至、便行大戮。今溥天同慶而卿最留遲、何也?」淮對曰: 「臣聞五帝先教導民以コ、夏后政衰、始用刑辟。今臣遭唐虞之世、是以自知免於防風之誅也。」帝ス之、擢領雍州刺史、封射陽亭侯、五年為真。安定羌大帥辟蹏反、討破降之。毎羌・胡來降、淮輒先使人推問其親理、男女多少、年歳長幼;及見、一二知其款曲、訊問周至、咸稱神明。

 黄初元年(220)、文帝の踐阼を慶賀する奉使となったが、道路で疾を得、そのため遠近を計って稽留(滞留)した。群臣の歓会に及んでおり、帝が色を正して責めるには 「昔、禹が諸侯を塗山に会した時、防風氏が後より至り、ただちに大戮を行なった。今、溥天(普天)が慶賀を同じくし、卿は最も留遅した。何故だ?」
郭淮が対えるには 「臣は五帝が民を徳にて先教する事を先にし、夏后は政事が衰えて始めて刑辟を用いたと聞いております。今、臣は唐虞(堯舜)の世に遭い、このために防風氏の誅殺を免れると知ったのです」
帝は悦び、抜擢して領雍州刺史とし、射陽亭侯に封じ、五年して真刺史とした。安定羌の大帥の辟蹏が反き、討ち破って降した。羌・胡が来降する毎に、郭淮はそのたび先んじて人にその親属、男女の多少、年歳の長幼を推問させ、見(まみ)えるに及び、一・二の事から款曲(諸々の事情)を知った。訊問は周(あまね)きに至り、咸な神明を称えた。

 太和二年、蜀相諸葛亮出祁山、遣將軍馬謖至街亭、高詳屯列柳城。張郃撃謖、淮攻詳營、皆破之。又破隴西名羌唐蹏於枹罕、加建威將軍。五年、蜀出鹵城。是時、隴右無穀、議欲關中大運、淮以威恩撫循羌・胡、家使出穀、平其輸調、軍食用足、轉揚武將軍。青龍二年、諸葛亮出斜谷、並田于蘭坑。是時司馬宣王屯渭南;淮策亮必爭北原、宜先據之、議者多謂不然。淮曰:「若亮跨渭登原、連兵北山、隔絶隴道、搖蕩民・夷、此非國之利也。」宣王善之、淮遂屯北原。塹壘未成、蜀兵大至、淮逆撃之。後數日、亮盛兵西行、諸將皆謂欲攻西圍、淮獨以為此見形於西、欲使官兵重應之、必攻陽遂耳。其夜果攻陽遂、有備不得上。

 太和二年(228)、蜀相諸葛亮が祁山に出戦し、将軍馬謖を遣って街亭に至らせ、高詳には列柳城(宝鶏市鳳県)に駐屯させた。張郃は馬謖を撃ち、郭淮は高詳の営を攻め、皆な破った。又た隴西の名羌の唐蹏を枹罕(臨夏市)で破り、建威将軍を加えられた。五年、蜀が鹵城に出戦した。この時、隴右には穀糧が無く、議して関中から大いに運ばせようとしたが、郭淮は威恩によって羌・胡を撫循し、家々から穀糧を出させ、その輸送の調(徭役)を平理し、そのため軍食は用いるに足り、揚武将軍に転じた。

 “恩威”と修飾してはいますが、運糧の手間をケチって、羌・胡になけなしの蓄えを供出させた訳です。防衛戦に際して現地領民から徴発したというのは、この地方に対しては満足な統治が施されていない事の一証で、蜀漢がしきりに調略を仕掛ける一因でもあります。魏にとっての隴右は皖や柤中と同じ扱いなのでしょう。

