▽ 補注:東漢

匈奴  鮮卑    荊南  南中  西域  
 

朔漠

 漢の中興直後の朔漠は、王莽の異民族政策で離叛した匈奴が往時の勢力を回復させていたが、1世紀半ばには南匈奴の離叛と天災の続発で弱体化し、東方で隷属していた烏桓・鮮卑が抬頭した。 殊に鮮卑北匈奴の西遷で漠南に進出して執拗に中国に入冦し、2世紀には檀石槐によって統合が果たされ、その死後は分裂したものの、以後長らく中国の北方の脅威として存在した。
匈奴

比(日逐王)
 烏珠留単于の子。呼韓邪単于の孫。薁鞬日逐王として南辺と烏桓を領した。 季叔の呼都而尸道皐単于が左賢王伊屠知牙師(王昭君の子)を殺して兄弟相続を反故としたことで対立し、又た連年の災異に漢が乗じることを畏れて漢に内附し、翌建武23年(47)には領下の8部5万人を以て五原に詣降して呼韓邪単于を称した。
建武26年(50)には西河の美稷(准格爾旗)に牙庭が置かれて使匈奴中郎将が常置されるようになり、代郡と、旧朔方部の五原・北地・朔方郡、幷州の雁門・雲中・定襄郡の北辺諸郡には匈奴の偵候が配された。

安国 〜94
 単于の甥。永元5年(93)に単于となった。 当時の南匈奴は北匈奴からの新降者を受容して34千戸・24万人余を擁したが、族子の師子の声功を忌み、師子を憎む新降者と結んだ。 加えて使匈奴中郎将杜崇とも不和で、杜崇に与した行度遼将軍朱徽に誣されたことで叛し、程なく討伐に敗れて舅の骨都侯に殺された。
 杜崇・朱徽は匈奴の和を損なったとして永元7年(95)に誅された。

師子  ▲
 単于の嫡孫。勇黠多智と称され、東漢の北伐に従って累功があり、竇憲の北伐では北単于を大破して和帝にも名を知られたが、北匈奴の新降者から怨恚され、単于安国にも声功を忌まれた。 永元6年(94)に安国に伐たれると曼柏の度遼営に奔って単于に立てられた。

逢侯  ▲
 単于師子の従弟。単于安国に従った新降15部20万に擁立されて師子と対立し、行車騎将軍ケ鴻・行度遼将軍朱徽・護烏桓校尉任尚らに敗れて塞外に遁れた。 永元8年(96)に左部が朔方郡に降った後は南匈奴・鮮卑に伐たれて窮乏し、元初5年(118)に朔方に詣降した際の従騎は百余騎に過ぎなかった。


 単于師子の従弟。師子を嗣いで単于となった。 永初3年(109)に入朝した後、漢人の韓jの奨めで関東の水害に乗じて使匈奴中郎将耿种を攻囲したが、行車騎将軍何煕・行度遼将軍梁慬に討たれ、使匈奴中郎将龐雄に詣降して赦された。 この頃には南匈奴は鮮卑に劣勢を強いられ、亦た漢の徴発が増加して新降の背叛が相い次いだ。

吾斯  〜143
 匈奴左部の句龍部の大人。 永和5年(140)に句龍王車紐・右賢王らと叛して朔方・代郡を席捲し、度遼将軍馬続らに敗れたものの、大将軍梁商の避戦策によって甦勢した。 車紐を単于に立てて烏桓・羌とも呼応して北辺を寇掠し、朝廷は西河郡を離石(山西省)に、上郡を馮翊の夏陽(陝西省韓城)に、朔方郡を五原郡内に徙した。
車紐が帰降した後も烏桓と結んで寇鈔を続け、漢安2年(143)に購募によって暗殺されると、呼応していた烏桓70万余口も北辺に詣降した。
 吾斯の乱は単于の威信低下を露呈したもので、吾斯の平定後に立てられた兜楼儲は諸単于との系累も不明な在京の質子で、単于の威信はさらに低下した。

居車児  ▲
 兜楼儲の次に立てられた単于。左薁鞬部や沮渠部が鮮卑の檀石槐に呼応して大挙離叛し、北中郎将張奐に無能と奏されたが、廃黜は猶予された。

羌渠  〜188
 光和2年(179)に立てられた。 薄賞な漢の外征に諾従したことで怨恚され、張純・張挙の討伐に応じたことで右部の休屠種ら10余万人が離叛して敗死した。
 離叛した右部は漠南で骨都侯の須卜氏を立て、以後も合議制を保って単于の帰還を認めなかった。

於扶羅  〜195 ▲
 羌渠の嗣子。霊帝死後の朝廷の混乱で匈奴の内訌を求訴できず、白波黄巾に合してしばしば河内を鈔掠し、河東で客死した。

去卑  ▲
 於扶羅を嗣いだ呼廚泉に右賢王とされ、献帝の東帰を護衛した。 建安21年(216)に曹操に詣謁した呼廚泉が鄴に留められると、監国とされた。


鮮卑

 往古の東胡の一派。南匈奴の離背によって匈奴が弱体化すると、建武30年(54)に初めて東漢に朝貢した。 永平年間(58〜75)に遼東太守祭肜の招降に応じて烏桓を伐ち、これより青・徐州が烏桓・鮮卑のための賞資を供し、歳費2億7千万が規定額とされた。
 北匈奴の西遷に伴って漠南に進出し、遼東に残留した匈奴10万余落を併せて強勢となり、安帝の時代には東漢が西羌問題に忙殺されたこともあって烏倫・其至鞬が頻りに中国に入冦し、118年に上谷の軍屯と度遼営の増強が行なわれた後も猛威は衰えなかった。
 桓帝の頃には諸大人を帰服させた檀石槐が匈奴の往勢を再現し、鮮卑を東・中・西に三分してほぼ連年中国の北辺に入冦するようになり、又た世襲思想の萌芽も確認できるが、檀石槐の嗣子の和連は輿望に欠けて衆の半ばが従わなかった。 和連が霊帝の末に北地郡を劫掠中に戦死すると甥の魁頭が仮主となり、和連の子の騫曼と権を争って諸部の自立が進行した。
  ▼
 漢末には魁頭の弟の扶羅韓と歩度根の兄弟が対立し、代郡烏桓を併せて抬頭した軻比能が中部を統べて最も強勢となり、左翼(東部)に影響力を残す歩度根は魏の支援を受けつつ軻比能に抵抗した。 魏は帰属した鮮卑大人を王に立てて招撫したものの、明帝の避戦策で塞外に対する影響力は後退し、233年には歩度根の離背をもたらしたが、歩度根と軻比能が相次いで歿した事で小康状態となった。

其至鞬
 遼西鮮卑の大人。永寧元年(120)に度遼将軍ケ遵に詣降しながらも翌年には叛き、頻りに代郡・雲中郡を侵して太守を敗死させ、度遼将軍耿夔・幽州刺史龐参に撃退された。 延光年間(122〜125)には南匈奴を攻めて薁鞬日逐王・斬将王を敗死させ、陽嘉年間(132〜135)に歿するまで北辺の大患であり続けた。

