1368〜1644
 貧農出身の朱元璋が紅巾軍の組織と江南の経済力を背景として集慶(南京)に樹立した政権が、1368年に元朝を塞外に逐ったのち1382年に雲南のモンゴル政権を平定して中国全土を支配したもの。 農村復興などに尽力しつつ大疑獄によって中央集権と君主専制を確立したが、応天府(集慶)を国都として経済と政治の中心を合致させた構造は、靖難の変で奪権した永楽帝北平(北京)遷都によって永続しなかった。 永楽帝の下で明朝は漢人王朝としては空前の直轄版図を示し、殊に南海経略は世界史上でも稀有の壮挙として特筆されるが、その一方で洪武帝の制を多く改廃して宦官を正官として重用し、以後の宦官跳梁の悪弊を開いた。
 中華皇帝が敗将として捕虜になった1449年の土木の変も宦官専横の一端で、この頃より洪武帝が厳禁した銀の流通も済し崩し的に始まった。 官界では概ね宦官権力が士大夫に優越し、士大夫も郷党や学閥で対立して宦官に迎合する事が多く、又た言官の影響力は宋代に比しても増大して朝廷の停滞を助長した。 16世紀になると北虜南倭が激化して軍費が増大し、これに農村の疲弊が加わった深刻な財政難は民乱の続発を誘発し、万暦年間一条鞭法で財政再建が図られたが、万暦帝の未曾有の奢侈によって財政は破綻し、更には宦官と東林党の党争によって政局も混迷し、大悪と評される宦官魏忠賢の専権を招来した。
 明朝最大の外患となる建州女真が抬頭したのも万暦年間で、崇禎年間には北防費を名目とした雑税の濫発で民生が崩壊し、各地の民乱を統合した李自成によって1644年に北京が陥された。 北京は程なく女真族に占拠され、江南では朱氏を奉じる諸勢力がそれぞれ小朝廷を組織して抵抗したが、正統論と朋党意識から共闘する事すら稀で、各個撃破されて1661年までに鎮圧された。
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 明朝政府は行政の六部、監察の都察院、軍事の五軍都督府がそれぞれ皇帝に直属する君主専制で、皇帝の補助機関として大学士による内閣が置かれ、後には内閣首輔が宰相となったが、君主独裁は寧ろ特務機関たる錦衣衛東廠や軍の中核たる京営を掌握した宦官権力の伸長に利した。 又た郷村に対しては里甲制を以て掌握を強め、兵農を分離して、兵士を供出する軍戸は衛所に統制された。 建国当初は重農抑商を旨として高額貨幣の流通を禁じ、対外交易は朝貢貿易に限定して民間の私貿易を厳禁し、そのため倭寇が長期にわたって猖獗し、又た結果的に文明の東西逆転を甘受する事となった。 猶お、明朝より基本的に元号は一世一元となり、元号を以て帝号の俗称とする事が一般的となった。

洪武  永楽  宣徳  正統  成化  弘治  正徳  嘉靖  万暦  崇禎 / 南明

 

太祖 / 洪武帝  1328〜1368〜1398
 明朝の初代天子。諱は元璋、字は国瑞。濠州鐘離(安徽省鳳陽)の貧農の出で、托鉢僧から郭子興に投じたのち江南に独自の勢力を築き、1356年には集慶(南京)を陥して紅巾宋国の左副元帥とされた。 江漢の陳友諒を滅ぼした翌年(1364)に呉王を称し、白蓮教との断絶を宣言した翌年(1367)に淮南の張士誠と浙江の方国珍を平定して徐達らに北伐を行なわせ、1368年には福建の陳友定を滅ぼして称帝しただけでなく元朝政府を大都(北京)から逐って漢人による中華帝国を復興した。
 集慶入城の前後から幕下には李善長宋濂劉基ら読書階級が参集して急速に士大夫主導の組織に変質し、農村復興と並行して胡風の一掃・伝統中華への回帰を命題とした。 又た行省をはじめとする地方権力の分散によって中央集権を進めただけでなく、空印胡獄藍獄などの疑獄によって功臣を悉く族滅するとともに行政の中書省、軍の大都督府が解体されて君主の専権も著しく強化され、華北の要衝に藩屏として分封された諸皇子に兵の指揮権は認めたものの、兵の動員には勅令を必須とした。 廻避制度の徹底や里甲制賦役黄冊による郷村の掌握も進み、洪武31年(1398)には旧来の律令の集大成として『大明律』を制定させ、これは後に『大明令』などと併せて『大明会典』に発展しただけでなく、最も整備された刑法典として清朝にも採用された。
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 太祖の治世中は文字の獄も頻発して高啓ら一流の文人も多数処刑され、湯和以外の元勲が根絶された結果、太祖の死後は実務経験に乏しい科挙官僚が主導する朝廷と、燕王(北平)・晋王(太原)・秦王(西安)ら辺防諸王が対立して靖難の変を結果した。 朱元璋は結果的に中華回復の民族的英雄となり、そのため挙兵当時から漢制回復を至上としたと称される事があるが、北伐の檄文では中華回復よりも天命による易姓革命を強調し、国初の体制も多く元朝のものを踏襲しており、胡制廃止と漢制回帰は知識人層に配慮した側面が強い。
  
