三國志修正計画

三國志卷五十八 呉志十三/陸遜傳 (二)

陸遜伝


陸抗

 抗字幼節、孫策外孫也。遜卒時、年二十、拜建武校尉、領遜衆五千人、送葬東還、詣都謝恩。孫權以楊竺所白遜二十事問抗、禁絶賓客、中使臨詰、抗無所顧問、事事條答、權意漸解。赤烏九年、遷立節中郎將、與諸葛恪換屯柴桑。抗臨去、皆更繕完城圍、葺其牆屋、居廬桑果、不得妄敗。恪入屯、儼然若新。而恪柴桑故屯、頗有毀壞、深以為慚。太元元年、就都治病。病差當還、權涕泣與別、謂曰:「吾前聽用讒言、與汝父大義不篤、以此負汝。前後所問、一焚滅之、莫令人見也。」建興元年、拜奮威將軍。太平二年、魏將諸葛誕舉壽春降、拜抗為柴桑督、赴壽春、破魏牙門將偏將軍、遷征北將軍。永安二年、拜鎮軍將軍、都督西陵、自關羽至白帝。三年、假節。孫晧即位、加鎮軍大將軍、領益州牧。建衡二年、大司馬施績卒、拜抗都督信陵・西陵・夷道・樂郷、公安諸軍事、治樂郷。

 陸抗、字は幼節。孫策の外孫である。(父の)陸遜が卒した時、齢二十であり、建武校尉を拝命して陸遜の手勢五千人を領し、送葬して東に還り、都に詣って謝恩した。孫権は楊竺が建白した陸遜の二十事を陸抗に問うた。賓客を禁絶し、中使が詰問に臨んだが、陸抗は顧問すること無く事に箇条で答え、孫権の意は漸く解けた。

 着任最初の仕事が弁明というのは嫌すぎますが、弁明する前に叙任されている事からして、陸遜は丞相として歿した事が伺われます。陸遜の死に場所が配流先だった場合、こうはなりませんが、何故か陸遜流罪説が敷衍しています。恐らく 「而遜外生顧譚・顧承・姚信、並以親附太子、枉見流徙」 に陸遜を含ませて解釈している為でしょう。

 赤烏九年(246)、立節中郎将に遷り、諸葛恪と換わって柴桑に屯した。陸抗は去るに臨み、皆な更めて修繕して城囲を完うし、その牆屋を葺き、居廬・桑果も妄りに敗らせなかった。諸葛恪が入屯すると、儼然として新しいようだった。しかも諸葛恪の柴桑の故屯は頗る毀壊されており、深く慚愧した。太元元年(251)、都に就いて治病した。病が差(い)えて還るに当り、孫権は涕泣しつつ別れて謂うには 「朕は前に讒言を聴用し、汝の父の大義を篤くせず、この念を汝に負っている。前後して問うた事は一々これを焚滅し、人には見せないでくれ」
建興元年(252)、奮威将軍を拝命した。太平二年(257)、魏将の諸葛誕が寿春を挙げて降り、陸抗は柴桑督を拝命して寿春に赴き、魏の牙門将・偏将軍を破り征北将軍に遷った。永安二年(259)、鎮軍将軍を拝命し、西陵の関羽瀬より白帝に至るまでを都督した。三年、節を仮された。

 雑号将軍 → 四征将軍 → 鎮軍将軍という昇進は、呉の軍官が蜀と同じく、魏制とは違っている事を示しています。おそらく漢制に準じたものなのでしょう。魏の官制から蜀呉の将軍の位階を考察する論を時折り見かけますが、魏制は魏晋にしか通用しないと見るべきです。

孫皓が即位すると鎮軍大将軍を加えられ、益州牧を兼領した。建衡二年(270)、大司馬施績が卒し、陸抗は信陵・西陵・夷道・楽郷・公安の諸軍事を都督し、楽郷(荊州市松滋東郊)にて治めた。

