三國志修正計画

三國志卷五十 呉志五/妃嬪伝

呉夫人

 孫破虜呉夫人、呉主權母也。本呉人、徙錢唐、早失父母、與弟景居。孫堅聞其才貌、欲娶之。呉氏親戚嫌堅輕狡、將拒焉、堅甚以慚恨。夫人謂親戚曰:「何愛一女以取禍乎?如有不遇、命也。」於是遂許為婚、生四男一女。

 孫堅の呉夫人は呉主孫権の母である。もとは呉人だったものが銭唐に徙り、早くに父母を失って弟の呉景と居していた。孫堅が才貌を聞いて娶りたいとしたが、呉氏の親戚が孫堅の軽輩狡猾を嫌悪して拒もうとし、孫堅は甚だ慚じ恨んだ。夫人が親戚に謂うには 「どうして一女を愛惜して禍を取るのですか? 不遇になったとしても天命というものです」 こうして婚儀の事を許し、四男一女を生んだ[1]

 呉夫人の家が呉県呉氏の宗家のようです。富春に移住したのが運のつきで、落ち目の名家が売り出し中の若頭に目をつけられて、婚姻を迫られたという図です。夫人もお礼参りがヤバいと明言されております。

 
呉景

 景常隨堅征伐有功、拜騎都尉。袁術上景領丹楊太守、討故太守周マ、遂據其郡。孫策與孫河・呂範依景、合衆共討縣山賊祖郎、郎敗走。會為劉繇所迫、景復北依術、術以為督軍中郎將、與孫賁共討樊能・于麋於江、又撃笮融・薛禮於秣陵。時策被創牛渚、降賊復反、景攻討、盡禽之。從討劉繇、繇奔豫章、策遣景・賁到壽春報術。術方與劉備爭徐州、以景為廣陵太守。術後僭號、策以書喩術、術不納、便絶江津、不與通、使人告景。景即委郡東歸、策復以景為丹楊太守。漢遣議郎王ヲ、銜命南行、表景為揚武將軍、領郡如故。

 呉景は常に孫堅の征伐に随って功があり、騎都尉に拝された。袁術が上表して呉景を領丹楊太守とし、旧の(丹楊)太守周マを討ち、かくてその郡に拠った。孫策が孫河・呂範と呉景に依り、手勢を合せて共に県の山賊の祖郎を討ち、祖郎を敗走させた。おりしも劉繇に迫られて、呉景は復た北のかた袁術に依り、袁術は督軍中郎将とした。孫賁と共に樊能・于麋を横江に討ち、又た笮融・薛礼を秣陵に討った。時に孫策が牛渚で創を被り、降した賊が復た反いたが、呉景が攻討して尽く禽えた。劉繇討伐に従い、劉繇が豫章に奔ると孫策は呉景・孫賁を遣って寿春に至らせて袁術に報告させた。袁術は劉備と徐州を争っている最中で、呉景を広陵太守とした。袁術が後に僭号すると孫策は書簡で袁術を喩し、袁術が納れなかったので便ちに江津を絶って通行せず、人を遣って呉景に告げさせた。呉景は即座に郡を委(棄)てて東帰し、孫策は復た呉景を丹楊太守とした。漢では議郎王ヲを遣って王命を銜んで南行させ、上表して呉景を揚武将軍とし、領郡は元の通りとした。

 呉景は両親が早逝してしまった為に孫堅の横車を甘受するしかありませんでしたが、孫堅の死によって孫氏との勢力関係は再び逆転しました。呉景が太守で孫賁が都尉。孫策は部屋住まいです。劉繇討伐も呉志・『呉書』などでは孫策が主役ですが、功を求めて孫策が呉景らの下に押し掛けたというのが実情ではないかと。劉繇を敗走させた事で漸く孫策の主導権が確立したのでしょう。

 及權少年統業、夫人助治軍國、甚有補益。建安七年、臨薨、引見張昭等、屬以後事、合葬高陵。

 孫権が少年で業を統べると夫人は軍国の統治を助け、甚だ補益する所があった[2]。建安七年(202)、薨ずるに臨んで張昭らを引見し、後事を属託した。高陵に合葬された[3]

八年、景卒官、子奮授兵為將、封新亭侯、卒。子安嗣、安坐黨魯王霸死。奮弟祺嗣、封都亭侯、卒。子纂嗣。纂妻即滕胤女也、胤被誅、并遇害。

八年(203)、呉景は官として卒し、子の呉奮が兵を授かって将となった。新亭侯に封じられ、卒した[4]。子の呉安が嗣いだ。呉安は魯王孫霸の死に党人として坐した。呉奮の弟の呉祺が嗣ぎ[5]、都亭侯に封じられて卒した。子の呉纂が嗣いだ。呉纂の妻は滕胤の息女で、滕胤が誅されると併せて害に遇った。
[1] 初、夫人孕而夢月入其懐、既而生策。及権在孕、又夢日入其懐、以告堅曰:「昔妊策、夢月入我懐、今也又夢日入我懐、何也?」堅曰:「日月者陰陽之精、極貴之象、吾子孫其興乎!」 (『捜神記』)

