▽ 補注:晋六卿

六卿  列伝  趙氏浮沈
 
 春秋晋では文公が三軍を創設してより、各軍の指揮官である将と佐が卿として国政をも運営し、この将佐を指して“六卿”と通称しました。 将中軍が宰相である正卿を兼ね、以下、佐中軍、将上軍と続き、末席が佐下軍となりますが、初めは必ずしも将佐=卿ではなかったようです。 又た後には、軍と卿が増設された時期もありました。
 六卿は本来は“時の六卿”を指していましたが、公室の衰えが決定的となり、伝統的な卿族が六家に絞られたB6世紀半ば以降は、范氏・中行氏・智氏・趙氏・韓氏・魏氏の総称でもありました。尤も、その期間は半世紀ほどに過ぎません。
 

第一期

 B633年に文公が三軍を創設した時の六卿は、郤氏(中軍)・狐氏(上軍)・欒氏(下軍)・先氏(下軍)から出され、文公の末年(B628)までに胥氏趙氏箕氏が加わっています。 ちなみに、重耳の亡命に従った五賢臣は、趙衰・狐偃・胥臣(賈佗)・先軫・魏犨とされています (程度の差こそあれ、本国の一族との接触を保っていた事は、恵公や懐公が国内の重耳派潰しに躍起になっていたことでも解ります)
 荀氏霊公の時代、士氏(范氏)と韓氏景公の時代に挙げられ、魏氏が卿に列したのは悼公の時代になってからでした。 このうち、郤氏・欒氏・先氏・韓氏が公族で、荀氏は土着の大族、魏氏が姫姓、士氏・趙氏は他国出身で、狐氏は異民族出身です。

 重耳が帰国した当時、晋で最大の勢力があったのは恐らく郤氏で、でなければ、宗家が恵公の腹臣をやっていながら、支族の郤穀が重耳の入国を援けたくらいで亡命組をさし措いて将中軍とか、宗家が程なく卿に復帰して正卿に駆け上がりとかありえないと思います。まあ、狐氏や趙氏が大人の分別ができたということでもありますが。

 

第二期

■ 霊公の時代 ■

 文公の卿族で真っ先に没落したのが狐氏と先氏で、文公を嗣いだ襄公の継嗣問題で狐射姑先蔑先克趙盾に蹴落とされ、士氏も瀬戸際に立たされました 先氏は公族とはいえ、狐氏と同じで亡命時代から重心を重耳に置きすぎていたような感じです)。 又たこのタイミングで箕氏も一代卿として退場しますから、亡命組で残った卿族は趙氏胥氏のみとなります。
 ただ、この胥氏もパっとしないまま霊公の時代に潰されるので、襄公の死を引鉄に、文公側近派に対する反動が実現したような感じです。 霊公−趙盾体制下で地着きの荀氏が挙げられ、士氏も復帰してますし。
個人的には、趙盾は箕鄭を嗾かしといて、先克が滅ぼされるのを待ってからシレっと箕鄭を討ったと捉えてます。

■ 郤氏と詞 ■

 霊公−趙盾体制でスタートした第二期は、晋公vs卿族の鬩ぎ合いといえましょうか。 もともと晋では献公の死後一貫して、太子以外の公子は国外に出されるようになっているので、権力基盤の脆弱な公室にとって、特定の家門の権門化はマイナス要因でしかありません。 まして実質五代目晋君となる霊公は、継嗣の経緯から文公のような指導力を発揮できる環境になく、以後の晋君は権門を排斥するか協調するかの二択が主流となります。
 そして権門排斥を選択した霊公は趙氏排斥に失敗して死亡。 成公は趙盾に迎立されたこともあって、卿の嫡長子を“公族”とする制度をスタートさせるなど、明らかに卿族に譲歩して卿族の伸長を促進しました (この公族制は、封邑と職を伴う官職の一種で、後に公族を統率する家老職として“公族大夫”も設置されます)
 成公を嗣いだ景公は、一度は趙氏の粛清に成功したものの、郤氏の一強状態を抑えるために復興を容認せざるを得ず、それでも郤克のジャイアニズムは炸裂し、鞍の役はその典型とされます。 次の胥童の助力で郤氏を滅ぼしたものの、卿族抑圧の大方針がブレた結果として欒書荀偃に殺され、ここで晋公に対する卿族の優位が確定したものと思われます。 ついでに胥氏も完全に潰されました。

 郤克のワガママについては、これをほぼ無批判に認めた諸卿の本音の在り処も知りたいモノですが、共和体制で単独で逆上せ上がるとどうなるかという教訓を示しています。 ただ、郤至についての記述を見る限り、毀誉褒貶が不自然に同居していますから、史家の曲筆としてワガママ補正分は差引く必要があるようです。

 

第三期

■ 六卿家 ■

 悼公以降は曲沃晋の第三期で、卿族の潰し合いと公室の没落と謂えるでしょう。 悼公の一代は当人の絶妙な政治センスもあって大過なく、晋も覇権を回復しましたが、次の平公の時代には欒氏范氏に滅ぼされ、稍く六卿と六氏が同義となります。 B514年に、公室から分かれた祁氏羊舌氏が六卿に廃ぼされたことで、君権は更に縮小しました。 公族の粛清が結果的に公室を没落させて新興層の抬頭を促すのは、諸国に共通する社会現象です。
 当時の勢力としては、欒氏を滅ぼした范氏と、狄攻略を主導した中行氏が二強状態で、智氏と趙氏がこれに亜ぎ、魏氏は欒氏との繋がりから肩身が狭く、韓氏はここでも影が薄いです(笑)

 B497年に趙氏に内訌が生じると、范吉射中行寅は武力介入して一気に覇権確立を狙いに行きます。 ここで、約百年前の郤氏の時と同じ反応が起りました。 百年前と違うのは、晋公には看板以上の意義がなくなっていたこと、諸卿が諸侯レベルの勢力となっていたこと、そのために諸国の露骨な武力介入があったことでしょうか。
 乱臣と認定された范氏と中行氏は、定公を戴く三卿に敗れて朝歌に退きますが、斉・衛・鄭・魯・鮮虞・周の支援が確認されています。 晋との軋轢が深刻な衛と鮮虞以外の諸国は、范氏・中行氏と通婚関係にある卿大夫が主導していますから、当時の中原諸国の実情は晋と大差ないことが解ります。 諸国の支援がどこまで本気だったかはさて措き、両氏の抵抗はB490年まで続き、最終的に斉に亡命して、伝統の范氏・中行氏も覆滅されました。

