陸遜字伯言、呉郡呉人也。本名議、世江東大族。遜少孤、隨從祖廬江太守康在官。袁術與康有隙、將攻康、康遣遜及親戚還呉。遜年長於康子績數歳、為之綱紀門戸。
『三國志』では魏志は陸議だったり陸遜だったりで、蜀志は全て陸議、呉志は周魴伝の一ヶ所を除いて陸遜の表記です。そもそも蜀志では猇亭の役でしか出てこないので、両名を併用している魏志を参照すると、どうも228〜234年頃に改名したようです。ただ、魏では情報をなかなか共有できず、明帝紀の青龍二年(234)にも陸議との表記が残ってしまっています。
陸遜は少くして孤となり、従祖父(祖父の兄弟)である廬江太守陸康が官に在るのに随った。袁術が陸康と隙を有して陸康を攻めようとした時、陸康は陸遜および親戚を遣って呉に還した。陸遜の年齢は陸康の子の陸績に長じること数歳であり、この為に門戸を綱紀した。 陸遜は245年に63歳で歿しているので、廬江陥落の当時は12〜13歳となり、一族を束ねられるような年齢とは思えません。『三國志』呉志は韋昭『呉書』をあまり校訂せずに流用している節があるので、陸遜の家が本家より本家然としていた事から、韋昭がそれっぽく挿入したのではないでしょうか。
『後漢書』陸康伝によれば、孫策による廬江攻囲は歳を跨ぎ、城内は惨憺たる有様で、陸康は開城して一月余で歿したそうです。間違いなく心労と過労と不摂生が重なった衰弱死でしょう。孫討逆伝を読む限り、孫策は「オレをシカトしたお礼参りだぜ」のノリです。
孫權為將軍、遜年二十一、始仕幕府、歴東西曹令史、出為海昌屯田都尉、並領縣事。縣連年亢旱、遜開倉穀以振貧民、勸督農桑、百姓蒙ョ。時呉・會稽・丹楊多有伏匿、遜陳便宜、乞與募焉。會稽山賊大帥潘臨、舊為所在毒害、歴年不禽。遜以手下召兵、討治深險、所向皆服、部曲已有二千餘人。鄱陽賊帥尤突作亂、復往討之、拜定威校尉、軍屯利浦。
孫権が将軍になったのは建安五年(200)で、陸遜の出仕は203年です。21歳での出仕は遅くはありませんが如何にも中途半端で、この時まで孫権の将来性を値踏みしていたものと考えられます。この歳は孫権が豫章方面の経略を開始しているので、それと関係があるのかもです。
県は連年の亢旱(大旱魃)であり、陸遜は官倉を開いて穀糧を貧民に振恤し、農桑を勧督し、百姓は頼(さいわい)を蒙った。時に呉・会稽・丹楊には伏匿(の人口)が多く、陸遜は便宜(の計)を陳べ、募兵せんと乞うた。会稽の山賊大帥の潘臨は、旧(かね)て所在の毒害を為し、歴年禽われなかった。陸遜は手下の召募兵にて深険を討治し、向かう所は皆な服し、部曲として已に二千余人を有した。鄱陽賊帥の尤突が乱を作すと、復た往って(奮武将軍賀斉と与に)これを討ち、定威校尉を拝受し、軍は利浦(当利浦)に駐屯した。權以兄策女配遜、數訪世務、遜建議曰:「方今英雄棊跱、豺狼闚望、克敵寧亂、非衆不濟。而山寇舊惡、依阻深地。夫腹心未平、難以圖遠、可大部伍、取其精鋭。」權納其策、以為帳下右部督。會丹楊賊帥費棧受曹公印綬、扇動山越、為作内應、權遣遜討棧。棧支黨多而往兵少、遜乃益施牙幢、分布鼓角、夜潛山谷間、鼓譟而前、應時破散。遂部伍東三郡、彊者為兵、羸者補戸、得精卒數萬人、宿惡盪除、所過肅清、還屯蕪湖。
