▽ 補注:晋/地名

平州  幽州  幷州  冀州   兗州  豫州  司州  雍州  
青州  徐州  揚州  江州   荊州  郢州  湘州  
涼州  秦州   梁州  益州  寧州   広州  交州 


■ はじめに ■

『晋書』『宋書』の記事をほとんど検証せずに載せている点は、予めご了承ください。 現代地名との対比もしていないので、こちらに丸投げです(笑)

 漢末より三国時代を通じて各国は郡県の分立を進め、特に揚州・荊州・益州・交州の郡県増設は、戸口の増加と開発の進展を背景としました。 又た魏は三輔と涼州を以て雍州秦州涼州に再編し、蜀は南中を庲降部として益州とは一線を画し、呉は嶺南を晋と争うようになると交州東半を広州として分離しました。
晋は司隷校尉部を司州と改め、益州北部から梁州・南部から寧州、幽州東部から平州を分立して天下統一で19州を擁し、恵帝の世には揚州から江州が分離されました。
 漢の盛時に1000千万戸・5000万人を超えた戸口数は、魏が蜀を併せた景元4年(263年)には94.3万戸・537.3万人でしかなく、晋が天下を統一した太康元年(280年)でも246万戸・1616.4万人に過ぎませんでした(降伏時の蜀の戸口は28万戸・94万人、呉は52.3万戸、230万人)。 因みに、戦乱の只中にあった永嘉元年(307)は97.8万戸、721.7万人だったそうです。

 永嘉の乱後は揚州・荊州・交州・広州と徐州の南半を保ち、失った州郡が江淮に僑立されました。 梁益は成漢の征服で回復され、又た晋末に南燕を滅ぼすと兗州が復置されて徐州が南北に二分され、宋初になると豫州南豫州南兗州が立てられます。 荊州は宋初に南部を湘州として分離し、宋中期には南東部が郢州とされ、北西部には雍州が復置されました。

 
 

平州

 5郡国、26県、18.1千戸(280年)
 漢末に遼東太守公孫度が平州牧を号して自立し、公孫氏を滅ぼした魏にも一時的に継続され、襄平に東夷校尉が置かれた。 晋武帝が咸寧2年(276)に魏の旧疆を以て復置。
 夙に慕容廆が実効支配し、309年には事実上放棄された。
遼東国: 襄平(東夷校尉) 汶 居就 楽就 安市 西安平 新昌 力城 
昌黎郡(魏が遼東属国を以て分立): 昌黎 賓徒 
楽浪郡: 朝鮮 屯有 渾彌 遂城 鏤方 駟望 
帯方郡(公孫氏が分置): 帯方 列口 南新 長岑 提奚 含資 海冥 
玄菟郡: 高句麗 望平 高顕 
 

幽州

 7郡国、34県、59.0戸(280年)
 漢武帝の十三州。晋武帝が東半を以て平州を分立。
 八王の乱の後に石勒に征された。
遼西郡: 陽楽 肥如 海陽 
北平郡: 徐無 土垠 俊靡 無終 
上谷郡: 沮陽 居庸 
広ィ郡(統一後に上谷郡より分立): 下洛 潘 涿鹿 
范陽国(魏文帝が涿郡を更名。晋の王国): 涿 良郷 方城 長郷 遒 故安 范陽 容城 
燕国(漢の広陽郡。魏に漁陽郡を併合)
   : 安次 昌平 軍都 広陽 潞 安楽(劉禅の封県) 泉州 雍奴 狐奴 
代郡: 代 広昌 平舒 当城 
 

幷州

 6郡国、45県、59.3千戸(280年)
 漢武帝の十三州。東漢を通じて北部が縮小され、漢末に冀州に併合され、魏初に復置された。
 劉淵に征され、石勒は朔州、苻堅・赫連勃勃は幷州とし、姚興は幷州・冀州を置いた。
太原国: 晋陽 陽曲 楡次 于離 盂 狼孟 陽邑 大陵 祁 平陶 京陵 中都 鄔 
上党郡: 潞 屯留 壺関 長子 泫氏 高都 銅鞮 涅 襄垣 武郷 
楽平郡(晋武帝が上党郡より分立): 沾 上艾 寿陽 轑陽 楽平 
西河国: 離石 隰城 中陽 介休 
雁門郡: 広武 崞 汪陶 平城 葰人 繁畤 原平 馬邑 
新興郡(漢末に朔方部を廃合。恵帝が晋昌と更名): 九原 定襄 雲中 広牧 晋昌 
 

冀州

 13郡国、33県、326.0千戸(280年)
 漢武帝の十三州。
 石勒に征された。宋の元嘉年間に実土となり、歴城を治所とした。
趙国: 房子 元氏 平棘 高邑 中丘 柏人 平郷 下曲陽 鄡 
河間国: 楽城 武垣 鄚 易城 中水 成平 
鉅鹿国: 廮陶 鉅鹿 
安平国: 信都 下博 武邑 武遂 観津 扶柳 広宗 経 
平原国(魏に青州より移管): 平原 高唐 茌平 博平 聊城 安徳 西平昌 般 鬲 
楽陵国(漢末に平原郡より分立): 厭次 陽信 漯沃 新楽 楽陵 
勃海郡: 南皮 東光 浮陽 饒安 高城 重合 東安陵 脩 広川 阜城 
章武国(晋初に渤海郡・河間郡より分立): 東平舒 文安 章武 束州 
高陽国(晋初に幽州の范陽郡より分立): 博陸 高陽 北新城 蠡吾 
中山国: 盧奴 魏昌 新市 安喜 蒲陰 望都 唐 北平 
博陵郡(漢桓帝が中山国より分置): 安平(晋武帝が長楽と更名) 饒陽 南深沢 安国 
清河国(魏が甘陵を更名): 清河 東武城 繹幕 貝丘 霊 鄃 
常山郡: 真定 石邑 井陘 上曲陽 蒲吾 南行唐 霊寿 九門 
 

