チベット

 ヒマラヤ山脈・パミール高原・崑崙山脈・祁連山脈に囲まれ、東南では四川盆地・雲貴高原に連なる平均標高4000m超の世界最大級の高原台地。 歴史的にはウィ(dbus/中央)・ツァン(gtsan/西部)・カム(khams/東部)・アムド(amdo/東北部)に大別され、中国明朝では便宜的に烏斯蔵(ウィ・ツァン)・朶甘(アムド・カム)と区分したものの行政的な意義はなく、18世紀中葉に至って清朝によってカムの東半が四川・雲南省に編入され、アムドは青海省として分離されて現在に至っている。 一般的な“西蔵”の表記で示される地域は現在のチベット自治区に限定され、これに青海を併せてチベット全域は“青蔵”と表記される。
 古くは青海地方に吐谷渾などが興亡し、吐谷渾王国の崩壊後、7世紀初頭にソンツェン=ガムポがウィ地方に初の統一王朝を樹立し、中国王朝からは吐蕃と呼ばれた。 吐蕃はインド・中国の影響でインド系密教とチベット文字に代表される独自の文化を開花させ、高原住人も一種の紐帯意識を共有した。 吐蕃は安史の乱後の中国唐朝にとって最大の外患となり、821年には対等の関係として唐蕃会盟が結ばれた。
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 9世紀半ばの吐蕃王国の崩壊後、各地に分立した氏族領主はチベット仏教の諸派と結びついて祭政一致の傾向が強まり、13世紀以降はモンゴルや中国王朝と結んだ宗派が指導的勢力となったものの15世紀に入ると明朝によって一元支配は否定され、諸派の分立状態が続いた。 諸派の抗争が続く中で勢力の消長はモンゴルとの関係に影響され、モンゴル右翼オイラートへの布教に成功したゲルク派17世紀に主権を確立した。
 ゲルク派の執政府は間もなく摂政を頂点とする多頭体制に移行して清朝の介入が強まり、18世紀半ばにオイラート王国を攻滅した清朝に内乱に乗じられて理藩院の監察下に保護国化され、この時に金沙江以東のカム地方東半とタングラ山脈以北のアムド地方が分離された。
 18世紀後半になるとロシアの南下を警戒するイギリスとの交渉が緊密となり、1903年にラサ条約が締結されて親英によるチベット独立が模索された。 第二次大戦後に中国の主権を認めたが、宗教の否定や階級闘争などによって1959年に決裂し、ダライ=ラマの亡命を惹起した。
  吐谷渾  西夏  吐蕃  仏教  ダライ政権 / 雲南
 


 古代、青海を中心に中国西北辺で活動したチベット系遊牧民。 姫周の文王・武王を援けて克殷に大きく貢献した姜族もその支派といわれるが、詳細は不明。 剽悍不羈で部族ごとの自立性が強く、漢代には一括して西羌と呼ばれ、東漢中期には関中を席捲して最大の外患と認識され、中国への徙民が断続的に進められて4世紀には姚氏が後秦政権を樹立した。 南北朝時代には宕昌羌・ケ支羌が甘粛南部に拠り、隋代に鮮卑系の王族に率いられたタングート(党項)が抬頭し、吐蕃に圧されて北上したのち河西に西夏を建国した。 西夏の崩壊後は統一勢力が生まれず唐古特(タングート)・蔵人・番子などと呼ばれ、現在では主に四川省北部の阿壩自治州に住している。


 B2世紀頃より、渭河上流地方〜嘉陵江上源地方で活動したチベット系遊牧民で、羌族より農耕経済に依存する傾向が強かった。 3世紀初頭に武都・略陽に拠る楊氏・苻氏・呂氏らの豪族が抬頭し、4世紀に李氏が四川に成漢を、苻氏が前秦を、呂氏が後涼を、楊氏が仇池を樹立した。 6世紀末には独立性を失い、漢族に同化・吸収された。

勃律
 大勃律と小勃律があり、大勃律はカシュミールのバルティスターン、小勃律はその西北のギルギット。 古くからの交通の要衝で、法顕・宋雲・慧超ら中国仏僧が渡印する際にも経由地となった。 大勃律が吐蕃に没入すると、唐の玄宗は勃律の一族の没僅忙を小勃律王に冊立して吐蕃の西域侵入の防壁としたが、やがて吐蕃に懐柔され、747年の高仙芝の遠征で勃律の羈縻が進められて72の小国がすべて帰附した。

 

