東漢

 25〜220
 景帝の後裔の劉秀が緑林軍を離れて河北に自立し、王莽に対する豪族と農民の叛抗を組織化し、洛陽を都に漢朝を再興したもの。 十余年間で全土を統一し、讖緯で修飾された儒学の国学化や豪族の既得権の尊重など、東漢の社会の方向性を定め、次の明帝章帝の時代に最盛期を迎え、対外的にも西漢の威信を概ね回復した。
 章帝の死後は幼帝が続いて外戚の官界進出が顕著で、天子が外戚に対抗するために重用した宦官の弊害も著しくなり、2世紀中頃には大学生や官僚と宦官との政争の結果、二次に亘る“党錮の獄”が発生し、朝廷は宦官派が主流となって地方豪族に対する求心力を失った。 又た宦官の抬頭と前後して発生した羌族の大叛抗は財政を著しく悪化させ、鮮卑などの入寇も激化して政治・経済の混乱と相乗し、流民化した農民や内徙された異民族の叛乱が各地で頻発するようになった。
 漢室の再興は主に南陽・潁川と幽冀の豪族の支援によって為され、豪族層の形成も西漢に比して進んでいたために権臣の血縁の政界進出は顕著だったが、郷挙里選尚書官制の整備などによって中央集権・君主専制は強化され、外戚や宦官の横恣も君寵を不可欠とした。 尚お、東漢では塩鉄の専売は行われず、豪族の自給的荘園経営が伸長したことで大規模な広域交易が衰え、賦税の布帛納化や俸禄の半銭半穀化など、貨幣経済から実物経済への後退が進んだ。
 184年に起こった道教的農民叛乱の“黄巾軍”が華北全域を席捲し、叛乱鎮圧の過程で各地に軍閥が割拠した事から、東漢の事実上の滅亡は黄巾軍の蜂起とされる。 朝廷は涼州軍閥の董卓らに支配されたことで権威を失い、ついで兗州軍閥の曹操に支配され、曹操の子の曹丕によって簒奪された。
光武帝  明帝   和帝  安帝  順帝  桓帝   霊帝  献帝
 

光武帝  B6〜25〜57
 東漢の初代天子。世祖。南陽蔡陽(襄樊市棗陽)の人。諱は秀、字は文叔。景帝の更始帝の族弟。謹直な為人りは兄の劉縯から、高祖の兄の劉仲に比せられた。 地皇3年(22)に劉祉の挙兵に従って緑林軍に合し、翌年の昆陽の役で兄弟で勇名を顕した後、潁川経略中に劉縯が更始帝に殺されても恭謹に徹した。 洛陽遷都後に求めて寡兵で河北経略に転じ、信都・漁陽(彭寵)・上谷(耿況)・真定の協力を得て邯鄲の王郎を平定し、徴還を拒んで自立した。
当時は更始帝・赤眉の他に、兗豫を領した劉永が青州の張歩・東海の董憲とも結び、蜀には公孫述、隴右には隗囂、廬江には李憲、南郡には秦豊らが割拠し、亦た河北では銅馬を筆頭に大搶・尤来・青犢・五校・檀郷などの諸賊が総計数百万と号する兵力を擁していました。
 幽州の制圧と銅馬の平定で大兵を得ると“銅馬帝”と呼ばれ、呉漢を主帥とした河北平定とケ禹による関中攻略の傍らで、更始3年に(25)に『赤伏符』の献上を以て鄗(河北省柏郷)で即位した。 更始帝が滅んだ直後に洛陽を陥して遷都し、建武7年(31)までに隴右・蜀を除く全国をほぼ平定し、12年(36)の蜀平定を以て天下平定を宣した。
 以後は簡制化と軍事の縮減による国力涵養を旨とし、辺地を中心に400余県を廃して郡国の駐兵を罷削し、尚書を再置して帝権を強化したことも加わって“光武中興”と美称された。 削兵は匈奴への劣勢となって15年(39)に幽州・幷州の北部を、21年(45)には西域に対する主権も放棄し、宣帝以来の快挙とされた22年(46)の日逐王の来降も、積極的には利用しなかった。 又た大姓・外戚と官吏との癒着が既に進行し、近代になって称賛される奴隷解放令も、発令が頻繁なことから実効性は疑問視される。 「官になるなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」とは劉秀に因んだ謡言で、即位後も「執金吾になれればそれでよかったのだ」と述懐したという。
舂陵劉氏は在所の著姓の樊氏陰氏ケ氏らと通婚し、劉秀自身も長安遊学の経験がある典型的な勢族士大夫です。 『赤伏符』の利用や、王梁の大司空叙任に象徴される讖緯信奉も、当時の風潮としては充分に許容範囲内です。 晩年の讖緯盲信の象徴とされる桓譚懲罰も、讖緯非経論が即位の正当性を否定しかねないと判断したからなのでしょう。 ここで説諭とか叱責に留まらなかったあたりは、年齢からくる癇癪かと。 ただ、即位後も讖緯を活用してしまったことで、東漢の官学としての儒学の方向性も規定されることになりました。
 天下平定後は元勲が職過から削剥されないよう実官に叙任しないなど、高祖の粛清を反面教師とした一方で官僚の過失には厳酷で、韓歆欧陽歙のような譜代でも刑戮を免れず、史書でも「屡々謡言単辞を以て守令を転易し、朱浮・鍾離意ら箴切するも得ること能わず。中興の美の欠けたる所以なり」と評されています。