空印の獄 (1376):空印とは、地方官の印章が捺された白紙委任状。元朝以来、地方官庁では財務報告で書類に不備が発見された際の往復の労を省くために空印のことが慣例化していたが、洪武9年(1376)に至って突然、空印が重大な不正とされて数千人の官吏が処断された。 同時に最大の地方行政府である行中書省が解体されてその権限が三分された事から、後に続くの獄と同様、朱元璋の進める中央集権および皇帝独裁のための疑獄と見做されている。

常遇春  1330〜1369
 懐遠(安徽省)の人。字は伯仁。1355年に朱元璋に投じて勇猛果敢で知られ、集慶攻略や陳友諒張士誠平定では武勲第一とされ、1364年に朱元璋が呉王を称すと平章政事・鄂国公とされた。 1367年からの北伐では徐達の副将として大都を陥し、太原にココ=テムルを破り、李文忠とともに開平府を抜いたが、帰途に柳河川(直隷)で急死した。後に開平王を追贈された。

劉基  1311〜1375
 処州青田(浙江省文成)の人。字は伯温。名家の出で、経・史・理を学び、天文・地理・兵法・易学などに精通したという。元末に進士に及第したが紛乱を避けて帰郷し、後に朱元璋の招聘に応じて謀首とされ、多くの士大夫を参集させた。 集慶を得た朱元璋に、西の陳友諒攻略の優先と韓林児からの独立を勧めるなど、天下経略の大綱を定めて篤く信任され、明朝が成立すると御史中丞に進み、弘文館学士・誠意伯とされた翌年(1370)に病を理由に致仕・隠棲した。 監察として李善長ら勲貴と衝突する事が多く、李善長の後任を諮られて胡惟庸を「非相の器」と判じたことで憎まれ、その弾劾によって上京した直後に急逝した。胡惟庸の毒殺によるともいう。

胡惟庸  〜1380
 定遠(安徽省)の人。李善長の勧めで1355年以来朱元璋に従い、李善長が致仕すると後任の左丞相に進み、汪広洋が右丞相を免じられた後は万機を総覧した。 劉基の排斥など朋党による専横を忌まれ、日本・北元と通謀した大逆に枉陥されて族滅された。
  
胡惟庸の獄 (1380・1390):左丞相胡惟庸の謀叛を理由とした大規模な疑獄。 洪武23年(1390)の再審でも李善長をはじめとする元勲とその一族が集中的に処断され、前後併せて3万余人が連坐したが、畢に物証は発見されず、胡惟庸処刑の直後に中書省と丞相制が廃止されている事から、太祖の独裁権確立のための疑獄とする見解が一般的となっている。中書省の廃止で実務機関である六部が皇帝に直属し、万機を総覧する存在は皇帝のみとなった。
 当時、李善長ら最高位の元勲の歳禄は六部尚書の年俸の5倍以上で、元勲を対象とした疑獄は増税を否定した明朝の財政策の一面もあった。

李善長  1314〜1390
 定遠(安徽省)の人。字は百室。郷紳階級の出で、1354年より朱元璋に従って篤く信任され、士大夫の招聘や行政・財政機構の確立、政策立案を主導した。 明朝樹立後は国制整備に尽力し、洪武3年(1370)に左丞相・太師・韓国公として徐達に亜ぐ待遇を受け、翌年に病によって致仕した。 13年の胡獄で糾弾され、このときは老齢と功績の故に不問とされたが、再審で弟の累連を隠蔽したとして自殺を命じられた。
  
