モンゴリア.3

北元  チャハール  ハルハ
ダヤン=ハーン  アルタン=ハーン  リンダン=ハーン
 
 
 高原に退いた元朝政府を指す。北遷当初は明朝に善く拮抗したが、満洲を失った翌年(1388)に内訌で天元帝が殺された後は大ハーンの求心力が大きく後退し、オイラートの分立と明朝の永楽帝の遠征に首長勢力の伸長などが加わって分裂傾向が顕著となり、明朝からは韃靼と呼ばれるようになった。 殊にオイラートのエセン=ハーンによる簒奪・粛清で崩壊に直面したが、16世紀前後には大元可汗を称したダヤン=ハーンによって高原部の再統合に成功した。
 ダヤン=ハーンの時代にモンゴル族が再編され、左翼のチャハール部が宗家と定められたが、ダヤン=ハーンの死後から分裂を生じて16世紀半頃になると右翼のアルタン=ハーンが最も有力となり、“北虜”の主体となって北京を攻囲するなど明朝を苦しめた。 アルタン=ハーンの時代はチベット仏教ゲルク派への帰依やハルハ部の漠北での拡大など重要な画期でもあり、ハーン号が有力君長の称号となる嚆矢でもあった。
 チャハール部は17世紀にリンダン=ハーンの下で復権の兆しがあったが、リンダン=ハーンが歿した翌年(1635)に高原に進出した女真に降り、以後は準皇族として遇された。 又た漠北のハルハ諸部は1640年にオイラートと和してハルハ=オイラート法典を制定し、清朝に対しても非戦を旨としてモンゴルの主流と見做されるようになったが、内訌と宗教問題などからオイラートのガルダン=ハーンに伐たれて清朝に庇護を求め、以後も同盟者としての立場は保たれたものの統制が強化された。 
   
韃靼 :中国を回復した明朝が、元朝の余裔のうち漠朔東部に遊牧するドチン=モンゴル(四十モンゴル)を蔑視を込めて嘗ての名で呼んだもの。 モンゴル側は元朝の自称を一貫して保ち、後のダヤン=ハーンの称号は大元可汗の転訛とされる。
 

アユル=シリダラ  〜1368〜1378
 昭宗。北元の君主。恵宗の長子。 1353年に皇太子とされた後は大ハーンによる集権を志向して政争を生じ、軍閥とも提携した事で政府の混迷を助長した。 太原のココ=テムルの助力で1365年に大都の主権者となり、1367年には中書令・枢密使とされたが、ココ=テムルに対しては権臣化を猜忌して隔意を生じ、そのため朱元璋の北伐を成功させ、1368年に恵宗と共に大都を棄てて応昌に退いた。
 1370年に父が歿した直後に応昌でも明軍に敗れたが、カラ=コルムで即位してココ=テムルと合流してより勢力を回復させ、1372年には徐達を大破して塞外の支配を確保した。 高麗との提携やアルタイ方面の接収によって勢威の回復を図り、一時は山西北部を経略したが、これはココ=テムルの死によって頓挫した。

ナハチュ  〜1388
 納哈出。ムカリ家の王甥として遼東を鎮撫し、紅巾軍の北伐では上都の劫掠を防げなかったが、程なく満洲一帯に勢力を拡げて高麗を圧し、1362年に朝鮮に侵攻したものの李成桂に撃退された。 しばしば明の北辺にも侵寇し、天元帝と呼応しての南征を図ったが、1387年に明の大将軍馮勝に遠征されると物資欠乏から部衆20余万と共に降伏し、南北の勢力比は完全に逆転した。海西侯とされたが、四川討伐の軍中で急死した。

トクズ=テムル  〜1378〜1388
 天元帝。北元の君主。昭宗の弟。当時の北元は猶お満洲および高原全域を支配して明朝に拮抗し、満洲を支配するナハチュと呼応して南征を図ったが、1387年にナハチュが明軍に制圧された事で威勢を大きく損ない。 翌年にはバイル=ノール藍玉の奇襲に大破され、皇后・皇子など皇族を含む8万余人と馬牛羊10万以上を失い、カラ=コルムへの敗走途上のトゥーラ河畔で、アリクブカ家のイェスデルに殺された。
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 トクズ=テムルの死を以てクビライの王統は断絶し、有力首長の割拠が顕著となって統合が失われた。殊にオイラートが部族連合を以てモンゴルから分立し、以後の漠東のモンゴルは明朝から韃靼と呼ばれるようになる。

