▽ 十六国.2

後燕  西燕  南燕  北燕   後秦  西秦      後涼  南涼  北涼  西涼
 

後燕

 384〜409
 淝水の役の後、前燕の宗室の慕容垂が中山(河北省定県)に建てた政権。 当初は華北で最も強勢だったが、395年に参合陂で北魏に惨敗して没落し、397年には中山を失って幽州政権青州政権に分解した。

慕容垂  326〜384〜396
 後燕の初代。世祖、武帝。字は道明。慕容皝の子。 前燕では名将として知られ、慕容儁の登極で呉王に封じられ、慕容暐の下で軍事を司掌して河南大都督・征南将軍とされた。 369年には枋頭(河南省浚県)で桓温を撃退したが、太傅慕容評の粛清を避けて前秦の苻堅に降り、冠軍将軍・賓都侯とされた。
 淝水の役では前軍で唯一無傷であり、苻堅を護衛して長安に送った後は華北各地の同族を糾合し、丁零の翟斌を降し、河内を制圧して384年に滎陽で燕王を称したが、苻堅を尊重して僭称には至らなかった。 自立後は専ら鄴に拠る苻丕と抗争し、晋陽で称帝した苻丕に対抗して386年に中山(河北省定県)で登極し、遼東の征服や西燕の攻滅、青州の併合など前燕を凌ぐ版図を有し、前秦に代わって華北で最も強力となった。
 弟の慕容徳や子の慕容農が要職を占めるなど同族重用の傾向が強かったが、漢人の任用などには不明な点が多い。 北魏とは391年より関係が悪化し、395年には太子が参合陂で大敗して軍の主力を失い、翌年に平陽で雪辱は果たしたものの追撃できず、帰還途上に京観に臨んで憤死した。
  
参合陂の役(395):幷州制圧を図る後燕北魏が大破した戦。 後燕と北魏の関係は、鉄弗部を大破した北魏が西燕に接近した事で急速に悪化し、太子慕容宝を主将とした燕軍は幷州に進攻して黄河で魏軍と対峙したが、気候の急変と慕容垂病死の揺言によって後退したところを、凍結した黄河を渡った魏軍に大同北方の参合陂(山西省陽高)で奇襲されて兵の8割以上を失う惨敗を喫した。 この一戦で後燕は軍の主力を失って燕王慕容垂の憤死を招き、397年には国都の中山すら維持できなくなって南北に分裂し、北魏の中原進出が現実のものとなった。

慕容宝  〜396〜398
 後燕の第二代君主。烈宗、恵愍帝。字は道祐。慕容垂の嗣子。395年に伐魏の主帥となって参合陂で惨敗し、即位の翌年(397)には北魏の攻勢と弟の慕容麟の離叛で中山を放棄した。 陪都の龍城(遼寧省朝陽市区)へ向かう途上に薊でも北魏に敗れ、来援した慕容会の軍を奪った事で慕容会にも叛かれ、これは高雲(慕容雲)らによって難を免れたものの中山では慕容詳が自立し、冬に中山が北魏に陥された事で幽州を領する小政権に没落した。
 慕容徳の勧めで翌年に興した南征は疲弊した軍の造叛で失敗し、慕容農の離背で全軍が壊乱すると慕容盛らと南奔したが、慕容徳の称制で断念して龍城に還った後に舅の蘭汗に弑された。

慕容農  〜398
 慕容垂の子。慕容垂の挙兵に従って苻丕翟魏との攻伐に大功があり、遼西王に封じられて龍城に鎮したものの求めて中原経略に転じ、翟魏を討平すると鄴に鎮して西燕や河南の略定にも従事した。 参合陂の役にも従い、慕容宝が即位すると幷州刺史とされて晋陽に鎮したが、魏軍の攻勢を支えられずに麾下の殆どを失って中山に退いた。
 慕容宝の北奔に従い、慕容会の離叛で重傷を負ったものの落命を免れ、程なく都督中外諸軍事・大司馬・録尚書事とされた。 南征では中軍を督し、段速骨の造叛で慕容宝の後軍が壊乱すると慕容宝を守って龍城に却いたが、蘭汗の勧めで段速骨に投じて殺され、忠節と威名を広く知られていた慕容農の離背で全軍が潰散した。

蘭汗  〜398
 慕容宝の舅。慕容宝の南征が軍中の段速骨の造叛で失敗すると龍城に太子の慕容策を擁立して承制を行ない、段速骨を討平した後に薊より迎えた慕容宝を慕容策と併せて弑し、大都督・大将軍・大単于・昌黎王を称して自立した。 慕容氏討伐の為に兵力を分散したところを、宴席で慕容盛に鏖殺された。

