夏侯惇字元讓、沛國譙人、夏侯嬰之後也。年十四、就師學、人有辱其師者、惇殺之、由是以烈氣聞。太祖初起、惇常為裨將、從征伐。太祖行奮武將軍、以惇為司馬、別屯白馬、遷折衝校尉、領東郡太守。太祖征陶謙、留惇守濮陽。
※ 牙門将・偏将と並ぶ最下級の半将軍。五品官。何れも将軍を補佐する役職で、牙門将は将軍の営門を守り、偏将は部隊長、裨将は副将。ここでの裨将は官職としてものではなく、副将の別称として用いたもの。
曹操が行奮武将軍を称したのは、反董卓連合に参加した初平元年(190)。いわば夏侯惇は曹操集団でも最古参で、しかもこの頃から別軍を率いて独立行動をする特別の存在です。
そして徐州遠征に際して曹操は、夏侯惇と荀ケという智勇の両輪を置いて行っています。猇亭の役に臨む劉備と同じですね。感情に任せた行軍のテンプレなんでしょうか? 今回は結果的にこの措置に救われますが、意地の悪い見方をすれば徐州遠征は袁紹の無茶振りで、東郡すら掌握できていない事を自覚している曹操が保険として智勇の両輪を置いていったとも勘繰れます。
張邈叛迎呂布、太祖家在鄄城、惇輕軍往赴、適與布會、交戰。布退還、遂入濮陽、襲得惇軍輜重。遣將偽降、共執持惇、責以寶貨、惇軍中震恐。惇將韓浩乃勒兵屯惇營門、召軍吏諸將、皆案甲當部不得動、諸營乃定。遂詣惇所、叱持質者曰:「汝等凶逆、乃敢執劫大將軍、復欲望生邪!且吾受命討賊、寧能以一將軍之故、而縱汝乎?」因涕泣謂惇曰:「當奈國法何!」促召兵撃持質者。持質者惶遽叩頭、言「我但欲乞資用去耳!」浩數責、皆斬之。惇既免、太祖聞之、謂浩曰:「卿此可為萬世法。」乃著令、自今已後有持質者、皆當并撃、勿顧質。由是劫質者遂絶。
太祖自徐州還、惇從征呂布、為流矢所中、傷左目。復領陳留・濟陰太守、加建武將軍、封高安郷侯。時大旱、蝗蟲起、惇乃斷太壽水作陂、身自負土、率將士勸種稻、民ョ其利。轉領河南尹。太祖平河北、為大將軍後拒。鄴破、遷伏波將軍、領尹如故、使得以便宜從事、不拘科制。建安十二年、録惇前後功、摯風W千八百戸、并前二千五百戸。
前段と当段で妙な“大将軍”の使われ方をしています。夏侯惇の“大将軍”は美称だとして、曹操の方はよく判りません。当時の曹操の官職は司空・行車騎将軍です。確かに袁紹に譲る前は大将軍でしたが。筑摩版では「将」を衍字としています。それにしても夏侯惇は献帝を奉迎してそれほど経たずに封侯されるとは、陪臣としては異例の処遇です。
鄴が破れると伏波將軍に遷り、領河南尹はもとのまま、従事に於いては科制に拘(とら)われない便宜の措置が認められた。法令より自己判断が優先というお墨付きを頂きました。官渡の役に始まる袁氏との一連の抗争も、夏侯惇が王畿をがっちり押さえていたからこそ最終的に遼東くんだりまで遠征できたわけで、夏侯惇に対する曹操の信頼の深さが伺えます。劉備伝では于禁と倶に新野を襲って撃退された事が記されていますが、本伝での夏侯惇の記録は216年まで省略です。烈気の人って呼ばれていた割に河南尹として蕭何の様な役割を担っていたらしく、案外、猛将タイプではないのかも。