イェスデル=ハーン  〜1388〜1392
 アリクブカの裔。アルタイ方面に王統を保って姻族のオイラートに支持され、1388年には明軍に惨敗したトクズ=テムルをトゥーラ河畔で襲殺して大ハーンを称した。
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 イェスデル=ハーンの死後は嗣子のエンケ=ハーンが立ち、アリクブカ家の世襲はオイラート部の抬頭をもたらしたが、チンギス=ハーン家はアリクブカ家の内訌や諸勢力の抗争で没落し、宗室の系譜も曖昧となった。 エンケ=ハーンの嗣子とも伝えられるエルベク=ハーン(在:1394〜99)は暴恣の故に輿望に欠け、オイラート、或いはオルク=テムルに殺されたと伝えられ、エルベク=ハーンの子とも弟とも伝えられるクン=テムルも1402年にオルク=テムルに殺された。
クン=テムルの死後にオイラートが立てたダルバク=ハーン・オイラダイ=ハーンもアリクブカ家の人と伝えられますが、オイラダイ=ハーンの死後の戴主は、存在の有無も含めてトクトア=ブハ=ハーンを迎立するまで不明です。

オルク=テムル  〜1394?〜1408
 クィリチ=ハーン。オゴデイ家の人とも、エルベク=ハーンの兄弟とも伝えられる。 エルベク=ハーン・オルク=テムル=ハーンを殺した後モンゴル諸部を統合してオイラートと抗争し、ハミ王国の内訌にも介入した。 サマルカンドのティムールに臣属を求めたとの記録もありアルクタイの離叛で敗死した。

オルジェイ=テムル  〜1408〜1413
 ベンヤシリ=ハーン。エルベク=ハーンの子と伝えられる。 エルベク=ハーンに叛いてオイラートに討たれた為に西奔し、1398年にティムールに庇護された。 ティムールの東征に同道し、ティムールの死後はモグーリスタン=ハン国のビシュバリクに留まってモンゴルに支援を求め、アルクタイと結んで1408年に帰国して大ハーンとなった。
 オイラート・明朝と抗争し、1409年にケルレン河畔で明朝の丘福を大破したものの翌年には永楽帝の親征にオノン河畔で惨敗し、オイラートのマフムートに庇護を求めた。 アルクタイが明朝に帰順した後、マフムートに殺された。

アルクタイ  〜1434 ▲
 アロタイとも。アスト部(クビライの侍衛親軍/アスト軍団の裔)の首領。 東部漠南にあって明朝への朝貢で大勢力となり、クィリチ=ハーンより知院とされていたが、1408年にベンヤシリ=ハーンを奉迎してクィリチ=ハーンを滅ぼした。 オイラートと抗争する傍らで中国にも入冦し、1410年の永楽帝の親征では西行を唱えるベンヤシリ=ハーンと分離し、ハルハ川上流で永楽帝に敗れると再び帰順して和寧王に冊立された。 永楽帝の第二次北伐(1414)には協力したが、1416年にオイラートのマフムートを敗死させた後は中国への入冦を再開し、1422年以降の連年の北伐には悉く決戦を避けて勢力を温存した。
 オイラートとはクィリチ=ハーンの遺児アタイを立てて攻伐を続け、1425年にトゴンに大破されると北奔してウリヤンカ三衛を従えたが、畢にトゴンに惨敗して殺された。

トクトア=ブハ=ハーン  〜1451
 クビライ家の人と伝えられる。1409年以来、明朝の保護下に甘粛辺外に遊牧していたが、オイラートのトゴンによって1433年頃に迎立された。 トゴンの指導下にモンゴル高原を統合してその娘を第一皇后とし、トゴンの嗣子のエセンの時代にはエセンの南伐(土木の変)と連動して満洲に侵攻し、海西女真を大破して建州女真を南方に圧した。 明朝との交渉に失敗したエセンの権威低落に乗じ、嫡子以外を太子に定めてエセンと決裂した為に1451年に敗死した。

ボライ  〜1466
 モンゴルのハラチン部長。オイラートのアラク知院を敗死させ、モンゴル勢力を糾合してトクトア=ブハ=ハーンの遺児のマルコルギスを擁立した。 マルコルギスを小王子と呼んで自ら太師となり、ウリヤンカ三衛・女真を経略し、1462年より明朝への朝貢を再開した。 後に不和となったマルコルギスを襲殺したが、オンリウトのモーリハイに滅ぼされた。
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 以後暫くは、年少の大ハーンを擁立した有力首長が権勢を誇示する為に大ハーンを「小王子」と呼ぶ事が通例となり、明朝もこれに倣ってダヤン=ハーンダライスン=ハーンなどを小王子と呼んだ。

モーリハイ  〜1468 ▲
 モンゴルのオンリウト部長。 エセン=ハーンの死後はボライと並ぶ有力者で、オルドス方面にあってしばしば明朝にも辺寇した。1466年にボライ太師を滅ぼしてマルコルギス=ハーンの異母兄のモーランを擁立したが、翌年には不和となって襲殺し、アロチュベク=アルスランとの抗争で衰えてジョチ=カサル家のウネバラトに滅ぼされた。 モーラン=ハーンの死後、大ハーン位は十年近く空位となった。

マンドールン  〜1479
 チャハール部長。トクトア=ブハ=ハーンの異母弟。 1475年にオイラートのベク=アルスランに擁立され、その婿となるとともに正后マンドフイとの娘の1人をベク=アルスランに与えたが、後に不和となって敗死した。
 マンドフイの別の娘はトゥメット部長トローゲンの子/ホーサイに嫁し、又た死後にウネバラトとバト=モンケ(ダヤン=ハーン)の間でマンドフイの再嫁が争われた。ホーサイはダヤン=ハーン最大の支援者としてモンゴルの主権奪回を援けたが、権力の集中を図るダヤン=ハーンに滅ぼされた。

