五経
儒学の根本経典である『易経』『書経』『詩経』『礼経』『春秋経』の総称。先秦時代には楽譜たる『楽』を加えた六書が重んじられたが、秦末に喪われた。
西漢の経学者は一科専修、東漢では兼修が主流で、鄭玄は後者の代表として経学の大家とも称される。
“一家一学”とも称された経学は時代と伴に分化して解釈が乱立し、西漢の石渠閣会議、東漢の白虎会議・五経石刻などは解釈の統一を目的としたもので、唐代勅撰の『五経正義』はその集大成とされる。宋代には、『論語』『孝経』『礼記』『公羊伝』『左氏伝』『穀梁伝』『爾雅』『孟子』を加えて“十三経”の呼称も生まれた。
四書 ▲
朱子学で教学の基本と見做された‘大学’‘中庸’・『論語』『孟子』を指す。
『論語』と『孟子』は早くから重視されていたが、『礼記』中の1篇に過ぎない‘大学’‘中庸’は、古文運動が昂揚した北宋になって注目され、朱熹が重視して『論語』『孟子』と共に校訂・施注を行なったことで、朱子学の国教化とともに五経と並ぶ聖典となった。
易経
五経の1つ。『周易』と、漢以降の注である‘十翼’から成り、両者を合した『易経』の称は宋以降に定着した。
『周易』の作者は文王・周公に仮託されたものの、実際には春秋時代のものとされ、記号の一種の‘爻’(陰陽2種)を3重・6重させた‘卦’(八卦・六四卦)と、それらを抽象的・暗示的に解説した‘爻辞’‘卦辞’から成っている。
占筮書とされながらも名称の由来や本来の用途は不明で、『周易』に記されている漢字の意味も、秦漢以降のものとは異なっていることが甲骨文や金石文の研究で判明している。
漢代の易学が事象から天意を解釈する象数易だったのに対し、魏以降は経文からの倫理哲学の解釈を唱える王弼の義理易が主流となり、王弼注の古文『費氏易』が『五経正義』にも採用されて現行本の元となった一方で、象数易の学統は断絶した。
従来の訓詁学を否定した宋代では、程頤が著した『程氏易伝』は義理学に於いて王弼注と双璧と讃えられた。
象数易でも数理による易卦の生成原理の解明を試みる動きがあり、太極図や先天図・河図洛書などの図像を用いた図書先天の学=易図学が興り、南宋の朱熹は義理易と象数易の統合を試みて『周易本義』を著している。
書経
五経の1つ。『尚書』とも。虞書・夏書・商書・周書と続いて秦穆公の秦誓で終わり、王の宣誓や訓告が殆どを占める。古くは『書』、西漢で『尚書』、宋以降に『書経』と呼ばれた。
周の史官の記録を孔子が編纂したものと称したが、魯国に伝わった周公に関する記述を中核とし、歴代の儒家によって加筆されて現今の体裁が整った。
漢武帝の世に古文尚書が発見されてより、従来の今文派との論争が発生したが、永嘉の乱で『尚書』を含む経伝の多くが散佚した。
東晋の豫章内史梅賾が新出の25篇を加えた58篇を発見し、以後はこれが正経となって唐の『五経正義』でも用いられたが、梅賾『尚書』には南宋の頃より偽作説が唱えられ、考証学が盛行した清代に閻若璩によって新出の25篇が偽作であることが証明され、この部分は『偽古文尚書』と呼ばれる。
又た清末の学者の丁晏は魏の王粛の偽撰とし、日本の武内義雄は、『偽古文尚書』の注釈である「尚書孔安伝」は、王粛の門人である孔晁(字は安国)の作としている。
詩経
五経の1つ。『詩』とも。西周・春秋時代の311作品を収める中国最古の詩歌集。
士大夫の教養として孔子が詩を重視した事は『論語』中にも示され、そのため孔子が擢採したとの説が生じ、早くから儒学の経典とされた。
全体の構成は各国の民謡や叙情詩の‘風(国風)’105篇、宮廷詩的な‘大雅’‘小雅’、廟歌の‘頌’40篇に大別され、‘雅’や‘頌’には長編の叙事詩的な作品も含まれる。
又た韻文や興(導入)・比(比喩)などの手法も看られ、『楚辞』と並んで漢詩や楽府の成立に大きく影響した。
西漢では五経の筆頭に置かれ、『春秋』同様に章句や文字の構成から「詩篇の元となった史実に対する毀誉褒貶」を探る“美刺説”が普及し、『魯詩』『韓詩』『斉詩』の三家に博士が立てられたが、東漢では古文の『毛詩』が抬頭し、鄭玄が注を施した『毛伝鄭箋』が『五経正義』に採用されて現行本の元となった。
詩の内容自体の追求は宋代になってから行なわれ、朱子学では‘国風’を単なる民謡と規定したが、‘雅頌’については聖人の思想の存在を肯定している。
儀礼
五経の1つ。全17篇。礼経の一部として伝えられた‘士礼’17篇(春秋時代の、主に士大夫の礼法の解説書)を指し、晋代に『儀礼』と改められたが、‘士礼’を以て礼経の全文とする見解も根強い。
礼学は西漢では三家に博士が立てられ、東漢の鄭玄は今文の『儀礼』と古文『礼古経』を校合し、古文『周官』や『小戴礼記』と併せて“三礼”とした。
礼記 ▲
もとは礼経に対する注釈書として『記』と呼ばれ、儒家に関わる逸話や冠婚葬祭の作法と意義から、文明論の展開や天人合一の思想までその内容は多岐に亘っている。漢での礼博士は実質的に『礼記』学に対して立てられた。
西漢の戴聖が『記』から選定した『小戴礼記』49篇に、鄭玄が注を加えたものが盛行し、晋で王粛注が用いられてより二大流派となったが、鄭玄注は唐の『五経正義』に採用された事で今日まで正経として存続した。
‘大学篇’‘中庸篇’は道学者に重視されて朱子学では“四書”に数えられ、儒学の基礎書となった。
周礼
『周官』とも。周公に仮託して戦国時代に作られた周の官制の説明書で、天官冢宰(中央王室)・地官司徒(行政)・春官宗伯(儀式・祭祀)・夏官司馬(軍事)・秋官司寇(司法・外交)・冬官考工記(土木)の六部から成る。
西漢武帝のとき河間献王が発見した古文経伝の1つで、欠損していた冬官に『考工記』を充てて献上したという。
王莽が依拠した古典の1つであった為に劉歆による偽作説も根強いが、宇文泰や王安石の改革でも典拠として用いられ、又た『孟子』『書経』『儀礼』『礼記』などの古書と合致しない点のあることが、劉歆による偽作説の否定材料となっている。現行の『周礼』は東漢の鄭玄注に基づいている。
▼
考工記 :周代の、主に兵具の作成を述べた書。語彙や、秦や鄭の刀の名称がある事などから戦国斉の偽書とされるが、古代器物の名称や製作法などは考古学に大きく寄与している。南斉時代に戦国楚の王墓から発見された同書は、古代の科斗文字で書かれているという。
春秋
春秋魯国の国史を孔子が編纂したものとされ、隠公の元年(B722)〜哀公12年(B483)の災異や事件などの事実を簡素かつ客観的に記す。歴史書でありながら、孔子の思想を反映していると解釈されたことから五経に数えられた。
現在は『公羊伝』『左氏伝』『穀梁伝』に包括されて伝えられている。
『春秋』を孔子の著し、微言大義(類義字を用いた暗喩的な批評)による思想の存在を指摘したのは孟子で、この春秋の筆法の解釈から春秋学が行なわれた。
漢では『公羊伝』が正学とされたが、古文学が盛行した東漢では『左氏伝』が主流となり、唐以降は『春秋』に回帰して『春秋正義』が作られた。
宋代以降は道学の盛行もあって春秋学は低調で、清代の漢学の隆盛で経書としての『春秋』が再認識されたが、疑古派によって孔子との関係は否定された。
又た近年では、日蝕の的中率の高さ(95%)から同時代史である事が唱えられた一方で、惑星の位置の研究などから、戦国時代に編まれたとする見解も生じている。
春秋公羊伝
春秋三伝の1つ。西漢の景帝代に公羊寿が董仲舒に伝えたもの。
孔子の弟子の子夏の門人/斉の公羊高が著して同家で相伝されたと伝えられるが、現在の体裁となったのは景帝の時代と考えられている。
“微言大義”の解釈を問答形式で明らかにする形態で、董仲舒が黄老思想に代わる統治原理と唱えて博士が立てられ、漢代を通じて春秋学の正統と見做された。
左伝学が盛行した東漢でも白虎観会議などで官学として再確認されたが、何休の『春秋伝解詁』を以ても大勢は覆されなかった。
漢学が盛行した清朝では常州派によって再評価され、清末の学問や政治思潮に大きな影響を与えて変法派の思想的柱ともなった。
春秋左氏伝
春秋三伝の1つ。魯の左丘明の作と伝えられ、三伝中では唯一、古文経伝が存在する。『春秋』本文を豊富な歴史的資料で補い、その字数は『公羊伝』『穀梁伝』の4倍に及び、史書、或いは文学作品としても重視された。
西漢末の劉歆らによる古文経学の官学化と伴に重視されて東漢では春秋学の主流となり、西晋の杜預が『春秋経』と『左氏伝』を一体化して『春秋経伝集解』を著したことで春秋学の標式となった。
唐代には春秋学が『春秋』に回帰したことで経学としての左伝学は凋落し、南宋の朱熹からは「左氏伝は史学」と評された。
古くから劉歆による偽作説(既存史書の改竄)があり、清代の常州派は古文経伝そのものを劉歆の偽作とし、近年でも田斉の『春秋』、魏の『竹書紀年』に対抗する為に韓が『春秋』に仮託したとの説が出されている。
春秋穀梁伝
春秋三伝の1つ。孔子の弟子の子夏の門人/魯の穀梁俶の注と伝えられるが、『公羊伝』や法家思想の影響が認められる。
『穀梁伝』を重視した漢宣帝の世にこそ盛行したが、南北朝時代には学統は絶えていたらしい。
晋代に范寧が『春秋経』と合して著した『春秋伝集解』は、杜預(左伝学)や何休(公羊学)の著した注釈に比して客観的で、排他性・正統観は抑制されているという。
『穀梁伝』では『公羊伝』以上に尊王が強調され、又た特に日月時例の有無を微言大義として重視したが、思想性は『公羊伝』に、史料性と文学性は『左氏伝』に劣り、歴朝を通じて低調に終始した。
論語
孔子の言行や、孔子と門人、門人同士の対話集。
孔子の門弟の記憶などから編集された一種の備忘録で、そのため前後矛盾している箇所もある。
全20篇中、前10篇は曾子・子思など主流派の編纂とされ、諸門人の言行が多く含まれる後10篇とは一線を画し、また最後の3篇は後世の付加と見做されている。
秩序や風俗を維持する原理として身分階級の固定化や家族道徳の遵守を強調し、これが後に忠孝論として支配階級の統治の道具となった事で、保守的礼教主義の象徴として革命後中国では批判の対象となった。しかしその一方で、晩年の孔子には人間性を重視して社会常識に叛く“狂狷”を肯定する一面があった事も指摘される。