建安十二年(207)、夏侯惇の前後の功を録して封邑千八百戸を増し、併せて二千五百戸となった。二十一年、從征孫權還、使惇都督二十六軍、留居巣。賜伎樂名倡、令曰:「魏絳以和戎之功、猶受金石之樂、況將軍乎!」二十四年、太祖軍于摩陂、召惇常與同載、特見親重、出入臥内、諸將莫得比也。拜前將軍、督諸軍還壽春、徙屯召陵。文帝即王位、拜惇大將軍、數月薨。
この段はほぼ、夏侯惇がいかに重んじられたかという実例です。都督二十六軍は東面軍総司令官にあたり、現に後任となった曹休は鎮南将軍・仮節・都督諸軍事となっています。寝室出入りの御免状などは、同姓の曹仁にすら許されなかった特権です。
惇雖在軍旅、親迎師受業。性清儉、有餘財輒以分施、不足資之於官、不治産業。諡曰忠侯。子充嗣。帝追思惇功、欲使子孫畢侯、分惇邑千戸、賜惇七子二孫爵皆關内侯。惇弟廉及子楙素自封列侯。初、太祖以女妻楙、即清河公主也。楙歴位侍中尚書・安西鎮東將軍、假節。充薨、子廙嗣。廙薨、子劭嗣。
夏侯惇を総評した言葉が“清儉”であり“忠”。猛とか驍とか勇とかが無いあたりが将軍としての夏侯惇の評価でしょう。
子の夏侯充が嗣いだ。文帝は夏侯惇の功を追思し、子孫を畢(み)な侯にしようと考え、夏侯惇の邑の千戸を分ち、夏侯惇の七子二孫に皆な爵関内侯を賜った。韓浩者、河内人。沛國史渙與浩倶以忠勇顯。浩至中護軍、渙至中領軍、皆掌禁兵、封列侯。
韓浩と似たような逸話が范曄『後漢書』にもあります。光和二年(179)に盗賊が引退した大官の少子を劫質して金品を求め、司隷校尉が河南尹や洛陽令を率いて出動しながら手出しできずにいると、件の大官が捕吏を叱責して人質もろとも撃たせたというものです。件の大官は橋玄で、『後漢書』によれば、これによって橋玄は并撃の法を復活させ、これより京師では貴顕の家族を人質に取る事件が絶えたとあります。
…無理もない。せめて「独眼竜」とか呼んであげれば良かったのに。
ところでこの『魏略』の書き方だと夏侯惇と夏侯淵が双璧のように感じられますし、実際にそのように扱われる事が多い両者ですが、両者の官職の遍歴などを見るとどうやら錯覚の様です。謂ってみれば蜀の五虎将に趙雲が混じっている感じ。
所謂る屯田の議です。呂布や袁術が健在な中で天子を奉迎したにも関わらず、連年の旱魃・蝗害で往生しかけていた時期です。武帝紀建安元年の末尾に“ついで”のように記されています。
太祖が柳城を討とうとした時、領軍の史渙は道は遠く深入するのは完き計ではないとし、韓浩と共に諫めようとした。韓浩 「今、兵勢は彊盛で、威は四海に加わり、戦えば勝ち、攻めれば取り、志のようにならない事は無い。この時に天下の患を除いておかねばきっと後の憂いとなろう。くわえて公は神武であり、挙げて遺策というものが無い。吾れは君と中軍の主であり、士気を喪わせるのは宜しくない」夏侯淵字妙才、惇族弟也。太祖居家、曾有縣官事、淵代引重罪、太祖營救之、得免。太祖起兵、以別部司馬・騎都尉從、遷陳留・潁川太守。及與袁紹戰于官渡、行督軍校尉。紹破、使督兗・豫・徐州軍糧;時軍食少、淵傳饋相繼、軍以復振。昌豨反、遣于禁撃之、未拔、復遣淵與禁并力、遂撃豨、降其十餘屯、詣禁降。淵還、拜典軍校尉。濟南・樂安黄巾徐和・司馬倶等攻城、殺長吏、淵將泰山・齊・平原郡兵撃、大破之、斬和、平諸縣、收其糧穀以給軍士。
