北宋

 960〜1126
 後周の殿前都点検(近衛軍団長)だった趙匡胤が禁軍将兵に推戴され、後周に禅譲させた政権。 開封を国都とし、979年の北漢の征服を以て中国を再統一した。 北面に契丹、西北に党項の外敵を控え、燕雲十六州の奪回を標榜したが、中唐以来の藩鎮禍に顧慮して文尊武卑を国是とし、又た兵・政・財権を皇帝に集中させる独裁君主制を確立した。
 文尊の象徴として科挙の本格的運用と、舌禍・筆禍による処刑を禁じたことが挙げられ、多数の文人学者が任用されて古文復興運動道学が隆盛し、文人画が抬頭した。 又た浄土教禅宗印刷術陶磁器の盛行など市民を含めた諸文化が開花し、経済面でも銅銭の発行額が飛躍的に増大しただけでなく紙幣たる交子も出現した。 その反面で名文論が先行し、朝議はしばしば党争の場となって政務が停滞し、神宗の時代に始まる新旧法党の党争などはその典型といえる。 又た武卑策は“良鉄不釘”に象徴されるように武人の質と戦意を大きく削ぎ、貧民の雇用策として機能した軍は莫大な費用に反して外敵に対しては劣勢を強いられ、歳幣などによる講和外交と常備軍の肥大化は財政の大きな負担となった。
  ▼
 神宗の煕寧年間(1067〜77)に王安石が断行した新法は社会と財政の再建を骨子としたが、祖法遵守を主張する保守官僚や後宮勢力から排撃され、以後は新旧法党の政争によって政策が転変し、徒らに社会・経済を混乱させて状況を悪化させた。 更に宣和時代と呼ばれる文化の隆盛をもたらした徽宗の時代には天子と側近の道楽趣味などが加わって苛斂誅求が甚だしくなり、各地で暴動・叛乱が続発した。 徽宗の末期には新興の女真と提携して燕京を回復したが、滅遼後は女真に対する契丹の離叛を煽動して燕雲十六州の回復を謀り、報復としての開封陥落と徽宗・欽宗以下宗室・百官が拉致される靖康の難を惹起して王朝はいちじ断絶した。
太祖  太宗  真宗  仁宗  神宗  徽宗
 

太祖  927〜960〜976
 北宋の初代天子。諱は匡胤。涿郡固安の人。後唐以来の禁軍将校/後周の武清軍節度使趙弘殷の次子。 後周世宗による北漢親伐や南唐親征で常に大功があって殿前都点検・宋州節度使まで進み、世宗の死後、北伐途上の陳橋駅で将兵に擁立されて即位した。
 荊南を征服して蜀と江南の連携を断ち、次いで南漢江南を滅ぼし、呉越・北漢を残したまま急死した。
 統一事業の傍らで権力の分散による君主および中央への集権化を進め、正宰相の同平章事と副宰相の参知政事を複数名置く複数宰相制、六部の皇帝直属、知州・知県の任免権の朝廷への回収と通判の併設などが行なわれた。 殊に五代の弊政に鑑みて軍の統制に留意し、節度使から徴兵権・財政権を回収しただけでなく後任を設けない事で名誉職化し、江南征服後には殿前都点検を廃して禁軍を三分し、統率機関である枢密院の長官には文官を任ずるなど文治主義を推進した。 又た歴朝随一と称される文武官吏への保障を支える為に各種専売制度を確立し、運河を浚渫して漕運を整備し、財政面でも中央集権化が進められた。
 宮中に鉄牌を建て、大逆以外の言論による処刑の禁止と後周の柴氏の保護を定めたことは有名で、これは宋朝一代を通じて遵守され、鉄牌の存在は女真による開封占領によってはじめて外部に知られた。
  
陳橋の兵変 (960):殿前軍(禁軍)による趙匡胤の擁立。 五代では軍部の発言力が強く、又た幼帝を嫌う傾向があり、後周世宗の急死と幼帝の即位に乗じて入冦した契丹を迎撃する為に出征した殿前軍が、開封東郊の陳橋駅で泥酔した殿前都点検趙匡胤に黄袍を被せ、そのまま開封に転進して簒奪を成功させた。
 契丹入冦の形跡がなく、黄袍が予め用意されていた事などから、趙匡胤と腹心の趙匡義趙普が偽報を用いて行なったものとされ、外敵入寇の偽報から軍部による擁立までの過程は、郭威の先例に倣ったことで世に趙匡胤の即位を既定視させたと考えられる。趙匡胤の命令で革命はほぼ無血で行なわれ、恭帝をはじめ柴氏は手厚く保護された。

慕容延サ  913〜963
 太原の人。字は化龍。歴世の軍門で、後漢のとき枢密使郭威の軍に入り、後周で高平の役や南唐遠征に従って殿前副都指揮使・淮南節度使に進み、趙匡胤が簒奪すると殿前都点検・同中書門下二品に進んだ。 李筠を伐った翌年(961)に山南東道節度使・西南面兵馬都部署に、963年に湖南道行営都部署に転じ、湖南の内訌鎮圧を名として荊南に道を借りて高継沖を降し、次いで湖南を征服して検校太尉を加えられた。 病身での出征であり、かねてより不和だった監軍の李処耘との軋轢から程なく病死した。

王審g  924〜974
 遼西の人。字は仲宝。後周の太祖に仕えて世宗にも信任され、恭帝のとき殿前都虞侯・睦州防禦使とされた。 趙匡胤石守信らと親交し、宋初に翊戴の勲で殿前都指揮使に抜擢され、961年の解兵で中正軍節度使に転じた。 寛簡を旨とし、969年の太原の役にも従軍し、高懐徳とともに同平章事を加えられて京師に居した。

高懐徳  926〜982
 真定常山(河北省正定)の人。字は蔵用。後周で驍将として知られた天平軍節度使・斉王高行周の子。 父同様に武芸絶倫で、弱冠から父の征旅に従って武名が高く、世宗が親伐した高平の役では先鋒として奮戦し、南征でも多くの武勲を挙げて侍衛馬軍都指揮使に進んだ。 趙匡胤が即位すると殿前副都点検とされ、又た趙匡胤の妹を娶って駙馬都尉を加えられ、李筠李重進らを平定した後、961年の解兵で帰徳軍節度使に転じ、973年に同平章事を加えられた。 太宗より検校太師を加えられて武勝軍節度使に転じ、死後に渤海郡王に追封された。

石守信  928〜984
 開封浚義の人。後周の高平の役や南唐攻略での累功で殿前都指揮使に進み、次いで義成軍節度使を兼ね、趙匡胤とも親交があった。 趙匡胤が即位すると侍衛馬歩軍都指揮使とされ、李筠李重進討伐で大功があり、解兵で天平軍節度使に転じ、次子が太祖の駙馬とされた翌年(973)に侍中を加えられた。 太宗の世に中書令、検校太師に進位し、死後に威武郡王に追封された。吝嗇で巨富を積み、史書では「貪婪無厭。専務衆斂、積財巨万」と評された。

趙徳昭  〜979
 太祖の第2子。字は日新。太祖の存命中は封王されず、太宗のときに京兆尹とされた。温厚寡黙で人望が篤かったが、北伐中に太宗敗死の誤報伝わると徳昭擁立の動きが起こり、これより強く猜忌されるようになった。 帰国後に将兵の恩賞を求めたところ、「即位してから行なえ」と叱責され、猜疑されていることを憂えてまもなく自殺した。

太宗  939〜976〜997
 北宋の第二代天子。諱は匡義、後に光義、即位後はQ。太祖の次弟。太祖とは異なり、専ら読書を好んだという。 後周世宗の死後に趙普と与に陳橋の兵変を演出し、太祖を即位させた。 太祖の崩御から太宗即位までの経緯は不明瞭な点が多く、灯火の中で太宗を前に斧を振って訓示する太祖の影を以て“燭影斧声、千載不決の議”と呼ばれ、10日を残して年内改元を急いだ事などで、当時から暗殺論・簒奪論が根強かった
 呉越が献土した翌年(979)に北漢を滅ぼして中国の再統一を達成したが、北漢征服から北伐を強行して高粱河で契丹に大敗した。 又た父子世襲を図って甥の徳昭を自殺させ、次弟の秦王廷美を謀叛の嫌疑で房州(湖北)に流し、更に981年に太祖の次子の徳芳が頓死した結果、元佐は精神を病んで立太子を断念した。 他に党項の内紛に介入したことで西北辺を擾乱させるなど対外面で問題を残したが、科挙官僚を大量に登用・任用して官界の一新を進め、又た監察体制を強化するなど、分権支配による中央集権・君主専制を確立した。

