三國志修正計画

三國志卷四十三 蜀志十三/黄李呂馬王張傳

黄権

 黄權字公衡、巴西閬中人也。少為郡吏、州牧劉璋召為主簿。時別駕張松建議、宜迎先主、使伐張魯。權諫曰:「左將軍有驍名、今請到、欲以部曲遇之、則不滿其心、欲以賓客禮待、則一國不容二君。若客有泰山之安、則主有累卵之危。可但閉境、以待河清。」璋不聽、竟遣使迎先主、出權為廣漢長。及先主襲取益州、將帥分下郡縣、郡縣望風景附、權閉城堅守、須劉璋稽服、乃詣降先主。先主假權偏將軍。及曹公破張魯、魯走入巴中、權進曰:「若失漢中、則三巴不振、此為割蜀之股臂也。」於是先主以權為護軍、率諸將迎魯。魯已還南鄭、北降曹公、然卒破杜濩・朴胡、殺夏侯淵、據漢中、皆權本謀也。

 黄権、字は公衡。巴西閬中の人である。若くして郡吏となり、州牧の劉璋が召して主簿とした。時に別駕張松が建議するには、劉備を迎えて張魯を伐たせるべきだと。黄権は諫めて 「左将軍には驍名があり、今、到る事を請うても、部曲として遇そうとすればその心を満たせず、賓客の礼で待遇しようにも一国は二君を容れません。もし客人に泰山の安泰さがあれば、それは主人にとっての累卵の危うさとなります。ただ国境を閉じ、黄河が清くなる(事態が落ち着く)のを待つべきです」 。劉璋は聴かず、竟に遣使して劉備を迎えさせ、黄権を出して広漢県長とした。
 劉備が益州を襲取し、将帥が分れて郡県に下るに及び、郡県は風を望んで景附(靡縻)したが、黄権は城を閉じて堅守し、劉璋が稽服(降伏)するのを須(ま)ってから劉備に詣降した。劉備は黄権に偏将軍を仮した[1]。曹操が張魯を破り、張魯が巴中に走入するに及び、黄権が進言するには 「もし漢中を失えば、三巴は振いません。これは蜀の股臂を割くようなものです」 と。ここに劉備は黄権を護軍とし、諸将を率いて張魯を迎えさせた。張魯は已に南鄭に還って北の曹操に降っていたが、杜濩・朴胡を破り、夏侯淵を殺し、漢中に拠ったのは、皆な黄権の本来の謀図だった。

 法正伝では、漢中奪取の大方針は法正の進言によるものとされています。そもそも巴蜀を奪った劉備陣営が安定を得る上で漢中の奪取は至上命題となるもので、誰が図ったというよりも、劉備陣営の総意として決定されたと考えるべきです。外来者代表の法正と現地人代表の黄権という二大戦略家の見解が一致した点が重要なのでしょう。

 先主為漢中王、猶領益州牧、以權為治中從事。及稱尊號、將東伐呉、權諫曰:「呉人悍戰、又水軍順流、進易退難、臣請為先驅以嘗寇、陛下宜為後鎮。」先主不從、以權為鎮北將軍、督江北軍以防魏師;先主自在江南。及呉將軍陸議乘流斷圍、南軍敗績、先主引退。而道隔絶、權不得還、故率將所領降于魏。有司執法、白收權妻子。先主曰:「孤負黄權、權不負孤也。」待之如初。

 劉備は漢中王となると、猶おも益州牧を兼領し、黄権を治中従事とした。尊号を称し、東のかた呉を伐とうとするに及んで黄権は諫めて、「呉人は悍(たけ)く戦い、又た水軍とは流れに順うもので、進み易く退き難いものです。どうか臣を先駆として寇賊を嘗(ため)させて頂きたい。陛下は後鎮となられるべきです」 と。先主は従わず、黄権を鎮北将軍とし、江北軍を督して魏師を防がせ、先主は自ら江南に在った。呉の将軍の陸議が河流に乗じて囲(屯営)を断つに及び、南軍は敗績して先主は引き退いた。そして道が隔絶した為に黄権は還れず、それゆえ率いている領兵を率いて魏に降った。有司は法を執って、黄権の妻子を収捕するよう白(もう)した。先主は、「孤が黄権に負(そむ)いたのであり、黄権は孤に負いていない」 と、当初のように待遇した[2]

 魏文帝謂權曰:「君捨逆效順、欲追蹤陳・韓邪?」權對曰:「臣過受劉主殊遇、降呉不可、還蜀無路、是以歸命。且敗軍之將、免死為幸、何古人之可慕也!」文帝善之、拜為鎮南將軍、封育陽侯、加侍中、使之陪乘。蜀降人或云誅權妻子、權知其虚言、未便發喪、後得審問、果如所言。及先主薨問至、魏羣臣咸賀而權獨否。文帝察權有局量、欲試驚之、遣左右詔權、未至之間、累催相屬、馬使奔馳、交錯於道、官屬侍從莫不碎魄、而權舉止顏色自若。後領益州刺史、徙占河南。大將軍司馬宣王深器之、問權曰:「蜀中有卿輩幾人?」權笑而答曰:「不圖明公見顧之重也!」宣王與諸葛亮書曰:「黄公衡、快士也、毎坐起歎述足下、不去口實。」景初三年、蜀延熙二年、權遷車騎將軍・儀同三司。明年卒、諡曰景侯。子邕嗣。邕無子、絶。

 魏文帝が黄権に謂うには 「君が逆を捨てて順に効(あかし)したのは、陳平・韓信を追蹤しようとしてか?」 黄権は対えて 「臣は劉主の殊遇を受けること過分であり、呉に降るわけにはいかず、蜀に還る路も無く、このため天命に帰したのです。しかも敗軍の将としては死を免れた事を幸いとしており、どうして古人を慕いなどしましょう!」 文帝はこれを善しとし、拝して鎮南将軍とし、育陽侯に封じ、侍中を加えて陪乗させた。蜀の降人の或る者が、黄権の妻子が誅されたと云ったが、黄権はそれが虚言である事を察知し、すぐには喪を発さず[3]、後に審らかな問(音信)を得ると、果たして(黄権の)言った通りだった。先主が薨じたとの問が至るに及び、魏の群臣は咸な慶賀したが、黄権は独り拒否した。
 文帝は黄権に器局・度量がある事を察し、試みに驚かせようとし、左右の者を遣って黄権に詔し、至るまでの間に累ねて催促する者を相い属(つら)ならせ、馬を奔馳して道中で交錯させた。官属や侍従で魄を砕かぬ者とて莫かったが、黄権の挙止・顔色は自若としていた。後に益州刺史を兼領し、徙って河南を占めた。大将軍司馬懿は深く器(おも)んじ、黄権に問うには 「蜀中には卿のような輩らは幾人か?」 黄権は笑いつつ答え 「明公の顧みられる事がこれほど重いとは考えもしませんでした!」 司馬懿は諸葛亮に与えた書簡で 「黄公衡は快士である。坐起の毎に足下を歎じ述べ、口にしない事が無い」
 景初三年(239)、蜀の延熙二年、黄権は車騎将軍・儀同三司に遷った[4]。明年に卒し、景侯と諡した。子の黄邕が嗣いだ。黄邕には子が無く、断絶した。