 抗聞都下政令多闕、憂深慮遠、乃上疏曰:「臣聞コ均則衆者勝寡、力r則安者制危、蓋六國所以兼并於彊秦、西楚所以北面於漢高也。今敵跨制九服、非徒關右之地;割據九州、豈但鴻溝以西而已。國家外無連國之援、内非西楚之彊、庶政陵遲、黎民未乂、而議者所恃、徒以長川峻山、限帶封域、此乃守國之末事、非智者之所先也。臣毎遠惟戰國存亡之符、近覽劉氏傾覆之釁、考之典籍、驗之行事、中夜撫枕、臨餐忘食。昔匈奴未滅、去病辭館;漢道未純、賈生哀泣。況臣王室之出、世荷光寵、身名否泰、與國同慼、死生契闊、義無苟且、夙夜憂怛、念至情慘。夫事君之義犯而勿欺、人臣之節匪躬是殉、謹陳時宜十七條如左。」十七條失本、故不載。

 陸抗は都下の政令に多くが闕けていると聞くと深く憂えて遠くを慮り、上疏した

「徳が均しければ衆が寡に勝り、力がrしければ安が危を制するもの。これこそ六国が彊秦に兼併され、西楚が漢高祖に北面した理由であります。今、敵は九服・九州を制し、それは関右の地や鴻溝以西どころではありません。国家には連国の援も無く、内には西楚の彊勁とて無く、庶政は陵遅(漸衰)し、黎民(百姓)も未だ乂(おさ)まらず、しかも議者が恃むのは、徒らに長川峻山が封域を囲嶢している事で、これは国を守る上での末事であり、智者が優先するものではありません。 臣は戦国存亡の符合や、劉氏傾覆の釁過を思い、典籍から考え、日夜煩悶しております。霍去病は匈奴が滅びていない事を以て賜館を辞退し、賈誼は漢の政道が澄んでいないいない為に哀泣したとか。ましてや臣は王室の出であり、歴世で光寵を荷い、国と慼憂を同じくし、夙夜に憂怛しております。臣事する者の大義は面を犯しても欺かず、人臣の節とは躬を顧みず殉じることです。謹んで時宜十七条を左の通り陳べるものです」

十七条は本文が失われたので載せない。

 時何定弄權、閹官預政;抗上疏曰:「臣聞開國承家、小人勿用、靖譖庸回、唐書攸戒、是以雅人所以怨刺、仲尼所以歎息也。春秋已來、爰及秦・漢、傾覆之釁、未有不由斯者也。小人不明理道、所見既淺、雖使竭情盡節、猶不足任、況其姦心素篤、而憎愛移易哉?苟患失之、無所不至。今委以聰明之任、假以專制之威、而冀雍熙之聲作、肅清之化立、不可得也。方今見吏、殊才雖少、然或冠冕之冑、少漸道教、或清苦自立、資能足用、自可隨才授職、抑黜羣小、然後俗化可清、庶政無穢也。」

 時に何定が大権を弄し、閹官が政事に預かっていた。陸抗は上疏した。

「小人とは靖譛(謀譛)を庸(つね)に回らすので用いてはならぬと、唐堯の時代から戒めていると聞いております。このため『詩』雅篇でも怨刺し、仲尼も歎息してるのです。春秋以来、秦・漢に及ぶまで、傾覆の釁過が未だこれらの者に由来しない事はありません。小人とは道理には不明で、見識も浅く、情を竭くし節を尽そうとも任には足りず、ましてや姦心は素より篤く、憎愛が移り易いのです。(彼らは)失う憂いが生じれば行なわぬ行為などありません。今、聡明の任を委ね、専制の威を仮しながら、雍熙(天下泰平)の声が作され、粛清の教化が立てられる事を望まれようとも得られぬ事です。現今の吏では才覚が小さくとも、或る者は冠冕の冑(歴世の官家)として若くより道に教わり、或る者は清苦しつつ自立して資は用いるに足りる者です。彼らに才に随って職を授け、群子を抑黜すれば、その後に世俗は清く化し、庶政に穢れは無くなりましょう」

