西晋

 265〜316
 の内部で勢力を培った河内の名族の司馬氏が、司馬懿の孫の司馬炎に至って簒奪した政権。
 司馬炎(武帝)が280年に呉を征服して全国再統一を果たし、田制・税制の改革整備や、魏を反面教師とした王族の藩屏化を行なったが、名族の優遇や統一後の奢侈など、初代から退廃性が顕れていた。 嗣子の恵帝の代には藩王の軍閥化が進み、賈后の専権に対する叛抗が八王の乱に発展し、統一の瓦解と内地の異民族の自立が急速に進行して氐族の李雄が益州にを、幷州では南匈奴を統合した劉淵がを前後して建国した。 南匈奴による華北の征服過程は永嘉の乱と称され、311年には洛陽が陥されて殆どの宗族が殺され、長安に成立した愍帝の朝廷も316年に滅ぼされた。
武帝  恵帝  八王  懐帝
 

武帝  236〜265〜290
 西晋の太祖。諱は炎。河内温県の人。字は安世。魏の晋王司馬昭の子。 265年に魏の相国・晋王を襲ぎ、年末に元帝に譲位させて王朝を開いた。 皇族を冷遇して滅んだ魏に鑑み、親族に軍権を伴う大封を与えて各地の要衝に封建した。 国是となる筈の伐呉の議は関隴の擾乱と朝廷の政争によって容易に決しなかったが、荊州の杜預や益州の王濬ら前線諸将の要請と張華の強い勧めで279年に南征が実現し、徐・豫・荊・益州の南辺諸州から軍を発し、翌年には呉を平定して全国を統一した。
 即位当初は集めた玉錦を殿前で焼却するなど質倹を重んじ、268年には賈充らに律令を定めさせるなど政務にも熱心だったが、伐呉では反対派の筆頭である賈充を大都督に任ずるなど、当初から名族の政治的・社会的影響力が顕著だった。 統一後は州郡の軍備を大幅に削減して州刺史の権限を漢制に戻し、戸調式占田・課田法によって土地・税制を改正した反面で、奢侈に傾いて勢族を中心とする貴族制への移行が著しかった。

賈充  217〜282
 平陽襄陵(山西省襄汾)の人。字は公閭。魏の豫州刺史賈逵の嗣子。 故将の曹爽に連坐したものの李豊の婿だった為に挙げられて尚書官を歴任し、司馬師・司馬昭に信任されて260年には高貴郷公の弑殺を指揮した。
 司馬炎の即位後は腹心の筆頭格として司空・尚書令・魯郡公とされ、庾純との政争は朝議を二分し、荀勗ら戚族派にあったことで優位を保って斉王皇太子とも通婚した。 伐呉に強硬に反対しながらも大都督に任じられ、武昌陥落後にも停戦を求めたが、戦後も寵遇は変らずに死後は元勲として太傅鄭沖・太尉・司徒石苞・司空裴秀・驃騎将軍王沈安平献王・太保何曾・大司馬陳騫・中書監荀勗・平南将軍羊祜斉献王らと共に宗廟に合祀された。
 後妻の郭氏の迫害で嗣子を悉く喪い、禁忌を犯して外孫の韓謐を継嗣とすることを勅許されたが、死後にこの事を以て博士の秦秀から「紀度を昏乱させた」として“荒”の諡号が示され、武帝によって“武”と改められた。

  〜274
 潁川穎陰(河南省許昌)の著姓。字は景蒨。漢の尚書令荀ケの第6子。 幼時に父を喪って姉婿の陳羣に養育され、「博学多才・慎重緻密にして父に劣らず」と絶賛され、司馬懿にも賛嘆された。 諸兄の早逝で家督を嗣ぎ、『易』の解釈で鍾会を論難して名を知られ、左僕射・領吏部、司空を歴任して爵制と礼制を定め、禅譲後は賈充荀勗と政局を与にして枢要に坐し、侍中・太尉に至った。
 司馬氏の簒奪を輔けたことで甥の陳泰に非難され、『晋書』では、「三禮に明るく儀礼に通じるものの徳操に欠け、荀勗・賈充への阿諛に終始した」と評された。

王祥  184〜268
 琅邪臨沂の名族。字は休徴。漢の荊州刺史王叡の甥。厳冬に義母の為に氷を割って鯉を得た故事から、二四孝に数えられる。 漢末の兵乱を廬江に避けて30余年間隠棲した後、徐州刺史呂虔に別駕とされて治名があり、清談にも長じた。 後に秀才に挙げられて曹髦に侍講し、曹髦が殺されると禁を犯して哭礼し、又た晋王に封じられた司馬昭への礼を長揖に留めたことで世人に讃えられた。 九卿から司空・太尉を歴任し、禅譲後に太保・睢陵公に至った。

石苞  〜272
 渤海南皮の大姓。字は仲容。司馬懿に軽佻と忌まれたが、司馬師には管仲・陳平に喩えられた。 東興の役では唯一軍を全うして監青州諸軍事となり、諸葛誕討伐で兗州刺史州泰・徐州刺史胡質を督した後は王基の後任の揚州都督となって寿春に鎮し、禅譲後に大司馬・楽陵郡公とされた。
 寒門の故の蔑嫉と呉の丁奉の離間策から揚州都督の先例(王淩・毌丘倹・諸葛誕)を以て誣され、次子の石喬が上洛を遅延したこともあって叛意を疑われて罷免されたが、程なく羊祜らの進言もあって赦されて司徒に直され、死後は宗廟に合祀された。

羊祜  221〜278
 泰山南城の大姓。字は叔子。羊続の孫。蔡邕の外孫。 兗州刺史夏侯威に認められて夏侯覇の婿とされたが、曹爽に与しなかった事、夫人を離縁しなかった事などで高く評価された。
 姉が司馬師の夫人だったことで司馬炎に疎まれて仮節・都督荊州諸軍事に転出し、呉の西陵督歩闡の救援に失敗して征南将軍に貶されたが、後に征南大将軍に進められ、呉の陸抗との交流は佳話として伝えられる。 陸抗の死後は王濬を益州都督に挙げて艦船を建造させるなど伐呉の準備を進めたが、賈充・荀勗・馮耽らの反対で実現できず、杜預を後任に推して洛陽で病死した。