孟子
孟軻の言行録。全14巻、7篇260章。孟子と諸侯・来客・門人との議論や対話が中心で、「心労治人、力労被治人」のように孔子の思想を発展させながらも、「重民軽君」「良禽選枝」など当時の下剋上の風潮を色濃く反映している。
仁のほか義を重視し、人間天性の資質を肯定し、その天資を昇華させる媒介として礼を論じた性善良知=性善説はよく知られる。
韓愈が注目し、朱子学に至って“四書”に数えられるほどの権威を具えたが、君主の絶対性を否定して革命を肯定した点が忌まれて洪武帝によって校訂が命じられ、日本でも江戸中期の国学者から危険思想と批判された。
墨子
墨家の思想書。全15巻。開祖墨翟の言行や思想を後進が編修したもの。
『漢書』芸文志には全71篇とあるが、現行本では18篇分が欠けている。
第8篇尚賢篇〜第39篇非儒篇が墨家思想の中核をなし、身分に依らない人材登用、血縁制社会や弱肉強食の否定、奢侈・厚葬の批判などを展開し、ほかに防禦戦術から幾何学や光学・力学にも言及している。比喩や反復を多用した平易な論法は士や庶民を対象としたらしく、兼愛・非攻と並んで『墨子』の特徴とされる。
抵抗主義である為に統一秦で徹底的に排除され、漢でも儒学否定の教理によって研究対象にすらされなかったが、階級否定・唯物論的姿勢は近年になって評価が高まっている。
荀子
荀況の著作とされるものを劉歆が編纂したもので、原本の成立時期は不詳。
百家思想の集大成とも、稷下の思想書の白眉とも評され、荀況自身は儒家の正統を自任したが、性悪説に象徴されるごとく孔子を全面肯定してはおらず、その門下から李斯や韓非が出たことなどから、現在では法家に分類されている。
唐代に注釈が加えられて現行の32篇20巻本となり、『荀子』と命名された。
日本では荻生徂徠らが、朱子学に反対する為に『荀子』こそ本来の儒学であると尊重した。
老子
道徳経とも。老子の著作と伝えられる道家の思想書。人物としての老子は孔子にやや先行する同時代の思想家ともいわれるが、実像は諸説あって実在を立証することも困難で、『老子』の成立時期も『孟子』以降とする説が有力視されている。
人為による自律の限界性の主張は、学説が硬直化しつつあった当時の儒教に対する反論として成立したものとされ、儒家思想はもとより墨家・陰陽家・五行家の影響も看取され、又た文体の不統一や重複箇所の存在などから、異なる時代の複数の編者が逐次的に編纂したものと考えられている。
老子の思想は無為自然の黄帝時代を理想とし、荘周によって継承・発展した為に“黄老”“老荘”、或いは道家とも呼ばれた。
後世、老子は神格化されて太上老君として道教の祖神の一角に坐したが、『老子』思想と道教教理には本来は殆ど繋がりはなく、反儒教・反権力の象徴として利用されたもので、後に道士は仏教打破のために、釈迦を老子の転生とする『老子化胡経』すら偽造した。
荘子 ▲
荘周の作と伝えられる思想書。全10巻、33篇。『老子』を享けて道家思想を完成させた書。
現存する33篇中、荘周の作とされるのは内篇7篇で、他に外篇15篇、雑篇11篇があり、郭象が現行の体裁に編集したと推定されている。
豊富な比喩・寓話を用いて道家の論を展開し、文学的にも優れた作品となっている。
道家思想は魏晋時代に発展・再評価されたが、続く南北朝時代には仏教の興隆によって理論構築を迫られた呪術的民間宗教や神仙思想と結びつき、道教という一大宗教に発展した。
列子 ▲
列寇禦がB400年ごろ著したと伝えられる道家の書。全8巻。
『老子』思想に沿って寓話を中心に展開しているが、『荘子』のような独創性に乏しく、列寇禦の実在性については否定論が大勢を占めている。
劉向が『叙録』で紹介した当時には“一家の書”とは認められておらず、東晋の張湛が注釈本を出すまでの経緯も不明で、漢代の成立説のほかに晋人の偽作説、『叙録』を含めて王弼の偽作説などがあり、今本の少なくとも大部分が魏晋時代の著作と認識されている。
楊朱の説を伝えていることが別の意味で評価されて、又た「杞憂」「朝三暮四」など人口に膾炙した言葉が多い。
太玄経
楊雄の著。全10巻。『易経』の体裁に依拠した宇宙論の書。
易の二爻六連の六十四卦に対し、三爻四連を八十一家と称して宇宙万物の生成の説明を試みたもの。宇宙万物の根源を“玄”とし、『老子』の「三万物を生ず」に基づいて三爻を用いるなど、老荘思想の影響が強い。三国呉の陸績、北宋の司馬光らによる注釈がある。
抱朴子
葛洪の著。全70巻。317年頃に成立した、不老長生術・練丹術などの仙術の解説書。
体系的“神仙道”の成立期の書物で、内篇20巻は神仙道を大系的に説明し、仙道の根本から成仙法としての練丹・導引・行気などを説いて方術に及び、神仙術が可能であることを論じている。
外篇50巻は一種の逸話集の傾向が強く、儒家思想を根本として法家思想を併せ、社会・文明の進歩を認めた上で、時政の得失や人事の善悪を論じて当時の政治社会を批判している。
六韜
武経七書の1つ。全6巻。周の姜子牙の著と伝えられる兵法書。
戦術・戦略のみならず、祭政や人倫にも言及している。老荘思想の影響が見られ、『隋書』には全5巻とありながら唐以降では6巻とあることから、魏晋時代に原型ができ、隋唐ごろに編修加筆が為されたものと推測されている。
三略 ▲
武経七書の1つ。全3巻。秦末に張良が黄石老に授けられた書と称されるが、三国時代の偽書。戦術や用具の心得を述べたもので、古くから『六韜』と併称された。
司馬法
斉の威王が編纂させた“司馬穰苴兵法”と同一視され、文字通り司馬穰苴の兵法をまとめたものとも、司馬穰苴の兵法を含む斉に伝わる兵法をまとめたものとも考えられている。
155篇から成って後世に広く流布し、司馬遷から「深淵にして広大、儀礼は厳正」と絶賛されたが、後に散佚して5篇のみが現存する。
孫子
武経七書の1つ。孫武が著した、中国を代表する兵法書。全3巻13篇。
体系的に構成され、計篇以下3篇で戦略論を、形篇以下3篇で戦術原論を、軍争以下7篇で戦術各論を展開する。文章は簡潔で、謀略・諜報や経済にも言及して政治的勝利を至高とするなど、独創的かつ実践的な兵法書として古来から尊重される。
曹操が注を施した『魏武帝註孫子』は、『孫子』が後世に伝わる上で最も重要とされる。
『漢書』芸文志では孫武の書を『呉孫子』、孫臏の書を『斉孫子』と区別したが、後者は早くに散逸したため両書は混同され、曹操注の『孫子』を『斉孫子』とし、孫武の実在すら否定された時期もあった。
1972年に山東省銀雀台の古墳から『呉孫子』とともに『斉孫子』が出土したことで、現行の『孫子』が『呉孫子』の原文にほぼ近いことが確認された。
『斉孫子』は時代を反映して戦術論の占める率が高く、やや詳細になっているという。
呉子
武経七書の1つ。呉起の著とされる。全3巻。
魏武侯との問答形式によって、戦略・戦術だけでなく賞罰・戦後保障にまで及んでいる。著者については呉起の弟子から後世の偽作説まであるが、韓非の著ににも現れることから、呉起の名を冠した著作は古くからあったとされる。
『漢書』芸文志には全48篇とあるが、現存するのは6篇で、唐代に現行の体裁になったと見られている。
尉僚子
武経七書の1つ。尉僚の著とされる。全24篇。『漢書』芸文志には31篇とある。戦争と政治に関する基本原則として政略・戦略論を重視する正攻法的なもで、論旨は明快で、孫・呉に亜いで首尾一貫しているという。
『孫子』『呉子』『孟子』『韓非子』の文をそのまま引用している箇所もあり、偽作説が有力視されている。
李衛公問対
武経七書の1つ。唐太宗と李靖の兵法問答集の体裁を採り、宋初の阮逸が李靖に仮託したものとされる。
古今の兵書や人物・兵法、兵種ごとの運用や陣法などを論じたもので、兵家に於ける評価は概ね高い。
楚辞
戦国楚の詩集。全17巻。西漢の劉向が屈原や宋玉・賈誼・東方朔らの作品を集め、自作を加えて16巻25篇としたのが最初とされるが、これは早くに散佚したらしい。
東漢の王逸が自作と班固の序を付して『楚辞章句』17巻としたものが現存最古の注で、以後多くの注や釈が出され、宋の洪興祖(1090〜1155)の『楚辞補註』17巻が定本となり、朱熹の『楚辞集註』8巻を加えた3書が『楚辞』研究の上で不可欠の資料とされている。
“楚辞”とは本来、湖広地方の六言または七言を一句とする民謡で、句中に助辞の‘兮’を加えることで独特のリズムを持った韻文の1ジャンル。
『楚辞』は北方文学である『詩経』とともに中国古代文学の二大総集とされる。
呂氏春秋
秦の呂不韋の編。全26巻。3千とも称される食客を総動員して、戦国末の秦に伝わる諸学説・伝説などを集大成したもので、天文・宗教・社会から諸子百家にいたる先秦の諸思想を網羅した一種の思想的百科全書。
古来より統一性の欠如が批判されてきたが、先秦の思想を研究する上で不可欠の資料とされている。
淮南子
西漢の淮南王劉安の編。
劉安が王国内の学者を総動員して、諸家の思想・学説・知識を総合的に記述編修した類書の嚆矢的存在。
戦国諸子の学説を網羅し、又た形而上的な宇宙観から現実的な生活技術にまで及び、さらに各国の地理風俗や古今の神話伝説も収録している。
当時の淮南王国には、武帝の集権政策と儒学偏重によって中央を逐われた学者が参集して数千人に達したと伝えられ、そのため書中では万物を貫く原理を“道”と呼ぶなど道家的な色彩が強く、漢初の思想潮流を反映している。
内書21篇・外書33篇、神仙黄白術の『中書』8篇より成るとされ、現存する『淮南子』は内篇にあたる。
論衡
東漢の王充の著。全30巻。当時の思想界の主潮をなしていた讖緯説や俗信などの神秘主義を合理的精神から厳しく批判し、孔子をはじめ過去の聖賢・諸子についてもその思想の矛盾を指摘している。
帰郷から約30年を費やして書かれ、人間論・歴史論・自叙伝などを論じて体系化はされていないが、その主張は当時にあっては最も完成された科学的実証主義に貫かれている。