 嗣子の李景隆は靖難の変では北伐軍50万を率いてしばしば敗績し、南京守備に更迭されたものの燕軍が迫ると抵抗せずに開城した。

宋濂  1310〜1381
 浦江(浙江省)の人。字は景濂。呉莱・劉貫・黄潜に師事して令名が高く、1360年に朱元璋に招聘されて側近となり、後に太子に進講する傍らで明朝の礼楽を多く制定し、『元史』編纂では総裁官とされた。 翰林学士承旨・知制誥まで進んで全ての制誥文を担当し、洪武11年(1378)に致仕した。13年の胡獄で孫に連坐して処刑されるところを、郭后の極諫で茂州(四川省)への流謫に減死されたが、途上の夔州(重慶市奉節)で病死した。 浙西金華学派を代表する碩学でもあり、元勲の文人として劉基と並称され、しばしば高啓を加えて明初の三大家とも称される。

危素  1295〜1372
 金谿(江西省)の人。字は太樸。呉澄らに師事して五経に通じ、又た博学で文・書に巧みだった。 1355年に元朝の招聘に応じて『宋史』・『遼史』・『金史』を編纂し、礼部尚書など諸官を歴任した。 元朝歴代の実録を保護し、北京陥落とともに明朝に降って翰林侍講学士・知制誥とされて宋濂らと『元史』編纂を進めたが、元朝の遺臣との弾劾から憂死した。

高啓  1336〜1374
 長洲(蘇州市区)の人。字は季迪、号は青邱子。夙に文才を讃えられ、元末の混乱を避けて松江の青邱に隠棲していたが、洪武2年(1369)に招聘に応じて出仕し、『元史』編纂に加わった。戸部右侍郎を以て致仕した後、張士誠の旧邸を州庁とした魏観が叛意を誣告されると、上棟文の寄贈を理由に連坐・処刑された。
 その詩風は盛唐への回帰を旨として単純・率直を重んじる明風を開き、楊維禎と並んで明朝第一とされる一方、個性に乏しかったとも評される。

施耐庵
 興化(江蘇省)の人。字は子安。元末明初の人。 『水滸伝』の作者と伝えられ、羅貫中の師とする説もある。元末の至順年間に進士に及第して銭塘知県とされたが、1353年に張士誠に招かれて参謀に列し、張士誠が敗滅した後は郷里で著述に専念したという。 実在論の根拠となっている『施耐庵墓志』には信憑性が低いため、非実在説も根強い。

羅貫中  ▲
 太原の人。諱は本。号は湖海散人。『三国志演義』など多数の演義小説を著し、『水滸伝』の成立にも参与したとされる。いちじ劉基あるいは朱元璋の幕下にあったらしく、『三国志演義』の赤壁の役の描写は、鄱陽湖での陳友諒との水戦に取材したものとも称される。

李文忠  1339〜1384
 鳳陽(安徽省)の人。字は思本。朱元璋の外甥・養子。智勇に長け、張士誠平定では「勇は三軍に冠たり」と讃えられ、歴戦の武勲は常遇春と並んで徐達に亜ぐと称された。 北伐で常遇春が歿した後はその軍営を継ぎ、太原から分進して応昌でアユル=シリダラを大破し、戦功一等とされた。 朱元璋の酷刑をしばしば諫めて忌まれ、極諫の翌日に急死した為に毒殺説が定説になっている。 岐陽王に追封され、徐達・常遇春・ケ愈・沐英湯和らとともに六王に数えられた。

徐達  1332〜1385
 濠州(安徽省)の人。字は天徳。朱元璋とは旧友だったとも伝えられ、その挙兵当時から従い、陳友諒討滅などで多く先鋒として各地を転戦し、呉国が建てられると大将軍・左相国とされた。 1367年に始まる北伐では統帥の征虜大将軍とされ、華北を経略して大都を陥し、応昌ではココ=テムルに撃退されたが、帰還後に功臣の筆頭として右丞相・太子少傅・魏公とされた。 死後、太祖自ら神道碑を刻して太廟に配し、中山王に追封されたが、一説では軍での輿望を忌まれ、病中に禁忌とされる鵞鳥を太祖から贈られたことで悟って一族に累を及ぼさないよう自殺したとも伝えられる。

沐英  1345〜1392
 定遠(安徽省)の人。字は文英。太祖の養子とされ、各地を転戦して累功があり、1377年のトゥルファン遠征、1381年の雲南遠征ではともに副将として従軍して抜群の功があった。 雲南平定後も現地に滞留して治安回復と民生の安定に尽力し、皇太子朱標の死を嘆いて病死した。黔寧王に追封された。

藍玉  〜1393
 定遠(安徽省)の人。常遇春の義弟にあたり、常遇春に軍幹の才を認められ、洪武11年(1378)にチベット遠征を成功させて永昌侯に封じられた。 20年に馮勝とともに満州のナハチュを伐って大将軍とされ、翌年(1388)にはトクズ=テムルを大破して涼国公に進封され、馮勝が失脚した事もあって軍部の筆頭に進位した。 かねて横恣や非法などが忌まれていたとも伝えられ、皇太子の歿した翌年に謀叛の嫌疑で処刑された。
  
