三国時代

  220〜280
 東漢が魏王曹丕に簒奪されてから、司馬氏の晋朝に統合されるまでの60年間を指すが、全国規模の農民叛乱である黄巾の乱や、軍閥割拠の端緒となった董卓の秉政を起点とする解釈も根強い。
 青州黄巾軍を吸収して献帝を保護した曹操が華北を支配し、江東では諸豪が孫氏を中心に連合し、赤壁の役で曹操による全国統一が不可能となった後、214年に劉備が益州を征服したことで三国鼎立の形勢がほぼ固まった。 曹操を嗣いだ曹丕が220年に簒奪すると、翌年には劉備も漢中で称帝し、江東の孫権も222年には正朔を用いて事実上の独立を表明した。
 漢末以来の戦乱によって各地の郷村秩序が破壊された為、各国とも軍事・財政の再建を図って屯田を実施し、特に魏は大規模な軍屯によって多大な成果を挙げ、兵員確保の為の兵戸制も始められた。 又た諸国とも辺境経略にも積極的で、魏は遼東公孫氏を滅ぼして朝鮮半島にも威令を及ぼし、西域諸国とも間接的ながら交渉を持った。 蜀は後背の安定と交易路の確保から雲貴方面を制圧・確保し、呉は江南開発とともに山越を討伐し、兵員補充の為に台湾・交趾・琉球にも出兵した。
 社会・文化面でも先行していた魏では九品官人制が創始され、老荘思想清談が流行するなど新局面を迎えたが、実権は次第に司馬氏に移っていった。 蜀は宦官黄皓の壟断と連年の出兵で疲弊して263年に魏に征服され、魏は265年に司馬炎に簒奪され、呉は末帝孫皓の暴政で凋落が促進されて280年に晋に征服された。

    

 
 

  220〜265
 漢の兗州刺史曹操が、献帝を奉迎したことで号令の正当性を得、華北・関中を平定した後に魏王とされた事に始まる。 208年の赤壁の敗戦で全国統一は果たせなかったが、嗣子の曹丕が献帝から禅譲されて洛陽を都とし、明帝の代には遼東も征服して盛時を現出した。
 基本的な体制は曹操の下で整備され、兵戸制と大規模な屯田制とが王朝を支えたが、同時にこの時代は貴族制への移行期でもあり、曹操も多くの名流子弟を幕下に加えることで支配力を成立させた。
 文帝の下で始められた九品官人制は貴族制の定着に大きく寄与し、明帝・斉王の下で朝臣の貴族化が進行し、貴族文化の先蹤として清談が流行した。 国是でもある皇族の冷遇は勢族の抬頭を結果し、藩屏不在の中で曹爽司馬懿に敗れた後は司馬氏が執政を嗣ぎ、265年に元帝が司馬懿の孫の司馬炎に簒奪された。
武帝  文帝  明帝  廃帝  少帝  元帝
 

曹操  155〜220
 太祖、武帝。沛国譙(安徽省亳州市区)の人。字は孟徳。太尉曹嵩の子。 孝廉から諸官を歴任して西園八校尉の典軍校尉とされ、黄巾軍討伐では潁川平定に大功があった。 董卓の秉政に対しては袁紹に与して山東同盟に加わり、同盟の崩壊後は袁紹から東郡太守・兗州牧とされ、兗州の経営と青州黄巾軍の吸収によって抬頭した。
 196年に献帝を許に迎えた事と、境内で屯田を始めた事で政治力も軍事力も飛躍的に強化され、200年には官渡の役で河北の大軍閥袁紹を大破し、袁氏を滅ぼして華北に覇権を確立した。 208年に荊州を接収し、その勢いに乗じた南征が失敗した後は西方経略に転じ、211年に関中を制圧し、214年に隴西を、215年に漢中を征服した。
 又た208年より三公制を廃して漢の丞相として万機を総裁し、積極的な人材登用は素行より才能を重視し、法術による統治によって内外の綱紀を粛正した。
 軍事はやや短慮の傾向があったものの統治術に秀で、又た詩・文・音楽にも長じ、建安七子や子の曹丕曹植とともに六朝文学の基を築いた。娘が皇后となった翌年(216)には魏王に封じられ、魏王朝成立後に太祖の廟号と武皇帝の諡号を追贈された。
 2007年に盗掘に遭った西高穴二号墓(河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村)が、曹操の墓(曹操高陵)として2010年に公認された(2009年発見扱い)。

荀ケ  163〜212
 潁川潁陰(許昌市区)の人。字は文若。荀淑の孫。司空荀爽の甥。 宦官を畏れる父/荀緄によって中常侍唐衡の娘を娶った。何顒からは“王佐の才”と絶賛され、董卓の秉政で帰郷すると、潁川の地勢を危ぶんで冀州牧韓馥を頼ったが、冀州を簒奪した袁紹の小器を厭って東郡太守の曹操に帰した。
 曹操からは“吾が子房”と信任されてその政戦両略を掌り、194年の徐州屠戮に乗じた陳宮の叛乱では東郡太守夏侯惇程cと呼応して兗州の全失を防ぎ、曹操に兗州平定を優先させ、196年には献帝の奉迎を実現させて許遷都とともに侍中・守中書令に叙された。 甥の荀攸をはじめ鍾繇郭嘉陳羣司馬懿らを薦挙し、これら名士層の参集は曹操の政権強化に大きく寄与した。
 袁紹との対決や袁紹の死後の北伐の優先なども荀ケの建議になるもので、荊州経略では宛攻略を陽動に襄陽を奇襲させたが、劉表の病死と重なって無血開城となり、この想定外の事態がが江東攻略を準備不足のまま強行させ、赤壁の大敗を結果した。 江東遠征の途上の寿春で病死したが、曹操の魏公封爵を否定したことで疎んじられ、空器を贈られて服毒自殺をしたとも伝えられる。
荀ケの死は、『三国志』本文では憂死。空器による服毒自殺説は『魏氏春秋』で、『後漢書』もこれを踏襲しています。 『三国志』『後漢書』とも、荀ケ伝の末尾に「翌年、曹操が魏公となった」旨を附していますから、曹操と荀ケの確執は史家の間では確実視されていたようです。 華北平定で冀州牧を領した曹操に対し、冀州の拡大(幽+冀+幷+司隷)を主眼とした古九州制の復古を諫止したのも荀ケで、九州制の復活も曹操の魏公封爵まで持ち越されました。
曹操の覇道を輔けた第一人者でありながら、漢朝の廷臣という立場を堅持して歿した荀ケの史評は毀誉褒貶が極端で、首尾一貫しなかった点を批判する見解が多いようです。

