▽ 補注:十六国

拓跋  宇文    鉄弗  独孤  翟魏  仇池  宕昌
 

苻雄
 苻洪の末子。字は元才。 夙に聡敏で軍事にも通暁し、兄の苻健を輔けて信任が篤かったが、中道で歿して苻健を大いに嘆かせた。 魏敬武王との諡号が贈られ、後に子の苻堅が即位すると文桓帝に直された。

苻融  〜386
 字は博休。苻堅の異母弟。 苻堅の即位で丞相となった王猛の後任の冀州牧とされ、能治のみならず将兵の信望も高く、苻堅からも厚く信頼された。 王猛が歿すると召還されて中書監・司隷校尉・太子太傅・録尚書事などを歴任したが、南征より内治を優先させる諫言は悉く聴かれなかった。 383年の南征では征南大将軍とされ、前鋒の20万を督して寿春(安徽省寿県)を攻陥したが、苻堅の合流後に淝水で大敗して帰国し、転戦中に戦死した。

慕容仁  〜336
 慕容廆の少子。平州刺史らが破られた後は遼東鎮撫にあたって高句麗を撃退し、323年の宇文部討伐では慕容廆の左翼となって柏林で宇文乞得亀を大破した。 慕容廆が歿すると車騎将軍・平州刺史・遼東公を称して慕容皝と争い、一時は遼東を占有して宇文部段部とも結んだが、海上から慕容皝に急襲されて殺された。

慕容翰  ▲
 慕容廆の長子。 夙に勇略を愛され、318年に平州刺史らが来攻した際には、宇文遜昵延の本営を急襲して大破した。 慕容廆が歿すると慕容皝に猜忌されて段部に奔り、段部が石虎に滅ぼされると宇文部に遁れたが、340年には帰国して慕容皝に厚遇された。 344年の宇文部討伐では慕容垂とともに前鋒となって宇文逸豆帰を大破したが、間もなく謀叛を誣されて賜死された。

慕容会  〜397
 字は道通。慕容宝の庶子。慕容盛に随って西燕から慕容垂に帰投して才幹を愛され、慕容垂からは慕容宝の嗣子とされたが、後に異母弟の慕容策が立てられて清河王とされて龍城に鎮守した。 397年に中山から退走する慕容宝を奉迎して薊で魏軍を撃退したものの、慕容農・慕容隆らに兵を移管された為に造叛し、龍城に慕容宝を攻囲して高雲に敗れ、中山に奔って慕容詳に殺された。

慕容詳  〜397 ▲
 慕容氏の宗室。中興後に開封公に封じられた。 慕容宝が北奔して程なくに中山で僭称したが、荒蕪策を施さなかった為に支持されず、秋には丁零兵を率いる慕容麟に敗死した。

慕容麟  〜398
 慕容垂の庶子。中山攻略や翟遼討伐、遼東経略などを成功させ、386年には拓跋珪への援軍となって拓跋窟咄・賀蘭部などを伐った。 参合陂の役では殿軍としての備えを怠って大敗の一因を為したとされ、又た慕容垂病死の報が到った際には軍中に慕容麟擁立の議が生じた為に慕容宝とは疎隔となり、その為か慕容宝が即位した後は承旨して慕容策を太子に推したという。
 晋陽の慕容農が魏軍に敗れると中山籠城を唱え、魏軍が来攻すると簒奪に失敗して丁零に奔り、秋には中山に慕容詳を攻殺して称帝したものの欠糧に苦しんで鄴に遷り、趙王に貶号して慕容徳に投じたが、謀叛が発覚して誅された。

麻秋  〜350
 後趙の将。石勒の死後、前涼に通誼した蒲洪を降し、石虎の北伐では段遼を大破したが、段遼の佯降によって慕容恪に大破された。 346年に涼州刺史とされて前涼を伐ったものの謝艾に撃退され、翌年には12万の兵力を以て再び謝艾に大破され、東晋の褚裒の北伐では石苞に従って関中に鎮守した。
 後趙が瓦解すると苻洪に擒われて軍師将軍とされ、関中の平定を急務として勧めたが、間もなく宴席で苻洪を暗殺し、奪兵に失敗して苻健に殺された。

李驤  〜328
 李特の弟。 成漢の建国期に李特・李流・李雄を支えて李雄の称王で太傅とされ、羅尚が歿すると涪を陥し、後に越雟攻略には成功したものの寧州攻略には失敗した。 李班の立太子を切諫し、国の行く末を案じつつ歿した。

