十六国

 302〜439
 八王の乱〜北魏統一の約130年間に、主に北中国に乱立した諸政権と時代の総称。 史書『十六國春秋』と五行思想によって“五胡十六国”と通称されるが、実際には漢族政権を含む17以上の政権が存在し、匈奴の前趙・北涼・夏、羯族の後趙、鮮卑の前燕・後燕・南燕・西秦・南涼、氐族の成漢・前秦・後涼、羌族の後秦、漢族の前涼・西涼・北燕を指して十六国としている。 又た近年の中国では、“胡”は少数民族に対する蔑称として使用が控えられている。

 歴朝の徙民政策で華北に混住していた異種族は、八王の乱を通じて傭兵や叛乱勢力として組織化が進み、四川に南下した巴氐族の李雄と山西に拠る匈奴の劉淵がまずを樹立した。 漢(前趙)は洛陽・長安の両都を陥して華北の中枢を支配したが、関東で自立した羯族の後趙に329年に併呑された。
 この時期は塞外諸種にも組織化が進み、前趙が滅ぶ頃には遼東の慕容部や代の拓跋部も政権を構え、後趙が内訌で崩壊した後は氐族苻氏の前秦が抬頭して376年までに北中国の統一に成功した。 前秦は更に江南征服を進めるほどの強勢を示したが、383年に淝水の役で大敗すると華北の統合も瓦解した。
 戦後最も優勢だったのは、慕容部を糾合した河北の後燕と前秦を滅ぼした羌族の後秦だったが、後秦は関西の諸政権との攻伐で弱体化して417年に東晋の劉裕の北伐で滅び、後燕も北魏との決戦に敗れて凋落した。 この後、華北の覇権はオルドスに興って関中から晋軍を駆逐した匈奴のと、同じ頃に洛陽を占領した北魏とで争われ、431年に夏が滅び、439年に河西の北涼が北魏に併合されて北中国が再統一された事で、中国は名実共に南北朝時代へ移行した。

 十六国時代の戦乱によって華北は著しく荒廃し、多数の漢人が南遷して江南の飛躍的発展を促した一方、華北に残留した漢人は塢や行を組織して自衛を図り、或いは成漢の范長生や後趙の張賓、前秦の王猛のように政権の幕僚となって異種族の漢化を促進した。 当時、儒教・老荘思想とともに仏教が呪術的側面によって各君主に受容され、漢人の出家も解禁されて民間にも本格的に広まった。

成漢  前趙  後趙   前燕  前涼   前秦
後燕  南燕  北燕   後秦  西秦      後涼  南涼  北涼  西涼
  西燕  翟魏  仇池   段部  宇文部  独孤部  鉄弗部

 
 

成漢

 304〜347
 略陽の豪族の李特が樹立。略陽李氏は巴氐族・巴族・氐族賨部など諸説あって詳細は不明。 流民集団を率いて入蜀した李特が行政府との軋轢から302年に自立し、子の李雄の代に成都を陥して益州全域を支配し、漢人士大夫との協調によって政権を安定させた。 李氏は天師道を介して早くから漢人社会に同化していた為、政権は漢人土豪の連合政体の性格が強く、そのため東晋の正朔を奉じ、対内的にも複雑な対応を強いられた。
 巴蜀は当時で最も安定した地域となったが、李雄の死後は継嗣問題に加え、東晋の安定化に伴って自立派と帰属派の対立が表面化して急速に安定を失い、347年に東晋の桓温に征服された。
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 蜀の地は370年代に前秦に占領され、淝水の役の勝勢を駆る東晋が奪還したものの、405年に譙縦が成都王を称して自立し、荊州の劉毅を滅ぼした建康政府が翌413年に回復した。

李特  〜303
 成漢の始祖、景帝。略陽臨渭(陝西省秦安)の巴族の首帥。祖父の李虎の代に曹操によって略陽に徙された。 李特は西晋末に斉万年の乱を避けて流民を率いて蜀に遷徙し、301年に益州刺史趙廞の叛乱に加わったが、趙廞が兄の李庠を殺したために緜竹に拠って益州刺史羅尚に帰順した。 羅尚の流民政策の失敗で李特の声望が昂まり、302年夏に自立して大将軍・益州牧を称したが、翌春に荊州の援軍を得た羅尚に敗死した。

李流  〜303
 成漢の秦文王。字は玄通。李特の弟。 李特に従って軍略に長じ、大将軍・益州牧を嗣いだ。范長生に支援されて益州刺史羅尚との攻伐を継続したが、程なく病死した。

李雄  274〜304〜334
 成漢の太宗、武帝。字は仲儁。李特の子。父を継いだ叔父の李流が数ヶ月で病死したため、衆に推されて大将軍・大都督・益州牧を称した。 同年冬、益州刺史羅尚を成都から逐って翌年に成都王を称し、306年までに漢中を制圧して登極し、国号を大成と定めた。 巴郡を保つ羅尚の死後は東川にも進出する一方、流民の招致と天師道の尊重、范長生ら漢人名士を重用するなど漢族との融和につとめて歓迎され、「蜀のみひとり事なし」と称される安定を現出した。晩年には東晋の安定化に伴い、東晋への去就を巡っての対立が抬頭した。

