▽ 補注.3

律令
 中国の成文法の中心。律は刑法、令は行政法に相当し、成文法には他に格(臨時法)・式(施行細則)がある。刑の成文化は法家思想によるもので、B536年には春秋鄭の子産が初めて刑鼎として行ない、叔嚮・孔子ら時の士大夫の多くから非難された。 律令の起源は秦律に求められ、当初は補完的規範に過ぎなかった令との明確な区別はなかったが、西晋の泰始律令によって初めて律と令が区分され、体系的な統一法典として成立した。
 律令の編纂は歴朝の殆どで行なわれ、隋の開皇律令は高度に体系化・整備されたもので、煬帝の大業律令や唐の諸律令にも踏襲されたことで、後代王朝の模範となっただけでなく東アジア諸国に多大な影響を与えた。 律令体制の完成とも称される唐朝では、律令の完成形とも称される開元二十五年律令が成立した頃には既に律令体制の崩壊が顕著で、安史の乱後は通用しなくなっていた。
 格・式は律令理念と現実との乖離が拡大したことに対応して制定されたもので、唐でも太宗の世には貞観格式が行なわれ、宋朝でも律令は編纂されたものの寧ろ格式が重んじられた。チンギス汗の大法令が至上とされたモンゴル政権下では律令の編纂は行なわれず、清朝では令の制定は確認されていない。

泰始律令  ▲
 西晋で268年に編纂された、中国史上で最初に律と令が明確に分化された統一法典。 賈充を中心に荀勗羊祜杜預裴楷らが参与・編纂し、司空荀の礼制改革、僕射裴秀の官制整備が並行して進められた。

開皇律令  ▲
 581年に隋で編纂された律令。律については梁律を基礎として斉律が参考にされ、簡素化と酷刑の廃止が特徴とされる。 令は北魏孝文帝の太和令に発する斉の河清令に依拠したとされる。 刺史の軍権・人事権が中央に回収され、人事については回避制の導入と併せて貴族の地方行政への容喙の制限が図られたが、斉の律令を用いるなど山東貴族の重視や南朝文化の尊重などから関隴閥には支持されなかったとされる。
 煬帝の編纂させた大業律令も、刑罰の軽減以外は基本的には開皇律令を踏襲し、開皇の世への回帰を呼号した唐朝でも踏襲された。

 

推恩令
 漢代、諸王侯の分割相続を定めた法。 建国時の漢の封爵は嫡子相続が原則で、国丞相以外の諸官は王侯自ら任命して鋳銭権すら保有するなど治外法権が強く、文帝代には諸侯王の封地は全国の6割を越えて複数の郡を支配する王国もあった。 景帝代の呉楚の乱を機に諸国の分割が進められて官の任免権も中央に回収され、一部王国では特例として分割相続も認められた。
 諸侯王の分割相続が法制化されたのは武帝代の主父偃の建議によるもので、結果として斉は7国、趙は6国、梁は5国、淮南は3国となり、諸王の勢力は大幅に削減されて漢の郡国制は郡県制と大差ないものとなった。

酎金律  ▲
 毎年8月の宗廟祭祀の際に、諸侯が献上する金についての規定。 酎は祭祀で使用される3度醸した酒。B111年には列侯111名が違反者として爵位を剥奪され、推恩令とともに諸侯抑損策の一環として利用された。

捐納
 金銭穀布によって官爵を購入すること。秦代に始まった当時は対象は民爵のみだったが、度重なる外征で財政が窮した漢武帝代より官職も対象とされ、以後は財政策の一環として歴朝でしばしば行なわれた。 宋代には恒常的なものとなり、明朝の正統年間(1436〜49)以降はほぼ制度化され、清末には大きな弊害を生じながらも財政問題から滅亡まで続けられた。

任子
 恩蔭とも。高級官僚の子弟を登用する、中国の官吏任用法の一種。 漢初の最も一般的な任用法で、秩禄二千石以上の官を3年間勤めると兄弟・子の1人を郎とすることができ、郷挙里選制が整備されるとB7年に制度としては廃止されたが、以後も歴朝で一種の特典として継続された。殊に貴族制の強い六朝〜隋唐では、恩蔭による任官によって門閥出身者が政治的優位を保った。

郷挙里選
 漢代の、他薦による官吏任用法の1つ。 郷里の有力者と国相・太守との合議で人材を薦挙するもので、漢初には任子制の補助として機能したが、次第に地方の発言力が尊重されてB134年には太守による年1人の有徳者の薦挙が義務化され、科目も孝廉・賢良・直言・文学・秀才などに分化された。 東漢では儒教尊重の立場から特に孝廉が重視されたが、郡県の大姓が子弟縁故を就官させる為の常套となって朋党の温床となり、薦挙枠の設定や年齢制限、郷論の昂揚など上下から是正が図られたものの実効性に乏しかった。 漢末魏初には新たな選挙制として九品官人制が行なわれ、結果的に貴族制社会に発展した。

賢良・文学  ▲
 漢代、学問才徳によって郡国から薦挙された人材。B178年に文帝が郡国に賢良方正・直言極諫の士を求めたことに始まり、漢武帝代より行なわれた孝廉と並んで重視され、天子の諮問に応じて官に挙用される事が一般的だった。 賢良は学問、孝廉は品行が重んじられ、賢良の格は孝廉に亜ぐものとして豪族子弟の一種の登竜門として機能し、科挙制度が制定された後は、非常特別の人材を求める制科に発展した。

孝廉  ▲
 官吏任用の科目の1つで、孝悌廉潔の略。漢武帝代、董仲舒の建議で秀才などと共に定められ、当時は法律に通暁した者を対象とし、B134年には各郡国から年1名の薦挙が義務化された。 選挙制の整備が進められた東漢では孝廉は常挙となったが、郡県の大姓が子弟故縁を官に就かせる為の常套に用い、中央の権門や宦官とも結託して朋党の温床となり、是正のために和帝代に丁鴻の建議で郡の規模によって薦挙枠に差異を設け、順帝代には左雄が年齢制限を設けた。孝廉を介した任官は礼教主義の東漢において最も繁栄し、その思想は九品官人制にも継承された。

 

九品官人制
 220年に魏王府の尚書陳羣の建議になる、郷挙里選に代る新たな官吏選挙制度。 東漢で発達した人物評=郷論を人事に反映させる事を目的とし、朝廷の官職と郡国の人材の郷品を九等の品階に階層化して郷品に応じた品階で仕官させるもので、通常は郷品の四等下の官職から起家した。
 初期の目的は、漢末の戦乱で隠遁した人材を才徳に応じて中央政府に吸収する事だったが、人物評を眼目としていた郷論は既に形骸化しており、郷品を定める中正官と豪族が結託し、子弟を郷品と同等官品まで昇進させることが慣例となった。 東晋に入ると家格の固定化に伴って郷品が家格を示し、家門によって上限官職や昇任経路すら固定化されると、同品階の官職にも優劣が生じて起家官職が重視されるようになり、南梁では改制も図られたが、全国を統一した隋によって583年に廃止された。
 九品官人制と表裏をなした南朝の貴族制度は、寒門出の武人皇帝が君臨した宋斉時代に完成し、王氏・謝氏などの門地二品の貴族子弟は秘書郎著作佐郎より起家する事が通例となったが、梁武帝代には学館試験による起家が認められ、これは後の科挙の雛型とされる。
 北朝でも九品官人制は行なわれたが、独自の貴族制によって南朝ほど発展せず、北魏の分裂後は北周は軍閥貴族制を、北斉は試験制度を徐々に導入し、隋文帝が北斉の制度を強化して583年に科挙制度を実施した。

