三國志修正計画

三國志卷九 魏志九/諸夏侯曹傳 (一)

夏侯惇

 夏侯惇字元讓、沛國譙人、夏侯嬰之後也。年十四、就師學、人有辱其師者、惇殺之、由是以烈氣聞。太祖初起、惇常為裨將、從征伐。太祖行奮武將軍、以惇為司馬、別屯白馬、遷折衝校尉、領東郡太守。太祖征陶謙、留惇守濮陽。

 夏侯惇、字は元讓。沛国譙県の人で、夏侯嬰の後裔である。十四歳で師に就いて学び、その師を辱める者があると夏侯惇はこれを殺し、これより烈気を以て知られた。太祖が起ってより夏侯惇は常に裨将[※]として征伐に従った。太祖が行奮武将軍となると夏侯惇を司馬とし、別に白馬に駐屯させた。折衝校尉に遷って東郡太守を兼領した。太祖が陶謙を征伐した際には夏侯惇を留めて濮陽を守らせた。

※ 牙門将・偏将と並ぶ最下級の半将軍。五品官。何れも将軍を補佐する役職で、牙門将は将軍の営門を守り、偏将は部隊長、裨将は副将。ここでの裨将は官職としてものではなく、副将の別称として用いたもの。

 曹操が行奮武将軍を称したのは、反董卓連合に参加した初平元年(190)。いわば夏侯惇は曹操集団でも最古参で、しかもこの頃から別軍を率いて独立行動をする特別の存在です。
 そして徐州遠征に際して曹操は、夏侯惇と荀ケという智勇の両輪を置いて行っています。猇亭の役に臨む劉備と同じですね。感情に任せた行軍のテンプレなんでしょうか? 今回は結果的にこの措置に救われますが、意地の悪い見方をすれば徐州遠征は袁紹の無茶振りで、東郡すら掌握できていない事を自覚している曹操が保険として智勇の両輪を置いていったとも勘繰れます。

張邈叛迎呂布、太祖家在鄄城、惇輕軍往赴、適與布會、交戰。布退還、遂入濮陽、襲得惇軍輜重。遣將偽降、共執持惇、責以寶貨、惇軍中震恐。惇將韓浩乃勒兵屯惇營門、召軍吏諸將、皆案甲當部不得動、諸營乃定。遂詣惇所、叱持質者曰:「汝等凶逆、乃敢執劫大將軍、復欲望生邪!且吾受命討賊、寧能以一將軍之故、而縱汝乎?」因涕泣謂惇曰:「當奈國法何!」促召兵撃持質者。持質者惶遽叩頭、言「我但欲乞資用去耳!」浩數責、皆斬之。惇既免、太祖聞之、謂浩曰:「卿此可為萬世法。」乃著令、自今已後有持質者、皆當并撃、勿顧質。由是劫質者遂絶。

張邈が叛いて呂布を迎えた。太祖の家は鄄城(山東省渮沢市)に在り、夏侯惇は軽装軍で往赴し、たまたま呂布と遭遇して交戦した。呂布は退還して濮陽に入り、夏侯惇の軍の輜重を襲って奪い、将を遣って偽降させ、共に夏侯惇を執えて宝貨を責(もと)めた。夏侯惇の軍中は震恐した。夏侯惇の将の韓浩は兵を勒(ひき)いて夏侯惇の営門に屯し、軍吏・諸将を召集して皆なに甲冑を案(と)いて部署を離れさせず、かくして諸営は鎮定した。かくて夏侯惇の在所に詣ると人質を執持している者を叱り 「汝ら凶逆が、大将軍を執えておきながら復た生を望もうというのか! まして吾れは命を受けて賊を討っているのに、どうして一将軍の為に汝らを放縦しようか?」 そこで涕泣して夏侯惇に 「国法なのでどうしようもありません!」 兵を促召して持質者を撃たせた。持質者は惶(おそ)れ遽(あわて)て叩頭し 「我らはただ資用を乞うてから去ろうとしていただけです!」 韓浩は責めて皆な斬り、夏侯惇は免れた。太祖はこれを聞くと韓浩に 「卿の此れは万世の法というべきものだ」 かくして法令として著し、今後、人質を執る者が有れば、皆な并せ撃って人質を顧る勿れと。これより劫質者はとうとう絶えた[1]

 太祖自徐州還、惇從征呂布、為流矢所中、傷左目。復領陳留・濟陰太守、加建武將軍、封高安郷侯。時大旱、蝗蟲起、惇乃斷太壽水作陂、身自負土、率將士勸種稻、民ョ其利。轉領河南尹。太祖平河北、為大將軍後拒。鄴破、遷伏波將軍、領尹如故、使得以便宜從事、不拘科制。建安十二年、録惇前後功、摯風W千八百戸、并前二千五百戸。

 太祖が徐州より帰還すると、夏侯惇は呂布征伐に従い、流矢に中って左目を傷めた[2]。復た領陳留・済陰太守となって建武将軍を加えられ、高安郷侯に封じられた。この時(ころ)大旱魃があって蝗蟲が起き、夏侯惇は大寿水を絶つための陂(つつみ)を作らせたが、自ら土を背負い、将兵を率いて稲を種えることを勧奨し、民はその利を頼(こうむ)った。領河南尹に転じた。 太祖が河北を平定する際には大将軍の後方を拒(ふせ)いだ。

 前段と当段で妙な“大将軍”の使われ方をしています。夏侯惇の“大将軍”は美称だとして、曹操の方はよく判りません。当時の曹操の官職は司空・行車騎将軍です。確かに袁紹に譲る前は大将軍でしたが。筑摩版では「将」を衍字としています。それにしても夏侯惇は献帝を奉迎してそれほど経たずに封侯されるとは、陪臣としては異例の処遇です。

鄴が破れると伏波將軍に遷り、領河南尹はもとのまま、従事に於いては科制に拘(とら)われない便宜の措置が認められた。

 法令より自己判断が優先というお墨付きを頂きました。官渡の役に始まる袁氏との一連の抗争も、夏侯惇が王畿をがっちり押さえていたからこそ最終的に遼東くんだりまで遠征できたわけで、夏侯惇に対する曹操の信頼の深さが伺えます。劉備伝では于禁と倶に新野を襲って撃退された事が記されていますが、本伝での夏侯惇の記録は216年まで省略です。烈気の人って呼ばれていた割に河南尹として蕭何の様な役割を担っていたらしく、案外、猛将タイプではないのかも。

建安十二年(207)、夏侯惇の前後の功を録して封邑千八百戸を増し、併せて二千五百戸となった。

二十一年、從征孫權還、使惇都督二十六軍、留居巣。賜伎樂名倡、令曰:「魏絳以和戎之功、猶受金石之樂、況將軍乎!」二十四年、太祖軍于摩陂、召惇常與同載、特見親重、出入臥内、諸將莫得比也。拜前將軍、督諸軍還壽春、徙屯召陵。文帝即王位、拜惇大將軍、數月薨。

二十一年(216)、孫権征伐に従って帰還する際、夏侯惇に二十六軍を都督させて居巣に留めた。伎楽・名倡を賜った。布令があり「魏絳は戎と和した功績だけで、金石の楽を賜った。ましてや将軍なら尚更だ!」 二十四年、太祖が摩陂に駐軍したおり、夏侯惇を召して常に与に同じ車に載り、特に親しみ重んじ、臥内(寝室)にも出入りさせ、諸将で比肩できる者は莫かった。前将軍に拝され[3]、諸軍を督して寿春に還り、召陵(河南省漯河市区)に屯所を徙した。文帝が王位に即くと夏侯惇は大将軍に拝され、数月で薨じた。

 この段はほぼ、夏侯惇がいかに重んじられたかという実例です。都督二十六軍は東面軍総司令官にあたり、現に後任となった曹休は鎮南将軍・仮節・都督諸軍事となっています。寝室出入りの御免状などは、同姓の曹仁にすら許されなかった特権です。

 惇雖在軍旅、親迎師受業。性清儉、有餘財輒以分施、不足資之於官、不治産業。諡曰忠侯。子充嗣。帝追思惇功、欲使子孫畢侯、分惇邑千戸、賜惇七子二孫爵皆關内侯。惇弟廉及子楙素自封列侯。初、太祖以女妻楙、即清河公主也。楙歴位侍中尚書・安西鎮東將軍、假節。充薨、子廙嗣。廙薨、子劭嗣。

