▽ 補注:東漢/人物.3

党錮  霊帝 / 章帝諸子王家
 

党錮

尹勲  〜168
 河南鞏(鄭州市鞏義)の著姓。字は伯元。 剛毅で廉直を旨とし、孝廉より歴遷して尚書令に進み、大将軍梁冀の誅戮直後には複職を兼務して能吏と讃えられた。 九卿を歴任し、霊帝が即位すると大将軍竇武に参謀して尚書令とされ、宦官に敗れて獄中で自殺した。

蔡衍  〜168
 汝南項(河南省沈丘)の人。字は孟喜。経書に明るく公正を讃えられ、冀州刺史の時に河間相曹鼎(曹騰の弟)の臧賂を挙該し、中常侍具瑗・大将軍梁冀らの請託を斥けたことがあり、帰洛後も梁冀の通見を許さなかった。 亦た南陽太守成瑨らが廷尉に徴された事を議郎劉瑜と与に強諫し、言辞切獅ニして罷免された。 霊帝が即位すると議郎に辟されたが、偶々病死した。

朱震
 字は伯厚。陳留の人。州従事のときに済陰太守単匡の臧賄を挙奏し、車騎将軍単超に譴責を及ぼした。 旧友の陳蕃が殺されると銍令を棄官して哭礼埋葬し、遺児の陳逸を隠匿して拷案にも屈しなかった。

竇妙(桓思竇皇后)  〜172
 竇武の娘。定襄太守竇奉の孫。 ケ皇后の廃黜後に掖庭に納れられ、当時は采女の田聖が桓帝に最も寵愛されていたが、門地を士大夫に支持されて皇后とされた。 桓帝の死後は皇太后として臨朝し、竇武を大将軍として解涜亭侯を迎立する一方で、殯中でありながら田聖を殺し、他の寵妃は宦官の苦諫で殺害を免れた。竇武らの宦官誅戮に賛同せず、竇武らが敗死した後は南宮の雲台に幽閉され、母が配所の比景で歿したことを悲歎して病死した。

竇紹  〜168
 竇武の甥。竇皇后が立てられて虎賁中郎将に叙され、当初は驕慢だったが、竇武の自該に接して自律するようになった。 竇太后が垂簾すると歩兵校尉に進められ、竇武の誅宦にも参与して歩兵営で竇武とともに自殺した。

欒巴  〜168
 魏郡内黄(安陽市)の人。字は叔元。生来の閹人だったが、後に士人となって士官を歴任した。 長吏として治績を挙げ、漢安元年(142)には守光禄大夫として按察八使にも数えられたが、桓帝を強諫して禁錮された。 霊帝が即位すると議郎とされ、竇武陳蕃のために訟冤して獄中で自殺した。

劉儒  〜168
 東郡陽平(山東省莘県)の人。字は叔林。郭泰から“珪璋の質”と絶賛された。 要職を歴任し、竇武の党人と誣されて獄中で自殺した。

劉淑  〜168
 河間楽成(河北省献県)の人。字は仲承。五経に通じ、顕官を歴任した。 宗室として重用され、しばしば宦官排斥を上書し、竇武らの党与として投獄されると自殺した。

劉瑜  〜168
 広陵(江蘇省江都)の人。字は季節。 武帝の子/広陵靖王の玄孫。経学の他に図讖・天文・暦算に通じ、太尉楊秉に薦挙され、霊帝が即位すると侍中に進んで大将軍竇武らに参謀した。 管覇らを誅した竇武の逡巡を断つために、天文を案じて大臣の頓死を予言し、このため竇武は宦官鏖殺の既成事実を以て太后の追認を得る方針に転換した。 計画の失敗で竇武らと倶に刑戮された。

劉祐  〜168
 中山安国(河北省保定市)の人。字は伯祖。宗室の名望であり、経学を修めて文辞に長じた。 尚書令・河南尹・司隷校尉を歴任し、大将軍梁冀や宦官の子弟と雖も畏憚せず、京師に入る権貴は皆な、輿服を替えて財宝を隠匿してから越境したという。三公に擬される度に宦官の譖毀で用いられず、霊帝が即位すると河南尹とされ、陳蕃の敗死で罷免されて程無く歿した。

 
 

甘陵の党事 桓帝の人事に対する譏議。 桓帝は即位すると、嘗ての学師の周福を尚書とし、これを同郡(甘陵)の碩学/河南尹房植の門生が「故縁の叙」と批難し、互いに党を為して譏毀したこと。 一般にこれが党議=朋党を為しての誹り合いの嚆矢だとされる。

汝南の党議 汝南太守宗資が、厳明の名士と定評のある范滂に郡務一切を委ね、世人が挙って賞賛し、范滂の挙吏を范党と称したこと。
郷論の昂揚は風評を過度に重んじる風潮を全国に蔓延させて売名の士を多く輩出し、渤海の公族進階・扶風の魏斉卿などは詭議を弄して人士を折辱し、公卿と雖も貶評を畏れて迎合したそうです。

三君八俊
三君:一世の宗
 竇武 ・劉淑 ・陳蕃
八俊:三君に亜ぐ英俊
 李膺 ・荀c ・杜密 ・王暢 ・劉祐 ・魏朗 ・趙典 ・朱㝢
八顧:徳を以て導く者
 郭泰 ・宗慈 ・巴粛 ・夏馥 ・范滂 ・尹勲 ・蔡衍 ・羊陟
八及:宗主たりうる者
 張倹 ・岑晊 ・劉表 ・陳翔 ・孔c ・苑康 ・檀敷 ・翟超
八廚:財を以て救う者
 度尚 ・張邈 ・王考 ・劉儒 ・胡母班 ・秦周 ・蕃嚮 ・王章