慕容盛  373〜398〜401
 後燕の第三代君主。中宗、昭武帝。字は道運。慕容宝の庶長子。淝水から帰還した苻堅の慕容氏粛清を避けて慕容沖に投じ、ついで難を避けて弟の慕容会らと慕容垂に帰投して驍勇剛毅を嘉された。
 慕容宝が即位すると長楽王に進爵され、南征を諫めて聴かれずに後事を統べ、南征が失敗すると慕容宝に扈随したものの蘭汗にも敬重された。 秋には蘭汗を誅して称帝したが、翌年には天王に貶号し、高句麗庫莫奚を攻略して徙民を進めたものの、禁兵を領する段氏の兵変で殺された。

慕容熙  385〜401〜407
 後燕の第四代君主。昭文帝。字は道文。慕容垂の少子。 はじめ河間王とされ、慕容盛の奪権で公に貶爵されて都督中外諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・中領軍とされ、北討での勇は諸将に冠した。 慕容盛が弑されると王妃の丁氏を烝娶して擁立され、段氏らを誅して併せて慕容氏の有力者を粛清し、苻貴人が入宮した後には疎略となった丁氏に廃帝が謀られて自殺させた。 大造営などの奢侈と高句麗契丹遠征で国力を消耗し、苻后が歿した後は政令刑賞から定理が失われ、慕容宝の諸子を鏖殺して程なくに中衛将軍馮跋に殺された。


西燕

 384〜394
 淝水の役の後、慕容儁の諸弟が山西で自立したもの。 苻堅を長安より逐った後は族人の求めに応じて長子(山西省)に東遷したが、慕容部の主流が支持する慕容垂と燕の正統を争ったために勢力基盤は不安定で、394年に後燕に併呑された。短命かつ転変が激しかったために十六国には数えられない。

慕容泓  〜384
 慕容儁の子。前燕の済北王。苻堅に北地長史とされ、淝水の役の後は同族を糾合して華陰に進駐し、都督陝西諸軍事・大将軍・雍州牧・済北王を称した。 慕容垂との合流に失敗すると河東で挙兵した弟の慕容沖と合流し、慕容暐救出のための長安攻略の途上で臣下に暗殺され、冬には慕容暐も苻堅に処刑された。

慕容沖  〜384〜386
 慕容泓の弟。前秦では平陽太守とされ、淝水の敗報に乗じて河東で挙兵したものの苻堅に敗れて慕容泓と合流した。 慕容泓が暗殺された後に長安から苻堅を逐って即位したが、関中政権の樹立を進めたために東帰派に暗殺された。
  ▼
 慕容沖の死後は段随が擁立され、段随を暗殺した慕容によって鮮卑40万人の東帰が進められたが、王位は政争によって1年で慕容瑤・慕容忠と廃弑が続き、東方に興った後燕に正統性を認めて離脱する者も相次いだ。

慕容永  〜386〜394
 慕容廆の弟/慕容運の孫。淝水の役の後は共に苻堅の質子となっていた拓跋屈咄と結んで独孤部の劉顕とも通じたが、慕容垂と結んだ拓跋珪に敗れて慕容泓に合流した。
 慕容忠横死後の混乱を収拾すると河東王を称して慕容垂への称藩による安定を図ったが、後燕への亡命者が絶えず、慕容儁・慕容垂の近親を殺して386年に長子(山西省)で称帝した。391年に北魏と同盟したものの、394年に後燕に滅ぼされた。

 
 

南燕

 398〜410
 後燕の中山失陥によって、鄴に拠っていた慕容徳が樹立。まもなく東遷して400年に広固(山東省青州)で登極したが、勢力基盤を確立できないまま410年に劉裕の北伐で滅ぼされた。 桓玄の簒奪と劉裕の秉政を忌避する亡命者を多数受容し、最盛期の人口は200万、動員兵力は37万に達したと推定される。

慕容徳  336〜398〜405
 南燕の世宗、献武帝。字は玄明。慕容垂の弟。前燕では安北将軍・范陽王に至り、前秦で張掖太守・奮威将軍とされた。 淝水の役の後は慕容垂に投じて建国と共に車騎大将軍・范陽王とされ、司徒を経て慕容宝の時には都督六州諸軍事・冀州牧として鄴に鎮した。 中山陥落後は慕容麟の勧めで鮮卑4万戸とともに滑台(河南省滑県)に遷って燕王を称したが、翌年には北魏に敗れて広固(山東省青州)に退き、400年に龍城の慕容盛の貶号を享けて称帝した。403年に南征を準備したが、病臥で断念した。