青龍二年(234)、諸葛亮が斜谷に出戦して一斉に蘭坑で屯田した。この時、司馬懿は渭南に屯留していた。郭淮が計策するに、諸葛亮は必ず北原を争うから、先んじてこれに拠るのが妥当だとしたが、議者の多くは然らずと謂った。
郭淮 「もし諸葛亮が渭河に跨って北原に登り、北山に兵を連ねて隴道を隔絶したら、民・夷が揺蕩(動揺)し、これは国の利とはならない」
司馬懿はこれを善しとし、郭淮はかくて北原に駐屯した。塹塁が未だ完成せぬうちに蜀兵が大いに至り、郭淮は逆撃した。数日の後、諸葛亮は盛んに兵を西行させ、諸将は皆な西囲を攻めようとしているのだと謂ったが、郭淮は独り “西する形勢を見せるだけで、官兵を重ねて応じさせようとするもので、必ず陽遂を攻めるのだ” と唱えた。その夜、果たして陽遂を攻めたが、備えがあって上れなかった。

 正始元年、蜀將姜維出隴西。淮遂進軍、追至彊中、維退、遂討羌迷當等、按撫柔氐三千餘落、拔徙以實關中。遷左將軍。涼州休屠胡梁元碧等、率種落二千餘家附雍州。淮奏請使居安定之高平、為民保障、其後因置〔西州〕都尉。轉拜前將軍、領州如故。

 正始元年(240)、蜀将の姜維が隴西に出戦した。郭淮はかくて軍を進め、追って彊中に至り、姜維は退き、かくて羌の迷当らを討ち、柔氐(従順な羌)三千余落を按撫し、抜徙して関中を充実させた。

 蜀では大将軍蔣琬と司馬姜維のコンビの時代で、明帝の死に乗じた侵攻です。蔣琬伝・姜維伝とも、特には言及されていない戦いですが、隴右の宗主権を巡っての攻防でしょう。

左将軍に遷った。涼州の休屠胡の梁元碧らが、種族の帳落二千余家を率いて雍州に帰附した。郭淮は安定の高平に居らせ、民の保障(保塞)とするよう奏請し、その後に氐の為に西州都尉が置かれた。転じて前将軍を拝し、領州は以前の通りだった。

 五年、夏侯玄伐蜀、淮督諸軍為前鋒。淮度勢不利、輒拔軍出、故不大敗。還假淮節。八年、隴西・南安・金城・西平諸羌餓何・燒戈・伐同・蛾遮塞等相結叛亂、攻圍城邑、南招蜀兵、涼州名胡治無戴復叛應之。討蜀護軍夏侯霸督諸軍屯為翅。淮軍始到狄道、議者僉謂宜先討定枹罕、内平惡羌、外折賊謀。淮策維必來攻霸、遂入渢中、轉南迎霸。維果攻為翅、會淮軍適至、維遁退。進討叛羌、斬餓何・燒戈、降服者萬餘落。九年、遮塞等屯河關・白土故城、據河拒軍。淮見形上流、密於下渡兵據白土城、撃、大破之。治無戴圍武威、家屬留在西海。淮進軍趨西海、欲掩取其累重、會無戴折還、與戰於龍夷之北、破走之。令居惡虜在石頭山之西、當大道止、斷絶王使。淮還過討、大破之。姜維出石營、從彊川、乃西迎治無戴、留陰平太守廖化於成重山築城、斂破羌保質。淮欲分兵取之。諸將以維衆西接彊胡、化以據險、分軍兩持、兵勢轉弱、進不制維、退不拔化、非計也、不如合而倶西、及胡・蜀未接、絶其内外、此伐交之兵也。淮曰:「今往取化、出賊不意、維必狼顧。比維自致、足以定化、且使維疲於奔命。兵不遠西、而胡交自離、此一舉而兩全之策也。」乃別遣夏侯霸等追維於沓中、淮自率諸軍就攻化等。維果馳還救化、皆如淮計。進封都郷侯。

 五年(244)、(曹爽と)夏侯玄が伐蜀し、郭淮は諸軍を督して前鋒となった。郭淮が度(はか)るに形勢は不利で、ただちに軍を(駱谷より)抜き出し、そのため大敗しなかった。還ると郭淮に節を仮した。

