滿寵字伯寧、山陽昌邑人也。年十八、為郡督郵。時郡内李朔等各擁部曲、害于平民、太守使寵糾焉。朔等請罪、不復鈔略。守高平令。縣人張苞為郡督郵、貪穢受取、干亂吏政。寵因其來在傳舍、率吏卒出收之、詰責所犯、即日考竟、遂棄官歸。
太祖臨兗州、辟為從事。及為大將軍、辟署西曹屬、為許令。時曹洪宗室親貴、有賓客在界、數犯法、寵收治之。洪書報寵、寵不聽。洪白太祖、太祖召許主者。寵知將欲原、乃速殺之。太祖喜曰:「當事不當爾邪?」故太尉楊彪收付縣獄、尚書令荀ケ・少府孔融等並屬寵:「但當受辭、勿加考掠。」寵一無所報、考訊如法。數日、求見太祖、言之曰:「楊彪考訊無他辭語。當殺者宜先彰其罪;此人有名海内、若罪不明、必大失民望、竊為明公惜之。」太祖即日赦出彪。初、ケ・融聞考掠彪、皆怒、及因此得了、更善寵。
一見、法を厳守しつつ情理も弁えている風に描写していますが、「考訊如法」 とある以上は、ほぼ間違いなく拷問を加えています。還暦間近の、しかも三公経験者を拷問にかけておいて 「更善寵」 も無いものです。この時点までの満寵はSっ気の薄い酷吏であり、情誼に関するエピソードが無い以上は、それが満寵の本質かと思われます。
時袁紹盛於河朔、而汝南紹之本郡、門生賓客布在諸縣、擁兵拒守。太祖憂之、以寵為汝南太守。寵募其服從者五百人、率攻下二十餘壁、誘其未降渠帥、於坐上殺十餘人、一時皆平。得戸二萬、兵二千人、令就田業。
建安十三年、從太祖征荊州。大軍還、留寵行奮威將軍、屯當陽。孫權數擾東陲、復召寵還為汝南太守、賜爵關内侯。關羽圍襄陽、寵助征南將軍曹仁屯樊城拒之、而左將軍于禁等軍以霖雨水長為羽所沒。羽急攻樊城、樊城得水、往往崩壞、衆皆失色。或謂仁曰:「今日之危、非力所支。可及羽圍未合、乘輕船夜走、雖失城、尚可全身。」寵曰:「山水速疾、冀其不久。聞羽遣別將已在郟下、自許以南、百姓擾擾、羽所以不敢遂進者、恐吾軍掎其後耳。今若遁去、洪河以南、非復國家有也;君宜待之。」仁曰:「善。」寵乃沈白馬、與軍人盟誓。會徐晃等救至、寵力戰有功、羽遂退。進封安昌亭侯。
豫州の一太守が荊州の危機に派遣され、それも樊城内部にいるのが不自然です。おそらく宛城の侯音が叛いた時に何らかの人事があったものと思われます。
左将軍于禁らの軍は霖雨による漢水の膨張によって関羽に覆没された。関羽は急(きび)しく樊城を攻め、樊城は水を得て往々に崩壊し、衆人は皆な色を失った。文帝即王位、遷揚武將軍。破呉於江陵有功、更拜伏波將軍、屯新野。大軍南征、到精湖、寵帥諸軍在前、與賊隔水相對。寵敕諸將曰:「今夕風甚猛、賊必來燒軍、宜為其備。」諸軍皆警。夜半、賊果遣十部伏夜來燒、寵掩撃破之、進封南郷侯。(1)黄初三年、假寵節鉞。五年、拜前將軍。明帝即位、進封昌邑侯。太和二年、領豫州刺史。三年春、(2)降人稱呉大嚴、揚聲欲詣江北獵、孫權欲自出。寵度其必襲西陽而為之備、權聞之、退還。秋、使曹休從廬江南入合肥、令寵向夏口。寵上疏曰:「曹休雖明果而希用兵、今所從道、背湖旁江、易進難退、此兵之窪地也。若入無彊口、宜深為之備。」寵表未報、休遂深入。賊果從無彊口斷夾石、要休還路。休戰不利、退走。會朱靈等從後來斷道、與賊相遇。賊驚走、休軍乃得還。是歳休薨、寵以前將軍代都督揚州諸軍事。汝南兵民戀慕、大小相率、奔隨道路、不可禁止。護軍表上、欲殺其為首者。詔使寵將親兵千人自隨、其餘一無所問。
満寵伝の特にこのあたりは、バラけた木簡の復元に失敗したかのように記事が前後し、例えば下線部(1)は蔣済伝によって黄初六年の事だと判ります。又た(2)に続く事件は曹丕の死亡直後の江夏襲撃と太和二年の石亭の役なので、下線部(2)も紛れ込みだと思われます。その他、気付く事ができれば直していきます。
上記の江陵の役は223年まで継続しているので、仮節鉞が黄初三年なら参戦に当っての措置となります。ですが既に仮節鉞の曹真が総帥として当事していて、同じ戦線に二人の仮節鉞というのはちょっと考え難いので黄初四年としました。
