▽ 補注:『史記』との齟齬

『竹書紀年』

■ はじめに ■
 魏の襄王の時代に編纂された『竹書紀年』。 魏の御用史書ではあり、一度散逸して、諸書に引用された部分を抽出して再現が進められている事、意外と主語の欠落が多い事などが難点ですが、『史記』の補完資料としての信憑性は『左氏春秋』レベルではないかと思います。ざっと読んだ印象だと、趙と斉の対立が根深いなー、二字諡号が意外と多いなー、肝心な部分の紀年が無いなー、とそんな感じです。

 このファイルを改めて読み直してみると、解りにくい事この上もない内容になってしまいました。説明下手は何とかならんものか…。
 『史記』を元にした年表が手元にあることを前提にしている点は悪しからずです。

年表化をしてみる


 『竹書紀年』だけで年次確定に使えそうな記事を拾ってみました。年表化後のデータを載せている訳ではありません(笑)
  1. 晋出公10年:勾践、歿。
  2. 晋出公23年:晋君が楚に出奔。昭公の孫の敬公を立つ。
  3. 晋敬公18年:魏文侯、初立。
  4. 晋烈公4年:越王朱句(35年)、滅郯。
  5. 晋烈公11年:田悼子、歿。斉宣公(51年)、歿。
  6. 燕簡公13年:三晋が諸侯に列す)
  7. 魏文侯50年:文侯、歿。
  8. 魏武侯元年=趙烈侯14年。
  9. 魏武侯11年:安邑・王垣に築城。
  10. 斉康公22年:田侯剡、立つ)
  11. 魏武侯21年:韓が滅鄭して鄭に遷都。
  12. 魏武侯22年=晋桓公15年:韓哀侯・趙敬侯、歿。
  13. 魏武侯26年:武侯、歿。=晋桓公19年。
    魏恵成王元年=晋桓公20年。
  14. 魏恵成王6/9年:四月甲寅、大梁に遷都。
  15. 魏恵成王13年=斉桓公18年、威王、始見。
  16. 魏恵成王28年:馬陵の役。=斉威王14年
  17. 魏恵成王36年:称元。
  18. 後元15年:斉威王、歿。
    後元16年:恵成王、歿。
  19. 今王

 孔子の死=晋定公33年=B479年を前提に、敬公=哀公(18年)・幽公(18年)・烈公(27年)の年次を『史記』に準拠して踰年称元法で年表を組んでみると、嘘くさいほどキレイに収まります。当然といえば当然ですが。ちょっと『史記』と比較してみます。西暦年は、意図的に極力排除しています。