慕容超  385〜405〜410
 南燕の後主。慕容徳の兄/慕容納の子。母の段氏が苻堅による慕容氏粛清から逃れる中で産まれ、後涼・後秦を経て南燕に流着したという。体制確立を急ぐあまり、慕容鐘ら宿僚を粛清して多数の亡命者を出し、勢力基盤をさらに縮小させた。 生母・正妃を保護する後秦に称藩して両者の送還を得、併せて淮北進出を図ったものの劉裕の北伐を惹起して広固を陥され、建康で処刑された。

 
 

北燕

 407〜436
 後燕の龍城政権を簒奪した漢人の馮跋が樹立。 慕容氏と距離を措いて高句麗への接近を進めた為に慕容氏の離背を惹起し、柔然・南朝とも連携して北魏を牽制したが、赫連氏を攻滅した北魏の攻勢で滅ぼされた。

高雲  〜407〜409
 北燕の恵懿帝。慕容雲高句麗の王族。 慕容垂に従って慕容宝に扈随し、慕容会の乱では龍城から慕容会を撃退して慕容宝の養子とされ、夕陽公に封じられた。 寡黙だった為に世人には愚と評され、慕容熙を弑した馮跋によって天王に立てられたが、慕容姓を廃したことで平州刺史慕容懿の北魏帰順を惹起した。 壮士を好んで側近として禁兵を典領させたが、その幸臣の離班・桃仁らに宮中で殺された。
『晋書』では慕容燕の末君として扱われています。実際、高雲が慕容氏の養子だったり高雲と馮跋も異姓同士だったりで後燕と北燕の垣根は低く、高雲を簒奪前の傀儡君主と見ることも可能ですが、馮跋が即位後も高氏との提携を模索しているので北燕で。

馮跋  〜409〜430 ▲
 北燕の太祖、文成帝。長楽信都(河北省冀州)の人。字は文起。祖父の代に永嘉の乱を避けて上谷に移住し、父の馮安は慕容永に従って将軍とされ、後に龍城(遼寧省朝陽)に移住した。
 はじめ馮跋は龍城に遷った慕容宝に中衛将軍とされ、苛政を行なう慕容煕を弑して高雲を立て、都督中外諸軍事・録尚書事・武邑公とされて全権を掌握した。 409年に高雲が弑されると天王を称したが、高雲の同族の高句麗人との連帯を模索して慕容氏の離脱が加速し、又た政権独占を図る一族の叛乱などによって安定性に欠け、北魏に対抗するために南朝や柔然庫莫奚契丹などと通好した。
 晩年は邪教を信じ、諫臣を退けて国勢を衰退させたと伝えられ、430年に病臥すると次子馮翼に国政を委譲したが、実子擁立を謀る宋妃に幽閉され、末弟の馮弘が挙兵して宋妃を殺したことで憂死した。

馮弘  〜430〜436〜438
 北燕の昭成帝。字は文通。馮跋の末弟。馮跋が重篤となると継嗣争いに乗じて挙兵し、馮跋が頓死すると天王を嗣いで馮跋の諸子を鏖殺した。南朝宋に称藩して燕王とされ、436年に北魏に大破されると高句麗に逃れて南朝亡命を模索したが、北魏の要求で処刑された。

 
 

後秦

 384〜417
 南安赤亭(甘粛省隴西)を本貫とする羌族の部帥の姚襄が、淝水の敗戦に乗じて384年に陝西北部に樹立した政権。建国の翌年には苻堅を殺し、西燕の遷移に乗じて長安を占領し、洛陽の征服や後涼の併合、西秦および隴西諸涼の藩属などで北中国西半を支配して後燕に対抗した。 北魏の拡大との独立で弱体化し、東晋の劉裕の北伐で滅ぼされた。

姚弋仲  〜352
 羌族の部帥。永嘉の乱に際して部衆と流民数万を率いて楡眉(陝西省千陽)に遷り、前趙や後趙に服属した。 石虎に関中の諸豪の関東徙民を進言して自らも清河(河北省清河)に遷り、青州経略にも大きく貢献した。 石虎の死後は蒲洪石閔らと謀って石遵を擁立したが、石閔が非漢族排斥に転じると石祗に通じて右丞相・親趙王とされ、石祗の敗亡後は東晋に帰順して大単于・高陵郡公とされた。

