東漢.2

和帝  安帝  順帝  桓帝
 

和帝  79〜88〜105
 第四代天子。諱は肇。章帝の第4子。生母は梁貴人。 治世の初期には竇憲による北匈奴の大破と班超による西域平定という外征の大成果があり、親政後にも新降匈奴西羌に優位を保ち、対外的に国威が最も発揚された時代とされる。 10歳で即位したことで初めて天子と外戚の対立が表面化し、竇憲誅戮を主導した宦官の鄭衆を親任したことから、史家からは「中官の権を用いること、此れに始まる」と評された。

竇憲  〜92
 扶風平陵の人。字は伯度。竇勲の子。竇融の曾孫。が章帝の皇后とされてより顕官を歴任して驕慢となり、沁水公主(明帝の娘)の園田を奪ったことで章帝から“腐鼠”として遠ざけられた。
 和帝が即位して竇太后が垂簾すると、枢機を幹事して兄弟を要路に置き、声望のみ高いケ彪桓郁を傅師に任じて朝政を壟断した。 太后に信任される都郷侯劉暢の暗殺が露見すると、自ら車騎将軍となって章和2年(88)に北伐し、北単于大破の偉功を以て大将軍・武陽侯とされて涼州に進駐した。
 内外の人事を亶断して一族・門客は地方を奸乱し、耿夔任尚ケ畳郭璜班固傅毅ら腹心は爪牙と称され、弟の執金吾竇景は「行状は強盗に同じと」とすら評された。 辺地に大兵を擁したことで猜懼され、4年(92)に帰洛すると中常侍鄭衆・清河孝王らに大逆を該奏され、一族と倶に罷免の上で就封・賜死された。
   
 章和2年の北伐は執金吾耿秉が竇憲の副帥となり、南単于および度遼将軍ケ鴻と左賢王安国の両軍が別路から進み、翌永元元年に司馬耿夔・左谷蠡王師子らが北単于を稽落山で大破した。 漢への来降は前後81部20余万人に達し、竇憲は燕然山(ハンガイ山)で班固に紀功碑を立てさせて帰還した。
竇憲に阿諛した百官の上書で、大将軍は三公の上位に直されて長史・司馬の秩禄は倍加され、従軍した郡の長吏の子弟は悉く太子舎人に叙された (大将軍の属官の構成も、後に梁冀によって倍増されます)
 涼州に出鎮した後は南匈奴の拡大を厭って独断で北単于を立てたが、北単于が南匈奴に大破されたことで、右校尉耿夔・司馬任尚らに北単于を追討させた。
竇憲の粛清は、親政を望む和帝と鄭衆の合作というのが通評ですが、当時の和帝の年齢や親政後の主体性、竇憲の在京期間を考えると、朝廷が自発的に強迫観念に駆られた結果のようにも見えます。 一族郎党の横恣は確かにありましたが、和帝即位の翌年には北伐に発っていますし、凱旋してすぐに涼州に進駐していますから、朝廷を睥睨している図に乏しい気がします。それとも和帝にとってよほどトラウマ的な伯父さんだったか(笑)。
 国威発揚のため、一族郎党に構っていられないほど軍事に忙殺されて、ようやく一段落ついたら気付く間もなく逆族扱いされていた、というのはどう見ても贔屓の引き倒しですが、一般的な外戚禍とするには、何かと違和感がまとわりつきます。竇憲の評価はおそらく、劉暢暗殺が重要な要素なのでしょう。 後に外戚として返り咲いている一族でもありますし、梁冀と同列に論じるのはやめてあげてほしいものです。 因みに沁水公主はケ禹の息子の嫁、つまりケ皇后の叔母にあたります念のため。

鄭衆  〜114
 南陽犨の人。字は季産。謹敏で機計があり、東宮時代から和帝に親しんだことで親信され、竇憲誅殺を主導して大長秋とされた。しばしば賞賜を辞退した代償に朝議への参与を許され、102年には鄓郷侯に封じられた。 後世では東漢の宦官専横の嚆矢と称されたが、順帝を擁立した孫程・党錮解禁を勧めた呂彊と並んで忠臣と評されることもある。

袁安  〜92
 汝南汝陽(河南省商水)の人。字は邵公。 『孟氏易』を家学とし、理劇の才を称されて70年に楚郡太守とされ、楚獄を再理して400余家を救い、陰徳を讃えられた。 83年に太僕に進み、司徒桓虞と与に北匈奴との宥和を説いて太尉鄭弘・司空第五倫と対立したが、章帝に是とされて87年には司徒に至った。
 和帝の即位後は司空任隗と与に竇憲の北伐や阿党の不法を諫劾したが、名望を畏憚されて害されず、竇憲より南北両単于の並立が諮られると、南単于・鮮卑・烏桓の猜疑を危ぶんで肯定派の太尉宋由・太常丁鴻・光禄勲耿秉らと争議した。竇憲誅殺に先んじて歿した。

丁鴻  〜94
 潁川定陵(河南省舞陽)の人。字は孝公。桓栄に『欧陽尚書』を習い、白虎観会議にも連なって“殿中無双”と讃えられた。 92年には司徒に至り、大将軍竇憲の糾察では太尉と衛尉を兼ね、南北両宮の兵を督して竇憲の邸を囲んで自殺させた。 又た各郡一律だった孝廉の推挙枠を人口によって差を設け、20万毎に1員、20万未満は2年1員、10万未満は3年1員とした。 門弟は前後数千人を数え、劉ト・朱倀らを輩出した。

