明朝.2

正統帝  成化帝  弘治帝  正徳帝  嘉靖帝

 

英宗 / 正統帝  1427〜1435〜1449/1457〜1464
 明朝の第六代天子。元号は正統・天順。諱は祁鎮。宣宗の嫡子。治世初期は張太皇太后の垂簾と楊士奇らの輔弼で安定したが、元服後は宦官の王振を信任して政情が紊乱し、各地に民乱が続発した。 又たオイラートの入寇も増加し、正統14年(1449)にエセンが南下すると王振の進言で親征したが、土木堡で大敗して捕虜とされた。 エセンに攻囲された北京では景帝が立てられてエセンを撃退し、英宗は翌年の和議で送還されて南宮に幽閉され、1457年の奪門の変で復辟して天順と改元したものの権臣の専横に苦慮した。

王振  〜1449 ▲
 蔚州(河北省)の人。自宮宦官となった元学士で、東宮時代の英宗に侍講したことから即位に伴い司礼太監とされ、正統7年(1442)の張太皇太后の死と、宰輔の多くが老病から致仕したことで朝政を壟断した。 北人の多くを起用抜擢して南人、殊に江西閥を排斥し、正統14年(1449)にオイラートのエセンが蔚州に迫ると朝議を覆して親征を強行させたが、土木堡で殺された。
   
土木の変 (1449):オイラートのエセンの入冦に対して発された英宗の親伐軍が、長城に接する土木堡(河北省懐来)で殲滅された戦。 エセンの入冦に対して朝廷では講和論が主潮的だったが、郷里が征路の近傍に控える司礼太監王振の主導で親征に決し、オイラート3万に対して50万と称する大軍が発された。 強行軍の末に大同軍の惨敗で怯えた王振の主唱で退却に転じたものの、土木堡で捕捉・殲滅されて王振をはじめ高官・将軍の殆どが戦死しただけでなく、英宗が捕虜となる未曾有の事態となった。
 エセンの入冦は、馬市での朝貢の人員数が大きく制限された事と通婚が拒まれた事を直接の原因とし、北京城を攻囲したものの景帝が立てられた為に英宗を人質とした有利な交鈔が出来ずに撤退し、翌年には利用価値を失った英宗を送還してほぼ無条件で明朝と講和した。 尚お、明朝との交渉の不首尾でエセンの威信は低落し、トクトア=ブハ=ハーンとの決裂とエセンによる簒奪を招来した。

張輔  1375〜1449
 祥符(河南省開封県)の人。字は文弼。栄国公張玉の嗣子。 靖難の役で燕王に従い、後に妹が帝妃とされた。永楽4年(1405)に征夷将軍とされてベトナムの胡朝を滅ぼし、交趾布政司を設置してベトナムを直轄化し、陳氏が挙兵すると再征してベトナム鎮定に転戦した。 成祖の北伐にも従い、塞外に深進しながらもアルクタイを捕捉できなかった第五次北伐では、成祖の体面を慮って少数での急追を提案したものの聴かれなかった。 仁宗が即位して中軍都督府事とされ、漢王討伐でも宣宗に随行し、英宗の世には五臣に数えられ、土木の変で戦死して定興王に追封された。

麓川の乱  1422〜1449
 雲南西辺でのタイ族系マオ=シャン族のムンマオ王国による抗戦。 一帯は古くからタイ族の住地で、洪武15年(1382)にモンゴルの梁王が討平されると邦君の思倫発が明朝に帰順して麓川平緬宣慰使(土司)とされたが、統合の再興を進めて紛争が絶えなかった為に麓川(瑞麗)と平緬(隴川)が分離され、これを不服として洪武29年に叛き、沐英に討平されて孟養(景洪市)に逐われた。
 思倫発の子の思任発は永楽20年(1422)頃から失地回復を進めて雲南の内地をも侵掠し、正統3年(1438)には討伐の沐晟(沐英の嗣子)を撃退したが、6年に兵部尚書王驥に大破されてビルマに遁れた。 王驥は8年にも麓川に遠征し、思任発を庇護するビルマのアヴァ朝にも威を示したものの制圧には至らず、以後は思任発の子の思機発が孟養に拠って抵抗を続けた。 思機発は13年に復た王驥に伐たれてビルマに遁れ、明軍は麓川の確保には成功したものの思機発の子の思禄発の抗戦や兵站の問題から孟養の安堵と相互不可侵を約して班師し、景泰5年(1454)に思機発がビルマから護送され、7年に思氏が初めて朝貢した。

葉宗留  〜1448
 慶元(浙江省)の鉱夫。当時の浙江は中国の銀経済化に伴って銀山・農民に対する搾取が最も甚だしく、鉱山の独占によって失業した鉱夫の鉱賊化が深刻だった。 葉宗留らは正統7年(1442)頃に官憲の追捕を逃れて銅塘山に拠り、雇用の再開が聴かれないと12年には福建に逃れて慶元を陥し、各地で貪官豪富を襲って貧民に配分した為に乱は浙江・江西・福建各地に拡大した。 葉宗留は中国史上でも代表的な鉱賊とされ、葉宗留が戦死した後も乱は継続されたが、地域叛乱の域は出ずにケ茂七との連和も確認できず、景泰元年(1450)までに鎮圧された。

ケ茂七  〜1449 
 建昌(江西省南城)の人。後に沙県(福建省)に遷居した。 当時の福建は既に人口比の可耕地が少なく、農村では特産品栽培が活発に行なわれたが、貨幣経済の浸透とともに地主に対する隷属化が殊に強まり、特殊な風習を交えて佃戸の負担が厳しかった。 ケ茂七は葉宗留の乱に際して延平府沙県の総甲とされたが、総甲組織を利用して福建独特の旧弊である“冬牲(地主への副租)”の全廃に成功し、正統13年(1448)には租米運輸を地主負担とすることを求め、県が地主の訴訟を認めたことで知県殺害に至った。 ケ茂七は朝廷の招撫に対し、徭役3年の免除が却下されると剗平王を称し、周辺の農民・鉱賊が加わって数十万の勢力に成長した。
 ケ茂七が延平府攻略で敗死した後、余党は山間部や江西・広東で活動を続けて鉱賊とも提携し、耆老や郷紳層が朝廷に与した為に殲滅されたが、同時期の土木の変とともに明朝中期の国家的事件と認識された。 又た農民が明確な要求を標榜し、農民闘争として終始した最初の抗租としても注目される。

周忱  1381〜1453
 吉水(江西省)の人。字は恂如。永楽2年(1403)の進士。宣徳5年(1430)より江南の応天巡撫を兼ねながら工部侍郎・戸部尚書・工部尚書を歴任し、江南の公田の高額税率の是正や加耗の減額、租税の一部銀納を認める金花銀の創始の他、糧長制や漕運法の改正など税糧制度全般を整備した。 水利事業にも成功し、税収を確保しつつ租税負担の不公平を緩和した事で当時最も有能誠実な財務官と称されたが、銀経済の制度化は庶民の生活を大いに圧迫した。