  1. 晋出公10年:勾践、歿。
     『史記』上では定公はB475年に歿しているので、出公元年をB474年とした場合、勾践の死はB465年になります。 ただし、立年称元法で考えると定公の死はB476年となり、勾践の死はB467年となります。
    越王はこの後、勾践−鹿郢6年−不寿10年−朱句と続きますが、晋魏紀年に滅多に絡みません。
    『史記』では勾践−鼫與−不寿−翁となっています。
  2. 晋出公23年:晋君が楚に出奔。昭公の孫の敬公を立つ。
     『史記』では出公17年の記事です。おそらく多分、司馬遷は趙鞅の歿年と混同したのでしょう。 この取り違えが、以後の『史記』の晋・魏の紀年の混乱となります。
     敬公は『史記』晋世家の哀公、趙世家の懿公にあたります。 後の東漢の末帝の諡号が魏では献帝、蜀では愍帝だったのと同様に、晋での諡号が哀懿公、魏では敬公とか?
  3. 晋敬公18年:魏文侯、初立。
     『史記』では幽公の15年の事件です。
  4. 晋烈公4年:越王朱句(35年)、滅郯。
     晋紀と越王の年次がどうにも合わない一件です。 踰年法だろうが立年法にしようが合いません。晋の紀年が間違っているか、朱句の滅郯が35年ではないと考えるのが妥当っぽいです。
     『竹書紀年』では朱句が37年で歿した後、翳36年−無余12年−無顓8年と続きます。 『史記』では翁−翳−之侯−無彊と父子相続されていますが、『竹書紀年』では、33年に呉に遷都した翳が36年に太子に殺されて内乱状態となっています。 翌年に寺區が平定して無余を立てたものの、12年で寺區の弟に殺されて無顓が立てられ、現状の『竹書紀年』で確認できる越の記事は、無顓の死亡記事が最後です。
     あと、烈公4年の記事として、趙による平邑築城があります。これは『史記』では、趙献子13年にあたります。
  5. 晋烈公11年:田悼子、歿。斉宣公(51年)、歿。
      『史記』に不在の田悼子の記事は、斉宣公15年の田荘子からの継承記事と、この記事の2件が確認できます。 この記事から晋紀と姜斉紀の比較ができますが、「烈公11年:田悼子、歿。斉の公孫会が離叛」「斉宣公51年:公孫会が離叛。12月、宣公が歿」と、一括した記事ではありません。 引用記事からの復元ですから、コマ切れ状態は已む無しです。又た、宣公の死亡月を考えると、次の康公の元年は翌年かもです。 ちなみに『史記』での田荘子の歿年は、宣公45年です。
  6. 燕簡公13年:三晋が諸侯に列す。
      『史記』では晋烈公19年、魏文侯22年、韓景侯6年、趙烈侯6年、燕湣公31年と、比較対象満載ですが、よりによって『竹書紀年』で晋魏の紀年が確認できません。 少なくとも晋烈公と燕湣公は司馬遷の後付けのようです。又た燕簡公という不意打ち的な名もあります。因みに『史記』での燕簡公は100年近く過去の人物です。
  7. 魏文侯50年:文侯、歿。
     文侯の在位は『史記』では38年となっています。 この12年差を埋めるべく、立侯の敬公十八年が六年の誤記だとか、継承50年/称侯38年だとか諸説が提案されています。 38年には原資料があるのか、年表作成後に司馬遷が設定したものかも定かではありません。
     そもそも『竹書紀年』内でも 3.の記事との整合性が難しく、魏氏の当主を襲いでから50年で歿し、その間の敬公18年に侯を自称したか独自の紀年を用い始めたか、さもなくば敬公18年が敬公8年の間違いとの解釈が必要です。まあ、それでもズレますが(笑)
  8. 魏武侯元年=趙烈侯14年。
     『史記』では魏武侯元年=趙敬侯元年で、趙は烈侯9年→武侯13年→敬侯となっています。 『史記』の魏武侯元年=趙敬侯元年を事実とした場合、趙武侯の存在は架空となります。 おそらく、『史記』上では全く同じ在位期間の韓列侯と混同したものと思われます。
  9. 魏武侯11年:安邑・王垣に築城。
     『史記』では武侯2年とされています。
  10. (斉康公22年:田侯剡、立つ)
     これも『史記』不在の人物です。10年後に田午(太公)に殺されます。
  11. 魏武侯21年:韓が滅鄭して鄭に遷都。
     B375年の事件です。以後、『竹書紀年』では韓を鄭と記すようになります。 同様に、遷都後の趙を邯鄲、魏を梁としていますから、国=邑の発想が強かったことが解ります。
  12. 魏武侯22年=晋桓公15年:韓哀侯・趙敬侯、歿。
     魏紀年晋紀年が比較できる貴重な年です。 別項に、「(晋)孝公を桓公と為す」との記事もあります。
    「魏武侯22年に韓が晋桓公を徙邑」「韓が晋桓公を徙邑。韓山堅が哀侯を弑し、韓若山(懿恭侯)を立つ」「韓哀侯・趙敬侯、晋桓公15年に歿」とあります。 『史記』では滅鄭の年に趙敬侯が歿し、その4年後に韓哀侯が歿しています。
  13. 魏武侯26年:武侯、歿。=晋桓公19年。 魏恵成王元年=晋桓公20年。
      『史記』では武侯は16年で歿しています。これは文侯紀年の整合性を優先させたせいでしょう。 ところで併記されている晋紀年が、称王前から踰年称元が行なわれた根拠になりそうですが、何しろ魏の紀年なので、後付け編纂の疑いが消せません。 何はともあれ、武侯の在位は26年と明記されていますので、 8.の西暦年も確定可能です。
  14. 魏恵成王6/9年:四月甲寅、大梁に遷都。
     『史記』では恵成王の31年、秦の衛鞅に大敗した結果ということになっています。 6年資料と9年資料がありますが、どちらにしても秦を懼れての遷都ではないようです。
  15. 魏恵成王13年=斉桓公18年、威王始見。
      桓公が18年で歿して威王が立ったという事らしいんですが、「斉公之十八年而威王立」「梁恵王十三年、当斉桓公十八年、後威王始見」とあります。 先君の紀年を用いながら、その死に触れずに新君を紹介するのは『竹書紀年』としてはとても異例的な書き方で、通常は並立する他君を紹介する手法です。
     先の侯剡の10年間を無視し、桓公の十八を六と誤読?したことが、『史記』の田斉紀年22年ズレの原因とされます。
  16. 魏恵成王28年:馬陵の役。=斉威王14年
      15.の直後の思わぬ陥し坑でした。威王始見の翌々年を威王元年にしないと合いません。それとも魏文侯と同じで、襲いだ後に何らかの宣言があったとか。
  17. 魏恵成王36年:称元。
     来年から元年だよん♪という宣言で、新年以降は後元年間とも呼ばれます。 趙世家・田斉世家では恵成王が死んだことにされていて、そのため六国年表では、以後の恵成王の治世は哀王の世とされています。
  18. 後元15年:斉威王、歿。 後元16年:恵成王、歿。
     斉威王と恵成王が1年差で死んだ、と。
  19. 今王
     襄王の事ですが、ところによって哀王だったりします。諡に哀が採用される理由がないので、襄の略字か誤記なのでしょう。 『史記』でもところにより、恵成王後元年間=哀王と誤解されています。