班固  32〜92
 扶風安陵(咸陽市区)の人。字は孟堅。班彪の子。幼時から文章・詩賦に秀で、九流百家の大義に通じた。 班彪の『後伝』編纂を継いで「国史私竄」と誣されたが、能文を認められて『漢記』編纂に参画し、『後伝』の継続が認められると20余年を費やして建初年間(76〜84)に『漢書』の体裁を整えた。 亦た関中を帰慕する耆老に駁す「両都の賦」は名賦と讃えられ、文章を好む章帝に寵遇されて白虎観会議では議事を撰録し、『白虎通徳論』を著した。
 父の故縁から夙に竇憲と親交し、北伐では中護軍として文書を典ったが、竇憲の威勢を恃んで諸子の横恣を放任し、竇憲に累坐して獄死した。

班超  32〜102 ▲
 字は仲升。班固の弟。弁辞に長じて博学だったが、筆研の業を蔑して蘭台令史を罷免され、竇固の西征に従って鄯善于闐を帰順させ、南道西端の疏勒から亀茲の勢力を逐って南道諸国を服属させた。 尚お、「不入虎穴、不得虎子」の俚諺は、諭鄯善使の36名で匈奴の使節200余人を夜襲する際に発せられたもの。
 明帝の死による撤退の勅に遵わなかったが、増派もあって84年には西域将兵長史とされ、南道諸国の兵を用いて平定を進め、疏勒の離叛と康居の介入を克服して87年には莎車を平定した。 90年には大挙来攻したクシャン朝の副王を撃退し、翌年に亀茲を降すと西域都護に叙されて亀茲に進駐し、94年の焉耆征服で西域50余国を悉く服属させて定遠侯に封じられた。副使の甘英を大秦国に派遣して直接交流を図ったが、これは成功しなかった。 後に老病を理由に、妹の班昭の仲介もあって子の班勇と倶に帰洛し、月余で歿した。
 嫡子の班雄は、叛羌の三輔入冦に際して京兆尹に至った。 嫡孫の班始は清河孝王の娘/陰城公主を娶り、150年に姦通した公主を斬殺したことで腰斬に処された。

班昭  ▲
 字は恵叔。班固班超の妹。 同郡の曹世叔に嫁いで程なくに死別し、博学・高才を以て宮中に召されて女官を教導し、ケ貴人にも親しまれて曹大家と称された。班固の死後は勅命で『漢書』の八表・天文志を補い、ケ太后が臨朝すると政事にも助言した。 同郡の馬融・馬続に『漢書』を進講し、又た『女誡』7篇は婦道の鑑として長らく親しまれ、『東征賦』は『文選』にも収録された。元初年間(114〜119)に70余歳で歿した。

和熹ケ皇后  81〜121
 和帝の皇后。諱は綏。ケ訓の子。ケ禹の孫。母は南陽陰氏。容色と学識に秀で、家では学士と揶揄された。 班昭に経書を習って天文・算数をも修め、貴人とされた後も隷婢に慈接し、102年に陰皇后が廃されて皇后とされた。 和帝が歿すると長子(平原王)を措いて嬰児の殤帝を立てて臨朝し、殤帝の死後は安帝を迎立して垂簾を続けた。
 ケ太后の治世は先零羌の最盛期に重なり、累積した社会問題が表面化して内憂外患が絶えず、節倹に努めて減役や冤獄再理など様々に民生安定を図り、一門の驕奢を誡めて外戚の横恣も少なかったが、平原王を疎んじたことで輿論に深刻な猜疑をもたらした。 亦た厳格な教導と垂簾の長期化は、抑圧された安帝に廃黜を猜疑させただけでなく、奏誥を仲介する宦官を組織面で拡大・強化した。 死後に和帝に合葬されたものの、一門は安帝を中心とする反対派によって粛清された。
『後漢書』安帝紀では、ケ太后の臨朝期には羌だけでなく、四囲の異民族や群盗の叛抗が頻繁に記載され、いかにも治安が混迷を極めている印象を受けます。 “牝鶏之晨”としてケ后臨朝に否定的な范曄が、失政を強調するために繊細な記事をも意図的に採録した可能性が無視できません。

ケ隲  ▲ 〜121
 字は昭伯。ケ訓の子。が皇后となった後も昇任を拒んだが、和帝が歿すると車騎将軍に叙され、安帝策立にも参与し、先零羌討伐に失敗しながらも大将軍に進められた。 何煕李郃楊震ら名士を挙任してケ太后の執政を支え、一族の多くも竇憲を誡鑑として自律した。
 121年にケ太后が歿して諸弟による大逆が讒誣されると就封に処され、羅侯(湖南省汨羅)徙封の途上で絶食死した。 従弟の河南尹ケ豹・度遼将軍ケ遵・将作大匠ケ暢も自殺し、帰郷に処された宗族の多くも郡県に害されたが、後に輿論に顧慮した安帝によって帰洛が許され、桓帝の世には皇后が立てられた。

殤帝  105/105〜106
 第五代天子。諱は隆。和帝の末子。ケ太后によって立てられた。 生後百余日にも拘らず、長兄の劉勝を措いて立てられたことで物議を醸したが、即位から10ヶ月足らずで病死した。