歩度根
 鮮卑大人。檀石槐の孫。和連の甥。 兄の魁頭を嗣いで大人となったが、次兄の扶羅韓と対立して軻比能と結び、曹操が烏桓を大破した後に護烏桓校尉閻柔を通じて曹操に帰順した。
 檀石槐が扶羅韓の部衆を奪ったことで対立し、護烏桓校尉・領護鮮卑校尉の田豫に詣降して王とされ、東部の鮮卑左翼にも影響力を保ったが、軻比能との攻伐で弱体化して224年には幷州への内遷が認められ、軻比能に従っていた扶羅韓の子/泄帰泥を招降して北防を任とした。 233年に軻比能と呼応して北奔したが、ほどなく軻比能に殺された。

泄帰泥  ▲
 鮮卑大人。歩度根の甥。父の扶羅韓を殺した軻比能に従って厚遇されたが、魏に降った歩度根に説かれて離背した。 233年に歩度根に従って魏に叛いたが、驃騎将軍秦朗に伐たれると魏に帰降し、帰義王とされて幷州に居した。

軻比能
 鮮卑大人。微弱な帳落の大人だったが、智勇と公明によって輿望を集め、又た長城近くに拠ったことで袁紹の支配を逃れた漢人を多く受容し、武具の製造や文字・軍制などを学んだ。 はじめ歩度根に従って曹操に降り、代郡烏桓の帰属を争った扶羅韓を謀殺してその部衆を併せたことで歩度根とも対立し、驍騎将軍曹彰に討たれて帰順すると220年に附義王とされ、漢人を返還して交易が認められた。
 騎射兵十余万騎を擁し、以後も歩度根や素利ら左翼鮮卑と攻伐して224年には護鮮卑校尉田豫に伐たれ、輔国将軍鮮于輔の仲介で和したが、228年にも再び田豫と衝突した。 233年に歩度根を魏から離背させて幷州兵を撃退し、叛服定まらないことを憂慮する幽州刺史王雄に暗殺された。

 

蹋頓  〜207
 遼西烏桓の大人/丘力居の甥。 強盛と謳われた丘力居が初平年間(190〜193)に歿し、嗣子の楼班が年少だったことから仮主とされた。
 3郡の烏桓を総摂し、袁紹に与して公孫瓚を伐ち、難楼・蘇僕延・烏延らと並んで袁紹から単于とされたが、後に楼班が大単于とされると自ら貶王した。 曹操に敗れた袁尚を保護したことから、建安12年(207)の北伐を招来して遼西の柳城(朝陽市区)で敗死し、20余万の烏桓が斬虜された。 袁尚と遼東に奔った楼班・烏延らは皆な太守の公孫康に斬られ、余衆万余落は悉く塞内に徙された。

 
 

西羌

 漢での族の別称。 漢では伝統的に、隴山を以て羌族を西羌と東羌に大別し、西羌でも三河(黄河・湟河・賜支河)の沃野に拠った羌種が最も強盛となって中国に激しく抵抗した。
 羌族の習俗は匈奴にほぼ同じく、子は父の名の一字を継ぎ、しばしば豪酋の名を以て部種の名を易えた。
先零羌
 東西両漢を通じて最も勢力のあったの部種。 河西四郡の設置後は三河(黄河・湟河・賜支河)方面に退いたものの、三河を漢と争って金城郡を寇掠し、趙充国に討破された。 漢の中興後も隴右を侵し、建武11年(35)に臨洮で隴西将軍馬援に大破されて天水・隴西・扶風に徙され、焼当羌の滇良に三河を逐われて東遷した。
 永元13年(101)に焼当羌の迷唐が平定された後、降羌に対する吏民の過重な徭役は、永初元年(107)の西域遠征への徴発によって諸羌の叛抗を促し、先零羌の滇零を中心とする未曽有の大乱に発展した。 羌族の大乱は零昌の死を以て元初4年(117)に終息したが、軍費は240余億に達し、「府蔵は空缺し、辺民の死者は数を知らずして幷・涼は虚耗」した。
  
 零昌の平定後も諸羌の散発的な叛抗は絶えず、順帝の世の幷州刺史来機・涼州刺史劉秉の酷政に対する叛抗は、永和6年(141)に征西将軍馬賢を敗死させて東西両羌の連和を招き、安定・北地郡が再び関中に徙され、永憙元年(145)に5万余戸が来降してようやく沈静化した。
桓帝の世に再び活発化し、皇甫規張奐段熲らによって鎮圧されたが、中平元年(184)にも湟中胡の北宮伯玉らと叛き、隴道を途絶させた。
 羌族の叛乱の頻発と長期化・拡大は、将兵の功利主義と吏民の虐奪の他に内地に徙された同族の呼応があった為で、降胡徙民が続けられた結果、関中の半ばは異民族という状況をもたらし、後の西晋ではしばしば徙戎策が論じられた。

滇零  〜112
 先零羌の渠帥。 永初元年(107)に漢の過重な徴発に抵抗して挙兵し、東羌諸種のみならず焼当羌の麻奴ら西羌諸種も呼応して大乱に発展した。 叛羌の武器は竹竿木枝に過ぎなかったが、郡県の兵は畏懦して戦わず、車騎将軍ケ隲・征西校尉任尚・従事中郎司馬鈞を相い次いで大破し、滇零が北地で称帝すると武都羌や漢陽の漢人/杜季貢らも呼応した。
 諸羌は三輔を冦掠して一時は趙・魏に達し、永初5年(111)には隴西郡治を襄武(甘粛省隴西)に、安定郡を扶風の美陽(咸陽市武功)に、北地郡を馮翊の池陽(咸陽市陽)に、上郡を馮翊の衙(渭南市白水)に内徙させた。

零昌  〜117 ▲
 滇零の子。狼莫が立てた少主で、丁奚城(寧夏霊武)の杜季貢らと提携して馬賢・侯覇・龐参ら護羌校尉と攻伐した。 元初2年(115)には丁奚城で行征西将軍司馬鈞らを大破したが、翌年に度遼将軍ケ遵と南匈奴が参戦してより劣勢となり、元初4年(117)に購募によって暗殺されて未曽有の大乱はほぼ制圧され、翌年には狼莫も平定された。

焼当羌
 西漢では概ね弱小で、元帝代までは研種・研羌と呼ばれた。 建武年間に部酋の滇良先零羌から三河(黄河・湟河・賜支河)を奪ってより強盛となり、漢に対しては叛服を繰り返した。 滇良の曾孫の迷唐の起した叛乱は諸羌にも拡大したが、楡谷(海南河曲)を漢と争って微弱となり、永初元年(107)に始まる先零羌の大乱が収束すると漢に帰順した。

滇吾
 焼当羌の渠帥/滇良の嗣子。大楡に拠って西羌を統べ、中元2年(57)には隴西・金城を席捲して守塞の羌の多くが呼応したが、翌年に中郎将竇固・捕虜将軍馬武らに西邯(青海省化隆)で大破され、7千余口が三輔に徙された。 永平2年(59)には子の東吾を伴って漢に降り、塞内に徙された。

迷吾  〜86 ▲
 滇吾の子。漢に降った父兄に従わずに諸弟とともに抵抗を続け、建初2年(77)に金城太守郝崇・護羌校尉呉棠を破って隴西・漢陽に寇し、行車騎将軍馬防・長水校尉耿恭に大敗して詣降した。 元和3年(86)に復た叛し、護羌校尉傅育を敗死させたものの、護羌校尉張紆の招降に応じて宴席で酋豪8百余と倶に殺された。