王直  1379〜1462
 泰和(江西省)の人。字は行倹。賓家の出ながらも永楽元年(1403)に進士に及第し、仁宣の世に翰林学士とされ、正統8年(1443)に吏部尚書に進んで方面官(布政司使・按察使)の任用権を吏部に収めた。英宗の北伐を極諫し、土木の変の後は英宗の帰還に尽力した。

王翺  1383〜1467
 塩山(河北省)の人。字は九皐。永楽13年(1415)の進士。御史官を歴任して主に四川方面の綱紀粛正で知られ、正統7年(1442)に転じて遼東の軍務を提督し、山海関・開原の辺牆の修築や三衛の討伐で右都御史に進み、14年(1449)にはモンゴルのトクトア=ブハ=ハーンから広寧城を堅守した。 太子太保・両広総督などを歴任して景泰4年(1453)に吏部尚書となり、奪門の変の後は李賢と結んで石亨に抗った。

石亨  〜1460
 渭南の軍戸。騎射に善く、軍功によって累進し、正統の末期には偏将でありながら総兵官楊洪に亜ぐ声望があり、正統14年(1449)に三衛を撃退して都督同知に進んだ。 同年、大同でオイラートのエセンに大敗して北京に奔還した為に投獄されたが、間もなく兵部尚書于謙の進言で赦され、五軍営を領してエセンの撃退に大功があった。 于謙が京営を再編して団営を設けると総兵官として提督したが、封賞の加増を求めるなど恃功驕慢となって于謙と反目し、奪門の変では宮門を封鎖して英宗の復辟を実現し、首勲として忠国公に封じられた。 于謙らを処刑したのち一族子弟4千人余を登用するなど刑賞・人事を横断して英宗に憎まれ、内外から弾劾されて天順4年に獄死した。
   
奪門の変 (1457):景帝からの簒奪による英宗の復辟。景帝の治世は于謙らによって体制の再編が進められていたが、人事や賞与などで于謙と対立した石亨徐有貞曹吉祥らが英宗の周囲に集まり、景帝の病臥に乗じてモンゴル来襲の虚報を以て夜間に諸門を制圧し、英宗の復辟を実現したもの。 景帝派の于謙・王文・太監の王誠らは逮捕処刑され、景帝も幽閉されたまま間もなく病死した。

曹吉祥  〜1461 ▲
 灤州(河北省)出身の宦官。王振に阿附して麓川の討平・兀良哈遠征、ケ茂七の鎮圧などに監軍として出征し、景泰年間に京営を分掌した。 奪門の変の後は司礼掌印太監とされ、石亨と与に京営を総督して朝政を壟断し、石亨の獄死後に粛清を懼れて一部禁兵と結んで皇城で挙兵したが、ただちに鎮圧されて磔刑に処された。

徐有貞  1407〜1472 ▲
 呉県の人。字は元玉。初諱はf。宣徳8年(1433)の進士。 経学のみならず諸学に通じ、又た功名を好んだという。景帝が即位すると行監察御史に叙され、景泰3年に左僉都御史に抜擢されて広済渠を拓き、黄河による山東の洪水被害を低減したものの、土木の変に際して南京遷都を唱えていた事から景帝に疎まれた。 奪門の変に参与して兵部尚書・華蓋殿大学士とされ、于謙・王文らを排斥した後は御史と結んで石亨・曹吉祥らの排斥を図り、そのため枉陥されて雲南の金歯衛(保山市)に謫された。石亨らが誅されると李賢・王翺らの進言で赦された。

薛瑄  1392〜1464
 河津(山西省)の人。字は徳温、号は敬軒。 幼時より神童と称され、郷試の第一等となった翌年(永楽19/1421)に進士に及第した。 王振に忤って死罪とされたものの輿望を憚られて赦され、奪門の変後に礼部右侍郎・翰林学士に昇ったが、石亨・曹吉祥らの壟断で致仕・帰郷した。程朱の学を継承して「理は気の中に在る」と主張し、「理は気の先に在る」とした朱熹の説を修正した。

呉与弼  1391〜1469
 崇仁(江西省)の人。字は子傅、号は康斎。独学で朱子学を修め、門弟を指導しつつ朱子学の実践に腐心し、生涯仕官も著述もしなかった。門下からは陳献章・婁諒らを輩出し、明代哲学の淵源とされた。

景帝 / 景泰帝  〜1449〜1457/1457
 明朝の第七代天子。諱は祁ト。英宗の次弟。土木の変で英宗が囚われると、南遷論を排した兵部侍郎于謙らによって立てられ、翌年にはオイラートと講和し、送還された英宗を太上皇に奉じて幽閉した。 于謙を信任して北防体制の再編や綱紀粛正を進めたが、景泰3年(1452)に英宗の太子を廃して実子を立てる事を閣僚に諮った際に金銀150両を下賜した事は、天子による贈賄として非難された。 綱紀粛正は不平分子を英宗の下に結集させ、8年に病臥した際に奪門の変で廃黜され、程なく病死した。 諸王の格式で皇帝陵を避けて埋葬され、明末の弘光元年(1645)に代宗の廟号が追贈された。

于謙  1398〜1457 ▲
 銭塘の人。字は廷益。永楽19年(1421)の進士。 宣徳5年(1430)に兵部右侍郎とされ、正統13年(1448)に左侍郎に転じ、間もなく兵部尚書に進んだ。 土木の変で噴出した南遷論を抑えて景帝を立て、王振の朋党を粛清するとともに北京を堅守してオイラート軍を撃退し、エセン以外のモンゴル王公との和議を進める事でエセンを孤立させ、翌年(1450)に英宗の送還を含む和議を成立させた。 英宗を軟禁して景帝の寡頭体制を確保する一方で崩壊した京営に代る団営制の創始や北防体制の再建・綱紀粛正を進めたが、景帝の病臥に乗じた奪門の変で逆臣として棄市された。 成化年間に輿論の昂揚で名誉が回復され、弘治年間には粛愍と追諡され、万暦年間に忠粛と改められた。

憲宗 / 成化帝  1447〜1464〜1487
 明朝の第八代天子。諱は見深。英宗の長子。生来の吃音と病的な小心から廷臣との接見を嫌い、卑俗的なチベット仏教や道教に耽溺して内廷に篭り、内閣に対する太監の優越が確立した。 殊に西廠の新設と団営の掌握は宦官権力を著しく強化し、又た後宮に絶対的な権威を保つ万貴妃が宦官の汪直らと結んで朝政を壟断した。
 当時は建州女真やモンゴルの活動が活発化し、遼東辺牆の構築や九辺鎮の整備などの対応に追われた。

万貴妃  1428〜1487 ▲
 諸城(山東省)の人。 罪人の娘として幼齢で入内し、英宗の母后/孫太后に仕えて19歳のとき2歳の憲宗の侍女とされた。憲宗が即位すると貴妃とされ、皇后の廃立を行なうなど汪直を大きく凌ぐ権勢を有し、成化2年(1466)に生後間もない皇子が歿した後は、妃嬪・女官で孕んだ者は悉く殺したという。 難を逃れて太子とされた祐樘(孝宗)に菓子を勧めたところ、毒殺を指摘されたために憤激して急死し、落胆した憲宗もまもなく歿した。
 憲宗がモンゴルの入冦を恐れた為、その出駕時には常に北方を鎮護する毘沙門天を装って同行したという。