劉乂  〜317
 北海王。劉淵の子。劉聡が即位すると皇太弟・大単于・大司徒とされた。 しばしば劉聡を諫めて厭われ、劉粲・靳準らに大逆を誣されて殺された。

呂弘  〜400
 呂纂の弟。重篤となった呂光より司徒とされて呂纂と共に後事を託されたが、呂光の死後は呂纂に簒奪を勧めて与に宮中に呂紹を攻殺した。まもなく呂纂と互いに猜忌して造叛し、敗れて南涼に奔る途上で捕われて殺された。

呂超  ▲
 呂紹の従兄弟。 天王を襲いだ呂紹に呂纂の粛清を進言した事があったが、呂纂の簒奪後も忠臣として遇された。後に兄の呂隆と与に宴席で呂纂を弑し、呂隆を天王に擁立した。

盧ェ  284〜350
 字は子諒。范陽涿の名族。晋の左将軍盧志の子。武帝の駙馬都尉に選ばれたことがあり、父の盧志に随って劉琨を頼る途中で劉粲に捕われ、拓跋部の来援で救われたものの一族は悉く平陽で劉聡に殺された。 文才に長け、劉琨の外甥でもあって重用されたが、316年に段匹磾に請われて別駕に出され、その死後は遼西の段末波に仕え、建康に劉琨の忠烈を上書した縁で散騎中書侍郎に召されたが、末波に留められた。
 遼西が滅ぶと石虎に仕え、清河の崔悦・潁川の荀綽・河東の裴憲・北地の傅暢らとともに石氏に厚遇されて漢人の保護と再興に尽力したが、常にその境遇を愧じ、顕職を歴任したものの墓誌には“晋司空従事中郎”とのみ記すよう遺言していたという。 冉閔の乱で石氏とともに襄国で殺された。南渡した一族も多く、孫恩に従った盧循は曾孫にあたる。
 劉琨と詩の応酬をした事からも劉琨と詩才を対比されることも多く、『文心彫龍』では「琨は雅壮にして風多く、ェは情発して理明らか」と盧ェが上としている。『詩品』では中品に位する。

劉羣  〜352 ▲
 字は公度。劉琨の世子。 318年に段末波に執われ、劉琨の死後は盧ェに奉じられて末波に従い、建康に召致された際にも慰留された。 段部を征服した石虎に仕えて中書令に至り、冉閔に殺された。

荀綽  ▲
 字は彦舒。潁川潁陰の人。劉琨に司空従事中郎とされた。 312年に石勒に降って参軍とされ、君子営に加えられた。

裴憲  ▲
 字は景思。河東聞喜の人。 東海王に従って豫州刺史・北中郎将とされ、王浚の許で尚書とされた。 王浚を滅ぼした石勒に迎えられて諸制度の策定に参与し、後に司徒に至って石虎にも厚遇された。

 
 
 

 315〜376
 鮮卑拓跋部の政権。拓跋氏の原住地は内蒙古北東部オロチョン旗の嘠仙洞で、3世紀には部族の中核となって陰山南麓に遊牧した。 3世紀後期の拓跋力微の時代に盛楽に拠って西晋と対峙したが、やがて匈奴との対立から晋の幷州刺史を援け、4世紀前期には拓跋猗盧が大単于・代王に封じられて山西北部の支配を追認された。 漢人幕僚の採用や城郭都市の造営など、漢制を模しての諸制度の整備が始められたのも猗盧の時代だったが、その死後は短命君主が続いて分裂した。
 拓跋部を再統合した什翼犍の時代が盛時で、高車や匈奴鉄弗部を伐ってオルドスの大勢力となったが、前秦との抗争と内訌から376年に瓦解した。
 部民は前秦の苻堅によって二分されたが、後に什翼犍の孫の拓跋珪が淝水の役に乗じて旧民を糾合して385年に再興し、まもなく北魏と改称した。

拓跋力微  〜277
 拓跋部の大人。太祖、神元帝。部族内での拓跋氏の地位を確立し、260年には盛楽(内蒙古ホリンゴル)に拠って20万余騎の兵力を有したという。長子の沙漠汗を曹魏・西晋に派遣して中国王朝との和親を図ったが、まもなく西晋と対立して護烏桓校尉・幽州刺史の衛瓘に暗殺された。

拓跋沙漠汗  〜277
 拓跋力微の長子。しばしば魏・晋に質子となり、拓跋力微の最晩年に内訌で殺された。 後に文帝と追諡された。
『魏書』では衛瓘の離間策によって諸大人に枉陥され、賜死された事になっています。 又た同書では、力微は沙漠汗の死に対する後悔と衛瓘によって起された烏桓の内乱への心労で歿した事になっています。

