▽ 補注.2


 古代の中国で、同一の先祖を持つ血縁集団(姓)から分岐した小集団を指し、民族学上の部族に姓が、氏族に氏がほぼ相当する。 居住地や職業、一族中の社会的序列などを以て名としたが、時代の進行に伴って姓の紐帯は稀薄となり、氏を以て血縁的帰属を意識するようになって姓と氏の同義化が進行した。

方伯
 諸邦の長。方は邦・諸侯、伯は覇の同義。 殷代のは邦とほぼ同義で、殷以外の独立した勢力を指し、土方・苦方・人方・巴方などは殷としばしば交戦した。 方伯は方面の親殷的な大邦を指し、召方・周方などが知られる。
 周では方伯にあたる有力諸侯を公と呼ぶ事があったが、春秋時代では尊王を唱えて諸侯の盟主となった者を方伯とし、或いは覇者と呼んだ。 漢の牧刺史、唐の観察使、明清の布政使などの雅称とされた。

爵位
 古代の中国では諸侯に対する封号であり、飲器である爵を以て封建した事に由来する。 最も著名な公・侯・伯・子・男の五等爵は『春秋』を出典とし、位階の尊卑と封邑の規模を同時に示す夏王朝の制を周が回復したものとされたが、金文史料などの研究によって、周が封建した都邑=邦の首長を侯と呼び、有力な侯を公と呼び、伯・叔は鄙邑などの小集落の君長を指し、子・男は共同体の一般成員を指した事が明らかとなっている。 戦国秦では商鞅の変法によって軍功に応じた褒賞とされ、同時に爵位の20等級化が行なわれ、上位12等を官爵、以下を民爵とし、爵位に応じて土地や奴婢の保有制限などが定められた。
 秦に続く漢も二十等爵を踏襲したが、軍功や公権・俸禄などと分離されて公的立場の尊卑を示すものとなり、帝室の財源として売爵が行なわれたこともあり、専ら第19等以上の関内侯と列侯が爵と見做された。 東漢では列侯は県侯・郷侯・亭侯などに細分され、魏では関内侯の下に名号侯・関中侯・関外侯などが創設され、晋代になると封爵とは別に実封を伴う開国公・開国侯が行なわれるようになった。
 隋唐以後の爵位は五等爵の上位に王爵を置いた六等爵を基本とし、爵禄と封地の規模にも基本的に関連性はなかった。 明代になると臣姓の爵位が公・侯・伯が一般的となった一方で、親王を筆頭とする宗室の規定は輩行や年齢などで変化する煩瑣なものとなった。
  ▼
 唐の王爵は親王(帝の兄弟・諸子)・嗣王(親王の嗣子)・郡王(太子の諸子、功臣の殊勲者)に大別でき、親王の諸子は郡公、嗣王・郡王の嗣子は国公に封じられ、以下、県公・県侯・県伯・県子・県男などがあり、国公以下は襲爵時にも降格されなかった。 王爵は正一品、郡王・国公は従一品、郡公は正二品、県公は従二品、県侯は従三品に相当し、従三品以上と従六品以下の品階は特権上でも大きな格差があった。特権は家の門地ではなく親の品階によって保証され、貴族と雖も官人となって初めて特権を確保できるため、唐の貴族制は官僚貴族制とも称される。

列侯  ▲
 漢の二十等爵の第1位。武帝が避諱して徹侯を改めたもので、通侯とも称した。 県を封地として封爵時の租入の数分の一を実禄としたが、流民招致による増加分の歳租の反映は認められていた。 呉楚の乱の後は諸侯王と雖も統治者としての実権は無くなり、中央から派遣された相・尉が実務を行なった。

士大夫
 古代の身分制(天子・諸侯・大夫・士・庶民)の大夫と士に由来し、転じて社会の指導層・読書人階級を指すようになった。 周代の大夫は小領主=貴族として王室や諸侯を輔け、中でも上級貴族である卿は朝政や国政の中枢を担ったが、大夫とその家臣団を形成した士は春秋時代を通じて領邑経営を担った事で勢力を培い、戦国時代には国政を主導した。
 漢代以降の“士大夫”は官僚を薦挙・輩出する豪族層の雅称でもあり、宋代になると挙人(科挙の受験者)を指して胥吏と峻別し、後代では生員(郷試の受験資格者)や文人などの上流階級も包含して郷紳層を形成した。 士大夫階級は文化の発信源として一種の特権階級を形成し、政治輿論の代表として強烈な選民意識を有したが、既得権の保持に対する執着が強く、庶民の救済策などでも士大夫階級の利益に反するものは多くが失敗した。

三老
 古代の郷官の1つ。漢代の三老は郷里の教化を担当し、他に嗇夫が徴税を、游悝が警察権を担った。 郷三老は郷里の有力者でも特に名声ある宿老が選出任命されたと思われ、漢初には県を構成する郷里の代表として政治的発言力も有し、高祖に義帝への服喪を進言・採用された洛陽新城の董公の如く、皇帝への通見すら認められた。 農民叛乱の性格が強かった赤眉軍では上位の幹部を三老と呼び、東漢では朝廷の宿老を特に国三老と呼んで尊重したが、郷三老自体は中央による郡県支配の確立に伴って次第に軽微となり、嗇夫が重視されるようになった。