『史記』『左伝春秋』と絡めてみる

 特に注目すべきは『竹書紀年』での晋出公の出奔年次と魏武侯の在位年数、趙烈侯や韓哀侯の年次に田斉の紀年あたりでしょうか。 いずれにしても、『竹書紀年』で晋君の在位年数が確認できないのは残念です。完本の発掘に期待します。
 ところで、『史記』を『左氏春秋』で修正しつつ年表に直して、これに『竹書紀年』の記事を絡めていくと、立年称元法の方がすんなり収まる事件の方が多い印象で、当サイトの西暦換算も、『左伝春秋』の獲麟以降は基本的には立年称元法に拠っています。
 以下は、上記(晋・魏・趙・斉)以外の諸国についての検討で、基準点は三晋の列侯=B403年です。 くどいようですが、『史記』系年表が手元にあること前提で書いています。

■ 燕 ■
 『竹書紀年』の「智伯滅亡が燕成公2年」「文公が24年に歿し、簡公立つ」「三晋列侯が燕簡公13年」が伏兵でしたが、何気に『左氏春秋』のB530年の簡公の復帰記事も曲者です。
 『左氏春秋』の簡公は『史記』の恵公にあたるのですが、出奔から9年で帰国しているところを、司馬遷は「恵公の9年に帰国」と解釈しています。 『左氏春秋』の、斉が簡公復辟を狙って燕に出兵した事件を復辟達成と解釈したのかもしれません。 又た『史記』では恵公は復辟の年に歿して悼公が立ちますが、この流れも疑わしく、燕の紀年はB415年に簡釐公が立つまで不明瞭です。