■ 三晋へ ■

 晋を始めとする中原諸国がこんな内戦にうつつを抜かしていられたのは、呉越の抗争の真っ只中という事情があったからで、鄭はこの隙に宋に手を出したりと、復興しつつある楚と接する蔡などの苦境をよそに、各国かなり自由です。 特に笑えないのは衛で、孔子に三行半された霊公の末期にあたります。 衛を逐われた太子蒯聵が晋に亡命し、趙鞅の後援で復帰を図っていますから、衛も必死で晋の内戦に介入するというワケで、斉の求めるまま宋の救援なんかにも付き合わされています。
 この趙鞅の下では、孔子が一方的に政敵認定している陽虎も庇護されていて、蒯聵の復帰運動などでもかなり趙鞅に信頼されています。しかも趙鞅は当時の儒家が嫌う成文法を作っていますから、孔子からのバッシングは厳しいものがあります。

 それはさて措き、時の正卿は恐らく智躒ですが、露骨すぎることを輿論に配慮したのか、范氏・中行氏の遺邑分割は孫の智瑤の代まで持ち越されています。 両氏が制圧されてから約30年後の事で、出公を追い出すおまけ付きで。まあ、両氏を滅ぼしてから実効支配は続けていたんでしょうけど。 定公に附いた3卿が「喧嘩両成敗」の晋法を枉げて趙鞅の赦免を運動したのも、分割で趙に譲歩させるためなんでしょう。 趙氏を本領安堵で封じ込められる上に、恩まで着せられて一石二鳥!(笑)  殊に智氏にとっては、分家が本家を継承するという理屈も通せます。
 この分割で最大の分捕りをし、新君擁立までした智瑤は、当然、晋での覇権に邁進します。 譬えるなら、宋を滅ぼして有頂天な斉の湣王状態。 結局、二度あることは三度目の正直とはならず、趙氏の攻囲中に、あと一押というタイミングで、友軍である筈の韓氏・魏氏の離叛で滅ぼされてしまいました。 これがB450年の事で、50年ほどで三晋が独立し、B388年には斉でも田氏が自立し、B374年に晋は三晋に分割されました。

 

狐氏. 先氏. 胥氏. 郤氏. 欒氏. 士氏(范氏). 荀氏. 智氏. 魏氏. 韓氏. 趙氏

狐氏

 狄の人です。つまり、晋だけでなく、周という政体でも外様というコトで、重耳に対してどれほどの功績があっても、文公即位の勲一等は誰かに譲るのが当然の政治的分別でした。実際、狐毛にも狐偃にもその分別は充分ありました。 それでも結局、秦に対する依存心か、外戚としての趙氏に対するライバル意識か、はたまた為政サイドの規定路線か、B621年に趙盾との政争で排斥されてしまいました。

狐突
 文公の外祖父。申生に仕え、申生が殺されると隠棲した。 重耳に随う2子の召還を拒んだため、B637年に懐公に殺された。

狐偃
 咎犯とも。狐突の子。文公の外叔。重耳の亡命に従い、趙衰と並ぶ外戚として尊重された。 B634年の三軍編成では佐上軍とされ、翌年に正卿の郤穀が歿すると趙衰より後任に推されたが、辞退した。 城濮の役で首勲とされた。

狐射姑
 賈季。狐偃の子。B622年に将中軍の先且居ら4卿が歿した為に、B621年の夷の蒐では将中軍に任じられたが、太傅の陽処父(親趙派)の進言で佐中軍に直された。 襄公が歿すると趙盾と継嗣の擁立を競い、陳から召還した公子楽(秦穆公の外孫)が道中で趙盾に暗殺されると、趙盾執政の端緒を開いた陽処父を暗殺して狄に亡命した。
 B614年に荀林父の提議で帰国の事が議されたが、陽処父の殺害を以て郤缺に否定された。

懐嬴
 公子楽の生母。秦穆公が重耳に娶わせた五公主の1人で、嘗ては圉(懐公)の夫人だった。 襄公の生母は文嬴、霊公の生母は穆嬴で、どちらも秦の公主と思われる。

夷の蒐  B621
 襄公末年の人事。前年の将中軍先且居・佐中軍趙衰・将下軍欒枝・佐下軍胥臣の四卿死亡を受けたもの。 当初は士穀・梁益耳・箕鄭・先都の昇任が予定されていたが、先克が狐偃・趙衰の遺勲を喚起したことで将中軍に狐射姑、佐中軍に趙盾が抜擢され、更に襄公の傅の陽処父の進言で趙盾が将中軍に、狐射姑が佐中軍に直された。
 同年に襄公が歿すると、趙盾狐射姑は継嗣問題でも対立し、敗れた狐射姑は、趙盾執政の端緒を開いた陽処父を殺して出奔した。
 又た先克の進言で昇任を留保された士穀箕鄭らは、B618年に先克を攻殺して誅された。

先氏

 公族とも謂われますが、誰からの分れかは不明です。重耳の亡命に随った功で取り立てられました。 好戦的かつ謀叛人の先穀の印象が強いですが、それまで宗家は二代に亘って中軍の卿を出しています。 行き過ぎた言動とかもありませんが、重耳派排斥の煽りでB619年に大打撃を蒙りました。二代連続で正卿を出すとロクな事にならないという先例ですね(笑)
 趙盾が意図的に先克の敗滅を導いたとしたら、先穀の居心地はかなり悪かったと思われ、先穀の必死すぎた挙句の自暴自棄も、お貴族サマ特有の陰湿イジメの結果かなぁと勝手に妄想。

先軫
 重耳の亡命に随い、B634年に佐下軍とされ、B633年には郤穀の後任として将中軍となった。 同年の城濮の役では、曹と衛の攻略による宋救援を勧めた。 文公の喪中(B627)に乗じて滑を滅ぼした秦軍を殽で大破し、襄公が夫人の進言で秦将を解放したことを憤罵したが、これを後悔して同年の狄攻略で突敵して戦死した。

先且居
 蒲城伯。先軫の子。B629年に狐毛が歿すると、趙衰の薦で将上軍とされ、趙衰が佐上軍となった。 B627年に父を継いで将中軍となり、B625年に秦の孟明視を撃退し、諸侯を率いて秦に報復した。

先蔑
 B632年の三行創設では将左行とされた。B621年に襄公が歿して嗣子のことが議されると、太子派の暴発を予想する荀林父の危惧を排して士会と与に秦に赴いて公子雍を迎えたが、趙盾らの変心によって帰国を絶たれ、秦に亡命した。

先克
 先且居の子。趙盾に敗れた狐射姑が出奔すると後任の佐中軍とされ、霊公が立てられると秦軍に護られた公子雍を撃退した。 前年の夷の蒐では、嘗て趙衰が先軫・先且居に譲ったことを恩として狐偃や趙衰の遺功を喚起したが、このことで昇任が遅れた箕鄭・先都・士穀らに伐たれ、B618年に敗死した。

先穀
 先且居の孫。B597年に佐中軍とされて邲の役に臨み、楚との開戦を主張して渡河を強行し、趙括・趙同魏リらが追従した。翌年、敗戦の問責を恐れて赤狄を入寇させ、露見して族滅された。