吐谷渾


 青海地方に拠った、鮮卑種を王族とするチベット系種族。 伝承では、3世紀末葉〜4世紀初頭に慕容廆の庶兄の吐谷渾が、部衆と共に陰山北方・河西を経て湟河流域に移住したといい、その過程で多くの異種族を包含し、青海移住後は氐・羌族との融合が進んだと思われる。 4世紀に集団化と自立化が進み、371年に前秦と初めて交渉してより北方諸国とは状況に応じて和戦両様に接したが、南朝とは冊封によって概ね親善した。
 5世紀に入ると北魏と抗争しつつ西方に拡大して西域の于闐・且末に達する大勢力となり、中国を統一した隋と西域南道の支配を争い、7世紀初頭に大破されて傀儡政権が建てられ、609年には西海・鄯善・且末郡などが置かれたが、隋の混乱で失地を回復した。 635年に唐に大敗して分裂し、鄯善方面の西部は吐蕃に服属し、青海一帯の東部は唐の冊封下に置かれたが、吐蕃の圧迫で663年ごろ崩壊し、670年には唐の薛仁貴による吐蕃遠征によって失地回復が図られたものの成功しなかった。 吐谷渾の余衆は涼州から霊州に東遷し、さらに吐蕃を避けて朔方・河東に羈縻して漢族との同化が進んだ。 10世紀末の北漢軍・宋朝禁軍には吐谷渾兵の存在が認められる。
 
 

タングート

 党項。拓跋氏を称した王族を戴いた羌系チベット族。 南北朝時代に青海方面に遊牧して中国や吐谷渾と抗争し、唐代に招撫に応じて羈縻州が置かれたが、吐蕃に圧されて次第に東遷し、安史の乱後には関中の北方に遷っていた。 夏州方面(陝西省靖辺)の平夏部、慶州方面(甘粛省慶陽)の東山部、霊州方面(寧夏自治区霊武)の南山部に分かれ、生戸と蔑称された平夏部が青白塩の産地を押えて最も強盛だった。
 平夏部長の拓跋思恭は黄巣の乱で唐を援け、夏・綏・銀・宥・静州を領する定難軍節度使とされて李姓を賜り、以後これを世襲した。 平夏部は宋の北漢討伐にも協力したが、間もなく内訌に宋が介入したことで契丹と結んで離叛し、1003年の澶淵の盟に応じて一時は和したものの、河西を掌握したのち青白塩問題などから再び決裂し、李元昊によって1038年に西夏国が樹てられた。 13世紀にモンゴルに滅ぼされた後も色目人に加えられて優遇されたが、元朝以後は歴史的な活動は見られない。

西夏

 1038〜1227
 タングート李元昊が宋より自立して建国。 中国に対する不羈性と青白塩問題によってしばしば宋を侵し、契丹とともに北宋一代の外患を為した。 李元昊の後は幼帝が続き、戚族の秉政と軍事の濫用で国力が低迷したが、中興の英主と称される崇宗の世には遼・宋の敗滅も重なり、軍事の激減は経済を発展させて文運の隆盛をもたらし、儒教・チベット仏教を基調とした西夏文化が開花した。
 崇宗の死後は政治が停滞・弛緩し、13世紀に入るとモンゴルによる侵攻も始まり、以後は親金派と反金派の対立が君主の改廃すら左右して内政も悪化の一途を辿った。 神宗がモンゴルに称藩した後も入質や軍兵供出を拒んだ為に本格的な攻勢を受け、1227年に国都興慶城が陥落して10代190年を以て滅んだ。
 元朝のクビライ汗の時代、南宋攻略で文天祥を追討して広州に達し、張弘範と共に克Rで宋室を覆滅した李恒は西夏王家の後裔にあたる。
 

李継捧  〜1004
 夏州拓跋氏。 980年に定難軍節度使を襲いだが、人望に欠けて一族の叛抗を懼れ、管下の4州を宋に献じて開封に移住した。 弟の李継遷が平夏部を率いて叛くと定南軍節度使とされて討伐したが、継遷に通じた末に991年に契丹に帰順して西平王に封じられ、後に宋に捕われて開封に送還された。 この時、赫連氏以来の都城の統万城も破壊され、宋は夏州の確保を放棄した。

李継遷  963〜1004
 定難軍節度使李継捧の弟、或いは族弟。982年に継捧が宋に献地すると、宋に抵抗しつつタングート族を糾合して契丹より定難軍節度使とされ、989年には公主を降嫁されて夏国王に冊立された。 990年には宋に帰順して趙保吉と賜名されたが、程なく叛いて夏・銀・綏・宥州を回復し、1002年には霊州(霊武)を陥して契丹より西平王に改封され、霊州を西平府と改称して国都とした。 以後は西方経略に転じて西涼府(武威)を攻略したが、翌年には宋と結んだ青唐羌の首領潘羅支に奪回されて敗死した。

李徳明  982〜1032
 西平王李継遷の嗣子。当時のタングートは宋・青唐羌ウイグル契丹に囲まれ、内部では蕃部の離叛があり、即位直後の澶淵の和を機に宋にも称臣して軍事の軽減と多額の歳幣を獲得し、叛乱鎮圧の後は河西を支配する甘州ウイグルを征服した。 安定した外交と仲介貿易や農業の振興で繁栄し、1020年には懐遠鎮(銀川)を興州と改めて遷都した。

