三國志修正計画

三國志卷四十九 呉志四/劉繇太史慈士燮傳

劉繇

 劉繇字正禮、東萊牟平人也。齊孝王少子封牟平侯、子孫家焉。繇伯父寵、為漢太尉。繇兄岱、字公山、歴位侍中、兗州刺史。

 劉繇、字は正礼。東萊牟平(山東省煙台市牟平区)の人である。斉孝王の少子が牟平侯に封じられ、子孫が家居した。劉繇の伯父の劉寵は漢の太尉となった[1]
劉繇の兄の劉岱は字を公山といい、侍中、兗州刺史を歴任した[2]

 繇年十九、從父韙為賊所劫質、繇簒取以歸、由是顯名。舉孝廉、為郎中、除下邑長。時郡守以貴戚託之、遂棄官去。州辟部濟南、濟南相中常侍子、貪穢不循、繇奏免之。平原陶丘洪薦繇、欲令舉茂才。刺史曰:「前年舉公山、奈何復舉正禮乎?」洪曰:「若明使君用公山於前、擢正禮於後、所謂御二龍於長塗、騁騏驥於千里、不亦可乎!」會辟司空掾、除侍御史、不就。

 劉繇が齢十九の時、従父の劉韙が賊に劫質されたが、劉繇は簒取して帰り、これによって名を顕した。孝廉に挙げられて郎中となり、下邑県長に叙された。時に郡守が貴戚の請託を認めたので、棄官して去った。州に辟されて(郡国従事として)済南を部(担当)した。済南相は中常侍の子で、貪穢不循であり、劉繇は上奏してこれを罷免させた。平原の陶丘洪が劉繇を薦挙し、茂才に挙げるよう勧めた。刺史曰く 「前年に公山(劉岱)を挙げたのだ。復た正礼(劉繇)を挙げるのはどうなのだ?」 。陶丘洪 「もし明使君が前に劉公山を用い、後に劉正礼を択んだのなら、二龍を御して長途し、騏驥(駿馬)にて千里を騁(馳)せると云うものです。結構な事ではありませんか!」 。たまたま司空掾に辟され、侍御史に叙されたが、就かなかった。

 ここまで典型的な清流派士大夫です。豫州勢力の強い太学の番付には入っていませんが、劉表よりよほど士大夫然としていたようです。そして陶丘洪。例の王芬の大逆に参与を求められ、華歆の制止で翻意したりしていますが、平原の名士として知られた人物です。出身や家柄、そして陶丘洪のプッシュぶりから、劉繇は青州の郷党の期待の星だった事は間違いないでしょう。おそらく華歆とも接触があった筈です。
 劉繇にはもう一つの人脈があります。県令に叙された同期生の琅邪の趙c・東海の王朗・広陵の臧洪のうち、趙c・王朗は陶謙との結びつきがとても強く、後に劉繇が揚州に赴任する頃にはそれぞれ広陵太守・会稽太守に転出して江東に対する布石を担っています。ここから、劉繇が王朗・趙cを介して陶謙と何らかの繋がりがあったと想像しても已む無しです。なりませんか? 袁術から離背した陶謙が揚州工作を託したのが劉繇、とかだったら陳登vs孫策にも波及する結構なスケールの話になりそうですが、どうでしょう?

避亂淮浦、詔書以為揚州刺史。時袁術在淮南、繇畏憚、不敢之州。欲南渡江、呉景・孫賁迎置曲阿。術圖為僭逆、攻沒諸郡縣。繇遣樊能・張英屯江邊以拒之。以景・賁術所授用、乃迫逐使去。於是術乃自置揚州刺史、與景・賁并力攻英・能等、歳餘不下。漢命加繇為牧、振武將軍、衆數萬人、孫策東渡、破英・能等。繇奔丹徒、遂泝江南保豫章、駐彭澤。笮融先至、殺太守朱晧、入居郡中。繇進討融、為融所破、更復招合屬縣、攻破融。融敗走入山、為民所殺、繇尋病卒、時年四十二。

 乱を淮浦に避け、詔書にて揚州刺史とされた。時に袁術が淮南に在り、劉繇は畏憚して州(寿春)に行こうとしなかった。長江を南渡しようとした処、呉景・孫賁が迎撃したので曲阿に(治所を)置いた。袁術が僭逆を図って諸郡県を攻没すると、劉繇は樊能・張英を遣って江辺に駐屯してこれを拒がせ、呉景・孫賁を袁術に授用された者だとして迫逐して(江東から)退去させた。

 筑摩本では 「呉景・孫賁が迎えて曲阿に置いた」 と訳しています。そもそも呉景・孫賁の丹楊コンビは当初からバリバリの袁術派で、袁術に敵対した陳瑀の後任である劉繇との間に共存的な関係は構築しようがありませんし、孫策伝でも、劉繇が押し掛けて呉景・孫賁を逐い出したとありますので、劉繇伝だけで強引に解釈する必要は無いかと思われます。
 因みに曲阿は丹楊郡の所属ではありませんが、孫堅の死後間もなく、袁紹系の丹楊太守周マを逐って呉景らの領となっていたものです。

こうして袁術は自ら揚州刺史を置き、呉景孫賁と併力して張英・樊能らを攻めたが、年余しても下せなかった。漢は命じて劉繇を州牧として振武将軍を加え、手勢は数万人となった。孫策が東渡して張英・樊能らを破った。劉繇は丹徒に奔り[3]、かくて長江を南に泝上して豫章を保ち、彭沢に駐屯した。笮融が先んじて至って太守朱晧を殺し[4]、入って郡中に蟠居した。劉繇は進んで笮融を討ったが笮融に破られた。更めて復た属県より(兵を)招合し、笮融を攻め破った。笮融は敗走して山中に入り、民に殺された。劉繇は尋いで病卒したが、時に齢四十二だった。

 劉繇が孫策に敗れた時、徐州牧陶謙は既に死んでいて得体の知れない馬の骨が徐州を継いでいた為、劉繇は徐州を頼る事も出来ずに長江を遡上しました。時の豫章太守は本伝だと朱晧となっています。朱儁の子であり、漢廷派の同僚でもあるので、頼るのも当然かな? 結局、陶謙から託されたカタチの笮融が台無しにしてしまいましたが。
 この当時の豫章太守として諸葛玄・朱晧・華歆の名が挙がります。諸葛玄は朱晧に敗れて劉表に身を寄せていますが、もともと劉表か袁術の私太守なので問題ありません。朱晧はほぼ朝廷任命。華歆についても 「朝廷から派遣された馬日磾に叙任された」 と華歆伝にあるのを信じれば朝廷叙任となりますが、そうなると朱晧と時期的にカブってしまいます。そもそも寿春に出向した馬日磾の叙任には袁術の思惑が大きく影響しており、対する朱皓の叙任は袁術封じ込めの一環だと思われるので、朱皓が正しく朝廷叙任の太守として豫章を実効支配し、諸葛玄の後任として袁術が華歆を送り込み、劉繇の死後にようやく華歆が太守の実質を具えた、とも解釈できます。一応、華歆に 「吾雖劉刺史所置」 と云わせている資料もあり、これによると朱皓の死後に劉繇が任命したと解釈できますが、如何せん出典が『江表伝』なんですよねぇ…。

笮融

 笮融者、丹楊人、初聚衆數百、往依徐州牧陶謙。謙使督廣陵・彭城運漕、遂放縱擅殺、坐斷三郡委輸以自入。乃大起浮圖祠、以銅為人、黄金塗身、衣以錦采、垂銅槃九重、下為重樓閣道、可容三千餘人、悉課讀佛經、令界内及旁郡人有好佛者聽受道、復其他役以招致之、由此遠近前後至者五千餘人戸。毎浴佛、多設酒飯、布席於路、經數十里、民人來觀及就食且萬人、費以巨億計。曹公攻陶謙、徐土騷動、融將男女萬口、馬三千匹、走廣陵、廣陵太守趙c待以賓禮。先是、彭城相薛禮為陶謙所偪、屯秣陵。融利廣陵之衆、因酒酣殺c、放兵大略、因載而去。過殺禮、然後殺晧。