箕鄭
 将中軍の狐毛の死に伴うB629年の人事で、趙衰の薦で佐新上軍とされた。 夷の蒐では、先克の進言で将上軍への昇任が留保されたが、翌年に公子雍を撃退するに当たって将上軍とされ、都に鎮守した。 B619年、先都・士穀らと挙兵して先克を殺し、程なく鎮圧された。

胥氏

 出自については分かりません。すみません勉強不足です。郤缺を軸にして恩を仇で返された典型です。 後に胥童が詞に密着して家門再興を図り、因縁の郤氏を滅ぼしたものの、大局の視えない詞の逡巡でご破算となりました。 謂ってみれば、東漢の竇武何進の役回りで。

胥臣
 賈佗、臼季。重耳の亡命に随い、将中軍に進んだ先軫の後任としてB632年に佐下軍となった。 郤缺の復帰を文公に勧め、又た陽処父を太子(襄公)の傅とすることを支持し、B621年に襄公が歿すると、陽処父と与に趙盾を輔けた。

胥嬰
 胥臣の弟? B629年に狐毛が歿すると、将新下軍とされた。

胥甲
 胥臣の子? B615年に胥臣の佐下軍を継いで秦を防ぎ(河曲の役)、趙穿と諮って追撃より死傷者の収容を優先したが、B608年になってこの事が問われて衛に追放された。

胥克
 胥甲の子。B608年に父の後を嗣いだが、B601年に郤缺の讒言で罷免され、後任には趙朔が挙げられた。精神を病んだ為ための罷免とも云われる。

胥童
 胥克の子。妹が詞の寵姫となり、親任された。かねて郤至と不和で、父の遺恨もあり、欒書と郤氏の反目に乗じて詞に勧めて郤氏を族滅させたが、欒書と荀偃の粛清をも謀って敗死した。

郤氏

 晋の公族とされる郤献の裔で、献公の時代には郤豹の名が見えます。里克とともに恵公を迎立した郤称、夷吾に随って恵公の宰相となった郤芮、重耳の入国に呼応した郤穀などがいたことから、かなりの実勢力を持っていたと思われます。 殊に郤缺・郤克父子は正卿を務めて一族の盛時をもたらしましたが、それだけに驕慢な一族となり、郤克の次代で君権回復を図る詞に滅ぼされました。

郤芮
 郤豹の子。夷吾の亡命に随い、晋公となった夷吾の腹心として反対派を弾圧した。 秦の後援で帰国した重耳の継承を認めたが、程なく叛いて敗死した。

郤穀
 B637年、重耳を支援する秦穆公に内応し、欒枝と結んで懐公を滅ぼした。 B634年に三軍が編成されると、趙衰の薦挙で将中軍とされた。

郤缺
 郤成子。郤欠とも。郤芮の子。父に連坐して下野したが、後に胥臣の薦挙で文公に赦され、B627年に白狄を大破すると下軍大夫のまま卿の位が与えられ、故領の冀の支配が認められた。 B615年に秦が来攻(河曲の役)すると将上軍とされ、狐射姑士会の帰国が諮られた際には、狐射姑の罪を大罪として士会を推した。 B612年に二軍を督して蔡を討ち、B601年頃には趙盾の後任として執政した。

郤克
 郤献子。郤缺の子。邲の役では佐上軍とされた。 B592年に斉に使して不具を嘲笑され、帰国すると伐斉を求めて聴かれなかったが、郤克の暴発を憂えた士会に後任の執政とされた。 B589年に兵車800乗を以てで斉を大破し、翌年に来訪した斉頃公に対しては“殞名の礼(捕虜君主に対する礼)”で対応し、景公への献納を先年の賠償として奪った。

郤リ
 駒伯。郤克の子。郤犨・郤至と並ぶ三郤。B585年の伐蔡では楚との開戦を主張したが、聴かれなかった。 夙に長上を蔑する言動があり、B576年に伯宗を讒陥して子の伯州犂を楚に出奔させた。 B575年に将上軍とされて鄢陵の役に臨んだが、翌年に詞・胥童に討たれて族滅され、遺骸は朝廷で曝された。

郤犨  ▲
 韓原の役で恵公の馭者を務めた歩陽の子。郤克の従祖弟。三郤の1人。 魯宣公の弟の婿でもあり、魯との外交では叔孫氏と通じ、鄢陵の役に際して将新軍とされ、斉魯への乞援使となった。
 嘗て長魚矯と田地を争ってその父母妻子を轅に縛ったことがあり、B574年の郤氏粛清において長魚矯に刺殺されたことから、世に“車轅の難”と呼ばれた。

郤至  ▲
 郤昭子。郤犨の甥。三郤の1人。 B589年に楚を逃れた巫臣を保護し、又たB580年に周と温の地を争って詞に宥められた事があった。 B575年の鄢陵の役では詞の意を酌み、斉魯の援軍を待たずに整陣前の楚軍を伐たせた。 (将中軍の欒書や佐中軍の士燮の慎重論に対し、楚の隙として、司馬子反と令尹子重の不和、王族が率いる中軍のみが軍として機能していることを指摘しています)。 戦場では礼を守って恭王や鄭成公へ肉迫せず、彼我に礼勇兼備と讃えられたが、帰国後は開戦の功を矜って欒・范両将を怯懦と譏った。
 B574年に詞の狩猟に随い、獲物を奪った宦官の孟張を射殺したことが、詞に郤氏粛清を決意させたとされる。 挙兵を唱える郤リに対して国法の遵守を主張し、詞・胥童に滅ぼされた。

 

欒氏

 靖侯の庶孫の欒賓を祖とし、欒賓が曲沃の大夫となり、欒賓の子の欒成(共叔)は翼の哀侯に随いました。 欒成は武公に惜しまれつつ敗死しましたが、欒賓は恐らく武公の簒奪に協力していた筈です。 それこそ当時の卿大夫の生きる術として。
 重耳の帰国には、欒枝が郤穀と歩調を合せて協力しています。 郤氏との処遇の差は、武公の簒奪への貢献度を反映したその後の実勢力の差なワケですが、寧ろ将下軍に任じられるだけの実力を保っていた事の方が驚きです。 どんだけ武公に惜しまれたんだ欒成は(笑)。 不遇時代の経験か、はたまた本人の資質か、欒枝の孫の欒書は正卿となった後も妙に慎重居士の人格者です。 それでも一族の箍は詞殺しで外れたようで、次の欒黶の代には鼻っ柱の強い名門っぷり全開で荀偃范氏と衝突し、結局これが元でB550年に范氏に滅ぼされました。

欒枝
 欒貞子。B637年、秦穆公に内応し、郤穀と与に懐公を攻め殺して重耳を迎えた。B634年に文公が三軍を編成すると、趙衰の薦挙で将下軍とされ、B627年に秦が滑を滅ぼした際には、秦への旧恩を説く先軫に異を唱えて秦を大破した。