 「智伯滅亡の年」とある燕成公2年ですが、『竹書紀年』には成公の歿年次がありません。成公の次の文公が24年に歿し、その次の簡公の13年が三晋の列侯なので、『史記』の「晋哀公4年に智伯が滅んだ」が正しければB451年、燕世家の「成公が16年で歿した」との記述が正しければB452年となります。
 これは自分の中でも決着していませんが、『史記』での成公2年が、晋出公の出奔を23年とした場合の哀公4年(踰年)とイコールという妙な合致になるので、晋哀公4年に合わせたB451年が正しいかな、と考えています。因みに、智伯滅亡の前後の燕世家の記述は、「孝公12年に智伯が滅び、孝公が15年で歿して成公が立つ」となっています。

 そして三晋の列侯に絡む簡公ですが、その前に、当時の燕君の継承を比較してみます。
『史記』では孝公15年→成公16年→湣公31年→釐公30年→桓公で、『竹書紀年』では成公→文公24年→簡公45年とあります。 文公=閔公=湣公でしょうし、又た簡公の歿年から考えると、簡公と『史記』の釐公は同一人物のようです。簡釐公とか?
上記の恵公もですが、燕には簡恵公・簡公・簡釐公の三人の簡公がいたことになり、二代目簡公にも別諡号があったかもです。
 それはともかく、三晋の列侯は『史記』燕世家では湣公31年(B403)の事件で、釐公へ継承された年でもありますが、『竹書紀年』によって湣公の在位自体も短縮され、歿年はB415年になります。 そして『史記』で在位30年とある簡釐公は『竹書紀年』では45年とあって、次の桓公の紀年で両書のズレは実質的に解消します。

■ 韓 ■
 『竹書紀年』と『史記』を比較するうえで、韓で最もネックとなるのが 12. の記事です。
『史記』での哀侯の死は滅鄭(B375)の4年後の哀侯6年です。『竹書紀年』と比較した場合、哀侯が3年で死んだのか、『史記』の通り在位は6年だっのかが解釈の分かれ目です。 在位6年として立年称元法に直した場合、B333年に歿した昭釐侯の紀年を司馬遷が5年削って26年に縮めたと解釈する必要が生じますが、韓景侯の列侯年次は『史記』と合致する景侯6年となります。

■ 秦 ■
 『竹書紀年』には霊公→簡公10年→敬公13年→恵公とあります。これが『史記』だと霊公10年→簡公15年→恵公となっています。
 魏世家に「文侯元年=秦霊公元年」とあることで、『史記』上の年次確定の一助となってきましたが、これはどうやら年表作成後の後付けのようです。 霊公と恵公の紀年が修正される必要があるようですが、どちらが要修正なのかは分かりません。 ただ、『史記』の秦本紀には恵公の歿年が明示されてなく、恵公の末年とされてきた13年の取南鄭は、恵文王の称王13年の漢中征服記事の誤用のようです。

■ 宋 ■
 他国の紀年には干渉しませんが、辟公辟兵の問題があります。燕易王と同じく妙な諡号です。『史記』では在位はB375〜B372年、子の剔成が円満継承したことになっています。
『竹書紀年』での桓侯璧兵に該当しますが、同書で桓侯はB356年に魏恵王に参朝していて、更に、年次は不明ですが、剔城に廃されたとあります。 今後、『史記』との整合性がどうなるのか楽しみです。『史記』では、剔成は41年に弟のに逐われていますが、案外、璧兵と剔城の年次が『史記』では逆に用いられ、剔城は兄からの簒奪に成功したものの、3年で甥の偃に逆襲されたのではと妄想しています。

■ 楚 ■
 『竹書紀年』絡みではありませんが、楚世家は何気に難物です。 特に懐王紀年は、18年の秦恵王の死亡記事以後は、懐王の死まで秦本紀とのチグハグ状態が続きます。 これだけなら楚世家に問題アリで片付きますが、秦本紀も昭王の6年〜11年の記事は他世家とのズレが目立ち、特に楚の方城(重丘)を攻略して唐昧を敗死させた連衡伐楚と、孟嘗君による合従伐秦が、秦本紀だけが他世家とズレているのは致命的です。
 ですので、この時期は他世家準拠がベターだと思います。 ただ、懐王の抑留については秦本紀と楚世家以外に比較記事が無く、王が抑留されてから3年間も楚に表立った動きが無いのは不自然なので、秦本紀が正しそうです。