杜預  222〜284 ▲
 京兆杜陵の人。字は元凱。魏の尚書僕射杜畿の孫。 父と不和だった司馬懿の死後、司馬昭の妹婿だったことで尚書郎とされ、征蜀では鍾会の長史とされながらも謀議には与せず嘉された。 河南尹・秦州刺史領東羌校尉を歴任し、度支尚書のときに救荒策や税制整備で成果を挙げたが、しばしば石鑒から排撃された。
 278年に羊祜に後任に推されて鎮南大将軍・都督荊州諸軍事とされ、279年に開始された伐呉が賈充・荀勗らの反対で延期が諮られた際も、杜預の上奏と張華の強い勧めで継続された。 伐呉の後に当陽県侯とされ、清廉公正なことでも知られたが、讒言を躱すために勢族への賄賂は避けられなかった。 後に『春秋左氏伝』を研究して『集解』『釈例』を著し、左伝研究の基礎をなした。

王濬  206〜286
 弘農湖県の人。字は士治。羊祜の参軍となって認められ、益州刺史・右衛将軍・大司農を歴任した後に羊祜の薦挙で益州都督とされると水軍を整え、279年に龍驤将軍とされて長江を下って建業を陥した。 戦後まもなく、建業攻略を専断したと王渾に弾劾されたが、武帝によって以功贖罪として不問とされ、後に撫軍大将軍・散騎常侍・開府儀同三司まで進んだ。

王渾  223〜297
 太原晋陽の名族。字は玄沖。魏の司空王昶の子。王沈の従弟。 晋初に安東将軍・都督揚州諸軍事として寿春に鎮し、しばしば呉軍を撃退した。 279年に始まる伐呉でも呉の丞相張悌・大将軍孫震らを大破したが、その間に王濬が建業を陥したことを怨恚し、独断専行と誣告した事と、征東大将軍に進んだ事で世人に譏られた。 後に尚書左僕射・司徒を歴任し、斉王の就藩を諫め、恵帝が即位すると侍中を加えられて朝野に重んじられた。 楚王の変には閉門して関与せず、楚王が誅されると出仕して録尚書事を加えられた。

衛瓘  220〜291
 河東安邑(山西省夏県)の人。字は伯玉。魏の尚書衛覬の子。司馬昭に重用されて累進し、征蜀には軍監として鍾会の軍に従って造叛を鎮圧したが、押送したケ艾の報復を懼れて道中で暗殺し、杜預ら多くの識者から批判された。 司馬炎にも信任されて関中・徐州・青州の都督を歴任し、禅譲後に幽平都督に転じると鮮卑の内訌を助長して拓跋部の分裂に成功し、尚書令・司空に進んだ。
 貴族制社会の進行を危惧して九品官人法の廃止と郷挙里選制の再開を提議し、又た司馬衷の立太子には強く反対した。 武帝の死後、国舅の楊駿が殺されると太保とされて剣履・不趨が許され、録尚書事として汝南王を輔佐したが、楚王の変で汝南王とともに殺された。
 草書家としても著名で、同時代の索靖と並称され、共に殺された子の衛恒も能書家として知られた。

裴秀  224〜271
 河東聞喜の著姓。字は季彦。魏の尚書令裴潜の子。 はじめ曹爽に仕え、その死後は司馬昭に属し、諸葛誕討伐に従って尚書僕射に進んだ。 の礼制整備、賈充の律令整備と並行して官制改編を進め、禅譲にも参画して尚書令・鉅鹿郡公とされ、後に司空に進んだが、寒食散の誤用で頓死した。著作『禹貢地域図』は中国地図学の嚆矢とされる。

裴楷  237〜291 ▲
 河東聞喜の著姓。字は叔則。魏の尚書令裴潜の甥。冀州刺史裴徽の子。 博識で、特に『老子』・『周易』に通じ、清談では王戎と並称され、容姿と人品から“玉人”と称された。 武帝のとき中書令・侍中に至り、子は楊駿の婿とされたが、畢に楊駿を認めず不和なままで、恵帝即位のとき太子少師とされた。 俸給すべてを一族に施し、梁王・趙王から毎年数百万銭を借りたという。

李密  〜287
 犍為武陽の人。一名は虔、字は令伯。譙周に師事し、しばしば呉に遣いした。 蜀が滅ぶと下野して晋の招聘には『陳情表』を奉って拒んだが、祖母の死後は出仕して郎中・太子洗馬をへて漢中太守まで進んだ。 後に詩中で蜀漢を讃美したことを弾劾されて罷免された。 『陳情表』は名文として夙に知られ、諸葛亮の『出師表』、韓愈の『祭十二郎文』とともに中国の三絶文にも挙げられる。

山濤  205〜283
 河内懐の人。字は巨源。幼時に孤貧となったが、老荘学を修めて嵆康阮籍・呂安らと交流した。 出仕直後に曹爽が秉政して隠棲したが、後に姻縁から司馬師に自薦して吏部尚書に至り、晋では太子少傅・尚書右僕射などを歴任しながら長らく人事を領して司空に至った。晩年には司徒に推されたが、老疾を理由に辞退した。
 竹林七賢に数えられ、嵆康を吏部尚書に推して絶交されたが、刑に及んで託孤される信頼があった。

阮咸  ▲
 阮籍の甥。竹林七賢の1人。叔父を凌ぐ奇矯な言動で礼法の士に非難された。 音律に対する造詣が深く、音律論で論破した荀勗に妬まれて散騎侍郎から始平太守に遷された。 琵琶に長じたことから、世に伝わる楽器の阮咸は、亀茲伝来の琵琶を阮咸が改修したものとの伝説に由来する。

王戎  234〜305 ▲
 琅邪臨沂の著姓。字は濬沖。魏の幽州刺史王雄の孫。太保王祥の族孫。 幼時より才器を讃えられ、散騎常侍・荊州刺史などを歴任して伐呉では武昌を陥し、尚書左僕射・安富県侯とされて吏部を宰領した。 賈氏に通じて297年には司徒に進んだが、清談に耽って政務を顧みず、趙王の乱で娘婿の裴頠に連坐しても害されなかった。 恵帝に近侍して蕩陰の役にも随い、長安遷都で出奔して郟で歿した。
 阮籍と親交が深く竹林七賢に数えられ、至孝にして稀な吝嗇家という二面性を持ち、娘と雖も借財を返済しないうちは会話せず、また自家の良質の李桃を売る際には栽培できないように核に穴を穿ったと伝えられるが、韜晦の一種とも考えられる。