はじめ会稽地方に流布していたものを蔡邕が得て密かに対論の際の秘書とし、会稽太守となった王朗によって全国に知られたが、讖緯に対する評価の変化を示すものとしても重視される。
往時は100篇以上あったものが『後漢書』では既に85編と記録され、現在ではさらに第44招致篇が欠落している。
当時の権威を厳しく批判しているため研究自体がタブー視されてきたが、現在では古代の唯物論的思想書として高く評価されている。
説文解字
東漢の許慎の著。中国最古の漢字の解説書。篆書から9353字を選んで540種の部首を設定し、漢字の造字法を象形・指事・会意・形声・転注・仮借の6種に分類し、各字ごとにその造字法と意味を解説している。
甲骨文字の発見によって解説の誤りも発見されたが、甲骨文字や金文の解読において重要な資料であることは変わっていない。
風俗通義
東漢の応劭の著。全10巻。
事物の名称などについて、世俗の誤解を正す目的で書かれた。
俗説修正の趣旨は『論衡』に通じるものがあるが、文章の簡明な点において『論衡』より高く評価されている。
著者には他に、漢末の混乱によって制度・典礼・故事などが忘失されることを憂えて著した『漢官』『礼儀故事』などがある。
典論
魏文帝の著。古今の経典・文学を論じた中国最初の文芸評論。
文中の「蓋し文章は経国の大業、不朽の盛事」は、文学の自立の宣言とその政治的価値を認めた画期的な見解とされてきた。
「奏議は正しく、書論は理に合し、死者の頌徳の碑文は実を重んじ、詩文は麗しく」の一文は、六朝文学の先駆と見做される。現在では数編のみ残存している。
文心雕龍
梁の劉勰の著。全10巻50篇。中国文学史上初にして空前と評される体系的文学論。
“詩文評”に分類されながらも詩話(詩人・詩作についての断片的な批評や逸話)を主とする他の作品群とは大きく一線を画し、独歩冠絶と絶賛される。
前半は文学の本質と文体を論じ、各ジャンルの定義と発展史的批評、古人の名作の評論などを行ない、後半は修辞学の原論および各論にあたり、作者の個性と作品との関係、作品と時代の関係を論じて作家論・作品論にまで及んでいる。
最後の序志1篇で本書の著作目的を述べ、六朝文学の修辞主義的偏向を批判し、文学を人間理性の成熟の必然的結実だと定義している。
本書は隋唐より歴朝で重んじられ、宋代以降は多くの注釈が行なわれたが、民国の范文瀾注の評価が高い。
詩品
梁の鍾エの編。全3巻。518年頃に成立した、漢〜梁の詩人123人の評論集。
各詩人を上品12人、中品39人、下品72人に分類している。全体の1/3を占める“序”は独立した文学論でもあり、詩の発生から五言詩の論と四言詩との比較、修辞論、批評詩論など著者の文学論および品評の準拠が明示され、本文に劣らず重視される。
気骨や文辞・独創性を重んじて当時の流行の典故の多用や声律論などには批判的で、五言詩を最上として定型化を嫌う点はやや恣意的とも評されるが、先進的な評論は同時代の『文心雕龍』と並んで中国文学評論史上で最も重要な1つとされる。当時の評書が故人を対象とする原則により、沈約の死後に完成したとみられている。
文選
梁の昭明太子の編。全60巻。
周〜梁の130人の詩文760編を収録している。賦・詩・騒にはじまり弔文・祭文にいたる39の文体に分類され、各文体内で作者の年代順に配列され、“素朴から華麗”という進化論的文学論が示される。又た経・史・諸子からの引用を排し、文学に限定して採録している点も特色となっている。
採録した詩賦だけで約500編を数え、詩文を学ぶ者には必須の書となり、隋唐時代には“文選学”なるものも興った。現代に伝わる唐の李善注60巻本は語句や事実の出典において詳細であり、やや後の呂延祚の『五臣注』は簡潔なことで広く流布し、北宋時代には両注の合刻本が『六臣注』として流行した。
『文選』の出現により旧来の総集は淘汰され、唐以降の中国文学はもとより日本の文学にも多大な影響を与えた。
当時の総集の通例に則り、編纂時期は陸倕(470〜526)の死後まもなくとされる。
玉台新詠 ▲
梁の蕭綱(簡文帝)の要請で徐陵らが撰した詩歌集。全10巻。530年ごろ成立。
艶詩を好んだ蕭綱が、艶体詩を称揚するために編修させたと伝えられ、梁代のものを中心に、漢以後の詩・楽府を採録し、雑言体・歌謡なども収めている。
各分野から秀作を抜粋した『文選』とは異なり特定のジャンルに特化したもので、本書収録の詩体は“玉台体”とも呼ばれて後世文学に多大な影響を与え、『文選』とともに六朝文学を研究する上での必読書となっている。
史通
唐の劉知幾の撰。全20巻。史官としての識見を世に問い、史書纂述についての体例を述べた中国最初の史論書。710年に完成した。内篇10巻で史籍の分類や筆法・史観を論じ、外篇10巻で史籍の源流や諸史の批評を展開している。
『史記』の史観よりも『漢書』の形式美を上位に置き、都邑志・民族志・方物志の創設論は時勢に合致したものとして高く評価され、後世の史論にも大きく影響を与えて史家必携の書とされた。
茶経
中唐の陸羽(〜804)の著。全3巻10篇。760年頃に成立した、中国茶道の代表的かつ現存最古の書。
茶の起源・産地や道具・作法などなどを扱い、主に団茶や餅茶について述べられている。
集古録
北宋の欧陽脩の編。全10巻。1063年に成立した、周〜五代の金石文の解説書。
欧陽脩が王室所蔵の金石文の拓本類の大要を抄録(約100巻)した後、その中から約400点について考証的な解説を付したもの。
純粋な金文は巻一の前半のみで、他の大部分は石碑文の考証に費やされ、特に東漢と唐代のものが最も多い。
同時代の趙明誠(1081〜1129)の『金石録』とともに、古器物研究による古代史研究の先駆として高く評価されている。
本草綱目
明の李自珍の著。全52巻。1578年に成立した、中国の代表的な本草(薬物学)書。
中国の薬物学は植物が主体である事から“本草”と称される。中国最古の本草書は南朝の陶弘景が注釈した『神農本草経』で、以後の歴朝で編纂された勅撰の本草書は実質的には神農書の増補版とも評される。
『本草綱目』は著者自ら各地を歴遊し、あるいは多数の文献を研究するなどして約30年をかけて完成したもので、その分類や解説などにも独自色が強く、薬物の産地・形状・薬効なども添書されている。
廿四史
18世紀の清朝乾隆年間に勅撰された正史の総称。
『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』『宋書』『南斉書』『梁書』『陳書』『魏書』『北斉書』『周書』『隋書』『南史』『北史』『旧唐書』『唐書』『旧五代史』『五代史』『宋史』『遼史』『金史』『元史』『明史』。
正史には『史記』の体裁に準拠した紀伝体であることが求められたが、『三国志』以降は志・表を欠くものが多く、又た『史記』以外は時の政治の意向と不可分のものとなり、その傾向は、唐太宗が臧栄緒の『晋書』に対し、勅撰で改めて『晋書』を編纂させてより決定的となり、同時に勅撰で多数の学者が編纂する事が一般的となった為に統一性を欠き、巻帖の多さを誇る傾向を生じて質の低下を招来した。
又た明確な規定を設けた為に、史書としても思想書としても評価の高い『資治通鑑』をはじめ編年体史が排除され、史書編纂が国家事業となった為に歴朝で野史(私的編纂になる史書)がしばしば弾圧された。
『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』は“前四史”と称されて文学哲学者にも必読書とされ、経書のごとく古典としても扱われて種々の注釈が加えられた。
征服王朝の元朝で編纂された『宋史』『遼史』『金史』、洪武帝が政治的意図から緊急で編纂させた『元史』は杜撰と評されるが、南宋で定められた十七史にこの4史を加えて廿一史となり、清代に『明史』が加えられて廿二史となり、後に『旧唐書』『旧五代史』を併せて廿四史となった。
廿四史に『新元史』を加えて廿五史、『清史稿』を加えて廿六史と呼ぶこともある。
史記
西漢の司馬遷の私撰。本紀12巻、表10巻、書8巻、世家30巻、列伝70巻より成る。
太古から武帝の元狩元年(B122)までを記した通史で、はじめ『太史公書』と呼ばれたが、三国頃に『史記』に定まった。
歴史を個人の行動の集約とする歴史観から紀伝体が採用され、平明・流麗な筆致は後の文語文の形成に多大な影響を与えた。
『史記』は南北朝の頃には『漢書』『東観漢記』『三国志』とともに四大正史に数えられ、唐代に正史の条件として勅撰・勅許である事が加えられて以降も、私撰でありながら正史の筆頭に挙げられる。
漢書
東漢の班固が編纂の中心となった西漢の断代史。帝紀13巻、表10巻、志18巻、列伝79巻より成る。
班固の父/班彪の未完の遺著『史記後伝』が母胎となり、勅命によって編纂され、班固の死後に妹の班昭によって8表と天文志が補われて完成した。
客観的描写を旨とし、人物描写においては『史記』に及ばないが、「字中に情旨悉く露る」と評され、後世の史書の指標となった。
三国志
晋の陳寿の編纂。
『魏志』30巻・『蜀志』15巻・『呉志』20巻より成り、北宋時代に合本65巻が出版されてより『三国志』と称され、各“志(誌)”は“書”に改められた。
簡潔かつ格調高い文章は正史中屈指と評され、早くから『史記』『漢書』『東観漢記』と並ぶ四大史書に数えられた反面、帝紀と列伝のみで構成され、史実の記載も簡略で、裴松之の補注が不可分の要素となっている。
又た魏を正統として魏にのみ帝紀を立て、或いは諸葛亮の将才を否定した事もあって恣意が多いとの酷評も生じた。
裴松之の補注は魚豢の『魏略』、王沈の『魏書』などに取材しているが、これら参考史書の殆どが亡佚しているために補注自体も貴重な史料となっている。
蜀の朝廷では史書事業が行なわれなかった為、陳寿の仕えた蜀の文量が最も簡略となっている。
後漢書
南朝宋の范曄の作。帝紀12巻、志30巻、列伝88巻より成る。『東観漢記』を基に、それまでに編纂されていた各種の後漢史の集大成として成立した。