拓跋悉鹿  〜277〜286
 拓跋部の大人。章帝。拓跋力微の子。晋の幽州刺史の衛瓘の離間策に苦しんだ。

拓跋綽  〜286〜293
 拓跋部の大人。平帝。拓跋悉鹿の弟。 大人が交代した宇文部に通誼し、娘を宇文普撥の世子の宇文丘不勤に入嫁させた。

拓跋弗  〜293〜294
 思帝。拓跋力微の長子/沙漠汗の末子。拓跋綽より大人を襲いだ。
拓跋一族の実年齢が不明なので即断はできませんが、悉鹿−綽−弗−禄官という継承の流れがとても不自然です。 短い在位期間と“思”という諡号を考えると、後付けで大人を嗣いだ事にされたような感じがします。あくまでも個人的な感覚論ですが。

拓跋禄官  〜294〜307
 拓跋部の大人。昭帝。拓跋力微の少子。 部を三分して東部(張家口の北)を統べ、甥の猗㐌に中部(大同の北)を、その弟の猗盧には盛楽を中心とする西部を預けた。 隣接する宇文部との友好を維持し、猗㐌の北伐や幷州刺史司馬騰との和親で威勢を回復し、匈奴の劉淵としばしば攻伐した。

拓跋猗㐌  〜305
 拓跋沙漠汗の長子。拓跋力微の長孫。 叔父の禄官の下で代郡北方の中部を統べ、297年より漠北に西征して20余ヶ国を帰参させた。 成都王穎と対立する幷州刺史司馬騰を支援し、304年に司馬騰を襲った漢王劉淵を撃退し、翌年にも司馬騰を救援して大単于とされた。後に桓帝と追諡された。

拓跋猗盧  〜307〜316
 拓跋部の大人。穆帝。拓跋沙漠汗の次子。拓跋力微の孫。叔父の禄官が大人となると盛楽(内蒙古ホリンゴル)を中心とする西面を統べ、兄の猗㐌と禄官が相次いで歿したことで大人を襲いだ。 八王の乱で多くの流亡漢人を受容して漢人幕僚を積極起用し、従来の三分国制を廃止して集権化を進め、又た盛楽に北都を造築して旧平城を南都とするなど、漢制の導入と定住化への対応を試みた。
 晋の幷州刺史劉琨を支援して310年に劉虎を撃退した事で大単于・代公とされ、312年には晋陽を陥した劉粲を大破し、315年に代王に進められた。 南都の南方100里に新平城を造築し、長子の六脩を南部大人としたが、廃嫡を図った為に六脩に叛かれて敗死した。

拓跋普根  〜316/316
 拓跋部の大人。拓跋猗㐌の子。 中部大人を襲ぎ、316年に拓跋六脩を討平して代王を襲いだが、月余で歿した。
 死後は生母の祁太妃が臨朝し、まもなく生まれた嬰児が立てられたが、冬には夭逝して従弟の欝律が立てられた。

拓跋欝律  〜316〜321
 拓跋部の大人。平文帝。拓跋猗㐌・拓跋猗盧の弟/拓跋弗の子。普根・哀帝の相次ぐ死で立てられた。 310年の幷州救援にも従い、318年にも劉虎を撃退し、来降した独孤部大人の劉路孤を婿として厚遇した。 漢末の混乱に乗じて劉曜・石勒と鼎立したが、猗㐌の直系の威信を危ぶむ祁太妃に暗殺され、拓跋部は宇文部と結んだ猗㐌系と賀蘭部と結んだ弗系に分裂した。

拓跋賀傉  〜321〜325
 拓跋部の大人。恵帝。拓跋普根の弟。 欝律を殺した生母の祁太妃に擁立された。祁氏が臨朝した為に女国と蔑称されて諸部が離背し、平城を維持できずに東木根山に遷った。

拓跋紇  〜325〜337〜? ▲
 拓跋部の大人。煬帝。拓跋賀傉の弟。 賀傉の死後、後趙に大敗して大寧に退き、援軍を拒んだ翳槐(欝律の子)と賀蘭部を宇文部と与に伐って敗退した。 329年に翳槐に敗れて宇文部に奔り、翳槐と賀蘭部の対立に乗じて335年に大寧を回復したものの、後趙と結んだ翳槐に逐われて慕容部に遁れた。

拓跋翳槐  〜329〜338
 拓跋部の大人。烈帝。拓跋欝律の長子。 姻族の賀蘭部に依って拓跋賀傉・紇那と対立し、329年に紇那を逐って代王となり、弟の什翼犍を質子として石勒に称藩した。 後に賀蘭部の削勢を図って舅である大人を粛清した為、宇文部に支持された紇那に逐われて後趙に亡命したが、337年に後趙の援軍を得て大寧から紇那を逐って盛楽に奠都した。