荀勗  〜289
 潁川潁陰の名族。字は公曾。漢の司空荀爽の曾孫。 夙に孤児となって外祖父の鍾繇に養われ、「荀爽に比す」と讃えられた。 初め曹爽に仕え、政変後は司馬氏に与して枢機に連なり、外叔の鍾会が叛いた後も信任され、禅譲後は秘書監に叙された。 泰始律令など諸制度の制定にも参与し、斉王攸ら諸王の就国を促すなど晋初の体制確立に貢献して尚書令・左光禄大夫に至った。
 文章と音律に優れて呉への制書を多く起草し、宮中の書籍を分類した図書目録『中経新簿』は今日の漢籍分類の基本である「四部分類」の原点とされ、汲冢書の整理も行なった。
 賈充との連和から「人主に阿諛して終始寵禄を全うす」と批判され、音律論で勝る阮咸を転出させ、『三国志』の内容を不満として陳寿を弾劾した事などから私怨の強さを称され、陳寿の件では張華の左遷を結果した。 死後に司徒を追贈されたが、晩年には君寵に驕って疎んじられたとも伝えられる。
陳寿の弾劾については順序が逆で、対立派閥の張華を失脚させる目的で、張華の薦挙で仕官した陳寿がダシにされたのは明白です。 荀勗の賈充擁護としては賈充の娘を太子妃に推したことが象徴的で、これも庾純らの建議で実現した賈充の隴右派遣を回避させることが目的の、対症療法に過ぎません。

司馬攸  248〜283
 斉献王。字は大猷。武帝の同母弟。司馬懿に将来を嘱望されて司馬師の継嗣とされ、「器は炎に優る」と晋王家の正嫡に擬され、司徒何曾らの反対で廃案された後も司馬炎による猜忌が続いた。 武帝の晩年にも輿論の支持から皇太弟に擬され、舅の賈充の死後に荀勗・馮耽らの建議で就国が急がれて憤死した。 葬儀は司馬孚の例が範とされた。
司馬昭が歿したときの司馬氏の置かれた複雑な状況と司馬攸の年齢を考えると、265年時点で家督云々が本気で議されたとも思えず、後の発生が予想される宗祀問題が婉曲に指摘されたのではないかと考えられます。 又た『晋書』の司馬攸像は、一歩間違えれば“繊弱”と表現されかねないほど‘孝’の感情が大きく、少なくとも司馬炎にとっては当て馬以上の意義は感じられません。 それにしても斉王の就国に対する批判が戚族派からもかなり挙がっているのは、斉王に対する期待と太子に対する絶望のどちらが大きかったのか興味あるところです。

司馬駿  232?〜286
 扶風王。字は子臧。司馬懿の第6子。 夙に聡明強記で文章を能くし、8歳で散騎常侍とされて曹芳に近侍し、宗室の儁望と讃えられて魏では安東大将軍に進んで許昌に鎮した。 禅譲で汝陰王に進封されて都督豫州諸軍事に進められ、汝南王が関中の統制に失敗すると使持節都督雍涼等州諸軍事に転じて袞冕服(三公の服飾)が認められ、平虜護軍文叔を督して鮮卑の禿髪樹機能を帰参させて征西大将軍・扶風王に改められた。 関中では農桑を勧励して士卒と苦役を分ち、限田十畝を厳守するなど、恩威を以て民の信望が篤く、平呉の後に驃騎将軍に進んだ。
 後に斉王攸の就国を切諫して憂憤から病死し、大司馬・侍中・仮黄鉞を追贈された。

楊駿  〜291
 弘農華陰の名族。字は文長。楊震の裔。 司馬炎の正妃の叔父として顕職を歴任し、姪が歿した後は娘が武帝の皇后を継いで車騎将軍・臨晋侯とされ、弟の楊珧・楊済とともに“三楊”と呼ばれた。 武帝が歿すると楊太后が遺詔を改竄して託孤から汝南王を除外したことで、太尉・太傅・仮黄鉞持節大都督・侍中・録尚書事として朝政を専断したが、故実には昏く、恵帝即位のときに踰年改元しなかったことでも批判された。 賈皇后に指嗾された楚王に殺された。

陳寿  233〜297
 巴西安漢の人。字は承祚。譙周に師事して『尚書』『春秋』を修め、『史記』『漢書』を耽読した。 蜀では秘書郎・散騎黄門郎を歴任し、黄皓に忤って罷免されたが、晋で羅憲に薦挙されると張華杜預に認められ、著作郎・御史治書を歴任した。 後年、母を遺言で洛陽に葬ったことから不孝として罷免され、後に太子中庶子に叙されたものの受任前に歿した。
 著書『三国志』は魏を正統とし、名文で簡潔にまとめられていることで早くから『史記』『漢書』『東観漢記』と並ぶ四大史書に数えられた。

夏侯湛  243〜294
 譙の著姓。字は孝若。魏の淮南太守夏侯荘の子。征西将軍夏侯淵の曾孫。 羊祜の外甥かつ司馬師の義甥で、司馬睿の外叔にあたる。 太子舎人・尚書郎などを歴任し、恵帝のときに散騎常侍に進んだ。 文章家として著名で、著作の『魏書』は陳寿の『三国志』編纂に大いに資し、又た容姿を以て、親交のあった潘岳とは“連璧”と讃えられた。

恵帝  259〜290〜306
 第二代天子。諱は衷。武帝の子。夙に暗愚として知られ、元勲の衛瓘などは廃黜派の急先鋒だったが、賈充の娘を娶っていた事と、世子の司馬遹に期待されて嗣子とされた。 治世の前半は賈后が朝政を壟断し、賈氏粛清に始まる八王の乱によって王朝は事実上瓦解した。
 賈氏を粛清して洛陽を制圧した趙王に廃され、以後も斉王長沙王成都王河間王東海王の傀儡であり、一説では東海王に毒殺されたという。 大飢饉に際して荒撫策を求められると、「米がないなら肉の粥を食せ」と云った逸話が知られている。

司馬亮  〜291
 汝南王。字は子翼。司馬懿の第4子。 しばしば軍事に失敗しながらも撫軍大将軍に進み、武帝の末には宗室の最年長として“宗師”と称され、楊駿とともに後事を託されたが、楊駿が遺詔を偽造したために閑職に逐われた。 楊氏が粛清されると太宰として衛瓘とともに輔政し、諸王削藩などを建議して中央集権を図ったが、賈后に指嗾された楚王瑋に殺された。

司馬瑋  271〜291
 楚王。字は彦度。武帝の第5子。勇猛だが直情短慮で、政権独占を謀る賈后の偽勅によって楊駿を族滅し、ついで輔政とされた汝南王衛瓘を殺したが、謀叛を理由に処刑された。