姚襄  〜357
 字は景国。姚弋仲の子。勇略を以て輿望を集め、父の死後は麾下の6万戸を率いて東晋に帰投し、前秦の追撃で半ばを失って歴陽(安徽省和県)に鎮守した。 好学多芸でもあった為に謝尚に親接されたが、兵の不統制もあって寿春の揚州刺史殷浩とは対立し、同年の北伐で許昌攻略中に謝万に襲撃された事で決裂した。 殷浩を大破して盱眙に進むと堂邑(南京市六合区)でも内応の動きがあって建康を震撼させ、前燕に称藩して355年には大将軍・大単于を称して許昌に入った。 洛陽攻略の失敗と桓温の北伐に大破された事で関中攻略に転じたが、三原で苻堅に敗死した。 後に姚萇より魏武王と追諡された。

姚萇  330〜384〜393
 後秦の太祖、武昭帝。字は景茂。姚襄の弟。姚襄が敗死すると部衆を率いて苻堅に降り、苻堅の征戦に従って各地を転戦して揚武将軍・幽州刺史・歩兵校尉などを歴任し、襄陽攻略後は慕容垂らとともに南征を強く勧めた。 淝水の役の後に慕容泓討伐に失敗すると渭北で羌族を糾合し、天水の尹氏や南安の龐氏ら漢族の支持も得て大将軍・大単于・万年秦王を称して自立し、長安進出を図る慕容沖とも連携した。 翌年(385)、西燕に長安を逐われた苻堅を捕えて殺し、西燕が放棄した長安に入城して称帝し、長安を常安と改称した。 以後も関中の支配を苻氏と争い、一時は長安・安定以外を失陥したこともあり、苻登討伐の最中に病死した。

姚興  366〜394〜416
 後秦の第二代君主。高祖、文桓帝。字は子略。姚萇の長子。姚萇の陣歿の翌年、来攻した苻登を大破して即位した。 苻登の討滅によって関中支配を固めてオルドス・河東に進出し、399年には東晋から洛陽を奪って河南・淮北を経略する一方、400年に西秦を属国化し、401年に後涼を降し、405年までに南涼北涼西涼仇池を称藩させるなど北中国西半を支配する勢力に発展した。 又た後涼征服で鳩摩羅什を長安に迎えると仏塔造営と訳経事業を興し、長安は当時の中国仏教の中心地となった。
 晩年は北魏との関係は改善したものの匈奴赫連氏や仇池楊氏の自立、継嗣を争う一族の内訌などで急衰した。 東晋の桓玄の簒奪では多数の漢人が亡命・流入したが、それでも最大人口は300万人ほどと推定されている。

鳩摩羅什  350〜409(343〜413)
 クマーラ=ジーヴァ。インド貴族と亀茲王妹の子。 熱心な仏教徒の母と共に剃髪し、359年頃に共に入印して伝統仏教を学んだが、帰国途上に大乗に接して改宗し、名声は中国にも達した。 前秦の呂光の西征も鳩摩羅什の獲得を目的の1つとし、384年に涼州で呂光に迎えられて厚遇されたが、呂光自身は仏教に無関心だった。
 後涼が滅ぶと長安に迎えられて姚興より国師とされ、国家事業として多数の学僧とともに仏典35部297巻を正確に翻訳し、これには『法華経』・『維摩経』・『般若経』・『阿弥陀経』など今日まで読誦されている経典も含まれる。 又た解釈が混乱していた『般若経』に対しては、龍樹の詳細な注釈書である『大智度論』100巻を併訳した。 大乗仏教の正統性を宣揚し、鳩摩羅什の訳した大乗の経論は中国仏教界に於いて最も権威ある指導聖典となり、法華宗・三論宗などを成立させた。 漢訳した経典は総数74部384巻に達し、殊に『妙法蓮華興』は名訳とされる。

僧肇  〜414 ▲
 長安の人。本姓は張。貧寒の故に写本で生計を立て、老荘に通じるようになった。 維摩経に感激して出家し、鳩摩羅什を慕って姑臧に到って師事し、後に訳経事業を扶けて“解空第一”と賞された。

姚泓  388〜416〜417
 後秦の第三代君主。字は元子。姚興の長子。 好学で経学・仏教に通じた一方で懦弱を危惧され、402年に太子とされたものの姚興が病臥した後は一族の叛抗が絶えなかった。 即位の年に東晋の劉裕の北伐で洛陽を含む河南一帯を喪い、翌年には劉裕に長安を陥されて建康で斬られた。