 笮融は、丹楊の人である。始めに手勢数百を聚め、往って徐州牧陶謙に依拠した。陶謙は広陵・彭城の運漕を督させ、かくて放縦となって擅(ほしいまま)に殺し、坐して三郡の委輸(送税)を断って自らに入れた。かくして大いに浮図祠(仏教伽藍)を起し、銅によって人型を作ると黄金をその身に塗り、錦采を着衣し、九重の銅槃を垂れ、下では重楼閣道を為して三千余人を収容する事ができた。悉くに仏経の読誦を課し、界内および旁郡に命じて好仏者の受道(得度)を聴許し、一切の賦役を復(ほく/免除)して招致した為、遠近より前後して五千余の人戸が至った。浴仏(灌仏)の毎に多く酒飯を設け、路に蓆を布いて数十里に経(わた)り、民人で来観する者および食事に就く者は万人に且(せま)り、費用は巨億を以て計った。 曹操が陶謙を攻めて徐州が騷動すると、笮融は男女万口・馬三千匹を率いて広陵に走り、広陵太守趙cは賓客の礼で待遇した。これより前、彭城相薛礼は陶謙に偪(逼)られて秣陵に駐屯した。笮融は広陵の軍兵を利用しようと、酒酣(たけなわ)に趙cを殺し、兵を放って大いに略奪させて(物品を)載せて去った。道中で薛礼を殺し、その後に朱晧を殺した。

 歴史的には、民間人として中国で初めて本格的仏教伽藍を建立した人としてそれなりに重要です。陳舜臣氏は財に飽かせて異国情緒を喜んだだけの人物だとしていますが、異論は全くありません。その場の利害だけで場当たり的に人を殺していった点はまさに小温侯。

 後策西伐江夏、還過豫章、收載繇喪、善遇其家。王朗遺策書曰:「劉正禮昔初臨州、未能自達、實ョ尊門為之先後、用能濟江成治、有所處定。踐境之禮、感分結意、情在終始。後以袁氏之嫌、稍更乖剌。更以同盟、還為讐敵、原其本心、實非所樂。康寧之後、常願渝平更成、復踐宿好。一爾分離、款意不昭、奄然殂隕、可為傷恨!知敦以飼磨Aコ以報怨、收骨育孤、哀亡愍存、捐既往之猜、保六尺之託、誠深恩重分、美名厚實也。昔魯人雖有齊怨、不廢喪紀、春秋善之、謂之得禮、誠良史之所宜藉、郷校之所歎聞。正禮元子、致有志操、想必有以殊異。威盛刑行、施之以恩、不亦優哉!」

 後に孫策が西のかた江夏を伐ち、帰還の際に豫章を通過し、劉繇の喪(霊柩)を(車に)収載し、その家属を善く遇した。王朗が孫策に遣った書には 「劉正礼が嘗て揚州に臨んだ時には自ら到達できず、ご尊門を頼って渡江して場所を定めることも出来ました。その踐境の礼は忘れた事がないと申しておりました。後に袁氏を嫌忌を生じて乖離し、同盟が讐敵に更まりましたが、不本意だったようです。いずれ修好できることを願っておりましたが、突然に殂隕してしまい傷ましい限りです! 霊柩や遺族に対する措置には感服いたしました。昔、魯人は斉に恨みがあったとはいえ喪礼を廃さず、『春秋』はこれを善しとしています。劉正礼の子息はいずれ大成しましょう。刑を行なって威を盛んにし、これに施すに恩を以てするとはなんと優れた事でしょう!」

 劉繇に対する孫策の措置を、あの王朗が褒めました。そんだけ。その中の一節を理由に、呉景と孫賁が当初は劉繇に協力的だったと云う事は出来ません。当時の王朗は孫策のお情けで活かされている一庶民なので、迎合している可能性だって大いにあります。劉基の存在の導入部という以外の意義のない文章でした。

劉基

 繇長子基、字敬輿、年十四、居繇喪盡禮、故吏餽餉、皆無所受。姿容美好、孫權愛敬之。權為驃騎將軍、辟東曹掾、拜輔義校尉・建忠中郎將。權為呉王、遷基大農。權嘗宴飲、騎都尉虞翻醉酒犯忤、權欲殺之、威怒甚盛、由基諫爭、翻以得免。權大暑時、嘗於船中宴飲、於船樓上値雷雨、權以蓋自覆、又命覆基、餘人不得也。其見待如此。徙郎中令。權稱尊號、改為光祿勳、分平尚書事。年四十九卒。後權為子霸納基女、賜第一區、四時寵賜、與全・張比。基二弟、鑠・尚、皆騎都尉。

 劉繇の長子の劉基は、字を敬輿という。齢十四で劉繇の喪に居して礼を尽し、故吏の餽餉(供物)を皆な受け取らなかった[5]。姿容は美好で孫権が愛敬した。孫権は驃騎将軍となると東曹掾として辟し、輔義校尉・建忠中郎将に拝した。孫権は呉王となると、劉基を大司農に遷した。孫権は嘗て宴飲の席で、騎都尉虞翻が酔酒して(面を)犯して忤ったので孫権は殺そうとし、威怒は甚だ盛んだったが、劉基が諫争して虞翻は免れることが出来た。孫権は大いに暑かった日に船中で宴飲し、船の楼上で雷雨に遭遇した事があった。孫権は蓋で自身を覆わせ、又た命じて劉基を覆わせ、余人は与る事が出来なかった。その待遇される事はこの通りであった。郎中令に徙された。孫権が尊号を称すと改めて光禄勲となり、尚書の事を分平した。齢四十九で卒した。後に孫権は子の孫霸の為に劉基の娘を納れ、一区画を第宅として賜い、四季に寵賜があって、全氏・張氏に比肩した。劉基の二弟の劉鑠・劉尚は皆な騎都尉となった。

 孫呉の諸氏から通婚を渇望される貴種として、呉志の随所で名前を目にするのでキーパーソンなのかと思いきや、本伝の文章量はこれだけです。補注も乏しい。でも劉基を気にしなければ劉繇にも注目せず、陶謙は徐州の内向きな群雄だったとの認識に終ったと思います。

 
[1] 劉繇の祖父の劉本は師に経伝を受け、博く群書を学び、通儒と称された。賢良方正に挙げられて般県長となり、在官のまま卒した。
 劉寵は字を祖栄といい、父の学業を継ぎ、経伝に明るく行ないを修めているとして孝廉に挙げられ、光禄より四徳の人として挙げられて東平陵令に叙された。県事を視ること数年にして母の病によって棄官した。(この時)百姓・士民は輿を挙げ車輪を拒ぎ、道路に充ちて塞ぎ、車は進む事が出来ずに亭に止まり、軽服にて潜み遁れ、帰郷して供養(孝養)を修めた。後に大将軍府に辟され、会稽太守に漸遷し、身を正して下を率いた為に郡中は大いに治まった。徴されて中央に入って将作大匠となった。山陰県民で治所を去る若邪の山谷の間にある五・六人の老翁の、齢が皆な七・八十ばかりが劉寵が遷ると聞き、相い率いて共に劉寵を送り、それぞれ百銭を齎した。劉寵は会見すると労い 「父老はどうして遠きを苦とせずに来られたのか!」 。皆なが対えるには

「山谷の鄙老は生まれてより郡県に至った事はありません。これまでは吏が徴発を求めて去らず、民間では夜に狗が吠えて絶えない事もあり、竟夕(終夜)に安心できませんでした。明府が下車してより以来、狗は夜に吠えず、吏が民間に至る事も稀で、年老いて聖化に遭遇する事ができました。今、聞けば(郡を)棄てて去られようとしているとか。だから勠力(合力)して送りに来たのです」 。