汪直
 大藤峡(広西省)の人。瑤族出身の宦官として万貴妃に仕え、憲宗にも重用されて成化13年(1477)には西廠の初代提督とされ、腹心の王越・陳越を用いてしばしば大獄を起こしてその禍害は天下に憎まれた。 又た12団営を総督してしばしば女真に遠征し、或いは宣府・大同・延綏に軍を展開してオイラートのイスマイルを防禦した。 後に内外から弾劾されて18年(1482)に失脚し、奉御に貶されて終わった。

劉千斤  〜1466
 西華(河南省)の人。本名は劉通。貧窮して房県に流亡したが、成化元年(1465)に流民を煽動して蜂起し、漢王を称した。白蓮教とも結んで襄陽・ケ州でしばしば官軍を破り、一時は漢中にも進出したが、兵部尚書白圭に敗死した。
   
荊襄の乱 (1465〜71):流民の原籍送還に抵抗して荊襄地区で起された農民叛乱。 当時は銀経済の本格化で多くの農民や小商らが生業を失って逃民となり、開朝当時から禁山区とされていた漢水上流域や大巴山地などを格好の入植地として成化年間までに150万余が流入していたが、政府は原籍送還を以て強硬に対処し、流民の間には急進的白蓮教が蔓延していた。 そのため成化元年(1465)に劉千斤が漢王を称して蜂起すると衆数十万が呼応し、翌年に鎮圧されたものの10歳以上の鏖殺や原籍送還の継続で対処した為に状況は改善されず、同6年には李原による叛乱が発生した。 李原の乱も翌年には鎮圧されたが、軍務を総督した項忠によって「死者、山谷を埋む」殺戮が行なわれ、追放された流民の多くが送還の途上で歿した。
 同12年(1476)に巡撫した原傑によって現地附籍が認められ、同時に鄖陽府が新設されて里甲制も行なわれたが、朝廷が流民に対する根本的な対策を怠った為に明末まで同様の叛乱が絶えなかった。

徐廷璋
 羅山(河南省)の人。字は公器。景泰2年(1451)の進士。 成化2年(1466)より延綏・甘粛・寧夏の巡撫を歴任して辺防を整備・強化し、寧夏鎮では数百里の長城を造営し、延綏の余子俊・陝西の馬文升とともに関中三巡撫と称された。

余子俊  1429〜1489 ▲
 青神(四川省)の人。字は士英。景泰2年(1451)の進士。10年間戸部に在籍したのち知西安府に転じてより北辺の地方官を歴任し、成化7年(1471)に延綏巡撫とされ、清水営〜花馬池の長城1700余里を修築してオイラートのベク=アルスランを防いだ。12年(1476)に陝西巡撫に転じて西安地方の水利復興にもつとめ、後に兵部尚書まで進んだ。

孝宗 / 弘治帝  1470〜1487〜1505
 明朝の第九代天子。諱は祐樘。憲宗の第3子。生母は瑤族出身で、万貴妃による暗殺を免れて太子とされた。 丘濬の『大学衍義補』を治国の根幹とし、宦官や外戚・道士・僧侶に対する綱紀粛正、塩法の改制、予備倉の充実など前代の弊害の是正につとめて民乱が激減し、「朝に君子多し」と評された。 モンゴルのダヤン=ハーンの防禦などにも一定の成果を挙げ、『門刑条例』『大明会典』編纂など法制の整備も進めて明朝中興の主とされるが、後半は政務に倦んだ。

丘濬  1420〜1495
 瓊山(広東省)の人。字は仲深、号は深庵・玉峰。景泰5年(1454)の進士。 孝宗に信任されて弘治年間に礼部尚書・文淵閣大学士とされた。『英宗孝宗実録』の編者でもあり、真徳秀の『大学衍義』を増補した『大学衍義輔』は孝宗のみならず後世にも多大な影響を及ぼした。

陳献章  1428〜1500
 新会県白沙里(広東省)の人。字は公甫、号は石斎。 会試に悉く失敗して国子監で学び、官は翰林院検討で終わった。呉与弼に師事したものの理学の厳格な哲理を批判し、書物的な知識を排して静座による内省と天理の体得を強調し、朱子学に対する明白独自の哲学を展開して郷里での講学に終始した。 そのため明代心学の先駆者とされるが、弟子の湛若水王陽明としばしば鋭く対立した。

沈周  1427〜1509
 長洲(蘇州市区)の人。字は啓南、号は石田・白石翁。沈石田として知られる。 素封の家に生まれ元末四大家董源巨然の風を修めて水墨山水を得意とし、花鳥画にも秀作が多かった。又た宋詩を重んじて詩画一体の新境地を確立し、詩書画の三絶の第一人者とされ、蘇州文化中興の祖とされる。 門人には文徴明董其昌ら呉人が多く、その派は戴進呉偉らの浙派に対し呉派と称され、中明以降は南画のみならず画壇の主流を成した。

呉偉  1459〜1508
 江夏の人。字は士英、号は魯夫・小仙。 貧苦ののち画を学んで金陵で著名となり、憲宗のとき画院に入り、泥酔中に酔狂で手塗りによる松泉図を描いて仙筆と称された。 憲宗の死後に追放されたものの弘治12年(1499)に復帰して孝宗から画状元の印を授けられ、狂態邪学とすら称される浙派の方向性を定めた。

周臣
 呉県の人。字は舜卿、号は東村。宋代の院体画に学び、精緻な筆墨技巧によって新生面を拓いた。 仇英唐寅の師でもあり、その派は院派と呼ばれ、浙派から呉派への画壇の主潮の転換期にあって呉派文人画の形成にも多大な影響を及ぼした。

馬文升  1426〜1510
 鈞州(河南省禹州)の人。字は負図、号は雲峰居士。景泰2年(1451)の進士。 成化年間に陝西地方を巡撫して回族の叛乱を鎮圧するなど北辺の軍務を歴任し、関中三巡撫に数えられた。 成化11年(1475)に兵部右侍郎に転じ、遼東巡撫を経て弘治2年(1489)に左都御史・兵部尚書に進んで京営を提督した。 14年に吏部尚書に転じ、武宗の即位で劉瑾が大権を掌握すると排斥に失敗して致仕帰郷した。

劉大夏  1436〜1516
 華容(湖南省)の人。字は時雍、号は東山居士。天順8年(1464)の進士。 弘治14年(1501)に兵部尚書に至り、王恕・馬文升と並ぶ弘治三君子とも称されたが、劉瑾の排斥に失敗して正徳元年(1506)に失脚した。

武宗 / 正徳帝  1491〜1505〜1521
 明朝の第十代天子。諱は厚照。孝宗の長子。仏経梵語に通じて天資聡明と評された反面、遊興淫楽を好んでチベット仏教に傾倒し、即位後は劉瑾ら宦官に政務を一任して豹房に全国から徴発した美女を集めて淫楽に耽り、或いは宮中で商賈を行なった。 劉瑾の失脚後は武士の江彬を重用して自身を威武大将軍朱寿と称し、軍事を弄んで遂には無名の親征を行ない、一連の悪政は安化王の乱・劉六劉七の乱・寧王の乱などを惹起した。 寧王の乱では鎮圧後に南巡をかねて南京で逮捕式を行なったが、帰途に江水で溺れたことが原因で翌年に豹房で歿した。 武宗の時代は連年の飢饉で農民の叛乱も絶えず、明朝が斜陽期に転じた画期とされる。