荀攸  157〜214 ▲
 字は公達。荀ケの従子。広陵太守荀曇の孫。 何進に招聘されて黄門侍郎とされ、鄭泰何顒らと董卓誅殺を謀って投獄されたが、董卓が誅されて釈放された。
 許に遷都した曹操に招かれて軍師とされ、徐州の呂布討伐が議された際には、劉表の消極性と、呂布と泰山勢力が提携する可能性を指摘して東征を主張した。 南征を興した袁紹の先鋒の顔良・文醜の敗死も荀攸の策によるもので、袁尚袁譚の対立では袁氏の内訌の助長を唱えて袁譚の受降を奨め、冀州が平定されると上表されて陵樹亭侯とされた。 207年の論功行賞では荀ケに亜ぐ功臣とされて中軍師に転じ、213年に魏国の尚書令とされたが、翌年の孫権征伐の途上で歿した。
 常に曹操の征伐に随行して帷幄で計策したが、殊に親密だった鍾繇以外は内容を知る者がなく、そのため殆ど後世に伝わらなかった。

郭嘉  170〜207
 潁川陽翟の人。字は奉孝。袁紹を小器として仕えず、戯志才の後任を探す荀ケに薦挙されて曹操に絶賛された。 袁紹の死後は北伐を抑えて袁家の内紛を助長すること、袁尚追討では諸将の反対を排して烏桓遠征を進言し、烏桓を大破した後は追討を控えて公孫康に処置を委ねさせるなど、曹操を戦略面で大いに支えた。 冀州平定に伴って洧陽亭侯とされたが、烏桓遠征の途上で病死し、後に赤壁からの敗走する曹操をして、その不在を大いに嘆かせた。
 品行の面で陳羣からは幾度も弾劾されたが、曹操は笑って寛恕したという。

夏侯惇  〜220
 沛国譙の人。字は元譲。漢の汝陰侯夏侯嬰の裔を称し、曹嵩の宗族とも伝えられる。弱冠で学師を侮辱した男を殺した事で名を知られた。 曹操の挙兵に従って各地を転戦し、192年に曹操が兗州牧とされると東郡太守とされ、張邈の造叛では荀ケを扶けて兗州の喪失を防ぎ、呂布征伐で左眼を失った。 陳留・済陰太守に建武将軍を兼ねて灌漑事業や軍屯を指導するなど行政にも手腕を発揮し、鄴の陥落後に領河南尹のまま伏波将軍を加えられた。
 謹直清廉で、軍中でも学師を招き、曹操軍の主柱として重んじられた。 216年の孫権討伐後は居巣に進駐して26軍を都督し、曹丕の襲封とともに大将軍に進められたが、禅譲前に病死した。

張遼  〜222
 雁門馬邑の人。字は文遠。本姓は聶。幷州刺史丁原に勇武を認められて従事となり、京師に派されて何進の為に河北で募兵したが、何進が殺されると董卓、ついで呂布に属し、呂布が敗亡すると曹操に降って中郎将・関内侯とされた。 袁氏討伐に続く烏桓遠征では白狼山に蹋頓を斬り、また陳蘭・梅成を潜山に平定して仮節を加えられた。
 以後は主に合肥に鎮して楽進・李典と東南方面を担当し、215年には十万の孫権軍を800騎で攪乱して大破するなど抜群の功を示して征東将軍に進められ、呉では「遼来遼来」と恐れられた。
 魏の五大将軍の筆頭として曹丕が襲爵すると前将軍とされ、洛陽には母親のための邸宅を賜り、孫権が藩属した後は雍丘に駐し、病臥した際には帝と同じ食膳が送られた。 病中の222年に請われて洞浦の役に加わったが、戦後まもなく江都で病死した。

 

建安文学
 建安年間(196〜220)に、曹操の府署で活動した多数の文人による、文辞と五言詩を中心とした文学。 建安七子と曹操・曹丕・曹植らが中心とされ、七子に亜ぐ者としては、潁川の邯鄲淳、陳留の路粋、沛の丁儀・丁廙、弘農の楊脩、河内の荀綽らが挙げられる。
 従来の主流文学だった辞賦に代わり、楽府と呼ばれる歌謡を文学形式へと昇華させ、従来の礼教的な型に囚われない、感情を吐露した自由闊達な詩風からは老荘思想の影響も看取される。 反骨性に富んだ作風や、戦乱に起因する不遇や悲哀、未来への不安感などを詠った作品も多く、六朝文学の先駆と見做される。
   
建安七子:建安文学の中心と目された7人の文人。孔融陳琳王粲徐幹阮瑀応瑒を指す。 曹丕は「徐幹は外装と内実を兼備し、穏やかで礼節を弁える点では文人として稀有の存在」、「陳琳は文章に秀でるが些か煩雑」、「劉驍ヘ気力に優れるが巧緻に欠け」、「王粲のみ詩賦も能くしたが、勢いにやや欠ける」と評した。
 建安13年(208)に刑死した孔融と同17年(212)に病死した阮瑀の他は皆な、建安22年(217)の疫病で病死した。

阮瑀  〜212 ▲
 陳留尉氏の人。字は元瑜。蔡邕に師事し、曹洪の招聘を拒んで鞭打たれたこともあったが、建安初年に曹操の司空軍謀祭酒・記室となった。 章表書記は陳琳と双璧と謳われたが若くして病死し、殊に曹丕に惜しまれたという。『詩品』では下品に位する。

