三國志修正計画

三國志卷四十八 呉志三/三嗣主傳 (一)

孫亮

 孫亮字子明、權少子也。權春秋高、而亮最少、故尤留意。姊全公主嘗譖太子和子母、心不自安、因倚權意、欲豫自結、數稱述全尚女、勸為亮納。赤烏十三年、和廢、權遂立亮為太子、以全氏為妃。

 孫亮、字は子明。孫権の少子である。孫権の春秋が高じた時に孫亮は最も少(わか)く、そのため最も留意された。姊(姉)全公主は嘗て太子孫和の母子を譖した事があり、(そのため)心中不安であり、孫権の意が倚っている事に因んで予め結んでおきたいとし、しばしば全尚の娘を称え述べ、孫亮の室に納れるよう勧めた。赤烏十三年(250)に孫和が廃され、孫権はかくて孫亮を立てて太子とし、全氏を妃とした。

 太元元年夏、亮母潘氏立為皇后。冬、權寢疾、徴大將軍諸葛恪為太子太傅、會稽太守滕胤為太常、並受詔輔太子。明年四月、權薨、太子即尊號、大赦、改。是歳、於魏嘉平四年也。

 太元元年(251)夏、孫亮の母の潘氏が立てられて皇后となった。冬、孫権が寝疾(病臥)し、大将軍諸葛恪を徴して太子太傅とし、会稽太守滕胤を太常とし、揃って詔を受けて太子を輔けた。明年四月、孫権が薨じ、太子が尊号に即き、大赦して改元した。この歳は魏の嘉平四年である。

 〔建興元年〕閏月、以恪為帝太傅、胤為衞將軍領尚書事、上大將軍呂岱為大司馬、諸文武在位皆進爵班賞、宂官加等。冬十月、太傅恪率軍遏巣湖、城東興、使將軍全端守西城、都尉留略守東城。十二月朔丙申、大風雷電、魏使將軍諸葛誕・胡遵等歩騎七萬圍東興、將軍王昶攻南郡、毌丘儉向武昌。甲寅、恪以大兵赴敵。戊午、兵及東興、交戰、大破魏軍、殺將軍韓綜・桓嘉等。是月、雷雨、天災武昌端門;改作端門、又災内殿。

 建興元年(252)閏四月、諸葛恪を帝の太傅とし、滕胤を衛将軍・領尚書事とし、上大将軍呂岱を大司馬とし、諸々の文武の在位者を皆な爵を進め賞を班(くば)り、宂官にも(爵の)等級を加えた。冬十月、太傅諸葛恪が軍を率いて巣湖を遏(さえぎ)り、東興に築城し、将軍全端に西城を守らせ、都尉留略に東城を守らせた。十二月朔丙申、大風と雷電があり、魏が将軍諸葛誕・胡遵ら歩騎七万で東興を囲ませ、将軍王昶に南郡を攻めさせ、毌丘倹には武昌に向わせた。甲寅、諸葛恪が大兵にて敵に赴いた。戊午、兵が東興に及び、交戦して魏軍を大破し、将軍韓綜・桓嘉らを殺した。この月、雷雨によって武昌の端門に天災があった。改めて端門を作ったが、又た内殿に火災があった。[1]

 二年春正月丙寅、立皇后全氏、大赦。庚午、王昶等皆退。二月、軍還自東興、大行封賞。三月、恪率軍伐魏。夏四月、圍新城、大疫、兵卒死者大半。秋八月、恪引軍還。冬十月、大饗。武衞將軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。大赦。以峻為丞相、封富春侯。十一月、有大鳥五見于春申、〔改明年〕元。

 二年(253)春正月丙寅、皇后に全氏を立て、大赦した。庚午、王昶らが皆な退いた。二月、軍が東興より還り、大いに封賞を行なった。三月、諸葛恪が軍を率いて魏を伐った。夏四月、合肥新城を囲んだが、疫病が大流行して兵卒の大半が死んだ。秋八月、諸葛恪が軍を引き揚げて還った。
冬十月、大饗(先王の祭祀)した。武衛将軍孫峻が兵を伏せて殿堂で諸葛恪を殺した。大赦した。孫峻を丞相とし、富春侯に封じた。十一月、大鳥五羽が春申(蘄春?)に出見し、改めて明年を元年とした。

 一般的には旧太子派に対する、旧魯王派の逆襲とされる事件ですが、実態は旧魯王派での内ゲバに過ぎません。この後も呉は、孫皓が即位するまで旧魯王派が主導します。

 五鳳元年夏、大水。秋、呉侯英謀殺峻、覺、英自殺。冬十一月、星茀于斗・牛。

 五鳳元年(254)夏、大水があった。秋、呉侯孫英孫登の子)が孫峻殺害を謀り、発覚して孫英は自殺した。冬十一月、星が斗宿(南斗)・牛宿(やぎ座頭部)を茀(掃)いた[2]

 二年春正月、魏鎮東大將軍毌丘儉・前將軍文欽以淮南之衆西入、戰于樂嘉。閏月壬辰、峻及驃騎將軍呂據・左將軍留贊率兵襲壽春、軍及東興、聞欽等敗。壬寅、兵進于橐皋、欽詣峻降、淮南餘衆數萬口來奔。魏諸葛誕入壽春、峻引軍還。二月、及魏將軍曹珍遇于高亭、交戰、珍敗績。留贊為誕別將蔣班所敗于菰陂、贊及將軍孫楞・蔣脩等皆遇害。三月、使鎮南將軍朱異襲安豐、不克。秋七月、將軍孫儀・張怡・林恂等謀殺峻、發覺、儀自殺、恂等伏辜。陽羨離里山大石自立。使衞尉馮朝城廣陵、拜將軍呉穰為廣陵太守、留略為東海太守。是歳大旱。十二月、作太廟。以馮朝為監軍使者、督徐州諸軍事、民饑、軍士怨畔。

 二年(255)春正月、魏の鎮東大将軍毌丘倹・前将軍文欽が(叛いて)淮南の軍勢を以て淮西に入り、楽嘉で戦った。閏正月壬辰、孫峻および驃騎将軍呂拠・左将軍留賛が兵を率いて寿春を襲い、軍が東興に及んだ処で文欽らの敗北を聞いた。壬寅、兵は橐皋(合肥市巣湖北郊)に進み、文欽が孫峻に詣って降り、淮南の余衆数万口が来奔した。 魏の諸葛誕が寿春に入り、孫峻は軍を引き揚げて帰還した。二月、魏の将軍曹珍と高亭で遭遇して交戦し、曹珍が敗績した。留賛が諸葛誕の別将の蔣班に菰陂(河南省駐馬店市上蔡北郊)で敗れ、留賛および将軍孫楞・蔣脩らが皆な害に遇った。三月、鎮南将軍朱異に安豊(河南省信陽市固始)を襲わせたが、勝てなかった。
秋七月、将軍孫儀(孫皎の子)・張怡・林恂らが孫峻殺害を謀り、発覚して孫儀は自殺し、林恂らは辜(罪)に伏した。

 蜀からの使節の来訪に乗じたもので、朱公主(孫権の娘/朱皇后の実母)も連坐したものです。

陽羨の離里山で大石が自ずと立った。衛尉馮朝に広陵に築城させ、将軍呉穣を拝して広陵太守とした。留略を東海太守とした。この歳は大いに旱害があった。十二月、太廟を作った。馮朝を監軍使者・督徐州諸軍事とした。民は饑え、軍士は怨み畔(背)いた。