兗州

 8郡国、56県、83.3千戸(280年)
 漢武帝の十三州。魏晋の治所は廩丘。
 永嘉の乱で失われ、元帝が京口に僑立した後は広陵との間で転遷した。南燕征服に伴い滑台を治所とし、彭城・瑕丘を経て、明帝が淮北を失うと淮陰に僑立された。
陳留国: 小黄 浚儀 封丘 酸棗 済陽 長垣 雍丘 尉氏 襄邑 外黄 
 └済陽国(恵帝が陳留国より分立) 
濮陽国(晋初に東郡を縮小して更名): 濮陽 廩丘 白馬 鄄城 
済陰郡: 定陶 乗氏 句陽 離狐 宛句 己氏 成武 単父 城陽 
高平国(晋初に山陽郡を更名為郡): 昌邑 鉅野 方與 金郷 湖陸 高平 南平 
任城国: 任城 亢父 樊 
東平国: 須昌 寿張 范 無塩 富城 東平陸 剛平 
泰山郡: 奉高 博 嬴 南城 梁父 山茌 新泰 南武陽 莱蕪 牟 鉅平 
済北国: 盧 臨邑 東阿 穀城 蛇丘 

南兗州

 晋成帝が兗州を更名。
宋文帝が江北の南徐州を更名して広陵や盱眙を治所とし、文帝の死後は広陵に定まった。
広陵郡(徐州より度属)  ・盱眙郡(晋安帝が臨淮郡より分立) 
山陽郡(晋安帝の義熙土断で広陵郡より分立)  ・海陵郡(晋安帝の義熙土断で広陵郡より分立) 
秦郡(晋恵帝が豫州に立てた堂邑郡を、安帝が更名。故は晋武帝が雍州の扶風郡より分国) 
南沛郡(晋成帝が立て、元嘉中に北沛郡を分立。孝武帝が460年に南徐州の南彭城郡に併合) 
南下邳郡(晋明帝が立て、孝武帝が460年に南徐州の南彭城郡に併合) 
北下邳郡  ・新平郡(宋明帝が新設)  ・北淮陽郡  ・北済陰郡  ・東莞郡
 

豫州

 10郡国、85県、116.8戸(280年)
 漢武帝の十三州。
 永嘉の乱で実土を失い、領刺史の祖逖は譙に、祖約は王敦の乱後は寿春に鎮した。成帝の後は蕪湖・邾城・武昌・牛渚などを遷転し、桓温の時代には寿春、ついで譙に戍したが、前燕の拡大により歴陽・姑孰に後退した。 晋末に揚州江淮部の江西を実土とし、宋初に淮東部が南豫州として分離され、明帝が467年に淮西を失った後は淮東に両豫が並立した。
潁川郡: 許昌 長社 潁陰 臨潁 匽 邵陵 猕陵 新汲 長平 
襄城郡(晋武帝が潁川郡より分立): 襄城 繁昌 郟 定陵 父城 昆陽 舞陽 
汝南郡: 新息 南安陽 安成 慎陽 北宜春 朗陵 陽安 上蔡 平輿 定潁 灈陽 南頓 汝陽 呉房 西平 
 |南頓郡(恵帝が汝南郡より分立) 
 └汝陽郡(恵帝が汝南郡より分立) 
弋陽郡(魏文帝が汝南郡より分立): 弋陽 西陽 軑(呉の郡を為県) 邾 西陵 期思 蘄春 
 └西陽郡 (恵帝が弋陽郡より分立) 
汝陰郡(晋武帝が汝南郡より分立): 汝陰 慎 原鹿 固始 鮦陽 新蔡 宋 褒信 
梁国(晋初に陳国を併合): 睢陽 蒙 虞 下邑 寧陵 穀熟 陳 項 長平 陽夏 武平 苦東 
 └陳郡(恵帝が梁国より分立) 
沛国: 相 沛 豊 竺邑 符離 杼秋 洨 虹 蕭 
郡(漢末に沛郡より分立): 譙 城父 酇 山桑 龍亢 蘄 銍 
魯郡: 魯(曲阜) 汶陽 卞 鄒 蕃 薛 公丘 
安豊郡(魏文帝が楊州の廬江郡から分立。故の六安国): 安風 雩婁 安豊 蓼 松滋 
堂邑郡(晋恵帝が徐州の臨淮郡から分立)

南豫州

 宋初に豫州の淮東部を以て立てられ、歴陽を治所とした。明帝が淮西を失った後は淮東に両豫が並立した。
歴陽郡(晋恵帝が淮南郡より分立)  ・南譙郡  ・廬江郡  ・南汝陰郡  ・南梁郡 
晋熙郡(晋安帝が廬江郡より分立)  ・弋陽郡  ・安豊郡  ・汝南郡  ・新蔡郡  ・陳郡  ・南頓郡  ・潁川郡 
西汝陰郡  ・汝陽郡  ・陳留郡 
 

司州

 12郡、100県、475.7千戸(280年)
 漢武帝の司隷校尉部の東半。
 永嘉の乱で失われ、石虎が洛州と改め、劉裕の北伐で一時的に復置されたものの423年には失われ、宋明帝が南豫州の義陽郡を以て実土化した。
河南郡: 洛陽 河南 鞏 河陰 新安 成皋 緱氏 陽城 新城 陸渾 梁 陽翟 
滎陽郡(晋初に河南郡より分立): 滎陽 京 密 巻 陽武 苑陵 中牟 開封 
河内郡: 野王 州 懐 平皋 河陽 沁水 軹 山陽 温 
汲郡(晋初に河内郡より分立): 汲 朝歌 共 林慮 獲嘉 修武 
魏郡: 鄴(東晋では臨漳) 長楽 魏 斥丘 安陽 蕩陰 内黄 黎陽 
広平郡(魏文帝が魏郡の西部を分立)
   :広平 邯鄲 武安 渉 襄國 南和 任 曲梁 列人 肥郷 臨水 広年 斥漳 平恩 
陽平郡(魏文帝が魏郡の東部を分立): 元城 館陶 清泉 発干 東武陽 陽平 楽平 
河東郡: 安邑 聞喜 垣 汾陽 大陽 猗氏 解 蒲嗇 河北 
平陽郡(魏が河東郡より分立)
   :平陽 楊 端氏 永安 蒲子 狐讐 襄陵 絳邑 濩沢 臨汾 北屈 皮氏 
弘農郡: 弘農 湖 陝 宜陽 黽池 華陰 
上洛郡(晋初に京兆南部より分立): 上洛 商 盧氏 
頓丘郡(晋初に旧東郡を以て淮陽郡より分立): 頓丘 繁陽 陰安 衛 

  義陽郡 ・隨陽郡 ・安陸郡 (以上、郢州より度属) 
  南汝南郡(豫州から度属)
 

