北朝

 西晋瓦解後の北中国を統一した鮮卑拓跋氏の北魏と、北魏の分裂後の北斉と北周とを指し、中国では北周から興って全国を再統一した隋も含む。 拓跋氏は部族制を多分に残した軍国体制によって華北の統一を果たしたが、政権の運営には漢人層の支持を不可欠とし、太武帝の文字の獄に象徴される反動はあったものの漢化政策が進められ、その到達点である孝文帝の洛陽遷都と華化改革は北魏社会を一変させる画期ともなった。
 鮮卑系大姓の軍事力を背景とした事で安定した北魏の帝権は、南朝の貴族制を範とした改革によって求心力を低下させたが、三長制均田制は西魏の府兵制とともに隋唐に継承された重要政策となった。
 北朝の文芸活動は南朝に比して低調で、南北交流が活発となる洛陽遷都以降に漸く温子昇魏収邢劭らの人材が現れ、漢人士族の影響力が強かった北斉では文林館も興されたが、南朝の模倣を脱する文人は稀だった。 仏教については南朝と異って王権の優位が肯定され、北魏の太武帝や北周の武帝による廃仏もあったが、基本的には天子や貴顕に帰依されて民間にも浸透し、洛陽には多数の寺院が建立され、又た莫高窟(敦煌)・麦積山(天水)・雲崗(大同)・龍門(洛陽)などには中央アジアの影響で大規模な石窟寺院が造営された。
 

北魏  北斉  北周  

 
 

北魏

 386〜534
 鮮卑拓跋部の拓跋珪が前秦の崩壊に乗じて386年に代政権を再興し、間もなく盛楽に奠都して国号を魏と改めたもの。 拓跋珪の時代は漠南・オルドスの平定と中原進出に費やされたが、平城(山西省大同市区)遷都や漢人名族の挙用など、既に漢族との融和による体制の構築が図られ、三代目の太武帝の時代に華北を統一し、河南・淮北にも進出した。 体制の整備に伴って鮮卑族の漢化と都市貴族化が進行し、孝文帝の代には洛陽遷都・胡俗厳禁などの諸改革が強行され、鮮卑内部でも貴族と一般の格差が顕著となった。
 華化政策は鮮卑の相対的優位を大きく崩し、殊に政権中枢の南遷は北防を担ってきた鮮卑軍人の地位を賤民化させて523年には六鎮の乱を結果し、乱を平定した爾朱栄を筆頭に各地に軍閥が割拠する分裂期を迎えた。 華北はやがて爾朱氏を滅ぼした河北の高歓と、反高歓の関中の宇文泰の対立となり、高歓に擁立された孝武帝が534年に関中に出奔した事で北魏は東西に分裂した。
 東西の魏帝はともに高歓・宇文泰の傀儡に過ぎず、東魏は550年に高氏の斉に、西魏は556年に宇文氏の周に簒奪された。
 

道武帝  371〜385〜409
 北魏の太祖。諱は珪。代王拓跋什翼犍の嫡孫。 代政権の崩壊後はオルドスの劉庫仁、ついで陰山北麓の姻族の賀蘭部に庇護され、後燕に称臣して拓跋屈突と対立しつつ旧民を糾合し、386年に漠南に遷って代王を称し、間もなく盛楽に奠都して国号を魏と改めた。 拓跋部を再統合した後は庫莫奚高車を伐ち、391年に南匈奴の劉衛辰を大破してオルドスを征服し、内部でも賀蘭部を中心とする叛乱を平定して漠南の支配を確立した。
 391年に西燕と和した事もあって後燕との関係は急速に悪化したが、参合陂の役とそれに続く中山征服で彼我の勢力は逆転し、多数の漢人士族を収容・挙用して398年には平城(山西省大同市区)遷都と称帝を行なった。 399年に漠北に親征して高車を大破し、402年には後秦を破って北中国に覇権を確立したが、晩年には精神を病んで酷虐となり、次子の拓跋紹に弑された。
 中山征服に続く漢人名士の挙用によって中国的政体を志向しただけでなく、部族社会の解体と部民の羽林編入、官僚制への移行を行なったとされ、これらについては徹底度は疑問視されるが、部族的結合に制限を加えて勲貴の軍閥化を防いだ事は北魏が長期政権となる上で重要な要素となった。

明元帝  392〜409〜423
 北魏の第二代君主。太宗。諱は嗣。道武帝の嫡長子。生母は劉庫仁の姪の独孤皇后。 父を弑した次弟の拓跋紹を殺して即位した。崔浩ら漢人名士の挙用を進めた一方で北族の権益確保にも配慮するなど道武体制の調整を旨とし、南北の融和を基幹とした統治体制を確立した。 抬頭著しい柔然に対しては幽州北辺から陰山南麓に長城を築くなど専守を基本とし、長城によって北境を明確に画したことは中原王朝化を明示した象徴的な事件と見做す事ができる。
 晩年には宋の武帝の死後の政変に乗じて南征軍を興し、洛陽・虎牢(河南省滎陽)・滑台(河南省滑県)・碻磝(山東省済南)の四鎮を奪って河南に進出した。

