春秋時代

 B770〜B403
 B770年に周王室が洛陽で再興してから、秦によって全国が統一されるまでの期間の前半期を指し、名称は孔子が編纂したとされる『春秋』に由来する。
 春秋時代の下限については、晋の三卿(魏・韓・趙)が智氏を滅ぼしたB451年とする説と、その三卿が諸侯と認められたB403年とする説がある。 孰れにしても、全国的に下剋上の風潮が顕在化した時期とするのが通例で、西漢の劉向は、「春秋の世にはまだ列国の間には礼が行なわれたが、戦国の世には礼はまったく顧みられず、諸国は互いに攻伐を専らにするのみ」と歎じている。
 周の盛時には千余国と伝えられた諸侯国は春秋の初めには百余となり、春秋の末には主要な国はを数えるのみとなっていた。
 周王室の没落と異民族の活発化などから、諸侯国は新たな求心力を求め、王室から伯(覇者・方伯)と認められた有力諸侯が諸侯国の盟主とされるようになった。 春秋時代は覇者主導の時代でもあり、覇者は尊王攘夷と国際秩序の体現を本分としたが、後には軍事的に有力な諸侯を覇者と呼ぶ風潮が強まった。 後代では戦国時代に流行した五行説の影響から、代表的な覇者を“春秋五覇”に挙げるようになったが、斉桓公と晋文公以外は論者によって異なり、代表的な覇者を5人に限ることにも意味はない。
 春秋時代を通じて諸侯が行なった地域開発は文物の発達と交流を伴い、都市国家群が領域国家へ移行する原動力にもなった。 又た産業の発達を主導した士大夫勢力の抬頭は春秋時代を象徴する下剋上の風潮を醸成し、孔子の提唱した礼制も、身分秩序の崩壊に対する反動=復古主義を根幹に据えていた。

東周 /                                

 
 

 〜B257
 姫姓。周公旦の長子の伯禽を初代とする。 東夷種族の先住地の一角に封建されたことで、蛮風の華化と淮夷に対する備えを任としたが、初期の国都の奄は殷の故都の1つであり、殷風の早急な払拭と東隣のに備える目的も兼ねていたと思われる。 長子相続を原則とした周にあって兄弟相続が維持され、宣王が相続に介入した事は諸侯の評価を大きく下げた。
 東隣の斉の抬頭に相対して弱体化し、春秋時代には晋・斉・楚のいずれかに属し、次第に公族の三桓氏が実権を掌握して魯侯は傀儡化され、三桓氏による国益の私有化は公室の没落を助長し、B257年に第35代の頃公が楚の考烈王に降って滅んだ。
 春秋諸国の中で最も周の古制・文化を維持・伝承した国として文化史上に特殊な地位を占め、孔子の学団成立にも深く影響し、『春秋』は魯の国史を原典として編纂された。

懿公  〜B817〜B808
 諱は戯。父に随って周の宣王に謁見した処、兄の括を措いて武公の継嗣とされたが、後に国人に支持された括の子の伯御に殺された。伯御はB797年に宣王に誅され、懿公の弟の称が立てられた(孝公)。

恵公  〜B768〜B723
 諱は弗湟。先君の孝公の子。長子の息(隠公)の妃として宋から迎えた公女を奪い、生まれた允(桓公)を太子とした。

隠公  〜B723〜B712
 諱は息。先君の恵公の庶長子。弟の允を太子とした恵公の遺志を重んじて監政に甘んじ、隠公元年より起筆される『春秋』では、このために即位とは記さない。祭祀用の采邑を周に無断で鄭と交換し、繻葛の役の一因となった。 允の殺害を勧める公子揮を窘めたところ、露見を恐れた揮の讒誣で允に殺された。

桓公  〜B712〜B694
 諱は允。隠公の弟。恵公の太子だったが、恵公の死歿当時は幼少だったために庶兄の隠公が監政を行なった。 公子揮の指嗾で隠公を殺して即位した。 斉の公女を娶ったが、B694年に斉を訪問した際、襄公と姦通した夫人を咎めたために襄公に殺された。

荘公  B706〜B694〜B662
 諱は同。桓公の子。父と同月同日の生まれと伝えられる。B686年に斉の公子糾の亡命を納れ、そのため桓公に伐たれて糾を殺した。以後も斉に圧迫されたが、B681年の柯の盟では将軍の曹沫が桓公を脅し、失地を悉く返還された。 斉から迎えた正室の哀姜(桓公の妹)に子が無く、庶子の班と次弟の慶父が継嗣を争い、危篤に際して末弟の季友が推す班を太子とし、慶父を推す弟の叔牙を自殺させた。

曹沫
 魯の荘公の将軍。B684年に長勺で斉軍を撃退し、後に斉に敗れても先功によって罰されなかった為、B681年に斉と魯が柯で盟した際には桓公を匕首で脅迫し、失地をすべて返還させた。 帰国後、桓公は管仲の諫言で盟約の破棄を諦め、結果的に斉の信望を大いに高めた。 これより曹沫はさらに重用されたというが、B671年に荘公が斉へ社祭見物に赴こうとした際には、非礼として諫言したものの聴かれなかった。

三桓氏
 桓公の子を祖とする三家族。桓公の長子は荘公となり、次子の慶父から孟孫氏が、第3子の叔牙から叔孫氏が、第4子の季友から季孫氏が出た。慶父・叔牙との政争に勝った季友とその子孫は6代にわたって宰相となり、三桓中最も強勢だった。 三桓氏は次第に君権を侵し、文公・宣公は君権回復を果たせず、昭公哀公は亡命を余儀なくされ、悼公の代に三桓氏の専権は最高潮に達し、家宰の陽虎による簒奪未遂すら発生した。