 權留蜀子崇、為尚書郎、隨衞將軍諸葛瞻拒ケ艾。到涪縣、瞻盤桓未進、崇屡勸瞻宜速行據險、無令敵得入平地。瞻猶與未納、崇至于流涕。會艾長驅而前、瞻卻戰至綿竹、崇帥詞R士、期於必死、臨陳見殺。

 黄権の蜀に留まった子の黄崇は尚書郎となり、衛将軍諸葛瞻に随ってケ艾を拒いだ。涪県に到り、諸葛瞻は盤桓(躊躇)して進まず、黄崇はしばしば諸葛瞻に、速やかに行って険阻に拠り、敵が平地に入れないようにすべきだと勧めた。諸葛瞻は猶おも納れず、黄崇は流涕するに至った。折しもケ艾が長躯して前進し、諸葛瞻は退却しつつ戦って綿竹に至った。黄崇は軍士を帥い(はげま)し、必ず死せん事を期し、戦陣に臨んで殺された。
 
[1] 黄権が主君に忠諫した後、又た閉城拒守したのは、君に臣事する礼というものだ。武王が下車して比干の墓を封土し、商容[※]の閭里を顕彰したのは、忠賢の士を大いに明らかにして貴ぶべき主旨を明示する為であった。劉備が黄権に将軍を仮したのは善き事ではあるが、猶お薄少であり、忠義の高節を顕彰し、善人の心を大いに勧めるには足りないものであった。 (徐衆『評』)

※ 殷末の宰相。紂王を諫めて聴かれず、罷免されて隠遁した。克殷の後、周の辟召を固辞した。

[2] 裴松之が考えるに、漢武帝は虚罔の言葉を信じて李陵の家を滅ぼし、劉主は憲司の意見を拒んで黄権の室を宥した。二主の得失は懸絶すること邈遠(遥遠)である。『詩』が云う 「君子を楽しませ、爾の後裔を保乂(保養)せん」 とは、劉主を謂うのであろう。
[3] 文帝が詔にて喪を発するよう命じた処、黄権が答えるには 「臣と劉備・諸葛亮とは誠意を推して相い信じ、臣は本志を明らかにしております。疑惑は未だ現実のものではなく、後の音信を待たせて頂きたい」 (『漢魏春秋』)
[4] 魏明帝が黄権に問うには 「天下は鼎立しているが、どの地を以て正統とすべきか?」 黄権が対えるには 「天文を以て正統を定めるべきです。かねて熒惑星が心宿に止まって文皇帝が崩御されましたが、呉・蜀の二主は平安でありました。これがその験です」 (『蜀記』)
 

李恢

 李恢字コ昂、建寧兪元人也。仕郡督郵、姑夫爨習為建伶令、有違犯之事、恢坐習免官。太守董和以習方土大姓、寢而不許。後貢恢于州、渉道未至、聞先主自葭萌還攻劉璋。恢知璋之必敗、先主必成、乃託名郡使、北詣先主、遇於綿竹。先主嘉之、從至雒城、遣恢至漢中交好馬超、超遂從命。成都既定、先主領益州牧、以恢為功曹書佐主簿。後為亡虜所誣、引恢謀反、有司執送、先主明其不然、更遷恢為別駕從事。章武元年、庲降都督ケ方卒、先主問恢:「誰可代者?」恢對曰:「人之才能、各有長短、故孔子曰『其使人也器之』。且夫明主在上、則臣下盡情、是以先零之役、趙充國曰『莫若老臣』。臣竊不自揆、惟陛下察之。」先主笑曰:「孤之本意、亦已在卿矣。」遂以恢為庲降都督、使持節領交州剌史、住平夷縣。

 李恢、字は徳昂。建寧兪元の人である。郡に督郵として仕えた時、姑夫の爨習は建伶令だったが、違犯の事があって李恢は爨習に坐して免官された。太守董和は爨習が土地の大姓であり、寝(廃案)して許さなかった[1]。後に李恢は州に貢(あ)げられ、道を渉って未だ至らぬうちに、劉備が葭萌より還って劉璋を攻めたと聞いた。李恢は劉璋が必ず敗れ、劉備が必ず成功すると知り、かくして名を郡使に託し、北のかた劉備に詣り、綿竹で遭遇した。劉備はこれを嘉し、従えて雒城に至ると、李恢を遣って漢中に至って馬超と好みを結ばせ、馬超はかくて命令に従った。成都が定まると劉備は益州牧を兼領し、李恢を功曹書佐・主簿とした。後に亡虜(逃亡の罪人)に誣されるには、李恢を謀反に引き入れたと。有司が執えて送ると、劉備はその事実でない事を明らかにし、更めて李恢を遷して別駕従事とした。
 章武元年(221)に庲降都督ケ方が卒し、先主が李恢に問うには 「誰を代りにすべきか?」 と。李恢が対えるには 「人の才能とは各々で長短があり、それゆえ孔子は“その人を使うには、これを器にす”と。しかも明主が上に在れば、臣下は真情を尽すもので、このため先零羌の役で趙充国は“老臣に如(し)くは莫し”と(自薦したのです)。臣は竊かに自らを揆(はか)らず、ただ陛下にこれを察していただきたい」。先主は笑って 「孤の本意も亦た已に卿にあったのだ」と。かくて李恢を庲降都督・使持節・領交州剌史とし、(牂牁郡の)平夷県(貴州省遵義市仁懐)に駐めた[2]

 先主薨、高定恣睢於越雟、雍闓跋扈於建寧、朱褒反叛於牂牁。丞相亮南征、先由越雟、而恢案道向建寧。諸縣大相糾合、圍恢軍於昆明。時恢衆少敵倍、又未得亮聲息、紿謂南人曰:「官軍糧盡、欲規退還、吾中間久斥郷里、乃今得旋、不能復北、欲還與汝等同計謀、故以誠相告。」南人信之、故圍守怠緩。於是恢出撃、大破之、追奔逐北、南至槃江、東接牂牁、與亮聲勢相連。南土平定、恢軍功居多、封漢興亭侯、加安漢將軍。後軍還、南夷復叛、殺害守將。恢身往撲討、鉏盡惡類、徙其豪帥于成都、賦出叟・濮耕牛戰馬金銀犀革、充繼軍資、于時費用不乏。

 先主が薨じると、高定は越雟で恣睢(横暴)となり、雍闓は建寧(旧の益州郡)に跋扈し、朱褒は牂牁で反叛した。丞相諸葛亮は南征に際し、先ず越雟を経由し、李恢は道を案(たず)ねて建寧に向った。諸県は大いに相い糾合し、李恢の軍を昆明で囲んだ。時に李恢の軍兵は少なく敵は倍であり、又た未だ諸葛亮の声息も得られなかったので、南人を紿(あざむ)いて謂うには 「官軍の糧は尽き、退還の事を規企しようと思う。私はこれまで久しく郷里を斥(はな)れていたが、今こそ旋帰する事ができる。再びは北する事はできない。還ったら汝らと計謀を同じくしたい。だからこそ誠意から告げるのだ」 と。南人はこれを信じ、それゆえ囲守を怠緩した。ここに李恢は出撃してこれを大破し、奔るを追い北(に)げるを逐い、南の槃江に至り、東は牂牁に接し、諸葛亮と声勢を相い連ねた。南土が平定すると、李恢の軍功が多かった為に漢興亭侯に封じられ、安漢将軍を加えられた。
 軍が還った後に南夷が復た叛き、守将を殺害した。李恢は身ずから撲討に往き、悪類を鉏尽(根絶)し、その豪帥を成都に徙し、叟人・濮人[※]に耕牛・戦馬・金銀・犀革を賦出させ、軍資に充継したので、当時は費用は乏しくなかった。