「県官事」って何? 人事? 内容については筑摩版でも不明との事で、他書による補足も無いようです。
太祖が起兵すると別部司馬・騎都尉として従い、陳留・潁川太守に遷った。袁紹と官渡で戦うに及んで行督軍校尉となり、袁紹を破ると兗・豫・徐州の軍糧を督した。当時は軍糧が少なかったが、夏侯淵は伝饋(送運)を相継ぎ、軍はそのために復た振った。(河北経略の最中に)昌豨が反き、于禁を遣ってこれを撃たせたが、抜けなかったので夏侯淵を遣って于禁と合力させ、かくて昌豨を撃ち、その十余屯を降し、昌豨は于禁に詣って降った。夏侯淵は帰還して典軍校尉に拝された[2]。典軍校尉ですよ! 軍を典る校尉。初代は曹操。曹爽に附録の丁謐伝でも 「総摂内外」 とありますから、後の中領軍的な要官だったと思われます。
済南・楽安の黄巾の徐和・司馬倶らが城を攻めて長吏を殺した為、夏侯淵は泰山・斉・平原の郡兵を率いて撃ち、これを大破して徐和を斬り、諸県を平定し、その糧穀を収めて軍士に給した。十四年、以淵為行領軍。太祖征孫權還、使淵督諸將撃廬江叛者雷緒、緒破、又行征西護軍、督徐晃撃太原賊、攻下二十餘屯、斬賊帥商曜、屠其城。從征韓遂等、戰於渭南。又督朱靈平隃糜・汧氐。與太祖會安定、降楊秋。
雷緒は官渡の役の頃に梅乾(梅成?)・陳蘭らと劉馥に降った人物。荊南四郡を接収した劉備に帰順した事が 「廬江雷緒率部曲數萬口稽顙」 として先主伝にあります。陳蘭らについては張遼伝・楽進伝・張郃伝・臧覇伝にあります。武帝紀建安十四年 「揚州郡縣長吏」 と併せて読むと、この頃になっても江北揚州が全く安定していなかった事が解ります。
又た行征西護軍となって徐晃を督して太原の賊を撃ち、攻めて二十余屯を下し、賊帥の商曜を斬ってその城を屠った。韓遂らへの遠征に従い、渭南で戦った。又た朱霊を督して隃糜・洴氐を平定した。太祖と安定で会同して楊秋を降した。十七年、太祖乃還鄴、以淵行護軍將軍、督朱靈・路招等屯長安、撃破南山賊劉雄、降其衆。圍遂・超餘黨梁興於鄠、拔之、斬興、封博昌亭侯。
ここで夏侯惇伝での宿題を。夏侯惇と夏侯淵の“重さ”の比較ですが、夏侯惇が196〜97年頃に将軍号と爵位を得ているのに対し、夏侯淵の将軍号と封爵は212年。確かに典軍校尉・領軍という重任にはありましたが、両者の褒賞には約20年の差があります。このほか異例ともいえる入室御免が認められていた夏侯惇と、将軍らしからぬ陣頭指揮を窘められていた夏侯淵。両者は曹操と同世代かつ軍事指揮官として活躍した夏侯氏というだけで、同格として扱うにはあまりにも曹操からの信頼度に差があったように思えます。
馬超圍涼州刺史韋康於冀、淵救康、未到、康敗。去冀二百餘里、超來逆戰、軍不利。洴氐反、淵引軍還。