欒書
 欒武子。欒枝の孫。B597年に佐下軍とされて邲の役に臨み、楚との開戦に反対した。 B589年の鞍の役で将下軍に進み、B585年には将中軍となって鄭を救い、蔡に達すると趙同・趙括らが楚との開戦を求めたが、佐中軍の荀首・将上軍の士燮韓厥の反対を是として撤収した。 又た宋の華元の唱導する楚との和議を支持・成立させた。
 B575年の鄢陵の役でも慎重論を説いたが、郤至の速戦論が用いられて楚を大破し、これより郤至を忌怨して大逆を誣した (欒書の郤至に対する讒言は巧妙で、郤至が鄢陵で速戦を主張したのは「詞の破滅と公孫周(悼公)の擁立を目論んだものだ」と楚人に云わせ、これを諮問されると「郤至を周に派遣して公孫周と会えばクロ」だと進言する一方で、裏から手を回して公孫周には郤至と会うよう勧めるといった周到さです。勿論、公孫周は郤至と会い、詞の郤氏に対する嫌悪が促進されました)
 翌年に郤氏が粛清されると荀偃と諮り、胥童の機先を制して詞を捕えて胥童を殺し、范匄韓厥の同意は得られなかったものの、翌年に詞を弑して公孫周(悼公)を迎立した。

欒黶
 欒桓子。欒書の子。B575年の鄢陵の役では郤犨に同道して魯に援軍を求め、B573年に公族大夫とされた。 将下軍に進んだ翌年、潁水を挟んで楚軍と対峙した際には開戦を主張したものの、智罃の慎重論で撤収した。 B560年に将中軍の智罃と佐下軍の士魴が歿し、悼公からは将上軍に擬されたが、韓起の進言で趙武が将上軍とされ、欒黶は将下軍に留まった。
 B559年の伐秦で秦が水に毒を流した為、将中軍の荀偃に従わずに帰国したが、弟の欒鍼が退却を恥として范鞅とともに秦軍に突撃して戦死すると、舅の范匄に范鞅の生還を詰って出奔させ、荀氏・范氏と仇を結んだ。
 欒鍼の行動は、元はといえば欒黶が勝手に退却したのが原因なワケで、どう考えても范鞅への八つ当たりです。 それにしても、堂々と軍令違反した欒黶にしても、欒黶を統御できなかった荀偃にしても、処分が下されないのが当時の晋の実情なんでしょう。 鄢陵の役での士燮の発言が痛いですね。 邲で敗れた荀林父の自該が、例え‘フリ’だとしても、するだけマシかと。

欒盈
 欒懐子。欒黶の子。范匄の外孫。 B557年に平公が立つと韓襄・范鞅と並んで公族大夫とされ、B555年の伐斉では魏絳を佐けて下軍を率いた。
 父の死後、家令と淫通して家産を蕩尽した母(范匄の娘)が、追及を懼れて范匄に謀叛を誣した為に放逐された。 范匄は諸侯が欒盈を庇護することを禁じたが、B550年に斉の援けで曲沃に潜行して挙兵し、絳都の魏舒とも通じたものの、范鞅に敗れて曲沃で族滅された。

 

士氏

 堯の裔(祁姓)とされ、宣王の粛清を逃れた隰叔が晋に帰し、士師に任じられたことで士氏を称したとされます。 後に封邑に因んで范氏を称しました。 献公の時代の士蔿は桓荘族の粛清や絳都造営などを指揮していますから、献公の懐刀というだけでなく、以後の晋の在り様を確立した立役者ともいえます。 献公死後の内紛ではその他大勢的な傍観派だったのか、恵公〜襄公の世にはあまり目立った動きはありません。
 ただ、それでも襄公の死に伴う政争で弾圧されてますから、為政者サイドが目障りに感じる程度の勢力はあったのかもしれません。 ところが追放された士会が有能だったために呼び戻されて、却って政治的な基盤を得、卿族の一角として晋の政界に君臨するようになりました。
 中行氏と提携していた頃が絶頂期で、他家よりも頭1つ抜けていたのでしょう。 だからこそ、趙鞅との紛争が晋を二分する国際戦にまで発展し、8年間に亘って継続したワケで。 結局、范吉射荀寅は敗れ、晋での基盤を失いました。

士穀
 襄公に仕え、B621年の夷の蒐では将中軍に擬されたが、趙氏・狐氏の遺勲を喚起した先克の提議で留保された。これを恨んでB619年に箕鄭・先都らと挙兵して先克を殺したが、程なく鎮圧された。
 士氏に於ける士穀の立場は、一般的には“士会の兄”で、“荀林父の罷免を諫めた士渥濁の父=士穆子”ということになっています。 士穀が士氏の宗家なのは恐らく間違いなさそうなので、士渥濁が士伯と呼ばれていた事からの類推でしょうか? 士穀が士蔿の子だとしている史料もあります。
 士穀の挙兵は『左氏春秋』でもサラっと流されていますが、先克への恨みというよりも、どうも士会への仕打ちも含めて趙盾体制に対する明確な反対表明のように思えてなりません。当初の予定通りに士穀が正卿とされていたら、襄公の継嗣は誰になっていたんでしょう。

士会
 范武子。封邑によって随会とも。士蔿の孫。 B621年に襄公が歿し、秦より公子雍を迎える使者となったが、変心した趙盾に討たれて秦に亡命した。 しばしば晋を侵して懼れられ、郤缺の支持でB614年に帰国が認められた。
 B597年の邲の役には将上軍として臨み、将中軍の荀林父の避戦を支持し、実戦では唯一、荘王を撃退して軍を全うした。B593年に赤狄を滅ぼして正卿・将中軍とされると、国内の盗賊はみな秦へ逃げたという。 又た周の王孫蘇の乱を平定した際には、礼制を学んで晋の法を整え、後の悼公にも絶賛された。
 B592年、斉で辱められた郤克が帰国すると、郤克の暴発を抑えるには伐斉しかないことを察し、無名の戦を厭って郤克を後任に推して致仕した。

士燮
 范文子。士会の子。士会が致仕すると将上軍とされ、B585年に蔡に達して楚と対峙した際には、荀首・韓厥と共に避戦を唱えて欒書に撤収させた。B575年には佐中軍とされて鄢陵の役に臨んだが、徳治の優先を称えて開戦自体に反対し (国の刑政が上大夫に及んでいない事に対し、国人の不満が鬱積している)、憂憤がもとで翌年に病死した。