中正制度  ▲
 九品官人制の一部をなした、中正官を介した選挙制度。 中正官は司徒が各郡国に任命して管内の士人の郷品を定め、司徒左長史・西曹掾らが審査した後に郷品に応じた官品で起家させたが、郷論を判断基準とした為に中正官は郷豪から選ばれる事が常で、そのため早期から中正官と在豪の癒着が強くかった。 司馬懿の建議で郡中正の上位に州中正が設置されてより中正官の中央への隷属が強化され、貴族門閥制の成立を助長した。 後に吏部の権限強化で相対的に中正官の地位は低下し、隋代に九品官人制と共に廃止された。

清要官
 清は名誉、要は権力を指し、両者を具備した官。九品官人制の発達で家格ごとに就任官や昇任経路が不文律化した結果、同一官品中でも官の優劣が生じ、清官は最上流貴族(門地二品)の官とされて寒官に対した。 又た権力を伴う要官でも、実務や職責を伴う秘書官監察官などは名流から忌避される事が多く、東宮職や人事官などが清官とされた。
 この両者の条件を満たした清要官はやがて就任者の家格を上昇させることにも作用して競争率が高くなったが、名流の実務官忌避は寒人の政界進出を結果した。 代表的な清要官としては秘書郎著作佐郎太子舎人中書侍郎黄門侍郎・司徒左長史・尚書吏部郎・侍中などが挙げられる。
  
 梁の天監7年(508)に、同品階中の清濁の格差や、位階と実権の乖離を修正する改制が実施され、六品以上の官を上位貴族の就く流内官とし、これを18班に再編して第十八班を最高位とし、七品以下を寒門の就く流外7品と庶人の就く蘊位・勲位に再編した。 寒人・庶人の政界進出を制度的に支援したと評されが、低品階にあった吏部郎・黄門侍郎・太子洗馬などを高班に改設するなど、門地二品の保護を強化した側面も有した。

 

科挙制度
 科目選挙の略。隋代に始まり、1905年まで継続した高等官資格試験。学問を判定基準とした事で、限定された家門が特定の官職を独占する貴族制を打破し、公平な人材登用策として開始されたが、古典教養・作文形式偏重に陥りやすく必要経費も高額だったので、受験生の母胎となった富裕層の特権階級化をも助長した。 当初は六科が用意され、中でも秀才科・明経科・進士科が重視されたが、秀才科は策問中心の難関として敬遠されて唐初には廃され、経学を主とする明経科と、詩賦を主とする進士科の二科のみの観を呈した。特に進士科は則天武后が重視してより出世の登竜門と認識され、後の宋代には科挙及第者はすべて進士と呼ばれた。
  ▼
 挙任制度としては唐代に確立し、学館生徒の上位者と州県の郷試の及第者(郷貢)とが中央の省試への応試資格を有したが、任官には省試の及第後に吏部での身試(人品)・言試・書試・判試(法制)を経る必要があり、開元24年(736)に礼部に移管されたものの、いずれも貴族勢力の強い部署だった為に寒士・寒人の最終的な及第者は極めて少数だった。 又た省試の監督者(知貢挙)と及第者の間には地縁・血縁を凌ぐ強固な師弟関係が生じ、互いに座主−門生と呼んで朋党の温床となり易く、歴朝で党争を拡大させる一因ともなった。
 宋太祖は座主と門生の関係に着目して天子が臨軒する殿試を創始し、解試(郷試)・会試(省試)と並ぶ三段階制が成立し、会試の及第者が進士、郷試及第者は挙人と呼ばれた。 殿試は仁宗代からは落第させずに省試の成績序列を修正するだけのものとなり、科挙の実施周期も仁宗代に3年1貢と定められ、王安石の改革で科目は進士科のみに絞られた。 金朝でも3年1貢で行なわれたが、在野の士大夫層の特権は認められず、女真族のみを対象とした科挙も行なわれ、元朝では科挙自体が行なわれる事が稀だった。
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 明朝が再開した科挙では、初期の合格者の殆どが江南出身者だった為、太祖は華北の後進化を防ぐ意味からも北人の登用を促し、成祖も即位の経緯もあって北人を優遇した。 当時「大器・逸材は北人に多く、南人は才子多けれども浮薄なり」と評され、宣徳年間では出身地を北(秦淮以北)・中(鳳陽と辺境)・南(秦淮以南)に三大別してそれぞれに定員枠が設けられたが、南北対立を軸とした学閥対立は明朝一代を通じての弊風の1つとなり、清朝にも継承された。
 明清では八股文と呼ばれる複雑な形式の答案が求められた為、科挙のみならず文学面でも暗誦と小手先の技巧が横行して“進士に大器なし”と酷評され、回答形式の定型化は知識人層の下方拡大を促進したものの、科挙官僚は往々にして南朝貴族同様に学識や文才を誇って実務を軽視する傾向があった。 慶暦年間には既に農民対策を士大夫の担うべきではない瑣末の事と公言する官僚もあり、明清代には実務や庶政に無知無縁である事を誇る風潮すら生じた。 又た応試資格として府州県学の生員であることも原則に加えられ、そのため学校の科挙への隷属化も進展し、科挙制度の弊害は中国文明の停滞と相対的な後進化をもたらしただけでなく、地方の官吏と勢族の結託などは現代中国でも克服されていない。

進士  ▲
 科挙試験の及第者。もとは科挙の試験6科の1つだったが、唐代には既に経学主体の明経科と、これに詩賦を加えた進士科が双璧となっており、殊に進士科の及第者は20〜30人/回の難関として重んじられた。 宋太祖代に10名前後だった1貢の及第者は太宗の世には百名を超え、仁宗以降は500名前後となって多数の寄居待闕官を発生させ、深刻な冗官問題を誘発した。 王安石の改革によって科挙は進士科のみとされた為に科挙及第者と進士がイコールとなり、以後の歴朝でも進士一科が踏襲された。 進士の中でも殊に首席の状元、次席の榜眼、三席の探花は“三魁”とも呼ばれて別格とされ、明清では進士を三甲に区分して三魁を一甲の進士及第とし、以下、二甲を進士出身、三甲を同進士出身として官途待遇にも格差が設けられた。