十九年、趙衢・尹奉等謀討超、姜敍起兵鹵城以應之。衢等譎説超、使出撃敍、於後盡殺超妻子。超奔漢中、還圍祁山。敍等急求救、諸將議者欲須太祖節度。淵曰:「公在鄴、反覆四千里、比報、敍等必敗、非攻急也。」遂行、使張郃督歩騎五千在前、從陳倉狹道入、淵自督糧在後。郃至渭水上、超將氐羌數千逆郃。未戰、超走、郃進軍收超軍器械。淵到、諸縣皆已降。韓遂在顯親、淵欲襲取之、遂走。淵收遂軍糧、追至略陽城、去遂二十餘里、諸將欲攻之、或言當攻興國氐。淵以為遂兵精、興國城固、攻不可卒拔、不如撃長離諸羌。長離諸羌多在遂軍、必歸救其家。若〔捨〕羌獨守則孤、救長離則官兵得與野戰、可必虜也。淵乃留督將守輜重、輕兵歩騎到長離、攻燒羌屯、斬獲甚衆。諸羌在遂軍者、各還種落。遂果救長離、與淵軍對陳。諸將見遂衆、惡之、欲結營作塹乃與戰。淵曰:「我轉鬭千里、今復作營塹、則士衆罷弊、不可久。賊雖衆、易與耳。」乃鼓之、大破遂軍、得其旌麾、還略陽、進軍圍興國。氐王千萬逃奔馬超、餘衆降。轉撃高平屠各、皆散走、收其糧穀牛馬。乃假淵節。
興国・長離の位置が判らないと夏侯淵の行軍もさっぱりです。武帝紀によれば韓遂は金城(蘭州市区)から出てきたようで、夏侯淵は張郃に後続したらしいので冀城には行ったんだとは思います。泰安県に興国鎮があるので、ココだったりすると楽なんですが。
初、枹罕宋建因涼州亂、自號河首平漢王。太祖使淵帥諸將討建。淵至、圍枹罕、月餘拔之、斬建及所置丞相已下。淵別遣張郃等平河關、渡河入小湟中、河西諸羌盡降、隴右平。太祖下令曰:「宋建造為亂逆三十餘年、淵一舉滅之、虎歩關右、所向無前。仲尼有言:『吾與爾不如也。』」二十一年、摯侮O百戸、并前八百戸。還撃武都氐羌下辯、收氐穀十餘萬斛。太祖西征張魯、淵等將涼州諸將侯王已下、與太祖會休亭。太祖毎引見羌・胡、以淵畏之。
會魯降、漢中平、以淵行都護將軍、督張郃・徐晃等平巴郡。太祖還鄴、留淵守漢中、即拜淵征西將軍。二十三年、劉備軍陽平關、淵率諸將拒之、相守連年。二十四年正月、備夜燒圍鹿角。淵使張郃護東圍、自將輕兵護南圍。備挑郃戰、郃軍不利。淵分所將兵半助郃、為備所襲、淵遂戰死。諡曰愍侯。
初、淵雖數戰勝、太祖常戒曰:「為將當有怯弱時、不可但恃勇也。將當以勇為本、行之以智計;但知任勇、一匹夫敵耳。」
淵妻、太祖内妹。長子衡、尚太祖弟海陽哀侯女、恩寵特隆。衡襲爵、轉封安寧亭侯。黄初中、賜中子霸、太和中、賜霸四弟、爵皆關内侯。
霸、正始中為討蜀護軍右將軍、進封博昌亭侯、素為曹爽所厚。聞爽誅、自疑、亡入蜀。以淵舊勳赦霸子、徙樂浪郡。霸弟威、官至兗州刺史。威弟惠、樂安太守。惠弟和、河南尹。衡薨、子績嗣、為虎賁中郎將。績薨、子褒嗣。
張飛ロリコン疑惑勃発ですよ。まぁ年齢的に決して異常事態ではありませんが、見知らぬ相手ですし、良家の娘だと知ったからだなんて後付けに違いない、きっと。さすがに「十歳以上はババァ」とは云わなかったようですが。
息女が産まれ、劉禅の皇后となった。そのため夏侯淵が亡くなった当初、張飛の妻は請うてこれを葬った。夏侯霸が入蜀するに及び、劉禅は相見えて釈明した 「卿の父は戦陣で死んだのだ。我が父が手にかけたものではないのだ」 自身の児を指し示し 「これは夏侯氏の甥である」 と。爵位と恩寵を厚く加えた。 (『魏略』)入蜀後の夏侯霸の事績は殆ど伝わらず、延熙十八年(255)に、車騎将軍として姜維と倶に臨洮(定西市岷県)の西で魏の雍州刺史王経を大破した事が姜維伝で確認できる程度です。張飛の娘は姉妹とも皇后に立てられましたが、夏侯霸が入蜀した当時の皇后は妹の方。魏蜀両朝の皇族で晋にとっても準皇族で、事件史的にも結構なキーパーソンですが、附録としての伝すら立てられていないのは残念なことです。