貴族制度
 少数の限定された家門によって執権職が独占され、且つ家格の固定化や官職の世襲化によって政治的・社会的に階層化が成立した状態。西周〜春秋時代の形態は古代の氏族制の延長線上にあり、通常は三国〜唐朝の社会制度を指す。 戦国時代に氏族制社会が崩壊した後、漢代を通じて各地に形成された豪族層が中央政界と結びつき、政治運営に不可欠の存在となったことが淵源とされる。
 曹魏が定めた九品官人制の運営過程で勢族の家格や就任可能官職の固定化が進んで貴族階級が形成され、家門と官職が不可分の関係となって各家の通婚範囲や昇任ルートすら規定されるに至った。 貴族社会内部でも階層化は進み、郷品二品以上の家門が門地二品=士族とされて中正就任や清要官の独占・世襲など特権化し、郷品三品以下を寒門と称して峻別した。 貴族は独自の地盤を有して政治的・社会的地位は王朝交代に殆ど影響されなかったが、社会の固定化をもたらすと共に文弱に偏向して次第に活力を失い、寒門・武人・商人の抬頭を促した。
  ▼
 北朝では氏族制社会の名残が強く、貴族層の発生過程も経緯も南朝とは異なるが、社会の階層化は同様に進展し、南朝を参考とした独自の貴族性社会を形成した。 北朝を母胎とした唐朝でも貴族の政治的・社会的影響力は強かったが、その特権は家の門地ではなく官品によって保障されるため、貴族と雖も上品官僚に就く必要が生じ、官僚貴族制と呼ばれる体制を構築して寒門出身の科挙官僚との対立が熾烈となった。
 官僚貴族は主に門下省を牙城として寒門の科挙出身者を吏部考査で落第させることが多く、王朝末期まで貴族官僚と科挙官僚の対立が絶えなかったが、黄巣の乱と朱全忠の簒奪で貴族制社会は壊滅した。

寒門  ▲
 寒士とも。南北朝時代の社会的身分の称で、貴族内部の下位の家門。寒は賤・貧の別称。 中国では早くから執権層の士と被支配層の庶が峻別されていたが、貴族社会の形成と伴に士人階級も門地二品と寒門に二分されるようになり、“士族”は門地二品の自称となった。寒門の郷品は三品以下で、就任可能な官職も門地二品とは峻別され、実務を敬遠する二品貴族の就く官が“清官”と呼ばれたのに対し、寒門の就く官職は寒官とも呼ばれた。 幕僚や軍人・学者のほか、僧侶や道士になる者も少なくなかったが、実務に長じた事から、君主権の強化を図る天子に重用されて政界に進出するようになった。

寒人  ▲
 南北朝時代の社会的身分。官にある庶人の称で、寒門・寒士とは峻別されるべきものであったが、しばしば混同された。 当時、庶人の功績に与えられる勲位・勲官は士人の就く品官と明確に区別され、勲位・勲官を有した庶人は胥吏とも称された。

呉姓大族
 晋・六朝での、呉会地方の勢族を指し、概ね三国呉で政権を担った家門を指す。 孫呉では特に呉郡の朱・張・顧・陸氏が第一等とされて“呉中四姓”と呼ばれ、「張は文、朱は武、陸は忠、顧は厚」と評された。 晋の統一後、呉姓は中原貴族に軽視され、顧栄賀循周玘らを中心に晋室再興に多大に貢献したにもかかわらず僑姓貴族から政治的進出を妨害され、南朝では寒門に甘んじて隋唐での家格も低かった。

僑姓大族
 東晋・南朝の北来貴族を指した。 主に晋室とともに南下した勢族にあたり、特に政府の中枢を占めた豪族は既得権を世襲して門地二品と呼ばれる特権階級=貴族階級を形成した。 特権維持の為に早くから閉鎖的となり、呉姓大族や後来名族をも排斥し、弘農楊氏すら門地二品には加えられなかった。
 在地豪族の制圧に成功した僑姓大族は積極的に大荘園を経営したが、寒門や商人層の抬頭で次第に寄食的存在に堕し、梁末の侯景の乱と承聖の難(江陵陥落)で概ね没落した。

僑置  ▲
 華北を失った江南政権が、大量に発生した難民に対して集団移住地に失地の名を冠した州郡県を置いた事。 僑州郡県では本籍地同様に統治官が任命され、当初は一時的な措置として戸籍上での把握を目的としたが、咸康年間(335〜342)より僑置が進んで冗官のみが増加した。 僑民は賦役免除などの特典を背景に勢力を拡大させ、土地・水利問題などでも原住民との軋轢が絶えず、晋末以降はしばしば土断によって現住地の戸籍への編入が進められた。

関隴郡姓
 武川鎮軍閥・関隴貴族とも。宇文泰に従って西魏・北周を支えた、武川鎮出身の軍人集団。関は関中を示す。 六鎮の乱の初期には鎮民側に与した者も多く、爾朱栄に降った後に爾朱天光・賀抜岳の西征に従い、賀抜岳が殺されると宇文泰を支持して高歓に対抗した。 宇文泰を含む指導層の中核は“八柱国十二大将軍”と呼ばれて西魏・北周では政権の要職をほぼ独占し、通婚によって相互の紐帯も強く、隋の楊氏・唐の李氏も共に八柱国十二大将軍の出身であり、両政権も又た関隴貴族が第一等の家門として勢力を保った。
 唐の武則天による科挙官僚の重用と政権の簒奪は関隴貴族の優位を否定するものでもあり、関隴貴族による反動は玄宗の奪権として実現したが、安史の乱によって政権基盤が動揺した後は科挙官僚の抬頭が著しく、貴族自体の優位性が低落した。

山東郡姓
 唐初、地縁に基づいて大別された貴族グループの1つ。北魏以前からの門地を以て華北の漢人社会の宗を自任し、清河崔氏・博陵崔氏・范陽盧氏・趙郡李氏・滎陽鄭氏の北斉系の4姓を最高とし、唐朝で官撰の『氏族志』が編纂された後も皇室以上の名家と見做された。 唐初の著名な郡姓としては他に武川鎮集団である関隴郡姓、鮮卑系を中心とした虜姓、南朝系の僑姓、江南の呉姓などがあり、新興の関中郡姓は呉姓の下位として認識されたが、これに対して638年に『氏族志』が編纂され、唐室を最上位とする試みが行なわれた。 『氏族志』が659・713年にも改編されたことは、その頃までは山東郡姓が第一等と認識されていた事と同時に、唐朝が門閥主義社会であったことを示している。