 鳳皇元年、西陵督歩闡據城以叛、遣使降晉。抗聞之、日部分諸軍、令將軍左奕・吾彦・蔡貢等徑赴西陵、敕軍營更築嚴圍、自赤谿至故市、内以圍闡、外以禦寇、晝夜催切、如敵以至、衆甚苦之。諸將咸諫曰:「今及三軍之鋭、亟以攻闡、比晉救至、闡必可拔。何事於圍、而以弊士民之力乎?」抗曰:「此城處勢既固、糧穀又足、且所繕修備禦之具、皆抗所宿規。今反身攻之、既非可卒克、且北救必至、至而無備、表裏受難、何以禦之?」諸將咸欲攻闡、抗毎不許。宜都太守雷譚言至懇切、抗欲服衆、聽令一攻。攻果無利、圍備始合。晉車騎將軍羊祜率師向江陵、諸將咸以抗不宜上、抗曰:「江陵城固兵足、無所憂患。假令敵沒江陵、必不能守、所損者小。如使西陵槃結、則南山羣夷皆當擾動、則所憂慮、難可竟言也。吾寧棄江陵而赴西陵、況江陵牢固乎?」

 鳳皇元年(272)、西陵督歩闡が城に拠って叛き、遣使して晋に降った。陸抗はこれを聞くと、その日に諸軍の部隊を分け、将軍の左奕・吾彦・蔡貢らに命じて径(ただち)に西陵に赴かせ、軍営には更めて厳囲を築かせた。赤谿より故市に至るまで、内に対しては歩闡を囲み、外に対しては寇を禦ぎ、昼夜切に催促すること敵が至ったかのようで、人々は甚だ苦しんだ。諸将の或る者が諫めるには、「今、三軍の鋭鋒を用いて亟(すみ)やかに歩闡を攻めれば、晋の救援が至るまでに歩闡は必ず抜けましょう。なぜ囲(陣営)を事として士民の力を疲弊させるのでしょう?」
陸抗 「この城は地勢に拠って既に堅固で、糧穀も又た足りており、しかも備禦の具が繕修されているのは、皆な私がかねて規(さだ)めたものだ。今はかえって身ずからこれを攻めるが、卒(たちまち)には克てないだろうし、しかも北救は必ず至るが、至っても備えが無ければ表裏から難を受け、どうやって禦ぐのか?」
諸将は咸な歩闡を攻めようとしたが、陸抗は事毎に許さなかった。宜都太守雷譚の言辞は懇切の至りであり、陸抗は皆なを服従させようとし、一たび攻めるよう聴許した。攻めても果たして利は無く、囲備は始めて合(完成)した。晋の車騎将軍羊祜は師を率いて江陵に向かい、諸将は咸な陸抗に上流(に居る事は)は宜しくないとした。 陸抗 「江陵城は堅固で兵は足り、憂患する事はない。仮に敵が江陵を没しても必ず守る事はできなくなり、損害は小さい。もし西陵に槃結(蟠居)すれば、南山の群夷が皆な擾動(擾乱)して憂慮となり、難事は言い竟(つく)せなくなる。私は江陵を棄てようとも西陵に赴くだろう。ましてや江陵が牢固であればどうか?」

初、江陵平衍、道路通利、抗敕江陵督張咸作大堰遏水、漸漬平中、以絶寇叛。祜欲因所遏水、浮船運糧、揚聲將破堰以通歩軍。抗聞、使咸亟破之。諸將皆惑、屡諫不聽。祜至當陽、聞堰敗、乃改船以車運、大費損功力。晉巴東監軍徐胤率水軍詣建平、荊州刺史楊肇至西陵。抗令張咸固守其城;公安督孫遵巡南岸禦祜;水軍督留慮・鎮西將軍朱琬拒胤;身率三軍、憑圍對肇。將軍朱喬・營都督兪贊亡詣肇。抗曰:「贊軍中舊吏、知吾虚實者、吾常慮夷兵素不簡練、若敵攻圍、必先此處。」即夜易夷民、皆以舊將充之。明日、肇果攻故夷兵處、抗命旋軍撃之、矢石雨下、肇衆傷死者相屬。肇至經月、計屈夜遁。抗欲追之、而慮闡畜力項領、伺視闌пA兵不足分、於是但鳴鼓戒衆、若將追者。肇衆兇懼、悉解甲挺走、抗使輕兵躡之、肇大破敗、祜等皆引軍還。抗遂陷西陵城、誅夷闡族及其大將吏、自此以下、所請赦者數萬口。脩治城圍、東還樂郷、貌無矜色、謙沖如常、故得將士歡心。

