三國志修正計画

三國志卷九 魏志九/諸夏侯曹傳 (三)

夏侯尚

 夏侯尚字伯仁、淵從子也。文帝與之親友。太祖定冀州、尚為軍司馬、將騎從征伐、後為五官將文學。魏國初建、遷黄門侍郎。代郡胡叛、遣鄢陵侯彰征討之、以尚參彰軍事、定代地、還。太祖崩于洛陽、尚持節、奉梓宮還鄴。并録前功、封平陵亭侯、拜散騎常侍、遷中領軍。

 夏侯尚、字は伯仁。夏侯淵の従子である。文帝とは親友だった[1]。太祖が冀州を平定すると夏侯尚は軍司馬となり、騎兵を率いて征伐に従い、後に五官将文学となった。魏国が初めて建てられると黄門侍郎に遷った。代郡の胡が叛き、鄢陵侯曹彰を遣ってこれを征討する時、夏侯尚は曹彰の軍事に参じ、代の地が平定されると帰還した。太祖が洛陽で崩じると、夏侯尚は節を持し、梓宮(霊柩)を奉じて鄴に帰還した。それまでの功を併録して平陵亭侯に封じられて散騎常侍に拝され、中領軍に遷った。

文帝踐阼、更封平陵郷侯、遷征南將軍、領荊州刺史、假節都督南方諸軍事。尚奏:「劉備別軍在上庸、山道險難、彼不我虞、若以奇兵潛行、出其不意、則獨克之勢也。」遂勒諸軍撃破上庸、平三郡九縣、遷征南大將軍。孫權雖稱藩、尚益脩攻討之備、權後果有貳心。
黄初三年、車駕幸宛、使尚率諸軍與曹真共圍江陵。權將諸葛瑾與尚軍對江、瑾渡入江中渚、而分水軍于江中。尚夜多持油船、將歩騎萬餘人、於下流潛渡、攻瑾諸軍、夾江燒其舟船、水陸並攻、破之。城未拔、會大疫、詔敕尚引諸軍還。益封六百戸、并前千九百戸、假鉞、進為牧。荊州殘荒、外接蠻夷、而與呉阻漢水為境、舊民多居江南。尚自上庸通道、西行七百餘里、山民蠻夷多服從者、五六年間、降附數千家。五年、徙封昌陵郷侯。

文帝が踐阼すると平陵郷侯に更封され、征南将軍に遷って荊州刺史を領し、仮節都督南方諸軍事となった。

 この時期は曹魏の軍管区の再編期でもあるので、南面諸軍の責任者がちょっと錯綜気味に見えます。文帝の即王位時点では南面総督が夏侯惇でその下の荊州担当が曹仁、揚州担当が張遼。夏侯惇の後任となった曹仁が都督荊揚益州諸軍事として宛に後退すると、曹休が鎮南将軍・仮節都督諸軍事。鎮南ですから荊州方面だと思われますが、歴陽・蕪湖などの揚州方面もフォローしているので、この時期は管区の区分はまだ希薄だったのかもしれません。この後、文帝の踐阼を機に荊州担当と揚州担当が明確に分けられ、夏侯尚が荊州担当、曹休が揚州担当になり、曹仁が両戦線をフォローする体制になります。関中方面は夏侯楙が担当しているので、文帝の初期には魏の三大前線の二つを夏侯氏が担当している事になります。

夏侯尚が上奏した 「劉備の別軍は上庸に在り、山道は険難で、彼はこちらに虞(そな)えておりません。もし奇兵を潜行させてその不意に出れば、独克の勢(一方的勝利)となりましょう」 かくて諸軍を勒いて上庸を撃破し、三郡九県を平定し、征南大将軍に遷った。

 蜀側視点で云えば、孟達が裏切って劉封が奔還した戦いです。三郡は上庸・西城・房陵郡になります。

孫権は称藩したとはいえ、夏侯尚は益々攻討に備えて修め、孫権は後に果たして貳心を有した。
黄初三年(222)、車駕が宛に行幸し、夏侯尚に諸軍を率いさせ、曹真と共に江陵を囲ませた。孫権の将軍の諸葛瑾と夏侯尚は長江を挟んで対峙し、諸葛瑾は長江の中洲に渡り、江中に水軍を分置した。夏侯尚は夜間に多数の油船を用意し、歩騎万余人を率いて下流から潜かに渡り、諸葛瑾の諸軍を攻め、長江を夾んでその舟船を焼き、水陸並攻してこれを破った。城が抜けないうちに大疫が生じ、詔敕により夏侯尚は諸軍を引いて帰還した。封六百戸が益されて以前と併せて千九百戸となり、鉞を仮されて荊州牧に進められた。荊州は残荒しており、外は蛮夷に接し、呉と阻(へだ)てるのに漢水を境とし、旧民は多く江南に居していた。夏侯尚は上庸より道を通し、西行すること七百余里、山民・蛮夷の服従者が多く、五・六年間で数千家が降附した。黄初五年に昌陵郷侯に徙封された。

尚有愛妾嬖幸、寵奪適室;適室、曹氏女也、故文帝遣人絞殺之。尚悲感、發病恍惚、既葬埋妾、不勝思見、復出視之。文帝聞而恚之曰:「杜襲之輕薄尚、良有以也。」然以舊臣、恩寵不衰。六年、尚疾篤、還京都、帝數臨幸、執手涕泣。尚薨、諡曰悼侯。
子玄嗣。又分尚戸三百、賜尚弟子奉爵關内侯。

夏侯尚には嬖幸する愛妾があり、適室の寵を奪っていた。適室は曹氏の娘で、そのため文帝は人を遣って絞殺させた。夏侯尚は悲感し、発病して恍惚となり、葬埋した妾を見たいとの思いに勝えず、復た出してこれを視た。文帝は聞くと恚り 「杜襲が夏侯尚(の扱い)を軽薄にするのも、尤もな事だ」 それでも旧臣だったので恩寵は衰えなかった。六年(225)に夏侯尚は疾が篤くなり、京都に帰還し、文帝はしばしば臨幸し、手を執って涕泣した。夏侯尚が薨じると悼侯と諡された[2]
子の夏侯玄が嗣いだ。又た夏侯尚の戸邑三百を分ち、夏侯尚の弟の子/夏侯奉に爵関内侯を賜った。
夏侯玄