司馬遹  278〜300
 愍懐太子。字は煕祖。恵帝の長子。武帝に将来を嘱望され、そのため恵帝は廃黜を免れた。 裴楷張華和嶠らが師傅となったが、賈氏を憎んで殊更に賈謐に反撥し、泥酔したところに謀叛を仄めかす文書に署名させられ、これを証拠に廃された。 これにより内外で反賈の動きが活発となると、許昌に遷されて暗殺された。

賈皇后  256〜300
 諱は南鳳。太尉賈充の娘。272年に太子妃とされた。 妬心が強く、女官数名を殺したために廃黜も議されたが、荀勗や楊皇后らの調停で赦された。 恵帝の即位で皇后に立てられると、偽勅によって楚王に摂政の楊駿汝南王衛瓘を殺させた後に楚王を誅し、10年にわたって朝政を壟断したが、それでも張華裴頠を重用するなど名士層との妥協は余儀なくされた。 300年に太子を殺したことで趙王に挙兵の口実を与えて族滅され、これより八王の乱が本格化した。

賈謐  〜300 ▲
 字は長深。賈充の外孫。魏の司徒韓曁の玄孫。賈充に嗣子がなかったため、禁忌とされる異姓養子を勅許された。 典籍に通じて夙に声望があり、また計謀にも長け、多くの名流・文士が参集して特に詩文に秀でた“二四友”は太康文学を象徴した。 賈后の奪権・垂簾を輔けて侍中に至り、賈后とその母/広城君郭槐(郭淮の姪)とともに朝政を壟断した。 かつて太子と争って王衍の長女を娶り、又た奕棋を競って成都王に叱責されたことがあり、成都王が地方に遷されたことは世に「賈氏大逆の先蹤」と称しされた。 趙王の変で賈后とともに殺された。

石崇  249〜300
 渤海南皮の著姓。字は季倫。大司馬石苞の子。夙に勇敢で機略に長け、利殖の才の故に父に遺財は分与されなかった。 執政の楊駿の濫爵を批判して荊州刺史・南蛮校尉に出されると、地利を活かして商賈にも精励しただけでなく関路に諸税を課して巨富を築き、その私財は帝室をも凌いで海内無双と称された。
 楊駿の死後に九卿を歴任し、仮節・監徐州諸軍事を経て衛尉に転じたが、趙王の変に際して孫秀に愛妾の緑珠を譲ることを拒んだ為、親交のあった潘岳や外甥の欧陽建らと共に淮南王との通謀を以て殺された。
 “賈謐二四友”の上席に数えられ、徐州に転出する際に別荘“金谷”で催した豪遊と詩宴は、潘岳が編集して石崇が序を書いた『金谷集作詩』と共に長らく伝えられ、東晋の蘭亭の宴にも模倣された。 夙に劉輿劉琨兄弟の才を認め、王トが劉兄弟の暗殺を謀ると、奔馳して王トに迫って兄弟を救った。
六朝時代の奢侈の代名詞的存在で、下女すら金玉を装飾した絹繍を纏い、外戚の王トと贅を競って飴や蝋を薪の代用とし、絹や錦で数十里に及ぶ歩障を張り、山椒や赤石脂を壁に塗ったそうです。 武帝から下賜されたという王トの珊瑚樹を砕き、代償に更に上等の珊瑚樹を選ばせた一話は、帝室を凌ぐ石崇の財力や販路より寧ろ帝威をも歯牙にかけない貴族の驕恃を示しています。 又た賈謐(或いは賈后の母)の車の揚げる塵を潘岳と共に拝礼したことは“後塵”の故事となりましたが、極度に権に佞る卑屈な姿勢を指すもので、他人に先んじられるといったニュアンスはありません。

欧陽建  〜300 ▲
 渤海重合(河北省滄州市)の大姓。字は堅石。征西将軍司馬倫に孫秀の放任を難じて忌避され、後に孫秀に斉王・淮南王の朋党と誣告されて石崇・潘岳らとともに殺された。 夙に才名を謳われて“賈謐二四友”に数えられ、『易』・『荘子』の「言は意を尽くさず」に異を唱えた『言は意を尽くすの論』は、西晋清談の象徴とされる。

潘岳  247〜300
 滎陽中牟(河南省)の人。字は安仁。曹操の九錫策命を起草した潘勗の孫。 夙に奇童と讃えられながらも昇任が停滞した事で領吏部の山濤の人事を批判して王済裴楷和嶠らを敵視し、楊駿に通じて主簿に迎えられた。 楊氏が滅ぼされると文才を惜しむ賈謐に赦され、愍懐太子廃黜にも参与して「性軽躁、趨世利」と称され、権門への阿諛は母からも苦言を呈された。
 嘗て父の従士の孫秀が狡智を好んで文才を矜るのを嫌って虐待した為、趙王の変では淮南王の謀首と誣されて石崇らと共に刑戮され、石崇の“金谷”で詠んだ「白首同所帰」の句は世に“詩讖”と称された。
 西晋を代表する詩人として「陸才如海、潘才如江」と陸機と並称され、“賈謐二四友”でも筆頭に挙げられ、哀傷の修辞に長じて『詩品』でも上品に位された。 姿貌を以て夏侯湛とは“連璧”と讃えられ、外出すると常に婦人の投じる水菓で車が埋まったと伝えられ、しばしば張載と対比される。

潘尼  〜311? ▲
 字は正叔。潘岳の甥。恵帝が即位すると太子舎人とされ、尚書郎・著作郎などを歴任して趙王の簒奪で下野したが、斉王の挙兵で参軍に加わり、中書令を経て永嘉年間に太常卿に至った。 夙に文才を潘岳と並称されながらも俗欲に乏しく、永嘉の洛陽陥落に先んじて衆を率いて東向したが、賊に囲まれて中で60余歳で病死した。 詩風は温雅で著作を好み、『詩品』では中品に位する。