(黄初六年、)大軍が南征して精湖に到った時、満寵は諸軍を帥いて前部に在り、賊と水を隔てて相対した。満寵が諸将に命じるには 「今夕の風は甚だ猛く、賊は必らず軍を焼きに来よう。備えを為すのが宜しい」 諸軍は皆な警戒した。夜半になって、賊は果たして十部の伏兵を遣って夜間に焼きに来させたが、満寵は掩撃してこれを破り、南郷侯に進封された。満寵はがんばりました。蔣済もがんばりました。曹丕は龍舟を放棄してさっさと許昌に還りました。そんな戦いでした。
明帝が即位し、昌邑侯に進封された。降人が称すには、呉は大いに厳装(戎装)し、江北に詣って猟をすると揚声(喧伝)し、孫権自ら出征しようとしていると。満寵が度(はか)るに、必ず西陽(河南省信陽市光山)を襲うと考えて備えを為し、孫権はこれを聞くと退還した。四年、拜寵征東將軍。其冬、孫權揚聲欲至合肥、寵表召兗・豫諸軍、皆集。賊尋退還、被詔罷兵。寵以為今賊大舉而還、非本意也、此必欲偽退以罷吾兵、而倒還乘虚、掩不備也、表不罷兵。後十餘日、權果更來、到合肥城、不克而還。其明年、呉將孫布遣人詣揚州求降、辭云:「道遠不能自致、乞兵見迎。」刺史王淩騰布書、請兵馬迎之。寵以為必詐、不與兵、而為淩作報書曰:「知識邪正、欲避禍就順、去暴歸道、甚相嘉尚。今欲遣兵相迎、然計兵少則不足相衞、多則事必遠聞。且先密計以成本志、臨時節度其宜。」寵會被書當入朝、敕留府長史:「若淩欲往迎、勿與兵也。」淩於後索兵不得、乃單遣一督將歩騎七百人往迎之。布夜掩撃、督將迸走、死傷過半。初、寵與淩共事不平、淩支黨毀寵疲老悖謬、故明帝召之。既至、體氣康彊、見而遣還。寵屡表求留、詔報曰:「昔廉頗彊食、馬援據鞍、今君未老而自謂已老、何與廉・馬之相背邪?其思安邊境、惠此中國。」
明年、呉將陸遜向廬江、論者以為宜速赴之。寵曰:「廬江雖小、將勁兵精、守則經時。又賊舍船二百里來、後尾空縣、尚欲誘致、今宜聽其遂進、但恐走不可及耳。」整軍趨楊宜口。賊聞大兵東下、即夜遁。時權歳有來計。青龍元年、寵上疏曰:「合肥城南臨江湖、北遠壽春、賊攻圍之、得據水為勢;官兵救之、當先破賊大輩、然後圍乃得解。賊往甚易、而兵往救之甚難、宜移城内之兵、其西三十里、有奇險可依、更立城以固守、此為引賊平地而掎其歸路、於計為便。」護軍將軍蔣濟議、以為:「既示天下以弱、且望賊煙火而壞城、此為未攻而自拔。一至於此、劫略無限、必以淮北為守。」帝未許。寵重表曰:「孫子言、兵者、詭道也。故能而示之以弱、不能驕之以利、示之以懾。此為形實不必相應也。又曰『善動敵者形之』。今賊未至而移城卻内、此所謂形而誘之也。引賊遠水、擇利而動、舉得於外、則福生於内矣。」尚書趙咨以寵策為長、詔遂報聽。其年、權自出、欲圍新城、以其遠水、積二十日不敢下船。寵謂諸將曰:「權得吾移城、必於其衆中有自大之言、今大舉來欲要一切之功、雖不敢至、必當上岸耀兵以示有餘。」乃潛遣歩騎六千、伏肥城隱處以待之。權果上岸耀兵、寵伏軍卒起撃之、斬首數百、或有赴水死者。明年、權自將號十萬、至合肥新城。寵馳往赴、募壯士數十人、折松為炬、灌以麻油、從上風放火、燒賊攻具、射殺權弟子孫泰。賊於是引退。三年春、權遣兵數千家佃於江北。至八月、寵以為田向收熟、男女布野、其屯衞兵去城遠者數百里、可掩撃也。遣長吏督三軍循江東下、摧破諸屯、焚燒穀物而還。詔美之、因以所獲盡為將士賞。
実際には、合肥に赴いた満寵にとって十万は想定外だったようで、守備兵の撤去と寿春での迎撃案を上書しています。明帝曰く 「俺が征くまで耐えろ」 と。
