三國志修正計画

三國志卷五十八 呉志十三/陸遜傳 (一)

陸遜伝

 陸遜字伯言、呉郡呉人也。本名議、世江東大族。遜少孤、隨從祖廬江太守康在官。袁術與康有隙、將攻康、康遣遜及親戚還呉。遜年長於康子績數歳、為之綱紀門戸。

 陸遜、字は伯言。呉郡呉の人である。本名は陸議といい、世々の江東の大族だった[1]

 『三國志』では魏志は陸議だったり陸遜だったりで、蜀志は全て陸議、呉志は周魴伝の一ヶ所を除いて陸遜の表記です。そもそも蜀志では猇亭の役でしか出てこないので、両名を併用している魏志を参照すると、どうも228〜234年頃に改名したようです。ただ、魏では情報をなかなか共有できず、明帝紀の青龍二年(234)にも陸議との表記が残ってしまっています。

陸遜は少くして孤となり、従祖父(祖父の兄弟)である廬江太守陸康が官に在るのに随った。袁術が陸康と隙を有して陸康を攻めようとした時、陸康は陸遜および親戚を遣って呉に還した。陸遜の年齢は陸康の子の陸績に長じること数歳であり、この為に門戸を綱紀した。

 陸遜は245年に63歳で歿しているので、廬江陥落の当時は12〜13歳となり、一族を束ねられるような年齢とは思えません。『三國志』呉志は韋昭『呉書』をあまり校訂せずに流用している節があるので、陸遜の家が本家より本家然としていた事から、韋昭がそれっぽく挿入したのではないでしょうか。
 『後漢書』陸康伝によれば、孫策による廬江攻囲は歳を跨ぎ、城内は惨憺たる有様で、陸康は開城して一月余で歿したそうです。間違いなく心労と過労と不摂生が重なった衰弱死でしょう。孫討逆伝を読む限り、孫策は「オレをシカトしたお礼参りだぜ」のノリです。

 孫權為將軍、遜年二十一、始仕幕府、歴東西曹令史、出為海昌屯田都尉、並領縣事。縣連年亢旱、遜開倉穀以振貧民、勸督農桑、百姓蒙ョ。時呉・會稽・丹楊多有伏匿、遜陳便宜、乞與募焉。會稽山賊大帥潘臨、舊為所在毒害、歴年不禽。遜以手下召兵、討治深險、所向皆服、部曲已有二千餘人。鄱陽賊帥尤突作亂、復往討之、拜定威校尉、軍屯利浦。

 孫権が将軍となり、陸遜は齢二十一になると、始めて幕府に仕え、東西の曹の令史を歴任し、転出して海昌の屯田都尉となり、同時に県長の事を兼領した[2]

 孫権が将軍になったのは建安五年(200)で、陸遜の出仕は203年です。21歳での出仕は遅くはありませんが如何にも中途半端で、この時まで孫権の将来性を値踏みしていたものと考えられます。この歳は孫権が豫章方面の経略を開始しているので、それと関係があるのかもです。

県は連年の亢旱(大旱魃)であり、陸遜は官倉を開いて穀糧を貧民に振恤し、農桑を勧督し、百姓は頼(さいわい)を蒙った。時に呉・会稽・丹楊には伏匿(の人口)が多く、陸遜は便宜(の計)を陳べ、募兵せんと乞うた。会稽の山賊大帥の潘臨は、旧(かね)て所在の毒害を為し、歴年禽われなかった。陸遜は手下の召募兵にて深険を討治し、向かう所は皆な服し、部曲として已に二千余人を有した。鄱陽賊帥の尤突が乱を作すと、復た往って(奮武将軍賀斉と与に)これを討ち、定威校尉を拝受し、軍は利浦(当利浦)に駐屯した。

 權以兄策女配遜、數訪世務、遜建議曰:「方今英雄棊跱、豺狼闚望、克敵寧亂、非衆不濟。而山寇舊惡、依阻深地。夫腹心未平、難以圖遠、可大部伍、取其精鋭。」權納其策、以為帳下右部督。會丹楊賊帥費棧受曹公印綬、扇動山越、為作内應、權遣遜討棧。棧支黨多而往兵少、遜乃益施牙幢、分布鼓角、夜潛山谷間、鼓譟而前、應時破散。遂部伍東三郡、彊者為兵、羸者補戸、得精卒數萬人、宿惡盪除、所過肅清、還屯蕪湖。

 孫権は兄の孫策の娘を陸遜に配偶し、しばしば世務を訪(諮)った。陸遜が建議するには 「まさに今は英雄が棊跱(割拠対峙)し、豺狼が闚(うかが)い望み、敵に克ち乱を寧めるのは、衆(多勢)でなければ済(と)げられません。山寇は旧悪にして、深き地に依阻(依恃)しております。腹心たる地は未だ平らがず、遠きを図るのは困難であり、大いに部伍(編成)してその精鋭を抜取なさい」
孫権はその策を納れ、陸遜を帳下右部督とした。
 折しも丹楊の賊帥の費棧が曹操の印綬を受け、山越を扇動して内応を作し、孫権は陸遜を遣って費棧を討たせた。費棧の支党は多く、往った兵は少なく、陸遜はかくして牙幢を益して施し、鼓と角笛とを分け布き、夜間に山谷の間に潜ませ、鼓を譟がしくして前進し、応時(即時)に破り散じた。かくて東三郡で部伍(編成)し、彊者を兵とし、羸者(弱者)を戸籍に補い、精卒数万人を得え、宿悪を盪除して過ぎる所を粛清し、還って(丹楊郡の)蕪湖に屯した。

 尤突と費棧はどちらも曹操の同じ計略によって蜂起したもので、殆ど間を措かずに発生したか、もしくはこちらでは尤突討伐の結果に言及されていない事から、途中で賀斉と担当を分けたものかと思われます。

 會稽太守淳于式表遜枉取民人、愁擾所在。遜後詣都、言次、稱式佳吏、權曰:「式白君而君薦之、何也?」遜對曰:「式意欲養民、是以白遜。若遜復毀式以亂聖聽、不可長也。」 權曰:「此誠長者之事、顧人不能為耳。」

 会稽太守淳于式が上表するには、陸遜は法を枉げて民人を取り、所在は愁え擾いでいると。陸遜は後に都に詣り、言葉を次いで淳于式を佳吏だと称えた。孫権 「淳于式は君を白(告発)したのに君はこれを薦める。何故か?」 陸遜が対えるには 「淳于式の意は養民を欲し、だから私の事を白(もう)したのです。もし私も復た淳于式を毀議して聖聴を乱せば、良策とはなりません」 孫権 「これは誠に長者の手法だ。顧みても人にはなかなか出来まい」

 呂蒙稱疾詣建業、遜往見之、謂曰:「關羽接境、如何遠下、後不當可憂也?」蒙曰:「誠如來言、然我病篤。」遜曰:「羽矜其驍氣、陵轢於人。始有大功、意驕志逸、但務北進、未嫌於我、有相聞病、必益無備。今出其不意、自可禽制。下見至尊、宜好為計。」蒙曰:「羽素勇猛、既難為敵、且已據荊州、恩信大行、兼始有功、膽勢益盛、未易圖也。」蒙至都、權問:「誰可代卿者?」蒙對曰:「陸遜意思深長、才堪負重、觀其規慮、終可大任。而未有遠名、非羽所忌、無復是過。若用之、當令外自韜隱、内察形便、然後可克。」權乃召遜、拜偏將車右部督代蒙。