官僚制度
 ヨーロッパから導入された、貴族制度や封建制度に対する政治形態の概念。 門閥や地縁が官職やその世襲を保証せず、官僚は個々に君主や国家と契約し、地位や俸給を与えられる代償に国益や君利を図る存在と定義され、限定的に封建制や貴族制との共存も可能とされる。
 そうした意味では中国の官僚制度の成立は氏族社会的封建制度が崩壊した戦国時代に求めることも出来るが、当時は血統原理も強く、登用法や統属組織なども明確化されておらず、天子の顧問官たる郎官が主要な供給源だった事から、天子と官僚の私的紐帯が強かった。 その後は郎官の母胎である豪族層が成長して貴族制社会に発展した為、中国の官僚制度は貴族制社会が崩壊した宋代に始まるとされ、登用法である科挙制度も宋代に整備・拡大された。
 科挙官僚の殆どは潤沢な経済基盤を有する富商・地主階級の出身として社会の特権階級を形成したが、官職や権力の世襲はできず、また世襲財産は分割相続が原則だった為に社会的地位も嘗ての貴族ほど安定したものではなかった。 そのため本来は“社稷の臣”を理想とし、或いは君主権を擁護する忠実な道具である事が求められながらも、実際には一族で美田獲得に狂奔して広大な荘園を経営し、家産の分散防止のために宗族が一箇所に集住した事から特定の家族が局地的な権力を世襲する郷紳が出現した。 この利潤追及の体質が王安石の新法を頓挫させた最大の要因となり、明朝官吏の拝金主義・朋党主義につながった。

官吏
 官員と吏員。職務として公務に携わる者を指したが、朝廷の叙任によって俸禄を支給される官員と、府署の掾属として現地雇用される吏員は峻別され、州郡の掾属は“佐史”“佐吏”と汎称された。 漢では州郡の掾属のうち従事史・功曹・主簿など秩禄を保証された高位の者は長吏と呼ばれて官員に準じて扱われ、貴族制社会では長吏から官僚に進む例も多く、特に上位掾属は南朝を通じて叙任権も中央政府に回収され、佐史はそれ以外の掾属の汎称となった。

胥吏
 南朝梁代から散見される官署の掾属の称。隋唐で普及し、宋代の官僚制度の整備に伴って法制化された。 中央・地方の官署が民間より実務者を募集したもので、徭役と見做されて公的な報酬は無く、事務品費・茶代の名目で若干の支給はあったものの、主な収入は様々な手数料=賄賂にあり、徭役と並んで庶民を圧迫する大要因となったが、康煕帝すら規制に失敗して黙認に至った。
 官僚同様にヒエラルキーを構成した一方で徒弟制による疑似的な世襲が一般的で、上級胥吏は勤続が満期になると下級官員への昇任も可能だったが、多くは変名して留任し、或いはその権利を株として貸与・売買することも多かった。 胥吏頭は文書行政の発達と伴に煩瑣な実務に長じた事で隠然たる勢力を有し、殊に地方では有力な現地人が雇用された為に封建的勢力を確立し、胥吏のサボタージュが政策を左右する事すらあった。
 胥吏勢力が強大となったのは明清で、特に廻避制度を徹底した清朝では現地の事情に通じた胥吏の発言力が必然的に強化され、大官と雖も胥吏の協力なしには円滑な地方行政は不可能だった。 胥吏が収奪を黙認される代償としてその一部を地方官に上納することが慣例化したが、これは地方官の収入の重要な財源となり、清廉な官僚でも「知府三年で三代の財」と称された。 又た上級胥吏は中央胥吏とも贈賄を通じて癒着して一種の吏閥を形成し、紹興閥などは六部、特に戸部十三司をほぼ掌握した。 明末の陳龍正は「天下の治乱は六部にあり、六部の胥吏はすべて紹興人で、紹興こそ天下治乱の根本である」と断じ、顧炎武も「百官の権はすべて吏に帰し、国を支配するのは実に吏である」と喝破し、吏の存在を「百万の虎狼を民間に養うもの」と痛罵する学者もいた。

幕賓  ▲
 広義には幕僚と同義だが、狭義には近世中国の地方長官の私設秘書や幕僚を指す。 その多くは科挙に及第しなかった挙人や生員で、法律・経済などの専門分野をそれぞれ担当し、地方長官から賓客として遇されて相応の報酬が礼金として支払われた。 幕僚の発言力が増したのは諸王や地方長官の開府が一般的となった六朝以降で、胥吏の弊害が問題視された宋以降にはその抑止力として現地の事情に通じた幕僚の存在が求められ、殊に回避制度が徹底された清朝は幕賓政治の全盛期でもあり、幕賓政治の黄金期とも評された雍正・乾隆年間には汪輝祖のように名幕賓と呼ばれる者すら現れた。
 科挙官僚には儒教に対する解釈や煩雑な八股文形式への理解が必須条件とされた為に大量の有能な読書人が野に放置され、現実的な処理能力や実務能力が軽視された時代にあって、幕賓という形式は一種の遺賢吸収運動とも見做される。 清末になると幕賓の資質も低下し、左宗棠などの例外的な存在もあったが、多くは胥吏と癒着して初期の存在意義を失った。