李元昊  1003〜1038〜1048
 西夏の開祖。景宗、武烈帝。西平王李徳明の嗣子。 父の平和外交で蓄積した富力を背景に青海の青唐羌を大破し、宋に対しても積極攻勢に転じて西北辺を経略し、1038年に称帝して国号を大夏とし、興州(寧夏自治区銀川)を大興府と改めた。 宋制を模した官制の整備や軍備増強などによって国礎を強化し、学校の振興や西夏文字の創案など民族意識や文化向上にも注力した。 対宋交易の停止や軍事の連続で疲弊し、1044年には絹・銀・茶の計20万両の歳幣と互市の開設によって宋に臣礼を執ったが、青白塩問題や契丹外交の不調などから称臣を停止し、又た晩年は酒に溺れ、廃太子の寧林格に弑された。
 寧林格は間もなく誅され、毅宗を擁立した外戚の没蔵氏が朝政を専断した。

毅宗  1047〜1048〜1067
 西夏の第2代君主。昭英帝。諱は諒祚。父帝を弑した兄の寧林格が誅されて立てられた。 生母の没蔵太后の一族が国政を執って国威は低迷し、1061年に没蔵氏を粛清して親政を始め、君主の専権強化を進めたものの急死した。

恵宗  1061〜1067〜1086
 西夏の第3代君主。康靖帝。諱は秉常。毅宗の嗣子。 生母の梁氏の一族が秉政し、親政後も実権に乏しかった。1081年に宋の李憲による五路軍を大破した。

崇宗  1083〜1086〜1139
 西夏の第4代君主。聖文帝。諱は乾順。恵宗の嗣子。 即位当初は祖母の梁太后とその一族が執権し、綱紀の弛緩や軍事の濫用で国力が減衰していたが、1099年に梁氏を粛清して親政を始めると官制整備・賦役軽減・殖産興業などによって国力を回復させた。 当時は女真=の興隆期にあたり、金に大敗した遼の天祚帝の亡命を拒んで金と同盟し、亡宋に乗じて隣接諸州を接収して西夏領を大きく拡大した。中興の英主と評される。

仁宗  1124〜1139〜1193
 西夏の第5代君主。聖徳帝。諱は仁孝。崇宗の長子。 崇宗が実現した軍事の激減と経済の発展を背景に文化政策が重視され、儒学の振興と科挙の実施、礼楽や律令の整備、翰林院の創設、チベット仏僧による訳経・出版などが行なわれた。文治政策は文尊武卑をもたらし、晩年には外戚の抬頭や綱紀の弛緩、軍事の弱体化が看取される。

桓宗  1177〜1193〜1206/1206
 西夏の第6代君主。昭簡帝。諱は純祐。仁宗の長子。 モンゴルの組織的な進攻が開始されて劣勢を強いられ、従兄の李安全(襄宗)を擁するモンゴル融和派に廃黜され、程なく配所で歿した。

襄宗  1170〜1206〜1211/1211
 西夏の第7代君主。敬穆帝。諱は安全。桓宗の従兄。 父/越王李仁友の死後、襲爵を認められなかった事で桓宗を怨恚し、桓宗の生母の羅太后らと結んで簒奪した。 モンゴルへの通誼を示す為に頻りに金に入冦したが、連年の軍事と国政の乱れに飢饉が加わって民乱が絶えず、モンゴルからも違約を理由にしばしば侵攻され、宗室の斉王(神宗)に簒奪された。

神宗  1163〜1211〜1223〜1226
 西夏の第8代君主。英文帝。諱は遵頊。崇宗の曾孫。 徒らに軍事を拡大するのみで成果を挙げられない襄宗から簒奪し、モンゴルとの和親を保ったまま国力の保持を図ったが、1219年にチンギス汗の大征西への派兵を拒んだことで第4次西夏攻略が行なわれた。 この時の侵攻は大西征の前哨戦として短期で終わったが、西夏は既に国家としての体を為さず、金国との修好にも失敗して子の李徳旺(献宗)に譲位した。

献宗  1181〜1223〜1226
 西夏の第9代君主。諱は徳旺。神宗の次子。 チンギス汗の本土不在に乗じてモンゴル兵を排除し、1225年には金との国交を回復したが、翌年に第5次西夏攻略を起されて憂死した。
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 甥の李睍(末主)が立てられて抵抗を続けたものの、国都での大地震もあって1227年に開城降伏し、程なく王族と共に殺された。

 
 