 孫策を孕んだ時は懐に月が入り、孫権を孕んだ時は懐に太陽が入る夢を見た。孫堅、喜ぶ。

[2] 孫策の功曹の魏騰が迕意によって譴責され、(孫策が)殺そうとした時、士大夫は憂恐して為す所が無かった。そのとき夫人は大井戸に倚って孫策に謂うには 「汝の江南の事は新造にあたり、その事は未だに集成されておらず、今こそ賢者を優待し士を礼遇し、過失を捨てて功績を録すべき時です。魏功曹は公務に規を尽しています。汝が今日殺せば、明日には人は皆な汝に叛きましょう。私は禍が及ぶのを見るに忍びないので、これから先にこの井戸の中に投身するだけです」 孫策は大いに驚き、急遽に魏騰を釈放した。夫人の智略・権譎は皆なこの類であった。 (『会稽典録』)

 呉夫人の胆の太さは孫堅との婚姻を決めた事でも示されていますが、同時に呉氏の家門自体が孫堅父子に重んじられていた事も無視できません。孫堅が無理に通婚を求めたのも、夫人の才貌というより呉氏との閨閥を欲したからで、劉繇を逐った後に呉景が孫策とは別に勅使によって叙任されたのも家門の為でしょう。

[3] 会稽の貢挙簿を調べた処、建安十二年から十三年が欠け、挙げられた者がおらず、府君(太守)が遭憂(服喪)したと云っている。これにより呉后は建安十二(207)年に薨じたのである。八年・九年には皆な貢挙がある事でもこれは甚だ分明である。 (『志林』)
[4] 孫権が荊州に征伐した時に呉奮を呉郡都督に拝し、東方の鎮めとした。 (『呉書』)
[5] 呉祺は張温・顧譚と交友親善し、孫権は辞訟の事に関して平理させた。 (『呉書』)

 

謝夫人

 呉主權謝夫人、會稽山陰人也。父煚、漢尚書郎・徐令。權母呉、為權聘以為妃、愛幸有寵。後權納姑孫徐氏、欲令謝下之、謝不肯、由是失志、早卒。後十餘年、弟承拜五官郎中、稍遷長沙東部都尉・武陵太守、撰後漢書百餘卷。

 呉主孫権の謝夫人は会稽山陰の人である。父の謝煚は漢の尚書郎・徐県令だった[1]。孫権の母の呉氏は孫権の為に招聘して妃とし、愛幸されて寵があった。後に孫権が姑(おば)の孫の徐氏を(室に)納れると、謝氏に下となるよう望んだが、謝氏は肯んぜず、そのため志(意向)を失って早卒した。後に十余年して、弟の謝承が五官郎中に拝された。長沙東部都尉・武陵太守に稍遷(漸遷)し、『後漢書』百余巻を撰した[2]
[1] 謝煚の子の謝承が『後漢書』を撰したが、そこでは謝煚は幼年で行ないが仁孝であり、明達にして令才があったと称している。謝煚の弟の謝貞は法度を履踏(遵守)し、篤学で義を貴び、孝廉に挙げられ、建昌県長のとき官のまま卒した。
[2] 謝承、字は偉平。博学で普く聞こえ、嘗て知見した事は終生忘れなかった。子の謝崇は揚威将軍、謝崇の弟の謝勖は呉郡太守となり、揃って名を知られた。 (『会稽典録』)

徐夫人

 呉主權徐夫人、呉郡富春人也。祖父真、與權父堅相親、堅以妹妻真、生琨。

 呉主孫権の徐夫人は呉郡富春の人である。祖父の徐真は孫権の父の孫堅と相い親しく、孫堅は妹を徐真の妻とし、徐琨が生まれた。
徐琨

 琨少仕州郡、漢末擾亂、去吏、隨堅征伐有功、拜偏將軍。堅薨、隨孫策討樊能・于麋等於江、撃張英於當利口、而船少、欲駐軍更求。琨母時在軍中、謂琨曰:「恐州家多發水軍來逆人、則不利矣、如何可駐邪?宜伐蘆葦以為泭、佐船渡軍。」琨具啓策、策即行之、衆悉倶濟、遂破英、撃走笮融・劉繇、事業克定。策表琨領丹楊太守、會呉景委廣陵來東、復為丹楊守、琨以督軍中郎將領兵、從破廬江太守李術、封廣コ侯、遷平虜將軍。後從討黄祖、中流矢卒。