ボルフ  〜1487?
 バヤン=モンケ。トクトア=ブハ=ハーンの甥/ハルグチュクの子。エセン=ハーンの外孫。 生母の血統の故にエセン=ハーンの粛清を免れ、ウリヤンカ部長の婿となって部長嗣ぎ、オイラートのベク=アルスランによる迎立を辞退した後は晋王(ジノン)とされてオルドス地方に遊牧した。 マンドールン=ハーンが殺されるとイスマイルらに擁立されたが、後に不和となって河套地方に逐われた後、ヨンシエブ部に敗死した。

ダヤン=ハーン  1464?〜1487?〜1524?
 本名はバト=モンケ。ボルフの子。 幼時から他部族に出されていたが、マンドールン=ハーンが殺されるとその正后マンドフイ=ハトン(トゥメット部)と再婚してチャハール部長となり、父を逐ったオイラートのイスマイルから大ハーンに擁立された。 1486年にトゥメット部と連合してイスマイルの討滅に成功した翌年、ボルフが横死した事で唯一の大ハーンとなり、ダヤン=ハーン(大元ハーン)を称して明朝に入貢した。
 程なくトゥメット部を征服してモンゴルの主権者となり、第3子バルス=ボラトをトゥメット部長とし、次子ウルス=ボラトを晋王としてオルドス部を統治させたが、オイラートのイブラヒムと結んだ両部が叛いた為に1510年に親征してオイラートを大破し、モンゴルを6の万戸集団に再編して改めて諸子を分封し、チャハール部を大ハーンの直轄とした。 ダヤン=ハーンは又た長子相続を定めたが、嫡長子のトロ=ボラトが1523年に歿した為に嫡孫のボディ=アラクを継嗣とし、ダヤン=ハーンの死後に右翼を統べる晋王バルス=ボラトが簒奪するなど分裂傾向が露呈した。
 ダヤン=ハーンの定めた六万戸のうち、左翼のチャハール・ハルハウリヤンカは大ハーンが統べ、右翼のオルドス・トゥメット・ヨンシエブは晋王の統制に服し、各々数万騎を擁する大集団として清朝まで存続した。
この時の万戸は大集団に対する観念的な呼称で、チンギス=ハーン時代の万戸とは性質が異なります。万戸の下部機構は“オトク”と呼ばれ、チャハールは8オトク、ハルハは12オトクより成り、清代の盟・旗は、それぞれ万戸・オトクに対応して設定されました。
   
 バルス=ボラトはボディ=アラク=ハーンを逐ってサイン=アラク=ハーンを称した後、結集した左翼勢力に屈して僭号を廃したが、以後も右翼の帥として勢力を保ち、ウリヤンカ部が叛いた際には制圧に協力せず、バルス=ボラトの死後に漸く嗣子の晋王グン=ビリクが兵を動かした。 この頃には遊牧社会伝統の分割相続によって各首長の法的支配力も縮小しつつあり、例えばグン=ビリクの号令はオルドス部にのみ有効で、その嗣子のノヤンダラは直属の小部族の支配者に過ぎず、左翼の大ハーンについても状況は同様だったとされる。
ダヤン=ハーンの生没年については明朝資料を参考にしています。 因みに明朝資料では小王子バト=モンケの死後に弟のバヤン=モンケが即位してダヤン=ハーンを称した事になっていますが。 17世紀モンゴルで著された『蒙古源流』によれば、ダヤン=ハーンの生歿年は1474〜1517。1480年に即位して12歳でイスマイルを打倒した事になっています。 又た両資料とも在位年数は同じですから、在位期間だけは後世にしっかり伝えられていたようです。

 
 

チャハール部


 察哈爾。クビライの京兆領(安西王マンガラ・アナンタ父子に継承された)の後身。 チャハールは“(長城)近辺”の意味で、元来はシラ=ムレン上流域の名称。 1475年、部長のマンドールンが大ハーンに選出されてベク=アルスラントゥメット部と同盟し、マンドールン=ハーンの死後はバト=モンケ(ダヤン=ハーン)が迎立された。
 ダヤン=ハーンの六万戸編成で左翼の筆頭に置かれ、以後はダヤン=ハーンの直系が大ハーンとして継承し、右翼のアルタン=ハーンが強盛となるとダライスン=ハーンに率いられてラオハ=ムレン流域に東遷した。 17世紀になるとリンダン=ハーンの下で女真と抗争しつつ高原中部の右翼諸部を征服して西方に進出したが、リンダン=ハーンの歿した翌年(1635)に女真に降伏した。
 チャハール王は清朝の世襲親王として部民の保持を認められ、漠南24部の上位に置かれたが、三藩の乱に呼応して1674年に解体され、部民は張家口郊外でチャハール都統に管理される政府直轄の八旗と、従来の小組織を維持する旗に分けられた。 1914年に地名としてのチャハール特別区が設置されて張北7県・チャハール8旗・シリンゴル10旗を包括し、1928年には張家口を首都とする省となって西部を綏遠省(首都:フフホト)に割き、1952年の再編で主要部は内蒙古自治区に編入された。
 