残念ながら晋に景陽皇后は存在しません。景帝=司馬師の正夫人でしょうから、献皇后羊徽瑜か懐皇后夏侯徽となりますが、同姓不婚の原則がありますから羊皇后の事でしょう。因みに羊皇后の実弟は羊祜、夏侯皇后の実兄は夏侯玄です。
感想は人それぞれなんでしょうが、どうにも小憎らしいだけの増長したクソガキボンボンではなかろうかと。夏侯淵の親莫迦馬鹿親っぷりもイタイ事この上ない。曹彰とはさぞ気が合ったか猛衝突したかのどちらかでしょう。
曹仁字子孝、太祖從弟也。少好弓馬弋獵。後豪傑並起、仁亦陰結少年、得千餘人、周旋淮・泗之間、遂從太祖為別部司馬、行事N校尉。太祖之破袁術、仁所斬獲頗多。從征徐州、仁常督騎、為軍前鋒。別攻陶謙將呂由、破之、還與大軍合彭城、大破謙軍。從攻費・華・即墨・開陽、謙遣別將救諸縣、仁以騎撃破之。太祖征呂布、仁別攻句陽、拔之、生獲布將劉何。太祖平黄巾、迎天子都許、仁數有功、拜廣陽太守。太祖器其勇略、不使之郡、以議郎督騎。太祖征張繍、仁別徇旁縣、虜其男女三千餘人。太祖軍還、為繍所追、軍不利、士卒喪氣、仁率寺虫m甚奮、太祖壯之、遂破繍。
広陽は現在の北京市一帯で、当時は公孫瓚の勢力圏。この叙任は箔付けの遙授でしょう。
太祖が張繍を征伐したおり、曹仁は別に近県を徇(めぐ)り、男女三千余人を虜とした。太祖の軍が帰還中に張繍に追撃され、軍は不利となって士卒は士気を喪ったが、曹仁は将士を率励して甚だ奮戦し、太祖はこれを壮とした。かくて張繍を破った。 太祖與袁紹久相持於官渡、紹遣劉備徇㶏彊諸縣、多舉衆應之。自許以南、吏民不安、太祖以為憂。仁曰:「南方以大軍方有目前急、其勢不能相救、劉備以彊兵臨之、其背叛固宜也。備新將紹兵、未能得其用、撃之可破也。」太祖善其言、遂使將騎撃備、破走之、仁盡復收諸叛縣而還。紹遣別將韓荀鈔斷西道、仁撃荀於雞洛山、大破之。由是紹不敢復分兵出。復與史渙等鈔紹運車、燒其糧穀。
河北既定、從圍壺關。太祖令曰:「城拔、皆坑之。」連月不下。仁言於太祖曰:「圍城必示之活門、所以開其生路也。今公告之必死、將人自為守。且城固而糧多、攻之則士卒傷、守之則引日久;今頓兵堅城之下、以攻必死之虜、非良計也。」太祖從之、城降。於是録仁前後功、封都亭侯。
曹仁は別軍の将として活動する事が多かったようで、夏侯惇とはまた別の方向で“全てを任せられる親族”だったようです。それにしても対袁氏では曹仁・夏侯惇・夏侯淵と、一族でも有力な武将は揃って後方を担当していますね。口では強がっていてもよほど荊州の動向が気になっていたんでしょう。
河北が既に定まり、壺関の攻囲に従った。太祖が布令した。「城を抜いたら皆な坑埋めにせよ」。連月しても下らなかった。曹仁が太祖に言うには 「囲城に必ず活門を示すのは、その生きる路を開くからです。今、公は必死である事を告げ、自らの為に守らせています。加えて城は固く糧は多く、攻めれば士卒は傷つき、守れば日数は久しくなります。今、堅城の下で頓兵し、必死の虜を攻めるのは良計ではありません」 太祖はこれに従い、城は降った。ここで曹仁の前後の功を記録し、都亭侯に封じた。曹操が今頃、こんな拙策を採るものだろうかという素朴な疑問があります。曹仁上げの為の曹操下げならまぁ良しですが、これが事実なら、「戦術家曹操」の評判には大いに疑問符が付くことになります。