 夏侯惇は軍旅に在りながらも師を迎えて親しく学業を受けた。性は清倹で、余財が生じるたびに分施し、不足すれば官から資(か)り、産業を治めなかった(利殖には努めなかった)。諡は忠侯。

 夏侯惇を総評した言葉が“清儉”であり“忠”。猛とか驍とか勇とかが無いあたりが将軍としての夏侯惇の評価でしょう。

子の夏侯充が嗣いだ。文帝は夏侯惇の功を追思し、子孫を畢(み)な侯にしようと考え、夏侯惇の邑の千戸を分ち、夏侯惇の七子二孫に皆な爵関内侯を賜った。
夏侯惇の弟の夏侯廉と子の夏侯楙は素より列侯に封じられていた。嘗て太祖が娘を夏侯楙に妻(めあわ)せた。即ち清河公主である。夏侯楙は侍中・尚書・安西将軍・鎮東将軍を歴任し、節を仮された[4]。夏侯充が薨じ、子の夏侯廙が嗣いだ。夏侯廙が薨じ、子の夏侯劭が嗣いだ[5]

 韓浩者、河内人。沛國史渙與浩倶以忠勇顯。浩至中護軍、渙至中領軍、皆掌禁兵、封列侯。

 韓浩は河内の人。沛国の史渙は韓浩と倶に忠勇を顕した。韓浩は中護軍に至り、史渙は中領軍に至り、皆な禁兵を掌握し、列侯に封じられた[6]
[1] 孫盛曰く、光武紀を調べると、建武九年に盗賊が陰貴人の母と弟とを劫質した時、捕吏は人質を確保できずに盗賊に迫り、盗賊はかくてこれを殺している。つまり(人質を犯人と)合せ撃つのは古制なのである。安帝・順帝以降、政教とも陵遅(漸衰)し、時勢として人質とするのに王公を避けなくなり、有司で国憲を遵奉できる者が莫くなった。韓浩が始めて復旧してこれを斬り、そのため魏武が嘉したのである。

 韓浩と似たような逸話が范曄『後漢書』にもあります。光和二年(179)に盗賊が引退した大官の少子を劫質して金品を求め、司隷校尉が河南尹や洛陽令を率いて出動しながら手出しできずにいると、件の大官が捕吏を叱責して人質もろとも撃たせたというものです。件の大官は橋玄で、『後漢書』によれば、これによって橋玄は并撃の法を復活させ、これより京師では貴顕の家族を人質に取る事件が絶えたとあります。

[2] 当時、夏侯淵と夏侯惇とは倶に将となり、軍中では夏侯惇を号して「盲夏侯」と呼んだ。夏侯惇はこれを悪み、鏡に(顔を)照らすと恚怒し、そのたび鑑を地に擲った叩きつけた。 (『魏略』)

 …無理もない。せめて「独眼竜」とか呼んであげれば良かったのに。
 ところでこの『魏略』の書き方だと夏侯惇と夏侯淵が双璧のように感じられますし、実際にそのように扱われる事が多い両者ですが、両者の官職の遍歴などを見るとどうやら錯覚の様です。謂ってみれば蜀の五虎将に趙雲が混じっている感じ。

[3] 当時、諸将は皆な魏の官号を受けていたが、夏侯惇は独り漢の官だった。そこで上疏して、自身は 「不臣の礼」 に当らないと陳べた。太祖 「吾れは最上の臣は師礼で遇し、その次は友礼で遇すると聞く。そもそも臣とは徳を貴ぶ人であり、区々たる魏が臣として君を屈させるに足るものであろうか」 夏侯惇は固く請い、かくして拝して前将軍とした。 (『魏書』)
[4]
夏侯楙

 夏侯楙、字は子林。夏侯惇の中子である。文帝は少時より夏侯楙と親しく、即位するに及んで安西将軍・持節とし、夏侯淵の都督関中を継がせた。夏侯楙は性として武略が無く、治生(治生産業=利殖)を好んだ。太和二年(228)に明帝が西征し、夏侯楙について上申する人があり、かくて召還して尚書とした。夏侯楙が西方に在る時、多く伎妾を畜え、公主はこれによって夏侯楙とは不和だった。その後、群弟が礼度を遵らず、夏侯楙はしばしば叱責し、群弟は処罰を懼れて共に誹謗罪で(誹謗して、かな?)夏侯楙を搆陥しようと公主に上奏させた。詔があって夏侯楙は収監され、明帝は殺そうと考えて長水校尉の京兆の段黙に問うた。段黙 「これはきっと清河公主と夏侯楙が睦まず、譖言を搆えたもので、推実(実態調査)されない事を冀っています。且つ伏波将軍は先帝と天下平定を与にした功があります。宜しく三思をお加えください」 明帝は銜意を解き 「吾れも亦たそう思う」 かくして詔勅を発して公主の為に表文を書いた者を推問したところ、果たしてその羣弟の夏侯子臧・夏侯子江が搆えたものだった。 (『魏略』)
[5] 泰始二年(266)、高安郷侯夏侯佐が卒した。夏侯惇の孫である。継嗣が絶えた。詔命があった。「夏侯惇は魏の元功で、勲功は竹帛に書かれている。往古に庭堅(虞舜の臣)が祀られなかっただけでもこれを悼む者があった。ましてや朕は魏より受禅したもので、その功臣を忘れてよいものか! 夏侯惇の近属から択んで劭封せよ」 (『晋春秋』)
[6]
韓浩

 韓浩、字は元嗣。漢末に起兵し、県城は山藪に近かった為に匪寇が多く、韓浩は徒衆を聚めて県の藩衛となった。太守王匡が従事とし、兵を率いて盟津(孟津)で董卓を拒いだ。当時、韓浩の舅の杜陽は河陰令平陰令で、董卓はこれを執えて韓浩を招いたが、韓浩は従わなかった。袁術は聞いてこれを壮とし、騎都尉とした。夏侯惇はその名を聞き、請うて会見して大いに奇とし、領兵させて征伐に従わせた。
当時、大いに損益が議され、韓浩は田土の事を急務とした。太祖はこれを善しとし、護軍に遷した。

 所謂る屯田の議です。呂布や袁術が健在な中で天子を奉迎したにも関わらず、連年の旱魃・蝗害で往生しかけていた時期です。武帝紀建安元年の末尾に“ついで”のように記されています。

太祖が柳城を討とうとした時、領軍の史渙は道は遠く深入するのは完き計ではないとし、韓浩と共に諫めようとした。韓浩 「今、兵勢は彊盛で、威は四海に加わり、戦えば勝ち、攻めれば取り、志のようにならない事は無い。この時に天下の患を除いておかねばきっと後の憂いとなろう。くわえて公は神武であり、挙げて遺策というものが無い。吾れは君と中軍の主であり、士気を喪わせるのは宜しくない」
かくて従軍して柳城を破り、その官を改めて中護軍とし、長史・司馬を置いた。 張魯討伐に従い、張魯を降した。議者は韓浩の智略が辺境を寧んずるに足るものとし、留めて諸軍を都督させて漢中に鎮守させようとした。太祖 「吾れに韓護軍がいないなどあり得ようか?」 かくして倶に帰還した。その親任はこの様であり、薨ずるに及んで太祖はこれを愍惜した。子は無く、養子の韓栄が嗣いだ。

史渙

 史渙、字は公劉。若い頃より任侠で、雄気があった。太祖が初めて起ってより客分として従軍し、行中軍校尉とされた。征伐に従って常に諸将を監督して親信され、転じて中領軍に拝された。建安十四年(209)に薨じ、子の史静が嗣いだ。 (『魏書』)
 

夏侯淵

 夏侯淵字妙才、惇族弟也。太祖居家、曾有縣官事、淵代引重罪、太祖營救之、得免。太祖起兵、以別部司馬・騎都尉從、遷陳留・潁川太守。及與袁紹戰于官渡、行督軍校尉。紹破、使督兗・豫・徐州軍糧;時軍食少、淵傳饋相繼、軍以復振。昌豨反、遣于禁撃之、未拔、復遣淵與禁并力、遂撃豨、降其十餘屯、&#x;詣禁降。淵還、拜典軍校尉。濟南・樂安黄巾徐和・司馬倶等攻城、殺長吏、淵將泰山・齊・平原郡兵撃、大破之、斬和、平諸縣、收其糧穀以給軍士。