 呂蒙が疾病を称して建業に詣ると、陸遜は往ってこれに見(まみ)え、謂うには 「関羽と境を接しながら、どうして遠く下られてたのです。後を憂慮されないのですか?」
呂蒙 「誠に言葉の通りだが、私の病が篤いのだ」
陸遜 「関羽はその驍気を矜り、人を陵轢します。大功を始めた事で、意は驕り志は逸り、ただ北進のみを務めとし、未だに我が方を嫌疑せず、病だとの相聞があれば必ず益々備えを無くしましょう。今、その意(おも)わざるに出れば、自ずと禽え制する事ができます。下向して至尊に見(まみ)え、よき計りごとを為すのが宜しいでしょう」
呂蒙 「関羽は素より勇猛で、とうてい敵対するのは困難だ。加えて已に荊州に拠り、恩信を大いに行ない、しかも功の始めにあって胆勢(意気)は益々盛んで、未だに図るのは容易ではない」
呂蒙が都に至ると孫権が問うた。「誰を卿に代えれば良かろう?」 呂蒙が対えるには 「陸遜の意思は深長であり、才は重任を負うに堪え、その規慮を観るに、大任を終(まっと)うできましょう。しかも未だに遠くに聞こえた名は無く、関羽にも忌まれず、これ以上の者はおりません。もしこれを用いるなら、外には自ら韜晦して隠させつつ内実は便(よろし)き形勢を察するよう命じ、然る後に克てましょう」 孫権はかくして陸遜を召し、偏将軍・右部督に拝して呂蒙に代えた。

 遜至陸口、書與羽曰:「前承觀釁而動、以律行師、小舉大克、一何巍巍!敵國敗績、利在同盟、聞慶拊節、想遂席卷、共獎王綱。近以不敏、受任來西、延慕光塵、思稟良規。」又曰:「于禁等見獲、遐邇欣歎、以為將軍之勳足以長世、雖昔晉文城濮之師、淮陰拔趙之略、蔑以尚茲。聞徐晃等少騎駐旌、闚望麾葆。操猾虜也、忿不思難、恐潛搶O、以逞其心。雖云師老、猶有驍悍。且戰捷之後、常苦輕敵、古人杖術、軍勝彌警、願將軍廣為方計、以全獨克。僕書生疏遲、忝所不堪、喜鄰威コ、樂自傾盡、雖未合策、猶可懷也。儻明注仰、有以察之。」羽覽遜書、有謙下自託之意、意大安、無復所嫌。遜具啓形状、陳其可禽之要。權乃潛軍而上、使遜與呂蒙為前部、至即克公安・南郡。遜徑進、領宜都太守、拜撫邊將軍、封華亭侯。備宜都太守樊友委郡走、諸城長吏及蠻夷君長皆降。遜請金銀銅印、以假授初附。是歳建安二十四年十一月也。

 陸遜は陸口に至ると書簡を関羽に与えるには 「前に承るには、釁(虚)を観取して動き、軍律にて師(軍事)を行ない、小を挙げて大いに克ち、一事が何と巍巍たることか! 敵国の敗北は同盟にとっての利で、喜ばしい限りです。きっと席巻して、共に王者の綱紀を奨めるでしょう。不敏な私は任務で西に来て光塵を慕っております。良き規範を稟(さず)けられたい」
又た 「于禁らを獲たとの事で、遠近とも歓んでおります。将軍の勲功は後世に伝わるに足り、晋文公の城濮の師や、淮陰侯韓信の抜趙の計略でも遠く及びますまい。聞けば徐晃らが少騎で旌旗の下に駐まり、麾葆(大将旗と蓋)を窺い望んでいるとか。曹操は猾虜であり、忿って難を思わず、恐らくは潜かに軍兵を増してその心を逞しゅうしておりましょう。その軍は疲労したとはいえ、猶おも驍悍であります。しかも戦勝の後とは常に敵を軽んじ易く、古人の術に依れば勝っていよいよ警戒せよとか。願わくば将軍は広く計を為し、単独勝ちを全うされん事を。私は書生であって疎鈍であり、不相応の任に就き、威徳に隣接して喜び、楽自傾尽。未だ策を合せてはおりませんが、お慕い申しております。明らかに注視・仰視しております事をどうかお察し下さい」
 関羽が陸遜の書簡を覧た処、謙譲卑下して自身を託す意図があった為、大いに安んじて嫌疑しなくなった。陸遜は具さに形状を啓(もう)し、その禽える為の要諦を陳べた。孫権はかくして軍を潜かに溯上させ、陸遜には呂蒙と前部を為させ、至るや即座に公安・南郡に克った。陸遜はまっすぐ進んで宜都太守を兼領し、撫辺将軍を拝受し、華亭侯に封じられた。劉備の宜都太守樊友は郡を委(す)てて走り、諸城の長吏および蛮夷の君長は皆な降った。陸遜は金銀銅印を請い、初附した者に仮し授けた。この歳は建安二十四年(219)十一月である。

 文中に同盟だとか曹操が敵だとか、217年に曹操に臣従表明した者とは思えない表現を使っていますが、恐らく孫権は劉備もしくは関羽に対しては二枚舌外交である事を伝えていたのでしょう。でなければ南郡方面に守備隊を置いていたとはいえ、成都に援軍を求めもせずに襄樊を攻略するのは如何に関羽とはいえ無謀に過ぎます。又た関羽の性格としては孫呉のこの外交方針そのものが腹立たしいものだったので、つい孫権からの通婚の使者を怒鳴りつけてしまったのではないかと思われます。

 遜遣將軍李異・謝旌等將三千人、攻蜀將・晏・陳鳳。異將水軍、旌將歩兵、斷絶險要、即破晏等、生降得鳳。又攻房陵太守ケ輔・南郷太守郭睦、大破之。秭歸大姓文布・ケ凱等合夷兵數千人、首尾西方。遜復部旌討破布・凱。布・凱脱走、蜀以為將。遜令人誘之、布帥衆還降。前後斬獲招納、凡數萬計。權以遜為右護軍・鎮西將軍、進封婁侯。

 陸遜は将軍の李異・謝旌らを遣って三千人を率いさせ、蜀将の・晏・陳鳳を攻めさせた。李異は水軍を率い、謝旌は歩兵を率い、険要を断絶して即ちに・晏らを破り、生きたまま陳鳳を降得した。又た房陵太守ケ輔・南郷太守郭睦を攻め、これを大破した。秭帰の大姓の文布・ケ凱らは夷兵数千人を糾合し、西方と首尾を為した。

 房陵(十堰市房県)は漢中郡から、南郷(南陽市浙川南界)は南陽郡から分置したもの。秭帰(宜昌市区)は南郡の属県。この陸遜の軍事により、呉が襄陽を占拠する事態に発展します。

陸遜は復た謝旌を率いて文布・ケ凱を討破し、文布・ケ凱は脱れ走り、蜀が将とした。陸遜は人にこれを誘わせ、文布は手勢を帥いて還降した。前後して斬獲・招納した者は凡そ数万を数えた。孫権は陸遜を右護軍・鎮西将軍とし、婁侯に進封した[3]

 時荊州士人新還、仕進或未得所、遜上疏曰:「昔漢高受命、招延英異、光武中興、羣俊畢至、苟可以熙隆道教者、未必遠近。今荊州始定、人物未達、臣愚慺慺、乞普加覆載抽拔之恩、令並獲自進、然後四海延頸、思歸大化。」權敬納其言。

 時に荊州の士人は新たに還り、仕進(出仕と進挙)しても未だに任を得られない者もおり、陸遜が上疏するには 「昔、漢高祖は天命を受けると英異の人を招延し、光武帝が中興すると群俊は畢(つい)に至りました。苟くも道と教化を熙隆にすれば、遠近より至らぬ者はありません。今、荊州は定まりの始めで、人物は未だに達しておりません。臣が慺慺(勤慎)として愚考するに、普く覆載(万民)に抽抜の恩を加え、揃って自ら進達を獲られるよう命じられん事を。然る後に四海は頸を延ばして大化に帰そうと思う事でしょう」 孫権はその上言を敬納した。