太武帝  408〜423〜452
 北魏の第三代君主。世祖。諱はZ。明元帝の長子。 性は勇剛と称されたが、即位当初は崔浩の進言に従って南朝と和して北辺の安定と華北統一を進め、425・429年に柔然に親征して可汗を敗死させ、高車の30余万を服属させる一方、426年に長安を征圧したのち北燕北涼を征服して439年に華北を統一した。 北涼の征服によって西域通交も活性化し、北辺には鎮城を中心とする軍屯区を展開し、北魏の全盛期を現出した。
 征服事業と並行して内政の整備も進められ、崔浩・高允をはじめとする漢人名士を集団挙任・重用して中国王朝化が図られたが、急激な政策の変化は北族の反感を招き、蓋呉の乱を契機とした廃仏や、崔浩一派を粛清した国史事件などの大規模な反動を惹起した。
 南朝宋とは蓋呉の乱を機に対立に転じ、450年に瓜歩の難を頂点とする南征を親率して淮北を征服したが、程なく宦官の宗愛に弑された。

蓋呉  〜446
 安定出身の盧水胡。讖緯説を利用して信徒を集め、445年に杏城(陝西省黄陵)に挙兵した。 河東の大族の薛永宗とも結び、従う衆は数十万に達して秦王を称したが、柔然遠征から帰還した太武帝に薛氏が討平され、南朝宋の援軍も及ばずに叔父に殺されて乱は終息した。
 乱中に長安の寺院の武器隠匿や僧侶の破戒が発覚し、かねて仏教の堕落を糾弾していた崔浩の主導で叛乱への内通を理由に廃仏が宣言された。親仏的な太子晃の掣肘で詔勅の発布が遅れたものの、仏僧の鏖殺を伴う仏教の大弾圧が行なわれた。

寇謙之  365〜448
 上谷昌平(北京市)の人。字は輔真。嵩山で張魯の術を修めて415年に天師を称し、仏教の教理に倣って道教を整理・体系化した。 崔浩の推薦と、赫連夏の討伐の成功を予言した事で即位間もない太武帝にも信奉され、国都平城に天師道場を建設する一方で431年には各州鎮に道観を建設させ、道教の国教化を推進した。 440年には太武帝に太平真君の尊称を奉って帝師とされ、年号を太平真君と改元させるなど道教の絶対的優位を確立したが、廃仏政策に際しては太子晃とともに強く反対したという。

崔浩  381〜450
 清河武城(山東省)の出身。字は伯淵。崔宏の子。若くして経史や暦数などの諸学に通じ、名族として父と共に明元帝に信任されて国家の枢機に参画し、柔然討伐を成功に導いた。 明元帝の死で失脚したが、太武帝に寇謙之を薦めた事から間もなく朝廷に復帰し、太武帝が求める赫連夏の攻略や柔然遠征を支持した事で信任を集め、やがて首輔として司徒に至った。 漢人名族の積極挙用や道教の国教化などで鮮卑の華化を推進し、446年には異教として廃仏を断行したが、国史編纂に於いて建国前の鮮卑の実態を直書したことを糾弾されて族滅された。このとき、多くの漢人名族が連坐して粛清され、これより暫く漢人は任用されなかった。

文成帝  440〜452〜465
 北魏の第四代君主。高宗。諱は濬。太武帝の嫡孫。太子晃の子。 宗愛を誅した陸麗源賀らに擁立された。 即位後ただちに廃仏令を撤廃して曇曜を起用するなど仏教復興を進め、また太武帝の急進的な華化政策を修整して鮮卑族の支持を確保し、開墾を奨励するなど国力の涵養に腐心した。 各地の刑徒を以て北鎮を増強したが、これは漢人が北魏の北防に充てられた初見であり、同時に鎮兵の社会的地位が貶視される一因ともなった。

曇曜
 涼州の人と伝えられる。439年の北涼の滅亡によって平城に徙され、太子の拓跋晃に礼遇されたとも伝えられ、太武帝の廃仏では中山に隠遁した。 廃仏を撤廃した文成帝に招聘されて460年には第二代の沙門統とされ、国家事業として雲崗に石窟寺院を開鑿したほか、『浄土教』などの訳経や経典編纂、寺塔再建を進めた。 又た僧祇戸・仏図戸を制定して教団の財政基盤を強化し、北魏仏教の再建・興隆を進めた。

献文帝  454〜465〜471〜476
 北魏の第五代君主。顕祖。諱は弘。文成帝の長子。 即位の初めは丞相乙渾が朝政を壟断し、ついで乙渾を誅した馮太后が垂簾を行なった。 生来病弱で、長子の拓跋宏の生誕(467)を機に親政を始めたものの太后と対立して471年には太子に譲位したが、これは拓跋氏の旧慣に従って太子の生母/李氏を自殺させた事に対する抗議とも、孝文帝の権威を確立する為に太后に強要されたものとも伝えられる。 472年に柔然に親征するなど国事に発言権を保ったが、太后の寵臣の李奕を殺した為に毒殺された。
 尚お、470年に京兆王子推・任城王雲・汝陰王天賜らと北伐した際、柔然を大破した漠南の女水を武川と改めた。

