孫亮字子明、權少子也。權春秋高、而亮最少、故尤留意。姊全公主嘗譖太子和子母、心不自安、因倚權意、欲豫自結、數稱述全尚女、勸為亮納。赤烏十三年、和廢、權遂立亮為太子、以全氏為妃。
太元元年夏、亮母潘氏立為皇后。冬、權寢疾、徴大將軍諸葛恪為太子太傅、會稽太守滕胤為太常、並受詔輔太子。明年四月、權薨、太子即尊號、大赦、改。是歳、於魏嘉平四年也。
〔建興元年〕閏月、以恪為帝太傅、胤為衞將軍領尚書事、上大將軍呂岱為大司馬、諸文武在位皆進爵班賞、宂官加等。冬十月、太傅恪率軍遏巣湖、城東興、使將軍全端守西城、都尉留略守東城。十二月朔丙申、大風雷電、魏使將軍諸葛誕・胡遵等歩騎七萬圍東興、將軍王昶攻南郡、毌丘儉向武昌。甲寅、恪以大兵赴敵。戊午、兵及東興、交戰、大破魏軍、殺將軍韓綜・桓嘉等。是月、雷雨、天災武昌端門;改作端門、又災内殿。
二年春正月丙寅、立皇后全氏、大赦。庚午、王昶等皆退。二月、軍還自東興、大行封賞。三月、恪率軍伐魏。夏四月、圍新城、大疫、兵卒死者大半。秋八月、恪引軍還。冬十月、大饗。武衞將軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。大赦。以峻為丞相、封富春侯。十一月、有大鳥五見于春申、〔改明年〕元。
一般的には旧太子派に対する、旧魯王派の逆襲とされる事件ですが、実態は旧魯王派での内ゲバに過ぎません。この後も呉は、孫皓が即位するまで旧魯王派が主導します。
五鳳元年夏、大水。秋、呉侯英謀殺峻、覺、英自殺。冬十一月、星茀于斗・牛。
二年春正月、魏鎮東大將軍毌丘儉・前將軍文欽以淮南之衆西入、戰于樂嘉。閏月壬辰、峻及驃騎將軍呂據・左將軍留贊率兵襲壽春、軍及東興、聞欽等敗。壬寅、兵進于橐皋、欽詣峻降、淮南餘衆數萬口來奔。魏諸葛誕入壽春、峻引軍還。二月、及魏將軍曹珍遇于高亭、交戰、珍敗績。留贊為誕別將蔣班所敗于菰陂、贊及將軍孫楞・蔣脩等皆遇害。三月、使鎮南將軍朱異襲安豐、不克。秋七月、將軍孫儀・張怡・林恂等謀殺峻、發覺、儀自殺、恂等伏辜。陽羨離里山大石自立。使衞尉馮朝城廣陵、拜將軍呉穰為廣陵太守、留略為東海太守。是歳大旱。十二月、作太廟。以馮朝為監軍使者、督徐州諸軍事、民饑、軍士怨畔。
蜀からの使節の来訪に乗じたもので、朱公主(孫権の娘/朱皇后の実母)も連坐したものです。
陽羨の離里山で大石が自ずと立った。衛尉馮朝に広陵に築城させ、将軍呉穣を拝して広陵太守とした。留略を東海太守とした。この歳は大いに旱害があった。十二月、太廟を作った。馮朝を監軍使者・督徐州諸軍事とした。民は饑え、軍士は怨み畔(背)いた。太平元年春二月朔、建業火。峻用征北大將軍文欽計、將征魏。八月、先遣欽及驃騎〔將軍〕呂據・車騎〔將軍〕劉纂・鎮南〔將軍〕朱異・前將軍唐咨軍自江都入淮・泗。九月丁亥、峻卒、以從弟偏將軍綝為侍中・武衞將軍、領中外諸軍事、召還據等。〔據〕聞綝代峻、大怒。己丑、大司馬呂岱卒。壬辰、太白犯南斗。據・欽・咨等表薦衞將軍滕胤為丞相、綝不聽。癸卯、更以胤為大司馬、代呂岱駐武昌。據引兵還、欲討綝。綝遣使以詔書告喩欽・咨等、使取據。冬十月丁未、遣孫憲及丁奉・施ェ等以舟兵逆據於江都、遣將軍劉丞督歩騎攻胤。胤兵敗夷滅。己酉、大赦、改年。辛亥、獲呂據於新州。十一月、以綝為大將軍・假節、封〔永寧侯〕。孫憲與將軍王惇謀殺綝、事覺、綝殺惇、迫憲令自殺。十二月、使五官中郎將刁玄告亂于蜀。