 太平元年春二月朔、建業火。峻用征北大將軍文欽計、將征魏。八月、先遣欽及驃騎〔將軍〕呂據・車騎〔將軍〕劉纂・鎮南〔將軍〕朱異・前將軍唐咨軍自江都入淮・泗。九月丁亥、峻卒、以從弟偏將軍綝為侍中・武衞將軍、領中外諸軍事、召還據等。〔據〕聞綝代峻、大怒。己丑、大司馬呂岱卒。壬辰、太白犯南斗。據・欽・咨等表薦衞將軍滕胤為丞相、綝不聽。癸卯、更以胤為大司馬、代呂岱駐武昌。據引兵還、欲討綝。綝遣使以詔書告喩欽・咨等、使取據。冬十月丁未、遣孫憲及丁奉・施ェ等以舟兵逆據於江都、遣將軍劉丞督歩騎攻胤。胤兵敗夷滅。己酉、大赦、改年。辛亥、獲呂據於新州。十一月、以綝為大將軍・假節、封〔永寧侯〕。孫憲與將軍王惇謀殺綝、事覺、綝殺惇、迫憲令自殺。十二月、使五官中郎將刁玄告亂于蜀。

 太平元年(256)春[3]二月朔、建業で出火した。孫峻が征北大将軍文欽の計策を用い、魏を征伐しようとした。八月、先んじて文欽および驃騎将軍呂拠・車騎将軍劉纂・鎮南将軍朱異・前将軍唐咨の軍を江都より淮河・泗水に入れさせた。九月丁亥(14日)、孫峻が卒し、従弟の偏将軍孫綝を侍中・武衛将軍・領中外諸軍事とし、呂拠らを召還した。呂拠は孫綝が孫峻に代ったと聞くと大いに怒った。己丑(16日)、大司馬呂岱が卒した。
壬辰(19日)、太白星が南斗を犯した。呂拠・文欽・唐咨らが上表して衛将軍滕胤を丞相にする事を勧めたが、孫綝は聴かなかった。癸卯(30日)、更めて滕胤を大司馬とし、呂岱に代えて武昌に駐屯させた。呂拠は兵を率いて還り、孫綝を討とうとした。孫綝は遣使して詔書にて文欽・唐咨らに告喩し、呂拠を討取らせた。
冬十月丁未(4日)、孫憲および丁奉・施ェらに舟兵にて江都で呂拠を逆撃させ、将軍劉丞に歩騎を督して滕胤を攻めさせた。滕胤の兵は敗れ、(一族は)夷滅(全滅)された。己酉(6日)、大赦して(太平と)改年した。辛亥(8日)、(建業近郊の)新洲で呂拠を獲えた。十一月、孫綝を大将軍・仮節とし、永寧侯に封じた。孫憲が将軍王惇と孫綝殺害を謀り、事が発覚して孫綝は王惇を殺し、迫って孫憲に自殺を命じた。十二月、五官中郎将刁玄を使者として蜀に乱れを告げた。

 二年春二月甲寅、大雨、震電。乙卯、雪、大寒。以長沙東部為湘東郡、西部為衡陽郡、會稽東部為臨海郡、豫章東部為臨川郡。夏四月、亮臨正殿、大赦、始親政事。綝所表奏、多見難問、又科兵子弟年十八已下十五已上、得三千餘人、選大將子弟年少有勇力者為之將帥。亮曰:「吾立此軍、欲與之倶長。」日於苑中習焉。

 二年(257)春二月甲寅、大雨と震電があった。乙卯、雪があり、大いに寒かった。長沙東部都尉部を湘東郡(治所は酃/衡陽市衡陽)とし、西部都尉部を衡陽郡(治所は湘郷/湘潭市)とし、会稽東部都尉部を臨海郡(治所は章安/台州市区)とし、豫章東部都尉部を臨川郡(治所は臨汝/撫州市区)とした。
夏四月、孫亮が正殿に臨んで大赦し、始めて政事に親しんだ。孫綝の表奏に対して多く難詰して問い、又た兵の子弟の齢十八以下十五以上を科(挙)げて三千余人を得、大将の子弟の年少で勇力ある者を選んで将帥とした。孫亮は 「吾れがこの軍を立てたのは、倶に成長したいからだ」 と言って日々に苑中で演習した[4]

 五月、魏征東大將軍諸葛誕以淮南之衆保壽春城、遣將軍朱成稱臣上疏、又遣子靚・長史呉綱諸牙門子弟為質。六月、使文欽・唐咨・全端等歩騎三萬救誕。朱異自虎林率衆襲夏口、夏口督孫壹奔魏。秋七月、綝率衆救壽春、次于鑊里、朱異至自夏口、綝使異為前部督、與丁奉等將介士五萬解圍。八月、會稽南部反、殺都尉。鄱陽・新都民為亂、廷尉丁密・歩兵校尉鄭冑・將軍鍾離牧率軍討之。朱異以軍士乏食引還、綝大怒、九月朔己巳、殺異於鑊里。辛未、綝自鑊里還建業。甲申、大赦。十一月、全緒子禕・儀以其母奔魏。十二月、全端・懌等自壽春城詣司馬文王。

 五月、魏の征東大将軍諸葛誕が(叛いて)淮南の軍勢を以て寿春城を保守し、将軍朱成を遣って臣を称する上疏をし、又た子の諸葛靚と長史呉綱および諸牙門の子弟を遣って質子とした。六月、文欽・唐咨・全端らに歩騎三万にて諸葛誕を救援させた。朱異は虎林より手勢を率いて夏口を襲い、夏口督孫壹は魏に奔った。秋七月、孫綝は軍勢を率いて寿春を救援し、鑊里に次(やど)った。朱異は夏口より至り、孫綝は朱異を前部督とし、丁奉らと介士(装甲兵)五万を率いて(寿春の)包囲を解かせた。
八月、会稽南部が反き、都尉を殺した。鄱陽・新都の民が乱を為し、廷尉丁密・歩兵校尉鄭冑・将軍鍾離牧が軍を率いて討った。朱異が軍士の糧食が乏しくなったとして引き揚げて還った為、孫綝は大いに怒り、九月朔己巳、鑊里で朱異を殺した。辛未、孫綝が鑊里より建業に帰還した。甲申、大赦した。十一月、全緒の子の全禕・全儀がその母の事を理由に魏に奔った。十二月、全端・全懌らが寿春城より司馬昭に詣った。

 全緒は全jの子で、全皇后の父である全尚の従兄弟にあたります。鍾会伝にも全氏出奔の事はありますが、原因は一族の内紛という以外は書かれていません。又た全j伝では、全懌が魏に降った後に全禕らが魏に奔った事になっています。何れにしても全氏は全公主を始めとして、立場が複雑な割に情報量が少ないです。孫休・孫皓にとって全公主の印象が最悪だったのが原因でしょうかね。

 三年春正月、諸葛誕殺文欽。三月、司馬文王克壽春、誕及左右戰死、將吏已下皆降。秋七月、封故齊王奮為章安侯。詔州郡伐宮材。自八月沈陰不雨四十餘日。亮以綝專恣、與太常全尚、將軍劉丞謀誅綝。九月戊午、綝以兵取尚、遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外、召大臣會宮門、黜亮為會稽王、時年十六。

 三年(258)春正月、諸葛誕が文欽を殺した。三月、司馬昭が寿春に勝ち、諸葛誕および左右の者は戦死し、将吏以下が皆な降った。 秋七月、旧の斉王孫奮を封じて章安侯とした。州郡に詔して宮材を伐採させた。
 八月より沈陰として雨が降らないこと四十余日だった。孫亮は孫綝が専恣だとして、(舅である)太常全尚・将軍劉丞と孫綝誅殺を謀った。九月戊午、孫綝は兵を以て全尚を討ち取り 、弟の孫恩を遣って劉丞を蒼龍門外で攻殺させ、大臣を召して宮門で会合し、孫亮を廃黜して会稽王とした。時に齢十六だった。