馮太后  〜490
 文明皇后。文成帝の皇后。北燕の昭成帝の孫。西城郡公馮朗の娘。警機果断で、乙渾誅殺を指揮した後は朝政を総覧し、献文帝が親政を始めた後も朝政に関与し、471年には孝文帝に譲位させて垂簾を再開した。 孝文帝の周囲には漢人名士を配して徹底した漢化教育を施し、孝文帝が成人した後も垂簾を続けて班禄制・三長制均田制などを実施し、中央集権の強化を進めた。
 孝文帝に対しては厳格に接したが、歿した際の孝文帝の非常な悲嘆や以後の篤い追慕、孝文帝と献文帝の年齢差などから、孝文帝の実母とする説もある。

高允  390〜487
 渤海蓚(河北省景県)の名族。字は伯恭。経史・天文・暦数に通じて崔宏に偉器と讃えられ、長じて碩学の名士として千余の門弟を擁し、431年に盧玄游雅李霊邢穎らと共に太武帝に徴されて中書博士に叙された。 崔浩の国史編纂を輔けたために連坐したが、太子晃への進講や崔浩に対する諫言を以て特赦された。 文成帝の定策に連なって親任され、乙渾の誅殺にも参与した事で馮太后の垂簾では枢機に参与し、郡国への学校の設立(466)や律令制定の議定(473)など、漸進的な漢化による社会の安定・発展を推進した。
 献文帝からの廃嫡の諮問に対して強硬に反対した事もあって孝文帝の即位後に咸陽公に進封され、軍国の大事には常に諮問された。 長らく要路にありながらも清廉謙恭で輿望が篤く、平城に徙された士人を庇護して山東勢族の領袖と目されたが、一族を推すことはなかった。 多くの書檄を草し、晩年には文章家として高閭と並称された。
高允は閣僚に列した後も、身を削ってまで一族縁故に振恤していないにも関わらず窮乏に苦しんでいた事は、当時の北魏王朝では官位が俸禄を保証していなかった事を示しています。そうなると主流である北人官僚の経済基盤は官僚制とは別の封領経営にあったと考えられ、部族制の解体や州郡県制の実効度などはかなり疑問符が付きまといます。

孝文帝  467〜471〜499
 北魏の第六代君主。高祖。諱は宏。献文帝の長子。幼少で譲位され、490年までは祖母の馮太后が垂簾して中央集権化が進められた。 親政後は任城王や漢人士族の協力で強引に華化改革を進め、493年に南征と偽って洛陽遷都を強行し、494年に胡服を、その翌年には胡語を禁じ、遷都に随った北族の本貫を洛陽に遷し、496年に姓名の漢化を行なって王室も元氏に改めた。 又た南朝の貴族制や九品官制を参考に、姓族の系譜化や家格の評定を行なって同格の北人貴族と漢人貴族の通婚を奨励し、南朝に比して中央集権的な北朝貴族制を完成させた。
 又た遷都の翌年から積極的に南朝に親征し、494年のものは淮北・沔北・漢中に展開しながらも失敗したが、497年の南伐では南陽・新野を陥して樊城に達し499年の南伐中に軍中で歿した。
 孝文帝の諸改革は都市在住の鮮卑族の間で無統制に進んでいた中国化を組織的かつ加速させたもので、漢人社会では概ね高い評価が与えられるが、太子穆泰らの離背を惹起するなど北族の間では頗る不評で、結果的に北族大姓の奢侈・文弱化など都市貴族化を促進して同族間の格差を拡大した。待遇が劣悪化した羽林兵や鎮兵などの一般北族の不満は、後に六鎮の乱を惹起した。

元澄  〜519
 任城王。字は道鏡。任城王雲の嗣子。太子晃の孫。 襲封後、柔然討伐や氐羌の帰順に成功し、征北大将軍・梁州刺史・徐州刺史などを歴任して行政面でも治績を挙げ、孝文帝に信任された。 洛陽遷都の謀議にも与り、宗室・北族を威圧・説諭して遷都を成功させ、遷都後は平城留守・左僕射として故地の安定を任とし、穆泰の乱などに対処した。
 洛陽遷都を成功させた元勲として厚遇され、孝文帝の南征では概ね洛陽に留守して託孤にも連なったが、孝文帝の諸弟が成長した後は才腕を忌まれていたとも伝えられる。 宣武帝が即位すると咸陽王禧・尚書令王粛と対立して揚州刺史に出され、504年に鍾離攻略に失敗すると鎮北大将軍・定州刺史に遷された。 尚書令高肇の専権下では昏愚を装い、孝明帝が即位すると司空・侍中・尚書令に復した。

元英  〜510
 中山王。字は虎児。南安王禎の子。任城王澄の従弟。騎射に長じただけでなく、音律や医術にも通じた。 孝文帝の494年の南征で安南大将軍とされて荊州に鎮し、499年に斉の陳顕達に敗れて罷免されたが、504年に曹景宗を破って義陽を陥したことで中山王に封じられた。 梁の臨川王の北伐に報復する506年の南征では全軍を統帥して淮北を回復した後、鍾離の役で大敗して官爵を奪われたが、508年に復爵して征南将軍・都督南征諸軍事とされて義陽を伐ち、2関を抜いて26将を擒えて尚書僕射に進められた。