 
 7世紀初頭〜14世紀中頃のチベットに対する中国からの呼称で、一般には9世紀中頃まで続いた王朝を指す。 王はツァンポ(btsan=po)の称号で呼ばれ、支配階級は遊牧生活を基調とした。btsanは強者、poは男性を表す。
 6世紀後期、ラサ東南のチョンギェ流域出身のナムリ=ソンツェンが基礎を固め、嗣子のソンツェン=ガムポに至って高原の全チベット族を統一してラサに都し、吐谷渾南詔・河西の帰属を唐と争った。 ソンツェン=ガムポは文成公主の降嫁によって親唐政策に転じたが、その晩年から実権を掌握したガル家、特にガル=ツェンニャが拡大政策を唱導し、670年には安西四鎮を陥して青海の大非川で唐軍を大破し、天山南路を掌握した。
  唐が政治的混乱を収拾した玄宗の治世、特に天宝年間(742〜56)こそ唐の攻勢で拡大政策は沈静化したものの、安史の乱に乗じて763年には長安を一時占拠し、河西地方を完全に支配下に置いて790年には安西都護府を攻陥し、親唐的なウイグルの武力介入と南詔の離叛の後、822年の唐蕃会盟で唐と和親した。 又たティソン=デツェンが仏教を国教に定めてより崇仏派と廃仏派の反目が尖鋭化し、846年に廃仏派のダルマ王が仏僧に暗殺されると統一が瓦解してチベットは政治的にも文化的にも低迷期となり、河西地方は敦煌の張義潮の下で自立状態を保ちつつ中国に帰属した。
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 黎明期の吐蕃はシャーマニズム的なボン教を信奉していたが、ソンツェン=ガムポが王妃を通じてネパール・中国より仏教を導入し、インド系仏教の受容はチベット文字の創制にもつながった。 吐蕃宮廷ではインド系密教と中国系禅宗が教勢の拡大を争い、両者の対立はティソン=デツェン時代の御前法論でインド派の勝利に帰し、このときチベット仏教の基本的性格も決定したとされる。 これはヒンドゥー的要素を多分に含んだインド密教にボン教との類似性が多かった為でもあり、この時代にダナンにサムイェ寺院が建立されてチベット人僧侶も現れた。 ティツク=デツェンの時代には訳語が統一されて訳経が盛行したが、ボン教は隠然たる勢力を保ち、宮廷でも両派の暗闘があってダルマ王による廃仏令の断行を招来した。

ボン教
 シャーマニズムに立脚するチベットの原始宗教。中央アジアから西チベットを経由して伝来したものとされ、原始形態を強く遺すものを黒教、仏教の影響を受けたものを白教と呼び、仏教が隆盛・国教化された吐蕃末期にも隠然たる勢力を維持した。 後来の密教に対抗した結果として聖典・尊像にはチベット密教の影響が強く、シェンラブーミボを開祖に設定した点も密教の模倣によるもので、ニンマ派への影響も指摘される。
 総本山のメンリ僧院は現在は北インドに機能を移転しているが、民間信仰としてチベット人の生活とは不離の関係にあり、観光地として著名な九塞溝一帯などでもチベット仏教を凌ぐ教勢を保っている。

ソンツェン=ガムポ  〜649
 ティ=ソンツェン。統一吐蕃の初代君主。 ラサ東南のチョンギェ地方の王族で、580年頃に13歳で即位し、一代でチベット高原の征服と統一を達成した。仏教国ネパールよりティツン妃を娶ってより仏教が行なわれ、634年に初めて中国に遣使した後は唐にも公主を求め、これを妨害した吐谷渾を寇掠して638年に唐の松州(松潘)を攻略した結果、641年(貞観15)に太子のグンソン=グンツェンに文成公主を降嫁された。 これを機に太子に譲位し、643年にグンソン=グンツェンが落馬しした為に重祚して文成公主を娶ったとされる。
 以後は留学生を送るなど中国の制度・文化を積極的に受容し、647年の王玄策のインド討伐には援軍も供出したが、晩年には勲貴を粛清して宰相のガル家に権力が集中した。 伝承では、トンミサンボータをインドに派遣し、インド文字に倣ってチベット文字を創制させ、同時に最初のチベット文法を制定させたとされる。
 ティツン妃と文成公主は共に生国の仏教を導入し、ラサに現存する古刹のジョカン寺はティツンの、ラモチェ寺は文成公主の発願になるとされる。 当時の仏教の信仰程度は疑問視されているが、ソンツェンは観世音の、ティツンは白ターラの、文成公主は緑ターラの化身として長らく信仰されている。
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 年少の嫡孫/マンソン=マンツェン(在:649〜676)が襲いだことで宰相のガル家が執権し、吐谷渾の併合や安西四鎮の攻陥など唐との対立による軍事拡大を明確にした。 ガル家は蜀・隴右でしばしば唐軍を破って東部に独立勢力を形成し、699年にソンツェン=ガムポの曾孫のティ=ドゥソンに伐たれて粛清された。