三年(235)春、孫権は兵数千家を遣って江北で佃(こさく)させた。八月に至って満寵は、田が収熟に向い、男女が野に布(つら)なり、その屯衛兵が城を去ること遠き者は数百里となり、掩撃の時だと考えた。長吏を遣って三軍を督して長江に循って東下させ、諸屯を摧破し、穀物を焚焼して還った。詔にてこれを賞美し、獲たものを悉く将士への賞とした。景初二年、以寵年老徴還、遷為太尉。寵不治産業、家無餘財。詔曰:「君典兵在外、專心憂公、有行父・祭遵之風。賜田十頃、穀五百斛、錢二十萬、以明清忠儉約之節焉。」寵前後摎W、凡九千六百戸、封子孫二人亭侯。正始三年薨、諡曰景侯。子偉嗣。偉以格度知名、官至衞尉。
※ 一方面の統率者。四岳。
田豫字國讓、漁陽雍奴人也。劉備之奔公孫瓚也、豫時年少、自託於備、備甚奇之。備為豫州刺史、豫以母老求歸、備涕泣與別、曰:「恨不與君共成大事也。」
公孫瓚使豫守東州令、瓚將王門叛瓚、為袁紹將萬餘人來攻。衆懼欲降。豫登城謂門曰:「卿為公孫所厚而去、意有所不得已也;今還作賊、乃知卿亂人耳。夫挈瓶之智、守不假器、吾既受之矣;何不急攻乎?」門慚而退。瓚雖知豫有權謀而不能任也。瓚敗而鮮于輔為國人所推、行太守事、素善豫、以為長史。時雄傑並起、輔莫知所從。豫謂輔曰:「終能定天下者、必曹氏也。宜速歸命、無後禍期。」輔從其計、用受封寵。太祖召豫為丞相軍謀掾、除潁陰・朗陵令、遷弋陽太守、所在有治。
鄢陵侯彰征代郡、以豫為相。軍次易北、虜伏騎撃之、軍人擾亂、莫知所為。豫因地形、回車結圜陳、弓弩持滿於内、疑兵塞其隙。胡不能進、散去。追撃、大破之、遂前平代、皆豫策也。
遷南陽太守。先時、郡人侯音反、衆數千人在山中為羣盜、大為郡患。前太守收其黨與五百餘人、表奏皆當死。豫悉見諸繋囚、慰諭、開其自新之路、一時破械遣之。諸囚皆叩頭、願自效、即相告語、羣賊一朝解散、郡内清靜。具以状上、太祖善之。
盗賊の一部を官側に採り込み、これを利用して賊の本体を一網打尽にするというのは名吏の手法として『後漢書』などでも散見されますが、自壊を促すというのはなかなかお目にかかれません。すごい度胸だ。大局を見る目もあるし、軍略も統治能力も優秀で、もし劉備に従い続けていれば…との空想を禁じ得ません。
文帝初、北狄彊盛、侵擾邊塞、乃使豫持節護烏丸校尉、牽招・解儁并護鮮卑。自高柳以東、濊貊以西、鮮卑數十部、比能・彌加・素利割地統御、各有分界;乃共要誓、皆不得以馬與中國市。豫以戎狄為一、非中國之利、乃先搆離之、使自為讐敵、互相攻伐。素利違盟、出馬千匹與官、為比能所攻、求救於豫。豫恐遂相兼并、為害滋深、宜救善討惡、示信衆狄。單將鋭卒、深入虜庭、胡人衆多、鈔軍前後、斷截歸路。豫乃進軍、去虜十餘里結屯營、多聚牛馬糞然之、從他道引去。胡見烟火不絶、以為尚在、去、行數十里乃知之。追豫到馬城、圍之十重、豫密嚴、使司馬建旌旗、鳴鼓吹、將歩騎從南門出、胡人皆屬目往赴之。豫將精鋭自北門出、鼓譟而起、兩頭倶發、出虜不意、虜衆散亂、皆棄弓馬歩走、追討二十餘里、僵尸蔽地。又烏丸王骨進桀黠不恭、豫因出塞案行、單將麾下百餘騎入進部。進逆拜、遂使左右斬進、顯其罪惡以令衆。衆皆怖慴不敢動、便以進弟代進。自是胡人破膽、威震沙漠。山賊高艾、衆數千人、寇鈔、為幽・冀害、豫誘使鮮卑素利部斬艾、傳首京都。封豫長樂亭侯。
当時の鮮卑は大まかに東中西の三部構成で、彌加・素利は東部の大人で、軻比能は中部の有力者として歩度根と並立していました。ここでの記述などから、西部鮮卑は中部の統制下にあったとされます。