宣武帝  483〜499〜515
 北魏の第七代君主。世宗。諱は恪。孝文帝の第2子。501年に咸陽王禧を粛清して親政を開始し、充実した国庫を背景に頻繁に軍事を行なって505年には邢巒が梁州14郡を征服したが、翌年に中山王英を統帥として起した南征は鍾離の役で惨敗した。 執政は寛縦不断と評され、南朝同様に寒門や外戚を重用して猜疑心から多くの有能な王族を粛清し、次第に仏教に耽溺して綱紀の弛緩が進行した。 又た鮮卑名族の漢化と軍人の賤民化が進行して文官優位に対する将兵の不満が鬱積し、外征の多くは利権を求める将校の要請に応じた国策不在のものと評される。

邢巒  464〜514
 河間鄚の名族。字は洪賓。平城子邢潁の孫。 好学で博覧強記を讃えられ、文学にも長じた事から斉に遣使されたこともあり、孝文帝に厚遇されて散騎常侍・御史中丞・尚書などを歴任した。 軍事や謀略にも秀で、505年に梁の梁秦二州刺史夏侯道遷が州を挙げて帰順すると持節・都督梁漢諸軍事として接収にあたり、梁軍を悉く破って漢中一帯の14郡を確保したが、益州攻略は聴かれずに徴還されて度支尚書に直された。 梁の臨川王の北伐に対しては持節・都督東討諸軍事・安南将軍とされ、徐州・兗州を経略して宿豫を陥した。 鍾離攻略の長期化と失敗を予見して中山王元英からの求援に応じなかったが、翌年(508)に豫州刺史を殺して叛いた白早生を討伐する際には中山王の義陽攻略を支援し、援軍の梁軍を撃退した後に懸瓠城(河南省汝南)を陥して豫州を鎮圧した。
 奢侈や驕慢とは無縁で規律を重んじ、かねて不和だった盧昶(宣武帝の寵臣)に誣された際には高肇らへの通款で追及を避けるなど硬直には陥らなかったが、嗣子の遜からは「唯為忠臣、不為慈父」と評された。殿中尚書・撫軍将軍として歿した。

高肇  〜515
 高句麗の人。字は首文。父の代に移住し、外甥の宣武帝に親任された。 外国人との蔑視を政務への精励で緩和して能名を称されたが、旧制の改変に象徴される儀礼への無知は多くの貴顕に誹られ、集権化のために彭城王勰北海王詳ら諸王を抑圧した事で宗室から怨恚された。
 514年に大将軍・平蜀大都督とされて益州に出征したが、宣武帝の死で徴還されて参内したところを侍中于忠高陽王雍らに殺された。

孝明帝  509〜515〜528
 北魏の第八代君主。粛宗。諱は詡。宣武帝の第2子。幼少で即位した為に生母の霊太后の垂簾と宗室の元叉による専断が続き、北辺鎮兵の累積した不満から523年に六鎮の乱が発生した。 元服後は親政を冀求し、北鎮の乱の鎮圧過程で抬頭した太原の爾朱栄に上洛を密勅して霊太后の制圧を図ったが、露見して太后に暗殺された。

霊太后  〜528
 胡貴嬪。安定臨(甘粛省鎮原)の人。宣武帝の妃嬪・孝明帝の実母。 朝野の漢化の結果として太子の実母を殺す旧慣が忌避され、孝明帝の即位後に正太后の高氏を排斥して垂簾政治を始めた。 清河王懌任城王澄らの輔政はあったものの、一族の重用や驕奢、仏教への耽溺によって政情を悪化させ、又た尚書台に乱入して征西将軍張彝を撲殺した禁兵の暴虐を抑制することもできなかった。
 520年に領軍将軍元叉に幽閉されたものの525年に高陽王雍らによって復権し、親政を図って太原の爾朱栄と密通した孝明帝を暗殺して幼少の元サ(孝昭帝)を擁立したが、挙兵した爾朱栄に河陰で幼主や朝臣2千余人と共に殺された=河陰の変

羽林の変  519 ▲
 武人の清品官への就任制限に対する、羽林虎賁の暴動。 当時の北魏は漢化政策の進行と軍事の減少によって、余禄を伴う文官職が貴重されたが、就任者は宗室や一部の鮮卑大姓・漢人士族に限られて武官からの転任は絶望的で、文尊武卑の風潮は鮮卑の名族子弟で構成された禁衛兵の間でも深刻となっていた。 羽林虎賁の将兵数千は、件の案件の建議者である張仲瑀の私邸および尚書台を襲い、邸宅に放火して仲瑀の父の征西将軍張彝を撲殺し、兄の尚書郎張始均を生きながらに焚殺した。
 事件後、朝廷は羽林の士官8人を誅した他は大赦を発して不問とし、朝廷の統制力と綱紀の凋落を内外に露呈した。 又た武人の文官就任が公認され、官席の大幅な不足に対しては、崔亮の建議で年功によって順次就任が行なわれる停年格制が導入され、人事の硬直化が助長された。

元叉  486〜526
 字は伯儁。江陽王継の長子。道武帝の玄孫。 霊太后の妹婿として顕職を歴任し、領軍将軍となって禁軍を掌握すると驕傲となってしばしば輔政の清河王懌に懲戒されたが、520年に清河王を殺し霊太后を幽閉して朝政を壟断した。 525年に丞相の高陽王雍によって霊太后の幽閉が解かれると孝明帝の元服を理由に驃騎大将軍・尚書令・領左右府に直され、間もなく謀叛の嫌疑で誅された。 執政中の523年に六鎮の乱が発生した。