二年春二月甲寅、大雨、震電。乙卯、雪、大寒。以長沙東部為湘東郡、西部為衡陽郡、會稽東部為臨海郡、豫章東部為臨川郡。夏四月、亮臨正殿、大赦、始親政事。綝所表奏、多見難問、又科兵子弟年十八已下十五已上、得三千餘人、選大將子弟年少有勇力者為之將帥。亮曰:「吾立此軍、欲與之倶長。」日於苑中習焉。
五月、魏征東大將軍諸葛誕以淮南之衆保壽春城、遣將軍朱成稱臣上疏、又遣子靚・長史呉綱諸牙門子弟為質。六月、使文欽・唐咨・全端等歩騎三萬救誕。朱異自虎林率衆襲夏口、夏口督孫壹奔魏。秋七月、綝率衆救壽春、次于鑊里、朱異至自夏口、綝使異為前部督、與丁奉等將介士五萬解圍。八月、會稽南部反、殺都尉。鄱陽・新都民為亂、廷尉丁密・歩兵校尉鄭冑・將軍鍾離牧率軍討之。朱異以軍士乏食引還、綝大怒、九月朔己巳、殺異於鑊里。辛未、綝自鑊里還建業。甲申、大赦。十一月、全緒子禕・儀以其母奔魏。十二月、全端・懌等自壽春城詣司馬文王。
全緒は全jの子で、全皇后の父である全尚の従兄弟にあたります。鍾会伝にも全氏出奔の事はありますが、原因は一族の内紛という以外は書かれていません。又た全j伝では、全懌が魏に降った後に全禕らが魏に奔った事になっています。何れにしても全氏は全公主を始めとして、立場が複雑な割に情報量が少ないです。孫休・孫皓にとって全公主の印象が最悪だったのが原因でしょうかね。
三年春正月、諸葛誕殺文欽。三月、司馬文王克壽春、誕及左右戰死、將吏已下皆降。秋七月、封故齊王奮為章安侯。詔州郡伐宮材。自八月沈陰不雨四十餘日。亮以綝專恣、與太常全尚、將軍劉丞謀誅綝。九月戊午、綝以兵取尚、遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外、召大臣會宮門、黜亮為會稽王、時年十六。
孫綝伝によれば、孫亮の廃黜を宗廟に報告する使者になったのは、あの孟宗で、又た廃黜に異を唱えたのは桓彝だけだったとあります。これらが事実なら、一連の廃黜劇は孫家内部の問題として捉えられており、政権中枢に連なる名士層の孫家や孫亮に対する支持率は、かなり低下していたようです。
何の根拠も示さずにいかにも本当にあった事のようにさらっと書いている『呉録』が怖いです。武昌還都は後に孫皓がする事ですが、諸葛恪が先取りして計画していたとする事で、孫皓と諸葛恪をダブらせようとした、のかもしれません。もし諸葛恪が武昌還都を企画していたんだとすれば、合肥攻略に失敗して権威の再建に奔走した翌年以降の事になる筈です。
まるで曹沖に対抗したかのような逸話です。正直、蜜だろうが砂糖だろうが収蔵具合を確認しようがしまいが、どうでもいいです。要は孫亮の賢さを示すエピソードがこの程度しか拾えなかったって事でしょう。年齢の事もあるので已むを得ませんが、学問への言及が全く無い点は曹髦の時とエライ違いです。