 『史記』の記述をそのまま年表化してみました。懐王抑留をB297年とした場合、唐昧の敗死は懐王26年となり、おそらく懐王26年の、斉魏韓の世家に対応記事のない伐楚が原資料だと思われます。

西暦秦本紀楚世家魏世家田斉世家
B306昭王1懐王23襄王13湣王18
B305 2 24秦昭王が初立 14 19
B304 3黄棘の会 25黄棘の会 15 20
B303 4魏の蒲阪を抜く 26斉韓魏が来攻 16蒲阪を失陥 21
B302 5魏王と会 27 17秦王と会 22
B301 6陽君が入斉 28唐昧が連衡軍に敗死. 18連衡伐楚 23連衡伐楚
B300 7伐楚→新城を抜く 29景欠が秦に敗死 19 24陽君が入質
B299 8連衡伐楚
→楚の唐昧敗死
 30秦が8城を抜く
入秦抑留
 20 25孟嘗君が入秦
B298 9孟嘗君入国
楚の8城を抜く
→楚将景快敗死
悼襄王1秦が15城を抜く 21合従伐秦 26合従伐秦
B297 10楚懐王を抑留
孟嘗君を罷免
 2 22 27
B296 11合従軍が来攻
楚懐王歿
 3懐王歿 23 28

 そしてもう一つ。楚が最終的に踰年称元法を用いたかどうかは、懐王抑留の実年によって左右されますが、少なくとも懐王の即位以前は立年称元法の筈です。 踰年称元法が華北諸国の称王事業の一環として創案された前提なので。
 で、踰年型の『史記』では威王11年→懐王はB329年なのですが、立年称元法だと威王11年はB336年となり、B297年の懐王抑留から逆算すると威王→懐王はB326年となります。 この10年分のズレがどの楚王の紀年のズレなのかは、楚がある意味、燕以上に比較対象に乏しいので修正対象は不明です。

諸君主在位表


 一応、関係各君主の在位期間は、下記のようになりました。括弧内の諡号は『竹書紀年』系のものです。

『史記』立年修正
出公 B475〜B458 B476〜B454
哀懿公(敬公) B458〜B440 B454〜B434?
幽公 B440〜B422 B434?〜B417
烈公 B422〜B395 B417〜B388
孝公(孝桓公) B395〜B378 B388〜B358?

『史記』立年修正
文侯 B424〜B387 B437?〜B395
武侯 B387〜B371 B395〜B370

『史記』立年修正
烈侯 B409〜B400 B408〜B395
武侯 B400〜B387 ――
敬侯 B387〜B375 B395〜B374

『史記』立年修正
文侯 B387〜B377 B388〜B379
哀侯 B377〜B371 B379〜B374
懿侯(懿共侯) B371〜B359 B374〜B363
昭侯(昭釐侯) B359〜B333 B363〜B333

『史記』立年修正
悼子 ―― B443〜B407
太公 B411〜B385 B407〜B385
侯剡 ―― B385〜B375
桓公 B385〜B379 B375〜B358?
威王 B379〜B343 B358?〜B320

『史記』立年修正
恵公(簡恵公) B544〜B536 B544〜B536
悼公 B536〜B529 B536〜B526
.
成公 B450〜B434 B452〜B438
湣公(文公) B434〜B403 B438〜B415
釐公(簡釐公) B403〜B373 B415〜B371

『史記』立年修正
霊公 B425〜B415 B427〜B418
簡公 B415〜B400 B418〜B409
敬公 ―― B409〜B397
恵公 B400〜B386 B397〜B386