劉寵は謝し、選んで一大銭を受け取った。このため会稽では劉寵を“取一銭太守”と呼んだ。清廉な事はこの通りであった。劉寵は前後二郡を歴任し、八度九卿に列し、四度三公に登ったが、家には賄藏(蓄財)せず、宝器を重んじず、恒に飲食は薄く、衣服は薄く、車は疲弊し馬は痩せ、“窶陋”と呼ばれた。三度宰相を去り、そのたび本土に帰っ(て京師で任官運動はしなかっ)た。京師への往来には常に驂乗を伴わずに道を行った為、知る者は莫かった。劉寵は嘗て亭に止宿しようとした処、亭吏がこれを止めて 「伝舍を整頓して劉公を待っているのだ。泊めることは出来ない」 。劉寵はそのため通過した。廉倹なことは皆なこの類いだった。老病の為に家で卒した。 (『続漢書』)
[2] 劉繇の父の劉輿は一名を劉方といい、山陽太守となった。劉岱・劉繇には皆な雋才があった。 (『続漢書』)
―― 劉岱は孝悌仁恕で、己を虚しくして(謙虚となって)人を受け入れた。 (『英雄記』)

 武帝紀の初平元年を読んでここに来た人は、先ず落胆しましょう。劉岱の事績ってこれだけかよ、と。しかも『英雄記』だし…。

[3] 劉繇が会稽に奔ろうとすると、許子将曰く

「会稽は富実の地で、孫策が貪ろうとしています。しかも海隅に在る窮地なので往くべきではありません。豫章に越した事はありません。北は豫州に連なり、西は荊州に接しております。もし吏民を収合し、遣使して貢献し、曹兗州と相聞(通好)すれば、袁公路がその間を隔て、その為人りが豺狼であるとはいえ、久しくは保たないでしょう。足下は王命を受けており、曹孟徳・劉景升が必ず救済するでしょう」 。

劉繇はこれに従った。 (袁宏『漢紀』)

 劉繇伝本文には出てきませんが、あの許子将が最後まで扈随した一事だけを見ても、劉繇が青徐の郷党の期待の星で、全国的にも名の知れた清流派名士である事が判ります。確かに乱世を渡る才覚には乏しかったようですが、それにしても太史慈を上げるための『演義』の下げっぷりには同情せざるを得ません。

[4] この歳、劉繇は彭沢に駐屯し、又た笮融に朱晧を助け、劉表が挙用する(豫章)太守諸葛玄を討たせた。

 諸葛亮伝では、諸葛玄は袁術の部将となっています。恐らくそっちが正解。多分『献帝春秋』は、諸葛亮が荊州で晴耕雨読した事から逆推したんでしょう。

許子将が劉繇に謂うには 「笮融に出軍させましたが、名義を顧みない者です。朱文明は善く誠心から人を信じる者です。密かに遣使して(変事を)防がせるのが妥当です」 。笮融は到着すると果たして詐って朱晧を殺し、代って郡事を領した。 (『献帝春秋』)
[5] 劉基は多難に遭い、困苦を嬰丁(直面)したが、潜処の道を楽しんで憂いはしなかった。群弟と居して常に夜に臥して早に起き、妻妾はその顔を見ることが稀だった。諸弟は敬憚し、父のように事えた。妄りに交游せず、雑賓(身元の不確かな客)は訪れなかった。 (『呉書』)
 

太史慈

 太史慈字子義、東萊黄人也。少好學、仕郡奏曹史。會郡與州有隙、曲直未分、以先聞者為善。時州章已去、郡守恐後之、求可使者。慈年二十一、以選行、晨夜取道、到洛陽、詣公車門、見州吏始欲求通。慈問曰:「君欲通章邪?」吏曰:「然。」問:「章安在?」曰:「車上。」慈曰:「章題署得無誤邪?取來視之。」吏殊不知其東萊人也、因為取章。慈已先懷刀、便截敗之。吏踴躍大呼、言「人壞我章」!慈將至車閨A與語曰:「向使君不以章相與、吾亦無因得敗之、是為吉凶禍福等耳、吾不獨受此罪。豈若默然倶出去、可以存易亡、無事倶就刑辟。」吏言:「君為郡敗吾章、已得如意、欲復亡為?」慈答曰:「初受郡遣、但來視章通與未耳。吾用意太過、乃相敗章。今還、亦恐以此見譴怒、故倶欲去爾。」吏然慈言、即日倶去。慈既與出城、因遁還通郡章。州家聞之、更遣吏通章、有司以格章之故不復見理、州受其短。由是知名、而為州家所疾、恐受其禍、乃避之遼東。

 太史慈、字は子義。東萊黄の人である。若くして学問を好み、郡に出仕して奏曹史[※]となった。

※ 詳細は不明ですが、字面から上奏関係を扱う部署の下級役人と思われます。中には功曹の誤記とか奏曹の副長官と解釈している向きもありますが、太史慈の出自から考えてそれは無いでしょう。

折しも郡太守は州刺史と隙があり、曲直が分明せぬ時は、先んじて上聞した者を善しとしていた。時に州の奏章は已に去り、郡守はこれに後れるのを恐れ、使者たる者を求めた。太史慈の齢は二十一であり、選ばれて行き、晨夜(兼行)で道を取り、洛陽に到って公車門に詣ると、州吏が通達を求めようとしているのを見た。太史慈が問うには 「君は奏章を通達しようとしているのか?」 。吏曰く 「そうだ」 。問うた 「奏章はどこに在る?」 。曰く 「車上だ」 。太史慈曰く 「奏章の題署には誤りは無いのか? 取って来て視てみたまえ」 と。吏は少しも東萊郡の人とは察知せず、奏章を取り出した。太史慈は已に先んじて刀を懐ろにしており、たちまちにこれを截敗(斬裂)した。吏は踴躍して大声で呼ばわって言うには 「こいつが私の奏章を壊した!」 と。太史慈はこれを率いて車と車の間に至って語るには 「もし君が奏章を与えるような事をしなければ、私も亦た敗る事はできなかった。これは吉凶禍福(表裏一体)というもので、私が独りだけこの罪を受ける事はあるまい。もし黙って倶に出去すれば、生存を死亡に易える事ができ、そうしなければ倶に刑辟に就く事になるぞ」 。吏が言うには 「君は郡の為に私の奏章を敗り、思い通りにできた。どうして復た逃亡しようとするのだ?」 。太史慈は答えて 「当初の郡の命令は、ただ来て奏章が通達されたかまだかを視る事だった。私は意を用いること過剰で、つい奏章を敗ってしまった。今還っても、恐らくはこのせいで譴怒されるだろう。ゆえに倶に去りたいのだ」 と。吏は太史慈の言葉に納得し、即日に倶に去った。太史慈は城を出ると、遁還して郡の奏章を通達した。州家(刺史)はこれを聞き、更めて吏を遣って奏章を通達させたが、有司は格章(先来の奏表)を理由として再びは受理せず、州はその短(不利)を受けた。(太史慈は)これによって名を知られたが、州家に疾(にく)まれ、その禍を受ける事を恐れて遼東に避難した。

 北海相孔融聞而奇之、數遣人訊問其母、并致餉遺。時融以黄巾寇暴、出屯都昌、為賊管亥所圍。慈從遼東還、母謂慈曰:「汝與孔北海未嘗相見、至汝行後、贍恤殷勤、過於故舊、今為賊所圍、汝宜赴之。」慈留三日、單歩徑至都昌。時圍尚未密、夜伺闌пA得入見融、因求兵出斫賊。融不聽、欲待外救。未有至者、而圍日偪。融欲告急平原相劉備、城中人無由得出、慈自請求行。融曰:「今賊圍甚密、衆人皆言不可、卿意雖壯、無乃實難乎?」慈對曰:「昔府君傾意於老母、老母感遇、遣慈赴府君之急、固以慈有可取、而來必有益也。今衆人言不可、慈亦言不可、豈府君愛顧之義、老母遣慈之意邪?事已急矣、願府君無疑。」融乃然之。於是嚴行蓐食、須明、便帶鞬攝弓上馬、將兩騎自隨、各作一的持之、開門直出。外圍下左右人並驚駭、兵馬互出。慈引馬至城下塹内、植所持的各一、出射之、射之畢、徑入門。明晨復如此、圍下人或起或臥、慈復植的、射之畢、復入門。明晨復出如此、無復起者、於是下鞭馬直突圍中馳去。比賊覺知、慈行已過、又射殺數人、皆應弦而倒、故無敢追者。遂到平原、説備曰:「慈、東萊之鄙人也、與孔北海親非骨肉、比非郷黨、特以名志相好、有分災共患之義。今管亥暴亂、北海被圍、孤窮無援、危在旦夕。以君有仁義之名、能救人之急、故北海區區、延頸恃仰、使慈冒白刃、突重圍、從萬死之中自託於君、惟君所以存之。」備斂容答曰:「孔北海知世阯L劉備邪!」即遣精兵三千人隨慈。賊聞兵至、解圍散走。融既得濟、益奇貴慈、曰:「卿吾之少友也。」事畢、還啓其母、母曰:「我喜汝有以報孔北海也。」