 孫綝伝によれば、孫亮の廃黜を宗廟に報告する使者になったのは、あの孟宗で、又た廃黜に異を唱えたのは桓彝だけだったとあります。これらが事実なら、一連の廃黜劇は孫家内部の問題として捉えられており、政権中枢に連なる名士層の孫家や孫亮に対する支持率は、かなり低下していたようです。

 永安三年(260)、会稽郡に、会稽王孫亮が天子に還ろうとしているとの謠言があり、そして孫亮の宮人からは孫亮が巫に禱祠させて悪言(呪詛)があったとの告発があった。有司の上聞にて廃黜して候官侯とし、国に遣った。道中で自殺し、衛送者が罪に伏した[※3]。 (孫休伝より)
[1] 裴松之が調べたところ、孫権の赤烏十年に詔して武昌宮の材瓦を徙し、建康宮を繕治している。それでも猶お端門と内殿があったのだ。
―― 諸葛恪には遷都の意図があり、更めて武昌宮を起工した。今、火災があったのは諸葛恪が新たに作った宮である。 (『呉録』)

 何の根拠も示さずにいかにも本当にあった事のようにさらっと書いている『呉録』が怖いです。武昌還都は後に孫皓がする事ですが、諸葛恪が先取りして計画していたとする事で、孫皓と諸葛恪をダブらせようとした、のかもしれません。もし諸葛恪が武昌還都を企画していたんだとすれば、合肥攻略に失敗して権威の再建に奔走した翌年以降の事になる筈です。

[2] この歳、交阯で稗草が稲に変化した。 (『江表伝』)
[3] 正月、孫権の為に廟を立て、太祖廟と称した。 (『呉歴』)
[4] 孫亮はしばしば宮を出て中書にて孫権の旧事を視て、左右の侍臣に問うた 「先帝にはしばしば特制(自身の判断による布令)があったのに、今は大将軍が事を計り、ただ我れが“可”と書いて命じるだけではないか!」 孫亮は後に西苑に出御し、生梅を食べようとして黄門官に中藏から蜜漬梅を取ってこさせた。蜜の中に鼠糞があり、召して藏吏を問い、藏吏は叩頭した。孫亮が吏に問うには 「黄門は汝に蜜を求めたか?」 吏 「嘗て求めた事がありましたが全く与えませんでした」 黄門は承服しなかった。侍中刁玄・張邠が申した 「黄門と藏吏の語る事は同じではありません。獄に付して推尽(尋問)したいと存じますが」 孫亮 「知るのは簡単な事だ」 命じて鼠糞を割らせると、糞の裡は燥いていた。孫亮は大いに笑って刁玄・張邠に謂うには 「もし糞が以前から蜜中に在ったのなら、中外とも湿っている。今、外は湿って裡は燥いている。きっとこれは黄門の仕業だ」 黄門は首肯して服し、左右で驚悚せぬ者は莫かった。 (呉歴』)
―― 孫亮が黄門に、銀椀に蓋をして中藏吏から交州より献上された甘蔗餳を取ってこさせた。黄門は先に藏吏に恨みがあり、鼠矢を餳中に投じ、藏吏が怠慢だと啓した。孫亮が吏を呼んで餳器を持って入らせ、問うには 「この器にはこのように蓋がしてあり、しかも覆っていてこうなる理由がない。黄門が汝を恨んでいるのではないか?」 吏は叩頭し 「嘗てそれがしに宮中の莞席を求めた事がありましたが、宮席には定数があるので全く与えませんでした」 孫亮 「きっとこれはこのせいだ」 黄門を追及すると、具さに詳細を述べた。即座に目前で髠鞭を加え、排斥して外署に付した。 (『江表伝』)
―― 裴松之が考えるに、鼠矢が新しければ亦た表裏は皆な湿っている。黄門が取ったのが新矢であればその姦事を得る事は無かった。たまたま燥矢であったから孫亮の聡慧が成されたのだ。しかも猶お『呉歴』の謂うこの事は、『江表伝』の実態に及ばないようだ。

 まるで曹沖に対抗したかのような逸話です。正直、蜜だろうが砂糖だろうが収蔵具合を確認しようがしまいが、どうでもいいです。要は孫亮の賢さを示すエピソードがこの程度しか拾えなかったって事でしょう。年齢の事もあるので已むを得ませんが、学問への言及が全く無い点は曹髦の時とエライ違いです。

 

孫休

 孫休字子烈、權第六子。年十三、從中書郎射慈・郎中盛沖受學。太元二年正月、封琅邪王、居虎林。四月、權薨、休弟亮承統、諸葛恪秉政、不欲諸王在濱江兵馬之地、徙休於丹楊郡。太守李衡數以事侵休、休上書乞徙他郡、詔徙會稽。居數歳、夢乘龍上天、顧不見尾、覺而異之。孫亮廢、己未、孫綝使宗正孫楷與中書郎董朝迎休。休初聞問、意疑、楷・朝具述綝等所以奉迎本意、留一日二夜、遂發。十月戊寅、行至曲阿、有老公干休叩頭曰:「事久變生、天下喁喁、願陛下速行。」休善之、是日進及布塞亭。武衞將軍恩行丞相事、率百僚以乘輿法駕迎於永昌亭、築宮、以武帳為便殿、設御座。己卯、休至、望便殿止住、使孫楷先見恩。楷還、休乘輦進、羣臣再拜稱臣。休升便殿、謙不即御坐、止東廂。戸曹尚書前即階下讚奏、丞相奉璽符。休三讓、羣臣三請。休曰:「將相諸侯咸推寡人、寡人敢不承受璽符。」羣臣以次奉引、休就乘輿、百官陪位、綝以兵千人迎於半野、拜于道側、休下車答拜。即日、御正殿、大赦、改元。是歳、於魏甘露三年也。

 孫休、字は子烈。孫権の第六子である。

 嘉禾四年(235)の生まれです。生母の王夫人は242年に孫和が太子に立てられると公安に徙されました。

齢十三で中書郎謝慈[※1]・郎中盛沖より学問を受けた。太元二年(252)正月、琅邪王に封じられて虎林[※2]に居した。四月、孫権が薨じて孫休の弟の孫亮が王統を承け、諸葛恪が秉政したが、諸王が浜江の兵馬の地(長江沿いの軍事要衝)に在る事を望まず、孫休を丹楊郡に徙した。太守李衡はしばしば事に寄せて孫休を侵害し、孫休は上書して他郡に徙される事を乞い、詔にて会稽に徙した。居ること数歳、夢に龍に乗って天に上り、顧みて尾が見えなかった事があり、覚めてこれを異な事とした。

※1 謝慈は後に斉王の傅相となり、諸葛恪の死に乗じようとした孫奮を諫めて殺されます。
※2 この後に虎林に駐屯した朱異は257年にここから夏口の孫壹を襲いますが、宗室伝に 「朱異が武昌に達した処で孫壹が覚って魏に奔った」 旨があるので、武昌より建業寄りなのは確定です。筑摩版では後の武林城の事だとして、現在の安徽省池州市東至の辺りに比定しています。
 余談ですが、晋代には秣陵県から建業県が分置されていて、秦淮河を挟んで建業城と丹楊郡治(秣陵城)が隣接していました。諸葛恪の指令は諸王を沿江に置くなという事なので、郡治は旧治の宛陵(安徽省宣城市区)に置かれていたのではないかと考えます。まあ、太守が厳しく監視していたようなので秣陵城でも問題はありませんが。