『史記』立年修正
悼王 B402〜B381 B405〜B385
粛王 B381〜B370 B385〜B375
宣王 B370〜B340 B375〜B346
威王 B340〜B329 B346〜B326
懐王 B329〜B299 B326〜B297

 
 

囲魏救趙

 『史記』と『孫臏兵法書』で内容の違いが気になる戦いです。 『史記』では桂陵の役で囲魏救趙し、馬陵の役で減竈して魏軍を大破していますが、『孫臏兵法書』では桂陵の役として一括されています。 『竹書紀年』にはどちらの戦もありますが、残念ながら開戦までの経過や戦況は確認できません。

桂陵の役
 『竹書紀年』の恵成王17年、『史記』の魏恵王18年、斉威王26年です(実際は威王3年)。 『史記』では、魏に邯鄲を包囲された趙からの求援に斉が応じ、孫臏が所謂“囲魏救趙”策で魏を大破し、威王の称王となりますが、出征の討議の時点でこの戦略は、騶忌の政敵の段干朋によって具申されています。南のかた襄陵(河南省雎県)を伐ち、邯鄲攻略で疲弊した魏軍の背後を衝け、と。
尤も、邯鄲は陥され、趙に返還されるのは桂陵の役の2年後になりますから、ぶっちゃけ、桂陵の役は“囲魏”でも“救趙”でもありませんが。
 『竹書紀年』では、前年に趙に大地震があって「室壊多死」とあります。 そして恵成王17年、斉宋衛が魏の襄陵を囲んだ記事と、斉の田期が桂陵で魏軍を破った記事があり、翌年にも襄陵で戦闘があります。 『史記』魏世家の流れ「17年:桂陵の役、18年:襄陵の攻囲」とは随分ニュアンスが違ってきます。
 ついでに言うと、桂陵の位置は、日本の解説書だと山東省の渮沢市に、近年の中国では河南省長垣に比定する見解が主流ですが、いずれにせよ魏が大梁に遷都していないと、襄陵を囲まれての慌てっぷりが説明できません。

■ 馬陵の役 ■
 『竹書紀年』の恵成王28年・斉威王14年、『史記』の恵王30年・斉宣王2年です。魏・趙に伐たれた韓を救援する斉の図です。趙は早々にリタイヤしたようですが。
今回は孫臏も御前会議に加わり、田忌の早期救援論、騶忌の救援反対論に対し、韓に粘るだけ粘らせてから疲弊した魏軍を伐てと勧めています。 結果、囲魏救韓を狙ったように見せかけ、迎撃に転じた魏軍を減竈の計で油断させ、魏太子を擒えて龐涓を戦死させる大勝利を収めます。
 『竹書紀年』では、「斉の田肦と戦う」とあります。 この田肦、『史記』楚世家では田嬰との不和が指摘され、又た『戦国策』魏策二には「太子年少、不習於兵、田肦宿将也、而孫子善用兵」とあります。 田忌のことかとも思いましたが、『史記』六国年表では出征将軍として田忌・田嬰・田肦と併記されているので、謎の人物です。

■ 『孫臏兵法書』 ■
 『孫臏兵法書』禽龐涓篇では囲魏救趙はこうなります。
 魏に邯鄲を攻囲された趙を救援するため、田忌・孫臏率いる斉軍は、まず魏の平陵攻略に失敗して見せて斉兵脆弱を演出し、ついで魏都大梁を急襲して、邯鄲から魏軍の行軍を急がせます。もちろん、兵力を分散して実数を晦ませて。 同書にはありませんが、或いはこの実数を晦ます作戦の具体案として、地に穿つ竈孔の数を誤魔化したのかもしれません。 そして桂陵で疲労困憊した魏軍を急襲・大破し、主将(太子)を殺して龐涓を擒えた、と。

 『孫臏兵法書』の現存部分には、馬陵の地名には言及がないそうです。 又た『史記』魏世家で馬陵の役を「趙を伐ち、斉が救った」とあったりと、『史記』内部でも齟齬があります。 ただ『孫臏兵法書』は兵書であって史書ではありませんから、著者の兵法論を喧伝するために桂陵の役に綜合した可能性も捨てきれません。