※ 西南夷の一種。タイ系白蛮の前身とも称される。

 建興七年、以交州屬呉、解恢刺史。更領建寧太守、以還居本郡。徙居漢中、九年卒。子遺嗣。恢弟子球、羽林右部督、隨諸葛瞻拒ケ艾、臨陳授命、死于緜竹。

 建興七年(229)、交州が呉に属した為、李恢の刺史を解いた。更めて建寧太守を兼領し、還って本郡に居した。漢中に徙居され、九年(231)に卒した。子の李遺が嗣いだ。李恢の弟の子の李球は羽林右部督となり、諸葛瞻がケ艾を拒ぐのに随い、戦陣に臨んで生命を授け、緜竹で死んだ。
[1] 爨習は後に官が領軍将軍に至った。 (『華陽國志』)
[2] 裴松之が蜀人に訊ねた処、庲降とは地名であり、蜀郡を去ること二千余里で、当時はまだ寧州は無く、南中と号し、この職を立ててこれを総摂させたと云った。晋の泰始中、始めて分けて寧州とした。
 

呂凱

 呂凱字季平、永昌不韋人也。仕郡五官掾功曹。時雍闓等聞先主薨於永安、驕黠滋甚。都護李嚴與闓書六紙、解喩利害、闓但答一紙曰:「蓋聞天無二日、土無二王、今天下鼎立、正朔有三、是以遠人惶惑、不知所歸也。」其桀慢如此。闓又降於呉、呉遙署闓為永昌太守。永昌既在益州郡之西、道路壅塞、與蜀隔絶、而郡太守改易、凱與府丞蜀郡王伉帥似剿ッ、閉境拒闓。闓數移檄永昌、稱説云云。凱答檄曰:「天降喪亂、奸雄乘釁、天下切齒、萬國悲悼、臣妾大小、莫不思竭筋力、肝腦塗地、以除國難。伏惟將軍世受漢恩、以為當躬聚黨衆、率先啓行、上以報國家、下不負先人、書功竹帛、遺名千載。何期臣僕呉越、背本就末乎? 昔舜勤民事、隕于蒼梧、書籍嘉之、流聲無窮。崩于江浦、何足可悲!文・武受命、成王乃平。先帝龍興、海内望風、宰臣聰睿、自天降康。而將軍不覩盛衰之紀、成敗之符、譬如野火在原、蹈履河冰、火滅冰泮、將何所依附? 曩者將軍先君雍侯、造怨而封、竇融知興、歸志世祖、皆流名後葉、世歌其美。今諸葛丞相英才挺出、深覩未萌、受遺託孤、翊贊季興、與衆無忌、録功忘瑕。將軍若能翻然改圖、易跡更歩、古人不難追、鄙土何足宰哉!蓋聞楚國不恭、齊桓是責、夫差僭號、晉人不長、況臣於非主、誰肯歸之邪?竊惟古義、臣無越境之交、是以前後有來無往。重承告示、發憤忘食、故略陳所懷、惟將軍察焉。」凱威恩内著、為郡中所信、故能全其節。

 呂凱、字は季平。永昌不韋の人である[1]。郡に五官掾功曹として仕えた。時に雍闓らは先主が永安で薨じたと聞き、驕黠(驕慢狡猾)たること甚だ滋(ま)した。都護李厳が雍闓に書状六紙を与え、利害を解喩した処、雍闓はただ一紙にて答えるには 「かねて天に二日は無く、地に二王は無いと聞いている。今、天下は鼎立し、正朔は三通りあり、このため遠人は惶れ惑い、帰す相手が分らないのだ」 その桀慢(暴慢)はこの通りだった。雍闓は又た(士燮を通じて)呉に降り、呉は雍闓を遥署して永昌太守とした。永昌は益州郡の西に在り、道路は壅塞して蜀とは隔絶し、しかも郡太守が改易された処で、呂凱は府丞である蜀郡の王伉と吏民を帥い(はげま)し、境を閉じて雍闓を拒いだ。雍闓はしばしば永昌に檄を移送しては云云(とやかく)と説いた。呂凱が檄に答えるには

「天が喪乱を降し、奸雄が釁(すき)に乗じた為に天下は切歯し、万国は悲悼し、臣妾は大小とも、筋力を竭(つ)くして肝脳を地に塗れさせても国難を除こうと思わぬ者はありません。伏して惟るに、将軍は世々に漢の恩を受けており、まさに躬ずから党衆を聚め、率先啓行して、上は国家に報じ、下は先人に負(そむ)かず、功を竹帛に書(しる)し、名を千載に遺すべきでありましょう。どうして呉越の臣僕となって、本に背き末に就かれるのか? 昔、舜は民事に勤しんで蒼梧に隕命しましたが、書籍はこれを嘉し、声誉は無窮に流布しております。江浦に崩じたところでどうして悲しむに足りましょう! 文王・武王が天命を受けたので、成王はかくして平らげる事ができたのです。
 先帝が龍興(登極)すると海内は風を望み、宰臣は聡睿であり、天より安康を降されました。しかし将軍は盛衰の紀や成敗の符を観ず、譬えるなら野火が原に在り、河冰を踏履するようなもので、火が滅び冰が泮(と)けたならどこに依附されるのか? 過去には将軍の先君の雍侯は怨まれながらも封じられ、竇融は(漢の)興る事を知って志を世祖(光武帝)に帰したもので、皆な名が後葉に流布し、世はその美を歌っております。今、諸葛丞相の英才は挺出(突出)し、深く萌芽以前の事を観、託孤の遺命を受け、季興(直近の再興)を翊賛し、人々と与にする事を忌まず、功を録して瑕疵を忘れております。将軍がもし翻然として意図を改め、跡を易えて更めて歩めるなら、古人を追う事も難しくはなく、鄙土の宰領でどうして足りましょう! 確かに聞く処では、楚国が恭順しなかったのを斉桓公が責め、夫差は僭号したものの晋人は(盟約の)長としなかったとか。ましてや主たらざる者に臣事したとて、誰が帰す事を肯んじましょうか? 竊かに古義を惟るに、臣下とは越境の交わりをせぬもので、このため(書簡が)前後して来ても往かなかったのです。重ねて告示を承け、発奮して食事を忘れ、それゆえ懐く所をほぼ陳べるものです。将軍よ、ただ察せられよ」

呂凱の威恩は郡内に著しく、郡中に信じられ、それゆえその節を全うできた。

 及丞相亮南征討闓、既發在道、而闓已為高定部曲所殺。亮至南、上表曰:「永昌郡吏呂凱・府丞王伉等、執忠絶域、十有餘年、雍闓・高定偪其東北、而凱等守義不與交通。臣不意永昌風俗敦直乃爾!」以凱為雲南太守、封陽遷亭侯。會為叛夷所害、子祥嗣。而王伉亦封亭侯、為永昌太守。