藍玉の獄 (1393):大将軍藍玉の謀叛を理由に生じた疑獄。2万人余が連坐して殺されたが、嫌疑の内容などは一切公表されず、皇太子の歿した翌年の事でもあり、又たこの事件を機に大都督府が五部に解体されていることから、冤罪説が定説となっている。

馮勝  〜1395
 定遠(安徽省)の人。旧の諱は国勝。 兄の国用とともに読書を好んで兵法に通じ、挙兵間もない朱元璋に投じて驍勇を賞された。 兄の死後は幼甥に替って親軍都指揮使を継ぎ、徐達の北伐や陝甘の経略に従って常勝将軍と謳われ、歴功によって宋国公に封じられた。 徐達・李文忠の死後の軍部を担い、洪武20年(1387)の満洲遠征では征虜大将軍に任じられてナハチュを鎮定したが、間もなく横領を理由に罷免され、皇太孫が立てられると太子太師を兼ねたもののやがて自殺を命じられた。

湯和  1326〜1395
 鳳陽(安徽省)の人。字は鼎臣。 朱元璋とは幼馴染で、その挙兵当初から随い、呉王府開設とともに御史大夫とされた。 1367年に方国珍・陳友定を伐って浙江・福建を平定し、北伐に転じて山西・陝西・寧夏を経略し、洪武4年(1371)に四川を降し、6年の徐達の北伐では大同・北平に鎮守した。 11年に信国公に封じられ、垂範して兵権を返上した翌年(1386)に、倭寇に備えた沿岸防備の構築が完了した事を機に致仕が認められた。沿岸59ヶ所に衛を設置した事は、壮丁の徴発を伴って現地住民の怨嗟の的となったが、嘉靖年間の倭寇撃退に大きく寄与した。 病身の故に粛清を免れ、死後に東甌王を追贈された。

恵帝 / 建文帝  1377〜1398〜1402
 明朝の第二代天子。諱は允炆。懿文太子の嫡子。太祖の嫡孫。仁厚好学で方孝孺に師事したが、太祖からは繊弱さを憂慮され、父の死によって東宮を嗣いだ後も叔父の燕王が太子に擬さたことがあった。 即位後は宗室の辺防諸王を危険視してしばしば漢の呉楚の乱に言及し、閣僚の斉泰・黄子澄らの建議で諸王の廃止を断行した結果、1399年に燕王による靖難の変を惹起した。
 靖難の変では燕王の殺傷を禁じた事や、指揮系統の不統一などから戦況は膠着し、二代を通じて抑圧された宦官の内通が絶えなかった。 金陵陥落とともに焼死したが、死体が発見されなかった事から僧となって雲南に逃れたとする説が生じ、そのため後の南海経略の初期の目的の1つは建文帝の捜索にあったともいわれる。成祖によって一切の事蹟が抹消され、建文の年号は清朝になってから回復された。
  
靖難の変 (1399〜1402):燕王の建文帝に対する簒奪戦争。 明朝では太祖が諸皇子を要地に封建して兵の指揮権が認められ、特に辺防諸王は大兵を擁していたが、建文帝には内患と認識されて周王・斉王・代王が廃され、湘王・岷王が粛清された後、最大の燕王が建文元年(1399)に弾劾されるに及んでモンゴル騎兵を多く擁する寧王と結んで挙兵した。 靖難軍と称した叛軍に対し、当初は兵力で圧倒的に勝る朝廷側が優勢だったが、建文帝が燕王の殺傷を厳禁し、又た戦略方針が一貫せず将帥も実戦経験に乏しかった為に戦況が膠着し、朝廷の宦官から通謀された燕王の奇襲によって金陵が陥され、建文帝の死が宣言されて燕王が登極した。

方孝孺  1357〜1402
 寧海(浙江省)の人。字は希直。宋廉門下の尤材と称され、夏殷周の三代の治の再興を命題とした。恵帝に翰林侍講学士に抜擢されて国政の枢機に参与し、その声望は燕王の謀首の道衍をして「孝孺を殺せば天下の読書人の種子が絶える」と処刑を再三諌めさせた程だった。 靖難の変での金陵陥落で捕えられ、永楽帝の即位文の起草を拒んで“燕王簒位”と大書した為に磔刑に処され、一族門弟872人が連坐し、永楽年間を通じてその著作を有する者も処刑された。