廻避制度
 地方官就任の規制。 親族廻避・本籍廻避があり、親族廻避は血縁者同士の同一官庁での奉職を、本籍廻避は本籍地への就任を禁じたもので、東漢の三互法以来存続して官僚制度の確立と共に制度化し、明清朝では例外的な優遇措置を除いて厳守された。 本来は恣意的優遇などの弊害を絶つために行なわれたが、特に本籍廻避では民情風俗に不明な者が赴任した為に政務の円滑化を妨げ、結果的に地元出身の胥吏を跋扈させる弊害をもたらした。

養廉銀
 清朝雍正年間(1723〜35)に創設された、文官俸給制度の一種。 明朝に倣った清朝では、歴朝最低と称される給与水準によって官僚の汚職が慣習化し、康熙年間の厳罰化を以てしても実効はあまり挙がらなかった。 雍正年間に地方財政の確立に応じて地方官の待遇改善が企図され、臨時措置として耗羨収入を財源とした養廉銀が職務手当として支給されるようになり、その額は本俸の数倍〜数百倍に及んだ。 山西・河南などから逐次全国に拡大され、乾隆年間に至って公的制度として確立し、武官にも類似制度として空糧・親丁名糧が支給された。

 

挟書律  B213〜B191
 秦の思想統制策の一環として、秦の実録や学官(博士)が職務として所有する書物、医薬・卜筮・農業に関する実用書以外の書物の所蔵を禁じたもの。この時に各地で史書や諸子百家の書などを焼却したものが、後に焚書と呼ばれた。 挟書律によって諸子の学問は口伝で伝えられるようになり、挟書律が廃されると当時の公文体である隷書で再録され、後に挟書律で隠匿された古文書が出現すると隷書体の書物は“今文”と呼ばれた。

均輸平準
 漢武帝代の経済政策の均輸法と平準法。ともに大司農府が管轄した。 均輸法はB115年に桑弘羊の建議で制定され、中央の均輸署から郡国に均輸官を派遣して各地の特産物を賦税として徴収し、不足地に売却したもの。
平準法も桑弘羊の建議でB110年に施行され、平準署から主要市場に派遣された平準官が官需物資を購入し、余剰分は騰貴時に売却した。
 余剰物資を不足地域に転売する均輸法と、廉入騰売の平準法は、官需と貢納の乖離是正を発端として商人の恣意的な価格操作を掣肘し、共に歳入増加にも有効だったが、官吏による収奪が甚だしくなって昭帝代に廃止された。 後の宋代に王安石が実施した均輸法市易法はこれらを改良したもの。

羈縻政策
 帰属した周辺異民族の酋長・有力者に対し、官爵・恩典を賜与して内部自治を承認し、王朝の主権を承認させた一種の臣属同盟。 唐朝で最も有効に活用され、服属した部族・氏族の有力者を都督・刺史・令長に任じて各地の都護府に統禦させた。 羈縻州は最盛期には800近くに達したが、都護府の統制力は中央の政局に左右されやすく、又た羈縻種族の独立志向などもあって7世紀後半に次第に破綻して国防線の後退と辺鎮設置を主軸に転じ、この辺鎮が節度使へと発展して玄宗の開元9年(721)には十節度使が列置された。

改土帰流
 清朝での雲貴地方の中国化政策。 清朝は同地方の諸首長を土司・土官に任じて自治を容認していたが、雍正年間、雲貴総督鄂爾泰の上奏で内地に近い土司・土官を廃し、州県制を用いて内地同様に統治した。 結果、漢人による政治的・経済的圧迫が助長されて諸種族の叛乱を惹起し、改土帰流は未完成のまま終わった。

公田法
 南宋末、賈似道が実施した民田買収政策。 宋では小作制の普及によって政府による土地経営も行われており、既に蘇軾が民田買収と小作人に役務を負担させる給田募役法を建議していた。
 賈似道は和糴廃止を図って限田額を超える民田の一部を強制買収し、その小作料(田租)を軍糧に充てることを定め、買収で官田となった田地を公田と呼んだ。 1263年に江浙の鎮江・常州・江陰・蘇州・湖州・嘉興6州の356万畝を買収して公司・官荘を設置したが、強引な買収は地主層に反発され、さらに元・明でも江南の官没地を公田と称して民田に数倍する重税を課したため、江南の重課税の悪弊を開いたとして後世からも批判された。

通検推排
 金朝での財産調査制度。課税の公正を期すために10年毎に実施され、女真族以外に課された物力銭に反映された。海陵王の招いた財政難に対処する為に世宗代の1164年に各路に官吏を派遣して実施されたが、有力者に有利に行なわれて非難が続出し、翌年に再実施された。 増収を目的とした強引な調査と、有力者有利の運用から常に諸問題を生じ、1208年の第五次実施で廃止された。

海禁政策
 明清の鎖国政策。明朝が1371年に中国人の対外貿易と海外渡航を禁じた“通蕃下海の禁”を行なったことに始まり、倭寇対策の一環として洪武年間だけで数回発令され、対外貿易は朝貢貿易に限定された。 永楽年間以降、統制が弛緩して密貿易が盛んとなり、禁令強化が結果的に嘉靖年間(1522〜66)の倭寇の席捲=南倭を惹起し、1567年に最終的に緩和された。
 清朝初期の海禁は南明鄭氏対策として行なわれた為、台湾が平定された1684年の展界令で解禁され、江蘇・浙江・福建・広東に海関が設置された。 殊に広州はオランダ・イギリスの抬頭もあって重要性を増し、余禄の多い粤海関監督は満洲旗人缺(専用ポスト)でも要官となった。 乾隆22年(1757)以降は再び海禁に転じ、日本銅の輸入港である乍浦・寧波を例外として貿易港を広州に限定し、牙行を通じての制限貿易を行ない、この制限貿易に対する諸外国の不満が阿片戦争の一因となった。 1842年の南京条約で海禁政策は完全に放棄された。
  
遷界令 (1661〜1683):鄭氏からの住民保護を名とし、南東5省の沿海30里への居住と、海上貿易を禁止した強制移住令。鄭氏の物的・人的資源の枯渇を図ったもので、一定の成果はあったものの移住民に対する補償は皆無で、政府も相応の財政的損失を蒙って鄭氏の降伏と共に解除された。

満州封禁
 清代の満洲への漢人入境禁止策。清朝は1668年に遼東招民開墾令を発していたが、後に禁止に転じて1740年に漢人の移住が禁止された。中国本土の安定による人口の急増は流民と遼東への密入植を増加させ、1749年には再度厳禁令が発令されたが実効は殆どなかった。 乾隆年間末期、モンゴル王公が流民を招致して開墾を奨励してより朔漠からの流入が激増し、旗人救済として実施された旗人の遼東移住策が失敗した事で漢人流入はさらに助長された。 嘉慶末年に双城堡が開墾されるに及んで封禁令は完全に有名無実化し、これより鴨緑江・豆満江・黒竜江方面も漢人によって開墾されるようになった。

 