尤突と費棧はどちらも曹操の同じ計略によって蜂起したもので、殆ど間を措かずに発生したか、もしくはこちらでは尤突討伐の結果に言及されていない事から、途中で賀斉と担当を分けたものかと思われます。
會稽太守淳于式表遜枉取民人、愁擾所在。遜後詣都、言次、稱式佳吏、權曰:「式白君而君薦之、何也?」遜對曰:「式意欲養民、是以白遜。若遜復毀式以亂聖聽、不可長也。」 權曰:「此誠長者之事、顧人不能為耳。」
呂蒙稱疾詣建業、遜往見之、謂曰:「關羽接境、如何遠下、後不當可憂也?」蒙曰:「誠如來言、然我病篤。」遜曰:「羽矜其驍氣、陵轢於人。始有大功、意驕志逸、但務北進、未嫌於我、有相聞病、必益無備。今出其不意、自可禽制。下見至尊、宜好為計。」蒙曰:「羽素勇猛、既難為敵、且已據荊州、恩信大行、兼始有功、膽勢益盛、未易圖也。」蒙至都、權問:「誰可代卿者?」蒙對曰:「陸遜意思深長、才堪負重、觀其規慮、終可大任。而未有遠名、非羽所忌、無復是過。若用之、當令外自韜隱、内察形便、然後可克。」權乃召遜、拜偏將車右部督代蒙。
遜至陸口、書與羽曰:「前承觀釁而動、以律行師、小舉大克、一何巍巍!敵國敗績、利在同盟、聞慶拊節、想遂席卷、共獎王綱。近以不敏、受任來西、延慕光塵、思稟良規。」又曰:「于禁等見獲、遐邇欣歎、以為將軍之勳足以長世、雖昔晉文城濮之師、淮陰拔趙之略、蔑以尚茲。聞徐晃等少騎駐旌、闚望麾葆。操猾虜也、忿不思難、恐潛搶O、以逞其心。雖云師老、猶有驍悍。且戰捷之後、常苦輕敵、古人杖術、軍勝彌警、願將軍廣為方計、以全獨克。僕書生疏遲、忝所不堪、喜鄰威コ、樂自傾盡、雖未合策、猶可懷也。儻明注仰、有以察之。」羽覽遜書、有謙下自託之意、意大安、無復所嫌。遜具啓形状、陳其可禽之要。權乃潛軍而上、使遜與呂蒙為前部、至即克公安・南郡。遜徑進、領宜都太守、拜撫邊將軍、封華亭侯。備宜都太守樊友委郡走、諸城長吏及蠻夷君長皆降。遜請金銀銅印、以假授初附。是歳建安二十四年十一月也。
文中に同盟だとか曹操が敵だとか、217年に曹操に臣従表明した者とは思えない表現を使っていますが、恐らく孫権は劉備もしくは関羽に対しては二枚舌外交である事を伝えていたのでしょう。でなければ南郡方面に守備隊を置いていたとはいえ、成都に援軍を求めもせずに襄樊を攻略するのは如何に関羽とはいえ無謀に過ぎます。又た関羽の性格としては孫呉のこの外交方針そのものが腹立たしいものだったので、つい孫権からの通婚の使者を怒鳴りつけてしまったのではないかと思われます。
遜遣將軍李異・謝旌等將三千人、攻蜀將・晏・陳鳳。異將水軍、旌將歩兵、斷絶險要、即破晏等、生降得鳳。又攻房陵太守ケ輔・南郷太守郭睦、大破之。秭歸大姓文布・ケ凱等合夷兵數千人、首尾西方。遜復部旌討破布・凱。布・凱脱走、蜀以為將。遜令人誘之、布帥衆還降。前後斬獲招納、凡數萬計。權以遜為右護軍・鎮西將軍、進封婁侯。
房陵(十堰市房県)は漢中郡から、南郷(南陽市浙川南界)は南陽郡から分置したもの。秭帰(宜昌市区)は南郡の属県。この陸遜の軍事により、呉が襄陽を占拠する事態に発展します。