慶父  〜B660 ▲
 桓公の子。荘公の弟。孟孫氏の祖。荘公夫人の哀姜と密通し、また弟の叔牙と結んで君位を窺い、荘公の喪中に太子斑を殺して公子開(哀姜の甥)を立てた(閔公)。 B660年には閔公も殺したが、陳に出奔していた弟の季友が公子申(釐公)を擁して帰国したために莒に遁れ、まもなく送還されて自殺を命じられた。 哀姜は斉で誅されて魯に送られた。

昭公  〜B542〜B510
 諱は裯。痴愚だったが、父の襄公と兄の太子が前後して歿して立てられた。 晋への訪問は悉く拒絶されたが、昭公の葬送には参列させられ、魯の国人は大いに恥辱とした。 B517年、内訌を生じた季孫氏の平定を図ったところ叔孫氏に背かれ、三桓氏に敗れて斉に出奔した。 後に斉に護られて魯の鄆に居したが、晋への求援は季孫氏の妨害で果たされず、晋の乾侯で客死した

哀公  〜B495〜B468
 諱は蒋。昭公の弟/定公の子。B481年に斉の簡公が田常に弑された際、孔子の求める斉討伐を認めなかった。 B468年に諸侯の後援で三桓氏討伐を図ったが失敗し、国外に逃れて帰国途上で歿した。 治世14年目(B481)に麒麟を捕獲したと伝えられ、『春秋』はこの獲麟の記事を以って終了している。

陽虎
 陽貨とも。季桓子に仕えて家令に進み、斉に支援されて主家を凌ぐ権勢を持ち、B505年には季桓子を拘禁して魯の実権を握った。 B502年には三桓氏の無力化を謀って孟孫氏を攻めたが撃退され、敗れて斉・宋を経て晋に逃れ、趙鞅に仕えた。

孔子  B552〜B479
 曲阜の人。諱は丘、字は仲尼。幼時から儀式を好み、長じて古礼の大家を称し、多数の門弟を擁して名声が高かったが、周の古制に対する知識は乏しかったとされる。 魯で一時は司寇とされて君主権の強化を図ったが、まもなく失脚してB479年に門弟とともに衛に逃れ、以後は周公の政治の再現を唱えて各国を遍歴した。 下剋上の時流を批判して君主権の強化と身分階級の固定を唱えた為、君主権を侵しはじめた当時の貴顕層から憎まれ、陳・蔡では迫害され、晋・楚でも容れられず、B486年に魯に帰った後は教育と古典整理に没頭した。
 その教育思想は精学・実践主義・言行一致を重んじて“文行忠信”と称し、徳で治め礼で規制する王道政治の再現を理想として、周公の礼・楽による治への回帰を唱えた。又た徳治の試験場としての家族関係を重視し、徳の至上である仁と、実践倫理たる孝・弟(悌)を強調した。 その思想は後に儒教と呼ばれ、士の階級にも学問を教授した意義は大きく、門弟がまとめた中国最初の思想書である『論語』は、百家の発生・発達にも絶大な影響を及ぼした。

子路  B543〜B480
 卞(山東省)の人。姓は仲、諱は由。子路は字。孔門十哲の1人。性剛直で信義を重んじ、孔子に深く兄事した。 後に孔子の推挙で衛の大夫の孔叔圉に仕え、難治の蒲で治績を挙げて絶賛された。 孔叔圉の死後の衛の混乱で、復権を謀る荘公に対し、叔圉の子の悝を庇って殺された。

子貢  B520頃〜?
 衛の人。姓は端木、諱は賜。子貢は字。孔門十哲の1人。実務や外交能力に長け、斉の田恒が魯に出兵すると、孔子の命令で矛先を呉に転じさせ、同時に呉に北伐を、越には呉への面従を勧めて魯を救い、越による滅呉に発展したことで後世で絶賛された。後に魯・衛の宰相を歴任し、斉で歿した。 子路と並ぶ実生活面での孔子の主要な相談者であり、理財家としても優秀で、孔門の財政を支えていたと思われる。

顔回  B514〜B483
 魯の人。字は子淵。弟子の中で最も求道心に篤く、孔子からも思想面の後継者と目されていたが、孔子に先立って歿した。 その裔は孔氏・孟氏とともに曲阜に族居して尊崇され、明清朝では顔子学が立てられて朝廷から保護された。

子夏  B507〜B420
 衛の人。姓は卜、諱は商。子夏は字。孔門十哲の1人。孔子晩年の門弟。礼を重んじて文学に優れ、孔子の死後は西河(河北)で学問を講じ、後に魏の文侯に仕えた。 礼教主義に立って音楽を道徳的に解釈し、徳治主義を媒介として政治的音楽論を展開したが、その学派は後に礼の形式のみを重視するようになった。 門下からは後に荀子が出た。

子游  B506〜?
 呉の人。姓は言、諱は偃。子游は字。孔門十哲の1人。 文学に優れ、礼の精神面を重視したが、武城(山東省)の統治では実際に礼楽を用いて統治し、現実からの遊離を孔子から窘められた。

曾子  B506〜?
 南武城(山東省)の人。諱は参、字は子輿。孔子には魯鈍と評された。孝を重視して孝悌を以って仁への到達を説き、道徳の主観性を重視した。

子思  B492〜B431 ▲
 諱は伋。孔子の孫。伯魚の子。曾子に師事し、門下からは孟子が出た。 その派は孝・中庸を重視する忠恕説を継承発展させた半面、主観的傾向が強く、独善に陥る危険を孕んでいた。

左丘明
 魯の太史と伝えられるが、孔子以前の人物とも、孔子が兄事したとも、或いは孔子の弟子ともされ、実在すら疑問視される。 『左氏春秋』『国語』の著者に擬せられる。
『左氏春秋』を『春秋』の伝と解釈した場合に、魯の太史かつ孔子の弟子と肯定できます。 一方『論語』中には、孔子の先達を示唆する表現があります。