 夏侯淵、字は妙才。夏侯惇の族弟である。太祖が郷里の家に居た頃、県の官事で夏侯淵が重罪を代引した事があり、太祖が営からこれを救って免れた[1]

 「県官事」って何? 人事? 内容については筑摩版でも不明との事で、他書による補足も無いようです。

太祖が起兵すると別部司馬・騎都尉として従い、陳留・潁川太守に遷った。袁紹と官渡で戦うに及んで行督軍校尉となり、袁紹を破ると兗・豫・徐州の軍糧を督した。当時は軍糧が少なかったが、夏侯淵は伝饋(送運)を相継ぎ、軍はそのために復た振った。(河北経略の最中に)昌豨が反き、于禁を遣ってこれを撃たせたが、抜けなかったので夏侯淵を遣って于禁と合力させ、かくて昌豨を撃ち、その十余屯を降し、昌豨は于禁に詣って降った。夏侯淵は帰還して典軍校尉に拝された[2]

 典軍校尉ですよ! 軍を典る校尉。初代は曹操。曹爽に附録の丁謐伝でも 「総摂内外」 とありますから、後の中領軍的な要官だったと思われます。

済南・楽安の黄巾の徐和・司馬倶らが城を攻めて長吏を殺した為、夏侯淵は泰山・斉・平原の郡兵を率いて撃ち、これを大破して徐和を斬り、諸県を平定し、その糧穀を収めて軍士に給した。

十四年、以淵為行領軍。太祖征孫權還、使淵督諸將撃廬江叛者雷緒、緒破、又行征西護軍、督徐晃撃太原賊、攻下二十餘屯、斬賊帥商曜、屠其城。從征韓遂等、戰於渭南。又督朱靈平隃糜・汧氐。與太祖會安定、降楊秋。

十四年(209)、夏侯淵を行領軍とした史渙の代行)。太祖が孫権征伐から帰還し、夏侯淵に諸将を督させて廬江の叛者の雷緒を撃たせ、破った。

 雷緒は官渡の役の頃に梅乾(梅成?)・陳蘭らと劉馥に降った人物。荊南四郡を接収した劉備に帰順した事が 「廬江雷緒率部曲數萬口稽顙」 として先主伝にあります。陳蘭らについては張遼伝・楽進伝・張郃伝・臧覇伝にあります。武帝紀建安十四年 「揚州郡縣長吏」 と併せて読むと、この頃になっても江北揚州が全く安定していなかった事が解ります。

又た行征西護軍となって徐晃を督して太原の賊を撃ち、攻めて二十余屯を下し、賊帥の商曜を斬ってその城を屠った。韓遂らへの遠征に従い、渭南で戦った。又た朱霊を督して隃糜・洴氐を平定した。太祖と安定で会同して楊秋を降した。

 十七年、太祖乃還鄴、以淵行護軍將軍、督朱靈・路招等屯長安、撃破南山賊劉雄、降其衆。圍遂・超餘黨梁興於鄠、拔之、斬興、封博昌亭侯。

 十七年(212)、太祖は鄴に帰還すると夏侯淵を行護軍将軍とし、朱霊・路招らを督して長安に駐屯させ、南山賊の劉雄を撃破してその軍兵を降した。韓遂・馬超の余党の梁興を鄠(西安市千戸)に囲み、これを抜いて梁興を斬り、博昌亭侯に封じられた。

 ここで夏侯惇伝での宿題を。夏侯惇と夏侯淵の“重さ”の比較ですが、夏侯惇が196〜97年頃に将軍号と爵位を得ているのに対し、夏侯淵の将軍号と封爵は212年。確かに典軍校尉・領軍という重任にはありましたが、両者の褒賞には約20年の差があります。このほか異例ともいえる入室御免が認められていた夏侯惇と、将軍らしからぬ陣頭指揮を窘められていた夏侯淵。両者は曹操と同世代かつ軍事指揮官として活躍した夏侯氏というだけで、同格として扱うにはあまりにも曹操からの信頼度に差があったように思えます。

馬超圍涼州刺史韋康於冀、淵救康、未到、康敗。去冀二百餘里、超來逆戰、軍不利。洴氐反、淵引軍還。
 十九年、趙衢・尹奉等謀討超、姜敍起兵鹵城以應之。衢等譎説超、使出撃敍、於後盡殺超妻子。超奔漢中、還圍祁山。敍等急求救、諸將議者欲須太祖節度。淵曰:「公在鄴、反覆四千里、比報、敍等必敗、非攻急也。」遂行、使張郃督歩騎五千在前、從陳倉狹道入、淵自督糧在後。郃至渭水上、超將氐羌數千逆郃。未戰、超走、郃進軍收超軍器械。淵到、諸縣皆已降。韓遂在顯親、淵欲襲取之、遂走。淵收遂軍糧、追至略陽城、去遂二十餘里、諸將欲攻之、或言當攻興國氐。淵以為遂兵精、興國城固、攻不可卒拔、不如撃長離諸羌。長離諸羌多在遂軍、必歸救其家。若〔捨〕羌獨守則孤、救長離則官兵得與野戰、可必虜也。淵乃留督將守輜重、輕兵歩騎到長離、攻燒羌屯、斬獲甚衆。諸羌在遂軍者、各還種落。遂果救長離、與淵軍對陳。諸將見遂衆、惡之、欲結營作塹乃與戰。淵曰:「我轉鬭千里、今復作營塹、則士衆罷弊、不可久。賊雖衆、易與耳。」乃鼓之、大破遂軍、得其旌麾、還略陽、進軍圍興國。氐王千萬逃奔馬超、餘衆降。轉撃高平屠各、皆散走、收其糧穀牛馬。乃假淵節。

馬超が涼州刺史韋康を冀城に攻囲した。夏侯淵は韋康を救援したが、到着前に韋康は敗れた。冀を去ること二百余里で馬超が来たので逆(むか)えて戦ったが、軍は利あらず、洴氐も反いたので夏侯淵は軍を引いて還った。
 十九年(214)、趙衢・尹奉らが馬超を討つ事を謀り、姜敍が鹵城に起兵してこれに応じた。趙衢らは馬超に譎(いつわ)って説き、出場して姜敍を撃たせた後に馬超の妻子を尽く殺した。馬超は漢中に奔り、還って祁山(甘粛省隴南市礼県)を囲んだ。姜敍らは急ぎ救援を求めたが、諸将や議者は何事も太祖の節度を仰ぐべきとした。夏侯淵 「公は鄴に在り、反覆は四千里になる。返報のある頃には姜敍らは必ず敗れていよう。急を攻(おさ)める事にはならない」 かくて行き、張郃に歩騎五千を督して前行させ、陳倉より狭道に入らせ、夏侯淵は自ら督糧として後続した。張郃が渭水の上(ほとり)に至ると、馬超が氐羌数千を率いて張郃を逆撃したが、交戦前に馬超が敗走したので張郃は進軍し、馬超軍の器械を収容した。夏侯淵が到着した時、諸県は皆なすでに降っていた。
 (当時)韓遂は顕親(天水市秦安の西北)に在り、夏侯淵は襲撃してこれを取ろうとし、韓遂は逃走した。夏侯淵は韓遂の軍糧を接収し、追って略陽城(甘粛省平涼市庄浪)に至った。韓遂と離れること二十余里となり、諸将は攻めようとし、興国氐を攻めるべきと言う者もあった。夏侯淵は韓遂の兵は精強であり、興国城は堅固で、攻めても直ちに抜く事は出来ず、長離(天水市秦安の辺り)の諸羌を撃った方が良いと考えた。長離の諸羌は多くが韓遂軍に在り、必ず帰ってその家を救うだろうし、もし羌を棄てて独りで(略陽を)守るなら孤立するし、長離を救えば官兵は野戦となり、必ず捕虜に出来るだろうと。夏侯淵はかくして督将を留めて輜重を守らせ、軽兵歩騎で長離に到達し、攻めて羌屯を焼き、甚だ多くを斬獲した。諸羌の韓遂軍に在る者は各々が種落に還った。韓遂は果たして長離を救い、夏侯淵軍と対陣した。諸将は韓遂の軍勢を見るとこれを悪み、営を結んで塹壕を作ってから戦いたいと考えた。夏侯淵 「我らは千里より転戦し、今復た営塹を作れば士衆は罷弊して長期は持たない。賊は多いとはいえ与し易いのだ」 かくして鼓を撃ち、韓遂軍を大破し、その旌麾を得て略陽に帰還し、進軍して興国を囲んだ。氐王千万は馬超の下に逃奔し、余衆は降った。転じて高平(寧夏自治区固原市区)の屠各(匈奴の支族)を撃つと皆な散走し、その糧穀牛馬を収めた。かくして夏侯淵に節を仮した。