 北海相孔融は聞くとこれを奇とし、しばしば人を遣ってその母を訊ねて(消息を)問わせ、併せて餉遺(贈物)を致した。時に孔融は黄巾の寇暴によって都昌に出屯しており、賊の管亥に囲まれた。太史慈が遼東より還ると、母が太史慈に謂うには 「汝は孔北海とは未だ嘗て見(まみ)えた事が無いのに、汝が行った後に贍恤すること殷勤で、故旧(旧知)よりも過分でした。今や賊に囲まれています。汝は赴くのが当然です」 。太史慈は(家に)留まること三日、単身徒歩で径(ただち)に都昌に至った。
 時に包囲は尚お未だ密ならず、夜に間隙を伺って入城できた。孔融に通見すると、兵を出して賊を斫(き)る事を求めた。孔融は聴(ゆる)さず、外からの救援を待とうとした。(来援が)至る前に包囲は日々に窮偪した。孔融は危急を平原相劉備に告げたく思ったが、城中には脱出できそうな人は無く、太史慈は自ら請うて行く事を求めた。孔融曰く 「今、賊の包囲は甚だ稠密で、衆人は皆な無理だと言っている。卿の意思は勇壮ではあるが、実際に難しくは無いのか?」 と。太史慈は対えるに

「昔、府君は老母に意を傾けてくださり、老母は処遇に感激し、私を遣って府君の危急に赴かせました。私にも思う処があり、来れば必ず(府君に)益があろうかと考えたのです。今、衆人は無理だと言い、私も亦た無理だと言ったなら、どうやって府君の愛顧の義と、老母が私を遣った意図に応えられましょう? 事態は已に急迫しております。願わくば府君よ、疑い無きように」 。

孔融はかくして納得した。ここに厳行(旅装)褥食(出立前の寝床の中での食事)し、明けるのを須(ま)って鞬(弓嚢)を帯び弓を摂って馬に上り、両騎を率いて随わせ、各々に一つの的を持たせ、門を開いて直ちに出城した。外の包囲下の左右の人は揃って驚駭し、兵馬を互いに繰り出した。太史慈は馬を引いて城下の塹内に至り、持参した的を各々一つずつ植えさせ、出てはこれを射ち、射ち畢(お)えると径(ただ)ちに門に入った。明晨(明朝)に復たこの様にした処、包囲下の或る者は起ち或る者は臥し、太史慈は復た的を植え、射ち畢えると復た門に入った。明晨に復た出てこの様にすると起とうとする者は無く、ここに馬に鞭を下して直ちに包囲を突破して馳せ去った。

 因みに同様の手法は、対魏の最前線に駐屯した朱然も軍レベルで実施しています。割とメジャーな戦法なのでしょう。

賊が覚知した頃には太史慈は已に通過しており、又た射て数人を殺し、皆な弦音に応じて倒れたので、追おうとする者は無かった。かくて平原に到って劉備に説くには

「私は東萊の鄙人で、孔北海とは親しくはありますが骨肉でもなく、郷党でもなく、ただ名と志を以て好誼して分災共患の義を有しております。今、管亥の暴乱で北海は包囲され、孤窮無援で危難は旦夕に在ります。君には仁義の名があり、人の危急を救いうるというので、北海は区々たる身ですが、頸を伸ばして仰ぎ恃み、私に白刃を冒して重囲を突破させ、万死の中より自身を君に託させたのです。ただ君だけが存続させられるのです」 。

劉備は容貌を斂(あらた)めて答えるには 「孔北海は世間に劉備がある事を知っておられたか!」 と。即座に精兵三千人を遣って太史慈に随わせた。賊は兵が至ると聞くと、包囲を解いて散り走(に)げた。孔融は救済されると益々太史慈を奇貴とし 「卿は我が少友(年少の友)だ」 と。事を畢えると還ってその母に啓(もう)した。母曰く 「私は汝が孔北海に報恩した事を嬉しく思います」 。

 ここまで、“孝・義に篤い丈夫”というのが呉書が示したい太史慈像です。ですが太守の指示を過剰に遂行した考えなしの行動を見る限りは“読み書きできる甘寧”レベルに過ぎず、あの孔融に認められたといっても、北海時代の孔融は実務そっちのけで珍奇な人を集めて名声を高める事に熱心でしたし。何より、本当に孝子であるなら、青州を退去する際に残した母親が圧逼される可能性とか考えなかったんでしょうか。

 揚州刺史劉繇與慈同郡、慈自遼東還、未與相見、暫渡江到曲阿見繇、未去、會孫策至。或勸繇可以慈為大將軍、繇曰:「我若用子義、許子將不當笑我邪?」但使慈偵視輕重。時獨與一騎卒遇策。策從騎十三、皆韓當・宋謙・黄蓋輩也。慈便前闘、正與策對。策刺慈馬、而擥得慈項上手戟、慈亦得策兜鍪。會兩家兵騎並各來赴、於是解散。

 揚州刺史劉繇は太史慈と同郡で、太史慈は遼東から還ってより未だ通見していなかったが、暫くして渡江して曲阿に到ると劉繇に通見し、未だ去らぬうちにたまたま孫策が至った。或る者が劉繇に勧めるには、太史慈を大将にしてはと。劉繇曰く 「私がもし太史子義を用いたなら、許子将が私を嘲笑しはしまいか?」 と。ただ太史慈に敵の軽重を偵視させるだけだった。時に独りで一騎卒と与に孫策に遭遇した。孫策は騎兵十三を従えており、皆な韓当・宋謙・黄蓋の輩だった。太史慈はたちまち前んで闘い、孫策と正対した。孫策は太史慈の馬を刺し、太史慈の項上の手戟を擥得(奪取)し、太史慈も亦た孫策の兜鍪(兜冑)を獲得した。折しも両家の兵騎が揃って各々来赴し、ここに解き散った。

 慈當與繇倶奔豫章、而遁於蕪湖、亡入山中、稱丹楊太守。是時、策已平定宣城以東、惟以西六縣未服。慈因進住縣、立屯府、大為山越所附。策躬自攻討、遂見囚執。策即解縛、捉其手曰:「寧識神亭時邪?若卿爾時得我云何?」慈曰:「未可量也。」策大笑曰:「今日之事、當與卿共之。」即署門下督、還呉授兵、拜折衝中郎將。後劉繇亡於豫章、士衆萬餘人未有所附、策命慈往撫安焉。左右皆曰:「慈必北去不還。」策曰:「子義捨我、當復與誰?」餞送昌門、把腕別曰:「何時能還?」答曰:「不過六十日。」果如期而反。

 太史慈は劉繇と倶に豫章に奔ろうとしたが、蕪湖に遁れ、逃亡して山中に入り、丹楊太守を称した。

 劉繇は太史慈と同郡の全国レベルの名士です。太史慈に恩を施してはいませんが、大将にしなかったのは特に不当な処遇ではなく、太史慈がそれを不服としたような描写もありません。単に劉繇に従っていてもヤバそうなだけだから離脱した。同郡出身の雇用主を見捨てただけです。義に篤い筈の人が。

この時、孫策は已に宣城以東を平定しており、ただ県(安徽省宣城市)以西の六県だけが服属していなかった。太史慈はそこで進んで県に駐まって屯府を立てた処、大いに山越が附属した。孫策が躬ずから攻討したので、かくて囚執された。孫策は即座に縛めを解き、その手を捉えて曰く 「神亭の時の事を識(おぼ)えているか? もし卿がかの時に私を得ていたらどうしていた?」 と。太史慈曰く 「推量しかねます」 。孫策は大いに笑い 「今日の事は卿と(苦楽を)ともにしよう」 [1]。即座に門下督に署け、呉に還ると兵を授け、折衝中郎将に拝した。後に劉繇が豫章で亡ぶと軍兵万余人は帰附する先を知らず、孫策は太史慈に、往って安撫するよう命じた[2]。左右の者は皆な曰く 「太史慈は必ず北に去って還りますまい」 と。孫策 「子義が私を捨てて、復た誰と与にするというのか?」 。昌門に餞送し、腕を把って別辞して曰く 「何時ごろ還れそうか?」 と。答えて 「六十日は過ぎますまい」 。果して期日の通りに反った[3]