陸遜は復た謝旌を率いて文布・ケ凱を討破し、文布・ケ凱は脱れ走り、蜀が将とした。陸遜は人にこれを誘わせ、文布は手勢を帥いて還降した。前後して斬獲・招納した者は凡そ数万を数えた。孫権は陸遜を右護軍・鎮西将軍とし、婁侯に進封した[3]。時荊州士人新還、仕進或未得所、遜上疏曰:「昔漢高受命、招延英異、光武中興、羣俊畢至、苟可以熙隆道教者、未必遠近。今荊州始定、人物未達、臣愚慺慺、乞普加覆載抽拔之恩、令並獲自進、然後四海延頸、思歸大化。」權敬納其言。
黄武元年、劉備率大衆來向西界、權命遜為大都督・假節、督朱然・潘璋・宋謙・韓當・徐盛・鮮于丹・孫桓等五萬人拒之。備從巫峽・建平連圍至夷陵界、立數十屯、以金錦爵賞誘動諸夷、使將軍馮習為大督、張南為前部、輔匡・趙融・廖淳・傅肜等各為別督、先遣呉班將數千人於平地立營、欲以挑戰。諸將皆欲撃之、遜曰:「此必有譎、且觀之。」備知其計不可、乃引伏兵八千、從谷中出。遜曰:「所以不聽諸君撃班者、揣之必有巧故也。」遜上疏曰:「夷陵要害、國之關限、雖為易得、亦復易失。失之非徒損一郡之地、荊州可憂。今日爭之、當令必諧。備干天常、不守窟穴、而敢自送。臣雖不材、憑奉威靈、以順討逆、破壞在近。尋備前後行軍、多敗少成、推此論之、不足為戚。臣初嫌之、水陸倶進、今反舍船就歩、處處結營、察其布置、必無他變。伏願至尊高枕、不以為念也。」諸將並曰:「攻備當在初、今乃令入五六百里、相銜持經七八月、其諸要害皆以固守、撃之必無利矣。」遜曰:「備是猾虜、更嘗事多、其軍始集、思慮精專、未可干也。今住已久、不得我便、兵疲意沮、計不復生、掎角此寇、正在今日。」乃先攻一營、不利。諸將皆曰:「空殺兵耳。」遜曰:「吾已曉破之之術。」乃敕各持一把茅、以火攻拔之。一爾勢成、通率諸軍同時倶攻、斬張南・馮習及胡王沙摩柯等首、破其四十餘營。備將杜路・劉寧等窮逼請降。備升馬鞍山、陳兵自繞。遜督促諸軍四面蹙之、土崩瓦解、死者萬數。備因夜遁、驛人自擔、燒鐃鎧斷後、僅得入白帝城。其舟船器械、水歩軍資、一時略盡、尸骸漂流、塞江而下。備大慚恚、曰:「吾乃為遜所折辱、豈非天邪!」
初、孫桓別討備前鋒於夷道、為備所圍、求救於遜。遜曰:「未可。」諸將曰:「孫安東公族、見圍已困、奈何不救?」遜曰:「安東得士衆心、城牢糧足、無可憂也。待吾計展、欲不救安東、安東自解。」及方略大施、備果奔潰。桓後見遜曰:「前實怨不見救、定至今日、乃知調度自有方耳。」
當禦備時、諸將軍或是孫策時舊將、或公室貴戚、各自矜恃、不相聽從。遜案劍曰:「劉備天下知名、曹操所憚、今在境界、此彊對也。諸君並荷國恩、當相輯睦、共翦此虜、上報所受、而不相順、非所謂也。僕雖書生、受命主上。國家所以屈諸君使相承望者、以僕有尺寸可稱、能忍辱負重故也。各在其事、豈復得辭!軍令有常、不可犯矣。」及至破備、計多出遜、諸將乃服。權聞之、曰:「君何以初不啓諸將違節度者邪?」遜對曰:「受恩深重、任過其才。又此諸將或任腹心、或堪爪牙、或是功臣、皆國家所當與共克定大事者。臣雖駑懦、竊慕相如・寇恂相下之義、以濟國事。」權大笑稱善、加拜遜輔國將軍、領荊州牧、即改封江陵侯。
