▽ 補注:西晋/人物

王沈  〜266
 太原晋陽の著姓。字は処道。魏の司空王昶の甥。 正始の変で罷免されたものの、程なく赦されて阮籍らと魏史編纂に携わり、高貴郷公からは“文籍先生”と敬されたが、高貴郷公の挙兵を司馬昭に伝えて安平侯に封じられ、御史大夫・中書令に進んだ。 禅譲にも参画して驃騎将軍・録尚書事・統城外諸軍事に至り、羊祜・荀勗・賈充らに求められて助言することが少なくなかった。

王済  ▲
 太原晋陽の著姓。字は武子。司徒王渾の次子。魏の司空王昶の孫。 風姿英爽で武略に長じ、伎芸にも巧みで、文才は裴楷和嶠と並称された。 武帝の婿とされて侍中に進み、罷免されてより贅に耽って石崇王トらと並称され、人乳で養った豚を武帝に勧めた逸話が知られる。 後に太僕に復し、46歳で歿すると驃騎将軍を追贈された。

王ト  ▲
 東海郯の名族。字は君夫。魏の太常王粛の子。司馬炎の外叔。 石崇との競贅は武帝に支援され、武帝から下賜された珊瑚樹を誇って石崇に砕かれたことがあった。

羊e  ▲
 泰山南城の大姓。字は稚舒。羊祜の従弟。司馬師の献皇后の従父弟。 鍾会の征蜀に従軍し、造叛に加わらなかったことで関内侯とされた。外戚として司馬炎とも親交があり、司馬昭と時政の得失を論じて密かに司馬炎に諮問の対策を講じさせ、そのため司馬炎の応答が悦ばれて継嗣に立てられたとされる。 禅譲で中護軍・散騎常侍に進み、私縁での挙任の多くが非法を行なって司隷校尉劉毅に劾奏されたが、罷免に減刑されて白衣のまま護軍を領した。
 後に斉王の就国を強諫して太僕に左遷されると憤死し、武帝に哀惜されて輔国将軍・開府儀同三司が追贈された。 石崇・王トらと贅を競い、粉砕した墨を獣型に成型して燃料とし、洛陽の貴顕が挙ってこれに倣ったという。

応貞  〜269
 汝南南頓(河南省淮陽)の人。字は吉甫。応璩の子。 文章を以て知られ、散騎常侍に進んでと新礼制定に当たったが、完成しなかった。
 子の応・(276〜326)は永嘉の戦乱で軍功を重ねて江州刺史まで進んだ。

何曾   199〜278
 陳国陽夏の著姓。字は潁考。魏の陽武亭侯何夔の嗣子。 好学博識を讃えられて同郡の袁渙と声名を斉しくし、明帝に寵遇されて斉王の時に司隷校尉に転じ、正始年間は司馬懿に与して曹爽の粛清後に官に復した。 斉王の廃黜にも参画し、阮籍の非礼を以て放逐を唱えた一方で、毌丘倹の妻の荀應に族兄のやその甥の荀霬(司馬師の妹婿。荀ケの孫)が連坐しないよう尽力するなど、法紀を用いて司馬氏の意向を輔強した。 鎮北将軍・征北将軍を歴任して魏末に司徒となり、禅譲で太尉に進み、後に太傅に進んで司徒を兼ね、老齢を以て骸骨を求めると太宰とされて剣履乗輿での昇殿を認められた。
 礼節を重んじて音曲や女色を喜ばず、傅玄からは「文王の如き孝子」、「何曾・の孝は曾子・閔子騫の如し」と絶賛されたが、その一方で驕奢は際限なく、食費は日に万銭を費やし、しばしば奢侈を弾劾されても旧功を以て不問とされた。 戚族派にあって庾純らと対立し、諡号が議された際には軌則を大きく超えた驕奢が世の弊風を招いた事を「名実の乖離と恣乱悖行」として“繆醜”が示されたが、武帝により“孝”と改められ、後に遺族の求めで“元”とされた。