当初、江陵は平衍の地で、道路の通行に利便で、陸抗は江陵督張咸に大いに堰を作って水を遏(さえぎ)らせ、平野の中を漬からせて寇叛を絶えさせた。羊祜は遏水に乗じ、船を浮かべて糧を運ぼうとし、堰を破壊して歩軍を通す事を揚声(喧伝)した。陸抗はこれを聞くと、張咸に亟(すみやか)に破壊させた。諸将は皆な惑い、しばしば諫めたものの聴かなかった。羊祜は当陽に至った処で堰が敗られたと聞き、かくして船を改めて車にて運び、大いに功力を費損した。
晋の巴東監軍徐胤が水軍を率いて建平(巫山方面)に詣り、荊州刺史楊肇は西陵に至った。陸抗は張咸に命じてその城を固守させ、公安督孫遵には南岸を巡って羊祜を禦がせ、水軍督留慮・鎮西将軍朱琬には徐胤を拒がせ、身ずからは三軍を率いて囲に憑いて楊肇と対峙した。将軍朱喬・営都督兪賛が逃亡して楊肇に詣った。陸抗 「兪賛は軍中の旧吏であり、吾が軍の虚実を知っている。私は常に夷兵が素より簡練されていないのを憂慮していた。もし敵が囲を攻めるなら、必ずここを先にするだろう」
即ち夜間に夷民(の配置)を易え、皆な旧将をこれに充てた。明日、楊肇は果たして旧の夷兵の場処を攻めた。陸抗は軍を旋らせてこれを撃ち、矢石は雨と下り、楊肇の軍兵の傷死者が相い属(つづ)いた。楊肇は月を経るに至って、計策が屈して夜間に遁走した。陸抗はこれを追撃しようとしたが、歩闡が項領(要衝)に力を蓄え、間隙を伺視しているのを慮り、兵を分けようにも足りず、こうしてただ鼓を鳴らして軍兵を戒厳し、追撃しようとしているようにした。楊肇の軍兵は兇懼し、悉く甲を解いて挺走し、陸抗は軽兵にこれを追躡させた。楊肇は大いに破敗し、羊祜らは皆な軍を引率して還った。陸抗はかくて西陵城を陥し、歩闡の一族およびその大将や吏を誅夷し、これより以下は請うて数万口が赦された。城・囲を修治し、東のかた楽郷に還ったが、貌には矜色は無く、謙沖(謙虚)な事は平常通りで、そのため将士の歓心を得た[11]

 加拜都護。聞武昌左部督薛瑩徴下獄、抗上疏曰:「夫俊乂者、國家之良寶、社稷之貴資、庶政所以倫敘、四門所以穆清也。故大司農樓玄・散騎中常侍王蕃・少府李勖、皆當世秀穎、一時顯器、既蒙初寵、從容列位、而並旋受誅殛、或圮族替祀、或投棄荒裔。蓋周禮有赦賢之辟、春秋有宥善之義、書曰:『與其殺不辜、寧失不經。』而蕃等罪名未定、大辟以加、心經忠義、身被極刑、豈不痛哉!且已死之刑、固無所識、至乃焚爍流漂、棄之水濱、懼非先王之正典、或甫侯之所戒也。是以百姓哀聳、士民同慼。蕃・勖永已、悔亦靡及、誠望陛下赦召玄出、而頃聞薛瑩卒見逮録。瑩父綜納言先帝、傅弼文皇、及瑩承基、内事シ行、今之所坐、罪在可宥。臣懼有司未詳其事、如復誅戮、益失民望、乞垂天恩、原赦瑩罪、哀矜庶獄、清澄刑網、則天下幸甚!」