 
 

 〜B487
 姫姓。武王の弟の叔振鐸が曹(山東省定陶)に封じられたもの。 『史記』では十二諸侯国に数えられたが、晋楚に挟まれた弱小国として浮揺外交を続け、春秋末期には宋に朝し、盟に背いたためにB487年に滅ぼされた。 共公が亡命中の晋の公子重耳(文公)を冷遇したことは、晋の動向に敏感だった国情を示す逸話でもあり、後に即位した文公に討伐された。
 
 

 〜B448
 姫姓。初代の叔度は文王の第5子で、紂王の遺児の武庚の監視を兼ねて蔡(河南省上蔡)に封じられたが、周公の執政に叛抗して三監の乱を起し、鎮圧・追放された。 叔度の子の胡が再興を許され、『史記』では十二諸侯国に数えられたが、抬頭する楚に圧迫され、霊侯が妻と淫通した父の景侯を殺したことを非難する楚によってB531年に滅ぼされた。 この時は楚の簒奪に伴いB529年に平侯が新蔡(河南省新蔡)に立てられて復興したが、楚の子常と不和となって呉に与し、B506年の闔閭の征楚にも出兵した。そのためB493年に楚に伐たれ、呉に求めて州来(安徽省鳳台)に遷されたが、B448年に楚に廃された。
 
 

 姫姓。南方に対する抑えとして漢水流域に設けられ、春秋初期には楚の武王をしばしば撃退し、杜敖に圧迫された王子ツ(成王)を庇護して即位させるなど侮りがたい国力を有し、史書には現れない曾国に比定する見解もある。 呉に郢都を逐われた昭王にも頼られたが、この頃には楚の衛星国の如くになっていた。
 
 

 姫姓。文王の弟の叔が封じられた西虢(陝西省宝鶏市陳倉)と、その兄の仲が封じられた東虢(河南省鄭州市滎陽)がある。
 西虢は王室の卿士として重んじられ、幽王が犬戎に殺されると鎬京に攜王を擁立したが、後に平王に転向して攜王の没落と敗死を結果した。 幽王に任用されて集権策や后嗣廃黜を進めた虢石甫と、攜王を擁立した虢公翰は父子と考えられ、二王並立は虢公と申侯の政争の結果とも見做される。東に徙されて南北に分けられ、ともに晋の献公に滅ぼされた。
 又た東虢は、B767年に鄭の武公に滅ぼされた。
攜王が滅ぼされた年に、玁狁討伐の功で青銅盤が作られた虢季子という有力者も確認でき、周公家と魯の関係から、卿士の虢公と西虢を別物として、文王の末弟の季が西虢に封じられたとの見方もあります。 虢叔の家は攜王と命運を共にしたものの、祭祀を絶やさないために虢季と南北に分封されたというあたりでしょうか。

 繻葛の役で王師右軍を率い、後に芮・梁・荀・賈と共に曲沃の武公を討った虢林父や、鄭詞と結んで恵王の復辟に尽力した虢叔林父はいずれも虢君ですが、血縁関係は不明です。 虢林父はB702年に政争に敗れて虞に出奔していますが、鄭と虢叔林父が提携したのはB675年ですから、同一人物の可能性が高そうです。

 
 

 〜B221
 姫姓。武王の弟の康叔が朝歌(河南省淇県)に封建されたもの。 朝歌を中心とする豫北一帯は殷の中心にあたり、経済や文化面でも最先進地域として諸侯に重んじられ、平王の擁立当時は侮りがたい勢力があった。 以後、継承紛争と鄭との抗争で凋落し、B660年に狄に滅ぼされた当時は朝歌に拠る都市国家となっており、B658年に斉の桓公によって楚丘(河南省滑県)が造営されて復興し、B629年には帝丘(河南省濮陽)に遷都した。戦国時代には趙・魏の属国とされ、斉攻略の一環として秦に滅ぼされた。
『史記』にある衛侯の在位年数を合計すると衛の断絶はB209年になります。 古来からその解釈は難問とされ、衛のみ全国統一後も存続を許されたという不自然な解釈がされてきました。
平勢隆雄氏はこれを、司馬遷が在位年数を“踰年称元法”で解釈した結果とし、即位年を元年とする“立年称元法”を用いて衛の滅亡をB221年としています。

州吁  〜B719
 武公の孫。荘公の寵妃の子。兵事を好み、太子完が即位(桓公)すると出奔し、鄭で荘公に敗れた共叔段と親交した。 B719年に桓公を殺して立ち、宋・陳・蔡と結んで鄭を討って敗れ(東門の役)、前途を憂えて陳と通じた卿の石碏に暗殺された。

宣公  〜B719〜B700
 荘公の子、桓公の弟。諱は晋。異母兄弟の州吁が殺されて迎立された。 鄭との抗争を継続して宋・蔡と結んだものの敗れ、繻葛の役でも桓王に従った。 父の妾を蒸娶して子の伋を太子に立てたが、太子妃に迎えた斉の公女を奪って寿・朔を得ると太子を暗殺し、寿をも誤殺したために朔を立て、落胆から病死した。

恵公  〜B700〜B696/B688〜B669
 諱は朔。宣公の子。宣公の太子暗殺に参謀し、そのためB696年に異母兄の黔牟を擁する反対派に逐われ、B688年に斉の後援で復辟した。後に黔牟を庇護する周の内訌に介入して恵王を逐い、王弟の穨を立てた。

黔牟  〜B696〜B688〜 ▲
 恵公の異母兄。恵公の嘗ての太子暗殺を非難する叔父の右公子(伋の傅)・左公子(寿の傅)らと結び、恵公を逐って衛君とされた。 B688年に斉を盟主とする諸侯に敗れ、周に庇護された。