 魏軍は督漢中の王平に興勢で防がれ、郭淮に倣った隴右での兵糧調達にも失敗していて、郭淮の他、本営では参軍の楊偉(曹真伝)や司馬昭(『晋書』文帝紀)が撤退を進言しています。

 八年(247)、隴西・南安・金城・西平の諸羌の餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞らが相い結んで叛乱し、城邑を攻囲し、南のかた蜀兵を招き、涼州の名胡の治無戴も復た叛いてこれに応じた。討蜀護軍夏侯霸が諸軍を督して為翅に駐屯した。郭淮の軍が始めて(金城郡治の)狄道(定西市臨洮)に到った時、議者が僉(み)な謂うには “先に枹罕(臨夏市)を討って定め、内に悪羌を平らげ、外に賊の謀りごとを挫くのが宜しい” と。郭淮は姜維が必ず夏侯霸を攻めると策(はか)り、かくて渢中に入り、南に転じて夏侯霸を迎えた。姜維は果たして為翅を攻め、たまたま郭淮の軍が至るのと適(あ)い、姜維は遁退した。進んで叛羌を討ち、餓何・焼戈を斬り、万余落が服者した。

 この為翅の所在が不明なので両軍の展開が判りません。蜀の北上を迎撃する要衝、且つ 「狄道(定西市臨洮)の南」 とあるので、臨洮(岷県)から祁山(礼県)の間かと思われます。
 下記の成重山は更に見当が付きませんが、姜維伝の“郭淮・夏侯霸と洮西で戦った”のが成重山の攻防なら、やはり臨洮(岷県)西方に在ったと思われます。

九年、蛾遮塞らが河関(青海省黄南自治州同仁)・白土故城(臨夏市臨夏)に駐屯し、黄河に拠って官軍を拒いだ。郭淮は流れを遡上する形勢を見せ、密かに下流から兵を渡して白土城に拠り、撃って大破した。治無戴は武威を囲んだが、家属を西海(青海?)に留めていた。郭淮は軍を進めて西海に趨り、その累重(家族)を掩取(襲取)しようとしたが、たまたま治無戴が折かれて還り、龍夷の北で戦って破って走らせた。 令居(蘭州市永登)の悪虜が石頭山の西に在り、まさに大道に止まって王使を断絶していた。郭淮は還りしなに討ち、大破した。
姜維が石営に出戦し、彊川に従って西のかた治無戴を迎え、陰平太守廖化を成重山に留めて築城させ、破った羌から確保していた質を斂(あつ)めた。郭淮は兵を分けてこれを取ろうとした。
諸将は、“姜維の軍兵は西のかた彊胡に接し、廖化が険阻に拠っており、軍を分けて両持すれば、兵の勢いは弱きに転じ、進んでも姜維を制せられず、退いても廖化を抜けず、これは計策とはできず、合して倶に西し、胡・蜀が未だ接続しないうちにその内外を絶つのが妥当で、これぞ伐交の兵だ” と唱えた。
郭淮 「今、往って廖化を取れば、賊の不意に出る事になり、姜維は必ず狼狽する。姜維が自ら致る頃には廖化を定めるに充分で、しかも姜維を奔命に疲れさせる事になる。兵を西に遠くせず、胡との交通は自ずと離れ、これぞ一挙両全の策である」
かくして別に夏侯霸らを遣って姜維を沓中(舟曲西郊?)から追わせ、郭淮自ら諸軍を率いて廖化らに就いて攻めた。姜維は果たして馳還して廖化を救い、皆な郭淮の計の通りだった。都郷侯に進封された。