 
 

西秦

 385〜431
 鮮卑乞伏部の首長/乞伏国仁が385年に隴西に樹立した政権。 乞伏部は隴西・河西に散居する西部鮮卑に属して3世紀中葉に高平川流域(寧夏中部)に拠っていたが、4世紀中頃には前秦に帰順して勇士川(甘粛省楡中)に遷り、乞伏国仁の代に前秦の混乱に乗じて自立した。 前秦、次いで後秦に称藩しつつ後涼南涼と攻伐し、最盛期には南涼を滅ぼして隴西全域支配し、吐谷渾を帰服させて蜀にも影響を及ぼしたが、内訌と北涼や吐谷渾との抗争で疲弊して431年にに滅ぼされた。
 多くの漢人豪族が勢力を保った隴西に拠った事から、中国の官制を採用するなど組織の漢化が進んでいたらしく、政権には多数の羌・丁零も参画したものの、単于台などの異民族政権独特の機関は殆ど設置されなかった。

乞伏司繁  〜376
 鮮卑乞伏部の首長。4世紀中頃に度堅山(甘粛省靖遠)に遷り、371年に前秦に討たれて苻堅に帰服して南単于とされた。 遊牧生活を堅持し、373年に来攻した鮮卑の勃寒を降すとそのまま勇士川(甘粛省楡中)に鎮した。

乞伏国仁  〜385〜388
 西秦の烈祖、宣烈王。乞伏司繁の嗣子。前秦の南単于を襲ぎ、苻堅の江左南征では前将軍として前鋒に加わったものの隴西で叛いた叔父の歩穨の鎮圧に転じ、その説得で同族を糾合して隴西に留まった。 苻堅の訃報に接すると勇士城(甘粛省楡中)で大都督・大将軍・大単于・領秦河二州牧を称して正朔を建てたものの称王はせず、前秦の苑川王として12郡を領した。

乞伏乾帰  〜388〜400/409〜412
 西秦の第二代君主。高祖、武元王。乞伏国仁の弟。幼主を厭う部衆に推戴されて大単于・河南王を称し、金城(甘粛省蘭州)に拠って前秦から金城王に冊封された。 吐谷渾を朝貢国とするなど勢力を拡大させて後涼と衝突し、392年に枋罕(甘粛省臨夏)を失ったが、前秦による後秦攻略を支援して394年に梁王に改封された。 苻登の死後は仇池に逃れた苻崇を攻滅し、隴西を支配して秦王を称したものの後涼には藩属を強いられ、後涼の弱体化で苑川(甘粛省靖遠)に戻って程なくに後秦に大敗して南涼に亡命し、さらに謀叛が露見して後秦に投じ、河州刺史とされて苑川に進駐した。
 姚氏の将軍として後涼征服や仇池攻略、吐谷渾遠征などに従い、北魏と夏の抬頭で後秦が弱体化すると409年に苑川の度堅山で秦王を称し、隴西攻略を再開して南涼・吐谷渾とも抗争したが、後秦には称藩を続けて大単于・河南王とされた。 412年には譚郊(甘粛省臨夏)に遷都したが、同年、乞伏国仁の遺児の乞伏公府の造叛で鏖殺された。

乞伏熾磐  〜412〜428
 西秦の第三代君主。太祖、文昭王。乞伏乾帰の嗣子。造叛した従兄弟の乞伏公府を滅ぼして枋罕(甘粛省臨夏)に拠り、との衝突を避けて主に西方を経略して414年に楽都(青海省)に拠る南涼を滅ぼし、吐谷渾を称藩させて蜀にも影響を及ぼした。 姚興の死後混乱する後秦から上邽を奪い、北伐した劉裕には称藩して漢中進出を図ったものの夏と北涼の来攻で断念し、北魏と連携した後も羌族や吐谷渾の蜂起に苦しんだ。

乞伏暮末  〜428〜431
 西秦の第四代君主。乞伏熾磐の嗣子。厳獅ネ刑政で輿望を失い、430年に北涼に大敗すると北魏への帰順を図ってに阻まれ、翌年に南安を陥されて夏に降伏したものの程なく処刑された。

 
 