懿公  〜B669〜B660
 諱は赤。恵公の子。周を逐われた王子穨を匿ってB666年に斉に伐たれたが、賂を供して難を免れた。 鶴を異常に好んで軍費を削り、そのため将兵は狄が入寇すると「鶴を尊重するはこの時のためなり」と唱えて戦わず、国都を破壊されて殺された。 遺民は戴公(黔牟の甥)を立てて曹に逃れたが、戴公は同年に歿した。

文公  〜B658〜B635 ▲
 諱は燬。黔牟の甥、戴公の弟。兄の死で衛君に立てられ、B658年に斉によって楚丘に新都が造営されて遷都した。 国人と労苦を共にして斉の軍事にも従い、B648年には狄に備えて外城が築かれた。 晋に配慮して重耳を冷遇したことで、死後に晋の文公に報復された。。

成公  〜B635〜B632/B630〜B605
 諱は鄭。文公の子。B632年、楚に伐たれた宋救援に協力しなかったために晋の文公に討たれ、楚との盟を図って元咺ら親晋派に放逐され、楚が城濮で敗れると陳に依ったが、執われて周に押送された。 文公からは暗殺も謀られたが、晋への贈賄と周・魯の仲介で赦された。
 衛では元咺によって弟の公子瑕が立てられていたが、帰国した成公は元咺と瑕を殺し、B629年には狄を避けて帝丘へ遷都した。

献公  〜B577〜B559/B547〜B544
 諱は衎。定公の子。成公の曾孫。横暴で礼に外れた行ないが多く、B559年に孫林父に逐われて斉に出奔し、衛では定公の弟の剽(殤公)が立てられた。孫林父が政争に敗れて出奔すると、迎えられて復辟した。

霊公  〜B535〜B493
 諱は元。襄公の子。献公の孫。B522年の内乱が斉に鎮圧されてより親晋派と親斉派の対立が表面化し、内乱に与した公子朝が晋に逃れたこともあって斉に親しみ、晩年の晋の内戦でも范・中行氏を支援した。 夫人の南子に諾従して礼に外れた行為が多く、来邦した孔子を厚遇しながらも小俗の気質を厭われて去られ、又た南子との確執から太子蒯聵も出奔し、継嗣を定めずに歿した。

荘公  〜B480〜B478
 諱は蒯聵。霊公の太子だったが、南子と対立して晋に出奔した。 霊公が歿すると子の輒が立てられたが(出公)、晋の趙簡子の支援を得てB480年に帰国すると宰相の孔氏に逼り、衛君となって出公を逐った。 この時に孔子の弟子の子路が簒奪に抵抗して殺された。
 B478年に趙簡子の求援を拒んだことで親晋派に放逐されて異母弟の斑師が立てられ、一度は斑師を逐って復辟したが、卿の石圃に攻殺された。

出公  〜B493〜B480/B477〜B466 ▲
 諱は輒。荘公の子。祖父の霊公が継嗣を定めず歿したため、叔父の公子郢に推されて立てられた。 の後援があった半面で蒯聵を庇護するに伐たれ、B480年に蒯聵に逐われて魯に亡命し、後に斉に依った。
 B478年に荘公を攻殺した石圃ははじめ斑師を復辟させ、斑師は斉に廃されて異母兄弟の起が立てられた。
 出公はB477年に起を逐った石圃によって斉より迎立されたが、旧臣の強大化を嫌って石圃を追放して近習に親しみ、B470年に公族に逐われると越を頼って鉏(河南省滑県?)に拠り、季叔の黔に敗死した。
 黔は太子を廃して自立した(悼公)。

 

 〜B354?
 姫姓。成王が弟の叔虞を唐に封じたもので、襲いだ燮が晋と改称した。 B745年に昭侯が叔父の成師を曲沃(山西省)に封じて以来、首邑の翼(山西省翼城)と曲沃の武力衝突が続き、B679年に武公が簒奪に成功して翼をと改めた。 襲いだ献公は冀南に進出し、宗室を抑圧して君主権の増強にも成功し、後継問題の失敗で死後は混乱したものの、秦から迎立された文公が方伯とされてより、長らく中原諸侯の領袖として楚と対峙した。
 晋では中・上・下軍の将・佐が政事をも掌って六卿と称され、中軍の将が正卿として宰相を兼ねたが、昭公以降は公室が弱体化して六卿の権力が増し、B490年に范氏・中行氏が、ついで最大の智氏がB451年頃に滅ぼされて趙氏・魏氏・韓氏が鼎立した。 周室より諸侯とされた三卿によって徙邑された後も存続し、B354年頃に韓に滅ぼされた。

桓叔  〜B731
 諱は成師。穆侯の子。文侯の弟。文侯の死後、嗣子の昭侯によって曲沃(山西省)に封じられ、桓叔と号した。 封邑の曲沃は翼都より富強で、B739年に昭侯を殺した大夫の潘父に迎えられたが、国人の抵抗で断念し、翼都では昭侯の子の孝侯を立てて潘父を誅した。

荘伯  〜B716
 諱は鱓。桓叔の嗣子。B724年に翼都で孝侯を殺したものの国人の抵抗で曲沃に戻り、翼都は孝侯の子の鄂侯を立てた。 B718年に鄂侯が歿すると再び翼都を攻めたが、桓王と虢の介入で敗退し、鄂侯の子の哀侯が立てられた。

武公  〜B679〜B677
 諱は称。荘伯の子。B709年に哀侯を、B706年には自らが立てた侯小子を殺して再び周室と虢に討たれたが、B679年に侯緡を滅ぼした際に釐王に重幣を贈って晋君と認められた。『史記』では武公以後の晋君は‘侯’ではなく‘公’と表記さるが、その理由については明らかではない。
一時は王室への贈賄によって爵位が進められたという見解が主流でしたが、爵位としての公・伯・男は存在自体が疑問視されています。 又た『左氏伝』を見る限り、晋君を示す際には一貫して“晋侯”で、‘公’は個人に対する尊称として使われていますから、昇爵ではないようです。