拓跋什翼犍  〜338〜376
 拓跋部の大人。高祖、昭成帝。拓跋翳槐の弟。有力家門から人材を選抜する一方で中国式の官制整備を進めて南北官制を整備し、前燕の慕容皝の妹を后妃に迎えるとともに後趙・前秦とも通好し、オルドスの鉄弗部を称藩させた。 南下の大勢にある高車には2度の遠征で大勝し、離叛した劉衛辰を大破するなど諸国に伍す勢力を有したが、劉衛辰を援ける前秦との対峙中に病臥し、雲中で庶長子の寔君に暗殺された。
 拓跋部は前秦によって二分され、河西は劉衛辰が、河東は代の南部大人でもあった独狐部の劉庫仁が率いた。
拓跋寔君は代政権の崩壊からまもなくに苻堅に処刑されたそうですが、個人的には、代を再興した拓跋珪の父の諱が“寔”というのがどうにも引っ掛ります。云ってしまえば、中興の英主の実父が大逆者だと不都合なので、拓跋寔を二分した、みたいな? 勿論、一字増しの諱が皆無という訳はないんでしょうし、『北史』や『資治通鑑』以外では“拓跋実君”となっていますが、亡国の混乱に乗じて記録を…のような気もします。拓跋寔は長孫斤の造叛での負傷が原因で371年に歿していますが、拓跋寔君を焚きつけたのは従弟の拓跋斤。斤つながりは偶然?

拓跋窟咄  〜386
 拓跋什翼犍の少子。代政権の崩壊後に長安に徙されて苻堅に厚遇された。 淝水の役の後は慕容永に従い、鉄弗部の劉顕と結んで拓跋珪と争った。 一時は拓跋珪を陰山の北方に逐い、西燕独孤部とも結んだが、後燕の援軍を得た拓跋珪に大敗し、劉衛辰に庇護を求めて殺された。

 
 

宇文部

 北匈奴の西奔後に鮮卑に帰順した匈奴の一派で、陰山南麓から遼東塞外に遷ったと伝えられる。 遼東進出を巡って慕容部と抗争し、拓跋部との通婚や晋の東夷校尉や後趙との連和で対抗したものの劣勢を強いられ、323年には西部拓跋と結んだ慕容廆に大破されて本拠を失った。
 慕容廆の死による慕容部の内訌に介入したものの、344年に慕容皝に大破されて解体された。

宇文普撥
 宇文部の大人。293年、部民を酷使する兄の宇文莫槐が殺されて擁立された。 慕容部と対抗するために拓跋綽と通婚し、死後は拓跋綽の婿の丘不勤が嗣いだ。

宇文莫珪
 宇文部の大人。宇文丘不勤の嗣子。強勢となって単于を称した。 302年に大挙して慕容部の棘城を攻囲したものの、慕容廆に大破された。

宇文遜昵延
 宇文部の大人。宇文莫珪の嗣子。宇文悉獨官とも。 299年に拓跋禄官の婿とされた。高句麗・段部と与に晋の平州刺史と結んで318年に慕容部を襲ったが、棘城で慕容翰慕容皝に大破された。

宇文乞得亀  〜333?
 宇文部の大人。宇文遜昵延の嗣子。石勒の支援で慕容部を伐って撃退され、323年には拓跋翳槐と結んだ慕容廆に伐たれて牙庭を逐われた。凋落が甚だしく、後に一族の逸豆帰に殺された。

宇文逸豆帰
 宇文部の大人。宇文乞得亀の疎族。乞得亀を殺して大人となり、間もなく慕容廆の死後の慕容部の内訌に段部と与に介入して大敗した。344年に慕容皝に伐たれて大敗し、高句麗に遁れた。
 嗣子の宇文陵は後に前燕に帰順して玄菟公に封じられ、中山を陥した北魏に降って武川に徙された。 宇文陵の曾孫の宇文肱は六鎮の乱で鮮于修礼に属し、その死後は少子の宇文泰が軍を継いだ。

 
 

段部

 鮮卑の一部族で、3世紀に灤河上流域に抬頭し、八王の乱では鄴の成都王と対立する幽州刺史王浚と結び、その薦で大人の段務勿塵は遼西公・大単于とされた。 その死後は石勒との連和に転じて南部の段匹磾が分離し、匹磾の敗滅後は慕容部の内訌に介入して弱体化し、338年に後趙に滅ぼされた。

段務勿塵
 段部の大人。段部の始祖とされる段日陸眷の甥。段務塵、段務目塵とも。 遼西に拠って幽州刺史王浚に従い、成都王攻略の功などから303年に親晋王・遼西公とされ、懐帝が即位すると大単于とされた。 王浚の婿でもあり、309年にも王浚に従って常山の飛龍山で石勒を大破した。