  
昆陽の役 (23):劉秀が宛城(河南省南陽市区)救援に向かう王莽軍を大破した会戦。 宛城救援に40万の兵力を託された大司徒王尋・大司空王邑は、途上の昆陽城(河南省葉県)の攻陥を厳命され、このため王莽軍では昆陽攻略中にも宛直撃派との対立が潜在した。 昆陽を脱した守将の劉秀が数千の援兵を得て戻ると、寡勢を侮った王邑・王尋は諸営の出陣を禁じたことで大敗し、城内からの呼応で全軍が壊散した。
 恰かも数日前には劉縯が宛を陥しており、王莽の没落が明白となって各地の群雄が緑林軍に呼応するようになり、まもなく劉玄が宛で即位した。 寡兵能く衆を破った典型として史上に名高いが、劉縯兄弟の声望が俄かに昂まった結果、劉縯の粛清を結果した。

ケ禹  2〜58
 南陽新野の人。字は仲華。長安遊学中に劉秀と親交し、北渡した劉秀を追って常に帷幄で計議し、又た多くの人材を推挙して“知人の才”と称された。赤眉の関中攻略を追討し、光武帝が即位すると齢24で大司徒を遙授された。
 入関後は速戦を促す勅命に遵わず、隴東を経略した後に赤眉軍の退去した長安に入ったが、冬には長安を逐われ、欠糧と兵の離散に苦しんだ。 劉嘉の帰順を得たものの長安奪回に失敗し、徴還の途上でも馮異の諫止を聴かずに赤眉軍を襲って大破され、24騎で宜陽(河南省)に到って右将軍に貶された。 以後は概ね軍旅には携わらず、13年(37)に天下平定を以て高密侯に更封され、左右将軍の廃止で特進を加えられて朝請を奉じた。
 名勢や利殖を厭い、中元元年(56)の封禅では行司徒事として随行し、中興功臣の筆頭として明帝にも重んじられて太傅とされた。
  
 遺封は子のケ震・ケ襲・ケ珍に三分され、嫡孫のケ乾は明帝の沁水公主を降嫁されたが、永元14年(102)の陰皇后の巫蠱に累坐して剥爵された。 ケ襲の嗣子/ケ蕃は明帝の平皐長公主を降嫁され、又た第6子ケ訓の娘は和帝の皇后に立てられ、ケ氏は東漢を通じて2皇后・29侯・2公・13将軍を輩出した。

朱浮
 沛国蕭(安徽)の人。字は叔元。夙に有能を讃えられて劉秀に従い、呉漢の幽州略定を受けて大将軍・幽州牧とされた。 圭角の性で矜持が強く、隣接する漁陽太守彭寵と反目し、互いに誣告して彭寵の造叛を誘発した。 涿郡太守張豊が彭寵に呼応し、援軍の敗退などから薊を棄て、妻子を殺して遁れたが、旧功から執金吾への左転で赦された。
 当時の長吏の改廃は、州からの劾奏を光武帝が直接決裁したが、劾奏は概ね州従事が行なったことから、世に“権は百石に帰す”と称されており、朱浮は長吏の改易の頻繁なことを諫め、併せて苛刻を有能とする風潮と、刑事が定理より愛憎で決せられることに苦言を呈した。 建武20年(44)に大司空とされたものの22年には驕慢を理由に罷免され、又た同僚に対する凌轢は光武帝には譴責されるのみだったが、永平年間(58〜75)には誣告されて自殺を命じられた。