劉勝  〜113
 平原懐王。和帝の長子。痼疾を理由に和帝の継嗣とされず、殤帝が即位すると平原王とされが、擁立派は伏在化して殤帝の死後も迎立が議された。時人は、垂簾を貪るケ太后が年長の皇子を厭って痼疾を称したと唱え、この猜疑は、後のケ氏排斥に抵抗が少なかった一因となった。京師で嗣子無く歿した。

安帝  94〜106〜125
 第六代天子。諱は祜清河孝王の嗣子。 父の死後も有事に備えて京師に留められ、殤帝が歿して立てられた。 121年までケ太后の臨朝が続き、先零羌の強大化で涼州が事実上放棄され、徭役の増大と天災による凶作から内乱が絶えず、国内の混乱と軍事力の低下が相乗する悪循環を生じ、西南夷や武陵蛮などの叛抗も絶えなかった。
 ケ氏粛清で始まった親政は、先零羌の鎮静化と相俟って、阿母王聖・中常侍樊豊ら内官や外戚の閻氏ら側寵による放恣政治となり、宮中に阿附した郡県からは、民生の実情を糊塗して頻りに瑞兆が上書された。 讒誣によって太子を廃した翌年、巡幸途上の葉県(河南省平頂山市)で歿した。

閻顕  〜125
 河南滎陽の人。閻皇后の兄弟。 閻后が立てられた後もケ氏に抑制され、安帝の近侍の小黄門李閏・阿母王聖らと結んでしばしばケ氏を誣した。 ケ太后が歿するとケ氏と平原王との謀逆を誣してケ氏の粛清に成功し、中常侍樊豊・大長秋江京や大将軍耿宝らとも結託し、太尉楊震を枉陥し、太子を済陰王に貶すなど朝政を壟断した。
 閻太后が垂簾すると車騎将軍に叙され、幼少の北郷侯を迎立するとともに耿宝・王聖・樊豊らを排斥して兄弟で禁兵を領したが、少帝の死に乗じた中黄門孫程らが宮中で叛くと、多数の将校に離背されて敗死した。

周章  〜107
 南陽随(湖北省随州市区)の人。字は次叔。郡功曹のときに竇憲の就国があり、太守の謁見を強諫して累坐を免れさせたことで孝廉に挙げられ、累進して永初元年(107)に司空とされた。 平原王への同情と鄭衆蔡倫ら宦官の参政に反撥する輿論を測って安帝の廃黜を謀ったが、露見して自殺を命じられた。

蔡倫  〜121?
 桂陽出身。字は敬仲。明帝より小黄門とされ、和帝の時には中常侍に進み、後に尚方令を加えられた。 旧来の製紙法を改良して筆記用紙の製法を発明し、105年に和帝に献上した紙は“蔡侯紙”と呼ばれて珍重された。
 章帝の治世に宋貴人を糾察して龍亭侯に封じられたが、宋貴人の孫である安帝の親政が始まると、司直に召喚されて自殺した。

許慎  50?〜121?
 汝南召陵(河南省郾城)の人。字は叔重。賈逵に就いて古文経書を修め、後進の馬融から五経無双と称されたが、官界では不遇だった。 特に戦国時代の古文字に詳しく、文字の構成・造作から古典・典籍を解釈する訓詁学の基礎を築いた。 著作に『説文解字』などがある。

楊震  〜124
 弘農華陰(陝西省渭南市)の人。字は伯起。項羽斬殺の功で赤泉侯とされた楊喜の裔。西漢の楊敞の玄孫。 累代の経学の家で、桓郁に『欧陽尚書』を習い、諸学への究通と人格から“関西の孔子”と讃えられ、齢50で初めて召辟に応じた。東莱太守の時に故挙の昌邑令王密に金十斤を贈られると「天と地と我と子(汝)が知る」と窘め、この四知の訓は清廉の代名詞とされた。
 120年より司徒・太尉を歴任し、しばしば王聖母娘や耿宝ら側寵の非法を劾奏し、安帝にも忌憚されながらも絶大な声望から害されなかったが、124年にケ隲の故吏との誣罔で放逐され、追誣があって城西の夕陽亭で服毒自殺をした。
 棺は弘農太守によって暴曝され、諸子も陥罪されたが、順帝の世に名誉を回復され、漢末に至るまで三公を輩出して関西一の名族と称された。

張衡  78〜139
 南陽西鄂(南陽市臥竜区)の人。字は平子。歴世の著姓で、五経六芸に通じて文才にも秀で、『二京賦』で奢侈の世相を批判し、『帰田賦』では郷土愛を詠って賦家として知られた。 天文・暦数・陰陽にも明るく、機巧にも長け、水時計を発明し、“渾天儀”“候風地動儀”は精巧の極みと称嘆され、円周率の計算も行なったとされる。 安帝に召されて太史令・侍中・尚書などを歴任したが、讖緯の聖性を否定して昇任はできなかった。

少帝  〜125/125
 第七代天子。諱は懿。済北恵王の子。安帝の従弟。章帝の孫。 安帝の死後、閻太后によって北郷侯から迎立された。 即位直後に閻氏に通じた中常侍李閏・大長秋江京らによって大将軍耿宝らが粛清されて閻氏の権勢が強化されたが、在位200余日で歿した。 死後、廃太子の済陰王(順帝)を擁した宦官の孫程らが奪権し、列侯として葬られた。