趙普  922〜992
 幽州薊の人。字は則平。後周の下吏の時に南唐攻略中の趙匡胤に認められて幕下に招かれ、節度掌書記とされて趙匡義とともに陳橋の兵変を首謀し、趙匡胤が即位すると累進して964年に枢密使から宰相に至った。 太祖の末期に翰林学士盧多遜の讒言で左遷されたが、秦王廷美の処遇問題で太宗の諮問に応じて宰相に復し、992年に老齢を理由に致仕すると太師・魏国公に直された。
 沈毅果断と評され、政策の企画から実施におよぶいずれにも卓越した手腕を有し、宋初の政策の殆どは趙普の建議になるとされる。 復権後は太宗派の基盤確立の為に太祖派を積極的に排斥した。
  
金匱の誓 :太祖と生母の杜太后と趙普が約したという帝位継承法。 病床の太后が太祖に命じ、趙普が記録した製紙を金匱に収めたもので、太后の3子による兄弟相続の後に太祖の子が立つ事、成年の即位が定められたという。 太祖の最晩年に排斥された趙普が、太宗の即位の正当化と自身の復権の為に持ち出したもので、同時に秦王廷美以下の排斥を進言したと伝えられる。

王小波  〜993
 蜀州青城(都江堰市)の茶商。茶の専売化が行なわれた事を機に、993年に義弟の李順と共に「均貧富」を掲げて青城県に蜂起した。 当時の蜀は被征服地として搾取が甚だしく、これに豪民と佃戸の対立が加わっており、攻略した州県の富豪に財糧を供出させて貧民に分配し、人事や賞罰が明確で綱紀厳粛だった為、民衆に支持されて急速に大勢力に発展した。 王小波が成都攻略中に陣歿した後は李順が指導して翌年正月には成都を占領し、後蜀孟氏の遺児と称して大蜀王を号したが、翌年5月に成都を奪回されて行方不明となった。以後は張余が率いて流賊化し、官軍の招撫と離間で弱体化したのち995年に嘉州で鎮圧された。
 乱後、蜀の経済体制が見直され、茶法・塩法・貨幣制度などで蜀の独自性が公認された。 尚お、王小波らの主張は俗宗と混交して“均産教”として拡大し、12世紀に鍾相の乱を惹起した。

曹彬  931〜999
 真定霊寿(河北省)の人。字は国華。 郭威の張皇后の外甥として後周で重用され、趙匡胤にも謹慎篤実として信任された。 河東に契丹兵6万騎を撃退した翌年(964)に都監として征蜀軍に従い、王全斌ら諸将の横虐を抑止できずに降将の全師雄の乱を惹起したが、頻りに暴挙を諫めた事や文籍を保護して京師に送った事などを嘉されて義成軍節度使とされた。 しばしば北漢を伐ち、主帥となって進めた江南征伐では兵に寸毫も掠取させず、975年に昇州(南京)の無血開城を実現して枢密使とされ、間もなく北漢を伐って検校太尉・忠武軍節度使を加えられた。
 太宗が即位すると同平章事に進み、978年には検校太保に進位して983年に魯国公に封じられた。 986年の太宗の北伐でも潘美と共に従軍して岐溝関まで進んだが、功に逸る将兵と運糧の統制に失敗して大敗し、真宗の即位後に漸く検校太師・枢密使に復至した。
 第5子は曹国舅と呼ばれ、民間では隠棲後に仙人になったと称されて“八仙”にも数えられる。

潘美  925〜991
 大名(河北省)の人。字は仲詢。趙匡胤との親交と将才から重用され、李重進の平定に従った後、970年に行営兵馬都部署とされて南漢征服を指揮し、戦後に知広州・市舶司とされた。 曹彬の南唐征服にも副帥として従ったが、出征前に太祖に驕慢を窘められている。
 北漢の攻滅に乗じた太宗の北伐には北路都招討制置使として従い、契丹に敗れたものの雁門で雪辱した事で代国公に封じられ、後に忠武軍節度使に転じた。 986年の北伐では三路軍のうち西路の諸州行営都部署として雁門より進み、岐溝関での曹彬の敗績によって撤退する中で副使の楊業に絶地での防戦を強いて殺したが、翌年には旧職に復し、991年には同平章事を加えられた。

楊業  〜986
 楊継業とも。幷州太原、または麟州新秦(陝西省神木)の人。若い頃は無頼で騎射に長じ、父が後漢の麟州刺史となった関係で20歳で河東節度使劉崇に召され、北漢が興されると建雄軍節度使に進んだ。 劉鈞に仮子とされて継業と賜名され、代州で北防を担って“無敵”と謳われ、宋の太宗が北漢を滅ぼすと帰順して右領軍衛大将軍・鄭州節度使とされた。翌980年に雁門に来攻した遼兵を騎兵の奇襲で大破し、これより遼軍は楊業の軍旗を遠望すると軍を返すようになったという。 以後しばしば遼軍を撃退したが、986年の北伐で潘美に承旨した監軍の王侁の強要で寡兵で出撃し、力戦の末捕えられて絶食死した。
 楊氏は以後も暫くは宋の北防を担い、その事跡は『楊家将演義』として大衆文学化され、中国では広く知られている。

呂蒙正  944〜1011
 河南(河南省洛陽)の人。字は聖功。太平興国元年(977)の状元進士。太宗の治世最初の進士として期待され、987年に参知政事に進み、翌年には中書侍郎・戸部尚書を兼ねたまま科挙官僚最初の同平章事となった。 真宗にも信任されて1001年に宰相に復帰し、諸子の起用が諮られた際には従弟の子/呂夷簡を推挙した。

真宗  968〜997〜1022
 北宋の第三代天子。諱は徳昌、立太子後は恒。太宗の子。1004年、契丹軍の南下に直面すると宰相の寇準の進言で親征して澶淵の盟を結び、西夏との和議も実現したが、後に王欽若の讒言で盟を恥じて寇準を罷免した。 又た王欽若の進言で封禅・宮殿造営によって威信高揚を図った事は国費の濫費による財政難を結果したが、太祖以来の緊縮策で内蔵庫に退蔵されていた物資が放出され、統一後も漸進的だった国内経済の活発化をもたらした。
 真宗の時代には科挙官僚が国家の枢要をほぼ独占するようになり、同時に王欽若に代表される江南の財務系官僚が官界に進出して江南商人の影響力が拡大し、封禅事業には1700万貫以上が費やされ、各州県には天書奉安のための宮殿や道観が建立された。 尚お、占城米が江南で大々的に栽培され始めたのも真宗の時代で、蘇杭や湖広が全国的な穀倉に発展する基盤となった。
  
澶淵の盟 (1004):澶州(河北省濮陽市)の西南郊で結ばれた、契丹と宋との和議。 号20万を以て南下した契丹の聖宗に対し、宋の真宗も又た迎撃に北上し、決定的な会戦のないまま戦局が膠着した後に締結された。 宋は帛20万疋・銀10万両を契丹への歳幣とし、真宗は聖宗の母を叔母として遼に対して兄国となり、国境の現状維持、捕虜・越境者の送還などが定められ、このため孤立した党項も歳幣を以て宋に臣従した。
 1042年に党項の宋に対する離叛に乗じて歳幣の10万ずつの増額が行なわれたが、両国は末期まで大規模な軍事衝突を行なわず、殊に契丹は歳幣によって国礎を固め、経済・文化が発達して東アジア第一の強国となった。

寇準  961〜1023
 華州下邽の人。字は平仲。太平興国5年(980)に進士に及第すると枢密院直学士に累進し、上官との争議で知青州に出されたが、太宗に召還されて994年には参知政事に進み、剛直を唐の魏徴に譬えられた。 程なく復た中央を逐われたが、真宗の即位で三司使に直され、1004年には同中書門下平章事に至り、同年に契丹軍が大挙南下すると遷都論を抑え、強硬に親征を主張して澶淵の盟を結んだ。 王欽若の讒言で1006年には知陝州に遷され、1020年に王欽若が失脚して宰相に復したが、参知政事丁謂によって翌年には雷州司戸参軍に謫されて同地で歿した。