そして共に要誓し、皆な馬を中国と市(交易)する事ができなかった。田豫は戎狄が一つとなる事は中国の利ではないと考え、かくして先んじて離間を搆じ、自身らで讐敵同士となって互相に攻伐するようにさせた。素利が盟約に違え、馬千匹を出して官に与え、軻比能に攻められて田豫に救援を求めた。田豫はどちらかが兼併すれば害を為すこといよいよ深くなる事を恐れ、(中国にとっての)善を救って悪を討ち、衆狄に信を示すのが妥当だとした。単独で鋭卒を率い、深く虜庭に入ったが、胡人の軍兵は多く、軍の前後を鈔掠し、帰路が断截した。田豫はかくして軍を進め、虜を去ること十余里に屯営を結び、多くの牛馬の糞を聚めて燃やし、他道より退去した。胡は烟火が絶えないのを見て尚おも在ると思い、(田豫が)去ってから行くこと十数里にして知った。田豫を追って馬城に到り、これを十重に囲んだ。田豫は密かに厳装(軍装)し、司馬に旌旗を建てて鼓吹を鳴らし、歩騎を率いて南門より出撃させると、胡人は皆な嘱目して往赴した。田豫は精鋭を率いて北門より出撃し、鼓を譟がしくして起ち、両頭が倶に発して虜の意(おも)わざるに出、虜衆は乱れ散じた。皆な弓馬を棄てて歩走し、追討すること二十余里、僵尸(倒屍)は地を蔽った。為校尉九年、其御夷狄、恆摧抑兼并、乖散彊猾。凡逋亡姦宄、為胡作計不利官者、豫皆構刺攪離、使凶邪之謀不遂、聚居之類不安。事業未究、而幽州刺史王雄支黨欲令雄領烏丸校尉、毀豫亂邊、為國生事。遂轉豫為汝南太守、加殄夷將軍。
田豫と鮮卑の攻防については鮮卑伝にあります。軻比能の実力を見誤った田豫が安易に素利に肩入れした為に、軻比能が反中国に舵を切ったとも見做せますが、当時の鮮卑は発展期にあったので、懐柔策メインで対処していても衝突は避けられなかったでしょう。田豫は太和二年(228)には“馬城の囲”と呼ばれる屈辱を受けていて、必ずしも常に鮮卑に優勢を保っていた訳ではありません。
事業が未だに究まらぬうちに、幽州刺史王雄の支党が王雄に烏丸校尉を兼領させようとし、田豫が辺境を乱して国に事態を生じさせると毀議した。かくて田豫を転じて汝南太守とし、殄夷将軍を加えた。王雄は琅邪王氏で、王戎の祖父。後に軻比能を暗殺し、鮮卑の再統合を阻止した事でそれなりに評価されています。田豫が更迭された経緯は不明ですが、場所が場所だけに利権争いではなく、鮮卑政策の考え方の違いである事は、王雄の着任後に幷州刺史畢軌が攻勢に転じている点や、後の軻比能暗殺から窺う事ができます。タイミング的に、軻比能と諸葛亮が手を組んだ事が決め手になったような気がしなくもありません。調略メインの田豫と討伐主義の王雄という事で、漢霊帝の時の張奐と段熲の関係に通じるものがあります。王雄の子は王渾といいますが、晋の征呉の将帥の王渾とは別人です。
太和末、公孫淵以遼東叛、帝欲征之而難其人、中領軍楊曁舉豫應選。乃使豫以本官督青州諸軍、假節、往討之。會呉賊遣使與淵相結、帝以賊衆多、又以渡海、詔豫使罷軍。豫度賊船垂還、歳晩風急、必畏漂浪、東隨無岸、當赴成山。成山無藏船之處、輒便循海、案行地勢、及諸山島、徼截險要、列兵屯守。自入成山、登漢武之觀。賊還、果遇惡風、船皆觸山沈沒、波蕩著岸、無所蒙竄、盡虜其衆。初、諸將皆笑於空地待賊、及賊破、競欲與謀、求入海鉤取浪船。豫懼窮虜死戰、皆不聽。初、豫以太守督青州、青州刺史程喜内懷不服、軍事之際、多相違錯。喜知帝寶愛明珠、乃密上:「豫雖有戰功而禁令ェ弛、所得器仗珠金甚多、放散皆不納官。」由是功不見列。
この時点では公孫淵の離叛は確定事項ではなく、孫権と通誼した“らしい”というのがほぼ確定情報として流れているレベルです。実際、田豫を幽州ではなく青州方面に派遣し、しかも水軍を用意していない以上、遼東を討つ計画ではなく示威行動でしょう。
おりしも呉賊が遣使して公孫淵と相い結び、明帝は賊の軍兵が多く、又た渡海している事で、田豫に軍事を罷めさせた。田豫が度(はか)るに、賊船が還ろうとする頃には晩歳となって風は急しく、必ず漂浪を畏れて東のかたの無岸の地に随い、成山に赴くだろうと。成山には船を藏(かく)す処は無く、ただちに海を循って地勢および諸々の山島を案行し、険要を徼截(遮断)して兵を列べて屯守した。自ら成山に入り、漢武の観楼に登った。杜畿伝によれば、程喜には “讒言マニア要注意”のレッテルが貼られていたようです。幽州刺史杜恕もこれで罷免されていますが、寧ろ杜恕の手法に問題があったようにしか見えませんが。