 
 

子之の乱

 この事件、燕世家だけでなく趙世家でも(紀年確定の補助として)言及されていますが、肝心の田完世家ではガン無視です。 昭王即位までの流れもあやふやなんですが、前後の状況から年次の絞り込みをやってみます。

■ 概要 ■
 燕世家の流れでは、易王が歿して噲が即位し、斉で蘇秦が殺され、噲の3年に諸国と合従伐秦(B318)をしています。 ついで「子之に政治を委ねたところ、3年で国が乱れて」太子平と将軍子被が挙兵し、数ヶ月後に孟子に煽られた斉が、燕の内戦に乗じて来攻しています。 B315年に国が乱れ、内戦数ヶ月で越年したとしてもB314年には斉に征服されたことになります。
 この戦で燕王噲は敗死し、子之は遁走し、2年後に昭王が即位します。その頃に斉軍を駆逐したということでしょう。 『竹書紀年』では子之は斉に擒われ、醢にされたとあります。

■ 時の斉王 ■
 斉について厄介なのは、燕世家と蘇秦列伝の斉王についての違いで、蘇秦列伝では、蘇秦の入斉後に宣王と湣王の交代があり、蘇秦の暗殺後に燕征服が行なわれています。確かに燕征服は、『史記』上は湣王の治世です。 ところが燕世家では、蘇秦暗殺の直後、蘇代を起用したのは宣王だとあります。
 原資料の“斉王”を、司馬遷が年表に則って解釈したのかも、、、とも思いますが、燕世家の記述が気になります。 他にも、実際の威王初立の年にあった衛鞅の変法を宣王の元年に差し込むなど、威王・宣王・湣王が混用されているのが気になるところで。
 当時は二字諡号が意外と多かったり、司馬遷が魏の哀王と襄王を別人扱いしていたりとあるので、宣王の二字王号説も無碍にはしかねるのも確かです。

■ 余禄 ■
 『史記』田完世家の桓公5年にこんな記事があります。“韓が魏・秦に攻められ、斉に求援したところ、斉は「応諾だけして韓に粘らせ、趙・楚が韓に援軍を出して諸国の耳目が韓に集まった隙に燕を伐つ」田臣思の策を採用し、燕の桑丘を陥す”と。 馬陵の役に先立つ孫臏の発言を彷彿とさせます。
 この「桓公5年」が実際の桓公5年なのか、『史記』上の桓公5年なのかすら定かではありませんが、これ、桓公と宣王を誤記していると面白いんですよね。 諸国の関係は違っていますが、秦・魏・韓・楚の耳目は岸門の役に集中しているので、辻褄だけは合いますし、時期的にも斉の征燕と合致するので。 まぁ、妄想です(笑)

 

蘇秦の合従

 燕つながりということで、蘇秦をば。
 『史記』『戦国策』では共に、蘇秦関連の記事は混乱が目立ちます。今更ですが。 司馬遷にしてからが、「世に伝わる蘇秦の話には異説が多く、時代が異なっていても類似していれば蘇秦に付会される」とボヤいています。
 『史記』の蘇秦の合従が非現実的なことは早くから指摘されていて、15年間の秦の逼塞が非現実的だという以前に、『史記』内部で噛み合いません。 蘇秦列伝では、秦の犀首による魏将龍賈の大破が大合従成立の契機となり、15年後、斉と魏による伐趙で解体し、蘇秦を任用した燕文公の死と続きますが、燕世家では、文公は蘇秦を接見した翌年には歿しています。蘇秦列伝で15年とされている期間が、燕世家ではせいぜい2年にすぎません。 又た時系列上は、燕文公の死→斉・魏による伐趙の失敗→龍賈の大敗の順です。
 『史記』『戦国策』がともに底本とした資料は、蘇氏については「蘇秦」「蘇代」「蘇氏vのほかに「蘇子」という不定名が用いられていたそうで、『史記』『戦国策』の編纂過程で「蘇子」が蘇秦や蘇代と書き換えられたそうです。 そのうえ、宋代に再編纂された『戦国策』は、これまで原典の再現度が高いとされてきた姚本版にこそ、「蘇子」が「蘇秦」に改変されている箇所が多いといいます。 因みに両書とも、「蘇秦の死後、斉宣王が蘇代を用う」とあるそうです。