陳琳  〜217 ▲
 広陵郡の人。字は孔璋。はじめ何進の主簿だったが、冀州に避難して袁紹に仕え、袁氏の敗亡で曹操に降り、司空軍謀祭酒・記室とされて文章を掌った。 阮瑀とともに章表書記の双璧と謳われ、殊に官渡の役に先立って起草した曹操討伐の檄文は曹操をも感嘆させ、それが故に赦された。建安22年の疫病で歿した。

  〜217 ▲
 東平寧陽の人。字は公幹。少壮より文才を知られ、曹操の招聘で丞相掾属に任じられた。 明敏でもあったが、後の竹林七賢に通じる奔放不遜な人物で、曹丕の宴席で太子妃の甄氏を平伏せず凝視したために不敬罪に問われ、懲役を課されたこともあった。 『詩品』では上品に位し、「文辞より気力に優れ、彫潤少なし」と評され、曹植を除けば独歩の才と絶賛された。

王粲  177〜217 ▲
 山陽高平(山東省鄒城)の人。字は仲宣。漢の司空王暢の孫。 博識強記で制度・算術にも明るく、一読で石碑の銘文をすべて諳んじ、囲碁の対局をすべて再現してみせたこともあったという。 長安遷都後に蔡邕に絶賛されて学統として蔵書の多くを譲られ、程なく動乱を避けて荊州に遷ったが、劉表からは矮肥・躁競を卑しまれて疎遇された。 劉表の死後、劉jに勧めて曹操に降伏させ、魏国が興されると侍中とされて儀礼・制度の興造にも功が多く、文名を広く謳われたが、国政に携われないことを不満とした。征呉の途上で病死した。
 2子は同年秋の魏諷の謀叛に連坐して曹丕に処刑され、曹操に惜しまれた。 家伝の書は劉表の婿とされた族兄/王凱の子の王業に伝えられ、王弼に多大な影響を与えた。
 『詩品』では上品に位し、「文辞に秀でる反面、気勢に弱い」と、とは好対照に評されるが、『文心彫龍』では「曹植に亜ぐ」と絶賛された。

徐幹  〜217 ▲
 北海劇の人。字は偉長。零落した旧家の出で、品行と美麗典雅な文章で知られた。建安年間に曹操に仕え、司空軍謀祭酒掾属・五官将文学に進んだ。隠士的人格者で、「文質兼備」と曹丕に絶賛された。『詩品』では下品に位する。

応瑒  〜217 ▲
 汝南南頓の人。字は徳l。応劭の甥。曹操の招聘で丞相掾属とされ、平原侯(曹植)庶子を経て五官将文学とされた。詩文より学問を志し、その作品は曹丕からは「和にして壮ならず」と評された。『詩品』では下品に位する。

蔡琰  162〜?
 陳留圉の人。字は文姫。蔡邕の娘。 はじめ衛仲道に嫁いだが死別し、献帝の洛陽還御に随う途中で南匈奴に捕われ、左賢王の側室とされて2子を産んだ。 後に曹操に贖われて帰国して董祀に嫁し、蔡邕の蔵書4千余巻のうち、誦憶した4百余篇を遺誤無く筆写した。
 夙に文才を謳われ、『悲憤詩』は広く知られる。 その境遇は古くから王昭君と並称され、匈奴にある身を嘆いた『胡笳十八拍』もその代表作として愛されたが、これは後人の仮託とする説が有力視されている。

魏諷  〜219
 済陰の人。字は子京。智略と弁辞に長け、鍾繇の推挙で西曹掾とされ、多くの名士と交わった。 曹操の漢中奪回の失敗と関羽による樊城攻囲が前後し、樊城への援軍となった于禁が曹操の帰還前に大敗したことに乗じて鄴で造叛を謀り、密告によって曹丕に誅された。王粲の遺児をはじめ多数の名士が連坐し、相国の鍾繇も罷免された。

鍾繇  151〜230
 潁川長社の人。字は元常。鍾瑾の孫。 漢廷に辟されて廷尉・黄門侍郎を歴任し、献帝の東帰にも功があり、許遷都後は荀ケの推挙もあって御史中丞・侍中・尚書僕射を歴任した。 曹操の河北経略に際しては司隷校尉を領し、長安に進駐して馬騰韓遂らを帰順させ、平陽の匈奴と結んだ袁尚の進出を撃退した。 又た関中から洛陽への徙民を推進し、216年に曹操が魏王に進むと王国の相国に進み、魏諷に連座して罷免されたものの曹丕の襲爵で大理に就き、223年に太尉に進み、明帝の即位で太傅に至った。
 外交や政術に優れたが、死刑の軽減を目的として肉刑の復活を建議したことには賛否両論がある。 王羲之の出現までは張芝と共に“書聖”と仰がれた。
 子の鍾会は後に魏に背いて敗死した。

張既  〜223
 馮翊高陵の人。字は徳容。県令として抜群の治績を挙げ、司隷校尉鍾繇の麾下で実務を司り、袁尚や高幹の討伐では馬騰の説得を成功させた。 京兆尹・雍州刺史を歴任し、馬騰を入朝させ、氐・羌族を内徙して蜀からの招撫を防ぐなど、関中および河西の安定に多大な功績があった。 文帝が河西五郡を以て涼州を新設した後も造叛が収まらなかった事でとくに涼州刺史を兼ね、このため河西の混乱も大事には至らず、恩威並び行なって民にも大いに慕われた。
 嗣子の張緝は娘が斉王の皇后となったこともあって光禄大夫・特進に至ったが、中書令李豊の同謀として殺された。

王朗  〜228
 東海郯の人。字は景興。経書に通じて太尉楊賜に師事し、楊賜の死後しばらくは下野していたが、徐州刺史陶謙に治中とされ、別駕の趙cと共に陶謙を支えた。 陶謙に長安への通款を奨めた功で193年に会稽太守に叙され、俗習を更めるなど一定の治績があったが、196年に江東に進出した孫策に大破され、198年に曹操の招聘に応じて数年がかりで上京した。
 許では諫議大夫・司空参軍事として重んじられ、213年に魏国が成立した後は魏郡太守から九卿を歴任し、大理としての手腕は鍾繇と並称された。 曹操の死後に御史大夫・司空を歴任して節倹と抑武を旨とし、明帝が即位すると蘭陵侯に更封されて司徒に進められた。 『易経』『春秋』『孝経』『周礼』の伝(注釈)を著し、学識と文才は当代屈指として陳琳・陳寿にも絶賛され、節行にも定評があった。