順帝  115〜125〜144
 第八代天子。諱は保。安帝の子。はじめ太子とされていたが、閻后らの讒言で済陰王に貶され、少帝の死後、閻氏派と対立していた孫程ら宦官のクーデターで迎立された。 宦官の妻帯や養子による襲爵、朝議参列を公認して宦官の権勢を著しく強化し、又た後に外戚の梁氏による大将軍の継承を認めたことで梁冀の専横をもたらした。 外戚と宦官は地方行政を恣断して賊盗が横行し、先零羌の活発化と匈奴の背叛から西河朔方上郡が内地に徙され、南方でも象林蛮の叛抗が嶺南全域に波及した。

孫程  〜132
 涿郡新城(河北省徐水)の人。字は稚卿。長楽宮に給事して閻党とは疎隔があり、旧太子派に通じた。 少帝が歿して5日後に宮中で挙兵し、李閏に迫って南宮で済陰王(順帝)を迎立し、北宮で抵抗する閻顕らを討滅した。 孫程ら19人の宦官が封侯されて世に“十九侯”と称され、李閏の旧罪は不問とされた。 翌年には司隷校尉虞詡を弁護して遠ざけられたが、128年には赦免され、死後には弟と養子による分割襲封が認められ、宦官の襲封の嚆矢となった。
 孫程の死後、十九侯の生存者は阿母の山陽君宋娥と結託して中常侍曹騰・孟賁らと対立し、大将軍梁商をも誣したことから137年に減租・就国に処された。

張楷
 蜀郡成都の人。字は公超。『公羊伝』や『古文尚書』に通じ、人望が宦官・貴戚の枉陥を招くことを懼れて弘農山中に遁れたが、随慕する学者によって必ず門前市が立ったという。 亦た道術を好んで“五里霧”を作し、三里霧を作す裴優の師事を許さなかったが、後に裴優が盗賊で囚われると連及して詔獄に2年間繋がれた。官途には畢に就かなかった。
 子の張陵は朝賀での大将軍梁冀の帯剣を呵叱したことがあり、張陵の弟の張玄は乱世を危ぶんで辟召を悉く辞したが、後に董卓に迫られて出仕し、受叙の途上で病死した。

左雄  〜138
 南陽涅陽(南陽市鎮平)の人。字は伯豪。冀州刺史の時に貪猾の長吏を多く挙劾して名を知られ、後に尚書令に進んだ。 亦た海内の名儒を多く挙用し、孝廉の年齢を原則40歳以上に限り、公卿に対する殿中での捶撲の禁など上書は多く用いられたが、梁冀封侯に際しての無功封爵の禁は聴許されなかった。後に司隷校尉に転じた。
当時は売名の士が横行し、孝廉に代表される郷挙里選は貴顕の人脈強化に利用されやすく、陳蕃李膺らが挙げられた翌年の薦挙では、済南太守胡広ら十余人が謬挙として罷免されています。 孝廉の年齢制限は当時から年功重視として毀誉半ばしましたが、范曄は『後漢書』の中で順帝の世の人事が清平だった原因だと賞賛し、旧法に泥滞して虚名の士を跋扈させた者として黄瓊胡広張衡崔瑗らを挙げています。

荀淑  83〜149
 潁川潁陰(河南省臨潁)の人。字は季和。荀況の裔。 少時より高節を讃えられたが、博学ながらも章句学を好まなかったことで俗儒に誹られ、又た梁氏を譏刺したことで官歴は不遇だった。 朗陵侯国相を以て棄官隠棲し、李固李膺らに私淑された。
 8子は世に“八龍”と称されて高陽氏(帝嚳)の8子に擬され、郷里は潁陰令苑康によって高陽里と易められた。

冲帝  143〜144〜145
 第九代天子。諱は炳。順帝の子。大将軍梁冀によって立てられ、即位5ヶ月で病死した。 梁冀が朝政を壟断し、各地で農民や異民族の叛乱が絶えなかった。

質帝  138〜145〜146
 第十代天子。諱は纉。渤海孝王の子。冲帝の族弟。章帝の玄孫。 天資聡明と称され、梁冀の専権を憎んで“跋扈将軍”と揶揄し、毒殺された。 臨終の枕頭に太尉李固を呼んで水を求めたが、梁冀に遮られて歿したという。

劉蒜  〜147
 清河恭王の嗣子。質帝の従兄。章帝の玄孫。 冲帝が不予になると継嗣に擬されたが、質帝が立てられて帰国した。 「威望厳重、挙措に節度あり」と称され、質帝の継嗣として太尉李固らに推されたが、大将軍梁冀・中常侍曹騰に輿望を忌まれて立てられず、翌年には甘陵県(山東省臨清)の劉文らの叛主に擬され、尉氏侯に貶されて桂陽で自殺した。