段疾陸眷  〜318
 段部の大人。段務勿塵の嗣子。段就六眷とも。叔父の渉復辰の後援で遼西公を襲いだ。 王浚の洛陽救援に従った際、襄国を攻略した従弟の末波が擒われた事で石勒と和し、以後は石勒との攻伐を控えて弟の匹磾と隔意を生じた。
 死後は渉復辰が大人を襲いだが、匹磾の北上に乗じた末波に弑簒された。

段匹磾  〜321 ▲
 段疾陸眷の弟。幽州刺史王浚と対立する幷州刺史劉琨を支援し、王浚が敗死すると幽州刺史に叙され、317年には劉琨を支援して襄国の石勒を伐ったが、段部の主力が動かなかったために撤退した。 翌年に疾陸眷が歿し、薊から北上するところを従弟の段末波に襲われ、このとき執われた劉羣(劉琨の子)を介しての離間を猜忌して劉琨を殺し、末波に対抗して大単于を称した。321年に石勒に滅ぼされた。

段末波  〜325
 段部の大人。段疾陸眷の従弟。 勇猛を謳われ、312年に王浚の別軍として襄国を伐ったが、石勒に擒われた為に段部と石勒の結盟が為されて王浚の軍事的凋落をもたらし、317年の段匹磾と劉琨による石勒攻略では、疾陸眷らに説いて援兵を控えさせた。 翌年に疾陸眷が歿すると匹磾を右北平で撃退し、次いで叔父の段渉複辰らを鏖殺して遼西公・大単于を称し、しばしば匹磾と攻伐した。

段遼  〜339
 段部の大人。段部の始祖とされる段日陸眷の孫。 段末波の死後まもなく、慕容廆に屈して令支(河北省遷安)からの東遷を図った段牙(末波の弟)を攻殺して遼西公を襲いだ。 慕容部の内訌に介入した事から慕容皝石虎の同盟を招来し、338年に後趙に大破されて慕容部に遁れたものの造叛を謀って殺された。

段蘭
 段遼の弟。後趙による覆滅を逃れて塞外に奔り、343年に宇文部に獲われて後趙に送られたが、帰順を認められて故都の令支(河北省遷安)に置かれ、遺民を糾合して向背が定まらなかった。

段龕  〜357
 段蘭の嗣子。 冉閔の簒奪を機に南下し、広固(山東省青州)に拠って斉魯一帯を掌握して斉王を称し、351年に晋に称藩して鎮北将軍・斉公とされた。 慕容恪に伐たれて翌年(356)に開城すると伏順将軍とされたが、後に叛意を疑われて降卒3千人と共に鏖殺された。
 段末波の子の段勤も冉閔の乱に乗じて司州の非漢族を糾合し、一時は繹幕(山東省平原)に拠って称帝したが、程なく慕容恪に伐たれて投降した。

 
 

鉄弗部

 南匈奴の一派。漠南に抬頭した鮮卑拓跋部に従って幷州北西部に遊牧したが、310年に叛いてオルドスに逐われて前趙に帰順し、以後も拓跋部とは攻伐したが、341年に敗れて再び服した。 376年に拓跋政権が崩壊すると前秦に帰属してオルドス西部を統べものの、程なく独孤部に敗れて漠北に退き、独孤部の解体後にオルドスで勢力を回復して407年にを樹立した。

劉虎  〜341
 匈奴鉄弗部の大人。劉烏路孤とも。南匈奴の右賢王去卑の孫と伝えられる。 309年に大人を襲ぐと鉄弗氏を称し、翌年に幷州刺史劉琨を襲って拓跋部に撃退されるとオルドスに遷って宗族の前趙に帰順し、安北将軍・監鮮卑諸軍事・丁零中郎将・楼煩公とされた。
 しばしば代を伐って敗れ、318年には拓跋欝律に大破されて塞外に奔り、独孤部を率いる再従弟の劉路孤が拓跋部に帰順した。 341年にも代に冦して拓跋什翼犍に敗死した。

劉務桓  〜356
 匈奴鉄弗部の大人。劉豹子とも。劉虎の嗣子。 341年に劉虎が敗死すると部衆を率いて拓跋部に帰順し、拓跋什翼犍の婿とされた。後趙の石虎にも密通して左賢王・丁零単于とされた。
  ▼
 劉務桓の死後は拓跋部の離間策もあって弟の閼頭と子の悉勿祈が対立し、358年に悉勿祈によって統合され、閼頭は東奔途上に窮して拓跋部に帰順した。