 原文 「即解縛、捉其手」 の情景は往々にして見られますが、解放する側が相手の主張や立場を理解した上で、ほぼ確実にこちらに靡く確証があって行なわれるものです。太史慈は孔融の知遇を蒙り、劉繇に随従し、謂わば陶謙側に立ち続けた人物で、孫策にとっては危険極まりない相手です。敗走する劉繇を見捨てた程度で信用できる筈はありません。武人同士の共感とか侠客同士が心意気に感じたという夢見がちな成分を除くと、孫策と県の太史慈との間で交渉が重ねられた結果、太史慈が自主的に開門したものと考えられます。まだまだ兵力不足に悩む孫策にとって、太史慈に従う山越兵はさぞや魅力的だった事でしょう。劉繇の遺兵を接収させたのも兵力不足によるもので、もし太史慈の進言によるものなら、孫策の兵力不足を見越して自兵の増強にまんまと成功した事になります。

 劉表從子磐、驍勇、數為寇於艾・西安諸縣。策於是分海昬・建昌左右六縣、以慈為建昌都尉、治海昬、并督諸將拒磐。磐絶迹不復為寇。

 劉表の従子(おい)の劉磐は驍勇で、しばしば艾・西安の諸県を寇掠した。孫策はここに海昬・建昌の左右六県を分け(て建昌郡を建て)、太史慈を建昌都尉として海昬(九江市永修)で治めさせ、併せて諸将を督して劉磐を拒がせた。劉磐は迹を絶って再びは冦掠しなかった。

 慈長七尺七寸、美鬚髯、猨臂善射、弦不虚發。嘗從策討麻保賊、賊於屯裏縁樓上行詈、以手持樓棼、慈引弓射之、矢貫手著棼、圍外萬人莫不稱善。其妙如此。曹公聞其名、遺慈書、以篋封之、發省無所道、而但貯當歸。孫權統事、以慈能制磐、遂委南方之事。年四十一、建安十一年卒[4]。子享、官至越騎校尉。

 太史慈の身長は七尺七寸、美鬚美髯で、猨臂は射術に善く、弦音を虚しく発する事は無かった。嘗て孫策に従って麻保の賊を討った時、賊が屯裏(屯の中)の楼上に縁って罵詈しており、手で楼の棼(棟木)を持っていたが、太史慈が弓を引絞ってこれを射た処、矢は手を貫いて棼に著け、囲外の万人で称善せぬ者は莫かった。その妙技はこの通りだった。曹操はその勇名を聞くと太史慈に書簡を遺(おく)り、篋に封をした。発いて省みても道(ことば)は無く、但だ当帰草が貯(おさ)められているだけだった。

 当帰草はセリの一種で、漢方薬の原料。その名を和読すると 「まさに帰るべし」 となります。

 孫権は統事すると、太史慈が劉磐を抑制できた事から南方の事を委ねた。齢四十一で建安十一年(206)に卒した[4]。子の太史享の官は越騎校尉に至った[5]
 常々、太史慈の列伝が劉繇・士燮と同梱されている事が不思議でなりませんでした。孫策に従う前に丹楊太守を自称して山越を従えていた事を、無理やり拡大解釈して群雄扱いしたのかとも思いましたが、最終節を読んで考えが変わりました。ここは孫呉にとっては外様ですらない外藩のまま終始した人の列伝で、江南群雄伝ではありませんでした。孫呉にとっての太史慈の功績は丹楊の一部の山越を取り込んだ事と劉磐を退けた事に尽き、それは孫策時代のものです。孫権時代になると一転して南方に飛ばされ、どこで何をしていたんだかも判らないまま、死亡記事に直結です。
 呉にはもう一人、似たような経緯の人がいます。孫策の下では生き生きと活躍し、孫権が立つと一転して南方に飛ばされ、赤壁の役が無ければそのまま飼い殺されていたかもしれない周瑜がその人です。周瑜は赤壁と南郡での活躍が内外・後世に与えた影響が多大だったので呉志第九の筆頭に置かれましたが、孫権体制にとっては明らかに外藩の人で、立場的には太史慈と極めて近いものがあります。特に太史慈の場合は孫呉の他の諸将との交流すら全く示されておらず、独立行動に終始しているのが象徴的です。
   
[1] 太史慈は神亭の戦さに敗れ、孫策に執われた。孫策は素よりその名を聞いており、即座に縛めを解いて請見し、進取の術を諮問した。太史慈が答えるには 「破軍の将と大事を論じる必要はございません」 と。孫策 「昔、韓信は広武君(李左車)によって計を定めた。今、私は仁君(太史慈)によって疑義を決しようというのに、君はどうして辞退するのか?」 。太史慈 「州軍は破れたばかりで士卒の心は離散しており、もしも分散すれば再び合聚するのは難事です。出城して(将軍の)恩徳を宣べて安集したいのですが、尊意に合わぬのではないかと恐れております」 。孫策は長跪して答えるには 「まことに本心からの望みだ。明日中に君が還って来るのを待望している」 と。諸将は皆な猜疑したが、孫策曰く 「太史子義は青州の名士で、信義を以て先としている。終には私を欺くまい」 と。明日、大いに諸将を請会し、予め酒食を設け、(日時計としての)竿を立てて影を視させた。日が中天に達して太史慈が至ると、孫策は大いに悦び、(これより)常に諸軍事を論じる際に参与させた。 (『呉歴』)
―― 裴松之が調べた処、『呉歴』 の云う太史慈が神亭での戦敗で孫策に得られたとは、本伝とは大いに異なっている。疑うらくは誤謬であろう。

 それもありますが、まず一日やそこいらで往って説得して編成して還ってこれるんでしょうか。本文で“六十日”を目にしているだけに、「明日の正午まで」 ってのが胡散臭く感じるんですが…。

―― 孫策が太史慈に問うには 「聞けば卿は昔に太守の為に州の奏章を劫掠し、(又た)孔文挙に赴くと劉玄徳に詣ることを請うたとか。何れの行動も烈義があり、天下の智士である。ただ託した相手が不適当だっただけだ。射鈎斬袪は古人も嫌忌していない[※]。孤は卿の知己であり、意図の通りにならぬのを憂えないでくれ」 と。教書を出して曰く 「龍は騰翥(飛翔)しようとする場合、先ずは尺木を階とするものである」 (『江表伝』)

※ 斉桓公・晋文公の故事。公子だった桓公は弟と帰国を争った際、弟に仕える管仲の射た箭が帯鈎に当ったが、斉君となった後に旧怨を忘れて管仲を宰相とした。公子だった文公は父に自殺を迫られると逃走し、その際に使者の勃鞮に袪袖を斬られたが、十数年の流浪の末に帰国して晋君となった時、勃鞮の注進を信じて兵変を未然に防いだ。

[2] 孫策が太史慈に謂うには

「劉牧は往古に私が袁氏の為に廬江を攻めた事を責めたが、その意思は頗(いささ)か猥賤で、理恕(道理と思い遣り)に欠けていた。どうしてか? 先君の手下兵は数千余人で、尽く袁公路の許に在った。私の志しは大事を立てる事に在り、袁公路に故兵を求索(請求)するには意を屈せざるを得ず、再び往っても纔(わず)かに得たのは千余人だけだった。そのまま私に廬江を攻めさせ、時と事の勢いとして行かざるを得なかった。ただしその後には臣節を遵守せずに自ら棄て、邪まに僭逆の事を為し、諫めても従わなかった。丈夫の義交とは、苟くも大故(大いなる不義)があれば離れるよりほかなく、私が袁公路に交わりを求め、絶交するに及んだ本末はこの通りなのだ。今、劉繇は喪亡し、生存時に共に論弁できなかったのは恨んでも及ばない。今、その児子は豫章に在り、華子魚(華歆)がどのように待遇しているのか分らぬし、嘗てのその部曲や依存者は復た随っているのかどうか? 卿は州人であり、昔には又た従事してもおり、往ってその児子の様子を視て、同時に私の意図をその部曲に宣べてはくれまいか? 部曲で来たい者がいれば倶に来て、来たくない者に対しても安慰してくれ。併せて華子魚の牧禦(統治)の方規の如何を観察し、廬陵・鄱陽の人民が親附しているか否かを視察してくれまいか? 卿の手下兵は多少を問わず意のままに率いて構わぬ」 。