 玄字太初。少知名、弱冠為散騎黄門侍郎。嘗進見、與皇后弟毛曾並坐、玄恥之、不ス形之於色。明帝恨之、左遷為羽林監。正始初、曹爽輔政。玄、爽之姑子也。累遷散騎常侍・中護軍。

 夏侯玄、字は太初。少時から名が知られ、弱冠で散騎黄門侍郎となった。嘗て進見された時、皇后の弟の毛曾と並坐したが、夏侯玄はこれを恥とし、顔色に不悦(不快)を形(あらわ)した。明帝はこれを恨み、羽林監に左遷した。正始の初めに曹爽が輔政すると、夏侯玄は曹爽の姑の子だった事から、散騎常侍・中護軍に累遷した[3]

太傅司馬宣王問以時事、玄議以為:「夫官才用人、國之柄也、故銓衡專於臺閣、上之分也、孝行存乎閭巷、優劣任之郷人、下之敍也。夫欲清教審選、在明其分敍、不使相渉而已。何者?上過其分、則恐所由之不本、而干勢馳騖之路開;下踰其敍、則恐天爵之外通、而機權之門多矣。夫天爵下通、是庶人議柄也;機權多門、是紛亂之原也。自州郡中正品度官才之來、有年載矣、緬緬紛紛、未聞整齊、豈非分敍參錯、各失其要之所由哉!若令中正但考行倫輩、倫輩當行均、斯可官矣。何者?夫孝行著於家門、豈不忠恪於在官乎?仁恕稱於九族、豈不達於為政乎?義斷行於郷黨、豈不堪於事任乎?三者之類、取於中正、雖不處其官名、斯任官可知矣。行有大小、比有高下、則所任之流、亦渙然明別矣。奚必使中正干銓衡之機於下、而執機柄者有所委仗於上、上下交侵、以生紛錯哉?且臺閣臨下、考功校否、衆職之屬、各有官長、旦夕相考、莫究於此;閭閻之議、以意裁處、而使匠宰失位、衆人驅駭、欲風俗清靜、其可得乎?天臺縣遠、衆所絶意。所得至者、更在側近、孰不脩飾以要所求?所求有路、則脩己家門者、已不如自達于郷黨矣。自達郷黨者、已不如自求之於州邦矣。苟開之有路、而患其飾真離本、雖復嚴責中正、督以刑罰、猶無益也。豈若使各帥其分、官長則各以其屬能否獻之臺閣、臺閣則據官長能否之第、參以郷閭コ行之次、擬其倫比、勿使偏頗。中正則唯考其行迹、別其高下、審定輩類、勿使升降。臺閣總之、如其所簡、或有參錯、則其責負自在有司。官長所第、中正輩擬、比隨次率而用之、如其不稱、責負在外。然則内外相參、得失有所、互相形檢、孰能相飾?斯則人心定而事理得、庶可以靜風俗而審官才矣。」

 太傅司馬懿が時務を問うた時、夏侯玄が議して云うには(抄訳)
「人材登用は国家の責務で、銓衡を台閣(三府や尚書)が、人品評定を郡の中正官が行なっております。現在はこの上下の分掌が機能しておらず、緬緬紛紛たる有様です。

この後の論旨で判明しますが、中正官が品行査定だけでなく人事権をも実質的に掌握している事を問題視しています。南朝貴族社会を機能させたシステムがこの時期から問題視されていた、と。九品官人法が始まってまだ30年も経っていないというのに。

中正官の職務を同品階内部の行節を比較するだけに戻しましょう。下である中正官が銓衡の事をも行使し、上である機柄を執る者が銓衡の事を委ね、上下が互いに職権を侵害していれば紛錯もしようというものです。台閣が下吏を考査する場合、各々に長官があって選考しているのに深く究考している者はおりません。 現状では官を求める者は、家門で修身している者は郷党で成功している者に及ばず、郷党で成功している者は州郡に官を求める者に及びません(中正官が人事権まで握っている為、既存の権力に繋がっている者が有利で、品行の評価が問題とされなくなっている)。今さら中正官を罰則で縛っても無益な事です。台閣と中正官の職分を明確に分け、中正官は行迹だけを考査してその高下を分別し、等級を審定し、決して官位の昇降に携わらせてはなりません。台閣が人事を総べれば、問題があった場合は有司が責任を負い、長官の選考と中正官の評価が誤っていた場合は内外ともに責任が生じるので、かくて内外が互いに検証するので、自身を修飾する者はいなくなります」

又以為:「古之建官、所以濟育羣生、統理民物也、故為之君長以司牧之。司牧之主、欲一而專、一則官任定而上下安、專則職業脩而事不煩。夫事簡業脩、上下相安而不治者、未之有也。先王建萬國、雖其詳未可得而究、然分疆畫界、各守土境、則非重累羈絆之體也。下考殷・周五等之敍、徒有小大貴賤之差、亦無君官臣民而有二統互相牽制者也。夫官統不一、則職業不脩;職業不脩、則事何得而簡?事之不簡、則民何得而靜?民之不靜、則邪惡並興、而姦偽滋長矣。先王達其如此、故專其職司而一其統業。始自秦世、不師聖道、私以御職、姦以待下;懼宰官之不脩、立監牧以董之、畏督監之容曲、設司察以糾之;宰牧相累、監察相司、人懷異心、上下殊務。漢承其緒、莫能匡改。魏室之隆、日不暇及、五等之典、雖難卒復、可麤立儀準以一治制。今之長吏、皆君吏民、重以郡守、累以刺史。若郡所攝、唯在大較、則與州同、無為再重。宜省郡守、但任刺史;刺史職存則監察不廢、郡吏萬數、還親農業、以省煩費、豐財殖穀、一也。大縣之才、皆堪郡守、是非之訟、毎生意異、順從則安、直己則爭。夫和羹之美、在於合異、上下之益、在能相濟、順從乃安、此琴瑟一聲也、蕩而除之、則官省事簡、二也。又幹郡之吏、職監諸縣、營護黨親、郷邑舊故、如有不副、而因公掣頓、民之困弊、咎生于此、若皆并合、則亂原自塞、三也。今承衰弊、民人彫落、賢才鮮少、任事者寡、郡縣良吏、往往非一、郡受縣成、其劇在下、而吏之上選、郡當先足、此為親民之吏、專得底下、吏者民命、而常頑鄙、今如并之、吏多選清良者造職、大化宣流、民物獲寧、四也。制使萬戸之縣、名之郡守、五千以上、名之都尉、千戸以下、令長如故、自長以上、考課遷用、轉以能升、所牧亦掾A此進才効功之敍也、若經制一定、則官才有次、治功齊明、五也。若省郡守、縣皆徑達、事不擁隔、官無留滯、三代之風、雖未可必、簡一之化、庶幾可致、便民省費、在於此矣。」