 上記のような問題は、1973年に長沙の馬王堆漢墓から『戦国縦横家書』が出土したことで解消の方向に向ったようですが、秦斉称帝の頃の簡の一文字を‘捧’と読むか‘秦’と読むかで、蘇秦の活動時期が大きく変化するそうです。 因みに、「臣捧拝辞事」と読めば蘇秦は無関係、「臣秦拝辞事」と読めば蘇秦はこの時代の人となるそうです。

 では蘇秦の合従が実際にどれを指すかというと、前者なら、時代的にB318年の合従となり、蘇秦が燕と趙の同盟を成立させ、これに張儀の政敵の犀首が乗って大合従が成立したと見做せます。 蘇秦が負い目を負ったのは噲か昭王となりますが、燕の再興事業を斉に邪魔されたくないという昭王の気持ちを汲み取りたいところです。
 後者なら、従来は蘇代の功績とされてきた秦の称帝に反対する合従となり、楽毅や孟嘗君とも連携して最終的には済西の役に至るという、燕の説客としてはドラマチックな展開です。 燕文公や趙粛侯との絡み、易王に対する負い目や燕からの亡命話も、司馬遷が述懐した「無名氏由来」となり、蘇代は完全な脇役となります。 燕文公と絡んだ蘇子を蘇代とし、蘇代が実は蘇秦の兄だという説が出される所以でもあります。

■ 済西の役まで ■
 ついでに反称帝合従についてですが、秦王の繰り言によれば、鶏鳴狗盗の協力で秦を逃れた孟嘗君の合従で、秦は15年間、関中に押込められたそうです。 済西の役の際にそうボヤいています。伊闕で韓魏24万人を屠ったことは記憶に無いようですが、まあこれが外交術というものでしょう。 15年間というのが、何気に『史記』の蘇秦合従とカブっていて気になるところです。
 で、蜀経営から予想以上の成果を得たのか、中原進出を再開した秦は称帝します。斉からの提案を蹴った後に。 つまり発端は斉の提案だったって事ですが、斉が帝号に思い至った経緯は不明です。
 殷制復古を持ち出したに対抗するためとの説もあります。 殷では、地上では王、死後は帝として王の上位に位するとの事で、斉の滅宋は僭称に対する懲罰を兼ねていたとかいないとか。

 ともかく、秦に対抗して斉王も称帝します。ここでまず、両帝国で趙の挟撃が図られますが、称帝を周旋した蘇子が秦を離れている隙に、秦の矛先は魏に向います。 合従派の孟嘗君は斉を罷免されて魏に奔り、秦にハブられた蘇子とも結んで秦・斉を除く合従を成立させます。 ところがこの合従軍、戦果のないまま空中分解同然となります。
 そして諸国の眼が秦に向いている隙にと、蘇子は斉に宋攻略を唆します。「帝号を撤回して非難を躱し、趙よりも宋を伐って実を取れ」と。
斉が宋攻略を開始すると、便乗する国、抗議する国、隣国を伐つ国など様々で、ブレていないのは趙の反斉姿勢と燕の沈黙くらいです。 思えば、趙は粛侯の時代から、斉との関係は良くありませんでした。武霊王が燕の再興を支援してもいますし。 で、斉の伐宋開始の直後から、趙は魏と結んで斉を伐ち、秦に背後を衝かれると秦と和し、ついで燕と結んで再び斉を伐ち、ここから反斉合従が具体化していったようです。

△ 補注:戦国時代

Top