この猇亭の役では、孫呉陣営で赤壁の時の周瑜と程普の確執が再現されました。周瑜と程普の確執は外様と譜代の対立であり、陸遜と朱然ら諸将との確執は、孫権の私臣に対する宿将の反感に近いものがあります。そもそも孫権がなぜ陸遜を大督に抜擢したのかが理解に苦しむ処です。関羽攻略に先んじて呂蒙が陸遜を後任に推してはいますが、あれは関羽問題についての後継指名としか見えません。その後に鎮西将軍となっているのは対蜀防衛を任されたと見做せますが、荊州防衛という観点なら、同年輩ながらも家としての貢献度も実績も上で、南郡太守でもあり、さらに呂蒙に後継指名された朱然の方が相応です。
陸遜の才能を孫権が高く評価したというのも勿論あるでしょうが、寧ろ孫権が、大姓出身でありながら自身の私臣的な存在の陸遜に箔をつけ、孫呉集団の中での自分の影響力を高めようとしたように思えます。
又備既住白帝、徐盛・潘璋・宋謙等各競表言備必可禽、乞復攻之。權以問遜、遜與朱然・駱統以為曹丕大合士衆、外託助國討備、内實有姦心、謹決計輒還。無幾、魏軍果出、三方受敵也。
孫権が曹魏への入質を拒否った結果の南征です。陸遜は江陵侯と謂いつつ西陵で蜀に備えて動かず、江陵では朱然が年越し籠城の末に魏軍を撃退します。
備尋病亡、子禪襲位、諸葛亮秉政、與權連和。時事所宜、權輒令遜語亮、并刻權印、以置遜所。權毎與禪・亮書、常過示遜、輕重可否、有所不安、便令改定、以印封行之。
これが“孫権からの白紙委任状”です。信頼の発露ではありますが、蜀との折衝権を全面的に預けられたとか、荊州の独自裁量を認められたとか、そういったスケールのものではありません。
七年、權使鄱陽太守周魴譎魏大司馬曹休、休果舉衆入皖、乃召遜假黄鉞、為大都督、逆休。休既覺知、恥見欺誘、自恃兵馬精多、遂交戰。遜自為中部、令朱桓・全j為左右翼、三道倶進、果衝休伏兵、因驅走之、追亡逐北、徑至夾石、斬獲萬餘、牛馬騾驢車乘萬兩、軍資器械略盡。休還、疽發背死。諸軍振旅過武昌、權令左右以御蓋覆遜、入出殿門、凡所賜遜、皆御物上珍、於時莫與為比。遣還西陵。
黄龍元年、拜上大將軍・右都護。是歳、權東巡建業、留太子・皇子及尚書九官、徴遜輔太子、並掌荊州及豫章三郡事、董督軍國。時建昌侯慮於堂前作闘鴨欄、頗施小巧、遜正色曰:「君侯宜勤覽經典以自新益、用此何為?」慮即時毀徹之。射聲校尉松於公子中最親、戲兵不整、遜對之髠其職吏。南陽謝景善劉廙先刑後禮之論、遜呵景曰:「禮之長於刑久矣、廙以細辯而詭先聖之教、皆非也。君今侍東宮、宜遵仁義以彰コ音、若彼之談、不須講也。」
「掌荊州及豫章三郡事、董督軍國」 というのが厄介です。呉の督は太守や令長を兼ねる事も多く、董督=統督となれば、この時の陸遜は荊州および豫章三郡の諸軍事と牧と太守を兼ねている、文字通りの西面総督だと思うじゃないですか? ところがどうやら豫章三郡に対しては都督権しか持っていなかったようで、この事は嘉禾六年(237)に陸遜の反対を排して鄱陽での徴兵が強行された事が傍証になるかと思われます。又た公安には大将軍・左都護の諸葛瑾が、南郡には車騎将軍・右護軍の朱然が常駐し、更には歩隲が驃騎将軍・左護軍として西陵に置かれ、陸遜に荊州の全権が集中しないような配慮が施されていました。