 徐琨は少(わか)くして州郡に出仕し、漢末の擾乱で吏職を去り、孫堅の征伐に随って功があり、偏将軍に拝された。孫堅が薨じると、孫策が横江で樊能・于麋らを討つのに随い、当利口(横江津の東岸)に張英を撃つ事になったが、船が少なかった為に軍を駐めて更に求めようとした。徐琨の母は時に軍中に在ったが、徐琨に謂うには 「恐らく州家(州府)から多く水軍を発して逆撃して来ましょう。そうすれば利は無くなります。どうして駐まっているのですか? 蘆葦を伐(刈)って泭(筏)と為し、船による渡軍を佐ければ宜しいでしょう」 徐琨は具さに孫策に啓(もう)し、孫策は即座にこれを行なって軍兵は悉くともに済(わた)り、かくて張英を破り、撃って笮融・劉繇を走らせ、事業を克定した。孫策は上表して徐琨を領丹楊太守とした。
折しも呉景が広陵を委(す)てて来東した為、復た丹楊太守とし[1]、徐琨を督軍中郎将として兵を所領させた。(孫策の死後、)廬江太守李術の討破に従い、広徳侯に封じられ、平虜将軍に遷った。後に黄祖討伐に従い、流矢に中って卒した。

 李術は劉勲を駆逐した後に孫策によって廬江太守とされたもので、孫氏に叛くのは孫策の死がきっかけです。黄祖討伐で激戦だったと予想される建安八年に徐琨は戦死したのかもしれません。

 琨生夫人、初適同郡陸尚。尚卒、權為討虜將軍在呉、聘以為妃、使母養子登。後權遷移、以夫人妒忌、廢處呉。積十餘年、權為呉王及即尊號、登為太子、羣臣請立夫人為后、權意在歩氏、卒不許。後以疾卒。兄矯、嗣父琨侯、討平山越、拜偏將軍、先夫人卒、無子。弟祚襲封、亦以戰功至蕪湖督・平魏將軍。

 徐琨から徐夫人が生まれた。初めは同郡の陸尚(陸康の孫)に適(とつ)いだが、陸尚が卒し、孫権が討虜将軍となって呉に在った時に招聘して妃とし、母として子の孫登を養わせた。後に孫権は(居所を)遷移したが、夫人が妒忌だとして廃して呉に処(お)いた。積むこと十余年して孫権が呉王となり、ついで尊号に即くに及び、孫登を太子とした。群臣は徐夫人を立てて后とするよう請うたが、孫権の意は歩氏に在って卒(つい)に許さなかった。後に疾によって卒した。

 陸康は孫策に殺されたも同然の廬江太守です。陸氏は当時から呉ではそれなりの名家ですから、徐氏もそこそこの家門だったと思われます。だから孫堅の時代から将軍号を得る事が出来たんでしょう(たとえば朱治・呉景クラスで都尉に叙された一方、程普などは別部司馬に過ぎません)。呉氏との時もそうですが、名家との通婚にかける孫堅の情熱はスゴイ。
 徐琨は比較的孫氏寄りでしたが、その娘は本来の鞘に収まったというべきか。祖母が孫氏で父が孫氏寄りとはいえ、孫権は夫の祖父の仇の弟(ややこしいな)、下手したら夫の仇の弟にあたります。名家の婦人から一転して仇家の、しかも成り上がりとの政略結婚ですから、徐夫人が孫権に好意的である理由は無く、妒忌なんて尤もらしい後付けの言い訳に過ぎません。一緒に居ると寝首を掻かれる錯覚に陥るほど孫権にとって居心地が悪かったから離れたに決まっています。孫登を太子とした頃の孫権の勢力は徐家の支援を必要としなくなっていたので、立后を拒否る事が出来たのでしょう。

兄の徐矯が父の徐琨の侯を嗣ぎ、山越を討平して偏将軍に拝されたが、夫人に先んじて卒し、子が無かった。弟の徐祚が封を襲ぎ、亦た戦功によって蕪湖督・平魏将軍に至った。
[1] 当初、袁術は従弟の袁胤を遣って丹楊太守としていた。孫策は徐琨に命じて討ってこれに代らせた。折しも呉景が帰還したが、呉景が以前に丹楊太守であり、ェ仁によって衆心を得て吏民が追思していた事であり、しかも徐琨の手下の兵が多く、孫策は大いに重くなる事を嫌い、加えて攻伐のこともあるので、徐琨の手勢を得ておくのが妥当だとして復た呉景を(丹楊太守として)用い、徐琨を召して呉に還らせた。 (『江表伝』)