雍州

 7郡国、39県、99.5千戸(280年)
 漢末に涼州の河西部と金城郡を以て立てられ(廱州)、九州制が行なわれると三輔以西を統べ、魏では河西部・隴西部・三輔を除いて雍州とした。 晋では京兆の尹を太守と改め、馮翊・扶風から左右字を除き、亦た西部を以て秦州が分置された。
 劉曜に征され、後に関右人の流入を以て襄陽に僑立され、宋文帝が449年に実土化した。
京兆郡: 長安 杜陵 霸城 藍田 高陸 万年 新豐 陰般 鄭 
馮翊郡: 臨晋 下邽 重泉 頻陽 粟邑 蓮芍 郃陽 夏陽 
扶風郡: 池陽 郿 雍 汧 陳倉 美陽
安定郡: 臨 朝那 烏氏 都盧 鶉觚 陰密 西川 
北地郡: 泥陽 富平 
始平郡(晋初に京兆・扶風郡から分立): 槐里 始平 武功 鄠 蒯城 
新平郡(漢末に安定郡より分立): 漆 汾邑 

  襄陽郡 ・南陽郡 ・新野郡 ・順陽郡 (以上、荊州より度属) 
  南上洛郡(梁州より度属) 
 

青州

 6郡、37県、53.0千戸(280年)
 漢武帝の十三州。
 永嘉の乱の後に石虎に征された。晋末に南燕を滅ぼして復立されたが、宋の元嘉末期に失われた。
斉国: 臨淄 西安 東安平 広饒 昌国 
済南郡: 平寿 下密 膠東 即墨 祝阿 
楽安国: 高苑 臨済 博昌 利益 蓼城 鄒 寿光 東朝陽 
城陽郡(晋初に北海郡を分解): 莒 姑幕 諸 淳于 東武 高密 壮武 黔陬 平昌 昌安 
 |高密郡(晋恵帝が城陽郡より分立し、宋孝武が北海郡に併合)
 └平昌郡(晋恵帝が城陽郡より分立) 東萊国: 掖 当利 盧郷 曲城 黄 脏 
長広郡(晋初に琅邪郡より分立): 不其 長広 挺 
 

徐州

 7郡国、61県、81.0千戸(280年)
 漢武帝の十三州。魏晋の治所は彭城。
 永嘉の乱で淮北部を失い、蘇峻平定後は広陵から京口に移鎮した。晋末に南燕を滅ぼして淮北部が北徐州とされ、宋初に北徐州が徐州と更名された。 明帝が淮北を失うと鍾離に僑立され、宋末に南兗州の鍾離郡と豫州の馬頭郡等を以て実土化された。
彭城国: 彭城 留 広戚 傅陽 武原 呂 梧 
東海郡: 郯 祝 朐 襄賁 利城 贛楡 厚丘 蘭陵 承 昌慮 合 郷 戚 
 └蘭陵郡(晋恵帝が東海郡より分立)
琅邪国: 開陽 臨沂 陽都 潤@即丘 華 費 東安 蒙陰 
東莞郡(晋武帝が琅邪郡より分立): 東莞 朱虚 営陵 安丘 蓋 臨朐 劇 広 
 └東安郡(晋恵帝が東莞郡より分立): 蓋 新泰 発干 
下邳国: 下邳 淬 良城 睢陵 夏丘 取慮 僮 
臨淮郡(晋武帝が下邳国の淮南部を以て分置): 盱眙 東陽 高山 贅其 潘旌 高郵 淮陵 司吾 下相 徐 
 └淮陵郡(恵帝が臨淮郡から立国)
広陵郡: 淮陰 射陽 輿 海陵 広陵 塩涜 淮浦 江都 

 淮陽郡(晋安帝の義熙土断で復置) 
 鍾離郡(晋安帝が揚州淮南郡から分立。南兗州より度属) 
 馬頭郡(晋安帝が揚州淮南郡の当塗県を為郡更名。南豫州より度属) 

南徐州

(宋初の淮南部。元嘉八年431に江南北縁に後退)
 永嘉の乱後も保持された淮南徐州の後身。晋末の411年に淮北に北徐州が立てられ、宋初の421年に淮南部の徐州が南徐州と更名された。 元嘉年間の431年に江北部を以て南兗州が分置され、南徐州は江南を領して京口を治所とし、多くの僑郡県が属した。
南東海郡(元嘉に実土化):  毗陵 武進 丹徒 郯(丹徒より分立) 朐令(郯より分立) 利城 
晋陵郡:(毗陵郡を懐帝が更名。元嘉に揚州より度属): 晋陵 無錫 曁陽 南沙 曲阿 延陵 
義興郡(晋明帝が揚州より度属): 陽羨  臨津・義郷・国山(以上、明帝が陽羨より分立) 
南琅邪郡(桓温が実土化): 江乗 臨沂(成帝が江乗県より分立) 
南蘭陵郡  ・南東莞郡  ・臨淮郡  ・淮陵郡  ・南彭城郡  ・南清河郡  ・南高平郡  ・南平昌郡  ・南済陰郡 
南濮陽郡  ・南泰山郡  ・南済陽郡  ・南魯郡 
 