張華  232〜300
 范陽方城(河北省固安)の人。字は茂先。幼時に貧孤となったが、同郡の盧欽に見出されて劉放に婿とされ、阮籍に讃えられて名を高め、司馬昭に仕えた。 禅譲後に中書令に進み、閣僚で唯一伐呉論を支持して南征を実現させ、度支尚書として兵站を管掌して広武侯に封じられた。 武帝の継嗣に斉王を推した事で忌まれ、荀勗の讒誣もあって都督幽州諸軍事・護烏桓校尉に出されたが、辺境政策にも治績を挙げて徴還された。
 恵帝の初期には執政の楊駿に憚避されて王戎裴楷和嶠らと並んで不遇だったが、賈氏に重んじられて296年には司空に至り、裴頠とともに政局の安定に尽力して「闇主虐后を戴いて海内安寧であったのは、ひとえに張華の尽忠と弥縫補闕による」と讃えられた。 又た出自に拘らずに人材を推挽し、陸兄弟や陳寿左思陶侃の他、劉聡慕容廆らを挙げ、不遜と定評の陸機にも私淑された。
 関中での趙王倫の失策の厳罰化を梁王彤に内示した事や、趙王の参枢を認めなかった事などから怨恚され、趙王の奪権を批判して賈党として族滅された。 趙王の敗滅後に摯虞の弁護で司空が贈られ、伐呉の功を尤として壮武郡公ではなく広武県侯として葬られた。
 博覧強記で当代随一の蔵書家でもあり、百科事典の嚆矢とされる『博物志』を著し、遺産となった蔵書は官書校訂の際に大いに参考された。 あらゆる文体を能くして詩名も高く、その名声は江淹の逸話に端的に示され、『詩品』では中品に位して「詩風は王粲を源流とし、謝混袁淑鮑照らに継がれた」と評された。

裴頠  267〜300 ▲
 河東聞喜の著姓。字は逸民。司空裴秀の子。王戎の婿で、賈充の先妻の従子。 博学能筆で器局があり、挙措は典雅で談論にも長けたが、清談に傾いて礼学を軽視する時俗を忌んで阮籍王衍らを批判した。 賈氏の姻戚として重んじられながらも外戚の跋扈を憎み、張華を輔けて元康の世を支え、賈后廃黜を画策した事もあったが、趙王に忌まれて賈党として殺された。

斉万年  〜299
 氐族の有力首長。296年に馮翊で発生した匈奴の叛乱鎮圧に征西将軍司馬倫が失敗すると、秦・雍州の氐・羌族を糾合して梁山(陝西省乾県)で称帝し、討伐の建威将軍周処を敗死させて征西大将軍司馬肜を大破した。 299年にようやく鎮圧されたが、関中からの流民が激増し、劉淵李特らに受容されて自立を可能とする一因となった。

江統  〜310
 陳留圉(河南省杞県)の名族。字は応元。太子洗馬令のときに起こった斉万年の乱を機に『徙戎論』を上書したが、平素は“嶷然稀言”と称されるほど寡黙静謐だった。 八王の乱でも朝廷に留まって国子博士に黄門侍郎・散騎常侍を兼ね、永嘉の乱で避難中に歿した。
  
徙戎論:江統が上書した異民族政策。その要旨は、漢魏以来の政策によって国内に遷された異民族、主に関中の氐羌族の甘粛送還を主張するもので、漢族に対する異民族の怨恨心の深さにも言及している。 当時は賈后の垂簾期で、外戚と宗室が権力争奪に注力していた為、朝廷では辺境の事は一顧だにされなかった。

八王の乱  291〜306
 賈氏の秉政によって惹起された、宗室諸王による兵変。 八王とは汝南王亮・楚王瑋・趙王倫・斉王冏・長沙王乂・成都王穎・河間王顒・東海王越を指し、賈后執権を開いた前期と、賈氏を粛清した後期に区別できるが、概ねは後期の内戦を指し、汝南王楚王は武帝の歿した翌年に賈后が専権を確立する過程で殺された。
 300年に武力によって賈氏の粛清に成功した趙王は翌年には恵帝から簒奪したが、共闘した斉王の主導によって成都王・河間王・長沙王らに殺され、斉王も悪政を諸王に糾弾されて長沙王に殺された。 洛陽の長沙王も程なく成都王と河間王に敗死し、鄴で執政する成都王が幽州刺史王浚に敗れると河間王の主導で長安遷都が行なわれたが、関東では東海王が抬頭して306年には洛陽還御が実現し、成都王と河間王が殺されて内戦は終息した。
 この内戦で武帝の25皇子のうち生存したのは豫章王呉王のみで、又た諸王が異民族を傭兵として用いたために各種族の統合・自立化を促し、永嘉の乱を結果した。

司馬倫  〜301
 趙王。字は子彝。司馬懿の第9子。汝南王の死後は皇族の宗師格だったが、凡庸な人物として知られ、早くから孫秀を重用して各処で問題を生じ、恵帝の元康年間(291〜299)に征西将軍として関中に鎮した際には斉万年の乱を惹起して洛陽に召還された。 孫秀の勧めで賈后らと通じ、賈后による愍懐太子殺害を待って斉王と与に挙兵し、賈党を鏖殺して相国・侍中・都督中外諸軍事を称した。 翌年に簒奪すると卑職にも高位を濫綬して「貂足らず狗尾続く」と評され、斉王・成都王・河間王らに討たれて登極から60余日で殺された。

司馬冏  〜302
 斉王。字は景治。斉王攸の嗣子として輿望があり、趙王を扶けて賈氏を粛清した後は許昌に出鎮した。 301年に趙王が簒奪すると成都王長沙王らと挙兵し、成都王の来援で趙王を討滅すると大司馬として摂政した。 善政を期待されたが、入洛後は縁故のみを重用して驕奢横暴となり、河間王の檄に応じた成都王・長沙王らに殺された。

司馬乂  〜304
 長沙王。字は士度。武帝の第6子。楚王の実弟。 常山に鎮し、一族中最も驍果と評され、趙王討滅の功で長沙王に改封された。 洛陽に駐して将兵の支持が篤かった為に斉王に圧迫され、斉王討伐に挙兵した成都王に呼応して太尉・都督中外諸軍事とされた。 まもなく河間王・成都王に攻められ、はじめ優勢だったものの城内の東海王が河間王と呼応したために敗れて執われ、翌年に金墉城で殺された。

司馬穎  〜306
 成都王。字は章度。武帝の第16子。 鄴に拠って匈奴の劉淵を従え、幷州刺史の東嬴公司馬騰と鋭く対立した。 趙王討伐の主力であったが、政争を避けての帰国や恵政の実施など盧志の進言を納れて声望を博し、河間王と結んで斉王長沙王を滅ぼすと丞相に皇太弟を兼ねて鄴で執政したが、斉王を凌ぐ驕奢や宦官の孟玖の信任で輿望を失った。
 304年に蕩陰の役で鄴に恵帝を奉迎し、司馬騰と結んだ幽州刺史王浚に大破されて劉淵にも離背され、張方の拠る洛陽に遁れて勢力を失った。 長安遷都に従った後、恵帝が洛陽の東海王に迎えられると各地を遷転して頓丘で捕えられ、鄴で范陽王長史の劉輿に殺された。
  