特に華嶠書からの引用が多く、史観は『史記』の義侠を高く評して経学的な『漢書』には否定的だが、唐の劉知幾から「簡にして周く、疎にして漏らさず」と高く評価されている。
施注者としては唐の章懐太子が最も有名で、又た現行の『後漢書』は、北宋真宗の時代に司馬彪の『続漢書』から志を加えたものとなっている。
魏書
北斉の魏収の編纂。本紀14巻、列伝96巻、志20巻より成る。
恣意による毀誉褒貶が強く、完成直後から収賄や怨恨による曲筆・不平を糾弾され、3度の改訂の後も“穢史”とすら酷評されて隋唐で楊素の『魏書』をはじめ多くの魏史が撰述されたが、いずれも早くに亡佚して魏収書も又た宋代には多くを欠落し、『北史』によって補われた部分が少なくない。
同時代の史料と比較した場合に、高氏とその縁類以外には曲筆と断じ得る点は殆どないとの指摘もある。
魏史だけでなく代政権や十六国、南朝諸王朝をも収録し、又た仏教・道教の為に特に釈老志が建てられている。
晋書
唐太宗の勅撰で、房玄齢・李延寿らが編纂した勅撰正史の嚆矢。帝紀10巻・志20巻・列伝70巻・載記30巻より成る。
晋史は六朝時代を通じて多数編纂され、殊に臧栄緒の『晋書』110巻は高く評価されていたが、この臧栄緒本を底本として陸機・謝霊運・干宝ら17種の史書を参考に編修された。
載記は『史記』の世家にあたり、十六国の歴史が記されているが、唐室の正統性を主張するため漢人政権の前涼・西涼は列伝に加えられている。
又た最初に下賜されたのが太子李治と新羅の金春秋であるなど、中国王朝としての唐の正統性を喧伝する目的を有し、従来の正史に比しても政治色が強く、正史の国撰化と堕落をもたらしたと批判されることもある。
宣帝紀・武帝紀・陸機伝・王羲之伝は太宗自ら執筆し、李淳風の手になる律暦志・天文志は傑作であるとして海外でも高く評価されている反面、伝記・志怪小説からも多く取材している点は劉知幾ら史家から批判されている。
梁書・陳書
唐の姚簡の撰。『梁書』は本紀6巻・列伝50巻、『陳書』は本紀6巻、列伝30巻より構成され、貞観年間(627〜49)の前期に完成した。表・志を備えず、駢文を用いない著述が特徴とされる。
梁・陳に仕えた父/姚察の業を継いだものであり、そのため父の故主や知人に配慮して記さなかった事績も少なからずあり、この姿勢は評者によって判断が分かれるところで、公平性は『南史』に劣ると批判される事もある。
清の趙翼は「『南史』は『梁書』の事蹟を増すこと最も多し。正史の文詞事蹟は極力簡浄としながらも、正史に無き瑣言砕事・新奇可喜の蹟は補綴せざるなし。『梁書』は国史の旧文に據り、関わり有らば書き、関わり有りと雖も忌諱有らば隠す。故に行墨最も簡にして『南史』の増益多きを覚ゆ…『南史』の行文渋滞多くして『梁書』の爽勁に及ばず」と、史家としての立場から評している。
南史・北史
唐の李延寿の編纂。南朝を扱った『南史』は本紀10巻、列伝70巻、北朝を扱った『北史』は本紀12巻、列伝88巻より成る。
父の李大師の業を継いだもので、志・表は備えず、『北史』編纂に注力して特に西魏に詳細で、『南史』は父の作を再編したのみと伝えられる。
詔令や上奏文の多くを省いた簡略な文章が好まれ、文量は南北朝8書の半ばほどであり志怪的な逸話も多いながらも遺漏記事の補填が喜ばれ、659年に正史として公認された後は隋書を除いた南北朝7書は読まれなくなったという。
『南史』については簡略化と瑣言砕事の増補が批判される事もあるが、『北史』は詳密かつ首尾一貫し、編次の趣意も理に適っていると絶賛される。
唐書
『新唐書』とも。北宋仁宗の勅撰で、欧陽脩・宋祁・曾公亮・呂夏卿・梅堯臣らが編纂。本紀10巻・志50巻・表15巻・列伝150巻より成る。
唐史はすでに後晋高祖の勅撰になる200巻本が存在したが、当時から晩唐の資料不足が指摘されており、宋代になって唐代資料が多く発見されたことで編纂され、旧『唐書』は『旧唐書』と通称されるようになった。
編纂者の多くが韓愈の古文運動の支持者である為、簡略化がすぎて文意が不明瞭になったり詔勅の古文への改竄などが観られ、加えて道義を重んじる“春秋の筆法”を意識して記述が主観的に傾き、取材史料が豊富な故に取捨選択に恣意が散見されるなど、編纂者からも批判が生じた。
呂夏卿が『唐書直筆新例』を著したのはその好例で、司馬光の『資治通鑑』も唐の部分は『旧唐書』に依っている。
▼
旧唐書 :五代後晋の勅撰。全200巻。後晋滅亡の前年(945)に完成・奉上された。唐末の戦乱で散佚した諸書を蒐集して編纂したが、総裁官の変更もあって統一性に欠けて一人二伝なども発生し、又た実録の絶えた唐武宗以降の記述は断片的記録を補綴したものとなっている。
北宋で勅撰の唐書が完成されると『旧唐書』と呼ばれて区別されたが、資料的価値は『新唐書』より上に置かれる。
五代史記
『新五代史』とも。北宋の欧陽脩の撰。全74巻。勅撰の五代史はすでに太祖のとき薛居正らが編纂していたが、欧陽脩は『唐書』の新撰に倣って『五代史』を私撰し、死後に奉上されて官書として正史に加えられた。
『旧五代史』が王朝別の断代形式を採っているのに対し、五代を一王朝期と見做して本紀・列伝を置いている点が特徴とされるが、『新唐書』同様に道義観に傾いて原史料の改竄や歪曲が指摘され、藩鎮的な荊南を世家に加えている点も批判されている。
宋史
元朝順帝の勅撰で、トクト・欧陽玄らが編纂。本紀47巻・志162巻・表32巻・列伝255巻から成る。
南宋の国史(実録)や多くの野史のほか石碑・墓誌などの豊富な資料を参照したが、3年間で『遼史』116巻・『金史』135巻と並行して編纂された為に文章量のみが増えて廿四史で最も大部となり、他2史との齟齬も散見される。
元史
明朝洪武帝の勅撰で、宋濂・高啓らが編纂。本紀47巻、表8巻、志58巻、列伝97巻から成る。
漢人王朝復興の宣揚を急ぐ為に、実質1年間の拙速な編纂で洪武3年(1370)に完成した事から、典拠に対する不充分な検証、諸伝での齟齬や表記の不統一、同一人複数伝など各種の問題を孕み、廿四史中で最も評価が低い。
▼
新元史 :『元史』の不備を補う目的で、清史稿編纂に参与した柯劭サが1919年に編纂したもの。
本紀26巻、志70巻、列伝154巻より成り、1921年に正史に加えられた。
元朝とモンゴル帝国の関係に鑑みて、明代に執筆された各種の元朝史の他に『元朝秘史』『集史』などを参照したが、『元史』からの改訂箇所や増補分の典拠が不明確で、又た誤引も多く、1930年には重訂版が刊行され、又た柯劭サによる『新元史考証』で典拠が解説された。
清史稿
帝政を図る袁世凱が主導した、清史の準備稿。本紀25巻、志142巻、表53巻、列伝316巻より成る。1914年に清史館が開設され、趙爾巽を館長、柯劭サらを総纂として学者百人余が動員され、1927年に脱稿した。
帝政を肯定し、国民政府を賊として扱った為に北伐に成功した蒋介石から禁書とされたが(関内本)、満州に持ち出された改訂版(529巻)の刊行が続けられた(関外本)。清史は1961年に台湾政府から刊行され、又た共和国政府でも編纂が行なわれ、唯一の正史的清史として『清史稿』の出版も認められている。
竹書紀年
先秦時代の晋・魏の国史を記した編年体史。晋の咸寧・太康年間(275〜289)に、戦国魏の襄王の陵墓が盗掘された際に発見され、荀勗が整理した“汲冢書”の1つ。
伝説時代から魏の襄王までが竹簡に記され、『春秋』『史記』とは異なる記事も多かった為に野史・偽書として長らく放置され、北宋代に再び散佚した。
革命後に諸書の引用文からの復元が進められており、現在では先秦史の欠を埋め、『史記』の年表を再構成する上で不可欠な資料となっている。
国語
“諸国物語”の意。周語3巻・魯語2巻・斉語1巻・晋語9巻・鄭語1巻・楚語2巻・呉語1巻・越語2巻の全21巻より成る。
作者は不明で、『左伝春秋』の補遺として左丘明が著したとする説が古くから根強く、『漢書』では『左伝』を“春秋内伝”、『国語』を“春秋外伝”と呼んでいる。記述に統一性が欠ける点や戦国初期に言及していることから、漢代に現行の体裁に編纂されたとする見解が妥当とされる。
文学的価値は『左伝』に遠く及ばないが、孔子が否定的だった占いや予言、謀略なども採録され、儒教が普及する以前の春秋時代を知る歴史書として重んじられ、古くは“左・国・史・漢”と併称されていた。周の穆王35年の犬戎討伐〜貞定王16年の知伯滅亡を扱う。
戦国策
戦国諸国の国史や遊説家の言説・逸話などの記録を、劉向が国別に編纂したもの。全33巻。
人口に膾炙した逸話が多いことも特徴で、底本となった国策・国事・短長・事語・長書・修書などは戦国末〜西漢初に作られ、司馬遷が『史記』編纂にあたって多くの史料を仰いだことはよく知られる。
一度散佚し、宋代に姚本と鮑本の二種の版が生じ、従来は姚本が原典の体裁を保っているとして尊重されたが、1976年には長沙の馬王堆から佚文『戦国縦横家書』などが発見されたことで、鮑本の信頼性が再評価された。
十六国春秋
北魏の崔鴻(〜525)が撰した十六国時代の歴史書。全100巻。原本は宋代には散佚して『十六国春秋纂録』が崔鴻本の抄訳として伝えられ、清代に湯球が諸書にある崔鴻本からの引用文と思われる箇所を『纂録』に輔綴して『十六国春秋輯補』を完成させた。
又た明代には屠喬孫・項琳が『北史』『晋書』などの諸書から輯佚した偽作本もあったが、現今ではより信頼度が高い明代本が『十六国春秋』と呼ばれている。
通典
唐の杜佑の作。全200巻。801年頃に成立した、古代から玄宗の天宝年間に至る制度史。
開元末期に劉秩が『周礼』に倣って撰した『政典』35巻の不備を補うもので、著述に30年を要した。
『漢書』以来の断代史偏重に対し、『史記』に倣って食貨・選挙・職官・礼・楽・兵・刑・州郡・辺防の九部門について、制度の沿革・変遷の詳細を論述し、殊に唐代の社会経済・制度を知るうえで欠くことのできない資料となっている。
資治通鑑
司馬光の作。全294巻。1084年に完成した、戦国時代の三晋封建〜五代末年の編年史。