時に建昌侯孫慮は堂前に闘鴨の欄(柵)を作り、頗る小巧を施していた。陸遜は色を正し、「君侯は経典をご覧になって自ら新たに益す事に勤めるべきであるのに、この様なものを用いてどうなさいます?」 孫慮は即時にこれを毀徹した。射声校尉孫松は公子の中でも最も親愛されており、戯れて兵を整えなかった。陸遜はこれに対えてその職吏を髠に処した。遜雖身在外、乃心於國、上疏陳時事曰:「臣以為科法嚴峻、下犯者多。頃年以來、將吏罹罪、雖不慎可責、然天下未一、當圖進取、小宜恩貸、以安下情。且世務日興、良能為先、自〔非〕姦穢入身、難忍之過、乞復顯用、展其力效。此乃聖王忘過記功、以成王業。昔漢高舍陳平之愆、用其奇略、終建勳祚、功垂千載。夫峻法嚴刑、非帝王之隆業;有罰無恕、非懷遠之弘規也。」
權欲遣偏師取夷州及朱崖、皆以諮遜、遜上疏曰:「臣愚以為四海未定、當須民力、以濟時務。今兵興歴年、見衆損減、陛下憂勞聖慮、忘寢與食、將遠規夷州、以定大事、臣反覆思惟、未見其利、萬里襲取、風波難測、民易水土、必致疾疫、今驅見衆、經渉不毛、欲益更損、欲利反害。又珠崖絶險、民猶禽獸、得其民不足濟事、無其兵不足虧衆。今江東見衆、自足圖事、但當畜力而後動耳。昔桓王創基、兵不一旅、而開大業。陛下承運、拓定江表。臣聞治亂討逆、須兵為威、農桑衣食、民之本業、而干戈未戢、民有飢寒。臣愚以為宜育養士民、ェ其租賦、衆克在和、義以勸勇、則河渭可平、九有一統矣。」權遂征夷州、得不補失。
「臣が愚考しますに、四海は未だ定まらず、まさに民力を用いて事を成すべきです。今、軍事が連続して兵は損減し、陛下が心労の末に夷州に遠征して兵を求めようとする気持ちも解ります。ですがその利点は見えず、難破の危険が付きまとい、しかも風土が変われば疫病を生じましょう。今回の事は不毛を経渉し、損失・損害が増す未来しか見えません。しかも珠崖(雷州半島)は絶遠の険阻で、民は禽獣のようであり、その民や兵を得ても用を為しますまい。今、江東に足りないのは軍兵ではなく、力を蓄養する時間です。昔、桓王(孫策)が創業した折、兵は一旅[※]に満たず、それでも大業を開かれました。陛下には天運があり、既に江表を拓定されたのです。治乱討逆には兵威は必要ではありますが、干戈が戢(や)まねば、農桑衣食を本業とする民の中にも飢寒する者が生じましょう。臣が愚考しますに士民を育養し、その租賦をェくし、衆はよく和親し、義によって勇を勧めるのが妥当で、そうすれば黄河・渭河を平らげ、九州は一統されましょう」
孫権は遂に夷州に遠征し、得たものは損失を補わなかった。※ 部・曲の下部単位。500人隊。屯とも。
及公孫淵背盟、權欲往征、遜上疏曰:「淵憑險恃固、拘留大使、名馬不獻、實可讎忿。蠻夷猾夏、未染王化、鳥竄荒裔、拒逆王師、至令陛下爰赫斯怒、欲勞萬乘汎輕越海、不慮其危而渉不測。方今天下雲擾、羣雄虎爭、英豪踊躍、張聲大視。陛下以神武之姿、誕膺期運、破操烏林、敗備西陵、禽羽荊州、斯三虜者當世雄傑、皆摧其鋒。聖化所綏、萬里草偃、方蕩平華夏、總一大猷。今不忍小忿、而發雷霆之怒、違垂堂之戒、輕萬乘之重、此臣之所惑也。臣聞志行萬里者、不中道而輟足;圖四海者、匪懷細以害大。彊寇在境、荒服未庭、陛下乘桴遠征、必致闚覦、慼至而憂、悔之無及。若使大事時捷、則淵不討自服;今乃遠惜遼東衆之與馬、奈何獨欲捐江東萬安之本業而不惜乎?乞息六師、以威大虜、早定中夏、垂耀將來。」權用納焉。
いつの時代の形容なんだよ…。どう考えても3、40年前に使われた常套句です。この上疏とやらも韋昭が並行作業で創作したものですか?