鉄鉉  1366〜1402
 ケ州(河南省)の人。廉直を太祖に讃えられて鼎石の字を賜名された。 山東参政のときに靖難の変が生じて兵站を担当したが、李景隆が大破されると義軍を組織して済南を堅守し、燕王を撃退して山東布政使・兵部尚書に進められた。 同年(1400)冬には総兵官の盛庸を輔けて燕王を大破し、以後も燕王の南進を抑えたが、建文4年(1402)に金陵が陥された後に沿淮で敗れて擒われ、燕王を面罵して戮された。

 

成祖 / 永楽帝  1360〜1402〜1424
 明朝の第三代天子。諱は棣。太祖の第4子。夙に軍才を認められて燕王として洪武13年(1380)より北平に鎮し、しばしば塞外に出征して太祖に嘉され、一時は太子に擬された事もあった。 諸王削藩を進める恵帝を靖難の変で滅ぼして即位し、内閣大学士の運用や北京奠都、宦官の任用など明朝の方向性を決定づけたが、その多くは太祖の方針を一変させたもので、錦衣衛に加えて東廠を提督させて宦官の権力を制度面から著しく強化した。 又た即位直後に反対派を徹底して弾圧した事で中堅以上の官僚が払底し、江南人士の出仕が控えられた事もあって一時的に深刻な人材難に直面し、北防の必要性も加わって即位の翌年には北平を北京と改称してほぼ常駐した。 朝廷の北遷は大運河を利用した漕運と南北流通の本格化を促し、永楽19年(1421)には公式に北京に奠都した。
 成祖は満洲・漠北・南海・ベトナムに積極的に外征し、チベットの羈縻経営や対日貿易も開始したが、中でも南海経略漠北遠征が双璧とされる。 又た南海経略同様に宦官が統監した満洲遠征は、奴児干都司を以て黒竜江にまで勢力を及ぼしたものの恒久支配とはならず、成祖の行なった外征事業の殆どはその死後は継続されなかった。
  
五出三犁 :永楽帝の行なった漠北親征の事。5度の長城越えと3度の勝利を指す。 永楽年間の大規模な北伐は永楽7年(1409)より計6度行なわれたが、丘福を統帥とした第一次北伐はベンヤシリ=ハーンに殲滅され、このため翌年より永楽帝が親征する事が常態となった。 8年の北伐はモンゴルのベンヤシリ=ハーン・アルクタイの二大巨頭を大破し、12年にはオイラートのマフムートを痛撃したが、入冦を再開したアルクタイに対し20年より連年行なわれた北伐は戦果を挙げられず、第五次遠征の帰途に楡木川で永楽帝が病死して漠北に対する攻勢は終結した。

姚広孝  1335〜1418
 長洲(蘇州市区)の人。法名は道衍。太祖の高皇后が歿した時(1382)に追善供養の為に燕王に配属され、信任されてそのまま謀主となった。燕王に挙兵を奨めて簒奪を成功させたが、方孝孺の処刑には強く反対した。 永楽2年(1404)に再三の要請で還俗して資善大夫・太子少師とされ、『太祖実録』の重修、『永楽大典』の編纂を進める一方、『仏法不可滅論』『道余録』を著して宋儒の仏教排斥を論難した。
 成祖即位の首勲でありながら生涯を廉節に徹したが、成祖の簒奪と以後の粛清に対する江南人士の反感は道衍に集中し、帰郷した際には旧友や肉親すら恥じて会おうとしなかったという。

張玉  〜1400
 祥符(開封県)の人。字は世美。元朝に従って塞外に奔った後、トクズ=テムルの頃(1378〜88)に明朝に帰順した。燕王に配属されて軍略を愛され、靖難の変では中軍を領し、建文2年(1400)に燕王が東昌で官軍の重囲に陥ると退路を拓いて戦死した。 燕王が即位すると靖難軍の第一功臣として栄国公に追封された。

朱権  1378〜1448
 太祖の第17子。1393年より寧王として大寧に就国した。 女真に対する最前線として燕王と並んで大兵を擁し、建文年間に朝見を拒んで徐籍されたが、燕王と結んで靖難の変を起し、永楽年間の塞王の廃止と伴に南昌に移封された。劇作家としても知られる。