迷唐  ▲
 迷吾の子。 漢に謀殺された父の報復を宣し、諸羌と結盟して漢と楡谷(海南河曲)を争い、勢いは“熾盛”と称されて、護羌校尉は迷唐との一勝敗を以て頻りに改罷された。 永元9年(97)に行征西将軍劉尚らに伐たれて倶に疲弊し、漢に帰降した時に随う部衆は2千に満たなかった。 12年(100)に塞内移住が認められなかったことで再び叛いたが、翌年には金城太守侯覇に大破され、西奔の末に病死した。

麻奴
 東吾の子。滇吾の孫。 父に従って安定に徙されていたが、永初元年(107)に西域遠征の為の徴兵が行われると塞外に奔り、先零羌の叛乱に呼応した。 先零羌の平定によって漢に帰降したものの、護羌校尉馬賢の待遇を不服として建光元年(121)に再び叛き、当煎羌・先零羌らが呼応したが、累敗して翌年には漢陽太守に帰降した。

湟中胡
 大月氏の余裔とされる小月氏の1種で、張掖・酒泉に拠っていたものが、月氏の西奔後に匈奴に圧され、南下して諸羌と雑居したもの。湟中・令居に分散して兵力は万に満たなかったが、寡兵能く西羌を拒ぎ、漢と羌との抗争では概ね首鼠両端した。 焼当羌の迷唐と対立すると、護羌校尉ケ訓によって城中に保護され、これを恩として供出した精鋭数百は世に義従胡と称され、しばしば征旅に従った。
  
 湟中胡は黄巾に乗じた北宮伯玉に従って中平元年(184)に叛き、先零羌や金城の辺章・韓遂ら漢人大姓とも結んで護羌校尉伶徴・金城太守陳懿を攻殺し、隴右を寇乱した。

 

荊南

武陵蛮(荊蛮)
 犬戎の渠帥を討った高辛氏(堯?)の飼犬と、高辛氏の娘との裔とされ、もとはを含む荊湖地方の先住民を指して荊蛮と呼んだが、楚の抬頭と共に湖南の蛮を総称するようになり、漢が武陵郡を置いたことで武陵蛮と呼ぶようになった。
 荊蛮は帰順者として一定の自治が認められ、租賦も減免されたが、農耕に適した風土は漢人の侵略的開拓を促し、長吏らの過重な雑徭もあってしばしば叛抗し、建武23年(47)には沅水上流の武溪で武威将軍劉尚を敗死させ、伏波将軍馬援の遠征も成功しなかった。 武陵蛮でも特に澧水水系(湖南省北西部)の澧中蛮・漊中蛮は不羈の民として知られ、その抵抗は長沙・零陵にも波及しやすく、州郡に対する断続的な抵抗は漢代を通じて続いた。
  
 荊蛮の叛抗は、永和元年(136)に漢人と同等の租賦が課されたことで再び活発化し、桓帝の永寿3年(157)の長沙蛮の叛抗には零陵蛮・武陵蛮が呼応しただけでなく、討伐に徴発された豫章兵の叛抗で更に拡大し、延熹3年(160)には荊州刺史劉度・謁者馬睦・南郡太守李粛が江陵から奔遁した。 この時は荊州刺史度尚が長沙蛮を鎮め、車騎将軍馮緄が武陵蛮を平らげたが、武陵蛮は還兵とともに桂陽・武陵を侵し、中平3年(186)にも挙兵した。

日南蛮
 日南郡は交趾部の最南(ユエ)に位置する。珍玩珠宝を多く産して漢人太守の収奪が常態化していたが、瘴癘の地として漢人の組織的進出は少なく、大規模な叛抗に至ることは稀だった。 永元12年(100)の象林での叛抗後は将兵長史が置かれた。
  
 順帝の永和2年(137)にも象林の区憐(区連)が数千人を率いて県城を陥し、遠征に徴発された交趾・九真兵が呼応して叛乱は交趾部全域に拡大したが、南中の乱平定で抜群の対応を示した張喬が交趾部刺史となり、九真太守祝良と共に購募と慰撫招降を併用して嶺南を平定した。
 以後も交趾部での叛乱は頻発し、永寿3年(157)の九真蛮の乱は延熹3年(160)まで平定されず、光和元年(178)の烏滸蛮の叛には交趾・合浦・九真・日南の蛮が呼応し、4年(181)に交趾部刺史朱儁によってようやく鎮定された。

 

巴蜀

巴蛮
 巴は主に四川盆地の嘉陵江水系を指し、巴蛮は殷代には漢水流域に進出して武丁・婦好にしばしば親征された。 建武23年(47)に叛いた南郡の潳山蛮は武威将軍劉尚に敗れて江夏に徙され、永元13年(101)に叛いた巫蛮も江夏に徙された。
 江夏でもしばしば叛し、光和3年(180)には廬江の黄穣と連結して4県を攻没したが、廬江太守陸康に平定され、中平3年(186)にも趙慈の叛に呼応し、南陽太守秦頡を敗死させた。

板楯蛮
 巴蛮の一派で、嘉陵江上流水系の渝水流域に住した。 天性勇勁と称され、漢高祖の関中平定に先鋒となったことで租賦を免じられ、これより板楯蛮と号した。 歴世で官軍の軍事に従い、永初年間(107〜113)には先零羌を撃退して神兵と称され、車騎将軍馮緄の武陵征伐や熹平5年(176)の益州夷の乱でも「勲功大にして其の精鋭当る可からず」と讃えられた。 吏民に迫害されて叛抗するようになり、しばしば討伐が行なわれたが、板循蛮の歴功と精強や、長吏の苛斂を以て諫止する者も多かった。

武都郡
 漢武帝の元鼎6年(B111)に広漢西部属国から分置され、涼州に属した。 風土は汶山郡に似て、氐人は主に仇池(隴南市西和県南郊)に依った。仇池は河池とも呼ばれ、四方壁立した天険の山上の池に由来する。 武都の白馬羌は王莽の末には隗囂に附し、後に光武帝に降った。

山郡
 漢武帝の元鼎6年(B111)に置かれ、宣帝の地節3年(B67)に蜀郡北部都尉とされた。 蜀郡の北西に接して6夷7羌9氐が住し、風土は畜牧に適して旄牛・名馬を産し、土を煮て塩を得たという。霊帝の世に復置された。

巴郡
 巴蜀四郡の1つ。蜀郡の東、漢中郡の南に接し、嘉陵江水系流域を治めた。 興平2年(195)に三分され、三江地方が巴郡、江州方面が永寧郡、三峡方面が固陵郡とされ、建安6年(201)に巴郡を巴西郡、永寧郡を巴郡、固陵郡を巴東郡と改め、東南の烏江流域は巴東属国とされて後に涪陵郡に改められた。