揚州

 18郡、173県、311.4千戸(280年)
 武帝の十三州。漢末より孫氏が郡の分立を進め、廬江・九江は魏が分治した。
魏の治所は寿春、呉・晋の治所は建業。
 恵帝が291年に江州を分離し、宋孝武帝の世には会稽・東陽・新安・永嘉・臨海郡を以て東揚州が並立された。
淮南郡(旧の九江郡)
   : 寿春 成徳 下蔡 義城 西曲陽 平阿 全椒 阜陵 歴陽 鍾離 合肥 逡遒 陰陵 東城 烏江 当塗 
 └歴陽郡(晋恵帝が淮南郡より分立): 烏江・歴陽 
廬江郡: 陽泉 舒 灊 皖 尋陽 居巣 臨湖 襄安 龍舒 六(六安) 
丹楊郡: 建鄴(孫権が秣陵より分立。愍帝より建康) 
   :秣陵 江寧(臨江/晋武が建鄴より分立) 江乗(呉の典農都尉部を晋武が置県)
   :丹楊 蕪湖 于湖 永世 溧陽 句容 湖熟 
宣城郡(晋武帝が丹陽郡より分立): 宛陵 宣城 陵陽 石城  春穀 広徳 懐安  寧国・安呉・臨城(呉が置) 
新安郡(孫権が丹楊郡から分立した新都郡)
   :歙  始新・黎陽・遂安(新定)・寧(休陽/以上、孫権が歙より分立)  黝 
呉郡: 呉 海虞(晋武帝が呉県より分立) 海塩 塩官 銭唐 嘉興(秦の由拳、孫権の禾興) 婁
   :富陽(漢の富春)  寿昌(呉の新昌)・桐廬・建徳(呉が富春より分立) 
呉興郡(孫皓が呉郡・丹楊郡より分立) 
   :烏程 武康(呉が烏程・餘杭より分立した永安)  長城・東遷(晋武帝が烏程より分立) 於潛
   :餘杭 臨安(呉が餘杭より分立した臨水) 故鄣  安吉・原郷(漢霊帝が故鄣より分立) 
  └義興郡(周玘が呉興・丹楊郡から分立): 陽羨 義郷 国山 臨津 平陵 永世 
毗陵郡(呉郡北西部の毗陵典農校尉部を晋武帝が為郡。懐帝が晋陵郡に更名) 
   :武進(漢の丹徒) 丹徒(晋武帝が武進から復置) 曲阿 延陵(晋武帝が曲阿から分立)
   :毗陵 無錫 曁陽(晋武が無錫・毗陵から分立) 
会稽郡: 山陰 上虞 餘姚 句章 鄞 鄮 始寧 郯 諸曁 永興(漢の餘曁) 
臨海郡(孫亮が会稽東部都尉を為郡) 
   :章安 臨海(呉が章安より分立) 永寧 始豊(呉の始平) 寧海 松陽(呉立) 
   :安固(呉の羅陽・安陽) 横陽(晋初の始陽) 
  └永嘉郡(晋明帝が臨海郡より分立) 
東陽郡(孫皓が会稽西部都尉を為郡) 
   :烏傷 長山(漢末に烏傷より分立) 永康(孫権が烏傷より分立)  呉寧・豊安(孫策が会稽郡諸曁より分立)
   :太末 遂昌(平昌/孫権が太末より分立) 信安(新安/漢末に太末より分立) 定陽(孫権が信安より分立) 

建安郡(閩中・閩越。孫休が会稽南部都尉を為郡。江州を構成)
   :建安 東平 建陽 将楽 延平 呉興(漢末の漢興) 邵武(呉の昭武) 
晋安郡(晋武帝が建安郡から分立。江州を構成)
   :原豊 新羅 宛平 同安 候官(漢の東冶) 温麻 羅江(呉立) 晋安(呉の東安) 
豫章郡(江州を構成) 
   :南昌 海昏 建昌 新淦 建城 彭澤 艾 宜豊 鍾陵 呉平(漢末の漢平) 
   :望蔡(上蔡を更名)・永修・新呉(漢霊帝が新置) 豫章(漢末に新置) 康楽(呉の陽楽) 豊城(呉の富城) 
臨川郡(呉が豫章東部都尉を為郡。江州を構成) 
   :臨汝 西豊(呉の西平) 南城 西寧  新建・永成・宜黄・南豊・東興・安浦(呉立) 
廬陵郡(漢末に孫策が豫章郡南部を分離。江州を構成)
   :西昌・高昌・吉陽・興平・巴丘・東昌(呉立) 石陽 南野 遂興(呉の新興) 陽豊(呉の陽城) 
南康郡(晋武帝が廬陵南部都尉を為郡。江州を構成) : 贛 雩都 掲陽 平固(呉の平陽) 南康(呉の安南) 
鄱陽郡(漢末に孫権が豫章郡北東部を分離。江州を構成) 
   :広晋 鄱陽 餘汗 鄡陽 歴陵  葛陽・楽安(呉立) 晋興 
 

江州

 晋恵帝が291年に、揚州の中枢以外の7郡と荊州の3郡で新設。治所は南昌、成帝の咸康6年(340)より柴桑。
尋陽郡(晋恵帝が廬江・武昌郡より分立): 柴桑湓城) 彭沢 松滋 
豫章郡 ・鄱陽郡 ・臨川国 ・廬陵郡 ・南康国 ・建安郡 ・晋安郡 (以上、揚州より度属) 
武昌郡 ・安成郡 ・桂陽郡 (以上、荊州より度属。桂陽は後に湘州に転属)
 

荊州

 22郡、169県、357.5千戸(280年)
 漢武帝の十三州。漢末には三国に分治されたが、後に蜀領は悉く呉に帰し、呉の下で郡の分割が進められ、晋初に南部を広州に割いた。
 恵帝が江州に東部を、梁州に北西部を割き、晋末に南部を以て湘州を立て、東晋では治所は武昌・沔陽・江陵・襄陽・夏口などを転遷した後、概ね江陵に定まった。
又た宋文帝が449年に北部5郡を以て雍州を実土化し、孝武帝が東部を以て郢州を新設した。
南郡: 江陵 編 当陽 華容 鄀 枝江 旌陽 州陵 監利 松滋 石首 
 └成都国(恵帝が南郡より分立。一代廃):華容 州陵 監利 豊都(恵帝が新置)
南平郡(呉の南郡を晋武帝が更名): 作唐 孱陵 江安 南安(江安から分立) 
宜都郡(曹操が南郡西部に分立した臨江郡を劉備が更名): 夷陵(呉の西陵) 夷道 佷山 
建平郡(孫権が宜都郡から分立した固陵郡を孫休が更名): 巫 北井 秦昌 信陵 興山 建始 秭帰 沙渠 
襄陽郡(曹操が南郡より分立。宋の雍州を構成) : 宜城(故鄢) 中廬 臨沮 邔 襄陽 山都 ケ城 鄾 
南陽国(宋の雍州を構成) : 宛 西鄂 雉 魯陽 犨 淯陽 博望 堵陽 葉 舞陰 比陽 涅陽 冠軍 酈 
 └新野郡(晋恵帝が南陽郡より分立。宋の雍州を構成) 
順陽郡(曹操が南郡より分立した南郷郡。宋の雍州を構成): 酇 順陽 南郷 丹水 武当 陰 筑陽 析 
義陽郡(魏が南陽郡から分立): 新野 穰 ケ 蔡陽 安昌 棘陽 平氏 義陽 隨 厥西 平林 朝陽 
 └随国(晋武帝が義陽国より分立。宋の郢州を構成): 随陽(漢の随県) 永陽 闕西 西平林 
武陵郡(宋の郢州を構成) 
   :臨沅 龍陽 漢寿(呉では呉寿) 沅陵 黚陽 酉陽 鐔城 沅南 遷陵 舞陽(漢の無陽) 
天門郡(孫休が武陵郡から分立。宋の郢州を構成): 零陽 漊中 充 臨澧 澧陽 
江夏郡(宋の郢州を構成): 安陸 平春 鄳 竟陵 南新市 雲杜 曲陵(呉の石陽) 
 └竟陵郡(晋恵帝が江夏郡の西界を分立。宋の郢州を構成): 竟陵 新市 雲杜 新陽 萇寿 霄城 