解縉  1369〜1415
 吉水(江西省)の人。字は大紳。洪武21年(1388)の進士。『封事万言』で時政を指斥して御史とされたが、間もなく年少を理由に帰郷させられた。 恵帝に招聘されて侍詔とされ、靖難の変後は永楽帝に任用されて黄淮・楊士奇らを薦挙して共に文淵閣に入閣し、翰林学士・右春坊大学士とされて諸制度の確立に尽力した。 立太子問題で漢王高煦に憎まれ、さらに交趾遠征に反対して広西布政司参謀に左遷され、讒言から獄死した。
 成祖の閣僚に列した解縉・楊士奇・胡靖・金幼孜・胡儼は、建文年間に殉義を誓った仲といわれ、殊に胡靖は建文元年(1399)の会試で次席だったところを恵帝の配慮で殿試で状元に改められ、靖と賜名された。 このとき首席だった王艮が貶されたのは容貌を嫌われた為ともいわれるが、王艮は南京陥落に際して殉死した。明朝の士風の低迷は解縉ら江西閥に始まるとされる。

唐賽児
 蒲台(山東省博興)の人。夙に白蓮教に帰依し、夫と死別した後は仏母を称して布教した。 永楽18年(1420)の飢饉で挙兵して山東を席捲し、総兵官の劉忠を撃破したものの都指揮使衛青に惨敗し、以後は民間に潜伏して畢に発見されなかった。

鄭和  1371〜1434
 昆陽(雲南省晋寧)の人。馬を本姓とする回教徒。本諱は三保。 元初の賽典赤の裔と伝えられる。明初の雲南攻略で捕虜となって宦官とされたのち燕王に献上され、靖難の変での功賞として永楽2年(1404)に鄭姓を下賜されて太監とされた。 翌年(1405)より7度の遠征航海を指揮してアフリカ東海岸に達する事もあり、各地の反抗勢力を掃討しつつ明朝の威勢を誇示して朝貢を促し、第六次航海後の1424年にはパレンバンへの使者にもなった。三保太監・三宝太監とも呼ばれ、将兵・寄港諸国から絶大な信頼を受け、ジャワ・スマトラ・タイには三宝廟が建立された。
  
南海経略 (1405〜33):鄭和を団長として七次に亘って行なわれた、明朝による大船団の派遣。 1405〜07年の第一次、1407〜09年の第二次、1409〜11年の第三次航海ではインド南部のカリカット(コジコーデ)に達し、1412〜15年の第四次、1416〜19年の第五次、1421〜22年の第六次、1430〜33年の第七次航海では、本隊はタイ・アチェー・ホルムズに至り、別隊はペルシア湾・アラビア東南岸・アフリカ東海岸に達した。 第一次航海ではパレンバンで海賊的華僑の陳祖義を捕え、ジャワの内乱に遭遇し、第二次航海ではセイロンのガレに中国語・タミル語・ペルシア語の三体碑文を建て、第三次航海ではセイロン軍に反撃してセイロン王を捕虜とした。第五次航海ではアフリカの禽獣累を伴って帰国し、殊にキリンの存在は成祖を大いに喜ばせたという。
 船団は宝船・西洋大宝船・西洋取宝船とも呼ばれ、初期においてこそ目的は張士誠方国珍の残党の掃討、建文帝の捜索、ティムールとの開戦を前提とした攻守同盟締結などが挙げられるが、後には内外に対する明朝の示威と朝貢貿易の促進が主となり、鎖国の代償としての超大型の国家貿易と見ることもできる。 第一次・第七次航海では巨船62隻に将兵28千人余が分乗し、巨船の規模は137mx62mの8000t級に相当したという (1498年に喜望峰航路を発見したヴァスコ=ダ=ガマの旗艦が120t、コロンブスの船団は3隻88名で旗艦は250t級でした)
 南海経略は発展期の国力と元朝で培われた国際的視野を背景とし、成祖の雄図と鄭和の才幹があって実現したもので、宣徳年間に第七次航海が行なわれたものの鄭和の死後は再開されず、以後の国際交易上での明朝の立場は、宮廷儀式の必需品とされた竜涎香の輸入を主体とする受動的なものとなった。 又た竜涎香の仲介を担ったポルトガル商人は安定供給の代償として購買担当の宦官からマカオ居住を黙認され、次第に占領を既成事実化し、後に「中国は竜涎香でマカオを失い、阿片で香港を失った」と評された。
 成化年間に憲宗の嗜好と宦官汪直の功名心から南海経略の再開が諮られたが、兵部尚書の劉大夏は当時の財政難と宦官への反感から強硬に反対して兵部に収蔵されていた鄭和の航海記録の一切を焼却し、そのため航海内容と当時の諸国の世相、鄭和自身の詳細も殆ど伝わらなくなった。