太史慈は対えて 「私には不赦の罪があるのに、将軍が斉桓公・晋文公と同じ度量で待遇すること望みに過ぎるものです。古人は生に報じるのに死を以てするもので、節を尽くすのは歿した後に已むのです。今は揃って兵を息める時で、兵が多いのは宜しくありません。数十人を率いれば往還するのに充分です」 。 (『江表伝』)
[3] 孫策が太史慈を遣わした当初、議者が紛紜と論じて謂うには、太史慈は未だ信用できず、或る者は(豫章太守の)華子魚とは州里人であるから、恐らくは彼に留まって籌策を為すだろうと云い、或る者は太史慈が西のかた黄祖に身を託し、路を仮りて北に還るだろうとし、多くの者が、遣ったのは計りごとではないと言った。孫策曰く 「諸君が語っているのは皆な間違いだ。私は断固これを詳らかにしてやろう。太史子義は勇壮かつ豪胆とはいえ、縦横家(権謀の遊説家)の人柄ではない。その心には士としての謨(はか)りごとがあり、志は道義を経(か)ね、許諾した事を貴重し、一たび知己として意(こころ)を許したら、死亡しても負(そむ)かぬ。諸君は再びは憂えてはならぬ」 と。太史慈が豫章より還り、議者はかくして始めて承服した。
 太史慈は孫策にまみえて曰く

「華子魚は良徳の人ですが、籌略の才人ではなく、特に方規もないまま自守しているだけです。又た丹楊の僮芝は廬陵を擅(ほしいまま)にし、詔書を被った太守だと詐言しております。鄱陽の民の渠帥は別に宗部(自治組織)を立て、兵を恃んで界内を守り、華子魚の派遣した長吏を受容せず、“我らは別に郡を立て、漢が派遣した真太守が来るのを須ち、これを迎えるだけだ”と言っております。華子魚は廬陵・鄱陽を諧(ととの)えられぬのみか、近くは(境内の)海昬にも上繚壁(上繚塢)があり、五・六千家が相い結聚して宗伍(小規模の宗部)を作し、ただ租布を郡に輸送するだけで、徴発では一人として得られず、華子魚も亦た覩視(望見)しているだけです」 。

孫策は掌を拊って大いに笑い、かくして兼併の志を持ち、暫くして遂に豫章を定めた。 (『江表伝』)
[4] 太史慈は亡くなるに臨み、歎息して 「丈夫たる者は世に生まれれば、七尺の剣を帯びて天子の階を昇るものだ。今、志は未だ得られず、死んでどうするのか!」 。孫権は甚だ悼惜した。 (『呉書』)

 極力好意的に解釈すれば、天子を輔佐する大将軍に昇るのが男児の本懐だという事になりますが、どう読んでも武人として天子の位に即きたい!としか読めません劉邦のように。あちらは三尺の剣でしたが。

[5] 太史享の字は元復。尚書・呉郡太守を歴任した。 (『呉書』)
 

士燮

 士燮字威彦、蒼梧廣信人也。其先本魯國汶陽人、至王莽之亂、避地交州。六世至燮父賜、桓帝時為日南太守。燮少游學京師、事潁川劉子奇、治左氏春秋。察孝廉、補尚書郎、公事免官。父賜喪闋後、舉茂才、除巫令、遷交阯太守。

 士燮、字は威彦。蒼梧広信の人である。その先祖は本来は魯国汶陽の人で、王莽の乱に至って地を交州に避けた。六世して士燮の父の士賜に至り、桓帝の時に日南太守となった。士燮は若いころ京師に游学し、潁川の劉子奇[※]に師事し、『左氏春秋』を治めた。孝廉に察(あ)げられ、尚書郎に補任され、公事で官を免じられた。父の士賜の喪が闋(あ)けた後、茂才に挙げられて巫令に叙され、交阯太守に遷った。

 弟壹、初為郡督郵。刺史丁宮徴還京都、壹侍送勤恪、宮感之、臨別謂曰:「刺史若待罪三事、當相辟也。」後宮為司徒、辟壹。比至、宮已免、黄琬代為司徒、甚禮遇壹。董卓作亂、壹亡歸郷里。交州刺史朱符為夷賊所殺、州郡擾亂。燮乃表壹領合浦太守、次弟徐聞令䵋領九真太守、䵋弟武、領南海太守。

 弟の士壹は初め郡の督郵となった。刺史丁宮が京師に徴還されると、士壹は送別に侍すこと勤恪(精勤)で、丁宮は感激して別れに臨んで謂うには 「私がもし三公の事に待罪(就任の謙遜)したら、きっと辟召しよう」 と[※]。後に丁宮は司徒になり、士壹を辟した。至った時には丁宮は已に罷免されており、黄琬が代って司徒となっていたが、甚だ士壹を礼遇した。 董卓が乱を作すと、士壹は逃亡して郷里に帰った[1]。交州刺史朱符は夷賊に殺され、州郡は擾乱していた。士燮はかくして上表して士壹を領合浦太守とし、次弟の徐聞令士䵋を領九真太守に、士䵋の弟の士武を領南海太守とした。

 朱符は薛綜伝で 「会稽の人」 とあるので、特区でもある交州を治める為に、交州刺史として治績を上げた朱儁の一族を後任に充てたとの推定が可能です。6世紀の江南で成立した『弘明集』という宗教論を編纂した書物では、朱儁の子であり朱皓の兄だとされているそうです。まぁどこの世にも有名人に繋げたがる人はいるので、この関係は眉唾でしょうね。

 燮體器ェ厚、謙虚下士、中國士人往依避難者以百數。耽玩春秋、為之注解。陳國袁徽與尚書令荀ケ書曰:「交阯士府君既學問優博、又達於從政、處大亂之中、保全一郡、二十餘年疆埸無事、民不失業、羇旅之徒、皆蒙其慶、雖竇融保河西、曷以加之?官事小闋、輒玩習書傳、春秋左氏傳尤簡練精微、吾數以咨問傳中諸疑、皆有師説、意思甚密。又尚書兼通古今、大義詳備。聞京師古今之學、是非忿爭、今欲條左氏・尚書長義上之。」其見稱如此。

 士燮の体器はェ厚で、謙虚に士に遜下し、中国の士人で往って依拠した避難者は百を以て数えた。『春秋』を耽玩し、これに注解した。陳国の袁徽が尚書令荀ケに書を与えて曰く
「交阯の士府君の学問は優れて博く、又た従政(執政)にも練達しており、大乱の中にあって一郡を保全し、二十余年も疆埸(辺界)は事も無く、民は生業を失わず、羇旅の徒は皆なその余慶を蒙り、竇融が河西を保った事でもこれには加えられません。官事がやや闋(やす)まる都度に経伝を玩習し、『春秋左氏伝』に最も簡練精微(洗練詳細)であり、私がしばしば伝中の諸々の疑義を諮問した処、全てに師説(先人の学説)を以て答え、意思は甚だ稠密でした。又た『尚書』の古文・今文に兼通しており、大義を詳細に備えております。聞けば京師では古今の学問の是非を忿争しているとか。今、(士燮の論じる)『左伝』『尚書』のうち長(すぐ)れた義を箇条書きにして上呈するものです」 。
その称えられているのはこの通りだった。

 燮兄弟並為列郡、雄長一州、偏在萬里、威尊無上。出入鳴鍾磬、備具威儀、笳簫鼓吹、車騎滿道、胡人夾轂焚燒香者常有數十。妻妾乘輜輧、子弟從兵騎、當時貴重、震服百蠻、尉他不足踰也。武先病沒。