陛下は神武により、烏林で曹操を破り、西陵で劉備を敗り、荊州で関羽を禽えました。当世の雄傑たる三者の鋭鋒を摧いたのです。拍手! いずれ聖化が行なわれれば万里の彼方までひれ伏し、華夏も平定されましょう。今、つまらぬ事に忿られているのは、万里を行く者が中道で留まらず、四海を図る者が細事に拘らないという事に背くものです。辺境が定まっていないのに陛下が船に乗って遠征すれば、きっと闚覦(分不相応の野心)する者が現れて憂いをなし、悔やんでも及ばなくなりましょう。もし大事が成されれば、公孫淵は討たなくとも服して参ります。遼東の人民と馬を惜しんでいる場合ではありません。江東という本業はどうなさるのです? 今は六師を休息させて大虜を威圧し、早々に中夏を定めて将来に輝きを垂れるのです」 嘉禾五年三年、權北征、使遜與諸葛瑾攻襄陽。遜遣親人韓扁齎表奉報、還、遇敵於沔中、鈔邏得扁。瑾聞之甚懼、書與遜云:「大駕已旋、賊得韓扁、具知吾闊狹。且水乾、宜當急去。」 遜未答、方催人種葑豆、與諸將弈棊射戲如常。瑾曰:「伯言多智略、其當有以。」自來見遜、遜曰:「賊知大駕以旋、無所復慼、得專力於吾。又已守要害之處、兵將意動、且當自定以安之、施設變術、然後出耳。今便示退、賊當謂吾怖、仍來相蹙、必敗之勢也。」乃密與瑾立計、令瑾督舟船、遜悉上兵馬、以向襄陽城。敵素憚遜、遽還赴城。瑾便引船出、遜徐整部伍、張拓聲勢、歩趨船、敵不敢干。軍到白圍、託言住獵、潛遣將軍周峻・張梁等撃江夏新市・安陸・石陽、石陽市盛、峻等奄至、人皆捐物入城。城門噎不得關、敵乃自斫殺己民、然後得闔。斬首獲生、凡千餘人。其所生得、皆加營護、不令兵士干擾侵侮。將家屬來者、使就料視。若亡其妻子者、即給衣糧、厚加慰勞、發遣令還、或有感慕相攜而歸者。鄰境懷之、江夏功曹趙濯・弋陽備將裴生及夷王梅頤等、並帥支黨來附遜。遜傾財帛、周贍經恤。
これは施注した裴松之も指摘している通り、どうしたって理解できない一件です。呉の慈悲深さを示して来降者を誘おうとしたにしても、舞台裏が透けて見え過ぎていて茶番にすらなりません。たとえ石陽の住民が呉から拉致られた人間だったとしても、逃がされた処で呉のスポークスマンになる筈はありません。
これは恐らく、親征して戦果ゼロという孫権の体面に配慮した蛮行を、後になってどうにか理由付けしようとした韋昭が来降者の動機に結び付けたんじゃないでしょうか。主だった来降者とされる三人はここだけの登場ですし、特に梅頤はこの件とは関係ない方面の柤中の人っぽいですし。
又魏江夏太守逯式兼領兵馬、頗作邊害、而與北舊將文聘子休宿不協。遜聞其然、即假作答式書云:「得報懇惻、知與休久結嫌隙、勢不兩存、欲來歸附、輒以密呈來書表聞、撰衆相迎。宜潛速嚴、更示定期。」以書置界上、式兵得書以見式、式惶懼、遂自送妻子還洛。由是吏士不復親附、遂以免罷。
六年、中郎將周祗乞於鄱陽召募、事下問遜。遜以為此郡民易動難安、不可與召、恐致賊寇。而祗固陳取之、郡民呉遽等果作賊殺祗、攻沒諸縣。豫章・廬陵宿惡民、並應遽為寇。遜自聞、輒討即破、遽等相率降、遜料得精兵八千餘人、三郡平。