 巴郡関連の情報は『後漢書』と『華陽国志』で齟齬があり、基本的に『華陽国志』に依拠して判断しました。 又た両書とも巴郡の分割は“初平六年”とあり、初平は四年までのため元→六の誤記説が主流ですが、ここで敢えて仮想の初平六年(195)としました。 それは「劉璋と趙韙の合議の結果」とあり、劉焉の死が194年である事や、初平元年の時点で分割の原因が見当たらない事と、劉璋と張魯の関係の悪化が絡んでいると考えたからです。
又た201年といえば、趙韙造叛の年です。 既に張魯が“漢巴の雄”と称され、巴郡太守龐羲では張魯の南下を防げないことは明白になっているので、内乱に便乗するであろう張魯から巴地方の中枢の江州だけは確保する事と、「劉璋政権が巴郡を保持している」という事実が必要とされた結果として、江州地区が巴郡と改称されたのではないでしょうか。
 因みに『華陽国志』巴志では、巴郡分割について「初平六年に墊江(重慶市合川区)より上流を巴郡、(中枢部の)江州〜臨江(忠県)を永寧郡、以東を固陵郡に」、「建安六年(201)に巴郡を巴西郡に、永寧郡を巴郡に、固陵郡を巴東郡に改称し、涪陵地方に巴東属国を置く」、「劉備が巴東郡を江関都尉に替え、建安二十一年(216)には固陵郡とし、章武元年(221)に巴東郡に戻す」とあります。
『後漢書』地理志引用の譙周『巴記』では「初平六年に巴郡を二分して墊江で治め、安漢(南充市)以下を永寧郡に」、「建安六年に劉璋が巴郡を分け、永寧郡を巴東郡、墊江を巴西郡とする」とあり、『晋書』地理志梁州項の「初平元年(190)に臨江県によって永寧郡を建て」、「建安六年(201)に永寧郡を巴東郡に改め、巴郡の墊江を巴西郡として分離」、「巴郡から分けた宕渠郡を、後に巴西郡に併す」は『後漢書』に準拠したものらしいので、両正史は基本的に 「初平元年に巴郡から永寧郡を分置し、建安六年に巴西郡を新設して三郡が並立した」 という見解です。
 巴東郡の前身は固陵郡なのか永寧郡なのか、とか、固陵郡の本地は巴東郡なのか巴郡なのか、という問題があり、結局、巴郡の分割は劉璋の時代にスタートし、「巴」字を冠した三郡が章武元年に最終的に並立するまでの間、変遷の詳細は不明としか言えません。 張魯の巴郡進出に対応した龐羲の活動が、『三国志』なり『華陽国志』なりで語られていないのが残念です。

 
南中

犍為郡
 西漢の建元6年(B135)に、南粤遠征の前哨として、夜郎に隣接して四川盆地の南西部に置かれ、同時に中郎将唐蒙の説諭により夜郎王が漢に称藩した。 路の険隔と漢の徴発に対する反感から抵抗が続き、対匈奴との二面作戦を嫌う御史大夫公孫弘の建議で大きく縮小され、南粤の平定後に改めて4県が置かれた。

牂柯郡
 南粤の挙兵に呼応した且蘭の討平と、夜郎王の称臣を以て元鼎6年(B111)に夜郎の地に建てられ、故且蘭(黔南自治州福泉)を中心に貴州省方面を禦した。 益州郡と連動して乱れることが多く、河平2年(B27)には夜郎王興が叛いて平定されたが、王莽の王号貶爵で再び乱れた。

越雟郡
 西漢の元鼎6年(B111)に邛都夷の故地に置かれ、邛都県(四川省西昌)を中心に四川省南部、雅礱江流域一帯を禦した。 王莽の末に邛穀王によって一時的に独立した。
元初4年(118)の越雟夷の乱は南中全域に波及して蜀郡にも達したが、益州刺史張喬によって平定された。 乱後は故の越雟太守張翕の遺児/張湍が太守とされ、失政は多かったが、張翕の遺徳を慕う耆老が衆の叛意を鎮めたという。

邛穀王  〜43 ▲
 名は貴。任貴とも。越雟夷の渠帥。更始2年(24)に太守を殺して邛穀王を称し、はじめ公孫述に、後に岑彭を通じて光武帝に帰属し、王号を認められたまま建武14年(38)には越雟太守とされた。 19年(43)の武威将軍劉尚の益州夷討伐を猜疑し、叛いて敗死した。

益州郡
 元封2年(B109)に征服されたの故地に置かれ、雲南省方面を禦した。 東漢初に光武帝に降ったが、建武18年(42)に渠帥の棟蚕らが叛くと乱は越雟・犍為に拡大し、武威将軍劉尚によって21年(45)に平定された。
 熹平5年(176)の叛抗では棄地が議され、以後も叛服が絶えなかった。

永昌郡
 永平12年(69)に邑王77・戸52千・口554千を挙げて内属した哀牢夷の故地に2県を置き、益州西部都尉を併せて新設された。 雲南省西南部一帯を領し、当時の俚諺で「瀾滄(メコン上流)を渡れば他人と為る」と称された。 建初元年(76)には哀牢王類牢が県令との紛争から挙兵し、太守は雟唐(雲南省雲竜)から葉楡(大理)に奔り、翌年に昆明夷の支援で平定されたが、哀牢の地は事実上放棄された。

 

西域

 王莽による貶号から匈奴に従属し、光武帝の庇護拒否と匈奴の衰弱によって莎車が南道諸国を併せ、これより大国が小国を服併するようになった。 明帝は永平17年(74)に西域都護戊己校尉を復置したが、明帝が歿すると北匈奴と通じた焉耆亀茲車師が漢兵を一掃し、建初2年(77)には伊吾屯田も廃された。 大将軍司馬班超による西域南路の経略と大将軍竇憲による北伐の結果、永元3年(91)に西域都護府が亀茲に復置されて班超が都護とされ、車師の高昌壁(吐魯番市東郊)には戊校尉が置かれ、6年(94)の焉耆討破を以て50余国悉くが質子を通じた。 西域諸国は班超の召還と和帝の死で背叛し、永初元年(107)に都護府は再び廃された。
 元初6年(119)に敦煌太守曹宗が伊吾屯田を再興した後も敦煌に護西域副校尉を置くのみで出征は行なわれず、河西は北匈奴と車師の進出に苦しんだ。 西域将兵長史班勇の西征の結果、永建2年(127)には亀茲・疏勒・于闐・莎車等の17国が来貢したが、于闐による拘弥征服など漢の威令は班超の往時に及ばず、陽嘉年間(132〜135)以後は北匈奴の進出が強まった。 元嘉2年(152)の于闐による長史王敬の敗死、永興元年(153)の車師後王の離叛で西域経営は事実上放棄され、敦煌太守が間歇的に介入するに過ぎなくなった。

于闐
 ホータン。人口8万余。建武の末には莎車に征されていたが、永平3年(60)に将軍休莫覇が于闐王を称して自立し、その死後は甥の広徳が嗣いで莎車を滅ぼし、精絶以西の疏勒に至る13国を制覇した。 鄯善に次いで班超に降ってより親漢的で、南道の大国として重視された。
 永建4年(129)に拘弥国を征服し、陽嘉元年(132)に敦煌太守と疏勒の介入で拘弥に旧の王族が立てられてより両国は仇敵となり、元嘉2年(152)には拘弥王の誣告で于闐王が西域長史王敬に斬られた。 于闐人は王敬を殺して王子安国を立て、安国は熹平4年(175)に拘弥王を攻殺した。