 興国・長離の位置が判らないと夏侯淵の行軍もさっぱりです。武帝紀によれば韓遂は金城(蘭州市区)から出てきたようで、夏侯淵は張郃に後続したらしいので冀城には行ったんだとは思います。泰安県に興国鎮があるので、ココだったりすると楽なんですが。

 初、枹罕宋建因涼州亂、自號河首平漢王。太祖使淵帥諸將討建。淵至、圍枹罕、月餘拔之、斬建及所置丞相已下。淵別遣張郃等平河關、渡河入小湟中、河西諸羌盡降、隴右平。太祖下令曰:「宋建造為亂逆三十餘年、淵一舉滅之、虎歩關右、所向無前。仲尼有言:『吾與爾不如也。』」二十一年、摯侮O百戸、并前八百戸。還撃武都氐羌下辯、收氐穀十餘萬斛。太祖西征張魯、淵等將涼州諸將侯王已下、與太祖會休亭。太祖毎引見羌・胡、以淵畏之。

 枹罕(寧夏自治区臨夏)の宋建は涼州の混乱に因った当初、自ら河首平漢王を号していた。太祖は夏侯淵に諸将を帥いて宋建を討たせた。夏侯淵が至って枹罕を攻囲し、月余でこれを抜いて宋建やその丞相以下を斬った。夏侯淵は別に張郃らを遣って河関(青海省黄南自治州同仁)を平定し、黄河を渡って小湟中に入らせ、河西の諸羌を尽く降して隴右を平定した。太祖が布令し 「宋建が乱逆を為してから三十余年、夏侯淵は一挙でこれを滅ぼし、関右を虎歩して向かうところ前に立つ者は無かった。仲尼も言っている“吾れか爾(なんじ)でなければ出来ない”と」
二十一年(216)、封邑を三百戸増し、以前と併せて八百戸となった。引還して武都の氐・羌を下辯(甘粛省隴南市成県)に撃ち、穀十余万斛を接収した。太祖が張魯に西征すると、夏侯淵らは涼州の諸将侯王以下を率いて休亭で太祖と会同した。太祖は羌・胡を引見する毎に、夏侯淵によって畏した。

會魯降、漢中平、以淵行都護將軍、督張郃・徐晃等平巴郡。太祖還鄴、留淵守漢中、即拜淵征西將軍。二十三年、劉備軍陽平關、淵率諸將拒之、相守連年。二十四年正月、備夜燒圍鹿角。淵使張郃護東圍、自將輕兵護南圍。備挑郃戰、郃軍不利。淵分所將兵半助郃、為備所襲、淵遂戰死。諡曰愍侯。
 初、淵雖數戰勝、太祖常戒曰:「為將當有怯弱時、不可但恃勇也。將當以勇為本、行之以智計;但知任勇、一匹夫敵耳。」

張魯が降り、漢中が平定されると夏侯淵を行都護将軍とし、張郃・徐晃らを督して巴中を平定させた。太祖は鄴に帰還し、夏侯淵を留めて漢中を守らせ、同時に夏侯淵を征西将軍に拝した。
うわ、徐晃もいたんだ。と思って確かめたら、徐晃は曹操の別将として来ていたようで、曹操の帰還に同道していました。漢巴に夏侯淵と張郃、合肥方面は夏侯惇の下に張遼と楽進と臧覇。曹操の直下に于禁と徐晃。あれ、荊州の曹仁は今回も孤独ですか?
というわけで、列伝十七・十八から名のある将軍の配置を確かめてみました。 やはり楽進と于禁の格が頭一つ抜けていて、その次が張遼と臧覇のような感じ。雑号将軍+仮節で征東将軍とのバランスが配慮されているようです。
  • 張遼 (征東将軍): 居巣。
  • 楽進 (右将軍・仮節): 居巣、もしくは合肥。
  • 于禁(左将軍・節鉞): 不明。
  • 張郃 (平狄将軍): 巴中。(夏侯淵の副将)
  • 徐晃 (平寇将軍): 鄴。(曹操に同道)
  • 李典 (破虜将軍): 不明。死んでいるかも。
  • 李通:死亡
  • 臧覇 (揚威将軍・仮節): 居巣。
  • 文聘 (太守): 江夏。
  • 呂虔 (騎都尉): 泰山。
  で、このあと張飛らが隴右進出を狙ってくるんですが、これに対処するのは夏侯淵ではなく本国から派遣された曹洪と曹休です。この時は劉備も北上して漢中を牽制していて、夏侯淵の兵力は劉備への対処で手いっぱいだったようです。ここら辺、自分かなり勘違いしていましたが、この当時の国境の三大拠点の常駐兵力は郡単位規模の防衛戦力しか持たず、“方面軍”と呼べるほどの規模じゃなかったようです。有事の際には揚州には夏侯惇が、関西には曹操が、荊州には両者が対処する体制だったんではないかと。増援の頭数が見込める襄陽の戦力が抑えられていたのもこれなら解らなくはなくもない気がしなくもありません。

 二十三年(218)、劉備が陽平関に駐軍し、夏侯淵は諸将を率いてこれを拒いだ。相守ること連年となった。
二十四年正月、劉備が夜間に障囲の鹿角を焼かせた。夏侯淵は張郃に東の障囲を護らせ、自ら軽装兵を率いて南の障囲を護った。劉備は張郃に挑戦し、張郃の軍は不利となった。夏侯淵は麾下の将兵の半ばに張郃を助けさせ、そのため劉備に急襲された。夏侯淵はかくて戦死し、愍侯と諡された。
 それまで夏侯淵はしばしば戦勝してはいたが、太祖は常に戒めていた。「将というものは怯弱の時もあるべきで、勇を恃むだけでは駄目だ。将とは勇を幹本とし、行動には智計を用いよ。勇に任せる事を知るだけでは一匹夫に敵うだけだぞ」

 淵妻、太祖内妹。長子衡、尚太祖弟海陽哀侯女、恩寵特隆。衡襲爵、轉封安寧亭侯。黄初中、賜中子霸、太和中、賜霸四弟、爵皆關内侯。
霸、正始中為討蜀護軍右將軍、進封博昌亭侯、素為曹爽所厚。聞爽誅、自疑、亡入蜀。以淵舊勳赦霸子、徙樂浪郡。霸弟威、官至兗州刺史。威弟惠、樂安太守。惠弟和、河南尹。衡薨、子績嗣、為虎賁中郎將。績薨、子褒嗣。

 夏侯淵の妻は太祖の内妹(妻の妹)である。長子の夏侯衡は太祖の弟の海陽哀侯の娘を娶り、恩寵は特に隆んだった。夏侯衡が襲爵し、(後に)安寧亭侯に転封された。黄初年間(220〜26)に中子の夏侯霸に、太和年間(227〜33)に夏侯霸の四人の弟に皆な関内侯の爵を賜った。
夏侯霸は正始年間(240〜49)に討蜀護軍・右将軍となり、博昌亭侯に進封された。かねてより曹爽に厚遇され、曹爽が誅されたと聞くと(連坐を)猜疑し、蜀に亡命した。夏侯淵の旧勲によって夏侯霸の子を赦し、楽浪郡に徙逐した[3]。夏侯霸の弟の夏侯威は、官は兗州刺史に至った[4]。夏侯威の弟の夏侯恵は楽安太守となった[5]。夏侯恵の弟の夏侯和は河南尹となった[6]。夏侯衡が薨じ、子の夏侯績が嗣ぎ、虎賁中郎将となった。夏侯績が薨じ、子の夏侯褒が嗣いだ。
[1] 当時、兗・豫は大いに乱れ、夏侯淵は饑乏の中で幼子を棄て、亡弟の遺娘を活かした。 (『魏略』)
[2] 夏侯淵は将として赴くに急疾して常に敵の不意に出、そのため軍中では 「典軍校尉夏侯淵、三日五百(里)、六日一千(里)」 と語った。 (『魏書』)
[3]
夏侯霸