范長生  〜318
 旧諱は延久、字は元。涪陵郡丹興の人。博学で天文暦数に通じ、乱世に遭うと青城山に塢を営んで数千家に依拠された。 李流に糧食を提供した事から李雄に幕賓に迎えられ、成都王を称した李雄より丞相とされて西山侯に封じられた。 天師道の祭酒として絶大な名望があり、李雄政権の安定に寄与する事きわめて大だった。

李班  288〜334/334
 成漢の哀帝。字は世文。李雄の兄/李蕩の子。 李蕩が中道で斃れた為に李雄に継嗣とされたが、即位から間もなくに李雄の子の李越・李期に殺された。

李期  312〜334〜337
 成漢の幽公。字は世運。李雄の第4子。 兄の李越と結んで李班から弑簒したが、内訌の制圧過程で叔父の李寿に実権が集まり、李寿謀殺に失敗して廃弑された。

李寿  300〜334〜343
 成漢の中宗、昭文帝。李特の弟/李驤の子。 李雄死後の内紛では東晋帰属を唱え、簒奪後は李雄の直系を鏖殺して国号もと改めたが、自立は堅持した。 後趙との連携などで頽勢挽回と勢力拡大を図ったが、拡大政策と君主権の強化は財政の悪化と刑罰の濫用を結果した。

李勢  〜343〜347〜361 ▲
 字は子仁。李寿の嗣子。即位直後に弟の李広を粛清し、厳獅ネ刑政は獠族や宿将の造叛を惹起した。 東晋の桓温の西征が城下に達すると開城し、帰義侯に封じられて後に建康で歿した。

 
 

漢/前趙

 304〜329
 南匈奴の劉淵が304年に離石に樹立した政権。308年の称帝と共に平陽に奠都した。 単于氏族とされる屠各氏は、攣鞮氏を含む5貴種の総称とする日本の見解と、西漢代の休屠王の属民の裔が魏晋の羇縻支配下で抬頭したものとする中国の見解が対立している。
 劉淵を継いだ劉聡の代に洛陽と長安を陥して晋を滅ぼし、劉聡死後の内乱を収拾した劉曜が長安で即位して国号を趙と改めた。劉曜の即位は関東を支配する石勒の自立を結果し、洛陽の帰属を争って328年に劉曜が大敗したことで事実上壊滅した。

劉淵  〜304〜310
 漢の高祖、光文帝。字は元海。南匈奴の単于於夫羅の孫と称し、父の豹から劉姓を用いたという。 西晋の洛陽に入質すると名士と交流して武技だけでなく経籍にも通じ、父の死後に匈奴の左部都尉を嗣ぎ、北部都尉を併せて南匈奴の統合を進め、恵帝の初期には五部大都督とされた。
 八王の乱では成都王に属し、304年に幷州刺史司馬騰に対抗するために城外での部民糾合を認められると離石で大単于を称して自立し、冬には左国城で漢王を称した。 劉淵の独立は成都王の没落に直結し、鄴陥落で生じた流民の多くを吸収して勢力を増し、司馬騰を破った後は河東・山西南部を経略して劉琨や鮮卑拓跋部と攻伐し、石勒王弥劉虎らを帰順させた。 308年には称帝して平陽に遷り、晋室打倒を国是としたが、洛陽攻略には成功しなかった。

王弥  〜311
 青州東莱の勢族。毌丘倹の高句麗遠征に従った玄菟太守王頎の孫。 京師に遊学した際に劉淵と親交し、卓絶した膂力と騎射の技倆から“飛豹”と号した。 306年に晋に叛いて王浚と攻伐し、青・徐州を転戦して衆数万を擁すると308年には許昌を抜いたが、洛陽で敗れて劉淵に帰順し、関東各地を転戦して鎮東大将軍・青徐二州牧・東莱公とされた。
 311年には劉曜・石勒に先んじて洛陽を攻陥したが、かねて隣接する石勒とは不和で、洛陽攻略の専断と掠奪の放置などから劉淵とも隙を生じ、左長史の曹嶷を青州経略に先行させたところを石勒に急襲されて敗死した。

曹嶷  〜323 ▲
 東莱の人。王弥に投じて左長史に進み、鎮東将軍とされて青州を経略して311年には晋の苟晞を大破し、王弥が敗死した後は青州刺史を称した。 石勒と結ぶ一方で317年の琅邪王への勧進に連なるなど東晋にも称藩したが、石虎に敗れて襄国で殺された。

劉和  〜310/310
 漢の第二代君主。廃帝。字は玄泰。劉淵の長子。生母は呼延皇后。 雄健で漢籍にも通じ、大将軍・大司馬として劉淵を支え、太子となって劉淵を嗣いだが、諸弟の粛清を謀って劉聡に敗死した。

劉聡  〜310〜318
 漢の第三代君主。烈宗、昭武帝。字は玄明、或いは載。劉淵の第4子。 文武に長けて若い頃から洛陽で名士と交流し、建国後は大司馬・大単于とされ、劉淵の死の翌月に兄の劉和を殺して即位した。 311年に洛陽を攻陥して懐帝を捕え、代や関中の経略を族弟の劉曜に、関東の経略を石勒王弥に委ね、316年冬には長安を陥して晋朝を滅ぼした。
 漢人士大夫を登用して、後の北魏体制の祖形となる二元支配を制度化したが、遼西の段部や幽州の王浚・山東の曹巍を平定した石勒の抬頭が著しかった。 晩年は複数の皇后を置いて後宮を拡大した事で外戚や宦官勢力が抬頭し、又た酒色に溺れて讒言から一族や重臣を殺害し、平陽地方の飢饉が政治的混乱を助長した。