士魴
 士会の子。B573年、周より悼公を迎立する使者となって智罃に従い、佐下軍に叙された。 B564年の伐鄭では将下軍の欒黶を佐けた。

范匄
 范宣子。士燮の子。 B563年、正卿の智罃の危惧を聴かず、宋の向戌のために将上軍の荀偃と共に偪陽を攻め、攻略に苦しむと智罃に帰還を求めて叱責され、自ら力戦して稍く陥した。 B560年に智罃の後任に擬されたが、荀偃を推して佐中軍に留まり、B555年の伐斉の帰途に荀偃が歿すると後任の正卿とされた。
 B559年の伐秦で、欒鍼と与に秦軍に突した子の范鞅のみが生還したことを婿の欒黶に詰られて范鞅を放逐し、これより欒氏と遺恨を生じ、B552年に欒黶が歿すると、欒黶に嫁した娘の讒言を信じて欒家を滅ぼした。 B514年には祁氏羊舌氏を滅ぼして諸卿と邑を分割し、公室はいよいよ脆弱になった。

范鞅
 范献子。士鞅とも。范匄の子。B559年の伐秦で、ともに秦軍に突撃した欒鍼のみが戦死したことで欒黶に追求されて秦に亡命したが、秦景公の仲介で帰国が許され、B557年に平公が即位すると韓襄・欒盈とともに公族大夫とされた。 欒黶が歿すると、妹と与に欒家を讒言し、曲沃で挙兵した欒盈と絳都の魏舒との呼応を防いで欒盈を敗死させた。
 季孫氏からの贈賄で魯昭公の帰国を妨げ続け、魏舒の後任として執政となった後も、鮮虞討伐を優先して蔡の乞援に応じず(B506)、趙鞅の邸に宿泊した宋使を拘留するなど(B504)、家勢に驕って外交を軽んじた。

范吉射
 范昭子。范鞅の子。趙氏の内訌に舅の荀寅と介入して晋陽に趙鞅を攻囲したが、智躒・韓簡子・魏襄子らが定公に運動して叛乱と見做され、敗れて朝歌へ退いた。 狄や斉・鄭にも支援されたが、B490年に敗れて斉に亡命した。

范皐夷
 范吉射の弟? 一族内での処遇を不服とし、范吉射が趙氏の内訌に介入すると智躒・韓簡子・魏襄子らに通じて卿位を約束されたが、敗れた范吉射を朝歌に迎えた事で、B492年の朝歌陥落と共に殺された。

 

荀氏

 原氏が封邑を以て氏としたとされますが、原氏については分かりません(土着の大族でしょうか?)。 献公に嗣子を託された荀息がいることから、曲沃系の名門なのでしょう。
 荀林父が文公の馭者となり、後に将中軍まで昇ったのは、文公の帰還に何らかの協力をした見返りか、実勢力の故なのか。 将中行に因んで荀林父より中行氏を称し、晋の中枢にほぼ坐し続けました。
 又た荀林父の弟の荀首は封邑に因んで智氏を興し、荀氏は本家の中行氏と分家の智氏が揃って六卿に名を連ねることになります。
 詞弑殺に与した荀偃の代から范氏との共闘が目立ち、結局、荀寅が趙氏の内訌に介入したことで范氏と運命を与にして、B490年に晋から逐われました。

荀林父
 中行桓子。B634年の三軍編成で文公の馭者となり、翌年の三行(歩兵三軍)新設では将中行とされ、以て中行を氏とした。 B621年に歿した襄公の継嗣に公子雍が定まると、太子派の暴発を危ぶんで先蔑に迎立使の辞退を勧め、公子雍の撃退が決せられると佐上軍とされて趙盾を扶けた。 又た士会と狐射姑の帰国が諮られた際には、狐射姑を推したが叶わなかった。
 B597年に将中軍として臨んだ邲の役では避戦を唱えたものの、佐中軍の先穀が独走して黄河を渡ったために韓厥の進言で兵を進めた。 渡河後も主戦派と講和派の調整ができず、講和使に開戦派の魏リ・趙旃を用いたために宣戦が行なわれ、楚軍の急襲で中軍・下軍が壊乱した。帰国後に自殺を求めたものの、士渥濁(『史記』では士会)の擁護で不問とされた。
 戦後、楚に従う鄭の城下で盛大に閲兵して晋の威信を回復し、以後は狄を伐って晋の北辺を安定させた。
 所謂る賢者系、治世限定の能臣らしく、先穀の独走はともかく、立候補したからって開戦派を講和使にするのはマズイだろ…。 和戦論に佐上軍の郤克が参加していないのも不気味ですが、荀氏が無力なのか荀林父の資質なのか…。

荀偃
 中行献子。荀林父の孫。B575年の鄢陵の役には佐上軍として従い、翌年に三郤が誅されると、欒書と諮って胥童を殺して悼公を迎立した。 B564年の伐鄭では将上軍となり、将中軍の智罃と共に楚との開戦を主張したが、諸侯の反対で撤収した。 B563年、范匄と共に偪陽攻略を強行したが、長期化すると撤退を主張して智躒に叱責され、自ら力戦して陥した。
 B560年に智躒の後任として将中軍とされた。 翌年の伐秦では水を越え、河水に毒を流されて全軍に強攻を命じたところ、下軍の欒黶と魏絳が背いたために撤収したが、行軍が遅々とした上に報復戦でありながら成果を挙げなかったことから、“遷延の役”と揶揄された。
 B555年に范匄と共に中軍を率いて魯を援け、斉霊公を大破した。

荀呉
 中行穆子。荀偃の子。B554年に家督を襲いだ。 晋の戎狄対策の中心となり、B529年とB527年には鮮虞を大破し、B525年に洛水から陸渾戎を駆逐した。

荀寅
 中行文子。荀偃の孫。B513年、趙鞅とともに、范宣子の刑法を鉄鼎に刻んだ。 B506年の召陵の盟で、楚に伐たれた蔡の救援が諮られた際には、鮮虞対策の優先を范鞅に説いて伐楚を辞退させたが、B502年には范鞅・趙鞅とともに魯を援けて斉を伐った。
 范宣子の法を“夷の蒐(B621)の法”と宣った孔子の戯言はさて措き、子産の刑鼎と同じで慣習法を成文化したんでしょうね。 “喧嘩両成敗の法”とか。
 范鞅からの流れで観ると、楚と事を構えるのはイヤだけど、中原諸国の盟主としての立場は確保しておきたいということなんでしょう。 宋や衛に対する政策すら范氏・中行氏サイドと趙鞅とで違っていますから、極論すれば、斉だけは押さえ込んでおきたい点で両者は一致したと。

 B497年、趙氏の内訌で甥の趙午が殺されると、婿の范吉射と与に介入して趙鞅を晋陽に攻囲したが、定公を動かした智躒・韓簡子・魏襄子らに伐たれ、朝歌へ退いた。 以後も斉・鄭・衛らに支援されて予断を許さなかったが、B492年に趙鞅に敗れて邯鄲に逃れ、B490年に斉に亡命した。

 