張成  〜167
 河内の人。 風角に善く、その風評は宦官を介して上聞にも達していたが、大赦を推占して殺人を行ない、これを河南尹李膺が大赦を踰えて刑誅した事で、延熹の獄に発展した。

袁閎  129?〜185?
 汝南汝陽(河南省商水)の人。字は夏甫。彭城相袁賀の子。 光禄勲袁彭の孫。夙に清節を旨として家門の驕奢を危ぶみ、袁逢袁隗らとは交わらなかった。 延熹の獄で隠遁し、黄巾も敬重して郷里を侵さず、隠遁18年で歿した。魏晋時代に輿望を集めた名望の先駆的存在とされる。

袁忠  ▲
 字は正甫。袁閎の弟。初平年間(190〜193)に沛相とされて清明を讃えられたが、天下が乱れると棄官して会稽上虞(浙江)に客居し、太守王朗を虚飾と評して交わらず、孫策が会稽を陥すと交趾に遁れた。許遷都で衛尉に擬されたが、叙任前に客死した。

苑康
 渤海重合(山東省楽陵)の人。字は仲真。太学では郭泰と親交し、長吏に転じると糾察厳獅知られた。 泰山太守の時に、張倹の糾察を逃れて越境した侯覧の賓客全てを収掩し、侯覧に讒誣されて日南配流に減死されたが、羊陟らの訟冤で帰郷を許されて家で歿した。

羊陟  ▲
 泰山梁父(山東省泰安市区)の勢族。字は嗣祖。 夙に清名があり、李固の故吏として禁錮され、誅梁後に諸官を歴任した。 司徒樊陵ら宦官と結託した公卿を劾奏し、そのため建寧の獄に累坐して家で歿した。

王芬
 冀州刺史。黄巾の乱の後、許攸・周旌・陳逸(陳蕃の子)らと霊帝の廃黜と合肥侯の擁立を謀ったが、曹操・華歆らの賛同を得られず、間もなく失敗した。 『九州春秋』によれば、霊帝の河間巡幸に乗じることを謀り、黒山討伐の名で兵力の動員も裁可されたが、巡幸の中止と徴召が重なったことで露見と判断して自殺した。

夏馥
 陳留圉(河南省杞県)の人。字は子治。交際を厭って挙任にも応じなかったが、声望から宦官に畏憚され、建寧の獄では范滂張倹と並ぶ党魁として誣陥された。 張倹の亡命に累連する者が多いことを歎じ、名貌を変じて山中に逃れ、解錮の前に歿した。

賈彪
 潁川定陵(河南省舞陽)の人。字は偉節。 太学の宗として郭泰と並称され、同郡の荀爽とも声名を斉しくしたが、荀爽とは畢に睦まなかった。 孝廉から諸官を歴任し、延熹の獄では城門校尉竇武・尚書霍諝を説いて訟冤させた。 建寧の獄岑晊が逃亡したことに批判的で、来奔した岑晊を拒むことで節としたが、党人として禁錮されて家で歿した。

魏朗  〜169
 会稽上虞(浙江)の人。字は少英。太学で五経を修めて衆望を得、矜厳でも知られた。 延熹の獄で尚書を罷免され、建寧の獄で党人として徴されると、牛渚(安徽省当塗)に到って自殺した。

仇覧
 陳留考城(開封市蘭考)の人。字は季智。齢40で県吏となり、県令の援助で太学に学んだが、游談を貴ぶ太学の風潮を黙批し、既に高名だった同郡の符融とも交わらず、郭泰は牀下に伏して拝謁したという。帰郷後は叙任に応じず、家で病死した。

虞放  〜169
 陳留東昏(開封市蘭考)の人。字は子仲。順帝の初に学師の楊震の冤を訟えて名を顕し、後に尚書として大将軍梁冀の誅殺にも参与した。延熹3年(160)に司空とされたが、宦官の寵任を諫めて罷免され、建寧の獄で殺された。

黄憲
 汝南慎陽(河南省正陽)の人。字は叔度。寒貧な牛医の子だったが、袁閎から“顔子”と敬服され、倨傲で知られた同郡の戴良も黄憲に及ばないことを自認した。 同郡の陳蕃周挙のみならず、隣郡の荀淑からも“師表”と敬重され、汝南に周遊した郭泰は、黄憲と談じて数日去ることができなかったという。生涯仕官しなかった。

荀c  〜169
 潁川潁陰(河南省臨潁)の人。字は伯条。荀淑の兄の子。 官は沛国相に至り、弟の広陵太守荀曇と共に宦官派の糾察で知られた。 荀cは後に建寧の獄で殺され、荀曇は終身禁錮に処された。

成瑨  〜166
 弘農の人。字は幼平。 経世の才と直言で知られ、南陽太守とされるや岑晊を功曹とし、郡政を委任して賢守と称された。 桓帝の美人の外親/張汎を刑誅したことで誣告され、太原太守劉瓆と倶に棄市された。

劉瓆  〜166 ▲
 平原の人。字は文理。 公正厳直を知られて太原太守に至り、宦官派の在豪らを刑戮したが、晋陽の小黄門趙津を大赦後に拷殺した事から、成瑨と倶に棄市に処された。

檀敷
 山陽瑕丘(済寧市兗州)の人。字は文有。貧寒を好んで他者の施恵を嫌い、郡県の辟召にも応じなかった。 霊帝の即位後に方正に挙げられ、蒙令(商丘市区)の時に太守の庸懦を忌んで棄官した。

陳翔
 汝南邵陵(河南省漯河市区)の人。字は子麟。正旦の朝賀で大将軍梁冀の威儀の不備を弾劾したことがあり、後に揚州刺史の時、呉郡太守徐参(徐璜の弟)の貪穢を挙奏して天下に名を知られた。 剛直を忌まれて党人と誣告されたが、交誼が広かったにも拘らず明証が無かったため、釈免されて家で歿した。