 黄武元年、劉備率大衆來向西界、權命遜為大都督・假節、督朱然・潘璋・宋謙・韓當・徐盛・鮮于丹・孫桓等五萬人拒之。備從巫峽・建平連圍至夷陵界、立數十屯、以金錦爵賞誘動諸夷、使將軍馮習為大督、張南為前部、輔匡・趙融・廖淳・傅肜等各為別督、先遣呉班將數千人於平地立營、欲以挑戰。諸將皆欲撃之、遜曰:「此必有譎、且觀之。」備知其計不可、乃引伏兵八千、從谷中出。遜曰:「所以不聽諸君撃班者、揣之必有巧故也。」遜上疏曰:「夷陵要害、國之關限、雖為易得、亦復易失。失之非徒損一郡之地、荊州可憂。今日爭之、當令必諧。備干天常、不守窟穴、而敢自送。臣雖不材、憑奉威靈、以順討逆、破壞在近。尋備前後行軍、多敗少成、推此論之、不足為戚。臣初嫌之、水陸倶進、今反舍船就歩、處處結營、察其布置、必無他變。伏願至尊高枕、不以為念也。」諸將並曰:「攻備當在初、今乃令入五六百里、相銜持經七八月、其諸要害皆以固守、撃之必無利矣。」遜曰:「備是猾虜、更嘗事多、其軍始集、思慮精專、未可干也。今住已久、不得我便、兵疲意沮、計不復生、掎角此寇、正在今日。」乃先攻一營、不利。諸將皆曰:「空殺兵耳。」遜曰:「吾已曉破之之術。」乃敕各持一把茅、以火攻拔之。一爾勢成、通率諸軍同時倶攻、斬張南・馮習及胡王沙摩柯等首、破其四十餘營。備將杜路・劉寧等窮逼請降。備升馬鞍山、陳兵自繞。遜督促諸軍四面蹙之、土崩瓦解、死者萬數。備因夜遁、驛人自擔、燒鐃鎧斷後、僅得入白帝城。其舟船器械、水歩軍資、一時略盡、尸骸漂流、塞江而下。備大慚恚、曰:「吾乃為遜所折辱、豈非天邪!」

 黄武元年(222)、劉備が大いに軍兵を率いて西界に向かい来ると、孫権は命じて陸遜を大都督・仮節とし、朱然・潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓ら五万人を督してこれを拒がせた。劉備は巫峽・建平より囲(陣屋)を連ねて夷陵の界に至り、数十屯を立て、金錦爵賞にて諸夷を誘動し、将軍の馮習を大督とし、張南を前部とし、輔匡・趙融・廖淳(廖化)・傅肜らを各々別督とし、呉班を先遣として数千人を率いて平地に陣営を立てさせ、挑戦させようとした。諸将は皆なこれを撃とうとしたが、陸遜は 「これには必ず譎計がある。観望するのだ」[4] 劉備はその計策がならぬと知り、かくして伏兵八千を引率し、谷中より出た。陸遜 「諸君が呉班を撃つ事を聴許しなかった理由は、必ず巧計があるだろうと揣(おしはか)ったからなのだ」
 陸遜は上疏した 「夷陵は要害であり、国の関限であります。得易く、亦た失い易くもあります。これを失うのは徒に一郡の地を損なうだけでなく、荊州の憂いであります。今日のこの争いは必ず諧(かな)わせねばなりません。劉備は天の常を干(おか)し、窟穴を守らずに敢えて自らを送って参りました。臣は非才とはいえ、威霊を憑奉し、順を以て逆を討ち、破壊するのは間近です。劉備の前後の行軍を尋ねれば、敗北が多く成功は少なく、この事から推論するに、戚(うれ)えるに足りません。臣が初めに嫌疑したのは、水陸ともに進む事でしたが、今やかえって船を捨てて徒歩に就き、処々に営を結んでおり、その布置を察するに、必ずや他の変事はありますまい。伏して願わくば至尊は枕を高くし、懸念されませぬよう」
 諸将が揃って 「劉備を攻めるべきは初期に在った。今や五・六百里をも入らせ、相い銜持(対峙)して経ること七・八月となり、その諸々の要害は皆な固守し、これを撃ってもきっと利はありますまい」
陸遜 「劉備は猾虜であり、更に嘗ての経験が多く、その軍の始めは集中し、思慮は専ら精密で、未だに干(おか)すべきではなかった。今は駐まって已に久しく、我が方の便宜を得られず、兵は疲れて意気を沮喪し、計策も再びは生じず、この寇を掎角(角と蹄を一つに縛り上げる)するのはまさに今日にあるのだ」
かくして先んじて一営を攻めたが、利はなかった。諸将は皆な 「空しく兵を殺しただけではないか」
陸遜 「私は已にこれを破る術を曉かにした」
 かくして各々に一把の茅を持たせ、火で攻めてこれを抜くよう命じた。一斉に勢いが成り、通達して諸軍を率いて時を同じくして倶に攻め、張南・馮習および胡王沙摩柯らの首を斬り、その四十余営を破った。劉備の将の杜路・劉寧らは窮逼して投降を請うた。劉備は馬鞍山に昇り、兵を陳べて自らを囲繞した。陸遜は諸軍を督促して四面からこれに蹙(せま)らせ、土崩瓦解して死者は万を単位とした。劉備は夜陰に乗じて遁走し、駅人は自ら担ぎ、鐃鎧(軍鼓と鎧)を焼いて後道を断ち、僅かに白帝城に入る事ができた。その舟船・器械や水歩の軍資は一時にして略尽し、尸骸は漂流して長江を塞ぎつつ下った。劉備は大いに慚恚して 「私がこうして陸遜に折辱されたのは、どうして天命でないといえようか!」

 初、孫桓別討備前鋒於夷道、為備所圍、求救於遜。遜曰:「未可。」諸將曰:「孫安東公族、見圍已困、奈何不救?」遜曰:「安東得士衆心、城牢糧足、無可憂也。待吾計展、欲不救安東、安東自解。」及方略大施、備果奔潰。桓後見遜曰:「前實怨不見救、定至今日、乃知調度自有方耳。」

 初め孫桓は別に劉備の前鋒を夷道に討ち、劉備に囲まれ、陸遜に救援を求めた。陸遜 「まだだ」 諸将 「孫安東は公族であり、囲まれて困窮しています。どうして救われないのか?」 陸遜 「孫安東は士卒の心を得ており、城は堅牢で糧食も足りている。憂う必要はない。私の計策が展べられるのを待てば、孫安東を救おうとしなくとも孫安東は自ら解こう」 方略が大いに施されるに及び、劉備は果たして奔潰した。
孫桓は後に陸遜に見(まみ)え 「前にはまことに救わないのを怨んだが、定まった今日となっては、調度には自ずから方策があったと知った」

 當禦備時、諸將軍或是孫策時舊將、或公室貴戚、各自矜恃、不相聽從。遜案劍曰:「劉備天下知名、曹操所憚、今在境界、此彊對也。諸君並荷國恩、當相輯睦、共翦此虜、上報所受、而不相順、非所謂也。僕雖書生、受命主上。國家所以屈諸君使相承望者、以僕有尺寸可稱、能忍辱負重故也。各在其事、豈復得辭!軍令有常、不可犯矣。」及至破備、計多出遜、諸將乃服。權聞之、曰:「君何以初不啓諸將違節度者邪?」遜對曰:「受恩深重、任過其才。又此諸將或任腹心、或堪爪牙、或是功臣、皆國家所當與共克定大事者。臣雖駑懦、竊慕相如・寇恂相下之義、以濟國事。」權大笑稱善、加拜遜輔國將軍、領荊州牧、即改封江陵侯。