呉漢  〜44
 南陽宛の人。字は子顔。剛毅質朴・訥弁で「周勃の類」と評された。 彭寵と与に漁陽に亡命して安楽令とされ、劉秀の北伐に応じて上谷との連和と帰順を彭寵に勧め、自ら降使となってケ禹から高く評された。 幽州を平定して10郡の突騎を徴集し、岑彭と与に鄴の謝躬を斬り、功は河北征伐の第一として、光武帝の即位で大司馬に叙された。
 洛陽平定や劉永董憲討伐、隗囂公孫述遠征などに主将として転戦した。 隴西では西城(天水市区)に隗囂を攻囲しながらも、欠糧と蜀軍の来援で退却し、岑彭横死後の伐蜀でも速攻を戒める勅に背いて延岑に敗れたが、臧宮の来援で成都を陥した。 天下平定後は北防に転じ、盧芳討伐は匈奴の支援によって勝敗を決することができなかった。
 戦陣では常に沈着で士吏の激揚に長けた反面、兵の掠奪の黙認はケ奉の造叛を惹起し、成都陥落後の屠城と掠奪でも叱責されたが、「威は一敵国の如し」と光武帝・ケ禹らに信任された。 臨終に際しては私事には言及せずに大赦の濫発のみを諫め、霍光に準じた葬儀が営まれた。

耿弇  3〜58
 扶風茂陵(咸陽市興平)の人。字は伯昭。上谷太守耿況の長子。 軍略を好み、更始帝への降使を擲って劉秀に転じ、上谷と漁陽との合作を推進して劉秀に従うと、呉漢の幽州攻略など河北経略で先鋒となった。 光武帝が即位すると建威大将軍とされて敖倉の劉茂を降し、穣(南陽市ケ州)の延岑を大破し、彭寵の造叛では涿に張豊を平定した。 張歩親征では先行し、偽報を駆使して光武帝の到着を待たず張歩を大破し、張歩斬首の暗喩に背いて張歩の投降を認め、斉を平定した。
 その将略は敵将の蘇茂からも讃えられ、史書でも「挫折無し」と高く評された。 建武13年(37)に天下平定を以て軍権を奉還し、朝請を奉じて篤く信任された。
 嗣子の耿忠は、永平16年の北伐に奉車都尉竇固の副官として従軍した。

寇恂  〜36
 上谷昌平(北京市区)の人。字は子翼。歴世の著姓で、郡功曹として太守耿況に重んじられ、漁陽への使者となって合作を成功させると耿弇に随って劉秀に帰順した。 ケ禹より蕭何の才と評され、河内太守・行大将軍事として北伐の兵站と後方軍事を担い、馮異と与に蘇茂を大破して洛陽を沈黙させた。 光武帝の即位後は猜疑を惧れて職事を視ず、洛陽攻略には一族を従軍させ、建武2年(26)に潁川太守に転じた。
 汝南に出征中の執金吾賈復の部将を裁断した事から報復を宣されたが、帰還する金吾兵に酒食を饗して悉く酔わせて通過させ、光武帝の仲介で和睦した。 隗囂討伐では高峻を招降し、功を朋友・吏士に帰すなど宰相の器と評され、朝廷でも重んじられた。

馮異  〜34
 潁川父城(河南省宝豊)の人。字は公孫。『左伝』『孫子』に通じ、潁川経略中の劉秀に父城を挙げて帰順した。 劉秀に左丞相曹竟への通款を勧めて渡北を成功させ、銚期と倶に郡県の動静を探った後は別軍となって寇恂と共に河内・魏郡を経略し、李軼を牽制して洛東の13県を陥し、蘇茂を大破した。 軍功を累ねても功を誇らず、諸将の論功では常に大樹の下で泰然としたために“大樹将軍”と呼ばれ、多くの兵が馮異の下で戦うことを望んだという。
 建武2年(26)に関中でのケ禹の敗報が伝わると征西大将軍とされ、合流したケ禹を制止できずに赤眉に大敗したが、崤底(洛寧)で赤眉を大破して宜陽に逐い、ついで藍田(西安市)の延岑・陳倉の呂鮪を破って三輔を鎮定した。
 嘗て劉秀が密かに劉縯に服喪していることを察して独り哀悼を示したことがあり、又た薊から信都に奔遁する途上の饒陽(河北省衡水市)では豆粥を奉り、呼沱河で風雨に遭った際には馮異が薪を集め、ケ禹が火を起し、劉秀が衣を炙ることなどがあって、光武帝の親任は絶大だった。 関中での僭称を誣罔された際には、「義は君臣なれど恩は父子の如し」と猜疑されず、関中に妻子を伴うことも認められた。
 隗囂の離叛で伐蜀の諸将が敗退すると、空城の計で旬邑(陝西)を保って汧の祭遵と連携し、隴東を経略して隗囂を大破し、冀(天水市甘谷)の隗純攻囲中に病死した。