杜密  〜169
 潁川陽城の人。字は周甫。守相として宦官子弟の令長を厳重に糾察したことで讃えられた。 高密県の郷佐だった鄭玄を異器として太学に遊学させた人物でもあり、後に尚書令・河南尹・太僕を歴任した。 延熹の獄で帰郷した後は李膺と同行することが多く、世に“李杜”と称された。 霊帝が即位して太僕とされ、建寧の獄で召喚されると自殺した。

巴粛  〜169
 渤海高城(河北省塩山)の人。字は恭祖。 建寧の獄竇武陳蕃への参謀が露見し、県令は印綬を解いて同遁を求めたが、これを拒んで獄死した。

符融
 陳留浚儀(開封市区)の人。字は偉明。 吏職を愧じて棄官し、太学で少府李膺に師事して「談辞は雲の如く」と絶賛され、李膺は常に賓客を絶って談論を傾聴したという。 亦た一瞥で郭泰の才器を認め、李膺に薦めた。徴辟は悉く辞し、党錮の後に家で歿した。

晋文経  ▲
 文経は字。漢中の人。済陰の黄允と与に京師で名を顕し、徴辟には悉く応じず貴顕とも交際しなかったことで声望を高めたが、符融から“売名”と評されてより凋落し、後に軽薄子として世人から廃毀された。

黄允  ▲
 済陰の人。字は子艾。 俊才として知られ、郭泰からも“絶人の偉器”と評されたが、不道として認められることはなかった。 後に司徒袁隗との通婚を欲して妻女を離縁したが、離別の会で妻女によって匿穢を暴かれ、世人から廃毀された。

劉寵
 東莱牟平(煙台市区)の人。字は栄祖。高祖の庶長子/斉悼恵王の裔。 通儒と称された父の劉本と同様に諸学に明るく、長吏となっては煩苛を除き、非法を禁察して恵政につとめた。 会稽太守から将作大匠に転ずる際には山間の老人が各々百銭を奉じたが、大銭一枚のみを受けたことで「取一銭太守」と呼ばれた。
延熹4年(161)より三公を歴任し、建寧の獄の直後に太尉を罷免されると帰郷して出仕せず、家で歿した。 清素を旨として家に余財は無く、温寛で争事を避けたことから“長者”と称された。
 甥の劉岱は兗州刺史、その弟の劉繇は揚州牧に至り、倶に名声があった。

 
 
 

霊帝

袁隗  〜190
 汝南汝陽(河南省商水)の人。太尉袁湯の子。司空袁逢の弟。 名族として顕官を歴任し、宗族の中常侍袁赦と結んで熹平元年(172)には司徒に進み、甥の袁紹が名士と交際することを喜ばなかった。
少帝が即位すると太傅とされたが、翌初平元年(190)に袁紹が関東諸将の盟主とされたことで董卓に族滅された。
因みに袁赦は、梁冀にケ皇后の母の暗殺を依頼された刺客を最初に発見してしまい、邪魔した人です。 計画を知っていたら、恐らく気付かないフリをしていたと思います。宦官王甫の一党として179年に誅されます。

袁湯  ▲
 字は仲河。司徒袁安の孫、袁彭の弟。 桓帝の定策に参与して安国亭侯に封じられ、三公を歴任した。
 長子の袁成は大将軍梁冀と親密で、左中郎将で早逝して甥の袁紹が嗣子とされた。

袁逢  ▲
 字は周陽。袁湯の嗣子。寛厚篤信で、楊賜の息/楊彪を婿とした。 霊帝の定策にも参与して光和元年(178)に司空に至り、死後は車騎将軍が追贈された。
嗣子袁基は太僕に至り、伯父の袁隗と倶に董卓に戮された。

馬倫  ▲
 馬融の娘。弁才があり、袁隗に嫁す際に結納の盛んなことを踰礼と揶揄されると袁隗の奢侈を難じ、又た諸姉に先んじての婚嫁を問われると自身の低志の故と応じた。 儒宗たる馬融が貨財の事で貶議されたことには、孔子・子路すら俗物に誣されたことを挙げ、袁隗を慙愧させた。
この討論は一見すると袁隗の人格的な稚拙さが目立ちますが、貴族社会や清談の萌芽が顕著になっていた当時のことを考えると、後の晋代の貴族社会で好まれた論戯に近いようです。

王允  137〜192
 太原祁(山西省晋中市)の人。字は子師。夙に剛直を知られ、郭泰からは千里駒・王佐と評された。 宦官収捕で名を顕し、黄巾の乱では豫州刺史とされて皇甫嵩朱儁を援け、亦た荀爽孔融らを挙任し、中常侍張譲と黄巾との交通を挙奏して罷免された。
 霊帝が歿して河南尹とされ、秉政した董卓には矯情屈意して猜疑されず、初平元年(190)には司徒に至り、長安遷都後は朝政を総裁したが、兵力を欲して提議した袁術討伐は聴かれなかった。
 3年(192)に僕射士孫瑞・中郎将呂布らと謀って董卓誅殺に成功したが、剛稜且つ功労の負恃が過ぎたため、蔡邕の獄死と相俟って急速に輿望を失った。 亦た一歳不再赦の祖法に固執して大赦を出さず、このため誅戮を猜疑して挙兵した李傕・郭ら董卓の部曲に長安を陥され、左馮翊宋翼・右扶風王宏ら親属十余人と倶に戮された。

王宏  〜192 ▲
 太原の人。字は長文。慷慨の志があり、弘農太守の時の宦官糾察を王允に認められて右扶風に進んだ。 長安を陥した李傕の徴命に接すると、王允の推挙で右扶風となっていた同郷の宋翼に関東との呼応を諮ったが、王命を重んじた宋翼が賛同しなかったために独立を断念し、長安に到って刑戮された。