地主
 土地の私的所有者。地主自体は漢代から存在したが、一般的に中国史上での地主は宋代以降の土地所有者を指し、大土地所有者には領主的側面が強い。 明清では中小地主が増加傾向にあり、又た生計すら支えられない零細地主も増加したが、これは大土地所有者が免税対策として佃戸に若干の土地を支給した結果と考えられている。地主の中には土地のすべてを佃戸に出貸する場合もあり、一部を保留し雇農によって直接経営を行なう経営主もあった。
 地主には在郷地主と都市部に住む不在地主とがあり、一般に経済の先進地域ほど不在地主が多く、これは土地所有権が物権化し、地券によって所有が保証されるようになったからだとされる。 宋代以降に発達した官僚制度と地主層とは制度上的には相関関係はないが、実際には莫大な投資を必要とする科挙を受験しうるのは地主もしくは商人層が殆どで、両者は概ね高利貸と兼業の場合が多く、地主層は宋以降の科挙的官僚国家の基盤となったということができる。

郷紳  ▲
 現職・退職官僚の郷里に於ける総称で、進士が官僚の主流となった宋代より見られる。 郷里の顔役的な挙人・監生・生員らは公的には進士官僚とは峻別されるが、共に出身母胎は同じであり、政治的にも税役面でも各種特権を認められた大土地所有者として郷豪とも総称された。 郷紳の弊害は明代より顕著となり、時には郷里の代表として地方官吏とも抗争したが、多くは官憲や商人・高利貸と結託して郷里の政治・社会・経済に絶大な影響力を有し、中には県域を超えた行財政を左右する家もあった。 正役や納税の忌避すら一般化する一方で民衆を圧迫して土豪劣紳と呼ばれ、文人画家として著名な董其昌の如く、民衆起義では打倒目標とされた。国民政府時代にも勢力を保持したが、人民共和国の成立と共に一掃されたとされる。

主戸
 土戸・正戸・税戸とも。納税土地所有者の呼称。中唐の均田制の崩壊過程で客戸が大量発生した為、両税法実施の際の戸口調査で客戸との区別が設けられた。 土地所有面積に応じて納税・服役の義務を負ったが、自作農とは限らなかった。 宋代には農村の主戸は五等級に分別され、一・二等を上戸、三等を中戸と呼び、四・五等は下戸として役務を軽減・免除されたが、郷豪でもある上戸が官吏と結託して等級を下げた結果、最多数で中産階級の中戸が上戸扱いとなり、過度の負担を強いられて小作農に転落することが多く、これが軍事費の増大と共に宋朝の財政を悪化させた大要因となった。都市の主戸は十等に分けられ、官の必要物資を供出した。 ほぼ同様の原則が歴朝で継続され、王朝初期での主戸の数は全体の6〜8割と推計される。

蔭付の民
 三国〜唐代、豪族に私属して政府に把握されなかった民。東晋の給客制、北魏の三長制、隋の輪籍法、唐の括戸制は、いずれも蔭付対策として政府が人民の把握を図ったもの。 給客制は大姓による客戸の大量私有を制限したが、南朝宋の元嘉年間には戸籍詐称による徭役回避や登録脱漏が常態化していた。 北魏でも蔭付は多く、或いは大家族制を保って30〜50家で一戸と称し、同時に豪族の徴斂が公賦に倍することから三長制の必要性が説かれた。

客戸
 本来は本籍地を離れた寄留者を指したが、存在自体が客である僑姓大族が社会を支配した六朝時代には、土地を持たずに豪族・地主に隷属する小作者・労働者を指した。 男子が佃戸部曲と改称された後も女子は客女と呼ばれ、括戸制では土地所有者(主戸)の対義語として私有地を持たない佃戸・商人・労働者を客戸と総称した。 宋代では全人口の約3割を占めながらも郷村農民の階級化の枠外に置かれ、両税・徭役義務は免除されたが、身丁銭を負担させた地域もあった。 元朝以降は主客戸を区別した統計はあまり行なわれなくなった。

佃客  ▲
 田客とも。古代の小作農。政府に対して賦役義務を負わなかった為、佃客の増加は国家の根幹を左右する重要案件と認識されたが、士大夫層が佃客の保持によって利権を増大させたために放置される事が常だった。 小作料は、自力耕作では半額、地主から畜力を借りた場合は6割以上が相場で、独立生計を原則としたので身分上は賤民には区分されなかった。 漢代の豪族による土地兼併の進展に伴って佃客に転落する自作農が激増し、国家の租入や徭役を阻害して漢帝国崩壊の一因となり、晋代では貴族の佃客保有は法的には制限されたものの実効性に乏しく、六朝の荘園経営に発展した。
  
佃戸客戸の一種。佃客を指す隋唐以降の称で、地主に対しては土地の貸借関係以上の身分的制約はなかったが、小作料の他に徭役労働も課され、賤民解放を行なった宋代には法制によって良民と区別され、刑法上も良民の下に置かれた。 そのため佃戸を農奴と規定し、宋代を封建制社会とする論旨があるが、佃戸は土地を返還した段階で完全な良民となり、移転の自由のない西洋の荘園農奴とは根本的に異なる。土地によって旁戸・地客のような隷属性の強い佃戸も存在したが、明代以降は佃戸も法制上は良民として扱われた。

衣食客
 晋〜南北朝時代、主家に依存し、独立生計が営めない為に労働の代償に衣食を与えられた客戸。 社会階層の分化が進んだ六朝時代において諸客中でも最下層に位置し、南朝初期には法制的にも全くの不自由民として扱われた。 奴婢と異なり売買の対象にはならなかったが、支給される衣食の資が労働では相殺されないために一種の奴隷的労働を強いられ、その身分は唐代には上級賤民たる部曲客女となった。

部曲  ▲
 隷属民の呼称。 漢代では部は大隊、曲は中隊程度の軍の構成単位を指し、当初は部隊の別称として用いられたが、次第に私兵の意味が強くなり、六朝時代には所有者の名を冠して某部曲と表現される様になり、私兵の多くが奴隷や小作人などの出身だったため、部曲は隷属民と見做されるようになった。
 北周〜隋唐の法制では私家の上級賤民が部曲と呼ばれ、唐制では独立の戸籍を持たず、刑法上も良民とは峻別された。 自己の労働の結果を主家に要求することは出来なかったが、売買の対象とはならず、良民との婚姻も禁じられてはいなかった。