 劉備を禦いでいた当時、諸々の将軍の或る者は孫策の時代の旧将で、或る者は公室の貴戚であり、各々自ら矜恃し、聴従しようとしなかった。陸遜は剣を案じつつ 「劉備は天下に名を知られ、曹操も憚った。今は境界に在り、この彊きに対峙している。諸君は揃って国恩を荷い、相い輯睦して共にこの虜を翦(き)り、上は受恩に報じるべきなのに、相い順わないとは考えられない事だ。僕は書生とはいえ、主上に命を受けている。国家が諸君を屈して相い承望させている理由は、僕に尺寸(僅か)の称えるべきがあり、辱を忍んで重責を負えるからなのだ。各々がその職事に在ってどうして復た辞退できよう! 軍令には常道があり、犯してはならないのだ」

 この猇亭の役では、孫呉陣営で赤壁の時の周瑜と程普の確執が再現されました。周瑜と程普の確執は外様と譜代の対立であり、陸遜と朱然ら諸将との確執は、孫権の私臣に対する宿将の反感に近いものがあります。そもそも孫権がなぜ陸遜を大督に抜擢したのかが理解に苦しむ処です。関羽攻略に先んじて呂蒙が陸遜を後任に推してはいますが、あれは関羽問題についての後継指名としか見えません。その後に鎮西将軍となっているのは対蜀防衛を任されたと見做せますが、荊州防衛という観点なら、同年輩ながらも家としての貢献度も実績も上で、南郡太守でもあり、さらに呂蒙に後継指名された朱然の方が相応です。
 陸遜の才能を孫権が高く評価したというのも勿論あるでしょうが、寧ろ孫権が、大姓出身でありながら自身の私臣的な存在の陸遜に箔をつけ、孫呉集団の中での自分の影響力を高めようとしたように思えます。

 劉備を破るに至ったのには、計りごとの多くが陸遜より出、諸将はかくして服した。孫権はこれを聞くと 「君はどうして諸将で節度に違えた者を啓(もう)さなかったのか?」 陸遜 「深く重い恩を受け、任務は才能に過ぎていました。又たこの諸将の或る者は腹心の任であり、或る者は爪牙たるに堪え、或る者は功臣であり、皆な国家が共に大事を克定する事に当る者です。臣は駑懦とはいえ、竊かに藺相如寇恂がへり下った義を慕い、国事を済(と)げようとするものであります」 孫権は大いに笑って善しと称え、陸遜を拝して輔国将軍を加え、荊州牧を兼領させ、即座に江陵侯に改封した。

 又備既住白帝、徐盛・潘璋・宋謙等各競表言備必可禽、乞復攻之。權以問遜、遜與朱然・駱統以為曹丕大合士衆、外託助國討備、内實有姦心、謹決計輒還。無幾、魏軍果出、三方受敵也。

 又た劉備が白帝に駐まった後、徐盛・潘璋・宋謙らは各々競って上表して言うには、劉備は必ず禽えられるので、復た攻めさせてくれと。孫権が陸遜に問うと、陸遜は朱然・駱統らと与に、曹丕が大いに士衆を糾合しており、外面では国を助けて劉備を討つ事に託しているが、内実は姦心があり、謹んで計策を決してすみやかに還るべきであると。幾許もせず、魏軍が果たして出戦し、三方に敵を受けた[5]

 孫権が曹魏への入質を拒否った結果の南征です。陸遜は江陵侯と謂いつつ西陵で蜀に備えて動かず、江陵では朱然が年越し籠城の末に魏軍を撃退します。

 備尋病亡、子禪襲位、諸葛亮秉政、與權連和。時事所宜、權輒令遜語亮、并刻權印、以置遜所。權毎與禪・亮書、常過示遜、輕重可否、有所不安、便令改定、以印封行之。

 劉備が尋いで病亡し、子の劉禅が襲位して諸葛亮が秉政し、孫権と連和した。時事の便宜について孫権はそのつど陸遜に命じて諸葛亮に語らせ、併せて孫権の印を刻み、陸遜の所に置かせた。孫権は劉禅・諸葛亮に書簡を与える毎に、常に陸遜に過示させ、軽重の可否について不適切な箇所があれば、ただちに改定させて、その印で封をして行なわせた。

 これが“孫権からの白紙委任状”です。信頼の発露ではありますが、蜀との折衝権を全面的に預けられたとか、荊州の独自裁量を認められたとか、そういったスケールのものではありません。

 七年、權使鄱陽太守周魴譎魏大司馬曹休、休果舉衆入皖、乃召遜假黄鉞、為大都督、逆休。休既覺知、恥見欺誘、自恃兵馬精多、遂交戰。遜自為中部、令朱桓・全j為左右翼、三道倶進、果衝休伏兵、因驅走之、追亡逐北、徑至夾石、斬獲萬餘、牛馬騾驢車乘萬兩、軍資器械略盡。休還、疽發背死。諸軍振旅過武昌、權令左右以御蓋覆遜、入出殿門、凡所賜遜、皆御物上珍、於時莫與為比。遣還西陵。

 七年(228)、孫権が鄱陽太守周魴に魏の大司馬曹休を譎かせた処、曹休は果たして軍兵を挙げて皖に入った。かくして陸遜を召して黄鉞を仮し、大都督とし、曹休を逆(むか)えた[6]。曹休は覚知した後、欺誘された事を恥じ、自ら兵馬が精強で多い事を恃み、かくて交戦した。陸遜は自ら軍の中部を為し、朱桓・全jに命じて左右両翼と為し、三道から倶に進んだ。果たして曹休の伏兵を衝き、これを駆走させ、亡走を追って北に逐い、径(ただち)に夾石に至り、斬獲は万余、牛・馬・騾・驢・車乗は万両、軍資・器械はほぼ尽した。曹休は還ると、疽を背に発して死んだ。諸軍が軍旅を振わせて武昌を過ぎると、孫権は左右に命じて御蓋で陸遜を覆わせて殿門を入出させ、凡そ陸遜に賜ったのは皆な御物でも上珍の品で、時に比肩する者は莫かった。遣って西陵に還らせた。

 黄龍元年、拜上大將軍・右都護。是歳、權東巡建業、留太子・皇子及尚書九官、徴遜輔太子、並掌荊州及豫章三郡事、董督軍國。時建昌侯慮於堂前作闘鴨欄、頗施小巧、遜正色曰:「君侯宜勤覽經典以自新益、用此何為?」慮即時毀徹之。射聲校尉松於公子中最親、戲兵不整、遜對之髠其職吏。南陽謝景善劉廙先刑後禮之論、遜呵景曰:「禮之長於刑久矣、廙以細辯而詭先聖之教、皆非也。君今侍東宮、宜遵仁義以彰コ音、若彼之談、不須講也。」

 黄龍元年(229)、上大将軍・右都護を拝命した。この歳、孫権は東の建業に巡幸し、太子・皇子および尚書九官を留め、陸遜を徴して太子を輔弼させ、同時に荊州および豫章三郡の事を掌らせ、軍国の事を董督させた

 「掌荊州及豫章三郡事、董督軍國」 というのが厄介です。呉の督は太守や令長を兼ねる事も多く、董督=統督となれば、この時の陸遜は荊州および豫章三郡の諸軍事と牧と太守を兼ねている、文字通りの西面総督だと思うじゃないですか? ところがどうやら豫章三郡に対しては都督権しか持っていなかったようで、この事は嘉禾六年(237)に陸遜の反対を排して鄱陽での徴兵が強行された事が傍証になるかと思われます。又た公安には大将軍・左都護の諸葛瑾が、南郡には車騎将軍・右護軍の朱然が常駐し、更には歩隲が驃騎将軍・左護軍として西陵に置かれ、陸遜に荊州の全権が集中しないような配慮が施されていました。