そもそも兵の“召募”が乱に繋がるのか? 素直に“徴兵”って書けばいいのに。鄱陽郡では前年から彭旦らの造叛が発生しているので、周祗の要請は単純に 「募兵したい」 では括れません。「叛乱を平定して兵力を増したい」 もしくは 「叛乱を平定する為の兵力を調達したい」 ではないでしょうか。陸遜としては 「これ以上ひっかき回すな!」 でしょうが、それでも募兵が強行されたあたりに、陸遜と孫権の関係を垣間見る事ができます。この頃には孫権が名族層を無視る行動がかなり露骨になってきているんですよねー。
時中書典校呂壹、竊弄權柄、擅作威福、遜與太常潘濬同心憂之、言至流涕。後權誅壹、深以自責、語在權傳。
時謝淵・謝厷等各陳便宜、欲興利改作、以事下遜。遜議曰:「國以民為本、彊由民力、財由民出。夫民殷國弱、民瘠國彊者、未之有也。故為國者、得民則治、失之則亂、若不受利、而令盡用立效、亦為難也。是以詩歎『宜民宜人、受祿于天』。乞垂聖恩、寧濟百姓、數年之間、國用少豐、然後更圖。」
赤烏七年、代顧雍為丞相、詔曰:「朕以不コ、應期踐運、王塗未一、姦宄充路、夙夜戰懼、不惶鑒寐。惟君天資聰叡、明コ顯融、統任上將、匡國弭難。夫有超世之功者、必應光大之寵;懷文武之才者、必荷社稷之重。昔伊尹隆湯、呂尚翼周、内外之任、君實兼之。今以君為丞相、使使持節守太常傅常授印綬。君其茂昭明コ、脩乃懿績、敬服王命、綏靖四方。於乎!總司三事、以訓羣寮、可不敬與、君其勖之!其州牧都護領武昌事如故。」
建業には入らずに武昌で丞相の事を行なえ、と。既に陸遜と孫権は太子問題で揉めているので 「丞相にはしたけど、ウザいから入ってくんな」 ってこと?
先是、二宮並闕、中外職司、多遣子弟給侍。全j報遜、遜以為子弟苟有才、不憂不用、不宜私出以要榮利;若其不佳、終為取禍。且聞二宮勢敵、必有彼此、此古人之厚忌也。j子寄、果阿附魯王、輕為交構。遜書與j曰:「卿不師日磾、而宿留阿寄、終為足下門戸致禍矣。」j既不納、更以致隙。及太子有不安之議、遜上疏陳:「太子正統、宜有盤石之固、魯王藩臣、當使寵秩有差、彼此得所、上下獲安。謹叩頭流血以聞。」書三四上、及求詣都、欲口論適庶之分、以匡得失。既不聽許、而遜外生顧譚・顧承・姚信、並以親附太子、枉見流徙。太子太傅吾粲坐數與遜交書、下獄死。權累遣中使責讓遜、遜憤恚致卒、時年六十三、家無餘財。
※ 武帝の寵を恃んで放縦だった息子を殺した人物。
初、曁豔造營府之論、遜諫戒之、以為必禍。又謂諸葛恪曰:「在我前者、吾必奉之同升;在我下者、則扶持之。今觀君氣陵其上、意蔑乎下、非安コ之基也。」又廣陵楊竺少獲聲名、而遜謂之終敗、勸竺兄穆令與別族。其先覩如此。長子延早夭、次子抗襲爵。孫休時、追諡遜曰昭侯。
曁艶は品行一辺倒の厳格な人事案を主導し、楊竺は魯王の支党の一人となり、共に断罪された。
※ 最期の北伐の時、民と雑居して屯田しながらも一切の軋轢を生じなかった事。
猇亭の役の後の白紙委任状、本文でも注しましたが、これが曲者です。
絶大な信頼の証ではありますが、対蜀外交での外交文書の修正に限定されたものです。
このあたりから陸遜のイメージと実際の乖離が起っているような気がします。
次に石亭の役。
確かに大功ですが、お膳立ては孫権と周魴の合作で、陸遜に求められたのは軍事指揮。呂蒙的な手腕を期待されたに過ぎません。
結果論でいえば、陸遜が短期戦にまとめたお陰で想定外に強化された司馬懿軍に余計な動きをさせずに済んでいます。
その翌年から武昌に進駐して、荊州牧のまま都督荊州および豫章三郡諸軍事となり、“軍国の事を統督”します。