劉粲  〜318/318
 漢の第四代君主。隠帝。字は士光。劉聡の嗣子。 劉曜と共に長安を陥し、又た劉琨を晋陽より逐って丞相・大将軍・録尚書事とされ、外戚の靳準と結んで皇太弟の劉乂らを枉陥して太子・大単于とされた。 即位後は酒色に耽溺して靳準に軍政を一任し、翌月には靳準の造叛で平陽の一族と共に鏖殺された。

靳準  〜318
 屠各氏に連なる貴族で、妹が劉聡の皇后の1人となったことで発言力を強め、劉粲と結んで劉氏や閣僚を枉陥して劉粲を即位させた。 劉粲が即位すると大権を掌握し、翌月には劉粲を弑して漢天王を称し、平陽の劉氏を鏖殺して劉淵・劉聡の墓を暴いた後に東晋に称藩したが、劉曜・石勒に討平・族滅された。

劉曜  〜318〜328〜329
 前趙の開祖。字は永明。劉淵の族子。夙に“劉家の千里駒”と激賞され、劉聡にも重用されて石勒と双璧と称された。 311年に洛陽を陥して晋懐帝を捕えると中山王とされて恵帝の羊皇后を下賜され、以後は主に幷州・雍州を経略し、316年には長安の愍帝を捕えて華北の晋室を滅ぼし、劉聡の死後に長安で相国・都督中外諸軍事とされた。
 劉粲が弑されると登極して石勒と共に靳準を討平したが、翌年には関東に大権を有する石勒が自立した。 即位と共に国号をと改め、祭祀対象を劉邦から冒頓単于に替えるなど漢化主義の修正を図った一方で、国子監を設置するなど漢人社会にも配慮して胡漢融和は維持した。
 石勒が自立した後は関西の制圧を進めて前涼を称藩させたが、東晋や慕容燕との外交を軽視して漢人の支持も薄く、晩年は劉聡同様に酒色に溺れ、328年に洛陽攻略中に石虎に大敗して捕えられた。 石勒に厚遇されたものの、翌年には上邽(甘粛省天水)に拠る嗣子煕への降伏勧告を拒絶して殺され、劉煕も同年秋に石虎に敗死した。

 
 

後趙

 319〜351
 の重臣として関東に勢力を扶植していた羯族の石勒が、劉曜の即位に反抗して襄国(河北省邢台)に拠って樹立した政権。 羯族は匈奴に従属する西方系種族が文化面で匈奴化したものと思われ、南匈奴の内徙とともに主に上党地方(山西省長治市)で牧畜に従事して次第に漢人社会への隷属化を強め、泰安年間(302〜303)の幷州大飢饉で紐帯はほぼ壊滅状態に陥っていた。
 前趙を滅ぼすと華北の殆どを支配し、漢人幕僚の協力で社会の安定化にも一定の成果を挙げたが、勇将として知られた石虎が継嗣した後は遊牧主義への回帰と拡大主義で失敗して次第に衰え、石虎の死後の内訌と冉閔の簒奪で瓦解した。

石勒  274〜319〜333
 後趙の高祖、明帝。上党武郷(山西省楡社)の人。羯族の小帥/朱氏の子。字は世龍。 幷州を退去する司馬騰の軍に擒われて山東に売られ、群盗に投じた後に汲桑に従い、汲桑が成都王に帰順した際に石氏を称し、兗州刺史苟晞に大破されると旧民を糾合して劉淵に投じた。 烏桓を帰順させて輔漢将軍とされた後は王弥と共に関東を経略して鄴を陥し、劉聡が即位すると幷州刺史・汲郡公とされた。 311年に東海王越の葬列を襲って西晋中枢の過半を壊滅させ、ついで苟晞・王弥を滅ぼすと襄国(河北省邢台)に拠り、314年には王浚を滅ぼし、薊に南下した段匹磾と対立するようになった。 317年に劉琨を大破して幷州をも支配し、319年には乞活の主力もほぼ接収して境内を安定させた。
 318年に大司馬・大将軍に進められ、靳準の平定後は劉曜に対抗して大単于・趙王を称し、河南を晋の祖逖や劉曜と争った。 321年にを抜き、323年に青州を征服し、325年に洛陽を陥すと淮北に進出して328年には寿春を降し、同年冬に劉曜を洛陽で捕えると華北のほぼ全域を支配し、前趙を滅ぼした翌年(330)に趙天王を経て称帝した。
 張賓を首班とする“君子営”が政権の中枢を担い、中国的な律令や官制などを整えて華北に安定をもたらした。 又た護国宗教としての仏教を信奉し、仏図澄を尊崇したことでも知られる。

張賓  〜322
 趙郡中丘の人。字は孟孫。中山太守張瑤の子。学問を好んで夙に自身を張良に比し、冀州に進出した石勒に投じた後、石勒が漢人士大夫を以て君子営を創設すると謀首である軍功曹とされ、後に右長史に直された。 石勒には“右侯”と敬称され、王弥討伐・襄国奠都・流民対策・官制整備など石勒の政略・戦略の多くを定めて河北の安定に尽力し、319年の建国後は大執法を兼ねる事実上の宰相として朝政を総覧した。