武昌郡(孫権が江夏郡から分立。江州を構成) 
   :武昌(漢の鄂) 鄂(晋が武昌より分立) 柴桑(湓城) 陽新 沙羨(夏口) 沙陽 官陵 
安成郡(孫皓が豫章・廬陵・長沙郡より分立。江州を構成) 
   :平都(漢の安平) 安復(漢の安成) 宜春 広興  新諭・永新・萍郷(呉立) 

長沙郡(湘州を構成): 臨湘 攸 醴陵 羅 巴陵 下雋 蒲沂 呉昌(漢の漢昌)  瀏陽・建寧(呉立) 
 └建昌郡(晋恵帝が長沙郡の北東部を以て分立。成帝が廃す) 
桂陽郡(晋の江州、宋の湘州を構成) : 郴 耒陽 便 臨武 南平 晋寧(漢の漢寧、呉の陽安) 
衡陽郡(長沙西部都尉を孫亮が為郡。湘州を構成) 
   :湘郷 重安 烝陽 連道 益陽 湘南 湘西(呉立) 衡山(呉の衡陽) 新康(呉の新陽) 
湘東郡(長沙東部都尉を孫亮が為郡。湘州を構成): 酃 茶陵 臨烝 利陽 陰山 新平 新寧(呉立) 
零陵郡(湘州を構成) : 泉陵 祁陽 零陵 営浦 営道 泠道 応陽 舂陵(呉が復立)  祁陽・永昌・観陽(呉立) 
邵陵郡(孫皓が零陵北部都尉を為郡。湘州を構成) 
   :邵陵 建興(晋武帝が邵陵より分立) 夫夷 邵陽 都梁 武剛(晋武帝が都梁より分立) 高平(呉立) 
 └営陽郡(晋穆帝が零陵郡より分立。湘州を構成): 営浦 営道 泠道 舂陵 

新城郡(魏初に旧漢中郡の東半南部を統合。晋恵帝が梁州に転属): 房陵 綏陽 昌魏 祁郷 
魏興郡(魏文帝が旧漢中郡の東半北部に置く。晋恵帝が梁州に転属) 
   :晋興(魏の平陽) 安康 西城 錫(宋の鄛郷) 長利 洵陽 
上庸郡(漢末に立郡。魏明帝が新城郡より分立。晋恵帝が梁州に転属) 
   :上庸 安富 北巫 武陵 上廉 微陽(魏の建始) 

郢州

 
 宋孝武帝が454年に荊州の5郡と湘州・江州・豫州から各1郡を以て分立。
  江夏郡・竟陵郡・隨郡(後に司州に転属)・武陵郡・天門郡 (以上、荊州より度属)
  安陸郡(宋孝武帝が江夏郡から分立。後に司州に度属)
  西陽郡(豫州より度属) ・ 武昌郡(江州より度属) 
  巴陵郡(湘州より度属): 巴陵 下雋  監利・州陵(宋孝武帝が南郡より度属)

湘州

 晋懐帝が荊州南部を以て分立し、成帝が蘇峻平定直後の329年に廃し、安帝が412年に復立して417年に廃した。 宋では武帝が422年に立てて文帝が431年に廃し、439年に復立されて漸く安定した。
実は元嘉の末にも廃されましたが、翌年に文帝が暗殺され、湘州刺史を称した武陵王が即位したことで省州のことは無かったことにされました。
 余談ですが、『晋書』の本紀と地理志とでは、湘州についての記述が異なっています。本紀では「荊州の七郡と江州の桂陽」とありますが、地理志では「長沙・衡陽・湘東・零陵・邵陵・桂陽の荊南六郡と、始安・始興・臨賀の広州三郡」で、宋の湘州にかなり合致しています。
 晋末の復立についても、『晋書』本紀は安帝が「荊州十郡を以て」とあるのに対し、地理志では荊州の六郡(長沙・衡陽・湘東・零陵・邵陵・営陽)に、広州三郡と桂陽、益州の巴東を加えた計11郡となっていて、時代も穆帝の時っぽくなっています。
 因みに、『宋書』州郡志は『晋書』の本紀に準じて、懐帝の湘州は「荊州の長沙・衡陽・湘東・邵陵・零陵・営陽・建昌の七郡と江州の桂陽」とあって、晋末の湘州については復廃の事実だけで領郡については言及していません。 余談ついでですが、広州三郡は晋成帝の省州の際に荊州に度属されています。
  長沙国 ・衡陽国 ・湘東郡 ・零陵国 ・邵陵郡 ・営陽郡 (以上、荊州より度属) 
  ・始興郡 ・臨賀郡 ・始安郡 (以上、西晋中は広州に、東晋で荊州より度属) 
  桂陽郡(江州より度属) 
  巴陵郡(元嘉16年(439年)に長沙郡の北界に分置): 巴陵 下雋  蒲沂・沙陽(江夏より度属)
 

涼州

 8郡、46県、30.7千戸(280年)
 武帝の十三州。漢末に河西五郡を雍州、東部五郡に三輔を加えたものが涼州とされたが、間もなく古九州に倣って全域を雍州とした。 魏では河西を以て涼州とし、刺史は武威郡姑臧に鎮して戊己校尉・護西域を領した。
 八王以降の戦乱を避けて多数の漢人が流入し、刺史張軌の下で開発が進んで郡の分割が進み、4世紀前期には金城・興武などの東部を以て河州が、敦煌以西を以て沙州が分置され、前涼王国での開発は後に四涼王国の並立を可能とした。
金城郡: 楡中 允街 金城 白土 浩亹 
 └広武郡(張寔が金城郡より分立): 令居 枝陽 永登 
西平郡(曹操が金城郡西部を分立): 西都 臨羌 長寧 安夷 
 └晋興郡(張軌が西平郡より分立): 枹罕 永固 臨津 臨鄣 広昌 大夏 遂興 罕唐 左南 
武威郡: 姑臧 宣威 揖次 倉松 顕美 驪靬 番和 
 └武興郡(張軌が武威郡北西より分立): 武興・大城・烏支・襄武・晏然・新鄣・平狄・司監 
張掖郡: 永平 臨沢(漢の昭武) 屋蘭 
西郡(漢末に張掖郡北東部を分立): 日勒 刪丹 仙提 万歳 蘭池 
西海郡(漢末に張掖郡より分立): 居延 
酒泉郡: 福禄 会水 安弥 騂馬 楽涫 表氏 延寿 玉門 沙頭 
敦煌郡: 昌蒲 敦煌 龍勒 陽関 效穀 新郷 乾斉 宜禾 伊吾 冥安 深泉 広至 
 └晋昌郡(晋恵帝が敦煌・酒泉郡より分立): 宜禾 伊吾 冥安 深泉 広至 沙頭 会稽 新郷 
 