ウリヤンカ部


 兀良哈・烏梁海。ウリヤンハイとも。ジェルメ・スベデイらを輩出したウリヤンカ部のうち、チンギス=ハーンの墓を守ったウリヤンカ千戸の後身とされる。ヘンティー山中に遊牧してダヤン=ハーンの左翼を形成した。 ダヤン=ハーンの死後に離叛して1531年に鎮圧・解体され、部衆は諸部族に分属された。
 

ハルハ部


 喀爾喀。ジャライル王家領の後身。本来は興安嶺のハルハ川流域に拠っていたが、15世紀中頃にはケルレン川流域にも進出していた。 ダヤン=ハーンの六万戸の左翼に属し、ダヤン=ハーンの子のアルジュ=ボラト・ゲレセンジェが首長とされ、後にそれぞれ内ハルハ・外ハルハと呼ばれた。
 アルジュ=ボラトの部は5オトクより成り、後にダライスン=ハーンの東遷に従って遼河河套とその西北一帯に拠り、内ハルハと呼ばれた。 その一部は1593年に女真のヌルハチに通好し、1605年にはヌルハチにコンドレン=ハーンの称号を奉り、残部も1619年に女真と同盟してその支配を受容した。
 7オトクより成るゲレセンジェの部はウリヤンカ部解体の後に高原中部のトゥーラ川流域にも進出して外ハルハと呼ばれ、アルタン=ハーンの死後は高原全域に拡大して漠北モンゴル族の呼称となった。 
 

オルドス部


 チンギス=ハーンの四大オルドの後身。もとはケルレン流域を本拠とし、歴代部長はチンギス=ハーン廟の廟守として“ジノン(晋王)”を称した。 オイラートが優勢となった15世紀には河套地方に南下し、これより同地方はオルドスと呼ばれるようになった。 エセン=ハーンの死後もオイラートのアロチュベク=アルスランに従い、そのためダヤン=ハーンに征服された後もオイラートの影響が強く、16世紀初頭にダヤン=ハーンの次子ウルス=ボラトを殺してトゥメットヨンシエブと連合して叛いた。
 1510年頃にダヤン=ハーンに討平されて右翼三万戸の1つに再編され、右翼を統べるバルス=ボラトに分与された事でジノンの称号は副王の意味を帯びるようになった。 バルス=ボラトの孫のノヤンダラの時代には甥のセチェン=ホンタイジと共にアルタン=ハーンに従ってその征戦を大いに輔け、しばしば明朝にも入冦して“北虜”の一翼を担ったが、1571年にアルタンの入貢に従って都督同知とされ、馬市を通じて平和的交渉を保った。
 17世紀に高原部に進出したチャハール部に服属した後、1635年にリンダン=ハーンを追う清軍に帰服し、7旗に再編されて伊克昭盟(イェヘ=ジョー)を構成し、綏遠省時代(1928〜49)を経て2002年にオルドス市に再編された。
 

トゥメット部


 土黙特。モンゴルジンとも。チンギス=ハーンに姻族とされたオングート族の後身。 15世紀後期の部長トローゲンはオイラートのベク=アルスランと結んでチャハールのマンドールンを擁立し、マンドールン=ハーンが殺されるとイスマイルと結び、ボルフを立ててベク=アルスランを滅ぼした。 嗣子のホーサイはマンドールン=ハーンの婿でもあり、ダヤン=ハーンによるイスマイル攻滅を主導してモンゴルの実権を掌握したが、程なくダヤン=ハーンに征服されてその第3子バルス=ボラト領とされた。
 16世紀初頭にオルドス部と同調して離叛し、ダヤン=ハーンに鎮圧されて右翼万戸の1つに再編された。 アルタン=ハーンの下で頻りに中国を寇掠して“北虜”の中心となったが、後に朝貢貿易を以て和し、17世紀にチャハール部に併合された。 現在はオルドス東部に左右2旗が存在する。
 

ヨンシエブ部


 コデン=ウルスの後身。名称は永昌府に由来する。エセン=ハーンの死後もオイラートの影響が強く、1487年頃に河套に拠るボルフ晋王を襲殺し、16世紀初頭にもオルドス部に同調してダヤン=ハーンに叛いた。 鎮圧された後はハラチン・アストなどを主体として右翼万戸の1つに再編された。

ハラチン部


 喀喇沁。クビライの侍衛親軍/キプチャク軍団の後身。15世紀半頃にはボライに従って一時は大勢力となり、後にダヤン=ハーンの孫のラオ=バートルが分封された。 ラオ=バートルは宣府辺外に遊牧してアルタン=ハーンと行動を与にし、その孫の白洪大の代には朶顔衛を征服する勢威があった。17世紀にチャハールのリンダン=ハーンに征服され、現在も内蒙古自治区赤峰市内に喀喇沁旗の名が残っている。
 