陳祖義  〜1407 ▲
 広東潮州の人。スマトラのパレンバン港に拠っていた中国人海上勢力の首領。 洪武年間に移住した華僑で、戦船百艘、成員万余を擁して同省人の施進卿・梁道明らと抗争した。 鄭和の第一次航海で施・梁らが鄭和に乞援した為、佯降による鄭和襲撃を図ったものの戦船10艘と部下5千人を失って捕えられ、北京で斬首された。

イシハ
 亦失哈。女真人の宦官。靖難の変以前から燕王に随い、永楽9年(1411)に兵1千余、巨船25隻を率いて黒竜江口の奴児干都司を設置した。 翌年に再訪して苦夷(樺太)など周辺の土民を招撫し、永寧寺と永寧寺碑を建てたものの奥満洲の維持は困難で、宣徳3年(1428)・6年にも巡察して都司の再興を図り、8年に永寧寺を再建して重建永寧寺碑を建てた。 10年に遼東鎮守太監とされたが、奴児干都司は内向的になった明朝では顧られなくなり、20世紀での石碑の発見によって都司・永寧寺の存在が明らかになった。

侯顕
 宦官。永楽年間に司礼少監となり、チベット仏僧の哈立麻(カルマ=シャナク派の活仏)を招聘するため永楽元年(1403)にチベットに派遣され、5年に帰国して太監とされた。 後にネパールからベンガルに達して両国に朝貢を促し、宣徳2年(1427)にもチベットに派遣された。

李達
 宦官。永楽年間(1403〜24)に四次に亘って西域に派遣された。 最初は1407年(永楽5)に東チャガタイ=ハン国に派遣され、ティムールの死に乗じた侵攻を諫止し、次いで1413年にティムール朝のシャー=ルフを訪問し、中央アジア諸国を歴訪して14年に帰国した。 1416年の東チャガタイ=ハン国への弔問使が第三次訪西で、最後の訪西は1418年にティムール朝への答礼使としてヘラート・サマルカンドを歴訪したもので、ハミを征服した東チャガタイ=ハン国のヴァイス=ハンともイリ=バリク(伊寧)で会見した。 以後の消息は不明だが、ペルシア史料にその名が散見する為、鄭和と並ぶ外交を担った重要な宦官だったと考えられる。 第二次遣使時の体験に基づいた『西域行程記』『西域番国志』は、資料価値を高く評価されている。

陳瑄  1365〜1433
 合肥の人。字は彦純。 武官として四川・雲南の略定に従事し、靖難の変では長江の水師を率いて燕王に投じ、永楽初年に平江伯に封じられて指揮使の世襲を認められた。管家湖・高郵湖の築堤、白塔河の開鑿、閘門47ヶ所の築造など京杭大運河の維持・修築に尽力して漕運の隆盛に貢献した。

瞿佑  1347〜1433
 銭塘の人。字は宗吉、号は存斎・吟堂。 14歳で楊維禎から“瞿家の千里駒”と絶賛され、洪武年間に国子監助教、永楽年間に周王府の右長史とされたが、詩禍で投獄されて陝西省保安県に流され、洪煕元年(1425)に赦されて帰郷した。代表的著作は『剪燈新話』4巻。

仁宗 / 洪煕帝  1378〜1424〜1425
 明朝の第四代天子。諱は高熾。成祖の長子。成祖親征の際には常に能く国都を留守したが、病弱や過度の肥満を危惧され、一説では実子の瞻基(宣徳帝)に期待されて廃されなかったという。 即位後は成祖の外征偏重や靖難の禁錮を修正して南京還都を諮るなど内治安定につとめ、寛容の仁君として将来を嘱望されたが、在位8ヶ月で病死した。

宣宗 / 宣徳帝  1399〜1425〜1435
 明朝の第五代天子。諱は瞻基。仁宗の長子。明察果断と称されて早くから将来を嘱望され、成祖の北伐にも同行した。即位直後に叔父の漢王の乱を親伐したことで諸王の抑制と君主権の伸張に成功し、楊士奇らの輔佐によって後に“仁宣の治”と称される安定期を現出した。 開平府の放棄とベトナムからの撤退を決し、司礼監権限の強化や内書堂の設置、内閣制度の確立など以後の明朝の方向性を決定的にした。文人としても優れ、画才は宋の徽宗と並称され、又た世相を反映した宣徳窯は明代最良とも評される。