梁冀  〜159
 安定烏氏(陝西省平涼市区)の人。字は伯卓。大将軍梁商の嗣子。 外貌は粗暴・驕恣を象る“鳶肩豺目”と形容され、訥舌で自律に乏しく遊芸に長じるのみだったが、順烈皇后の兄として顕官を歴任し、141年に大将軍を襲いだ。 順帝の死後、冲帝質帝を相い次いで立てて朝政を壟断し、“嫌忌にして睚眥にも必ず報”じ、「跋扈将軍」と揶揄した質帝を毒殺し、妹婿の桓帝を擁立すると李固杜喬ら反対者を徹底的に枉戮した。
 桓帝定策の功で封邑は3万戸に増され、蕭何霍光ケ禹に比肩する入朝不趨・剣履昇殿・謁讃不名などの特典が加えられ、子の襄邑侯梁胤も万戸に封じられたが、それでも不満だったという。 一族・戚族・賓客らによる横恣・非法は歴朝でも比類なく、刑賞を恣意で行なう暴政に“百僚は色無く天子は恭己するのみ”だったが、妹の懿献皇后の死とケ貴人の暗殺未遂を機に単超らによる誅殺の謀議が進行し、禁兵に邸を囲まれて夫人の孫寿とともに自殺した。
 梁氏は梁統以来、3后・6貴人・2大将軍・7侯・7邑君・3駙馬を輩出したが、このとき悉く棄市され、誅黜された公卿・列侯・二千石は300余名に達して、朝廷は「為に空虚」となり、梁冀の遺財は租税の半ばに斉しかったという。
梁冀とその一党による悪行は宦官や外戚の典型で、罪人を庇護し良民を掠取し、州郡の刑政を姦乱し、徒党は富家を枉讒によって滅ぼして財物を掠取し、その行いは匪賊に勝ると称されました。 梁冀の行ないは竇憲の比ではなく、官の遷叙で自分への謝恩より尚書への参詣を優先した者を枉陥し、亦た一族といえども私禁を犯す者には容赦せず、苑内で狩猟した弟の賓客30余人を鏖殺し、一兎を誤殺した商胡に累連して10余人が殺されたこともありました。
 梁冀は宮衛・近侍にも党与を配して帝を監視し、単超らの挙動を猜疑すると中黄門張ツを省内に宿衛させましたが、これが梁冀謀逆の口実となり、張ツの捕縛と同時に梁冀の大逆が宣明されました。 この時、尚書令尹勲は省閣の衛兵を統御し、黄門令具瑗が司隷校尉張彪とともに梁冀の邸を囲み、光禄勲袁盱が大将軍印を没収ました。

李固  94〜147
 漢中南鄭(漢中市区)の人。字は子堅。司徒李郃の子。 五経のほか風角・暦星・讖緯に通じて名声があり、天災を以て外戚と宦官の横暴を劾挙して議郎とされ、宦官・外戚と牧守の結託抑止を図って八使巡撫を行なうなど、後の清流派の先駆者的立場にあった。
 冲帝が即位すると太尉・録尚書事とされ、その死後は清河王を推して梁冀と対立し、質帝が歿して再び清河王を推したが、司徒胡広・司空趙戒らが梁冀の推す蠡吾侯支持に転じたために罷免された。 翌年(147)には杜喬と共に清河王擁立への通謀を誣され、胡広・趙戒の懦弱・翻意を責譲しつつ刑戮された。 梁冀の禁令を犯して哭礼する者が絶えず、太后の特赦で帰葬が認められた。
後の清流vs濁流の雛型としての李固vs梁冀という構図は、とても解りやすく共感しやすいのですが、李固の支持のされ方が胡散臭くもあります。 質帝が李固の支持者として描かれているのが、まず不自然です。質帝にとって梁冀は圧迫者かもしれませんが、李固も反対派の領袖。 たとえ李固が質帝の明君の資質とやらを見直したとしても、質帝の李固評が真逆になる理由にはなりません。 質帝にとっては、まさに「前門の虎、後門の狼」状態。心中察するに余りあります。
 梁太后も同様です。そもそも李固信者になるきっかけや経緯が不明です。 まあ、宦官経由なんでしょうけれど、そうなると李固と宦官の関係が…、、書けませんよね、ただの政争だなんて。『後漢書』としては。
 范曄が李固に強く入れ込んでいるのは解りました。自己投影しているんじゃなかろうか。 まあ、この程度の創作は些細なものだと思います。官撰史書としては。

胡広  91〜172
 南郡華容(荊州市監利)の人。字は伯始。夙に父を喪って貧窮したが、孝廉の第一等として尚書官を累進して事務に練達した。 順帝の皇后に梁貴人を推し、質帝の継嗣として蠡吾侯を支持し、杜喬が罷免されると太尉・録尚書事に進み、159年に梁氏が粛清されると阿党として罷免された。 宦官との通婚もあって譏毀は絶えなかったが、硬直の風に欠けたことと典章への通暁から、罷免されても常に1年以内で挙任され、三公を6度務め、陳蕃ら故吏は三公に至っても、同席を憚って朝会を病欠することが多かった。 霊帝が即位すると太傅陳蕃と並んで録尚書事を兼ね、陳蕃らが殺された後は太傅となり、死後は原陵(光武陵)に冢塋を下賜された。

張綱  109〜144
 犍為武陽(四川省彭山)の人。字は文紀。司空張皓の子。 経学に明るく、年少・微官でありながら142年に巡撫八使に選ばれ、中央の綱紀を急務としてこれを拒んだことで名を知られ、後に梁冀を厳しく弾劾して広陵太守に遷された。
前任の広陵太守は匪賊の張嬰に敗死していたが、張綱は単行説諭して解散に成功し、在任のまま歿した。 葬儀に際しても典賻はなく、張嬰らによって犍為に葬送された。
 張嬰はほどなく叛いて揚州・徐州の騒乱の一帥となり、御史中丞馮緄を佐ける九江都尉滕撫に大破された。