秦秀   ▲
 魏の驍騎将軍秦朗の子。 学識と忠直を以て晋で博士とされ、何曾賈充ら戚族を寵任した弊政を諡号を論じることで批判し、又た王渾王濬の処遇を以て勢族が賞罰を乱している事を諫めた。 讒佞を忌むこと急直で、そのため軋轢も多く、斉王の就国を強諫して罷免され、後に復た博士となって歿した。

郭象  〜312
 潁川の人。字は子玄。 はじめ仕官を嫌ったが、後に東海王に仕えて信任され、太傅主簿まで進んで永嘉の乱中に病死した。 老荘学を好み、学識は王弼に亜ぐと称され、王衍にも影響を与えた。

汲桑  〜307
 晋の馬牧帥。305年に成都王の部曲将の公師藩が山東で挙兵すると石勒らと呼応し、公師藩が鎮圧された後の307年に成都王の報仇を唱えて再挙し、鄴の新蔡王騰、平原の山陽公劉秋(漢の献帝の玄孫)らを殺した。 秋には撫軍将軍苟晞に大破され、乞活の田蘭・薄盛らに平定された。
  
乞活行塢の一種。 直接には、永興3年(306)の幷州の大飢饉に際し、幷州から糧食を求めて東嬴公司馬騰の領する冀州に派遣された田甄らの集団を指し、319年に石勒に滅ぼされた後も武装流民集団の呼称として用いられた。
 司馬騰の敗亡後、田甄・田蘭兄弟と任祉・祁済・李ツ・薄盛らは東海王に帰順し、汲桑を破ると田甄が汲郡太守、田蘭が鉅鹿太守とされたが、許昌を占拠した王弥討伐では田甄が魏郡太守を求めて出兵を拒み、東海王に呼応した李ツと薄盛が田蘭を斬った為に任祉・祁済らと上党に逃れた。 李ツ・薄盛は309年には洛陽で劉聡を撃退した。

牽秀  〜304
 安平観津(河北省武邑)の人。字は成叔。涼州刺史牽弘の甥。“賈謐二四友”の1人。 早くから成都王に仕え、陸機に処刑を宣告して実行した。 長安遷都後は河間王にも重んじられて平北将軍とされ、鄭で東海王に敗死した。

王粋  ▲
 弘農湖県の人。字は弘遠。撫軍大将軍王濬の甥。“賈謐二四友”の1人。 成都王の古参として陸機に反撥し、後に魏郡太守まで進んだ。

胡奮   〜288
 安定臨の人。字は玄威。魏の車騎将軍胡遵の子。 明朗で籌略に長け、夙に武事を好んだ。司馬懿の遼東遠征に扈従して認められ、諸葛誕討伐では城外に逃れた諸葛誕を追討して斬首した。 271年に劉猛が叛くと監幷州軍事・仮節とされて討平し、277年より都督江北諸軍事に転じ、伐呉では平南将軍として夏口を攻略し、仮節・征南将軍に進められた。晩年には学問を好んで文章を行なうようになり、随所で能治を讃えられた。
 後に娘が貴人となったことで尚書左僕射に転じて鎮軍大将軍・開府儀同三司を加えられたが、娘の入宮を喜ばず、又た楊駿の驕傲を窘めて憎まれた。 死後に車騎将軍が追贈された。

胡烈   〜270 ▲
 字は玄武。胡奮の弟。 諸葛誕の乱では間道から呉の糧秣を焚焼して援軍の朱異を撃退した。 263年の征蜀では鍾会の先鋒となり、鍾会が成都で造叛する際には幽閉されたが、魏兵鏖殺の噂を流布して鍾会に対する造叛を煽動し、鍾会の敗死と共に救出された。 まもなく荊州刺史に進み、巴東太守羅憲の求援に応じて呉兵を撤収させた。 秦州刺史の時に鮮卑の禿髪樹機能に敗死した。

高光  〜308
 陳留圉(河南省杞県)の人。字は宣茂。魏の太尉高柔の孫。 太子舎人で起家し、家学の刑理を以て重んじられて廷尉に進み、恵帝の長安遷都に従って尚書右僕射となり、懐帝の即位で尚書令に進んでまもなく病死した。