石弘  313〜333〜334/334
 後趙の第二代君主。字は大雅。石勒の次子。経籍を学び、石勒の称帝と共に太子とされた。 石勒が歿すると石虎に譲位を諮ったものの拒まれて即位したが、反対勢力を排除した石虎に簒奪されて程なくに殺された。

石虎  〜334〜349
 後趙の第三代君主。太祖、武帝。字は季龍。石勒の甥。残忍狂暴で若い頃に石勒に減死に処されたが、勇猛と軍略を以て次第に重用され、劉曜・劉煕父子を捕えるなど華北征服に大功を挙げて太尉・尚書令・中山王とされた。 333年に石勒が歿すると太子弘を即位させて丞相・魏王・大単于として全権を掌握し、反対勢力を逐次平定した後に簒奪して居摂趙天王を称し、335年に自身の本拠の鄴(河北省臨漳)に遷都し、337年に大趙天王を称した。
 即位後の征戦は殆ど戦果を挙げ得ず、殊に338年に段部攻滅の余勢で進めた慕容部攻略に失敗したことで大きく威信を失墜した。 石勒の漢化主義を修正する傍ら、畿内や要衝への徙民をしばしば行なったものの最盛期の計上人口は600万ほどに過ぎず、遊猟や宮殿造営などで国力を疲弊させた。 晩年には末子の石韜を鍾愛した結果として348年に太子石宣が石韜を暗殺し、そのため石宣をはじめ多数の宗族・臣僚を同謀として虐殺し、死後の一族の内紛と分裂を醸成した。349年に称帝して石世を太子とし、石斌・石遵張豺らに託孤してまもなく歿した。

仏図澄  233〜348
 亀茲の人。罽賓(ガンダーラ)で学んで310年に入洛し、永嘉の乱後は石勒の教化と弘法に尽力した。 石勒・石虎は仏教の呪術面に期待したが、国家と教団の関係が次第に密接となり、後趙では石氏の援助で仏教が盛行し、そのため冉閔の大破壊の対象に含まれた。 訳経は行なわなかったものの、様々な神異を示して門信徒は万余に達して“大和尚”と尊崇され、門下からは釈道安・竺僧朗を輩出し、華北仏教興隆の第一人者とされる。

石世  339〜349/349
 後趙の第四代君主。石虎の子。劉曜の外孫。石虎の最晩年に太子とされた。 即位直後に託孤の内訌から張豺が石斌(石勒の子)を殺し、在位22日で兄の石遵に廃弑された。

張豺  〜349 ▲
 広平の人。はじめ王浚に仕え、ついで石勒に従い、幽州兵を領して石虎の下で抬頭し、石虎の晩年には石世の立太子を勧めて託孤にも連なった。 石虎が歿すると劉太后と結び、託孤でも輿望の高かった石斌を殺して太保・都督中外諸軍事・録尚書事とされて朝廷を支配したが、蜂起した石遵に敗死した。

石遵  〜349/349
 後趙の第五代君主。石虎の子。 石虎の最晩年には大将軍として関中に鎮し、石虎の託孤にも連なったが、石閔姚弋仲蒲洪らと結んで張豺の亶権を指弾して挙兵し、石世を廃して即位した。 この簒奪で叛いた薊の石沖・長安の石苞を平定し、淮南の離叛は晋の褚裒の北伐を招いたものの李農を南討大都督として撃退したが、内乱の平定にも大功のあった石閔の粛清を図ったために石鑒を擁した石閔に在位183日で攻殺された。

石鑒  〜349〜350
 後趙の第六代君主。石虎の子。 石虎死後の内訌で石閔と結び、石遵を殺して擁立された。 大将軍石閔と大司馬李農が朝政を宰領したが、襄国で異母弟の石祗が石閔討伐を唱えて挙兵すると鄴でも賛同者が続発し、漢族と非漢族の反目が尖鋭化した。石閔の出征に乗じての兵変に敗れて在位103日で廃弑された。

石祗  〜350〜351
 後趙の第七代君主。石虎の庶子。 石鑒の在世中から襄国で石閔排斥を唱えて姚弋仲蒲洪らとも通じ、石鑒が殺されると登極して鄴に出征したが、撃退されて逆に襄国を攻囲された。 翌年に趙王に貶号して前燕の救援で魏兵を撃退したが、追撃させた劉顕の離叛で敗滅した。

冉魏

 350〜352

冉閔  〜350〜352
 魏郡内黄(河南省)の漢人。父の冉瞻は勇猛を愛されて石虎に養子とされ、石閔も又た勇将として重用された。 石虎の死後は立太子を条件に石遵と結び、立太子が反故とされると石遵を殺して石鑒を擁立し、大将軍とされて大司馬の李農と大権を分掌した。 この頃から冉閔の専権に対する石氏の抵抗が鄴都(河北省臨漳)を含む各地で発生して後趙の瓦解が進み、冉閔排除を図った石鑒を350年に殺して鄴で天王を称した。
 即位と同時に非漢族の虐殺を奨励するなど漢族主義に偏ったが、挙兵以来の盟友の李農を即位直後に粛清し、東晋を無視して称帝したことで華北漢人の支持も得られなかった。351年に河南方面の諸州が東晋に帰順し、翌年には前燕に大敗して襄国で処刑され、秋には鄴も陥落した。

