抗字幼節、孫策外孫也。遜卒時、年二十、拜建武校尉、領遜衆五千人、送葬東還、詣都謝恩。孫權以楊竺所白遜二十事問抗、禁絶賓客、中使臨詰、抗無所顧問、事事條答、權意漸解。赤烏九年、遷立節中郎將、與諸葛恪換屯柴桑。抗臨去、皆更繕完城圍、葺其牆屋、居廬桑果、不得妄敗。恪入屯、儼然若新。而恪柴桑故屯、頗有毀壞、深以為慚。太元元年、就都治病。病差當還、權涕泣與別、謂曰:「吾前聽用讒言、與汝父大義不篤、以此負汝。前後所問、一焚滅之、莫令人見也。」建興元年、拜奮威將軍。太平二年、魏將諸葛誕舉壽春降、拜抗為柴桑督、赴壽春、破魏牙門將偏將軍、遷征北將軍。永安二年、拜鎮軍將軍、都督西陵、自關羽至白帝。三年、假節。孫晧即位、加鎮軍大將軍、領益州牧。建衡二年、大司馬施績卒、拜抗都督信陵・西陵・夷道・樂郷、公安諸軍事、治樂郷。
着任最初の仕事が弁明というのは嫌すぎますが、弁明する前に叙任されている事からして、陸遜は丞相として歿した事が伺われます。陸遜の死に場所が配流先だった場合、こうはなりませんが、何故か陸遜流罪説が敷衍しています。恐らく 「而遜外生顧譚・顧承・姚信、並以親附太子、枉見流徙」 に陸遜を含ませて解釈している為でしょう。
赤烏九年(246)、立節中郎将に遷り、諸葛恪と換わって柴桑に屯した。陸抗は去るに臨み、皆な更めて修繕して城囲を完うし、その牆屋を葺き、居廬・桑果も妄りに敗らせなかった。諸葛恪が入屯すると、儼然として新しいようだった。しかも諸葛恪の柴桑の故屯は頗る毀壊されており、深く慚愧した。太元元年(251)、都に就いて治病した。病が差(い)えて還るに当り、孫権は涕泣しつつ別れて謂うには 「朕は前に讒言を聴用し、汝の父の大義を篤くせず、この念を汝に負っている。前後して問うた事は一々これを焚滅し、人には見せないでくれ」雑号将軍 → 四征将軍 → 鎮軍将軍という昇進は、呉の軍官が蜀と同じく、魏制とは違っている事を示しています。おそらく漢制に準じたものなのでしょう。魏の官制から蜀呉の将軍の位階を考察する論を時折り見かけますが、魏制は魏晋にしか通用しないと見るべきです。
孫皓が即位すると鎮軍大将軍を加えられ、益州牧を兼領した。建衡二年(270)、大司馬施績が卒し、陸抗は信陵・西陵・夷道・楽郷・公安の諸軍事を都督し、楽郷(荊州市松滋東郊)にて治めた。抗聞都下政令多闕、憂深慮遠、乃上疏曰:「臣聞コ均則衆者勝寡、力r則安者制危、蓋六國所以兼并於彊秦、西楚所以北面於漢高也。今敵跨制九服、非徒關右之地;割據九州、豈但鴻溝以西而已。國家外無連國之援、内非西楚之彊、庶政陵遲、黎民未乂、而議者所恃、徒以長川峻山、限帶封域、此乃守國之末事、非智者之所先也。臣毎遠惟戰國存亡之符、近覽劉氏傾覆之釁、考之典籍、驗之行事、中夜撫枕、臨餐忘食。昔匈奴未滅、去病辭館;漢道未純、賈生哀泣。況臣王室之出、世荷光寵、身名否泰、與國同慼、死生契闊、義無苟且、夙夜憂怛、念至情慘。夫事君之義犯而勿欺、人臣之節匪躬是殉、謹陳時宜十七條如左。」十七條失本、故不載。
「徳が均しければ衆が寡に勝り、力がrしければ安が危を制するもの。これこそ六国が彊秦に兼併され、西楚が漢高祖に北面した理由であります。今、敵は九服・九州を制し、それは関右の地や鴻溝以西どころではありません。国家には連国の援も無く、内には西楚の彊勁とて無く、庶政は陵遅(漸衰)し、黎民(百姓)も未だ乂(おさ)まらず、しかも議者が恃むのは、徒らに長川峻山が封域を囲嶢している事で、これは国を守る上での末事であり、智者が優先するものではありません。 臣は戦国存亡の符合や、劉氏傾覆の釁過を思い、典籍から考え、日夜煩悶しております。霍去病は匈奴が滅びていない事を以て賜館を辞退し、賈誼は漢の政道が澄んでいないいない為に哀泣したとか。ましてや臣は王室の出であり、歴世で光寵を荷い、国と慼憂を同じくし、夙夜に憂怛しております。臣事する者の大義は面を犯しても欺かず、人臣の節とは躬を顧みず殉じることです。謹んで時宜十七条を左の通り陳べるものです」