 本伝でも『江表伝』でも呉景が広陵から帰還したのが偶然のように書いていますが、呉景伝では 「袁術が僭号したので孫策が呼んだ」 とあります。呉景の能動なのか受動なのかは孫策が設定した袁術との距離を計る上で割と大事なんですが、本人の伝では不都合な事を回避するという紀伝体の法則に従うなら、徐夫人伝を是として呉景の南下に孫策の意志は介在していないと思いたい所です(笑)。
 もう1つの要注意点が袁胤の扱いです。ここと孫輔伝で、孫策と袁術が丹楊太守の指名で交戦していますが、どちらも『江表伝』が出典で、本伝では袁胤との交戦記事がありません。そもそも袁胤が丹楊に赴任したかも不明です。判っているのは、劉繇討伐の当時の丹楊太守は周瑜の叔父の周尚で、戦後に徐琨が暫定太守に任命され、袁術の僭号によって呉景が広陵から退いて丹楊太守に就いています。仮に袁胤が丹楊太守に就いていたなら徐琨との間に一悶着を予想する事も出来ますが、それでも軍事衝突に発展したのかと云われるとちょっと首を傾げたくなります。

 

歩夫人

 呉主權歩夫人、臨淮淮陰人也、與丞相隲同族。漢末、其母攜將徙廬江、廬江為孫策所破、皆東渡江、以美麗得幸於權、寵冠後庭。生二女、長曰魯班、字大虎、前配周瑜子循、後配全j;少曰魯育、字小虎、前配朱據、後配劉纂。

 呉主孫権の歩夫人は臨淮郡淮陰の人であり、丞相歩隲とは同族である。漢末、その母が携えて廬江に徙り、廬江(の劉勲)が孫策に破られると皆な東して長江を渡った。美麗だとして孫権に幸され、寵愛は後庭(後宮)の冠であった。二女を生み、長女を魯班、字を大虎といい、前に周瑜の子の周循に配偶され、後に全jに配偶された。少女を魯育、字を小虎といい、前に朱拠に配偶され、後に劉纂に配偶された[1]

 劉纂の初出は呂岱伝の嘉禾四年(235)、呂岱の叛賊討伐に唐咨と共に従っています。二度も公主を娶り、太平元年(256)の北伐には車騎将軍として名を連ねているので、名家の出だった事が伺われます。呉の劉氏というと真っ先に劉繇の一門が思い浮かびますが、縁故があったかどうかは不明です。即位当初の孫皓が司馬昭の喪に乗じる事を諮った際には、「まずは偵察を」 とやんわり諫めていますが、その後は現れません。

夫人性不妒忌、多所推進、故久見愛待。權為王及帝、意欲以為后、而羣臣議在徐氏、權依違者十餘年、然宮内皆稱皇后、親戚上疏稱中宮。及薨、臣下縁權指、請追正名號、乃贈印綬、策命曰:「惟赤烏元年閏月戊子、皇帝曰:嗚呼皇后、惟后佐命、共承天地。虔恭夙夜、與朕均勞。内教脩整、禮義不愆。ェ容慈惠、有淑懿之コ。民臣縣望、遠近歸心。朕以世難未夷、大統未一、縁后雅志、毎懷謙損。是以于時未授名號、亦必謂后降年有永、永與朕躬對揚天休。不寤奄忽、大命近止。朕恨本意不早昭顯、傷后殂逝、不終天祿。愍悼之至、痛于厥心。今使使持節丞相〔醴陵侯雍〕、奉策授號、配食先后。魂而有靈、嘉其寵榮。嗚呼哀哉!」葬於蔣陵。

 夫人の性は妒忌ではなく、多くを推挙・進薦し、そのため久しく愛待された。孫権が王および皇帝となると意として皇后にしようとしたが、群臣の衆議は(太子の生母の)徐氏に在り、孫権は違えたまま十余年となった。宮内では皆なが(歩氏を)皇后と称し、親戚が上疏する際には中宮と称した。薨じると臣下が孫権の旨に縁り、正式な名号を追賜することを請い、かくして(皇后の)印綬を贈り、策命した
「赤烏元年(238)閏十月戊子、皇帝が曰す。嗚呼皇后よ。后は公私ともに朕を輔け、婦徳と礼義を備えてェ容慈恵であり、民臣や遠近にも慕われた。朕は大業を達成しておらず、后も謙譲であり、亦たきっと后の天寿が永いと思いっていたのだ。本意を実行しておかなかった事は悔やんでも悔やみきれない。今、使持節丞相の醴陵侯顧雍を使者として策命を奉じて皇后の号を授け、先后(の霊廟)に配食する。魂に霊があるのならこの寵栄を嘉してくれ。嗚呼哀哉!」
蔣陵に葬った。
[1] 劉纂は先に孫権の中女を娶っていたが、早卒した為に又た小虎を継室とした。 (『呉歴』)
 

王夫人

 呉主權王夫人、琅邪人也。夫人以選入宮、黄武中得幸、生(孫)和、寵次歩氏。歩氏薨後、和立為太子、權將立夫人為后、而全公主素憎夫人、稍稍譖毀。及權寢疾、言有喜色、由是權深責怒、以憂死。和子晧立、追尊夫人曰大懿皇后、封三弟皆列侯。