李農  〜350
 後趙の人。 339年に征東将軍・営州牧とされて令支に鎮し、司空を経て349年には大都督・行大将軍事に叙されて畿内の叛乱を平定した。 石世の即位後に張豺の謀殺を避けて乞活数万家を率いて石閔に投じ、石遵にも原職を安堵され、幽州の石沖の乱の平定や東晋の褚裒の北伐撃退にも大功があった。 石鑒の下で大司馬・録尚書事とされて石閔と大権を分掌し、簒奪して魏帝を称した石閔より太宰・太尉・録尚書事とされたが、叛意を疑われて族滅された。

 
 

前燕

 307〜370
 鮮卑慕容部の政権。 慕容部は3世紀中葉の慕容莫護跋の時代に漠東から遼西に移住し、魏の公孫淵討伐にも参加して棘城(遼寧省義県)方面を安堵された。 莫護跋の孫の慕容渉帰は宇文部を避けて遼東方面に遷ったが、西晋に帰順した慕容廆の下で遼西を回復し、遼河平原の帰属を段部・宇文部・高句麗だけでなく西晋とも争った。 嗣子の慕容皝の代には段部を滅ぼして後趙の介入をも排除し、冉魏を滅ぼして華北をも支配した慕容儁の代には漢地支配に東晋の権威を必要としなくなって称帝した。
 建国初期から漢人を幕僚として任用し、鄴(河北省臨漳)を国都とした後は一族の本籍地を昌黎郡の棘城に定めるなど漢制の積極導入による政権安定を図り、355年に高句麗王を征東大将軍・営州刺史・楽浪公に冊封した事は中国王朝と朝鮮諸国の冊封体制の嚆矢となった。 慕容儁の死後は一族の内紛と東晋の北伐で弱体化し、370年に前秦に滅ぼされた。 鄴都陥落時の戸籍人口は約1000万人とされる。

慕容廆  269〜333
 前燕の高祖、武宣帝。慕容渉帰の子。283年に父が歿すると叔父の慕容耐に逐われたが、285年に耐が殺されて迎立された。 晋に宇文部攻略を認められなかった事で挙兵し、平州を侵す一方で翌年には扶餘王を敗死させ、宇文部・段部高句麗・扶餘と争いつつ西進して294年には棘城(遼寧省義県)を回復した。 晋制を模した諸制度を導入するなど定住社会に順応し、部内統合にも成功して307年に鮮卑大単于を称したが、遼東進出を国策としたことで晋との抗争が再燃し、309年には晋の遼東太守・東夷校尉を滅ぼして遼東支配を確立した。
 当時の遼寧地方は流民の格好の避難地で、棘城周辺に営丘郡などの僑郡を設置して流入漢人を保護し、漢人から多くの幕僚を得ただけでなく農耕様式も導入し、集団の政権化を推進した。 東晋の琅邪王の勧進にも連なるなど、漢人との融和政策は対東晋外交にも反映され、319年に高句麗・宇文部・段部と結ぶ平州刺史を排除した後も後趙に対して東晋と連携する事があった。

慕容皝  297〜337〜348
 前燕の第二代君主。太祖、文明帝。字は元真。慕容廆の嗣子。即位直後に相次いだ兄弟の叛乱によって大凌河流域に段部が再起したが、337年に後趙の援軍で段部を滅ぼし、翌年には棘城に石虎を撃退して遼西支配を確立するとともに華北進出の拠点を得、内部に対しても支配権を強化した。
 基本的には慕容廆の政策を踏襲して国家体制を確立し、337年に段部を滅ぼして燕王を称した際にも東晋に承認を求め、341年に認められた。 342年に龍城(遼寧省朝陽)に遷都して中原進出を明確にする一方、後趙と結ぶ高句麗に遠征し、国内城(吉林省輯安)で故国原王を大破して服属させた。 344年に宇文部を覆滅し、346年には扶餘を壊滅させるなど支配圏を大きく拡大し、燕国を華北の強国に発展させた。

慕容儁  319〜348〜360
 前燕の第三代君主。烈祖、景昭帝。字は宣英。慕容皝の嗣子。 後趙の冉閔の乱に乗じて352年に鄴(河北省臨漳)を陥し、冬に中山(河北省定県)で称帝した。 翌年に薊に、357年には鄴に遷都して中華王朝としての性格を強め、その版図は北中国の東半〜南満・朝鮮にも達したが、東晋の冊封体制下から完全に独立したこともあって南辺の青・兗州の支配は安定せず、塢壁集団乞活集団が東晋・前秦と連携してしばしば擾乱した。