 丞相諸葛亮が南征して雍闓を征討し、進発して道中に在った折、雍闓は已に高定の部曲に殺されていた。諸葛亮は南に至り、上表するには 「永昌郡吏の呂凱・府丞の王伉らは、絶域に忠を執ること十有余年。雍闓・高定がその東北に偪り、しかし呂凱らは義を守って交通しませんでした。臣は永昌の風俗が敦直なる事がこれ程とは意(おも)いませんでした!」。呂凱を雲南太守とし、陽遷亭侯に封じた。たまたま夷が叛いて殺され、子の呂祥が嗣いだ。そして王伉も亦た亭侯に封じられ、永昌太守とされた[2]
 
[1] 嘗て秦は呂不韋の子弟宗族を蜀・漢に徙した。漢武帝の時に西南夷を開拓して郡県を置き、呂氏を徙してこれに充当し、これに因んで不韋県といった。 (孫盛『蜀世譜』)
[2] 呂祥は後に晋の南夷校尉となり、呂祥の子および孫は世々で永昌太守となった。李雄が寧州を破ると、諸呂は附属することを肯んぜず、郡を挙げて固守した。王伉らも亦た正節を守った。 (『蜀世譜』)
 

馬忠

 馬忠字コ信、巴西閬中人也。少養外家、姓狐、名篤、後乃復姓、改名忠。為郡吏、建安末舉孝廉、除漢昌長。先主東征、敗績猇亭、巴西太守閻芝發諸縣兵五千人以補遺闕、遣忠送往。先主已還永安、見忠與語、謂尚書令劉巴曰:「雖亡黄權、復得狐篤、此為世不乏賢也。」建興元年、丞相亮開府、以忠為門下督。三年、亮入南、拜忠牂牁太守。郡丞朱褒反。叛亂之後、忠撫育卹理、甚有威惠。八年、召為丞相參軍、副長史蔣琬署留府事。又領州治中從事。明年、亮出祁山、忠詣亮所、經營戎事。軍還、督將軍張嶷等討汶山郡叛羌。

 馬忠、字は徳信。巴西閬中の人である。若くして外戚の家に養われ、姓を狐、名を篤といったが、後に姓を復して忠と改名した。郡吏となり、建安の末に孝廉に挙げられ、漢昌県長に叙された。先主が東征して猇亭で敗績した時、巴西太守閻芝が諸県の兵五千人を徴発して遺闕を補い、馬忠を遣って送往させた。先主は已に永安に還っており、馬忠と会見して語らい、尚書令劉巴に謂うには 「黄権を亡失したとはいえ、復た狐篤を得た。これぞ世に賢者は乏しくないというものだ」
 建興元年(223)、丞相諸葛亮は開府すると、馬忠を門下督とした。三年(225)、諸葛亮は南中に入ると、馬忠を牂牁太守に拝した。(これ以前に)郡丞の朱褒[※]が反いていたが、叛乱の後、馬忠は撫育・卹理し、甚だ威恵があった。

※ 後主伝では太守となっています。雍闓が叛いた建寧郡では太守が殺されたり禽われたりし、高定が叛いた越雟にはそもそも太守の馬謖は赴任していない等、当時の太守の動向は何となく伝わっていますが、朱褒が叛いた牂牁では向朗の後の太守が不明です。ここは後主伝の通りで宜しいかと。

八年(230)、召して丞相参軍とし、長史蔣琬の副として留府の事に署けた。又た州の治中従事を兼領した。明年、諸葛亮が祁山に出た時、馬忠は諸葛亮の所に詣り、戎事(軍の事務)を経営した。軍が還ると、将軍張嶷らを督して汶山郡(茂県を中心とした阿壩自治州東辺一帯)の叛羌を討った。

十一年、南夷豪帥劉冑反、擾亂諸郡。徴庲降都督張翼還、以忠代翼。忠遂斬冑、平南土。加忠監軍奮威將軍、封博陽亭侯。初、建寧郡殺太守正昂、縛太守張裔於呉、故都督常駐平夷縣。至忠、乃移治味縣、處民夷之間。又越雟郡亦久失土地、忠率將太守張嶷開復舊郡、由此就加安南將軍、進封彭郷亭侯。延熙五年還朝、因至漢中、見大司馬蔣琬、宣傳詔旨、加拜鎮南大將軍。七年春、大將軍費禕北禦魏敵、留忠成都、平尚書事。禕還、忠乃歸南。十二年卒、子脩嗣。

 十一年(233)、南夷の豪帥の劉冑が反き、諸郡を擾乱した。庲降都督張翼を徴還し、馬忠を張翼に代えた。馬忠はかくて劉冑を斬り、南土を平らげた。馬忠に監軍・奮威将軍を加え、博陽亭侯に封じた。
 嘗て、建寧郡は太守正昂を殺し、呉の為に太守張裔を縛し、そのため都督は(牂牁郡の)平夷県(遵義市仁懐)に常駐した。馬忠は至ると昧県(曲靖市)に治所を移し、民夷の間を住処とした。又た越雟郡も亦た久しく土地を失っており、馬忠は太守張嶷を率将して旧郡を開復し、これによって現地で安南将軍を加えられ、彭郷亭侯に進封された。
 延熙五年(242)に朝廷に還り、(命令で)漢中に至ると大司馬蔣琬に見(まみ)えて詔旨を宣べ伝え、鎮南大将軍を加拝された。

 前年に費禕が蔣琬を訪れて何らかの宣旨を伝え、この歳に姜維が偏軍と共に蔣琬から引き離され、翌年には蔣琬自身も漢中から涪に異動されるという微妙かつ重要な時期に当ります。馬忠も一役買っていたとは。

七年(244)春、大将軍費禕が北のかた魏を禦いだ時、馬忠は成都に留まり、尚書の事を平章した。費禕が還ると、馬忠は南に還った。十二年(249)に卒し、子の馬脩が嗣いだ[1]

 忠為人ェ濟有度量、但詼啁大笑、忿怒不形於色。然處事能斷、威恩並立、是以蠻夷畏而愛之。及卒、莫不自致喪庭、流涕盡哀、為之立廟祀、迄今猶在。

 馬忠の為人りはェ済で度量があり、ただ詼啁(諧謔)して大いに笑う事はあったが、忿怒を顔色に形(あらわ)す事はなかった。しかし事に対処して決断でき、威恩並び立ち、これによって蛮夷は畏れつつも愛した。卒するに及び、自ら喪庭に致って流涕して哀悼を尽さぬ者は莫く、馬忠の為に廟祀を立て、今に至る迄なお存在している。

 張表、時名士、清望踰忠。閻宇、宿有功幹、於事精勤。繼踵在忠後、其威風稱績、皆不及忠。

 張表は時の名士であり、清望では馬忠を踰えていた。閻宇にはかねて功幹があり、職事にも精勤した。馬忠の後を継踵したが、その威風・称績は皆な馬忠に及ばなかった[2]
[1] 馬脩の弟は馬恢である。馬恢の子の馬義は、晋の建寧太守である。
[2] 張表は張粛の子である。 (『益部耆旧伝』)
―― 『華陽國志』が云うには、張表は張松の子だと。(事の是非は)詳らかではない。
閻宇は字を文平といい、南郡の人である。
 