劉瑾  〜1510
 興平(陝西省)の人。本姓は談。宦官の劉某に随って改姓した。無頼出身の自宮者で、陰謀・巧弁で司礼太監まで昇り、武宗に逸楽を勧める一方で団営東廠を掌握し、太監八虎の筆頭に数えられた。 殊に西廠の再興と内行廠の新設によって言論統制を更に強化し、又た内閣大学士焦芳・張綵を腹心として外朝をも掌握し、人事・酷刑の濫用と賄賂の公然化で朝廷を完全に頽廃させた。 正徳5年(1510)には劉瑾誅除を唱える安化王の乱が生じ、朝野からの批判も相次いで武宗に疎まれた為に簒奪を謀ったが、八虎の1人/張永の密告で凌遅刑とされた。没収された家財は戸部の歳入の10年分を超え、銀だけでも5千万両に達した。

李東陽  1447〜1516
 茶陵(湖南省)の人。字は賓之、号は西涯。かねてより神童と称され、天順8年(1464)に進士に及第した。 弘治年間には内閣大学士に進んで孝宗に信任され、知貢挙(科挙試験官)として李夢陽何景明らを擢挙した。 正徳初期の劉瑾排斥には与せずに内閣首輔とされ、しばしば致仕を求めて正徳7年(1512)に認められた。
 楊士奇以来の詩文の大家でもあり、文は秦漢への回帰を唱えた唐宋八大家を、詩は杜甫に代表される盛唐詩を宗とし、形骸化していた台閣体を否定して聴覚的な美を追求する格調説を唱え、古文辞派の基を築いた。
   
古文辞派前七子後七子を代表とする、明代文壇の復古主義派。 道の表現としての文学を志向し、道の理想的顕現を古代に求めて古代の詩文を理想とした。明代の世相の主潮となった情感重視は、理知主義の宋への反撥と唐への回帰に直接し、明代に盛行して「律詩の変形」とすら評された八股文も古文辞の形式に通じる点が多かった。 又た古文辞形式の模倣によって佳作を容易に生産できる事も古文辞派の盛行を助け、模倣主義・形式主義の傾向は後七子に至って一層助長され、帰有光などからは大いに批判されたが、市民詩家の拡大に大きく寄与し、文壇の主潮として清代にも継承された。

前七子
 明の弘治・正徳年間の古文辞派の代表的存在で、李夢陽何景明徐禎卿康海王九思・辺貢・王廷相を指し、旗手とされる李・何に徐・辺を加えて弘正四傑とも称される。 科挙の座主でもある李東陽の唱えた古文辞への回帰による格調説をさらに追求し、文は秦漢以前、古詩は漢魏、今体詩は初唐・盛唐のみと称した。

何景明  1483〜1521 ▲
 信陽(河南省)の人。字は仲黙。弘治15年(1502)の進士。中書舎人、陝西提学副使などを歴任した。 文人としては李夢陽と並称され、ともに前七子の代表的人物と目されたが、李夢陽の模擬重視を批判して独創性を重んじた。 五古五律の詩に優れ、文は秦漢の格調を保った。

李夢陽  1472〜1529 ▲
 慶陽(甘粛省)の人。字は天賜、後に献吉、号は空洞子。弘治6年(1493)の進士。 性剛直で、太監劉瑾や外戚の寿寧侯張鶴齢らを弾劾してしばしば罷免・投獄されたが、劉瑾の失脚後に江西按察副使まで進んだ。 狭量かつ偏執的で、李東陽を「台閣体の修正に終始した」と評し、又た同派の何景明に対しても「新奇に傾く」と批判し、強烈な復古主義と形式重視は同派の速やかな形骸化をもたらした。

康海  1475〜1540 ▲
 武功(陝西省)の人。字は徳涵、号は対山・沜東漁夫。弘治15年(1502)の状元進士。 翰林院修撰・経筵講官を歴任し、李夢陽が投獄されるとその求めで同郷の劉瑾に通じて出獄に尽力したが、劉瑾が失脚すると李夢陽の告発で朋党として罷免された。以後は揚州に寓居して音楽・戯曲に親しみ、劇作『中山狼』を創作して李夢陽の忘恩不義を批判した。

王九思  1468〜1551 ▲
 鄠県(陝西省)の人。字は敬夫、号はI陂。弘治9年(1496)の進士。 劉瑾に阿附して吏部郎中に進み、そのため劉瑾に連坐して寿州同知に出され、まもなく追論があって致仕した。 以後は琵琶・詩文・詞曲・劇作などを行なって前七子に数えられ、康海・李開先らと親交があった。

王廷相  1474〜1544 ▲
 儀封(河南省蘭考)の人。字は子衡、号は浚川。弘治15年(1502)の進士。 正徳初頭に劉瑾に忤って亳州判官に謫され、以後も宦官の弊害の上疏を続けて贛楡丞に遷された。 後に辺防策が認められて山東提軍副使に直され、嘉靖年間に四川巡撫・南京兵部尚書などを歴任して兵部尚書・左都御史に至り、軍と官界の綱紀粛正を進めたが、郭弾劾に際して引責辞任した。
 詩文に長じて前七子に数えられ、又た朱子学および陽明学を批判し、張載を重んじて気一元論を説いた。

焦芳  1435〜1517
 泌陽(河南省)の人。字は孟陽。天順8年(1464)の進士。 翰林院編修・吏部左侍郎などを歴任し、江西郷党と対立して劉瑾ら宦官と結び、内閣と司礼監が協同して劉瑾を弾劾した際には劉瑾に議事を漏洩して内閣大学士に列した。 江西人の排斥を進めただけでなく王安石・呉澄らの追罰をも進言し、又た劉瑾の呼称を千歳と定めるなど士大夫の宦官との癒着を進め、人事を掌握して首輔の李東陽を凌ぐ権勢があった。 焦芳と劉瑾が結んでより北人宦官も急増し、明朝の弊風とされる郷党禍がより深刻となった。

洪鍾  〜1524
 杭州銭塘の人。字は宣之。成化11年(1475)の進士。刑部主事から主に地方官を歴任して弘治11年(1498)に順天巡撫とされ、兵部尚書馬文升らに支持されて山海関〜居庸関の長城を修造し、北防の強化に尽力した。 正徳元年(1506)に江北巡撫となって漕運を整備し、藍廷瑞の乱が拡大すると四川・陝西・湖広・河南の総督を兼ねて鎮定したが、翌年(1512)には老病を理由に致仕して郷里で歿した。

藍廷瑞  〜1511 ▲
 保寧(四川省閬中)の人。正徳4年(1509)に順天王を称して蜂起したが、各地での小叛乱の呼応や官軍の内訌などによって四川・湖広・広東・広西・陝西・河南などに拡大する大乱となった。苗族が官軍に与したことで劣勢となり、正徳6年に刑部尚書洪鍾に討平された。