官戸
 唐代、政府に隷属した賤民。良民の下の3等の賤民のうち、雑戸の下・奴婢の上とされた。 主として司農寺に属して年3回、1ヶ月ずつ上番して服役し、番戸・公廨戸とも呼ばれたが、上番は銭納で免除され、均田法では良民の5割/40畝の口分田が給された。
  
 宋代以降は官僚の家を指し、戸籍面でも区別されて徭役免除などの特権を有し、社会的にも大勢力を形成することが多かった。 殆どは地方の有力者=形勢戸に含まれ、形勢官戸と呼ばれた。

僧祗戸
 476年頃、北魏の沙門統曇曜の要請で創設された、僧曹に年間60斛の粟(僧祗粟)を納める事を課された特定の戸。 最初の僧祗戸は平斉郡戸=山東地方の官民を徙民して僑置した郡戸で、仏教の隆盛とともに全国に普及して莫大な財源となり、僧祗粟は荒蕪策や貸出財として運用されたが、やがて僧官に悪用されて人民を圧迫することが絶えず、しばしば統制が強化された。仏図戸とともに北魏仏教急成長の経済力・労働力の基礎となった。

仏図戸  ▲
 曇陽の要請で創設され、仏教教団の管理下に、寺院の洒掃や寺有地の耕作などの労役に従事した。 重罪犯・官奴が充てられ、北魏全土に敷衍して孝文帝・宣武帝・孝明帝代の仏教事業の基盤をなした。

客家
 近世中国の広東地方で、外来者として区別されていた種族。もとは西晋末以降の戦乱を避けて南遷した中原人で、客家語は古い中国語の発音を遺しているとされる。明末以降は広西・海南への移住や、台湾をはじめ南洋諸地域に進出した者も多い。 客戸として本地人としばしば械闘を起こし、又た客家同士でも先住地主系と新来小作系の反目があり、太平天国運動も客家と先住者の械闘が発端であり原動力だった。 女子も戸外の労働に従事して纏足の風習がなく、近代中国では多くの人材を輩出した。

丁中制
 力役を負担する丁男・中男を中心とした年齢区別の法。力役は原則として女には負担させずに丁男に課され、時に中男にも及んだ。唐の開元(713〜41)頃までは3歳以下を黄、15歳までを小男、20歳までを中男、59歳までを丁男、60歳以上を老男としていた。 丁男・中男は常に重視され、宋代には丁男だけの戸籍も作成された。

職田
 職分田。官職・品階に対して支給される田地で、北魏の均田法成立と伴に整備された。 北魏では地方官に公田が支給されたが、唐では京官一品:12頃〜九品:2頃とされて外官も官階に応じて現地で支給され、農民の希望者が耕作を担って官吏の収穫分配は1畝/6斗以下に制限された。京官の職田は一般農民への給田不足を惹起し、中唐以降は私有が常態化した。

私田
 私有の田地。民田とも。 太古の井田法では9分した中央以外の非課租地を指し、春秋末以来の土地公有制の崩壊で人民の土地所有権が認められると、全田地が私田として課税対象となった。 漢の私田は名田・家田に区分され、名田は晋で占田と呼ばれ、北魏の均田法以降は桑田・永業田に変化した。

公田
 官田とも。政府の保有する田土。 魏の屯田、晋の課田などもこれにあたり、北周〜唐の均田法では人民に分配され、そのうち永業田・賜田は私有が認められた。 明代では人民に耕作させて高額の租を徴収し、民田と著しい差別があった。官田は専任機関が設けられなかった為に地方長官の管理下で次第に民田と混交し、租・税の平均化とともに官民一則となったが、官田の称は清代まで残り、売買の際にも小作権譲渡の形式が採られた。

屯田  ▲
 国防・財源確保の為、国家が特定地方に設けた官田。軍兵が耕作者となって辺地や国境地帯で行なわれる軍屯と、内地で一般民が耕作する民屯に大別される。西漢での軍屯は河西の屯田が主流となって一時は西域にも設定され、東漢でも西域の屯田は断続的に行なわれた。 内地の民屯の組織的な運営は漢末に曹操が初めて行い、戦乱で生じた大量の無主地と糧食不足を解消するために流民を強制的に徴募して許昌一帯に屯田を開いたもので、兵戸の壮丁1人に50畝前後を支給し、灌漑設備の整備や屯田官の配置も行われて中原全域に拡大した。 屯田は曹魏の重要な財源となり、後に司馬懿・ケ艾によって淮河流域にも大規模に拓屯されたが、これは司馬氏簒奪の重要な資源となり、晋朝では強制的側面が緩和されて占田・課田法が実施された。
 唐は内地にも積極的に拓屯して992ヶ所に達し、毎春に面積を調査して府兵を耕作者として派遣したが、府兵制の崩壊で民耕となって屯田的性格を喪失し、営田へと変質していった。 兵農一致を原則とした明朝では屯田を重視して軍屯・民屯・商屯を設定し、太祖の称王当時に淮河・長江沿岸に設定された軍屯が次第に内地・辺境に拡大し、衛所屯田とも呼ばれた。 塩商が辺境に開いた商屯は、開中法の実施に伴って軍糧輸送の労力を削減する為のもので、開中法の崩壊と共に衰退し、清朝では若干の衛所屯田以外はすべて廃止された。