 都護を拝命して加えられた。武昌左部督の薛瑩が徴されて下獄したと聞くと、陸抗は上疏した。

「俊乂(俊秀)とは国家にとってまことに貴重な存在です。旧の大司農楼玄・散騎中常侍王蕃・少府李勖は皆な当世の秀穎でしたが、今では皆な罪を蒙って或る者は誅戮され、或る者は族滅され、或る者は流謫されました。『周礼』には“賢は避けて赦す”というものがあり、『春秋』には“善を宥す義”があり、『書経』は“不辜を殺すより不経(無法者)を失せよ”と云います。王蕃らは忠義の者でありながら罪名も定まらぬまま殺されました。痛ましい事です! その屍骸を焚爍流漂したり水浜に棄てるのは先王の正典にも外れるもので、古えの甫侯[※]が戒めた事でもあり、百姓は哀聳して士民は慼(うれ)いを同じくしております。どうかせめて生存している楼玄を赦して召し出されん事を。
 この頃は薛瑩が俄かに逮録されたとか。薛瑩の父の薛綜は先帝の納言であり、文皇(孫和)を傅弼した者で、薛瑩も父業を承けて精励してまいりました。事に坐しているとはいえ、罪は宥されるべきです。有司が機微に疎く、誅戮するような事があれば、民望が益々失われる事を懼れるものであります。どうか天恩を垂れて薛瑩の罪を原赦し、併せて庶獄に哀矜されん事を!」

※ 初めて成文の刑法を定めたとされる周穆王の大臣。

 時師旅仍動、百姓疲弊、抗上疏曰:「臣聞易貴隨時、傳美觀釁、故有夏多罪而殷湯用師、紂作淫虐而周武授鉞。苟無其時、玉臺有憂傷之慮、孟津有反斾之軍。今不務富國強兵、力農畜穀、使文武之才效展其用、百揆之署無曠厥職、明黜陟以誌寺噤A審刑罰以示勸沮、訓諸司以コ、而撫百姓以仁、然後順天乘運、席卷宇内、而聽諸將徇名、窮兵黷武、動費萬計、士卒彫瘁、寇不為衰、而我已大病矣!今爭帝王之資、而昧十百之利、此人臣之姦便、非國家之良策也。昔齊魯三戰、魯人再克而亡不旋踵。何則?大小之勢異也。況今師所克獲、不補所喪哉?且阻兵無衆、古之明鑒、誠宜蹔息進取小規、以畜士民之力、觀釁伺隙、庶無悔吝。」

 時に師旅がしきりに動き、百姓は疲弊した。陸抗は上疏した。

「『易』は時に随う事を貴び、『左伝』は虚を観ることを美とするとか。だから夏王朝の罪が多くなって殷の湯王は師を用い、紂王が淫虐を為してから周の武王は鉞を授かったのです。今、富国強兵や力農畜穀、人材の挙用や賞罰の明確化によって百姓を按撫し、その後に天運に順い乗じれば海内を席捲できるのに、そう務めずに、諸将は名声を追って徒らに兵を用いて武を黷し、費用ばかり嵩んで士卒は疲弊し、我が方だけが大いに病んでおります! これらは姦臣によるもので、国家にとって良策ではありません。昔、斉と魯が三たび戦い、魯人が二勝したのに程なく滅びました。何故なら国力に差があったのです。ましてや今の軍事で獲られるものが欠を補わないのです。しかも兵を阻(たの)めば民意を無くすというのは、古えの明らかな鑑であり、どうか暫くは士民の力を養われん事を」

 二年春、就拜大司馬・荊州牧。三年夏、疾病、上疏曰:「西陵・建平、國之蕃表、既處下流、受敵二境。若敵汎舟順流、舳艫千里、星奔電邁、俄然行至、非可恃援他部以救倒縣也。此乃社稷安危之機、非徒封疆侵陵小害也。臣父遜昔在西垂陳言、以為西陵國之西門、雖云易守、亦復易失。若有不守、非但失一郡、則荊州非呉有也。如其有虞、當傾國爭之。臣往在西陵、得渉遜迹、前乞精兵三萬、而〔主〕者循常、未肯差赴。自歩闡以後、益更損耗。今臣所統千里、受敵四處、外禦彊對、内懷百蠻、而上下見兵財有數萬、羸弊日久、難以待變。臣愚以為諸王幼沖、未統國事、可且立傅相、輔導賢姿、無用兵馬、以妨要務。又黄門豎宦、開立占募、兵民怨役、逋逃入占。乞特詔簡閲、一切料出、以補疆埸受敵常處、使臣所部足滿八萬、省息衆務、信其賞罰、雖韓・白復生、無所展巧。若兵不掾A此制不改、而欲克諧大事此臣之所深慼也。若臣死之後、乞以西方為屬。願陛下思覽臣言、則臣死且不朽。」