来歙  〜35
 南陽新野の人。字は君叔。劉秀に外兄として甚だ親敬され、舂陵が挙兵すると妹婿の漢中王劉嘉に依り、後に光武帝への帰順を勧めた。 隗囂との親交がら建武5年(29)に遣隴使となって隗恂を入侍させ、8年(32)の隗囂討伐に先んじて隴右の扼要である略陽(甘粛省秦安)を陥し、隗囂の半年に及ぶ攻囲に耐えた後は征西大将軍馮異・建威大将軍耿弇ら諸将を節度して天水を略定した。
 隗純を帰降させた後は蜀攻略に転じたが、武都郡攻略中に暗殺された。 臨終では、悲歎する蓋延を叱咤して後事を託し、上表を終えると筆を擲ち、抜刀して果てたという。 哀惜する光武帝から、汝南郡当郷(安徽省太和)を以て征羌侯に追封された。

岑彭  〜35
 南陽棘陽(新野)の人。字は君然。初め郡吏だったが、宛の陥落で劉縯に助命され、後に河内太守韓歆と倶に劉秀に詣降して河北経略に従った。 洛陽の朱鮪を招降した後は荊州の経略に転じて征南大将軍とされ、ケ奉を討ち、秦豊田戎を大破して伐蜀を準備した。 旧知の交趾牧ケ譲を招撫して荊南・交趾部の7郡を帰順させた後に隴右親征に従い、呉漢と共に西城の隗囂を囲み、このとき光武帝から「隴を得て蜀を望む」と欲心を嘆かれたが、蜀兵の来援と欠糧から撤退を余儀なくされた。
 この間に蜀に荊門(湖北省宜昌市区)を奪われたが、荊州に戻ると水師を整え、建武11年(35)に伐蜀の仮帥とされると呉漢らと荊門を抜いて益州牧とされ、虜掠の厳禁と百姓の按撫で各所で歓迎され、「向うところ敵無し」と讃えられた。 田戎が堅守する江州(重慶市区)に馮駿を留め、臧宮らに涪江の諸城を牽制させると晨夜倍行で岷江から広都(成都市区)に達し、公孫述らを「神哉」と震撼させたが、刺客によって暗殺された。

劉揚  〜26
 真定王。景帝の子/常山憲王の嫡統。王莽の簒奪で廃され、王莽が敗死すると自立して真定王を称した。 耿純郭聖通の外叔にあたり、鉅鹿の劉植の説諭で劉秀に帰順した。 真定王の声望は、郭氏の資力と共に初期の劉秀の勢力を支える基盤となり、そのため驕慢となって讖緯を恃んで大逆を謀り、諭使として来訪した耿純に暗殺されたが、嗣子の襲封は認められた。

ケ奉  〜27
 南陽新野の人。ケ晨の甥。 光武帝の即位で破虜将軍とされたが、帰郷中に郷里を鈔掠する呉漢の兵を破って淯陽(南陽市区)に拠り、頑強な抵抗の末に翌年(27)に光武帝に大敗して降った。 戚族の功臣であることと呉漢の失策を以て宥恕が諮られたが、賈復の負傷と帝師に抗ったことを指弾されて刑誅された。

彭寵  〜29
 南陽宛の人。字は伯通。漁陽太守だった父の彭宏は呂寛の党人として殺された。
 彭寵は大司空王邑の昆陽討伐に従ったが、漢軍の弟への累坐を懼れて同郷の呉漢と与に漁陽に遁れ、更始政権の招撫使との縁故から行漁陽太守とされた。 王郎の挙兵後、呉漢の勧めで上谷太守耿況と与に劉秀に帰し、呉漢・蓋延らを従軍させて運糧を絶やさず、大将軍・建忠侯とされて“北道の主人”と称された。
 矜持が強く、呉漢ら故属のみが重用されることを不満とし、又た幽州牧朱浮との不和から、建武2年(26)の召京を機に叛いた。 西漢末から漁陽は兵禍に遭わず、治安の安定と塩鉄の産によって富強で、涿郡太守張豊の呼応もあって周辺の郡県を攻没し、匈奴や張歩とも結んで薊を陥して燕王を称した。 耿況や呉漢らの合力は得られず、劣勢に転じると財物を略奪した奴僕に殺され、抵抗を続ける余賊も祭遵に平定された。

韓歆  〜39
 南陽棘陽の勢族。字は翁君。更始帝から河内太守に叙され、劉茂の挙兵を避けて来依した潁川太守岑彭を迎え、岑彭の勧めで已む無く劉秀に開城した。 建武13年(37)には侯覇の後任の大司徒とされたが、光武帝が隗囂・公孫述からの書簡を好んで読むことを「桀紂も好文なり」と指すなど厳獅ネ直言が憎忌された。罷免・放逐の後に追って譴責されて自殺したが、冤罪を称す者が多く、士大夫として葬られた。