高誕  ▲
 魏の太尉高柔の子。性放胆で倫次に欠け、「決烈人に過ぐ」と評された。

苟晞   〜311
 河内山陽の人。字は道将。東海王越に認められて陽平太守・尚書右丞などを歴任し、汲桑を平定して青州刺史に進められたが、兗州刺史を求めて東海王と不和となった。 後に都督兗豫司冀幽幷六州諸軍事・兗州牧とされ、懐帝から司馬越誅殺の密勅とともに大将軍とされたが、同年に石勒に擒われ、幕僚とされたものの謀叛を理由に殺された。 貧家より起った忠良の将と評された反面、法の運用は厳酷だったと伝えられる。

皇甫謐  215〜282
 字は士安。安定朝那(甘粛省霊台)の人。漢の太尉皇甫嵩の曾孫。 嘗ては無頼だったが、後に諸家の典籍に博通して声望が高まり、“書淫”とすら称された。辟召には終に応じずに著作に没頭し、王粛学派の立場から緯書を多用した大著『帝王世紀』などを著した。

左芬  〜300
 左思の妹。272年に学識・文才によって武帝の脩儀とされ、後に貴嬪に進んだ。 その詞藻を愛され、特に哀悼文に秀でたが、醜貌のため幸されることはなかった。近年発見された墓誌では、左棻となっている。


 西晋末に平州刺史・東夷校尉とされた。 山東漢族の宗を自任し、漢人の多くが慕容部に帰附している事を危ぶんで318年に鮮卑の宇文部段部高句麗と結んで慕容廆を伐ったが、大敗して高句麗に奔入し、平州は慕容部に接収された。 崔氏は高句麗に留まって朝鮮崔氏の祖となったとされる。

索靖  239〜303
 敦煌の人。字は幼安。 賢良に挙げられて戊己校尉長史・雁門太守・酒泉太守などを歴任し、梁王の関中鎮定に従って始平内史とされ、趙王討伐の功で散騎常侍・後将軍とされた。 河間王による洛陽攻略の際の負傷が原因で歿した。

摯虞  〜313?
 京兆長安の人。字は仲洽。礼制に詳く、文学にも秀でて“賈謐二四友”に数えられた。 趙王の敗滅後、かつて張華斉王を皇太弟に推し、また愍懐太子の助命は当時では不可能だったと弁護したことで、趙王に殺された名士の名誉が回復された。 秘書監として官書を校訂する際、張華の遺した万巻の書が大いに資益したという。懐帝のとき太常に至ったが、永嘉の混乱の中で餓死した。

司馬晏
 呉王。武帝の子。愍帝の父。華麗な邸宅や、側近の卑官の重用を陸雲に諫められるなど、司馬一族に共通する悪弊があった。

司馬允  272〜300
 淮南王。字は欽度。武帝の子。 初め濮陽王、ついで淮南王に封じられて就国し、298年に入朝して賈氏覆滅にも参与し、驃騎将軍を加えられた。 趙王に畏憚され、太尉を固辞した後は参内を停止し、孫秀の偽勅で徴されると怒って宮中に乱入して敗死した。

司馬柬  262〜291
 秦献王。字は弘度。武帝の第3子。恵帝の同母弟。 初め汝南王に封じられ、289年に秦王に改封され、鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事・西戎校尉に叙されて関中に鎮した。 恵帝が即位すると驃騎将軍に転じて洛陽に召還され、侍中・録尚書事を加えられて大将軍に進められ、楊氏が粛清されると就国を求めたが、嗣子のないまま洛陽で憂死した。

司馬伷  227〜283
 琅邪武王。字は子将。司馬師・司馬昭の異母弟。諸葛誕の婿。 魏末には寧朔将軍として鄴城に集められた曹氏を監視し、魏晋禅譲で尚書右僕射・東莞郡王に進められた。 次いで鎮東大将軍・仮節・都督徐州諸軍事とされ、東方の押えとして衛瓘に代って下邳に鎮守し、やがて開府儀同三司を加えられて琅邪王に進封された。 平呉では総帥として涂中から進み、孫皓の開城を受け、兼督青州諸軍事・大将軍に進められた。以後も恭謙であり、一族の重鎮として重んじられた。
 琅邪王家は元帝が輩出した事で東晋では会稽王家にならぶ貴門となり、帝嗣が絶えると康帝・哀帝・廃帝・恭帝などが迎えられ、恭帝の即位と伴に廃止された。