孫亮が廃され、己未(27日)に孫綝が宗正孫楷と中書郎董朝を遣って孫休を迎えさせた。孫休は訪問を聞いた当初、来意を疑った。孫楷・董朝は孫綝らが奉迎した本意を具さに述べ、留まること一日二夜にして遂に発った。十月戊寅(17日)、行きて曲阿に至ったところ、老公があって孫休に叩頭して 「事が久しければ変事を生じましょう。天下は喁喁(切望)しております。願わくは陛下よ、速やかに行かれん事を」 孫休はこれを善しとし、この日の進行は(建業城南郊の)布塞亭まで及んだ。武衛将軍孫恩が行丞相事として百僚を率い、乗輿と法駕にて永昌亭に迎え、宮を築き、武帳にて便殿(仮殿)とし、御座を設けた。己卯(18日)、孫休は(永昌亭に)至り、便殿を望むと止住(停止)し、孫楷を先駆として孫恩と会見させた。孫楷が還ると孫休は乗輦を進め、群臣は再拝して称臣した。孫休は便殿に昇ったが、謙遜して御坐には即かずに東廂に止まった。

 既視感がバリバリだと思ったら曹髦でした。どちらも俄かに奉迎されて警戒し、あちらは西廂で、こちらは東廂で待機です。権臣に擁立され、学問好きという点も共通しています。曹髦が成功した場合の if として意識させてるんじゃなかろうか。

戸曹尚書が前進して階下から讃奏し、丞相が璽符を奉じた。孫休は三譲し、群臣は三請した。孫休 「将相諸侯が咸な寡人を推すのだ。寡人が璽符を承受せずにはおれまい」 群臣は席次を以て奉じて引導し、孫休は乗輿に就き、百官は陪位した。孫綝は兵千人にて半野に迎え、道側にて拝し、孫休は下車して答拝した。即日に正殿に入御して大赦し、(永安と)改元した。この歳は魏の甘露三年である。

 孫休が選ばれた理由が不明です。孫休はこのとき24歳なので、通常の権臣のパターンなら傍流から年少者を選ぶ処です。孫綝の権勢ならそれも可能だった筈。孫綝伝にも孫休を迎える尤もらしい理由が記載されていないので、憶測してみました。
 孫亮と孫綝の最大の対立点は、宗室を強化する方法論だったのではないかと思われます。二宮の変を通じて旧大姓の影響力を抑制し、宗室強化に舵を切る事に成功したのが孫権の末期で、孫亮の政府もこれを踏襲しています。孫綝が孫氏による孫氏の為の政権を目指したのに対し、孫亮は全氏という二級勢族と結びつく事で皇帝権力の強化を図った気配があります。これでは二宮以前の、大姓の動静に左右された、孫権が否定した体制に逆行しかねません。孫綝が孫亮は廃した理由はこんな処ではないかと。孫休なら年上だし苦労もしている分、状況を理解してくれるだろうという希望があったのかもです。夫人が名門朱氏の人とはいえ、朱氏の勢いはかなり削がれていましたし。

 永安元年冬十月壬午、詔曰:「夫褒コ賞功、古今通義。其以大將軍綝為丞相・荊州牧、攝H五縣。武衞將軍恩為御史大夫・衞將軍・中軍督、封縣侯。威遠將軍〔據〕為右將軍・縣侯。偏將軍幹雜號將軍・亭侯。長水校尉張布輔導勤勞、以布為輔義將軍、封永康侯。董朝親迎、封為郷侯。」又詔曰:「丹陽太守李衡、以往事之嫌、自拘有司。夫射鉤斬袪、在君為君、遣衡還郡、勿令自疑。」己丑、封孫晧為烏程侯、晧弟コ錢唐侯、謙永安侯。

 永安元年(258)冬十月壬午、詔 「徳と功を褒賞するのは古今の通義である。大将軍孫綝を丞相・荊州牧として食邑五県を増し、武衛将軍孫恩を御史大夫・衛将軍・中軍督として県侯に封じ、威遠将軍孫拠を右将軍・県侯とし、偏将軍孫幹を雜号将軍・亭侯とする。長水校尉張布の輔導の勤務を労い、張布を輔義将軍とし、永康侯に封ず。董朝は親しく迎えた為、封じて郷侯とする」 又た詔して 「丹陽太守李衡は往事を嫌疑して自ら有司に拘禁された。鉤を射て袪を斬ったのも君が在って君の為にしたものである[※]。李衡を郡に還らせて疑わせてはならない」[1]

※ 斉桓公と晋文公が共に公子だった時の故事。桓公が弟の糾と帰国を争った時、糾に仕えていた管仲が桓公を射たところ帯鉤に中り、文公は父に自殺を命じられると逃げ、その際に使者の勃鞮に袂を斬られたというもの。管仲は後に桓公の宰相として覇業を実現し、勃鞮は文公に陰謀を知らせて難を免れさせました。

己丑、孫皓を封じて烏程侯とし、孫皓の弟の孫徳を銭唐侯とし、孫謙を永安侯とした[2]

 十一月甲午、風四轉五復、蒙霧連日。綝一門五侯皆典禁兵、權傾人主、有所陳述、敬而不違、於是益恣。休恐其有變、數加賞賜。 丙申、詔曰:「大將軍忠款内發、首建大計以安社稷、卿士内外、咸贊其議、並有勳勞。昔霍光定計、百僚同心、無復是過。亟案前日與議定策告廟人名、依故事應加爵位者、促施行之。」 戊戌、詔曰:「大將軍掌中外諸軍事、事統煩多、其加衞將軍御史大夫恩侍中、與大將軍分省諸事。」
壬子、詔曰:「諸吏家有五人三人兼重為役、父兄在都、子弟給郡縣吏、既出限米、軍出又從、至於家事無經護者、朕甚愍之。其有五人三人為役、聽其父兄所欲留、為留一人、除其米限、軍出不從。」又曰:「諸將吏奉迎陪位在永昌亭者、皆加位一級。」頃之、休聞綝逆謀、陰與張布圖計。
十二月戊辰臘、百僚朝賀、公卿升殿、詔武士縛綝、即日伏誅。己巳、詔以左將軍張布討姦臣、加布為中軍督、封布弟惇為都亭侯、給兵三百人、惇弟恂為校尉。 詔曰:「古者建國、教學為先、所以道世治性、為時養器也。自建興以來、時事多故、吏民頗以目前趨務、去本就末、不循古道。夫所尚不惇、則傷化敗俗。其案古置學官、立五經博士、核取應選、加其寵祿、科見吏之中及將吏子弟有志好者、各令就業。一歳課試、差其品第、加以位賞。使見之者樂其榮、聞之者羨其譽。以敦王化、以隆風俗。」

 十一月甲午、風が四転五復(二転三転)して霧で蒙(くら)くなること連日だった。孫綝の一門五侯は皆な禁兵を典り、権勢は人主を傾(しの)ぎ、陳述する事は敬して違われず、こうして益々横恣となった。孫休は変事のある事を恐れてしばしば賞賜を加えた。 丙申(5日)、詔 「大将軍は内に忠款を発し、大計を建てる事の首魁となって社稷を安んじた。卿士および内外は咸なその議事を賛え、何れにも勲労があった。昔、霍光が計を定めたとき百僚は同心したが、それ以上である。亟(すみ)やかに前日の定策告廟の事に参与した人名を案(しら)べ、故事に依って爵位を加える事を督促して施行せよ」  戊戌(7日)、詔 「大将軍は中外の諸軍事を掌り、事を統べて煩多である。衛将軍・御史大夫孫恩に侍中を加え、大将軍と諸事を分省せよ」
壬子(21日)、詔 「諸々の吏の家で五人いれば三人が役務を兼重し、父兄が都に在っても子弟は郡県に吏として給されて、既に限米(正役の代納の庸米)を供出しても軍が出れば又た従い、家事を経護する者の不在に至っている。朕はこれを甚だ愍れむ。五人のうち三人が役に就いていれば、その父兄が留めたいとする者の一人を留め、その庸米を免除し、軍が出ても従わせるな」 又た 「諸々の将吏で永昌亭での奉迎に陪位した者には、皆な(爵)位一級を加える」  暫くして、孫休は孫綝が逆謀していると聞き、陰かに張布と計を図った。
十二月戊辰の臘祭の日、百僚が朝賀して公卿が升殿すると、詔して武士に孫綝を捕縛させ、即日に誅に伏した。己巳、詔して張布が姦臣を討った事により、張布を左将軍として中軍督を加え、張布の弟の張惇を封じて都亭侯として兵三百人を給し、張惇の弟の張恂を校尉とした。