王叡  〜190
 琅邪臨沂の人。字は通耀。荊州刺史のとき、不和だった武陵太守曹寅に董卓の与党と誣され、董卓討伐に北上する孫堅に討たれて金を嚥下して自殺した。晋の太保王祥の伯父にあたる。

何皇后(霊思皇后) 〜189
 南陽宛の人。屠販の家の出で、宦官への臧賂で掖庭に納れられ、皇子辯を生んだことで光和3年(180)に皇后とされた。 皇子協を生んだ王美人を毒殺したことで廃后の議が生じたが、宦官の諫止によって免れ、黄巾の乱で異母兄の何進が大将軍とされてより董太妃との反目が熾烈となった。
中平6年(189)に皇子辯を即位させて臨朝したが、宮内の兵乱に乗じて入京した董卓に董太妃暗殺の罪を問われ、永楽宮で殺された。

董太妃(孝仁董皇后)  〜189 ▲
 河間の人。霊帝の生母。 永安宮に居し、竇太后が歿すると朝政に与るようになり、霊帝に金銭の収斂を教唆したとされる。 亦た何皇后と権勢を争い、中平5年(188)には甥の蓚侯董重を驃騎将軍に昇せて大将軍何進の兵権を割いたが、霊帝が歿すると董重は印綬を奪われて自殺し、董妃は頓死して河間に葬られた。

何苗  〜189
 何皇后の同母兄。大将軍何進の異母弟。大将軍となった何進を継いで河南尹となり、中平4年(187)に滎陽の賊を討平して車騎将軍とされた。何皇后同様に宦官誅殺に反対したと伝えられ、何進が殺されると宦官党として何進の部曲将の呉匡らに殺された。

賈j
 東郡聊城(山東省聊城市区)の人。字は孟堅。 能吏と称され、中平元年(184)に交趾の屯兵が叛いて刺史と合浦太守を執えると交趾部刺史とされ、苛政を悉く廃して叛帥のみを誅し、3年で治績は13州の最良となった。 後に冀州刺史に転じると、長吏の殆どが懼れて棄官したという。霊帝の死後に度遼将軍に転じ、在官のまま歿した。

橋玄  109〜183
 梁国睢陽(商丘市区)の人。字は公祖。 豫州刺史周景の属吏となり、大将軍梁冀と結託していた陳相羊昌を糾案して名を顕したが、洛陽左部尉とされると報復を懼れて棄官した。長吏を歴任して厳獅ナ知られ、建寧2年(169)に度遼将軍として高句麗を討破し、翌年から三公を歴任して光和二年(178)に致仕した。
後に10歳の少子が家で劫質されると、司隷校尉陽球・河南尹・洛陽令らを叱咤して子を棄てて賊を殺し、これより京師の劫質は豪貴を避けるようになったという。 剛急で大局には通じなかったが、謙倹で士を愛し、微官だった曹操を「経世済民の人」と評したことで敬慕された。

橋瑁  ▲
 字は元瑋。橋玄の族子。 東郡太守として威恵があり、董卓討伐にも参加したが、後にかねて不和だった兗州刺史劉岱に殺された。

蹇碩  〜189
 宦官。 姿貌雄偉の故に霊帝に親信され、中平5年(188)に西園八校尉が新設されると、小黄門のまま上軍校尉として八校尉を統轄し、何進に比す兵権を有した。 董太后の庇護下にある皇子協(献帝)を支持したことでも何進と対立し、亦た一方の首領を自認した事で同輩からも孤立し、少帝が即位して程なくに謀叛を理由に刑誅された。

侯参
 侯覧の兄。益州刺史とされると境内の富家を枉陥して億万の没財を積み、太尉楊秉に劾奏されて檻車で自殺した。

黄琬  141〜192
 字は子琰。黄瓊の孫。 夙に能名が高く、光禄勲陳蕃と同心して枉陥され、この時は御史中丞王暢も両者を挙奏しなかったことで禁錮された。 中平5年(188)に九卿の秩禄のまま豫州牧に遷り、群盗の討滅と政績から天下の表と讃えられ、董卓が秉政すると三公を歴任し、長安遷都を諫争した際にも著姓の名望の故に殺されなかった。 後に司隷校尉に転じて司徒王允と同謀し、長安陥落で李傕に収われて獄死した。

崔烈  〜192
 涿郡安平(河北)の人。崔寔の従兄。 碩学の家門として北方で名声が高かったが、中平4年(187)に司徒に叙されると修宮銭5百万を納れ、子の崔鈞から「銅臭を以て声誉衰う」と諫められた。 初平元年(190)に崔鈞と袁紹との結盟を以て繋獄され、董卓が誅されると城門校尉とされたが、長安を陥した李傕らに殺された。

秦頡  〜186
 南郡鄀の人。字は初起。 中平元年(184)に南陽太守褚貢が黄巾軍の大方張曼成に敗死すると、江夏都尉のまま南陽太守を兼ねて張曼成を敗死させた。 趙弘を大方とした南陽黄巾が宛城を占拠すると、荊州刺史徐璆と共に中郎将朱儁に従って宛城を回復したが、後に江夏の趙慈の叛乱で敗死した。
趙弘の篭城は3ヶ月に及び、遅滞を朝廷に譴責された朱儁は強攻して趙弘を斬り、次いで城の西南に攻撃を集中して自ら東北を陥し、敢えて退路を開いて黄巾を追撃・大破しました。このとき投降した小帥韓忠を秦頡が殺したことで南陽黄巾は抵抗を続け、西鄂(河南省南召)で孫夏が斬られて稍く平定されました。