莎車
 ヤルカンド。東は于闐、西は疏勒に接し、王莽の簒奪後も匈奴に従わず、天鳳5年(18)に立った王/康は河西大将軍竇融に通じて西域大都尉を称した。 建武9年(33)に襲いだ弟の賢は拘弥・西夜を征し、光武帝が西域都護復置を拒むと自ら都護を称して亀茲・鄯善を圧迫し、于闐を併せ、諸国の匈奴帰属をもたらした。 一時は大宛(フェルガナ)をも陥したが、賢が歿すると将軍休莫覇の拠る于闐が自立し、匈奴と結んだ亀茲・拘弥に伐たれて衰え、于闐に征服された。 明帝の死で漢が西域経営から撤退すると匈奴に支援された亀茲に征服され、元和3年(86)には匈奴によって賢の子が立てられたものの、程なく班超の後援もあって于闐の隷下に入り、後に疏勒に帰属した。

疏勒
 カシュガル。莎車の西北、盆地の西端に位置した。永平16年(73)に亀茲に征されて亀茲人の兜題が王に立てられ、冬には亀茲勢力を逐った班超が故王の甥/忠を立てたが、忠は後に莎車に呼応して叛き、佯降が露見して殺された。 元初年間(114〜120)には王位継承に月氏王が介入し、後に于闐に叛いた莎車が帰属したことで亀茲・于闐に伍す大国となった。

焉耆
 カラシャール。北道の亀茲と車師を結び、人口5万余。ボステン湖に臨み、亀茲・車師とは険扼を以て隔て、永平18年(75)に亀茲と結んで西域都護陳睦を攻没してより中国に頑強に抵抗したが、永元6年(94)に西域都護班超に大敗して尉犂・危須と同じく王が廃立された。
西域再征を進める西域長史班勇に尉犂・危須と倶に抗い、永建2年(127)に敦煌太守張朗に敗れて朝貢した。

車師
 トゥルファン。前後部に分れて父子が王となり、本土の交河城(吐魯番市西郊)に拠った車師前国は人口4千余、天山北麓の金蒲城(新疆奇台)に拠った車師後国は人口1万5千余。
北は匈奴に接し、永平16年(73)の伊吾拓屯以降は漢と匈奴に両属し、殊に後部は匈奴の至近に位置して叛服常ならず、漢軍の匈奴遠征に従っても漢兵が退くと匈奴に親しみ、敦煌太守の介入で王が廃立されることもあった。

 
 

棄西論
 羌族の叛抗に対し、東漢一代を通じて常に論じられた政策。 東漢では安帝以後、軍費賦役の過重と北防専一を理由にしばしば隴右を放棄する棄西論が議され、先零羌の大乱によって永初5年(111)に実行された際には多大な被害を伴った。 反駁者は、将産の地とされる隴右の離叛を危惧し、河西を“北胡の右臂”と称した武帝の故事や、長安の帝陵を戦場に晒す不孝を以て論じた。

兼官
 “行”は大官が小官を臨時に代行し、“守”は微官が高官を代行すること。“領”は兼務、“録”は総領。東漢以降に頻出する録尚書事は、三公などに尚書台を総覧させる事で宰相職を保障し、複数名の並置を常態とした。

経学
 儒家経典=経書の解釈学。漢代の経書は今文古文に大別される。
 秦の挟書律と楚漢の戦火の結果、諸子の学は口伝のみとなり、漢初に挟書律が廃されると、口伝は公文体(隷書)で著された=今文。武帝の代には董仲舒の建議で儒学の“五経”が定められ、それぞれに博士が置かれた。 隠匿されていた古文経伝が発見された後も今文のみが官学とされ、西漢末に劉歆が古文学の官学化を求めたことで両派の対立が生じ、王莽の秉政下では古文学が官学とされた。
 東漢では再び今文学が官学とされたが、経学の主流は古文学に移行しつつあり、白虎閣会議では今文学が官学として確認されたものの、在野では古文学の盛行が進み、討論の活性化は士大夫の広域的な共同体意識をも醸成した。官学とされた今文学は漢室の凋落と軌を一にし、永嘉の乱で多くの家学が断絶した。
 尚お、東漢の古文学は章句の解釈を追及する訓詁学で、今文学が一経専門・家学相伝を旨として極度に専門化したのに対し、古文学は六経兼修を理想とし、東漢後期には馬融鄭玄蔡邕に代表される著名な通儒を多く輩出した。

今文経伝  ▲
 漢の公文体(隷書)で記された経伝。武帝期に古文経伝が発見されて以降の用語。 諸国の文字で記された先秦の経伝が秦の挟書律で民間から一掃されると、儒家の多くは口伝によって学統を維持し、漢恵帝の世に挟書律が除かれると改めて今文で記述を行なったが、秦末・楚漢の戦火で官蔵の経伝も失われたために諸派の異同を正すことができず、官に於いても一経に複数の博士が立てられるに至った。
 東漢では、五経に対して14博士が立てられ、今文学は官学としての地位を保ったが、在野に於ける古文学の盛行に抗えずに王朝と衰亡を共にした。

古文経伝  ▲
 主に漢武帝の世に発見された、古文体(六国古文)で記された経伝。 魯恭王が孔子の旧宅の壁中から発見した『尚書』『礼記』『論語』『孝経』、河間献王が蒐集した『周礼』『尚書』『儀礼』『礼記』、毛亨・毛萇が伝えた『詩経(毛詩)』、民間の費直が伝えたとされる『周易(費氏易)』、劉歆が世に出した『左氏春秋』などが知られる。
 西漢末に劉歆が王莽の簒奪を正当化する為に古文経伝と讖緯を併用してより隆盛し、東漢では官学とはされなかったものの、在野で盛行して訓詁学による経典解釈法を確立した。 又た今文との差別化のために文字自体に意義を求めて古文字が重視されるようになり、許慎の『説文解字』は当時の古文学の主眼の在処を的確に示しているとされる。
 東漢の杜林が隴西で得たとされる“漆書古文尚書”は『今文尚書』と同じ29篇であることから、『今文尚書』を古文体で著したとする見解もあり、衛宏・賈逵・馬融・盧植・鄭玄らが注を施したのも“漆書”29篇に対してのみで、“壁中尚書”には注は行なわれませんでした。 又た古文・小篆・隷書を併記した魏の”三体石経”も“漆書”が基になっているようで、東漢後期の古文学が、字体からの解釈が主流となっていたことを窺わせます。

五経
 西漢で博士が立てられた、儒学の根本経典の総称。五経が儒家の経典とされた過程は判然としないが、孔子が礼を重んじていた事は自明であり、『論語』では既に『詩』と『書』が教材として言及され、「五十にして以て『易』を学ぶ」という一文も看られる。 『春秋』は『孟子』に於いて「孔子の著」とされ、『荀子』には五書を重んじる記述はあるが、ともに“五経”“六経”の語は現れない。
 東漢の五経博士は、『詩経』の斉・魯・韓、『尚書』の欧陽・大夏侯・小夏侯、『儀礼』の大戴・小戴、『周易』の施・孟・梁丘・京氏学、『春秋』(公羊伝)の厳・顔氏の学にそれぞれ立てられ、章帝の建初四年(79)には異同を整合するために白虎観会議が開かれ、“通義”が制定された。 又たこの頃は古文学が重視され、博士こそ立てられなかったものの、『古文尚書』『毛詩』『左氏伝』は諸派の学士に修学が命じられた。
 中央の最高学府たる太学が盛行するようになったのは、本初元年(146)に梁太后の詔で朝臣の子が就学するようになってからで、後には学生3万余を擁した。太学では章句の解釈よりも大義の通達を重んじる風潮に安んじて浮華に流れる者が多く、私学を正統化するために秘書閣に遣賂して漆書の経字を改竄する者すらあり、熹平4年(175)に解釈の統一と敷衍を目的に五経石碑が建てられた。
 6千余輌とも称された宮中の秘書経籍の多くは董卓の西遷で廃棄され、王允が収納した70余乗分も李傕らの騒乱で余さず焚蕩したとされる。 尚お、五経の順位は古文派では易が最上位に置かれ、書・詩・礼・春秋と続く。