司馬模  〜311
 南陽王。字は元表。東海王越・新蔡王騰の同母弟。夙に琅邪王睿と並んで識見を讃えられた。 長安遷都の後に鄴に鎮して東海王に与し、鎮東大将軍に進んで許昌に移り、306年に南陽王に進封された。 雍谷で河間王を殺し、懐帝が即位すると征西大将軍・都督秦雍梁益諸軍事に転じて長安に進駐し、以後は中央の召還に応じずに関中で勢力を涵養し、311年に東海王が歿すると太尉・大都督を遥授されが、洛陽が陥されて間もなくに劉粲に敗れて平陽で殺された。

司馬肜  〜302
 梁王。字は子徽。司馬懿の第8子。 禅譲で梁王とされて内外の顕官を歴任し、趙王斉万年に敗れると征西大将軍・都督涼雍諸軍事として長安に進駐した。 このとき張華から勧進された孫秀斬首と趙王削藩を実行できず、又た旧怨のあった周処を敗死させ、程なく自身も大敗して徴還されたが、大将軍・尚書令・領軍将軍・録尚書事とされた。 後に趙王の討賈を援けて太宰・守尚書令とされ、趙王が滅ぶと太宰のまま領司徒とされた。

周処  〜297 ▲
 呉郡陽羨(江蘇省宜興)の豪門。呉の鄱陽太守周魴の子。 粗暴で郷里の患とされたが、後に修節して公明方直で知られ、呉では太常に至った。 晋朝で御史中丞まで進んで厳明で知られ、斉万年の乱では建威将軍とされたが、征西大将軍司馬肜に寡勢での討伐を強いられて戦死した。 面識のあった斉万年からは「周処が大将なら勝算はないが、副将であれば使いこなせる者はいない」と評されたという。

司馬繇  〜304
 東安王。字は思玄。琅邪武王の子。司馬懿の孫。博学多才で剛毅であり、美髯でも知られた。 楊駿粛清に参与して尚書右僕射・東安王に進められたが、この時の賞罰の濫用を兄の司馬澹に弾劾されて罷免され、更に怨言を発して帯方郡に徙された。 301年に徴還されて尚書左僕射に進み、蕩陰の役の後に成都王に殺された。

文叔  238〜291 ▲
 譙国譙の人。文俶とも、幼名を以て文鴦とも呼ばれる。 魏の揚州刺史文欽の次子。父の造叛に従って三軍に冠絶する武勇を示し、呉に亡命した後に諸葛誕の乱への援軍に加わったが、父が諸葛誕に殺されたために司馬昭に投じて将軍とされた。
 禅譲後は平虜護軍とされ、277年には鎮西大将軍司馬駿に従って禿髪樹機能を大破し、後に東夷校尉に進んだが、諸葛誕の外孫でもある東安公司馬繇に猜疑され、楊氏の党人との枉陥で族滅された。

荀隠  277〜
 潁川の名族。字は鳴鶴。中書郎荀岳の子。 正史に伝はなく、入洛間もない陸雲との清談で勝ったことのみが伝えられ、『世説』でも「雲は“連ねて屈を受く”」とあるが、陸雲が敢えて勝を競わなかったとも伝えられる。 荀岳墓竭によれば陸雲の15歳年少となり、陸雲入洛時の両者の年齢から対論自体が疑問視される。

荀ト
 潁川潁陰の名族。漢の尚書令荀ケの曾孫。司馬懿の外孫。 祖父の荀ツは荀ケの長子で、曹操の娘/安陽公主を娶って襲爵したが、早逝した。 服喪中に楊駿を訪問したことで「礼法より追従を優先させた」と傅咸に弾劾され、又た楚王の変に際しては、かねて不和だった裴楷らの枉陥を謀った。官は征西大将軍に至った。