 夏侯霸、字は仲権。夏侯淵が蜀に殺害されると、夏侯霸は常に切歯し、蜀への報復を思っていた。黄初年間に偏将軍となった。子午の役(曹真の230年の南征)で召されて前鋒となり、進んで興勢を攻囲し、曲谷中に営を置いた。蜀人が望見して夏侯霸だと知ると、指して兵を下らせてこれを攻めた。夏侯霸は鹿角の間で搏戦し、さいわいに救援が至って解放された。後に右将軍となって隴西に駐屯し、士卒を養い戎と和し、共にその歓心を得た。正始年間(240〜49)になって夏侯儒に代って征蜀護軍(・右将軍・博昌亭侯)となり、征西将軍に統属した。当時の征西将軍は夏侯玄で、夏侯霸の甥にあたり、同時に曹爽の外弟だった。司馬懿が曹爽を誅して夏侯玄を召すと、夏侯玄は東向した。夏侯霸は曹爽が誅されて夏侯玄が徴されたと聞くと、禍が必ず及ぶと考え、内心で恐れた。又た夏侯霸はかねて雍州刺史郭淮とは不和で、しかも郭淮は夏侯玄に代って征西将軍となった。夏侯霸は大いに不安となり、かくて蜀に奔った。
南のかた陰平に趨って道を失い、谷中に入って窮し、糧が尽きて馬を殺して歩行した。足裏は破れ、巖石の下に臥し、人に道を求めさせたがどこに行くべきか判らなかった。蜀ではこれを聞くと人を遣って夏侯霸を迎えさせた。
これより前、建安五年(200)の当時、夏侯霸の従妹は年齢十三・四歳で本籍の郡に在ったが、薪を採りに出て張飛に執えられた。張飛は良家の娘だと知り、そのまま妻とした。

張飛ロリコン疑惑勃発ですよ。まぁ年齢的に決して異常事態ではありませんが、見知らぬ相手ですし、良家の娘だと知ったからだなんて後付けに違いない、きっと。さすがに「十歳以上はババァ」とは云わなかったようですが。

息女が産まれ、劉禅の皇后となった。そのため夏侯淵が亡くなった当初、張飛の妻は請うてこれを葬った。夏侯霸が入蜀するに及び、劉禅は相見えて釈明した 「卿の父は戦陣で死んだのだ。我が父が手にかけたものではないのだ」 自身の児を指し示し 「これは夏侯氏の甥である」 と。爵位と恩寵を厚く加えた。 (『魏略』)

 入蜀後の夏侯霸の事績は殆ど伝わらず、延熙十八年(255)に、車騎将軍として姜維と倶に臨洮(定西市岷県)の西で魏の雍州刺史王経を大破した事が姜維伝で確認できる程度です。張飛の娘は姉妹とも皇后に立てられましたが、夏侯霸が入蜀した当時の皇后は妹の方。魏蜀両朝の皇族で晋にとっても準皇族で、事件史的にも結構なキーパーソンですが、附録としての伝すら立てられていないのは残念なことです。

[4] 夏侯威、字は季権。任侠の質で、荊・兗二州の刺史を歴任した。子の夏侯駿は幷州刺史となり、次子の夏侯荘は淮南太守となった。夏侯荘の子の夏侯湛は字を孝若といい、才は博く文章によって知られ、南陽相・散騎常侍に至った。夏侯荘は晋の景陽皇后の姊の夫でもあり、そのため当時の一門は侈盛だった。 (『魏晋世語』)

 残念ながら晋に景陽皇后は存在しません。景帝=司馬師の正夫人でしょうから、献皇后羊徽瑜か懐皇后夏侯徽となりますが、同姓不婚の原則がありますから羊皇后の事でしょう。因みに羊皇后の実弟は羊祜、夏侯皇后の実兄は夏侯玄です。

[5] 夏侯恵、字は稚権。幼時から才能と学問で称えられ、奏議を綴る事に善かった。散騎黄門侍郎を歴任し、しばしば鍾毓に弁駮したが、多くは夏侯恵の意見が採られた。燕相・楽安太守に遷り、齢三十七で卒した。 (『文章敍録』)
[6] 夏侯和、字は義権(字のネタが尽きたようです)。清弁で論議の才があった。河南尹・太常を歴任した。
 夏侯淵の第三子は夏侯称、第五子は夏侯栄。従孫の夏侯湛は序文で 「夏侯称、字は叔権。孺子のころから童児を合聚することを好んだ。その渠帥となり、遊戯では必ず軍旅・戦陣の事を行ない、違えた者にはそのたび厳しく鞭捶したが、敢えて逆らう者は莫かった。夏侯淵は陰かにこれを奇とし、項羽伝と兵書を読ませたところ肯んぜず 『思った通りにやるだけの事です。どうして他人から学びましょう?』 十六歳の時、夏侯淵と田猟して奔る虎を見ると、馬を駆ってこれを逐い、禁じても及ばず、一箭で倒した。名声は太祖にも聞こえ、太祖はその手を把って喜び 『我は汝を得たぞ!』 文帝とは布衣之交があった。讌会の毎に気勢は一座を陵挫し、弁士でも屈する事が出来なかった。世の高名の者の多くが従い交游したが、齢十八で卒した。

 感想は人それぞれなんでしょうが、どうにも小憎らしいだけの増長したクソガキボンボンではなかろうかと。夏侯淵の親莫迦馬鹿親っぷりもイタイ事この上ない。曹彰とはさぞ気が合ったか猛衝突したかのどちらかでしょう。

弟の夏侯栄は字を幼権といった。幼時より聡慧で、七歳で文を属ることに長け、書を日に千言を誦し、経書を目にするとたちまち覚えた。文帝は聞くと招請した。賓客百余人の一人ずつに名刺を出させ、全てにその郷邑と氏族があり、世に所謂る爵里刺であった。客がこれを示し、一瞥させて談論させたが、一人として謬らなかった。文帝は深くこれを奇とした。漢中で破れた時、夏侯栄は十三歳で、左右が抱えて逃げようとしたが肯んぜず『君・親が難に在り、どうして死から逃げようか!』かくして剣を奮って戦い、そのまま陣歿した」 (『魏晋世語』)
 

曹仁

 曹仁字子孝、太祖從弟也。少好弓馬弋獵。後豪傑並起、仁亦陰結少年、得千餘人、周旋淮・泗之間、遂從太祖為別部司馬、行事N校尉。太祖之破袁術、仁所斬獲頗多。從征徐州、仁常督騎、為軍前鋒。別攻陶謙將呂由、破之、還與大軍合彭城、大破謙軍。從攻費・華・即墨・開陽、謙遣別將救諸縣、仁以騎撃破之。太祖征呂布、仁別攻句陽、拔之、生獲布將劉何。太祖平黄巾、迎天子都許、仁數有功、拜廣陽太守。太祖器其勇略、不使之郡、以議郎督騎。太祖征張繍、仁別徇旁縣、虜其男女三千餘人。太祖軍還、為繍所追、軍不利、士卒喪氣、仁率寺虫m甚奮、太祖壯之、遂破繍。

 曹仁、字は子孝。太祖の従弟である[1]。年少時から弓馬・弋猟を好んだ。豪傑が並起した後、曹仁も亦た陰かに少年と結党して千余人を得、淮水・泗水の間を周旋し、かくて太祖に従って別部司馬となり、行事N校尉となった。(193年に)太祖が袁術を撃破した際、曹仁の斬獲者は頗る多かった。徐州遠征に従い、曹仁は常に督騎として軍の前鋒となった。別軍として陶謙の将軍の呂由を攻めて破り、帰還して大軍と彭城で合流し、陶謙の軍を大破した。費・華・即墨・開陽の攻略に従った。陶謙は別将を遣って諸県を救わせたが、曹仁は騎兵でこれを撃破した。太祖が呂布を征伐した時、曹仁は別に句陽(荷沢市区)を攻めてこれを抜き、呂布の将軍の劉何を生け獲った。 太祖が(潁川の)黄巾を平定し、天子を迎えて許に都するにあたって曹仁はしばしば功があり、広陽太守に拝された。太祖はその勇略を器(おも)んじ、軍に遣らずに督騎のまま議郎とした。