占田課田
 占田制、課田制はともに西晋の土地法。 占田制は土地兼併を制限するための限田説が有力で、男女・官品に応じて設定された。 課田は魏の屯田を継承した国有の支給田と考えられ、租の納税が義務化され、男女、正次丁の別があるだけだった。
 占田者は戸ごとに義米を納め、近者・遠者・極遠者に区分されて極遠者は銭納とされた。 男女とも16〜60歳が正丁とされ、13〜15歳と61〜65歳が次丁、12歳以下を少、66歳以上を老と設定した。

土断法
 晋・南朝の戸籍法。 詳細は伝わらないが、僑寓者を現住地の戸籍に編入することを目的とし、僑置された郡県の廃止も並行して行なわれた。 僑寓者は往々にして勢族の私有となり、勢族の強大化の原因となるだけで国家の編戸の対象とならず、賦役を課す事が出来なかった。
 土断は通算10度(東晋で5度)の実施が確認でき、殊に桓温の康戌土断(364)は勢族の蔵戸の厳罰化を国策として進めて一定の成果を挙げ、江南政権の画期とすら称された。 康戌土断と並称される劉裕の義熙土断(413・414)は白籍(僑籍)を廃止して黄籍に統一したもので、大規模かつ徹底的と称されたが、郷里の晋陵郡は除外された。土断は以後も人民の流入が絶えない実情に即して実施された。

三長制
 486年、北魏の李冲の建議によって始められた村落統制。 道武帝の部族解散後も貴顕・諸将による支配が行政府に優先している現状を改め、政府による人民の把握強化を目的とした。 5戸で1隣、5隣で1里、5里で1党として長を置き、均田制に於ける租税徴収機能を有し、各組織内では連帯責任が負わされて戸籍調査と蔭付の摘発などにも利用された。 三層構造は後に比隣(5戸)・閭(20戸)・党族(100戸)となり、北斉では比隣(10戸)・閭里(50戸)・族党(100戸)、隋では保(5戸・保長)・閭里(5保・閭正)・族党(4閭・族正)とされ、隋が全国を統一した589年に廃止された。

均田制  ▲
 北魏〜唐で行なわれた土地制度。 三長制の前年の485年に施行され、良民・賤民・耕牛に露田と倍田(同額の休閑地)を支給し、老・死亡時に回収された。男子には露田の半額の桑田も支給され、桑・棗・楡の栽培が強制されたが、これは世業田として認められて過不足分の売買も可能で、麻の生産地では麻田が給収された。 北周では妻帯の有無によって変化し、概して魏代より多く支給されたが、北周から興った隋は北魏の制を踏襲した北斉の制を採用し、後に婦人・奴婢の給田を廃した。
 均田制は人頭税(租調庸)の源泉として府兵制と共に隋唐の律令体制の主柱を為し、唐の開元二十五年令によって官爵に対する官人永業田、職務に対する職田、官庁に対する公廨田などを含む様々な細目が規定されたが、この頃には土地兼併や逃戸・客戸の増大で均田制の実態は崩壊しつつあり、括戸策も根本的解決とはならず、780年の両税法の実施は事実上の均田制の放棄と見做される。 均田制については実施状況の徹底度に対する否定論・肯定論、国有制・私有制、奴隷制・農奴制などの諸議論がある。

括戸制
 唐の開元年間に、宇文融の上奏で行なわれた戸籍精査。 均田制の崩壊が著しかった当時、政府が佃戸を把握する為に行なったもので、723年までに行なわれた検括の結果、佃客・羨田(非登記地)80余万を摘発し、佃客を客戸として現地の戸籍に編入して財政を好転させた。 括戸策は対症療法に過ぎず、一方では担当官による誇張報告や、実戸を客戸として報告するなどの不正が絶えなかった。

里甲制
 明〜清初の郷村制度。洪武14年(1381)に制定され、110戸を以て1里を編成して賦役黄冊に登記し、丁糧の多い10戸を里長とし、他の100戸を10甲に編成してそれぞれに甲首を置いた。 里は都市では坊、郊外では廂と呼ばれ、里長甲首は1年交代で里甲の正役にあたり、10年で一巡する役年を見年、他を排年と呼んだ。
 正役の第一は賦役の基準となる黄冊の作成で、第二は賦役の徴収賦課とされ、滞納が発生すると里長の責任とされ、逃戸・絶戸による不足分は里ごとに賠納とされたので最大の負担となった。 又た役は正役の他に官庁の雑労、駅伝・警察の雑務など多種あり、雑役と総称されて不定期に里甲を通じて割り当てられた。 第三は治安維持で、教化を担当した里老人には裁判権が附与されて郷村の自治的共同生活の中心とされ、里長はその補佐的存在だった。 第四は上供物料(朝廷・宮中の物資)・公費(官庁の雑費など)の負担で、負担増大に伴って16世紀初頭より銀納化された(里甲銀)。 里甲制は一条鞭法の実施で重要性を減じながらも清朝に継承されたが、役法の変革によってその機能を完全に喪失し、康熙年間末期以降は行なわれなくなった。

賦役黄冊  ▲
 明代の戸籍の一種。洪武14年(1381)に初めて作成され、里甲制の1里ごとに各戸の家族の氏名・年齢・財産などを記した。これは府庁・布政使司・戸部にそれぞれ送られ、戸部に保存されたものが黄色の表紙を用いた事が名称の由来となった。 里甲の再編成に対応して10年ごとに更新され、役の負担能力者である正丁の把握を主眼とし、土地台帳たる魚鱗図冊とともに明の税役体系の基礎を為したが、これを基礎とした人口統計が明一代を通じて殆ど変動がないため、中期以降の記載については信憑性が疑問視される。

保甲制
 王安石の保甲法を起源とする、明清代の郷村の警防組織。 徴税を目的とした里甲制と並立し、清朝では里甲制の機能が低下していた事から郷村組織の基幹として推進された。 康熙47年(1708)の制度では10戸=1牌、10牌=1甲、10甲=1保とし、相互に監視して連帯責任を負った。

 

賦税
 労力・物納・銭納の税役形態の総称。本来、は王の軍事に対する奉仕を、税は租と同様に祭祀の供物を指した。 これらは中国の租税収取が祭祀・軍事を主宰する王への奉仕として始まったことを意味し、漢代には田租、算賦・口賦としてその区別が残されていたが、以後は稀薄となった。
 古代中国の税制は基本的に人頭税で、均田制を基盤とした租調庸も個人に給された田地を対象とした意味で人頭税に包含され、唐代になって地税戸税が行なわれるようになった。

  ▲
 人頭税の一種。 古くは兵役とその義務を指したが、次第に兵役免除の代償として人頭税的に徴収するようになり、貧富や土地所有面積に応じて田租(畝税)の増徴(田賦)として行なわれたが、戦国時代には兵役と分離されて徴兵免除には金銭の上納を要した。 漢代には人頭税として扱われたが、次第に税と混同されて後世では全く同義語として用いられ、肉体労働の一種として賦役の語も生じた。