又以為(抄訳)
「往古の聖天子が建てた万国には重累羈絆の体(重複支配)は無く、殷周の五等爵も封邑の大小と位階の貴賤があるだけで、二統互相牽制はありませんでした(古来の統治がうまく機能したのは、指揮系統を一本化して臨んでいたから)。秦は聖王の路に背いて独自の体制を行ない、そのため監牧を立てて宰官(太守)を董(ただ)し、督監が枉法を容認する事を畏れて司察に糾察させ、それぞれの役割が重複・干渉して民衆は動揺し、漢も継承して匡改せず、魏も改める暇がありませんでした。
先ずは中間管理の太守を省きましょう。刺史職は監察を兼ねていることですし、そのままで。関係官吏数万を帰農させれば財政にも優しくなりますし、いろいろと簡便にでき、職権の濫用も減らせて、郡優先で割いていた有能な人材を県政に廻せます。万戸以上の県令を郡守と呼び、五千戸以上を都尉と呼びましょう。千戸以下は今まで通り令長です(都尉と令の間は?)。功績に応じて昇進するだけでなく管理区域の拡大もアリです。どうです、解りやすい論功行賞でしょう?県の意見が直接吸い上げられればきっと政果も上がりますよ?」

又以為:「文質之更用、猶四時之迭興也、王者體天理物、必因弊而濟通之、時彌質則文之以禮、時泰侈則救之以質。今承百王之末、秦漢餘流、世俗彌文、宜大改之以易民望。今科制自公・列侯以下、位從大將軍以上、皆得服綾錦・羅綺・紈素・金銀餙鏤之物、自是以下、雜綵之服、通于賤人、雖上下等級、各示有差、然朝臣之制、已得r至尊矣、玄黄之采、已得通於下矣。欲使市不鬻華麗之色、商不通難得之貨、工不作彫刻之物、不可得也。是故宜大理其本、準度古法、文質之宜、取其中則、以為禮度。車輿服章、皆從質樸、禁除末俗華麗之事、使幹朝之家、有位之室、不復有錦綺之飾、無兼采之服、纖巧之物、自上以下、至于樸素之差、示有等級而已、勿使過一二之覺。若夫功コ之賜、上恩所特加、皆表之有司、然後服用之。夫上之化下、猶風之靡草。樸素之教興於本朝、則彌侈之心自消於下矣。」

又以為(抄訳)
「現代は奢侈文弱に流れており、位階によって衣冠が定められてはいるものの、賤人に至るまで贅沢な素材を用い、下民すら(天地の色の)玄色黄色を用いています。民間を規制しようにも野暮な事なので、まずは宮中や高官から制限しましょう。錦綺の飾りや二色以上の服など以ての外。繊細な細工物もいけません。上下の差異を示すのに殊更に煌びやかにするのではなく、一・二箇所で示せば充分です。上が行なえば民も倣って奢侈の心は消滅しましょう」

 宣王報書曰: 「審官擇人、除重官、改服制、皆大善。禮郷閭本行、朝廷考事、大指如所示。而中間一相承習、卒不能改。秦時無刺史、但有郡守長吏。漢家雖有刺史、奉六條而已、故刺史稱傳車、其吏言從事、居無常治、吏不成臣、其後轉更為官司耳。昔賈誼亦患服制、漢文雖身服弋綈、猶不能使上下如意。恐此三事、當待賢能然後了耳。」
玄又書曰:「漢文雖身衣弋綈、而不革正法度、内外有僭擬之服、寵臣受無限之賜、由是觀之、似指立在身之名、非篤齊治制之意也。今公侯命世作宰、追蹤上古、將隆至治、抑末正本、若制定於上、則化行於衆矣。夫當宜改之時、留殷勤之心、令發之日、下之應也猶響尋聲耳、猶垂謙謙、曰『待賢能』、此伊周不正殷姫之典也。竊未喩焉。」

 宣王の報書(抄訳) 「結構な御指摘いちいち御尤もです。累積の結果としての制度なので、すぐには改められません。この三事は、賢能の出現を待って初めて行なえるものです」
夏侯玄の書 (抄訳) 「出来る出来ないではなく、行なうかどうかです。太傅の仰り様は、伊尹・周公が殷周の典を正さないという事です。腑に落ちません」

 夏侯玄の論の趣旨を憶測すると、当時は首領の曹爽が政策を主導していましたから、これも曹爽の政策に沿ったものになっている筈です。曹爽の政策は、宗室に実権を回帰させること。その具体策が夏侯玄のこの意見だと思われます。裏を返せば宗室の衰えの原因がここに在るわけで、夏侯玄らとしては、名族の代弁者である郡中正が人事権まで手にした事に原因があると見ています。だからこその郡廃止論で、郡単位で人事に影響力を行使されると厄介なので、中正官の職能を本来のものに限定し、行使圏も県レベルに縮小し、州はあくまでも軍事と行政監察として存続。
 そもそも九品官人法を発案した陳羣は潁川の名士で、それによって政界進出を法制的に保証されて勢力を固めたのが名族層。もちろん司馬氏や鍾氏なども含まれます。云ってみれば正始の政争は宗室vs名族の権力闘争に他ならず、曹爽らとしては名族に対抗する為に新思想を奉じる文人に人材を仰いだのかな、とも思います。結局、司馬懿のクーデターが成功した後は王粛に象徴される新思想が主流的となって、鄭玄が完成させた儒学は正統的であるが故に野暮なものとなっていきます。