臧覇
 泰山華県の人。字は宣高。 太守と対立して東海に奔り、陶謙の徐州鎮定に従って騎都尉とされた後は孫観・呉敦・尹礼らと開陽に拠って半ば自立し、徐州を奪った呂布を撃退したこともあった。 呂布を平定した曹操に帰順すると泰山地区に利城・城陽・昌慮郡が新設されて自治が認められ、曹操に造叛した徐翕・毛暉を太守に直させる発言力があり、官渡の役では游撃としてしばしば袁紹軍を撹乱し、河北平定で威虜将軍を加えられた。
 後に徐州刺史に転じ、212年の南征では先鋒となり、ついで張遼の陳蘭討伐に従い、216年の南征でも張遼と共に先鋒となり、戦後は夏侯惇に従って居巣に鎮した。 曹丕の襲爵で鎮東将軍・都督青州諸軍事とされ、洞浦の役での功で執金吾に転じて特進を加えられ、明帝の時に歿した。
 『魏略』によれば、曹操が歿した際に麾下の青州兵の離散を統制せず、又た文帝の宥呉策に対する不満が上聞に達した為、戦後に軍権を奪われたという。

曹丕  187〜220〜226
 魏の初代君主、文帝。字は子桓。曹操の次子。五官中郎将として早くから曹操を輔け、曹操の死とともに魏王・丞相を襲ぎ、冬には漢帝に禅譲させて洛陽を国都とした。 魏王のとき尚書陳羣の建議で九品官人法を定めて人士の挙用を重視した反面、宗室諸王の藩屏化を否定して一族を冷遇・排斥したことで帝室を孤立させ、又た于禁の処置に象徴される偏狭な面はあったが、内政においては諸制度を整備・確立して国内を安定させた。
天子の名を重んじ、劉備の東征では孫権の称臣を認めて呉王に立てたが、呉が劉備を大破したことでまもなく破綻し、以後の南征は悉く成功しなかった。
 文人として曹操・曹植とともに“三曹”と称され、文学を好んで著書『典論』では「文学は経国の大業、不朽の盛事」と記し、特に孔融の文章を尊崇した。『詩品』では中品に位される。

曹植  192〜232
 字は子建。文帝の次弟。卓越した文才から曹操に最も愛され、一時は曹丕と世子を争ったが、放恣な言動と飲酒癖を忌まれて立てられず、樊城が関羽に攻囲された際も南中郎将・征虜将軍に叙されながらも泥酔して受任できなかった。 楊脩丁儀ら側近の粛清後は転封が続いたが、己の識見を誇ってしばしば枢機への参画を求めた。 陳王として歿し、思王と諡された。
 幼少より文才を顕わし、建安七子と交流して“七歩詩作”と謳われ、後世に倨傲で知られる謝霊運すら「天下の才は八割を曹植が独占し、我は一割のみ」と絶賛したが、当人は文事を余技として国事を本懐とし、文学を不朽の大業とした文帝とは好対照となっている。 『詩品』では「文学史上の周公・孔子」と評されて上品の最上に置かれ、唐代の杜甫も「詩は子建に匹敵す」と自賛した。
 五言詩を叙情詩として文学的に確立し、悲愁・慷慨の風は後世まで範とされ、杜甫・李白の後も詩人の最高峰とされる。 代表作『洛神賦』は史上屈指の傑作とされて画題としても好まれ、モデルは嫂の甄氏との説もある。
 子の曹志(〜288)も「好学にして才節備わる」と評され、晋武帝のときの太子問題では斉王を支持して罷免されたが、後に散騎常侍に復した。

陳羣  〜235
 潁川許昌の人。字は長文。漢の大鴻臚陳紀の子。はじめ豫州刺史劉備に別駕とされ、劉備が徐州を逐われると下野し、呂布が敗れると曹操に招かれて幕僚に連なった。魏の建国で御史中丞とされ、鍾繇と共に肉刑の実施を論じたが、駁論が多く採用されなかった。
 曹丕が襲爵すると尚書に転じて九品官人法を制定し、225年の南征で鎮軍大将軍・中領軍・録尚書事とされ、曹真曹休司馬懿とともに後事を託されて明帝のときに録尚書事のまま司空に進んだ。
 家風を伝えて非常に謹厳かつ公正で、曹操に親任された郭嘉の不行跡をしばしば弾劾し、忠諫の士であると大いに讃えられた。 しばしば明帝の奢侈を諫めたが、聴かれないことが多かった。

  〜226
 泰山平陽の人。字は叔業。済北相鮑信の子。節義を以て声望があり、212年に鮑信の旧功を以て丞相掾とされた。 曹丕の立太子に伴って太子中庶子とされたが、郭夫人の弟の非法を追及した事から曹丕とは隔意を生じ、以後もしばしば諫めた為に憎まれた。 禅譲後もしばしばの諫言を忌まれて右中郎将に遷され、尚書令陳羣・僕射司馬懿の推挙で御史中丞とされたものの、225年に南征を諫めて治書執法に左遷され、帰途に些罪を以て収監され、司徒華歆・廷尉高柔らの擁護も及ばず処刑された。 このとき文帝は、法制を以て微罰を主張する廷尉三官を罷免し、廷尉高柔を尚書台に出頭させた間に鮑を処刑させた。

曹叡  205〜226〜239
 第二代君主、明帝。文帝の長子。甄妃の子。 文帝が重篤となってから太子に立てられ、中軍大将軍曹真・鎮軍大将軍陳羣・征東大将軍曹休・撫軍大将軍司馬懿が輔政とされた。
 親政後は尚書の決裁権を中書省に移管して君主権を強化し、国境には軍の重鎮を配して蜀・呉の侵攻を悉く撃退し、遼東公孫氏を滅ぼすなど最盛期を現出した。聡明果断な反面で豪壮を好んで大土木工事が多く、中書権力の拡大は継嗣選定に際しての混乱を招き、後の司馬氏奪権の原因を作った。
 文学にも理解はあったものの清談には否定的で、浮華虚飾の徒とされた何晏夏侯玄など不遇な文人も多く、曹爽の幕僚拡大の一助となった。
 237年冬、倭国の朝貢に対して卑弥呼を親魏倭王に封じた。