從平荊州、以仁行征南將軍、留屯江陵、拒呉將周瑜。瑜將數萬衆來攻、前鋒數千人始至、仁登城望之、乃募得三百人、遣部曲將牛金逆與挑戰。賊多、金衆少、遂為所圍。長史陳矯倶在城上、望見金等垂沒、左右皆失色。仁意氣奮怒甚、謂左右取馬來、矯等共援持之。謂仁曰:「賊衆盛、不可當也。假使棄數百人何苦、而將軍以身赴之!」仁不應、遂被甲上馬、將其麾下壯士數十騎出城。去賊百餘歩、迫溝、矯等以為仁當住溝上、為金形勢也、仁徑渡溝直前、衝入賊圍、金等乃得解。餘衆未盡出、仁復直還突之、拔出金兵、亡其數人、賊衆乃退。矯等初見仁出、皆懼、及見仁還、乃歎曰:「將軍真天人也!」三軍服其勇。太祖益壯之、轉封安平亭侯。
挑戦だなんて…。数千に対して三百だなんて、どう考えても威力偵察でしょう。 「偵察に出したらヘタ打って囲まれました」 って素直に書けばいいのに。曹仁を猪突タイプに仕立てたいんでしょうか。
長史陳矯が倶に城上に在った。牛金らが垂没したのを望見すると左右は皆な色を失った。曹仁の意気は奮怒甚だしく、左右に謂って馬を取ってこさせた。陳矯らは共に引き留めて曹仁に謂うには 「賊の軍勢は盛んで当る事は出来ません。仮に数百人を棄てたとてどれ程の事でしょう。将軍自身で赴かれるなどとは!」 曹仁は応えず、かくて被甲して上馬し、麾下の壮士数十騎を率いて出城した。賊を去ること百余歩の溝(ほり)に迫った処で、陳矯らは曹仁が溝の辺りまで往って牛金救援の形勢とすると考えていたが、曹仁は溝を渡って真直ぐ前進して賊の包囲に衝入し、かくして牛金らは解放された。余衆が未だに残されていると、曹仁は復た直ちに還って突し、牛金の兵を救出した。数人が亡くなっただけであり、賊の軍勢は後退した。陳矯らは初め、曹仁の出城を見て皆な懼れ、曹仁の帰還を見るに及んで歎じた 「将軍は真に天人であります!」 三軍はその勇に心服した。太祖は益々これを壮とし、安平亭侯に転封した。結局、江陵の保持には失敗します。ここでは書かれていませんが、周瑜に重傷を負わせて呉軍を撤退させるチャンスに片足を載せるくらいまでには持っていってはいますけれど。
太祖討馬超、以仁行安西將軍、督諸將拒潼關、破超渭南。蘇伯・田銀反、以仁行驍騎將軍、都督七軍討銀等、破之。
復以仁行征南將軍、假節、屯樊、鎮荊州。侯音以宛叛、略傍縣衆數千人、仁率諸軍攻破音、斬其首、還屯樊、即拜征南將軍。關羽攻樊、時漢水暴溢、于禁等七軍皆沒、禁降羽。仁人馬數千人守城、城不沒者數板。羽乘船臨城、圍數重、外内斷絶、糧食欲盡、救兵不至。仁激寺虫m、示以必死、將士感之皆無二。徐晃救至、水亦稍減、晃從外撃羽、仁得潰圍出、羽退走。
この間の城内の様子は満寵伝でも覧る事ができます。
仁少時不脩行檢、及長為將、嚴整奉法令、常置科於左右、案以從事。鄢陵侯彰北征烏丸、文帝在東宮、為書戒彰曰:「為將奉法、不當如征南邪!」及即王位、拜仁車騎將軍、都督荊・揚・益州諸軍事、進封陳侯、摎W二千、并前三千五百戸。追賜仁父熾諡曰陳穆侯、置守冢十家。後召還屯宛。孫權遣將陳邵據襄陽、詔仁討之。仁與徐晃攻破邵、遂入襄陽、使將軍高遷等徙漢南附化民於漢北、文帝遣使即拜仁大將軍。又詔仁移屯臨潁、遷大司馬、復督諸軍據烏江、還屯合肥。黄初四年薨、諡曰忠侯。子泰嗣、官至鎮東將軍、假節、轉封ィ陵侯。泰薨、子初嗣。又分封泰弟楷・範、皆為列侯、而牛金官至後將軍。