桓帝  132〜146〜167
 第十一代天子。諱は志。蠡吾侯の嗣子。順帝の族弟。章帝の曾孫。 権勢維持を図る大将軍梁冀に妹婿とされ、質帝が殺されて擁立された。 治世の前半は梁冀、後半は梁冀誅殺を主導した単超ら宦官が朝政を壟断し、宦官党与の跋扈による地方の急速な疲弊は、宦官と名族士大夫の政争と並んで東漢衰亡の決定的要因となった。 亦た羌族の組織的叛抗が鎮静化した一方で、檀石槐の出現によって鮮卑の脅威が著しく増し、武陵蛮などの抵抗も頑強になった。
 桓帝の時代は「誅梁の後、五邪虐を継ぎ、害毒は四方に流衍し、忠賢は力争するも聴かれず」と総評され、黄老・浮図(仏教)を信奉して民間の祠堂を悉く毀廃したことから、『左伝』の「国の将に興らんとするや民に聴き、将に亡びんとするや神に聴く」に依って、「神に聴けるもの」とも評された。
 猶お、延熹9年(166)に大秦国王安敦(ローマ皇帝マルクス=アウレリアス=アントニウス)の使節を迎えている。

五侯 (単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡)
 梁冀誅殺を主導した5宦官の俗称。懿献皇后の死後に中常侍単超が小黄門唐衡を介して桓帝に接近し、同恚の士として中常侍徐璜具瑗・小黄門左悺を挙げたことで梁冀誅殺が具体化した。
 誅梁の功で単超を筆頭に万戸侯とされ、左悺・唐衡は中常侍に進められ、小黄門趙忠ら余の宦官も封爵されたが、梁冀誅殺は私怨を動機としたもので志略に欠け、桓帝の親信を背景に驕恣を尽くし、一門党与の横虐は「竇梁を凌ぎ、百姓を辜獲すること盗賊と異ならず、歴世に比類なし」と評された。
 謀首の単超は臨終に車騎将軍を加えられて元勲として遇され、164年に歿した唐衡にも車騎将軍が追贈され、徐璜には巨万の典賻があったが、左悺は翌年に司隷校尉韓演の該奏で自殺し、具瑗が一族の臧賄に連坐して都郷侯に徙封されると、単超らの爵位も削貶された。
左悺と具瑗の排斥には、ケ皇后の廃黜が絡んでいるようです。 実際、管覇や蘇康、侯覧らは健在で、左悺の自殺した翌年には延熹の獄も起きていますので、五侯の没落は単なる党争に過ぎません。

曹騰
 沛国譙(安徽省亳州市区)の人。字は季興。 安帝から謹厚を嘉されて東宮に近侍し、順帝の世に中常侍に進み、桓帝定策の功で封侯されて大長秋に進んだ。 虞放張温張奐ら多く名士を薦挙し、蜀郡太守からの遣賂を以て劾奏した益州刺史种ロを能吏と称揚し、种ロからは終生私淑された。
質帝死後の帝嗣選定では大将軍梁冀に対し、梁冀の一門の放縦と清河王の厳明を諷示して蠡吾侯を強く薦めた。 四帝に仕えて過失が一度もなかったと伝えられる。

楊秉  92〜165
 字は叔節。太尉楊震の子。父業を修めて『京氏易』にも通じ、博学・清廉・公正を讃えられた。 桓帝に侍講しながらも梁冀を忌んで致仕し、誅梁で太僕に進んだものの白馬令李雲の刑誅を諫争して罷免され、程なく河南尹に復したが、済陰太守単匡の破獄で輸左校に処された。 大赦後の162年には太尉に至り、宦官の子弟賓客が郡県の長吏となることを禁じている祖法に依って牧守将校ら50余人を誅徙し、165年には益州刺史侯参を徴檻して中常侍侯覧具瑗を累坐させ、朝野を粛然とさせた。

馮緄
 巴郡宕渠(四川省渠県)の人。字は鴻卿。九江平定や鮮卑招撫に功があって京兆尹・司隷校尉・廷尉などを歴任し、荊蛮の大乱が南郡に達した162年、車騎将軍とされて武陵蛮を平定した。
 当時、宦官は軍資の損耗を理由に将帥を枉陥することが多く、馮緄の上書によって征中の弾劾禁止が認められた。 亦た軍功を従事中郎応奉に帰して致仕を求めたが、湖南が再乱したことで罷免された。 復官の後も宦官とは鋭く対立し、単超の弟の山陽太守単遷を拷殺したことで枉陥されたが、応奉の上疏で赦免された。

度尚  117〜166
 山陽湖陸(山東省魚台)の人。字は博平。 寒貧の故に同郡の侯覧に私属したが、刑事の才は冀州刺史朱穆にも認められた。 延熹年間の荊蛮の大乱では尚書朱穆の薦挙で荊州刺史に抜擢され、長沙蛮を追討して南海に達した。 165年に桂陽の守兵が叛くと長沙太守抗徐と共に大破したが、蒼梧に遁れた賊が北上すると「交趾の賊、州に寇す」と上奏し、投獄された交趾部刺史張磐が廷争したことで偽奏が露見した。旧功を以て赦免され、程なく遼東太守に叙された。

皇甫規  104〜174
 安定朝那(甘粛省平涼市区)の人。字は威明。141年に庶人ながらも征西将軍馬賢の西征を拙策として敗北を上書し、先見を讃えられた。 賢良方正の対策で梁冀を弾劾したために用いられず、誅梁の後に泰山太守に挙げられ、護羌校尉段熲の徴還に乗じた東羌の攻勢では、自薦して叛羌を鎮定した。亦た涼州刺史郭閎ら隴右の非任長吏を誅黜して諸羌の人心を得たが、枉陥されて輸左校に処された。
 赦免後は使匈奴中郎将・度遼将軍を歴任し、長く大任にあることを危ぶんで骸骨を求め、敢えて喪礼を違えて自ら密告したこともあったが不問とされた。 時の名将として張奐・段熲と並称され、西州の豪傑を自認したが、寒門のため声望に欠け、党人として自該した時も不問とされた。
 容色を讃えられた後妻は皇甫規の死後、相国董卓に兵刃を以て迫られると、董卓を「羌胡の種、趣使の走吏の子弟」と面罵して笞殺された。