 士燮の兄弟は揃って郡守に列し、一州の雄長として万里の地に偏在し、威尊なこと上位者は無かった。出入には鍾・磬を鳴らし、威儀を備具し、笳簫を鼓吹し、車騎は道中に満ち、胡人で(士燮の乗車する)轂を挟んで焼香を焚く者は常に数十人あった。妻妾は輜輧車(幌車)に乗り、子弟は兵騎を従え、当時に貴重されて百蛮を震服させたのは、尉他とて踰えるには不充分だった[2]。士武は先んじて病歿した。

 朱符死後、漢遣張津為交州刺史、津後又為其將區景所殺、而荊州牧劉表遣零陵ョ恭代津。是時蒼梧太守史璜死、表又遣呉巨代之、與恭倶至。漢聞張津死、賜燮璽書曰:「交州絶域、南帶江海、上恩不宣、下義壅隔、知逆賊劉表又遣ョ恭闚看南土、今以燮為綏南中郎將、董督七郡、領交阯太守如故。」後燮遣吏張旻奉貢詣京都、是時天下喪亂、道路斷絶、而燮不廢貢職、特復下詔拜安遠將軍、封龍度亭侯。後巨與恭相失、舉兵逐恭、恭走還零陵。

 朱符の死後、漢では張津(張羨)を遣って交州刺史とし、張津が後に又たその将の区景に殺されると、荊州牧劉表は零陵の頼恭を遣って張津に代えた。この時、蒼梧太守史璜が死に、劉表は又た呉巨を遣ってこれに代え、頼恭と倶に至らせた。漢では張津の死を聞くと、士燮に璽書を賜って曰く 「交州は絶域であり、南には江海を帯び、上の恩は宣べられず、下々の義は壅隔(塞阻)されており、逆賊劉表が又た頼恭に南土を闚看(虎視)させているのを知った。今、士燮を綏南中郎将とし、南方の郡を董督(統督)させ、交阯太守を兼領するのは以前通りとする」 と。

 士燮の官は綏南中郎将・領交阯太守で、都督荊南諸軍事としての立場は交州刺史に等しいのですが、交州刺史には任命されていません。かといって曹操が劉表による叙任を認める訳が無い以上、曹操が他に交州刺史を任じているという事になり、恐らくそれは孫輔の事ではないかと思われます。孫輔伝では孫策が孫輔を交州刺史に任じたように書かれていますが、会稽太守に過ぎない孫策にはその権限も理由も無く、又た孫輔のその後の行動を追うと曹操との繋がりの強さが一層理解できます

後に士燮は吏の張旻を遣って奉貢を京都に詣らせた。この時、天下は喪乱して道路は断絶していたが、士燮は貢職を廃さなかったので、特に復た詔を下して安遠将軍に拝し、龍度亭侯に封じた。後に呉巨は頼恭と反目し合い、兵を挙げて頼恭を逐い、頼恭は逃走して零陵に還った

 頼恭は荊南に南下した劉備に帰して蜀漢で太常まで進み、呉巨は交州刺史となった歩隲の諭降に応じたものの、面従腹背を看破されて宴席で殺されます。

 建安十五年、孫權遣歩隲為交州刺史。隲到、燮率兄弟奉承節度。而呉巨懷異心、隲斬之。權加燮為左將軍。建安末年、燮遣子廞入質、權以為武昌太守、燮・壹諸子在南者、皆拜中郎將。燮又誘導益州豪姓雍闓等、率郡人民使遙東附、權益嘉之、遷衞將軍、封龍編侯、弟壹偏將軍、都郷侯。燮毎遣使詣權、致雜香細葛、輒以千數、明珠・大貝・流離・翡翠・瑇瑁・犀・象之珍、奇物異果、蕉・邪・龍眼之屬、無歳不至。壹時貢馬凡數百匹。權輒為書、厚加寵賜、以答慰之。燮在郡四十餘歳、黄武五年、年九十卒。

 建安十五年(210)、孫権が歩隲を遣って交州刺史とした。歩隲が到ると、士燮は兄弟を率いてその節度を奉承した。呉巨は異心を懐き、歩隲はこれを斬った。孫権は士燮に加官して左将軍とした。建安の末年、士燮が子の士廞を遣って入質させたので、孫権は武昌太守とし、士燮・士壹の諸子で南に在る者を皆な中郎将に拝した。士燮は又た益州の豪姓の雍闓らを誘導し、郡の人民を率いて遥か東に附属させたので、孫権は益々嘉し、衛将軍に遷して龍編侯に封じ、弟の士壹を偏将軍・都郷侯とした。
 士燮が遣使して孫権に詣らせる毎に、雑香や細葛を送致する事そのつど千を以て数え、明珠・大貝・流離・翡翠・瑇瑁・犀角・象牙の珍品や奇物・異果、芭蕉(バナナ)・椰子・龍眼の類いが至らぬ歳とて無く、士壹は時に馬の凡そ数百匹を奉貢した。孫権はそのつど書状を為し、厚く寵賜を加え、答書によって慰労した。士燮は郡に在ること四十余歳、黄武五年(226)に齢九十で卒した。

 權以交阯縣遠、乃分合浦以北為廣州、呂岱為刺史;交阯以南為交州、戴良為刺史。又遣陳時代燮為交阯太守。岱留南海、良與時倶前行到合浦、而燮子徽自署交阯太守、發宗兵拒良。良留合浦。交阯桓鄰、燮舉吏也、叩頭諫徽使迎良、徽怒、笞殺鄰。鄰兄治子發又合宗兵撃徽、徽閉門城守、治等攻之數月不能下、乃約和親、各罷兵還。而呂岱被詔誅徽、自廣州將兵晝夜馳入、過合浦、與良倶前。壹子中郎將匡與岱有舊、岱署匡師友從事、先移書交阯、告喩禍福、又遣匡見徽、説令服罪、雖失郡守、保無他憂。岱尋匡後至、徽兄祗、弟幹・頌等六人肉袒奉迎。岱謝令復服、前至郡下。明旦早施帳幔、請徽兄弟以次入、賓客滿坐。岱起、擁節讀詔書、數徽罪過、左右因反縛以出、即皆伏誅、傳首詣武昌。壹・䵋・匡後出、權原其罪、及燮質子廞、皆免為庶人。數歳、壹・䵋坐法誅。廞病卒、無子、妻寡居、詔在所月給俸米、賜錢四十萬。

 孫権は交阯が懸遠であるので、合浦以北を分けて広州として呂岱を刺史とし、交阯以南を交州として戴良を刺史とした。又た陳時を遣り、士燮に代えて交阯太守とした。呂岱は南海に留まり、戴良は陳時と倶に前行して合浦に到ったが、士燮の子の士徽は自ら交阯太守に署き、宗族の兵を発して戴良を拒いだ。戴良は合浦に留まった。交阯の桓鄰は士燮が挙げた吏であり、叩頭して士徽を諫めて戴良を迎えさせようとしたが、士徽は怒って桓鄰を笞殺した。桓鄰の兄の桓治と子の桓発は又た宗族の兵を糾合して士徽を撃ち、士徽は閉門して城を守った。桓治らはこれを攻めること数月になっても下せず、かくして和親を約し、各々兵を罷めて還った。
 呂岱は士徽誅殺の詔を被り、広州より兵を率いて昼夜(兼行)して馳せ入り、合浦を過ぎて戴良と倶に前んだ。士壹の子の中郎将士匡は呂岱と旧交があり、呂岱は士匡を師友従事に署け、先んじて交阯に移書して禍福を告喩し、又た士匡を遣って士徽に見(まみ)えて罪に服すよう説かせ、郡守の位は失っても憂慮する事態は無いと保証させた。呂岱が尋いで士匡に後れて至ると、士徽の兄の士祗と弟の士幹・士頌ら六人は肉袒して奉迎した。呂岱は謝辞して復た衣服させ、前んで郡下に至った。明朝早くに帳幔を施設し、士徽兄弟に要請して次々に入らせ、賓客は坐に満ちた。呂岱は起ち、節を擁して詔書を読み、士徽の罪過を数えると左右の者が反縛(背での縛手)して出し、即時に皆な誅に伏し、首を伝えて武昌に詣らせた[3] 。士壹・士䵋・士匡が後れて出頭すると、孫権はその罪を原(ゆる)し、士燮の質子の士廞も皆な免官して庶人とした。数歳して士壹・士䵋は法に坐して誅された。士廞は病卒したが子は無く、妻女は寡居していたので、詔して在所に月々に俸米を支給させ、銭四十万を下賜した。
 以後の交州の状況をざっと述べておきます。呂岱は231年に長江方面に異動となり、このとき薛綜が危惧した後任人事がどうなったかは不明ですが、239年には早くも臨賀(広西自治区賀州市)で生じた兵乱が交州全域に拡大しています。以後しばらくは造叛の記載はありませんが、この間に官吏の横暴や徴発、現地の習俗を無視した法制の強制など、異民族に対する典型的な文化的侵略が進行し、263年に至って呂興の大乱が生じました。これには蜀を滅ぼした晋が積極介入し、孫亮が心労から病死するというオマケがつき、呉による失地回復は271年頃までかかりました。呉による嶺南の統制強化はその後も続いたようで、279年には徴兵準備の戸口調査を機に広州で郭馬が造叛し、これも瞬く間に拡大しました。時期的に晋の平呉と重複している為か、郭馬の乱の終末は不明です。
   