司馬懿  179〜251
 河内温の人。字は仲達。漢の征西将軍司馬鈞の玄孫。 兄弟すべて字に‘達’字を含み、皆な世に名を知られて“司馬八達”と称された。
 曹操に逼られて出仕すると主簿とされ、219年に樊城が関羽に攻囲された際、遷都を強諫して呉との提携を勧めた。 夙に曹丕に信任されて禅譲後は要職を歴任し、226年には曹真曹休陳羣とともに太子の輔導を遺嘱された。 明帝の即位直後に新城太守孟達の離叛を討平し、230年の叙任では大将軍に進められ、翌年に曹真が歿した後は方面の軍事を継いで蜀兵に対応し、234年にも持久策を以て蜀軍を撤退させた。
 238年には遼東の公孫淵を平定し、明帝の遺詔で曹爽とともに曹芳を輔佐し、太傅・都督中外諸軍事・録尚書事とされ、241年に樊城に呉をの朱然らを撃退してケ艾を両淮の軍屯経営者に抜擢した。 一時は曹爽との政争に敗れて下野したが、249年に曹氏・夏侯氏の武力排除に成功(正始の変)すると丞相として全権を掌握し、後に孫の司馬炎が晋朝を興すと宣帝と諡された。
 司馬氏は江淮を中心に軍屯を拓き、屯田によって培われた勢力を背景に簒奪を進めた。

公孫淵  〜238
 遼東太守公孫康の子。長じて叔父の公孫恭から支配権を簒奪し、魏に服しつつ呉にも内通したが、233年に呉から燕王とされた際には冊立使の盛儀から露見する事を懼れて呉使を斬り、魏より大司馬・楽浪公とされた。 237年に幽州刺史毌丘倹の高句麗遠征を猜疑して離叛し、毌丘倹を撃退すると燕王を称して紹漢と建元したが、翌年に太尉司馬懿に滅ぼされた。

田豫
 漁陽雍奴の人。字は国譲。公孫瓚に依った劉備に仕えて絶賛され、豫州刺史に転じた劉備から同道できないことを大いに惜しまれたが、公孫瓚には任用されなかった。 鮮于輔に長史とされると曹操への帰順を勧め、曹操の幕僚から守令に転じて各地で能治を讃えられたが、北辺の事情に通じている事を重んじられて概ねは鮮卑に対処する事が多く、曹彰の鮮卑討伐も田豫の計策があって成功したとされる。 禅譲で持節・護烏桓校尉となり、鮮卑に離間策を施して軻比能による統合を妨げたが、幽州刺史王雄に誣されて汝南太守に転じた。
 後に公孫淵と呉の通交に備えて仮節・都督青州諸軍事とされ、234年に満寵を輔けて合肥新城から孫権を撃退し、斉王の即位で使持節・護匈奴中郎将・領幷州刺史とされると、鮮卑らの多くが帰順して幷州を安定させた。 治辺の手腕は当代随一と讃えられ、後に衛尉に転じた。

曹芳  232〜239〜254〜274
 第三代君主、廃帝・斉王。明帝の養子。明帝が重篤となってから近侍の劉放孫資の薦めで太子とされ、大将軍曹爽と太尉司馬懿に輔導された。 次第に曹爽に権力が集中し、宮廷では曹爽の側近文士が中心となった“正始の音”が開花した一方、華美を競う奢侈の風が蔓延したという。
 249年に正始の変で司馬懿が実権を掌握し、曹爽ら曹氏・夏侯氏の有力者の多くが粛清されて宗室は没落した。 司馬懿の死後も専権を保つ司馬師に対して李豊夏侯玄らと奪権を図ったが、254年に露見して廃され、斉に帰藩させられた。 晋の禅譲で邵陵県公とされ、死後に詞と諡された。
 正始4年(243)の冬には倭使が再び来朝した。

曹爽  〜249
 字は昭伯。大司馬曹真の嗣子。明帝の下で累進し、明帝が病臥すると大将軍・仮節鉞都督中外諸軍事・録尚書事とされ、遺詔で司馬懿とともに曹芳を輔導して剣履昇殿・入朝不趨・参拝不名が加えられた。 何晏ら幕僚を要官に据えて上奏を尚書経由とし、諸弟に禁軍を統御させるなど朝政を専断し、244年には伐蜀を強行したものの兵站を維持できずに失敗した。
 249年に帝と高陵に詣でた際、司馬懿に洛陽を制圧されると宥和を求めて降り、ついで大逆として族滅された。 曹爽に連坐した士人も多く、宗室の実勢力は大きく後退して司馬氏専権の端緒となった。
曹爽が「司馬懿を名誉職である太傅に昇せ」たことと「実権を奪った」ことはしばしばイコールとされますが、曹芳の即位直後に司馬懿を太傅に叙した詔勅では、持節都督諸軍事は従来通りとすることが明記されています。 実際に241年に呉の朱然が樊城を攻囲した際には軍将として対処していますから、この頃はまだ実権が奪われたと云える状況ではありません。 司馬懿の実権喪失は、尚書権限と中軍の指揮権を曹爽派に集中させたことを指し、それはおそらく曹芳が元服した243年の事かと思われます。