劉衛辰  〜391
 匈奴鉄弗部の大人。劉務桓の第3子。 359年に兄の劉悉勿祈が歿して大人を嗣ぎ、拓跋什翼犍の婿とされたが、365年に苻堅との密通が露見してよりしばしば拓跋部と攻伐した。
 374年に大破されると苻堅に求援して苻洛を都帥とする20万の援軍が送られ、什翼犍の横死によって拓跋部が解体されるとその西半を統べ、代来城(陝西省楡林)でオルドスを領する西単于とされたが、まもなく東単于の劉庫仁にのみ将軍号が認められた事で叛き、劉庫仁に大破されて塞外に遁れた。 前秦の瓦解で多くの流民を吸収し、西燕・西秦・後燕に通誼して拓跋部に対抗し、拓跋窟咄の来奔も認めなかった。 390年に賀蘭部攻略に失敗し、翌年には北魏を伐って大破され、潰走する途上で殺された。

赫連璝  〜424
 赫連勃勃の廃太子。418年の南伐では弟の赫連昌と共に長安を陥して関中攻略を進めたが、424年に異母弟の赫連倫を太子とする為に廃嫡されると統万城を襲って赫連倫を攻殺し、赫連昌に敗死した。

 
 

独孤部

 南匈奴の一派。271年に劉猛が西晋に叛いて塞外に遷り、拓跋部に帰順してより独孤と号した。 一時は鉄弗部と結んで拓跋部に叛いたが、318年に帰順してよりは姻族として遇された。 代政権が滅んだ後も拓跋珪を庇護し、劉庫仁の死後は再興間もない北魏と対立して解体されながらも戚族としての待遇は保たれ、北朝から隋唐を通じて貴戚として尊重された。

劉猛  〜272
 南匈奴の右賢王去卑の弟と伝えられる。 去卑の死後は右賢王を襲いで一部の帥となっていたが、禿髪樹機能の乱に呼応して271年に挙兵し、塞外に奔って単于を称した。 しばしば幷州を侵して撃退され、挙兵の翌年には監軍の何驍ノ応じた内通者に暗殺された。
 嗣子の劉副侖は拓跋部に亡命して独孤氏を称した。

劉路孤  ▲
 匈奴独孤部の大人。劉副侖の嗣子。劉猛の孫。 310年に再従兄の劉虎の挙兵に従って拓跋部に叛き、318年に大敗して降ると拓跋欝律の婿とされて厚遇された。

劉庫仁  〜383
 匈奴独孤部の大人。劉路孤の嗣子。夙に豪器と智略を讃えられ、大人を襲いだ後に拓跋什翼犍の婿とされて南部大人を兼ね、代政権が崩壊すると前秦に降り、拓跋部の東半を統御して拓跋珪を庇護した。 苻堅に背いて来攻した劉衛辰を大破した後は西部(オルドス)を併せ、淝水の役の後も苻氏を援けて後燕と対峙したが、東帰を図る麾下の慕容文に繁畤で暗殺された。
 弟の劉眷が部大人を嗣いだが、385年に劉顕に殺された。

劉顕  〜387 ▲
 匈奴独孤部の大人。劉庫仁の子。385年に叔父の劉眷を殺して部大人となった。 拓跋珪の暗殺に失敗した後は西燕から拓跋窟咄を奉迎して北魏の分裂を図ったが、387年に馬邑で拓跋珪に大敗して慕容永に依り、程なく拓跋珪に敗死した。

劉羅辰
 劉庫仁の弟/劉眷の子。夙に従兄の劉顕の叛意を察して排除を進言していたが、聴かれなかった。 385年に父の劉眷が殺されると拓跋珪に帰順し、妹(宣穆皇后)が拓跋珪の夫人とされた事もあって南部大人とされた。 中原平定にも功があり、後に永安公に封じられて征東将軍・定州刺史とされた。

 
 

翟魏

 386〜392
 3世紀後半に中国内地へ遷徙された丁零族のうち、翟氏を中核とした集団。 4世紀初頭には中山・常山一帯に居住し、371年に苻堅によって新安(河南省義馬)に徙され、淝水の敗戦に乗じて自立して後燕に帰順したが、向背が定まらなかった為にしばしば伐たれて解体された。

翟斌  〜383
 丁零人。苻堅の下で河南に置かれていたが、淝水の敗戦に乗じて自立した。 洛陽攻略に失敗して慕容垂に帰順して河南王とされたが、間もなく鄴の苻丕との内通が露見して殺された。

翟遼  〜391
 翟斌の甥/翟真の子。翟斌に呼応した翟真が中山近郊で鎮圧されると黎陽に逃れて東晋に帰順したが、386年に後燕に称藩して豫北一帯に勢力を拡大した。 麾下に参集した丁零族は38千余戸に及び、388年には魏天王を称して正朔を用いたが、間もなく後燕を避けて滑台(河南省滑県)に遷った。
 嗣子の翟サは即位から程なくに鄴に出兵したことで慕容垂に親征され、392年に大破されて長子(山西省)の慕容永を頼ったが、翌年に謀叛の嫌疑で処刑された。