智氏

 中行氏の分家です。荀林父の弟の荀首が智に封じられて起てたもので、智躒の代に祁氏・羊舌氏や范氏・中行氏を滅ぼして晋の最大勢力に発展しました。 分家との負い目の反動か、智躒以降は我欲の強さが目立ち、智瑤が趙氏を攻めている只中に、魏氏・韓氏に離叛されて滅びました。

智首
 智荘子。荀首とも。荀林父の末弟。 B597年の邲の役では下軍大夫。避戦派だったが、子の智罃が捕われると魏リを馭者として連尹の襄老を射殺し、公子穀臣を擒え、翌年の捕虜交換で智罃を帰国させた。B585年の南征では趙同・趙括らの開戦論に対し、士燮・韓厥と反対して欒書に撤収を決断させた。

智罃
 智武子。荀首の子。 B597年の邲の役で楚に擒われ、翌年、連尹襄老の屍と公子穀臣との交換で帰国した。 B578年の伐秦で佐下軍となり、B573年に周より公孫周(悼公)を迎える正使とされ、B564年の伐鄭では将中軍として諸侯を率い、将上軍の荀偃と共に楚との開戦を主張したが、諸侯の反対で撤収した
 B563年に荀偃と范匄が強行した偪陽攻略では、開戦前に偪陽の堅牢を以て失敗の危惧を表明しており、長期戦となって両将が撤退を求めると叱責して8日で陥させた。同年に鄭を伐ち、潁水を挟んで楚と対峙した際には開戦派の欒黶を抑え、鄭を威圧して撤収した。

智盈
 智悼子。智罃の孫。B550年に欒盈が叛いた時の智氏の当主で、年少の故に中行氏に従った。 B533年に歿した。

智躒
 智文伯。荀躒とも。智盈の子。 B520年とB516年に周室の乱を趙鞅と鎮め、B514年に祁氏の内訌を枉誣し、祁氏と羊舌氏を廃亡させた。 B497年に范氏中行氏が趙氏の内訌に介入すると、韓不信魏侈に諮って范氏・中行氏を討ち、又た趙鞅の赦免を実現した。

祁氏
 献侯の裔。B552年に欒盈の党与として捕えられた叔嚮の釈放を運動したり、范匄と和氏の田土争いの仲裁に歩調を合せるなど、羊舌氏と連携することが多かった。B514年、家令との内紛に介入した智躒の誣告で族滅された。

羊舌氏  ▲
 献公の弟/伯喬の裔。B573年に中軍の尉の祁奚を輔佐してより、祁氏と連携することが多かった。 叔嚮の子の伯石(楊食我)の代に、祁盈の党与として族滅された。
 時の執政は韓起。同年に韓起が歿し、後任の魏舒の下で分割が行なわれたことになっています。ちなみに、祁氏の遺領は7県、羊舌氏は3県に分割されました。

智甲
 智宣子。智躒の子。一族の智過の諫めを聴かず、智瑤を嗣子とした。

智瑤
 智襄子・智伯・荀瑤。智甲の子。『史記』では智罃。 威雄な容姿や武勇・才芸は万人が認めていたが、強情にも定評があり、一族には智瑤を当主とすることに対する異論も強かった。
 B453年に趙・韓・魏氏とともに范・中行氏の遺邑を分割し、これを咎めて挙兵した出公を国外に逐い、哀懿公を立てて万機を決裁した。 夙に趙無卹とは不和で、B451年に城邑の割譲を拒まれると韓虎魏駒を率いて晋陽を攻囲したが、翌年に韓・魏氏に叛かれて敗滅した。

 

魏氏

 文王の子の畢公高を祖とし、献公に仕えた畢万が魏に封じられたことで魏氏を称しました。 畢万の代に稍く大夫とされ、又た重耳に従った魏犨の背命などもあり、六卿では最も遅れてB573年に卿に列しました。 B514年に魏舒が執政となったものの、智氏覆滅まで目立った動きは観られません。

畢万
 文王の子/畢公高の裔。B661年の二軍編成では将下軍の太子の右乗とされ、趙夙が馭者となった。 後に献公の右乗となり、魏に封じられて大夫とされ、封邑を以て氏とした。

魏犨
 魏武子。畢万の孫。重耳の亡命に随い、帰国後に家督を襲いだ。 B634年に文公の戎右となり、翌年の伐曹で軍令に背いて釐負羈の家を焼いたが、才を惜しまれて減死に処された。

魏頡
 令狐文子。魏犨の孫。B573年に新軍の佐とされ、B569年に歿した。

魏リ
 厨武子・呂リ。魏犨の子。B597年の邲の役では講和使に志願して楚に宣戦し、開戦を急がせた。 下軍が壊乱すると荀首の馭者を務め、公子穀臣を擒えた。 B575年の鄢陵の役では楚恭王の目を射、養由基に射殺された。

魏相
 魏宣子・呂相。魏リの子。B573年に悼公が立つと、父の歴功を以て将下軍とされたが、同年に歿した。

魏絳
 魏荘子。魏犨の子。B573年の悼公の即位で中軍司馬とされ、B570年の鶏沢の盟で、悼公の弟の楊干の乱儀を咎めてより重んじられ、魏頡が歿すると新軍の佐とされた。 同年、無終山の戎狄討伐が諮られると、陳の帰属を楚と争っていた折でもあり、戎狄討伐での疲弊を危惧して和議を成立させ、後に悼公の覇業の首勲とされた。
 B559年の伐秦(遷延の役)では佐下軍とされ、将下軍の欒黶に従って戦線を離れた (各軍が将の命に従うことを命じた荀偃の令を奉じたことで、魏絳の行為は正当化されています)。
 刑令を重んじ、悼公に「首勲である」と発言させたり、安邑に遷ったりと、魏の実質的な開祖として扱われています。

魏舒
 魏献子。魏絳の子。父以来の欒氏との交誼があり、密かに帰国した欒盈が挙兵すると絳都での内応を約したが、范匄・范鞅に妨げられた。 B541年に無終の狄を大破し、B514年に韓起に代って執政となると、祁氏羊舌氏の遺邑の分割を宰領した。

魏侈
 魏襄子。魏舒の子。B497年の内戦で、智躒・韓不信らと結んで趙鞅を援けた。

魏駒
 魏桓子。魏舒の孫。B453年に韓虎と共に智瑤に従って晋陽に趙無卹を攻囲したが、かねて智瑤の驕慢を憎んでいたこともあり、趙無卹に説かれて智瑤に叛き、趙氏・韓氏と共に智氏を三分した。

 

韓氏

 桓叔の少子の韓万が、武公の馭者としての功で韓に封じられ、因って氏としたものです。 献公が粛清対象とした所謂る“桓荘の族”です。 趙氏の再興に絡んで有名な韓厥の代に卿に列し、次代には趙武の後任として執政になりましたが、一族の傾向として慎重かつ細心で、そのせいか自立後も影が薄いです(笑)
 『左氏春秋』では妙に人格者を輩出する家系で、『左伝』が韓で成立したとの憶測が生じる所以です。