「行検」とは何だろう…。これに限らず、不勉強が祟って直感に触れない熟語が多いわけで。「検」は慎み、みさお、手本という意味があるとか。というか行検で辞典に載っていました。品行だそうです。なるほどなー。ちなみに郭嘉は 「不治行検」 と批判されました。
鄢陵侯曹彰が北のかた烏丸に遠征する時、文帝は東宮に在って書簡で曹彰を戒め 「将となって法を奉ずる事、征南将軍の如くせよ!」 と。大分に省略されていますが、陸遜の北上・魏の襄陽放棄・柤中の呉への帰属という流れの中での一件です。呉主伝の建安二十五年あたりで簡単にまとめてみました。
又た詔命して曹仁を臨潁(河南省漯河市)に移屯させ、大司馬に遷した。復た諸軍を督して烏江(歴陽/馬鞍山市和県)に拠らせ、次いで合肥に還屯させた。 曹仁が三州都督になったのは4月に死んだ夏侯惇の後任としてでしょうから、宛に移駐したのはそれから程なくだと思われます。大将軍就任は文帝の即位の5ヶ月後、221年4月で、10月には大将軍を離れます。これは孫権への大将軍遙授の煽りですが、孫権の離叛が確定した後もそのままです。「復督諸軍據烏江」 は洞浦の役を含む孫権討伐の一環としての動きで、その後の合肥移駐は魏の軍管区再編の結果でしょうが、大都督の実質は曹真の担当になっています。
魏では大将軍の上位に大司馬が置かれ、後には“南面統轄の大将軍”と、“行軍元帥の大司馬”という棲み分けも出来ますが、その端緒がこの曹仁への処遇だと思われます。一族の長老かつ元勲を繁忙な前線に飛ばす上で、昇進という名目を付加するという、曹丕らしい手法です。
尚お、中央には太尉が存在し、又た嘗ての大司馬の職掌は領軍・護軍が握っているので、大司馬の職はこの措置の為に復活させたと見えなくもないです。この後、大将軍は暫く空位です。
仁弟純、初以議郎參司空軍事、督虎豹騎從圍南皮。袁譚出戰、士卒多死。太祖欲緩之、純曰:「今千里蹈敵、進不能克、退必喪威;且縣師深入、難以持久。彼勝而驕、我敗而懼、以懼敵驕、必可克也。」太祖善其言、遂急攻之、譚敗。純麾下騎斬譚首。及北征三郡、純部騎獲單于蹋頓。以前後功封高陵亭侯、邑三百戸。從征荊州、追劉備於長坂、獲其二女輜重、收其散卒。進降江陵、從還譙。建安十五年薨。文帝即位、追諡曰威侯。子演嗣、官至領軍將軍、正元中進封平樂郷侯。演薨、子亮嗣。
“勇”はおそらく斬り込み隊長としての勇ではなく、一軍の指揮官としての勇だと思われます。だから夏侯淵や楽進や許褚などは対象外なんでしょう。一に曹仁、二に張遼。やはり夏侯惇は猛将とは認識されていなかったようです。まぁ、眼球啖ったのも創作ですしね。