後孫權號十萬衆攻新城、征東將軍滿寵欲率諸軍救之。豫曰:「賊悉衆大舉、非徒投射小利、欲質新城以致大軍耳。宜聽使攻城、挫其鋭氣、不當與爭鋒也。城不可拔、衆必罷怠;罷怠然後撃之、可大克也。若賊見計、必不攻城、勢將自走。若便進兵、適入其計。又大軍相向、當使難知、不當使自畫也。」豫輒上状、天子從之。會賊遁走。後呉復來寇、豫往拒之、賊即退。諸軍夜驚、云:「賊復來!」豫臥不起、令衆「敢動者斬」。有頃、竟無賊。
景初末、摎W三百、并前五百戸。正始初、遷使持節護匈奴中郎將、加振威將軍、領幷州刺史。外胡聞其威名、相率來獻。州界寧肅、百姓懷之。徴為衞尉。屡乞遜位、太傅司馬宣王以為豫克壯、書喩未聽。豫書答曰:「年過七十而以居位、譬猶鐘鳴漏盡而夜行不休、是罪人也。」遂固稱疾篤。拜太中大夫、食卿祿。年八十二薨。子彭祖嗣。
※ 時報の鐘が鳴り、刻漏(水時計)の水が尽きる事。夜更けの事。
豫清儉約素、賞賜皆散之將士。毎胡・狄私遺、悉簿藏官、不入家;家常貧匱。雖殊類、咸高豫節。嘉平六年、下詔褒揚、賜其家錢穀。語在徐邈傳。
牽招字子經、安平觀津人也。年十餘歳、詣同縣樂隱受學。後隱為車騎將軍何苗長史、招隨卒業。値京都亂、苗・隱見害、招倶與隱門生史路等觸蹈鋒刃、共殯斂隱屍、送喪還歸。道遇寇鈔、路等皆悉散走。賊欲斫棺取釘、招垂涙請赦。賊義之、乃釋而去。由此顯名。
冀州牧袁紹辟為督軍從事、兼領烏丸突騎。紹舍人犯令、招先斬乃白、紹奇其意而不見罪也。紹卒、又事紹子尚。建安九年、太祖圍鄴。尚遣招至上黨、督致軍糧。未還、尚破走、到中山。時尚外兄高幹為幷州刺史、招以幷州左有恆山之險、右有大河之固、帶甲五萬、北阻彊胡、勸幹迎尚、并力觀變。幹既不能、而陰欲害招。招聞之、闕s而去、道隔不得追尚、遂東詣太祖。太祖領冀州、辟為從事。
太祖將討袁譚、而柳城烏丸欲出騎助譚。太祖以招嘗領烏丸、遣詣柳城。到、値峭王嚴、以五千騎當遣詣譚。又遼東太守公孫康自稱平州牧、遣使韓忠齎單于印綬往假峭王。峭王大會羣長、忠亦在坐。峭王問招:「昔袁公言受天子之命、假我為單于;今曹公復言當更白天子、假我真單于;遼東復持印綬來。如此、誰當為正?」招答曰:「昔袁公承制、得有所拜假;中間違錯天子命、曹公代之、言當白天子、更假真單于、是也。遼東下郡、何得擅稱拜假也?」忠曰:「我遼東在滄海之東、擁兵百萬、又有扶餘・濊貊之用;當今之勢、彊者為右、曹操獨何得為是也?」招呵忠曰:「曹公允恭明哲、翼戴天子、伐叛柔服、寧靜四海、汝君臣頑嚚、今恃險遠、背違王命、欲擅拜假、侮弄神器、方當屠戮、何敢慢易咎毀大人?」便捉忠頭頓築、拔刀欲斬之。峭王驚怖、徒跣抱招、以救請忠、左右失色。招乃還坐、為峭王等説成敗之效、禍福所歸、皆下席跪伏、敬受敕教、便辭遼東之使、罷所嚴騎。
この時点で烏桓が袁譚を支持したとしても大勢は変らなかったでしょうが、それより牽招の外交官然とした応対が素晴らしい。袁紹が承制したこと自体は批判せず、途中で献帝に敵対してしまった事が間違いだと声明しています。
太祖滅譚於南皮、署招軍謀掾、從討烏丸。至柳城、拜護烏丸校尉。還鄴、遼東送袁尚首、縣在馬市、招覩之悲感、設祭頭下。太祖義之、舉為茂才。從平漢中、太祖還、留招為中護軍。事罷、還鄴、拜平虜校尉、將兵督青徐州郡諸軍事、撃東萊賊、斬其渠率、東土寧靜。
文帝踐阼、拜招使持節護鮮卑校尉、屯昌平。是時、邊民流散山澤、又亡叛在鮮卑中者、處有千數。招廣布恩信、招誘降附。建義中郎將公孫集等、率將部曲、咸各歸命;使還本郡。又懷來鮮卑素利・彌加等十餘萬落、皆令款塞。
賊に義人と謂わせ、曹操に義人と謂わせ、陳寿は牽招の行動理念を“義”だと定義しています。この時の曹操の内心がどうだったかは知りませんが、曹操だって自分の政治演出の為に袁紹に哭して見せているんだから牽招を罰する事は出来ませんわな。それならいっそ恩を売っておこうと茂才に挙げるあたりが曹操の政治センスの光っている点です。牽招を義と謂わず奇にとどめた袁紹には知人の才がなかったね…。