オンリウト部


 東方三王家の後身の総称。フルン=バイル地方にあってハチウン系のオンリウト、ジョチ=カサル系のホルチンなどを含んだ。エセン=ハーン死後の内戦でハラチン部と覇を競い、後にオイラート系首長との抗争で没落した。
 

ホルチン部


 科爾沁。東方三王家のジョチ=カサル家の後身。15世紀頃には嫩部・阿魯部など諸部に分れ、やがて海西女真のイェへ部と結んだ嫩江・洮児河流域の嫩部がオンリウト系では最も有力となった。 16世紀末のグレ山の役の後はヌルハチと修好し、1624年にはチャハール部のリンダン=ハーンの拡大に対してヌルハチに降って姻族・同盟者として遇され、1626年に部長のオーバがトシェト=ハーンに立てられた。 以後は清朝一代を通じて皇族に準じる第一級の外戚とされ、清朝滅亡後も左翼3旗・右翼2旗が置かれ、それぞれ通遼市・ヒンガン盟に属している。
 

三衛


 14世紀末の天元帝の敗滅で明朝に帰順し、嫩江・洮児河流域に衛所が置かれたウリヤンカ(朶顔衛)・オンリウト(泰寧衛)・オジエト(福餘衛)の総称。 中国からは最南の朶顔衛に因んで朶顔三衛・ウリヤンカ三衛と呼ばれ、モンゴルは最北の福餘衛を以て山前の六千オジエトと呼んだ。
 15世紀に入ると女真に圧されて長城辺外に南下し、その時々の高原部の有力者に従って中国・女真を侵し、福餘衛は15世紀半頃にチチハル方面の故地に遷移したと伝えられる。 16世紀半ばにはチャハール部のダライスン=ハーンに服し、やがて泰寧衛は内ハルハに、福餘衛はホルチン部に吸収され、朶顔衛はホルチン家の姻族として存続した。
 
 
 

アルタン=ハーン  1507〜1582
 トゥメット部長。 晋王バルス=ボラトの子。ダヤン=ハーンの孫。1542年に兄グン=ビリクが死ぬと右翼の盟主となって大ハーンを凌ぐ勢威があり、この頃に右翼の代表としてトシェト=セチェン=ハーンの称号を認められたダライスン=ハーンが東遷したのち高原東半を掌握し、頻繁に中国を寇掠する傍らで西方経略を進め、1552年にオイラートのホイト部を大破してカラ=コルムを押え、高原全域を支配した。 以後も数次に亘って西征軍を発し、1574年頃にはカザフ族や西トルキスタン、チベットにも勢威を及ぼしていた。
 中国に対しては朝貢を求めて1530年(嘉靖9)よりほぼ連年侵寇し、これには来奔した軍戸や白蓮教徒の嚮導もあり、1542年の山西劫掠では10衛18州県の20余万人を殺し、1550年(嘉靖29)には北京を攻囲したものの朝貢の承認は得られなかった。 又た中国からの逃民や掠取者に農耕を行なわせ、漢人入植地に設けた中国式都市バイシンは交易拠点に成長し、1565年に豊州潭に建設された最大のバイシンはフフホト(=呼和浩特/青い街)と称された。 1570年に孫のバーハン=ナギが中国に亡命した事を機に白蓮教徒の送還などを条件に明朝と和睦し、1571年に順義王に封じられて居城のフフホトには帰化城の名を受け、馬市による定期的交易も認められた。
 オルドス部のフトクタイ=セチェンを用いたチベット経略の結果チベット仏教が導入され、1578年には青海でソェナム=ギャムツォとの会見を果たしてダライ=ラマの称号を与え、自身はクビライ=ハーンの再来として転輪聖王(チャクラ=ヴァルティン=ハーン)の称号が贈られた。
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 順義王家は明朝との定期市や朝貢で巨富を得た一方で掠奪戦の停止から一般部民の不満が鬱積し、継承毎の紛争もあって急速に弱体化したが、アルタン=ハーンの孫がダライ=ラマIV世とされた事でチベット仏教/ゲルク派のモンゴルでの普及は大きく前進した。

フトクタイ=セチェン  1545〜1587 ▲
 アルタン=ハーンの甥/晋王ノヤンダラの甥。 アルタン=ハーンの西征に従って1562年にイルティシュ流域にトルグート部を大破し、1566年に青海地方を征服し、1572年にはチベットのカム(西康)まで進出した。 カザフ族に遠征した弟のブヤンダラとサインダラがシル=ダリア河畔にアク=ナザル=ハンを大破した帰途に敗死すると、翌年(1573)自ら西征してカザフ族を大破し、帰途にオイラート遠征に加わった。
 政治に寛容で文化に理解を示し、アルタン=ハーンの朝貢実現に尽力して明朝より龍虎将軍に叙され、チベット遠征の後はチベット仏教のゲルク派に帰依してアルタン=ハーンにも仏教導入を進言し、後にホンタイジの称号を贈られた。