桓譚
 沛国相(淮北市)の人。字は君山。博学多通で五経の大義を修め、鼓琴にも長じ、劉歆楊雄らと交わった。 章句に拘泥する儒士を好んで誹毀した為に官界では不遇だったが、声望は陳元杜林に斉しく、楊雄・劉向に並ぶ博通の士とも称された。 王莽・更始帝にも仕え、大司空宋弘に絶賛されて光武帝に近侍したが、同罪異罰や讖緯への傾倒をしばしば諫め、「讖は経書に非ず」と断じたことで赫怒され、減死に処されたものの六安丞赴任の道中で憂死した。

馬武  〜61
 南陽湖陽(南陽市唐河)の人。字は子張。緑林軍の挙兵に加わって新市軍を構成し、洛陽遷都後に謝躬王郎討伐に従い、謝躬の死後に劉秀に詣降した。
 建武6年(30)の伐蜀中に隗囂が叛くと殿軍となって帰帥を全うし、天下平定後は匈奴に備えて下曲陽(河北省晋州)に屯したが、刑の専断を挙奏されると印綬を奉還して朝請を奉じた。 後に馬援の五谿蛮討伐に従い、明帝の世には中郎将竇固らと共に西羌を討破した。
 豪放で矜持が強く、酒席で同列を挫凌することが多かったが、光武帝の寛容によって不問とされた。 封爵は、嗣子馬檀の兄/馬伯済が楚王に参謀した事に累坐して廃された。

郭伋  B39〜47
 扶風茂陵の人。字は細侯。郭解の玄孫。 王莽の下で幷州牧に至り、更始帝から左馮翊、光武帝からは雍州牧とされ、彭寵が滅ぶと漁陽太守に転じ、信賞必罰で臨んで内外から畏憚された。 理劇の才を認められて潁川太守に転じ、建武11年(35)に朔方部が廃されると、盧芳への備えと旧績から幷州牧とされ、赴任に際しては南陽人偏重の人事を諫めている。 州では軍備と人事に意を用いて能治を讃えられ、一時は大司空に擬されたものの、幷州の多難を重視する光武帝によって用いられなかった。 盧芳が北奔すると骸骨を求めて太中大夫を拝し、翌年に病死した。

馬成  〜56
 南陽棘陽(南陽市新野)の人。字は君遷。潁川で劉秀の属となり、後に棄官して河北に従った。 建武4年(28)に揚武将軍とされて李憲を平定し、来歙の後任となって武都を平げた。 14年(38)からは北防に転じ、常山・中山に駐屯して朱祜の営を領し、杜茂を継いで障塞を繕治して西河(准格爾旗)〜鄴(河北省臨漳)に塁燧を整え、南単于の称藩後は吏人の要請で中山太守に叙された。 将軍印を奉還した後も領営が認められたが、24年(48)に五谿蛮討伐に失敗して印綬を返上し、淮南の全椒(滁州市)に就封した。

馬援  B14〜49
 扶風茂陵(咸陽市興平)の人。字は文淵。馬服君趙奢の裔。重合侯馬通の曾孫。 西漢では禁錮の家門で、長じて吏となったものの罪人を解放して漢陽に逐電したが、牧畜で大成した為に王莽の末に新城大尹(漢中太守)に選擢された。 王莽が敗れると隗囂に帰依して親重され、同里の公孫述に使した後に光武帝への帰順を勧め、建武4年(28)には自ら洛陽に詣謁し、簡装で歓談に応じた光武帝に心服した。 来歙と共に隗囂に説いて隗恂を入質させ、隗囂が叛くと隴右の諸将を招降して帷幄にも参じ、隴右平定後は西羌に対する威望から隴西太守とされた。 交趾の乱では伏波将軍とされ、兵の半数を失いながらも2年で嶺南を平定して新息侯とされ、民利を図って越人にも帰服されたという。
 常に軍旅にあることを本懐とし、武威将軍劉尚が五谿蛮に敗死すると自薦して後任となったが、緒戦での大勝の後は険阻に停滞して士卒の多くを風土病で失い、自身も営中で病死した。 死後、戦略で対立した副将の耿舒と問責使の虎賁中郎将梁松の訴えで剥爵され、馬武・於陵侯侯c(侯覇の嗣子)らの枉誣もあって葬儀すら憚られたが、後に旧功による贖罪を訟えた朱勃が不問に処されたことで、馬援の赦免が公認された。 は明帝の皇后とされ、章帝の建初3年(78)に至って忠成侯と追諡された。
馬援は甥の馬厳・馬敦が譏議を好んで遊侠に交わる事を窘め、侠客として著名な杜季良には倣わず、寛慎として知られた龍伯高を範とすることを軍中より訓戒しています。 両者とも馬援の親友で、杜季良は後に浮薄不軌として罷免されますが、馬援の両甥に対する誡書を以て、梁松・竇固は杜季良との交際を譴責され、龍伯高は県長から零陵太守に進められました。 梁松・竇固は馬援に驕奢を戒められていたこともあり、穿った見方をすれば、梁松の意趣はこの頃からあり、馬援に対する誹謗には、外戚として競っていた竇固も関わっていたかもしれません。馬援の箴言は“刻鵠類鶩、画虎為狗”として人口に膾炙しました。
  
