黄權字公衡、巴西閬中人也。少為郡吏、州牧劉璋召為主簿。時別駕張松建議、宜迎先主、使伐張魯。權諫曰:「左將軍有驍名、今請到、欲以部曲遇之、則不滿其心、欲以賓客禮待、則一國不容二君。若客有泰山之安、則主有累卵之危。可但閉境、以待河清。」璋不聽、竟遣使迎先主、出權為廣漢長。及先主襲取益州、將帥分下郡縣、郡縣望風景附、權閉城堅守、須劉璋稽服、乃詣降先主。先主假權偏將軍。及曹公破張魯、魯走入巴中、權進曰:「若失漢中、則三巴不振、此為割蜀之股臂也。」於是先主以權為護軍、率諸將迎魯。魯已還南鄭、北降曹公、然卒破杜濩・朴胡、殺夏侯淵、據漢中、皆權本謀也。
法正伝では、漢中奪取の大方針は法正の進言によるものとされています。そもそも巴蜀を奪った劉備陣営が安定を得る上で漢中の奪取は至上命題となるもので、誰が図ったというよりも、劉備陣営の総意として決定されたと考えるべきです。外来者代表の法正と現地人代表の黄権という二大戦略家の見解が一致した点が重要なのでしょう。
先主為漢中王、猶領益州牧、以權為治中從事。及稱尊號、將東伐呉、權諫曰:「呉人悍戰、又水軍順流、進易退難、臣請為先驅以嘗寇、陛下宜為後鎮。」先主不從、以權為鎮北將軍、督江北軍以防魏師;先主自在江南。及呉將軍陸議乘流斷圍、南軍敗績、先主引退。而道隔絶、權不得還、故率將所領降于魏。有司執法、白收權妻子。先主曰:「孤負黄權、權不負孤也。」待之如初。
魏文帝謂權曰:「君捨逆效順、欲追蹤陳・韓邪?」權對曰:「臣過受劉主殊遇、降呉不可、還蜀無路、是以歸命。且敗軍之將、免死為幸、何古人之可慕也!」文帝善之、拜為鎮南將軍、封育陽侯、加侍中、使之陪乘。蜀降人或云誅權妻子、權知其虚言、未便發喪、後得審問、果如所言。及先主薨問至、魏羣臣咸賀而權獨否。文帝察權有局量、欲試驚之、遣左右詔權、未至之間、累催相屬、馬使奔馳、交錯於道、官屬侍從莫不碎魄、而權舉止顏色自若。後領益州刺史、徙占河南。大將軍司馬宣王深器之、問權曰:「蜀中有卿輩幾人?」權笑而答曰:「不圖明公見顧之重也!」宣王與諸葛亮書曰:「黄公衡、快士也、毎坐起歎述足下、不去口實。」景初三年、蜀延熙二年、權遷車騎將軍・儀同三司。明年卒、諡曰景侯。子邕嗣。邕無子、絶。
權留蜀子崇、為尚書郎、隨衞將軍諸葛瞻拒ケ艾。到涪縣、瞻盤桓未進、崇屡勸瞻宜速行據險、無令敵得入平地。瞻猶與未納、崇至于流涕。會艾長驅而前、瞻卻戰至綿竹、崇帥詞R士、期於必死、臨陳見殺。
李恢字コ昂、建寧兪元人也。仕郡督郵、姑夫爨習為建伶令、有違犯之事、恢坐習免官。太守董和以習方土大姓、寢而不許。後貢恢于州、渉道未至、聞先主自葭萌還攻劉璋。恢知璋之必敗、先主必成、乃託名郡使、北詣先主、遇於綿竹。先主嘉之、從至雒城、遣恢至漢中交好馬超、超遂從命。成都既定、先主領益州牧、以恢為功曹書佐主簿。後為亡虜所誣、引恢謀反、有司執送、先主明其不然、更遷恢為別駕從事。章武元年、庲降都督ケ方卒、先主問恢:「誰可代者?」恢對曰:「人之才能、各有長短、故孔子曰『其使人也器之』。且夫明主在上、則臣下盡情、是以先零之役、趙充國曰『莫若老臣』。臣竊不自揆、惟陛下察之。」先主笑曰:「孤之本意、亦已在卿矣。」遂以恢為庲降都督、使持節領交州剌史、住平夷縣。