韓万
 桓叔の子、荘伯の弟。B709年の翼都攻略では武公の馭者となって哀侯を捕え、小子侯が立てられると武公の命令で哀侯を殺した。 玄孫の韓厥に至って封邑の韓原に因んで韓氏を称し、このとき武子と追尊された。

献公  〜B677〜B651
 諱は詭諸。武公の子。B669年に士蔿の勧めで翼都の諸公子(桓荘の族)を鏖殺して君権を強化し、翼を絳と改めた。 初めて上下二軍を編成し、虢をはじめ周辺の17ヶ国を滅ぼすなど晋を強国とする基を築いたが、後妻に迎えた驪姫の子/奚斉を太子とする為、B655年に太子の申生を殺して諸公子を逐ったことで死後に内紛を招いた。 病中に葵丘の盟に参列する途上で周の宰孔から桓公の増長を聞かされ、そのまま帰国して病死した。

驪姫  〜B651 ▲
 驪戎の姫。B672年の驪戎討伐で妹と共に献公の後宮に納れられて寵愛され、奚斉を産んだ。 献公に勧めて太子の申生を曲沃に、公子の重耳を蒲に、夷吾を屈の守将とし、讒言で太子を自殺させ、重耳・夷吾を国外に逐って奚斉を太子とした。 献公の死後に奚斉・悼子(妹の子)が相次いで大夫の里克らに殺されて自殺した。

荀息  〜B651
 晋の大夫。B655年に大夫の里克と共に虢を滅ぼしたが、虞への借道の代償として名馬を贈ることに難色を示す献公に対し、「国外の厩に預けるのみ」として許され、虢を滅ぼした帰路に虞をも滅ぼした。太子申生の廃黜を諫争したが、剛直を認められて託孤され、奚斉を立てた。 奚斉が大夫の里克らに殺されるとその弟の悼子を立て、悼子が殺されると殉難した。

恵公  〜B651〜B637
 諱は夷吾。献公の子。次兄重耳とは生母も姉妹。 屈を守備していた際に驪姫の讒言で献公に伐たれ、抵抗の後に梁に亡命した。 甥の悼子を弑した里克らの迎えと秦の後援によって即位したが、秦への河西割譲を履行せず、弑逆を理由に里克を自殺させ、国内の重耳派を弾圧した。 B646年には秦の飢饉に乗じて出兵し、韓原で大敗して捕虜となったが、秦に嫁していた姉の仲介で赦された。 在世中は一貫して重耳に対する追求を緩めなかったが、これは国内での重耳を支持する勢力が強かったことを示している。

懐公  〜B637〜B636
 諱は圉。恵公の子。恵公の即位後は秦に質子とされて秦の公女を娶っていたが、恵公が不予になると潜帰し、恵公の死とともに即位した。 父と同じく重耳派を弾圧したが、密出国で激怒した秦が重耳を後援したために都を逐われ、まもなく高梁で暗殺された。

文公  B697〜B636〜B628
 諱は重耳。献公の子。蒲城を守備していた際、驪姫の讒言で献公に討たれると無抵抗で狄に奔り、晋君悼子を殺した大夫里克らの迎えを拒んだ。 献公の死後は斉に奔って厚遇されたが、桓公死後の混乱で出国した後は弟の恵公の圧力で諸国を逐われ、楚の成王の勧めで秦に入り、穆公の支援で帰国して即位した。
 秦の武力で反対派を一掃した後は内政を刷新して国力を充実させ、B636年に周室の内紛を鎮めて襄王を復辟させると豫北を与えられた。 B633年に宋が楚に伐たれると曹・衛を伐つことで救い、北上した楚軍を城濮で大破して方伯とされ、冬には践土に襄王を招いて諸国と盟した。
重耳の流浪譚は古くから広く知られ、曹で共公に沐浴中に重肋を覗かれ、五鹿では農民に侮られて食事の替わりに土を渡されています。 曹はともかく、諸侯の冷遇は重耳が晋君から憎まれているが故の小国の処世術で、大国の斉や楚は重耳を厚遇し、楚とは会戦の際には三舎を退く事を約し、城濮でこれを実践しています。
  
城濮の役(B632):宋を攻囲した楚を晋が撃退した戦。城濮は河南省濮陽市范県の濮城鎮南方。 B633年、楚・陳・蔡・鄭・許の連合軍に攻囲された宋は与国の晋に救援を求めたが、晋の文公は楚の成王にも亡命中の恩があり、直接交戦を避けて楚の盟国である曹・衛を秦・斉と共に攻め、宋の救援に成功した。
 成王の撤退後も一軍を以て留まった令尹の子玉に対し、晋文公は三舎を退いた後にまず陳・蔡兵で構成された右翼を破り、ついで佯退を追わせて左翼を破り、子玉の中軍は崩れなかったものの楚軍を敗退させた。
  
践土の盟(B632):周王を交えた晋と諸国の会盟。践土は河南省開封府滎沢県西北。 同年の城濮の役の戦勝報告のため、晋の文公は践土に襄王を招請し、魯・衛・蔡・鄭・斉・宋・莒と会盟して方伯とされた。 王が諸侯の要請に応じて畿外の会盟に列席したのは初めてのことで、『春秋』ではこれを忌んで「襄王、河陽巡狩」と記している。

襄公  〜B628〜B621
 諱は歓。文公の嗣子。即位直後に秦が与国の滑を滅ぼしたため、正卿の先軫の勧めで出征し、喪服を黒く染めて殽で秦軍を大破したが、これより秦との攻伐が続いた。 最晩年の夷の蒐では人事を乱して諸家の対立を惹起し、趙盾の権力が強化された。