 この論功で丁奉が左将軍から大将軍に進んでいます。丁奉伝によれば、臘宴で孫綝を斬るという計画は丁奉が立てたものだとあります。孫権時代の人物がまだ活躍している事に感動ですが、孫休伝に限らず丁奉の扱いはぞんざいです。官位からして張布とカブっているし、同時に 「左右都護」 を加えられたって、左右どっちだよ?
 それから張布、いつの間に左将軍に昇ったの? というか丁奉とカブっているのが非常に不自然なので、今回の論功行賞で左将軍に昇ったものと解釈します。

詔 「古えには建国すると教学を先とした。世を導き性を治め、時の器(人材)を養う為である。建興より以来、時事が多かった為に吏民は頗る目前の職務に趨り、本を去って末に就いており、古道には循ってこなかった。惇からざるを尚ぶと教化を傷め世俗を敗る事になる。古に学官を置いた事を勘案して五経博士を立て、選に応じて核取し(優良者を選抜し)、寵禄を加えよ。官吏や将吏の子弟の好学の有志を(選んで)各々に(官学にて)就業させよ。一歳ごとに試験を課し、品第に差を設け、位と賞を加えよ。これを見る者に栄を楽しませ、聞く者に誉を羨望させよ。王化を敦くして風俗を隆んにせよ」

 学問の振興とか五経博士の開設とか、これまでの孫呉には無かった正統で中華王朝的な詔勅です。儒学を信奉するな孫休の志向を反映したものでしょう。
 集中力を欠いたまま読んでいたので、建興をそのまま訳してしまいました。孫休の年号だったのね。でも直しません(笑)。だって呉は孫権の時代から儒教的体制作りとは一線を画してきましたから。 ところで、孫休伝を読んでいた時は気にならなかったのですが、“建興”って元号はどうなの?蜀が二度も“興”の年号を使っているのは状況として理解できますが、孫亮には孫権の政策からの決別宣言をする理由も実績も見当たりません。単に孫権の末期が文章から見える以上にガタガタだったのかなぁ。

 二年春正月、震電。三月、備九卿官、詔曰:「朕以不コ、託于王公之上、夙夜戰戰、忘寢與食。今欲偃武修文、以崇大化。推此之道、當由士民之贍、必須農桑。管子有言:『倉廩實、知禮節;衣食足、知榮辱。』夫一夫不耕、有受其饑、一婦不織、有受其寒;饑寒並至而民不為非者、未之有也。自頃年已來、州郡吏民及諸營兵、多違此業、皆浮船長江、賈作上下、良田漸廢、見穀日少、欲求大定、豈可得哉?亦由租入過重、農人利薄、使之然乎!今欲廣開田業、輕其賦税、差科彊羸、課其田畝、務令優均、官私得所、使家給戸贍、足相供養、則愛身重命、不犯科法、然後刑罰不用、風俗可整。以羣僚之忠賢、若盡心於時、雖太古盛化、未可卒致、漢文升平、庶幾可及。及之則臣主倶榮、不及則損削侵辱、何可從容俯仰而已?諸卿尚書、可共咨度、務取便佳。田桑已至、不可後時。事定施行、稱朕意焉。」

 二年(259)春正月、震電があった。三月、九卿の官を備えた。 詔
「朕は不徳なりに頑張っている。軍事を罷めて文芸を隆盛させたい今日この頃。その為には士民が豊かにならねばならず、それには農桑が基本だ。『管子』にも『倉廩が実ちて礼節を知り、衣食が足りて栄辱を知る』とあるではないか。怠け者が一人いると誰かが苦しむもので、苦しむ者が増えれば民に悪事が横行するものだ。ところで近年では州郡の吏や民や諸営の兵が本業を棄て、皆な長江に船を浮かべて通商し、そのため良田が放棄されて穀糧が欠しくなってきている。これでは大業を定めたくても出来ないではないか? 租税が過重で農人としての利が薄いからこうなっているのか! 田業を振興したいので賦税を軽くし、(田土の)彊羸(肥痩)で賦課に差を設けよう。官私とも本業に就いて資産に不足が無くなればその身を愛して犯罪は無くなる。そうすれば刑罰は用いられずに風俗は整うのだ。群僚の忠賢にて心を尽くせば、太古の盛化には及ばなくとも漢文帝の世には並ぶ事が出来よう。諸卿・尚書は能く諮ってくれ。田桑の季節はすぐそこだ。遅れてはならない。事を定めて施行して朕の意に適ってくれ」

 三年春三月、西陵言赤烏見。秋、用都尉嚴密議、作浦里塘。會稽郡謠言王亮當還為天子、而亮宮人告亮使巫禱祠、有惡言。有司以聞、黜為候官侯、遣之國。道自殺、衞送者伏罪。以會稽南部為建安郡、分宜都置建平郡。

 三年(260)春三月、西陵が赤烏の出見を上言した。秋、都尉厳密の建議を用い、(丹楊郡の宛陵に)浦里塘を作った。

 濮陽興が現場指揮した曰くつきの水庫です。

会稽郡に、会稽王孫亮が天子に還ろうとしているとの謠言があり、そして孫亮の宮人からは孫亮が巫に禱祠させて悪言(呪詛)があったとの告発があった。有司の上聞にて廃黜して候官侯とし、国に遣った。道中で自殺し、衛送者が罪に伏した[3]
会稽南部都尉部を建安郡(治所は建安/福建省南平市建甌)とし、宜都郡を分けて建平郡(治所は巫/重慶市巫山)を置いた[4]

 建安郡に通じる陸路はどれも行軍に耐えないという、なかなか難儀な郡です。宜都郡は本来は、曹操が置いた臨江郡を劉備が接収して改称したもので、関羽の敗亡で孫呉領となりました。このとき孫権が郡の西部に潘璋の固陵郡を新設しましたが、これは西接する蜀の固陵郡に対抗したもので、劉備の称帝と伴に蜀の固陵郡は巴東郡と改称されました。今回の建平郡は呉が置いた固陵郡を核としたものです。

 四年夏五月、大雨、水泉涌溢。秋八月、遣光祿大夫周奕・石偉巡行風俗、察將吏清濁、民所疾苦、為黜陟之詔。九月、布山言白龍見。是歳、安呉民陳焦死、埋之、六日更生、穿土中出。

 四年(261)夏五月、大雨があって水泉が涌溢した。秋八月、光禄大夫周奕・石偉を遣って風俗を巡行(巡察)させ、将吏の清濁や民の疾苦する所を観察させ、(長吏を)黜陟する詔を出した[5]。九月、布山県が白龍の出見を上言した。この歳、安呉県の民の陳焦が死んで埋葬したが、六日で更生して土中から穿って出た。