謂ってみれば西面大総督であり、後世の西府の印象もあって陸遜が将相を兼ねるのはこれ以降だとされます。
ところが以後、陸遜の動向が状況を左右するような事態は234年の北伐までありません。
その北伐にしても、陸遜の役割は孫権の合肥攻略を成功させる為の牽制としての襄陽攻略で、企画段階で関与した様子はありません。
しかも孫権の一方的な即時退却によって陸遜は苦しい帰還を強いられ、しかも帰途に江夏を荒らして無駄な破壊活動をする始末です。
中郎将周祗の鄱陽での山越狩りは、陸遜の諫言を排して強行したあげく失敗し、陸遜が後始末を兼ねて周祗の任務を完遂しています。
これは陸遜の先見の明を讃える挿話ですが、陸遜の管掌領域で行なわれている点に、図らずも陸遜と孫権の関係の変移を示しています。
237年といえば高額貨幣の発行や呂壹の横行など、孫権の中央強化政策が絶賛進行中です。
孫権と陸遜の密月は、既に終わっていると見るべきでしょう。実際、久しぶりの挙国事業の241年の北伐に陸遜の名はありません。
呉が帝国となってからの陸遜は、西面統督として必要充分な仕事を果たしてはいます。
三国が接する荊州を20年以上破綻なく統治し、同格の朱然をも禦しているのは見事ですが、建業では孫権が側近政治を展開し、苦しい立場の丞相顧雍を援けたような描写も無く、朝廷との距離感は否めません。
例えば、張温・曁艶らの考課案や謝淵・謝厷らの経済案などは陸遜らの反対があっても行なわれていますし、呂壹に対しては「潘濬とともに心痛した」とあるだけで、具体的な対応は見えません。
夷・亶への遠征についても陸遜は反対派の1人に過ぎず、遼東遠征が中止されたのも陸遜の発言がどれだけ重んじられたかは不明です。
そして、いざ丞相となった頃には孫権との関係は冷え切っていて、陸遜の丞相任期は僅かに1年ちょい。
その間、建業での執務すら認められず、二宮問題はこじれたまま全く進展していません。寧ろ孫権を意固地にさせたくらい。
丞相としての実績は見当たりません。
こうして見ると、諸葛亮のスケールダウン版どころか、呉の輔政という印象すら薄れてきます。
陸遜が主役となって国難に対処したのは猇亭の役と石亭の役ですが、後者は“陸遜でなければ”という訳でもありません。
猇亭の役の直後に魏の南征の意図を見抜き、潘璋や徐盛らが求める白帝城攻略に反対したのは確かに明察で、このとき軍を進めていたら江陵が魏に陥された可能性は充分に考えられます。
そういった意味では、猇亭の役は陸遜が軍人としても、政治家としても呉を救った事になりますが、陸遜伝を読む限りだと、魏の動員令に接して既に朱然や駱統が反対しているのへ、対蜀戦線の総責任者でもある陸遜の意見も聴いてみたというニュアンスが強いです。
「大方針は決まっているけど、潘璋や徐盛も動かすから、陸遜さんも反対の意思表示を明確にしてよ」
みたいな? ここで陸遜が西伐派を支持していても、きっと認可は下りなかったことでしょう。
猇亭の役でメジャーデビューしてから丞相就任までの立場は荊州牧と西面統督で、云ってみれば関羽の成功例。
それはそれで大したもので、建業の天子と武昌の統督のツートップ体制を確立したのは間違いなく陸遜の功績ですが、一伝を独占するほどか?と云われると、ちょっと違うんじゃないかなぁ。まぁ、実質的に陸抗伝と折半していますが。