文成公主  〜689 ▲
 唐の公主。創建期の吐蕃の軍事強請を伴う要請で641年に吐蕃に嫁し、公主を得た吐蕃は親唐に転じて公主の為に一城を造営し、又た公主が嫌う習俗/赭土による化粧が厳禁されるなど厚遇された。 絹織物を好んで用い、豪族の子弟を長安に遊学させて中国文化の摂取を推進するなど、中国文化をチベットに導入した点で公主の存在意義は高く評価される。 ラモチェ寺院を建立して中国仏教を導入したとされる伝承に確証はないが、緑ターラの化身として現在に至るまで尊崇されている。

ティデ=ツクツェン  〜704〜754
 吐蕃王国の第4代君主。ガル家を粛清して王権を回復したティ=ドゥソンの子。 南詔攻略中に戦死した父を襲いで即位したが、当時は嬰児だった為に祖母方のモル氏が執政して国内や衛星国のネパールの叛乱が続いた。 710年に唐の中宗の養女/金城公主を迎えて九曲の地(青海省同仁一帯)が贈られ、唐や西域から仏僧を迎えて仏教が盛行したが、両国の関係は722年(開元10年)の小勃律の占領に続く安西四鎮の攻略と、739年の金城公主の死で悪化した。 752年に唐に伐たれた南詔の乞援に応じて南詔を弟国として冊封した後、754年に援軍を発して唐兵を撃滅したが、程なく内訌によって暗殺された。

ティソン=デツェン  742〜754〜797
 吐蕃王国の第5代君主。ティデ=ツクツェンの嗣子。 即位当時はボン教を信奉する閣僚団に実権があって仏教が禁じられたが、761年に親政を開始すると仏教を解禁しただけでなく、諸王子の仏教修学を義務化するなど保護・奨励した。 774年にインドから仏僧のシャーンタラクシタ・パドマサンバヴァを迎え、修行寺院/サムイェー寺を建立して仏僧育成や仏典翻訳を行なわせ、782年には中国系の禅僧とインド系密教僧の法論によって敗れた禅宗を禁じ、インド系密教を仏教の正統として定めた。
 唐に対しては安史の乱に乗じて隴右を占領するなど攻勢を堅持し、763年には長安を一時占拠して金城公主の甥/李承宏を擁立し、南詔と協働した779年の成都攻略には失敗したものの781年に沙州(敦煌)を陥すなど、以後の吐蕃による西方での優位を決定的にした。 790年にカルルク・キルギズと結んで北庭都護府を陥した事で同地を巡る唐・廻鶻との抗争を招来したが、軍政両面の成功によって一代の名君と賞讃されている。
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 嗣子のムネ=ツェンポは仏教教義に傾倒して貧富の平均化を図ったが、翌年には母妃ツェポン=サに毒殺され、弟のティデ=ソンツェンが即位した。

シャーンタラクシタ  〜787?
 インドの大乗派仏僧。 ナーランダ寺院で学んだ後、吐蕃王ティソン=デツェンの招聘に応じてパドマサンバヴァと共に入蔵した。 779年にサムイェー寺院の本堂が完成するとインドから仏僧を招いて教団を創設し、訳経に備えてサンスクリット語を伝えた。

パドマサンバヴァ  ▲
 グル=リンポチェとも。吐蕃王ティソン=デツェンの招請に応じてシャーンタラクシタと共に入蔵し、サムイェー寺院が落成した後は訳教事業を主導した。チベット密教およびニンマ派の祖とされる。

ティデ=ソンツェン  〜798〜815
 吐蕃王国の第7代君主。ティソン=デツェンの子。兄のムネ=ツェンポが暗殺されて立てられた。 兄同様に仏教を篤信し、閣臣の筆頭にボチャンボを新設して高僧を据え、僧官による寺院管理行なうなど聖俗両面での仏教の国教化を進めた。 唐に対しては敵対を保ったものの、しばしば蜀の西川節度使韋皋に撃退されて南詔の離叛を招き、西域でも811年にカルルクが廻鶻に帰順して北庭を奪還された。

ティツク=デツェン  〜815〜841
 吐蕃王国の第8代君主。ティデ=ソンツェンの子。 唐との同格の和親を求め、822年に唐蕃会盟を実現した。 生来病弱で仏教に傾倒し、大蔵教の翻訳を通じて行なった訳語の統一はチベット仏教史上で“新語改革”と呼ばれ、併せてチベット語の語句の整理などを行なわせた。 過度の仏僧優遇と民衆への負担強制によって支持を失い、ボン教を信奉する閣僚によって暗殺された。
   
唐蕃会盟碑 :ラサのジョカン寺院入口の、唐と吐蕃の和平記念碑。 821年の長安での長慶会盟と、翌年のラサ会盟を記念して823年に建立され、当時はラサの他に長安と、両国国境のニンダーラ山に建てられた。 高さ3.4m、西面に両国の文字で銘文の内容が、東面はチベット文で両国の交渉史と会盟の状態・日付が記され、北面には会盟参加のチベット官吏の官姓名、南面には同様に唐の官姓名が両国の文字で記されている。 随所で両国の尊卑を定めない配慮がされている点で稀有のもので、当時のチベット語と中国語の音韻研究上でも重視されている。