漢中平定に従い、曹操は還る際に牽招を留めて中護軍とした。事を罷めると鄴に還り、平虜校尉に拝され、兵を率いて督青徐州郡諸軍事として東萊の賊を撃ち、その渠率を斬り、東土を寧静にした。都督制が定まっていない曹操の時代のことなので、督青徐州“郡”諸軍事という聞き慣れない呼称が出てきています。これ、牽招の官位からして督青徐州諸軍事ではなく、青州と徐州の数郡の督軍事かと想像します。
文帝が踐阼すると牽招は拝されて使持節・護鮮卑校尉とされ、昌平(北京市)に屯した。この時、辺民は山沢に流散し、又たは亡命叛抗して鮮卑の中に在り、そうした場処は千を単位に数えた。牽招は広く恩信を布き、降附する者を招誘した。建義中郎将公孫集らは部曲を率将して咸な各々命に帰し、本郡に還らせた。又た鮮卑の素利・彌加らの十余万落が懐き来たり、皆な款塞(長城を叩いての降伏)させた。大軍欲征呉、召招還、至、値軍罷、拜右中郎將、出為雁門太守。郡在邊陲、雖有候望之備、而寇鈔不斷。招既教民戰陳、又表復烏丸五百餘家租調、使備鞍馬、遠遣偵候。虜毎犯塞、勒兵逆撃、來輒摧破、於是吏民膽氣日鋭、荒野無虞。又搆阯」散、使虜更相猜疑。鮮卑大人歩度根・泄歸泥等與軻比能為隙、將部落三萬餘家詣郡附塞。敕令還撃比能、殺比能弟苴羅侯、及叛烏丸歸義侯王同・王寄等、大結怨讎。是以招自出、率將歸泥等討比能於雲中故郡、大破之。招通河西鮮卑附頭等十餘萬家、繕治陘北故上館城、置屯戍以鎮内外、夷虜大小、莫不歸心、諸叛亡雖親戚不敢藏匿、咸悉收送。於是野居晏閉、寇賊靜息。招乃簡選有才識者、詣太學受業、還相授教、數年中庠序大興。郡所治廣武、井水鹹苦、民皆擔輦遠汲流水、往返七里。招準望地勢、因山陵之宜、鑿原開渠、注水城内、民ョ其益。
これは護鮮卑校尉の引き継ぎの際に、田豫と協議して幽州・幷州の北辺諸郡が共有するよう定めた計略でしょう。これは閻柔の方針とは相容れないものなので、この頃には閻柔は度遼将軍から異動になっていたか、さもなくば死んでいたかと思われます。
こうしてから牽招は自ら出撃し、将たる泄帰泥らを率いて軻比能を旧の雲中郡で討ち、大破した。牽招は河西鮮卑の附頭ら十余万家と通じ、陘北の旧の上館城を繕治し、屯戍を置く事で内外を鎮め、夷虜は大小となく帰心せぬ者は莫く、諸々の叛亡は親戚であっても藏匿しようとせず、咸な悉く収捕して送った。こうして野の居宅も安閑として閉じ、寇賊は息を静(ひそ)めた。牽招はかくして才識あるものを簡抜・選抜し、太学に詣って学業を受けさせ、還って相い授教させ、数年のうちに庠序(学問所)が大いに興った。郡を治める広武(忻州市代県)は、井水の鹹(しおから)さに苦しみ、民は皆な輦を担いで遠くに流水を汲み、七里を往返した。牽招は地勢を準望し(準は水平計測)、山陵の宜しきに因って原を鑿って渠(水路)を開き、城内に水を注いで民はその益に頼った。明帝即位、賜爵關内侯。太和二年、護烏丸校尉田豫出塞、為軻比能所圍於故馬邑城、移招求救。招即整勒兵馬、欲赴救豫。幷州以常憲禁招、招以為節將見圍、不可拘於吏議、自表輒行。又並馳布羽檄、稱陳形勢、云當西北掩取虜家、然後東行、會誅虜身。檄到、豫軍踴躍。又遺一通於虜蹊要、虜即恐怖、種類離散。軍到故平城、便皆潰走。比能復大合騎來、到故平州塞北。招潛行撲討、大斬首級。招以蜀虜諸葛亮數出、而比能狡猾、能相交通、表為防備、議者以為縣遠、未之信也。會亮時在祁山、果遣使連結比能。比能至故北地石城、與相首尾。帝乃詔招、使從便宜討之。時比能已還漠南、招與刺史畢軌議曰:「胡虜遷徙無常。若勞師遠追、則遲速不相及。若欲潛襲、則山溪艱險、資糧轉運、難以密辦。可使守新興・雁門二牙門、出屯陘北、外以鎮撫、内令兵田、儲畜資糧、秋冬馬肥、州郡兵合、乘釁征討、計必全克。」未及施行、會病卒。招在郡十二年、威風遠振。其治邊之稱、次于田豫、百姓追思之。而漁陽傅容在雁門有名績、繼招後、在遼東又有事功云。