 407〜431
 匈奴鉄弗部赫連勃勃が樹立。鉄弗部は漢末の右賢王去卑を始祖とし、独孤部の劉猛や破六韓部の潘六奚は去卑の弟とも伝えられる。 4世紀に鮮卑拓跋部に敗れてオルドスに遷ったもので、以後も前秦と結んで拓跋政権に抵抗し、前秦が崩壊するとオルドスを占有したものの391年に北魏に大破されて後秦に帰順した。
 407年に赫連勃勃が大夏王を称して自立し、418年には関中より晋軍を逐って北魏と並ぶ威勢があったが、遊牧体制を堅持して漢人勢力の支持に配慮しなかったために発展できず、北魏との攻伐で弱体化して427年には国都の統万城を陥され、431年に敗走途上に西秦を滅ぼしたものの程なく吐谷渾に滅ぼされた。

赫連勃勃  381〜407〜425
 夏の世祖、武烈帝。字は屈孑。劉衛辰の第3子。 漢末の匈奴の右賢王去卑の裔と伝えられる。父が北魏に敗死すると後秦に帰順し、安北将軍・五原公とされて朔方に駐したが、407年に叛いて高平(固原市区)で夏天王・大単于を称した。 南涼を大破し、後秦を撃退してオルドスを占有した後も遊牧体制を堅持して定居しなかったが、413年に統万城(陝西省靖辺)を造営して国都とすると赫連氏を称し、北燕・北涼と結んで後秦・北魏・西秦と抗争した。
 南下を阻んでいた後秦が滅ぼされた翌年(418)、長安に進駐する晋軍に内訌が生じると赫連璝・赫連昌の両子を派遣して関中を制圧したが、長安で称帝すると長安を南都として北帰した。 性暴虐で統治も過酷だったと伝えられ、晩年には太子の廃嫡問題から内紛を生じ、第3子の昌を立てた翌年に病死した。 落雷が原因とも伝えられる。

赫連昌  〜425〜428〜434
 夏の第二代君主。赫連勃勃の第3子。 勃勃の最晩年に廃太子の内乱を鎮定して太子とされた。 426年に西秦の国都の枹罕を陥したが、外征に乗じた北魏の進出で関中を失い、翌年には統万城を陥されて上邽(甘粛省天水)に退き、北魏に敗れて擒われた。 後に秦王に進められたが、西奔を図って殺された。

赫連定  〜428〜431〜432
 夏の第三代君主。赫連昌の弟。 赫連昌が北魏に擒われると平涼に逃れて即位し、残兵を糾合して一時は失地の多くを回復した。 430年には南朝宋との同盟も成立させたが、統万城攻略で大敗して平涼も失い、上邽へ敗走する途上で西秦を滅ぼしたものの、河西に入る直前に吐谷渾に大敗して擒われ、平城に送られて処刑された。

 
 

後涼

 385〜403
 前秦苻氏の縁族の呂光が、苻堅の西征軍を核に姑臧に自立した政権。 河西の土豪の与力で成立したが、氐族優遇に偏った事で漢人の支持を得られずに不安定な駐留軍政権に終始し、西秦には優位を保ったものの南涼北涼の離叛で急衰し、403年には後秦に滅ぼされた。

呂光  338〜386〜399
 後涼の太祖、懿武帝。字は世明。略陽(甘粛省天水)氐族の部酋の出で、前秦の太尉呂婆楼の子。 苻洛の鎮定に従って驍騎将軍とされた。 383年に都督征討諸軍事とされて西域に遠征して焉耆・亀茲などを降したが、鳩摩羅什を迎えての帰国途上に淝水の敗報に接すると後秦に附した酒泉の涼州刺史梁煕を破って河西を鎮め、苻堅の訃報を享けて姑臧(甘粛省武威)で涼州牧・酒泉公を称した。
 387年に張大豫を討滅して河西のほぼ全域を制圧し、396年には涼天王を称したが、王穆などの漢人豪族の叛抗が絶えなかった。 西秦との攻伐の中で397年に金城攻略に失敗すると廉川(甘粛省永登)に南涼、張掖に北涼が自立し、内乱の続発や継嗣争いもあって急衰した。399年末に太子紹に天王を譲って太上皇帝を称し、まもなく歿した。

呂紹 〜399/399
 後涼の第二代君主。隠王。呂光の嗣子。重篤となった呂光より譲位されたが、呂光の死後は軍権を司掌する異母兄の呂纂を畏憚し、譲位を諮ったことで却って呂纂に粛清を猜忌させ、兵変を起されて宮中で自殺した。