ダルマ=ウィドゥムテン  803〜841〜846
 吐蕃王国の第9代君主。ラン=ダルマとも。ラン(glan)は牡牛の意で、頑固な愚者という蔑称。 ボン教を信奉し、仏教派のティツク=デツェンを暗殺した勢力に擁立された。 843年に廃仏令を断行するなど徹底した廃仏政策を行ない、仏僧に暗殺された。統一吐蕃王国は崩壊し、チベット仏教も衰退に陥った。
   
 吐蕃王国の崩壊後、ダルマ王の血統は南北に分裂して争い、唐に隴右を奪回され、851年には河西も唐に帰順した。 869年に各地の土豪が造叛してラサ政権が打倒されると王族は西チベットのツァン地方に退き、ガル地方のマルユル・プラン・グゲなどの谷地に割拠した。

 

青唐羌
 吐蕃王国の崩壊後、青唐地方(=湟中)に拠った吐蕃。 11世紀前期に吐蕃王族を称する唃厮囉が統一を果たしてアムド地方北半を支配し、河西や蘭州方面にも進出した。 1015年にタングートの拡大に苦しむ宋の招撫に応じ、唃厮囉が君権を確立した後はしばしば李元昊と攻伐し、李元昊が甘州ウイグルを滅ぼした事で却ってウイグル兵とウイグル商人を麾下に加えて富強となった。
 唃厮囉の盛時から一族の内訌が絶えず、唃厮囉の晩年にも実子の離叛があって統一は保たれず、唃氏が王統を失った後は宋に対してもしばしば叛き、王族は1134年頃に金に湟中を逐われた。

グゲ王国  〜1630
 ツァン地方西部に逃れた吐蕃の王族が、ツァパランを首都としてグゲに樹立した王国。 11世紀前後に顕教回帰を唱える戒律復興運動が昂揚したが、一方では1042年にインドから密教僧アティーシャが招聘され、性瑜伽に対する反省から生じた無上瑜伽(ヨガ瞑想)などの後期密教が導入された。これよりチベットでは顕教と密教が併修されるようになり、再び仏教が栄えた。
 グゲ王国は程なく分裂して衰えるが、14世紀には統一を回復し、15世紀になると旧都ツァパランが再び首都とされ、現存するグゲ遺跡の殆どがこの時代のものとされる。 1630年にラダック王国に征服されたが、1647年にラダック王が歿するとグゲはチベットの管轄下となり、1841年のドグラ戦争ではシク教国軍によって多くの遺跡が破壊された。

ラダック
 チベット高原西端に連なる、カラコルン山脈とヒマラヤ山脈に挟まれたインダス河源流一帯の呼称。レーを中心としたラダック中央部と、対岸のザンスカールを併せたインドのジャンム=カシミール州東半と、中国が実効支配しているカラコルン山脈東麓のアクサイチン、パキスタン領カシミール南東部のバルティスターンを含む。
 B2世紀には初期仏教が伝播してインド本土で仏教が衰えた後もインド仏教が盛行し、吐蕃王国の支配下で次第にチベット族・チベット仏教が隆盛した。 吐蕃王国の崩壊後、10世紀に吐蕃貴族によってラダック王国が建てられた事もあってチベット仏教が保たれ、11世紀のチベット仏教復興運動の発祥地ともなった。
 17世紀にはバルチスタン王国と同盟し、西チベットのグゲ王国を滅ぼして最盛期を迎えたが、ダライ=ラマV世の拡大政策によって1684年に旧グゲ領をダライ政権に割譲して朝貢国となった。 ダライ政権の混乱によって19世紀前半までにカシミール諸侯に大半を征服され、イギリスの介入で1846年にジャンム=カシミール藩王国に併合され、王国内の諸侯として一定の自治権を保った。 第二次大戦後のカシミール紛争によってインド・中国・パキスタンに分割支配されたが、文化大革命を経験しなかった事で古いチベット文化が保存されてしばしば“小チベット”とも称され、殊に曼荼羅美術の蓄積はチベットを凌ぐと評される。

 
 