「三月、諸葛亮が天水に寇した。夏四月、鮮卑の軻比能がその種族人や丁零大人を率いて幽州に名馬を貢いだ。護匈奴中郎将を復置した。秋七月、諸葛亮撃退の論功行賞をした」 (明帝紀より)
護匈奴中郎将は、下記の陘北の屯兵を統制するために復置したものと思われます。招子嘉嗣。次子弘、亦猛毅有招風、以隴西太守隨ケ艾伐蜀有功、咸熙中為振威護軍。嘉與晉司徒李胤同母、早卒。
当時の人間関係がとても判り易く述べられています。王ト・荀トらは外戚派で、衛瓘・崔洪・石崇・張華らはその反対派。親賈充か反賈充かという朋党の中に牽秀もいた事になります。というか、当時は無所属は許されない風潮でした。尤も、武帝の死後は両者の融和が図られたようで、牽秀も賈充の甥の賈謐の文学サロンに名を連ねたりもしています。あと、陸機の軍事に非協力的で、敗戦した陸機を処刑するために誣告したとかしなかったとか。
郭淮字伯濟、太原陽曲人也。建安中舉孝廉、除平原府丞。文帝為五官將、召淮署為門下賊曹、轉為丞相兵曹議令史、從征漢中。太祖還、留征西將軍夏侯淵拒劉備、以淮為淵司馬。淵與備戰、淮時有疾不出。淵遇害、軍中擾擾、淮收散卒、推盪寇將軍張郃為軍主、諸營乃定。其明日、備欲渡漢水來攻。諸將議衆寡不敵、備便乘勝、欲依水為陳以拒之。淮曰:「此示弱而不足挫敵、非算也。不如遠水為陳、引而致之、半濟而後撃、備可破也。」既陳、備疑不渡、淮遂堅守、示無還心。以状聞、太祖善之、假郃節、復以淮為司馬。文帝即王位、賜爵關内侯、轉為鎮西長史。又行征羌護軍、護左將軍張郃・冠軍將軍楊秋討山賊鄭甘・盧水叛胡、皆破平之。關中始定、民得安業。
黄初元年、奉使賀文帝踐阼、而道路得疾、故計遠近為稽留。及羣臣歡會、帝正色責之曰:「昔禹會諸侯於塗山、防風後至、便行大戮。今溥天同慶而卿最留遲、何也?」淮對曰: 「臣聞五帝先教導民以コ、夏后政衰、始用刑辟。今臣遭唐虞之世、是以自知免於防風之誅也。」帝ス之、擢領雍州刺史、封射陽亭侯、五年為真。安定羌大帥辟蹏反、討破降之。毎羌・胡來降、淮輒先使人推問其親理、男女多少、年歳長幼;及見、一二知其款曲、訊問周至、咸稱神明。
太和二年、蜀相諸葛亮出祁山、遣將軍馬謖至街亭、高詳屯列柳城。張郃撃謖、淮攻詳營、皆破之。又破隴西名羌唐蹏於枹罕、加建威將軍。五年、蜀出鹵城。是時、隴右無穀、議欲關中大運、淮以威恩撫循羌・胡、家使出穀、平其輸調、軍食用足、轉揚武將軍。青龍二年、諸葛亮出斜谷、並田于蘭坑。是時司馬宣王屯渭南;淮策亮必爭北原、宜先據之、議者多謂不然。淮曰:「若亮跨渭登原、連兵北山、隔絶隴道、搖蕩民・夷、此非國之利也。」宣王善之、淮遂屯北原。塹壘未成、蜀兵大至、淮逆撃之。後數日、亮盛兵西行、諸將皆謂欲攻西圍、淮獨以為此見形於西、欲使官兵重應之、必攻陽遂耳。其夜果攻陽遂、有備不得上。
“恩威”と修飾してはいますが、運糧の手間をケチって、羌・胡になけなしの蓄えを供出させた訳です。防衛戦に際して現地領民から徴発したというのは、この地方に対しては満足な統治が施されていない事の一証で、蜀漢がしきりに調略を仕掛ける一因でもあります。魏にとっての隴右は皖や柤中と同じ扱いなのでしょう。
青龍二年(234)、諸葛亮が斜谷に出戦して一斉に蘭坑で屯田した。この時、司馬懿は渭南に屯留していた。郭淮が計策するに、諸葛亮は必ず北原を争うから、先んじてこれに拠るのが妥当だとしたが、議者の多くは然らずと謂った。正始元年、蜀將姜維出隴西。淮遂進軍、追至彊中、維退、遂討羌迷當等、按撫柔氐三千餘落、拔徙以實關中。遷左將軍。涼州休屠胡梁元碧等、率種落二千餘家附雍州。淮奏請使居安定之高平、為民保障、其後因置〔西州〕都尉。轉拜前將軍、領州如故。