ダライスン=ハーン  〜1547〜1558
 チャハール部長。晋王バルス=ボラトと争ったボディ=アラク=ハーンの長子。 ダヤン=ハーンの曾孫。大ハーンを継承するとアルタン=ハーンの勢威を懼れ、チャハール部と内ハルハをを率いて大興安嶺東南麓に遷った。

トゥメン=ハーン  〜1558〜1592
 ジャサクト=ハーン。興安嶺東麓に遷ったダライスン=ハーンの長子。女真諸部を圧し、アルタン=ハーンの帰順後も明朝に称藩しなかった為に馬市が認められず、頻繁に遼東へ侵寇した。
 死後は長子のブヤン=セチェンが大ハーンを継承した。

リンダン=ハーン  1592〜1603〜1634
 フトクト=ハーン。モンゴル最後の大ハーン。ブヤン=セチェン=ハーンの孫。 1617年に遼東広寧での馬市を明朝に認められたが、女真のヌルハチの抬頭で対明交易と諸族支配が不安定となり、1625年のホルチン部攻略で介入したヌルハチに敗退した後はモンゴル高原の攻略に転じた。 右翼諸部(ハラチン部トゥメット部オルドス部)を征服して明朝への朝貢権を独占し、外ハルハのトゥメンケン=ホンタイジを臣属させてモンゴリアのほぼ全域を支配したが、カルマ派支援の為のチベット遠征を女真に乗じられ、自身も遠征途上のシラ=タラ草原(甘粛省永昌東郊)で病死した。

エジェーイ  〜1641
 リンダン=ハーンの長子。生母は海西女真のイェへ=ナラ氏。 父の死と、後金によるフフホト占拠の翌年(1635)に後金に降り、ホンタイジに元朝伝来の印璽を献上した。 翌年のクリルタイではモンゴル族の代表としてホンタイジにボグ=セチェン=ハーンの尊号を奉じ、ホンタイジの皇女マカタ=ゲゲを娶って和硯親王に封じられ、赤峰地方のチャハールの旧牧地をチャハール=ウルスとして特に認められた。

アブナイ  〜1675 ▲
 エジェーイの弟。1645年にマカタ=ゲゲを再娶し、1647年に和硯親王を襲いだ。 順治帝・マカタ=ゲゲ兄妹の相次ぐ死で清室と疎遠となり、1669年にオボーイに連坐して爵位剥奪のうえ瀋陽に監禁され、後に甥のブルニが清朝に叛いたために殺された。

ブルニ  〜1675 ▲
 和硯親王エジェーイの子。1669年に叔父のアブナイが廃されて和硯親王を襲いだ。 1675年に三藩の乱に呼応したが、殆どのモンゴルの支持を得られずに敗死し、チャハール部は解体された。 このため漠南のモンゴルは帰属意識の訴求先を失い、康熙年間のガルダンの独立戦争を機に順次清朝に臣属していった。

 
 
 

外ハルハ

 ダヤン=ハーンの定めたハルハ万戸のうち、ダライスン=ハーンの東遷に従わず漠北に残留した7ハルハを指す。 アルタン=ハーンの西征でオイラートを西退させた後は漠北全域に拡がり、漠北モンゴル族の別称ともなった。 アルタン=ハーンに従ったアバダイ=サイン=ハーンの死後にトシェト・ジャサクト・チェチェンの3ハーン家が分立してトシェト=ハーン家を宗家とし、右翼のジャサクト=ハーン家がオイラート経略を担当した。 チャハール部の降伏によってトシェト=ハーン家と左翼のチェチェン=ハーン家が清朝に通好した一方で、1640年にオイラートとも講和して『モンゴル=オイラート法典』を成立させた。
 17世紀後期にジャサクト=ハーン家とその分家のアルタン=ハーン家の内訌がジャサクト=ハーン家とトシェト=ハーン家の対立に発展し、又たバイカル湖周辺の帰属問題でロシアとも対立した。 ハルハ諸家の紛争は1686年のクレーン=ベルチル会議でも解決せずオイラートのガルダンの侵攻を惹起し、数十万のハルハ人が漠南に逃れて清朝に臣属し、ガルダンの敗亡後に漠北に帰還した。
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 当初3部55旗だったハルハは1732年にサイン=ノヤン部が分離されて4部4盟74旗となり、1739年にハンガイ山脈南麓のブヤント川をオイラートとの国境に定め、サイン=ノヤン部とジャサクト=ハーン部はウリヤスタイ将軍に、チェチェン=ハーン部とトシェト=ハーン部はクーロン辧事大臣に管轄されて18世紀末には83旗となった。
 清末に漢人の入禁解除による牧地の侵食と仏僧の優遇停止によって反清・反漢感情が高揚し、1911.12にジェブツンダンパVIII世を元首とするボグド=ハーン政権(〜1924)が成立してモンゴル国と号し、モンゴル人民共和国を経て1992年にモンゴル国となった。 現在のモンゴル国の国民は殆どがハルハ人で占められ、又た内モンゴル自治区のハルハ左翼旗・右翼旗はガルダン敗亡後も北帰しなかった者の裔にあたる。
 