1064年に英宗に奉上した『通志』8巻が基となり、勅撰に準じたものとして編纂には当代一流の史学者が参画し、又た思想の一貫性や文体の格調も高く、神宗から『資治通鑑』との書名を下賜された。
『春秋』の体裁に倣うなど宋代の正統思想の影響が強く、司馬光が失脚した後に本格的に著述が進められた為に客観性には欠ける点があり、又た編年体である為に正史には数えられなかったが、完成後は『史記』と並ぶ中国史書の双璧と讃えられ、徽宗代の党禁でも英宗の序文があった為に禁書措置を免れ、以後の多くの野史が編年体を踏襲するなど史学界に多大な影響を遺した。
注釈書としては宋末元初の胡三省のものが最も重要とされ、本書未収録の記事も附加されて『資治通鑑』を読む上での必読書とされる。
文献通考
宋末元初の馬端臨の著。全384巻。1317年頃に成立した。
政治史主体の『資治通鑑』に対抗し、上古から南宋嘉定末年(1224)にいたる諸制度の沿革・変遷を論述している。『通典』の注・増補として成立したが、宋代の記述については既に散佚している一級資料が基礎になっており、宋代史を研究する上で不可欠のものとなっている。
又たこの時代には本書の他、古代以来の通史である『通志』などの各種通史が編纂されている。
十八史略
宋末元初の曾先之の著。全7巻。太古〜宋末の簡略な編年史。王朝史観で著述され、以って漢民族の自覚と矜持を鼓舞することを目的としたとされる。史書より小説に近く、史料的価値のない俗書とも評されるが、最も簡便な中国史の入門書として、むしろ中国よりも日本で愛好されてきた。
多くの加筆増訂が施され、明の陳殷らによって現行の体裁となり、その際に三国時代の正統が蜀に改められた。
著者の曾先之は廬陵(江西)の人で、進士を経て地方官を歴任し、滅宋後は仕官をしなかった南宋遺臣という以外、その事跡は殆ど伝わっていない。
管子
管仲の作と伝えられる政治論書。全24巻。
政治・経済・軍事・教育などの諸問題について具体的な政策を例示している。
戦国時代に管仲に仮託されて作られたもので、儒家・道家ほか墨家・兵家・農家などの学説も多く含み、漢代にかけて複数の編者によって加筆修正が重ねられたために体系性を損ない、劉向が重複部分を除いて564篇を86編に編纂したとされる。
『漢書』芸文志では道家に分類され、『隋書』経籍志より法家に分類されるようになり、現在は76編が残存している。
晏子春秋
晏嬰の言行録と伝えられ、名文と評されている。著者・成立時期ともに不明。
戦国時代〜秦末にかけて整理・編修され、内篇6巻・外篇2巻より成る。内篇は斉君に対する諫言や晏嬰の説話が中心で、儒家的な内用となっているが、外篇には儒家の奨める厚葬を批判する件もあって墨家に近く、又た一夫一婦制が奨励されている。
商君書
商鞅の著と伝えられる政治論。全5巻。
商鞅の学説を中心として法家学派の政治論を集めたもので、法律の厳格な運用を主張して徳治主義を否定している。
純粋な法家思想の書であることから、商鞅の著作を核として後世の法家によって加筆・校訂が重ねられたものとされている。
韓非子
韓非の著作を主体とした同学派の政治論。全20巻。
法術による富国強兵ならびに臣下統禦術による君主権確立を主張し、徹底した法治主義と心理抑制術は法家思想の完成体と評され、随所に述べられた寓話もまた辛辣な心理描写によって古代寓話文学の傑作とされる。
韓非思想の背景には、抬頭する豪族や大商人による私有の集中という社会変動があり、これらを抑制して公益保護を至上とする唯物論が提示されており、また周の封建体制を否定して次代の法刑制度の具体的方向を示唆した点で、思想史的に重要な意義を持つ。
儒家思想が国教化されたことで中国での評価は低く、江戸時代の日本において活発に研究された。
潜夫論
東漢の王符の著。全10巻。政界の腐敗に憤慨した著者が、致仕後に時政の得失を論述したもの。
売名ではない事を示す為に潜夫と称した。商業の発達による生活の向上が奢侈を促し、没落農民の游民化をもたらして社会が破綻に瀕しているにも関わらず、勢族出身の官僚は一身の名利のみ求めて論を弄んでいると弾劾している。
卜筮のことを論じ、或いは太古以来の姓氏の起源・系譜のことを述べている篇もあるが、現行本と『後漢書』引用の文章には多くの差異が散見される。
概して王符の論は急進的で、唯物論的な『論衡』の透徹には及ばないとされるが、当時の社会相を知る上では極めて貴重な記録といえる。
斉民要術
北魏の賈思勰の作。全10巻92篇。6世紀前半に成立した、中国に現存する最古の農業書。
様々な穀菜・果樹・桑・麻の耕作・栽培技術のほか、養畜・醸造の方法などが営農の実際に則して詳述され、中国古代農学の発展に大きな影響を及ぼしただけでなく、中国料理史でも不可欠な文献とされる。著者については益都(山東省寿光)の人で、牧羊の経験があり、高陽太守を務めたという他は不明。
貞観政要
唐の呉兢(670〜749)の編。全10巻40篇。唐太宗と臣下の政治問答集。
復辟した中宗に奉上された後、開元の末頃に一部が改訂されて世に流布した。
帝王学・経世術の手本として歴代皇帝の必読書とされ、日本でも鎌倉時代以降広く愛読された。
唐律疏義
開元律の官撰注釈書。全30巻。条文の字句の解釈とともに適用に関する問答を載せる。
嘗ては永徽律(651)に対する長孫無忌らの『律疏』と考えられてきたが、現在は李林甫の奉勅撰とされる。
宋末まで『宋刑統』と並び行なわれ、中国をはじめとする東アジア諸国の古代・中世法典を研究する上で重視されている。
農政全書
明の徐光啓の著。全60巻。中国農学の集大成。古来からの農家の学説を集大成しただけでなく、紡績業やマテオ=リッチから学んだ水利学・地理学など西洋技術を加えた自説も開陳している。
又た当時ルソンから伝来した甘藷(サツマイモ)を自ら栽培・研究して『甘藷疏』としてまとめるなど、中国農業への貢献も小さくない。
著者が官界を失脚した後に執筆したもので、死後の崇禎12年(1639)に刊行された。
天工開物
明の宋応星の著。全3巻18篇。崇禎10年(1637)に刊行された。
農業・製塩・製陶・鋳造・製油・製紙・醸造など、当時の産業のほぼ全分野の技術について、歴史的考証から現状についてを述べている。
中国の技術力を宣揚する目的の為か導入が始まっていた西洋技術には殆ど言及がないが、中国の伝統技術が精密かつ実証的に記述され、又た多くの図版が添えられている事もあって研究資料としての価値は高い。
中国では特異な書であり評価されないまま散佚し、寧ろ日本で珍重され、辛亥革命後に和刻本が逆輸入されてより再評価された。
明夷待訪録
明末清初の黄宗羲の著。全2巻。1663年に完成した。
異民族による中国征服に直面し、明朝滅亡の原因とともに政治のあるべき姿を論じた書。君臣や政府・法はいずれも万民の為にこそ存在するものであるという見解に立脚し、豊富な歴史的事例を用いて、明朝後期を主体として従来の政治体制を痛烈に批判している。
乾隆年間(1736〜95)、体制批判の書として禁書処分とされた。“明夷”とは易の卦の一つで、「明なるものが破れている」状態をいう。
日知録
明末清初の顧炎武の著。
康熙9年(1670)に全8巻の初刻本が淮安で出版された後、増補が続けられて同34年に32巻の今本が刊行された。
著者の読書・学問の成果の集大成として、社会百般の事象に対する厳密精緻な考証を随筆の体裁で記し、清代考証学の範となったが、考証に終始せず、導き出された政治思想には異民族支配に対する批判・抵抗が潜められている。
山海経
著者・成立時期ともに不明の、中国古代の地理書。禹と、その治水を輔けた伯益の共著と伝えられ、多くの神話を含んでいる。
先秦時代に南山経・西山経・北山経・東山経・中山経の“五蔵山経”ができ、増補を累ねつつ劉歆が“海外四経”“海内四経”各4巻を加えて校訂し、郭璞が“大荒四経”4巻と“海内経”1巻を加えると共に注を施してほぼ現行の体裁(5部18巻)となった。
“五蔵山経”は儒教に影響される以前の山岳崇拝に則して洛陽一帯を中心とした概念上の地理を解説したもので、山岳を主体に河川や産物・鳥獣・神霊などを紹介し、後代の成立になるほど神話伝説や怪異の比率が増して、後代には伝わらなかった神話伝説なども含んでいる。
穆天子伝
全6巻。著者・成立時期ともに不明。『竹書紀年』と共に発見された“汲冢書”の1つで、束皙・荀勗・杜預・郭璞らの校訂・注をへて現行の体裁となった。
周の穆王の外征や西巡を中心とした歴史書の体裁を採り、穆王と西王母との会見は古代西方地域の地理・文化の起源や、西王母伝説や崑崙伝説と中原文化の関わりを研究する上で重視される。
風土記
『陽羨風土記』とも。晋の周処が著した郷土志。
各地で編集された『先賢伝』『耆旧伝』同様に、東漢後期以来の郷党意識の昂揚の中で編纂された代表的な地方志で、後の『歳時記』群にも大きな影響を与えた。
西京雑記
全6巻。著者・成立時期ともに不明の、長安の逸話小説集。
劉歆の著作を東晋の葛洪が蒐集編纂したという説と、葛洪の許にあった劉歆の集めた資料のうち、『漢書』に漏れたものや異同のある箇所を抜粋して編纂したとする説がある。
西漢の長安の様子を伝える貴重な資料であり、文人が詩作の際にも大いに重用したという。
華陽国志
東晋の常璩の作。全12巻。355年に成立した。華陽は『尚書』禹貢篇の梁州を指し、漢の益州にあたる。
北宋の元豊年間(1251〜58)に成都で刻されたものは誤脱が多く、南宋で1204年に正史によって補訂された。
神話時代〜成漢の巴蜀地方の地理・物産・人物伝などが述べられた地方志で、『三国志』裴注や『後漢書』章懐注にも多く引用されるなど正史の欠を補う点が多く、又た三星堆文化の出現によって古代の記述についても正当性が再評価されつつある。
仏国記
東晋の法顕の取経記。1巻。
西域経由でインドに入り、セイロンから南海経由で帰国するまでの30余ヶ国についての見聞録。仏教史のみならず中央アジア・インド・東南アジアの歴史を知る上でも貴重な資料で、現存する中国人仏僧の内陸アジア記録中最古のものであり、欧文訳もされている。