 二年(273)春、大司馬・荊州牧を就拝した。三年夏、疾を病病み、上疏した。

「西陵・建平は国の蕃表(国境の門戸)であり、下流に位置するようになって二境に敵を受けております。もし敵が船を汎(う)かべて流れに順えば、舳艫は千里を星奔電邁し、たちまちに行きて至り、倒懸を救う他部の援軍を恃む事はできません。これは社稷の安危の機であり、封疆が侵陵されるという小害ではありません。
臣の父の陸遜がかつて西垂(西辺)に在って陳言するには、“西陵は国の西門であり、易守とはいえ亦た易失である。もし守れなければただ一郡を失うだけではなく、荊州が呉の所有でなくなる。それを虞れるなら、国を傾けて争わねばならぬ”と。臣はかつて西陵に在り、陸遜の迹を承け、前に精兵三万を乞うた処、主者は常法に循って肯んじませんでした。歩闡より以後、更に損耗は益しております。今、臣が統べる千里は四処で敵を受け、外は強敵を禦ぎ、内は百蛮を抱え、しかも上下の兵力は都合数万で、羸弊して久しく、変事に対処するのは困難です。臣が愚考するに諸王は幼沖であり、未だに国事を統べる事はできません。まずは傅相を立てて輔導し、兵馬を用いて要務を妨げられん事を
 又た黄門・豎宦が占募(募兵)を開立しましたが、兵民とも徭役を怨み、占募に逃入しております。どうか特に詔して占募から簡抜し、疆埸(辺境)で常に敵を受けている処を補い、臣の部にも八万を足されん事を。又た衆務を省息し、賞罰を明らかにすれば、韓信・白起が復生したとしても巧くは展べられますまい。もし兵を増さず、制度を改めないまま大事を叶えようとしているのなら、それは臣の深く憂慼する事です。臣の死後の西方を嘱託するものであります」

 秋遂卒、子晏嗣。晏及弟景・玄・機・雲・分領抗兵。晏為裨將軍・夷道監。天紀四年、晉軍伐呉、龍驤將軍王濬順流東下、所至輒克、終如抗慮。景字士仁、以尚公主拜騎都尉、封毗陵侯、既領抗兵、拜偏將軍・中夏督、澡身好學、著書數十篇也。二月壬戌、晏為王濬別軍所殺。癸亥、景亦遇害、時年三十一。景妻、孫晧適妹、與景倶張承外孫也。

 秋に遂に卒した。子の陸晏が嗣いだ。陸晏および弟の陸景・陸玄・陸機・陸雲は陸抗の兵を分領した。陸晏は裨将軍・夷道監となった。天紀四年(280)、晋軍が呉を伐ち、龍驤将軍王濬が流れに順って東下し、至る所でことごとく克ち、終に陸抗の憂慮の通りになった。
 陸景、字は士仁。公主を尚(めと)って騎都尉を拝命し、毗陵侯に封じられた。陸抗の兵を領した後、偏将軍・中夏督を拝命した。身は澡(きよ)く学問を好み、著書は数十篇だった[12]。二月壬戌、陸晏は王濬の別軍に殺された。癸亥、陸景も亦た害に遇い、時に齢三十一だった。陸景の妻は孫皓の嫡妹で、陸景と倶に張承の外孫でもあった[13]
 陸抗伝の殆どが上疏で構成されておりますが、それに対する孫皓や朝廷・社会のリアクションが一切記載されておりません。個人的には、「孫皓の治世はダメダメだった」というのを、陸抗に語らせる事で信憑性を益そうとしているように見えます。例えば天紀三年の遺言的な上疏に諸王に言及したものがあり、あれは孫皓の末期に、二度に分けて計二十二王を立てて各々に三千の兵を給した事を諷諫したように見せていますが、後段で八万の兵を要求したあたりに創作臭が漂います。正直、晋人の都合を強く反映したらしい上疏を根拠に孫皓の治世を構築するのは思う壺で、その殆どをスルーした方が、過剰修飾が削ぎ落されて“陸抗”の伝記も成立すると考えます。
   