薏苡の譖:薏苡は南方産の鳩麦。 滋養に富んで瘴気を制することを珍重した馬援は、種穀を交趾から一車に満載して帰還したが、時人が珍怪貴宝と解して競って求めたことを卑しみ、遂に公開しなかった。後に馬援が梁松の讒誣に遭うと、馬武・侯cらは挙って珍宝隠匿と譖った。

竇融  B16〜62
 扶風平陵(陝西省咸陽市区)の人。字は周公。文帝の竇皇后の弟の裔で、宣帝の世に常山より徙された。 長安で侠名を知られ、王莽の末に波水将軍とされて新豊(西安市臨潼区)に駐し、長安陥落で更始に降った後、天下の紛乱を察して自薦して張掖属国都尉とされた。 河西では酒泉太守梁統ら豪姓や西羌と連和して大将軍を称し、寛政が支持されて帰附者が絶えず、隗囂の宗主権を認めつつも光武帝に通じ、建武5年(29)に涼州牧とされた。
 夙に隗囂の叛意を悟って光武帝に西征を求め、隴右が平定されると安豊侯に封じられ、13年(37)の天下平定を以て上洛して四郡の太守と倶に印綬を悉く奉還し、大司空とされた。恭謙に徹して大司空を罷免された後も重んじられ、弟の城門校尉竇友と共に禁兵を典った。
 明帝の世には1公2侯3駙馬が並立して「親戚・功臣に比類無し」と称され、一族は驕慢となって不法が多く、59年の竇林の刑死を機に譴責が続き、竇嬰田蚡に喩えられるに及んで致仕した。長子の竇穆に累坐することは免れたが、一族が排斥される中で歿した。

伏湛  〜37
 琅邪東武(諸城)の人。字は恵公。晁錯に『尚書』を伝えた“済南の伏生”の裔。 家学を伝えて名儒と称され、王莽・更始帝・光武帝に仕えて侍講し、ケ禹の薦挙で建武3年(27)には大司徒とされた。 斉での輿望は絶大で、抵抗を続ける富平(山東省恵民)の賊も伏湛が平原に到るや即日に帰順したという。讌見中に熱中症で歿した。
 伏氏は以後も家学を伝えて名高く、曾孫の伏晨は孫が順帝の貴人とされ、伏晨の嫡孫の伏質は大司農に至り、その嗣子の伏完のは献帝の皇后とされた。

杜林  〜47
 扶風茂陵の人。字は伯山。通儒と称され、王莽が敗れると隗囂に依拠したが、叛意を忌んで仕えなかった。 光武帝の徴用に応じると群僚の多くに帰慕され、河南の鄭興・東海の衛宏との親交は古文学盛行の端緒となった。建武14年(38)に肉刑の復用論を駁廃した。 太子の廃黜に伴って東海王の傅となった後も光武帝の召命には直ちに応じ、22年(46)には大司空に至った。

宋弘
 京兆長安の人。字は仲子。王莽の世に共工(少府)を拝し、光武帝に招聘されて建武2年(26)には大司空とされた。 温順・清節で、当代の碩学として薦挙した桓譚が宴席の毎に鼓琴を弾つようになると責譲し、これを伝聞した光武帝からも謝罪され、又た光武帝が列女像を描いた屏風を頻りに顧視することを諷諫し、屏風は直ちに撤去されたという。
 寡婦となった光武帝の姉/湖陽長公主の駙馬に擬されたが、「貧賤の交と糟糠の妻を重んず」と諷旨に応え、“糟糠の妻”の故事となった。
 孫の宋由は章帝の世に太尉に至ったが、竇憲の阿党として92年に罷免され、帰郷のうえで自殺した。
湖陽長公主は諸公主の中でも特に驕慢だったらしく、処世術に長けた宋弘が、降嫁の事を察して巧く回避したのかもしれません。

班彪  A3〜54
 扶風安陵(陝西省咸陽市区)の人。字は叔皮。名儒として知られ、更始軍による長安陥落で安定に遷ったが、隗囂に失望して竇融に依り、師友の礼を執られて光武帝からも章奏を讃えられた。 『史記』の欠を補うと称して『史記後伝』数十篇を著し、未完に終わったこの書は、『漢書』の基礎となった。