朱ゥ鐇  〜1510
 安化王。太祖の第16子/慶靖王の曾孫。弘治5年(1492)に襲爵した。 50畝=1頃とする劉瑾の不正検地が行なわれると、御史官の侵侮に対する軍士の反感を煽動して正徳5年(1510)4月に寧夏衛を以て蜂起し、劉瑾誅殺を唱えた。 寧夏遊撃将軍の仇鉞らによって18日で鎮圧されたが、年中には劉瑾も誅された。

劉六・劉七  〜1512
 霸州文安(河北省)出身の兄弟。捕盗吏だったものが官への贈賄を拒んで大盗の張茂に投じ、劉瑾の党人として捕縛された張茂の保釈金を得るために官庫を襲った事が露見して挙兵した。 響馬(馬賊)の楊虎と連和して大規模な叛乱に発展し、翌年には山東・山西・河南にも拡大して一時は京師にも肉迫し、建国扶賢を唱えて生員の参加もあった。 遼東軍・宣府軍が投入されて東軍・南軍に分れ、響馬軍は湖北でほぼ殲滅され、東路軍も南奔ののち劉六が江西で大敗して自殺し、劉七も長江東端の狼山で自殺した。
 響馬は京畿で軍馬を養育する農民=馬戸が、荘園の増加による牧糧不足などから官馬を横領して賊となったもので、什伍連坐法によって無辜の農民まで虐殺されたことが乱の爆発的拡大となった。

朱宸濠  1519
 寧王。太祖の第17子/寧献王の玄孫。 弘治12年(1499)に襲爵した。軽佻貪欲で兵事を好み、都指揮使殺害・知府幽閉・群盗との結託など非道が多く、劉瑾と結んで侍衛兵の増員も果たし、劉瑾の失脚後は武器の私造のみならず広東から仏郎機銃などを調達した。 正徳14年(1519)6月に削兵に抗って挙兵し、江西巡撫を攻殺したのち南京攻略を図って出征したが、江西僉都御史の王守仁に南昌を陥され、安慶(安徽省)から回頭したものの南昌近傍で大敗して鎮圧された。 首謀者が宗室であり計画的である点でも重視され、平定後に武宗の矜持から親征平定の形式が採られ、南京で逮捕式が行なわれた。

王守仁  1472〜1528
 余姚(浙江省)の人。字は伯安、号は陽明。王陽明として知られる。 弘治12年(1499)の進士。正徳元年(1506)に劉瑾を弾劾して杖刑のうえ龍場(貴州省修文)の駅丞に左遷され、この流謫中に道理を頓悟した。 劉瑾の失脚後に赦されて諸官を歴任し、江西・福建の賊乱や寧王の乱を平定して江西巡撫とされ、嘉靖元年(1522)に武功第一として改めて南京兵部尚書・新建伯とされた。 嘉靖6年に広西で瑤族の大乱が発生すると都察院左都御史・両広総督を兼ねて病を押して出征し、平定からの帰途の南安(江西省大余)の船上で病死した。
 初め朱子学を学び、流謫中に朱子学の唯物的博識主義の繊細迂遠さを疑問として、唯心論である陽明学を興した。 変革を是としたため、清末の変革運動の時期を除けば人民政府に至るまで概ね中国社会では否定され続け、寧ろ日本に於いて評価が高く、明治維新などに絶大な影響を及ぼした。

王艮  1483〜1540 ▲
 泰州(江蘇省)の人。字は汝止、号は心斎。竈戸に生まれながらも学問に志して独学ののち王守仁に師事し、朱子学を批判して王畿らと唯心論哲学を樹立し、孝悌を人倫の回帰すべき原点と見做した。 終生仕官せず、主に大衆への伝道に努めて陽明学左派の泰州学派を形成した。

湛若水  1466〜1560
 増城(広東省)の人。字は元明、号は甘泉。弘治18年(1505)の進士。早くより陳献章に師事したが、同門の王守仁とは思想を異にしてしばしば論争し、西樵講舎で子弟を養成して江門学派とも呼ばれた。 官は翰林院編修・礼部侍郎などを歴任して南京兵部尚書に至り、丘濬の『大学衍義補』に倣って『格物通』100巻を著した。

江彬  〜1521
 宣府(河北省宣化)の人。字は文宣。 監軍として山東を討伐した後、銭寧を介して武宗に大力を認められて側侍し、辺軍の一部を京師に結集させて自ら親衛団を組織した。 又た宣府への御幸を前提とした国内巡幸や歓淫のための離宮造営を勧めて寵を集める一方で、東廠錦衣衛を提督して警察権を濫用したが、世宗の即位とともに磔刑に処された。

楊一清  1454〜1530
 安寧(雲南省)の人。字は応寧。 丹徒(江蘇省)に住まって神童と称され、14歳で挙人となり、成化8年(1472)に進士に及第した。 劉大夏の薦挙で弘治15年(1502)に陝西巡撫となってより陝甘の軍務を総制すること3度に及び、延綏・寧夏・甘粛の3鎮を以て陝甘総督とする事や、馬政の整備による辺防の強化などに尽力して辺防の第一人者と称され、嘉靖3年(1524)に兵部尚書・左都御史を帯びて陝甘総督に就いてより、辺境の総督が尚書を帯びる事が通例となった。 劉大夏・李東陽と並ぶ“楚中三傑”と称され、劉瑾江彬と対立して失脚した後もその粛清と伴に再挙され大礼の議の後に内閣大学士に転じて6年には内閣首輔となったが、次輔の張璁に枉陥されて憤死した。

仇英
 太倉(江蘇省)の人。字は実父、号は十洲。漆工を生業としていたが、後に周臣に師事し、文徴明に絶賛されて名を知られた。徹底した模写による修技を重んじ、特に春宮画・美人画に長じ、白描は傑出していたという。 画壇の二大主流である浙派・呉派とは別に、李公麟趙子昂の線描様式を宗として中間色を多用し、沈周・文徴明・唐寅と並ぶ明代四大家にも数えられるが、40代で歿した。

唐寅  1470〜1523
 呉県の人。字は伯虎、後に子畏。号は六如。屠家の出で、若い頃は無頼だった。 弘治11年(1498)の郷試で解元となったが、会試で不正に連座して帰郷した後は仕官せず、遊事と売文に終始した。 詩は白居易、書は趙子昂、画は周臣を師とし、沈周祝允明文徴明徐禎卿らと親交して「江南第一風流才子」と称し、殊に画は明代四大家に数えられる。後に寧王に出仕を強請され、挙兵直前に佯狂して難を逃れた。

祝允明  1460〜1526 ▲
 長洲(蘇州市区)の人。字は伯虎。指が6本あったために岐山と号した。 会試には通らず、後に応天府通判とされながらも程なく致仕した。 沈周に師事して唐寅文徴明徐禎卿と共に呉中四才子と呼ばれ、殊に書名は海外まで達した。奔放放埓で遊興に傾倒し、唐寅とともに奇行が多く“狂”と称され、ともに礼法の士を蔑視した。