先主薨、高定恣睢於越雟、雍闓跋扈於建寧、朱褒反叛於牂牁。丞相亮南征、先由越雟、而恢案道向建寧。諸縣大相糾合、圍恢軍於昆明。時恢衆少敵倍、又未得亮聲息、紿謂南人曰:「官軍糧盡、欲規退還、吾中間久斥郷里、乃今得旋、不能復北、欲還與汝等同計謀、故以誠相告。」南人信之、故圍守怠緩。於是恢出撃、大破之、追奔逐北、南至槃江、東接牂牁、與亮聲勢相連。南土平定、恢軍功居多、封漢興亭侯、加安漢將軍。後軍還、南夷復叛、殺害守將。恢身往撲討、鉏盡惡類、徙其豪帥于成都、賦出叟・濮耕牛戰馬金銀犀革、充繼軍資、于時費用不乏。
※ 西南夷の一種。タイ系白蛮の前身とも称される。
建興七年、以交州屬呉、解恢刺史。更領建寧太守、以還居本郡。徙居漢中、九年卒。子遺嗣。恢弟子球、羽林右部督、隨諸葛瞻拒ケ艾、臨陳授命、死于緜竹。
呂凱字季平、永昌不韋人也。仕郡五官掾功曹。時雍闓等聞先主薨於永安、驕黠滋甚。都護李嚴與闓書六紙、解喩利害、闓但答一紙曰:「蓋聞天無二日、土無二王、今天下鼎立、正朔有三、是以遠人惶惑、不知所歸也。」其桀慢如此。闓又降於呉、呉遙署闓為永昌太守。永昌既在益州郡之西、道路壅塞、與蜀隔絶、而郡太守改易、凱與府丞蜀郡王伉帥似剿ッ、閉境拒闓。闓數移檄永昌、稱説云云。凱答檄曰:「天降喪亂、奸雄乘釁、天下切齒、萬國悲悼、臣妾大小、莫不思竭筋力、肝腦塗地、以除國難。伏惟將軍世受漢恩、以為當躬聚黨衆、率先啓行、上以報國家、下不負先人、書功竹帛、遺名千載。何期臣僕呉越、背本就末乎? 昔舜勤民事、隕于蒼梧、書籍嘉之、流聲無窮。崩于江浦、何足可悲!文・武受命、成王乃平。先帝龍興、海内望風、宰臣聰睿、自天降康。而將軍不覩盛衰之紀、成敗之符、譬如野火在原、蹈履河冰、火滅冰泮、將何所依附? 曩者將軍先君雍侯、造怨而封、竇融知興、歸志世祖、皆流名後葉、世歌其美。今諸葛丞相英才挺出、深覩未萌、受遺託孤、翊贊季興、與衆無忌、録功忘瑕。將軍若能翻然改圖、易跡更歩、古人不難追、鄙土何足宰哉!蓋聞楚國不恭、齊桓是責、夫差僭號、晉人不長、況臣於非主、誰肯歸之邪?竊惟古義、臣無越境之交、是以前後有來無往。重承告示、發憤忘食、故略陳所懷、惟將軍察焉。」凱威恩内著、為郡中所信、故能全其節。
「天が喪乱を降し、奸雄が釁(すき)に乗じた為に天下は切歯し、万国は悲悼し、臣妾は大小とも、筋力を竭(つ)くして肝脳を地に塗れさせても国難を除こうと思わぬ者はありません。伏して惟るに、将軍は世々に漢の恩を受けており、まさに躬ずから党衆を聚め、率先啓行して、上は国家に報じ、下は先人に負(そむ)かず、功を竹帛に書(しる)し、名を千載に遺すべきでありましょう。どうして呉越の臣僕となって、本に背き末に就かれるのか? 昔、舜は民事に勤しんで蒼梧に隕命しましたが、書籍はこれを嘉し、声誉は無窮に流布しております。江浦に崩じたところでどうして悲しむに足りましょう! 文王・武王が天命を受けたので、成王はかくして平らげる事ができたのです。