秦州

 6郡、24県、32.1千戸(280年)
 魏が隴右に置き、刺史は護羌校尉を領したが、暫廃された。
晋初に雍州の隴右五郡と涼州の金城郡、梁州の陰平郡を以て立てられ、天水郡の冀城が州治とされ、統一直後に雍州に併合されたものの恵帝が復立し、上邽を治所とした。
 永嘉の後は梁州に僑置され、又た、氐の地は北秦州とされた。
隴西郡: 襄武 首陽 臨洮 狄道 
南安郡(漢霊帝が天水郡より分立): 獂道 新興 中陶 
天水郡(魏が漢陽郡を更名): 上邽 冀 始昌 新陽 顕新 成紀 
略陽郡(魏が天水郡より分立した広魏郡): 臨渭 平襄 略陽 清水 
武都郡: 下弁 河池(仇池) 沮 武都 故道 
陰平郡(劉禅が広漢属国を為郡): 陰平 平広 
 

梁州

 8郡、44県、76.3千戸(280年)
 晋初の266年に益州の北部より分立し、漢中郡の南鄭を治所とした。刺史は材官将軍を帯びた。
 李氏に巴蜀が陥されると襄陽に僑立され、桓温の平蜀で復旧した後は晋末にかけて郡の分割が進行した。
漢中郡: 南鄭 蒲池 褒中 沔陽 成固 西郷(蜀の南郷) 黄金 興道 
広漢郡: 広漢 徳陽 五城 
新都郡(晋武帝が広漢郡より分立し、統一で還属): 雒 什方 穂竹 新都 
梓潼郡(劉備が広漢郡より分立) 
   :梓潼 涪城 武連 黄安 晋寿(漢の葭萌、蜀の漢寿) 漢徳(劉備が葭萌から分置) 剣閣 白水
巴郡: 江州 墊江 臨江 枳 
陵郡(劉備が巴東部属国都尉を為郡): 漢復 涪陵 漢平 漢葭 万寧 
巴西郡: 閬中 西充国 蒼溪 岐愜 南充国 安漢 平州 宕渠 漢昌 
 |宕渠郡(恵帝が巴西郡より分立): 宕渠 漢昌 宣漢 
 └新巴郡(安帝が巴西郡より分立)
巴東郡(劉璋が巴郡から分立した永寧郡を、劉備が更名。晋恵帝が益州に還属) 
   :魚復(蜀では永安) 朐忍 南浦(羊渠) 

  晋寿郡(晋孝武帝が梓潼郡の故地に立つ): 晋寿(蜀の漢寿?) 白水 邵歓(蜀の昭歓?) 興安 
  華陽郡(宋が宕渠郡の故地に立つ): 華陽 興宋 宕渠 嘉昌
  新城郡 ・魏興郡 ・上庸郡 (以上、荊州より度属)
 

益州

 8郡、44県、149.3千戸(280年)
 武帝の十三州。漢末から劉氏が11郡を立て、魏が1郡を廃し、晋初に北部を以て梁州が、南部を以て寧州が分立された。 漢末以来、成都を治所とし、晋では折衝将軍を帯びた。
 李氏に征され、桓温が347年に回復し、372年に前秦に奪われて383年に回復した。
蜀郡: 成都 広都 繁 江原 臨邛 郫 
 └晋原郡(李雄が蜀郡より分立した漢原郡を桓温が再編): 江原 臨邛 晋楽 徙陽 漢嘉 
犍為郡: 武陽 南安 僰道 資中 牛鞞 
江陽郡(劉備が犍為郡から分立): 江陽 符 漢安 
朱提郡(劉備が犍為属国を為郡): 朱提 南広 漢陽 南秦 堂狼 
山郡: 汶山 升遷 都安(蜀立) 広陽 興楽 平康 蠶陵 広柔 
漢嘉郡(劉備が蜀郡属国を為郡): 漢嘉 徙陽 厳道 旄牛  
 └沈黎郡(李雄が漢嘉郡から分立。桓温が省郡): 城陽 蘭 旄牛
越雟郡: 会無 邛 卑水 定笮 寿登 
牂柯郡: 万寿 且蘭 談指 夜郎 毋歛 并渠 鄨 平夷 
 遂寧郡(桓温が立郡): 巴興 徳陽 広漢 晋興
 寧蜀郡(桓温が立郡): 広漢 広都 升遷 西郷

 広漢郡(梁州より度属): 雒 什邡 郪 新都 伍城 陽泉(蜀が綿竹県より分立) 
  └新城郡(広漢郡より分立): 北五城 懐帰
 巴西郡(梁州より度属): 閬中 西充国 南充国 安漢 漢昌 晋興 平州 懐帰 益昌 
 梓潼郡(梁州より度属): 涪 梓潼 西浦 万安 
 巴郡(梁州より度属): 江州 臨江 墊江 枳
 

寧州

 4郡、45県、83.0千戸(280年)
 晋初の271年に益州の旧庲降部の西南4郡を以て分立。 一時は益州の南夷校尉部とされたが、恵帝が復置して益州の牂柯・越雟・朱提郡を加えた。
 成帝が一時的に牂柯・夜郎・朱提・越雟郡を以て安州を分立したが、程なく廃されて越雟郡は益州に度属した。
雲南郡(劉禅が建寧・永昌郡より分立): 雲平 雲南 姑復 梇棟 青蛉 邪龍 楪楡 遂久 永寧 
 └興寧郡(晋成帝が雲南郡より分立)
興古郡(劉禅が建寧・牂柯郡から分立) : 律高 句町 宛温 漏臥 毋掇 賁古 滕休 鐔封 漢興 進乗 都篖 
 |西平郡(永嘉五年に興古郡より分立)
 └梁水郡(晋成帝が興古郡より分立)
建寧郡(益州郡を劉禅が更名): 味 昆沢 存䣖 新定 談稾 母単 漏江 穀昌 連然 秦臧 雙柏 兪元 
   :修雲 泠丘 滇池 同瀬(漢の銅瀬) 牧麻(漢の牧靡) 
 |晋寧郡(恵帝が建寧郡から分立した益州郡を永嘉中に更名) 
 └建都郡(晋成帝が建寧郡より分立)
永昌郡(成帝が廃す): 不韋 永寿 比蘇 雍郷 南涪 雟唐 哀牢 博南 
 └東河陽郡(永嘉五年に永昌・雲南郡より分立)
  └西河陽郡(晋成帝が河陽郡より分立)
 牂柯郡・朱提郡 (益州より度属)
  |南広郡(晋懐帝が朱提郡より分立): 南広 新興 晋昌 常遷 
  └平夷郡・夜郎郡 (永嘉五年に牂柯・朱提・建寧郡より分立)
 