アバダイ=ハーン  1554〜1588
 ハルハのトシェト=ハーン家の開祖。ダヤン=ハーンの曾孫。 アルタン=ハーンのオイラート遠征に従ってホシュート部を大破・臣属させた。 アルタン=ハーンの影響でチベット仏教に帰依し、1585年にカラ=コルムの故地にエルデニ=ゾー寺院を建立した翌年にダライ=ラマIII世を招請してオチルト=ハーンの称号を贈られ、自らはサイン=ハーンを称して諸ハーン並立の端緒を開いた。
 アバダイ=ハーンの直系はトシェト=ハーン家を興して高原中部を占め、従兄のバヤンダラの子/ライフルはハンガイ山に拠ってジャサクト=ハーン家を興し、又た左翼にはアバダイ=ハーンの従弟の一門がチェチェン=ハーン家を興し、漠北には3ハーン家が並立した。

トゥメンケン=ホンタイジ  〜1637
 アバダイ=ハーンの甥。トゥーラ渓谷に拠り、当時の漠北で最も勢威があった。 チベット仏教のカルマ派を保護し、漠南に進出したリンダン=ハーンに服属してその征戦に従い、リンダン=ハーンの死後は青海でチョクト=ハーンを称してチベット遠征を継続・達成した。 ゲルク派を弾圧した為にオイラートと対立し、青海西方のウラン=ホシューでホシュートジュンガル連合に敗死した。

ライフル=ハーン
 アバダイ=ハーンの従兄の子。外ハルハの右翼を統べてジャサクト=ハーン家を興した。宗家のアバダイ=ハーンの死後、従弟のショロイ=ウバシを先鋒としてオイラート討伐を継続し、ホシュート部を服属させてゲルク派に改宗させた。

ショロイ=ウバシ=ホンタイジ  〜1623 ▲
 ライフル=ジャサクト=ハーンの従弟。ライフルの先鋒となってオイラートを伐ち、アルタイ地方にアルタン=ハーン家を興し、ロシアとの交渉ではモンゴル王と呼ばれた。1617年よりオイラート攻略を再開し、イルティシュ河畔で敗死した。

エリンチン=ロブザン=タイジ
 第三代アルタン=ハーン。ウバシ=ホンタイジの孫。 1662年に宗家のワンチュク=ジャサクト=ハーンを襲殺し、そのためチャグンドルジ=トシェト=ハーンらに討たれて1667年にジュンガル部長センゲに捕えられ、ジャサクト家に徙された。 後にワンチュクの弟のチェングン=ジャサクト=ハーンにも叛いてエニセイ上流域に敗走したが、この間にトシェト領に流入したワンチュクの旧民の返還にトシェト家が応じなかったことで両家に攻争が生じた。

チャグンドルジ=ハーン  ▲
 トシェト=ハーン。アバダイ=ハーンの孫。 ジャサクト家の内訌で流入した部民の返還に応じなかった事からジャサクト家と確執を生じ、同家を宗主とするオイラートにも攻争が波及した為に清朝が介入して講和が図られた。 1686年に両当事者のほか清朝の理藩院尚書アラニ、ダライ=ラマV世の名代のガンデンチパ、ハルハ左翼の宗主ジェプツンダンバI世らが臨席してクレーン=ベルチルで講和が締結されたが、チャグンドルジは和約を履行せず、翌年には履行を逼るチェングン=ジャサクト=ハーンの一行を襲殺し、このとき同行していたジュンガル部長ガルダンの弟も殺された。
 嘗てガルダンとホシュート部長オチルト=ハーンの抗争でオチルト=ハーンを支援してよりガルダンとは確執があり、弟の死を以て興されたガルダンの報復戦は徹底的なものとなり、チェチェン領やエルデニ=ゾーをも劫掠した。 このため大敗したチャグンドルジだけでなくシラ=ジャサクト=ハーンを含む数十万のハルハ人が漠南に逃れ、1691年にチャグンドルジ=ハーン・ジェブツンダンバI世はハルハの諸領主を従えて清朝に臣従した。