徐禎卿  1479〜1511
 常熟の人。字は昌国。呉県に住って貧苦したが、唐寅沈周らとの交際で名を知られた。 弘治18年(1505)に進士に及第して李夢陽・何景明らとも交わり、呉中四才子や前七子に数えられたが、官は国子監博士で終った

世宗 / 嘉靖帝  1507〜1521〜1566
 明朝の第十一代天子。諱は厚熜。孝宗の弟/興献王の世子だったが、武宗が無嗣のまま歿した為に安陸(湖北省)から迎立された。 聡明だが我執が強く、持続力に欠けていたと評され、後宮との縁故が薄い事から当初は楊廷和の輔弼で弊風の刷新が進んだが、大礼の議によって挫折した後は道教と女色に傾倒するようになり、道士の閣僚叙任や、青詞文の優劣によって内閣の序列を決するに至った。
 地主による土地兼併の進行や可耕地の限界などから自営農の離農が深刻で、里甲制は半数の成員で維持され、軍でも将官による搾取に対して巡撫・総兵官・参将の殺害を伴う兵乱が続発し、猖獗する北虜南倭に有効な対処を採れず、嘉靖29年(1550)にはモンゴルのアルタン=ハーンによって北京が攻囲された。 又た嘉靖21年(1542)の壬寅宮変以降は西苑に移って朝見を廃し、首輔の厳嵩による長期独裁が行なわれ、朋党政治で綱紀が紊乱して士魂が著しく劣化し、軍費の飛躍的増大で財政・世相とも悪化したが、文化面では隆盛期と評される。
   
壬寅宮変 (1542):宮婢の変とも。世宗の同室する曹妃の房に複数の女官が乱入し、世宗殺害を謀ったもの。 宦官が急馳して大事には至らなかったが、直後に処刑された曹端妃の参謀があったこと以外は実態・動機ともに伝えられず、一説には武宗を凌ぐ世宗の荒淫が原因ともされる。以後、世宗は大内を避けて西苑から出駕しなくなった。

大礼の議  1522〜1524 ▲
 世宗の実父/興献王の尊号を巡る論争。 興献王は孝宗の弟で、孝宗を嗣いだ武宗に子がなかった為に世宗が迎立された。そのため内閣首輔の楊廷和は礼部を介して孝宗を皇考、興献王を皇叔父、王妃を皇叔母とすることを進言したが、世宗は父を興献皇帝、母を興献皇后とすることを主張し、張璁・桂萼ら少数派に支持された世宗と内閣が対立し、楊廷和ら閣僚を含む廷臣の多くが排斥された後、孝宗を皇伯考、皇后を皇伯母、興献王を皇考、王妃を聖母とすることに決した。 北宋の僕議に類似したこの問題は、君権の強さや、理知よりも情義を重んじる風潮などから世宗の主張が通ったが、この間の朝政はほぼ空転し、阿佞派が秉政した事で嘉靖年間の政治的停滞を結果した。

楊廷和  1459〜1529
 新都(成都市区)の人。字は介夫、号は石齋。12歳で挙人となり、成化14年(1478)年に進士に及第した。 顕官を歴任して左春坊大学士に進んだのち劉瑾の排斥に与して正徳元年(1506)に南京吏部侍郎に出されたが、劉瑾の失脚と伴に内閣大学士に直され、李東陽の致仕によって首輔となった。 武宗が歿すると世宗の迎立を主導し、弊政の刷新を進めて“救時宰相”と称されたが、大礼の議で世宗と対立して嘉靖3年(1524)に致仕し、7年には官爵を除削された。

張璁  1475〜1539
 永嘉(浙江省温州市区)の人。字は秉用。世宗の諱を避けて孚敬、字を茂恭と賜った。 正徳16年(1521)に進士となり、直後の大礼の議で世宗を支持して信任されたが、清廉ながらも朋党意識が強く報復を好み、内閣に列した際には他の廷臣は同席することを恥じたという。 朝廷からの反対派の排斥を進め、嘉靖8年(1529)には楊一清を枉陥して内閣首輔とされ、これより明朝の党争は熾烈になったとされる。

北虜南倭
 明朝の二大外患の総称として、モンゴルの侵攻と倭寇を指したもの。 北虜は正統14年(1449)の土木の変と嘉靖年間のアルタン=ハーンの活動を頂点とし、南倭は嘉靖2年(1522)の寧波事件を機にやはり嘉靖年間に最高潮に達し、共に明朝の財政を著しく悪化させた。
   
寧波事件 (1523):明との朝貢貿易をめぐる、寧波での日本の大内氏と細川氏の騒擾。 日本の対明貿易は1511年の正徳勘合の交付以来、大内氏に庇護された博多商人が独占していたが、新興の堺商人と結ぶ細川氏は失効した弘治勘合を幕府より獲得して1523年に大内氏に数日先んじて入朝し、副使の宋素卿の進言で市舶司太監頼恩へ贈賄して正使と認められた。 このため大内氏は細川船団を襲撃しただけでなく宋素卿を保護した紹興府を劫掠し、日明貿易も中断されて倭寇の再開を結果した。
 日明貿易は1539年に再開されたものの大内氏が主導した為に博多商人による独占体制が継続され、ポルトガルの中国進出も加わって他の日本海商の密貿易化が助長され、亦た中国では嘉靖21年(1542)に海禁令が発せられた結果、沿岸の郷紳層が主導する密貿易に中小商人や游民が参加して後期倭寇が猖獗した。

夏言  1482〜1548
 貴渓(江西省)の人。字は公謹。正徳12年(1517)の進士。嘉靖2年(1523)に兵科給事中に抜擢されて積弊と庶政の一新を上疏して信任され、後に礼部尚書に進み、嘉靖15年(1536)に武英殿大学士を加えられて入閣した。 17年よりしばしば内閣首輔に就いて驕恣となり、厳嵩の抬頭とともに失寵して27年(1548)に罷免されたが、同年にアルタン=ハーンが宣府を侵犯すると陝甘総督曾銑の河套回復を支持した責任を問われて棄市された。 一説では、宿直中の厳嵩が青詞を推敲している傍らで熟睡していたことを宦官に密奏されてより君寵が衰えたという。

曾銑  〜1548 ▲
 黄岩(浙江省台州市区)の人。字は子重。嘉靖8年(1529)の進士。 14年に遼東を巡按して兵乱を平定した事で名を知られ、モンゴルの入冦の激化に応じて山西巡撫とされて北防体制を整備し、25年(1546)に兵部侍郎・陝甘総督に進められ、アルタン=ハーンを撃退した。 内閣首輔の夏言に支持されて河套回復を進めたが、翌年(1548)のアルタン=ハーンの侵攻を河套回復の報復と誣されて夏言と共に処刑された。

朱紈  1492〜1549
 長洲(蘇州市区)の人。字は子純。正徳16年(1521)の進士。嘉靖26年(1547)に浙江巡撫・浙閩提督に進められて倭寇討伐を担当し、翌年には双嶼に拠る首魁的な許棟を討滅したが、密貿易に依っていた郷紳の処罰を含む海禁の強化を唱えた事で、郷紳と結んだ閣僚に弾劾されて罷免後に自殺した。 罷免が伝えられると「国外の賊を除くは易く…中略…衣冠の盗を失くすは最も難し」と嘆息したという。