 呉主孫権の王夫人は琅邪の人である[1]。夫人は選によって入宮し、黄武中に幸されて孫和を生み、寵愛は歩氏に次いだ。歩氏が薨じた後、孫和を立てて太子にすると、孫権は王夫人を立てて后にしようとした。全公主は平素より夫人を憎んでいた為、ようように譖毀し、孫権が寝疾(病臥)すると、喜色があったと言った。これによって孫権は深く責怒し、そのため憂死した。孫和の子の孫皓が立つと、夫人を追尊して大懿皇后とし、三弟を皆な列侯に封じた。
[1] 夫人の父の名は盧九といった。 (『呉書』)

 琅邪王氏といっても、恐らく王叡や王祥とは別の家でしょう。全くの別門ではないかも知れませんが、せいぜい魏の南阮と北阮程度の繋がりだと思われます。そうでなければ、もっと注記が多い筈。

 

王夫人

 呉主權王夫人、南陽人也、以選入宮、嘉禾中得幸、生(孫)休。及和為太子、和母貴重、諸姫有寵者、皆出居外。夫人出公安、卒、因葬焉。休即位、遣使追尊曰敬懷皇后、改葬敬陵。王氏無後、封同母弟文雍為亭侯。

 呉主孫権の王夫人は南陽の人で、選によって入宮し、嘉禾中に幸されて孫休を生んだ。孫和が太子となると孫和の母が貴重され、諸姫で寵のあった者は皆な出されて畿外に居した。夫人は公安に出されて卒し、因って(公安に)葬られた。孫休が即位すると使者を遣って敬懐皇后と追尊し、敬陵に改葬した。王氏には後嗣たる者が無く、同母弟の王文雍を封じて亭侯とした。

潘夫人

 呉主權潘夫人、會稽句章人也。父為吏、坐法死。夫人與姊倶輸織室、權見而異之、召充後宮。得幸有娠、夢有以龍頭授己者、己以蔽膝受之、遂生(孫)亮。赤烏十三年、亮立為太子、請出嫁夫人之姊、權聽許之。明年、立夫人為皇后。性險妒容媚、自始至卒、譖害袁夫人等甚衆。權不豫、夫人使問中書令孫弘呂后專制故事。侍疾疲勞、因以羸疾、諸宮人伺其昏臥、共縊殺之、託言中惡。後事泄、坐死者六七人。權尋薨、合葬蔣陵。孫亮即位、以夫人姊壻譚紹為騎都尉、授兵。亮廢、紹與家屬送本郡廬陵。

 呉主孫権の潘夫人は会稽句章の人である。父は吏となり、法に坐して死んだ。夫人は姊(姉)と倶に(罪人の家族として)織室に輸送されたが、孫権が見てこれを異とし、召して後宮に充てた。幸されて娠み、夢に龍頭を己れに授ける者があり、己はこれを蔽膝(前掛け)で受け、かくて孫亮を生んだ。赤烏十三年(250)に孫亮が立って太子とされ、夫人の姊を出嫁させる事を請い、孫権はこれを聴許した。明年、夫人を立てて皇后とした。
(夫人の)性は険悪で容媚(容姿の美麗)を妒(ねた)み、始めより卒するまでに譖害したのは袁夫人[1]など甚だ衆(おお)かった。孫権が不予になると、夫人は人を遣って中書令孫弘に呂后専制の故事を問わせた。侍疾(看病)に疲労して羸疾(衰弱)し、諸宮人は昏臥した処を伺って共にこれを縊殺し、悪風に中ったと託言した。後に事が泄れ、坐した死者は六・七人だった。孫権も尋(つ)いで薨じ、蔣陵に合葬された。孫亮が即位すると、夫人の姊婿の譚紹を騎都尉として兵を授けた。孫亮が廃されると、譚紹は家属と本籍の廬陵に送られた。
[1] 袁夫人とは袁術の娘である。節行があったが子が無かった。孫権はしばしば諸姫の子を養わせたが、そのたび育たなかった。歩夫人が薨じると孫権は(皇后に)立てたいと考えたが、夫人は無子を理由に固辞して受けなかった。 (『呉録』)
 

 

全夫人

 孫亮全夫人、全尚女也。從祖母公主愛之、毎進見輒與倶。及潘夫人母子有寵、全主自以與孫和母有隙、乃勸權為潘氏男亮納夫人、亮遂為嗣。夫人立為皇后、以尚為城門校尉、封都亭侯、代滕胤為太常・衞將軍、進封永平侯、録尚書事。時全氏侯有五人、並典兵馬、其餘為侍郎・騎都尉、宿衞左右、自呉興、外戚貴盛莫及。及魏大將諸葛誕以壽春來附、而全懌・全端・全禕・全儀等並因此際降魏、全熙謀泄見殺、由是諸全衰弱。會孫綝廢亮為會稽王、後又黜為候官侯、夫人隨之國、居候官、尚將家屬徙零陵、追見殺。