朱高煦  1380〜1426
 仁宗の次弟。放埓で学問には無縁だった半面で大力で騎射・軍事に長け、靖難の役でしばしば燕王の危難を救った事で太子に推されもしたが、無学凶暴なために叶わなかった。 永楽2年(1404)に漢王として雲南に封じられた後も就国せず、青州に転封された後は私兵を用いて横虐を行ない、兄の高熾(仁宗)の擁護で徐籍を免れたと伝えられる。 仁宗・宣宗に優遇されながらも宣徳元年(1326)に成祖の再現を図って挙兵し、親征した宣宗に敗れて幽閉され、謁見の際の無礼を以て3百斤の銅釜に封じられて烝殺された。

夏原吉  1366〜1430
 湘陰(湖南省)の人。字は維普B洪武年間に郷薦で太学に入り、戸部主事に抜擢された。 靖難の変では建文帝に従って投獄されたが、間もなく赦されて戸部尚書に累進し、永楽年間の財政政策に多く参与して北京奠都や漠北親征を支えた。 第三次北伐に反対して投獄されたものの仁宗が即位すると戸部尚書に復し、仁宗の死後に入閣して楊栄らと宣徳初期の世を支えた。

金善  1368〜1431
 新淦徘山(江西省峡江)の人。字は幼孜。金幼孜として知られる。 建文2年(1400)の進士。永楽12年(1414)に翰林学士、18年に文淵閣大学士に進み、成祖の北伐に常に扈随して『北征録』2巻を著した。 征途で成祖が歿すると軍を鎮撫する一方で楊栄が北京に喪を急報し、仁宗が即位すると大学士に戸部右侍郎を兼ね、翌年には礼部尚書・武英殿大学士に転じ、三祖の実録編集にも参与した。

楊栄  1371〜1440
 建安(福建省建甌)の人。字は勉仁。建文2年(1400)の進士。成祖に信任されて北伐では軍務の枢機に参与し、永楽18年(1420)に翰林学士を兼ねたまま文淵閣大学士とされ、22年に成祖が征旅で歿すると京師に奔馳して太子を即位させた。 工部尚書に進んで内閣に列し、漢王の乱では宣宗に親征を進言し、しばしば北巡して三衛の蠢動を制圧した事もあり、楊士奇と与に仁宣の治を善く支えた。 英宗の即位で垂簾した張太后を輔政して五大臣に数えられ、特に楊士奇・楊溥とは“三楊”と併称され、「才気縦横の楊栄、重厚の楊士奇、公正無私の楊溥」と讃えられた。

楊寓  1365〜1444
 泰和(江西省)の人。字は士奇。楊士奇として知られる。建文2年(1400)の進士。 解縉の推挙で成祖の内閣に連なり、永楽15年(1417)に翰林学士に進み、仁宗が即位すると礼部侍郎に曄蓋殿大学士を兼ね、宣徳年間には閣臣の筆頭とされた。 宣宗が歿すると英宗の定策に参与して内閣権司礼監に優越させる事に成功し、張太后の垂簾を支えて楊栄楊溥と“三楊”と併称されたが、後に郷党問題から楊溥と対立して王振の優位を結果した。 又た郷里での一族の横恣を黙認した為に三楊中最劣と評され、最も横暴だった実子が処刑されると蟄居閉門した。
  
台閣体 :永楽〜成化年間に主流となった詩風。旗手とされた楊士奇・楊栄・楊溥らがいずれも内閣の重鎮だった事が名称の由来となった。 古文体・中唐詩の奔放・風雅への回帰を提唱したが、次第に安逸・理想のみを詠うようになり、古文辞派の抬頭を招来した。

楊溥  1372〜1446 ▲
 石首(湖北省)の人。字は弘済。建文2年(1400)の進士。 郷試の解元として楊栄らと共に翰林院編修を授かり、永楽初年に東宮の洗馬とされた。永楽12年(1414)に輔導の不備を以て投獄されたが、仁宗の即位で赦されて翰林学士に進められ、宣宗が即位すると入閣して9年(1434)には礼部尚書に至った。
 英宗が即位すると武英殿大学士を加えられて“三楊”に数えられ、或いは楊士奇を西楊、楊栄を東楊、楊溥を南楊と称したが、御史による胥吏の殺害を巡って郷党意識から御史を擁護する楊士奇と対立し、王振によって御史が断罪された結果、楊士奇の威信が低下しただけでなく内閣に対する司礼監の優位を結果した。

戴進
 銭塘の人。字は文進、号は静庵・玉泉山人。戴文進として知られる。李唐馬遠の山水画を学んで写実性に優れ、南宋院体画と雄勁な浙江水墨画を融合させ、明初山水画の第一人者と称された。 宣徳の初期に画院に招聘されたが、同輩の讒言で追放されて窮死した。 浙派の開祖でもあり、後に北画の大家とされた。


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