荀藩  245〜313
 潁川潁陰の人。字は大堅。司徒荀勗の子。斉王討伐に従った功で西華県公に封じられ、蕩陰の役でも恵帝に随ったものの長安遷都では洛陽に留められた。 懐帝の下で尚書令を経て311年に司空に叙されたが、直後に洛陽が陥されて密に奔り、弟の光禄大夫荀組らと行台を営んで琅邪王を盟主とした。 ついで秦王(愍帝)を奉じて許昌に遷り、長安遷都後も滎陽に留まって開封で歿した。

石鑒
 楽陵厭次(山東省恵民)の寒人。字は林伯。 魏で尚書郎・侍御史・御史中丞などを歴任し、峻厳を忌まれて護匈奴中郎将・幷州刺史に出された。 禅譲後に司隷校尉から都督隴右諸軍事に転じたが、論功を偽ったと杜預に誣されて罷免され、後に鎮南将軍・豫州刺史にあった時も詐報を問われ、減死に処されながらも爵土は安堵された。289年には司空・領太子太傅となり、武帝が歿すると中護軍の張劭とともに山陵を監統し、太尉に進められた。
杜預との確執が表面化したのは司隷校尉時代で、杜預の上奏した考課制(優と劣だけで官吏を評価して擢罷を決める)を遺憾として罷免しています。『晋書』には“宿憾”とあるので、それ以前から不和だったのでしょう。 この直後の隴西討伐では歩騎400で杜預に出撃を命じ、勝機がない事を説く杜預を弾劾して召喚させています。 このときに畏懦ではなく、官舎の修飾を理由にしているのが興味深いところですが、既に子供の喧嘩が陰湿かつ大人スケールになっているだけに手に負えません。
 それにしても、前回の衝突は司隷校尉vs河南尹、今回は隴右都督・安西将軍vs秦州刺史・軽車将軍で、曖昧な上下関係といい、悪意を感じさせる人事です。 結局、隴西の事態は杜預の進言通りに推移して、杜預の将略が世に認められましたというオチです。 これで度支尚書に復帰した杜預は、今度は石鑒の論功詐称を弾劾し、御前での論争があまりに低レベルなので二人とも罷免されます。 『晋書』ではかなり丁寧に削られていますが、杜預もやはり武帝の戚族派の一員で、勢族に対する贈賄も“屈節”とは言い切れない気もします。

石超
 大司馬石苞の孫。石喬の子。叔父の石崇が殺されると成都王に投じ、斉王攻略で常に先鋒となり、蕩陰の役では王帥を大破し、恵帝を鄴に拉して右将軍とされた。 幽州刺史王浚の撃退に失敗して洛陽退避・長安遷都に従い、後に滎陽に駐して豫州刺史劉喬を支援したが、范陽王に敗れて殺された。

石喬  ▲
 大司馬石苞の次子。 晋初に尚書郎に叙された際に上洛に遅延したことから、石苞の叛意が流布していたこともあって父子共に罷免された。 このため族籍を削られたまま石崇に連坐して殺された。

孫秀  〜301
 琅邪の人。字は俊忠。司馬倫が琅邪王に封じられたとき側近となり、文筆の才を以て重用され、やがて謀首とされた。討賈によって中書令とされ、私怨から石崇潘岳ら多くの名士を刑戮し、趙王の平定と共に誅された。

張林  ▲
 張華処刑に際して罪状を問責し、太子廃黜のおりに棄官しなかったことを責めた。 趙王の簒奪で衛将軍とされたが、孫秀の専横を不満として王の世子に合力を求め、その密告で族滅された。

張翰
 呉郡呉の大姓。字は季鷹。呉の大鴻臚張儼の子。 呉中四姓に連なり、文章に巧みで奔放だったため、阮籍に喩えられて“江東歩兵”と称された。 上京する賀循に同行して斉王冏の幕僚に加わり、顧栄とも親交があったが、呉姓に対する蔑視と政局の混迷化を厭い、郷里の鱸が旬であることに託して帰郷して57歳で歿した。 この故事から陶潜の先駆とされる。『詩品』では中品に位する。