算賦
 秦漢の人頭税・財産税の一種。徴収単位となった1算は120銭。8月に郷亭の人民を県城に召集して人口・財産を調査し、人頭税は青年男女ごとに1算、未成年には23銭が課税され、財産所有額1万銭ごとにも1算が課せられた。人頭税は口算、財産税は貲算とも呼ばれた。

算緡  ▲
 緡は紐縄に通した銅銭千枚の称。算緡は緡銭に対する課税を指し、財産税として通常は銭1万=10緡に対して1算(120銭)が課せられたが、漢朝は重農抑商政策を基幹とした事から商人に対しては5倍、工業者には2.5倍を課し、無申告・不正申告者は所得没収と1年間の辺境警備が課された。
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告緡令:漢武帝が定めた算緡隠匿の密告制度。巨費を投じた武帝の軍事は経済界をも混乱させ、その機に乗じて巨利を得た商人の多くが所得を隠匿した為、楊可の建議で摘発強化のために実施された。 告発者には所得の半額が与えられ、密告によって殆どの豪商が摘発されて没落し、政府は没収した銭貨・田地・奴婢などによって財政を好転させた。

 

役法
 民衆に負担させた力役。『周礼』『礼記』にも記され、当時は年に3日間の奉仕とされた。 唐では歳役と雑徭に大別され、歳役は国家に対する力役として正役とも呼ばれて丁男が20日間服し、後には(絹布3尺か麻布3尺6寸/1日)を代納する事が一般的となった。
 雑徭は地方的必要に用いられ、本来は正税の負担義務のない中男を対象とした軽労働だったらしく、発達過程は不明瞭ながらも唐では丁男・中男が服し、18歳以上の中男は50日以内、丁男と18歳未満の中男は40日以内に制限された。 丁男に対しては庸の50%の労働量として計算され、制限日数を超過するとまず庸が免除され、70日で租と庸が、100日で租調庸が全免された。
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 他に、1年以上就労する雑役・色役・雑色役などがあって宋以降の力役に繋がり、王安石の募役法、明の一条鞭法などは力役を丁税として納税で代行させることを主眼とし、清の地丁併徴で一応の完成に至った。

義役
 南宋代、保正・保長の役の負担軽減の為、不就者が粟・田などを供出して就役者を援助した、郷村の相互扶助制度。 購入した田(義役田)の小作料を就役者に給する場合、田を購入せず就役戸を衆議で定める場合など諸種あったが、概して上等戸が役首とされ、小作料管理・就役順序などを掌握したので諸種の弊害を生じた。 義役制は1169年に范成大が処州松陽(浙江)に実施したのが最初とされるが、紹興年間の実施記録も残されている。

糧長
 明代の役の一種で、税糧の徴収・輸送を任とした。 1371年に税糧一万石の地域を区と称し、各区に一名の糧長が設置され、後に正副二名とされた。 里甲制以後は里長戸の有力者が行ない、絶大な権威を有して不正を行なう者が多かったが、負担も大きかったので後に数戸共同で行ない、あるいは職能を分担して糧長の称を廃した地域もあった。

 

戸調令
 268年、若しくは280年に晋武帝が発布した戸税。漢末に曹操によって始められ、南北朝を通じて行なわれた。 晋が全国を統一した280年に戸調式によって細目が規定され、資産によらず戸ごとに戸主の男女・正次丁の別によって定額の税を課したものだが、占田課田制との関係については不明な点も多い。

租調庸制
 北魏に始まり、北周で整備され、唐代に人頭税として完成した賦税体系。租・調・正役・雑徭から成り、租は穀納、調は布納、正役は力役か物納、雑徭は地方官署に対する軽労働を指し、正役の代納をと呼んだ。 税額は均田制での給田からの収穫を元に算出され、唐では租は穀2石、調は絹2丈(半匹)と綿3両あるいは麻布2丈5尺と麻糸3斤、庸は絹布6丈か麻布7丈2尺とされ、雑徭や雑役(番役:城門・牧場・渡津・駅伝などに徴発される役)の就労日数によって正税が減免された。 均田制の崩壊と共に破綻し、資産税重視の両税法に移行した。

 

両税法


 両税は夏秋両税の略。唐代、人頭税の租調庸制の崩壊に直面して徳宗の建中元年(780)に楊炎の建議で実施された資産税で、明の一条鞭法まで継続した。 唐は既に安史の乱の以前から土地兼併と客戸の増大で租調庸制の前提が崩壊しつつあり、自作農の負担の倍加は逃戸を増加させる悪循環を生じていた。 均田制に基づいた徴税体制は安史の乱で破綻し、加えて乱後の反側藩鎮の割拠は朝廷の課税対象を大きく減少させただけでなく進奉による民生の圧迫も深刻だった為、財政再建の為にも旧来とは思想の異なる新税制が求められた。
 両税法の骨子は税の簡素化と資産基準・現住地賦課にあり、以下の事を根幹とした。 両税法の実施によって有産逃戸180万を担税戸としたが、均田制の放棄は大土地私有と自由商業を公認したに等しく、地主・商人への富の集中は更に進行した。 特に地域の実情を無視した銭納原則は銭の退蔵や商人の価格操作による物価騰貴をもたらし、実施直後から様々な加徴と雑税が課された事もあって庶民生活は著しく悪化していった。 また累進課税でありながら明確な税率基準が無く、加えて“量出制入”は個々人の資力限界を度外視することが可能だった為に当時から批判も強かった。 唐末以降、戸等決定は資産専一方向に向かった。

夏税秋糧  ▲
 宋〜明の田地の租税の称。両税法以来、収税は夏秋2期となり、初期には夏税・秋税と呼ばれたが、秋税は秋苗・秋糧と変遷した。両税は唐では田地を含む資産額に応じて課税されたが、宋以降は土地税となり、夏税は銭額を布帛で納め、秋苗は現物納とされた。 元朝は江南では宋制を踏襲し、徴収期は明では7月・12月、後に8月・2月とされ、銀経済の進展に伴って租税の銀納化が求められ、明朝後期の一条鞭法で銀納が公定された。

包銀税
 税の納化を定めた元朝の税制で、糸料とともに戸税である科差を構成した。 包銀制はモンケ時代に制定されたが、由来はモンゴル帝国初期にあり、戸6〜7両の現銀徴発を4両に減額し、2両を銀、2両を糸絹顔料による折納と定めたもので、戸格・戸等によって煩雑な逓減規定があり、クビライ時代には交鈔と銀の折納も認められた。
 同税はモンゴル政権中枢に連なる西域商人の建策によって実施されたと伝えられ、胡商はモンゴル貴族から低利で銀を融資されて銀不足が著しい中央アジアで投資し、莫大な利潤を得たとされる。 南宋の夏税秋糧が継続された江南でも銀経済が行なわれたが、貨幣経済が主流だった同地でも殆どの農民が銀とは無縁だった為、胡商を中心とする典当(高利貸)から法外な利子で借財しなければならず、多くの農民が破産した。