 チベット高原の南東部に連なる中国南西部の称。大理国を征服した元朝が、四川盆地南縁の雲嶺以南を以て雲南等処行中書省を置いた事が名称の由来で、ミャンマー・タイ・ベトナムにも接して彝族・壮族・苗族・白族・瑤族など多種の少数民族が居住する。 早くから水稲農耕が発達し、B2000年紀末頃には青銅器時代に入り、滇池一帯は紀元前後には文化と呼ばれる精巧な青銅器文化が全盛期を迎え、また洱海を中心とする一帯では羌族のものと思われる昆明遊牧文化が栄えた。
 漢武帝の南粤攻略に先立ってB135年に犍為郡が新設され、次いでB111年に越雟郡牂柯郡が増置され、B109年には滇の地に益州郡が置かれて中国化が図られた。 西漢の直轄経営は頑強な抵抗によって間もなく大きく縮小し、東漢で永昌郡が設置された後も越雟・牂柯以南は長らく化外の地とされ、チベット=ビルマ語族やタイ族が主体となって唐代に南詔が独立し、宋代の大理へと継承された。
元代を通じてサイイッド=エジェル家の影響で一部にイスラム教も浸透し、内地化が進められた明代でも土豪の多くが宣慰使・宣撫使などの土司・土官を遙授されて旧来の組織を維持したが、漢人官吏や商人・地主の進出と伴に抑圧・搾取され、械闘などの紛争が絶えなかった。 清朝雍正年間(1723〜35)に銅鉱の大鉱脈が発見された事で回土帰流が本格化してより漢人との衝突が激化し、清仏戦争後は東南アジアを植民地化したフランスの進出が露骨となり、一時は中国分割が現実のものと認識された時代もあった。


 雲南の滇池一帯の古名、文化名、国名。 一帯では早くから水稲農耕が行なわれ、一時は東アジア水稲農耕の起源地に比定されていた。早くから楚文化の影響を受けたらしく、「楚の威王の命で荘王の孫の荘蹻が巴蜀に遠征して滇池に到り、秦による郢都陥落(B278)で帰路を遮られると残って称王した」という縁起が伝えられていた。 滇文化はこの頃より最盛期を迎えたらしく、精巧で特徴的な青銅器が多数出土している。
 南粤に対する戦略的意義が薄かった為に、一帯では最も遅くB109年に漢に帰順して益州郡が置かれ、王は夜郎王とともに称王を許された。 このとき授けられたと思われる“滇王之印”が、1950年代に晋寧県石寨山遺跡から玉衣など多数の副葬品とともに出土している。

夜郎
 先秦時代から貴州省北西部にあった王国で、畢節地区赫章県の可楽遺址が国都に比定される。 人種系統は不明だが、流竹誕生説話を有して農耕経済を営み、牂柯江を通じて南粤に称藩していた。 南粤征服を図る漢と和してB135年に犍為郡の設置を認めたが、やがて南粤遠征の徴発に叛抗して太守を殺し、B111年に平定されると牂柯郡が置かれ、夜郎王は外臣として滇王とともに称王を許された。 夜郎王が招撫使の唐蒙に対し、夜郎と漢の大きさの比較を尋ねたことから“夜郎自大”の諺言が生まれた。 B27年に漢の介入を嫌って再び叛き、牂柯太守に討滅された。

哀牢夷
 東漢代、雲南省西南部地方に拠っていた。 漁師の娘が沈木に化していた竜神に感応して10児を産み、竜神に認められた末子を建国の祖とし、言語上からタイ語族説、チベット=ビルマ語族説がある。 西漢の西南夷征服で交渉が始まってしばしば交戦し、1世紀中頃に帰藩して永昌郡が設置されたものの、まもなく難治の地として放棄された。モンゴルの支配が及んだ後も辺境の蛮地と認識され、又た雲南に接する一帯のタイ族は近世まで哀牢とも呼ばれた。


 4世紀半頃より雲貴地方に割拠した地方勢力。元は3世紀に蜀漢に帰順した叟族の1氏族で、爨氏は以後も現地に勢力を保ち、永嘉の乱以降も晋の興古太守として寧州刺史王遜と呼応して成漢の進出に抵抗した。 333年に成漢に降って既得権を安堵され、成漢が滅んだ後も南朝による冊封が続き、南梁末より西魏に称藩して隋唐でも王統を保ち、後来の東爨/烏蛮と抗争して西爨/白蛮とも呼ばれた。8世紀に吐蕃に与した為、唐の玄宗に通じた南詔の皮邏閣に大破されて衰えた。 白蛮は現在の白族の祖に比定され、烏蛮は彝族・納西族・傈僳族などの祖と目される。

 