荊楚歳時記
南梁の宗懍が著した中国最古の歳時記。原名は『荊楚記』。
漢末以来行なわれていた各地の風土記や人物伝が発展したもので、6世紀中頃に完成し、荊楚地方の年中行事や風俗習慣を記録している。
後に隋の杜公瞻が南北の風俗の差や年中行事の沿革などにまで言及する注釈を施したため、すぐれた民俗学的資料となった。
水経注
北魏の酈道元の著。全40巻。
3世紀頃に著された『水経』に対する注となっているが、『水経』137河川に対して1252河川について解説し、漢以来の地理知識の集大成と見做される。
著者自ら華北各地を歴遊した体験と諸書から得た知識によって黄淮水系のみならず、やや正確性を欠くものの長江水系についても記述され、全流域の都城・古跡・山川について古書を多数引用して説明している。
10世紀に5巻が失われ、その後改訂を重ねると伴に経文と注文との混雑を生じたが、清の戴震らの尽力でほぼ原本が復元された。
洛陽伽藍記
北魏の楊衒之が547年頃に完成させた。全5巻。
永煕の乱(孝武帝の出奔と高歓による洛陽劫掠:534)で荒廃した洛陽の、往時の繁栄を追憶した著者が後世に伝えるために撰したもの。
城内各寺院の建立者や由来、貴族の信仰や思想のみならず都城の様子や風俗、政界の事件や西域との交流にまで言及し、第5巻には宋雲・恵生の西域紀行文も載せられている。粉飾の少ない文章と簡潔な表現は、史料として有用なだけでなく文学的価値も認められている。
洛陽の寺院は西晋では42寺にすぎなかったが、北魏孝文帝の洛陽遷都と漢化政策や霊太后の傾倒によって増加の一途を辿り、貴族が死後に邸宅を寄進して寺院とすることも一般的で、その盛時には1千寺を超えたと伝えられる。
大唐西域記
唐の玄奘の取経旅行記。全12巻。646年に成立。
取経旅行中の見聞を勅命で著して長安僧の弁機が編集したもので、歴訪した110ヶ国と伝聞した28ヶ国について記述されている。
記述の中心は諸国の仏教事情や仏趾の状況になっているが、気候・風土・習俗・地理・歴史にも言及し、さらに諸国の言語や地名の翻訳・漢語化にあたっては非常に慎重に配慮しており、旅行記というよりむしろ当時の内陸アジア・インドについての百科全書的な書になっている。
そのため仏教史・歴史地理のみならず、言語学・考古学・民俗学の研究の上でも貴重な資料を提供し、法顕の『仏国記』と双璧とされる。
太平寰宇記
宋の楽史(930〜1007)が太平興国年間(976〜984)に完成させた地理書。全200巻、目録2巻。
現存最古の総志でもあり、中国および隣接諸国の地理・文化・歴史的沿革が記されている。燕雲十六州については名称のみの列記で記事は無いが、本土地域については統属関係や戸数・産物のほか形勢官戸や山水湖沼・橋梁・寺観・古跡、陵墓の個人の略伝も併記している。
唐代に作成された地理書の補欠・修正を目的としたが、前代までの地理書が地理的現状の報告を主体としたのに対し、文化・風土誌的な面を付加し、後世の地理書に多大な影響を与えた。現在の通行本では8巻が欠けているが、うち5巻が日本宮内庁図書寮所蔵の宋刊本中に残存しているという。
東京夢華録
宋の孟元老が1147年ごろ完成させた、東京開封府の回想録。全10巻。
紹興11年の和議によって開封回復が放棄されたことに対する抗議の一面がある。
都城内外の地理案内と風俗描写、様々な年中行事を紹介し、当時の風俗文化を知るうえで貴重な史料となっている。
大明一統志
明の英宗の勅撰により李賢(1408〜1466)らが編修した、中国および属国の総合地理書。90巻。
同趣旨の書として洪武年間に成っていた『大明志』が早くに散佚していた為、永楽年間から全国的地誌の作成事業が進められ、景泰年間に陳循らによって『寰宇通志』119巻が完成したが、奪門の変に伴う一連の前代否定作業の一環として『一統志』編纂が進められた。
内容的には全く『寰宇通志』の抄略本にすぎず、正確さに欠ける点も少なくないとされる。
北堂書鈔
隋の虞世南の編。全160巻。大業年間(605〜617)に完成した、現存する最古の類書。
北堂とは、編纂を行なった秘書省の後堂の俗称。秘書郎として、公文書作成に際しての参考書として諸書から語句を抽出・類別したもので、帝王・后妃・政術・刑法など19部に分かれ、各部はさらに細分されている。
次代の『芸文類聚』『初学記』の先蹤でもあり、現存しない古籍が多く引用されるなど、古典研究の上で不可欠の資料となっている。
芸文類聚
唐高祖の勅撰。全100巻。欧陽詢が中心となり、十数人の学士が3年がかりで編纂して624年に完成した。天部から災異部まで64部727目に分類されている。
事実の列記とは別に、関係する古今の詩文を文体別に記録してあることが特徴で、そのため詩文の作者に愛用され続けてきた。
又た亡佚した唐以前の文献資料も豊富に収録されており、『北堂書鈔』『初学記』とともに古典研究の上でも貴重な資料となっている。
初学記 ▲
唐玄宗の勅撰。全30巻。集賢院学士徐堅らが編纂し、開元15年(727)に完成した。
諸皇子の作文の際の参考書として作成されたもので、23部313類より構成され、語句を用例・出典と共に記載して、唐の類書中では「博の『芸文類聚』、精の『初学記』」と並称された。佚書からの引用も多く、史料的価値も高い。
太平御覧
宋太宗の勅撰。全1000巻。李ムら13人の学者が編纂し、984年に完成した。
類書の代表的なものとされ、『古今図書集成』を除けば『冊府元亀』と並ぶ大部。
『易経』の示す森羅万象の数に応じて55部門を立て、それぞれに小項目を設けて5426項に細分されている。
引用書物1689種とあり、その多くが当時既に原書が失われて他の類書から引用したものと考えられているが、古代中国の学術研究の上で貴重な資料を提供していることで尊重されている。太宗が1日3巻を閲覧したことから賜名されたという。
冊府元亀
宋真宗の勅撰。全1000巻。王欽若・楊億らが編纂し、1013年に完成した。天子執政の為の指南書が本来の目的であり、古代〜五代の君臣の事績を31部1104門に分類して『君臣事迹』を原名とした。
歴朝の制度史的な側面があり、殊に唐・五代の詔勅・上奏文資料が豊富で、史料的価値はきわめて高く評価されている。
宋刊本は553巻が現存し、明代に行なわれた復刻と鈔本は誤謬が多いとされる。
永楽大典
明の永楽帝の勅撰。全22,877巻、目録60巻。解縉を主編として2169人が編集に携わり、年余の編纂で永楽2年(1404)に『文献大成』として奉呈したものを、随所の不備を修正して『永楽大典』として同5年に完成した。
百般の書から抜粋した記事を『洪武正韻』の文字の順序に従って配列し(‘送’巻には送韻の字が列記され、その中の‘夢’字の項には夢に関する記事が列記されている等)、韻で配列した類書としては中国最大。
建文帝の事跡を抹消し、永楽帝の正統性を証明する目的で編纂されたため、体裁面での完成度が低いなどの急造の弊害はあるが、佚書の文章を多く収録していることから貴重な資料となっている。
嘉靖41年(1562)に副本が作られて隆慶(1567〜72)の初めに完成し、明末の混乱で正本(北京/文淵閣)が失われて副本(北京/皇城内)のみが不完全ながらも清朝に伝わり、『四庫全書』編纂にも大いに資ししたが、義和団事件で大部分が消失・散佚した。
世界各地の『永楽大典』の断片をすべて収集しても797巻にしかならず、うち714巻は北京図書館に収蔵されている。
三才図会
明の王圻の作。全106巻。1607年に完成した。天地人の三才にわたる事物を14部門に分けて解説した類書。
研究資料としては特に傑出してはいないものの図像が豊富に用いられていることが特徴で、現代では歴史人物の図像が転載される事も多いが、人物像は歴史的根拠に基づいたものではなく、又た荒唐無稽の記事が含まれいる事と併せて『四庫全書総目提要』でも批判されている。
日本では医師の寺島良安が体裁を踏襲し、一部を流用して1712年に『和漢三才図会』105巻を出版した。
古今図書集成
清の康煕帝の勅撰。全10,000巻。
陳夢雷らが編纂した後、雍正帝の勅命で蒋廷錫らが『永楽大典』に倣って再編・増補して雍正3年(1725)に完成した、現存する中国最大の類書。
古今の図書から抜粋して事項別に列記し、それぞれ原典名が記されている。全体は暦象・方輿・明倫・博物・理学・経済の6篇に大分類され、以下32典6109部に分類され、各部はほぼ彙考・総論・図表・列伝・芸文・選句・紀事・雑録・外編の順に記述されている。
四庫全書
清の乾隆帝が欽定した、78,731巻より成る中国最大の叢書。経史子集の4部から成る事が名称の由来。
乾隆6年(1741)より書籍の蒐集が始められ、紀ホが総纂官とされてより10年後の47年(1782)に完成した。その間の検閲で3千点程が禁書とされ、内容を改竄された例もあり、又た37年(1772)より厳罰を以て民間からの献本を強制した為、文教興隆よりも言論・思想統制に主眼が置かれたとされる。
初め4セットが作られて宮中の文淵閣、円明園離宮の文源閣、奉天行宮の文溯閣、熱河避暑山荘の文津閣に収蔵され、同55年(1790)に揚州大観堂に文匯閣、鎮江金山寺に文宗閣、西湖孤山に文瀾閣を建てて各1部が収められた。
文源閣本は1860年の英仏連合による攻撃で、文匯閣本・文宗閣本は太平天国の乱で焼失し、現在、文淵閣本は台湾の故宮博物院に、文溯閣本は甘粛省図書館に、文津閣本は北京図書館に、文瀾閣本は浙江省図書館に収蔵されている。
列女伝
西漢の劉向の編。全8巻。女性の伝記集。
母儀・賢明・仁知・貞順・節義・弁通・孼嬖など7部門を立て、それぞれに該当する女性15人前後の伝記を載せ、顧ト之の作と伝えられる挿絵が付されている。
後世に増補が行なわれた結果、劉向の批評である“頌”のない伝記や新朝以降の伝記が混じって15巻となったが、宋代に劉向作の『古列女伝』7巻と増補分『続列女伝』1巻に再編されて現行の8巻本となった。
説苑 ▲