一条鞭法
 明朝後期〜清朝初期の税法。地税・丁税(力役)を併合してでの一括納入を定めたもの。 明朝の地税と丁税は時代が進むと伴に細分化と各種雑税の附加で徴税事務が繁雑となり、負担の不公平や不正の温床となって民力が低下していた為、徴税事務の簡素化と税収の安定を図って実施された。
 16世紀中頃から一部地方で行なわれ、16世紀末には張居正の主導で華中・華南・華北の順で全国的に実施され、時期・地方によっても内容に差異があった。 又た無産丁の増加に対応し、負担均衡の為に役の賦課対象を土地に転換している場合も多く看られ、これは清朝の地丁併徴によって完成された。 胥吏による中間搾取の余地を抑えることを主眼の1つとしたが、正統年間の賢相とされる李賢が指摘した、農民窮乏の最大の原因である商人の悪辣な融資と回収についての抜本的な対策は行なわれなかった。

地丁併徴  ▲
 無産丁の増加に対応した、丁税の全面的な地税への併合。 一条鞭法によって税役の全面銀納化や、一部丁税の地税併合が行なわれたが、無産丁の増加は丁税の徴収を困難にし、戸籍面でも脱税の為の不正記録を増加させた。 明末にも丁税を全面的に地税に編入した地方はあったが、清朝の康熙52年(1713)には丁数を1711年の額に固定する事が定められて地税に編入され、雍正年間に全国各地で採用された。この税法で徴収される地丁銀は清朝の租税収入の中心となり、完全に地税として扱われた。
 清代の爆発的な人口増加は、社会の安定や生産力の増加の他に地丁併徴によって丁税を逃れていた人口が計上された為でもある。 後には各種雑税が附加され、特に太平天国後は捐納釐金が民生を圧迫した。

盛世滋生人丁  ▲
 清の康熙50年(1711)の登記数を越えた分の、丁銀(人頭税)を免除された壮丁(16〜60歳)を指す。 清朝の税制は明朝と同様に地銀と丁銀を両柱とし、壮丁登録(編審)は3年1回、後に5年1回とされたが、諸般の都合から公正な徴集が困難となった為に康熙50年の丁数2462万を定額として固定し、以後の増加壮丁を盛世滋生戸口冊に記録して13年から丁銀を免除した。

 

雑税
 雑征斂。各王朝でしばしば実施された附加税的租税。 多くは国家の財政難を直接の原因として対症療法的に行なわれ、家屋税・貨物税・物品税・取引税・通過税に関するものが多く、税率・税額は徴収者の恣意となることが殆どで、王朝末期に濫発されて悪循環を生じた。 雑税が頻出するのは中唐以降で、藩鎮政策で苦慮した徳宗両税法実施の直後に官俸給与・商品取引に5%を課税する除陌銭、家屋一間ごとに500〜2000銭を課税する間架税を設けて天下の批難を浴び、同時期に横行した進奉なども刺史・使君による恣意的な雑税徴収によって行なわれた。

義倉米
 正税を備蓄する正倉とは別に、備荒貯蓄用に附加税的に徴収された穀類。 耕地面積に応じて義倉に納められ、凶年には人民に貸与された。北朝で初めて行なわれ、隋では村落ごとに設置されて社倉とも呼ばれ、唐の開元令では青苗簿に応じて王公〜人民から本・借の別なく徴収され、商人などの不課戸にも戸等に応じて課された。 中央の経費に流用されるようになった武則天の頃より地税と呼ばれるようになった。
  
地税 :地域の救荒用に徴収・備蓄されていた義倉米が、中央に流用される事が常態化して正税として扱われるようになって以降の名称。 地税の称は武則天の頃より現れ、やがて江淮から中央に輸送される米穀の大部分が地税で賄われれるなど次第に税の主力とされ、戸税と共に後の両税法の柱となった。

戸税  ▲
 税銭・税戸銭。唐代に各戸に課された附加税。 官戸をも対象として戸等に応じて銭納を原則とし(王公以下9等に区分し、8等戸は452文、9等戸は222文)公廨本銭・駅伝費用・和糴資金などに充てられた。 臨時徴収だったものが次第に恒常化し、開元年間には年120万貫が徴収され、うち40万貫が駅伝・文書郵送費用に、80万貫が地方経費に充てられ、天宝年間には年200万貫に達した。 安史の乱後は租調庸の本籍地主義に反して客戸にも課され、地税とともに両税法の柱となった。

公廨本銭
 隋唐時代の官営の高利貸資本。 官僚の俸銭の不足を補う補助行為として始められたものが、次第に半強制となって正規の財源の如くなり、後には他の使途にも流用された。 隋では官僚自身が貸与されて民間への貸付と利息徴収を行なったが、唐では専任の胥吏=捉銭令史が定められて賦役免除・州県警察からの逮捕免除の特典を有する捉銭戸が成立し、富戸が競って権を求めて官による売買対象とすらなった。 後に特典が廃止されると融資を受けるのは貧戸が主となり、そのため破産に陥って客戸に転落する者が続出し、富戸による土地兼併が進行した。

青苗銭
 764年に、財政補助の為に創設された附加税。はじめ地頭銭と呼ばれ、766年より青苗銭と改称された。 名称の由来は青苗簿に基づいて賦課した為とも、青苗の時期に徴収した為とも称される。青苗簿に登録された耕地面積1畝に10文を課したが、768年からは15文とされ、公廨本銭戸税などが多方面に流用された為に官僚の俸禄にも充てられた。

青苗簿  ▲
 給田に対し、実際の耕作状況を把握する為に作成された登記簿。

 

塩課
 塩の専売収入。竈課(場課)・商課(引課)・塩価を包含し、その大部分は商人が塩引(販売許可証)受領の際に納税しする商課で占められた。 塩課は塩の専売制が恒常化してより国家収入の重要な財源となり、塩が生活必需品である為にしばしば安易に増徴(斗10銭が専売化で110銭、8世紀末には370銭)され、唐での専売開始から23年後の大暦14年(779)には600万貫に達して財賦の半ばを占めた。 塩と銀を二大財源とした元朝では8割を超え、清朝でも初期に95万両だった塩課は乾隆年間には400万両となり、嘉慶年間には800万両に達し、清末〜民国では関税などの新税創設によって3割程度になったが、依然として主要財源とされた。 政府による塩課の無制限な増徴は塩価を暴騰させて闇塩の横行を助長し、塩政を崩壊させただけでなく塩徒を中核とした民衆の組織的な叛乱を惹起した。