 頃之、為征西將軍、假節都督雍・涼州諸軍事。與曹爽共興駱谷之役、時人譏之。爽誅、徴玄為大鴻臚、數年徙太常。玄以爽抑絀、内不得意。中書令李豐雖宿為大將軍司馬景王所親待、然私心在玄、遂結皇后父光祿大夫張緝、謀欲以玄輔政。豐既内握權柄、子尚公主、又與緝倶馮翊人、故緝信之。豐陰令弟兗州刺史翼求入朝、欲使將兵入、并力起。會翼求朝、不聽。嘉平六年二月、當拜貴人、豐等欲因御臨軒、諸門有陛兵、誅大將軍、以玄代之、以緝為驃騎將軍。豐密語黄門監蘇鑠・永寧署令樂敦・冗從僕射劉賢等曰:「卿諸人居内、多有不法、大將軍嚴毅、累以為言、張當可以為誡。」鑠等皆許以從命。大將軍微聞其謀、請豐相見、豐不知而往、即殺之。事下有司、收玄・緝・鑠・敦・賢等送廷尉。廷尉鍾毓奏:「豐等謀迫脅至尊、擅誅冢宰、大逆無道、請論如法。」於是會公卿朝臣廷尉議、咸以為「豐等各受殊寵、典綜機密、緝承外戚椒房之尊、玄備世臣、並居列位、而包藏禍心、搆圖凶逆、交關閹豎、授以姦計、畏憚天威、不敢顯謀、乃欲要君脅上、肆其詐虐、謀誅良輔、擅相建立、將以傾覆京室、顛危社稷。毓所正皆如科律、報毓施行」。詔書:「齊長公主、先帝遺愛、原其三子死命。」於是豐・玄・緝・敦・賢等皆夷三族、其餘親屬徙樂浪郡。玄格量弘濟、臨斬東市、顏色不變、舉動自若、時年四十六。正元中、紹功臣世、封尚從孫本為昌陵亭侯、邑三百戸、以奉尚後。

 この頃に征西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事となった[4]。曹爽と共に駱谷の役を興し、時人はこれを譏った。曹爽が誅され、夏侯玄を徴して大鴻臚とし、数年で太常に徙した。
 夏侯玄は曹爽との関係から抑絀され、内に意を得なかった。中書令李豊は宿(ひさ)しく大将軍司馬師に親しく侍していたが、私かに夏侯玄に心を寄せ、かくて皇后の父の光禄大夫張緝と結んで夏侯玄に輔政させようと謀った。李豊は既に内廷の権柄を握り、子は公主を尚り、又た張緝と倶に馮翊人であるがために張緝はこれを信用していた。李豊は陰かに弟の兗州刺史李翼に入朝を求めさせ、兵を率いて入れ、力を并せて起とうと考えた。たまたま李翼が入朝を求めたが、聴かれなかった。嘉平六年(254)二月、貴人を拝するにあたり、李豊らは天子が臨軒して諸門に陛兵(禁衛兵)がある事に乗じ、大将軍を誅して夏侯玄を代りに立て、張緝を驃騎将軍にしようと考えた。李豊は密かに黄門監蘇鑠・永寧署令楽敦・冗従僕射劉賢らに語った 「卿ら諸人は内に居って多くは不法がある。大将軍は厳毅で、累ねてこの事を言っている。張当(曹爽失敗の端緒となった宦官)を誡めとすべきではないか」 蘇鑠らは皆な命令に従う事を認めた[5]。大将軍はその謀議を微聞し、李豊に会見を請うた。李豊はそうとは知らずに往き、直ちに殺された[6]。事は有司に下され、夏侯玄・張緝・蘇鑠・楽敦・劉賢らが収捕されて廷尉に送られた[7]
廷尉鍾毓が上奏した 「李豊らは至尊の迫脅を謀り、擅に冢宰を誅しようとしました。大逆無道であり、法の如く論ずる事を請います」 かくして公卿・朝臣・廷尉を会して議し、咸な 「李豊らは各々殊寵を受け、機密を典綜し、張緝は外戚椒房の尊を承け、夏侯玄は世臣に備わっております。並居列位しながら禍心を包藏し、凶逆を搆図し、閹豎と交関し、姦計を授けました。天威を畏憚して敢えて謀図を顕さず、君を擁し上を脅してその詐虐を肆(ほしいまま)にしようとし、良輔を誅して宰相の建立を擅にしようとし、京室を傾覆させて社稷を顛危させようとしました。鍾毓の正したものは皆な科律に沿うもので、鍾毓に施行を報じて下さい」 と結論した。詔書 「斉長公主(李豊の息嫁)は先帝の遺愛で、その三子の死は原せ」 こうして李豊・夏侯玄・張緝・楽敦・劉賢らを皆な三族を夷(たいら)[8]、他の親属は楽浪郡に徙謫した。
夏侯玄は格量弘済(度量があって広く世を救う人物)であり、東市で斬刑に臨んでも顔色を変えず、挙動は自若としていた。時に齢四十六だった[9]。 正元年間(254〜56)に功臣を紹封する事になり、夏侯尚の従孫の夏侯本を封じて昌陵亭侯とし、食邑三百戸として夏侯尚の後を奉祀させた。

 初、中領軍高陽許允與豐・玄親善。先是有詐作尺一詔書、以玄為大將軍、允為太尉、共録尚書事。有何人天未明乘馬以詔版付允門吏、曰「有詔」、因便馳走。允即投書燒之、不以開呈司馬景王。後豐等事覺、徙允為鎮北將軍、假節督河北諸軍事。未發、以放散官物、收付廷尉、徙樂浪、道死。

 かねて中領軍である高陽の許允は李豊・夏侯玄と親善だった。先般、尺一の詔書を詐作した者があり、夏侯玄を大将軍とし、許允を太尉として共に尚書の事を録すとあった。誰人かが未明に馬に乗って詔版を許允の門吏に付して「有詔」と曰い、たちまち馳走した。許允は即座に投書を焼き、司馬師に開呈しなかった。後に李豊らの事が発覚し、許允を鎮北将軍に徙し、仮節・督河北諸軍事とした。赴任前に官物の放散によって収捕して廷尉に付し、楽浪に徙謫する道中で死んだ[10]