 
 
 
 

仇池

 296〜442/〜506
 嘉陵江上流の仇池(甘粛省西和)に拠る氐族の楊氏が樹立。 楊氏は漢末の楊駒の代に略陽(甘粛省庄浪)から仇池に徙されたもので、その死後に馬超の乱に与して曹操に制圧された。 八王の乱以来、晋・涼・成・漢などの勢力が錯綜する漢中・隴南地区の小勢力の1つとして抬頭し、建興年間(313〜317)に楊茂捜が晋に称藩して一帯の支配を追認され、その嗣子の楊難敵(在317〜334)は前趙・成漢への称藩で自立の保持を図ったが、後に顧眄外交を問われて両者に討たれるなど安定さを欠いた。
 楊難敵の死後、嗣子の楊毅(在334〜337)と簒奪した族兄の楊初(在337〜355)は共に東晋に称藩して仇池公に叙され、楊初が内乱で殺されてより内紛と前秦の介入で首長が定まらなかったものの、東晋に対しては概ね称藩を続けて平羌校尉・仇池公を保ったが、内訌に介入した前秦によって371年に征服された。
  
 仇池政権は386年に楊難敵の曾孫の楊定が再興し、一時は渭河上流にも進出して西秦と隴西を争い、仇池公を襲いだ従兄の楊盛も西秦に対抗するために南朝宋に称藩して武都王に封じられたが、東晋の正朔を奉じて後秦・北魏にも通誼した。 また後秦との関係は流動的で、405年に大敗して称藩した後も対立が続いた。
 楊盛の嗣子/楊玄(在425〜429)は南朝宋と北魏に称藩し、これを嗣いだ弟の楊難当は漢中に進出したが、一族間の内訌や南朝宋・北魏との衝突から442年に仇池政権は崩壊し、仇池には宋軍が進駐した。
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 翌年に仇池が北魏に奪回された後も楊氏は暫くは宋の後援で葭蘆城(隴南市武都区東南)に武都王を称したが、477年に楊文度が魏に討滅された後は宋の支援下に武都王の武興政権と陰平王の陰平政権が並立した。
 武興政権は492年に北魏に称藩して武興王を称したが、505年には楊紹先が背叛し、翌年に討平されて武都鎮が置かれた(廃鎮為州で東益州とされる)。 楊紹先は六鎮の乱に乗じて武興に拠り、再び称王して東益州刺史魏子建を通じて魏に藩属し、嗣子の楊辟邪は545年に東益州刺史とされたが、552年に挙兵して討平された。
 陰平政権も西魏の巴蜀征服に伴って北属し、580年に楊法琛が益州総管王謙に呼応した事で討滅された。

楊茂捜  〜317
 略陽清水(甘粛省)の氐族。本姓は令狐。晋の征西将軍楊飛龍の外甥、養子。 略陽に回帰した飛龍の死後、斉万年の乱で輔国将軍・右賢王を称し、部衆4千余家を率いて仇池に遷って仇池公を称した。 関中の人士を多く招来するとともに多数の流民を吸収し、長安に逼塞する愍帝より驍騎将軍・左賢王とされて武都・陰平の支配を追認された。

楊定  〜386〜394
 楊難敵の曾孫。父の楊仏奴は355年の内乱を逃れて前秦で右将軍とされた。 楊定は苻堅の駙馬となって尚書・領軍将軍とされ、苻堅が敗死すると歴城(甘粛省西和)で氐族・漢族を糾合し、平羌校尉・仇池公を称して東晋に称藩した。 390年には隴西に進出して隴西王を称したが、394年に西秦に敗死して隴西も失った。

楊保宗  〜429/〜443
 武都王楊玄の子。429年に武都王を襲いだが、間もなく叔父の楊難当に簒奪されて宕昌(甘粛省)に拠って北魏に称藩し、432年に仇池攻略に失敗した後に兄の楊保顕とともに北魏に亡命した。 一連の紛乱で北魏領となった上邽(甘粛省天水)一帯は仇池との最大の係争地となり、楊保宗は亡命楊氏の酋として上邽に進駐して楊難当を圧迫し、442年の楊難当の北魏来奔の一因となったが、翌年に弟の文徳との謀叛が露見して処刑された。

楊難当  〜429〜442〜?
 武都王楊盛の子、楊玄の弟。 429年に楊玄の嗣子の楊保宗を逐って武都王を襲ぎ、簒奪の翌年に南朝宋にも称藩した。 432年に梁州刺史蕭思話を逐って漢中を制圧し、434年に討たれて再び帰順したが、国力の充実を背景に436年には大秦王を称し、正朔を用いたものの魏・宋への奉貢は保って北魏とは上邽の帰属を争った。 上邽攻略での大敗と北魏に投じた楊保宗らの攻勢で440年には武都王に貶号し、翌年(441)の梁州攻略が失敗し、一族の楊保熾を擁した宋軍に伐たれると仇池を放棄して北魏に亡命した。