張載
 安平武邑(河北省)の人。字は孟陽。安平三張の長兄。 博識で、蜀郡太守の父の許に居ることが長かったため蜀にまつわる詩文が多く、左思が『三都賦』を作る際には多くの知識を提供した。 佐著作郎から諸官を歴任して中書侍郎まで進んだが、乱世を憂えて致仕した。
 その文名は司隷校尉傅咸に絶賛されて高まり、五言詩に特化した『詩品』では下品に位して次弟の張協との格差は大きいが、賦・文では潘岳と並称された。醜貌を嘲られ、外出すると小児に石を投げられたと伝えられる。

張亢  ▲
 字は季陽。安平三張の末弟。 文才では両兄に及ばなかったものの音楽・技芸に通じ、また官界に留まって東晋では散騎常侍・佐著作郎まで進んだ。

陳騫  201〜281
 臨淮東陽の人。字は休淵。魏の司徒陳矯の子。 夙に胆略を称され、兄の陳本と共に司馬氏に与し、司馬昭に信任されて諸葛誕の平定後は孫呉に対する都督諸軍事を歴任し、征南大将軍に進んだ。 禅譲後には高平郡公に封じられて仮黄鉞都督揚州諸軍事・大将軍とされ、275年に大司馬に進んで入朝し、禿髪樹機能の乱では胡烈と牽弘が非器であることを進言したが及ばなかった。程なく骸骨を認められ、上公の待遇が与えられた。 功遇は賈充石苞裴秀らに伍し、智略は賈充らにも認められていたという。死後に太傅が追贈され、石苞に准じた葬礼が営まれた。

牽弘  〜271 ▲
 安平観津の人。魏の雁門太守牽招の子。朧西太守の時に征蜀があって隴右都督ケ艾に従い、禅譲後に揚州刺史とされたが、都督の陳騫との不和から召還されて涼州刺史に転じた。禿髪樹機能の乱で敗死した。

繆悦
 東海の人。魏の光禄勲繆襲の子。儒学者として名を知られた。 子の繆播は東海王に信任され、懐帝の即位後は中書令に進んだ。
 繆悦の甥の繆胤も東海王に従って河間王の招降に成功し、懐帝のとき太僕卿まで進んで枢機に参与したが、繆播とともに帝からの信任を忌避されて東海王に殺された。

傅咸  239〜294
 字は長虞。司隷校尉傅玄の子。父に似て剛直で、しばしば貴顕を弾劾したが、傲慢ではなかったという。尚書左丞・御史中丞などを歴任して晩年には司隷校尉に就き、河南尹を弾劾して京師を粛然とさせた。 詩才に長け、現存する詩の多くは四言詩で教訓的内容のものが多く、荘重典雅と評される。

孟玖
 成都王の宦官。 弟の孟超と共に成都王に寵遇されて専横の事が多く、父の為に求めた邯鄲令を、公府掾資(七品以上の資格)を理由に陸雲に阻止されてより陸兄弟との遺恨が強まった。 陸機に従軍する弟の孟超が戦死したこともあって陸兄弟の通敵と処刑を強硬に主張し、孟玖もまもなく累罪を告発されて誅された。

孟超  ▲
 孟玖の弟。兄と並んで驕横で、陸機の長沙王討伐に於いても開戦前から掠奪を恣にし、これを責められると陸機の謀叛を喧伝し、戦場では独断で突出して戦死した。


 潁川の勢族。字は謀甫。博学と節義によって“儒宗”と称され、黄門侍郎・河南尹・御史中丞などを歴任した。 夙に賈充と反目し、禿髪樹機能劉猛が関隴を乱すと賈充を秦涼都督とすることに成功したが、荀勗太子賈南鳳の通婚を成立させて出征が回避された。 翌年の宴席で賈充の曹髦暗殺を譏った事で罷免され、朝廷は任ト・張華・温顒・和嶠らの庾党と楊珧(楊駿の弟)・王恂(王粛の子)らの賈党に分裂したという。