酈道元  〜527
 范陽郡の人。字は善長。孝文帝の北巡に従って清正な執法が認められ、尚書郎から治書侍御史に抜擢されたものの統治官に転じると厳酷となり、東荊州刺史の時に怨嗟が朝廷に達して罷免された。 10年後(523)に再挙されて河南尹となり、鮮于修礼元法僧の討伐に従った後に御史中丞に進んだが、元微・元悦の非法を弾劾した為、527年に両者の進言で関右大使に出され、造叛を準備していた雍州刺史蕭宝寅に殺された。
 好学で奇書を歴覧し、『水経注』40巻、『本志』13篇を著した。

達摩  〜528?
 菩提達磨。南インドのパルラヴァ朝の第3王子と伝えられる。中国禅宗の開祖。 海路で広州から中国に入ったが、建康・洛陽で仏教界に迫害されて嵩山少林寺に住持した。 壁観沙羅門を称し、慧可に法統を授けた。

宋雲
 敦煌の仏僧。仏教に耽溺する霊太后に尊崇され、勅命によって518年に恵生らとともに西域に仏典を求め、吐谷渾から西域南道を経て、エフタル王の庇護を得て入印し、北インドのウッジャイン・ガンダーラなどで大乗経典を得て帰国した。 玄奘に先行する求法僧で、その取経記は『洛陽伽藍記』第五巻に『宋雲家記』として収録されているが、『唐書』には『魏国已西十一国事』1巻とある。

六鎮の乱  523〜530
 北魏の北防を担った鎮兵の大乱。破六韓抜陵の挙兵に始まって北鎮の乱と関西の乱に大別でき、又た北鎮の乱は前後期に大別される。 523年に西端の沃野鎮で生じた破六韓抜陵の乱は懐朔・武川鎮を陥して撫冥・柔玄・懐荒・禦夷鎮にも波及し、関西でも高平敕勒の胡琛や秦州の莫折念生が呼応する大乱に発展した。 朝廷の討伐や招撫を斥けた後、朝廷と協働した柔然によって525年に鎮圧され、降伏鎮民20万余は河北の冀・定・瀛州に分置された。
 乱中から鎮の改州や府戸の解除が試行されたものの鎮民に対する抑圧が続いた為、同年に上谷で杜洛周が挙兵すると河北に徙された鎮民が呼応し、やがて葛栄によって河北全域を席捲する大乱に発展した。 河北の鎮民の乱は528年に爾朱栄に、関西の乱は530年に爾朱天光に鎮圧されたが、洛陽の陥落を含む南朝梁の便乗や対西交易の停滞を招き、又た乱の過程で朝廷の無力化が露呈して各地に軍閥が割拠し、軍閥の統合に成功していた爾朱栄が横死すると魏は東西に分裂した。
 陰山南麓に列置された北鎮はそもそも故都盛楽一帯の防衛を任としたもので、進駐する鎮民は当初は選民として優遇されましたが、同族の漢化・都市貴族化の進行で相対的に地位が低下していったものです。 三長制の同時期に北族大姓を鎮将とした事も鎮民の賤民化の抑止を目的としたものでしたが、孝文帝の華化政策の埒外に置かれた事で北鎮は流刑地同然となり、鎮民は任官資格を失った府戸となって鎮将の収奪対象と見做されるまでに至りました。
 尚お、嘗ては“六”鎮に拘って東端の禦夷鎮は数えられませんでしたが、清河王元懌の墓誌銘によって、当時は七鎮の乱と認識されていたことが判明しています。 七鎮は西から沃野鎮(内蒙古自治区五原)・懐朔鎮(内蒙古自治区固陽)・武川鎮(内蒙古自治区武川)・撫冥鎮(内蒙古自治区四子王旗)・柔玄鎮(内蒙古自治区興和)・懐荒鎮(河北省張北)・禦夷鎮(河北省赤城)となります。

破六韓抜陵  〜525? ▲
 破六韓氏は漢末魏初の右賢王去卑の弟の潘六奚氏を名祖とし、右谷蠡王が北魏に降った後に破六韓氏に転訛したと称した。 523年に沃野鎮将を殺して挙兵し、北辺諸鎮に波及して六鎮の乱に発展した。 翌年には懐朔鎮・武川鎮を陥し、北討諸軍事の臨淮王ケや北討大都督李崇を撃退して勢力を拡大したが、北魏の招請に応じた柔然に敗滅した。

葛栄  〜528
 鮮卑人。もとは懐朔鎮の軍主だったが、六鎮の乱に加わって河北に徙され、526年に鮮于修礼の蜂起に従った。 修礼の死後に首領に推戴され、章武王を博野で大破して斉帝を称し、広陽王を敗死させ、528年には杜洛周を滅ぼし、冀・滄・定・瀛・殷5州を中心に河北を支配して無敵を謳われ、衆百万と号した。 飢饉に逼られて汾州に分遣した後に鄴から洛陽攻略に転じ、滏口(河北省磁県峰峰鉱)で爾朱栄に惨敗して洛陽で斬られた。