曹洪字子廉、太祖從弟也。太祖起義兵討董卓、至滎陽、為卓將徐榮所敗。太祖失馬、賊追甚急、洪下、以馬授太祖、太祖辭讓、洪曰:「天下可無洪、不可無君。」遂歩從到汴水、水深不得渡、洪循水得船、與太祖倶濟、還奔譙。揚州刺史陳温素與洪善、洪將家兵千餘人、就温募兵、得廬江上甲二千人、東到丹楊復得數千人、與太祖會龍亢。太祖征徐州、張邈舉兗州叛迎呂布。時大饑荒、洪將兵在前、先據東平・范、聚粮穀以繼軍。太祖討邈・布於濮陽、布破走、遂據東阿、轉撃濟陰・山陽・中牟・陽武・京・密十餘縣、皆拔之。以前後功拜鷹揚校尉、遷揚武中郎將。天子都許、拜洪諫議大夫。
別征劉表、破表別將於舞陽・陰葉・堵陽・博望、有功、遷事N將軍、封國明亭侯。累從征伐、拜都護將軍。文帝即位、為衞將軍、遷驃騎將軍、進封野王侯、益邑千戸、并前二千一百戸、位特進;後徙封都陽侯。
この揚州募兵ですが、武帝紀では 「夏侯惇を同道した」 とあっても曹洪への言及はありません。夏侯惇は別将、曹洪は部下。そんな関係性なのでしょう。この募兵は結局、龍亢での造叛で失敗していますが、その前の汴水での一件を曹操は最大の危機だったと認識し、後々まで曹洪の立場を庇護しています。
太祖が徐州に遠征すると、張邈が兗州を挙げて叛いて呂布を迎えた。時に大饑荒があり、曹洪は兵を率いて御前に在り、先ず東平・范に拠り、粮穀を聚めて軍に中継した。太祖が濮陽で張邈・呂布を討ち、呂布を破走させると(曹洪は)東阿に拠り、転じて済陰・山陽・中牟・陽武・京・密の十余県を撃ち、皆なこれを抜いた。前後の功で鷹揚校尉に拝された。揚武中郎将に遷り、天子が許に都すると曹洪を諫議大夫に拝した。これ、208年の事だと思っていましたが、ひょっとしたら袁兄弟が存命中の“なんちゃって南征”の事じゃないでしょうかね。だとしたら封侯は207年の大行賞の際かも。
累ねて征伐に従い、都護将軍に拝された。文帝が即位すると衛将軍とされ、驃騎将軍に遷り、野王侯に進封されて邑千戸を益され、以前と併せて二千一百戸となり、特進に位した。後に都陽侯に徙封された。始、洪家富而性吝嗇、文帝少時假求不稱、常恨之、遂以舍客犯法、下獄當死。羣臣並救莫能得。卞太后謂郭后曰:「令曹洪今日死、吾明日敕帝廢后矣。」於是泣涕屡請、乃得免官削爵土。洪先帝功臣、時人多為觖望。明帝即位、拜後將軍、更封樂城侯、邑千戸、位特進、復拜驃騎將軍。太和六年薨、諡曰恭侯。子馥、嗣侯。初、太祖分洪戸封子震列侯。洪族父瑜、脩慎篤敬、官至衞將軍、封列侯。
曹魏に於ける曹洪の立ち位置を端的に指摘した一言です。もちろん曹洪の功績は滎陽の役だけでなく、その後の揚州での募兵や兗州奪還でも殊勲と云って差し支えありません。曹操が基盤を確立する上で欠けてはならなかった存在で、太后がここまで食い下がるのも当然です。言ってみれば元勲of元勲。
かくして詔命で釈放した。猶おもその財産が没入されたままだったので、太后が又た言上し、かくして後に返還された。 かつて太祖が司空だった時、率先垂範しようと毎年の徴税には譙県に平貲(財産調査)させた。時の譙令は曹洪の貲財を調査して曹公の家と同等とした。太祖 「我が家の貲財がどうして子廉に比肩しよう!」時代が変わるという事を如実に示しているので全文訳してみました。短文とはいえ本来ならブッチしています。曹操時代には大手を振って闊歩していたお大尽様が、かつて借財を取りつく嶋もなく断った相手に、ここまで卑屈になって対応するとは。まぁ、天子に対する謝罪文というのは本来こうしたものなんでしょうけど。