申屠蟠
 陳留外黄(開封市杞県)の人。字は子龍。 父の死後は十余年間酒肉を口にせずに至孝と評され、同郡の蔡邕からも敬重された。 人士が評議に耽る風潮を焚書坑儒の先駆と危ぶんで交際を避け、そのため党獄を免れた。董卓の辟徴に畢に応じず、齢74で家で歿した。

蘇不韋
 扶風平陵の人。字は公先。 父の蘇建が司隷校尉李ロに拷殺されると奔遁し、後に大司農に進んだ李ロの妾児を府内で殺し、李ロの父の屍頸を奪って李ロを憤死させた。 報仇の激越を譏る時流にあって、何休郭泰から伍員に比せられて評価が決した。
 後に李ロと交誼のあった司隷校尉段熲に辟召されたが、親交のあった張奐が段熲と不和だった事もあってこれを辞し、そのため嘗ての報仇を大逆と劾され、一門60余名と共に鏖殺された。
 この時、段熲は従事張賢を捕吏として派したが、収捕に失敗したなら父子で毒を飲むように命じたという。

曹嵩  〜193
 大長秋曹騰の養嗣子。同郷の夏侯氏からの養子との説もある。 宦官に阿附し、銭1億万の修宮銭で中平4年(187)に太尉に就いたが、翌年には致仕した。山東の兵乱を避けて琅邪に遷り、帰郷途上の東海郡陰平(山東省棗荘市)で賊に殺され、子の東郡太守曹操による徐州虐殺を惹起した。

張温  〜191
 南陽穣の人。字は伯慎。声望が高く公卿を歴任し、中平2年(185)の北宮伯玉の乱では司空から車騎将軍に転じて皇甫嵩の西征を継ぎ、翌年の長安での太尉叙任は三公遥授の嚆矢となった。 西征中、属官の孫堅が言辞不遜を以てしばしば董卓誅罰を進言したことで董卓に恨まれた。 董卓が秉政すると衛尉とされ、司徒王允と董卓誅殺を図ったが、袁術との交通を理由に刑戮された。
中平2年の西征は、皇甫嵩が趙忠の讒誣で召喚された後を享けたもので、膠着した戦況は董卓の奇襲成功で動いたものの、後続の盪寇将軍周慎が軽進して大敗した事で敗退し、董卓は兵を全うしたことで嘉賞されました。

張純・張挙
 張純は前の中山国相、張挙は前の泰山太守。車騎将軍張温の西征から離背した烏桓兵と結んで挙兵し、護烏桓校尉・右北平太守・遼東太守らを敗死させて張挙を天子に奉じ、遼東烏桓の峭王蘇僕延とも通じて幽・青・冀州を席捲した。 峭王は程なく幽州牧劉虞の招撫に帰順し、劉虞の設けた懸賞購募に応じる者も多く、張純は食客に殺され、張挙も遼東辺外で公孫瓚に敗死した。

張懿  〜188
 幷州刺史。羌渠単于に叛いた匈奴休屠種に敗死した。

趙岐  〜201
 京兆長陵の人。字は邠卿。旧の諱は嘉、字は台卿で、亡命中に郷里を慕って改名した。 博学多通で、馬融の姪を娶りながらも、貴戚の驕奢を卑んで馬融とは交際しなかった。 宦官を糾弾して憎まれ、延熹元年(158)に殊に不和だった唐玹(中常侍唐衡の兄)が京兆尹となると、甥の趙戩と与に奔遁したが、家属・宗親は死刑に陥された。
党錮が解かれると車騎将軍張温の西征に従って敦煌太守とされ、辺章の乱で帰京して董卓より太僕とされた。 李傕らの秉政後に天下を巡撫し、袁紹公孫瓚の兵争を鎮撫したが、両者の誓約した洛陽への車駕奉迎は果たされなかった。許遷都で太常に叙された。

趙戩  ▲
 京兆長陵の人。字は叔茂。太常趙岐の甥。 好学剛直で、初平年間(190〜193)に尚書選部郎となると、董卓の請託を悉く拒絶して脅迫されたが、泰若と応じて陳謝された。 故将の王允が殺されると平陵令を棄官して葬送し、荊州に遁れて劉表に厚遇され、後に五官中郎将曹丕の司馬や相国鍾繇の長史を歴任した。

董扶
 広漢緜竹(徳陽市綿竹)の人。字は茂安。太学で学んで同郷の任安と並称され、倶に楊厚に図讖を学んだ。 大将軍何進に召されて侍中に進み、太常の劉焉が益州幷州涼州の兵変を嫌って交趾牧を求めると、益州の王気を指摘して益州牧を求めさせ、蜀郡属国都尉として随った。

任安  124〜202 ▲
 広漢緜竹(綿竹)の人。字は定祖。 太学に学んで博通し、同郡の楊厚に図讖を学んで奥旨に達した。郷里で名声が高かったが、京師との通交の途絶で仕官しなかった。 後に秦宓から「董扶は秋毫の善を讃えて繊芥の悪を憎み、任安は人の善を記して過を忘る」と評された。

楊厚  72〜153 ▲
 広漢新都(成都市区)の人。字は仲桓。『夏侯尚書』を家学とし、図讖・河洛・天文にも通じて名手と称された。 大将軍ケ隲を「輔星に応ぜず」と判じて罷免されたが、ケ太后の死後に召されて出仕し、災異・兵難は悉く的中したと伝えられる。 大将軍梁冀との交際を避けて致仕し、郷里での門弟は数千人に達した。

馬日磾
 字は翁叔。馬融の族子。 夙に博識を讃えられ、光和年間(178〜183)に蔡邕楊彪・韓説・盧植らと東観で五経を校し、『漢記』を補続した。 三公を歴任して初平3年(192)には太傅・録尚書事とされたが、まもなく太僕趙岐と倶に山東招撫の名で京師を逐われた。 寿春では袁術に節を奪われ、合力を拒んで客死した。