王欽若  962〜1025
 臨江軍新喩(江西省)の人。字は定国。太宗の淳化3年(992)の進士甲第。翰林学士などを経て参知政事に進み、1004年の契丹軍の南下では金陵遷都を唱えた。澶淵の盟が結ばれた後、これを『春秋』の城下の盟に譬えて寇準を失脚させ、次いで正統性や資質を疑問視されていた真宗の権威昂揚を図って1008年には天書降臨と封禅・宮殿造営を推進した。 勅撰の『冊府元亀』を完成させ、又た国史編纂を総裁し、1017年に同平章事・資政殿大学士とされた。
 政治的に不遇だった南人官僚として最初の宰相だったが、太子師に遷された翌年(1020)に丁謂によって失脚し、仁宗の即位と共に宰相に復して昭文殿大学士を加えられた。文才に優れていた反面て狡猾狭量で、殊に封禅・宮殿造営は知識人に強く批判され、朝廷の儀杖の拡充は後の財政難の原因となった。

楊億  974〜1020
 建州蒲城(福建省)の人。字は大年。 幼時から神童と称されて11歳で召試に応じて秘書省正字とされ、淳化3年(992)に進士及第とされた。 東宮にも信任され、真宗の即位とともに著作佐郎とされて『太宗実録』の大部分を修撰し、景徳年間(1004〜07)に王欽若と『冊府元亀』編纂を総裁し、王欽若との対立で下野したが、まもなく復して知制誥・翰林学士に進んだ。 真宗期の学者・文人の指導者として各方面に多大な影響を与え、特に制度・歴史に精通して詩文編纂も行ない、晩年は釈典をも志向していた。

知礼  960〜1028
 明州四明(浙江省寧波)の人。俗姓は金、字は約言。四明尊者・法智大師と称される。7歳で出家して天台学を学び、1004年に執筆した『十不二門指要抄』をめぐっての同宗他派との論争は“山家山外の争”と称され、天台宗復興の機縁となった。 楊億ら朝廷士大夫との交渉も深く、思想面において少なからぬ影響を及ぼしたと考えられる。

丁謂  962〜1033
 蘇州長洲の人。字は謂之、後に公言。淳化3年(992)の進士甲第。文才に秀でて「韓愈・柳宗元の再来」と絶賛された事もあり、又た財務にも長け、王欽若の政策を輔佐した。 1019年に王欽若を失脚させて参知政事に抜擢され、翌年には真宗の病臥中に劉皇后らと結んで寇準の失脚にも成功して同平章事に至った。 仁宗の即位とともに専横が弾劾されて崖州司戸参軍に遷され、明道年間(1032〜33)に秘書監に直され、致仕した後は光州に隠棲した。

銭惟演  977〜1034
 杭州臨安の人。字は希聖。呉越王銭弘俶の第6子。 真宗より文才を絶賛されて『冊府元亀』の編纂にも参与し、丁謂に与して知制誥・翰林学士などを歴任して枢密副使に進み、丁謂が失脚した際には弾劾に加わって保身した。 仁宗の劉太后の姻族でもあり、そのため程なく枢密使・同平章事に至ったが、1033年に劉太后が歿すると罷免されて随州に謫された。 西崑派の中心人物でもあり、欧陽脩・富弼らが幕下に連なった事もあり、晩年には河南主簿梅堯臣の詩才を絶賛して忘年の交を結んだ。

仁宗  1010〜1022〜1063
 北宋の第四代天子。諱はメB真宗の第6子。真宗の遺詔で即位した。仁孝寛容と称され、1033年より始まる親政では後に名臣と称される范仲淹韓g文彦博富弼らが要職に就き、後世で“慶暦の治”と称された。
 慶暦年間(1041〜48)は契丹(1042/歳幣20万の増額)・西夏(1044/歳幣20万での講和)との講和によって軍事が低減されたが、常備軍は100万を超え、膨張する軍費と地主系商人の土地兼併は農村を荒廃させて財政を悪化させ、農民一揆がようやく頻発するようになった。又た儒教の振興によって隆盛した文運も形式重視に陥り、新進官僚による政治改革も表面化した朋党によって頓挫し、嗣子なく歿した。
  
慶暦の治 :仁宗の慶暦年間(1041〜48)に君子的士大夫が主導して実現したとされる治世。 実際には、明道2年(1033)の仁宗の親政に伴う劉太后派の排斥の象徴としての郭皇后の廃黜論を起点とした、肯定派の宰相呂夷簡と反対派の言官の対立の画期の1つにすぎない。 言官派は呂夷簡を朋党の巨魁と該奏して1033・37年に失脚させたものの都度反撃されて中央を逐われたが、慶暦3年(1043)に呂夷簡が致仕すると范仲淹・余靖・欧陽脩らが挙任されて改革を試み、これが世に“慶暦の新政”“慶暦の治”と称された。 慶暦の新政は反対派によって年余で頓挫し、これより党争による国政の停滞が恒常化した。

呂夷簡  979〜1044
 寿州(安徽省)の人。字は坦父。呂蒙正の従父弟(従弟の子)。 真宗の咸平3年(1000)の進士。1022年に参知政事に進み、1029年に同平章事に至った。 太后の崩御によって親政をはじめた仁宗に与して郭皇后の廃黜を支持した為、同年(1033)に范仲淹ら新進官僚に該奏されて罷免されたものの程なく復し、1037年に罷免された際にも間もなく召還されて1040年には再び同平章事に復帰した。 実務派として仁宗の信頼も篤く、1043年に致仕した後は平章軍国重事として中書省・枢密院の議事に参与した。

王則  〜1047
 涿州の人。飢饉に遭って貝州(河北省清河)に流れて牧人となっていたが、後に宣毅軍の小校とされた。 軈て弥勒教を奉じて信徒を集め、1047年に州城を制圧して挙兵すると官や富家を殺害・劫掠して東平郡王を称し、しばしば官軍を撃退したが、66日で文彦博に鎮圧されて開封で処刑され、貝州は恩州と改名された。

狄青  1008〜1057
 汾州西河の人。字は漢臣。農民の出で、西夏との戦いを通じて韓g范仲淹らに見出され、1052年には枢密副使に上った。 儂智高の乱を鎮圧して枢密使に進んだが、一兵卒から累進した事と軍の輿望を進士官僚に猜忌されて1056年に判陳州に逐われ、朝廷の監視下で憂死した。范仲淹に勧められてより『左伝』を愛読し、又た兵の士気を慮って終生面涅(兵籍を示す刺青)を落さなかった。

儂智高  1026〜1055?
 広源州(広西自治区百色市域)の壮族。州の四大家の1つで、李朝に叛いた父の儂存福が1039年に平定されると母の阿儂と安徳(靖西県)の山中に逃れ、1041年にも造叛が鎮圧されたが、赦されて広源州牧とされた。 1048年に再挙して安徳州を陥すと南天国王を称し、1052年には李朝の討伐軍を撃退し、又た李朝に配慮した宋に称藩を悉く拒まれた為に邕州(南寧市)を陥すと仁恵皇帝を称し、国号を大南と改めた。 近隣の9州を攻略し、余靖ら宋の討伐軍を撃退したものの広州攻略は成功せず、翌年には狄青によって大破され、大理国に逃れて客死した。 阿儂・弟の智光・子の継封らも捕えられて儂氏は族滅されたが、壮族の団結を促して帰属意識を明確にし、一定の政治力を持つ集団として中国・ベトナムに認識させた事で民族の英雄とされている。

晏殊  991〜1055
 撫州臨川(江西省新賢)の人。字は同叔。文翰に長じ、真宗の景徳3年(1006)に進士及第とされて秘書省正字に就き、仁宗の時に同平章事兼枢密使・集賢殿学士に至った。学校再興など人材育成にもつとめ、韓g富弼らを推挙し、門下からは范仲淹欧陽脩らを輩出した。詞の大家としても知られた。

范仲淹  989〜1052
 蘇州呉県の人。字は希文。真宗の大中祥符8年(1015)の進士。仁宗の親政に伴う廃后問題で宰相呂夷簡を批判して知饒州に遷されたが、このとき弁護した官僚の多くが朋党として左遷され、自らを君子党と称した事が以後の党争の先蹤とされる。 間もなく西夏防禦使に転じるとしばしば西夏兵を撃退して畏憚され、呂夷簡が致仕すると欧陽脩の薦挙もあって枢密副使・参知政事に直され、欧陽脩・富弼らと綱紀粛正・財政再建の改革に着手して“慶暦の治”と美称された。 新政は1年足らずで反対派によって挫折し、知青州から知潁州に遷る途中で歿した。
 理学の先駆の1人でもあり、「先憂後楽」を称して宋代の士風を醸成した名臣と称揚され、亦た一族の為に設置した范氏義荘は義荘の範となった。