営田  ▲
 一般人民を直接耕作者とする官田(屯田)の一形態。 名称は南北朝時代から使用され、唐代には辺防の軍将や節度使の属官の営田使が経営するのが普遍化した。 北宋代には北辺に弓箭手による営田が設置され、南宋でも国境地帯で広範に営まれ、家屋・種子・農具・牛などはすべて官給で、収穫の4〜5割が徴収された。 営田は遼・金・元でも行なわれたが、民田を耕作者ごと没収・使役したので漢人の反抗を招き、国家の財政基盤が破壊されるに至った。

学田
 学校経費を賄う為に設置された田地。科挙制の確立と並行して府州県学制が整備され、特に宋以降は各校は5〜10頃の学田を政府から支給された。他に官戸など有力者が名目的に寄進することも多く、元代では数百頃の学田を有する学校もあった。 学田経営は小作制で、管理上の問題からしばしば有力者の盗占に遭ったが、民国まで存続した。

寺田
 仏教寺院の所有田地。魏晋以来建立が急増した寺院は、北魏で帝室貴顕からの田土の寄進によって経済基盤を確立し、仏教の敷衍によって信者からの寄進も増し、唐代には広大な荘園を経営した。 現世利益・追善供養・極楽往生の為の寄進は帝王〜庶民を問わず流行し、寺院でも蓄財の為に積極的に売買・開墾を行なった。 これに対してしばしば政府からは厳禁令が出されたものの遵守は一時的なものにとどまり、清末の寺院整理によってようやく減少した。

 

圩田
 囲田・垸田・湖田とも。湖沼・河岸・水沢などを堰堤(圩)で囲んで干拓した耕地。 水害・旱害に対して比較的対応が可能で、五代南唐の頃から長江下流域・太湖周辺で開発され、宋代に全国的に普及した。 初めは郷豪が、後には政府も行ない、江南の農産力増大の一因となったが、構築・維持には大量の労働力を必要とし、一般的には官戸・寺観などが多数の佃戸を使役して経営した。江蘇の永豊圩は1千頃に及び、徽宗が蔡京に、高宗が韓世忠・秦檜に下賜した。
 明代には耕地拡大の需要に応じて再開発が行なわれ、周縁部の干拓で湿地のまま残された中心地の分割を進め、十字・廾字に排水路を穿って大型の圩田が開拓された。大小池沢・河道を独占して従来の水利権を侵害しただけでなく、水流を阻害して水害の原因ともなってしばしば問題とされた。

山沢封固
 南北朝時代の勢族の土地占有形態の1つ。貴族・豪族は私有地を拡大して荘園を経営したが、自給自足の為に山川沼沢を内包することが殆どで、従来は農民の共有地として自由採集が可能だった山川沼沢に対しても侵入・採集を厳禁した。 この傾向は南朝で顕著で、しばしば封固禁止の勅令も発布されたが、執行はされなかった。 これら荘園は屯・屯封とも呼ばれ、鉱業の冶、宿泊所の伝、商業の邸などに区別された。

碾磑
 水力による脱穀製粉用の石臼。 その存在は漢代の遺物の中にも模型が発見されているが、粉食が普及して麦が流通商品となった唐代に社会的に重要な存在となった。 荘園内に組織的に碾磑の設置が可能な貴族層にとって製粉・販売は重要な財源となり、碾磑の増設と流通の活性化は不可分となったが、貨幣経済の発達は荘園経営を土地経営に転換させ、灌漑用水の碾磑利用によって農耕を妨害するという矛盾が深刻となった。 そのためしばしば禁令が出されたが効力は殆どなく、唐末には黙認されるようになった。

義荘
 宋代以降に現れる、血縁による一族共有地。広東・福建など華南に多く、大規模なものは数百〜千畝以上に達し、その小作料は主に同族扶養・子弟教育・祖霊祭祀などに充てられた。宋〜明代の官僚の土地兼併の一因であり、人民共和国の新土地法によって大部分が解体された。

 


 古代の集落・都市。古代に最も普遍的な集落に対する呼称で、紛争・灌漑などの大規模な事業から集落群が形成されるようになり、集落群の中心的な邑が発達して“”になった。 集落群の他の邑は都邑の衛生的存在として“鄙”と呼ばれたが、城壁の有無は基本的に都・鄙を区別する標識とはならない。 又た各邑は個々に中心氏族の宗廟と社を有し、都邑を中心とした群的統合は社神の合一や主従化をももたらした。
 殷・周の邦・国は都邑を中心とした邑群を指し、複数の都邑を支配する者が方・方伯と呼ばれ、国人は国・都の支配氏族員を指した。 都市国家が領域国家に発展する過程で、邑は集落の総称・一般名詞化し、都邑と鄙邑、大鄙邑と鄙邑の関係は、後の県城と郷、郷と亭の関係に踏襲された。
 各邑の土地神たる城隍神は明朝に至って県域の上位神として公認され、農村の祀廟や土地神までもが国家としての祭祀体制に包摂され、この傾向は鎮市と郷脚(市場圏)の農村にも非公式ながら衍用された。


 近代以前の中国における最も基本的な行政単位。県が現れた春秋時代には主に辺境に設けられ、次第に新征服地にも設定されるようになったが、当時は貴族が世襲する擬似封建領としての性格が強かった。戦国時代になると次第に中央直轄となり、新征服地では上位区画としての郡も現れた。 秦漢でも県は中央直轄の最小の行政単位として朝臣が県令・県長として派遣され、拓疆と開拓によって1世紀初頭には約1600県を数えたが、約36%が東漢初期の戦乱で維持が困難となった放棄された。 これらの多くが華北の新拓地に集中し、殊に匈奴・烏桓・鮮卑の入冦が活発だった幽・幷州や戦乱が深刻だった冀・青州の廃止率は60%に達した。