樊陵  〜189
 南陽の人。字は徳雲。嘗て李膺に人品を蔑まれて面謁を拒まれたことがあり、宦官に阿附して太尉に至ったことで士大夫から毀議された。何進暗殺の直後に司隷校尉とされ、宮中に乱入した袁紹に殺された。

許相  〜189 ▲
 太尉許訓の子。司徒許敬の孫。宦官に阿附して中平元年(184)より三公を歴任し、再従弟の許劭からは通交を拒絶された。何進暗殺の直後に河南尹とされ、宮中に乱入した袁紹に殺された。

傅燮  〜187
 北地霊州(寧夏霊武)の人。字は南容。 黄巾討伐では左中郎将皇甫嵩の司馬として「功は冠たり」と称されたが、宦官を劾奏して安定都尉を罷免された。 辺章・韓遂の乱では司徒崔烈棄西策に駁し、趙忠との反目もあって漢陽太守に出された。 当時、涼州は刺史耿鄙が治中程球に委任して政務が紊乱し、中平4年(187)に耿鄙・程球が王国・韓遂に敗死すると冀県に攻囲され、退去を求める賊の叩頭を拒み、子の傅幹の再起の勧進を斥けて城外で戦死した。

孟佗
 扶風の人。字は伯郎。資産家で、張譲の奴僕への贈与を吝しまず、後に報恩を求められると門前での諸奴の一拝のみを求め、これを視た張譲の訪客は孟佗と張譲の親交と解して争って珍玩を贈り、孟佗はこれを張譲に分贈して涼州刺史とされた。
 子の孟達は後に劉備に従い、ついで魏に転じて新城太守に至った。

陽球  〜179
 漁陽泉州(天津市武清区)の大姓。字は方正。 厳獅ナ“の術”を好み、母を侮辱した郡吏の家を少年数十人で滅ぼして名を顕した。 理姦の才を認められて難治の長吏を歴任したが、厳苛を弾劾されて度々罷叙された。
夙に中常侍曹節・王甫の専断を慨歎し、光和2年(179)に司隷校尉とされると王甫と太尉段熲の刑誅に成功し、曹節の収捕を公言して憚らず、曹節の進言で衛尉に昇せられて警察権を喪った。 中常侍程璜の娘を側妾としており、そのため鏖閹の謀が漏れて司徒劉郃・永楽少府陳球らと倶に刑戮された。

楊賜  〜185
 字は伯献。楊秉の子。 家学を伝えて建寧年間(168〜172)に『尚書』を侍講し、熹平5年(176)には司徒に至ったものの、党人を挙用して罷免された。 光和元年(178)に嘉徳殿に虹が堕ちると、議郎蔡邕と与に宦官の放恣を挙奏し、蔡邕は朔方に謫されたが、楊賜は帝師の故に不問とされた。 以後も三公を歴任し、黄巾軍挙兵の直後に霊帝の人事を切諌して罷免されたが、後に劉陶に張角捕縛の策を示したことが顕れて臨晋侯とされ、中平2年(185)には司空に復した。

劉陶  〜185 ▲
 潁川潁陰(許昌市区)の人。字は子奇。西漢の淮南脂、の子/済北貞王勃の裔。 経書に精通し、今古の『尚書』を対比是正して『中文尚書』を著したが、貧賎を問わない交際と小節に拘泥しないことで誹議された。 長吏としては果断で姦猾を覆滅し、後に侍御史となって太尉楊賜に信任され、楊賜の定めた張角捕縛の策を上疏したことで、後に先見を賞された。天下騒乱の原因を宦官に帰し、治世に妖言を為すと誣罔されて獄死した。

陳耽  〜185 ▲
 東海の人。三公を歴任して光和5年(182)に罷免されたが、同年に太尉許戫・司空張済が辺遠の清吏26人を姦悪として糾察すると、議郎曹操と与に訟冤した。しばしば宦官の放恣を挙奏したことで誣罔され、劉陶と倶に獄死した。

李燮  135〜
 字は徳公。李固の少子。李固の禍で徐州に亡命し、大赦の後に議郎に叙された。 梁氏への怨言を口にせず、亦た荀爽賈彪の不和に拘泥せず斉しく接して讃えられた。 黄巾の乱の後に河南尹に進み、在任2年で歿した。
 他者の過失に言及することはなかったが、帰京途上の甄邵に遭った際には笞鞭乱打し、背に「諂貴売友、貪官埋母」と大書したという。

甄邵  ▲
 潁川の人。権勢に阿り、梁冀に忤って来奔した同歳生を詐り匿った後に密告した。 亦た叙任と母の喪が重なった際に、屍を厩に埋めて受任した後に喪を発した。

劉翼
 蠡吾侯。河間孝王の子。元初6年(119)に平原王に紹封されたが、安帝が親政するやケ氏との通謀が誣されて都郷侯に貶され、永建5年(130)に蠡吾侯(河北省蠡県)に分封された。
 死後、梁冀の妹婿に擬された嗣子のが即位すると仲子の碩が平原王に紹封され、少子のか蠡吾侯を襲封した。

劉悝  〜172 ▲
 蠡吾侯。桓帝・平原王碩の弟。 桓帝が即位すると蠡吾侯を襲封し、翌年には渤海王に紹封されたが、延熹8年(165)に謀逆を挙奏されて廮陶王(河北省寧晋)に貶された。 中常侍王甫に銭5千万の贈与を約して復爵を求めたが、桓帝の遺詔で渤海王に直されると約定を反故とし、そのため謀叛を流言されて自殺した。