張奐  104〜181
 敦煌淵泉(酒泉市瓜州)の人。字は然明。賢良の第一等に挙げられ、155年に安定属国都尉に遷り、南匈奴左薁鞬部の離叛に応じた東羌を招降し、従軍した董卓に帰慕されたが、遂に通好を許さなかった。 しばしば匈奴・鮮卑を撃退し、梁冀の故挙として禁錮された後、武威太守に直されて「治績は諸郡の冠たり」と評され、166年には度遼将軍から大司農に進んだ。
張奐の兵法は招撫・分断による被害の軽減を旨とし、中央転任に乗じた鮮卑・南匈奴の来攻に対しても、匈奴・烏桓を招撫して鮮卑を撃退し、歴功により特例として、辺人でありながら弘農華陰への遷籍が認められた。
 建寧元年(168)に帰洛した直後に偽制によって大将軍竇武を囲んで自殺させ、これを痛恨して行賞を拒絶し、竇武・陳蕃の冤を訟えて党人として禁錮に処された。この時、かねて不和だった司隷校尉段熲に哀願して司隷部放逐を許され、以後は閉門して門弟を教授した。
 少子張猛は建安年間(196〜220)に武威太守を拝し、刺史邯鄲商を殺したことで州兵に囲まれて自焚した。

張芝  〜192 ▲
 字は伯英。張奐の子。 杜林崔寔の書法を師とし、池に臨んでの練習で池水を黒く染めた故事から、書道は臨池”とも称される。 神速の草書の名手として知られ、“洛陽三代(漢・魏・晋)の冠”として鍾繇と名を斉しくし、倶に王羲之以前の書聖と評され、草書については王羲之も及ばなかった。
 弟の張昶も草書の名手として知られた。

王符
 安定臨(甘粛省鎮源)の人。字は節信。好学で馬融竇章張衡崔瑗らと親交し、王充仲長統と並んで“東漢三儒”と称されが、狷介不羈だった為に挙用されなかった。養蚕や重農主義を富国の基と強調し、時世の得失を論じた『潜夫論』を著した。
 当時、通見至難と称された度遼将軍皇甫規は、王符の到来を聞くや門に馳せ迎えたという。

馬融  79〜166
 扶風茂陵の人。字は季長。馬厳の子。 はじめ大将軍ケ隲の辟召を遁れ、飢困に堪えず出仕したが、尚文貶武の風潮を諷諫して疎まれ、甥の喪で棄官したことを厭仕と誤解されて禁錮に処された。 後に安帝の泰山封禅を讃えて挙任され、順帝の世には太守を歴任して勢家に違忤せず、李固の劾奏や梁冀の讃頌を作成したが、梁不疑との交誼を梁冀に憎まれて朔方に徙され、誅梁後は議郎とされて東観に署した。
 経籍に博通して小節に拘泥せず、姿貌と辞述に秀で、琴鼓に長じて豪奢を好み、講義では常に堂に絳紗を連ねて女楽を催し、時に識者から誹譏されたが、当世の通儒として“儒宗・大儒”と称された。 常に千余の門生を擁して盧植鄭玄らを輩出し、『左伝』の他に『論語』『詩経』『易経』『儀礼』『周礼』『礼記』『尚書』などに訓注を施して古文学の優位を確立し、『老子』『列女伝』『淮南子』「離騒」にも施注した。

安世高
 パルティア王子とされるが、君王家か藩侯家かは不明。 父の死後に出家して論・禅法に精通し、148年頃に入洛して帰化した。上座部仏教系の経論30余部を翻訳し、中国仏教の基礎を築いた。

五斗米道
 後の天師道・正一教。2世紀後期に張陵によって創始され、漢中地方を支配した宗教結社。 ほぼ同時期に関東に興った太平道と並んで道教の源流とされる。 太平道同様に祈祷や符呪による治病を行ない、五斗米を謝礼としたことから五斗米道・米賊と呼ばれ、信徒には『老子』五千文の読誦が課された。
 高弟の張脩によって威儀が盛大になり、張陵の孫の張魯によって体制が整備されて漢中を支配する宗教王国に発展した。 領内では祭酒が長吏の事を行なって官吏を置かず、祭酒ごとに食糧・医薬を常備した義舎を設けて旅人にも供するなど公益性が強かった。 犯罪には3赦の後に刑を行なったが、法はよく順守されて「民夷倶に和帰して紛諍無し」と称され、陝西〜四川にも影響力を及ぼし、西晋末に興された成漢が当時の別天地と讃えられたのも、開祖の李勢が教風を尊重したためとも伝えられる。
 張魯が曹操に降った後も道統は保たれ、張魯の子が江西の龍虎山で天師を頂点とする組織化を進め、“天師道”と称して全国的な勢力に発展し、仏教の隆盛に対抗して王浮が著した『老子化胡経』によって理論面が強化された。 以後、伝統的に仏教と反目し、北魏・北周・唐武宗の廃仏にも関与し、唐宋では唯一の道教として全盛となった。
 金・元代には華北に全真教太一教真大道教などが興起し、“正一教”と改称したものの江南中心の地方宗教となり、第36代の張宗演は元朝から江南道教統領と公認された。明・清でも江南に教勢を保ち、現代では華北の全真教と勢力を二分している。