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 県を構成する組織。 本来は=都市に住む氏族成員である士・国人が居住地ごとに組織した、卿に統率される祭祀・軍事共同体だったとされる。 秦漢では県の下部機構の単位とされ、10里1亭、10亭1郷と制度化されたが、実際には県・郷・亭はともに邑の後身であって十進法的統属は名目的なもので、比較的規模の大きな都邑が県城とされて衛星的な鄙邑を郷として統轄し、郷には複数の小集落が亭として従属したものとされる。
 行政組織上は県と峻別され、郷にはは置かれずに三老・嗇夫・游悝による自治が行なわれ、いずれも世論を基に吏として県から任命された。 漢末〜東晋の動乱によって邑的集落形態は崩壊し、地域に対する県の直接統治が強化された結果、一定戸数(隋唐では500戸)の地域に対する人為的区画として県の下・里の上の管理単位となった。

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 周代では5家1郷、5郷1里制を、管仲は5家1軌、10軌1里制を行なったとされるが実態は不明で、社を中心とした自然発生的な共同生活組織を国家行政に利用し、あるいは再編成したとされる。 漢制では10里1亭、10亭1郷とされたが、里は実際には邑(郷・亭)の内部の100戸前後を1単位とした人為的なもので、里老・里正・里魁が指導し、城邑内の里制は唐の坊制に発展した。
 集住的な郷村社会が崩壊して散村が現れた三国時代以降は、一定の戸数(曹魏で100戸、北魏で25戸、北斉で50戸。北魏は郷と里の間に党=5里があった)と地域より成る最末端の管理単位として郷を構成し、唐では5里で1郷とされた。 唐では長は里正と呼ばれ、戸口調査・農業指導・警察機能・賦税徴収などを行なう一種の力役と見做され、明の里甲制でも里長の役は最も重要な正役とされた。


 宋代の地方行政区画。鋳銭・牧馬・坑冶などの特殊な役所を中心に発達した地域を指し、県と同格で府・州に属したが、稀に2〜3県を管轄してに直属したものもあった。


 地方行政区画。その使用が確実となるのは漢武帝からで、B105年に全国を13州に区画して各州に刺史一員を配したが、当初は管下の郡県に対する単なる監察区画に過ぎず、刺史も常駐ではなかった。 東漢には刺史の治所が一定してその権力も増大し、漢末には領内の郡国を支配する最高行政区画とされた。 南北朝時代に細分化が進んで郡と同様の規模となり、241州を数えた隋では文帝が583年に郡を廃し、煬帝や玄宗が一時的に廃州為郡を行なったものの概ねは県の統轄単位として機能し、唐代では300州、宋代で250州、元代では559州に達し、道・路・省に直属して長官も宋からは知州と呼ばれた。
 唐以降、重要な州は府と呼ばれ、明清代では府と同様に布政使に直属する直隷州と、県と同様に府に属する散州に区別されたが、府に昇格する州が増えた結果、清末には81直隷州、145散州、235府となっていた。
  
:唐代に始まる行政区画の1つ。職能は州と同様で、初期には京兆・洛陽・太原などの軍事・政治的要地に設定されたが、後期には経済重視に移行して10府となった。宋代には30を数え、明清では特殊性を喪って清末には235に達した。長は一般には知府と呼ばれ、北京順天府のみ尹と呼ばれた。


 監察・行政・軍事の単位で、主に唐代のものを指すことが多い。 漢代には異民族が大多数を占める県、北魏中期〜北斉では方面軍司令官(行台)の管轄区域を指した。 唐が貞観元年(627)に全国を十道に区分した当時は単なる地理的区分だったが、武后の頃から監察区画として機能するようになり、睿宗の景雲2年(711)より各道の都督・刺史が監察官たる按察使を兼ね、開元21年(733)には十五道制に再編されて事実上最大の地方行政単位となった。
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 安史の乱後は節度使観察使などの管区を指して最大時には43道に達し、宋朝で行政区画としての道はすべて廃止された。 元朝以降も行省・省の下の監督区域として存続し、原則として執務官庁は持たなかったが、清朝の乾隆18年(1753)に道員を長官とする行政区画となった。


 宋・金代、州の上位に置かれた地方監督区画。元朝では行政単位。県の統轄機関である州の規模は中央集権化結果として宋初の頃には州2県が常態となっていた為、中央での地方行政業務の簡素化を目的に州の統括機関として路が設置された。 10世紀末に全国は15路に分けられ、神宗の頃には24路に達した。
 路では転運使按撫使提点刑獄使がそれぞれ財政・軍事・司法を巡察し、後に提挙常平茶塩公事が加わって監司と総称されたが、転運使の権限が伸長して路の長官の如くなり、路は行政区画としての実質を具えていった。 南宋は概ね16路、金は宋の区画を踏襲して全国に19路を置いたが、元ではモンゴル貴族の投下領を投影して大きく分割され、2〜4州を統べて185路に及び、軍事・徴税を担う都ダルガチと行政を掌る総管が並立して行省に統轄された。
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 これらとは別に、北宋の仁宗〜神宗期には西北辺・北辺に経略按撫使を長官とする軍事路が設置され、陝西六路・河北四路と呼ばれたが、その境域は転運使路とは必ずしも一致しなかった。

行省
 元朝で設けられた行中書省の略。河南・陝西・四川・甘粛・遼陽・江浙・江西・湖広・雲南・嶺北に置かれ、後には高麗にも1行省が設置されて二重支配を行なった。 地方行政の最上位機関として大汗に直属し、民政・軍事・財政権を有して元末まで存続し、地方軍閥の称した行省や、大規模軍事行動に従事した方面軍の公称である“軍前行省”など一時的なものもあった。 行中書省が廃止された明朝でも地方区画として存在したが、巡撫の常設化に伴って行政区画化し、現代に至っている。
  