 五年春二月、白虎門北樓災。秋七月、始新言黄龍見。八月壬午、大雨震電、水泉涌溢。乙酉、立皇后朱氏。戊子、立子𩅦為太子、大赦。冬十月、以衞將軍濮陽興為丞相、廷尉丁密・光祿勳孟宗為左右御史大夫。休以丞相興及左將軍張布有舊恩、委之以事、布典宮省、興關軍國。休鋭意於典籍、欲畢覽百家之言、尤好射雉、春夏之間常晨出夜還、唯此時舍書。

 五年(262)春二月、白虎門の北楼が火災した。秋七月、始新県が黄龍の出見を上言した。八月壬午、大雨と震電があり、水泉が涌溢した。乙酉、朱氏を立てて皇后とした。戊子、子の孫𩅦を立てて太子とし、大赦した[6]
冬十月、衛将軍濮陽興を丞相とし、廷尉丁密・光禄勲孟宗を左右の御史大夫とした。孫休は丞相濮陽興および左将軍張布に旧恩があり、事をこれに委ね、張布は宮省を典り、濮陽興は軍国の事を関(統禦)した。孫休は典籍の事に鋭意(没頭)し、百家の言説を畢覧(閲覧し尽す)したく思っていた。しかも射雉を好み、春夏の間は常に晨に出て夜に還り、ただこの時ばかりは読書を捨てた。

休欲與博士祭酒韋曜・博士盛沖講論道藝、曜・沖素皆切直、布恐入侍、發其陰失、令己不得專、因妄飾説以拒遏之。休答曰:「孤之渉學、羣書略徧、所見不少也;其明君闇王、姦臣賊子、古今賢愚成敗之事、無不覽也。今曜等入、但欲與論講書耳、不為從曜等始更受學也。縱復如此、亦何所損?君特當以曜等恐道臣下姦變之事、以此不欲令入耳。如此之事、孤已自備之、不須曜等然後乃解也。此都無所損、君意特有所忌故耳。」布得詔陳謝、重自序述、又言懼妨政事。休答曰:「書籍之事、患人不好、好之無傷也。此無所為非、而君以為不宜、是以孤有所及耳。政務學業、其流各異、不相妨也。不圖君今日在事、更行此於孤也、良所不取。」布拜表叩頭、休答曰:「聊相開悟耳、何至叩頭乎!如君之忠誠、遠近所知。往者所以相感、今日之巍巍也。詩云:『靡不有初、鮮克有終。』終之實難、君其終之。」初休為王時、布為左右將督、素見信愛、及至踐阼、厚加寵待、專擅國勢、多行無禮、自嫌瑕短、懼曜・沖言之、故尤患忌。休雖解此旨、心不能ス、更恐其疑懼、竟如布意、廢其講業、不復使沖等入。是歳使察戰到交阯調孔爵・大豬。

孫休は博士祭酒韋曜・博士盛沖と道・芸を講論(討論)したく思っていたが、韋曜・盛沖はもとより皆な切直(の諫士)であり、張布は(両者が)入侍すると、陰した過失が発かれて政令を専らに出来なくなる事を恐れ、妄飾して両者を拒遏せんことを説いた。
 孫休が答えるには 「孤は渉学して群書を略徧(ほぼあまね)くし、得た所は少なくない。明君や闇王、姦臣と賊子、古今の賢愚や成敗の事について覧ていないという事はない。今、韋曜らを入侍させるのは、ただ『書経』について論講したいというだけで、韋曜らに始めから更めて学問を受けるというのではないのだ。縦(例)えそうであっても、何を損うというのか? 君は韋曜らが、臣下による姦変の事を道(言)うのを特に恐れ、そのため入侍させたくないだけなのだ。そのような事を孤は既に備(わきま)えており、必ずしも韋曜らの指摘で理解するものではない。これによって損われるものは無く、君の意として忌んでいるというだけの事だ」
張布は詔を得ると陳謝し、重ねて自序を述べ、又た(学問が)政事の妨げになる事を懼れると言った。
 孫休が答えた 「書籍の事は人が好まない事を患うが、好んだところで傷う事など無い。否定するものなど無いのに、君は妥当でないとしている。だから孤は敢えて言おう。政務と学業はその流れを各々異にはするが、相い妨げるものではない。図らずも君は今日、政事に在りながら更めて孤に対しこの様な事を行なっている。採用は出来ない」
張布は表を拝して叩頭した。
 孫休が答えるには 「聊か開悟しただけで、どうして叩頭までするのか! 君の忠誠は遠近の知る所だ。嘗て相い感ずる所があって今日の巍巍たる(尊位)があるのだ。『詩』にも『初め有らざる靡(な)く、克(よ)く終り有るは鮮(すくな)し』と云うではないか。(克く)終わるのは実に困難なのだ。君もそのように終るのだ」
 孫休が王となった当初、張布は左右の将督となってもとより信愛され、踐阼に至るに及んで厚く寵待を加えられ、国勢を専擅し、行ないには礼が無い事が多かった。自からの瑕短を嫌忌し、韋曜・盛沖がこれを言う事を懼れ、そのため(両者を)最も患忌した。孫休はこの旨を理解して心中では悦ばなかったが、その疑懼を恐れて、竟(つい)に張布の意の通りにし、その講業を廃して、復た盛沖らを入侍させようとはしなかった。この歳、察戦の官吏を交阯に到らせて孔爵(孔雀)・大豬を徴発した[7]

 累ねて指摘しておきますが、『三國志』呉志はかなりの部分を『呉書』に頼っていて、その『呉書』の編者が韋昭=韋曜です。張布・濮陽興はもろに政敵です。孫休伝のブレ加減、例えば孫休が聡明なだけの流され体質にされていたり、張布らに具体的な悪行が乏しいのに傾国の姦臣とされていたりするのも、孫休の朝廷での韋昭の処遇によるのではと勘繰ってしまいます。初代丞相の孫邵が立伝すらされなかった理由が派閥争いにあるという指摘も無視できるものではありません。

 六年夏四月、泉陵言黄龍見。五月、交阯郡吏呂興等反、殺太守孫諝。諝先是科郡上手工千餘人送建業、而察戰至、恐復見取、故興等因此扇動兵民、招誘諸夷也。冬十月、蜀以魏見伐來告。癸未、建業石頭小城火、燒西南百八十丈。甲申、使大將軍丁奉督諸軍向魏壽春、將軍留平別詣施績於南郡、議兵所向、將軍丁封・孫異如沔中、皆救蜀。蜀主劉禪降魏問至、然後罷。呂興既殺孫諝、使使如魏、請太守及兵。丞相興建取屯田萬人以為兵。分武陵為天門郡。

 六年(263)夏四月、泉陵県が黄龍の出見を上言した。五月、交阯郡の吏の呂興らが反き、太守孫諝を殺した。孫諝はこれより先、郡の上手の工夫千余人を科(えら)んで建業に送っていた。察戦が至ると復た取られる事を恐れ、そのため呂興らはこれに因って兵民を扇動し、諸夷を招誘したのだ。

 八月、伐蜀軍が洛陽を発した。
 十一月、ケ艾が緜竹を抜いて雒県に進み、劉禅が降った。 (房玄齢『晋書』)

冬十月、蜀が魏に伐たれたとの告使が来た。(十一月)癸未(21日)、建業の石頭小城で出火し、西南百八十丈を焼いた。甲申(22日)、大将軍丁奉に諸軍を督して魏の寿春に向わせ、将軍留平を別に南郡の施績に詣らせて兵の向かう所を討議させ、将軍丁封・孫異を沔中に行かせて皆な蜀を救わせた。蜀主劉禅が魏に降ったとの問(音信)が至ると罷めた。呂興は孫諝を殺した後に使者を魏に行かせ、太守および兵(の派遣)を乞うた。