楊芷  259〜292
 武悼楊皇后。字は季蘭。楊駿の娘。 従姉の楊艶(恵帝の生母)の死後に皇后とされ、賈氏奪権の翌年に弑された。

羅尚   〜310
 西鄂侯羅憲の孫。 文章に長じて劉喬と共に荊州刺史王戎の軍事を管掌し、武帝の末期に梁州刺史とされた。 益州刺史の趙廞が叛くと仮節平西将軍・益州刺史・西戎校尉とされたが、世に貪婪と優柔不断を誹られ、蜀人からは「蜀賊尚可、羅尚殺我」と忌まれた。 趙廞を滅ぼした李特に敗れて江陽に退き、荊州の援軍と佯降によって李特を討平したが、郫に拠った李雄を平定できないまま歿した。

劉毅  〜285
 東莱掖(山東省竜口)の人。字は仲雄。漢の城陽景王の裔。 九品中正法の廃止を建議した1人。清廉潔白で、その人物評は広く輿論に影響したため、名士権門に憚られたという。 官は司隷校尉・尚書左僕射に至った。

劉輿  〜319?
 字は慶孫。漢の中山靖王の裔。 若くして才局を謳われ、弟の劉琨とともに石崇に文才を認められて賈謐二四友”にも連なり、不和だった王トの招待に応じて暗殺が謀られた際に石崇に救われ、軽挙を叱責された。 趙王の謀首の孫秀とも不和だったが、妹が趙王の世子に嫁していたことで重用され、名族の故に斉王にも赦されて中書侍郎とされた。
 斉王が敗れると許昌の范陽王に従って征虜将軍・魏郡太守とされ、范陽王の死後、鄴に押送されていた成都王を偽勅で自殺させ、東海王に左長史とされると劉琨を幷州刺史に薦挙した。指疽を病んで47歳で歿した。

劉伶  211〜300
 沛国の人。字は伯倫、一名を霊。竹林七賢の1人。 過度の飲酒癖があって放言を好み、阮籍・嵆康らと交わった。 従僕には常に酒壺と鋤を持たせて扈従させ、自分が死んだらその場に埋めるよう命じていたという。官は建威参軍に終わった。

向秀 ▲
 河内懐の人。字は子期。竹林七賢の1人。 老荘に通じて隠逸を好み、山濤嵆康らと親交したが、嵆康が殺された後は司馬昭の辟招に応じて黄門侍郎・散騎常侍に叙された。

緑珠
 石崇晩年の愛妾という以外は不明。 当代随一の富豪かつ著名な文化人だった石崇が身命・財産より重んじたという結果から、美女の代名詞として後代まで説話中に用いられた。

令孤泥
 父の令孤盛が劉琨の側寵の驕恣を糾弾して枉陥されたために劉聡に出奔し、劉琨の烏桓討伐に乗じることを進言して劉粲の晋陽攻略に従った。

盧欽  〜278
 字は子若。漢の侍中盧植の孫。魏の司空盧毓の子。 家学を修めて経史に通じ、正始の変で罷免されたが、後に琅邪太守・淮北都督などを歴任してェ猛の中庸を讃えられ、大司農・吏部尚書に至った。 禅譲で仮節・都督沔北諸軍事・平南将軍とされ、侍中・尚書左僕射・領吏部に至り、清貧に徹して家産は遺さなかった。

盧浮  ▲
 盧欽の子。 名儒として名声が高く、太子舎人のとき病疽で腕を喪って罷免されたが、学識を敬重されて在宅のまま国子博士とされ、秘書監まで進んだ。

盧珽  ▲
 盧欽の弟。官は衛尉に至った。

和嶠  〜292
 汝南西平(河南省)の人。字は長輿。魏の尚書令和洽の子。 夏侯玄の甥にして王済の義弟。 賈充の推挙で武帝に近侍したが、清廉剛直で諫言を憚らず、荀勗ら太子派と対立した。 恵帝の即位で太子少保とされた。

△ 補注:西晋

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