呂纂  〜399〜401
 後涼の第三代君主。霊帝。呂光の庶子。呂光の軍事に従い、重篤となった呂光より弟の呂弘と共に後事を託されて太尉として軍権を掌握したが、呂紹に猜疑されて呂弘とともに挙兵して簒弑した。 呂弘を平定した後は南涼との攻伐で国力を大きく損ない、401年には従兄弟の呂隆・呂超兄弟に殺された。

呂隆 〜401〜403〜416
 後涼の第四代君主。字は永基。呂光の甥。弟の呂超と与に呂纂から簒弑した。 当時既に後涼は凋落の一途にあり、即位の年には後秦に大敗して称藩し、403年に北涼・南涼の来攻の後に後秦に逼られて開城して長安に徙された。 後に姚興末期の内訌に関与して誅された。

 
 

南涼

 397〜414
 楽都(青海省)に拠っていた鮮卑の禿髪烏孤が後涼より自立したもの。 拓跋力微の兄と伝えられる拓跋匹孤の代に陰山北方から河西に遷ったことで河西鮮卑とも呼ばれ、匹孤の子の寿闐の代から禿髪氏を称したという。 3世紀中葉に蜀漢との呼応を警戒する魏の鎮西将軍ケ艾によって秦州に徙され、270年には寿闐の孫とされる禿髪樹機能が挙兵して隴西の患となり、やがて涼州の廉川(甘粛省永登)付近に遊牧するようになった。
 397年に後涼から独立した後は北涼と結んで後涼と攻伐し、後涼が滅ぼされた後は後秦に称藩したが、以後は河西の主導権を北涼と争い、406年に姑臧への移鎮を認められたことを機に再び独立した。 建国当初から要職を禿髪氏が独占した事もあって漢人勢族の叛抗が絶えず、407年以降は急速に弱体化して西秦に滅ぼされた。
 南涼の治下で三河(黄河・賜支河・湟水)の開発が進んで後の青海シルクロードの祖形が成立し、法顕なども河西の戦乱を避けてこの南路を利用した。
“禿髪 tufa ”と“拓跋 touba ”とがほぼ同音であることも、禿髪氏が拓跋氏から派生した事を示唆しています。

禿髪樹機能  〜279
 河西鮮卑。晋の新田制の敷衍に抗して270年に秦州で挙兵し、秦州刺史胡烈・安西将軍石鑒・涼州刺史牽弘を大破して関中都督の汝南王を逐い、涼州・秦州・雍州を席捲して武帝をして蜀呉を凌ぐ憂患と嘆かせた。 277年に汝陰王に敗れて帰参したが、翌年には涼州で叛いた若羅抜能に呼応し、武威太守馬隆に大破された後に部下に暗殺された。 これより禿髪部の勢力は著しく減衰した。

禿髪思復鞬  〜386?
 禿髪樹機能の従兄弟の曾孫。前秦崩壊の混乱に乗じ、前涼遺族の張大豫や土豪の王穆らと連和して勢力をやや回復させたが、姑臧攻略で大敗し、張大豫の敗死から程なくに病死した。

禿髪烏孤  〜397〜399
 南涼の烈祖、武王。禿髪思復鞬の子。父の死後は呂光に仕えて394年に冠軍大将軍・河西鮮卑大都統・広武県侯とされ、湟水流域に拠る鮮卑の乙弗部・折屈部や漢人豪族層を吸収して勢力を拡大し、まもなく廉川堡(甘粛省永登)に移鎮して征南大将軍・益州牧・左賢王とされた。 397年に呂光が西秦攻略に失敗すると大単于・西平王を称して独立し、翌年には湟水流域の羌族数万を征服するとともに北涼や西秦と結んで後涼軍を大破して武威王を称し、399年には楽都(青海省)に遷都したが、泥酔しての落馬での負傷がもとで歿した。

禿髪利鹿孤  〜399〜402
 南涼の第二代君主。康王。禿髪烏孤の弟。武威王を襲いで西平(青海省西寧)に遷都し、西秦を降した後秦に称藩して後涼を圧し、河西で最も強勢となって401年には河西王を称した。北涼・北魏とも通好したが、後涼が後秦に称藩した後は北涼との対立が不可避となった。