孫休字子烈、權第六子。年十三、從中書郎射慈・郎中盛沖受學。太元二年正月、封琅邪王、居虎林。四月、權薨、休弟亮承統、諸葛恪秉政、不欲諸王在濱江兵馬之地、徙休於丹楊郡。太守李衡數以事侵休、休上書乞徙他郡、詔徙會稽。居數歳、夢乘龍上天、顧不見尾、覺而異之。孫亮廢、己未、孫綝使宗正孫楷與中書郎董朝迎休。休初聞問、意疑、楷・朝具述綝等所以奉迎本意、留一日二夜、遂發。十月戊寅、行至曲阿、有老公干休叩頭曰:「事久變生、天下喁喁、願陛下速行。」休善之、是日進及布塞亭。武衞將軍恩行丞相事、率百僚以乘輿法駕迎於永昌亭、築宮、以武帳為便殿、設御座。己卯、休至、望便殿止住、使孫楷先見恩。楷還、休乘輦進、羣臣再拜稱臣。休升便殿、謙不即御坐、止東廂。戸曹尚書前即階下讚奏、丞相奉璽符。休三讓、羣臣三請。休曰:「將相諸侯咸推寡人、寡人敢不承受璽符。」羣臣以次奉引、休就乘輿、百官陪位、綝以兵千人迎於半野、拜于道側、休下車答拜。即日、御正殿、大赦、改元。是歳、於魏甘露三年也。
嘉禾四年(235)の生まれです。生母の王夫人は242年に孫和が太子に立てられると公安に徙されました。
齢十三で中書郎謝慈[※1]・郎中盛沖より学問を受けた。太元二年(252)正月、琅邪王に封じられて虎林[※2]に居した。四月、孫権が薨じて孫休の弟の孫亮が王統を承け、諸葛恪が秉政したが、諸王が浜江の兵馬の地(長江沿いの軍事要衝)に在る事を望まず、孫休を丹楊郡に徙した。太守李衡はしばしば事に寄せて孫休を侵害し、孫休は上書して他郡に徙される事を乞い、詔にて会稽に徙した。居ること数歳、夢に龍に乗って天に上り、顧みて尾が見えなかった事があり、覚めてこれを異な事とした。※1 謝慈は後に斉王の傅相となり、諸葛恪の死に乗じようとした孫奮を諫めて殺されます。
※2 この後に虎林に駐屯した朱異は257年にここから夏口の孫壹を襲いますが、宗室伝に 「朱異が武昌に達した処で孫壹が覚って魏に奔った」 旨があるので、武昌より建業寄りなのは確定です。筑摩版では後の武林城の事だとして、現在の安徽省池州市東至の辺りに比定しています。
余談ですが、晋代には秣陵県から建業県が分置されていて、秦淮河を挟んで建業城と丹楊郡治(秣陵城)が隣接していました。諸葛恪の指令は諸王を沿江に置くなという事なので、郡治は旧治の宛陵(安徽省宣城市区)に置かれていたのではないかと考えます。まあ、太守が厳しく監視していたようなので秣陵城でも問題はありませんが。
既視感がバリバリだと思ったら曹髦でした。どちらも俄かに奉迎されて警戒し、あちらは西廂で、こちらは東廂で待機です。権臣に擁立され、学問好きという点も共通しています。曹髦が成功した場合の if として意識させてるんじゃなかろうか。
戸曹尚書が前進して階下から讃奏し、丞相が璽符を奉じた。孫休は三譲し、群臣は三請した。孫休 「将相諸侯が咸な寡人を推すのだ。寡人が璽符を承受せずにはおれまい」 群臣は席次を以て奉じて引導し、孫休は乗輿に就き、百官は陪位した。孫綝は兵千人にて半野に迎え、道側にて拝し、孫休は下車して答拝した。即日に正殿に入御して大赦し、(永安と)改元した。この歳は魏の甘露三年である。 孫休が選ばれた理由が不明です。孫休はこのとき24歳なので、通常の権臣のパターンなら傍流から年少者を選ぶ処です。孫綝の権勢ならそれも可能だった筈。孫綝伝にも孫休を迎える尤もらしい理由が記載されていないので、憶測してみました。