交州

 7郡、53県、25.6千戸(280年)
 漢武帝の交阯部。漢末の203年に為州されて蒼梧郡の広信を治所とし、210年に番禺に遷治し、州牧は使持節を認められた。 呉初に東部4郡が広州として分離されたため、治所は龍編に還された。
合浦郡(孫権の珠官郡): 合浦 蕩昌(晋武帝が合浦から分立) 南平 徐聞 毒質 珠官(呉立) 
交阯郡: 龍編 苟屚 望海 西于 朱鳶 曲昜 交興 嬴婁 北帯 稽徐 安定 
   :武寧(呉立) 南定(呉の武安) 海平(呉の軍平) 
新昌郡(孫皓が新置): 麋泠 嘉寧 封山 臨西 西道 呉定(呉立) 
武平郡(孫皓が新置): 武寧 武興 進山 根寧 安武 扶安 封溪 
九真郡: 胥浦 扶楽 移風(漢の居風) 津梧(晋武帝が移風より分立) 常楽(呉立。晋武帝が高安を分立) 
   :建初(呉立) 松原(晋武帝が建初より分立) 
九徳郡(孫皓が九真郡より分立) 
   :九徳(呉立) 都洨(晋武帝が九徳より分立) 咸驩 陽遂 扶苓 曲胥 浦陽(陽成) 南陵(晋武帝が新置) 
日南郡: 象林 盧容 朱吾 西巻(晋武帝が寿泠を分立) 比景(晋武が無労を分立) 
 

広州

 10郡、68県、43.1千戸(280年)
 呉初の226年に交州の東部4郡を以て分立。士氏平定を以て交州に還属し、孫休が264年に復立した。 晋が平呉に伴い荊南3郡を併せ、3郡は晋成帝の湘州廃止で荊州に度属された。
南海郡: 番禺 増城 博羅(漢の傅羅) 龍川 四会 平夷 
 └新会郡(晋恭帝が南海郡から分立)
蒼梧郡: 広信 猛陵 端溪 高要 新寧 鄣平 元谿 臨允 都羅 武城  建陵・豊城(呉立) 
 |永平郡(晋穆帝が蒼梧郡から分立): 安沂 豊城 蘇平 图安 夫寧 武林
 |新寧郡(晋穆帝が蒼梧郡から分立): 南興 臨允 博林 甘東 単牒 威平 龍潭 平郷 城陽 威化 
 └晋康郡(晋穆帝が蒼梧郡から分立): 端溪 都城 楽城 賓江 説城 元溪 夫阮 僑寧 安遂 永始 
高涼郡(漢桓帝が合浦郡より分立): 高涼 安寧(呉立) 思平 広化 海安 化平 黄陽 西平 
鬱林郡:布山 阿林 始建 領方(臨浦) 安広 新邑(呉立) 武熙(呉の武安) 晋平(呉の長平) 鬱平(呉の陰平) 
 └晋興郡(晋元帝が鬱林郡から分立): 晋興 熙注 桂林 増翊 安広 広鬱 晋城 鬱陽
桂林郡(孫皓が鬱林郡より分立): 潭中 武豊 粟平 羊平 龍剛 夾陽 武城 軍騰 
始安郡(孫皓が零陵南部都尉を為郡し、平呉で度属。晋成帝が荊州に還属し、宋で湘州を構成。宋末の始建国) 
   :始安 始陽 荔浦 常安 熙平(呉の尚安)  平楽・永豊(呉立) 
始興郡(孫皓が桂陽南部都尉を為郡し、平呉で度属。晋成帝が荊州に還属し、宋で湘州を構成。宋末の広興郡) 
   :曲江 桂陽 含洬 湞陽 中宿 陽山(陰山) 始興(呉立) 
臨賀郡(孫皓が蒼梧郡から分立し、平呉で度属。晋成帝が荊州に還属し、宋で湘州を構成。宋末の臨慶国) 
   :臨賀 謝沐 馮乗 封陽 富川 興安(呉の建興) 
寧浦郡(合浦北部都尉を晋武帝が為郡): 寧浦(呉の昌平) 澗陽 連道 呉安 平山 
 新安郡(晋哀帝が新置) 
 東官郡(晋成帝が南海司塩都尉を為郡): 宝安 安懐 興寧 海豊 海安(呉の海寧) 欣楽 
  └義安郡(晋安帝が東官郡から分立): 海陽 綏安 海寧 潮陽 義招 
 

駄文

 両晋南北朝時代の戦争関係で、比較的目にする要地に鍾離・馬頭・滑台・懸瓠・馬圏・湓城・呂梁などがあります。 ところが、当該地の重要性の理由や現代比定地がスルーされている事の多い今日この頃。
 で、両漢の地名で参照すると、鍾離は安徽省鳳台県、馬頭は当塗にあたり安徽省懐遠県、滑台は白馬にあたり河南省滑県、懸瓠は東晋の時に上蔡県治とされた河南省汝南県、馬圏は涅陽にあたる河南省鎮平県、湓城は柴桑にあたる江西省九江市区、呂梁に至っては…寿春の南方のどこか?よく分かりません(^^;)。
当塗や九江などは、なまじ現代に異地同名されてタチ悪いです。鍾離と馬頭は、どちらも寿春の支城だと強引に解釈してもいいかもしれません。
 支城といえば、建康都城の西の石頭城と南東の東府城は襄陽城に対する樊城のようなもので、どちらも都城から独立した城砦だと思って差支えありません。 洛陽城の出城の金墉城とは違います。南門から南下する朱雀航も都城の城外の街路です。 尤も、石頭城も東府城も、第三の城壁にあたる秦淮河の内側ではありますが。