韓簡
 韓万の孫。B645年の恵公の伐秦(韓原の役)に従い、不義の戦と諷諫したが聴かれなかった。

韓厥
 韓献子。韓簡の孫。趙盾に養育された。 B620年に趙盾の薦で司馬に抜擢され、軍律の執行に私心を差し挟まなかったことで讃えられた。 邲の役では、先穀の独走を抑えられなかった荀林父に、「不救の罪は主将に帰すが、敗戦の責は諸将で分担できる」と追走を勧めた。 鞍の役の翌年(B588)に将新中軍となり、B585年の南征では荀首士燮らと共に楚との開戦に反対した。
 趙氏の粛清では趙武を密かに匿ったとされ、病床で趙氏の祟りを気にする景公に勧めて趙氏の再興を果たした。 B578年の伐秦で将下軍とされ、鄢陵の役にも従い、翌年の詞弑殺では荀偃に同意せず、欒書の擁護で助命された。 後に将中軍に至り、B566年に老齢を理由に致仕した。

韓起
 韓宣子。韓厥の子。兄の無忌に譲られて家督を襲いだ。 B560年の智罃の死に伴う人事では将上軍に擬されたが、趙武に譲って佐上軍となり、B541年に趙武が歿すると正卿となった。 しばしば叔嚮に諮問して従うことが多く、その執政には大過がなかった。

韓不信
 韓簡子、韓伯音。韓宣子の孫。 B497年の内戦では智躒・魏襄子らと定公を説いて趙鞅を援けた。

韓虎
 韓康子。韓簡子の孫。B453年に魏桓子と共に智瑤に従って晋陽に趙無卹を攻囲したが、かねて智瑤の驕慢を憎んでいたこともあり、趙無卹に応じて智瑤に叛き、趙氏・魏氏と共に智氏を三分した。
 嗣子の韓武子がB423年に鄭幽公を攻殺したことで、長期に及ぶ鄭との確執が発生した。

 

趙氏

 顓頊の裔とされる造父が、穆王の馭者を務めて趙に封じられてより氏としたもので、幽王の時代に造父の孫の叔帯が晋に移って文侯に仕えたとされます。 立場的には魏氏と同じ筈なんですが、重耳の外戚となったことと当人の資質の差で文公の時代から重んじられ、しばしば正卿を輩出しました。
 外様が杭になって出た常か、親藩譜代に比べて浮沈が大きく、趙朔の死後・趙鞅の代・趙無卹の代と3度も瀬戸際を経験していて、自立後の内訌も他家に比べて目立ちます。趣味なのか(笑) (まあ、秦や鮮虞や胡と接壌していたせいで、他氏のように嫡長オンリーな継承をできない事情もあったんでしょう)

趙夙
 叔帯の玄孫。B661年の二軍編成では献公の馭者となり、大夫とされた。

趙衰
 趙成子、成季。趙夙の孫。 重耳の婿でもあり、重耳の亡命に随い、狄では重耳と共に隗氏の姉妹を娶り、B636年に帰国して原の大夫とされると、趙姫の薦めで叔隗の子の趙盾を嗣子とした。 B634年の三軍編成では郤穀を将中軍に推して欒枝・先軫・胥臣に卿を譲り、B629年に将上軍の狐毛が歿した際にも先且居・箕鄭・胥嬰・先都に譲った。 狐偃の後任の佐上軍とされ、B625年に秦の孟明視が来攻すると佐中軍とされた。

趙盾
 趙宣子、趙宣孟。趙衰の子。母は狄の叔隗。趙衰の帰国後に、狄より迎えられて嗣子とされた。 父の歿した翌年の夷の蒐で佐中軍を継ぎ、襄公の太傅の陽処父の薦挙で将中軍に直された。 同年に襄公が歿すると、太子夷皋(霊公)の年少を危ぶんで在秦の公子雍の擁立を図り、政敵の狐射姑を逐ったが、世論の調整に失敗して霊公を立て、秦への迎立使の先蔑士会も排斥した。
 狐射姑には「趙衰は冬の太陽の如く温和で、趙盾は夏の太陽の如く烈しい」と評されたが、士会の帰国を認めるなど諸家の調整に努め、その執政は公正と称された。 しばしば霊公を諫めて憎まれ、B607年に暗殺を逃れて出奔したところ、国境を越える前に趙穿が霊公を弑したので帰還し、成公を立てた。 B601年頃に郤缺に執政を譲った。
 霊公弑殺を実行した趙穿は趙夙の庶孫とされていますが、趙盾に先んじて襄公の婿とされており、又た趙衰の諡号が成季であることから、こっちが趙夙の嫡統かもしれません。又た趙盾の発言には、趙衰の嫡統となる筈だった趙同・趙括への配慮がチラホラしています。 宗家に気を遣い、実家でも異母兄に引け目があったりで、趙氏内部に対する統制は強くなかったのでしょう。

趙同・趙括
 ともに趙衰の子。文公の外孫。趙盾の異母兄。 B597年の邲の役では下軍大夫として従って開戦を主張し、B585年にも蔡での軍中で楚との開戦を主張した (文公の外孫で勲門ですから無理もありませんが、驕慢ぶりを示す逸話が多い両者です。事実なのか、伏線なのか)
 趙荘姫(趙朔の夫人)に淫通した同母弟の趙嬰斉をB586年に放逐し、そのため趙荘姫に謀叛を訴えられ、欒氏・郤氏の証言もあり、司寇の屠岸賈に改めて霊公弑殺の責を問われてB583年に粛清された。

趙朔
 趙荘子。趙盾の子。成公の娘(趙荘姫)を娶った。 B601年に胥克に代って佐下軍となり、B597年の邲の役には将下軍として臨んだが、趙同・趙括の開戦論には同意しなかった。
 死後、夫人の趙荘姫が叔父の趙嬰斉に淫通し、趙氏粛清の原因となった。

趙武
 趙文子、趙孟。趙朔と荘姫との子。成公の外孫。 趙氏の粛清後に韓厥の要請で再興が認められ、祁氏に移された田土が返還された。 B573年に魏相が歿すると新軍の将とされ、B560年の将中軍の智罃の死に伴う人事では、韓起欒黶の薦挙で将上軍とされ、B548年に范匄の後任として正卿となった。
 叔嚮の進言を重んじて従うことが多く、又たB546年には宋の向戌が唱える晋楚の和睦に同意し、B544年に来訪した呉の季札にも高く評価された。 平公の荒淫を教導できず、魯の叔孫豹からは「(正卿となった晩年は)無定見で糊塗に終始している」と評された。