孫亮と孫綝の最大の対立点は、宗室を強化する方法論だったのではないかと思われます。二宮の変を通じて旧大姓の影響力を抑制し、宗室強化に舵を切る事に成功したのが孫権の末期で、孫亮の政府もこれを踏襲しています。孫綝が孫氏による孫氏の為の政権を目指したのに対し、孫亮は全氏という二級勢族と結びつく事で皇帝権力の強化を図った気配があります。これでは二宮以前の、大姓の動静に左右された、孫権が否定した体制に逆行しかねません。孫綝が孫亮は廃した理由はこんな処ではないかと。孫休なら年上だし苦労もしている分、状況を理解してくれるだろうという希望があったのかもです。夫人が名門朱氏の人とはいえ、朱氏の勢いはかなり削がれていましたし。
永安元年冬十月壬午、詔曰:「夫褒コ賞功、古今通義。其以大將軍綝為丞相・荊州牧、攝H五縣。武衞將軍恩為御史大夫・衞將軍・中軍督、封縣侯。威遠將軍〔據〕為右將軍・縣侯。偏將軍幹雜號將軍・亭侯。長水校尉張布輔導勤勞、以布為輔義將軍、封永康侯。董朝親迎、封為郷侯。」又詔曰:「丹陽太守李衡、以往事之嫌、自拘有司。夫射鉤斬袪、在君為君、遣衡還郡、勿令自疑。」己丑、封孫晧為烏程侯、晧弟コ錢唐侯、謙永安侯。
※ 斉桓公と晋文公が共に公子だった時の故事。桓公が弟の糾と帰国を争った時、糾に仕えていた管仲が桓公を射たところ帯鉤に中り、文公は父に自殺を命じられると逃げ、その際に使者の勃鞮に袂を斬られたというもの。管仲は後に桓公の宰相として覇業を実現し、勃鞮は文公に陰謀を知らせて難を免れさせました。
己丑、孫皓を封じて烏程侯とし、孫皓の弟の孫徳を銭唐侯とし、孫謙を永安侯とした[2]。 十一月甲午、風四轉五復、蒙霧連日。綝一門五侯皆典禁兵、權傾人主、有所陳述、敬而不違、於是益恣。休恐其有變、數加賞賜。
丙申、詔曰:「大將軍忠款内發、首建大計以安社稷、卿士内外、咸贊其議、並有勳勞。昔霍光定計、百僚同心、無復是過。亟案前日與議定策告廟人名、依故事應加爵位者、促施行之。」
戊戌、詔曰:「大將軍掌中外諸軍事、事統煩多、其加衞將軍御史大夫恩侍中、與大將軍分省諸事。」
壬子、詔曰:「諸吏家有五人三人兼重為役、父兄在都、子弟給郡縣吏、既出限米、軍出又從、至於家事無經護者、朕甚愍之。其有五人三人為役、聽其父兄所欲留、為留一人、除其米限、軍出不從。」又曰:「諸將吏奉迎陪位在永昌亭者、皆加位一級。」頃之、休聞綝逆謀、陰與張布圖計。
十二月戊辰臘、百僚朝賀、公卿升殿、詔武士縛綝、即日伏誅。己巳、詔以左將軍張布討姦臣、加布為中軍督、封布弟惇為都亭侯、給兵三百人、惇弟恂為校尉。
詔曰:「古者建國、教學為先、所以道世治性、為時養器也。自建興以來、時事多故、吏民頗以目前趨務、去本就末、不循古道。夫所尚不惇、則傷化敗俗。其案古置學官、立五經博士、核取應選、加其寵祿、科見吏之中及將吏子弟有志好者、各令就業。一歳課試、差其品第、加以位賞。使見之者樂其榮、聞之者羨其譽。以敦王化、以隆風俗。」
この論功で丁奉が左将軍から大将軍に進んでいます。丁奉伝によれば、臘宴で孫綝を斬るという計画は丁奉が立てたものだとあります。孫権時代の人物がまだ活躍している事に感動ですが、孫休伝に限らず丁奉の扱いはぞんざいです。官位からして張布とカブっているし、同時に 「左右都護」 を加えられたって、左右どっちだよ?