※ 諱は陶。潁川潁陰の人。西漢の済北貞王劉勃の裔。太学生の時から梁冀・宦官らを糾弾して名を知られ、任官後は理劇の才を讃えられて侍御史・京兆尹・諫議大夫などを歴任した。中平二年(185)、弊政の元凶として宦官を厳しく糾弾した為に枉陥され、前司徒の陳耽と共に獄死した。古文学者としても知られた。
―― 陳耽は司徒に復帰した翌年(182)、議郎曹操と連名で、公卿が宦官と結んで賄賂とコネを基準に人事を行なっている事を指弾し、そのため翌年には罷免され、更に劉陶の件に乗じて枉陥されて獄死した。 (范曄『後漢書』)

 『演義』第二回で、劉陶は霊帝に面と向かって宦官を糾弾した為に投獄され、司徒陳耽はこれを庇ったために揃って処刑された事になっています。
 ちなみに済北王劉勃は淮南脂、劉長の子なので、高祖の孫に当ります。王国は昭帝の始元元年(B86)、孫の劉寛の代に姦淫に坐して廃されました。

※ 中平四年(187)五月、光禄勲である沛国の丁宮を司空とした。 : 五年八月、司徒許相を罷免し、司空丁宮を司徒とした。 : 六年七月、司徒丁宮を罷免。 (范曄『後漢書』)

 丁宮は曹操と縁のある沛国丁氏の一門の可能性があり、西園八校尉の新設と連動して司徒に進んだもので、霊帝の死後の何進の秉権に伴って罷免されているので、劉協(献帝)を推す董太后派に属していたものと思われます。ちなみに許相は許子将の再従弟にあたる三世三公の名門の当主で、宦官派士大夫の代表格として袁紹・袁術の兵変で宦官と共に殺されています。

 薛綜曰く、漢の時の法はェ緩で、(官の)多くは放恣であり、ゆえにしばしば法に反違し、珠崖郡が廃されたのも、長吏が(現地民の)髪が好いのを観て、髠取して髲(かもじ=ウィッグ)とした事で起ったのです。 臣の見聞した所でも、南海の黄蓋は日南太守となると、下車するや供設が豊穣でないとして主簿を檛殺し、そのため駆逐されました。九真太守儋萌が妻父の周京の為に(宴席の)主人となり、その席で功曹の番歆が共に舞う事を周京に求め、さらに強迫したので儋萌が番歆を杖殺しました。そのため番歆の弟の番苗は手勢を率いて郡府を攻め、儋萌は毒矢で射殺され、交阯太守士燮が派遣した討兵も勝てませんでした。又たもとの刺史だった会稽の朱符は、郷人の虞褒・劉彦の徒輩の多くを長吏とし、百姓を侵虐して民に賦税を強いたので、怨みは叛乱となって山越が便乗し、朱符は海上に敗走したまま流離のすえに死亡しました。次の南陽の張津は荊州牧劉表と反目し、兵は弱く敵は強いのに連年のように軍事を興し、諸将は厭戦して統制に従わず、統制を強めようとした為に殺されました。後任の零陵の頼恭は年長かつ仁謹でしたが時事には通暁しておらず、劉表が同時に蒼梧太守とした長沙の呉巨は武人として軽u彊悍であり、頼恭には服さなかったので怨恨し合い、遂には頼恭を逐って歩隲を求めました。この時、張津の故将の夷廖・銭博の徒党は尚おも多く、歩隲は順次鉏治(剪定)し、綱紀がまさに定まった処でたまたま召し出されたのです。 (薛綜伝)

[1] 黄琬が董卓と反目した時、士壹は黄琬に対して心を尽くして甚だ声称(称賛)があった。董卓はこれを悪んだので教書を署けて 「司徒掾の士壹を叙用してはならぬ」 と。ゆえに年を歴ても遷らなかった。たまたま董卓が入関したので、士壹は逃亡して帰った。 (『呉書』)
[2]  燮嘗病死、已三日、仙人董奉以一丸藥與服、以水含之、捧其頭搖之、食頃、即開目動手、顏色漸復、半日能起坐、四日復能語、遂復常。奉字君異、侯官人也。(葛洪『神仙伝』)

 士燮が病死して三日後、仙人の董奉が仙薬を服用させると、四日で完全に蘇生しましたとさ。董奉君異は侯官の人だそうな。

[3] 孫盛曰く、遠きを懐柔して邇(ちか)くするには信より善なるは莫く、大いに定めた功を保つには義より善なるは莫い。ゆえに斉桓公は基を創建するに際して柯の会盟で徳を彰かにし[※1]、晋文公は覇業を始めるに当って原を伐って義を顕かにした[※2]。ゆえに九合(天下)を一匡(輔弼の為の一体化)にでき、世々に中夏の盟主となり、令名は長く世に問われ、百王に範を貽(のこ)した。

※1 柯の盟は、魯が斉に対して敗戦を認める際の会盟。席上で桓公は魯将に刃で脅されて征服都市の返還を約束したが、後にこれを実行した為に諸国の信頼を得た。
※2 原邑は、晋文公の労に酬いるために襄王が晋に割譲した城邑の1つて、晋に従う事を拒んだ為に文公に伐たれた。文公は討伐の前に期限を定めたが、期日を過ぎても陥せなかった為に落城寸前だったにも拘わらず兵を引いた。その後、原邑は一舎を退いた文公の信義に感じて開城したとも、翌年に文公が絶対開城を誓約して再征すると前年の有言実行を鑑みて戦わずして開城し、この事で文公の信義の強さを知った衛も晋に帰順したとも伝えられる。

呂岱は師友の士匡に誓約を通信させ、士徽の兄弟が肉袒して心を推して命を委ねたのに、呂岱はここぞとこれを滅ぼして功利を要(もと)めた。君子はこれによって孫権が深慮遠謀できず、呂氏の祚(家門)が延長しないと知ったのである。

 呂岱伝では呂岱の家のその後のことは記されていませんが、孫盛さんはその資料を持っていたという事でしょうか。だとしたら、是非とも呂家の後日譚も書いておいてほしかったものです。そもそも呂岱伝ではなく此処にこの評を置いた裴松之さんの意図も今イチ判りませんが。

 評曰:劉繇藻事シ行、好尚臧否、至於擾攘之時、據萬里之土、非其長也。太史慈信義篤烈、有古人之分。士燮作守南越、優游終世、至子不慎、自貽凶咎、蓋庸才玩富貴而恃阻險、使之然也。

 評に曰く:劉繇は名と行ないを藻(飾磨)して臧否(人物評)を好尚(趣好)したが、擾攘の時に至って万里の地に拠るような事には長じてはいなかった。太史慈は信義に篤烈で、古人の分限があった。士燮は南粤の太守となり、優游として世を終えたが、子に至って慎まず、自ら凶咎を貽(まね)いた。恐らくは庸才が富貴を玩弄して険阻を恃んだ事がそうさせたのだ

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