十七条は本文が失われたので載せない。時何定弄權、閹官預政;抗上疏曰:「臣聞開國承家、小人勿用、靖譖庸回、唐書攸戒、是以雅人所以怨刺、仲尼所以歎息也。春秋已來、爰及秦・漢、傾覆之釁、未有不由斯者也。小人不明理道、所見既淺、雖使竭情盡節、猶不足任、況其姦心素篤、而憎愛移易哉?苟患失之、無所不至。今委以聰明之任、假以專制之威、而冀雍熙之聲作、肅清之化立、不可得也。方今見吏、殊才雖少、然或冠冕之冑、少漸道教、或清苦自立、資能足用、自可隨才授職、抑黜羣小、然後俗化可清、庶政無穢也。」
「小人とは靖譛(謀譛)を庸(つね)に回らすので用いてはならぬと、唐堯の時代から戒めていると聞いております。このため『詩』雅篇でも怨刺し、仲尼も歎息してるのです。春秋以来、秦・漢に及ぶまで、傾覆の釁過が未だこれらの者に由来しない事はありません。小人とは道理には不明で、見識も浅く、情を竭くし節を尽そうとも任には足りず、ましてや姦心は素より篤く、憎愛が移り易いのです。(彼らは)失う憂いが生じれば行なわぬ行為などありません。今、聡明の任を委ね、専制の威を仮しながら、雍熙(天下泰平)の声が作され、粛清の教化が立てられる事を望まれようとも得られぬ事です。現今の吏では才覚が小さくとも、或る者は冠冕の冑(歴世の官家)として若くより道に教わり、或る者は清苦しつつ自立して資は用いるに足りる者です。彼らに才に随って職を授け、群子を抑黜すれば、その後に世俗は清く化し、庶政に穢れは無くなりましょう」
鳳皇元年、西陵督歩闡據城以叛、遣使降晉。抗聞之、日部分諸軍、令將軍左奕・吾彦・蔡貢等徑赴西陵、敕軍營更築嚴圍、自赤谿至故市、内以圍闡、外以禦寇、晝夜催切、如敵以至、衆甚苦之。諸將咸諫曰:「今及三軍之鋭、亟以攻闡、比晉救至、闡必可拔。何事於圍、而以弊士民之力乎?」抗曰:「此城處勢既固、糧穀又足、且所繕修備禦之具、皆抗所宿規。今反身攻之、既非可卒克、且北救必至、至而無備、表裏受難、何以禦之?」諸將咸欲攻闡、抗毎不許。宜都太守雷譚言至懇切、抗欲服衆、聽令一攻。攻果無利、圍備始合。晉車騎將軍羊祜率師向江陵、諸將咸以抗不宜上、抗曰:「江陵城固兵足、無所憂患。假令敵沒江陵、必不能守、所損者小。如使西陵槃結、則南山羣夷皆當擾動、則所憂慮、難可竟言也。吾寧棄江陵而赴西陵、況江陵牢固乎?」
初、江陵平衍、道路通利、抗敕江陵督張咸作大堰遏水、漸漬平中、以絶寇叛。祜欲因所遏水、浮船運糧、揚聲將破堰以通歩軍。抗聞、使咸亟破之。諸將皆惑、屡諫不聽。祜至當陽、聞堰敗、乃改船以車運、大費損功力。晉巴東監軍徐胤率水軍詣建平、荊州刺史楊肇至西陵。抗令張咸固守其城;公安督孫遵巡南岸禦祜;水軍督留慮・鎮西將軍朱琬拒胤;身率三軍、憑圍對肇。將軍朱喬・營都督兪贊亡詣肇。抗曰:「贊軍中舊吏、知吾虚實者、吾常慮夷兵素不簡練、若敵攻圍、必先此處。」即夜易夷民、皆以舊將充之。明日、肇果攻故夷兵處、抗命旋軍撃之、矢石雨下、肇衆傷死者相屬。肇至經月、計屈夜遁。抗欲追之、而慮闡畜力項領、伺視闌пA兵不足分、於是但鳴鼓戒衆、若將追者。肇衆兇懼、悉解甲挺走、抗使輕兵躡之、肇大破敗、祜等皆引軍還。抗遂陷西陵城、誅夷闡族及其大將吏、自此以下、所請赦者數萬口。脩治城圍、東還樂郷、貌無矜色、謙沖如常、故得將士歡心。