開中法  ▲
 明朝洪武年間(1368〜98)に制定された税制で、軍糧納入の代償に商人に塩の販売を認めたもの。 商人は国境駐屯地に軍糧を納入すると倉鈔を交付され、これを産塩地の塩運使・塩課提挙司で塩引(販売許可証)と交換し、塩場で記載額の塩を受領して政府指定の行塩地で販売した。 この制で国境付近には商屯が発達したが、銀経済の進展に伴って成化年間(1465〜87)から銀納が行なわれるようになり、又た国境付近の連年の豊作で米価が下落した為に軍糧の現地購入が得策となり、弘治年間(1488〜1505)には淮安塩商の求めもあって銀による塩引の売却も公認され、政府は一時的に莫大な利潤を得た。 商人が商屯を廃して両淮・両浙などの塩産地に移住した為に国境では米価が高騰し、軍糧納入の破綻から旧制が復用されたものの円滑には機能しなかった。

 

車船税・馬牛羊税
 車船税は軺車(小型の馬車)・5丈以上の船舶に1算(120銭)を課したもので、車税は商人には倍課され、三老・北辺騎兵などは免除された。
 馬牛羊税は一種の畜産税で税率は不明だが、居延漢簡の評価(馬1頭4000銭)を財産税に相当させると、1頭48銭となる。 牛羊の評価は不明だが、畜類販売の際には算緡令の対象とされ、後世商税の対象とされた。

物力銭
 金朝世宗代に創設された財産税。女真人と奴婢以外の全人民を対象に、財産の多寡に応じて課税されたもので、1164年より10年ごとに実検である通検推排が実施された。

 

商税
 関市の賦とも。商業・交易に対する賦課。入市税・通過税・市籍租に限定される事もある。 漢朝に起源して唐末に至って完成し、財政面で重視された反面、流通の発達を阻害した。宋代には単に税とも呼ばれて過税(通行税:2%)・住税(一地域での交易権:3%)に大別され、県鎮以上の都市には徴税場が設置されて客商の運搬・販売物貨を対象に現銭で徴収した。 明朝では鈔関税(船舶通行税)・門攤税(営業税)が加えられ、清末の釐金も過税の一種とされる。

鈔関
 明朝が船舶から商税を徴収する為に、国内水路の要衝に設けた関。 の流通制限による価格統制政策の一環で、貨物積載量に応じて商税を鈔で徴収し、鈔の価格暴落が深刻になると銭の併用を経て銀納となって本来の意義を喪失したが、制度は清朝にも継承されて内地税関に発展した。

起運・存留
 明清の財政用語。地方で徴収された田賦のうち、中央に輸送して政府の経費に充てられるものを起運、現地の経費に充てられるものを存留と呼んだ。清朝では財政難の省に対して他省から援助する場合もあり、これを協餉と呼んだ。

 

雀鼠耗
 耗は、輸送・貯蔵中の目減りを指すもので、転じてその補填に充てられる附加税を指し、現物収納の耗米、銀納の耗銀・火耗などがあった。 雀鼠耗は後唐明宗に始まる加耗の一種で、納税された穀類の雀鼠害での減少について管理責任を負う保管者の負担軽減の為、納税の際に予め加耗分を予想して附加された。 五代の加耗には他に省耗もあり、ともに宋に継承された。
  
 耗は明清で厳禁されたが、輸送費・地方経費・官吏の個人的生活費などが加耗として徴収されるなど徹底を欠き、雍正年間に至って一定額の加耗が認められて耗羨と呼ばれ、各省の収入として養廉銀や地方経費に充てられた。 耗羨の公費財源化を指して耗羨帰公と称し、雍正帝の財政整理策の重要な一環とされた。

和糴
 双方合意で政府が民間から穀物を購入することで、市糴法の一種。 北魏末期に始まり、中唐以降は頻繁に行なわれ、宋以降はほぼ常法となった。 唐では傭兵・官吏など急増した消費人口に対応し、漕運の出費などの事情で関中からその周辺に行なわれ、主管者として和糴使が配置された。 強制や不正、商人の介入などで事実上の租税と化し、農民の窮乏化と自作農の破産を助長した。

遼餉
 明朝末期の1618年、女真族に対して増大する軍費を賄う為に賦課された臨時税。 田地1畝に銀3厘5毛で徴収し、翌年には倍額となり、1620年には9厘となって貴州を除く全国に実施され、年額520万両を得た。
 遼餉に続いて1635年に実施された助餉は官戸・民戸の糧10両以上の納税に対して糧1両ごとに1銭を加徴し、内乱鎮圧の目的で1637年に始められた剿餉は田土1畝ごとに米6合を課し、米1石を銀8銭に換算して徴収した。 又た剿餉と同様に楊嗣昌の発議で辺防補助の為に1639年に行なわれた練餉は田土1畝に銀1分が課され、全国総額は730万両に達して明末最高の増税率となり、遼餉・剿餉と同じく臨時賦課でありながら明末まで継続されて三餉とも称された。

釐金税
 清末の内地通過税。商税に対する附加税の一種で、1853年に太平天国鎮圧の為の軍費補填を目的に始められ、財政難のために1928年に関税自主権が回復するまで継続された。 商業道路に税関(釐卞)を設置し、商品に対して5%前後課税したが、遠距離運送では数ヶ所で徴収されたので商品価格が高騰し、外国商品との価格競争を困難として中国経済の発展を阻害した。

 
 

煕寧新法

 北宋の王安石が行なった制度改革。 自作農の没落と軍費の増大、冗官の増加などで窮乏化する国家財政の打開策として、圧倒的多数を占める中・下級の農民・商人の保護を主軸とした。 1069年に創設された制置三司条令司によって審議され、同年中に均輸法青苗法を実施し、翌年には保甲法募役法を行ない、他にも三舎法市易法・方田均税法(検地)などが行なわれた。
 新法は既得権を侵害された地主・豪商および官僚と、彼らと結託した皇族・宦官に猛反発され、1074年の市易法では内部からも批判者を出し、新法派の内訌もあって1076年に王安石が中央を退き、以後は神宗自らが王珪・蔡確らの輔佐で継続した。 財政・治安の回復、青唐羌の懐柔による西夏の抑制など初期の目的を達しつつあったが、1085年に神宗が歿して宣仁太后が垂簾すると、復権した旧法党によって全廃された。
 この元祐年間で新旧両派は感情的にも対立し、哲宗の親政と共に起用された新法派の復権運動の下で完全に党争に堕し、哲宗の死後の向太后の垂簾期間には両派の宥和も図られたが、徽宗が親政を始めると蔡京によって反対派は旧法党として徹底的に弾圧された。 新旧両派の頻繁な交代は民力涵養の機を失わせ、朋党の禍は北宋滅亡の大要因となり、北宋自壊の首魁と目される蔡京が最終的に新法を奉じたため、新法は南宋以降の歴朝で徹底的に酷評され、現在も評価は低い。

均輸法
 王安石の新法の1つ。大商人の中間搾取防止のために1069年に行なわれた。 三司で作成された予算を元に、揚州の発運司が原産地で物資を調達して京師に輸送し、余剰分を不足地で販売するもの。 適正物価の安定と政府の消費経済の合理化、人民の輸送負担の均等化に成果を挙げたが、大商人と結託した後宮勢力の猛反対を受けた。