先帝が龍興(登極)すると海内は風を望み、宰臣は聡睿であり、天より安康を降されました。しかし将軍は盛衰の紀や成敗の符を観ず、譬えるなら野火が原に在り、河冰を踏履するようなもので、火が滅び冰が泮(と)けたならどこに依附されるのか? 過去には将軍の先君の雍侯は怨まれながらも封じられ、竇融は(漢の)興る事を知って志を世祖(光武帝)に帰したもので、皆な名が後葉に流布し、世はその美を歌っております。今、諸葛丞相の英才は挺出(突出)し、深く萌芽以前の事を観、託孤の遺命を受け、季興(直近の再興)を翊賛し、人々と与にする事を忌まず、功を録して瑕疵を忘れております。将軍がもし翻然として意図を改め、跡を易えて更めて歩めるなら、古人を追う事も難しくはなく、鄙土の宰領でどうして足りましょう! 確かに聞く処では、楚国が恭順しなかったのを斉桓公が責め、夫差は僭号したものの晋人は(盟約の)長としなかったとか。ましてや主たらざる者に臣事したとて、誰が帰す事を肯んじましょうか? 竊かに古義を惟るに、臣下とは越境の交わりをせぬもので、このため(書簡が)前後して来ても往かなかったのです。重ねて告示を承け、発奮して食事を忘れ、それゆえ懐く所をほぼ陳べるものです。将軍よ、ただ察せられよ」
及丞相亮南征討闓、既發在道、而闓已為高定部曲所殺。亮至南、上表曰:「永昌郡吏呂凱・府丞王伉等、執忠絶域、十有餘年、雍闓・高定偪其東北、而凱等守義不與交通。臣不意永昌風俗敦直乃爾!」以凱為雲南太守、封陽遷亭侯。會為叛夷所害、子祥嗣。而王伉亦封亭侯、為永昌太守。
馬忠字コ信、巴西閬中人也。少養外家、姓狐、名篤、後乃復姓、改名忠。為郡吏、建安末舉孝廉、除漢昌長。先主東征、敗績猇亭、巴西太守閻芝發諸縣兵五千人以補遺闕、遣忠送往。先主已還永安、見忠與語、謂尚書令劉巴曰:「雖亡黄權、復得狐篤、此為世不乏賢也。」建興元年、丞相亮開府、以忠為門下督。三年、亮入南、拜忠牂牁太守。郡丞朱褒反。叛亂之後、忠撫育卹理、甚有威惠。八年、召為丞相參軍、副長史蔣琬署留府事。又領州治中從事。明年、亮出祁山、忠詣亮所、經營戎事。軍還、督將軍張嶷等討汶山郡叛羌。
※ 後主伝では太守となっています。雍闓が叛いた建寧郡では太守が殺されたり禽われたりし、高定が叛いた越雟にはそもそも太守の馬謖は赴任していない等、当時の太守の動向は何となく伝わっていますが、朱褒が叛いた牂牁では向朗の後の太守が不明です。ここは後主伝の通りで宜しいかと。