 中央の中書省が統治した地域は特に腹裏と呼ばれ、漠南・河北・山西・山東を指した。

直隷
 明清の行政区画で、現在の河北省。 本来は中央に直属する府州県を指し、元朝では省に直隷する府県を、明朝では布政司に属する直隷庁も指した。 明初、南京一帯の京師を直隷とし、北京遷都後の1420年に北平布政司を直隷と改称して北直隷・南直隷が並存し、清朝では明朝の北直隷を踏襲した。

鎮市
 中国における小都市の総称。鎮は北魏代に大軍を駐屯させる土地に冠された称で、中唐〜五代では節度使が腹心の鎮将を置いた要地の称となり、軍事力を背景に州県の行政・財政権をも掌握して軍制の支柱となった。
 宋代には州県の統制を強化した結果として県に属する小商工業都市を指すようになり、概ねは1千〜2千戸の集落として一種の行政区画を形成した。 中央から監鎮官が配置されて治安・財務を司り、理念上は規模の拡大によって県に昇格するが、浙江の烏青鎮(嘉興市桐郷市烏鎮鎮)や江西の景徳鎮、明末に市から昇格して百万都市に成長した漢口鎮などの例外も存在した。
 は鎮より更に小規模で、郷村の流通商業の中心をなし、治安維持を任とする巡検司などが配置された。 宋代の華中・華南に多く発生した事、塩税・商税の請負を認可された市が多く存在した事は、統一後も華北とは異なる流通経済体制が保持され、朝廷が流通経済の一元化を放棄した示唆だと解釈されている。
 行政区画としての鎮は宋代で終わったが、近隣農村と市場圏=郷脚を形成し、19〜20世紀に県の下層の行政区画(現在の郷級行政区)が設定された際には郷脚がほぼ郷の行政区域として踏襲され、市と共に郷村における小都市の呼称として今日まで定着している。

投下
 頭下とも。遼・モンゴル・元朝で、皇族・王臣に下賜された封地・封民。 遼朝では俘虜農耕民の集団移動を伴い、生産奴隷としただけでなく徭役をも負わせ、移住地は投下州・投下軍と呼ばれた。 モンゴルでは中央派遣の監督官が置かれた一方、領主は代官の任免権・徴税権・裁判権を有するなど治外法権領を形成し、中央の統制は極めて弱かった。
 元朝世祖は漢人世侯の勢力削減と並行して投下に対する統制を強化し、殊に漢地の投下からは徴税権と代官任免権を回収したが、投下領主の身分に応じて投下権に差異を生じるなど中央集権は甚だ不徹底だった。

八旗
 女真国家(後金・清朝)の軍事・行政組織。旗(グーサ:固山)は女真社会の大単位で、当初は四旗が編成されて成員は全て正旗の黄白紅藍いずれかの旗に属し、1614年に鑲旗の四旗が加えられて八旗となった。 旗の構成は壮丁300人で編成されたニル(矢)を最小単位とし、5ニルで1ジャラン、5ジャランで1グーサを構成し、それぞれに長たるエジェンが置かれ、1660年には漢名が定められてグーサ=エジェンを都統に、その副官の左右のメイレン=エジェンを副都統に、以下、参領・佐領が充てられた。
 又たグーサ=エジェンの上には宗室がベイレ(貝勒=旗王)として君臨し、君主自身も一方の旗王であり、八旗が定まった後は君主が統べる上三旗と諸王の領する下五旗に大別され、正白旗王でもあるドルゴンの執政下で正白旗と正藍旗が入替えられ、上三旗は正黄旗・鑲黄旗・正白旗と定められた。 初期には女真人だけでなく蒙古・漢人・朝鮮人を包摂していたが、モンゴル宗家のチャハール部が臣属した1635年に蒙古八旗が、1642年には漢軍八旗が創設され、1644年の北京遷都後は中国各地の要所にも駐屯して禁旅八旗(北京八旗)・駐防八旗が編成された。
 旗人は軍人貴族として旗地の世襲や高位官職の保持など各種特権の代償に禁軍の主力たる事が求められたが、中国征服後は緑営の拡充に依存して奢侈化・文弱化し、旗地の売却などで経済的にも凋落して朝廷の旗人救済政策もことごとく失敗した。 八旗・緑営の無能力化は嘉慶年間初頭の内乱で露呈していたが、半世紀後の太平天国の乱が致命的となり、以後は郷勇が軍の主力を担うようになった。

旗地  ▲
 清朝が旗人の生活維持のために支給した土地。 1621年の遼東占領で遼陽・瀋陽一帯の漢人の田地を没収して八旗に分給し、盛京旗地を設定してより急増し、北京遷都に伴う旗人の大量南遷では北京周辺の明の王侯貴族の土地が没収されて畿輔旗地が設定された。 旗地は1壮丁に田地25〜30畝が支給され、壮丁ごとに官糧を徴収して徭役を課し、旗地の売買譲渡は原則として禁止された。北京遷都後は盛京旗地は旗人の減少で荒廃し、畿輔旗地も旗人の増加と分給地の減少や漢人佃戸の増加、旗人の奢侈化による旗地の売却などによって次第に崩壊した。

藩部
 清の行政区分。内蒙古・外蒙古・回部(新疆)・西蔵・青海の総称。清は藩部に対しては征服後も従来の社会体制の維持を容認し、首長を介して間接支配を行ない、蒙古のジャサク、回部のベク、西蔵のダライ=ラマ・パンチェン=ラマの支配権を存続させた。 中央では理藩院が関係事務を管轄し、基本的には不干渉主義だった。

五京
 新羅渤海など、ツングース系種族の影響の強い国家で、国内を5分してそれぞれに重要都市を置いた疑似制度を指し、ツングース種族の五部制と唐朝の四都五京制が融合したものとされる。 唐朝では玄宗以来、長安を西京京兆府、洛陽を東京河南府、蒲州を中都河中府、太原を北京太原府とし、粛宗代に荊州を南都江陵府、至徳年間には成都を南京成都府とした。

△ 補注

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