時に建昌侯孫慮は堂前に闘鴨の欄(柵)を作り、頗る小巧を施していた。陸遜は色を正し、「君侯は経典をご覧になって自ら新たに益す事に勤めるべきであるのに、この様なものを用いてどうなさいます?」 孫慮は即時にこれを毀徹した。射声校尉孫松は公子の中でも最も親愛されており、戯れて兵を整えなかった。陸遜はこれに対えてその職吏を髠に処した。
南陽の謝景が劉廙の“先刑後礼”の論を善しとした処、陸遜は謝景を叱呵して 「礼が刑より長じて久しい。劉廙は細弁によって先聖の教えを詭(いつわ)り、皆ななっていない。君は今、東宮に侍し、仁義に遵って徳音を顕すべであり、彼の談論の如きを講じてはならない」

 遜雖身在外、乃心於國、上疏陳時事曰:「臣以為科法嚴峻、下犯者多。頃年以來、將吏罹罪、雖不慎可責、然天下未一、當圖進取、小宜恩貸、以安下情。且世務日興、良能為先、自〔非〕姦穢入身、難忍之過、乞復顯用、展其力效。此乃聖王忘過記功、以成王業。昔漢高舍陳平之愆、用其奇略、終建勳祚、功垂千載。夫峻法嚴刑、非帝王之隆業;有罰無恕、非懷遠之弘規也。」

 陸遜は身は外に在るといえど、心は国にあった。上疏して時事を陳べるには 「臣が思うに、科法が厳峻であれば下には犯す者が多くなります。近頃以来、将吏で罪に罹った者は慎まざるを責めるべきとはいえ、天下は未だに一つとはならず、まさに進取を図るべきで、やや恩を貸して下情を安んじるのが適当でありましょう。しかも世務は日々に興っており良能の士を先とし、自ら姦穢に入身したり忍び難き過ちを犯した者でなければ、復た用いてその力を展べて効(しるし)とされん事を。これぞ聖王が過ちを忘れて功を記し、王業を成したものであります。昔、漢高祖は陳平の愆(とが)を捨て、その奇略を用い、終には勲祚を建て、功を千載に垂れました。峻法厳刑は帝王の隆んな事業ではなく、罰があって寛恕が無ければ、遠きを懐かせる弘規とはなりません」

 權欲遣偏師取夷州及朱崖、皆以諮遜、遜上疏曰:「臣愚以為四海未定、當須民力、以濟時務。今兵興歴年、見衆損減、陛下憂勞聖慮、忘寢與食、將遠規夷州、以定大事、臣反覆思惟、未見其利、萬里襲取、風波難測、民易水土、必致疾疫、今驅見衆、經渉不毛、欲益更損、欲利反害。又珠崖絶險、民猶禽獸、得其民不足濟事、無其兵不足虧衆。今江東見衆、自足圖事、但當畜力而後動耳。昔桓王創基、兵不一旅、而開大業。陛下承運、拓定江表。臣聞治亂討逆、須兵為威、農桑衣食、民之本業、而干戈未戢、民有飢寒。臣愚以為宜育養士民、ェ其租賦、衆克在和、義以勸勇、則河渭可平、九有一統矣。」權遂征夷州、得不補失。

 孫権は偏師を遣って夷州および朱崖を取ろうとし、皆なを陸遜に諮った。陸遜は上疏した。

「臣が愚考しますに、四海は未だ定まらず、まさに民力を用いて事を成すべきです。今、軍事が連続して兵は損減し、陛下が心労の末に夷州に遠征して兵を求めようとする気持ちも解ります。ですがその利点は見えず、難破の危険が付きまとい、しかも風土が変われば疫病を生じましょう。今回の事は不毛を経渉し、損失・損害が増す未来しか見えません。しかも珠崖(雷州半島)は絶遠の険阻で、民は禽獣のようであり、その民や兵を得ても用を為しますまい。今、江東に足りないのは軍兵ではなく、力を蓄養する時間です。昔、桓王(孫策)が創業した折、兵は一旅[※]に満たず、それでも大業を開かれました。陛下には天運があり、既に江表を拓定されたのです。治乱討逆には兵威は必要ではありますが、干戈が戢(や)まねば、農桑衣食を本業とする民の中にも飢寒する者が生じましょう。臣が愚考しますに士民を育養し、その租賦をェくし、衆はよく和親し、義によって勇を勧めるのが妥当で、そうすれば黄河・渭河を平らげ、九州は一統されましょう」

孫権は遂に夷州に遠征し、得たものは損失を補わなかった。

※ 部・曲の下部単位。500人隊。屯とも。

 及公孫淵背盟、權欲往征、遜上疏曰:「淵憑險恃固、拘留大使、名馬不獻、實可讎忿。蠻夷猾夏、未染王化、鳥竄荒裔、拒逆王師、至令陛下爰赫斯怒、欲勞萬乘汎輕越海、不慮其危而渉不測。方今天下雲擾、羣雄虎爭、英豪踊躍、張聲大視。陛下以神武之姿、誕膺期運、破操烏林、敗備西陵、禽羽荊州、斯三虜者當世雄傑、皆摧其鋒。聖化所綏、萬里草偃、方蕩平華夏、總一大猷。今不忍小忿、而發雷霆之怒、違垂堂之戒、輕萬乘之重、此臣之所惑也。臣聞志行萬里者、不中道而輟足;圖四海者、匪懷細以害大。彊寇在境、荒服未庭、陛下乘桴遠征、必致闚覦、慼至而憂、悔之無及。若使大事時捷、則淵不討自服;今乃遠惜遼東衆之與馬、奈何獨欲捐江東萬安之本業而不惜乎?乞息六師、以威大虜、早定中夏、垂耀將來。」權用納焉。

 公孫淵が盟に背くに及び、孫権は往って征しようとした。陸遜は上疏した。
「公孫淵は険固を恃み、大使を拘留し、名馬を献上せず、お怒りはご尤もです。相手は王化に染まらぬ蛮夷であり、王師に拒逆して陛下に軽船にて海を越えさせ、その危難を顧慮せずに不測の地を渉らせるに至りました。現今は天下が雲擾して群雄が虎争し、英豪は踊躍して声を張りつつ大勢を視ております。

 いつの時代の形容なんだよ…。どう考えても3、40年前に使われた常套句です。この上疏とやらも韋昭が並行作業で創作したものですか?

陛下は神武により、烏林で曹操を破り、西陵で劉備を敗り、荊州で関羽を禽えました。当世の雄傑たる三者の鋭鋒を摧いたのです。拍手! いずれ聖化が行なわれれば万里の彼方までひれ伏し、華夏も平定されましょう。今、つまらぬ事に忿られているのは、万里を行く者が中道で留まらず、四海を図る者が細事に拘らないという事に背くものです。辺境が定まっていないのに陛下が船に乗って遠征すれば、きっと闚覦(分不相応の野心)する者が現れて憂いをなし、悔やんでも及ばなくなりましょう。もし大事が成されれば、公孫淵は討たなくとも服して参ります。遼東の人民と馬を惜しんでいる場合ではありません。江東という本業はどうなさるのです? 今は六師を休息させて大虜を威圧し、早々に中夏を定めて将来に輝きを垂れるのです」
孫権は納れ用いた。

 嘉禾五年三年、權北征、使遜與諸葛瑾攻襄陽。遜遣親人韓扁齎表奉報、還、遇敵於沔中、鈔邏得扁。瑾聞之甚懼、書與遜云:「大駕已旋、賊得韓扁、具知吾闊狹。且水乾、宜當急去。」 遜未答、方催人種葑豆、與諸將弈棊射戲如常。瑾曰:「伯言多智略、其當有以。」自來見遜、遜曰:「賊知大駕以旋、無所復慼、得專力於吾。又已守要害之處、兵將意動、且當自定以安之、施設變術、然後出耳。今便示退、賊當謂吾怖、仍來相蹙、必敗之勢也。」乃密與瑾立計、令瑾督舟船、遜悉上兵馬、以向襄陽城。敵素憚遜、遽還赴城。瑾便引船出、遜徐整部伍、張拓聲勢、歩趨船、敵不敢干。軍到白圍、託言住獵、潛遣將軍周峻・張梁等撃江夏新市・安陸・石陽、石陽市盛、峻等奄至、人皆捐物入城。城門噎不得關、敵乃自斫殺己民、然後得闔。斬首獲生、凡千餘人。其所生得、皆加營護、不令兵士干擾侵侮。將家屬來者、使就料視。若亡其妻子者、即給衣糧、厚加慰勞、發遣令還、或有感慕相攜而歸者。鄰境懷之、江夏功曹趙濯・弋陽備將裴生及夷王梅頤等、並帥支黨來附遜。遜傾財帛、周贍經恤。