八年(230)、召して丞相参軍とし、長史蔣琬の副として留府の事に署けた。又た州の治中従事を兼領した。明年、諸葛亮が祁山に出た時、馬忠は諸葛亮の所に詣り、戎事(軍の事務)を経営した。軍が還ると、将軍張嶷らを督して汶山郡(茂県を中心とした阿壩自治州東辺一帯)の叛羌を討った。十一年、南夷豪帥劉冑反、擾亂諸郡。徴庲降都督張翼還、以忠代翼。忠遂斬冑、平南土。加忠監軍奮威將軍、封博陽亭侯。初、建寧郡殺太守正昂、縛太守張裔於呉、故都督常駐平夷縣。至忠、乃移治味縣、處民夷之間。又越雟郡亦久失土地、忠率將太守張嶷開復舊郡、由此就加安南將軍、進封彭郷亭侯。延熙五年還朝、因至漢中、見大司馬蔣琬、宣傳詔旨、加拜鎮南大將軍。七年春、大將軍費禕北禦魏敵、留忠成都、平尚書事。禕還、忠乃歸南。十二年卒、子脩嗣。
前年に費禕が蔣琬を訪れて何らかの宣旨を伝え、この歳に姜維が偏軍と共に蔣琬から引き離され、翌年には蔣琬自身も漢中から涪に異動されるという微妙かつ重要な時期に当ります。馬忠も一役買っていたとは。
七年(244)春、大将軍費禕が北のかた魏を禦いだ時、馬忠は成都に留まり、尚書の事を平章した➤。費禕が還ると、馬忠は南に還った。十二年(249)に卒し、子の馬脩が嗣いだ[1]。忠為人ェ濟有度量、但詼啁大笑、忿怒不形於色。然處事能斷、威恩並立、是以蠻夷畏而愛之。及卒、莫不自致喪庭、流涕盡哀、為之立廟祀、迄今猶在。
張表、時名士、清望踰忠。閻宇、宿有功幹、於事精勤。繼踵在忠後、其威風稱績、皆不及忠。
王平字子均、巴西宕渠人也。本養外家何氏、後復姓王。隨杜濩・朴胡詣洛陽、假校尉、從曹公征漢中、因降先主、拜牙門將・裨將軍。建興六年、屬參軍馬謖先鋒。謖舍水上山、舉措煩擾、平連規諫謖、謖不能用、大敗於街亭。衆盡星散、惟平所領千人、鳴鼓自持、魏將張郃疑其伏兵、不往偪也。於是平徐徐收合諸營遺迸、率將士而還。丞相亮既誅馬謖及將軍張休・李盛、奪將軍黄襲等兵、平特見崇顯、加拜參軍、統五部兼當營事、進位討寇將軍、封亭侯。
杜濩・朴胡は張魯を追って南下した曹操に降ったもので、王平はその部将でした。漢官でいえば別部司馬あたりかと。王平は215年に曹操に降り、遅くとも219年には劉備に降った事になります。その後は一貫して蜀将として働き、街亭の役や駱谷の役でも蜀を棄てていない点から、政治思想とか正統論とかではなく、“郷里を安寧に支配する勢力”として蜀漢を支持していたものと思われます。
建興六年(228)、(第一次北伐では)参軍馬謖の先鋒に属した。馬謖は水場を捨てて山に上り、挙措は煩擾で、王平は馬謖を諫めること連規(続けざま)だったが、馬謖は用いる事ができず、街亭で大敗した。軍兵は尽く星と散じたが、ただ王平の典領する千人は鼓を鳴らして自らを持し、魏将の張郃は伏兵を疑って偪ろうとしなかった。こうして王平は徐々に諸営の遺迸(敗残兵)を収合し、将士を率いて還った。丞相諸葛亮は馬謖および将軍張休・李盛を誅し、将軍黄襲らの兵を奪った後、王平を特に崇ぶこと顕かで、参軍を加拝し、五部を統べさせて軍営の事務を兼ねさせ、討寇将軍に進位して亭侯に封じた。