加拜都護。聞武昌左部督薛瑩徴下獄、抗上疏曰:「夫俊乂者、國家之良寶、社稷之貴資、庶政所以倫敘、四門所以穆清也。故大司農樓玄・散騎中常侍王蕃・少府李勖、皆當世秀穎、一時顯器、既蒙初寵、從容列位、而並旋受誅殛、或圮族替祀、或投棄荒裔。蓋周禮有赦賢之辟、春秋有宥善之義、書曰:『與其殺不辜、寧失不經。』而蕃等罪名未定、大辟以加、心經忠義、身被極刑、豈不痛哉!且已死之刑、固無所識、至乃焚爍流漂、棄之水濱、懼非先王之正典、或甫侯之所戒也。是以百姓哀聳、士民同慼。蕃・勖永已、悔亦靡及、誠望陛下赦召玄出、而頃聞薛瑩卒見逮録。瑩父綜納言先帝、傅弼文皇、及瑩承基、内事シ行、今之所坐、罪在可宥。臣懼有司未詳其事、如復誅戮、益失民望、乞垂天恩、原赦瑩罪、哀矜庶獄、清澄刑網、則天下幸甚!」
「俊乂(俊秀)とは国家にとってまことに貴重な存在です。旧の大司農楼玄・散騎中常侍王蕃・少府李勖は皆な当世の秀穎でしたが、今では皆な罪を蒙って或る者は誅戮され、或る者は族滅され、或る者は流謫されました。『周礼』には“賢は避けて赦す”というものがあり、『春秋』には“善を宥す義”があり、『書経』は“不辜を殺すより不経(無法者)を失せよ”と云います。王蕃らは忠義の者でありながら罪名も定まらぬまま殺されました。痛ましい事です! その屍骸を焚爍流漂したり水浜に棄てるのは先王の正典にも外れるもので、古えの甫侯[※]が戒めた事でもあり、百姓は哀聳して士民は慼(うれ)いを同じくしております。どうかせめて生存している楼玄を赦して召し出されん事を。
この頃は薛瑩が俄かに逮録されたとか。薛瑩の父の薛綜は先帝の納言であり、文皇(孫和)を傅弼した者で、薛瑩も父業を承けて精励してまいりました。事に坐しているとはいえ、罪は宥されるべきです。有司が機微に疎く、誅戮するような事があれば、民望が益々失われる事を懼れるものであります。どうか天恩を垂れて薛瑩の罪を原赦し、併せて庶獄に哀矜されん事を!」
※ 初めて成文の刑法を定めたとされる周穆王の大臣。
時師旅仍動、百姓疲弊、抗上疏曰:「臣聞易貴隨時、傳美觀釁、故有夏多罪而殷湯用師、紂作淫虐而周武授鉞。苟無其時、玉臺有憂傷之慮、孟津有反斾之軍。今不務富國強兵、力農畜穀、使文武之才效展其用、百揆之署無曠厥職、明黜陟以誌寺噤A審刑罰以示勸沮、訓諸司以コ、而撫百姓以仁、然後順天乘運、席卷宇内、而聽諸將徇名、窮兵黷武、動費萬計、士卒彫瘁、寇不為衰、而我已大病矣!今爭帝王之資、而昧十百之利、此人臣之姦便、非國家之良策也。昔齊魯三戰、魯人再克而亡不旋踵。何則?大小之勢異也。況今師所克獲、不補所喪哉?且阻兵無衆、古之明鑒、誠宜蹔息進取小規、以畜士民之力、觀釁伺隙、庶無悔吝。」
「『易』は時に随う事を貴び、『左伝』は虚を観ることを美とするとか。だから夏王朝の罪が多くなって殷の湯王は師を用い、紂王が淫虐を為してから周の武王は鉞を授かったのです。今、富国強兵や力農畜穀、人材の挙用や賞罰の明確化によって百姓を按撫し、その後に天運に順い乗じれば海内を席捲できるのに、そう務めずに、諸将は名声を追って徒らに兵を用いて武を黷し、費用ばかり嵩んで士卒は疲弊し、我が方だけが大いに病んでおります! これらは姦臣によるもので、国家にとって良策ではありません。昔、斉と魯が三たび戦い、魯人が二勝したのに程なく滅びました。何故なら国力に差があったのです。ましてや今の軍事で獲られるものが欠を補わないのです。しかも兵を阻(たの)めば民意を無くすというのは、古えの明らかな鑑であり、どうか暫くは士民の力を養われん事を」