慕容恪  〜367
 字は玄恭。慕容皝の第4子。謹慎で仁慈の質で、元服の頃から慕容皝に認められ、軍事では胆略と深慮とを示してしばしば奇策を成功させた。 341年より遼東を経略し、344年には慕容儁と共に扶餘遠征を成功させた。 慕容皝の遺言で兄の慕容儁の輔となり、冉閔討滅などの累功で354年に太原王に封じられて侍中・仮節大都督・録尚書事とされ、慕容評と共に託孤されて太宰として庶政を総覧した。
 東晋の権臣である桓温にも畏憚され、東晋で慕容儁の死に乗じた北伐が議された際にも慕容恪の存在を以て廃議とされ、365年には洛陽を回復して苻堅をも震撼させた。 公私とも信義を重んじて輿望が高く、軍事は常に防禦を疎かにしなかった為に生涯不敗で、不予となると弟の慕容垂を後継に推して歿した。

慕容暐  〜360〜370/〜384
 前燕の第四代君主。幽帝。字は景茂。慕容儁の嗣子。 叔父の慕容恪慕容垂が国事を分掌して364年に洛陽を、366年には淮北の制圧にほぼ成功したが、慕容恪の死後は太傅の慕容評の秉政で急速に乱れ、桓温を撃退した慕容垂の前秦亡命を惹起した。 又た桓温の北伐に際して前秦に割地を条件に求援していたが、独力で桓温を撃退した事で割地を拒んだ事から侵攻され、翌370年冬には鄴都を陥されて断絶した。
 長安では他の慕容氏同様に優遇されて新興侯とされたが、384年に蜂起した慕容泓との呼応を警戒されて殺された。

 
 

前涼

 314〜376
 晋の涼州刺史張軌が、永嘉の乱で中央との連絡が絶たれたために姑臧(甘粛省武威)に拠って自立したもの。 涼州の漢人豪族を基盤として晋の正朔を奉じ、概して三国魏以来の涼州刺史の伝統に則って護羌校尉を兼称し、後に西平公が加えられたが、西晋の元号を継続するなど東晋に対しては複雑な対応を示した。十六国諸政権の中でも安定した政権で、最も長命を保ち、最盛期の戸籍人口は100万を超えていたとされる。
 張祚の簒奪後は不安定で、376年に張天錫が前秦に降って滅んだ。

張軌  255〜314
 前涼の太祖、武王。字は士彦。安定烏氏(甘粛省平涼)の大姓。 儒学を家学とし、学識を認められて尚書郎・散騎常侍などを歴任したが、朝廷と中原の紊乱に失望して301年に求めて涼州刺史に転出した。 当時の河西秦州雍州からの流民が大量に流入して治安が悪化していたが、政情は中央より安定しており、305年には鮮卑の若羅抜能を平定して河西のほぼ全域を支配した。
 流入漢人を保護して姑臧の西北に武興郡を、西南に晋興郡を建て、農業・学問を奨励し、治安の安定と移住の増加・農産の増大が好循環をなし、涼州の土豪と協調して成漢とならぶ安定した治安を実現しした。 永嘉の乱では洛陽・長安に援軍を送って最晩年には侍中・太尉・涼州牧・西平郡公に進められ、北中国で唯一の漢文化の中心を形成した。

張寔  〜314〜320
 前涼の第二代君主。高祖、昭王。張軌の嗣子。字は安遜。晋廷では佐著作郎とされていたが、父に従って涼州に移った。 晋室への称藩を踏襲し、長安に派兵した翌年には琅邪王に登極を勧進した反面、東晋の建元後も愍帝の年号を用いた。318年以降は前趙との対立が激化し、劉弘の宗教叛乱を鎮圧した直後に信徒の閻渉に暗殺された。

張茂  277〜320〜324
 前涼の第三代君主。太宗、成公。張寔の次弟。字は成遜。 兄の横死を享けて持節平西将軍・涼州牧・西平公を嗣いだ。 北流黄河を境に前趙と攻伐し、323年に河東を失うと前趙に称藩して涼州牧・護氐羌校尉・涼王とされた。

張駿  307〜324〜346
 前涼の第四代君主。世祖、文王。字は公庭。張寔の子。東晋より護羌校尉・涼州牧・西平公に、前趙より涼州牧・涼王とされたが、まもなく前趙とは河東を巡っての抗争が再燃し、前趙の滅亡に乗じて河東に進出して後趙に称藩した。 その一方で成漢へも称藩して後趙の牽制を兼ね、涼州西部に沙州、東部に河州を新設すると共に西域に進出して亀茲鄯善などの盆地東部の諸国を服属させ、姑臧城を拡張するなど前涼の最盛期を現出した。
 西晋の正朔を奉じて称王の勧進には応じなかったが、国内では王と呼ばれて独立国としての制度を備え、晩年には仮涼王を称した。

張重華  327〜346〜353
 前涼の第五代君主。世宗、桓王。字は泰臨。張駿の嗣子。 涼州刺史・西平公・仮涼王を襲ぎ、即位の直後に後趙の麻秋を撃退したが、そのため驕慢となって側寵に親しんだ。 349年に関中進出を図って苻健に大敗したものの、程なく隴西を回復して涼王・雍秦涼三州牧を称した。

謝艾  〜354
 張駿に仕えて涼州主簿とされ、346年に張駿の喪に乗じて後趙の麻秋が来攻すると中堅将軍に抜擢されて撃退したが、程なく君側に忌まれて酒泉太守に出された。 麻秋から“書生の衣冠”と軽視されたが、翌年に麻秋率いる12万の趙軍が来攻すると仮節征討都督・衛将軍とされ、趙軍を大破して石虎をも長嘆させた。 しばしば側佞の排除と王弟の張祚の叛意を上書し、簒奪した張祚への叛抗に失敗して殺された。