劉向が補訂・編纂した先人の言行録。全20巻。官の蔵書から春秋以来の諸王や先賢の逸話・故事などを蒐集した点は同著の『新序』と同様だが、儒家思想に則った君臣の心得を説き、『列女伝』同様に、浮華に傾く時勢を諌める目的で作られたという。
“河間献王八篇”などの佚書からの引用もあり、考証資料として不可欠の存在で、中国よりむしろ日本で伝統的に重用・研究されてきた。
唐末五代に散逸し、曾鞏の尽力で現行の体裁に復元されたが、尚おも大量の佚文があると考えられている。
孔子家語
三国魏の王粛の編。孔子ならびに門人の説話集。全10巻。『漢書』芸文志で紹介されながらも佚書となっていた『孔子家語』27篇を、『左氏伝』『国語』『孟子』『荀子』『礼記』などから孔子に関する記事を蒐集して44篇としたもの。
「孔氏宅から発見された孔安国の撰」と称したが、顔師古以来の考証によって、鄭玄の学説に対抗するための王粛による仮託・偽作とされている。
世説新語
南朝宋の劉義慶の著。全3巻。漢末〜晋末の著名人の逸話集。
物語の特徴や人物の性格によって36篇に分類し、又た人物評や清談が盛んだった当時の風潮を背景に、賞誉・品藻・容止の各篇には人物評の逸話が収録されている。
全てが実話とは認められないが、当時の知識人の実像を提供する貴重な資料というだけでなく、その表現力から文学作品としても高く評価されている。
8巻として成立したものに梁の劉孝標が施注して10巻となり、南宋の紹興8年(1138)に3巻本に再編されて現在の体裁となった。
10巻本は本文の誤謬を訂正し、又た現存しない資料を豊富に引用しており、『三国志』注・『水経注』と並ぶ六朝時代の代表的な注釈書と評されている。
高僧伝
南梁の僧慧皎の著。全14巻。519年に成立した、仏教伝来以降の高僧の伝記集。
高名な僧侶に特化した従来の諸“僧伝”に対し、徳行を重視して無名の僧も採録し、本伝257人、附見243人を徳行の性質によって十科に分類している。
中国の初期仏教史を研究する上での基礎資料となっていて、唐代には本書に倣って道宣が『続高僧伝』を著している。
蒙求
唐の李瀚の著。全3巻。746年に成立。上古以来の著名人の伝記や逸話を四言句で綴ったもので、計596句より成る。
児童用の教科書として作られた為、「孫康映雪、車胤聚蛍」のように1句を1話として類似の逸話で一対とし、8句毎に韻を変えて歌唱に適させるなどの工夫がある。
宋の徐子光が施注してよりは初学者の必読書となり、元の雑劇にも多くの題材を提供し、又た日本にも早くから伝わって平安時代には貴族子弟用の教材とされ、1311年には初めて和刻本が出版され、江戸時代にも広く普及した。
北夢瑣言
唐末〜後晋の著名人の逸話集。内容に統一性はなく、また瑣末なものが多いが、当時の士大夫階級の実際が示されている。
作者の孫光憲(〜968)は滅唐後は荊南の高季興に従い、後に北宋の太祖に仕えた。
神異経
西漢の東方朔の作と伝えられる。1巻。地理や怪異に関する奇聞集で、47話が現存し、張華のものとされる注が付されている。『漢書』東方朔伝の著作リストにはなく、文体などから六朝時代の偽作と見られている。
列仙伝
西漢の劉向の編とされる。全2巻。上古以来の仙人70人を紹介したもの。
東漢時代の人名や地名が混在している為に後人の偽作説・加筆説などがあるが、道家では劉向の作として尊重された。
はじめ孔門七二弟子に倣って72仙が記されていたとされるが、欠けた2人については不明。
呉越春秋
東漢の趙曄の作。全10巻。春秋の呉と越の興亡を記した書で、越王勾践の記事が最も多くなっている。『左伝春秋』『国語』『史記』と異なる点も散見され、史書ではなく小説に分類される。
元代、徐天祜が音注を付すとともに、史実の異同について考証を加えている。
越絶書 ▲
東漢の袁康の作。全15巻。越王允常の抬頭から楚の春申君の封呉までが述べられ、文藻に於いては『呉越春秋』を凌ぐと評される。
笑林
漢末の邯鄲淳の著。1巻。中国最古の笑話集。
純粋な笑話のほか著名人の逸話も散見され、『世説新語』の先駆とされる。
もとは3巻あったものが13世紀頃に失われて類書で断片的に確認でき、魯迅の『古小説鈎沈』が29話収録しているものが最も多い。
博物志
西晋の張華の著。全10巻。中国のみならず諸外国にも及ぶ伝記・奇聞集で、もとは400巻あったものを晋武帝の命令で荒唐無稽に過ぎるものを削除し、北魏の常景らの刪定で現行本の体裁になったという。
志怪説話の嚆矢的な作品ではあるが、記事の殆どが断片的で、文学的価値はやや後の『捜神記』に大きく及ばないとされる。
神仙伝
東晋の葛洪の著。全10巻。
『抱朴子』内篇に並行して編纂された姉妹本的存在で、内篇の所説の具体例として諸仙を紹介している。
宋代の引用文に「晋書有伝」とある事から原本は早くに散佚していたらしく、明代に成立した道教全書『道蔵』には収められておらず、現行本には郭璞伝が載せられ、又た巻数や排列順・神仙名なども唐宋代の引用とも異同がある。神仙ももとは117人が記載されていたとされるが、現行本では92名となっている。
捜神記
東晋の干宝の編。全20巻。志怪小説の嚆矢的かつ代表的な作品。
殉葬させられた父の婢が死後数十年で蘇生したことに感じて著したとあり、470話を収録している。
伝記集の体裁を採っているため洗練はされていないが、六朝的説話の宝庫として後世の志怪小説の原案となったものも多く、日本の文学界に与えた影響も大きい。
『隋書』経籍史に30巻、『晋書』干宝伝には20巻とあり、殆どの六朝志怪小説と同様に散佚したが、明の万暦年間に蒐集・再編されて原本に近い形に復元され、中世の説話を研究する上で必須の資料となっている。
南朝で著された『捜神後記』10巻もほぼ同様の説話集で、これは陶淵明の作と称されている。
異苑
南朝宋の劉敬叔の著。全10巻。『捜神記』同様に散佚を免れた数少ない六朝小説集の1つ。
仏典からの採録もあり、作品数・内容のバリエーションとも『捜神記』に亜ぎ、唐代文人に好んで引用された。
述異記
南斉の祖冲之の著。1巻。もとは10巻本だったもので、殆どが散佚した。
又たこれとは別に、南梁の任ムの著作とされる同名の書が広く知られるが、これは『梁書』任ム伝には見られず、北斉の事件や中唐期の地名も散見され、書名も南宋で初めて現れる。
遊仙窟
唐の張文成の長編伝奇小説。1巻。7世紀末頃に成立した。
駢文で記されて詩の応酬が多く、単純な設定に対し人物の服装・動作・飲食・遊戯などの描写は詳細を極める。
遊里の歓楽を仙境探検譚の体裁で記しており、その為しばしば猥褻書物として禁書とされてきた。
日本や新羅の遣唐使が競って購入した事が記録にもあり、山上憶良や大伴家持が句に引用するなど日本で大いに愛読され、中国で散佚した書籍が海外で発見される“佚存書”として近年中国に逆輸入された。又た六朝〜唐代の俗語が多いことも貴重視される理由の1つになっている。
枕中記
中唐の沈既済の著。1巻。800年頃に成立した。
夢に毀誉褒貶を体験して現世の無常を悟るという伝奇小説の一形態の嚆矢で、「黄粱一炊の夢」「邯鄲の夢」として後世に敷衍された。
酉陽雑俎
晩唐の段成式の著。全20巻、続集10巻。860年頃に成立した。
家蔵の図書や宮中の秘書を渉猟して著した百科全書的な随筆集で、唐代伝記や志怪小説に類した説話も多く含まれ、西洋童話の『シンデレラ』の原案とされる『葉限』はその代表作といえる。当時の時代相や社会の一端を窺える貴重な記事が多い。
太平広記
宋太宗の勅撰。全500巻、目録10巻。李ムらの編纂で978年に完成した。
類書の体裁を採っているものの、内容は神仙・女仙・道術・方士などの説話集で、92項目に分類されている。
完成当初から評価は低かったが、明の嘉靖45年(1566)に写本が校刻出版されて流布するようになった。引用書物は巻頭では漢〜五代の344種とあるが、実際には漢〜宋初の475種であり、その多くが原書が亡佚しているため中国小説史の研究において必須の資料となっている。
夢渓筆談
北宋の沈括晩年の著。全30巻。諸分野にわたって考証した随筆。
士大夫の基礎教養とされる政治・歴史・音楽・文学のみならず天文・数学から建築・動植物・鉱物・科学・薬学などの自然科学の諸分野、さらには奇譚や志怪にまで及び、それぞれに著者独自の見解・考察が述べられ、従来の類書の枠を超えるものとして高く評価されている。現行本は全26巻となっている。
夷堅志
南宋の洪邁の著。全420巻。1200年頃に成立した志怪小説集。
著者が各地を旅行中に見聞した奇譚や逸話・風習のほか詩詞・歌賦、医薬の処方などを収録し、そのため古録の同工異曲的なものも混入している。
完成当時は『太平広記』に匹敵する大著だったが、後に亡佚して最も原型に近いものでも206巻本(本編180巻・補25巻・再補1巻)に過ぎないが、それでも宋代の民俗・宗教事情を知るうえで貴重な史料となっている。
元朝秘史
全12巻。原著者・漢訳者ともに不明。モンゴル族の起源〜オゴデイ汗時代の歴史を記し、明の洪武年間(1368〜98)に漢訳された際に『元朝秘史』と命名された。
チンギス汗の生涯を謳った英雄叙事詩を主体とする民族讃歌の口承文学にあたり、文学的評価は高く、モンゴル族の社会・風俗・言語を知るうえでも貴重な資料となっている。
西廂記
元代の王徳信の作になる長編戯曲。全21幕。14世紀初頭に成立した。唐の元稹の伝奇小説『鶯鶯伝』を原典とした金代の諸宮調『董西廂』を歌劇に改編したもので、この頃には礼教主義に批判的な大団円話となっていた。
4幕完結が基本だった元代戯曲では異例の長編で、元代戯曲の最高の傑作として李卓吾・金聖嘆などからも絶賛された。
輟耕録
元末明初の陶宗儀の随筆集。30巻。至正26年(1366)頃に成立した。
松江南郊に寓居した著者が、耕作の間に間に樹陰で憩いつつ社会百般の事を木の葉に記したものを編集したという。輟は休と同義。
元末の社会・法制から民間風俗や書画骨董など各方面に及び、殊に元の法令制度や元末江南の社会情勢については重要な資料となっている。
三国志演義