市易法
 王安石の新法の1つ。中小商人の保護による産業振興を目的に1072年に実施された。 当時、大都市に発達した行(商工業組合)が政府の必需品を調達する代償に営業権を独占していたが、行は極少数の豪商に支配され、中小商人は販権獲得の為に豪商から高利で借金し、利益の殆どを返済に充てていた。 又た豪商の多くが倉庫業を営み、地方商人の商品を捨値で購入する為、物資の輸送が激減して通商・産業を沈滞させていた。
 市易法では、主要都市に市易務を設置して余剰物資を購入し、物資を抵当にした低利融資も行なった。 利率は年2割で、返却不能の場合には罰銭を徴収し、あるいは抵当物資を売却して弁償させた。 これも豪商や、豪商と同体である地主系官僚の利権を大きく損ねて反対運動は宦官や後宮にも波及し、殊に責任者の呂嘉問の強引な運用もあって王安石罷免の直接原因となったが、修正後は景気回復に大きく寄与し、神宗政権下の保甲法を支える財源となった。

青苗法
 王安石の新法の1つ。中小農民に対する低利融資として1069年に実施された。当時、多くの自作農が植苗前には食糧・種籾にも不足して地主から高利(年10〜20割)で借り、土地を返済に充てて没落する者が絶えず、租入減少が大問題となっていた。 新法では低利での資金融資と併せて10戸で1保を編成して連帯責任を負わせ、小作人は地主が保証人となって抵当は不要とされた。返済は収穫期に現物納とされたが、穀価が高ければ銭納も可能とされ、利子は2割未満とされた。国の営利を否定する儒学的見地を大義として多くの官僚に反対された。

保甲法
 王安石の新法の1つ。郷村の組織化による警察機能の附加を当面の目的とし、最終的には兵農一致による軍費の節減と、優秀な民兵の育成を目的とした。青苗法での組織を利用して5保=大保、10大保=都保とし、保長・大保長・都保正・副保正が指導した。 1070年に発令された翌年から京畿の大保ごとに夜間5名の輪番で警邏を行なわせ、1075年に司農寺から兵部に移管し、1080年から次第に他路に拡大させた。 1081年に五路の義勇を改めて保甲として部分的に民兵制を実現したが、旧法党の妨害と民衆の抵抗で1085年には事実上頓挫した。

保馬法  ▲
 王安石の新法の1つ。初期には戸馬・養馬とも呼ばれた。保甲制を利用して1072年に始められた、民間への養馬委託。 西夏・契丹から購入する軍馬の補完法でもあり、羣牧司所管の軍馬の不足を補う事を目的とし、各保甲の有志に官給で1〜2頭の馬を供給し、又は馬価を給して馬を購入・飼育させた。 開封府で試行されたのち陝西五路に拡大し、開封府では3000頭以内、陝西五路で5000頭以内とされた。半年ごとに馬の肥痩を実検し、保馬の死は養馬主の弁償とされ、4・5等戸の社(1社=10戸)で養う社馬の死では社人に半額を弁償させた。

募役法
 免役法とも。王安石の新法の1つ。 役法での中等戸の破産防止を目的とし、京畿で試験された翌年(1071)に全国的に行なわれた。 従来の役法=差役法は、郷村の有力戸(形勢戸)に徴税や警察業務を連番で担当させたものだったが、損失の補填や胥吏への贈賄など負担が重く、該当する一等戸・二等戸が賄賂・縁故によって負担を免れた為に中流階級である三等戸が実質的負担者となり、破産する家が続発して宋の財政を脆弱にした。
 募役法では、役法中最大の負担とされた租税の管理・運搬については民間から募集して給料を与え、本来の負担者からは財力に応じて免役銭を徴収した。 併せて従来は免役対象だった官戸・寺観・商人などからも約半額の助役銭を徴収し、同時に不測の出費に備えて2割が課徴され(寛剰銭)、これらが募役法実施の財源とされた。新法の眼目の1つとされ、地主系官僚や、大商人と結託した後宮勢力に猛反対されたが、人民の職業選択を広げて社会の分業化を促進する効果を生んだ。

三舎法
 王安石の新法の1つ。 太学の改革として1068年に実施され、人材の養成・登用を同一機関で行う為に太学を拡張し、従来に比して人格が重視された。 太学内に外舎(予科/600人)・内舎(本科/200人)・上舎(研究科/100人)を設備し、試験によって上位舎に進ませ、優秀者は科挙に依らず官吏に任命された。 元祐年間に一時廃止されたが徽宗代には奨励されて定員が拡大され、南宋滅亡まで継続された。 又た州学・県学をも制度に編入して県学→州学→太学への昇学が定められたが、これは財政難から間もなく廃止された。
  
 王安石は科挙制度にも改革を及ぼし、経書の知識と詩文能力に偏重していた従来の科挙によって実務担当の胥吏の横恣が甚だしくなっていた現実に鑑み、1070年に科挙を進士科のみとし、詩文を大幅に縮小して経史の理解と時政に対する策文を中心とした。 科挙試験には『孟子』が必須となった一方で、選択から『春秋』が除かれて『周礼』が加えられ、旧法への回帰で経義と詩賦の選択制が設けられた。

手実法
 新法派の呂恵卿が1074年に実施した財産申告制。 毎秋に田土を実検する方田禁税法が、煩瑣な手順や大地主の反対で2年余で廃止された為に代案として行なわれた。 虚偽に対する第三者の密告を認め、没収財産の1/3を褒賞とした為に不正や冤罪が絶えず、1年足らずで廃止された。

旧法党
 元祐年間以降、王安石の策定した新法に反対した勢力の総称。 狭義には司馬光を領袖とした哲宗の元祐年間の復古派を指すが、神宗の煕寧年間に中央を逐われた韓g范仲淹文彦博富弼ら前代以来の名臣を含めることもあり、概して華北の地主階級出身官僚が多く、祖法と既得権とを同一視した。
 神宗の死後に臨朝した宣仁太后の下で復権し、宰相に迎えられた司馬光・呂公著は即座に新法を全廃したが、却って政情を混乱させただけでなく、執拗な新法派排斥によって両派の感情的対立をも助長した。 司馬光の死後は蘇軾の蜀党・程頤の洛党・劉摯の朔党に分れて反目し、哲宗の親政とともに新法が復活した。 徽宗初期に垂簾した向太后は新旧両派を起用して融和を図ったが、徽宗親政とともに実権を握った蔡京は元祐党籍碑を建立するなど政敵を旧法党として徹底的に弾圧した。 宋を再興した高宗は、新法派の章惇の建議で哲宗の皇后を廃された孟氏の承認で即位した為、南宋では旧法が行なわれた。

 
 

府兵制 
折衝府 
傭兵制 
廂軍 
京営 
郷兵 
郷勇 
 楚勇 
 湘勇 
 淮勇 
団練 
新軍 

△ 補注:法制

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