 呂興が援軍等を求めたのは蜀の庲降都督霍弋に対してです。ただ、タイミング的に魏の征蜀と重なった為に 「魏に降った」 との表現となっています。資料によっては 「晋に降った」 としているものもあります。どちらにしろ、呉は北・西・南に敵を受ける未曾有の事態に陥りました。

丞相濮陽興が屯田の万人を兵に取る事を建議した。武陵郡を分けて天門郡(治所は零陽/張家界市慈利)とした[8]

 七年春正月、大赦。二月、鎮軍〔將軍〕陸抗・撫軍〔將軍〕歩協・征西將軍留平・建平太守盛曼、率衆圍蜀巴東守將羅憲。夏四月、魏將新附督王稚浮海入句章、略長吏〔貲財〕及男女二百餘口。將軍孫越徼得一船、獲三十人。秋七月、海賊破海鹽、殺司鹽校尉駱秀。使中書郎劉川發兵廬陵。豫章民張節等為亂、衆萬餘人。魏使將軍胡烈歩騎二萬侵西陵、以救羅憲、陸抗等引軍退。復分交州置廣州。壬午、大赦。癸未、休薨、時年三十、諡曰景皇帝。

 七年(264)春正月、大赦した。二月、鎮軍将軍陸抗・撫軍将軍歩協・征西将軍留平・建平太守盛曼が、軍勢を率いて蜀の巴東太守羅憲を囲んだ。夏四月、魏将の新附督王稚が海上から会稽郡の句章(寧波市江北区)に入り、長吏と貲財および男女二百余口を略取した。将軍孫越が徼撃して一船を得、三十人を獲た。秋七月、海賊が海塩県を破り、司塩校尉駱秀を殺した。中書郎劉川に廬陵の兵を発遣させた。豫章の民の張節らが乱を為し、手勢が万余人となった。
 魏が将軍胡烈に歩騎二万で西陵を侵し、羅憲を救わせた為、陸抗らは軍を引き揚げて退いた。復た交州を分けて広州を置いた。

 交州の中心地方が呂興によって失われた為の措置です。だったら治所を徙して名を存続させても良さそうですが、孫権の黄武五年に交州分割の前例がありますし、孫呉としても経験から交州の西部が特にヤバいと理解して回復後も別個に統治するつもりなのでしょう。

壬午、大赦した。癸未、孫休が薨じ[9]、時に齢三十だった。景皇帝と諡した[10]

 孫休からは図太さを感じないので、まぁ恐らく、未曾有の国難に直面した為の憂死でしょう。

[1] 李衡、字は叔平。もとは襄陽の兵卒の家の子で、漢末に呉に入って武昌の庶民となった。羊衜に人物鑑定の才があると聞き、往って視てもらった処、羊衜は 「多事の世にあって、尚書の劇曹(激務の部署)の郎官を担当できる才がある」と云った(すっごい微妙…)。このとき、校事呂壹が権柄を操弄し、大臣は畏偪して苦言する者が莫かったが、羊衜は 「李衡を措いて困窮させられる者はいない」 かくて共に推薦して郎とした。孫権が引見すると、李衡は呂壹の姦短(悪事と欠点)数千言を陳べ、孫権には愧じる色があった。数月して呂壹は誅され、李衡は大いに顕擢された。後に諸葛恪の司馬が常態となり、諸葛恪の府事を幹事した。諸葛恪が誅されると、求めて丹楊太守となった。時に孫休は郡治に在り、李衡はしばしば法を用いて糺した。妻の習氏はそのたび李衡を諫めたが、李衡は従わなかった。孫休が立つと李衡は憂懼し、妻に謂うには 「お前の言葉を用いなかったばかりに今日の事に至ってしまった」 かくて魏に奔ろうとした。妻 「なりません。あなたは元は庶民で、先帝が抜擢して過分に重んじられました。既にしばしば無礼の事があります。そのうえ復た逆らって自ら猜嫌し、逃叛して北帰に活を求めようとは。どのような面で中国の人にまみえようというのです?」 李衡 「どのようにすれば良い?」 妻 「琅邪王はもとより善を好み名を慕い、その事を天下に顕らかにしたく思っています。私事による嫌忌で貴方を殺さない事は明白です。自ら虜囚として獄に詣り、上表して以前の過失を列挙し、受罪を求めている事を顕らかになさい。そうすれば逆に優饒され、直ちに活かされるだけではなくなりましょう」 李衡はこれに従い、果たして患いの無きを得、又た威遠将軍の号と棨戟の使用を加えられた。

 諸王削権は諸葛恪の方針で、謂ってみれば魏の宗室政策に倣ったものです。李衡の行ないは、諸葛恪の死亡後もその方針を守っていたという事になり、基本政策面では諸葛恪と孫峻の間で大きな転換が無かったと見ることも出来ます。

李衡はしばしば治家(家産の経営)しようとし、そのたび妻は聴かなかったが、後に密かに佃客十人を遣って武陵の龍陽に入らせ、洲の上に宅(荘園)を作って甘橘千株を種えさせた。死に臨んで児に命じるには 「汝の母は私の治家を嫌悪し、その為このように窮乏した。しかし私の州里には千頭の木奴があって、汝に衣食の事を責めず、歳に一匹の絹を上納するので、用度に充てるに足りるだろう」 李衡が死亡してから二十余日して、児がこの事を母に申した処、母は 「これはきっと甘橘を植えた事です。汝の家から十戸の佃客が失踪して七・八年となり、きっと汝の父が遣って荘園を作らせたのです。汝の父は恒に太史公の言葉の『江陵千樹橘、当封君家(江陵に千の橘を植えれば封君の家に匹敵する)』と称しておりました。私が答えるには『人として徳義の無い事を患え、富まない事は患えません。もし貴くても清貧に甘んじられれば好いのです。これがどうして役に立ちましょう!』と」 呉末、李衡の甘橘は成長して歳に絹数千匹を得、家は殷賑となった。晋の咸康中(335〜42)、その荘園址と枯樹は猶お存在していた。 (『襄陽記』)
[2] 群臣が皇后・太子を立てる事を上奏した処、詔があった 「朕は寡徳であるのに洪業を奉承し、事に蒞(臨)んで日は浅く、恩沢は未だに敷かれていない。后妃の号や嗣子の位を加えるのは緊急のものではない」 有司が又た固く請うたが、孫休は謙虚となって許認しなかった。 (『江表伝』)
[3] 或る者は孫休が鴆殺したと云う。晋の太康中(280〜89)になって、呉の少府だった丹楊の戴顒が孫亮の喪(霊柩)を迎え、頼郷に葬った。 (『呉録』)
[4] この歳、建徳県(呉郡富春より分離)で大鼎を得た。 (『呉歴』)
[5] 石偉、字は公操。南郡の人である。若年より好学で、節を修めて怠らず、介然(堅固)に独立して(何物にも)志を奪われる事はなかった。茂才・賢良方正に挙げられても皆な就かなかった。孫休が即位すると特に石偉を徴し、累遷して光禄勲に至った。孫晧が即位して朝政が昏乱すると、石偉は老耄痼疾を理由に身を乞い、光禄大夫を就拝した。呉が平らぎ、建威将軍王戎は親しく石偉に詣った。太康二年(281)の詔に 「呉の旧の光禄大夫石偉は清白の志を秉り、皓首(白髪)となっても変らず、危乱の処し難きにもその廉節は紀範とすべきものだった。年齢は既に過邁であり遠きを渉るに堪えない。石偉を議郎とし、二千石の秩を加えて生涯を終えさせよ」 石偉はかくて偽って発狂して盲となり、晋の爵を受けなかった。齢八十三で太熙元年(290)に卒した。 (『楚国先賢伝』)
[6] 孫休の詔 「人に名があるのは互いに紀別する為で、長じて字を為すのは諱を憚るからである。『礼』では、子に名付けるには犯し難く避け易くするよう求めている。『五十歳で伯・仲を称す』というのは、古えには一字だったのかもしれない。今、人は競って佳名・佳字を為して組み合わせたりもしているが、行ないが名と乖離している。嗤っちゃうね。(字を)師友が付けるのなら良いが、父兄(が佳名を択ぶの)はダメだ。自称は最悪だ。孤は四男の為に名字を作った。太子の諱名は𩅦。𩅦の音は湖水湾澳の湾だ。字名は莔。莔の音は迄今の迄だ。次子の諱名は𩃙。𩃙の音は兕觥の觥だ。字名は[西+升]。[西+升]の音は玄礥首の礥だ。その次の子の諱名は壾。壾の音は草莽の莽だ。字名は昷。昷の音は挙物の挙だ。その次の子の諱名は𠅨。𠅨の音は褒衣下ェ大の褒だ。字名は[秋+牛]。[秋+牛]の音は有所擁持の擁だ。これらは世に用いられているものと同じでなくする為、旧文から採って合成させた。一字のみで組み合わせてもいない。避け易いだろう? 天下の人にも告げ知らせよ」 (『呉録』)
―― 裴松之が考えるに、『左伝』に (師服の言葉として)「名は義を制し、義は礼より出で、礼は政を体現し、政は民を正す。このため政が完成すれば民は(令を)聴き、易えれば乱を生ず」 とある。この言葉がどうして虚言であろうか! 孫休は犯され難くしたいとし、名の無い事を患えた。そして前例の無い字を造り、典拠に無い音を制定し、先人の明誥に違え、後代に嗤騃されたのだ。なんとも奇異な事ではないか! だから墳土が乾かないうちに妻子が夷滅されたのだ。師服の言葉に徴候があったのだ。