 孫亮の全夫人は全尚全jの甥)の娘である。従祖母の全公主がこれを愛し、孫権に進見するたびに倶にした。潘夫人の母子が寵愛されると、全公主は自身が孫和の母と隙がある事から、孫権に潘氏の男児である孫亮に夫人として納れる事を勧め、孫亮はかくて継嗣となった。(孫亮が即位して)夫人を立てて皇后とすると、全尚を城門校尉として都亭侯に封じた。滕胤に代えて太常・衛将軍とし、永平侯に進封されて尚書の事を総録した。時に全氏には五人の列侯があり、揃って兵馬を典り、その他に侍郎・騎都尉となって左右に宿衛する者、呉が興ってより外戚の貴盛なこと及ぶ者が莫かった。

 と、上記のように云っておりますが、当時の呉の実権は孫綝にあり、禁兵を典っていたのも孫綝の一族です念のため。

魏の大将の諸葛誕が寿春を以て来附した時、全懌・全端・全禕・全儀らは揃ってこの際に因って魏に降り、全熙は謀議が泄れて殺され、このため諸々の全氏は衰弱した。

 257年の事で、全懌は全jの子、全端はその従兄弟で、共に諸葛誕支援に派遣されていたものです。全禕・全儀は全懌の甥で、国許に居ましたが、一族間の内訌から母を伴って魏に奔ったもので、全懌・全端はこの全禕兄弟の呼びかけで魏に降ったものです。一族の内訌の詳細は不明ですが、孫綝体制に叛いたのは全jの家で、全尚の家には目立った動きはありません。全熙は流れからいって全jの一門かと思われます。

孫綝が孫亮を廃して会稽王とし、後に又た廃黜して候官侯としたが、夫人は就国に随って候官に居した。全尚は家属を率いて零陵に徙り、追って殺された[1]
[1] 孫亮の妻の恵解は容色があり、候官に居した。呉が平定されると帰郷し、永寧中(301〜02)に卒した。 (『呉録』)
 

朱夫人

 孫休朱夫人、朱據女、休姊公主所生也。赤烏末、權為休納以為妃。休為琅邪王、隨居丹陽。建興中、孫峻專政、公族皆患之。全尚妻即峻姊、故惟全主祐焉。初、孫和為太子時、全主譖害王夫人、欲廢太子、立魯王、朱主不聽、由是有隙。五鳳中、孫儀謀殺峻、事覺被誅。全主因言朱主與儀同謀、峻枉殺朱主。休懼、遣夫人還建業、執手泣別。既至、峻遣還休。太平中、孫亮知朱主為全主所害、問朱主死意?全主懼曰:「我實不知、皆據二子熊・損所白。」亮殺熊・損。損妻是峻妹也、孫綝益忌亮、遂廢亮、立休。永安五年、立夫人為皇后。休卒、羣臣尊夫人為皇太后。孫晧即位月餘、貶為景皇后、稱安定宮。甘露元年七月、見逼薨、合葬定陵。

 孫休の朱夫人は朱拠の娘で、孫休の姊(姉)の朱公主が生んだものである[1]。赤烏の末、孫権が孫休の為に納れて妃とし、孫休が琅邪王となると、随って丹陽に居した。建興中に孫峻が専政し、公族は皆なこれを患えたが、全尚の妻は孫峻の姊であり、そのため全公主だけが祐(さいわ)いだった。嘗て孫和が太子となった時、全公主は王夫人を譖害し、太子を廃して魯王を立てようとした。朱公主は(協力を)聴かず、これより隙を生じた。
五鳳中(254〜56)、孫儀が孫峻の殺害を謀ったが、事は発覚して誅された。全公主は朱公主が孫儀の同謀者だと言い、孫峻は朱公主を枉殺した。孫休は懼れて夫人を建業に還す事とし、手を執って泣いて別れた。(建業に)至ると、孫峻は孫休の下に還した。
 太平中(256〜58)、孫亮は朱公主が全公主に殺されたと知ると、朱公主の死の理由を糾問した。全公主は懼れ 「私は実態を知らないのです。全ては朱拠の二子の朱熊・朱損が白(もう)した事です」 孫亮は朱熊・朱損を殺した。

 全公主が朱公主を殺し、その子の朱熊・朱損をも殺した、と単純化が図られていますが、朱拠・朱公主は孫和派であり、朱熊兄弟は孫綝派なので、朱公主とも対立関係にあったものと思われます。“全公主が呉郡朱氏を圧迫した”とは結果論に過ぎず、孫亮の孫綝排斥計画に全公主が協力したものです。