蕩陰の役 (304):東海王越が主導した、恵帝による鄴の成都王討伐。 王帥には東海王の他に司徒王戎・右僕射荀藩・高密王簡・平昌王模呉王晏豫章王熾・襄陽王範らが随い、成都王は匈奴の劉淵を輔国将軍・督北城守事とする一方で石超を出征させて蕩陰(河南省湯陰)で王帥を大破した。
 この戦いでは輦輿にも矢が立ち、侍中の嵆紹(嵆康の子)が恵帝を庇って斬殺される程で、鄴に徙された恵帝には豫章王・王戎・荀藩のみが随い、東海王らは下邳に逃れた。 これを機に建武と改元されたが、間もなく成都王らは幷州刺史司馬騰・安北将軍王浚らに大破されて洛陽に奔り、離石では劉淵が大単于と号して自立した。

盧志  〜311
 范陽涿(河北省)の名族。字は子道。衛尉盧珽の子。魏の司空盧毓の孫。 文章に長じ、尚書郎から鄴令に転じて成都王に信任され、斉王に与しての趙王討伐や、趙王粛清後の鄴への退去などを勧めて成都王の声望を高めたが、斉王討伐や長沙王攻撃には反対した。又た陸兄弟と鋭く反目し、陸機枉陥にも関与した。 長沙王粛清後は中書監とされて鄴で府事を執り、恵帝に扈随して長安で左将軍・魏郡太守に叙された。
 後に東海王に迎えられ、永嘉の乱を避けて劉琨を頼る途中で劉粲に捕われて平陽で族滅された。
儒学を家業とし、子の盧ェも当初は劉琨の驕奢に批判的だったと伝えられますから、曾祖父の盧植以来の堅物一家だったようです。 なまじ陸機が例の人の孫で、しかも不遇の天才詩人と定評で、結果的に孟玖と歩調が合ってしまった盧志の悪印象はどうも拭えません。

陸機  261〜303
 呉郡呉の大姓。字は士衡。呉の大司馬陸抗の子。丞相陸遜の孫。 平呉の後に上洛して張華に絶賛され、太子洗馬・著作郎を歴任したが、呉の名族としての矜持から貴顕との軋轢が絶えず、又た賈謐に通宜したことで批判された。 趙王に中書令・相国参軍とされ、趙王が滅ぼされると呉王・成都王の仲裁で赦されて成都王に平原内史とされた。 長沙王討伐では河北大都督とされたものの諸将を統制できずに惨敗し、孟玖盧志牽秀らの誣告で殺された。
 “賈謐二四友”に連なり、西晋を代表する詩人として潘岳とは双璧で、精緻な修辞や哲学的洞察は他と隔絶すると評され、『詩品』では上品に位して「太康の英にして、安仁(潘岳)・景陽(張協)は輔たり」「詩風は陳思(曹植)に発源し、才高く辞贍み、例を挙げて華美」と絶賛された。 雄壮華麗と絶賛された名文家でもあり、殊に張華からは「文を為すに、才、太だ多きに患う」と評され、『世説』では「潘の文は爛錦の如く、善からざる処無し。陸の文は砂に金を選ぶが如く、往々にして宝を見る」「潘の文は浅清、陸の文は深蕪」とあり、文学論の発展にも大きく寄与した。
 『晋書』陸機伝は、同書で唐太宗が執筆した4編(宣帝紀・武帝紀・陸機伝・王羲之伝)の1つで、「百代の文宗、一人のみ」と絶賛された。
長沙王討伐の際には古参の諸将の上位に置かれたことを危ぶみ、「三代の軍将は不祥」との道家の説を以て一度は辞退したそうで、負けっぷりが酷かったとはいえ、陸機を軍人として無能と評するのはちょっと酷な気もします。
陸機の圭角は、盧志の「陸遜・陸抗、君に於いて近遠なるか」との問いに、「君の盧毓・盧珽に於けるが如し」と応えたことや、これを弟の陸雲が「相悉ならざるべし」と窘めたことに対して「我が父祖の名は四海に播し。寧ぞ知らざらんや」と応えたことに象徴されていて、謝安はこの問答によって陸兄弟の優劣を決したそうです。

陸雲  262〜303 ▲
 字は士龍。陸機の弟。温厚大度で信望があり、躁笑癖があった。 入洛後に難治の浚儀で治績を挙げて太守に忌まれて致仕したが、民衆に慕われて生前祠が建てられた。 陸機とともに呉王、ついで趙王に仕えて太子中舎人・中書侍郎を歴任し、成都王には清河内史とされた。 孟玖の放縦を以てしばしば成都王を諫め、盧志とも強く反目し、陸機に連坐して殺されると、江南の名士の多くが失望して朝廷を去ったという。
 文才は兄に劣ったものの四言詩と議論に優れ、京師では陸機・顧栄と並んで“三俊”と称され、『詩品』では中品に位して「陳思の白馬に匹する如し」と評された。
陸雲の処刑については、江統ら成都王の属僚からも誣告が指摘され、人心掌握の上からも論外の暴挙として助命を嘆願する者が絶えませんでしたが、盧志によって、父を殺した趙王に助命されされながらも趙王討滅に与した張驤の事例が示されたこともあり、又た何といっても権臣の孟玖の妨害もあって赦されませんでした。 陸兄弟と孟玖の不和は周知の事でしたが、陸雲の弁護者の多くが北人であることが陸雲の輿望の高さを示しています。

司馬顒  〜306
 河間王。字は載。司馬懿の弟/安平献王の孫。 大度好士として夙に清名があり、武帝からも「諸国の範」と賞された。 斉万年が平定されて長安に駐し、八王の乱では趙王の簒奪を扶けた後に斉王に通じ、ついで成都王と結んで斉王長沙王を伐ち、成都王が鄴を逐われると洛陽を制圧して恵帝を長安に迎えて執政した。
 一連の外征では長安に留まって部将の張方を派し、遷都後は張方に万機を委ねて輿望を失った。 東海王に討たれて太白山に逃れ、懐帝が立てられると司徒に迎えられて下山したが、再び擾乱の原因になることを恐れた弟の南陽王模に暗殺された。

張方  〜306 ▲
 河間(河北省)の人。卑貧の出で、勇猛を河間王に愛されて斉王討伐を指揮し、長沙王攻撃ではしばしば撃退されたが、洛陽城内の東海王の呼応で陥落させて略奪を恣にした。 成都王が鄴を逐われると長安遷都を強行して豫章王を皇太弟に立てるなど権力を濫用し、関東で勢力を回復した東海王が函谷関を抜くと、和解を図る河間王に処刑された。