南詔

 〜902
 唐代の雲南地方に興った、チベット=ビルマ語族を王族とした王国。“詔”は王の称。隋〜唐初、洱海方面に割拠した烏蛮系の6詔国のうち、最南の蒙舎部が発展したもの。 蒙舎部は大蒙国と称して貞観年間(627〜649)に唐に朝貢してより抬頭し、その立地から“南詔”と俗称され、8世紀に大蒙王となった皮邏閣(在:728〜48)が738年(開元26)に雲南王に冊封されて太和城(大理)に都し、他の5詔国や滇池方面の白蛮氏を征服して雲南を統一した。
 南詔の強大化は唐との軍事衝突を招来し、閤羅鳳(在:748〜79)の時に吐蕃と結んで討伐軍を撃滅し、安史の乱による中国の混乱と内向化もあって四川にも勢力を伸ばした。 779年に即位した異牟尋(〜808)の時代には唐に帰順して南詔王に冊封され、吐蕃に入冦する一方で留学生を介して中国の文物を摂取するなど南詔の最盛期を現出し、後の唐蕃会盟の一因となったが、829年には成都を劫掠して再び唐と対立した。 832年にミャンマー南部の驃国を、835年には弥臣国(古ペグー)を滅ぼすなど東南アジアにも侵攻して859年には称帝し、黄巣の乱に直面した唐から公主の降嫁も認められたが、この頃になると詳細は伝わらず、902年に権臣の鄭買嗣に簒奪されて王統が絶えた。
 南詔では親の名の末字を子の名の頭字とする独特の父子連名形式が行なわれていた。
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漢人と伝えられる鄭買嗣は国号を長和と称したが、その死後は趙善政を擁した楊干真が簒奪して天興国と称し、翌年(929)には楊干真が自ら立って義寧国と称した。 楊干真の治世は貪虐無道と称され、936年に蜂起した白蛮系の段思平に逐われ、永昌で自殺したとも、赦されて剃髪したとも伝えられる。

 

大理

 937〜1253
 チベット=ビルマ語族の白蛮段氏による雲南帝国。 段思平が、南詔を簒奪していた楊干真を937年に打倒したもので、国内では皇帝を称しつつ宋の冊封を受けて金沙江を国境とし、君主権は弱くしばしば簒奪や譲位が行なわれたが、仏教が盛行していた為に出家する王も多かった。 宋に協力して儂智高を殺した段思廉の時に高智昇の白崖茹甸(弥渡?)の世襲を認め、1080年に楊義貞の簒奪を制圧して権臣化した高昇泰(高智昇)に1094年に簒奪された。
 高昇泰の遺言で1096年に段正淳が立てられて段氏が復権し、以後は高氏が執政を世襲した。 宋に対しては概ね朝貢して1244年にはモンゴル軍の撃退にも成功し、段興智(在:1251〜53)は諭使を悉く殺して応じていたが、ウリヤンカダイに大敗した翌年に地図を献上して降り、摩訶羅嵯(マハラジャ)の号を与えられてウリヤンカダイ軍の先導を担った。 南詔の崩壊の頃から始まっていたタイ族の南下は、大理の崩壊で本格化してアンコール朝など先在の勢力を衰亡させ、東南アジア各地に王朝を樹立した。
 大理国の故地には雲南等処行中書省が置かれてクビライ汗の庶子フゲチの梁王家が世襲し、段氏が梁王家との通婚を保って引続き支配の実務を担い、採鉱とイスラム教が盛行した。 段氏は明朝に通じて1390年に梁王家を滅ぼしたが、東アジア屈指の銀鉱を擁していた事で中国の直轄領とされた。

シップソーンパンナ
 1180年にルー=タイ族がチエンフン(雲南省西双版納タイ族自治州景洪市)に興したタイ族の王国。 大理国を滅ぼしたモンゴルに服属し、これより伝統的に中国に土司を授けられ、1382年より明朝に服属して宣慰使が遙授された。 16世紀になるとラーンナーランサーンなどのタイ族諸国と同様にタウングー朝ビルマに従属し、行政単位“パンナー”がメコン川の東西に各6の計12置かれた事から12のパンナー=シップソーンパンナと呼ばれた。 清朝にも朝貢した事からビルマと中国の係争地となり、清緬戦争(1765〜69)の後は却って周辺のタイ族に対する支配力を強め、又たコンバウン朝との交渉から上座部仏教やビルマ文字を摂取した。欧米諸国のアジア進出に於いて中国領と公認され、1956年に王制が廃止されて自治州が設定された。

パンゼーの乱  1855〜1873
 杜文秀起義とも。雲南地方に起こった大規模な回民起義。 パンゼーはビルマ人による雲南回民の呼称。
 咸豊5年(1855)に楚雄府内の銀鉱での回民鉱夫と漢族鉱夫の紛争で官憲が回民を弾圧した事で叛乱となり、翌年には回民生員の杜文秀が領袖となって雲南西部の50余城を陥し、蒙化(大理自治州巍山)に拠ってスルタン=スレイマンを称して平南国を樹立した。 英・仏・独から兵器を購入し、雲南東部に独自勢力を築いていた回民の馬如龍とも結んでしばしば昆明を攻囲したが、同治元年(1862)に馬如龍が清朝の招撫に応じ、6年の昆明攻略に失敗した後は完全に劣勢となり、11年に蒙化が陥されて杜文秀は自殺し、余勢も翌年までに鎮圧された。
 回民の死者は100万に達したと伝えられ、東南アジア諸国に逃れた回民も多く、隣接するシップソーンパンナルアン=パバン王国は暫くパンゼーの侵攻に苦しんだ。


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