明帝  28〜57〜75
 第二代天子。顕宗。諱は荘。光武帝の第4子。生母は陰皇后。建武19年(43)に東海王から太子に転じた。 外事に積極的で、竇固らによる北伐の成功、度遼将軍西域都護の復置などが挙げられる。 永平10年(67)に夢に応じて西域に仏典を求めたことが仏教の初伝とされるが、弟の楚王が既に仏教を信奉しており、通常は仏教公伝の事とされる。
 東漢盛世の明君との評価の半面で、治世の特色は寧ろ法制・罰則の厳格化による集権の強化にあり、“楚王の獄”“淮陽の獄”などの疑獄を生じ、「弘度に欠け、苛察にして疑獄多し」とも評される。 楚王の獄では連坐した官吏500名の半数が笞刑で落命し、章帝の元和元年(84)に至り、酷刑の禁止として厳罰主義が修正された。

明徳馬皇后  〜79
 馬援の娘。父の死後は従兄の馬厳によって竇氏との婚約が解かれ、齢13で太子の後宮に納れられた。 恭謙好学で娯楽を好まず、容姿の美麗もあって太子(明帝)や陰皇后に親寵され、永平3年(60)に皇后とされた。
 国事についての諮問に応えて毘補する点が多かったが、一門の挙用は頑なに拒んで終生寵敬された。 又た従姉の賈貴人の子(章帝)を養育して「母子の慈愛、終生繊介の間無し」と称され、章帝の即位後も皇太后として敬重された。長らく宗族の封侯を許さなかったが、79年に病臥すると兄弟の封侯を認めた。

劉英  〜71
 楚王。明帝の異母弟。生母が薄寵だったために小国に封じられたが、かねて親しかった明帝が即位したことで厚遇された。 嘗ては勇侠を好んだが、長じて黄老・浮図(仏教)に傾斜し、永平8年(65)に贖死の勅が発せられると、生を大罪として絹30疋を奉献した。
 13年(70)に庶士燕広から王平らとの謀逆を告発され、「京師の親戚・諸侯・州郡の大姓より考案の吏に及ぶまで阿附して相い陥れ、死徙は千を以て数える」一大疑獄に発展し、世に“楚獄”と称された。 翌年に配流先の丹陽で自殺したが、流謫に於いては湯沐領500戸が与えられ、道中での射猟・遊楽なども認められており、列侯として葬られた。
楚獄では、母妃や諸子にも咎罰は及ばなかったことから、光武帝が濫造した諸侯国の粛清や、諸侯王の統制強化などを目的とした疑獄とする見解が一般的となっています。

祭肜  〜73
 潁川潁陽の人。字は次孫。祭遵の従弟。 理劇の才を称され、建武17年(41)に遼東太守に進められると斥候を広めて悉く入寇を撃退し、殊に21年(45)に鮮卑を大破して大いに畏憚された。 豪力と威信から胡人にも畏敬され、25年(49)には鮮卑の大都護偏何が招撫に応じて匈奴討伐の有力な兵団となっただけでなく、偏何を厚遇したことで多くの鮮卑・烏桓が朝貢するようになった。 匈奴の分裂後は赤山烏桓が最も盛強だったが、永平元年(58)には偏何を用いて赤山烏桓を大破したことで帰順する胡人が絶えず、縁辺の屯兵を廃止するに至った。
 信義を重んじて子路に喩えられ、12年(69)に太僕に進められて永平16年の北伐にも加わったが、左賢王に欺かれて期会に到らず、逗留畏懦として罷免されると賜物を悉く奉還して憤死した。

王景
 楽浪の人。字は仲通。道術・天文を家業とし、父の王閎は建武6年(30)の王調の乱に於いて、来伐した王遵に呼応して王調を殺したが、上洛の途上で歿した。
 王景は家業を修めて技芸にも長じ、治水対策の上書で水理の才を認められると将作謁者王呉を佐け、浚儀渠(汴水)を修作して大功があった。 83年に廬江太守に遷ると芍陂を修起し、民に犂耕・蚕織を教えて風俗を大いに更めた。
平帝の世に決壊した黄河は久しく修復されず、内治が優先された建武年間でも兗・豫州の民戸の疎散を理由に放置され、水災の頻発で怨歎が昂まっていました。 永平12年(69)に修復が決すると、卒数十万・費百億(億=十万)が投じられ、浚儀渠の修築の成功で河水は千乗の海口(東営市利津)に達するようになりました。

竇固  〜88
 扶風平陵の人。字は孟孫。竇融の弟/顕親侯竇友の子。 光武帝の婿として顕官を歴任したが、従兄の竇穆に累坐して十余年を蟄居した。 後に西羌討伐の実績から奉車都尉とされ、永平16年(73)の北伐では唯一殊勲を挙げた。 翌年には耿秉らを督して西征し、車師を降して西域都護と戊己校尉が再置され、章帝の世に衛尉に至った。巨富を積んで朝野に威望があったが、嗣子無く歿した。
  