司馬越  〜311
 東海王。字は元超。高密文献王泰の庶長子。司馬懿の弟/東武城侯軌の孫。 楊駿粛清に加わって東海王とされ、八王の乱では長沙王が伐たれると洛陽城内から河間王に呼応して長沙王を滅ぼした。 翌年に蕩陰の役を惹起して大破されたが、下邳に逃れて長安遷都後に兗州・徐州を併せて長安の河間王を大破し、恵帝を洛陽に迎えると太傅・録尚書事として全権を総覧した。
 まもなく恵帝を毒殺して皇太弟の豫章王を擁立(懐帝)し、やがて懐帝とも反目して310年冬に北伐を唱えて洛陽を離れ、東海王誅伐が発せられて間もなくに項城(河南省)で病死した。 東海王には宗室・公卿や禁兵の多くが従い、石勒による葬列襲撃でその多くが殺され、洛陽も程なく陥落した。

司馬騰  〜307 ▲
 新蔡王。字は元邁。東海王越の同母弟。 はじめ東嬴公に封じられて太守・九卿を歴任し、299年頃に幷州都督に転じた。 鄴に拠る成都王と対立して鮮卑の拓跋部と結び、蕩陰の役の直後に幽州刺史王浚と連和して成都王を大破し、離石の劉淵とも対峙した。 懐帝が即位すると車騎将軍・都督司冀二州諸軍事・新蔡王とされて鄴に鎮したが、間もなく成都王の報仇を唱える汲桑に敗死した。

司馬虓  270〜306
 范陽王。字は武会。范陽康王綏の嗣子。司馬懿の弟/東武城侯軌の孫。 斉王や長沙王討伐に与して征南将軍・都督豫州諸軍事に進み、許昌に鎮して劉輿劉琨を幕僚に迎え、蕩陰の役の後は滎陽に進駐した。 長安遷都後は東海王に与して豫州刺史劉喬と争い、幽州刺史王浚と結んで劉喬を大破し、このため河間王は張方を斬って東海王に和を求め、洛陽還御の後は司徒とされた。

劉喬  249〜311
 南陽安衆の人。字は仲彦。漢の宗室として敬重され、伐呉では王戎の参軍となって武昌攻略に随った。 楊氏や賈氏の粛清にも参与して太子洗馬・散騎常侍などを歴任し、斉王には冷遇されて張昌が叛くと豫州刺史とされた。 長安遷都の後は范陽王虓と豫州を争い、征東大将軍劉準や彭城王釈らと結んで潁川太守劉輿の討伐を唱えたが、許昌より范陽王を逐って程なくに劉琨に敗れ、恵帝の還御で大赦された。 東海王が歿すると鎮東将軍・都督豫州諸軍事・豫州刺史に転じ、在任中に歿して司空が追贈された。

左思  253?〜307?
 斉国臨淄の寒門。字は太沖。累代の儒家に生まれ、書・琴を学んで実らなかった為に詩・文に転じ、暦算占星にも通じた。 妹の左芬の入内で上京し、『三都賦』を志して秘書郎となってより10年、張載に蜀の事を取材して完成し、皇甫謐に讃えられて漸く世に知られた。 張載・劉逵が序を施してより流布し、張華・衛権(衛臻の子)が「班固・張衡に互す」と評するに及んで筆写する貴顕が急増し、洛陽の紙価が高騰したという。 三都賦を志していた陸機は、左思の作品を一読して筆を措いたという。
 “賈謐二四友”にも数えられたが、門閥社会には批判的で、醜貌吃音だったこともあって交際を好まず、賈謐の刑死を機に隠棲して斉王の招聘にも応じず、冀州に逃れて数年で病死した。『詩品』では上品に位する。

司馬彪  〜306
 字は紹統。高陽王睦の子。司馬懿の弟/司馬進の孫。好色浮薄のために廃嫡されたが、後に交友を絶って精学し、諸家経籍に通暁した。 騎都尉より起家し、秘書官を歴任して『九州春秋』『続漢書』を著し、散騎侍郎に至った。

張昌  〜303
 義陽蛮の人。平氏県(河南省唐河)の吏だったが、益州からの流民と合して南下し、303年には江夏郡を陥して山都県の吏の丘沈を天子に擁した。 襄陽で都督荊州諸軍事の新野王司馬歆を敗死させ、湘・荊・江・揚州を席捲したが、荊州刺史劉弘に鎮圧された。
 部将の石冰は東進を続けて淮南を劫略し、304年に陳敏によって平定された。

陳敏  〜304 ▲
 廬江の人。字は令通。趙王討伐に際して洛陽への糧食を督してより寿春に駐し、石冰を大破すると右将軍・仮節前鋒都督に叙されたが、間もなく豫州刺史劉喬に敗れて歴陽に退き、甘卓と共謀して揚州刺史を称して自立した。 幕下には顧栄周玘呉姓が連なって江東にも進出し、間もなく大司馬・都督江東軍事・楚公を称したが、征東大将軍劉準の討伐や陳敏の小器と子弟の驕慢から呉姓が離背し、甘卓にも叛かれて敗走中に殺された。

劉弘  236〜306
 沛国相の人。字は和季。漢の揚州刺史劉馥の孫。鎮北将軍劉靖の子。夙に司馬炎と親交があり、張華にも認められた。 仮節監幽州諸軍事・領烏丸校尉とされると勇名を馳せ、張昌が叛くと鎮南将軍・使持節都督荊州諸軍事・南蛮校尉・荊州刺史とされ、長史の陶侃を先鋒として平定した。
 荊州では朝廷の人事を拒んで牙門将の皮初を襄陽太守とするなど門閥人事を否定し、又た益州刺史羅尚を支援し、内治にも意を用いて農産を振興して賦役を減じ、殊に荊州からの流民を受容して山沢の禁を除いた事は荊州の安定に大きく寄与した。 長安遷都の後は東海王に通じて車騎将軍に進められ、開府儀同三司を加えられた。
  ▼
 劉弘の死後、後任となった山簡(山濤の子)・王澄(王衍の弟)は流民の強制帰郷などを行なって政情を悪化させ、311年には四川流民の挙兵に醴陵令杜弢が応じ、武昌を陥す事態に発展した。