 嘉禾三年(234)、孫権が北征し、陸遜と諸葛瑾には襄陽を攻めさせた。陸遜は親近している人である韓扁を遣って上表を齎して報告を奉じさせた処、還る折に沔中で敵に遇い、巡邏が鈔略して韓扁を得た。諸葛瑾はこれを聞くと甚だ懼れ、書簡を陸遜に与えて云うには 「大駕は已に旋還したが、賊は韓扁を得て、具さにこちらの闊狭を知ったであろう。しかも漢水は渇水し、急ぎ去るべきであろう」 陸遜は答えずに、人を催して葑・豆を播種させ、諸将と弈棊や射戯するのは常の通りだった。諸葛瑾 「陸伯言には智略が多い。思う所があるのだろう」 自ら来て陸遜に通見した。陸遜 「賊は大駕が旋還して再びは慼らぬと知れば、こちらに力を専らにしよう。又た(魏は)已に要害の地を守っており、兵は動揺するだろう。まずは自ら定まって兵を安んじ、機変の術を施し設け、その後に出撃するのだ。今ただちに退却を示せば、賊は吾らが怖れたと考えて逼って来るだろう。それは必敗の勢いだ」
かくして密かに諸葛瑾と計策を立て、諸葛瑾には舟船を督させ、陸遜は兵馬を悉く上陸させて襄陽城に向かった。敵は素より陸遜を憚っており、急遽城に還赴した。諸葛瑾はただちに船を率いて出帆し、陸遜は徐ろに部伍を整えると、声勢を張拓しつつ徒歩にて船に趨り、敵には干(おか)そうとする者はなかった。
 軍が白囲に到ると、言葉を駐猟に託し、潜かに将軍の周峻・張梁らを遣って江夏の新市・安陸・石陽を撃たせた。石陽の市は盛んであり、周峻らが奄(不意)に至ると、人は皆な物を捐(す)てて入城した。城門は噎(ふさが)って関(と)ざせず、敵はかくして自ら己が民を斫殺し、然る後に闔(と)じた。斬首・獲生は凡そ千余人[7]。その生得したものは皆な営で加護し、兵士には干擾・侵侮をさせなかった。家属を率いて来た者には就いて料視(見舞う)させた。もし妻子を亡くした者がいたら、衣糧を給し、厚く慰労を加え、還らせる事を命じたが、感慕して相い携えて帰順する者もあった。鄰境も懐き[8]、江夏の郡功曹の趙濯や弋陽の守備将の裴生および夷王の梅頤らが、揃って支党を帥いて陸遜に来附した。陸遜は財帛を傾け、周く充分に経恤(助成)した。

 これは施注した裴松之も指摘している通り、どうしたって理解できない一件です。呉の慈悲深さを示して来降者を誘おうとしたにしても、舞台裏が透けて見え過ぎていて茶番にすらなりません。たとえ石陽の住民が呉から拉致られた人間だったとしても、逃がされた処で呉のスポークスマンになる筈はありません。
 これは恐らく、親征して戦果ゼロという孫権の体面に配慮した蛮行を、後になってどうにか理由付けしようとした韋昭が来降者の動機に結び付けたんじゃないでしょうか。主だった来降者とされる三人はここだけの登場ですし、特に梅頤はこの件とは関係ない方面の柤中の人っぽいですし。

 又魏江夏太守逯式兼領兵馬、頗作邊害、而與北舊將文聘子休宿不協。遜聞其然、即假作答式書云:「得報懇惻、知與休久結嫌隙、勢不兩存、欲來歸附、輒以密呈來書表聞、撰衆相迎。宜潛速嚴、更示定期。」以書置界上、式兵得書以見式、式惶懼、遂自送妻子還洛。由是吏士不復親附、遂以免罷。

 又た魏の江夏太守逯式は兵馬を兼領し、頗る辺害を作していたが、北の旧将である文聘の(養)子の文休とは宿(か)ねて不協だった。陸遜はその様子を聞くと、即ち逯式に答える書簡を作って仮して云うには 「懇惻な報答を得、文久とは久しく嫌隙を結んでいる事を知りました。勢いとして両存せず、来降して帰附したいとか。ただちに密かに来書を上呈して表聞し、軍兵を撰んで迎えましょう。どうか潜かに速やかに厳(ととの)え、期日を定めて示して頂きたい」 この書を界上に置いた。逯式の兵が書簡を得て逯式に見せた処、逯式は惶懼し、かくて自ら妻子を送って洛陽に還した。これにより吏士は再びは親附せず、かくて罷免された[9]

 六年、中郎將周祗乞於鄱陽召募、事下問遜。遜以為此郡民易動難安、不可與召、恐致賊寇。而祗固陳取之、郡民呉遽等果作賊殺祗、攻沒諸縣。豫章・廬陵宿惡民、並應遽為寇。遜自聞、輒討即破、遽等相率降、遜料得精兵八千餘人、三郡平。

 六年(237)、中郎将周祗が鄱陽で召募する事を乞い、事は陸遜に下問された。陸遜はこの郡民が動揺しやすく按撫し難く、召募はならず、賊寇を致す事を恐れると(返答)した。周祗は固く陳べて召募の認可を取り、郡民の呉遽らは果たして賊を為して周祗を殺し、諸県を攻歿した。豫章・廬陵の宿悪民は揃って呉遽に応じて寇を為した。陸遜は聞くとただちに討って即座に破り、呉遽らは相い率いて降り、陸遜は料って精兵八千余人を得、三郡は平らいだ。

 そもそも兵の“召募”が乱に繋がるのか? 素直に“徴兵”って書けばいいのに。鄱陽郡では前年から彭旦らの造叛が発生しているので、周祗の要請は単純に 「募兵したい」 では括れません。「叛乱を平定して兵力を増したい」 もしくは 「叛乱を平定する為の兵力を調達したい」 ではないでしょうか。陸遜としては 「これ以上ひっかき回すな!」 でしょうが、それでも募兵が強行されたあたりに、陸遜と孫権の関係を垣間見る事ができます。この頃には孫権が名族層を無視る行動がかなり露骨になってきているんですよねー。

 時中書典校呂壹、竊弄權柄、擅作威福、遜與太常潘濬同心憂之、言至流涕。後權誅壹、深以自責、語在權傳。

 時に中書典校呂壹は権柄を竊弄して擅(ほしいまま)に威福(刑賞)を作し、陸遜と太常潘濬とは同心してこれを憂え、言論は流涕するに至った。後に孫権は呂壹を誅し、深く自らを責めた。物語は孫権伝に在る。

 時謝淵・謝厷等各陳便宜、欲興利改作、以事下遜。遜議曰:「國以民為本、彊由民力、財由民出。夫民殷國弱、民瘠國彊者、未之有也。故為國者、得民則治、失之則亂、若不受利、而令盡用立效、亦為難也。是以詩歎『宜民宜人、受祿于天』。乞垂聖恩、寧濟百姓、數年之間、國用少豐、然後更圖。」

 時に謝淵・謝厷らは各々便宜を陳べて興利改作を欲し[10]、事は陸遜に下問された。陸遜が議すには 「国は民を根本とし、彊きは民力に由来し、財は民より出ます。民が殷賑として国が弱く、民が痩せて国が彊いとは、未だ有った事はありません。そのため国を為す事は、民心を得れば治まり、失えば乱れ、もし利を受けさせずに、用(はたらき)を尽して効を立てようとも、亦た困難なのです。この事は『詩』でも“宜民宜人、受禄于天”として歎じております。どうか聖恩を垂れ、百姓を寧済し、数年の間には国用も少しくは豊かになり、然る後に更めて図られん事を」