二年春、就拜大司馬・荊州牧。三年夏、疾病、上疏曰:「西陵・建平、國之蕃表、既處下流、受敵二境。若敵汎舟順流、舳艫千里、星奔電邁、俄然行至、非可恃援他部以救倒縣也。此乃社稷安危之機、非徒封疆侵陵小害也。臣父遜昔在西垂陳言、以為西陵國之西門、雖云易守、亦復易失。若有不守、非但失一郡、則荊州非呉有也。如其有虞、當傾國爭之。臣往在西陵、得渉遜迹、前乞精兵三萬、而〔主〕者循常、未肯差赴。自歩闡以後、益更損耗。今臣所統千里、受敵四處、外禦彊對、内懷百蠻、而上下見兵財有數萬、羸弊日久、難以待變。臣愚以為諸王幼沖、未統國事、可且立傅相、輔導賢姿、無用兵馬、以妨要務。又黄門豎宦、開立占募、兵民怨役、逋逃入占。乞特詔簡閲、一切料出、以補疆埸受敵常處、使臣所部足滿八萬、省息衆務、信其賞罰、雖韓・白復生、無所展巧。若兵不掾A此制不改、而欲克諧大事此臣之所深慼也。若臣死之後、乞以西方為屬。願陛下思覽臣言、則臣死且不朽。」
「西陵・建平は国の蕃表(国境の門戸)であり、下流に位置するようになって二境に敵を受けております。もし敵が船を汎(う)かべて流れに順えば、舳艫は千里を星奔電邁し、たちまちに行きて至り、倒懸を救う他部の援軍を恃む事はできません。これは社稷の安危の機であり、封疆が侵陵されるという小害ではありません。
臣の父の陸遜がかつて西垂(西辺)に在って陳言するには、“西陵は国の西門であり、易守とはいえ亦た易失である。もし守れなければただ一郡を失うだけではなく、荊州が呉の所有でなくなる。それを虞れるなら、国を傾けて争わねばならぬ”と。臣はかつて西陵に在り、陸遜の迹を承け、前に精兵三万を乞うた処、主者は常法に循って肯んじませんでした。歩闡より以後、更に損耗は益しております。今、臣が統べる千里は四処で敵を受け、外は強敵を禦ぎ、内は百蛮を抱え、しかも上下の兵力は都合数万で、羸弊して久しく、変事に対処するのは困難です。臣が愚考するに諸王は幼沖であり、未だに国事を統べる事はできません。まずは傅相を立てて輔導し、兵馬を用いて要務を妨げられん事を。
又た黄門・豎宦が占募(募兵)を開立しましたが、兵民とも徭役を怨み、占募に逃入しております。どうか特に詔して占募から簡抜し、疆埸(辺境)で常に敵を受けている処を補い、臣の部にも八万を足されん事を。又た衆務を省息し、賞罰を明らかにすれば、韓信・白起が復生したとしても巧くは展べられますまい。もし兵を増さず、制度を改めないまま大事を叶えようとしているのなら、それは臣の深く憂慼する事です。臣の死後の西方を嘱託するものであります」
秋遂卒、子晏嗣。晏及弟景・玄・機・雲・分領抗兵。晏為裨將軍・夷道監。天紀四年、晉軍伐呉、龍驤將軍王濬順流東下、所至輒克、終如抗慮。景字士仁、以尚公主拜騎都尉、封毗陵侯、既領抗兵、拜偏將軍・中夏督、澡身好學、著書數十篇也。二月壬戌、晏為王濬別軍所殺。癸亥、景亦遇害、時年三十一。景妻、孫晧適妹、與景倶張承外孫也。
やりすぎ感満載の『漢晋春秋』ですが、以下の“習鑿歯曰く〜”とでワンセットです。『晋陽秋』をさらに潤色した内容ですが、習鑿歯が持論を展開する為に自ら潤色したのではないかと疑ってしまう一作です。
―― 習鑿歯曰く:理や信義で事を行なう者こそ世に支持されるのだ。大道が喪われ、義が沈淪し、詐術や権略が横行し、力を恃んで縦横する人や牧豎の小智を用いる者でも、道・義によらねば成功などできない。だから晋文公が一舍を退くと原城は開城し、中行穆子は鼓城を囲みながらも(城内の者に)努める事を訓示し、(敵をも厚遇させる)冶夫の建策によって費人は(季平子に)帰し、楽毅は攻撃を緩くしたので風烈(遺風と勲功)は長らく流布したのだ。威力や詐術だけで成功はできないのだ!力押しや詐術が愚策で、徳や義によって行なう事こそが世の大道であり成功の秘訣であるという事を、修飾しまくった結果の文章です。逐語訳すると倍くらいの長さになります。謂うまでもなく、陸抗に仮託してモロに桓温を諫める為に書かれたものです。
評曰:劉備天下稱雄、一世所憚、陸遜春秋方壯、威名未著、摧而克之、罔不如志。予既奇遜之謀略、又歎權之識才、所以濟大事也。及遜忠誠懇至、憂國亡身、庶幾社稷之臣矣。 抗貞亮籌幹、咸有父風、奕世載美、具體而微、可謂克構者哉!