それから張布、いつの間に左将軍に昇ったの? というか丁奉とカブっているのが非常に不自然なので、今回の論功行賞で左将軍に昇ったものと解釈します。
学問の振興とか五経博士の開設とか、これまでの孫呉には無かった正統で中華王朝的な詔勅です。儒学を信奉するな孫休の志向を反映したものでしょう。
集中力を欠いたまま読んでいたので、建興をそのまま訳してしまいました。孫休の年号だったのね。でも直しません(笑)。だって呉は孫権の時代から儒教的体制作りとは一線を画してきましたから。 ところで、孫休伝を読んでいた時は気にならなかったのですが、“建興”って元号はどうなの?蜀が二度も“興”の年号を使っているのは状況として理解できますが、孫亮には孫権の政策からの決別宣言をする理由も実績も見当たりません。単に孫権の末期が文章から見える以上にガタガタだったのかなぁ。
二年春正月、震電。三月、備九卿官、詔曰:「朕以不コ、託于王公之上、夙夜戰戰、忘寢與食。今欲偃武修文、以崇大化。推此之道、當由士民之贍、必須農桑。管子有言:『倉廩實、知禮節;衣食足、知榮辱。』夫一夫不耕、有受其饑、一婦不織、有受其寒;饑寒並至而民不為非者、未之有也。自頃年已來、州郡吏民及諸營兵、多違此業、皆浮船長江、賈作上下、良田漸廢、見穀日少、欲求大定、豈可得哉?亦由租入過重、農人利薄、使之然乎!今欲廣開田業、輕其賦税、差科彊羸、課其田畝、務令優均、官私得所、使家給戸贍、足相供養、則愛身重命、不犯科法、然後刑罰不用、風俗可整。以羣僚之忠賢、若盡心於時、雖太古盛化、未可卒致、漢文升平、庶幾可及。及之則臣主倶榮、不及則損削侵辱、何可從容俯仰而已?諸卿尚書、可共咨度、務取便佳。田桑已至、不可後時。事定施行、稱朕意焉。」
三年春三月、西陵言赤烏見。秋、用都尉嚴密議、作浦里塘。會稽郡謠言王亮當還為天子、而亮宮人告亮使巫禱祠、有惡言。有司以聞、黜為候官侯、遣之國。道自殺、衞送者伏罪。以會稽南部為建安郡、分宜都置建平郡。
濮陽興が現場指揮した曰くつきの水庫です。
会稽郡に、会稽王孫亮が天子に還ろうとしているとの謠言があり、そして孫亮の宮人からは孫亮が巫に禱祠させて悪言(呪詛)があったとの告発があった。有司の上聞にて廃黜して候官侯とし、国に遣った。道中で自殺し、衛送者が罪に伏した[3]。建安郡に通じる陸路はどれも行軍に耐えないという、なかなか難儀な郡です。宜都郡は本来は、曹操が置いた臨江郡を劉備が接収して改称したもので、関羽の敗亡で孫呉領となりました。このとき孫権が郡の西部に潘璋の固陵郡を新設しましたが、これは西接する蜀の固陵郡に対抗したもので、劉備の称帝と伴に蜀の固陵郡は巴東郡と改称されました。今回の建平郡は呉が置いた固陵郡を核としたものです。
四年夏五月、大雨、水泉涌溢。秋八月、遣光祿大夫周奕・石偉巡行風俗、察將吏清濁、民所疾苦、為黜陟之詔。九月、布山言白龍見。是歳、安呉民陳焦死、埋之、六日更生、穿土中出。
五年春二月、白虎門北樓災。秋七月、始新言黄龍見。八月壬午、大雨震電、水泉涌溢。乙酉、立皇后朱氏。戊子、立子𩅦為太子、大赦。冬十月、以衞將軍濮陽興為丞相、廷尉丁密・光祿勳孟宗為左右御史大夫。休以丞相興及左將軍張布有舊恩、委之以事、布典宮省、興關軍國。休鋭意於典籍、欲畢覽百家之言、尤好射雉、春夏之間常晨出夜還、唯此時舍書。