趙鞅
 趙簡子。趙武の孫。趙成の子。 B516年に智躒と共に周室(敬王)の乱を鎮め、B514年の祁氏・羊舌氏の分割にも与り、翌年に荀寅とともに刑鼎を鋳た。
 B497年に邯鄲大夫の趙午を殺した事から邯鄲が叛き、荀寅范吉射が介入して晋陽を攻囲され、智躒・韓不信・魏侈らに救われた。B490年には両氏を晋から一掃し、智躒の死後は執政に就き、B482年に定公に扈随して黄池の盟を宰領した。 又た魯を逐われた陽虎や、衛から亡命した蒯聵を庇護して内戦中から衛の内政に武力干渉し、B480年に蒯聵の即位を成功させた。
 定公に赦された直後に為乱両成敗の晋法を以て智躒に晋陽大夫の董安于の処刑を強いられ、後に智伯の伐鄭に嗣子の無卹を名代として従わせた際には廃嫡を求められ、智氏との遺恨が進行した。

趙午  ▲
 邯鄲の大夫。趙穿の裔とも。B500年の趙鞅の伐衛に従い、衛から得た500戸の管理を委ねられた。 B497年、衛戸の晋陽への遷徙を命じられ、衛との交誼を重んじる国人に反対されると、敢えて斉を侵して報復を避ける名目で徙戸を行なったが、遅延を責められて趙鞅に殺された。
 邯鄲が趙午の子の趙稷を奉じて趙鞅に叛くと、趙午の外叔の荀寅范吉射と共に来援し、斉・狄・鄭・衛なども介入して晋を二分する大乱に発展した。

趙毋卹
 趙襄子。趙鞅の子。家督を襲ぐと喪中に代王を謀殺して代を平定し、代王に嫁していた姉が自害した。 B454年、智・韓・魏氏と范・中行氏の遺領を分割し、これを責める出公を撃退して出奔させた。 B452年、智瑶への割邑を拒んで晋陽に攻囲されたが、翌年、韓・魏氏の内応を得て智氏を滅ぼし、その遺領を分割した。
 廃嫡された兄を徳とし、兄の遺児の代成君の死後、その遺児のを自身の継嗣とした。

 
 六卿のことを調べている中で、おや?となった疑問点についてのメモ程度です。
 『史記』と『左氏春秋』で相違があるってだけでなく、『史記』内部でも同じ事件について紀年が違っていたりして、タチ悪いことこの上ない。 せめてそれぞれの事件の前後関係がハッキリすればと思います。 『国語』とか『戦国策』なんかも調べれば、違った見方や謎の上塗りなんかもあるんでしょうが、正直そこまで手を伸ばす気はありませんし…(笑)
 以下は、あくまで主観です(笑)

趙氏の族滅


 『史記』晋世家と『左氏春秋』では、B583年の趙氏の族滅に関する記事に目立った差異はないんですが、『史記』趙世家では、景公の3年(B597)に趙氏が族滅され、趙朔・趙嬰斉もこの時に殺されたことになっています。
 晋世家や『左伝』ではその後の趙括・趙旃の動静を追えますから、景公3年は明らかに間違いです。 ‘趙世家’を執筆している段階で、趙朔の死と趙氏族滅を混同してしまったんでしょうか。
 それに、趙武復帰後の回復力を見るかぎりは族滅だったとも思えず、趙同・趙括ら趙氏の宗家が粛清されたような感じです。

 ただ、趙氏粛清の際の趙武を庇う佳話が後世の附会だと萎えるので、趙朔が死んだときもヤバい事態だったと脳内編集(笑) (尤も、趙武の危機については、嬰斉追放のとばっちりという解釈も可能ですが)

出公と趙鞅の紀年


 『竹書紀年』と比較したことで自己解決済みです。ただ、『史記』への信頼はほどほどに、という自戒を込めて残します。 それにしても、『史記』の晋世家と趙世家はどうしてこうも齟齬が目立つのでしょう。

 まず始めに。晋の定公は37年で歿しています。これは確定でいいと思います。 定公を嗣いだのが出公で、出公が逐われて公孫驕が立てられ、公孫驕の下で智伯が滅ぼされます。 困ったことに、出公出奔の年次は田恒弑君と違って、『史記』の中に直接の比較対象がありません。
 ‘晋世家’では出公は17年に四卿に敗れて斉に出奔する途中で歿し、次の哀公の4年に智伯が滅ぼされます。 これが‘趙世家’になると、出公の17年に趙鞅が歿し、無卹の4年つまり出公の21年に出公が出公となり、智伯による晋陽攻囲となります。 趙鞅と出公、趙無卹と哀公が混同されている感じです。

 この事件を『竹書紀年』に求めると、「出公は23年に楚に奔って昭公の孫が立てられた」とあり、智伯の敗死については「燕成公の2年」とあるだけで、晋での年次はありません。 おそらく、出公17年は趙鞅の歿年で、智伯の敗死が趙無卹の4年だと智伯の死後に出公が逐われたことになるので、これは哀公の4年でよさそうです。
 出公の継嗣については、ここでは『史記』晋世家準拠で哀公としましたが、趙世家では懿公、『竹書紀年』では敬公とされています。

晋室のその後


 『史記』晋世家では、出公の後、哀公が18年で歿し、嗣いだ幽公も18年で殺され、烈公は27年、孝公は17年と続き、静公が2年に庶人に貶されたとあります。 烈公19年に三晋が列侯し、孝公9年に魏武侯が立ち、静公の初年=斉威王初年とあって、一見すると年次確定に役立ちそうですが、静公以外は六国年表の結果からの後付けのようです。
 実際、『竹書紀年』では孝公=桓公の紀年は20年までは確認できますし、魏武侯が立ったのは10年ほど遡って烈公の世です。 静公と斉威王の紀年の関係については、根拠の所在が気になるところです。

 一方、趙世家によれば「敬侯11年に晋を滅ぼして遺領を分割し、その翌年に敬侯が歿し(同年に韓が鄭を滅し)、嗣いだ成侯の16年に晋君を端氏に封じ、粛侯の元年には端氏から屯留に遷した」とあり、これとは別に、韓の昭侯10年に韓氏による弑君があります。
 『竹書紀年』では、韓による滅鄭の翌年に晋君の徙邑と趙敬侯の死亡(=成侯元年)記事があり、さらに魏恵成王13年に斉威王の嗣位と韓による屯留奪取があります。

 これらを立年称元で修正した年表に落し込むと、趙敬侯11年の滅晋は晋静公2年に合わせた結果にすぎず、趙粛侯元年の遷屯留は成侯元年の誤記で、成侯16年の封端氏は魏恵成王の13年にあたり、斉威王の初立でもあるので晋孝公の歿年に比定できます。そして韓昭侯10年は威王2年になるので、奇しくも晋世家の静公貶庶と合致します。

 『竹書紀年』と『史記』の比較も試みてみました。
△ 補注:春秋時代

Top