 赤烏七年、代顧雍為丞相、詔曰:「朕以不コ、應期踐運、王塗未一、姦宄充路、夙夜戰懼、不惶鑒寐。惟君天資聰叡、明コ顯融、統任上將、匡國弭難。夫有超世之功者、必應光大之寵;懷文武之才者、必荷社稷之重。昔伊尹隆湯、呂尚翼周、内外之任、君實兼之。今以君為丞相、使使持節守太常傅常授印綬。君其茂昭明コ、脩乃懿績、敬服王命、綏靖四方。於乎!總司三事、以訓羣寮、可不敬與、君其勖之!其州牧都護領武昌事如故。」

 赤烏七年(244)、顧雍に代って丞相となり、詔があった。 「朕は不徳だ。運の巡りで踐阼したが、統一はできないわ姦宄が充ちているわで眠れないほど夙夜とも戦々兢々としている。君は天資聡叡で徳も顕らか、上将としての実績も充分だ。超世の功に対する光大の恩寵、文武を兼備する者の責務として、丞相に任じよう。伊尹や呂尚の働きを期待する。使持節・守太常の傅常を使者として印綬を授ける。その徳を更に茂昭させ、王命に敬服して四方を綏靖するように。嗚呼! 三司を総べ、群寮を訓えるのだ。励んでくれ! 州牧・都護・領武昌事はこれまで通りだ」

 建業には入らずに武昌で丞相の事を行なえ、と。既に陸遜と孫権は太子問題で揉めているので 「丞相にはしたけど、ウザいから入ってくんな」 ってこと?

 先是、二宮並闕、中外職司、多遣子弟給侍。全j報遜、遜以為子弟苟有才、不憂不用、不宜私出以要榮利;若其不佳、終為取禍。且聞二宮勢敵、必有彼此、此古人之厚忌也。j子寄、果阿附魯王、輕為交構。遜書與j曰:「卿不師日磾、而宿留阿寄、終為足下門戸致禍矣。」j既不納、更以致隙。及太子有不安之議、遜上疏陳:「太子正統、宜有盤石之固、魯王藩臣、當使寵秩有差、彼此得所、上下獲安。謹叩頭流血以聞。」書三四上、及求詣都、欲口論適庶之分、以匡得失。既不聽許、而遜外生顧譚・顧承・姚信、並以親附太子、枉見流徙。太子太傅吾粲坐數與遜交書、下獄死。權累遣中使責讓遜、遜憤恚致卒、時年六十三、家無餘財。

 これより以前、二宮が宮闕に並び、中外の職司の多くが子弟を遣って給侍させた。全jが陸遜に報じた処、陸遜は 「子弟に苟くも才があれば、用いられない事を憂う事はなかろう。私的に出仕して栄利を要求するのは適当ではない。もし佳才が無ければ、結局は禍を招く。しかも聞けば二宮は勢敵(互角の勢力)だとか。必ず彼我に分れよう。これは古人の厚く忌んだ事だ」
全jの子の全寄は果たして魯王に阿附し、軽佻に(太子と)事を構えた。陸遜は書簡を全jに与え 「卿は金日磾を師とせず[※]、かねて全寄を阿附に留めているが、終には足下の門戸は禍を招致する事になろう」 全jは納れず、更めて隙を招いた。
 太子に不安の議が生じるに及び、陸遜は上疏して陳べた 「太子は正統であり、盤石の固めがあって然るべきです。魯王は藩臣であり、寵秩に差を設け、彼此が所を得て上下は安んじる事ができます。謹んで叩頭流血して上聞するものです」 書簡が三・四度も上書され、都に詣る事を求め、嫡庶の分を口頭で論じて得失を匡そうとした。聴許されず、しかも陸遜の外甥の顧譚顧承・姚信は揃って太子に親附し、枉陥されて流徙されていた。太子太傅吾粲はしばしば陸遜と書簡を交した事で坐して下獄死した。孫権は累ねて中使を遣って陸遜を責譲し、陸遜は憤恚して卒した。時に齢六十三で、家には余財は無かった。

※ 武帝の寵を恃んで放縦だった息子を殺した人物。

 初、曁豔造營府之論、遜諫戒之、以為必禍。又謂諸葛恪曰:「在我前者、吾必奉之同升;在我下者、則扶持之。今觀君氣陵其上、意蔑乎下、非安コ之基也。」又廣陵楊竺少獲聲名、而遜謂之終敗、勸竺兄穆令與別族。其先覩如此。長子延早夭、次子抗襲爵。孫休時、追諡遜曰昭侯。

 曁艶が営府の論を造った当初、陸遜が諫戒するには、必ず禍を為すと。又た諸葛恪に謂うには 「私の前に在る者には、私は必ず同じく昇るよう奉じ、私の下に在る者には、これを扶持(援助)している。今、観たところ君の気は上を凌ぎ、意は下を蔑ろにしている。安徳の基とはならない」。 又た広陵の楊竺は若くして声名を獲ていたが、陸遜は終には敗れると考え、楊竺の兄の楊穆には族を別けるよう勧めた。その先見はこの通りだった。
 長子の陸延は早くに夭折し、次子の陸抗が襲爵した。孫休の時、陸遜に昭侯と追諡した。

 曁艶は品行一辺倒の厳格な人事案を主導し、楊竺は魯王の支党の一人となり、共に断罪された。

 
[1] 陸遜の祖父の陸紆は字を叔盤といい、慧敏・淑徳にして思慮と学問があり、城門校尉を代行した。父の陸駿は字を季才といい、懿徳が淳く信義に厚く、邦族(郷人)に懐かれ、官は九江都尉に至った。 (『陸氏世頌』)
[2] 陸氏祠堂像の賛によれば、海昌とは今の塩官県(嘉興市海寧)である。
[3] 孫権は陸遜の功徳を嘉し、殊に顕彰しようとし、上将軍・列侯にしたとはいえ、猶おも本州に挙げさせようした。かくして揚州牧呂範に別駕従事に辟させ、茂才に挙げさせた。 (『呉書』)
[4] 諸将は揃って劉備を迎撃しようとしたが、陸遜はならぬと考え 「劉備は軍を挙って東下している。鋭気は始めは盛んなもので、しかも高きに乗じて険阻を守り、ただちに攻めるのは難しい。これを攻めてよしんば下したとしても、猶お勝ち尽くすのは難しく、もし不利となる事があれば、我が大勢は損なわれるので、小事とはできないのだ。今はただ将士を奨励し、広く方略を施してその変遷を観るのだ。ここいらは平原の曠野であり、顛沛交馳(交戦による大敗)の憂いがあることだろう。今、山の縁を行軍しても勢いを展開できず、自ずと木石の間で罷弊するだろう。徐ろにその疲弊を制するだけだ」 諸将は理解せず、陸遜が畏れているのだと考え、各々が憤恨を懐いた。 (『呉書』)。
[5] 劉備は魏軍が大いに出征したと聞くと、書簡を陸遜に与えて云うには 「賊は今すでに江陵に在り、吾れが復た東すれば、将軍はそれを肯定してくれようか?」 陸遜 「ただ恐れるのは軍が新たに破れたばかりで、創痍も未だ癒えず、通親を求め始めた処であり、しかも自ら補うべきで、未だ兵を窮める暇ではありますまい。もし惟算せず、復た傾覆の余勢を以て遠くに送って来られようとするなら、命を逃がす所はありますまい」 (『呉録』)
[6] 陸機の陸遜の為の銘に曰く:魏の大司馬曹休が我が北鄙を侵した。かくして公に黄鉞を仮し、六師および中軍禁衛を統御して王事を摂行(代行)させた。主上は鞭を執り、百司は膝を屈した。
―― 陸遜に黄鉞を仮し、呉王は親しく鞭を執って引見した。 (『呉録』)
[7] 裴松之が考えるに、陸遜は孫権が退き、魏が己に力を注力できる事を思慮し、既に形勢を張拓して敵に犯させない事ができたからには、順流に舟して、復た怵タ(憂慮)する事も無かった。どうして復た潜かに諸将を遣って、小県を奄襲し、市人を駭奔させ、自ら相い傷害させたのか? 俘馘千人は魏が損害とするには足りず、徒らに無辜の民を横罹荼酷した。諸葛亮の渭浜の師とは何と異なっている事か![※] 用兵の道を違えたからには失律の凶は対応するもので、その血統に三世が無く、に及んで滅んだのは、どうしてこの余殃(余禍)でないといえようか!