王平

 王平字子均、巴西宕渠人也。本養外家何氏、後復姓王。隨杜濩・朴胡詣洛陽、假校尉、從曹公征漢中、因降先主、拜牙門將・裨將軍。建興六年、屬參軍馬謖先鋒。謖舍水上山、舉措煩擾、平連規諫謖、謖不能用、大敗於街亭。衆盡星散、惟平所領千人、鳴鼓自持、魏將張郃疑其伏兵、不往偪也。於是平徐徐收合諸營遺迸、率將士而還。丞相亮既誅馬謖及將軍張休・李盛、奪將軍黄襲等兵、平特見崇顯、加拜參軍、統五部兼當營事、進位討寇將軍、封亭侯。

 王平、字は子均。巴西宕渠の人である。もとは外戚の家の何氏に養われたが、後に王氏に復姓した。杜濩・朴胡が洛陽に詣るのに随い、校尉を仮され、曹操が征伐するのに従い、そのとき劉備に降って牙門将軍・裨将軍を拝命した。

 杜濩・朴胡は張魯を追って南下した曹操に降ったもので、王平はその部将でした。漢官でいえば別部司馬あたりかと。王平は215年に曹操に降り、遅くとも219年には劉備に降った事になります。その後は一貫して蜀将として働き、街亭の役や駱谷の役でも蜀を棄てていない点から、政治思想とか正統論とかではなく、“郷里を安寧に支配する勢力”として蜀漢を支持していたものと思われます。

 建興六年(228)、(第一次北伐では)参軍馬謖の先鋒に属した。馬謖は水場を捨てて山に上り、挙措は煩擾で、王平は馬謖を諫めること連規(続けざま)だったが、馬謖は用いる事ができず、街亭で大敗した。軍兵は尽く星と散じたが、ただ王平の典領する千人は鼓を鳴らして自らを持し、魏将の張郃は伏兵を疑って偪ろうとしなかった。こうして王平は徐々に諸営の遺迸(敗残兵)を収合し、将士を率いて還った。丞相諸葛亮は馬謖および将軍張休・李盛を誅し、将軍黄襲らの兵を奪った後、王平を特に崇ぶこと顕かで、参軍を加拝し、五部を統べさせて軍営の事務を兼ねさせ、討寇将軍に進位して亭侯に封じた。

九年、亮圍祁山、平別守南圍。魏大將軍司馬宣王攻亮、張郃攻平、平堅守不動、郃不能克。十二年、亮卒於武功、軍退還、魏延作亂、一戰而敗、平之功也。遷後典軍・安漢將軍、副車騎將軍呉壹住漢中、又領漢中太守。十五年、進封安漢侯、代壹督漢中。延熙元年、大將軍蔣琬住沔陽、平更為前護軍、署琬府事。六年、琬還住涪、拜平前監軍・鎮北大將軍、統漢中。

 九年(231)、諸葛亮が祁山を囲んだ時、王平は別に南の囲(屯営)を守った。魏の大将軍司馬懿が諸葛亮を攻め、張郃が王平を攻めたが、王平は堅守して動かず、張郃は克てなかった。十二年(234)、諸葛亮が武功で卒し、軍が退還した時、魏延が乱を作したが、一戦して敗れたのは王平の功である。後典軍・安漢将軍に遷り、車騎将軍呉懿の副として漢中に駐まり、又た漢中太守を兼領した。
 十五年(237)、安漢侯に進封され、呉懿に代って漢中を督した。延熙元年(238)、大将軍蔣琬が沔陽に駐まると、王平は更めて前護軍となり、蔣琬の府の事務に署いた。六年(243)、蔣琬が(漢中から)涪に還駐すると、王平は前監軍・鎮北大将軍を拝命し、漢中を統べた。

 七年春、魏大將軍曹爽率歩騎十餘萬向漢川、前鋒已在駱谷。時漢中守兵不滿三萬、諸將大驚。或曰:「今力不足以拒敵、聽當固守漢・樂二城、遇賊令入、比爾間、涪軍足得救關。」平曰:「不然。漢中去涪垂千里。賊若得關、便為禍也。今宜先遣劉護軍・杜參軍據興勢、平為後拒;若賊分向黄金、平率千人下自臨之、比爾間、涪軍行至、此計之上也。」惟護軍劉敏與平意同、即便施行。涪諸軍及大將軍費禕自成都相繼而至、魏軍退還、如平本策。是時、ケ芝在東、馬忠在南、平在北境、咸著名迹。

 七年(244)春、魏の大将軍曹爽が歩騎十余万を率いて漢川に向かい、前鋒は已に駱谷に在った。時に漢中の守兵は三万に満たず、諸将は大いに驚愕した。或る者は 「今の力は敵を拒ぐには足りず、漢・楽の二城を固守し、賊に遇っても入る事を聴(ゆる)すべきです。そうしている間に涪の軍は関を救うに足りましょう」と。 王平 「そうではない。漢中は涪を去ること千里に垂(なんな)んとする。賊がもし関を得たなら、たちまちに禍となろう。今は劉護軍・杜参軍を先遣して興勢(城固北郊)に拠らせるべきで、私が後拒となろう。もし賊が分れて黄金(洋県北西郊)に向かったなら、私が千人を率い下って自らこれに臨み、そうしている間に、涪の軍が至るだろう。この計が上策である」。ただ護軍劉敏だけが王平と意見を同じくし、たちまちに施行した。涪の諸軍および大将軍費禕が成都より相い継いで至り、魏軍が退還すること王平の本策の通りだった。

 劉備が魏延を留めて漢中に鎮守させた当初、諸囲に皆な兵を置いて外敵を禦がせ、敵が来攻しても入れないようにしていた。興勢の役に及び、王平は曹爽を捍拒したが、皆なこの制度を承けたものだった。 (『三國志』姜維伝)

当時、ケ芝は東に在り、馬忠は南に在り、王平は北境に在り、咸な名迹を著した。

 平生長戎旅、手不能書、其所識不過十字、而口授作書、皆有意理。使人讀史・漢諸紀傳、聽之、備知其大義、往往論説不失其指。遵履法度、言不戲謔、從朝至夕、端坐徹日、㦎無武將之體、然性狹侵疑、為人自輕、以此為損焉。十一年卒、子訓嗣。

 王平は戎旅(軍中)で生長し、手ずからは書けず、識っているのも十文字を超えず、口授して書簡を作らせたが、皆な意義・道理があった。人に『史記』『漢書』の諸々の紀伝を読ませてこれを聴き、備(つぶ)さにその大義を知り、往往にして論説してもその本旨を失わなかった。法度を遵履し、発言は戯謔せず、朝より夕に至るまで端坐して日を徹し、武将の体は㦎無(皆無)だった。しかし性は狭侵で猜疑し、為人りは自らを軽んじ[※]、これによって(評価を)損った。十一年(248)に卒し、子の王訓が嗣いだ。

※ 「性狭侵疑、為人自軽」 は筑摩版だと 「性格は偏狭で疑い深く、ひととなりは軽佻」 と訳されていますが、この 「ひととなりは軽佻」 と、前文の 「言不戯謔」 とがどうにも合いません。呉志王蕃伝に 「俗士挟侵、謂蕃自軽」 という似たような一節があり、こちらは 「(万ケは)俗物であって他を挟侵し、王蕃が自分を軽蔑していると思った」 と訳されています。“夾侵”と“自軽”の対句が当時の常套句ではないかとの指摘もあり(『三国志校箋』)、当方としてもこの指摘に則りました。 夾侵の意味がハッキリしませんが、どうも自虐的なニュアンスが感じられます。