五経石碑  ▲
 経書の解釈の統一と敷衍を目的とし、熹平4年(175)に太学門外に建てられた、官による経書の石刻碑。 清名のあった宦官李巡が、秘書の経書の改竄を憂えて勧進したことが発端とされる。 五官中郎将堂谿典・光禄大夫楊賜・諫議大夫馬日磾・議郎蔡邕ら当代の碩儒が、『詩経』『書経』『易経』『儀礼』『春秋』『論語』について経書を校訂し、書聖としても知られた蔡邕が丹書したことで、参観者の輿車は連日街路に溢れたと伝えられ、後進に大いに裨益した。

  • 『詩経』
  • 魯の申公が詁訓を施した『魯詩』、斉の轅固生の『斉詩』、燕の韓嬰の『韓詩』が東漢で博士を置かれた。 趙の毛亨・毛萇の『毛詩』は子夏から荀子を経て伝わったものと称し、鄭衆・賈逵・馬融ら古文派に重んじられ、鄭玄が『毛詩』をもとに著した『毛伝鄭箋』によって、官学の三家詩は駆逐された。
  • 『尚書』
  • 済南の伏生より同国の張生と千乗の欧陽生に29編が伝わり、欧陽生の曾孫の欧陽高が『欧陽尚書』を興し、張生の系統の夏侯勝から『大夏侯尚書』が、夏侯勝の族子の夏侯建から『小夏侯尚書』が興った。 又た孔子の旧宅の壁中から発見された『古文尚書』45篇を今文に直した孔安国は、以て“古文学”を唱えた。
     沛の桓氏が奉じた『欧陽尚書』は東漢の今文尚書では最も盛行したが、在野では『古文尚書』が喜ばれ、賈逵の訓と馬融鄭玄の注解によって一世を風靡した。
  • 『儀礼』
  • 高堂生門下の沛の慶普・梁の戴徳(大戴)から二家が生じ、戴徳の甥の戴聖(小戴)も一家を為したが、王莽の時代には今文にはない‘逸礼’39篇を含む『礼古経』56篇が官学とされた。 現行本『儀礼』は、鄭玄が古文『礼経』を以て今文の高堂本を校合したものとされ、鄭玄は自ら施注した『小戴礼記』『周官』と併せて“三礼”とする“鄭氏学”を行なった。
     尚お『小戴礼記』46篇は、礼経の注である『』から戴聖が選抜・編纂したものとも、戴徳の『大戴礼記』85篇から更に選抜したものともされる。
  • 『易経』
  • 漢の易学は天人相関説や災異説を用いて事象を解釈する預言的な象数易で、同門生の沛人施讎・東海の孟喜・琅邪の梁丘賀より三家が生じた。 又た東郡の京房から興った『京氏易』は、陰陽五行説との習合によって天文律暦にも対応し、その思想は三統暦にも衍用されて古文学の筆頭に数えられた。
     東漢では上記四家に博士が置かれたが、在野では東莱の費直から伝わる古文『費氏易』が抬頭し、馬融・荀爽の施注によって盛行した。 今文と古文の内容上の差異は殆どなかったとされる。
  • 『春秋』
  • 漢では『公羊伝』を以て正統とし、東漢の建武年間には尚書令韓歆・陳元らの奨めで魏郡の李封が左伝博士とされたが、群儒の批判から李封の死を以て廃された。 白虎観会議でも『左伝』の官学化は否決されたが、古文派の劉歆が唱えた漢火徳説の敷衍や、古文派の班固が編纂した『漢書』が公認されるなど、左伝学を含む古文学派の優位が大勢となっていた。

公主
 漢制では、皇女は県公主に封じられて儀杖は列侯と斉しく、大県の公主は三公に比し、長公主は藩王に准じた。 諸王の娘は郷公主・亭公主に封じられて儀杖は郷侯・亭侯と同等とされたが、東平憲王琅邪孝王の娘は章帝によって特に県公主とされ、亦た安帝・桓帝の妹も長公主として皇女と同じ儀杖が認められた。
 皇女公主の嗣子は母の封邑を以て列侯とされ、襲封も許されたが、郷侯・亭侯は一代限りが原則とされた。

鴻都文学
 鴻都門学生の総監。霊帝が全国から尺牘・楚辞・虫篆を能くする者を挙召して、光和元年(178)に洛陽の鴻都門に一種の芸術学校を建てたもの。 文学の楽松・江覧が佞倖の類であることと、太学・東観を正統の学とする見地から士大夫に誹謗された。

左校
 将作に属す部署で、主に木工を掌った。 石工・土工を掌る右校より軽労働であり、徒刑の一種として官僚が輸されることが多かった。

三互法
 両親と、婚家の出身の州郡での刺史二千石就任を禁じたもの。名族同士の婚姻が進展した東漢末には長吏の選任に支障を来すようになり、鮮卑・烏桓が活発化した霊帝の治世では久しく幽州・冀州刺史は空席となり、蔡邕が非常措置として同法の撤廃を建議したが、用いられなかった。

三統暦
 西漢末に劉歆が、従来の太初暦を補修した天体暦(天象の予測暦)。章帝の元和2年(85)まで使用された。 夏・殷・周の循環によって王朝交代を説明する“三統説”に則り、これに陰陽五行説や讖緯説を加えて諸現象を説明した。 前代の太初暦の音律理論を衍用して五声十二律や度量衡なども説明し、以後の中国の暦の思想の規範となった。

三雍
 天子のために設けられた、国の礼制の根本とされた明堂・霊台・辟雍の総称。 明堂は大廟とも称され、祭祀や大典の挙行施設。霊台は天文・気象の観測台。辟雍は礼楽教化の為の学場。王莽によって規格・儀制などが定められた。 他に冬至に天を祀る南郊、夏至に地を祀る北郊なども重視された。

使匈奴中郎将
 西河美稷に屯し、南単于の護衛・監視を任とし、毎冬に西河長史が騎2千と弛刑5百を以て来屯した。 北匈奴の来降者の激増で、永元2年(90)に従事10員が増員された。

司隷校尉
 三河(河南尹・河内郡・河東郡)・三輔(京兆尹・左馮翊・右扶風)と弘農郡を擁した司隷部の長官。
巫蠱の追求のためにB89年に武帝が設置し、持節として司隷部および百官の監察と治安維持を任とした。 B45年に兵権が廃されて節が没収され(時の校尉は諸葛豊)、西漢の末には一時廃官された。
 光武帝の下で再置され、校尉の実態を備えるとともに州刺史の行政官化と並行して司隷部の長官と化し、建安18年(213)の九州制の復活で再び廃されたものの、曹魏の成立と共に復置された。