※ 最期の北伐の時、民と雑居して屯田しながらも一切の軋轢を生じなかった事。

[8] 裴松之が考えるに、これは林を残(つ)くして巣を覆しておきながらその遺㲉(雛)を全うするのと異ならず、歪曲した小仁を恵んでどうして大虐を補えよう?
[9] 裴松之が考えるに、辺将が害をなすのは常の事であり、逯式に罪を得させた処で、代りの者が亦た再び行なうだけである。(相手が)狡焉思肆(狡猾横暴)で大患を成す者でなければ、どうして雅慮を虧損させてまで小詐を為す必要があろうか? これを美事とするのも又た首肯できるものではない。
[10] 謝淵、字は休徳。若くして徳操を修め、躬ずから耒耜(鋤鍬)を秉り、慼容(不満)を示さず、又た志慮を易えず、これによって名を知られた。孝廉に挙げられ、ようよう遷って建武将軍に至り、戎旅に在りながらも猶お人事に意を向けた。駱統の子の駱秀が門庭(一門)の謗りを被り、衆論はこれを狐疑して証明できる者が莫かった。謝淵はこれを聞くと歎息し 「公緒は早くに夭折し、同盟も哀しんだ。聞けばその子の志行は明弁で、しかし闇昧の謗を被り、諸々の夫子の烈然たる高断を望んだのに、各々は遅疑を懐いている。こんな事は望んではいない」 駱秀はついに明らかにされ、再びは瑕玷されず、終には顕士となった。謝淵の力である。 (『会稽典録』)
―― 謝厷は才と弁論に長け、計術を有していた。 (『呉歴』)
 
 
陸遜は将相大器?
 『三國志』で君主を除けば、一人一伝は諸葛亮と陸遜だけです。呉においての功績が、蜀の諸葛亮並みだと陳寿が認めた結果でしょう。 陸遜と云えば猇亭の役。 それ程のインパクトがありますが、それ以外の陸遜の大業績を挙げろと云われると、孫権からの白紙委任状くらいしか思い浮かびません。 これは自分の勉強不足が原因なので、『三國志』を勉強し直しました。

■ 職歴概略 ■
222年 猇亭の役。輔国将軍・右護軍・荊州牧に昇任。
  戦後、魏の南征を指摘して白帝城攻略に反対。
223年〜 対蜀外交の実務の全権を担当。
228年 石亭の役で曹休を大破。
229年 武昌に移鎮。上大将軍・右都護として太子を輔佐。
234年 孫権の合肥親征と呼応して襄陽を攻略。
237年 中郎将周祗の鄱陽での山越狩り失敗の後始末。
244年 丞相に就任。

 猇亭の役の後の白紙委任状、本文でも注しましたが、これが曲者です。 絶大な信頼の証ではありますが、対蜀外交での外交文書の修正に限定されたものです。 このあたりから陸遜のイメージと実際の乖離が起っているような気がします。
 次に石亭の役。 確かに大功ですが、お膳立ては孫権と周魴の合作で、陸遜に求められたのは軍事指揮。呂蒙的な手腕を期待されたに過ぎません。 結果論でいえば、陸遜が短期戦にまとめたお陰で想定外に強化された司馬懿軍に余計な動きをさせずに済んでいます。
 その翌年から武昌に進駐して、荊州牧のまま都督荊州および豫章三郡諸軍事となり、“軍国の事を統督”します。 謂ってみれば西面大総督であり、後世の西府の印象もあって陸遜が将相を兼ねるのはこれ以降だとされます。 ところが以後、陸遜の動向が状況を左右するような事態は234年の北伐までありません。 その北伐にしても、陸遜の役割は孫権の合肥攻略を成功させる為の牽制としての襄陽攻略で、企画段階で関与した様子はありません。 しかも孫権の一方的な即時退却によって陸遜は苦しい帰還を強いられ、しかも帰途に江夏を荒らして無駄な破壊活動をする始末です。
 中郎将周祗の鄱陽での山越狩りは、陸遜の諫言を排して強行したあげく失敗し、陸遜が後始末を兼ねて周祗の任務を完遂しています。 これは陸遜の先見の明を讃える挿話ですが、陸遜の管掌領域で行なわれている点に、図らずも陸遜と孫権の関係の変移を示しています。 237年といえば高額貨幣の発行や呂壹の横行など、孫権の中央強化政策が絶賛進行中です。
 孫権と陸遜の密月は、既に終わっていると見るべきでしょう。実際、久しぶりの挙国事業の241年の北伐に陸遜の名はありません。


■ 実績評価 ■

 呉が帝国となってからの陸遜は、西面統督として必要充分な仕事を果たしてはいます。 三国が接する荊州を20年以上破綻なく統治し、同格の朱然をも禦しているのは見事ですが、建業では孫権が側近政治を展開し、苦しい立場の丞相顧雍を援けたような描写も無く、朝廷との距離感は否めません。
 例えば、張温曁艶らの考課案や謝淵・謝厷らの経済案などは陸遜らの反対があっても行なわれていますし、呂壹に対しては「潘濬とともに心痛した」とあるだけで、具体的な対応は見えません。 夷・亶への遠征についても陸遜は反対派の1人に過ぎず、遼東遠征が中止されたのも陸遜の発言がどれだけ重んじられたかは不明です。

 そして、いざ丞相となった頃には孫権との関係は冷え切っていて、陸遜の丞相任期は僅かに1年ちょい。 その間、建業での執務すら認められず、二宮問題はこじれたまま全く進展していません。寧ろ孫権を意固地にさせたくらい。
丞相としての実績は見当たりません。


■ 総合評価 ■

 こうして見ると、諸葛亮のスケールダウン版どころか、呉の輔政という印象すら薄れてきます。 陸遜が主役となって国難に対処したのは猇亭の役と石亭の役ですが、後者は“陸遜でなければ”という訳でもありません。
猇亭の役の直後に魏の南征の意図を見抜き、潘璋や徐盛らが求める白帝城攻略に反対したのは確かに明察で、このとき軍を進めていたら江陵が魏に陥された可能性は充分に考えられます。 そういった意味では、猇亭の役は陸遜が軍人としても、政治家としても呉を救った事になりますが、陸遜伝を読む限りだと、魏の動員令に接して既に朱然や駱統が反対しているのへ、対蜀戦線の総責任者でもある陸遜の意見も聴いてみたというニュアンスが強いです。
 「大方針は決まっているけど、潘璋や徐盛も動かすから、陸遜さんも反対の意思表示を明確にしてよ」
みたいな? ここで陸遜が西伐派を支持していても、きっと認可は下りなかったことでしょう。

 猇亭の役でメジャーデビューしてから丞相就任までの立場は荊州牧と西面統督で、云ってみれば関羽の成功例。 それはそれで大したもので、建業の天子と武昌の統督のツートップ体制を確立したのは間違いなく陸遜の功績ですが、一伝を独占するほどか?と云われると、ちょっと違うんじゃないかなぁ。まぁ、実質的に陸抗伝と折半していますが。

 


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