 広陽は現在の北京市一帯で、当時は公孫瓚の勢力圏。この叙任は箔付けの遙授でしょう。

太祖が張繍を征伐したおり、曹仁は別に近県を徇(めぐ)り、男女三千余人を虜とした。太祖の軍が帰還中に張繍に追撃され、軍は不利となって士卒は士気を喪ったが、曹仁は将士を率励して甚だ奮戦し、太祖はこれを壮とした。かくて張繍を破った。

 太祖與袁紹久相持於官渡、紹遣劉備徇㶏彊諸縣、多舉衆應之。自許以南、吏民不安、太祖以為憂。仁曰:「南方以大軍方有目前急、其勢不能相救、劉備以彊兵臨之、其背叛固宜也。備新將紹兵、未能得其用、撃之可破也。」太祖善其言、遂使將騎撃備、破走之、仁盡復收諸叛縣而還。紹遣別將韓荀鈔斷西道、仁撃荀於雞洛山、大破之。由是紹不敢復分兵出。復與史渙等鈔紹運車、燒其糧穀。
 河北既定、從圍壺關。太祖令曰:「城拔、皆坑之。」連月不下。仁言於太祖曰:「圍城必示之活門、所以開其生路也。今公告之必死、將人自為守。且城固而糧多、攻之則士卒傷、守之則引日久;今頓兵堅城之下、以攻必死之虜、非良計也。」太祖從之、城降。於是録仁前後功、封都亭侯。

 太祖が袁紹と官渡で久しく相い対持した時、袁紹が劉備を遣って㶏彊(漯河市臨潁)の諸県を徇らせ、これに応じて挙兵する者が多かった。許より以南の吏民は安んぜず、太祖はこれを憂えた。曹仁 「南方では大軍が目前の急となっている事を見て、互いに救おうとはしていません。劉備は強兵にてこれに臨んでおり、南方の背叛は尤もな事です。劉備が新たに率いるのは袁紹の兵で、その運用に達しているとは云えません。撃てば破れましょう」 太祖はその言を善しとし、かくて騎兵を率いて劉備を撃たせ、破り走らせ、曹仁は叛いた県を尽く復収して帰還した。袁紹が別将の韓荀を遣って西道を鈔掠して遮断させると、曹仁は雞洛山で韓荀を撃って大破した。このため袁紹は再びは兵を分けて出そうとしなくなった。復た史渙らと袁紹の運糧車を鈔掠し、その糧穀を焼いた。

 曹仁は別軍の将として活動する事が多かったようで、夏侯惇とはまた別の方向で“全てを任せられる親族”だったようです。それにしても対袁氏では曹仁・夏侯惇・夏侯淵と、一族でも有力な武将は揃って後方を担当していますね。口では強がっていてもよほど荊州の動向が気になっていたんでしょう。

 河北が既に定まり、壺関の攻囲に従った。太祖が布令した。「城を抜いたら皆な坑埋めにせよ」。連月しても下らなかった。曹仁が太祖に言うには 「囲城に必ず活門を示すのは、その生きる路を開くからです。今、公は必死である事を告げ、自らの為に守らせています。加えて城は固く糧は多く、攻めれば士卒は傷つき、守れば日数は久しくなります。今、堅城の下で頓兵し、必死の虜を攻めるのは良計ではありません」 太祖はこれに従い、城は降った。ここで曹仁の前後の功を記録し、都亭侯に封じた。

 曹操が今頃、こんな拙策を採るものだろうかという素朴な疑問があります。曹仁上げの為の曹操下げならまぁ良しですが、これが事実なら、「戦術家曹操」の評判には大いに疑問符が付くことになります。

 從平荊州、以仁行征南將軍、留屯江陵、拒呉將周瑜。瑜將數萬衆來攻、前鋒數千人始至、仁登城望之、乃募得三百人、遣部曲將牛金逆與挑戰。賊多、金衆少、遂為所圍。長史陳矯倶在城上、望見金等垂沒、左右皆失色。仁意氣奮怒甚、謂左右取馬來、矯等共援持之。謂仁曰:「賊衆盛、不可當也。假使棄數百人何苦、而將軍以身赴之!」仁不應、遂被甲上馬、將其麾下壯士數十騎出城。去賊百餘歩、迫溝、矯等以為仁當住溝上、為金形勢也、仁徑渡溝直前、衝入賊圍、金等乃得解。餘衆未盡出、仁復直還突之、拔出金兵、亡其數人、賊衆乃退。矯等初見仁出、皆懼、及見仁還、乃歎曰:「將軍真天人也!」三軍服其勇。太祖益壯之、轉封安平亭侯。

 荊州平定に従った後、曹仁は行征南将軍として江陵に留屯し、呉の将軍の周瑜を拒いだ。周瑜は数万の軍兵を率いて来攻し、前鋒の数千人が始めて至った。曹仁は登城して望見し、兵を募って三百人を得ると部曲将の牛金を遣り、逆撃して挑戦させた。賊は多く牛金の軍勢は少なく、とうとう囲まれた。

 挑戦だなんて…。数千に対して三百だなんて、どう考えても威力偵察でしょう。 「偵察に出したらヘタ打って囲まれました」 って素直に書けばいいのに。曹仁を猪突タイプに仕立てたいんでしょうか。

長史陳矯が倶に城上に在った。牛金らが垂没したのを望見すると左右は皆な色を失った。曹仁の意気は奮怒甚だしく、左右に謂って馬を取ってこさせた。陳矯らは共に引き留めて曹仁に謂うには 「賊の軍勢は盛んで当る事は出来ません。仮に数百人を棄てたとてどれ程の事でしょう。将軍自身で赴かれるなどとは!」 曹仁は応えず、かくて被甲して上馬し、麾下の壮士数十騎を率いて出城した。賊を去ること百余歩の溝(ほり)に迫った処で、陳矯らは曹仁が溝の辺りまで往って牛金救援の形勢とすると考えていたが、曹仁は溝を渡って真直ぐ前進して賊の包囲に衝入し、かくして牛金らは解放された。余衆が未だに残されていると、曹仁は復た直ちに還って突し、牛金の兵を救出した。数人が亡くなっただけであり、賊の軍勢は後退した。陳矯らは初め、曹仁の出城を見て皆な懼れ、曹仁の帰還を見るに及んで歎じた 「将軍は真に天人であります!」 三軍はその勇に心服した。太祖は益々これを壮とし、安平亭侯に転封した。

 結局、江陵の保持には失敗します。ここでは書かれていませんが、周瑜に重傷を負わせて呉軍を撤退させるチャンスに片足を載せるくらいまでには持っていってはいますけれど。

 太祖討馬超、以仁行安西將軍、督諸將拒潼關、破超渭南。蘇伯・田銀反、以仁行驍騎將軍、都督七軍討銀等、破之。
復以仁行征南將軍、假節、屯樊、鎮荊州。侯音以宛叛、略傍縣衆數千人、仁率諸軍攻破音、斬其首、還屯樊、即拜征南將軍。關羽攻樊、時漢水暴溢、于禁等七軍皆沒、禁降羽。仁人馬數千人守城、城不沒者數板。羽乘船臨城、圍數重、外内斷絶、糧食欲盡、救兵不至。仁激寺虫m、示以必死、將士感之皆無二。徐晃救至、水亦稍減、晃從外撃羽、仁得潰圍出、羽退走。

 太祖の馬超討伐では曹仁は行安西将軍となり、諸将を督して潼関(の兵)を拒ぎ、馬超を渭南に破った。(河間で)蘇伯・田銀が反くと曹仁は行驍騎将軍となり、七軍を都督して田銀らを討ち、これを破った。
 復た曹仁は行征南将軍となって節を仮され、樊城に屯して荊州を鎮守した。侯音が宛城を以て叛き、近県の数千人を略取すると、曹仁は諸軍を率いて侯音を攻破し、その首を斬って樊城に還屯し、そこで征南将軍に拝された。関羽が樊城を攻めた。このとき漢水が暴溢し、于禁ら七軍が皆な水没し、于禁は関羽に降った。曹仁は人馬数千で城を守り、城で水没していないのは数板(分の高さ)のみとなった。関羽は乗船して城に臨んで数重にも囲み、外内は断絶し、糧食は尽きかけても救兵は至らなかった。曹仁は将兵を激励し、必死である事を示したので将士はこれに感激して皆な二心を持たなかった。徐晃の救援が至り、水も亦た稍(ようや)く減じ、徐晃が外から関羽を撃ったために曹仁は囲みを潰えさせて脱出する事ができ、関羽は退走した。