蘇舜欽  1008〜1048
 梓州銅山(四川省)の人。字は子美。仁宗の景祐年間(1034〜38)の進士。 時政の弊を上疏して范仲淹に認められ、知進奏院事とされて慶暦の改革に参与したが、反対派によって弾劾・罷免された後は蘇州に滄浪亭を建てて閑居した。 詩文においては奔放豪健・超邁横絶と評されて当時の詩風を一変し、欧陽脩らの革新運動を支援し、亦た書家としても当代一流と評された。

胡瑗  993〜1059
 泰州海陵(江蘇省)の人。字は翼之、号は安定先生。郷土で教育を生業とし、初めて学規を定めた。 40余歳の時、雅楽の改定に際して范仲淹の推挙で招聘されて鐘律を定め、後に保寧軍節度使として湖州で教授して独特の職業教育で評価され、朝廷が大学を建てる際には規範とされて国子直講に迎えられた。

包拯  999〜1062
 廬州合肥の人。字は希仁。仁宗の天聖5年(1027)の進士。諸官を歴任して1061年に三司使・枢密副使に進んだ。 剛毅廉直で綱紀粛正を任とし、在朝時は貴戚・宦官に頗る憚られた。公正・仁慈の人でもあり、天章閣待制でもあったために“包待制”とも呼ばれ、その名声は民間で殊に高く、後世まで理想的な名判官として“包晴天”と親しまれた。

契嵩  1007〜1072
 藤州鐔津(広西省梧州)の人。仏日契嵩、明教大師とも。本姓は李、字は仲霊、号は潜子。 7歳で出家して14歳で受戒し、各地を遊歴して南昌で洞山暁聡に就いて禅法を修めた。 当時は韓愈に始まる排仏論が一世を風靡しており、慶暦年間(1041〜48)に銭塘に遷った後は禅門祖伝の系統を明らかにするなど仏教の再興に尽力しつつ、儒教の日常倫理を尊重した仏教教義の解釈を試みる一方で三教帰一を唱えて排仏論を痛撃し、後世に多大な影響を残した。

英宗  1032〜1063〜1067
 北宋の第五代天子。諱は曙。仁宗の従弟/濮安懿王允譲の第13子。当時は禁軍と冗員の肥大、自営農の減少などから財政改革が急務とされており、英邁な資質に期待されたが、即位直後から“濮議”によって朝議が停滞し、病弱でもあったために改革には殆ど着手できずに歿した。
  
濮議 :英宗の実父/濮王の祭祀上の尊号を巡る紛議。仁宗の嗣子として即位した英宗と実父の濮王との父子関係を否定する富弼司馬光ら皇伯派と、生親を伯父とする事の背礼・非情を批判する韓g欧陽脩ら皇考派の争議が、執政と言官(御史台・諫官)の対立となって朝議が長期にわたって空転した。 皇太后の折衷策である皇親案が採用されて決着が図られたが、皇伯派は尚も名分論を堅持して皇考派を批判した為に多くが罷免され、英宗の死によって収束した。

蔡襄  1012〜1067
 興化仙遊(福建省)の人。字は君謨。仁宗の天聖年間(1023〜32)の進士。知制誥などを経て翰林学士・三司使に累進した。欧陽脩と親交があり、慶暦の改革では范仲淹・韓gらに与し、濮議では皇伯派を排撃した。 知泉州のとき、泉州湾に全長三百丈と称される万安橋を築き、又た七百里に亘って道路に松を植えるなど民政などにも尽くした。
 王羲之顔真卿の書法を兼ね、宋四大家に数えられる。 端明殿学士時代が長く、蔡端明とも呼ばれた。

梅堯臣  1002〜1060
 宣州宛陵(安徽省宣城)の人。字は聖兪、号は宛陵先生。 士大夫との閨閥を形成していた謝氏と通婚したが、叔父の翰林学士梅詢の恩蔭(任子)で仕官した為に官途は不遇で、地方官を歴任して1051年には同進士出身とされたものの疫病によって尚書都官員外郎で終った。 銭惟演欧陽脩らに詩文の才を認められて『唐書』編纂に参加し、又た西崑体に象徴される華美・晦渋・空虚な詩風を批判して平易・淡白を主張し、当時の詩風を一変させて蘇舜欽と並称された。

蘇洵  1009〜1066
 眉州眉山(四川省)の人。字は明允、号は老泉。晩学で文・書に善く、科挙には失敗したものの読書に励んで論文を著し、欧陽脩・韓gに認められて諸文士と交流して声望が高かった。 議論文を得意とし、『太常院革礼』編纂に参加し、完成直後に歿した。唐宋八大家に数えられ、名分論に対する迎合を自戒していた。

欧陽脩  1007〜1072
 吉州廬陵(江西省吉安)の人。字は永叔、号は醉翁・六一居士。 苦学して仁宗の天聖8年(1030)に進士甲第に及第し、1036年に范仲淹を弁護して失脚したが、1043年に知諫院とされると慶暦の新政を支持して『朋党論』を著し、自身らを君子党として正当性を喧伝し、杜衍・韓g・范仲淹・富弼らの左遷を極諫して地方に出された。 後に翰林学士とされ、1057年には権知礼部貢挙とされて科挙を監督したが、復た時弊を上疏して地方に出された。 1060年に枢密副使に直され、翌年に参知政事に進み、濮議では台諫側の司馬光らと対立し、神宗が即位した当初は王安石の新法に理解を示したものの青苗法に強硬に反対し、致仕を許されると潁州に隠棲して六一居士と称した。
 韓愈の文章と思想を宣揚して唐宋八大家に数えられた一方で、周漢以後の金石文を注解した『集古録』を著して金石学の祖ともされ、亦た史学にも通じて『新五代史』『新唐書』を著した。 尚お、『日本刀歌』では、鮫皮を柄として香木を鞘とし、金銅の透かし彫りの鍔を有する日本刀の事が詠われ、破邪の効能が期待されていた事にも言及している。

韓g  1008〜1075
 相州安陽の人。字は稚圭。天聖5年(1027)の榜眼進士。通判から右司諫に累進した後、呂夷簡と対立して陝西経略安撫招討使に出されて范仲淹とともに西夏防禦にあたったが、しばしば大敗を喫した。 慶暦3年(1043)に枢密副使に叙されて范仲淹らと新政を推進し、1058年には同平章事に至り、英宗の定策にも参与して魏国公に封じられた。神宗が即位すると司空に進位されたが、新法に反対して判相州に出され、永興軍節度使を拝命する直前に歿した。

曾公亮  998〜1078
 泉州晋江の人。字は明仲、号は楽正。天聖2年(1024)の進士。 1061年に同平章事・集賢殿大学士に至り、韓埼らと与に執政した。当時、閣僚の交替が頻繁だった事に乗じて吏員の横恣が絶えなかったが、万事に自ら検分・決裁する事で弊風を改め、狷介な欧陽脩にもその手法は支持されて世に賢相と評された。 神宗による王安石の挙用にも与力し、煕寧2年(1069)に魯国公に封じられたが、新法を批判して同4年に判永興軍に転じ、王安石の転出で中央に召還されたものの、老齢での留官を諷諫する李復圭の詩に接して太傅を以て致仕した。

富弼  1004〜1083
 洛陽の人。字は彦国。范仲淹の勧めで制科に及第し、しばしば強硬外交論を上書した。 累進して1042年に知制誥・遣契丹使となり、歳幣の増額や割地を拒んで宋の国体を護持して帰国した翌年(1043)枢密副使に進み、欧陽脩らと改革を進めた。 1045年に失脚して知鄆州に出され、1055年に文彦博と与に同平章事とされて政務を総理し、母の喪を挟んで英宗が即位すると枢密使とされ、神宗の煕寧2年(1069)に宰相に復したが、新法に反対して致仕を求めて判亳州に出された。 以後も青苗法の執行に従わず、致仕した後も執拗に新法の廃止を上書した。

柳永
 崇安(福建省武夷山)の人。字は耆卿、原名は三変。景祐元年(1034)の進士で、屯田員外郎となった。人として当時から著名で、艶詞が多い事で鄙俗と評されたが、叙情に優れ、従来の短篇詞主体に対して長篇詞を好み、詞史に新生面を与えた。