九年、亮圍祁山、平別守南圍。魏大將軍司馬宣王攻亮、張郃攻平、平堅守不動、郃不能克。十二年、亮卒於武功、軍退還、魏延作亂、一戰而敗、平之功也。遷後典軍・安漢將軍、副車騎將軍呉壹住漢中、又領漢中太守。十五年、進封安漢侯、代壹督漢中。延熙元年、大將軍蔣琬住沔陽、平更為前護軍、署琬府事。六年、琬還住涪、拜平前監軍・鎮北大將軍、統漢中。
七年春、魏大將軍曹爽率歩騎十餘萬向漢川、前鋒已在駱谷。時漢中守兵不滿三萬、諸將大驚。或曰:「今力不足以拒敵、聽當固守漢・樂二城、遇賊令入、比爾間、涪軍足得救關。」平曰:「不然。漢中去涪垂千里。賊若得關、便為禍也。今宜先遣劉護軍・杜參軍據興勢、平為後拒;若賊分向黄金、平率千人下自臨之、比爾間、涪軍行至、此計之上也。」惟護軍劉敏與平意同、即便施行。涪諸軍及大將軍費禕自成都相繼而至、魏軍退還、如平本策。是時、ケ芝在東、馬忠在南、平在北境、咸著名迹。
劉備が魏延を留めて漢中に鎮守させた当初、諸囲に皆な兵を置いて外敵を禦がせ、敵が来攻しても入れないようにしていた。興勢の役に及び、王平は曹爽を捍拒したが、皆なこの制度を承けたものだった。 (『三國志』姜維伝)
当時、ケ芝は東に在り、馬忠は南に在り、王平は北境に在り、咸な名迹を著した。平生長戎旅、手不能書、其所識不過十字、而口授作書、皆有意理。使人讀史・漢諸紀傳、聽之、備知其大義、往往論説不失其指。遵履法度、言不戲謔、從朝至夕、端坐徹日、㦎無武將之體、然性狹侵疑、為人自輕、以此為損焉。十一年卒、子訓嗣。
※ 「性狭侵疑、為人自軽」 は筑摩版だと 「性格は偏狭で疑い深く、ひととなりは軽佻」 と訳されていますが、この 「ひととなりは軽佻」 と、前文の 「言不戯謔」 とがどうにも合いません。呉志王蕃伝に 「俗士挟侵、謂蕃自軽」 という似たような一節があり、こちらは 「(万ケは)俗物であって他を挟侵し、王蕃が自分を軽蔑していると思った」 と訳されています。“夾侵”と“自軽”の対句が当時の常套句ではないかとの指摘もあり(『三国志校箋』)、当方としてもこの指摘に則りました。 夾侵の意味がハッキリしませんが、どうも自虐的なニュアンスが感じられます。
初、平同郡漢昌句扶句古候反忠勇ェ厚、數有戰功、功名爵位亞平、官至左將軍、封宕渠侯。
張嶷字伯岐、巴郡南充國人也。弱冠為縣功曹。先主定蜀之際、山寇攻縣、縣長捐家逃亡、嶷冒白刃、攜負夫人、夫人得免。由是顯名、州召為從事。時郡内士人龔祿・姚伷位二千石、當世有聲名、皆與嶷友善。建興五年、丞相亮北住漢中、廣漢・綿竹山賊張慕等鈔盜軍資、劫掠吏民、嶷以都尉將兵討之。嶷度其鳥散、難以戰禽、乃詐與和親、尅期置酒。酒酣、嶷身率左右、因斬慕等五十餘級、渠帥悉殄。尋其餘類、旬日清泰。後得疾病困篤、家素貧匱、廣漢太守蜀郡何祗、名為通厚、嶷宿與疎闊、乃自轝詣祗、託以治疾。祗傾財醫療、數年除愈。其黨道信義皆此類也。