休欲與博士祭酒韋曜・博士盛沖講論道藝、曜・沖素皆切直、布恐入侍、發其陰失、令己不得專、因妄飾説以拒遏之。休答曰:「孤之渉學、羣書略徧、所見不少也;其明君闇王、姦臣賊子、古今賢愚成敗之事、無不覽也。今曜等入、但欲與論講書耳、不為從曜等始更受學也。縱復如此、亦何所損?君特當以曜等恐道臣下姦變之事、以此不欲令入耳。如此之事、孤已自備之、不須曜等然後乃解也。此都無所損、君意特有所忌故耳。」布得詔陳謝、重自序述、又言懼妨政事。休答曰:「書籍之事、患人不好、好之無傷也。此無所為非、而君以為不宜、是以孤有所及耳。政務學業、其流各異、不相妨也。不圖君今日在事、更行此於孤也、良所不取。」布拜表叩頭、休答曰:「聊相開悟耳、何至叩頭乎!如君之忠誠、遠近所知。往者所以相感、今日之巍巍也。詩云:『靡不有初、鮮克有終。』終之實難、君其終之。」初休為王時、布為左右將督、素見信愛、及至踐阼、厚加寵待、專擅國勢、多行無禮、自嫌瑕短、懼曜・沖言之、故尤患忌。休雖解此旨、心不能ス、更恐其疑懼、竟如布意、廢其講業、不復使沖等入。是歳使察戰到交阯調孔爵・大豬。
累ねて指摘しておきますが、『三國志』呉志はかなりの部分を『呉書』に頼っていて、その『呉書』の編者が韋昭=韋曜です。張布・濮陽興はもろに政敵です。孫休伝のブレ加減、例えば孫休が聡明なだけの流され体質にされていたり、張布らに具体的な悪行が乏しいのに傾国の姦臣とされていたりするのも、孫休の朝廷での韋昭の処遇によるのではと勘繰ってしまいます。初代丞相の孫邵が立伝すらされなかった理由が派閥争いにあるという指摘も無視できるものではありません。
六年夏四月、泉陵言黄龍見。五月、交阯郡吏呂興等反、殺太守孫諝。諝先是科郡上手工千餘人送建業、而察戰至、恐復見取、故興等因此扇動兵民、招誘諸夷也。冬十月、蜀以魏見伐來告。癸未、建業石頭小城火、燒西南百八十丈。甲申、使大將軍丁奉督諸軍向魏壽春、將軍留平別詣施績於南郡、議兵所向、將軍丁封・孫異如沔中、皆救蜀。蜀主劉禪降魏問至、然後罷。呂興既殺孫諝、使使如魏、請太守及兵。丞相興建取屯田萬人以為兵。分武陵為天門郡。
八月、伐蜀軍が洛陽を発した。
十一月、ケ艾が緜竹を抜いて雒県に進み、劉禅が降った。 (房玄齢『晋書』)
呂興が援軍等を求めたのは蜀の庲降都督霍弋に対してです。ただ、タイミング的に魏の征蜀と重なった為に 「魏に降った」 との表現となっています。資料によっては 「晋に降った」 としているものもあります。どちらにしろ、呉は北・西・南に敵を受ける未曾有の事態に陥りました。
丞相濮陽興が屯田の万人を兵に取る事を建議した。武陵郡を分けて天門郡(治所は零陽/張家界市慈利)とした[8]。七年春正月、大赦。二月、鎮軍〔將軍〕陸抗・撫軍〔將軍〕歩協・征西將軍留平・建平太守盛曼、率衆圍蜀巴東守將羅憲。夏四月、魏將新附督王稚浮海入句章、略長吏〔貲財〕及男女二百餘口。將軍孫越徼得一船、獲三十人。秋七月、海賊破海鹽、殺司鹽校尉駱秀。使中書郎劉川發兵廬陵。豫章民張節等為亂、衆萬餘人。魏使將軍胡烈歩騎二萬侵西陵、以救羅憲、陸抗等引軍退。復分交州置廣州。壬午、大赦。癸未、休薨、時年三十、諡曰景皇帝。