神宗  1048〜1067〜1085
 北宋の第六代天子。諱は頊。英宗の長子。1066年に皇太子とされ、即位後は弊政の改革を志して王安石を抜擢し、財政再建を骨子とする新法を実施したが、既得権に固執する地主豪商系官僚に猛反対されて党争が激化した。 新法は実利重視に傾斜しながらも財政を好転させ、中央から排斥された官僚の政事以外での活動を保証した為に文化活動も活発化したが、平和外交を旨とする王安石とは次第に隔意を生じ、王安石の不在中に行なわれたベトナム攻略と、王安石の失脚後の西夏攻略は何れも失敗した。 王安石の失脚後は神宗自ら新法を継続して官制改革を行なったが、新法は神宗の死とともに全廃された。

王安石  1021〜1086
 撫州臨川(江西省)の人。字は介甫、号は半山。仁宗の慶暦2年(1042)の進士。 家族を養うため主に地方官を歴任して治績を挙げ、1058年には中央に召されて仁宗に“万言書”を上呈したが、狷介さを忌まれて用いられなかった。 神宗が即位すると知江寧府、翰林学士をへて熙寧2年(1069)には参知政事とされ、制置三司条令司を新設して新法を逐次実施し、翌年には同平章事に至った。
 熙寧新法は主に中・下級の農民や商人を庇護し、冗費を削減して経済力の再建を図るもので、財政・治安に実績を挙げたが、既得権を侵された地主・豪商・官僚と皇族・後宮の猛反対に抗しきれず、市易法を機に生じた内訌と後宮の排斥運動で1074年に知江寧府に遷された。 翌年には同平章事に復帰したが、呂恵卿の掣肘や神宗との隔意、長子の夭逝などが続いて1076年に中央を退き、翌年には知江寧府も致仕して鍾山に隠棲し、司馬光による新法全廃の最中に歿した。 文人としても著名で、文章家として唐宋八大家に数えられ、七言絶句は北宋第一と評される事もある。

司馬光  1019〜1086
 陝州夏県(山西省)の人。字は君実、号は迂叟。仁宗の宝元元年(1038)の進士で、濮議では名分を重んじて皇伯論を主張した。 神宗が即位すると翰林学士・御史中丞となり、行財政改革には賛意を示していたものの士大夫の既得権を侵害する新法に反対して下野し、洛陽での隠棲中に勅命で『資治通鑑』を完成させた。
 哲宗が即位すると宣仁太后の庇護を得て尚書左僕射・門下侍郎に復し、すべての新法を廃して社会を混乱させた末、在任8ヶ月で病死して温国公を追贈された。後に元佑党人として官位を剥奪され、北宋末に名誉が回復された。

文彦博  1006〜1097
 汾州介休の人。字は寛夫。 天聖5年(1027)の進士。1047年に枢密副使とされ、王則の乱を平定して同平章事・集賢殿大学士に進んだ。 富弼らと共に財政再建のための軍縮を進め、又た韓維王安石らを推薦するなど人事にも意を用いたが、煕寧新法に反対して中央を退いた。
 哲宗が即位すると司馬光らの要請で平章軍国重事に就き、6日1朝が認められるなど朝廷の重鎮として尊重され、在任5年で致仕した。 その名声は契丹にも伝わり、白居易の九老会に倣って富弼・司馬光ら13人と創った洛陽耆老会は文人に羨望された。

曾鞏  1019〜1083
 建昌南豊(江西省)の人。字は子固、号は南豊先生。太学時代に欧陽脩に認められ、嘉祐2年(1057)に進士に及第すると実録編纂官などを務めた後、地方官を歴任して治績を挙げた。 王安石と親交があったが、煕寧新法には批判的で、1082年に中書舎人となった。唐宋八大家の1人。

呂公著  1018〜1089
 字は晦叔。呂夷簡の子。恩蔭で仕官した後に慶暦2年(1042)の科挙に及第し、神宗が即位すると翰林学士とされて英宗実録を編纂したが、王安石の青苗法を厳しく批判して中央を逐われた。 神宗が歿すると尚書右僕射・中書侍郎に任じられて司馬光を輔けて新法を悉く廃止し、1088年には司空・同平章軍国事に至り、在任中は旧法党内の反目を能く調整し、死後に申国公を追贈された。

呂嘉問
 字は望之。呂夷簡の曽孫。呂公著の従祖兄弟(兄弟の孫)。 恩蔭によって任官し、計数に長じた事で王安石に認められて市易法では実施官となったが、価格暴落と強引な資金貸与・強制徴収などで却って市場の混乱と中小商人の没落を助長し、曾布ら新法派からも批判者を出して王安石の失脚に至った。 1077年に王安石の後任の知江寧府とされ、神宗の死で左遷されたものの紹聖年間(1094〜98)に直学士・知開封府に至り、旧法派の弾圧を積極的に進めた為に哲宗が歿すると左遷されたが、蔡京の執政で復帰して龍図閣学士・太中大夫とされた。 呂公弼による弾劾文を事前に王安石に知らせるなど一族とは歩調を異にし、そのため“家賊”とすら呼ばれて除籍された。

呂恵卿  1032〜1111
 泉州晋江の人。字は吉甫。仁宗の嘉祐2年(1057)の進士。文才と幹事の才を王安石に認められて三司条令司検詳文字から知制誥・翰林学士に累進し、1074年に王安石が転出すると参知政事となって同平章事の韓絳とともに新法を推進した。 富民から銭を強借して田地を購入し、或いは韓絳・王安石を讒言するなど新法を権力維持の具とし、王安石の再起用とともに左遷された後は哲宗の紹聖年間にすら用いられず、不遇のまま歿した。 賢良文学より発展した臨時の人材登用法である制科の廃止を主唱し、手実法の実施者でもあった。
 新法不評の一因は、呂恵卿や蔡京に代表される新進の小人を起用せざるを得なかった点にもあり、金陵へ引退した王安石は、しばしば“福建子”の三字を書いて呂恵卿の起用を後悔したとも伝えられる。

韓絳  1012〜1088
 開封雍丘の人。字は子華。参知政事韓億の子。慶暦2年(1042)の進士。 王安石の新法を支持し、1074年に王安石が失脚した後は同平章事として参知政事の呂恵卿と与に神宗を輔佐して新法を推進したが、呂恵卿の独走を制御できずに翌年には王安石が復帰した。知定州・知河南府などを歴任し、司空・検校太尉を以て1087年に致仕した。

韓維  1017〜1098 ▲
 字は持国。韓絳の弟。恩蔭で任官し、諸王時代の神宗に記室参軍として従い、同修起居注・知制誥を歴任し、神宗の下で翰林学士・知開封府に進んだ。 王安石と親交があったが、青苗法に反対して知襄州に出され、1074年に翰林学士承旨に迎えられた後も新法を強く批判した。 元祐元年(1086)に門下侍郎に叙され、次いで南京留守(応天府)に転じ、太子少傅を以て致仕したが、1095年に元祐党人として削官のうえ均州(湖北省均県)に徙された。

王韶  1030〜1081
 江州徳安(江西省)の人。字は子純。進士に及第したものの制科に失敗し、陝西に客遊した事で辺事に通じ、1068年に河湟の回復を唱える『平戎策』を上奏して秦鳳路経略司機宜文字とされた。 秦州などに市場・営田の諸司を設置し、洮州・岷州・宕州などを恢復して1072年に煕河路を新設し、青海の青唐羌の経略に尽力して宰相以外で初めて資政殿・観文殿学士を授与された。 ベトナム攻略に失敗して失脚し、知洪州で終わった。

周敦頤  1017〜1073
 道州営道(湖南省)の人。字は茂叔、号は濂渓。幼時に父を喪い、外祖父の鄭向に養育された。 景祐3年(1036)に任官し、知南康軍などを歴任した後に廬山に隠棲した。
 その思想は儒学に道教を混え、禅宗・華厳宗など仏教の影響も受けたもので、人品を生来のものとして区別した韓愈の性三品説を否定して万人が学問を通じて聖人足りうる事を主張し、易思想に立った宇宙論を『太極図説』に著し、易の通論として『通書』を著した。 学説は程・程頤に継承されて朱熹に至って大成され、朱熹から「孟子の継承者」「道学の始祖」と絶賛された事で道学の重鎮と見做された。

張載  1020〜1077
 鳳翔郿県の人。字は子厚、号は横渠先生。嘉祐2年(1057)の進士。経世済民の志が強く兵法を好んだが、1041年頃に范仲淹に師事して儒を学び、一時は仏教・老荘に転じたが、後に開封で二程に接して儒学に回帰した。 地方官を歴任したのち1069年に中央に召還されたものの新法に反対して帰郷し、煕寧10年(1077)に召還された際にも程なく致仕して帰郷途上で歿した。
 その思想は生成・消滅などすべての現象を陰陽二気で説明し、気が無形の状態である“太虚”を気の本体と考え、人間の気質である性を天地の性に一致させる事を主張した(気一元論)。