 初、平同郡漢昌句扶句古候反忠勇ェ厚、數有戰功、功名爵位亞平、官至左將軍、封宕渠侯。

 嘗て、王平と同郡の者に漢昌の句扶があった。忠勇にしてェ厚であり、しばしば戦功があり、功名・爵位は王平に亜ぎ、官は左将軍に至り、宕渠侯に封じられた[1]
[1] 後に張翼・廖化が揃って(車騎)大将軍になると、時人が語るには 「前に王・句があり、後に張・廖があり」と。 (『華陽國志』)
 

張嶷

 張嶷字伯岐、巴郡南充國人也。弱冠為縣功曹。先主定蜀之際、山寇攻縣、縣長捐家逃亡、嶷冒白刃、攜負夫人、夫人得免。由是顯名、州召為從事。時郡内士人龔祿・姚伷位二千石、當世有聲名、皆與嶷友善。建興五年、丞相亮北住漢中、廣漢・綿竹山賊張慕等鈔盜軍資、劫掠吏民、嶷以都尉將兵討之。嶷度其鳥散、難以戰禽、乃詐與和親、尅期置酒。酒酣、嶷身率左右、因斬慕等五十餘級、渠帥悉殄。尋其餘類、旬日清泰。後得疾病困篤、家素貧匱、廣漢太守蜀郡何祗、名為通厚、嶷宿與疎闊、乃自轝詣祗、託以治疾。祗傾財醫療、數年除愈。其黨道信義皆此類也。

 張嶷、字は伯岐。巴郡南充国の人である[1]。弱冠(二十歳)にして県功曹となった。劉備が蜀を平定した際に山寇が県を攻め、県長が家属を捐(す)てて逃亡すると、張嶷は白刃を冒して夫人を攜負し、夫人は免れられた。これによって名を顕し、州が召して従事とした。時に郡内の士人の龔祿・姚伷の官位は二千石であり、当世に声名があったが、皆な張嶷と友善した。建興五年(227)、丞相諸葛亮が北して漢中に駐屯すると、広漢・綿竹の山賊の張慕らが軍資を鈔盜し、吏民を劫掠した為、張嶷は都尉として兵を率いてこれを討った。張嶷が度(はか)るに賊は鳥散するので戦って禽えるのは困難であり、かくして詐って和親し、期日を尅(き)めて置酒(設宴)した。酒が酣となり、張嶷は身ずから左右の者を率いて張慕ら五十余級を斬り、渠帥を悉く殄戮した。ついでその余類は旬日(十余日)で清泰となった。
 後に疾病に困じること篤くなったが、家は素より貧匱(貧乏)であり、広漢太守である蜀郡の何祗の名声が厚義の人だと通っていた為、張嶷はかねて疎闊(疎遠)だったが、自ら轝(輿)にて何祗に詣り、治疾の事を請託した。何祗は医療に財を傾け、数年でようよう癒えた。その道義者を党与として義を信じること皆なこの類いだった。

拜為牙門將、屬馬忠、北討汶山叛羌、南平四郡蠻夷、輒有籌畫戰克之功。十四年、武都氐王苻健請降、遣將軍張尉往迎、過期不到、大將軍蔣琬深以為念。嶷平之曰:「苻健求附款至、必無他變、素聞健弟狡黠、又夷狄不能同功、將有乖離、是以稽留耳。」數日、問至、健弟果將四百戸就魏、獨健來從。

 拝命して牙門将となり、馬忠に属し、北のかた汶山の叛羌を討ち、南の四郡の蛮夷を平らげ、そのたび戦に克つのに籌画の功があった[2]
十四年(251)、武都氐の王の苻健が受降を請うたので、将軍の張尉を遣って往き迎えさせたが、期日を過ぎても到らず、大将軍蔣琬は深く念(うれ)えた。張嶷が平(なだ)めるには 「苻健は附属を求めて通款するに至ったのであり、他意・変心はありますまい。素より聞く処では、苻健の弟は狡黠で、又た夷狄というのは功を同じくは出来ないものなので、乖離があった為に稽留しているのでしょう」 。数日して問(音信)が至り、苻健の弟が果たして四百戸を率いて魏に就き、独り苻健が来従すると。

 初、越雟郡自丞相亮討高定之後、叟夷數反、殺太守龔祿・焦璜、是後太守不敢之郡、只住〔安上〕縣、去郡八百餘里、其郡徒有名而已。時論欲復舊郡、除嶷為越雟太守、嶷將所領往之郡、誘以恩信、蠻夷皆服、頗來降附。北徼捉馬最驍勁、不承節度、嶷乃往討、生縛其帥魏狼、又解縱告喩、使招懷餘類。表拜狼為邑侯、種落三千餘戸皆安土供職。諸種聞之、多漸降服、嶷以功賜爵關内侯。

 嘗て、越雟郡では丞相諸葛亮が高定を討った後より、叟夷がしばしば反き、太守龔祿・焦璜を殺し、この後は太守は郡に之(ゆ)こうとはせず、ただ安上県に駐まり、郡を去ること八百余里であり、その郡は徒らに名があるだけだった。時に輿論は旧郡の復活を欲しており、張嶷を叙して越雟太守とした。張嶷は領兵を率いて郡に往き、恩信にて招誘した処、蛮夷は皆な服し、頗る降附する者が来た。北徼(北境)の捉馬族は最も驍勁であり、節度を承けず、張嶷はかくして往って討ち、その帥の魏狼を生縛し、又た告喩して解き縦ち、余類を招懐させた。上表して魏狼を邑侯に拝した為、種落三千余戸は皆な土地に安んじて職に供した。諸種はこれを聞くと多くが次第に降り服し、張嶷は功によって爵関内侯を賜った。

 蘇祁邑君冬逢・逢弟隗渠等、已降復反。嶷誅逢。逢妻、旄牛王女、嶷以計原之。而渠逃入西徼。渠剛猛捷悍、為諸種深所畏憚、遣所親二人詐降嶷、實取消息。嶷覺之、許以重賞、使為反間、二人遂合謀殺渠。渠死、諸種皆安。又斯都耆帥李求承、昔手殺龔祿、嶷求募捕得、數其宿惡而誅之。
 始嶷以郡郛宇頽壞、更築小塢。在官三年、徙還故郡、繕治城郭、夷種男女莫不致力。

 蘇祁の邑君の冬逢と、冬逢の弟の隗渠らは、降った後に復た反いた。張嶷は冬逢を誅した。冬逢の妻は旄牛族の王女であり、張嶷は計策によってこれを原(ゆる)した。隗渠は逃れて西徼(西境)に入った。隗渠は剛猛にして捷悍で、諸種に深く畏憚されており、親近の二人を遣って詐って張嶷に降らせ、実際には消息を取得していた。張嶷はこれを覚り、重賞を許認して反間させ、二人はかくて謀りごとを合わせて隗渠を殺した。隗渠が死ぬと、諸種は皆な安んじた。又た斯都の耆帥の李求承は、昔に手ずから龔祿を殺しており、張嶷は捕縛者を求募して(李求承を)得、その宿悪を数え立ててこれを誅した。
 始め張嶷は郡の郛宇(城郭)が頽壊している事から、更めて小塢を築いた。在官三年にして故郡に徙還し、城郭を繕治した際には夷種の男女で致力(尽力)しない者は莫かった。