張耀霊  343〜353/〜355
 前涼の第六代君主。哀公。字は元舒。張重華の嗣子。 託孤された伯父の張祚の簒奪で幽閉され、復辟が謀られた為に殺された。

張祚  〜353〜355
 前涼の第七代君主。威王。字は太伯。張重華の庶弟。張重華から張耀霊を託孤されたが、2ヶ月で簒奪した。 かねて対立していた謝艾を殺し、枹罕(臨夏自治州臨夏)に鎮する一族の張瓘を圧迫したが、失政によって隴西の李儼や西平(青海省西寧)の衛綝など諸豪の離叛が続き、張玄靚を擁する河州刺史張瓘・尚書僕射宋混に襲殺された。

張玄靚  350〜355〜363
 前涼の第八代君主。冲公。字は元安。張重華の庶子。 先君の張祚攻滅を主導した張瓘と祖母の馬氏とに実権があり、王号を廃して東晋の正朔を回復する一方、圧力を強める前秦にも称藩して安定を図ったが、張瓘が簒奪を図るなど政情の混乱が続いた。張瓘は359年に宋混・宋澄兄弟に討滅されたが、宋兄弟を鎮定した叔父の張天錫に簒奪された。

張天錫  〜363〜376〜398
 前涼の第九代君主。悼公。字は純嘏。張駿の少子。 張玄靚の下での内訌を鎮定した事で国政の実権を掌握し、363年には弑簒したが、この混乱で前秦に河東を奪われた。 376年に前秦に伐たれて開城し、淝水の役に乗じて東晋に逃れると員外散騎常侍・西平郡公とされ、建康で歿して鎮西将軍が追贈された。
  
 嗣子の張大豫は河西に留まって諸豪や鮮卑禿髪部の協力を得て涼州牧・涼王を称したが、386年に西域遠征から帰還した呂光に滅ぼされた。

 
 

前秦

 350〜394
 略陽の氐族首帥の蒲洪が後趙末期の混乱に乗じて秦王を称した事に始まり、当初は関中の中枢を支配するにすぎなかったが、苻堅の代に漢人の王猛を丞相に据えて飛躍的に発展し、儒学や仏教を保護奨励して文化面でも興隆した。 安定した政情を背景に376年には北中国の統一に成功したが、383年の南征が淝水の役で失敗すると被支配民族が一斉に蜂起して瓦解した。
 苻堅の死後は幷州と隴中で後秦との抗争を継続したが、394年に西秦に滅ぼされた。最盛期の実人口は2300万人程と推定されている。

苻洪  〜350/350
 本姓は蒲。字は広世。略陽臨渭(甘粛省秦安)の氐族の首長。 称帝した劉曜に帰順し、長安が陥されると石虎に降って隴部を委任された。 石勒の死後、関中の石生らが石虎の執政に抗って挙兵すると前涼に称藩したが、程なく石虎に帰順して護氐校尉とされた。 石虎が立つと関東への徙民を勧めて自身も枋頭(河南省浚県)に駐し、後に都督六夷諸軍事・大将軍位を加えられて関中に遷り、349年に雍州刺史・略陽郡公とされた。
 石虎の死後は石閔との対立から東晋に称藩して氐王・都督河北諸軍事とされ、350年に苻氏に改めて大将軍・大単于・三秦王を称したが、翌月の長安攻略の途上で降将の麻秋に毒殺された。後に太祖、恵武帝の廟諡が贈られた。

苻健  317〜350〜355
 前秦の高祖、明帝。苻洪の第3子。字は建業。父を謀殺した麻秋を殺すと廃号して東晋に称藩したが、まもなく東晋より長安を奪って天王・大単于を称し、翌年には称帝して嗣子の苻萇を大単于とした。 当時の支配圏はほぼ渭河盆地に限られ、354年には桓温の北伐で苻萇が敗死し、漢人豪族の離叛に直面したものの、晋軍を撃退したことで威名を確立した。以後は豊陽(陝西省山陽)に東晋を対象とする関市を開設するなど交易を重視した。

苻生  〜355〜357
 前秦の第二代君主。脂、。字は長生。苻健の第3子。 当代に冠絶する猛将だったが、「性残忍、酒に溺れ、殺虐を嗜む」一面があり、祖父の苻洪に処刑を考えさせた事があったという。 356年に前涼を称藩させ、翌年に姚氏を屈服させるなど軍事的成功を収めたが、一族に対しても酷刑を濫用し、狩猟を日常とするなどの非開明的言動は一族の苻堅に対する輿望を高め、苻堅の粛清を図って殺された。