 この間の城内の様子は満寵伝でも覧る事ができます。

 仁少時不脩行檢、及長為將、嚴整奉法令、常置科於左右、案以從事。鄢陵侯彰北征烏丸、文帝在東宮、為書戒彰曰:「為將奉法、不當如征南邪!」及即王位、拜仁車騎將軍、都督荊・揚・益州諸軍事、進封陳侯、摎W二千、并前三千五百戸。追賜仁父熾諡曰陳穆侯、置守冢十家。後召還屯宛。孫權遣將陳邵據襄陽、詔仁討之。仁與徐晃攻破邵、遂入襄陽、使將軍高遷等徙漢南附化民於漢北、文帝遣使即拜仁大將軍。又詔仁移屯臨潁、遷大司馬、復督諸軍據烏江、還屯合肥。黄初四年薨、諡曰忠侯。子泰嗣、官至鎮東將軍、假節、轉封ィ陵侯。泰薨、子初嗣。又分封泰弟楷・範、皆為列侯、而牛金官至後將軍。

 曹仁は若い時は品行を修めなかったが、長じて将となるに及び、法令を奉ずること厳整となり、常に科条を左右に置き、糾案の際にはこれに従った。

 「行検」とは何だろう…。これに限らず、不勉強が祟って直感に触れない熟語が多いわけで。「検」は慎み、みさお、手本という意味があるとか。というか行検で辞典に載っていました。品行だそうです。なるほどなー。ちなみに郭嘉は 「不治行検」 と批判されました。

鄢陵侯曹彰が北のかた烏丸に遠征する時、文帝は東宮に在って書簡で曹彰を戒め 「将となって法を奉ずる事、征南将軍の如くせよ!」 と。
(文帝は)王位に即くと曹仁を車騎将軍に拝し、都督荊揚益州諸軍事とし、陳侯に進封して邑二千戸を増し、前と併せて三千五百戸とした。曹仁の父の曹熾に諡して陳穆侯と追賜し、守冢十家を置いた。
後に召還して宛に駐屯させた。孫権が将軍の陳邵を遣って襄陽に拠らせると、詔命で曹仁にこれを討たせた。曹仁は徐晃と攻めて陳邵を破り、かくて襄陽に入り、将軍の高遷らに漢南の附化民を漢北に徙させた。文帝は使者を遣って直ちに曹仁を大将軍に拝した。

 大分に省略されていますが、陸遜の北上・魏の襄陽放棄・柤中の呉への帰属という流れの中での一件です。呉主伝の建安二十五年あたりで簡単にまとめてみました。

又た詔命して曹仁を臨潁(河南省漯河市)に移屯させ、大司馬に遷した。復た諸軍を督して烏江(歴陽/馬鞍山市和県)に拠らせ、次いで合肥に還屯させた。

 曹仁が三州都督になったのは4月に死んだ夏侯惇の後任としてでしょうから、宛に移駐したのはそれから程なくだと思われます。大将軍就任は文帝の即位の5ヶ月後、221年4月で、10月には大将軍を離れます。これは孫権への大将軍遙授の煽りですが、孫権の離叛が確定した後もそのままです。「復督諸軍據烏江」 は洞浦の役を含む孫権討伐の一環としての動きで、その後の合肥移駐は魏の軍管区再編の結果でしょうが、大都督の実質は曹真の担当になっています。
 魏では大将軍の上位に大司馬が置かれ、後には“南面統轄の大将軍”と、“行軍元帥の大司馬”という棲み分けも出来ますが、その端緒がこの曹仁への処遇だと思われます。一族の長老かつ元勲を繁忙な前線に飛ばす上で、昇進という名目を付加するという、曹丕らしい手法です。
 尚お、中央には太尉が存在し、又た嘗ての大司馬の職掌は領軍・護軍が握っているので、大司馬の職はこの措置の為に復活させたと見えなくもないです。この後、大将軍は暫く空位です。

黄初四年(223)に薨じ、忠侯と諡された[2]。子の曹泰が嗣ぎ、官は鎮東将軍に至り、節を仮され、ィ陵侯に転封された。曹泰が薨じ、子の曹初が嗣いだ。又た曹泰の弟の曹楷・曹範を分封して皆な列侯とした。牛金の官は後将軍に至った。
曹純

 仁弟純、初以議郎參司空軍事、督虎豹騎從圍南皮。袁譚出戰、士卒多死。太祖欲緩之、純曰:「今千里蹈敵、進不能克、退必喪威;且縣師深入、難以持久。彼勝而驕、我敗而懼、以懼敵驕、必可克也。」太祖善其言、遂急攻之、譚敗。純麾下騎斬譚首。及北征三郡、純部騎獲單于蹋頓。以前後功封高陵亭侯、邑三百戸。從征荊州、追劉備於長坂、獲其二女輜重、收其散卒。進降江陵、從還譙。建安十五年薨。文帝即位、追諡曰威侯。子演嗣、官至領軍將軍、正元中進封平樂郷侯。演薨、子亮嗣。

 曹仁の弟の曹純は[3]、初めは議郎として司空の軍事に参じ、督虎豹騎として南皮の攻囲に従った。袁譚が出戦して士卒の多くが死に、太祖は攻囲を緩めようとしたが、曹純は 「今、千里の敵を踏み、進んでも克てず、退けば必ず威信が喪われます。且つ深入りして縣(かけはな)れた師は持久させる事が困難です。彼は勝てば驕り、我れらは敗ければ懼れ、懼れを以て驕るに敵対すれば必ず克つ事ができましょう」 太祖はその言を善しとし、かくて急しく攻めた。袁譚は敗れ、曹純の麾下の騎兵が袁譚の首を斬った。
北のかた三郡(烏丸)を征するに及び、曹純の部下の騎兵が単于蹋頓を獲えた。前後の功によって高陵亭侯に封じられ、三百戸を食邑とした。荊州征伐に従い、長坂で劉備を追撃し、その二娘と輜重を獲え、その散兵を収めた。進んで江陵を降し、譙への帰還に従った。建安十五年(210)に薨じた。 文帝が即位すると威侯と追諡された[4]。子の曹演が嗣ぎ、官は領軍将軍に至り、正元年間(254〜56)に平楽郷侯に進封された。曹演が薨じ、子の曹亮が嗣いだ。
[1] 曹仁の祖父の曹褒は潁川太守、父の曹熾は侍中・長水校尉となった。 (『魏書』)
[2] 曹仁は時に齢五十六だった。 (『魏書』)
―― 曹大司馬の勇は、孟賁(牛の角を生きたまま引き抜いたという戦国衛の勇士)・夏育(千鈞=三万斤を挙げたとされる西周時代の勇士)でも加えるものは弗い。張遼はその次にあたる。 (『傅子』)

 “勇”はおそらく斬り込み隊長としての勇ではなく、一軍の指揮官としての勇だと思われます。だから夏侯淵や楽進や許褚などは対象外なんでしょう。一に曹仁、二に張遼。やはり夏侯惇は猛将とは認識されていなかったようです。まぁ、眼球啖ったのも創作ですしね。

[3] 曹純、字は子和。齢十四で父を喪い、実兄の曹仁とは居所を別にした。父の産業を承いで財を富ませ、僮僕・人客は百を以て数え、曹純は綱紀督御して道理を失わず、郷里は咸な有能だとした。学問を好んで学士を敬愛し、学士が多く帰参し、そのため遠近で称えられた。齢十八で黄門侍郎となり、二十で太祖に従って襄邑で募兵し、かくて常に征戦に従うようになった。 (『英雄記』)
[4] 曹純の督した虎豹騎は皆な天下の驍鋭で、百人の将校から(隊長を)補任する事もあり、太祖はその帥の選考に難儀した。曹純が選ばれて督となり、撫循して甚だ人心を得た。曹純が卒すると有司は後任の選抜を建白したが、太祖は 「曹純に比較できる者がどうして得られようか! 吾れが独りでは督に中れないとでも?」 とうとう選ばなかった。 (『魏書』)