 定莋・臺登・卑水三縣去郡三百餘里、舊出鹽鐵及漆、而夷徼久自固食。嶷率所領奪取、署長吏焉。嶷之到定莋、定莋率豪狼岑、槃木王舅、甚為蠻夷所信任、忿嶷自侵、不自來詣。嶷使壯士數十直往收致、撻而殺之、持尸還種、厚加賞賜、喩以狼岑之惡、且曰:「無得妄動、動即殄矣!」種類咸面縛謝過。嶷殺牛饗宴、重申恩信、遂獲鹽鐵、器用周贍。

 定莋・臺登・卑水の三県は郡を去ること三百余里で、旧くから塩鉄および漆を産出し、夷徼(辺境の蛮夷)は久しく自身らで固食(独占?)していた。張嶷は領兵を率い、奪取して長吏を署けようと考えた。張嶷が定莋に到ると、定莋の率豪の狼岑は槃木王の舅であり、甚だ蛮夷に信任されており、張嶷が侵した事に忿り、自ら来詣しなかった。張嶷は壮士数十人を直ちに往かせて収致させ、撻(むちう)ってこれを殺し、尸骸を種族に還し、厚く賞賜を加え、狼岑の悪事を喩し、加えて 「妄動してはならぬ。動けば殄戮しようぞ!」と。種類は咸な面縛して過ちを陳謝した。張嶷は牛を殺して饗宴し、重ねて恩信を申し、かくて塩鉄を獲得し、用いる器物は周く贍(た)りた。

 漢嘉郡界旄牛夷種類四千餘戸、其率狼路、欲為姑壻冬逢報怨、遣叔父離將逢衆相度形勢。嶷逆遣親近齎牛酒勞賜、又令離逆逢妻宣暢意旨。離既受賜、并見其姊、姊弟歡ス、悉率所領將詣嶷、嶷厚加賞待、遣還。旄牛由是輒不為患。
 郡有舊道、經旄牛中至成都、既平且近;自旄牛絶道、已百餘年、更由安上、既險且遠。嶷遣左右齎貨幣賜路、重令路姑喩意、路乃率兄弟妻子悉詣嶷、嶷與盟誓、開通舊道、千里肅清、復古亭驛。奏封路為旄牛㽛毗王、遣使將路朝貢。後主於是加嶷撫戎將軍、領郡如故。

 漢嘉郡界の旄牛夷の種類は四千余戸で、率いている狼路は、姑壻の冬逢の怨みを報じようとしており、叔父の離を遣って冬逢の手勢を率いて形勢を度らせた。張嶷は逆(むか)えるに近親を遣って牛酒を齎して慰労を賜い、又た離に命じて冬逢の妻を逆えさせ、意旨を宣暢させた。離は既に恩賜を受けており、併せてその姊に見(まみ)えたので姊弟は歓悦し、悉くの率いている領民を率いて張嶷に詣った。張嶷は厚く賞賜・待遇を加えて還らせた。旄牛はこれによって遂に患を為さなくなった。
 郡には旧道があり、旄牛の中を経て成都に至るもので、平坦なうえ近いものだった。旄牛からの道が絶えて已に百余年であり、更めて安上を経由していたが、険阻なうえ遠かった。張嶷は左右の者を遣って貨幣を狼路に贈らせ、重ねて狼路に命じて姑に意旨を喩させた。狼路はかくして兄弟妻子の悉くを率いて張嶷に詣り、張嶷は与に盟誓して旧道を開通し、千里を粛清して古えの亭駅を復した。上奏して狼路を封じて旄牛㽛毗王とし、遣使して狼路に朝貢させた。後主はここに張嶷に撫戎将軍を加え、領郡は以前の通りだった。

 蜀漢の西南夷政策は主に庲降都督が担当し、中でも功績が最も顕著とされるのが、南征でも一軍を率いた馬忠ですが、具体的な事績は張嶷に多く、「略の馬忠・術の張嶷」 といった風情です。残念ながら、両者の事績の多くが『演義』では南征での諸葛亮の功績に帰し、非常に影の薄い存在になってしまっています。

 嶷初見費禕為大將軍、恣性汎愛、待信新附太過、嶷書戒之曰:「昔岑彭率師、來歙杖節、咸見害於刺客、今明將軍位尊權重、宜鑒前事、少以為警。」後禕果為魏降人郭脩所害。

 張嶷が嘗て見るに、費禕は大将軍になると汎愛(博愛)の性を恣にして新附を待遇・信任すること太(はなは)だに過ぎていたので、張嶷は書状でこれを戒めた。「昔、岑彭は師を率い、来歙は節に仗っていましたが、咸な刺客に害されました。今、明将軍の位は尊く権威は重く、前事を鑑みて少しく警戒すべきです」 。後に費禕は果たして魏の降人の郭脩に害された。

 呉太傅諸葛恪以初破魏軍、大興兵衆以圖攻取。侍中諸葛瞻、丞相亮之子、恪從弟也、嶷與書曰:「東主初崩、帝實幼弱、太傅受寄託之重、亦何容易!親以周公之才、猶有管・蔡流言之變、霍光受任、亦有燕・蓋・上官逆亂之謀、ョ成・昭之明、以免斯難耳。昔毎聞東主殺生賞罰、不任下人、又今以垂沒之命、卒召太傅、屬以後事、誠實可慮。加呉・楚剽急、乃昔所記、而太傅離少主、履敵庭、恐非良計長算之術也。雖云東家綱紀肅然、上下輯睦、百有一失、非明者之慮邪?取古則今、今則古也、自非郎君進忠言於太傅、誰復有盡言者也! 旋軍廣農、務行コ惠、數年之中、東西並舉、實為不晩、願深採察。」恪竟以此夷族。嶷識見多如是類。

 呉の太傅諸葛恪は魏軍を破ったばかりで、(勢いに乗じて)大いに軍兵を興して攻取しようと図った。侍中諸葛瞻は丞相諸葛亮の子であり、諸葛恪の従弟であったが、張嶷は書簡を与えて

「東主は崩じたばかりで、呉帝はまことに幼弱であり、太傅が寄託の重任を受けたのは、亦たどうして容易な事だとできましょう! 親族として周公の才を以ても、猶お管叔・蔡叔の流言の変事があり、霍光は任を受けながら、亦た燕王・蓋公主・上官桀の逆乱の謀があり、成王・昭帝の明察を頼りにどうにか難を免れました。昔、事毎に東主は殺生・賞罰を下人に任せないと聞いておりましたが、又た今や垂歿の命(臨終)を以てにわかに太傅を召して後事を属託したとの事で、まことに憂慮すべき事です。加えて呉楚は剽悍性急だと、昔にも記されており、しかも太傅は少主より離れて敵庭を履んでおり、恐らくは長算の術として良計ではありますまい。東家の綱紀が粛然で、上下が輯睦だとは云うものの、百に一失が生じる事は聡明者の思慮せぬ事でありますまいか? 古えを取って今を測れば、今は則ち古えと同じであり、郎君が太傅に忠言を進めずに、誰が復た言葉を尽すでありましょう! 軍を旋して農を広め、務めて徳治・恵政を行ない、数年の中に東西が揃って挙兵しして晩(おそ)い事はありません。願わくば深く採察されん事を」