何晏  〜249 ▲
 南陽宛の人。字は平叔。漢の大将軍何進の孫。 生母の尹氏が曹操の側室となった為に秦朗と共に宮中で育ち、後に曹操の娘/金郷公主を娶った。 明帝からは“浮華の徒”として斥けられたが、曹爽に重んじられて幕僚に連なり、曹爽の下で吏部尚書として曹氏による秉政化を強力に推進した。 司馬懿のクーデターで曹爽とともに処刑された。
 思想家として当代の尤と目され、従来の訓詁学を否定して経伝の老荘的解釈を唱え、王弼との清談は“正始の音”として讃美されたが、後世には虚無放談の思潮の原因となったと非難された。 現存最古の『論語』の注釈書である『論語集解』の著者でもあり、又た王弼の『老子注』に敬服し、自らの『老子注』を『道徳論』と改名した。 自己愛が強く、常に白粉を携行し、振り返って自分の影に陶酔したという『魏略』の伝承は、容姿が人物評の重要な要素だった貴族制社会の嚆矢的一面を伝えている。 『詩品』では中品に位する。

王弼  226〜249 ▲
 山陽高平の人。字は輔嗣。王粲の族孫。 王粲の家から蔡邕の学を伝えられ、併せて荊州系の学問の影響を受けた。 後に裴徽に認められ、何晏の薦挙で尚書郎に進んだが、曹爽に連坐して罷免され、まもなく病死した。
 老荘思想による『易』の解釈を何晏と論じたことに象徴される“正始の音”は清談の盛行を促進し、六朝貴族文化の特徴である玄学の嚆矢ともなった。 老荘を探究し、『易経』を老荘思想で解釈した『周易注』を著したが、孔子については老子以上の存在と認め、又た従来の象数易に代る、その新解釈の義理易は唐代以降の主流となった。

王淩  〜251
 太原祁県の人。漢の司徒王允の甥。 建安年間に孝廉から長吏を歴任して能名があり、曹操の掾属を経て黄初年間に青州刺史に転じ、王基を別駕に迎えて政果が甚だ高かった。 揚州・豫州の刺史を歴任し、241年に芍陂の役で呉兵を撃退して車騎将軍を加えられ、曹爽が粛清されると都督揚州諸軍事のまま仮節鉞・太尉に進められた。
 251年に外甥の令孤愚との謀叛を麾下の楊弘と兗州刺史黄華に密告され、来伐した司馬懿の諭旨で降伏した後に護送途上の項で自殺した。

曹彪  195〜251 ▲
 字は朱虎。曹操の第7子。 禅譲で汝陽公となり、222年に弋陽王とされてよりしばしば転封されて232年に楚王とされた。 曹爽が粛清されると太尉・揚州都督の王淩らの謀叛に擁立され、事が露見すると賜死された。
 文学を愛好して異母兄の曹植と親交があり、223年の帰国に際して同道が叶わなかった曹植から“贈白馬王彪詩”が送られたが、白馬王に転封されたのが226年であることから、詩作を曹彰の死亡直後とする『魏氏春秋』の誤りか、白馬王の名を冠した詩題と序文が後世の付会とされる。
 遺児の曹嘉は254年に赦されて常山王とされ、晋では高邑公とされて石崇と親交があった。

夏侯玄  209〜254
 沛国譙の人。字は太初。荊州牧夏侯尚の子。曹真の外甥。 夙に令名があって20歳で散騎黄門侍郎とされたが、明帝の外戚寵遇を批判して不遇だった。 従兄弟の曹爽が秉政したことで中護軍とされ、征西将軍・仮節都督雍涼州諸軍事に累進して曹爽の伐蜀にも賛同し、前将軍郭淮を前鋒都督とした。 曹爽が粛清されると九卿に遷され、中書令李豊の司馬氏排斥に連坐して族滅された。
 一説によると、交際を断られた鍾会が死刑を強く主張したという。

李豊  〜254 ▲
 馮翊の人。字は安国。 魏初に出仕して曹叡の文学に連なり、明帝のときに騎都尉とされ、子の李毓は明帝の斉長公主を降嫁された。 正始年間には侍中・尚書僕射とされたが、曹爽の専権を危ぶんで殆ど出仕せず、司馬懿が歿すると中書令とされた。 宗室の権勢回帰を志して夏侯玄を執政に擬し、帝舅の光禄大夫張緝や宦官とも通じて司馬氏粛清を謀ったが、事前に漏れて鏖殺された。
 甥の李斌は楊駿の外甥だったために助命され、西晋の楚王の変で楊党として殺された。

応璩  〜252
 字は休l。建安七子の応瑒の弟。博学で詩文を能くし、修辞の巧緻に走る時流から外れて諧合的(放胆・通俗的)だったために輿論に影響力があり、曹爽を諷刺した詩は時局にも言及した。 侍中に進んで著作を司り、死後は衛尉を追贈された。
 諷刺詩『百一誌』は、梁の鍾エから「『詩経』に通じる」と絶賛され、その批評性は評論書では常に高く評価され、建安文学と陶潜の詩風をつなぐものとして重視される。『詩品』では中品に位する。

劉徽
 臨淄の人。数学者。設問形式の数学書『九章算術』に注を施し、測量計算書である『海島算経』を著した。 中国史上屈指の数学者とされ、三平方の定理に到達して測量法を広く周知し、又た円周率を3.14と625分の64と算定した。

司馬師  208〜255
 司馬懿の長子。字は子元。 夏侯玄何晏らと交流があり、清談家としても著名で、何晏から高く評価されていた。 曹爽粛清では中護軍として司馬懿を輔け、司馬懿の死後は全権を嗣いで諸葛恪の撃退で威名を高め、翌年(254)には中書令李豊らの粛清を機に曹芳を廃して高貴郷公を立てた。
 揚州都督の毌丘倹らが叛くと親征して平定したが、帰途に眼病がもとで急死した。 嗣子がなかった為に弟の司馬昭が権を嗣ぎ、その子の司馬攸が継嗣とされた。後に景と諡名された。

王昶  〜259
 太原晋陽の人。字は文舒。同郡の王淩と与に夙に名を知られ、年長の王淩に兄事した。 曹丕に近侍し、禅譲後は典農・兗州刺史を歴任して治績を挙げ、明帝の治世では司馬懿からも信任されて徐州刺史・仮節都督荊豫諸軍事に進んだ。 250年に荊州攻略の都帥となり、江陵攻略は成功しなかったものの征南大将軍・京陵侯に進み、毌丘倹諸葛誕討伐にも功があって持節・都督のまま司空に進んだ。
250年の荊州攻略は呉の楽郷大督朱然の死に乗じたもので、『三国志』の王昶の上奏文を信用するなら、はじめから宜都・建平郡の江北部を奪うことが目的で、江陵に進んだ王昶の役割は楽郷督施績・公安督諸葛融の足止めにあったようです。 宜都郡には荊州刺史王基が、建平郡には新城太守州泰が進み、こちらも陸凱らの来援で撤退しましたが、敗戦ではないこと、斬首と鹵獲で戦果を挙げた事で賞されたようです。