楊文徳
 武都王楊保宗の弟。443年に北魏が仇池から宋兵を駆逐した事を機に保宗に自立を勧め、保宗が殺されると白崖に拠って仇池公を称し、宋に称藩乞援して葭蘆城(隴南市武都区東南)で武都王に冊立され、武都・陰平の氐人の多くが帰附した。 冬には宋の姜道盛と北上したものの濁水で大破され、448年に北魏に伐たれると漢中に奔遁した。 450年にも出兵して葭蘆城の奪回には成功したが、自立を謀った事が露見して荊州に送られ、後に劉義宣への与力を拒んで殺された。

楊文度  〜477
 武都王楊保宗の従弟。473年に王位を襲ぐと武興王を称して北魏に称藩し、477年には宋に通誼して仇池を陥したが、間もなく北魏に伐たれて葭蘆城で斬られ、葭蘆の武都王は断絶した。

 
 

宕昌羌

 〜564
 梁氏を大人とし、5世紀に仇池政権の没落によって宕昌城(甘粛省宕昌)に政権を建てた羌族。 宕昌国は称王した梁勤を開祖とし、梁勤の孫の梁彌忽が初めて太武帝に称藩した。 以後、吐谷渾と攻伐しつつ北朝・南朝に対する朝貢と冊封によって政権を保ち、5世紀中葉には仇池の西に接して東西千里、南北8百里を領し、2万余落を擁した。 北魏の分裂後はしばしば西魏・北周に叛抗したために564年に北周武帝によって滅ぼされ、故地には宕州が置かれた。

梁彌承
 先代の宕昌王梁彌機の甥。彌機の死後、梁彌博と王位を争って吐谷渾の来冦を招き、吐谷渾を撃退した仇池鎮将穆亮の裁量で宕昌王とされた。
面倒な事に、『魏書』孝文帝紀では既に485年の時点で彌承の襲位が認められていますが、宕昌による4度の朝貢記事がある488年に宕昌問題が落着したものと思われます。 因みに、『南斉書』では485年に梁彌頡が、488年に梁彌承が朝貢しています。彌頡はおそらく彌機かと。 彌承の北魏への朝貢記事は492年までは確認できますが、遷都後は宕昌の朝貢記事自体が本紀では確認できません。

梁彌博
 宕昌王。梁彌機を嗣いで宕昌王となったが、梁彌承との抗争に吐谷渾が介入して奔遁し、仇池鎮将の穆亮に依ったものの凶悖を忌まれて僻悪の地に遷され、梁彌承が立てられた。505年頃に王位を奪還した。
『魏書』・『梁書』とも、505年に梁彌博の冊立記事があります。系統の異なる史書で異民族の小君の名前が合致するのは珍しい事だったりします。 『梁書』では、禅譲に伴う自発的な追封で502年に梁彌頜が安西将軍・宕昌王とされていますが、翌月には梁彌邕が、そして505年に梁彌博が冊立されていて、彌博による内戦状態が想像できます。
541年の記事として、『周書』では仚定が歿して彌定が立てられ、『梁書』では彌博の子の彌泰が冊立されている事から、彌博=仚定という見方もありますが、仚定と彌定が兄弟でその親が彌博でも『梁書』の記述は成立します。 仚定が朝貢していなければ、梁側がわざわざ辺境の異民族の小国を記録する理由もありませんし。

梁仚定  〜541
 宕昌王。北魏の分裂に乗じて吐谷渾とも結んで叛抗し、534・535年に金城に冦したが、趙貴侯莫陳順に討破されて称藩し、538年に洮州刺史とされた。 洮州が岷州に改称された後も刺史を継いだが、541年に再叛し、討伐軍の到来前に部下に殺された。

梁彌定  〜564?
 宕昌王。梁彌泰とも。 梁彌博の子梁仚定の弟。 梁仚定を討平した独孤信によって立てられた。 550年に宗人の獠甘の造叛で魏に奔遁し、乱が討平されて復辟したのち暫くは恭順を示したが、564年に洮州に冦し、総管李賢に撃退されたものの吐谷渾と結んで再び来冦し、岷州刺史田弘に討滅された。

獠甘  〜550 ▲
 羌の部酋。梁氏の宗族とされる。550年に宕昌王梁彌定を逐って称王し、梁仚定の乱で渠林川に逃れた羌や渭州の羌が呼応したため、大将軍宇文貴豆盧寧・涼州刺史史寧らが動員されて討平された。

△ 補注:十六国

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