張陵  ▲
 張道陵。沛国豊の人。順帝の世に蜀の鶴鳴山で道術を修め、符書・祈祷による癒病で民衆に帰依された。 道統は子の張衡の死後は高弟の張脩と孫の張魯が分掌し、張脩は184年に黄巾軍に呼応して巴郡で挙兵し、後に入蜀した劉焉に通じて漢中を占拠したが、程なく張魯に殺された。

竇武  〜168
 扶風平陵の人。字は游平。安豊侯竇融の玄孫。竇章の従弟。 久しく講学に専心して関中で名高く、165年に長女が皇后とされたことではじめて出仕し、城門校尉に叙された。 清廉を持して好んで名士を辟挙し、延熹の獄では潁川の賈彪の勧めで党人の赦免に奔走し、桓帝が歿すると霊帝迎立して大将軍に進められた。
 竇太后の垂簾下に太傅陳蕃と同心して宦官排斥を図り、5月には中常侍管覇・蘇康を誅したが、8月に宦官鏖殺の密奏が中常侍曹節に漏洩し、黄門令王甫・使匈奴中郎将張奐らに包囲され、歩兵営で甥の竇紹と倶に自殺した。
竇武は宦官鏖殺で太后の令旨にこだわり、長楽尚書鄭颯を収捕すると即刑を勧める陳蕃に対し、鄭颯の供述を曹節・王甫に及ぼした上で、太后に宦官殄戮を密奏しました。この奏文が長楽宮の宦官に窃読されて曹節に伝わり、王甫が太后の璽綬を奪ったことで大勢が決しました。
鄭颯は中常侍に進められた翌年(170)には、王甫に承旨した司隷校尉段熲に処刑されました。

陳蕃  〜168
 汝南平輿(河南省汝南)の人。字は仲挙。清節を重んじて虚名を憎み、楽安太守(山東省高青)の時に、至孝と謳われていた趙宣を断罪し、厳獅称されていた李膺が青州刺史に叙された時も介意せず、大将軍梁冀の請託にも応じなかった。 白馬令李雲の擁護や、宦官・外戚に対する劾奏などによって讒誣が絶えなかったが、しばしば九卿を罷免されながらも165年には太尉に至った。 翌年の延熹の獄焚書坑儒に比して罷免されたが、剛直な為人りと慷慨の志から太学生や名士層の支持を集め、太学では名士の筆頭の三君に数えられた。
 霊帝が即位すると、嘗て竇貴人立后を支持ことから太傅・高陽侯とされ、大将軍竇武と同心して多数の名士を挙用し、宦官粛清を進めたが、竇武が敗死すると官属諸生80余人と承明門に突し、王甫の兵に執われて獄死した。
 子の陳逸は陳蕃の友人の朱震に匿われ、後に冀州刺史王芬の大逆に参画した。

李膺  101〜169
 潁川襄城(許昌市)の人。字は元礼。太尉李修の孫。厳獅ナ知られ、青州刺史に叙された際には風評から多くの守令が棄官した。 宦官が壟断する朝政を糾弾して名士の中心的存在となり、荀爽は馭者となったことを喜誇したという。 司隷校尉の時に孕婦の殺害などで貪惨無道を称されていた野王令張朔(張譲の弟)を張譲の邸で収捕し、この時は張譲の訟冤も及ばず、これより宦官は宮省に籠って鞠躬屏息し、帰邸すらしなくなった。
 風角師張成の刑誅が延熹の獄に発展し、この時は帰郷禁錮に処され、霊帝が即位すると長楽少府に叙されたが、翌年に建寧の獄が起こると逃亡を拒んで詔獄で殺された。
 高邁で交際を厭い、同郡の荀淑陳寔のみを師友とし、名家や故縁でなければ容易に面謁を認めなかったことから、李家の門は世に“登竜門”と讃えられた。
 子の李瓚は張邈と親しく、亦た袁紹とは姻縁があったが、夙に曹操の異才を認め、一族には必ず曹操に帰すことを遺言して後難を免れさせた。

郭泰  128〜169
 太原界休(山西省介休)の人。字は林宗。貧寒で夙に孤児となったが、行節と博学で知られ、太学で李膺に認められて名を顕した。評材・訓励を好んで声望が高く、遊歴中に雨に遭って頭巾の一角が窪んだところ、時人は“林宗巾”と称して競って模したという。
 漢室の紊乱を厭って仕官しなかったが、孤高・峻厳に陥らなかった為人りは范滂などからも「隠れるも親を去らず、貞しきも俗を絶たず、天子も臣とすることを得ず、諸侯も友とする能わず」と絶賛された。 亦た詭言覈評を避けたことで汝南の袁閎と倶に党獄を免れたが、陳蕃らの敗死で落胆し、翌春に家で歿した。 墓碑を作った蔡邕盧植に対し、「唯だ郭有道のみ墓碑に愧ずる色無し」と述懐した。
当時、葛巾は布衣・庶人の装束でしたが、郭泰が愛好したことで士人にも好まれるようになりました。 曹操が帕(鉢巻)を普及させたことで廃れたといいます。


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