蔡確  1037〜1093
 泉州晋江の人。字は持正。仁宗の嘉祐4年(1059)の進士。王安石に認められて常平法・免役法の実施を担当し、王安石が致仕した後は王珪と共に神宗を輔けて新法を推進し、元豊5年(1082)には尚書右僕射兼中書侍郎に進んだ。 権勢欲が強く、しばしば新法派をも失脚させて昇任し、富弼に「小人」と弾劾されたものの相職を保ち、神宗の歿した直後には左僕射に進められた。 司馬光の執政で地方に出され、安州で詠んだ詩が譏政かつ宣仁太后を武則天に擬したものと該され、新州に謫されて歿した。

沈括  1031〜1095
 銭塘の人。字は存中。嘉祐8年(1063)の進士。神宗期に司天監とされて暦官として認められ、荒蕪にも治績を挙げ、遼使の割地要求を撤回させた事で翰林学士・権三司使に進み、王安石の新法を輔けた。 知宣州・知延州などを歴任したが、元豊5年(1082)に蔡確に讒言されて均州団練副使に左遷された。
 主著の『夢渓筆談』は潤州に隠棲した晩年の作で、当時の科学知識の集大成とされる。

哲宗  1076〜1085〜1100
 北宋の第七代天子。諱は煦。神宗の第6子。即位当初の元祐年間(1086〜94)は宣仁太后が垂簾して司馬光旧法党が復権し、新法は悉く廃止されて社会が著しく混乱した。 太后が歿して親政を始めると礼部侍郎楊畏の進言で章惇を宰相とし、紹聖(1094〜98)と改元して新法の再開を宣言し、後に“紹聖の紹術”と讃えられたが、頻繁な国策の転換は徒に社会を混乱・疲弊させた。 又た旧法党によって編集されていた『神宗実録』を改修し、看詳訴理局を設けて旧法党を処罰するなど新旧両派の政争は党争に堕して国政の分裂と停滞をもたらした。 嗣子なく歿し、浪子と評判の弟の端王佶が立てられた。

宣仁太后  〜1093
 亳州の人。姓は高。英宗の皇后。神宗の死後に垂簾政治を行ない、契丹との関係も良好となって“女中の堯舜”と讃えられたが、司馬光ら旧法党を再起用して新法を悉く廃止し、政策の混乱と後の両派の党争をもたらした。

呂大防  1027〜1097
 京兆藍田の人。字は微仲。仁宗の皇祐元年(1049)の進士。 英宗が即位すると太常博士とされたものの濮議で貶黜された。哲宗が即位して翰林学士に直され、累進して元祐3年(1088)には尚書左僕射兼門下侍郎に至った。 元祐年間の殆どを宰相首座にあって旧法諸派の反目に苦慮し、元祐末(1094)に知随州に出され、次いで舒州団練副使として循州(広東省恵州)に謫される途上、虔州(江西省信豊)で病死した。

  1032〜1085
 洛陽の人。字は伯淳、号は明道先生。弟の程頤とは“二程子”と併称される。嘉祐2年(1057)の進士で、地方官として治績を挙げて中央に召されたが、煕寧新法に反対して転出し、実務に長じて“通儒全才”と称された。
 弱冠から周敦頤に師事し、森羅万象を秩序化している宇宙の根本原理を“理”と呼び、理の直感的な把握を主張した。 その思想は弟の程頤に継承されて理学の完成を導引した一方で、陸九淵によって心学が形成された。

程頤  1033〜1107 ▲
 字は正叔、号は伊川先生。程の弟。 兄とともに周敦頤に師事し、張載とも交友があり、太学では胡瑗に師事した。科挙に失敗した後は精学し、司馬光の推挙で50歳を過ぎて哲宗の侍講に就いたが、狷介な質から蜀党との軋轢を生じて紹聖年間に四川の涪州に流謫された。
 程の理説を発展させ、“理”は現象を成立させる本質的かつ抽象的なものと考え、絶対善たる理を追窮する事を“格物”と呼び、理と事(現象)の合一を主張して道学の大綱を定めた。徽宗の即位後に赦されたが、その学説は邪説として閉門され、官位も剥奪されたままだった。

劉摯  1030〜1098
 永静軍東光(河北省)の人。字は莘老。嘉祐4年(1059)の進士甲第。 南宮県令として抜群の治績を挙げて王安石にも器重されたが、新法を排撃して衡州に転出した。 元豊元年(1078)に徴還され、哲宗が即位すると御史中丞に進められて司馬光に新法の即時撤廃や新法派の徹底排除を勧め、呂公著が致仕した翌年(1089)に門下侍郎に就いた。 性峭直だった為に左僕射の呂大防と対立することが多く、又た人事で蜀党とも反目し、1091年に右僕射に進んだものの洛党との確執から中央を逐われ、紹聖4年(1097)には新州(広東省新興)に流されて憤死した。

蘇軾  1036〜1101
 眉州眉山の人。字は子膽、号は東坡居士。蘇東坡として知られる。 蘇洵の子。嘉祐2年(1057)の進士。夙に将来を嘱望されたが、煕寧新法に猛反対して杭州通判など地方官を歴任し、1079年には詩文中で時政を誹謗したとして黄州(湖北省黄岡)に配流された。 哲宗が即位すると翰林学士・侍読とされたが、募役法の廃止に反対し、亦た程頤ら洛党との反目から知杭州に出され、1092年に礼部尚書に復したものの、哲宗が親政を始めると恵州、ついで瓊州(海南島)に流された。徽宗の即位で赦され、上京途上の常州で客死した。
 線の太い詩は宋代文学の最高峰とされ、黄州時代に詠まれた『赤壁賦』は傑作として知られる。 詩のみならず文章家、書家としても著名で、文人としては父・弟とともに“三蘇”、或いは単独で“大蘇”とも呼ばれ、唐宋八大家や宋代四書家(蘇軾・米芾黄庭堅蔡襄)に数えられる。

蘇轍  1039〜1112 ▲
 字は子由、号は潁浜。蘇軾の弟。嘉祐2年(1057)の進士。新法の実施時には三司条令司の書記とされたが、青苗法に反対して河南推官に出され、蘇軾に連坐して筠州(江西省高安)に流された。 元祐年間に右司諫から翰林学士、門下侍郎と進み、部分的に新法を認めて西夏対策などにも独自の見解を示し、直言や旧法派内部の対立などから知汝州に出された。 紹聖以降は嶺南の化州・雷州・循州を転遷し、哲宗の死後に許州に隠棲した。文人としても兄と並んで知られ、“小蘇”と呼ばれた。唐宋八大家の1人。

黄庭堅  1045〜1105
 洪州分寧(江西省修水)の人。字は魯直、号は山谷道人。英宗の治平4年(1067)の進士。 新法を批判した為に地方官を歴任した後、哲宗のとき蘇軾に詩を認められて『神宗実録』編纂に参与した。 校書郎・著作佐郎・起居舎人などを歴任したが、哲宗が親政を始めると流謫され、哲宗が歿して徴還されたものの、1102年に時政を誹謗したとして宜州(広西自治区)に流されて病死した。
 蘇軾門下の蘇門四学士に数えられたが、詩風は蘇軾と異なって難解な典故・禅語を好んで晦渋な作品が多く、その詩風は後に“江西派”と称された。 愛好者の絶えない文章家でもあり、書家としては北宋四大家の1人とされ、魏晋以来の超俗的な書風を理想とし、特に草書は独特の風を有する。

王存  1023〜1101
 潤州丹陽の人。字は正仲。慶暦年間の進士。新法には批判的だったが、煕寧年間に右正言・知制誥に進み、後に知開封府・兵部尚書・吏部尚書を歴任して知杭州で終わった。欽定した『元豊九域志』は宋代だけでなく歴代の地志の模範とされた。

呂大臨
 京兆藍田の人。字は与叔。呂大防の弟。はじめは張載に師事し、後に二程に学んで程門四先生の1人と呼ばれ、博学で文章を能くした。又た兄の呂大鈞とともに煕寧9年(1076)に藍田に郷約を組織した。
 郷約は南宋で朱熹が修正を加えて村落教化の良法として普及し、明代には普遍的になった。