趙盾  〜B599?
 趙宣子。重耳の亡命に随った趙衰の子。 文公の死後は襄公の執政となり、襄公が歿すると輿望に従って秦から公子雍の迎立を進めたが、穆嬴ら太子派の暴発を恐れて幼少の太子夷皋(霊公)を立て、公子雍を護衛する秦軍を撃退したことで秦との抗争が再燃した。
 後に霊公に厭われ、B608年に出奔したところ、出国前に一族の趙穿が霊公を弑したために帰国し、文公の少子/黒臀を周から迎立した(成公)。 このとき史官の董狐が「趙盾弑君」と記したことに抗議したが、「宰相でありながら犯人を罰しない罪は弑殺に等しい」と指摘され、悪名を甘受した。
 趙盾の死後も一族は盛勢を保ち、君権の強化を図る景公に族滅された。

霊公  〜B620〜B607
 諱は夷皋。襄公の子。はじめ太子でありながら幼少の故に輿望がなかったが、母妃穆嬴(秦の公女)の強い求めで趙盾に立てられた。長じて奢侈・暴虐となり、趙盾の諫言を厭って暗殺を謀ったが、趙盾の一族の趙穿に殺された。

景公  〜B600〜B581
 諱は拠。文公の孫。父の成公は襄公の末弟。 六卿の勢力が強くなり、B597年に先穀の独走によって楚に邲で大敗し、B589年にも郤克の私怨に報ずる形で鞍の役を行なった。 諸侯で初めての六軍の編成や、楚から亡命した巫臣を以て呉に戦車戦を伝えたことなども卿族の専断的処置で、君主権回復のために側近を重用して趙氏の族滅に成功したものの、公室の強化を嫌う他氏勢力の反対で趙氏の再興を容認した。

郤克
 郤献子。B592年に斉に使して不具を嘲笑された為、士会の後任として執政とされると、B589年に斉を伐って鞍で大破した。 翌年に来訪した斉の頃公に対しては“殞名の礼(捕虜君主に対する礼)”で対応し、識者からは「勇のみにして礼を知らず」と強く批難された。

  〜B581〜B573
 諱は寿曼。景公の子。楚に通じた鄭をB575年に自ら伐ち、鄢陵(河南省)に進んで楚軍を大破した。 景公同様に側近の重用による六卿抑制を図り、鄢陵の役で国内にも威信を確立した後に郤氏の粛清には成功したが、欒書・中行偃に廃弑されて庶人の格式で葬られた。詞の失敗によって、晋の公室と卿族の逆転は決定的となった。

欒書
 欒武子。軍旅でも慎重論を唱えることの多い穏健派で、B579年には宋の華元の唱導する晋楚の和議を成立させた。 B575年の鄢陵の役では将中軍として詞を輔けたが、翌年に郤氏が粛清されると、詞の意が卿族覆滅にあることを察して中行偃と謀って詞を廃弑し、周より悼公を迎立した。

悼公  〜B573〜B558
 諱は周。襄公の曾孫。周に質子とされ、郤氏の排斥を謀る欒書に通謀を誣されたが、詞を廃した欒書らによって迎立された。 諸卿の勢力バランスを調整する能力に長けて君権を回復させ、諸侯・戎狄にも重んじられた。 『左伝』では、人材の登用起用が公正かつ適当であり、晋を再び方伯とした明君と讃えている。

欒盈  〜B550
 晋の卿族。欒書の孫。B552年、かねて不仲だった范匄に追放されて斉の荘公の許に亡命したが、曲沃や絳都の類縁の多くが拘束され、追求を避けて国外に逃れる者も絶えず、晋は同年の会盟で諸侯に欒氏の係累の放逐を誓約させた。 B550年に曲沃に潜入すると魏舒と通じて絳都に迫ったが、魏舒が范氏に拘束されたために敗死し、斉軍は朝歌を得て退いた。 欒氏の没落で晋の卿族は范・中行・趙・韓・智・魏の六家に定まった。

趙武  〜B541
 趙文子。成公の外孫。趙盾の孫。司寇の屠岸賈による趙氏粛清の際に匿われ、B583年に韓厥の援けで景公に再興を認められた。 悼公の時に卿に列し、平公の12年(B546年)に正卿となった。
 韓厥は趙朔に後事を託されていたとも伝えられ、又た趙氏鏖殺の際に趙朔の食客の公孫杵臼は孤児を趙武と偽って倶に殺され、趙武を護衛した趙朔の友人の程嬰は、趙武の成人の後に趙朔を追って自殺したとされる。

平公  〜B558〜B532
 諱は彪。悼公の嗣子。B550年に欒盈の乱との来攻があり、生母の生国の杞公の死や智盈の喪中にも楽を楽しむなど、時に礼に外れた行ないはあったものの、傅役の叔嚮や、正卿の荀偃范匄趙武韓起らの教導には従遵で、弭兵の和や、の国内事情もあって治世は概ね平寧だった。医師や魯の叔孫豹からは、荒淫を指摘されている。

頃公  〜B526〜B512
 諱は棄疾。平公の孫。B520年に景王が歿して諸子が争うと、六卿を派遣して敬王を立てた。 魯の昭公の復辟を図りながらも、范鞅が季孫氏と通じて果たせず、又た公族の祁氏羊舌氏が六卿に滅ぼされて遺領が分割されるなど、六卿権力の伸長と公室の衰亡が目立った。

定公  〜B512〜B475
 諱は午。頃公の子。B497年、趙氏の内訌に端を発した范・中行氏の乱・鄭・鮮虞などが介入する準国際紛争に発展し、B490年に范氏・中行氏が排除されてからは智氏が最大の勢力となった。 又たB482年に黄池の盟で呉と牛耳を争い、趙鞅の主導で衛の継嗣問題にも介入して蒯聵を衛公とすることに成功した。
  