林希元  ▲
 同安(福建省廈門市区)の人。正徳12年(1517)の進士。清廉剛直で朱子学者としても高名だった反面、「邸を府と称して民訴を恣に裁き、官を蔑し、大船を造って盗品・禁制品を扱う。漳・泉の羽翼の最たる」沿岸郷紳の象徴として朱紈に弾劾された。 朱紈が倭寇平定で成果を挙げると、現地郷紳の代表として朱紈の罷免を朝廷に運動した。

王直  〜1559
 徽州歙の人。塩業に失敗して海商に転じた徽商で、双嶼に拠る同郷の許棟に属して日本との密貿易を担当し種子島での鉄砲伝来には通訳として関与したとも伝えられる。 朱紈に滅ぼされた許棟の余勢を糾合したのち沿岸部の郷紳や官吏とも通じて勢力を拡大し、嘉靖30年(1551)には官憲に与して舟山列島に拠る同業の陳思盻を滅ぼし、「海上已に二賊なし」と称されて南海貿易を支配し、徽王と号した。 32年に兪大猷に舟山を逐われると拠点を五島・平戸に遷し、これより“嘉靖大倭寇”が本格化したが、その一方で豊後の大名/大友宗麟に接近して勘合貿易の再開と請負を模索していたとも伝えられる。 36年(1557)に胡宗憲の招諭に応じて帰国したところ、逮捕投獄ののち杭州で処刑された。 舟山を逐われた後の倭寇の活動は分離派の独走とも称され、又た王直の処刑は胡宗憲の成功に対する朝臣の嫉視が原因とも伝えられる。

胡宗憲  〜1565?
 績渓(安徽省)の人。字は汝貞、号は梅林。嘉靖17年(1538)の進士。 益都・余姚知県から御史に転じて北防や湖広の苗民の制圧で認められ、33年(1554)に浙江州巡按御史とされた後は倭寇の平定に尽力して陳東・麻葉・徐海らを討平し、36年には王直を降して兵部右侍郎・右都御史とされた。 功名心が強く陰謀を好み、厳嵩と結託して太子太保・兵部尚書などを加えられたが、厳世蕃に連坐して獄中で自殺した。

厳嵩  1480〜1567
 分宜(江西省)の人。字は惟中。弘治18年(1505)の進士。 青詞に巧みだった事から世宗に信任されて嘉靖21年(1542)に内閣大学士に列し、世宗が臨朝を放棄した事もあって朋党を結んで政敵を排除し、23年には首輔に坐した。 夏言を排斥して首輔に復した後はほぼ独裁化して賄賂が横行し、子の厳世蕃とは大丞相・小丞相と呼ばれたが、帝寵が徐階に移った後に言官に弾劾されて41年(1562)に致仕し、44年の世蕃の処刑で布衣とされて家財は没収された。
 北虜南倭に直面した時代に内閣首輔として行政を破綻させなかった実績があり、同時代の小説・戯曲などの大衆芸能で造作された人物像が先行している点には注意を要する。
   
青詞 :青藤紙に朱筆した道教の祭文。本来は民間の低俗な文辞として士大夫には軽蔑される類のものだったが、世宗が好んだ事から君寵を得るために進士官僚も競って作成に熱中し、青詞の優劣で閣僚人事が行なわれるに至った。 士大夫の青詞狂奔は、宦官への阿諛迎合と並んで明時代の功利主義、士魂の凋落を示す好例とされる。

楊継盛  1516〜1555
 容城(河北省)の人。字は仲芳。嘉靖26年(1547)の進士。 貧家の出ながらも精学して音楽にも通じ、兵部員外郎の時にアルタン=ハーンとの馬市再開を提言した大将軍仇鸞を弾劾して問罪されたが、程なく(1550)モンゴルの大寇があって徴還され、刑部員外郎・兵部武選司などを歴任した。 32年に厳嵩の五奸十罪を弾劾して拷問ののち棄市刑に処されたが、朝野から惜しまれ、隆慶6年(1572)に太常少卿を追贈された。

文徴明  1470〜1559
 長洲(蘇州市区)の人。字は徴仲、号は衡山。沈周に師事して詩・書・画の三絶に達した。科挙に悉く失敗したのち嘉靖2年(1523)に特に召されて翰林院待詔とされたが、まもなく朝廷に失望して致仕した。 後に趙子昂の画法をも学んで精緻が加わり、同郷の祝允明らと並ぶ“呉中の四才子”にも数えられたが、貧者による贋作の売買を容認していた一方で貴顕のために把筆することはなかった。

楊慎  1488〜1559
 新都(成都市区)の人。字は用修、号は升菴。楊廷和の子。 正徳6年(1511)の状元進士。大礼の議の後の人事を強諫して永昌衛(雲南)に流され、禁錮に処された。博学で多数の著述を遺した一方で奇行・奇説を好み、李東陽に詩を学んでその詩風を継承しながらも前七子には反対した。

茅坤  1512〜1601
 帰安(浙江省呉興)の人。字は順甫、号は鹿門。嘉靖17年(1538)の進士。 広平通判の時に瑤族の叛乱を鎮定して大名副使に転じ、倒馬関の守備を総督に激賞されて中央に薦挙されたが、時の朝廷に失望して致仕し、『唐宋八大家文鈔』164巻などを撰した。嘉靖26年(1557)に胡宗憲の幕僚となり、倭寇防衛にも尽力した。

穆宗 / 隆慶帝  1537〜1566〜1572
 明朝の第十二代天子。諱は載垕。世宗の第3子。徐階海瑞らを起用して綱紀粛正・財政再建を図り、元年(1567)に漳州を開放したことで倭寇は沈静化し、5年にはアルタン=ハーンとの和議を成立させるなど、その治世で北虜南倭の禍をほぼ終息させた。 朝政は内閣大学士が運営して自身は酒色に溺れ、そのため朋党禍は却って深刻となった。

徐階  1494〜1574
 松江華亭(上海市区)の人。字は子升、号は存斎。嘉靖2年(1523)の探花進士。 大礼の儀で失脚したものの31年(1552)に青詞を認められて内閣大学士となり、帝寵を背景に厳嵩父子を排斥して内閣首輔とされた。 人材の挙任や刑賞の公正化に努め、世宗が歿すると大礼での刑罰を赦免するなど弊政の刷新を進めたが、内廷の粛正を図って宦官と高拱との結託を招き、隆慶2年(1568)に致仕した。
 陽明学派の高弟としても知られ、失脚後も正義派官僚の領袖として朝野の人望を集めた反面、郷里の松江に江南でも最大規模の荘園(24万頃)を有して子弟の横恣を黙認し、監察御史斉康や巡撫海瑞に指弾されたこともあった。 又た入閣当初は厳嵩と通婚して青詞にのみ努め、厳嵩が失脚すると嫁した孫娘を殺させてようやく破顔したという。