 清河王經亦與允倶稱冀州名士。甘露中為尚書、坐高貴郷公事誅。始經為郡守、經母謂經曰:「汝田家子、今仕至二千石、物太過不祥、可以止矣。」經不能從、歴二州刺史、司隸校尉、終以致敗。允友人同郡崔贊、亦嘗以處世太盛戒允云。

 清河の王経は亦た許允と倶に冀州の名士と称えられていた。甘露年間に尚書となり、高貴郷公の事に連坐して誅された。王経が郡守となった当初、王経の母が王経に謂うには 「汝は農夫の子であるのに、今、出仕して二千石に至った。物事の太過であるのは不祥です。止めておきなさい」 王経は従う事が出来ず、二州の刺史、司隷校尉を歴任したが、最後には敗れた[11]
許允の友人で同郡の崔賛も、嘗て処世での太盛を許允に戒めていた[12]
[1] 夏侯尚には籌画の智略があり、文帝はこれを器として布衣の交わりを為した。 (『魏書』)
[2] 詔 「夏侯尚は少時より侍従し、誠を尽し節を竭し、異姓と雖も骨肉同然で、入っては腹心となり、出ては爪牙の任に当った。智略は深く敏く、謀謨は人に過ぎ、不幸にして早殞した。天命ではどうしようもない!征南大将軍・昌陵侯の印綬を贈るものである」 (『魏書』)
[3] 夏侯玄は人を知る才で名を知られ、中護軍となると武官を抜用し、参戟・牙門で俊傑ではない者が無くなった。牧州太守に多く就き、立法・垂教は全て後世の標式となった。 (『魏晋世語』)
[4] 夏侯玄が遷った後、司馬師が代って護軍となった。護軍は諸将を総統し、任務は主に武官の選挙で、それまでこの官にあった者は貨賂を禁止できなかった。そのため蔣済が護軍だった時に謠言があって 「牙門を求めるなら絹千匹、百人督なら五百匹」 と。司馬懿は蔣済と親しく、閑なおりに蔣済に問うと、蔣済は弁解できなかった。そこで戯れに 「市で買うのに一銭足りなくても駄目か」 かくて相対して歓笑した。夏侯玄が蔣済に代っても、このために人事で止絶する事ができなかった。司馬師が夏侯玄に代り、法令を整頓したので犯す者は莫くなった。 (『魏略』)
[5] 夏侯玄は生来の貴種であり、曹爽が廃黜された事で常に怏怏として意を得なかった。中書令李豊は夏侯玄および皇后の父の光禄大夫張緝と乱を陰謀した。張緝は李豊と同郡で、巧言で人を傾ける人である。東莞太守から(光禄大夫として)召され、皇后の家となりはしたが、亦た意を得ず、そのため謀を同じくした。当初、李豊は自身が機密に居り、息子の李韜も又た列侯・給事中として斉長公主を尚っていたが、内外の重鎮でありながら心中は安んじていなかった。
密かに李韜に謂うには 「夏侯玄は海内の重鎮として大任を加えられた事もあり、年齢も壮年であってしかも長らく用いられていない。又た血縁としては曹爽の外弟で大将軍に嫌われている。私が得た夏侯玄の書では、深く憂えているという。張緝には有用な才がありながら、兵馬・大郡を棄て、還って家巷に座している。各々志を得ていない。汝に密かに計画を告げさせようと思う」
張緝が創を病んで臥した時、李豊は李韜を遣って病を見舞わせた。李韜は人を却けて張緝に語るには 「私は公主を尚り、父子で枢機に近く在りますが、大将軍が大事を執って信じていただけない事を常に恐れています。太常は亦た深く憂いを懐いておられましょう。君侯は后父の尊位にあるとはいえ、安危は予測できず、皆な李韜が家と同じく憂慮しておりましょう。父は君侯とこれを謀ることを望んでおります」
張緝は黙然としてやや久しくして 「同舟の難とて、どうして逃げようか?この大事は勝てなければ禍は宗族に及ぼう」
李韜はかくて往って李豊に報じた。密かに黄門監蘇鑠らに語り、蘇鑠らが李豊に答えるには 「惟だ君侯の計のままに」
李豊 「近く貴人を拝する時、諸営兵は皆な門に屯す。陛下が臨軒した時に直ちに共に迫脅し、羣寮人兵を率いて大将軍を誅に就かせよう。卿らは密かにこの意を白しあげてくれ」
蘇鑠ら 「陛下が従わねば奈何します?」
李豊ら 「事には権宜(臨機の策)がある。もし聴き届けて頂けなければ劫迫してでも除去するだけだ。どうして従われない事がある?」 蘇鑠らは許諾した。
李豊 「これは族滅の事だ。卿らはこれを匿せ。事が成れば卿らは皆な封侯・常侍と為るのだ」 李豊は復た密かに夏侯玄・張緝に告げた。張緝は子の張邈を遣って李豊と相結び、同謀して事を起した。 (『魏書』)
―― 李豊は子の李韜を遣って夏侯玄に謀議を報じた。夏侯玄 「詳細に告げてくれればいい」 こうしてそれ以上は告げなかった。 (『魏晋世語』)
[6] 大将軍が李豊の謀議を耳にすると、舍人王羔は命令によって李豊を招くことを請うた。 「李豊に備えが無ければ情を屈し勢いに迫られてきっと参りましょう。もし来なければ、王羔一人で制するに足ります。もし謀議の漏泄を知れば軍勢で車馬を挾み、長戟で自衛して雲龍門から入り、天子を挾んで淩雲台に登るでしょう。台上には三千人の儀仗兵が居り、鼓を鳴らせば軍勢が集まります。このようになれば王羔の及ぶ所ではありません」 大将軍はかくして王羔を遣って車でこれを迎えさせた。李豊は劫迫され、王羔に随って至った。 (『魏晋世語』)
―― 大将軍が李豊を責めると、李豊は禍が及んだ事を知り、色を正して曰った 「卿ら父子は姦を懐き、社稷を傾けようとしている。惜しむらくは吾が力が劣り、禽滅させられなかった事だ!」 大将軍は怒り、勇士に刀環で李豊の腰を衝かせ、これを殺した。 (『魏氏春秋』)