 永平16年(73)の北伐は、酒泉から発した竇固のほかに駙馬都尉耿秉が居延から、太僕祭肜と度遼将軍呉棠が朔方から、騎都尉来苗と護烏桓校尉文穆が平城(大同)から発した大規模なもので、南匈奴・烏桓・鮮卑・羌胡からも4万以上の騎兵が動員された。 耿秉・来苗らは敵に遭わず、祭肜と呉棠は左賢王に欺かれて涿邪山に到れずに庶人に貶され、竇固のみ天山に呼衍王を大破して蒲類海(バルクル)に達した。

竺法蘭
 西域僧。漢明帝からの使者に接して迦葉摩騰とともに入洛し、初めて仏教を公伝して仏像・経典を伝えた。

章帝  56〜75〜88
 第三代天子。粛宗。諱は炟。明帝の第5子。 儒学を好み、楚王阜陵王の累獄400余家の帰郷を認め、呼沱河を治めた後に羊腸の開鑿を罷め、建初4年(79)の白虎観会議で古文学の官学化を諮った事などは、創業期の過不足を修正する時代に転じたことを象徴し、西域経略は放棄論が否定された。
 魏文帝は明帝を“察察”、章帝を“長者”と評し、史書でも仁治を強調されたが、近親に対する恩愛は竇氏の驕横を惹起した。 又た北匈奴が“58部20余万”に象徴される来降で没落が明白となった半面、焼当羌の活発化によって護羌校尉が常設された。

章徳竇皇后  〜97
 竇勲の子。東海恭王の外孫。妹と倶に掖庭に選ばれた翌年(77)には皇后とされた。 章帝と馬太后に親寵され、馬太后の死後は一族を寵任しただけでなく、巫蠱を設けて宋貴人梁貴人を枉陥し、太子を清河王に貶した。
 和帝が即位すると皇太后として臨朝して竇憲ら兄弟の横恣をもたらし、竇憲らが粛清されて権勢を失った。 死後、梁貴人の姉が枉死を訟えたが、厳刑を嫌う和帝によって敬陵(章帝陵)に合葬された。

ケ訓  40〜92
 字は平叔。ケ禹の第6子。雄志があり、経学を好まず屡々ケ禹に叱責された。 水利に長じて呼沱河を治め、建初3年(78)に民の疲弊を奏して羊腸倉と都慮の開鑿を廃止させた。 8年(83)に梁氏との交際を以て罷免されたが、焼当羌が蜂起すると護羌校尉とされ、義従胡を編成して大破した。
 謙恕で施恤を好み、羌胡や吏民には甚だ愛慕されたが、家では峻厳で家族にも温顔を示さなかったという。 かねて馬氏を重んじ、竇憲とは親しまなかったために累坐を免れた。
 は和帝の皇后とされ、長子のケ隲は大将軍に至った。
  
羊腸倉:羊腸阪とも。太原市西北の静楽西方の難所で、隘路の曲折が羊の腸に似ることが名称の由来。 都慮との漕運を通じる為に永平年間(58〜75)に始められた工事は、「389隘あり。連年成らず、前後没溺せし死者は挙げて算う可からず」と、難工事を称された。

王充  27〜91
 会稽上虞の人。字は仲任。博覧強記で、寒貧ながらも書肆の書を一読で悉く諳んじて諸子百家に通じ、後に班彪に師事した。帰郷後は吏職に就き、致仕した後は後進の教育と著述に専念して無名のまま永元年間(89〜105)に歿した。
 合理的唯物論に基づいた主著『論衡』は、後に呉に客居した蔡邕が秘玩し、許に遁還した王朗によって初めて世に紹介された。

賈逵  30〜101
 扶風平陵(咸陽市興平)の人。字は景伯。賈誼の裔。 劉歆に『左伝』を学んだ父業を継ぎ、五経に精通して古文学を重んじ、博物多識として班固と共に秘書に署した。 白虎観会議では古文経伝の正統性を説き、『左伝』の緯書によって劉氏が堯帝の裔であることを立証し、建初8年(83)には学士の古文学併学が決せられた。
 “儒宗”と尊称され、和帝の永元8年(96)には秘書職を兼ねたまま侍中・騎都尉に進んだが、小節に拘泥しなかったことで譏議が絶えなかった。

李育  ▲
 扶風漆(陝西省彬県)の人。字は元春。『公羊春秋』を修めて博学を讃えられ、貴顕の間で声望が高かった。 『左伝』を「文釆に傾いて聖人の深意を得ず」と批判し、古文派の陳元・今文派の范升の論を「図讖に多く依って理に欠けている」と断じ、白虎観会議では賈逵を論難して通儒と称された。官は侍中に至った。


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