二里頭文化 B1800?〜B1600?
中原龍山文化河南類型=王湾三期文化が発展した初期青銅器文化。
1959年に洛陽盆地の偃師県で発見された二里頭遺跡を標式遺跡とする。
直接の文化圏である晋南豫西は二里頭を中心に政治的にも統合されていたと考えられ、文化的影響は関中や長江流域でも確認されている。
殊に関中渭北の漆河流域の聨襠鬲は、二里崗文化期には関中全域に拡大し、西周土器の原型として先周文化とも呼ばれている。
二里頭遺跡の歴史地層は4期に区分され、第1・2期は河南龍山文化の王湾三期類型に属し、第3・4期が二里頭文化期とされている。
第2期に渡北し、第3期からは宮殿址と青銅器工房が発見され、第4期は偃師商城や鄭州商城の造営期と重なっている。
2km四方の城壁跡と2基の大型基壇(宮殿跡?)を有していることから、かつては殷王朝初期の都城跡とされたが、尸郷溝遺跡(偃師商城)の発見によって、先行する中原王朝(夏王朝?)末期の都城である可能性が高まっている。
下七垣文化 B2000?〜B1600?
二里頭文化期の冀南冀中の初期青銅器文化。後岡二期文化が中原龍山文化や北接する輝衛文化の影響で発展したもの。
初期には玉器・青銅器ともに未発達で、山東の岳石文化に影響されつつ南方に発展し、二里頭文化四期には南渡して鄭州地方にも進出し、二里頭文化を吸収したことで高度な技術力を伴う二里崗文化に発展した。
二里崗文化の豫西進出と殷王朝の中原征服を同一視できることから、先商文化・漳河型先商文化とも呼ばれる。
二里崗文化 B1600?〜B1400?
冀南の下七垣文化が河南に進出して二里頭文化と融合したもの。
鄭州市街の下層の二里崗文化層から大規模な都城跡=鄭州商城遺跡が発見されたことで、文字は未発見ながらも殷王朝前期の文化と認められた。
有足土器の主流が東南系の鼎だった二里頭文化に対して華北的な鬲を主流としたが、青銅器の製法は二里頭文化を継承し、又た殷王朝中期には青銅器の多様化・大型化が顕著となって饕餮文も現れた。
山西の垣曲商城・夏県東下馮遺跡、河南の焦作府城など各地に植民都市を建設し、盤竜城遺跡の発見によって長江流域への進出も確認されたが、何れも鄭州商城放棄後の中央の混乱と前後して衰亡した。
偃師商城遺跡 B1600?〜B1500? ▲
河南省偃師県尸彊溝で1983年に発見された、二里頭遺跡の東隣に位置する殷王朝初期の都城跡。城壁の規模は1700mx1200mで、下層からは1100mx740mの城壁跡も出土している。
上層の城壁の建造は二里頭城の破壊された同時期に比定され、湯王の都の亳とする意見が有力だが、鄭州商城の副都説や、太甲が追放された桐宮とする見解もある。
鄭州商城遺跡 B1600?〜B1400? ▲
河南省鄭州市区。殷王朝前半、もしくは中期の都城跡で、外周約7kmの城壁を有し、現存する漢代の城壁跡はその南半に過ぎない。城外では2基の青銅器工房を含む工房群が確認されている。
偃師商城遺跡との関係から、王都だった時期については決着しておらず、又た現在の市街地が商城遺跡の上に造営されているため、充分な発掘調査は不可能となっている。多数の青銅器が城外近傍に埋匿されていたことから、突発的な事態で放棄されたと考えられている。
洹北商城遺跡 ▲
1992年に河南省安陽市花園荘で発見された、殷中期の王城跡。殷墟の北隣に位置し、2200m四方の城壁址や宮殿址を伴うものの城壁が未完成である点などから、鄭州期と安陽期の間に短期間で放棄された王城の1つと考えられている。
盤竜城遺跡 ▲
湖北省武漢市黄陂区。長江流域で発見されている唯一の殷代の都市遺跡で、290mx260mの城壁を有し、銅鉱の供給源を確保するために殷王朝が造営した植民都市と考えられている。
建築様式や青銅器の製造法、墓葬法などは二里崗文化と同様だが、土器の様式は中原とは異なり、又た後期の遺物には中原的な要素が稀薄であることから、殷王朝中央の混乱や呉城文化の拡大によって放棄されたものと考えられる。
殷墟 B1300?〜B1023?
河南省安陽(安陽市殷都区)の殷王朝後期の遺跡。清末に甲骨が出土したことで1928年より本格的な発掘が開始され、大量の甲骨や青銅器、複数の巨大王墓・祭祀基壇が発見されたことで、王都跡とされてきた。
この時代は甲骨文字によって象徴されるが、中国青銅器文化の絶頂期でもあり、後期には甲骨卜占の衰退に伴い金文も出現した。
殷墟の発掘範囲は洹河を挟んで24kuに及び、史上最初の女将軍としても知られる武丁妃の婦好の墓をはじめ13基の大墓が発見され、遺物不在の墳墓は紂王が準備していたものとされる。
殊に婦好墓はほぼ未盗掘のまま1976年に発見され、16人の殉死者や400点以上の青銅器、約600点の玉石器、約7千枚の貝貨が出土し、当時の文化・風俗を知る貴重な史料となっている。
殷王朝前期の陪都の1つとされる小双橋遺跡と同様に城壁が確認されず、又た遺構が祭祀に偏重しているなど先商文化以来の都城形式に合致しない点が多く、盤庚以降の都城とされながらも、出土した甲骨や土器形状が武丁期以降のものである事から、近年になって王都説に対する懐疑論が急浮上している。
甲骨文字 ▲
卜辞とも。1899年に王懿栄・劉鶚によって、河南省安陽県の小屯村で正式に発見された、殷代の亀甲・獣骨に彫られた卜占文。当時は竜骨と呼ばれ、粉薬の原料として売られていた。
亀甲・獣骨を使用した卜占は龍山文化期から行なわれていたが、使用した甲骨に内容を記録するようになったのは殷文化からとされる。
出土した甲骨文は武丁以降のもので、武丁期のものが半数を占め、中でも攻伐記事が突出しているが、以後の諸王では定例的な卜占が殆どで、甲骨文化の衰退と見做されている。1986年までに約15万点の甲骨が発見され、確認された5千字以上の文字のうち1700字ほどが解読されている。
尚お、小屯遺跡=殷墟は殷王朝後期のもので、出土した甲骨文字は純粋な絵画文字に比して洗練されている為、発展過程の遺物を伴う遺跡の発見が期待されている。
曾侯乙墓
1977年、湖北省随州市曾都区の擂鼓墩で発見された。
中国最大(152cm、204kg)のものを含む、3段8組から構成された64個の編鐘や、失蝋法を用いた青銅尊盤、漆製品や絹製品など15000点が出土し、江南文化の発達と独自性が改めて認識された。
乙の歿年はB433年頃に比定され、曾国は史書には記載されていないが、出土品の規模から、かなりの国力を具えた楚の衛星国だったと思われ、随国の別名とする見解もある。