修宮銭
 中平2年(185)に焼失した南宮修築のための‘畝十銭’の追課を源とし、官の叙任や遷叙の際に西園に納める奉献の隠語に変じた。 大郡の太守の値は2〜3千万銭とされ、叙任の辞拒は認められず、資財の過少者は着任後の収奪で不足を賄うのが常だった。
 かねて清廉を讃えられていた河内の司馬直は、清名の故に特に300万銭に減じられたが、赴任を逼迫されると孟津から諫奏した後に入水自殺した。

売官売爵  ▲
 霊帝の弊政の一つとされるもの。散官・民爵の売買自体は捐納として歴朝で行なわれ、関内侯の売爵も安帝・桓帝の世に国庫不足を補うために行なわれていたことから、実官叙任の際の納銭も半ば恒常化していたものと思われる(『傅子』に、崔烈張温も三公就任の際には修宮銭を納めたとあることも、傍証になると思います)
 霊帝の売官売爵は公卿の位をも対象とし、中平4年(187)には売爵関内侯の世襲すら認められ、収益は全て霊帝の私庫に納められたことから霊帝の拝金主義の象徴とされるが、修宮銭を旧来の慣例の制度化とし、霊帝の私費で西園八校尉が創設されたことと併せ、改革の一環とする見解もある。

将兵長史
 大将軍将兵長史の略。将軍の位階に達しない者が、長史として方面で大将軍の事を代行した。

西園八校尉
 中平5年(188)に、京師での兵乱の予言を根拠として、京師の治安維持を名目に創設された天子直轄の兵団=西園三軍と典軍・助軍の指揮官。 大将軍何進への軍権の一極集中を避ける側面を有し、無上将軍と号した霊帝に直属して小黄門蹇碩が上軍校尉として全軍を統轄した。 虎賁中郎将袁紹を中軍校尉、屯騎校尉鮑鴻を下軍校尉、議郎曹操を典軍校尉、趙融を助軍校尉、淳于瓊を佐軍校尉とし、他に左右校尉が置かれた。
 『山陽公載記』では助軍左校尉趙融、助軍右校尉馮方、左校尉夏牟、右校尉淳于瓊とある。 亦た同月には、何氏と対立する董太妃の甥/董重が驃騎将軍に昇せられた。
西園軍の維持費は、売官売爵などで蓄えられた霊帝の私財の一部で賄われ、同年の牧伯制の公認と併せて霊帝の改革の一環と見做されています。 『後漢書』には上軍校尉蹇碩が元帥として「司隸校尉以下を督し、大将軍すら領属」したとありますが、真偽のほどは不明です。

八関都尉  ▲
 黄巾軍の蜂起に対応して、何進の大将軍叙任と伴に洛陽周辺の要害に置かれた八都尉。函谷都尉(洛陽市新安)・広成都尉(洛陽の南)・伊闕都尉(洛陽市洛竜区竜門鎮)・大谷都尉(洛陽市東南)・轘轅都尉(洛陽市偃師の東南)・旋門都尉(鄭州市滎陽市水鎮)・小平津都尉(偃師北方)・孟津都尉(洛陽城の北)があった。洛陽は盆地都市で、そのため関と渡津を封鎖すると一つの小天地となった。
 従来の洛陽四関(函谷・伊闕・孟津・成皋)+4に都尉を駐留させた事になります。成皋は虎牢関=水関と考えて大過ありません。当時の虎牢は要塞で、旋門が成皋の関門として水関と呼ばれていたと理解しています。

属国
 属国都尉とも。異種の多く居住する辺境に設けられ、都尉を長官とし、一種の軍政が行なわれた。郡内の部都尉もこれに準じる。

太守
 郡の執政官。秦の郡守。王莽は太守の呼称を爵によって分け、公を牧、侯を卒正、伯を連率、庶を尹と称した。 亦た洛陽一帯の六郡を重視し、南陽を前隊、河内を後隊、潁川を左隊、弘農を右隊、河東を兆隊、滎陽を祈隊とし、太守を大夫と改めた。

帯方郡
 東漢の建安9年(204)に、遼東を支配していた公孫康が、楽浪郡の南半を以て分置した。半島南部の韓・倭を統制し、韓族社会の組織化を促進したとされる。西晋の建興元年(313)に楽浪郡の廃没に連動して崩壊した。

中常侍
 帝側に近侍する宦官の統括官。 光武帝は内官には悉く宦官を用い、永平年間(58〜75)に初めて員数を定め、中常侍4人、小黄門10人とした。 幼少で即位した和帝は竇氏に反撥して宦官を親信し、竇氏粛清にも鄭衆ら宦官が大きく働いたことで、宦官は分土の封・宮卿の位を得るようになった。
 和帝以後は幼帝が相い次いだことで閹勢は盛んとなり、殤帝の世には10中常侍、20小黄門に至って卿職を兼領し、ケ太后の垂簾で制令は悉く宦官を介して下された。梁冀誅殺の後は誅断定策の功を以て外朝を圧し、子弟賓客の驕恣は貴戚を凌ぎ、州国の長吏の過半を党与で占めたという。

通儒
 東漢後期に輩出した、諸経に兼通した碩学。一経専修が経学の主流だった儒家では、秦末の六経亡佚より経ごとに解釈の異なる家学が乱立し、自家自派を正当とする詭謗が絶えず、そのため西漢の石渠閣会議や東漢の白虎観会議で諸家の解釈の調整が図られた。
 西漢後期より古文学の隆盛と共に数経兼修が重んじられるようになり、章句の解釈から経の大義を導く訓詁学が盛行したが、字句の解釈に拘泥して家学の煩雑化をもたらす者も多かった。「学徒は労多くして功少なし」と称される現状に対し、「大典を括嚢し、衆家を網羅して繁蕪を刪裁し、漏失を刊改」する通儒が重んじられたが、「経伝の大義を重んじて章句に拘らず」の風潮は太学ですら浅学が是認される弊風をもたらし、五経石刻の製定などで是正が図られた。

度遼将軍
 西漢昭帝の元鳳3年(B78)に、遼東烏桓討平の為に雑号将軍の1つとして設けられて范明友が叙され、一代限りで終わった。東漢では明帝の永平8年(65)に、匈奴の新降者の監視と北帰の遮断を目的として、五原曼柏(烏辣特前旗)に置かれて使匈奴中郎将呉棠が任じられ、元初元年(114)に外戚のケ遵が就いたことで真将軍とされた。常設の北面軍官の最高位として、しばしば方面軍事を統轄した。