曾布  1036〜1107
 南豊(江西省)の人。字は子宣。曾鞏の弟。嘉祐2年(1057)の進士。 1069年に韓維・王安石に薦挙され、呂恵卿と与に王安石の新法を輔けて翰林学士兼三司使に進んだが、市易法に対して呂嘉問の手法から官府による権力兼併の可能性を危惧して反対した為に失脚した。 知県を歴任したのち元豊の末に翰林学士に復したものの、司馬光の政策を批判して排斥され、親政を始めた哲宗に徴還されて知枢密院事とされ、章惇の起用を勧めて新法を推進した。 哲宗の死後は端王を支持して章惇と対立し、徽宗が即位すると同平章事とされたが、1022年に蔡京に枉陥されて中央を逐われ、別駕・司戸などを歴任して潤州(江蘇省鎮江)で歿した。

章惇  1035〜1105
 建州浦城(福建省)の人。字は子厚。嘉祐2年(1057)の進士。王安石に認められて三司条例官に列し、湖南の少数民族対策で強硬策を用いて失敗したが、王安石が罷相した翌年(1077)に翰林学士に直されて1080年に参知政事に進んだ。 神宗が歿して新法が廃止される中、募役法の存廃で司馬光を論破したものの失脚し、哲宗の親政の開始とともに徴還されて曾布蔡卞らと与に新法を再開させたが、一方で蘇軾の赦免取消、司馬光呂公著らの贈諡剥奪、宣仁太后に立てられた孟皇后の廃黜など旧法派を徹底的に排斥し、両派の怨恨を徒に助長した。
 哲宗の死後、端王の擁立に反対した為に徽宗が即位すると雷州に左遷され、蔡京の執権下で睦州団練使に貶されて歿した。 中央から逐った旧法派には官舎を認めずに民家に住まわせ、その上で不法占拠に枉陥する事がしばしばあり、雷州では蘇轍に好意的だった知州をも罷免した為、雷州での評判は極めて悪かったという。南宋では孟太后の遺恨もあって禁錮の家とされた。

蔡卞  1048〜1117
 興化仙游(福建省)の人。字は元度。蔡京の弟。熙寧3年(1070)の進士。 王安石の婿でもあったが、煕寧中は朋党の謗りを避けて顕職には就かなかった。 哲宗が親政を始めると韓絳章惇らにも信任されて新法の再興を推進し、紹聖4年(1097)には尚書左丞とされた。 徽宗の下で蔡京が重用されると知枢密院事・資政殿大学士とされ、西北辺の失地回復を標榜したが、蔡京とは元祐の変節の頃より不和で、蔡京派の童貫が西夏に対峙する陝西制置使とされた事で確執が決定的となり、1105年に知河南府に転出し、邪宗崇拝の嫌疑の中で歿した。兄同様に書家としても知られた。

李公麟  1049?〜1106
 舒州舒城の人。字は伯時、号は龍眠。煕寧3年(1070)の進士。中書門下刪定官、朝奉郎などを歴任した。 元符3年(1100)に致仕すると龍眠山に隠居して画に耽り、六朝の顧ト之陸探微を学んで白描画を再興し、古典調の写実的作品を残した。考古器物の鑑定や書家としても名高かった。

郭煕
 河陽温県の人。字は淳夫。李成の画を学び、後に李成と並称されて“李郭”、或いは“絶筆”と称された。神宗の時(1067〜85)画院に入って絶賛され、待詔として宮廷画家を指導し、北方系山水画様式を確立した。 雲頭皴・蟹爪樹などの技法を用いて描画し、蘇軾・黄庭堅・王安石らにも絶賛されたが、士大夫の嗜好の変化によって南宋では殆ど評価されなかったという。 その山水画論は『林泉高致』にまとめられ、代表作として『早春図』『渓山秋霽図鑑』などがある。

徽宗  1082〜1100〜1125〜1135
 北宋の第八代天子。諱は佶。神宗の第11子。哲宗の弟。端王時代から浪子(遊蕩人)として知られ、即位には宰相の章惇らの反対があった。 即位当初は向太后が臨朝して新旧両法の融和を図り、親政後は蔡京を重用して新法を推進したが、すでに新法は政局の具に過ぎず、蔡京の反対派は旧法党として“元祐奸党碑”に刻されて禁錮・弾圧された。
 中国屈指の芸術家として書は痩金体、画は院体を以て後世まで知られ、全国から文化財を蒐集・保護して文芸を振興し、“宣和時代”と呼ばれる文化的最盛期を現出したが、政事に対する意欲に乏しく、童貫・蔡京らを信任して遊興に耽り、宮殿・庭園の造営、道教への傾倒などは財政をさらに悪化させた。 殊に楽尺(当時の規定の92%の楽器専用の尺)を用いた検地による土地没収や、珍木奇石を徴発した花石綱は悪政の最たるものとされ、方臘の乱に代表される造叛が各地で頻発した。
 新興の金と共同して燕京を回復しながらも滅遼後は金に対する叛乱を煽動するなど外交指針は定見に欠け、背信を糾弾する金軍に侵攻されると太子に譲位したものの太上皇(教主道君皇帝)として発言力を保った。 靖康の難で捕虜として北徙されて五国城(黒竜江省依蘭)で幽閉死し、1142年に紹興の和議が成ると遺体は江南に送還された。

欽聖太后  1046〜1101
 河内の人。姓は向。神宗の皇后。真宗の宰相向敏中の曾孫。哲宗の即位で皇太后とされ、1100年に哲宗が歿すると端王を即位させて臨朝した。穏健派の曾布を信任して新旧両党の融和に腐心し、半年程で還政した。

童貫  〜1126
 開封の人。字は道輔。宦官李憲の門の出で、書画に対する造詣から徽宗に寵任され、蔡京を支持・後援する事で権勢を振るった。姿貌雄偉で軍事を好み、監軍として煕河路を回復して甘粛・青海地方の経営に治績を挙げ、1111年に太尉・領枢密に進んだ。 後に金国との同盟を進言・成功させて自ら燕雲回復の帥となったが、方臘の乱が勃発した為に北伐軍を転用して鎮圧し、次いで北伐に転じたものの末期症状の遼軍に大敗し、金軍の助力で燕京を陥落させた。 滅遼後に金の攪乱を謀って国難を招き、欽宗が即位すると六賊の1人として英州に流されて間もなく処刑された。

蔡京  1047〜1126
 興化仙遊(福建省)の人。字は元長。蔡襄の従孫。煕寧3年(1070)の進士。 新法を支持して元豊の末に開封尹となり、神宗が歿して旧法派が復権すると逸早く管内の新法を悉く廃して司馬光に絶賛され、これより弟の蔡卞とは不和になったという。 結局は新法派として罷免されたが、哲宗が親政を始めると翰林学士に直され、徽宗が即位すると宦官童貫に通じて文芸に対する造詣と佞言を以て徽宗に親接し、1103年には左僕射(宰相首座)とされた。
 政敵を旧法党に一括して“元祐党人碑”を建てて禁錮するなど反対派を徹底的に排除し、徽宗の信任や童貫との結託を背景に専権を極め、新法を悪用した苛斂誅求は宣和時代の現出にも資したが、民生を圧迫して国力を著しく疲弊させた。 宣和の頃(1119〜25)には朝廷の実権は子の蔡攸に移りつつあったが、徽宗が退位すると六賊の筆頭として嶺南に流謫され、途上の潭州で病死した為に死罪の追刑を免れた。書画骨董の鑑定家として名高く、蔡襄・蔡卞とともに能書家としても知られた。

朱勔  〜1126 ▲
 蘇州の人。父の朱沖は売薬で財を為し、蔡京を介して徽宗に黄楊3本を献上してより重用された。父子で花石綱を主宰して横虐を恣にし、更に朱勔は防禦使を兼務して苛斂誅求を行ない、私邸は“小朝廷”とすら称され、公田法を悪用した華北の李彦と並んで怨嗟の的となり、“誅朱勔”を標榜した方臘の乱は大叛乱に発展した。 徽宗が退位すると六賊として弾劾され、湖南から広南に徙されて処刑された。
  
花石綱 :宋の徽宗の時代、江南で強制徴発した珍木奇石を京師に運んだ船団の称で、御物を示す綱を掛けた事に由来する。 徽宗が庭園を飾る珍木奇石を求め、蔡京が立案して朱冲・朱勔父子が実行し、後に蘇杭応奉局を特設して朱勔を長官とした。 後に綱は奇巌にも及び、運搬の障害となる家屋が無償で毀壊されるなど道中の狼藉は一切黙認され、さらに運搬の労力は沿道の民衆の負担とされ、輸送は一切の船舶に優先して行なわれたので深刻な弊害を誘発した。1120年に誅朱勔を標榜する方臘の乱が勃発して中止された。