諸葛恪は竟(つい)にこれ(北伐)によって夷族された。張嶷の識見の多くはこのような類いだった。

 在郡十五年、邦域安穆。屡乞求還、乃徴詣成都。〔民夷〕戀慕、扶轂泣涕、過旄牛邑、邑君襁負來迎、及追尋至蜀郡界、其督相率隨嶷朝貢者百餘人。嶷至、拜盪寇將軍、慷慨壯烈、士人咸多貴之、然放蕩少禮、人亦以此譏焉、是歳延熙十七年也。魏狄道長李簡密書請降、衞將軍姜維率嶷等因簡之資以出隴西。既到狄道、簡悉率城中吏民出迎軍。軍前與魏將徐質交鋒、嶷臨陳隕身、然其所殺傷亦過倍。既亡、封長子瑛西郷侯、次子護雄襲爵。南土越雟民夷聞嶷死、無不悲泣、為嶷立廟、四時水旱輒祀之。

 郡に在ること十五年、邦域は安んじ和穆した。しばしば還る事を乞求し、かくして徴されて成都に詣った。民夷は恋慕して(張嶷の車の)轂[※]を扶(いだ)いて泣涕した。旄牛邑を過ぎる時、(諸々の)邑君は襁を負って来迎し、追い尋(たず)ねて蜀郡との境界に至るに及び、相い率いて張嶷に随って朝貢する者百余人を督した。

※ 輻の集まる車輪の中央部分。

張嶷は至ると盪寇将軍を拝命した。慷慨壮烈であり、士人は咸な多くがこれを貴んだが、放蕩にして礼儀に少(か)け、人は亦たこれによって譏った[3]。この歳は延熙十七年(254)である。
 魏の狄道県長李簡が密書にて受降を請い、衛将軍姜維は張嶷らを率いて李簡の資に因って隴西に進出した[4]。狄道に到った後、李簡は城中の吏民の悉くを率いて出城して軍を迎えた。軍は前んで魏将の徐質と鋒を交え、張嶷は陣に臨んで隕身(落命)したが、殺傷したのは亦た倍を越えた。

 蜀軍が河関・狄道・臨洮の三県を抜き、その住民を蜀に徙した戦いです。翌年、姜維は再び北伐し、魏の雍州刺史王経を大破します。=洮西の役

亡くなった後、長子の張瑛を西郷侯に封じ、次子の張護雄が襲爵した。南土の越雟の民夷は張嶷の死を聞いて悲泣せぬ者は無く、張嶷の為に廟を立て、四時や水旱のたびにこれを祀った[5]
 
[1] 張嶷の出自は孤微であり、しかし若くして壮士に通じる節があった。 (『益部耆旧伝』)
[2] 張嶷は兵馬三百人を受け、馬忠に随って叛羌を討った。張嶷は別に数営を督して先行し、他里に至った。邑は高峻に在り、張嶷は山沿いに四・五里を上った。羌は要衝を扼して石門を作り、門上に牀(台座)を施設してその上に石を積み、通過する者に石を下して槌撃し、糜爛(粉砕)しない者が無いようにした。張嶷が度るに攻める事はできず、かくして通訳に告曉(告諭)させるには 「汝ら汶山の諸種が反叛して良善の民を傷害したので、天子が命じて悪類を討滅しようというのだ。汝らがもし稽顙(頓首)して軍を通過させ、糧費を資給するなら、福禄は永らく隆んとなり、その報償は百倍となるだろう。もし最後まで従わなければ大兵が誅を致し、雷撃が電下して、これを追悔しようとも亦た無益な事となろう」 耆帥(渠帥)は命令を得ると即座に出頭して張嶷に詣り、糧を給して軍を通過させた。軍は前進して余種を討ち、余種は他里が已に下ったと聞くと悉く恐怖して度を失い、或る者は軍を迎えに出降し、或る者は山谷に奔竄し、兵を放って攻撃すると、軍は克捷した。
 後に南夷の劉冑が又た反くと、馬忠を督庲降として劉冑を討たせ、張嶷は復たこれに属して戦闘し、常に軍の冠首であり、遂に劉冑を斬った。南方平定の事が訖わると、牂牁・興古の獠種が復た反き、馬忠は張嶷に命じて諸営を典領して往討させた。張嶷は内地に招降して(兵)二千人を得、悉く漢中に伝詣(送致)した。 (『益部耆旧伝』)
[3] 時に車騎将軍夏侯霸が張嶷に謂うには 「足下とは疎闊(疎遠)とはいえ、心を託すのは旧知と同然である。どうかこの意を明察して頂きたい」 張嶷は答えて 「僕は未だに子を知らず、子は未だに私を知らず、大道は彼方に在るのに、どうして心を託すなどと云われるか! 願わくば三年の後にゆるゆるとこの言葉を陳べて頂きたい」。有識の士は美談とした。 (『益部耆旧伝』)
[4] 張嶷は風湿から固疾(持病)を患い、成都に至った時には寖篤(重病)で、杖を扶けにして起てる有様だった。李簡が請降すると、衆議は狐疑したが、張嶷はきっとそうだと云った。姜維が出陣する時の時論では、張嶷は還ったばかりで、股疾によって行軍に加われないだろうと。これによって張嶷は自ら中原で尽力し、その身を敵庭に致したいと乞うた。進発に臨み、後主に辞去するには 「臣はまさに聖明に遇い、受けた恩は過量であり、身には疾病が加わり、常に一朝にして隕歿して栄遇に辜負(背く)する事を恐れておりました。天は願いを違えず、戎事に預かる事が出来ました。もし涼州を克定したなら、臣は藩表(国境)の守将となり、もし捷てなければ、身を殺して報いましょう」。後主は慨然として張嶷の為に流涕した。 (『益部耆旧伝』)
[5] 余が張嶷の行儀・容貌・言辞・命令を観るに、人を駭かせるものではないが、その策略は算りごとの域に充分達しており、果烈さは威望を立てるのに充分だった。臣たるの忠誠の節があり、夷類に対処するのに亮直の風があり、しかも行動する際には必ず法典を顧みたので、後主は深くこれを崇敬した。古の英士であっても、遠く踰えているとは出来まい! (『益部耆旧伝』)
―― 張嶷の孫の張奕は、晋の梁州刺史である。 (『蜀世譜』)
 

 評曰:黄權弘雅思量、李恢公亮志業、呂凱守節不回、馬忠擾而能毅、王平忠勇而嚴整、張嶷識斷明果、咸以所長、顯名發迹、遇其時也。

 評に曰く:黄権の思量は弘雅(広大)であり、李恢の志業は公亮(公正明亮)で、呂凱は節を守って回(かえりみ)ず、馬忠は擾でありながら毅[1]、王平は忠勇にして厳整、張嶷は識見は明るく果断であった。咸な長所によって名を顕して事迹を発したのは、その時に遭遇したからである。
[1] 『尚書』に 「擾にして毅」 とある。鄭玄が注し、擾とは馴(柔順)である。致果(断行)を毅というと。

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