宋皇后  〜178 ▲
 扶風平陵の人。章帝の宋貴人の族孫。 建寧4年(171)に皇后とされたが、寵幸がなく諸姫に毀譖された。 渤海王悝の叔母だったことから王甫らに巫蠱を誣罔され、光和元年(178)に廃されて暴室で殺された。

劉寛   120〜185
 弘農華陰(陝西省渭南市)の人。字は文饒。司徒劉崎の子。経書の他に星官・風角・算暦を究め、通儒と称された。 吏二千石を歴任し、争事を厭って恩仁公明と称され、刑治主義を否定し、吏人への咎罰は蒲鞭を加えて辱を示すのみだったと伝えられる。 盥浴を好まないなど礼節に欠ける点があったが、長者と評されて二度にわたって太尉とされた。
 一日、夫人が試みに朝服に羹を覆させたところ、劉寛は自若として侍婢の手の爛傷を問うのみだったという。 黄巾の乱に先んじて張角の謀叛を警鐘したことを嘉されて郷侯に封じられ、死後に車騎将軍・位特進が追贈された。

劉矩
 沛国蕭(安徽省宿州市)の人。字は叔方。太尉劉光の甥。 名節を重んじ、大将軍梁冀に阿附せず致仕したが、後に九卿を歴任して延熹4年(161)に太尉に至った。 司空黄瓊・司徒种ロと同心して賢相と称されたが、災異の頻発で罷免された。 霊帝の初に太尉とされると、専ら帝旨への従順で重任された。

劉猛
 琅邪の人。桓帝に直言を忌まれて致仕し、霊帝が即位すると太傅陳蕃・大将軍竇武に任用された。 後に司隷校尉に進み、竇太后の死因を宦官に帰す朱雀門(北宮南門)の諷書の追求を急がなかったことで、中常侍曹節らに誣されて罷免された。後に尚書令に進み、桓彬に対する劾奏を上達しなかったことから阿党と誣告され、免官禁錮に処された。

桓彬  133〜178 ▲
 字は彦林。桓焉の兄の孫。 蔡邕と声名を斉しくしたが、中常侍曹節に阿附しなかったことで酒党と誣告されて罷免された。

盧植  〜192
 涿郡涿の人。字は子幹。鄭玄と倶に馬融に師事して古今の学に博通し、文武兼備として熹平4年(175)には九江太守とされて叛蛮を鎮撫し、又た南夷の叛でも廬江太守とされて清廉公正を称された。 程なく議郎に転じて馬日磾蔡邕楊彪・韓説らと『漢記』補続に参与した。 中平元年(184)に黄巾が挙兵すると北中郎将を拝して広宗に張角を攻囲したが、宦官に枉陥されて減死に処され、後に車騎将軍皇甫嵩の薦挙で尚書に復した。大将軍何進の進める外将召集を強諫し、入京した董卓の少帝廃黜に抗った際には蔡邕の仲介で罷免に処され、上谷に隠棲した。
 子の盧毓も学行を讃えられ、魏に仕えて侍中・吏部尚書に至った。

 
 
 

雑感

 霊帝の即位について考えてみました。考察という程のものではなく、所謂る“チラ裏”です。
霊帝は河間王家の傍流の、ほんの亭侯に過ぎません。同門の桓帝との血縁も濃くはなく、中央との太いパイプがあった形跡も見えません。それが何故、一天万乗の君に選ばれたのか。霊帝の治世を知っている側としては、「選りにもよって」としか云いようがありません。

漢家の事情

 乱暴な言い方をすれば、光武帝の直系は和帝の死で事実上絶えました。 次の殤帝は和帝の嗣子ですが、実際に東漢の系図を書いてみると、章帝の後ろで見事に拡散しています。面倒なので図画はしませんが(笑)
 章帝の子には和帝の他に、千乗貞王、清河孝王、済北恵王、河間孝王、ほか数名がいます。

千乗王家
 千乗貞王は和帝の庶長兄にあたります。 三代目が渤海国に転封されながら一代で絶え、河間王家から迎えられた継嗣も一代限りでした。 又た三代目の弟は清河王家を嗣ぎ、その子が反梁冀の旗印とされた劉蒜です。千乗系清河王家もここで取り潰されました。

清河王家
 清河孝王は実質的に和帝の嫡長兄です。母親が貴人という意味でも、元皇太子という意味でも。 和帝に最も頼られ、竇憲誅殺にも参与して、その後も和帝が死ぬまで京師に留まっています。 和帝ブラコン説確定です。二人が並んだら背景は薔薇の花でなければならない(笑)、それくらいベッタリです。
 竇氏がいなければ天子になっていた筈の人。 尤も、和帝と前後して病死していますし二代目で断絶していますから、大勢に影響は生じなかったことでしょう。
 清河王家はその後、千乗王家、ついで河間王家から継嗣を迎えて甘陵国と名を易え、漢末まで存続します。 章帝の諸子で、断絶の度に紹封が行なわれたのは清河王家だけです。存続に対する中央の執着が伺えます。

済北王家
 閻氏に担がれた北郷侯の他は影が薄く、他家との紹迎も無く、王家としては淡々と漢末まで続きました。 初代の寿命に限って云えば、この人が皇継すれば良かったかとも思えます。

河間王家
 河間孝王は済北恵王の実弟です。生母は申貴人。章帝諸子の実質的な勝者です。 嗣子のほかに平原王・安平王が立てられ、蠡吾侯や、解涜亭侯ら13亭侯なども記録に残されています。 三代目の世代で蠡吾侯家から桓帝が出ていますし、渤海王家や清河王家も嗣いでいます。 桓帝が即位した時点で章帝系で残っている王統は、済北王家と河間王家だけです。申貴人ナイス(笑)