虎豹騎の指揮官として『三國志』で言及されているのは、曹純の他に曹休曹真がいます。曹休・曹真の後任が曹純ですが、両者の前後関係や就任時期・実績などは一切不明です。ついでに云うなら、曹氏の騎兵指揮官として最も活躍したのは曹仁のようです。

 

曹洪

 曹洪字子廉、太祖從弟也。太祖起義兵討董卓、至滎陽、為卓將徐榮所敗。太祖失馬、賊追甚急、洪下、以馬授太祖、太祖辭讓、洪曰:「天下可無洪、不可無君。」遂歩從到汴水、水深不得渡、洪循水得船、與太祖倶濟、還奔譙。揚州刺史陳温素與洪善、洪將家兵千餘人、就温募兵、得廬江上甲二千人、東到丹楊復得數千人、與太祖會龍亢。太祖征徐州、張邈舉兗州叛迎呂布。時大饑荒、洪將兵在前、先據東平・范、聚粮穀以繼軍。太祖討邈・布於濮陽、布破走、遂據東阿、轉撃濟陰・山陽・中牟・陽武・京・密十餘縣、皆拔之。以前後功拜鷹揚校尉、遷揚武中郎將。天子都許、拜洪諫議大夫。
別征劉表、破表別將於舞陽・陰葉・堵陽・博望、有功、遷事N將軍、封國明亭侯。累從征伐、拜都護將軍。文帝即位、為衞將軍、遷驃騎將軍、進封野王侯、益邑千戸、并前二千一百戸、位特進;後徙封都陽侯。

 曹洪、字は子廉。太祖の従弟である[1]。太祖が義兵を起して董卓を討ち、滎陽に至って董卓の将軍の徐栄に敗れた時、太祖は馬を失い、賊の追撃は甚だ急しかった。曹洪は下りて馬を太祖に授けた。太祖が辞譲すると、曹洪 「天下に洪が居らずとも、君は無くてはなりません」 かくて歩いて従って汴水に到達した。水は深く渡れず、曹洪は水を循って船を得、太祖と倶に済(わた)って譙に還奔した。揚州刺史陳温は素より曹洪と親善で、曹洪は家兵千余人を率いて陳温に就いて募兵し、廬江の上甲兵二千人を得、東のかた丹楊に到達して復た数千人を得、太祖と龍亢で会同した。

 この揚州募兵ですが、武帝紀では 「夏侯惇を同道した」 とあっても曹洪への言及はありません。夏侯惇は別将、曹洪は部下。そんな関係性なのでしょう。この募兵は結局、龍亢での造叛で失敗していますが、その前の汴水での一件を曹操は最大の危機だったと認識し、後々まで曹洪の立場を庇護しています。

太祖が徐州に遠征すると、張邈が兗州を挙げて叛いて呂布を迎えた。時に大饑荒があり、曹洪は兵を率いて御前に在り、先ず東平・范に拠り、粮穀を聚めて軍に中継した。太祖が濮陽で張邈・呂布を討ち、呂布を破走させると(曹洪は)東阿に拠り、転じて済陰・山陽・中牟・陽武・京・密の十余県を撃ち、皆なこれを抜いた。前後の功で鷹揚校尉に拝された。揚武中郎将に遷り、天子が許に都すると曹洪を諫議大夫に拝した。
(太祖の)別軍として劉表を征伐し、劉表の別将を舞陽・陰葉・堵陽・博望で破り、功があって事N将軍に遷り、国明亭侯に封じられた。

 これ、208年の事だと思っていましたが、ひょっとしたら袁兄弟が存命中の“なんちゃって南征”の事じゃないでしょうかね。だとしたら封侯は207年の大行賞の際かも。

累ねて征伐に従い、都護将軍に拝された。文帝が即位すると衛将軍とされ、驃騎将軍に遷り、野王侯に進封されて邑千戸を益され、以前と併せて二千一百戸となり、特進に位した。後に都陽侯に徙封された。

 始、洪家富而性吝嗇、文帝少時假求不稱、常恨之、遂以舍客犯法、下獄當死。羣臣並救莫能得。卞太后謂郭后曰:「令曹洪今日死、吾明日敕帝廢后矣。」於是泣涕屡請、乃得免官削爵土。洪先帝功臣、時人多為觖望。明帝即位、拜後將軍、更封樂城侯、邑千戸、位特進、復拜驃騎將軍。太和六年薨、諡曰恭侯。子馥、嗣侯。初、太祖分洪戸封子震列侯。洪族父瑜、脩慎篤敬、官至衞將軍、封列侯。

 もとより曹洪は家が富んでいたが性は吝嗇で、文帝は少(わか)い時に借財を求めても応えられなかった為に常にこれを恨み、かくて舍客が法を犯すと獄に下して死罪に当てた。群臣はみな救おうとして果たせなかったが、卞太后が郭后に 「曹洪を今日死なせれば、私が明日には帝に廃后を命じましょう」 と謂い、こうして(郭后が)泣涕してしばしば請願した為に免官と削爵土となった[2]。曹洪は先帝の功臣であったから、時人の多くが觖望(失望)した。明帝が即位すると後将軍に拝され、楽城侯に更封されて千戸を食邑とした。特進に位し、復た驃騎将軍に拝された。太和六年(232)に薨じ、恭侯と諡された。子の曹馥が侯を嗣いだ。
かつて太祖は曹洪の戸を分けて子の曹震を列侯に封じた。曹洪の族父の曹瑜は脩慎篤敬で、官は衛将軍に至り、列侯に封じられた。
 
[1] 曹洪の伯父の曹鼎は尚書令となり、曹洪を任じて蘄春長とした。 (『魏書』)
[2] 文帝が曹洪を収監した時、側に曹真が在り、請願して 「今、曹洪を誅すれば、曹洪はきっと私が譖したと考えましょう」 文帝 「我れが自ら糾すのだ。卿の豫かるところではあるまい?」 おりしも卞太后が帝を責怒し 「梁・沛の間での事(滎陽の役)で、子廉が居なければ今日は無いのですよ」

 曹魏に於ける曹洪の立ち位置を端的に指摘した一言です。もちろん曹洪の功績は滎陽の役だけでなく、その後の揚州での募兵や兗州奪還でも殊勲と云って差し支えありません。曹操が基盤を確立する上で欠けてはならなかった存在で、太后がここまで食い下がるのも当然です。言ってみれば元勲of元勲。

かくして詔命で釈放した。猶おもその財産が没入されたままだったので、太后が又た言上し、かくして後に返還された。 かつて太祖が司空だった時、率先垂範しようと毎年の徴税には譙県に平貲(財産調査)させた。時の譙令は曹洪の貲財を調査して曹公の家と同等とした。太祖 「我が家の貲財がどうして子廉に比肩しよう!」
文帝が東宮に在った時、曹洪から絹百匹を借りようとして曹洪が意に沿わない事があった。曹洪は法を犯すに及んで必死であると思い、赦されると喜んで上書して謝罪した 「臣は少時より道に由らず、過在人倫(?)、長らく任に非らずを竊み、含貸(目こぼし?)を蒙ってまいりました。性は足る事を知る節度がなく、豺狼のような強欲な質が有り、老いては惛(くら)く更に貪婪となり、国網(国法)に触突する罪は三千に迫ります。赦宥されるものではなく、辜誅に就いて棄市に就くべきを、猶おも天恩を蒙り、骨肉は更生いたしました。臣は天日を仰視して霊神に愧負し、俯いて愆闕(過失)を慚愧して怖悸し、頚を縊って自裁する事も出来ず、謹んで闕門に塗顔し、章奏を拝して陳情するものであります」 (『魏略』)

 時代が変わるという事を如実に示しているので全文訳してみました。短文とはいえ本来ならブッチしています。曹操時代には大手を振って闊歩していたお大尽様が、かつて借財を取りつく嶋もなく断った相手に、ここまで卑屈になって対応するとは。まぁ、天子に対する謝罪文というのは本来こうしたものなんでしょうけど。

 

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