莫折念生  〜527
 秦州(甘粛省天水)の人。羌族とも。524年に父/莫折大堤に従って秦州で挙兵し、同年に父が歿すると首領を継いで秦天王を称した。 隴西を制圧して河右・仇池への進出を図り、又た弟の天生を隴東に進出させて西道都督の元継を撃退し、関中の叛賊の首魁と見做された。 仇池への進出は東益州刺史魏子建に阻まれ、又た呂伯度の離叛や胡琛との対立などに苦しんで西道行台の蕭宝寅に佯降し、527年に平涼に蕭宝寅を大破して一時は潼関にも逼ったが、間もなく部下に暗殺され、兵の多くが万俟醜奴に吸収された。

蕭宝寅  485〜530
 蕭宝夤。字は智亮。南斉の東昏侯の同母弟。 蕭衍に建康が陥されると単身北魏に亡命して礼遇され、梁の江州刺史陳伯之の帰順を援ける際に鎮東将軍・斉王とされて出征し、寿春より梁兵を撃退して三軍に冠絶する驍勇を讃えられた。 鍾離の役にも加わって官爵を剥われたが、後に南陽公主を娶り、512年に瀛州刺史に叙された際に斉王に復爵し、冀州刺史・殿中尚書・徐州刺史を歴任した。しばしば梁軍と交戦し、戦場では苛烈だったものの平時は温順で、徐州では学館を建てて儒学を振興し、恵政を以て敬愛された。
 北鎮の乱が関中に波及すると西道行台・大都督とされて西征し、隴東を鎮定して莫折念生を圧し、527年に州で念生の佯降に大破されたものの征西将軍・雍州刺史・西討大都督に直されたのみだった為に問罪を猜疑するようになった。 同年、御史中尉酈道元が関中大使として派遣された事を機に挙兵して称帝したが、翌年に長孫稚に大破されて万俟醜奴に投じ、高平(寧夏固原市区)で爾朱天光に擒われて京師で賜死された

  494?〜529
 北海王。字は子明。北海王詳の嗣子。献文帝の孫。 六鎮の乱で秦隴が乱れると征西将軍・都督華豳東秦三州諸軍事とされて胡琛を伐ったものの敗れて洛陽に奔還し、ついで驃騎大将軍・相州刺史とされて葛栄討伐に転じ、征途で河陰の変に接して南朝梁に亡命した。
 梁では魏主に擬され、翌529年に梁将の陳慶之と共に北討して洛陽を占領したが、以後は遊宴に酖湎して人心を失い、爾朱栄に大破されて潰走中に臨潁で殺された。 爾朱氏が滅ぼされた後、使持節・侍中・都督冀定相殷四州諸軍事・驃騎大将軍・大司馬・冀州刺史を追贈された。 墓誌では永安三年(530)に36歳で歿した事になっているそうです。

爾朱栄  493〜530
 北秀容(山西省朔州市区)の人。字は天宝。拓跋珪以来、北魏に従った種の部酋。 父の爾朱新興は牧畜に大成して「畜は谷を以って計る」と称され、孝文帝らの軍事に軍馬を提供して秀容第一領人酋長とされた。
 爾朱栄は六鎮の乱や鎮民の乱の討伐によって勢力を拡大して晋陽に拠り、上洛を促した孝明帝が528年に暗殺されると洛陽に進軍して河陰で太后・少帝以下朝臣2千余を殄戮し(河陰の変)、孝荘帝を擁立して都督中外諸軍事・大将軍・尚書令・領軍将軍・太原王を称した。 自身は間もなく晋陽に退いて元天穆爾朱世隆らを介して朝廷を統制し、鄴から東転した葛栄を7千騎で討滅し、又た叛賊のうち有能な渠帥を挙用して勢力を強化した。
 官は大丞相・都督河北畿外諸軍事に至り、梁と結んだ北海王が洛陽を陥すと、爾朱兆を前鋒に元を大破して天柱大将軍を加えられたが、親政を志向する孝荘帝に憎まれ、入朝に応じたところを宮中で元天穆と共に誅された。

孝荘帝  507〜528〜530/530
 北魏の第九代君主。敬宗。諱は子攸。彭城王勰の子。献文帝の孫。 爾朱栄に擁立され、その娘を皇后とした。 爾朱栄の専権を憎忌し、万俟醜奴が劣勢になる頃には外賊の減少を歎くようになり、530年に爾朱栄を入朝させて宮中で殺したが、まもなく雪辱を掲げる爾朱一族に廃され、太原で殺された。

長広王  〜530〜531〜532
 北魏の君主。諱は曄。拓跋晃の曾孫。 孝荘帝の時に長広王・太原太守とされ、爾朱栄の報復を唱える爾朱兆らに晋陽で立てられた。 入洛後に血統の疎遠を嫌った爾朱世隆らに廃されて東海王に直され、後に暗殺された。

節閔帝  498〜531〜532/532
 北魏の君主。諱は恭。前廃帝とも。孝荘帝の従兄弟。広陵王羽の嗣子。長広王を廃した爾朱世隆によって立てられたが、元朗を擁して入洛した高歓に廃弑された。