懐帝  284〜306〜311〜313
 第三代天子。諱は熾。恵帝の弟。典籍に親しみ、豫章王とされた後も洛陽に留まり、蕩陰の役以後も恵帝に随って河間王の下で皇太弟とされ、恵帝を暗殺した東海王に擁立された。 洛陽の実権は東海王にあり、又た国土は既に八王の乱で荒廃し、異民族や群賊の自立などによって朝廷は地方に対する統制力を全く失っていた。 関係の悪化した東海王が官・軍の殆どを率いて洛陽を離れると追討を密勅したが、直後に東海王が病死してその麾下が石勒に殲滅され、洛陽も程なく劉曜に陥されて平陽で殺された。

竺法護
 敦煌出身の月氏人。本姓は支。8歳で出家し、竺高座に師事して竺氏を称した。 大乗仏教布教のために西域諸国を巡って36ヶ国語に通じ、泰始〜永嘉年間(265〜313)を通じて長安で布教しつつ大乗経典を翻訳し、308年には天水で『普曜経』を訳出し、羌族からは敦煌菩薩・月支菩薩と呼ばれた。
 生涯の訳経数は150部に達し、『正法華』『正法華』『維摩』『光讃般若』『無量寿』など大乗仏教の東方伝播に大きく貢献し、殊に『維摩』『光讃般若』経は玄学や格義仏教の発展にも大きく寄与した。

張協
 安平武邑の人。字は景陽。夙に俊才として知られ、兄の張載・弟の張亢とは“三張”と並称され、詩名は陸機潘岳と斉しかった。 秘書郎・中書侍郎を経て河間内史まで進んだが、権臣とは親しまず、八王の乱を避けて隠棲した後は叙任を拒んで在野のまま歿した。
 西晋を代表する詩人として、『詩品』では阮籍左思・陸機・潘岳と共に上品に位し、その評には「王粲の風あり。潘岳より雄にして左思より靡」とある。『苦雨』が代表作とされる。

王衍  256〜311
 琅邪臨沂の著姓。字は夷甫。王戎の従弟。縦横術・老荘学に通じて何晏・王弼の虚無論を継ぐ清談派の巨頭と目され、論理においては裴頠と並称された。 賈后の時代に中領軍・中書令とされ、斉王の秉政下では出仕せず、成都王の下で司徒・太尉を歴任して東海王にも重んじられたが、国政には関心が薄かった。 懐帝と決裂した東海王に従い、東海王の葬送中を石勒軍に襲われて鏖殺された。
 機智を交えた論述を得意とし、神仙の如き容姿など、後の南朝貴族の典型的特長を具えていた。

永嘉の乱  307〜316
 311年の洛陽陥落を頂点とする、匈奴による永嘉年間の戦乱と西晋王朝の滅亡。 魏晋では東漢以来の徙民政策や人口圧的な遷移によって内地の異民族の増加が顕著で、殊に関中は「戸口の半ばは漢人に非ず」とすら称され、そのため文化風習の差異や官吏・土豪の搾取などに対する蜂起が深刻な問題となり、3世紀末の斉万年の乱はその典型とされる。 武帝代から異民族の大規模な叛乱を危惧する声はあり、恵帝代には江統・郭欽らが『徙戎論』を上書したが、問題視されなかった。
 八王の乱で諸王に傭兵とされた異民族集団は、求心力を強めて流民などを吸収して抬頭・割拠し、建国を果たした氐族の、匈奴のだけでなく、鮮卑も幽州の段部宇文部慕容部、幷州の拓跋部などが自立の形勢を強めていた。 匈奴は311年に洛陽を陥して懐帝ほか司馬氏の宗室の殆どを殲滅し、316年には長安を陥し、愍帝ら残る宗室を悉く捕えて西晋王朝を断絶させた。

愍帝  300〜313〜316〜317
 第四代天子。諱は鄴。懐帝の甥。呉王晏の第2子。 淮南王允の粛清後に秦献王柬の嗣子に直されて長安に駐したが、劉曜による長安攻略で豫州に逃れ、長安を回復した雍州刺史賈疋らに迎えられた。 懐帝の訃報に接して即位したが、当時の長安は「戸百牆・車四台のみ」と荒廃し、懐帝は麹允・索綝ら周辺の土豪の名目的首長に過ぎず、316年に劉曜に長安を陥され、平陽で奴僕とされた後に殺された。

王浚  252〜314
 太原晋陽の著姓。字は彭祖。驃騎将軍王沈の子。 博陵県公を襲ぎ、許昌で愍懐太子を暗殺して寧朔将軍・都督幽州諸軍事に進んだ。 薊では段部との通婚によって強盛となり、蕩陰の役の直後には幷州刺史司馬騰と結んで鄴から成都王を駆逐した。 帰洛した恵帝より驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事・幽州刺史とされ、漢の石勒に対しても優位を保って多くの人士を収容し、幷州の劉琨とも対峙した。
 懐帝の即位で司空を加えられ、洛陽が陥されると尚書令を称して自立を図ったが、苛政や一門の驕恣を嫌って流出する者が絶えず、段部や烏桓の離叛で弱体化し、偽って称藩した石勒に営中で殺された。

劉琨  271〜318
 中山魏昌の名族。字は越石。魏郡太守劉輿の弟。 石崇の金谷宴に連なって文名を知られ、著作郎・尚書郎などを歴任して趙王・斉王・范陽王らに従った。 307年に司馬騰の後任として幷州刺史・使匈奴中郎将とされると拓跋猗盧と盟して離石の劉淵や幽州刺史王浚と対峙した。
 奢豪や声色を嗜み、恣意的な人事から去る者も多く、雁門烏桓の討伐中に令孤泥を用いた劉粲に晋陽を陥され、309年には石勒に大破されて幽州の段匹磾に依った。 朝廷からは310年に都督幷冀幽州諸軍事のまま平北大将軍に進められ、後に琅邪王への勧進にも連なって太尉を遥授された。 石勒討伐の準備中に段部の内紛で子の劉羣段末波に擒われると拘束され、鮮卑内部に劉琨救出の動きが生じた事や、王敦から密請があって縊殺された。 段匹磾の兵力を重視する朝廷は喪を秘したが、320年に至って盧ェ温嶠らの要請で広武侯として葬られた。
 壮言を好み、豪胆なことで范陽の祖納と並称され、その弟で友人の祖逖と功名を競った“先鞭”の故事から忠烈の武人として知られるが、当時は寧ろ文人として著名で、兄の劉輿と並んで“賈謐二四友”にも数えられた。 『詩品』では中品に位したが、外甥の盧ェとの対比では「琨は感情の表現が悲哀かつ横溢にすぎる」と評される。


Back | Top | Next