 嘉平元年、遷征西將軍、都督雍・涼諸軍事。是歳、與雍州刺史陳泰協策、降蜀牙門將句安等於翅上。二年、詔曰:「昔漢川之役、幾至傾覆。淮臨危濟難、功書王府。在關右三十餘年、外征寇虜、内綏民夷。比歳以來、摧破廖化、禽虜句安、功績顯著、朕甚嘉之。今以淮為車騎將軍・儀同三司、持節・都督如故。」進封陽曲侯、邑凡二千七百八十戸、分三百戸、封一子亭侯。正元二年薨、追贈大將軍、諡曰貞侯。子統嗣。統官至荊州刺史、薨。子正嗣。咸熙中、開建五等、以淮著勳前朝、改封汾陽子

 嘉平元年(249)、征西将軍に遷り、雍・涼州の諸軍事を都督した。この歳、(後任の)雍州刺史陳泰と協策し、蜀の牙門将句安らを翅上で降した。
二年、詔 「昔、漢川の役(夏侯淵のアレ)では傾覆しかかった。郭淮は危に臨んで難を済(すく)い、功は王府に書(しる)されている。関右に在ること三十余年、外は寇虜を征伐し、内は民夷を綏んじた。近年以来、廖化を摧破し、句安を禽虜し、功績は顕著であって朕は甚だこれを嘉する。今、郭淮を車騎将軍・儀同三司とし、持節・都督はこれまで通りとする」
陽曲侯に進封され、食邑は凡し二千七百八十戸。三百戸を分けて一子を亭侯に封じた[2]。正元二年(255)に薨じ、大将軍を追贈して貞侯と諡した。子の郭統が嗣いだ。郭統は官が荊州刺史に至って薨じた。子の郭正が嗣いだ。咸熙中に五等爵が開建されると、郭淮が前朝に著勲がある事から、改めて汾陽子に封じた[3]
[1] 『郭氏譜』を調べた処、郭淮の祖父の郭全は大司農、父の郭縕は雁門太守だった。
[2] 郭淮の妻は王淩の妹である。王淩が誅されると妹も連坐し、御史が往って収捕した。督将および羌・胡の渠帥の数千人が叩頭して郭淮に妻を留めるよう上表する事を請うたが、郭淮は従わなかった。妻が上京する道すがら、流涕せぬ者は莫く、人々は扼腕し、脅してでも留めようとした。郭淮の五子は叩頭流血して郭淮に請い、郭淮は視るに忍びず、かくして左右に命じて妻を追わせた。追走者は数千騎となり、数日にして還った。郭淮が書簡にて司馬懿に建白するには 「五子が母を哀れんでその身を惜しまず、もしその母が無くなれば五子が無くなる事になり、五子が無くなれば、亦た私も無くなりましょう。今、たちまち追って還しましたが、もし法が通じないようであれば、主者(主管者)に罪を受けましょう。近きに覲展(親展)するものであります」 書簡が至ると司馬懿も亦た宥した。 (『魏晋世語』)
[3] 郭淮の弟の郭配、字は仲南は重い名声があり、位は城陽太守に至った。斐秀・賈充は皆な郭配の女壻だった。子の郭展、字は泰舒。器量と幹事の才があり、職を歴任して業績が著しく、終に太僕となった。次弟の郭豫は字を泰寧といい、相国参軍となって名を知られたが、早くに卒した。娘は王衍に嫁いだ。郭配の弟の郭鎮は、字を季南といい、謁者僕射だった。郭鎮の子の郭奕は、字は泰業。『山濤啓事』で郭奕は高潔簡素で雅量があると称えられ、雍州刺史・尚書を歴任した。 (『晋諸公賛』)
 

 評曰:滿寵立志剛毅、勇而有謀。田豫居身清白、規略明練。牽招秉義壯烈、威績顯著。郭淮方策精詳、垂問秦・雍。而豫位止小州、招終於郡守、未盡其用也。

 評に曰く:満寵は志を立てて剛毅であり、勇にして謀があった。田豫は身を清白に処し、規略は明練だった。牽招は義を秉って壮烈で、威と績とは顕著だった。郭淮の方策は精詳であり、問(ほまれ)を秦・雍に垂れた。しかし田豫の位は小州に止まり、牽招は郡守で終り、未だその用(はたら)きを尽せなかった。

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