ジェプツンダンバ=フトクト
 ボグド=ゲゲーン。1634年にモンゴルで歿した、チベット仏教ジョナン派(サキャ派の支派)の学匠ターラ=ナーラの称号。翌年に生まれたゴンボ=トシェト=ハーンの子(チャグンドルジの弟)がその転生とされ、1639年にトシェト・チェチェン両家の元首とされた。 1649年にチベットに入ってパンチェン=ラマIV世より正式に受戒され、ゲルク派への転宗を条件にダライ=ラマV世からジェプツンダンバI世と認定され、帰国後はエルデニ=ゾー寺院に入って布教に尽力した。
 ジュンガル部長ガルダンの侵攻に際しては諸王公に清朝への臣属を勧進して北京との交渉を仲介し、1701年に帰漠するまで常に康熙帝に扈従してフトクトの称号を与えられ、北京とラサの交渉を仲介するなどジェプツンダンバの地位を確固たるものとした。
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 II世もトシェト=ハーン家の出で、ハルハの独立運動を阻止して清朝との関係維持につとめ、地位の高揚にも成功したが、晩年にはモンゴルのロシア帰属を謀った嫌疑があり、その死に前後して反清的王公の急死が続いたために暗殺説も存在する。 ジェプツンダンバの政治力の拡大は転生権の獲得紛争を激化させ、モンゴルの独立運動に対する警戒もあり、III世以降は清朝によってチベットの俗人に求められた。
 VIII世は辛亥革命の同年末にモンゴルが独立を宣言すると大蒙古皇帝としてボグド=ハーンを称し、その死後はモンゴル政府による転生者の認定は行なわれていないが、ラサ政府はダライ=ラマXIV世の認定と並行して1936年にリタン生まれのジェプツンダンバIX世を認定した。 IX世はデプン寺での修行後に還俗して1960年のチベット動乱でインドに亡命したが、民主化したモンゴル国の照会に応じたダライ=ラマXIV世によって再度活仏として承認され、モンゴル国籍を取得したのち2012.03に歿した。

チャンジャ=フトクト
 ゲルク派の転生活仏の1人。17世紀にパンチェン=ラマIV世に活仏として認定されたロサン=チョエデンが、青海のチャンジャ地方の出身だったことに由来するともいう。 このI世はトシェト=ハーン家を中心とした外ハルハの内訌に際してダライ=ラマV世より北京に派遣され、康熙帝に親任されてドロン=ノールに勅願の彙宗寺を建立されてその座主とされ、1701年にはジャサク=ラマ(総監督)に任じられ、漠南のチベット仏教の統括者としての地位を確立した。 又たII世は歴代最高の学識徳行者と称され、1731年にドロン=ノールに勅願の善因寺が建立されてその座主とされた。

サイン=ノヤン
 アバダイ=ハーンの弟を祖とする。18世紀初頭の当主ツェリンは康熙帝の第十皇女を娶って多羅郡王に封じられ、1725年に雍正帝の北防策の一環としてトシェト=ハーン家から独立して1盟を形成した。 1731年、靖辺大将軍フルダン軍を全滅させたジュンガルのツェリン=ドンドブを撃退して最高位の和硯親王に進封され、翌年再びジュンガル軍をエルデニ地方で大破して“超勇”の号を与えられた。 1733年より定辺左副将軍としてボブドに駐在してジュンガルとの国境画定交渉にあたり、1739年にアルタイ北麓〜ブヤント川を以て画境とした。


 

ドゴイラン運動
 モンゴル牧民の、王公に対する反対運動。ドゴイランは円・仲間を意味し、訴状の訴訟人を環状に記して首謀者を隠匿したことに由来し、1858年にオルドスのイヘ=ジョー盟ウーシン旗で盟長・旗長に対して税役の減免を要求した事が嚆矢とされる。 当時のモンゴル牧民は清朝による漢人入植の解禁と漢人資本の進出で著しく窮乏していたが、買爵に狂奔して漢人の進出を積極的に推進したとして王公を批判し、下級貴族・僧侶が加わることもあり、王公を庇護する清朝ともしばしば対立した。
 1860年にトゥメット左旗の牧民が北京に直訴して棄却されると、1863年には武装蜂起して首長を殺して平定には1年以上を要し、漠南では官吏・地主・高利貸に対する漢人の起義も発生し、1860年にジョー=モド盟で発生した乱は東部一帯に拡大し、1866年に稍く鎮圧された。 20世紀に入る頃には義和団の影響を受けて仇教運動へと変質し、辛亥革命後も農地開墾に反対して行われた。

ボグド=ハーン  1869〜1911〜1919/1921〜1924
 チベット人。1874年にダライ=ラマXII世によりジェプツンダンバVIII世と認定された。 1911年末にロシアの支援でモンゴルが独立宣言をした際にモンゴル皇帝に推戴されてボグド=ハーンと号したが、国際情勢に配慮したロシアの事情で内モンゴルとの合作が否定され、1913年の中露協定で中国の承認下の自治政権に貶され、1919年にロシアの十月革命に乗じた北京政府軍の進駐によって退位・軟禁された。 モンゴルに進駐したロシア白軍に対する抵抗運動からモンゴル人民革命政府が成立すると皇帝に擁立され、ソ連の宗教政策によって実質が全く伴わないまま1924年に歿し、政権はモンゴル人民共和国に改組された。

バボージャブ  1875〜1916
 巴布扎布。ゾスト盟トゥメット左翼旗(遼寧省阜新)の人。ボグド=ハーン政権の募兵に応じて1軍の将に進んだが、露蒙中の三国会談で勢力圏が確認された後も内モンゴルから撤収しなかった為に討伐対象とされた。 そのため日本に支援を求めるとともに満洲の宗社党と結び、1916.07にハルハ河畔で挙兵したが、袁世凱の死によって日本が支援を停止し、撤退途上の林西で戦死した。


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