 どうなんだろう。裴松之は孫休に噛みついただけなのか、諱字に配慮して新字を創案する暇があるのなら、もっと古人から学ぶべきものがあるだろうという比喩なのか。これを言ったのが孫盛なら間違いなく前者なのですが(笑)。

[7] 裴松之が調べたところ、察戦とは呉の官の名号で、今、揚都には察戦巷(という区画)がある。
[8] この歳、青龍が長沙に出見し、白燕が慈胡に出見し、赤雀が豫章に出見した。 (『呉歴』)
[9] 孫休は病臥し、話す事が出来ずに手書にて丞相濮陽興を呼んで入らせ、子の孫𩅦に命じて出して拝礼させた。孫休は濮陽興の臂を把り、孫𩅦を指してこれを託した。 (『江表伝』)
[10] 呉の景帝の時、戍将が広陵で諸冢を発掘し、版板を取って城を修繕した為、壊したものが甚だ多かった。一つの大冢を発掘した処、内には重閣があり、戸扉は皆な枢転して開閉するもので、四周には車の通る徼道が通じ、その高さは乗馬が可能だった。又た鋳銅製の人型が数十枚あり、身長五尺、皆な大冠朱衣で剣を執って列んで霊座に侍し、皆な銅人の背後の石壁に刻んで殿中将軍や侍郎・常侍とあった。王公の冢に似ていた。その棺は破れ、棺の中に人があり、髮は班白で衣冠は鮮明であり、面体は生ける人のようだった。棺中の雲母は厚さ一尺ばかりで、白い玉璧三十枚を尸に敷いていた。兵人らは共に死人を挙げて出し、冢の壁に倚りかからせた。長径一尺ばかりの一つの玉があり、形は冬瓜に似ているものが死人の懐中より滑り出て地に堕ちた。両耳および鼻孔の中には全て棗ほどの大きさの黄金が黄金があった。これは骸骨が黄金に仮して朽ちないという效験である。 (葛洪『抱朴子』)

 『抱朴子』は成仙術として煉丹術にも注目した書なので、その中で黄金の有用性を説くことに何の違和感もありませんが、さすがに正史の注に『抱朴子』や『捜神記』などを採用する感性はどうかと思います。今回については墓発きが古今東西で割と普通に行なわれていた事や、埋葬方法なんかが分るんで訳しましたが、今にして思えば魏紀で志怪系まで訳さなくても良かったんですよね…。

張布

 濮陽興伝があるのに張布伝が無いのは片手落ちにしても行き過ぎなので、魯班伝同様、諸伝から張布の事績を集めてみました。結局、字も出身地も判らず仕舞いでしたが、孫休の時代も名士の肩身が狭かった事は何となく察せられたので善しとします。

 永安元年(258)冬十月壬午、大将軍孫綝を丞相・荊州牧とし、併せて長水校尉張布の輔導の勤務を労い、張布を輔義将軍とし、永康侯に封じた。 (孫休伝)
 孫綝が牛酒を奉じて孫休に詣った処、孫休が受けなかったので将軍張布に詣り、酒酣となると怨言を出して廃黜に言及した。張布がこの言葉を孫休に上聞すると、孫休は変事を恐れて孫綝にしばしば賞賜を加えた。 (孫綝伝)
 或る者が孫綝の叛意を告げた為、孫休は張布と謀って孫綝を誅しようとした。張布の勧めにより、孫休は丁奉を召して与に図り、臘会に乗じる事を決した。 孫休は臘会に孫綝を請じ、丁奉は張布と与に左右に目配せしてこれを斬った。 (孫綝および丁奉伝)
 十二月、孫綝をを討った功により、張布を左将軍として中軍督を加え、張布の弟の張惇を封じて都亭侯として兵三百人を給し、張惇の弟の張恂を校尉とした。 孫休は丞相濮陽興および左将軍張布に旧恩があったので事をこれに委ね、張布は宮省を典った。 (孫休伝)
 孫休は博士祭酒韋曜・博士盛沖らに進講させようとしたが、左将軍張布は寵幸の近習として事行には玷(きず)が多く、韋曜・盛沖はもとより皆な切直の諫士であり、両者が入侍すると古今の事例によって孫休を警戒(訓戒)し、又た陰した過失が発かれて政令を専らに出来なくなる事を恐れ、妄飾して両者を用いるべきでない事を諫争した。
 孫休が王となった当初、張布は左右の将督となってもとより信愛され、踐阼に至るに及んで厚く寵待を加えられ、国勢を専擅し、行ないには礼が無い事が多く、自からの瑕短を嫌忌した。そして韋曜・盛沖がこれを言う事を懼れたのである。孫休はこの旨を理解して心中では悦ばなかったが、その疑懼を恐れて竟(つい)に張布の意の通りにし、韋曜らの件を停止した。 (孫休伝および韋曜伝)

 『三國志』呉志が底本とした『呉書』の首席編纂者が韋昭=韋曜で、張布・濮陽興はもろに政敵です。『呉書』の政敵に対する姿勢は根拠なき糾弾と無視が中心で、張布も御多分に漏れません。韋曜は名士の端くれとして側近政治を徹底的に嫌悪した、くらいの認識で宜しいかと。

 (孫休が歿すると)丞相濮陽興・左将軍張布は左典軍万ケの勧めに従い、孫休の妃の太后朱氏に説いて孫皓を継嗣に迎えた。 (孫皓伝)
 元興元年(264)、濮陽興・張布は孫皓を立てた事を竊かに悔いた。或る者が孫皓に譖し、十一月、濮陽興・張布を誅した。 (孫皓伝)
 


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