明の羅貫中の著。120回本。漢末〜晋初を主題とした長編口語小説。中国四大奇書の1つ。
六朝時代に萌芽した三国時代の説話(講談)は唐代には民間に定着していたらしく、大衆文化が発達した宋代には“説三分”と呼ばれ、三国時代専門の講釈師がいたほどの人気を博していた。
元の至治年間(1321〜23)にはその台本をまとめた『全相三国志平話』が刊行されたが、羅漢中によって正史『三国志』や民間伝承・佚文を交えた大校訂が加えられて小説文学作品『三国志演義』が完成した。
民間のみならず士大夫層にも広く愛読されて歴史小説の最高傑作とすら評され、中国四大奇書でも筆頭に数えられるなど文学作品としても高い評価を与えられてきた。
説話三国志が発達した時代の多くは北方異民族に圧迫された時代でもあり、そのため華北を支配した曹操を僭上=悪、南方に逐われた劉備を正統=善とする描写が早くから定着し、その傾向は正統論が昂揚した宋代に決した。
本書は第104回の諸葛孔明の死を分水嶺とし、以後の筆致が衰えているのは諸評で指摘され、第104回で終了する翻案・訳本も多い。
水滸伝
元代の施耐庵の著とされる。100回本。
北宋末の宋江の叛乱を主題とした長編口語小説。中国四大奇書の1つ。
反権威・反異民族の側名を持つ講談として南宋・元朝で急速に発展・説話化され、講談の台本『大宋宣話遺事』を底本として完成された。
物語は、108人の好漢の梁山泊集結と、首領となった宋江の朝廷への帰順を分水嶺とし、現存する最古のテキストは100回本となっている。
1600年頃に楊定見が第90回の伐遼戦の後に内乱鎮圧の20回分を加えて120回本となり、金聖嘆は梁山泊聚義を以て完結とする70回本に再編した。70回本は清代中国で最も流布し、日本では120回本が広く行なわれた。
本書は叛抗精神の教書であるとして元朝以来たびたび禁書とされてきたが、それだけに大衆側の小説として広く強く支持され、その事はしばしば白蓮教などの反政府組織の経典として採用されたことからも覗われる。
剪燈新話
元末明初の瞿佑の著。全4巻21篇。洪武11年(1378)に成立した、文語体の志怪小説集。
志怪小説としては比較的長篇の作が多いが、原本の『剪燈録』40巻は早くに散佚し、胡子昂が蒐集・編纂した残巻4巻が広く流布した。
唐代の伝奇小説に倣って四六駢儷体を多用し、男女の情話に取材したものが多く、その筆致は艶麗・閨情は絶品と評される。
以後の志怪小説の標式とされて模倣作が続出したが、後にしばしば禁書とされて中国では散佚し、完本は日本で伝えられた。
浅井了意の『伽婢子』や三遊亭円朝の『牡丹燈篭』など、多くの翻案が日本で為されるなど江戸文学に与えた影響は計り知れない。
西遊記
明代に成立した長編口語小説。100回本。
唐代の玄奘の取経記を題材とし、中国四大奇書に数えられる。1.孫悟空の前半生、 2.玄奘の前半生、 3.唐太宗の地獄巡り、 4.玄奘一行の取経記より構成されるが、小説の重点は 1.と 4.にあり、殊に小説としての評価は 1.が最も高い。
玄奘取経記の伝説化は唐末には始っており、南宋代の説話には扈随の妖怪も確認でき、元代に戯曲化・小説化が進んで明初の楊景賢の長編戯曲『西遊記』に至ってほぼ完成したとされ、この戯曲に『大唐西域記』や『大慈恩寺三蔵法師伝』などを交えて校訂・編纂が行なわれて現行の小説本としての体裁が完成した。
道教に対する仏教の優越性を説いたものとする解釈が現在でも定説となっているが、随所で仏教の俗世に対する迎合性が揶揄されており、仏前道後の現実を肯定しつつ宗教界の堕落を諷刺する一面を持っている。
著者については定説がなく、清代には丘処機説が定着しており、1924年に魯迅が提唱してより明代の呉承恩説が普及したが、現在では呉承恩は「小説『西遊記』の最終的な改編者」との見解が優勢となりつつある。
金瓶梅
明代の蘭陵笑笑生の著。100回本。
万暦年間(1573〜1620)後期頃に成立した、『水滸伝』の外伝的な長編口語小説。中国四大奇書の1つ。『水滸伝』の第23回〜27回のエピソードから発展した物語で、主人公西門慶の第五夫人潘金蓮・第六夫人李瓶児・金蓮の婢の春梅からそれぞれ一字を取って題名としている。
一商人の色と欲の生活を描写したもので、特に情景や服飾・挙措は丹念かつ精緻に述べられて冗長ですらあり、しばしば猥褻書籍として禁書とされたた。
人間の現世的な欲望を率直に描写した点を含め、明代の世相を浮き彫りにしているなど多くの点で評価されている。
菜根譚
明末の洪応明の著。全2巻。
著者の経験に基づいた処世術・交友・世俗批判などが、357条の、対句の多い警句風の短い文章で記されている。
儒教倫理を柱としながらも道教・仏教思想も採り入れられ、簡素で通俗的な処世訓の書として寧ろ日本で広く愛読され、特に禅僧に支持された。
平妖伝
明末の馮夢龍の編。40回本。北宋の王則の乱を題材とした長編口語小説。妖怪と結んだ王則が挙兵して一大勢力を成し、天帝によって滅ぼされるまでを描いたもの。
宋代には既に説話の1つとして演目に加えられており、羅貫中は王則の乱を肯定する立場から20回本『三遂平妖伝』を編修していた。
三言
明末の馮夢龍の編。全120巻。
天啓年間(1621〜27)に刊行された口語体短編小説集『古今小説』(『喩世明言』『警世通言』『醒世恒言』各40巻)の別称。
著者家蔵の書をもとに校訂増補して編集したもので、各巻が小説1篇となり、著者の創作も数編含まれているとされる。清代の禁書政策で散佚したが、昭和初期に日本の内閣文庫や大連の満鉄図書館などで再発見され、その内容が知られるようになった。
やや後の凌濛初の口語体短編小説『初刻拍案驚奇』『二刻拍案驚奇』(各40巻)と併せて“三言二拍”とも称される。
今古奇観 ▲
抱甕老人の編。全40巻。崇禎年間(1628〜44)に成立した白話小説集。“三言”から29篇、“二拍”から11篇を撰集したもので、“三言二拍”同様、清代にしばしば禁書処分とされて版木が焼却されたが、小作だったことが幸いして民間で隠匿・愛読された。
江戸時代には日本でも広く読まれて翻案も行なわれるなど江戸文学に影響を与え、部分的ながらもイギリス・フランス・ドイツなどでも翻訳がなされている。
題名は現存書はすべて“今古”となっているが、日本の江戸時代の書物では『古今』と紹介されている。
聊斎志異
清の蒲松齢の著。全12巻。康熙18年(1679)に完成した文語体の怪異小説集。
“聊斎”は著者の書斎名。民間説話・体験からなる小説集の体裁を採っているが、大部分は志怪もので、殊に狐精と人間、幽鬼と人間の情話が多く、また各所に現世に対する風刺・揶揄が見られる。
古典を駆使した簡素な文体は志怪文学中の白眉と評され、刊行当時から評判が高く、中国で最も広く読まれた小説の1つに挙げられる。
日本には江戸時代に伝えられて明治以降に流行し、多くの翻案が作られるなど近世文学に少なからぬ影響を与え、又た数篇を翻訳したフランツ=カフカにも精巧と評された。
人民共和国成立後に遺稿237篇が発見され、先行各種の通行本を校合して1962年に『会校本』が出版されたが、通行本より60篇多い491篇が収録されている。
池北偶談
清の王士禎の著。全26巻。康熙40年(1701)に刊行された、主客の対談形式の随筆集。
自宅近くの池の北に建てた書室(池北書庫)の傍らの亭での対話(偶談)が題名の由来となった。
故・献・芸・異の四編に大別され、故談(4巻)は朝廷での儀典・衣冠などを、献談(6巻)は明清の名臣の言行録、芸談(9巻)は詩文についての評論、異談(7巻)は志怪について記している。
儒林外史
呉敬梓(1701〜54)晩年の口語体の長編風刺小説。55回本。
科挙に翻弄される当時の士大夫の虚偽・功利心や時政の腐敗を痛烈に諷刺したもので、読書人を妖怪に喩えて「魑魅魍魎、ついに尺幅に現る」とも評された。特定の主人公や一貫した粗筋はなく、多くのエピソードを重ねて1つの話から次の話が生じ、第三の話に発展するというもので、オムニバス形式が普及する契機となった。
紅楼夢
清の曹雪芹の作。120回本。乾隆年間(1735〜95)末期に成立した長編口語小説。
官商から零落した著者が過去の栄華を偲びつつ著した自伝的要素を多分に含み、81回以降が失われた後に著者が急死した為、出版元の要請で高鶚によって新たに第81回以降が加えられた。
主人公と林黛玉・薛宝釵ら12人の女性との交情を中心に描き、煩瑣冗長な情景描写などと併せて『金瓶梅』の亜流と評される事もあるが、没落に至る過程を背景に無常観が全体を貫き、繊細な心理描写や純愛性=児女の情を評価されて『金瓶梅』に替って四大奇書に数えられた。
しばしば禁書とされながらも、“紅迷”と呼ばれる熱狂的愛読者や、“紅学”と呼ばれる一種の学問を生むなど非常に流布し、王国維の『紅楼夢評論』に至って始めてその悲劇性が評価された。
閲微草堂筆記
清の紀ホの編。全24巻。嘉慶5年(1800)に刊行した文語体の短編小説集。
志怪小説を主としつつ、異国の物産や奇譚、諷刺なども含んでいる。当時流行していた『聊斎志異』が六朝志怪小説と唐代伝奇小説のスタイルを混用し、かつフィクションと見聞記録を交えていることを不満として編纂したもので、そのため六朝志怪小説の体裁に倣い、内容も見聞した事実を簡潔に著述している。
文末の独特な標語は著者の学識と見識を示しているといわれる。最も流行した清代小説のひとつ。
唐宋伝奇集
魯迅の編纂。全8巻。六朝小説集『古小説鈎沈』に続き、翌年(1927)に完成した志怪小説集。唐篇36篇、宋篇9篇の計45篇を収録し、いずれも唐・宋代に単行本として刊行されたものに限定している。
旧来の叢書の多くが著者名・編名を偽っていることを批判して作ったもので、多数の類書・叢書を駆使して各編の来源・テキストに厳密な校訂を加え、それだけに正確さにおいては定評がある。小説を研究対象とした最初のものでもある。
尚お、唐代伝奇小説のみを採録した汪辟疆の『唐人小説』には、『唐宋伝奇集』未収録の『玄怪録』『伝奇』などから、単行本化されていないものも収録している。