苻堅  338〜357〜385
 前秦の第三代君主。世祖、宣昭帝。字は永固、又たは文玉。苻健の甥。苻雄の子。 政事・軍事に明るく漢文化にも親しみ、夙に輿望を集めて従兄の苻生を殺すと大秦天王を称した。 当初は一族異族の内乱や周辺諸国の侵攻などに苦しんだが、王猛を輔佐に迎えてより漢制による内政整備と中央集権化を進める一方、重農政策を進めて国力を充実させた。 前燕の慕容恪の死後は関東へも進出し、376年までに前燕前涼を征して北中国を統一し、仇池・蜀をも押さえ、高句麗・吐谷渾を朝貢国として西域にも進出するなど十六国時代最大の国力を有して最高の名君と讃えられた。
 民族融合を理想として降伏者を重用し、征服地の要衝と関中の氐族とを互徙したが、そのため関中では氐族が少数派に転じただけでなく、異族優遇は同族内にも不満を鬱積させ、苻堅が確信していた民族融和の達成が画餅であることは王猛や苻融ら多くの識者の共通認識だった。
 379年に襄陽を陥したことで降伏異族の首領らの支持もあって征晋論に急傾し、382年に王猛の遺言や苻融ら一族の反対を排して南征を興したが、翌年に淝水で惨敗すると各地の被征服種族が一斉に蜂起して瞬く間に統一が瓦解した。 慕容垂の護衛で関中に戻ったが、385年には慕容冲に長安を逐われ、程なく後秦の姚萇に敗れて殺された。
  
淝水の役(383):華北を統一した苻堅が親率する百余万の前秦軍と、北府軍を主力とした謝石率いる東晋軍の会戦。 緒戦に洛澗で敗れた前秦の先鋒は寿陽(寿春)東南の淝水を挟んで晋軍と対峙し、苻堅の合流後に晋軍の勧めで淝水の西岸を戦場とすべく後退したところ、先鋒の朱序の流言による混乱と、晋軍の前鋒の謝玄の急襲で壊走した。 この敗戦を機に前秦では急速に瓦解が進み、東晋は益州を回復しただけでなく、一軍は洛陽・鄴にも達した。
 前軍に合流した苻堅が、整然としている晋軍を遠望して生じた恐怖心は“草木皆兵”、敗走中の兵の恐慌状態は“風声鶴唳”の成語となった。 夙に寡兵で大軍を破る典型とされたが、淝水で実際に対峙した兵力は、前秦軍が前軍の一部の10万前後、東晋軍が8万弱と推定されている。

王猛  325〜375
 北海劇(山東省寿光)の人。字は景略。博学で兵法にも通じて令名があり、北伐した桓温と天下を論じて出仕を求められたが、貴族層との妥協に失望して応じず、まもなく苻堅の招聘に応じて枢機に参与した。 苻堅の腹臣として信任され、370年には前燕を滅ぼして都督関東六州諸軍事とされ、まもなく宰相に進められた。
 門閥を抑えて人士を挙任し、重農抑商政策や儒学の振興など各方面で前秦の中国王朝化を進めたために氐族の貴顕から嫉視憎悪されたが、「劉備に於ける諸葛亮の如し」との苻堅からの絶大な信頼は畢に変らなかった。かねて国内の異種族の動向と漢人社会の感情を測って南征には反対し、遺言でも南征を諫めていた。

釈道安  312〜385
 常山(河北省石家荘)の人。本姓は衛氏。仏図澄に師事し、その死後は各地で布教して名声が高かった。 379年に襄陽を陥した苻堅に迎えられて長安に移り、従来の格義仏教を反省して信仰の刷新を図った。「僧はすべて釈迦の弟子である」として仏僧の釈姓を提唱した。

苻洛  〜385
 苻堅の従兄。諸兄が苻生に殺されると苻堅に通じ、その先鋒となって宮中で苻生を殺し、幽州刺史・行唐公とされた。 376年には鮮卑の代政権を滅ぼして征北将軍とされたが、驕慢となって苻堅と隙を生じ、380年に嫡子の苻朗と共に挙兵したところ、苻堅の異族優遇と氐族の徙民に批判的な同族の呼応を集めて河北地方を席捲した。 苻堅の親征に大敗すると青海地方に逃れて涼州刺史梁煕に殺され、呼応した氐族15万戸は河北に徙された。
 苻朗は東晋に投じて員外散騎侍郎に叙されたものの、後に政敵の王国宝に殺された。

苻丕  〜385〜386
 前秦の第四代君主。哀帝。字は永叔。苻堅の庶長子。378年に始まる襄陽攻略を指揮した。 淝水の役の後は後燕に鄴を逐われて晋陽に遷り、苻堅の死に応じて登極したものの平陽に逐われ、386年に西燕に大敗して東垣(河南省新安)への敗走中に東晋に敗死した。

苻登  〜386〜394
 前秦の第五代君主。太宗、高帝。字は文高。苻堅の族孫。苻堅の下で羽林監・揚武将軍・長安令に進んだものの、事に連坐して狄道県長に遷された。 淝水の敗報が伝わると氐族の一大拠点の枹罕(甘粛省臨夏)へ奔り、386年に首領に推戴されて苻丕から征西大将軍・南安王とされ、同年に苻丕が敗死すると来奔した嗣子の苻懿を殺して簒奪した。
 兵に「死して休む」と黥して後秦への復讐を標榜し、仇池の楊定ら後秦に隣接する諸勢力と連携して一時は安定・長安を除く後秦の諸城を陥したが、滅羌校尉を置いたことで諸羌が後秦へ披靡し、389年秋には姚萇に大破されて凋落した。 394年夏に馬嵬で惨敗して西秦に求援したものの、来援前に敗死した。
  
 嗣子の苻崇(〜394)は湟中へ逃れて称帝し、西秦を避けて仇池の楊定を頼ったが、共に乞伏乾帰に敗死した。


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