范・中行氏の乱(B497〜B490):朝歌の乱とも。趙氏の内訌(邯鄲の変)に端を発し、晋を二分しただけでなく準国際紛争に拡大した晋の内戦。 邯鄲大夫の趙午が当主の趙鞅に忤って殺された事で邯鄲が趙氏に背いたが、これに趙午の姻戚で晋の最大勢力だった范吉射中行寅が介入して趙氏を晋陽に攻囲した事に始まる。智躒が定公を動かして趙鞅を支持した為に両氏は逆賊とされ、晋陽で敗れて朝歌に退いたが、斉・鮮虞・鄭・衛・魯などの隣接諸国が華北の覇/晋の弱体化を図って范・中行氏を支援した為に内戦は長期化した。両氏はB492年に朝歌が陥された後も邯鄲に拠って抵抗を続け、B490年に斉に亡命した。
 以後、晋の実権は智氏を主、趙氏を従とし、特に衛に対する干渉が露骨となった。

智瑤  〜B451
 智伯。『史記』では智罃と記される。晋最大の勢力の智氏を嗣ぎ、才知を恃んで他人を竝することが多く、殊に趙無卹とは不仲だった。 B453年に范氏・中行氏の遺領分割で対立した出公を逐い、哀懿公を立てた勢いに乗じて趙・魏・韓氏に城邑の割譲を求めたところ、趙氏のみが応じなかったために晋陽を攻囲したが、後に魏・韓氏が趙氏に転じて滅ぼされ、その領邑は3氏に分割された。死後、頭蓋骨は趙無卹の飲器あるいは尿瓶にされたという。

予襄  ▲
 晋の壮士。はじめ范氏・中行氏に仕えたが、処遇を不満として智伯に仕えると国士として遇された。 智伯が殺されると趙無卹暗殺を図り、失敗して解放されると炭を呑んで唖となり、顔に漆を塗って再び狙い、橋梁に隠れていたところを捕えられたが、死に臨んで趙無卹に衣服を請い、これに数度斬りつけて自害した。

趙無卹  〜B426
 趙襄子。趙鞅の子。父の喪中に姉婿の中山君を宴席で謀殺し、姉は自殺した。 范氏・中行氏の遺領分割や出公追放にも与したが、智瑤とは不和で、智瑤への都邑割譲を拒んで晋陽に攻囲され、水攻によって非常に苦しんだ後、魏・韓氏を離叛させることに成功して智氏を滅ぼし、その領邑を分割した。
 庶腹から宗家を襲いだ為、嫡長を代に封じてその遺児の浣(献子)を後嗣としたが、献子の元年に無卹の子の桓子が簒奪した。

哀懿公  〜B454〜B434?
 敬公とも。諱は驕。昭公の曾孫。昭公は悼公の孫。出公を逐った智瑤に立てられた。 趙・魏・韓氏によって智氏が滅ぼされ、智氏の領邑は三分された。

幽公  〜B434?〜B417?
 諱は柳。哀懿公の嗣子。夫人の秦嬴に殺され、魏斯によって烈公が立てられた。

孝桓公  〜B388〜358?
 烈公の子。幽公の孫。B374年に韓によって徙邑された。

静公  〜B358?〜B354?
 諱は倶酒。斉威王と同年に立てられたとされる。韓に廃されて庶人に貶されたとも、韓に殺されたとも伝えられる。

 

 B806〜B375
 姫姓。宣王が弟の友をB806年に鄭(陝西省華県)に封じたもの。犬戎の難の後は洛邑の平王を強力に支援して新鄭(河南省)に都し、卿士の世襲を認められた。 新鄭は交通の一大要衝であり、中原の一角を占めて商業・文化が盛んで、鄭はとともに中原の強国に抬頭し、荘公の時代には覇者としての実質を具えた。 荘公の死後は内紛と国際環境の変化によって急速に凋落し、晋楚の攻防では右顧左眄によってしばしば征討された。 子産の改革と外交で一時的な小康を得たが、B375年にに滅ぼされ、新鄭は韓の国都とされた。

桓公  〜B807?〜B771
 諱は友。宣王の弟。東方に対する王室の統制強化を目的として宣王に封建された。 幽王にも重んじられ、犬戎の難で幽王に殉じて戦死した。

武公  〜B771〜B744
 諱は掘突。桓公の嗣子。申侯・東虢ら諸侯と共に洛邑に平王を立て、王室の再興と安定に尽力した。 B767年に東虢を滅ぼしたが、これは動乱に先んじて桓公が預けていた国人の返還を拒まれたためとされる。 交通の要衝の新鄭(河南省鄭州市新鄭)に堅牢な新都を造営し、鄭の発展を準備した。

荘公  〜B744〜B701
 諱は寤生。武公の長子。生母の武姜が次子の叔段を偏愛したため、武公の死後は荘公派と叔段派の対立が深刻となってB722年には叛乱に発展した。
 叔段を逐った後は内政を整え、叔段を支援する衛・宋を圧倒して諸侯の会盟をも主宰したが、祀邑の変更や朝勤の停止などの僭権の行為によって桓王との反目が尖鋭化し、B707年の繻葛の役に発展した。 以後も狄の入寇に苦しむ斉を救援するなど覇者たるの実力を示したが、継嗣を治めなかったことで鄭の覇権は一代で終わった。
  
繻葛の役(B707):周と鄭の戦い。荘公の下で強盛となった鄭は、王室の権威再建を図る桓王としばしば対立し、B707年に卿士を罷免された報復に朝覲を停止したところ、蔡・衛・陳の軍を率いる桓王に討たれ、繻葛で王師を大破して桓王を負傷させた。王師が一諸侯に敗れた事で、周室の凋落を明示した事件とされる。