東観漢記
 東漢の官撰の同時代史。 明帝時代に蘭台令史班固が陳宗・尹敏・孟冀らと世祖本紀を編纂したことを嚆矢とし、班固は後に列伝・載記28篇を著した。 章帝・和帝の世に、史書編纂の場は「老子の臧室、道家の蓬莱山」と呼ばれた南宮の東観に遷され、以後、『漢記』『東観漢記』と呼ばれるようになった。
 東観での『漢記』編纂は歴代で続けられ、当代一流と称される儒者が編纂官として選定されたこともあって正史として夙に権威があり、漢末に孫権が呂蒙・蒋欽に奨めた三史にも含まれている。 亦た応奉は『史記』『漢書』『漢記』を刪定し、『漢事』を編纂した。
 『漢記』は後代に成立する諸東漢史の基本史料とされたが、同時代史であるが故に様々な制限があり、文辞や思想の不統一、文藻の欠などは編纂者自身からも批判されていた。 東漢の崩壊直後から多数の東漢史が乱立したのは、『漢記』に対する不満が一因ではあったが、同時に、亡命の貴族社会だった南朝に於いて「自らの出自を質す」事を目的とし、恣意的な採削が行なわれていることには注意を要する。
 下記のほかに呉の謝承『後漢書』130巻、呉の薛瑩『後漢書』65巻、東晋の謝沈『後漢書』122巻、東晉の袁山松『後漢書』95巻などが存在した。
  • 『後漢書』
  • 孫呉の孫権の外戚の謝承の著作。全130巻、もしくは133巻。紀伝体後漢史の嚆矢。
  • 『続漢書』
  • 晋の秘書監/司馬彪の撰。全83巻。「『史記』の誤謬を正し、『漢記』の煩雑を刪除」することを目的とした、譙周の『古史考』を継いだ東漢史。 司馬彪曰く、『古史考』は未完成で、殊に安帝以降の亡欠が多かったという。
  • 『後漢書』
  • 晋の少府/華嶠(華歆の孫)の撰。全97巻。 『漢記』の煩雑の修正を目的とし、永嘉の乱で多くが散逸したが、范曄書に多くが引用された。
  • 『漢紀』
  • 東晋の秘書郎の張璠の撰。全30巻。未完成だっと考えられる。
  • 『後漢紀』
  • 東晋の秘書監/袁宏の撰。『漢紀』とも。全30巻。 荀悦の『漢紀』に倣った編年体史で、漢魏禅譲を批判して諸後漢史の煩雑・欠落の修正を目的とし、張璠の『漢紀』を得て完成に至った。 范曄書にも大いに益し、唐の劉知幾は、紀伝体は『史記』『漢書』、編年体は『漢紀』『後漢紀』を範とした。 范曄書と共に完本が現存する東漢史。
  • 『後漢書』
  •  南朝宋の范曄の作。帝紀10巻、志30巻、列伝80巻より成る。 『東観漢記』を基に、華嶠書からの引用が多く、史観は『史記』の義侠を高く評し、経学的な『漢書』には否定的だが、唐の劉知幾から「簡にして周く、疎にして漏らさず」と高く評価されている。
     施注者としては唐の章懐太子がもっとも有名で、また現行の『後漢書』は、北宋真宗の時代に司馬彪の『続漢書』から志を加えたものとなっている。

白虎観会議  79
 東漢の官学である今文経伝の解釈を調整するために、西漢の石渠閣会議に倣って章帝が召集させたもの。 古文学派賈逵の列席や左伝派の班固が書記を担当するなど、左伝学の抬頭が顕著だった世相を反映し、公羊学左伝学の異同の討議も行なわれた。
 “天子”の号を、外夷に対する際のものとする左伝派に対し、天に対する皇帝の爵位とする公羊派の説が採用されるなど、公羊学を官学とすることが改めて確認されたが、漢の印璽が皇帝印は対内用、天子印が対外用・祭祀用とされていることなどは、中興当初から左伝的解釈が主潮的だったことを示唆している。
 このとき左伝学は国学とは認められなかったが、5年後には古文『尚書』『左氏伝』『毛詩』が官学に準ずるものとして学士の修学が義務化された。

牧伯
 刺史が州の刑政と軍事権を領したもの。 刺史の地方官化により西漢末に改名され、王莽一代を通じて用いられて光武帝が刺史に戻したが、常駐化は肯定された。
 東漢では次第に軍事権を兼ねるようになり、漢末に黄巾軍の平定後も続発する広域の乱に対処するため、188年に太常の劉焉の建議で復置され、劉焉(益州牧)の他に宗正の劉虞(幽州牧)、太僕の黄琬(豫州牧)が任じられた。 軍事兼領の現状を追認したものでありながらも、当初は公卿転任の条件が附せられたが、霊帝の死後の混乱の中で刺史が自称するようになり、地方勢力の軍閥化の一助となった。

黎陽営
 光武中興の基幹を為した幽・冀・幷州の兵を統べるために黎陽(河南省濬県)に設けられ、謁者が督した。 京師の五営(北軍五校/長水・歩兵・射声・屯騎・越騎校尉)、京兆の虎牙営、扶風の雍営と並んで禁軍の中核を為した。

漢魏の爵位

 漢の爵位の分類法は秦の二十等爵を踏襲して民爵・官爵に大別され、王爵の王・公の下に、租禄を伴う第十九等の関内侯と二十等の列侯が感覚的に爵位と呼べます。 東漢では列侯は県侯・郷侯・亭侯に細分され、次いで列侯に都郷侯・都亭侯が追加され、漢末の建安二十年(215)に曹操によって爵位の整理と伴に関内侯の下に名号侯(十八級)・関中侯(十七級)・関外侯(十六級)などが置かれ、魏に入って亭侯は廃止されました。名号侯は恐らく漢の諸侯王が改易された崇徳侯や、孔子の末裔が封じられた褒成侯・宗聖侯などかと思われます。 因みに、関中侯以上が金印紫綬、関外侯は銅印亀紐墨綬を帯び、又た、それまで第九等だった五大夫が第十五級に昇格されています。
 漢では実際の封邑を持っていたのは列侯以上で、例外はあったものの多くの関内侯には食邑がなく、都郷侯・都亭侯の租禄も漢末の改制で支給制となったようです。

 東漢末の列侯内の序列は、正直よく判りません。大筋で県侯>郷侯>亭侯なのは邑の規模からいっても確定なのですが、都郷侯と都亭侯の位置がハッキリしません。 漢制と魏制の単純比較で心苦しいのですが、馬賢が安亭侯から都郷侯に、曹仁が都亭侯から安平亭侯に、張既が都郷侯から西郷侯に進封している点を考えると、郷侯>都郷侯>亭侯>都亭侯だと思われます。
 “都”字を冠した事は、県邑を都郷、郷邑を都亭と呼ぶ例に倣い、○○県城の▲▲郷、△△郷城の◆◆亭の略称として都郷侯・都亭侯と呼んだという説に説得力があります。父兄の封邑から子弟が都郷侯・都亭侯に分封された多くの例は、まさにそのものです。『後漢書』ケ禹伝中のケ隲伝では、ケ弘の死後の事としてズバリ、「封子広徳為西平侯 (中略) 分西平之都郷封広徳弟甫徳為都郷侯」とあり、他にも県名を冠した都郷侯、郷名を冠した都亭侯が散見されます。
 引っかかる点があるとすれば、単独で都郷侯・都亭侯に封じられた場合も略称として扱っていいのか、という点ですが、アリっぽいです。 一例だけで判断するのは危険ですが、『三国志』魏書の臧霸伝の注に「孫観を呂都亭侯に封ず」という一節があり、呂郷の都亭侯と読めます。
 当初は、実封を持たずに○戸分の租を禄として与えられて都に在住し、実封が無い分、人口増による増収も無いのが都郷侯・都亭侯と考えたんですがねぇ。

△ 補注:東漢

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