陳泰  〜260
 字は玄伯。司空陳羣の嗣子。散騎侍郎・幷州刺史・護匈奴中郎将などを歴任して威名が高く、明帝の死後に雍州刺史に転じて征西将軍郭淮とともに蜀の大将軍姜維を撃退した。 郭淮の死後は征西大将軍・仮節都督雍涼諸軍事に進み、255年にも雍州刺史王経を狄道に攻囲した姜維を撃退して隴右の喪失を阻止した。
 まもなく尚書右僕射に転じて人事を担ったが、呉の孫峻が北上すると鎮軍将軍・仮節都督淮北諸軍事として諸軍を統べ、孫峻の撤退で尚書左僕射に転じた。 統率力と軍略に秀で、沈着勇武にして果断だが、品行見識と教化においては父に及ばないと評された。死後に司空を追贈された。
 の婿にあたり、干宝『晋紀』によれば、高貴郷公弑殺に与した荀を批判し、司馬昭に対しては賈充の処刑を求めたという。

王粛  195〜256
 東海郯の人。字は子雍。司徒王朗の子。 『太玄経』を学んで散騎官を歴任し、230年の曹真の伐蜀では難航を予測して早くから撤退を主張した。 礼制への知見から秘書監を領し、曹爽が秉政すると何晏らと対立して罷免され、正始の変後は司馬師の腹心となって光禄勲・河南尹などを歴任した。曹芳が廃されると持節太常とされて高貴郷公を奉迎し、後に中領軍に進んだ。
 礼制について賈逵馬融を重んじて鄭玄を否定し、司馬炎の外祖父であることから、西晋では王粛の説が行なわれた。『孔子家語』の偽作者でもある。

曹髦  241〜254〜260
 第四代君主。高貴郷公・少帝。諱は彦士。東海定王の子。文帝の孫。 司馬氏が万機を総覧し、東南を鎮守する毌丘倹諸葛誕の挙兵と呉の介入が続いたものの、いずれも短時日で平定された。 司馬氏の専権を不満として側近の僮僕数百名を率いて宮中で蜂起したが、賈充によって直ちに鎮圧されて斬殺された。
 群臣との討論を好み、荀との天子評では夏王朝を中興した少康を尤とし、荀らは劉邦を推したと伝えられる。

司馬昭  211〜265
 字は子上。司馬師の弟。 夙に兄と並んで司馬懿の幕僚となり、司馬師の死とともに大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事として全権を嗣いだ。 257年に揚州都督の諸葛誕が呉と結んで叛くと、造叛を防ぐために少帝・太后を伴って出征し、諸葛誕を平定して相国・晋公とされた。
 260年に少帝を弑して常道郷公を迎立し、263年にはケ艾鍾会を派遣して蜀を平定し、晋王に進められた。後に文帝と諡された。

毌丘倹  〜255
 河東聞喜(山西省運城市)の人。字は仲恭。将作大匠毌丘興の子。 文帝の時より曹叡に仕えて夏侯玄・李豊らとも親交があり、明帝の下で累進し、237年に幽州刺史に度遼将軍・使持節護烏桓校尉を加えられて公孫淵を伐ったものの成功せず、翌年に改めて太尉司馬懿の遼東遠征に従った。 244年より高句麗に遠征して国都の丸都城を陥し、高句麗王を追討した玄菟太守王頎は粛愼の南界に到達した。
 後に鎮南将軍・豫州都督に進み、252年に東興の役で敗れた諸葛誕と任地を替って鎮東将軍・都督揚州諸軍事として寿春に駐し、翌年には諸葛恪を合肥新城に撃退したが、255年に揚州刺史文欽と結んで司馬氏排除の軍を興し、大将軍司馬師・鎮南将軍諸葛誕らに敗死した。
 高句麗遠征での毌丘倹の紀功碑は、1906年に輯安北方より発見されている。

諸葛誕  〜258
 琅邪陽都の人。字は公休。吏部郎・御史中丞・尚書などを歴任し、夏侯玄らと並んで声望があったが、明帝の代には浮華の徒として罷免された。 曹爽によって揚州刺史とされ、王淩討伐に際して鎮東将軍・仮節都督揚州諸軍事に進み、252年に東興の役に敗れて鎮南将軍・都督豫州諸軍事に転じた。
 毌丘倹討伐では寿春を回復し、呉の援軍を撃退して征東大将軍・都督揚州諸軍事とされたが、夏侯玄らの粛清以後は枉陥を猜疑し、257年に司空に叙された事を機に寿春で挙兵し、揚州刺史楽綝を攻殺して呉に称臣した。 呉からは文欽らが援軍に送られたが、鎮南将軍王基に寿春を囲まれた後は内部の不和から離背が続き、呉の戦略の拙劣もあって司馬昭に敗死した。 これによって魏国内での司馬氏の権威はほぼ磐石となった。

竹林七賢
 魏末晋初の清談の代表的な阮籍嵆康を筆頭に、山濤王戎向秀劉伶阮咸を指す。 何晏ら正始の名士が麻薬の一種の五石散を服用して政論を好んだのに対し、清談家は司馬氏への政権移行期にあって政論を避け、飲酒と奇矯な言動を以て保身を図ったが、阮籍すら政界とは無縁でいられず、嵆康は鍾会に憎まれて処刑され、山濤・王戎は後に閣僚に昇った。
 “竹林七賢図”は後世の文人画家が好んで題材としたが、七賢が一堂に会したという記録はない。