爾朱兆  〜533
 字は万仁。爾朱栄の従子。驍猛と騎射の術を爾朱栄に重用され、528年の上洛の際には前鋒都督とされ、邢杲討平や討伐に従って車騎大将軍・汾州刺史に進み、殊に元討伐では前鋒となって元の子を擒え、元潰走の契機を為した。 爾朱栄が殺されると晋陽の長広王を擁立して大将軍・潁川王を称し、建州の爾朱世隆らと与に洛陽を陥して孝荘帝を廃し、ついで高歓と結んで秀容に紇豆陵歩蕃を大破し、その際に高歓の3鎮6州の統領を追認した。
 節閔帝が立てられると都督中外諸軍事・兼録尚書事・大行台とされて幷州刺史の世襲が認められたが、不在中に廃立が行なわれた事などから世隆らと不和となり、その為、高歓討伐中に離間によって世隆の弟の仲遠らの撤退を招いて高歓に大敗した。 関中の爾朱天光が加わった韓陵の役でも大敗して晋陽に奔帰し、更に秀容に敗走する途上で敗れて縊死した。 爾朱栄からは、将才は三千騎が限度であると評されていた。

爾朱天光  496〜532
 爾朱栄の従祖兄の子。勇決を爾朱栄に親愛されて常に軍議に与り、528年の上洛の際には後事を託されて肆州刺史・長安県公とされた。 上党王の軍事に従って広宗郡公に進封され、元の討滅後に使持節・都督・雍州刺史とされて賀抜岳侯莫陳悦を率いて西征し、万俟醜奴蕭宝寅らを討平して隴西を制圧し、河右の土豪と対峙した。
 爾朱栄が殺された後、洛陽を制圧した爾朱世隆より尚書令・関西大行台・隴西王とされ、以後も関中経略を進めて河西(河套西部)の紇豆陵伊利・万俟受洛干らと対峙した。 爾朱兆が高歓に敗れた後に斛斯椿らの説得もあって漸く上洛したが、韓陵の役から敗走する途上で斛斯椿らに擒われ、高歓に送られた後に洛陽で斬られた。
  
韓陵の役(532):高歓が韓陵(河南省安陽)で爾朱氏を大破した戦。 爾朱氏は前年に信都で挙兵した高歓を伐ち、離間策で開戦前に撤退した爾朱度律らと大敗した爾朱兆との対立が尖鋭化していたが、爾朱兆の娘が節閔帝の皇后とされた事で分裂は回避され、斛斯椿らの奔走によって関中の爾朱天光も加えて再度の高歓討伐が成立した。
 高歓軍の3万に対して爾朱軍は総数20万と称したが、爾朱兆が高歓の佯退を追って大破され、これを爾朱度律が救援せずに撤退した事で全軍が壊乱した。 爾朱度律に従軍していた斛斯椿の離背によって爾朱世隆ら洛陽の爾朱氏は鏖殺され、爾朱度律・天光も退走中に擒われて洛陽で斬られ、仲遠は南朝に亡命し、慕容紹宗とともに晋陽に逃れた爾朱兆も翌年には討滅された。
 以後、北魏は関東の高歓と関中の賀抜岳によって東西の対立が進行し、孝武帝が関中に出奔した事で分裂した。
爾朱度律の撤退は賀抜勝が高歓に降った事を契機としたもので、これは爾朱兆を救援しない爾朱度律に失望した事が原因だと説明されています。 それにしても歴戦の筈の爾朱天光の働きが全く見えてこないのが気になるところです。 本当に関中ではお飾りだったのか、先読みができすぎて損兵を避けたのか、元々の兵力が少なかったのか。

後廃帝  〜531〜532/532
 北魏の君主。諱は朗。章武王融の子。拓跋晃の玄孫。 渤海太守のとき、挙兵した高歓に擁立されたが、人望の低さを厭われて節閔帝とともに廃されて安定郡王とされ、半年後に殺された。

孝武帝  510〜532〜534
 北魏の君主。諱は脩。出帝とも。孝文帝の孫。爾朱氏を滅ぼして入洛した高歓によって擁立された。 高歓の専権を嫌って賀抜勝を荊州刺史・南道大行台に任じ、関中の賀抜岳宇文泰とも通じて晋陽への親征を行なったが、高歓の出兵と諸将の離背に遭って河橋から関中に奔り、まもなく宇文泰とも反目して殺された。
 洛陽には高歓によって孝静帝が立てられ、北魏は東西に分裂した。

賀抜岳  〜534
 神武尖山(山西省神池)の人。字は阿斗泥。賀抜度抜の子、賀抜勝の弟。 太学に学び、長じて驍果絶人と称されて兵略にも長じた。 兄の賀抜允に従って爾朱栄に投じ、爾朱栄の上洛では先駆とされた。 葛栄・元討伐に従った後、爾朱天光の西征に左廂大都督として前鋒となり、万俟醜奴の大破や捕獲、略陽(甘粛省庄浪)の王慶雲・夏州(陝西省靖辺)の宿勤明達の討平を指揮して西征の主勲とされ、都督・州刺史・樊城県公に進められた。
 節閔帝の即位で都督・岐州刺史・清水郡公に転じ、ついで隴右行台として高平(寧夏固原市区)に鎮し、隴右諸軍事の侯莫陳悦と与に隴中の略定を進めて翌年には都督・雍州刺史を加えられた。 韓陵の敗報が伝わると天光の弟の顕寿を執えて高歓に通誼したが、高歓排除を図る孝武帝と結んで関中大行台・大都督・二十州諸軍事を加えられ、高歓に与する霊州刺史曹泥攻略の軍議中に侯莫陳悦に暗殺された。
 賀抜岳の兵団の中心は武川鎮出身者で構成され、夏州刺史宇文泰に継承されて北周政権の基盤となった。