拜為牙門將、屬馬忠、北討汶山叛羌、南平四郡蠻夷、輒有籌畫戰克之功。十四年、武都氐王苻健請降、遣將軍張尉往迎、過期不到、大將軍蔣琬深以為念。嶷平之曰:「苻健求附款至、必無他變、素聞健弟狡黠、又夷狄不能同功、將有乖離、是以稽留耳。」數日、問至、健弟果將四百戸就魏、獨健來從。
初、越雟郡自丞相亮討高定之後、叟夷數反、殺太守龔祿・焦璜、是後太守不敢之郡、只住〔安上〕縣、去郡八百餘里、其郡徒有名而已。時論欲復舊郡、除嶷為越雟太守、嶷將所領往之郡、誘以恩信、蠻夷皆服、頗來降附。北徼捉馬最驍勁、不承節度、嶷乃往討、生縛其帥魏狼、又解縱告喩、使招懷餘類。表拜狼為邑侯、種落三千餘戸皆安土供職。諸種聞之、多漸降服、嶷以功賜爵關内侯。
蘇祁邑君冬逢・逢弟隗渠等、已降復反。嶷誅逢。逢妻、旄牛王女、嶷以計原之。而渠逃入西徼。渠剛猛捷悍、為諸種深所畏憚、遣所親二人詐降嶷、實取消息。嶷覺之、許以重賞、使為反間、二人遂合謀殺渠。渠死、諸種皆安。又斯都耆帥李求承、昔手殺龔祿、嶷求募捕得、數其宿惡而誅之。
始嶷以郡郛宇頽壞、更築小塢。在官三年、徙還故郡、繕治城郭、夷種男女莫不致力。
定莋・臺登・卑水三縣去郡三百餘里、舊出鹽鐵及漆、而夷徼久自固食。嶷率所領奪取、署長吏焉。嶷之到定莋、定莋率豪狼岑、槃木王舅、甚為蠻夷所信任、忿嶷自侵、不自來詣。嶷使壯士數十直往收致、撻而殺之、持尸還種、厚加賞賜、喩以狼岑之惡、且曰:「無得妄動、動即殄矣!」種類咸面縛謝過。嶷殺牛饗宴、重申恩信、遂獲鹽鐵、器用周贍。
漢嘉郡界旄牛夷種類四千餘戸、其率狼路、欲為姑壻冬逢報怨、遣叔父離將逢衆相度形勢。嶷逆遣親近齎牛酒勞賜、又令離逆逢妻宣暢意旨。離既受賜、并見其姊、姊弟歡ス、悉率所領將詣嶷、嶷厚加賞待、遣還。旄牛由是輒不為患。
郡有舊道、經旄牛中至成都、既平且近;自旄牛絶道、已百餘年、更由安上、既險且遠。嶷遣左右齎貨幣賜路、重令路姑喩意、路乃率兄弟妻子悉詣嶷、嶷與盟誓、開通舊道、千里肅清、復古亭驛。奏封路為旄牛㽛毗王、遣使將路朝貢。後主於是加嶷撫戎將軍、領郡如故。
蜀漢の西南夷政策は主に庲降都督が担当し、中でも功績が最も顕著とされるのが、南征でも一軍を率いた馬忠ですが、具体的な事績は張嶷に多く、「略の馬忠・術の張嶷」 といった風情です。残念ながら、両者の事績の多くが『演義』では南征での諸葛亮の功績に帰し、非常に影の薄い存在になってしまっています。
嶷初見費禕為大將軍、恣性汎愛、待信新附太過、嶷書戒之曰:「昔岑彭率師、來歙杖節、咸見害於刺客、今明將軍位尊權重、宜鑒前事、少以為警。」後禕果為魏降人郭脩所害。