■ なんちゃって家系化 ■
4.和帝…章帝の子  5.殤帝…和帝の子/章帝の孫。
6.安帝…清河孝王の子/章帝の孫  8.順帝…安帝の子/章帝の曾孫  9.冲帝…順帝の子/章帝の玄孫
7.少帝…済北恵王の子/章帝の孫
10.質帝…渤海孝王の子=千乗貞王の血統/章帝の玄孫
11.桓帝…蠡吾侯=河間孝王の血統/章帝の曾孫
 12.霊帝…解涜亭侯=河間孝王の血統/章帝の玄孫  13.少帝…霊帝の子  14.献帝…霊帝の子

 皇子継承が不可能になって、皇統はまず清河王家、ついで河間王家に移っています。 選択肢が河間王家しか無くなっていたというのが正しいかもです。済北王家にはまことにスマンですが。
 問題は桓帝と霊帝です。質帝までは王子でした。それが桓帝からは王孫です。劉蒜の件で嗣王から迎えるのは止めようとなったのかもしれません。 まあ、桓帝はまだ理解できます。 たかが県侯とはいえ、父親は一度は平原王を嗣ぎ、閻氏に叩かれた経緯がありますから、人気取りとして立てられる理由にはなります。

 では、大家族の河間王家から、何故霊帝?となります。 霊帝を出した解涜亭侯は、初代河間王から出た13亭侯の1つ。県侯のさらに格下で、競争相手が12家以上。桓帝が歿した時点で何家残っていたのかは不明ですが。 幼少の天子が迎立されるのは、まず百パー京師の大人の都合です。そうでない例があったら教えてくれ(笑)

竇武の事情

 『後漢書』では、霊帝迎立は竇武の主導のように書かれています。 党錮はいったん手打ちになっています。時の三公は事勿れ主義の胡広と良識派っぽい周景と誰なんだ宣酆 (良識派っていうのは、ほどほどの妥協点を弁えている、自発的には悪事を働かない人です)。 まあ、宦官のゴリ押しではなさそうです。
 竇武が河間出身の侍御史の劉鯈に現地情報を尋ねたら、劉宏さんが賢いようだと云われたそうな。 劉鯈は守光禄大夫として河間に劉宏を迎えにも行っています。この時に劉宏に陪乗したのが曹節
劉鯈は後に竇武の腹心として殺されますが、宗室であること、弟の劉郃が生き残って司徒にまで進んだこと以外はほぼ不明です。 まあ、劉鯈に尋ねた時点で河間王家からの選出が前提だったということですね。

 竇武と解涜亭侯との縁故は、『後漢書』を読む限りでは探れません。そもそも、解涜亭侯家についての記載が少なすぎます。 霊帝の生母の董氏との繋がりも無さそうです。 時に霊帝は数えで13歳。幼君とはいえない多感なお年頃。 おそらく、暴君・暗君と化す可能性がなく、宦官にも反対されない、自己主張の乏しそうな人物を選んだのでしょう。 どことなーく、唐高宗長孫無忌の関係にダブる印象です。

 ただ、当時の竇武の立ち位置が実はハッキリしません。 桓帝の歿した時点では、皇后の兄であること、城門校尉であること、党獄緩和を助言したくらいしか情報がありません。 ご先祖の失態を反省して、、、という謹慎さは伝わってきますが、宦官に対する反抗意識は稀薄に感じられます。
 他人の強い勧めで漸く党人の釈放に動いた点を見ると、外戚と士大夫の嵌まらなさというか、相性の良くないことは意識していたんでしょう。 党錮でも洞ヶ峠を決め込むつもりだった雰囲気が漂います。

 そんな竇武の心境を測ると、皇后とはいえはもともと宦官受けが良くはなく、しかも士大夫を手助けしてしまった。 宦官からの好感度ポイントはもうマイナスよ!って感じで、何らかの対抗措置の必要性は感じていたんでしょう。 ひょっとしたら、そんな危機感を煽ったのが劉鯈かもしれません。 耳打ちついでに、「伝統の河間王家から幼君を迎えて政治の流れをこちらへ向けましょう。解涜亭侯なら宦官も警戒しませんよ」とか。

 霊帝擁立が実は宦官の根回しの結果だったと結論するつもりが、やはり竇武主導になってしまいました(笑)。

士大夫の事情

竇武つながりで、劉郃について。
 劉郃は、建寧の獄の最中の王甫誅殺の首魁です。実際にどの程度の主導権があったのかは知りませんが、当時は司徒でした。 そして、竇武の腹心として殺された劉鯈の弟です。
宦官に真っ向噛みついた兄の死後十年足らずで、宦官の執権中に弟が三公に昇ったというのは、兄弟の不和が公然のものだったのでしょう。 でなければ、いくら宗室とはいえ、党錮の「累は五属に及ぶ」措置との格差が説明できません。弟が兄の仇を討ったなどという美談は笑止です。

 実は劉郃、詳しい経緯は不明ですが、反宦官の蔡邕と不和でした。人事の拗れが原因だそうです。 蔡邕の叔父の衛尉蔡質は将作大匠陽球と不和で、蔡邕の減死配流は、陽球の婿の中常侍程璜に枉陥されての事です。
この時点では、劉郃派の実働部隊長となる陽球と、陽球らをチクることになる程璜がつるんでいます。 案外、陽球らがターゲットを曹節派に絞っていれば、計画は成功していたのかもしれません。

 ともかく、劉鯈も劉郃も士大夫派ですが、反目しています。劉郃と不和だった蔡邕が劉鯈系かというと、そうでもなさそうです。 前年に宦官を劾奏した楊賜も、今回は沈黙しています。
士大夫派は反宦官としても結束しきれないようで、党錮がただの党争の産物だと指摘される所以でもあります。

△ 補注:東漢

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