斛斯椿  495〜537
 広牧富昌(陝西省楡林?)の人。字は法寿。北鎮の乱で爾朱栄に投じて軍の枢機にも与り、累遷して東徐州刺史に進んだ。 爾朱栄が殺されると汝南王悦に投じたものの上洛する爾朱兆に帰し、節閔帝の定策に参与して侍中・驃騎大将軍・襄陽郡公とされた後は賀抜勝と与に爾朱兆の抑制を図り、そのため531年の高歓討伐で爾朱度律の為に爾朱兆との和解を講じた際には賀抜勝と共に執われた。 戦後は高歓討滅の為に爾朱天光を上洛させ、爾朱度律に従って出征したものの、韓陵の役で爾朱氏が敗れると直ちに河橋(河南省孟州)を制圧して爾朱度律・天光らの退路を断ち、又た長孫承業・賈顕智らに洛陽の爾朱世隆らを殺させて高歓に通款した。
 入朝した高歓の捕縛を賀抜勝に諮って制止されたとも伝えられ、閣内部曲を編成するなど孝武帝を交えて高歓討伐の準備を進め、534年に前駆大都督とされて出征したが、虎牢(河南省滎陽)に達したところで賈顕智に叛かれて孝武帝と共に関中に西奔した。 長安では司徒・太傅を歴任して常山郡公に進封され、死後に大司馬・録尚書事・三十州諸軍事・侍中・恒州刺史・常山郡王を追贈された。
史書での斛斯椿の評価は“佞巧”となっています。爾朱栄のおかげで出世したにもかかわらず土壇場で裏切って率先して引導渡しただけでなく、高歓に色目使ったと思ったら孝武帝を煽って挙兵させたりと、一身上の都合で策謀メインで立ち廻って見えますから、仕方のない評価かもしれません。 父親の口から「爾朱氏と兄弟を誓っておきながら獄門をするとは愧知らず!」と云わせたり、演出もバッチリです。
 同じような行動をとった筈の賀抜勝が“有志操”と評されているのとは大違いです。 賀抜勝は自身でも武将として動いていますし、関中に遷った後の行動はブレていませんが、爾朱氏覆滅で直接加害者にはなってない点を除けば、荊州刺史になるまでの動きは斛斯椿と大差ありません。 特に爾朱栄が殺された際に孝荘帝に近侍したのは忠臣ポイント高いですが、見方によっては爾朱世隆のスパイとも見做せます。
 斛斯椿の孫の斛斯政は兵部侍郎の時に楊玄感の叛乱に与して高句麗に逃亡し、結局は隋の要求で送還されて憎しみ集めて私刑っぽい殺され方をしていますので、このあたりも評価に影響しているのかもしれません。

曇鸞  476〜542
 雁門の人。中国浄土教の祖。はじめ上座部を学んだが、健康を害して仙道に転じて江南の陶弘景に学び、帰国後に洛陽で菩提流支から『観無量寿経』を授かってより浄土教を専修した。 幷州大巌寺に住持して帝室の尊崇を受け、晩年は石壁山玄中寺に遷って浄土教を布教し、汾州の遙山寺で歿した。 道統は道綽善導へと継承された。

孝静帝  524〜534〜550〜551
 東魏の君主。諱は善見。清河王の嫡子。孝文帝の曾孫。 孝武帝が長安に出奔した後、高歓に擁立されて鄴に奠都した。 丞相の高歓が全権を掌握し、高盛を司徒、高昂を司空としながらも、趙郡王元ェが大司馬、咸陽王元坦が太尉となるなど高氏と元氏の共和色が強かった。 高歓の死後は高澄崔季舒による侵侮が甚だしく、元瑾荀済らとの高澄暗殺が失敗した後は幽閉され、550年に斉王高洋に譲位して中山王とされたが、翌年に毒殺された。

文帝  507〜535〜551
 西魏の初代君主。中宗。諱は宝炬。京兆王愉の子。 孝荘帝のとき南陽王に封じられ、孝武帝の下で太尉・太保・太宰などを歴任した。 孝武帝を殺した宇文泰によって翌年に長安に擁立された。

廃帝  〜551〜554/554
 西魏の第二代君主。諱は欽。文帝の長子。 即位後は元号を用いず、宇文泰暗殺を謀って廃された後に配所の雍州で毒殺された。

恭帝  537〜554〜556〜557
 西魏の第3代君主。諱は廓。廃帝の弟。斉王から擁立された。 宇文泰の指導下にの征服や江陵の攻陥、六官の建制などが行なわれた。 宇文泰の死後、大冢宰を継いだ宇文護によって周公宇文覚に譲位し、宋公に封じられて間もなく暗殺された。


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