呉太傅諸葛恪以初破魏軍、大興兵衆以圖攻取。侍中諸葛瞻、丞相亮之子、恪從弟也、嶷與書曰:「東主初崩、帝實幼弱、太傅受寄託之重、亦何容易!親以周公之才、猶有管・蔡流言之變、霍光受任、亦有燕・蓋・上官逆亂之謀、ョ成・昭之明、以免斯難耳。昔毎聞東主殺生賞罰、不任下人、又今以垂沒之命、卒召太傅、屬以後事、誠實可慮。加呉・楚剽急、乃昔所記、而太傅離少主、履敵庭、恐非良計長算之術也。雖云東家綱紀肅然、上下輯睦、百有一失、非明者之慮邪?取古則今、今則古也、自非郎君進忠言於太傅、誰復有盡言者也! 旋軍廣農、務行コ惠、數年之中、東西並舉、實為不晩、願深採察。」恪竟以此夷族。嶷識見多如是類。
「東主は崩じたばかりで、呉帝はまことに幼弱であり、太傅が寄託の重任を受けたのは、亦たどうして容易な事だとできましょう! 親族として周公の才を以ても、猶お管叔・蔡叔の流言の変事があり、霍光は任を受けながら、亦た燕王・蓋公主・上官桀の逆乱の謀があり、成王・昭帝の明察を頼りにどうにか難を免れました。昔、事毎に東主は殺生・賞罰を下人に任せないと聞いておりましたが、又た今や垂歿の命(臨終)を以てにわかに太傅を召して後事を属託したとの事で、まことに憂慮すべき事です。加えて呉楚は剽悍性急だと、昔にも記されており、しかも太傅は少主より離れて敵庭を履んでおり、恐らくは長算の術として良計ではありますまい。東家の綱紀が粛然で、上下が輯睦だとは云うものの、百に一失が生じる事は聡明者の思慮せぬ事でありますまいか? 古えを取って今を測れば、今は則ち古えと同じであり、郎君が太傅に忠言を進めずに、誰が復た言葉を尽すでありましょう! 軍を旋して農を広め、務めて徳治・恵政を行ない、数年の中に東西が揃って挙兵しして晩(おそ)い事はありません。願わくば深く採察されん事を」
諸葛恪は竟(つい)にこれ(北伐)によって夷族された。張嶷の識見の多くはこのような類いだった。在郡十五年、邦域安穆。屡乞求還、乃徴詣成都。〔民夷〕戀慕、扶轂泣涕、過旄牛邑、邑君襁負來迎、及追尋至蜀郡界、其督相率隨嶷朝貢者百餘人。嶷至、拜盪寇將軍、慷慨壯烈、士人咸多貴之、然放蕩少禮、人亦以此譏焉、是歳延熙十七年也。魏狄道長李簡密書請降、衞將軍姜維率嶷等因簡之資以出隴西。既到狄道、簡悉率城中吏民出迎軍。軍前與魏將徐質交鋒、嶷臨陳隕身、然其所殺傷亦過倍。既亡、封長子瑛西郷侯、次子護雄襲爵。南土越雟民夷聞嶷死、無不悲泣、為嶷立廟、四時水旱輒祀之。
※ 輻の集まる車輪の中央部分。
張嶷は至ると盪寇将軍を拝命した。慷慨壮烈であり、士人は咸な多くがこれを貴んだが、放蕩にして礼儀に少(か)け、人は亦たこれによって譏った[3]。この歳は延熙十七年(254)である。蜀軍が河関・狄道・臨洮の三県を抜き、その住民を蜀に徙した戦いです。翌年、姜維は再び北伐し、魏の雍州刺史王経を大破します。=洮西の役
亡くなった後、長子の張瑛を西郷侯に封じ、次子の張護雄が襲爵した。南土の越雟の民夷は張嶷の死を聞いて悲泣せぬ者は無く、張嶷の為に廟を立て、四時や水旱のたびにこれを祀った[5]。評曰:黄權弘雅思量、李恢公亮志業、呂凱守節不回、馬忠擾而能毅、王平忠勇而嚴整、張嶷識斷明果、咸以所長、顯名發迹、遇其時也。