李豊

―― 李豊、字は安国は故衛尉李義の子である。黄初年間に父の蔭で召されて軍に随った。かつて白衣の時、齢十七・八で清白として鄴下で知られ、人物の識別によって海内は翕然とし、注視しない者は莫かった。後に軍に随って許昌に在り、声称は日々に隆んとなった。父はそれを願わず、かくて閉門させて客を断たせた。明帝が東宮に在った当初、李豊は太子文学に連なっていた。尊位に即くに及んで呉の降人を得て問うには 「江東で中原の名士として知られているのは誰か?」 と。降人 「李安国の名を聞いております」 時に李豊は黄門郎であり、明帝が左右に李安国の所在を問うと、左右は李豊の事だと対えた。明帝 「李豊の名は呉越をも被っておるのか」 。後に騎都尉・給事中に転じた。明帝が崩じた後に永寧太僕となったが、名は実力を凌ぎ、有用性は少なかった。正始年間に侍中・尚書僕射に遷った。李豊が台省に在る時は、疾に託して休職する事が多かった。当時の制度では病欠が百日を過ぎれば罷免されたが、李豊の疾は数十日に満たず、暫く起き、復た臥す事を数年続けた。
李豊の子の李韜が公主を尚(めと)るのに選ばれた当初、李豊は外面は辞退したが、内心では大して憚っていなかった。李豊の弟の李翼および李偉は出仕して数年間で郡守を歴任した。李豊は嘗て人中で顕かに二弟を誡め、言当用栄位為■。司馬懿の病が久しくなると、李偉は二千石となり、酒に乱れ、新平・扶風の二郡が乱れても李豊は召さず、衆人は寵を恃んでいるとした。曹爽の専政では李豊は二公の間を依違して、適莫(厚薄・好悪)する事がなく、そのため時の謗書で 「曹爽の勢は熱きこと湯の如く、太傅父子の冷たさは漿の如く、李豊兄弟は游光の如し」 と。その意味は、李豊は外面は(公正のように)清浄を示しているが、内面は(打算で)事を図り、游ぶ光に似ているからである。司馬懿は曹爽の誅殺を上奏する時、車で闕下に往って李豊の様子を窺うと、李豊は怖れうろたえて気力が尽き、足は萎えて地に起っている事ができなかった。
嘉平四年(252)に司馬懿が歿した後、中書令が欠けると大将軍は朝臣に諮問し 「誰で補填するか?」 李豊を指す者があった。李豊は顕選の官でない事は知っていたが、自身は国家に連婚しており、至尊に附す事を思って伏して辞さず、かくて奏してこれを用いた。李豊が中書令となって二年。帝は事毎に独り召して与に語り、その内容は知られなかった。司馬師は己れについての議だと知り、李豊に訊ねたものの李豊が事実を告げなかった為にこれを殺した。その事は秘匿された。
李豊は前後仕えること二朝を歴し、家計を意とせず、俸廩に仰ぐだけだった。李韜は公主を尚ったとはいえ、李豊は(他人の財を)侵取できないように約敕(誓戒)させ、銭帛を賜る事があればそのたびに親族に施した。宮人を賜れば多くは子弟に与えたが、李豊は全て諸外甥に与えた。死後、有司が家財を記すと、家には余積が無かった。 (『魏略』)
―― 夜間に李豊の尸骸を送って廷尉に付したが、廷尉鍾毓は受けなかった 「法官の所管ではない」 その状況を告げ、且つ敕があり、かくして受けた。帝は怒り、李豊の死んだ理由を問おうとした。太后は懼れ、帝を呼びいれ、かくして止んだ。使者を遣って李翼を収捕した。 (『魏氏春秋』)
―― 李翼の後妻は散騎常侍荀廙の姊である。李翼に謂うのに 「中書令の事が発覚し、書が至る以前に呉に赴くべきなのに、とうして座して死亡を択んでいるのですか!左右で共同で水火に赴くのは誰ですか?」 李翼は思案して答えずにいると、妻 「君は大州に在り、死生を同じくする者を知らないとは。去っても免れますまい」 李翼 「二児は小さく、吾れは去らぬ。今はただ罪に従い、身は死しても二児はきっと免れる」 果たして李翼の言の如くなった。李翼の子の李斌は楊駿の外甥である。晋恵帝の初めに河南尹となり、楊駿と倶に死んだ。『晋書』に見える。 (『魏晋世語』)

[7] 夏侯玄は廷尉に至ったが、辞を下す事を肯んじなかった。廷尉鍾毓は自ら夏侯玄の治罪に臨んだ。夏侯玄は色を正して鍾毓を責め 「何を陳べろというのだ?卿には令史としての職責がある。卿が我が為に作れ」 鍾毓は相手が名士であり、節は高く屈服させられず、審問を竟えると夜のうちに辞述を作り、事実と符合するようにさせ、流涕して夏侯玄に示した。夏侯玄は視て、頷いて終った。鍾毓の弟の鍾会は夏侯玄より年少だったが、夏侯玄は交際しなかった。この日、鍾毓の座で夏侯玄に狎れたが、夏侯玄は受け付けなかった。 (『魏晋世語』)
―― 夏侯玄は囹圄(獄舎)に在り、鍾会はこのため狎れて夏侯玄に親しもうとした。夏侯玄は色を正し 「鍾君、どうしてそんなに偪(せま)るのだ!」 (孫盛『雑語』)

 夏侯玄は『魏晋春秋』の云うように、本当に謀議を知ってはいて、関与しなかっただけなんでしょうか。今となっては憶測するしかありませんが、魏の太常は呉と違って祭祀・儀礼関係の、当時の九卿を象徴する実権を伴わない閑職でしたから、イザという時の働きは全く期待できません。じゃあ、夏侯玄個人の資質に期待できる点はというと、、、どうでしょう。有事の対応能力の底は駱谷の役で知れてしまっています。現状に不満そうではあるけれど程度の深さが判らず、堅物そうなので宮中の天子の至近で兵を用いるなんて云えば反対しかねない。何より、曹爽の眷属として警戒・監視されている筈。李豊としては、事前に話を通しておく気は無かったんじゃないでしょうか。