嵆康  224〜262? ▲
 譙国銍(安徽省宿州)の人。字は叔夜。魏の沛穆王(曹操の子)の孫を娶って中散大夫とされた。 性は狷介で礼教・束縛を嫌い、世俗を嫌う傾向は曹爽の粛清後さらに顕著となり、僅かに阮籍山濤・呂安を知己として琴・鍛冶を楽しみ、神仙を慕って山野に遊んだ。
 感情を露わすことが少なかった半面で言辞は直烈で、鍾会の訪問に応対しなかった事で憎まれ、妻に淫通した兄に誣告された呂安を弁護したところ、毌丘倹との関与を誣告され、仕官しないことを理由に処刑された。 山濤には吏部職を譲られた際に絶交書を送っていたが、刑に臨んで託孤していることから、『絶交書』も一種の韜晦と目される。
 論に長じて『養生論』『釈私論』などを著し、又た『詩経』以来の伝統の四言詩を得意として獄中の作品“憂憤詩”は傑作とされ、五言詩を主体とする『詩品』でも中品に位された。
嵆康の処刑は、禅譲準備の一環として親曹派の名士に対する示威を兼ね、当初の標的の阮籍の失言が得られなかったために、言辞の峻激な嵆康が選ばれたとされています。 嵆康は秘曲“広陵散”の断絶を最大の痛恨事としたとも伝えられますが、これは魏朝擁護を標榜した王淩・毌丘倹・文欽諸葛誕がいずれも揚州で散ったことに仮託した逸話と考えられています。

阮籍  210〜263 ▲
 陳留尉氏の人。字は嗣宗。建安七子の阮瑀の子。 陳留阮氏は勢族に数えられるが、阮籍の属した家門は貧乏で、宗家の北阮に対して“南阮”と呼ばれた。
 一時は曹爽の幕僚に連なり、改めて司馬懿の招聘に応じて出仕したが、廃帝より散騎常侍・関内侯とされたこともあって密かに魏臣を自負し、娘と司馬炎との縁談を60日間酔い続けて成立させなかった。 規格的な礼節を軽蔑して老荘を好み、青眼視などの奇矯な言動はあったものの人物評は一切せず、政局を避ける韜晦にも長けていたことで庇護者の司馬昭からは“至慎”と評されたが、それでも司馬昭への封王の勧進表を起草する迎合を余儀なくされた。
 礼節偏重の君子を褌中の虱に喩えた『大人先生伝』は広く知られ、又た歩兵署に蔵されている美酒を求めて自ら歩兵校尉へ降格したことから、後世しばしば“歩兵”と呼ばれた。 竹林七賢では嵆康と最も親しく、それだけに清談の危うさを熟知し、子の阮渾には、既に阮咸が在ることを理由に参入を断念させた。
 『詩品』では上品に位し、代表作の五言詩の連作『詠懐詩』82首は難解なことで知られる一方、知識人が心情を述べる一形式として定着し、陶潜陳子昴李白らに継承された。

鍾会  〜264
 潁川長社の人。字は士季。太傅鍾繇の末子。 夙に才能を絶賛されて尚書官を累進し、司馬師・司馬昭の謀臣として重用され、諸葛誕の平定では帷幄を掌って全懌らを来奔させ、戦後に司隷校尉に進んだ後も国事に参与した。
 征蜀の計を司馬昭と定め、263年に鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事として主力を率い、漢中から陽平関を抜いて剣閣で姜維と対峙したが、その間にケ艾の成都奇襲が成功し、姜維を投降させて司徒を遙授された。 まもなくケ艾の謀叛を誣告して押送する一方、成都に入って自立を策したが、諸将の賛同を得られずに敗死した。
 経学にも通じて王弼と並称され、殊に『易』に精通した。

ケ艾  〜264
 義陽棘陽(南陽市新野)の人。字は士載。地形を案じて測量することを好み、典農官として司馬懿に認められて尚書郎に進み、『済河論』を著して淮河流域の灌漑を整備し、大規模な軍屯を興した。 249年に洮城に蜀の姜維を撃退してより将略を認められ、匈奴の分治策などを進言して司馬師にも信任され、毌丘倹の乱では楽嘉城で文欽を大破して大勢を決し、以後は隴右に駐して段谷の役などでしばしば蜀軍を撃退し、征西将軍・都督隴右諸軍事に進んだ。
 263年の征蜀では沓中から姜維を逐った後に陰平(隴南市文県)から険峻を跋渉して成都を奇襲し、後主劉禅を降伏させて太尉を遙授された。 成都では征呉を唱えて専断の行ないがあり、鍾会に謀叛を該奏されて収捕され、護送途上で鍾会が平定されると報復を危惧する監軍の衛瓘に暗殺された。

康僧鎧
 康居出身の仏僧。インド出身を自称した。252年に入国して洛陽の白馬寺に入り、郁伽長者らの4部の経典を翻訳した。 浄土教系の『無量寿経』の翻訳者とも伝えられる。

朱士行
 潁川の人。支婁迦讖の翻訳した『般若経』の文意不詳を不満とし、260年に中国人として初めてインド取経に発ち、于闐で西域語訳の『般若経』を入手すると弗如檀(法饒)に託して帰国させ、自身は于闐で歿した。
 中国人取経僧の先駆であり、法饒が般若経(『放光般若経』)をもたらしてより中国での般若経研究が盛んとなった事でも重視される。
宋代の作とされる西湖畔の飛来峰の壁画には、猴行者を伴う三蔵法師の像と並んで、朱八戒と従者、迦葉と竺法蘭が描かれています。 最も有名な求法僧・最初の求法僧・最初の仏典招来者という構図となり、朱八戒はもとは朱士行と書かれていたそうです。 又た『西遊記』の猪八戒の原名が朱八戒であることからも、『西遊記』の猪八戒のモデルが朱士行である可能性が示されています。

曹奐  245〜260〜265〜302
 第五代君主、元帝。字は景明。燕王宇の子。曹操の孫。 高貴郷侯を殺した司馬昭により、常道郷公より迎立された。 263年、蜀を征服した司馬昭を晋公、ついで晋王に進めて九錫を加え、265年に司馬昭を襲いだ司馬炎に禅譲して陳留王とされた。


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