交州の中心地方が呂興によって失われた為の措置です。だったら治所を徙して名を存続させても良さそうですが、孫権の黄武五年に交州分割の前例がありますし、孫呉としても経験から交州の西部が特にヤバいと理解して回復後も別個に統治するつもりなのでしょう。
壬午、大赦した。癸未、孫休が薨じ[9]、時に齢三十だった。景皇帝と諡した[10]。孫休からは図太さを感じないので、まぁ恐らく、未曾有の国難に直面した為の憂死でしょう。
諸王削権は諸葛恪の方針で、謂ってみれば魏の宗室政策に倣ったものです。李衡の行ないは、諸葛恪の死亡後もその方針を守っていたという事になり、基本政策面では諸葛恪と孫峻の間で大きな転換が無かったと見ることも出来ます。
李衡はしばしば治家(家産の経営)しようとし、そのたび妻は聴かなかったが、後に密かに佃客十人を遣って武陵の龍陽に入らせ、洲の上に宅(荘園)を作って甘橘千株を種えさせた。死に臨んで児に命じるには 「汝の母は私の治家を嫌悪し、その為このように窮乏した。しかし私の州里には千頭の木奴があって、汝に衣食の事を責めず、歳に一匹の絹を上納するので、用度に充てるに足りるだろう」 李衡が死亡してから二十余日して、児がこの事を母に申した処、母は 「これはきっと甘橘を植えた事です。汝の家から十戸の佃客が失踪して七・八年となり、きっと汝の父が遣って荘園を作らせたのです。汝の父は恒に太史公の言葉の『江陵千樹橘、当封君家(江陵に千の橘を植えれば封君の家に匹敵する)』と称しておりました。私が答えるには『人として徳義の無い事を患え、富まない事は患えません。もし貴くても清貧に甘んじられれば好いのです。これがどうして役に立ちましょう!』と」 呉末、李衡の甘橘は成長して歳に絹数千匹を得、家は殷賑となった。晋の咸康中(335〜42)、その荘園址と枯樹は猶お存在していた。 (『襄陽記』)どうなんだろう。裴松之は孫休に噛みついただけなのか、諱字に配慮して新字を創案する暇があるのなら、もっと古人から学ぶべきものがあるだろうという比喩なのか。これを言ったのが孫盛なら間違いなく前者なのですが(笑)。
『抱朴子』は成仙術として煉丹術にも注目した書なので、その中で黄金の有用性を説くことに何の違和感もありませんが、さすがに正史の注に『抱朴子』や『捜神記』などを採用する感性はどうかと思います。今回については墓発きが古今東西で割と普通に行なわれていた事や、埋葬方法なんかが分るんで訳しましたが、今にして思えば魏紀で志怪系まで訳さなくても良かったんですよね…。
濮陽興伝があるのに張布伝が無いのは片手落ちにしても行き過ぎなので、魯班伝同様、諸伝から張布の事績を集めてみました。結局、字も出身地も判らず仕舞いでしたが、孫休の時代も名士の肩身が狭かった事は何となく察せられたので善しとします。
『三國志』呉志が底本とした『呉書』の首席編纂者が韋昭=韋曜で、張布・濮陽興はもろに政敵です。『呉書』の政敵に対する姿勢は根拠なき糾弾と無視が中心で、張布も御多分に漏れません。韋曜は名士の端くれとして側近政治を徹底的に嫌悪した、くらいの認識で宜しいかと。