朱損の妻は孫峻の妹であり、孫綝は益々孫亮を忌み、かくて孫亮を廃して孫休を立てた。
永安五年(262)、夫人を立てて皇后とした。孫休が卒し、群臣が夫人を尊んで皇太后とした。孫晧が即位して月余、景皇后と貶号され、安定宮と称された。甘露元年(265)七月、逼られて薨じ、定陵に合葬された[2]
[1] 裴松之が思うに、孫休はその姪を妻とした。これは漢恵帝と同じである。荀悦が既に真っ当に譏っているので、再びは広言しない。

 恵帝の張皇后は宣平侯張敖と魯元公主との娘で、呂后の外孫にあたります。孫休はさらに娘(孫権の孫)を朱拠の孫に嫁がせていますが、孫休は儒学を信奉する文人君主タイプなので、叔父と姪の通婚は名門社会では裴松之が目くじら立てるようにはタブー視されていなかったのかもです。

[2] 孫峻殺朱主、埋於石子岡。歸命即位、將欲改葬之。冢墓相亞、不可識別、而宮人頗識主亡時所著衣服、乃使兩巫各住一處以伺其靈、使察鑒之、不得相近。久時、二人倶白:見一女人年可三十餘、上著青錦束頭、紫白袷裳、丹綈絲履、從石子岡上半岡、而以手抑膝長太息、小住須臾、進一冢上便住、徘徊良久、奄然不見。二人之言、不謀而同、於是開冢、衣服如之。 (『捜神記』)

 孫皓は即位すると朱公主の墓所を探したが、似たような墓が並んでいて判別できなかった。二人の巫女に霊視させ、その衣装を便りに探し当てた。

 

何姫

 孫和何姫、丹楊句容人也。父遂、本騎士。孫權嘗游幸諸營、而姫觀於道中、權望見異之、命宦者召入、以賜子和。生男、權喜、名之曰彭祖、即晧也。太子和既廢、後為南陽王、居長沙。孫亮即位、孫峻輔政。峻素媚事全主、全主與和母有隙、遂勸峻徙和居新都、遣使賜死、嫡妃張氏亦自殺。何姫曰:「若皆從死、誰當養孤?」遂拊育晧、及其三弟。晧即位、尊和為昭獻皇帝、何姫為昭獻皇后、稱升平宮、月餘、進為皇太后。封弟洪永平侯、蔣溧陽侯、植宣城侯。洪卒、子邈嗣、為武陵監軍、為晉所殺。植官至大司徒。呉末昏亂、何氏驕僭、子弟放、百姓患之。故民譌言「晧久死、立者何氏子」云。

 孫和の何姫は丹楊郡句容の人である。父の何遂はもとは騎兵だった。孫権が嘗て諸営を游幸した時、何姫が道中で観覧しており、孫権は望見してこれを異とし、宦者に命じて召き入れ、子の孫和に賜わった。男児が生まれると孫権は喜び、名付けて彭祖とした。即ち孫皓である。太子の孫和が廃され、後に南陽王となって長沙に居した。孫亮が即位して孫峻が輔政した。孫峻はもとより全公主に媚事(佞従)していた。全公主は孫和の母と隙があり、孫峻に勧めて孫和を新都に居らせ、遣使して賜死し、嫡妃の張氏も亦た自殺させた。何姫 「もし皆なが従死(殉死)したなら、誰が孤児(孫皓)を養うのか?」 かくて孫皓およびその三弟を拊育(撫育)した。
孫皓が即位すると孫和を尊んで昭献皇帝とし[1]、何姫を昭献皇后として升平宮と称し、月余にして進めて皇太后とした。弟の孫洪を永平侯に、孫蔣を溧陽侯に、孫植を宣城侯に封じた。孫洪が卒して子の孫邈が嗣ぎ、武陵監軍となり、晋によって殺された。孫植の官は大司徒に至った。呉末の昏乱に何氏は驕僭であり、子弟は横放で、百姓はこれを患いとした。そのため民は譌言(謡言)して 「孫皓は死んで久しく、立っているのは何氏の子である」 と云った[2]
[1] 孫皓は当初、孫和を尊んで昭献皇帝とし、俄かに改めて文皇帝といった。 (『呉録』)
[2] 孫皓は張布の娘を美人として寵愛した。孫皓が問うた 「汝の父は何処に居る?」 答えて 「賊が殺しました」 孫皓は大いに怒り、棒殺した。後にその容色を思慕し、巧工に刻木させて張美人の形象を作らせ、恒に座側に置いた。左右に問うた 「張布には復た娘があるか?」 答えて 「張布の大女は故の衛尉馮朝の子の馮純に嫁しました」 即座に馮純の妻を奪って入宮させ、大いに寵愛して左夫人に拝し、昼夜とも夫人と房宴して朝政を聴かず、尚方に黄金で華燧(髪飾)・歩搖(簪)・仮髻を作らせること数千。宮人に著けて相撲をさせ、朝に成り夕には敗れ、出しては更作させ、工匠はこのため偸盜して府蔵は空虚となった。夫人が死ぬと孫皓は哀愍して思念し、苑中に葬って大いに冢を作らせ、工匠に柏を刻んで木人を作らせ、内冢の中に於いて兵衛とし、金銀・珍玩と共に送葬し、それは計る事が出来ないほどだった。
葬送の後も孫皓は宮内で喪を治め、半年も出朝しなかった。国人は葬儀が大いに奢麗だった事から、皆なが孫皓は既に死に、葬られたのがそうだと謂った。孫皓の舅子の何都の顔は孫皓と似ており、何都を代立しているのだとも云った。臨海太守奚熙は譌言を信じ、挙兵して還って何都を誅しようとした。何都の叔父の何植は時に備海督であり、撃って奚熙を殺し、三族を滅ぼした。譌言はかくして息んだが、人心は猶おも疑った。 (『江表伝』)