[8] 李豊の子の李韜は公主を尚っていた為、獄中で賜死された。 (『魏書』)
[9] 夏侯玄は西征から帰還すると人事に携わらず、華妍を蓄えなかった。 (『魏略』)
―― 嘗て夏侯霸は蜀に奔ろうとした時、夏侯玄を呼んで倶に往こうとした。夏侯玄 「どうして寇虜の客となってまで生存しようか?」 かくて京師に帰還した。太傅が薨じ、許允が夏侯玄に謂うには 「もう憂う事はありますまい」 夏侯玄は歎じ「士宗よ、卿はなんと不見識なのだ?かの人はそれでも通家(通好のある家)の年少として遇してくれたのだ。子元・子上では私を許容するまい」 夏侯玄は嘗て『楽毅論』・『張良論』及び『本無肉刑論』を著した。辞旨は通遠で、咸な世に伝わっている。夏侯玄が執われると衛将軍司馬昭は流涕して助命を請うた。大将軍 「卿は趙司空の葬儀の事を忘れたか?」 これ以前に司空趙儼が薨じ、大将軍兄弟が会葬したが、会葬者は百を以て数えた。夏侯玄は後から到着したが、集まった会葬者は咸な席を越えて迎え、大将軍はこれより悪んだ。 (『魏氏春秋』)
―― 裴松之が調べるに、曹爽は正始五年(244)に伐蜀し、時に夏侯玄は已に関中都督だった。十年になって曹爽が誅滅された後に洛陽に還ったのである。少帝紀を調べると、司空趙儼は六年に亡くなっている。夏侯玄は則ち趙儼の葬儀には参列できないのだ。もし夏侯玄が入朝していたとして、紀・伝にはその事が無いのだ。かように(『魏氏春秋』は)妄(でたらめ)に近く事実ではない。
[10]
許允

 許允、字は士宗。歴世の衣冠の一門である。父の許拠は出仕して典農校尉・郡守を歴任した。許允は少時から同郡の崔賛と冀州に名を顕し、召されて軍に入った。明帝の時に尚書選曹郎となり、陳国の袁侃と同僚となったが、同じく職事で連坐して共に獄に送られた。詔の旨は厳切で死罪者も出ると思われ、首謀者が重いとされた。許允が袁侃に謂うには 「卿は功臣袁渙の子だ。法八議[※]に対応しているので死の憂慮はあるまい」 、袁侃はその指すところを知り、自ら重罪を受けた。許允は刑を竟えて復た吏となり、郡守に転出した。ようよう遷って侍中・尚書・中領軍となった。

※ 古制での特別審議の対象。皇族・旧知・賢者・技能者・功臣・公卿大夫・勤勉者・旧王族。

許允は李豊らが収監されると聞くと往って大将軍に見えようと思ったが、門を出たところで回遑して定まらず、中道で袴を取りに還り、李豊らは既に収捕されてしまった。大将軍は許允が以前にうろたえていたと聞くと怪しみ 「私が李豊らを収捕してより、士大夫がどうして怱怱とするのだ?」 当時、朝臣で遽える者が多かったが、衆人は咸な許允を指していると考えた。たまたま鎮北将軍劉静が卒し、朝廷は許允を劉静に代えた。節と割符を受領し、外舍に止宿した。大将軍は許允に書を与え 「鎮北は少事とはいえ、一方を都べ典るものだ。念うに足下は華鼓を震わせ、朱節を建て、本州を歴遊するのだ。これは所謂る繍を着て昼に行くというものであろう」 許允は心中甚だ悦び、台中に相聞して鼓吹旌旗を易えたいとした。その兄子は(司馬師が)以前より嫌疑して許允を監督していると衆人より聞いていたので、許允を戒め 「ただただお往き下さい。どうしてそんな事をするのですか!」 許允 「卿は俗士だから解らんのだ。私は国に栄誉をもたらそうと求めているのだ」 帝は許允の出立に当って詔命して群臣を集めた。群臣が皆な集まり、帝は特に許允を引いて身近に置いた。許允は嘗て侍中であり、帝と別れなければならない事を顧みて涕泣して歔欷(咽び泣き)した。嚥会が訖わり、出発の段になって詔で促して許允を去らせた。たまたま有司が、許允が嘗て勝手に厨の銭穀を出してその俳優や官属に支給した事を奏し、そのため収捕して廷尉に送り、尋問を竟えると減死に処されて辺境に徙謫された。許允は嘉平六年秋に徙され、妻子の随行は認められなかった。道中に到達前に倒れ、その年の冬に死んだ。 (『魏略』)
―― 許允は吏部郎となり、郡守を選挙した。明帝は挙げられる者の順序に疑念を生じ、召し入らせて罪を加えようとした。許允の妻の阮氏が跣出して謂うには 「明主は理によって説く事はできても情に求めるのは難しいのですよ」 許允は頷き、入宮した。帝が怒って詰問すると、許允は対え 「某郡太守は任期が満ちましたが、文書が先に届いた為に年限が後になっています。(某太守は逆に、)日限が前になっています」 帝は前み取ってこれを視て、かくして許して退出させた。その衣装が敗れているのを望見し 「清吏である」 として衣装を賜った。許允が鎮北将軍として転出する時、その妻に喜んで謂うには 「これで免れたぞ!」 妻 「禍はこれからです。どうして免れましょう?」 許允は印章の鑑定に善く、叙任の直前になって印章が善くないとして改刻させ、これが三度もあった。許允 「印は始めて成ったのにもう辱めを被っておる」 送印した者に問うと、果たしてこれを懐にして厠に墜としていた。
『相印書』には 「相印法は陳長文に始まり、長文は韋仲将に語り、印工の楊利が仲将より相印法を受け、(楊利)が許士宗に語った。楊利が法術で吉凶を占うと、十中八九が当った。仲将が長文に問うには 『誰よりこの法を得ましたか?』 長文 『もともとは漢の世に生じ、『相印』・『相笏経』があり、『鷹経』・『牛経』・『馬経』があった。印工の宗養が程申伯に相印法を語り、こうして十二家が有って世に相伝している』」とある。
許允の妻の阮氏は賢明だが醜く、許允は始めて見たとき愕然とし、礼を交わし畢えた後は妻の部屋に入ろうとしなかった。妻が婢を遣って覗わせると 「お客様があって姓は桓です」 妻 「きっと桓範でしょう。入室を勧めてくれるでしょう」 やがて桓範は果たして勧めてくれた。許允は入るとすぐさま起ち、妻は裾を捉えて留めた。許允は顧みて妻に謂うには 「「婦女には四徳がある。卿は幾つある?」 婦人 「新婦は容色に乏しいだけです。士には百行がありますが、君はお幾つお持ちですか?」 許允 「皆な備わっている」 婦人 「士には百行があり、その筆頭は徳です。君は色を好みますが徳は好まれておりません。どうして皆な備わっていると謂えましょう?」 許允には慚じる色があり、その非凡な事を知り、かくて大いに互いに親しみ重んじた。
二子が生まれ、許奇・許猛といい、少時から令名があった。許允が後に司馬師に誅されて、門生が走り入って婦人に告げた時、婦人は織機の前に在ったが神色不変のまま 「分っていた事です」 門生はその子を藏そうとした。婦人 「諸児の預かり知る事ではありません」 後に墓所に居を移した。司馬師は鍾会を遣って看察させ、もし才芸・徳能が父に比肩するようなら収捕する気だった。児が母に相談すると「汝らは佳才ではありますが才は多くを具えず、胸懐を率直に鍾会に語ったところで憂う事はありません。哀しみを極めぬようにし、鍾会が止めれば止めなさい。多少は朝廷の事を問えば良いでしょう」 児はこれに従った。鍾会が復命して具さに状況を報告した。終に禍を免れたのは全て母の教えによるものだった。鍾会の識鑒(人物鑑定眼)であっても賢婦の智に敗れたのだ。後に慶事が後嗣に及び、子孫は追封された。 (『魏氏春秋』)
―― 許允の二子の、許奇は字を子泰といい、許猛は字を子豹といった。ともに治理の才(統治手腕)と学問があり、晋の元康年間(291〜99)に許奇は司隸校尉となり、許猛は幽州刺史となった。 (『魏晋世語』)
―― 許猛は礼楽・儒雅に於いて当時最も優れていた。許奇の子の許遐は字を思祖といい、清吏として称えられて位は侍中に至った。許猛の子の許式は字を儀祖といい、才幹があって濮陽内史・平原太守に至った。 (傅暢『晋諸公賛』)
[11]
王経