[11] 陸抗と羊祜とは子産・季札の交誼を推した。陸抗が嘗て羊祜に酒を遺った処、羊祜はこれを飲んで疑わなかった。陸抗に疾が生じると、羊祜は薬を饋(おく)り、陸抗も亦た赤心を推してこれを服用した。当時、華元子反が復た今に出見したと謂われた。 (『晋陽秋』)
―― 羊祜は還った後、徳信を修める事を増し、呉人を懐かせた。陸抗が事毎にその辺戍に告げるには 「彼が専ら徳を為し、我が専ら暴を為しては、これは戦わずして服すようなものだ。各々分界を保ち、細益を求めてはならない」 こうして呉・晋の間では、余糧を畝に栖しても犯さず、牛馬が逸れて入境しても、宣告して取るようになった。沔水の辺での狩猟では、呉の獲物が晋人が先んじて傷つけたものは、皆な送って還した。陸抗が嘗て疾した折、薬を羊祜に求め、羊祜は調合してこれを与えたが、「これは上薬であり、近ごろ始めて自作したもので、未だ服用した事がない。君の疾が急しいというので送るのだ」 陸抗は得るやこれを服用し、諸将の或る者は諫めたが、陸抗は答えなかった。
 孫晧は二境の交和を聞くと、陸抗を詰問した。陸抗 「一邑一郷にも信義の人が無いという事はありません。ましてや大国ではどうでしょう? 臣がこの様にしなければ、その徳を顕彰するだけになってしまい、羊祜の損傷とはなりません」 或る者は羊祜・陸抗が臣節を失ったとし、両方を譏った。 (『漢晋春秋』)

 やりすぎ感満載の『漢晋春秋』ですが、以下の“習鑿歯曰く〜”とでワンセットです。『晋陽秋』をさらに潤色した内容ですが、習鑿歯が持論を展開する為に自ら潤色したのではないかと疑ってしまう一作です。

―― 習鑿歯曰く:理や信義で事を行なう者こそ世に支持されるのだ。大道が喪われ、義が沈淪し、詐術や権略が横行し、力を恃んで縦横する人や牧豎の小智を用いる者でも、道・義によらねば成功などできない。だから晋文公が一舍を退くと原城は開城し、中行穆子は鼓城を囲みながらも(城内の者に)努める事を訓示し、(敵をも厚遇させる)冶夫の建策によって費人は(季平子に)帰し、楽毅は攻撃を緩くしたので風烈(遺風と勲功)は長らく流布したのだ。威力や詐術だけで成功はできないのだ!
三国が鼎立して四十有余年となり、呉人は淮河・沔水を越える事すらできず、中国でも長江を越えてまで争える者は無く、力・智とも均rして、道も相手を傾覆させるには足りなかった。相手を潰す事より、こちらを有利にして(相手を)残(そこな)わない方が優っている。武威より徳なのだ。匹夫すらそうだ。ましてや一国ではどうか? 力による服従より徳による来降なのだ。制する事ができないのなら尚更ではないか?
このため羊祜は大同の思想を計略したのだ。民人を斉しく視て恩沢を均しく施し、義の網によって彊呉を覆い、兼愛によって暴俗を改革し、生民の思考を易え、不戦を江表に馳せたのだ。だからその策は徳音として波及し、人々は襁負して雲集した。呉の遇った敵で未だこのような者は無かった。陸抗は自国が小国で主は暴虐であるのに、晋は徳をいよいよ昌んにし、彼我の差異は歴然として、民衆が敵の徳に懐いて主を棄てる事を憂慮した。だから内外を寧んじ、危弱にあって上国に抗う方策として同じ道を採ったのだ。そうすれば士衆の力を労さずして居ながらに国を保ち、信義で敵を感動させる事ができ、その赤心は陸抗に具わっていた。どうして虚名を貪って相手に重んじられる為に行ない、備えをしなかった事があろうか!
 威力や詐術で事を行なうのは小人の方法で、明哲の賤しむ事である。賢人君子が拯世(救世)のために垂範し、これを捨てて彼を取るのは、その道が良弘であるからなのだ。

 力押しや詐術が愚策で、徳や義によって行なう事こそが世の大道であり成功の秘訣であるという事を、修飾しまくった結果の文章です。逐語訳すると倍くらいの長さになります。謂うまでもなく、陸抗に仮託してモロに桓温を諫める為に書かれたものです。