 奚熙の事は孫皓伝の鳳凰三年にもあります。『江表伝』では奚熙は忠臣風味です。何植が奚熙を討平したという結果は同一なので、どっちの記事が正しいかとか野暮は云いません。

 

滕夫人

 孫晧滕夫人、故太常胤之族女也。胤夷滅、夫人父牧、以疎遠徙邊郡。孫休即位、大赦、得還、以牧為五官中郎。晧既封烏程侯、聘牧女為妃。晧即位、立為皇后、封牧高密侯、拜衞將軍、録尚書事。後朝士以牧尊戚、頗推令諫爭。而夫人寵漸衰、晧滋不ス、晧母何恆左右之。又太史言、於運暦、后不可易、晧信巫覡、故得不廢、常供養升平宮。牧見遣居蒼梧郡、雖爵位不奪、其實裔也、遂道路憂死。長秋官僚、備員而已、受朝賀表疏如故。而晧内諸寵姫、佩皇后璽紱者多矣。天紀四年、隨晧遷于洛陽。

 孫皓の滕夫人は故の太常滕胤の族女である。滕胤が夷滅されると、夫人の父の滕牧は疎遠であった為に(減死されて)辺郡に徙された。孫休の即位による大赦で帰還する事ができ、滕牧は五官中郎とされた。孫皓が烏程侯に封じられると、滕牧の娘を招聘して妃とした。孫皓が即位すると立てて皇后とし、滕牧を高密侯に封じて衛将軍に拝し、尚書の事を総録させた。後に朝士は滕牧が尊戚であるとして、頗る推して(孫皓に対して)諫争させた。夫人の寵愛は漸く衰えており、孫皓は滋(ますま)す不悦(不快)となったが、孫皓の母の何氏が恒に左右にあっ(て宥め)た。又た太史官が言うには、運暦として皇后を易える事はできないとし、孫皓は巫覡を信じていた為に廃する事ができず、(そのため皇后は)常に升平宮(何太姫)を供養(孝養)した。滕牧は蒼梧郡に遣られて居し、爵位は奪われなかったとはいえ実際は裔(辺境への流謫)であり、道路にて憂死した。長秋(皇后宮)の官僚は員数が備わっているだけであり、朝賀・表疏を受ける事は以前の通りだったが、孫皓の内宮では諸寵姫のうち、皇后の璽紱を佩く者が多かった[1]。天紀四年(280)、孫皓に随って洛陽に遷った。
[1] 孫皓は又た黄門官に州郡を巡行させ、将吏の家の娘を科取(調べて徴発)した。二千石や大臣の子女は皆な歳毎に名を言わせ、齢十五・六になると一たび簡閲し、簡閲に中らなければ出嫁する事が出来た。後宮(の女官)は千を以て数え、しかも採択は已まなかった。 (『江表伝』)

 『江表伝』のブレないっぷりに、涙。

 

 評曰:易稱「正家而天下定」。詩云:「刑于寡妻、至于兄弟、以御于家邦。」誠哉、是言也!遠觀齊桓、近察孫權、皆有識士之明、傑人之志、而嫡庶不分、閨庭錯亂、遺笑古今、殃流後嗣。由是論之、惟以道義為心・平一為主者、然後克免斯累邪!

 評に曰く、『易』には 「家を正しくして天下が定まる」 とある。『詩』は 「寡妻に刑(制度に則った待遇)し、兄弟に至る。こうして家邦を御した」 と云っている。尤もな事とはこの言葉である! 遠くは斉桓公を観、近くは孫権を察し、皆な識士の明・傑人の志があったが、嫡庶を分たず、閨庭を錯乱させ、古今の人に笑われる事を遺し、遺笑古今、後嗣に殃(禍)を流(遺)した。これによって論ずれば、ただ道義を中心とし、平一を為す主君こそが累(災い)に克ち免れるのであろう!

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