蜀では大将軍蔣琬と司馬姜維のコンビの時代で、明帝の死に乗じた侵攻です。蔣琬伝・姜維伝とも、特には言及されていない戦いですが、隴右の宗主権を巡っての攻防でしょう。
左将軍に遷った。涼州の休屠胡の梁元碧らが、種族の帳落二千余家を率いて雍州に帰附した。郭淮は安定の高平に居らせ、民の保障(保塞)とするよう奏請し、その後に氐の為に西州都尉が置かれた。転じて前将軍を拝し、領州は以前の通りだった。五年、夏侯玄伐蜀、淮督諸軍為前鋒。淮度勢不利、輒拔軍出、故不大敗。還假淮節。八年、隴西・南安・金城・西平諸羌餓何・燒戈・伐同・蛾遮塞等相結叛亂、攻圍城邑、南招蜀兵、涼州名胡治無戴復叛應之。討蜀護軍夏侯霸督諸軍屯為翅。淮軍始到狄道、議者僉謂宜先討定枹罕、内平惡羌、外折賊謀。淮策維必來攻霸、遂入渢中、轉南迎霸。維果攻為翅、會淮軍適至、維遁退。進討叛羌、斬餓何・燒戈、降服者萬餘落。九年、遮塞等屯河關・白土故城、據河拒軍。淮見形上流、密於下渡兵據白土城、撃、大破之。治無戴圍武威、家屬留在西海。淮進軍趨西海、欲掩取其累重、會無戴折還、與戰於龍夷之北、破走之。令居惡虜在石頭山之西、當大道止、斷絶王使。淮還過討、大破之。姜維出石營、從彊川、乃西迎治無戴、留陰平太守廖化於成重山築城、斂破羌保質。淮欲分兵取之。諸將以維衆西接彊胡、化以據險、分軍兩持、兵勢轉弱、進不制維、退不拔化、非計也、不如合而倶西、及胡・蜀未接、絶其内外、此伐交之兵也。淮曰:「今往取化、出賊不意、維必狼顧。比維自致、足以定化、且使維疲於奔命。兵不遠西、而胡交自離、此一舉而兩全之策也。」乃別遣夏侯霸等追維於沓中、淮自率諸軍就攻化等。維果馳還救化、皆如淮計。進封都郷侯。
魏軍は督漢中の王平に興勢で防がれ、郭淮に倣った隴右での兵糧調達にも失敗していて、郭淮の他、本営では参軍の楊偉(曹真伝)や司馬昭(『晋書』文帝紀)が撤退を進言しています。
八年(247)、隴西・南安・金城・西平の諸羌の餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞らが相い結んで叛乱し、城邑を攻囲し、南のかた蜀兵を招き、涼州の名胡の治無戴も復た叛いてこれに応じた。討蜀護軍夏侯霸が諸軍を督して為翅に駐屯した。郭淮の軍が始めて(金城郡治の)狄道(定西市臨洮)に到った時、議者が僉(み)な謂うには “先に枹罕(臨夏市)を討って定め、内に悪羌を平らげ、外に賊の謀りごとを挫くのが宜しい” と。郭淮は姜維が必ず夏侯霸を攻めると策(はか)り、かくて渢中に入り、南に転じて夏侯霸を迎えた。姜維は果たして為翅を攻め、たまたま郭淮の軍が至るのと適(あ)い、姜維は遁退した。進んで叛羌を討ち、餓何・焼戈を斬り、万余落が服者した。 この為翅の所在が不明なので両軍の展開が判りません。蜀の北上を迎撃する要衝、且つ 「狄道(定西市臨洮)の南」 とあるので、臨洮(岷県)から祁山(礼県)の間かと思われます。
下記の成重山は更に見当が付きませんが、姜維伝の“郭淮・夏侯霸と洮西で戦った”のが成重山の攻防なら、やはり臨洮(岷県)西方に在ったと思われます。
嘉平元年、遷征西將軍、都督雍・涼諸軍事。是歳、與雍州刺史陳泰協策、降蜀牙門將句安等於翅上。二年、詔曰:「昔漢川之役、幾至傾覆。淮臨危濟難、功書王府。在關右三十餘年、外征寇虜、内綏民夷。比歳以來、摧破廖化、禽虜句安、功績顯著、朕甚嘉之。今以淮為車騎將軍・儀同三司、持節・都督如故。」進封陽曲侯、邑凡二千七百八十戸、分三百戸、封一子亭侯。正元二年薨、追贈大將軍、諡曰貞侯。子統嗣。統官至荊州刺史、薨。子正嗣。咸熙中、開建五等、以淮著勳前朝、改封汾陽子
評曰:滿寵立志剛毅、勇而有謀。田豫居身清白、規略明練。牽招秉義壯烈、威績顯著。郭淮方策精詳、垂問秦・雍。而豫位止小州、招終於郡守、未盡其用也。