昭公  〜B701/B697〜B695
 諱は忽。荘公の長子。北狄に攻められた斉を荘公の名代として救援し、尤功として釐公に通婚が求められたが、辞退した。 荘公の寵臣の祭仲に後援されて即位したが、同年、に脅迫された祭仲が公子突()を立てたために衛に出奔し、B698年に詞を逐った祭仲に迎立された後は詞を支援する宋に攻められ、かねて不和だった重臣の高渠弥に殺された。

祭仲  〜B681
 字は仲足。荘公に信任され、繻葛の役では左軍を率いた。 昭公が立って程なく、で脅迫されて詞を立てたが、後に対立して出奔させ、衛から昭公を迎えた。 B695年に昭公を殺した高渠弥と図って詞の弟の子亹を立て、翌年の首止の盟で子亹が旧怨から斉の襄公に殺されると、公子嬰を陳から迎立した。

  〜B701〜B697/B680〜B673
 諱は突。昭公の弟。に脅された祭仲に擁立されたが、執政の祭仲の暗殺に失敗して蔡に出奔し、ついで櫟(陽翟)に拠って魯・宋・衛に支援された。B680年に新鄭の大夫の甫瑕に鄭君嬰を殺させて立つと甫瑕の臣節を詰って自殺させ、旧の祭仲派を弾圧した。 B673年に虢を援けて恵王の復辟に成功した。

文公  〜B673〜B628
 諱は踕。詞の嗣子。楚の攻伐が増加して外交に苦慮し、晋の公子重耳を冷遇し、又た滑(商丘市睢陽区)の帰属をめぐって周と対立したが、襄王が来奔すると氾(河南省襄城)に居らせた。 B630年、晋の文公と秦に攻囲されて弟の叔・を自殺させ、庶子の蘭を太子に迎えて晋と和した。
 叔・は嘗て重耳が入国した際に文公に厚遇を勧め、さもなくば殺すよう進言したことがあった。

繆公  B649〜B628〜B606
 諱は蘭。文公の嗣子。嫡出子を喪った文公に放逐されて晋に亡命すると文公に親しまれ、B630年に鄭を攻囲した晋から講和の条件として太子とされた。 秦の来攻を未然に防ぎ、そのため秦軍は滑を滅ぼして殽でに大破された。 B618年以降は楚の拡大に苦しんで晋との盟約に背くことも多く、晋・楚に交互に攻められた。
 夏姫をはじめ有力な子女が多く、特に有力な七家は“七繆”と呼ばれ、以後の鄭の国政を主導した。

霊公  〜B606〜B605
 諱は夷。繆公の嗣子。楚に質子となっていたことから、楚との盟を図って正卿の子家・子宋らと対立し、宴席で両者にのみ鼈の羹を出さなかった事を恨まれて殺された。子家の死後にその一族が追放され、諡号が幽から霊と更められた。

襄公  〜B605〜B587
 諱は堅。兄の霊公が殺されて立てられた。宋の華元を釈放して晋と結び、B597年に楚に攻囲されて和したが、遅れて来援した晋はで楚の荘王に大破された。 既に繆氏の勢力は抜きがたく、初年に諸繆の放逐を図ったものの果たせなかった。

成公  〜B585〜B571
 諱は㫻。襄公の子。兄の悼公を嗣いで立ち、B582年に楚との密通が露見してに囚われた。 晋・衛に伐たれた鄭では公子班が庶兄の繻を立てたが、国人は繻を殺して髠頑を立てた。 成公は帰国が許されると新君派を粛清したが、実権は子駟にあった。

釐公  〜B571〜B566
 成公の子。諱はツ。『春秋左氏伝』では兄の髠頑と同一人物とされている。実権は子駟にあり、又た子国(公子発)が司馬となった。 権力の回復を図って子駟ら有力公族と反目し、外交面でも対立した子駟に暗殺された。

子駟  〜B563
 諱は騑。繆公の子。七繆の駟氏。同じ七繆の良氏と並んで強盛で、成公の頃には国政を専断して親楚を国策とし、B575年に楚と盟して鄢陵の役を惹起した。 B566年に親晋派の釐公を殺して簡公を立て、対立する諸公子を滅ぼしたが、簒奪を謀って公子孔に殺された。

簡公  B570〜B566〜B530
 諱は嘉。父の釐公を殺した子駟に立てられた。親楚派の子駟と親晋派の子孔の対立から、しばしば晋・楚との盟約を違えて伐たれ、B563年からは子駟・子国らを攻殺した子孔が執政した。 翌年、敢えて宋を伐ち、晋楚の互伐を誘ってB555年にようやく晋の盟下に置かれ、翌年に子孔を誅した後は子展・子産の輔佐と弭兵の和によって安寧を得た。

子産  B585〜B522
 公孫僑。繆公の孫。七繆の国氏。父の子国は子駟に与して司馬に進み、子駟鎮圧の際に戦死した。 夙に内外に期待され、B543年には子皮に譲られて執政となった。 七繆の削権を漸進させつつ税制・軍制改革を断行し、能力主義の人材登用と身分秩序の再編、貴族特権の制限などを行ない、B536年には刑法を青銅鼎に鋳て中国最初の成文法を制定し、鄭を祭政一致的政制から法治主義的政制に転換させた。 祖法の改変や成文法は晋の叔嚮など多くの識者に批判されたが、鄭の国力は増強され、弭兵の会で成立した国際和平にも助けられて鄭の国際的地位を向上させた。
 子産の施策は法術を用いながらも基幹には徳治が貫かれ、後世の法家とは一線を画した。 簡公の死後も定公に仕えて声望が高く、孔子は晩年の子産に兄事して当代最高の賢人と讃えた。

繻公  〜B422〜B396
 諱は駘。兄の幽公が晋の韓武子に敗死して立てられた。B408年に韓虔(景侯)に雍丘を奪われたが、翌年に負黍で韓を破り、B400年には韓氏の首邑の陽翟に達した。宰相の子陽を殺した為、その余党に殺された。


Top