 王経、字は彦緯。嘗て江夏太守となり、大将軍曹爽が絹二十匹を託して呉と交市させたが、王経は命令書を出さず、棄官して帰郷した。母が理由を問うと、王経は事実を対えた。母は王経が兵馬を典りながら勝手に去ったとして、吏に送って王経に杖五十を加えた。曹爽はこれを聞くとそれ以上罪を問わなかった。王経が司隷校尉となると河内の向雄を辟して都官従事とした。(高貴郷公が挙兵した時)王業は宮を出たのち王経の意図を告げなかった為に難事が及んだ。王経は東市で刑戮され、向雄の哭礼は一市を感動させた。刑は王経の母に及び、雍州の故吏の皇甫晏は家財を投じて埋葬した。 (『魏晋世語』)

 王経は司隷校尉以前に、雍州刺史の時代がありました。皇甫晏の行ないはその為です。王経は255年に洮水で蜀の姜維に大破され、結果として魏の隴右経営を転換させた人物でもあります。この時代に非官の家から立身し、しかも敗戦後から短期間で司隷校尉に復帰したという事は、よほど有力な派閥に属していたか、万人に認められる才能を有していたものと思われます。

 清河の王経が官を去って家に還っていた時、管輅が相いまみえた。王経曰く 「近ごろ一つの怪異があって、大いに嬉しくない。面倒だが卦を立ててもらいたい」 と。卦が成って管輅曰く 「爻は吉で、怪を為すものではありません。君は夜に堂の戸前に在った時、燕爵(燕雀=小鳥)のような一条の流光があり、君の懐中に入って殷殷とした音を発したでしょう。内神(精神)が安んぜず、衣を解いて彷徉し、婦人を招呼して余光を覓索(捜索)された筈です」 。王経は大いに笑って 「実に君の謂う通りだ」 と。管輅曰く 「吉です。遷官の徴しです。その応験はじき至りましょう」 。ほどなく、王経は江夏太守となった。 (管輅伝)
―― 王経は管輅に卜わせたく思ったが、疑難(懐疑と非難)の言葉を発した。管輅が笑いつつ咎めたので、王経は斂手(拱手)して管輅に陳謝した。「前言は戯言にすぎない」 と。ここに管輅は卦を作し、その言葉は皆な験があった。王経は管輅を論じる毎に、「龍雲の精を得て和気を養い幽理に通じる事ができ、徒らな合会の才ではないのだ」 と言っていた。 (管輅別伝)
―― 王経は収捕されるとき、母の下を辞した。母は顔色を変えず、笑って応えて 「死なない者などいましょうか? 以前にお前を止めたのは、死に場所を得られない事を恐れたからです。この事で共に殺されてもどうして怨む事がありますか?」 晋武帝が太始元年(265)に詔した 「故の尚書王経は法に辟陥されたとはいえ、志を守ったのは嘉すべきだ。門戸が堙没している事を愍れに思う。王経の孫に郎中を賜わる」 (『漢晋春秋』)
[12] 崔賛の子の崔洪は字を良伯といい、清恪(清慎)で匪躬(奉身尽忠)の志があった。晋で吏部尚書・大司農となった。 (荀綽『冀州記』)
 

 評曰:夏侯・曹氏、世為婚姻、故惇・淵・仁・洪・休・尚・真等並以親舊肺腑、貴重于時、左右勳業、咸有效勞。爽コ薄位尊、沈溺盈溢、此固大易所著、道家所忌也。玄以規格局度、世稱其名、然與曹爽中外繾綣;榮位如斯、曾未聞匡弼其非、援致良才。舉茲以論、焉能免之乎!

 評に曰く:夏侯・曹氏は歴世で婚姻し、そのため夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪・曹休・夏侯尚・曹真らはいずれも旧き肺腑として親しまれ、時代に貴重され、勲業の左右にあって咸な效労があった。曹爽は徳薄く位は尊く、沈溺盈溢し、これは『易』が固く著かにし、道家の忌む所である。夏侯玄は規格と局度で世にその名を称えられたが、曹爽と中外を繾綣した。栄位は斯くの如くも、その非を匡弼し、良才を援致したとはついぞ聞かない。これらを挙げて論ずれば、どうして免れる事ができたであろう!

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