 呉晋宋の州の分割をおさらいすると、揚州が主要部とそれ以外に区別されました。呉会地方だけが揚州で、お余りは江州として一括された感じです。確かに揚州は広すぎましたが、もっと他にも分け方があるだろう…。
 益州は南北三層構造になりました。言い換えれば四川盆地とそれ以外に分けられたわけで、もともと梁州も寧州も益州には馴染みきれずにいましたから、むしろ妥当な分割です。
 そして問題の荊州ですが、最も不安定な湘州が、実は最も理にかなった区分だったりします。どう考えても荊州は広すぎましたし。あとはまあ、江州に持っていかれたり郢州が切取られたり雍州が湧いたりと、いつの間にやらかつての南郡より小さくなってしまいました。
 さて、南朝の地理を面倒臭くしている兗州・徐州・豫州ですが、ぶっちゃけ江北部分の東部が北の兗州と南の徐州、西部が豫州ってくらいの認識でいいんじゃないかと思います。本土の全廃を免れた徐州が一番ワリを食ってる気がしなくもありません。あ、南兗州・南徐州・南豫州ですね(笑)。

 ついでに江南政権の荊州と揚州の主要部を秦の郡にあてはめてみると、九江郡・鄣郡・会稽郡と南郡・長沙郡となります。この五郡の分割過程を辿るだけでも、南朝の地理はかなり鮮明になるんじゃないかと思います。
 余談ですが、北朝では州の分割が大盛況で、結果として隋の省州為郡となり、統郡にあたる総管・大総管が唐の道州制の元になります。
 

■ 会稽郡 ■


 最初期の会稽郡は、江蘇省の長江以南と浙江省に相当します。閩中郡を併合した漢初の方が秦代より広いという珍しい郡です。
 会稽郡の分割は東漢の順帝に始まり、まず浙西が呉郡とされました。東西に分けるといっても、浙江省の地図を見れば判るように実質南北分割で、主要部はほぼ呉郡のものです。 三国時代になると呉郡の杭州湾方面が呉興郡となり、会稽郡の南半=嘗ての閩中郡が建安郡、浙江省南部の台州方面が臨海郡、浙江上流の金華地方が東陽郡となりました。建安郡に行くには陸路がないとのことです。
 晋では呉郡の北面=沿江部の太湖以東が毗陵郡、太湖以西が義興郡となり、建安郡の北東部=福州方面には晋安郡が置かれ、東晋では臨海郡の南半=温州地方が永嘉郡とされました。

■ 鄣郡 ■


 安徽省の江南部にあたります。詳細は丹楊郡にて…、との誘惑にかられます(笑)。
 広大な会稽郡と九江郡がまず置かれて、地勢的に厄介そうなので特区として鄣郡が置かれた印象です。 狭いですね?でも、建業城があります。江南政権の核にあたります。三国初期に南部の黄山以南が新都郡とされ、呉興郡にも一部を割いています。 晋代では西半部が宣城郡になりますが、宣城は現在の宣城市区ではありませんあしからず。

■ 九江郡 ■


 文字通り本当に淮河以南を指し、贛江流域もカバーしていました。会稽郡風に云えば、安徽省の淮河以南と江西省に相当します。 高祖が早々に長江以北の淮南郡と南の豫章郡に分けたことが分割の始まりで、淮南は郡名と地方名が一致します。そして文帝が江淮部分を東西に分割し(これも実質南北分割ですが)、この時点で合肥−寿春を中心とした淮南郡と、大別山方面の廬江郡、そして江西省の豫章郡が鼎立しました。淮南部分が淮南郡、江北部分が廬江郡、江南が豫章郡です。本来、行政区分はこうでなくちゃいけません。シンプルいずベストです。
 呉は豫章郡を四分割して郡南半を廬陵郡、残りの東半の鄱陽湖東面を鄱陽郡、鄱陽湖南面を臨川郡として、豫章郡は北西部の1/4に縮小されました。豫章郡には南昌市、鄱陽郡には景徳鎮市、臨川郡には撫州市と、後世に優しい区分です(笑)。 西晋では更に細分化が進み、豫章郡の西部に江夏郡・武昌郡との合作で尋陽郡が立ち、廬陵郡の南部が南康郡となり、淮南郡では建康対岸一帯が歴陽郡となりました。
 東晋では北辺の寿春一帯に鍾離郡と馬頭郡が置かれましたが、尋陽郡・歴陽郡と合わせて南朝では非常に重要な地となります。

■ 南郡 ■


 荊州北部の長江沿岸部で、漢高祖が早々に東部の漢水流域を江夏郡として分けています。
 "兵家必争の地"の綽名は伊達ではなく、漢末に三国に分割されて曹操が北部に襄陽郡を立て、曹操が南西部に立てた臨江郡は劉備経由で孫権に渡って宜都郡と改名された上に西部は建平郡として分離され、江南部分は南平郡とされる細分っぷりで、晋でも統合には転じませんでした。 最終的には荊州・江州・郢州・湘州に分割されるという気前の良さで、王子様の銅像か(笑)。
 ついでに言うと、東隣の江夏郡は江南部に武昌郡が、鄂東部には蘄春郡が置かれ、この蘄春郡が江州尋陽郡の祖形となります。 尋陽郡は尋陽を含んでいるが故の命名ですが、郡を指して尋陽と呼ぶ場合は、概ねは郡治の置かれた柴桑を指すようです。

■ 長沙郡 ■


 荊南の東半というよりも、湘江水系一帯というべきか。因みに西隣の武陵郡は沅江流域にあたります。
 雪峰山脈が郡の西界なので、実は広東省北部や広西自治区北東部も含んでいて、漢高祖が東南部に立てた桂陽郡や、武帝が西南部に立てた零陵郡には韶関市や桂林市などの嶺南地域も含まれます。
 ですので、呉が桂陽郡から分けた始興郡や、零陵郡から分けた始安郡は嶺南に位置していたので、広州に編入されました。呉は長沙郡南部を湘東郡、西部を衡陽郡、零陵郡北部を邵陵郡、西南部を始安郡、桂陽郡南部を始興郡として分立しましたから、元が広域とはいえかなり縮小されたことは確かです。
宋が長江地区に新設して郢州を構成した巴陵郡も、元を辿れば周瑜魯粛の奉邑で、長沙郡由来の成分です。

△ 補注:晋/地名

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