米芾  1051〜1107
 襄陽の人。字は元章、号は鹿門居士。 実母が宣仁皇后の乳母だった事から仕官して江南の地方官を歴任し、1104年の書画学設立と共に書画学博士として招聘され、徽宗の側近として礼部員外郎・太常博士を歴任した。 書画理論に通じて鑑識・蒐集でも第一人者であり、官蔵の厖大な書画を鑑識する傍らで董源の画法を学び、水墨の雲山・烟樹を好んで山の慨形・樹の枝幹を輪郭線を用いずに墨暈に墨点を重ねて表現する“米法山水”を創始し、北宋の山水画家として李公麟と並称される事もある。 又た書は二王を修め、蘇軾黄庭堅蔡襄とともに宋代四書家とされた。 偏頗奇矯な言動でも知られ、蘇軾や黄庭堅らに愛された一方で御前でも両者を謗る事があり、又た唐代の装束を墨守し、世に“米顛”“米痴”などと呼ばれた。
  ▼
 懶拙老人と号した子の米友仁(1072〜 1151)も書画鑑識に長け、南宋で敷文閣直学士まで進んだ。 書画にも通じ、墨暈で輪郭を表現する雲山図を得意とし、父に勝る天性を以て米法山水を完成させて“小米”とも称された。

張商英  1043〜1121
 蜀州新津の人。字は天覚。王安石の推挙で任官し、監察御史・正言左司諫などを歴任した。 元祐党禁を積極的に進めたが、後に蔡京とも反目して党籍に加えられ、以後は無尽居士を称した。 著書『護法論』では欧陽脩らの排仏論に反駁し、韓愈・程頤らの仏教観を浅薄なものとして批判した。

方臘  〜1121
 睦州青渓(浙江省淳安)の人。浙西で漆園を経営していたが、圧政に反抗して1120年冬に挙兵し、聖公を称して“誅朱勔”を標榜した。 私塩・私茶の徒とも結び、盛時には旧呉越領に重なる6州52県を支配して百万の民衆が参加したが、北伐軍が転用されたために夏には清渓で童貫に捕われて処刑され、余乱も年余で殲滅された。
方臘は史書ではしばしば「喫菜事魔の徒」と記され、これはマニ教徒やマヅダク教徒の形容である事から、方臘=マニ教徒説が普及していました。 これは直訳すると「菜食主義して異教に仕える」であり、最近の研究では淫祠邪宗と同義に用いられているそうです。 宗教結社が反政府活動の核になったという事実に変りはありませんが。
ところで、中国の学界で強く主張されている方臘=傭人説は、どうやら国是の階級闘争キャンペーンに学界が配慮したものだそうで…

宋江
 宣和2年(1120)の冬頃、黄河南沿の梁山泊(山東省済寧)で36人の首領とともに造叛した。 江淮進出に失敗した後、北帰の途中で知海州の張叔夜に急襲大破されて帰順したが、後に再び叛いて翌年に捕われた。宋江のことは『宋史』侯蒙伝や張叔夜伝にあるが、その事跡については不明な点が多く、その名は『水滸伝』の流布によって初めて梁山泊とともに広く知られた。 宋江らの挙兵は、宦官楊戩が梁山泊の漁民に湖水の使用税を課したことが直接の原因とみられ、楊戩は他にも、公田所を設けて証書の無い土地をすべて没収するなど横恣な財政策で悪名を遺している。
 同時期の方臘討伐の官軍中に宋江の名がある事から、宋江が梁山泊から官軍に転じたとの説が生じ、『水滸伝』の流布によって補強されたが、宋江の投降は方臘の平定後である事などから、現在では同名別人とされている。 一方で、1127年秋に興州(陝西省略陽)で蜂起・称帝した史斌が梁山泊36帥の1人であることはほぼ確実で、大兵を擁し、翌年冬になってようやく四川の呉玠に平定された。史斌は『水滸伝』の九紋竜史進に比定されている。
  ▼
 梁山の麓の一帯は古くは鉅野沢(大野沢)が存在し、944年の黄河の大氾濫で再び大規模な沼沢地を形成し、1019・1077年の氾濫によって南北300里(120km)・東西100里(40km)の規模に及んだと伝えられる。 複雑な地形と水運の便から早くから匪賊の巣窟となり、1194年の黄河の決壊後も河水の流入は続いたが、元末の黄河大氾濫で大量の土砂が流入して縮小が進み、人工的な干拓も加わって清初の頃に消滅した。

王黼  〜1126
 開封祥符の人。字は将明。徽宗の崇寧2年(1103)の進士。蔡京と結んで累進して蔡京の後任宰相となって朝政を壟断し、後に六賊(蔡京・童貫・朱勔・李彦・王黼・梁師成)に数えられた。 盟金伐遼を支持し、それを口実にさらに搾取を強めたが、徽宗の廃立が露見して解任された。 金軍が南下すると逃亡したが、雍丘で捕われて処刑された。

欽宗  1100〜1125〜1127〜1161
 北宋の第九代天子。諱は桓。徽宗の子。徽宗が滅遼後の金の撹乱を謀った報復として金軍に討たれると、開封攻囲の直前に譲位された。 多額の償金と割地によって和議を成立させたが、主戦派の暴発を抑えられずに再び南征を受け、開封開城の翌年(1127)に徽宗・皇后ほか宗室・官僚と共に捕囚とされて五国城(黒竜江省依蘭)に幽閉された。
 高宗秦檜の妨害によって1142年の和議でも帰国が認められず、五国城で客死した。
  
靖康の難 (1126〜1127):金軍による開封落城と徽宗・欽宗の拉致。靖康は欽宗の年号。宋は金と同盟して遼を滅ぼした後、歳幣や軍費提供などの約定を履行せず、加えて契丹と密通して金の後方攪乱を謀った為に靖康2年(1126)初頭に金に討伐された。 このときは法外な賠償の提供で和したが、急進派の将領が金軍を夜襲して失敗したために再び討たれ、国都開封を開城して無条件降伏した。 翌年、金軍は徽宗・欽宗以下后妃・宗族・百官など3千余人と多数の文化財を掠奪して帰国した。

張邦昌  1081?〜1127
 永静軍東光(河北省)の人。字は小能。 進士の出で、徽宗の宣和元年(1119)に尚書右丞とされて同3年に中書侍郎に進み、欽宗のとき金に王族と宰相の人質が求められると少宰・中書侍郎(右僕射)とされて康王(高宗)と共に人質に出され、解放後に太宰・門下侍郎(左僕射)に進んだ。 靖康の難後、金により大楚皇帝に立てられて華北統治を委ねられたが、金軍の帰還に乗じて元祐皇后に臨朝を求めて康王に応天府での即位を勧進し、登極32日で奉政した。 太保・奉国軍節度使・同安郡王とされ、山陵守護の功を嘉されたが、間もなく主戦派の李綱らの弾劾で譚州に謫され、自殺を命じられた。

陳東  1086〜1127
 鎮江丹陽の人。字は少陽。太学生の時に徽宗が退位すると、学生や都民数万を率いて宮闕に到り、蔡京童貫ら六賊の誅殺と李綱の復帰を要求した。 高宗の即位後にその影響力と暴動への発展を警戒されて処刑され、後に承事郎を追贈された。

克勤  1063〜1135
 彭州崇寧(四川省)の人。俗姓は駱、字は無著。圜悟禅師とも。 妙寂寺で出家受戒したのち各地を歴訪して禅を学び、五祖山の法演に師事して門下三傑の1人に数えられた。後に成都の照覚寺に住し、張商裔の招致で荊南の霊仙寺に遷り、雪竇重顕の『頌古百則』を解説した『碧巖録』は禅門第一の名著と称された。
 しばしば徽宗に召されて紫衣と仏果の号を贈られ、靖康の難後は金陵の蒋山に入って江南諸寺を歴住し、高宗から圜悟の号を贈られた。 門下から多数の俊才を輩出し、楊岐派中興の祖とされる。

李唐
 河陽三城(河南省孟州)の人。字は晞古。徽宗のとき画院に入り、南渡後の建炎年間に画院が再興されると80余歳で侍詔とされた。 李思訓を宗とし、画院の主潮だった李成郭煕の画風を打破して自然的・写実的山水画法を確立し、南宋画院山水の創始者とも称されてその画風は馬遠夏珪らに継承された。


Top | Next