[12] 陸景の母は張承の娘で、諸葛恪の外姪でもある。諸葛恪が誅されると、陸景の母も坐して廃黜(離縁)された。陸景はそのため祖母に養われ、祖母が亡くなるに及び、陸景は三年の心喪に服した。 (『文士伝』)
[13] 陸景の弟の陸機は字を士衡といい、陸雲は字を士龍といった。
―― 晋の太康の末に倶に入洛し、司空張華を訪れ、張華は一見してこれを奇才とし、「伐呉の役の利は二儁を獲た事だ」。 かくて誉を(世に)延べ、諸侯に薦めた。太傅楊駿が陸機を辟して祭酒とし、太子洗馬・尚書著作郎に転じた。陸雲は呉王の郎中令となり、転出して浚儀の県宰となり、甚だ恵政を行なって吏民が懐き生祠を立てた。後に揃って顕位を歴任した。
陸機の天才は綺練の如く、文藻は美麗で、当時の独冠だった。陸雲も亦た属文に善く、清新さでは陸機に及ばなかったが、口弁での議論では優った。当時の朝廷では事が多く、陸機・陸雲は揃って自ら成都王穎と結んだ。司馬穎は陸機を用いて平原相とし、陸雲を清河内史とした。ついで陸雲は右司馬に転じ、甚だ委任された。
幾許も無く(成都王は)長沙王と隙を構え、遂に挙兵して洛陽を攻め、陸機を行後将軍とし、王粋・牽秀ら諸軍二十万を督させた。陸士龍は『南征賦』を著して賛美した。陸機は呉人であり、羇旅に在って単宦(単独)で、群士の右に置かれた事で多くが厭服(服従)しなかった。陸機はしばしば戦って利を失い、死者・逃散は半ばを越えた。かねて宦人の孟玖は司馬穎に嬖幸され、寵に乗じて権に与り、陸雲はしばしばその失点を言上したが、司馬穎は納れられず、孟玖も又たこれによって毀議した。 この戦役では孟玖の弟の孟超も亦た軍兵を領して陸機に配属したが、軍令を奉じなかった。陸機が軍法によって捕縛した処、孟超が言葉を宣べるには 「陸機が反こうとしている」 と。牽秀らは陸機を司馬穎に讒譖して両端を持していると云い、孟玖も又た内廷で搆陥するに及び、司馬穎はこれを信じ、陸機を収捕させ、併せて陸雲および弟の陸耽も収捕し、揃って法に伏した。
 陸機の兄弟は江南の俊秀であり、亦た諸夏でも著名で、揃って無罪で夷滅された事を天下は痛惜した。陸機の文章は世に重んじられ、陸雲の著作も亦た世に伝わった。嘗て陸抗が歩闡に克った折、誅は嬰孩にも及び、道を識る者は 「後世に必ずその殃(わざわい)を受けよう!」 と尤(とが)めた。陸機が誅されるに及び、三族に遺胤は無くなった。孫恵が朱誕に与えた書簡には 「馬援が君を択んだ事は凡その人が聞いている。三陸が暴朝に相い携え、身を殺して名を傷うとは意わなかった。悼み歎るべき事だ」 事は亦た揃って『晋書』に在る。 (『陸機陸雲別伝』)
 

 評曰:劉備天下稱雄、一世所憚、陸遜春秋方壯、威名未著、摧而克之、罔不如志。予既奇遜之謀略、又歎權之識才、所以濟大事也。及遜忠誠懇至、憂國亡身、庶幾社稷之臣矣。 抗貞亮籌幹、咸有父風、奕世載美、具體而微、可謂克構者哉!

 評に曰く:劉備は天下に雄を称され、一世に憚られたが、陸遜は春秋のまさに壮なる時、威名は未だ著しくはなかったが、摧いてこれに克ち、志の如くならぬものは罔かった。予は陸遜の謀略を奇とし、又た孫権が才を識って大事を済(と)げた事を歎ず。陸遜の忠誠は懇切の至りで、国を憂えて身を亡ぼし、社稷の臣たるに庶幾(限りない接近)した。 陸抗の貞亮籌幹は咸な父の遺風があり、奕世(歴世)の美を載(かさ)ね、体(おおむね)を具えつつ微(ややちい)さかったが、よく構じた者と謂ってよかろう!

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