海瑞  1514〜1587
 瓊山(海南省海口市区)の人。字は汝賢、号は剛峯。挙人から歴遷して戸部主事に進み、嘉靖45年(1566)に世宗を極諫して投獄されたが、程なく世宗が歿して赦され、隆慶3年(1569)に応天巡撫に抜擢されると大地主による土地兼併の制限、小作料や賦役の減免などを図り、最大の地主である徐階らの弾劾で罷免された。 張居正の死後に南京右僉都御史まで進み、公正な判事官として包拯と並称され、前後の実績によって民衆から絶大に支持された。
 1961年に北京市副市長の呉ヨが、封建時代にも農民擁護の官僚の存在を主張する戯曲『海瑞罷官』を著したが、間もなく反革命・反毛沢東主義であると非難されて文化大革命の発端となった。海瑞の墓も文化大革命で破壊されて遺骨は焚焼されたが、1982年に重修された。

尚鵬
 南海(広東省仏山市区)の人。字は少南。嘉靖32年(1553)の進士。44年(1565)頃に御史として浙江を巡按し、徭役の簡素化として一条鞭法を試行した。 隆慶2年(1568)に右僉都御史とされ、辺鎮での屯塩問題でも実績を挙げたが、同僚の讒言で致仕し、万暦4年(1576)に福建巡撫に復帰したものの海防問題から張居正と対立して再び致仕した。

兪大猷  1504〜1580
 晋江(福建省)の人。字は志輔、号は虚江。幼時より兵書に親しみ、父の百戸を継いだのち嘉靖14年(1535)の武挙に及第して千戸とされ、程なく倭寇対策で監司と衝突して罷免されたが、朱紈に認められて31年(1552)に参将とされ、胡宗憲の下でも累功があって35年に浙江総兵官に進んだ。 その軍は“兪家軍”と呼ばれて憚られ、福建総兵官に転じた翌年(1561)に戚継光らと平海(莆田)に倭寇を大破し、以後も広東・広西などを転戦した。後に右都督に進位して戚継光と並称されたが、巡按への贈賄を拒んで貶降され、鬱々として歿した。

戚継光  〜1587
 登州衛(山東省蓬莱)の人。字は元敬。父の指揮僉事を継ぎ、嘉靖34年(1555)より浙江に転じて参将として胡宗憲の倭寇討平に従い、義烏で組織した戚家軍を率いてしばしば殊勲を挙げて平海衛(莆田)で大勝した42年に福建総兵官に至り、兪大猷を凌ぐ声望があった。 海禁が緩和されると隆慶2年(1568)より北防に転じて神機営副将・都督同知として薊州・昌平・保定の兵事を総理し、長城の修造など辺防を整備してトゥメン=ハーンの侵攻に善く対処し、左都督まで進んだ。 張居正の死後にその朋党として罷免され、万暦11年(1583)に解錮されたものの程なく復た罷免されて家で憂死した。恐妻家としても知られ、又た日本人倭寇の日本刀を参考に苗刀を創案したとも伝えられる。

馬芳  〜1581
 蔚州(河北省)の人。字は徳馨。10歳のときモンゴルに攫われ、弓術を愛されてアルタン=ハーンに近侍し、後に奔還して北防に従った。 やがて武勇は塞北に広く畏れられ、嘉靖36年(1557)には薊鎮副総兵に進み、界嶺口では顔を晒しただけで来襲したモンゴルの十万騎が壊乱したと伝えられる。 宣府(張家口市宣化区)の守備に転じて総兵官に進み、嘉靖45年(1566)には馬蓮堡でアルタン=ハーンを大破し、翌年(1567)にも独石塞の外でモンゴル軍に大勝した。
 胆略を兼ね、諜報を重視し、戦場では常に士卒に先んじて敵に突し、「寡を以て衆を撃ち、大勝せざるはなし」「功績は当世の将帥に冠す」と評された。 万暦7年(1579)に病で致仕した。

高拱  1512〜1578
 新鄭の人。字は粛卿。嘉靖20年(1541)の進士。 45年(1566)に徐階の薦挙で文淵閣大学士とされたが、倨傲・競功の質で、徐階を専断として指弾したところ却って言官の弾劾によって致仕した。 太監の李芳・陳洪らと結んで徐階を失脚させた翌年(1569)に張居正とも結んで内閣大学士に列し、隆慶5年(1571)には内閣首輔に就き、軋轢から多くの閣僚が下野して徐階に対する追及も執拗だったが、アルタン=ハーンと和して北辺を安定させたことは高く評価される。 直諫で罷免された李芳の後任に陳洪を推した事で秉筆太監の馮保に憎まれ、張居正と結んだ馮保が改竄した遺詔によって罷免された。

帰有光  1506〜1571
 崑山(江蘇省)の人。字は煕甫、号は震川。嘉靖44年(1565)の進士。隆慶4年(1570)に南京太僕寺丞となった。古文作家として唐宋八大家以降の第一人者で、八股文の大家とも称される。 当時の文壇の主流の後七子を「妄庸なる巨子」と呼んで互いに批判したが、後に王世貞からは「韓・欧陽を継ぐ」と讃えられた。 以後の文章の大勢は古文に帰し、清朝の桐城派に発展した。

後七子
 明の嘉靖年間の古文辞派の代表的存在で、王世貞李攀龍・謝榛・宗臣・梁有誉・徐中行・呉国倫を指す。 代表と目された王世貞・李攀龍を“王李”と併称し、或いは前七子の李・何を併せて李何王李とも称された。 李夢陽の擬古主義を支持して偏狭な模擬思想に陥り、公安派竟陵派から非難された。

李攀龍  1514〜1570 ▲
 歴城(山東省済南)の人。字は于麟、号は滄溟。嘉靖23年(1544)の進士。 刑部主事から進んで河南按察使に至った。刑部のとき王世貞・徐中行らと詩社を結んで「文は秦漢・詩は盛唐のみ」と主張し、嘉靖・隆慶年間を通じて詩壇の盟主として王世貞と並称され、明詩の最盛期を現出した。
 日本文壇にも絶大な影響を与えた『唐詩選』の編者と見做されている。
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唐詩選 :李攀龍の編纂と伝えられる唐代の詩選集。全7巻。初唐29人、盛唐42人、中唐36人、晩唐17人、無名氏3人の詩465首を五言古詩・七言古詩・五言律・五言排律・七言律・五言絶句・七言絶句に大別して採録したもので、七言絶句が最多の165首採録されている。 李攀龍の文学観を反映し、韓愈は1首、李賀・白居易・杜牧らの作品は採録されていない。 清朝の乾隆年間頃から広く流布し、日本にも江戸時代に伝来して流行した。李攀龍の『唐詩刪』を元にした仮託書とされる。

王世貞  1529〜1593 ▲
 太倉(江蘇省)の人。字は元美、号は鳳洲山人。嘉靖26年(1547)の進士。刑部主事から地方官を歴任し、万暦年間に南京刑部尚書まで進んだが、厳嵩張居正に追従しなかった為に政治的に不遇だった。 詩名は李攀龍と並んで後七子の双璧と称され、李攀龍の死後は文壇の第一人者とされた。


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