禿髪傉  〜402〜414/414
 南涼の第三代君主。景王。禿髪利鹿孤の弟。烏孤の時代から軍権を司掌し、即位すると楽都に還都して初めて涼王を称したが、翌年に姑臧(甘粛省武威)の後涼が敗亡すると王号を廃して後秦の正朔を奉じ、車騎将軍・広武公を称して北涼攻略を進めた。 406年に北涼を大破すると後秦からも涼州刺史と認められて姑臧に遷都し、西涼との同盟によって北涼を圧したが、407年には北涼攻略で大敗したところに夏軍が来攻して惨敗し、翌年に姑臧奪還を図る後秦軍を撃退して涼王を称したものの、内乱や離叛が頻発して国力が著しく低下した。
 両度の北涼遠征に失敗した翌年(410)には三河(黄河・賜支河・湟水)を確保する為に楽都(青海省)に還都して姑臧を放棄したが、411年には吐谷渾の抬頭と西秦の進出も加わって湟水流域の西平〜楽都を支配するのみとなった。 以後は質子を出しては北涼を襲って楽都を攻囲される事が続き、乙弗部の略定中に楽都を陥した西秦に帰降して左南公に封じられたが、冬には毒殺された。
  ▼
 遺児の禿髪破羌は後に北魏に降ると拓跋氏と同源として源氏が下賜されて源賀と改め、源氏は準皇族として厚遇されたが、この逸話が後に日本にも伝わって皇族源氏の由来となった。

 
 

北涼

 397〜439
 臨松(甘粛省張掖)に拠っていた盧水胡の沮渠蒙遜が後涼から独立した政権。 沮渠氏は『晋書』には“臨松盧水胡”とあり、匈奴の官名“沮渠”に由来する匈奴の一派ともあるが、296年に北地で興った少数民族の叛乱には匈奴・羌族と並んで盧水胡の名があることから、匈奴とは別種で、盧水(黒河)流域に居住していたものが匈奴の影響下にその官命を氏とするようになったと考えられ、月氏の支族との説もある。
 沮渠蒙遜が後涼への復仇を唱えて挙兵した事が実質的な建国とされ、当初は漢人の段業を推戴し、簒奪後は後秦に帰順して後涼との抗争を継続した。 後秦の覆滅後は南涼と攻伐して411年には姑臧を占領し、421年に敦煌に拠る西涼を滅ぼして河西のほぼ全域を支配した。 西域との通交で富強となって仏教文化も隆盛したが、華北を統一した北魏に439年に征服された。
 沮渠蒙遜の子の無諱・安周兄弟は西奔し、高昌を簒奪して沮渠王朝を樹立した。

段業  〜397〜401
 北涼の初代君主。京兆の人。後涼の建康太守(甘粛省張掖)。後涼から自立した沮渠氏により、漢人勢力の支持を得るために涼州牧・建康公に擁立され、南涼と結んで河西西部に勢力を拡大して399年には涼王を称した。 敦煌太守の李ロの自立で漢人豪族層の離脱が進み、残存する漢人勢力の求心力となって沮渠蒙遜と対立するようになり、401年に蒙遜の讒言で沮渠男成を処刑し、雪恨を唱える蒙遜に殺された。

沮渠蒙遜  368〜401〜433 ▲
 北涼の第二代君主。太祖、武宣王。はじめ後涼に属していたが、397年に西秦攻略に失敗した叔父の羅仇らが処刑されると雪辱を唱えて金山(甘粛張掖)で挙兵し、酒泉の従兄弟/沮渠男成と合流して建康太守段業を擁立した。 400年に敦煌太守の李ロが独立したことで段業の求心力が低下し、翌年に段業排斥に反対する男成を枉陥した後に段業を攻殺して涼州牧・張掖公を襲ぎ、後秦に称藩した。
 後涼が滅んだ403年には後秦より沙州刺史・西海侯とされ、南涼と河西の覇権を争って411年には姑臧(甘粛省武威)を抜いて遷都し、河西王を称した。 南涼の滅亡後は西秦と対立して夏・北魏と連携し、江南政権にも称藩して東晋より涼州刺史、南朝宋より涼州牧・河西王に冊立され、421年には西涼を滅ぼして河西全域を支配した。 北魏と結んだ西秦に対抗しての正朔を奉じたものの、431年に西秦と夏が相次いで滅んだことで北魏と直接するようになり、子の安周を入質させて涼州牧・涼王とされた。

曇無讖  385〜433
 インド僧。はじめ上座部を学んだが、後に『大般涅槃経』に接して大乗に転じ、罽賓(ガンダーラ)から亀茲・鄯を経て412年に酒泉に入って訳経に従事したが、神術を行なう神異僧として広く知られた為、北魏に送赴が求められると沮渠蒙遜に殺された。 『涅槃経』・『金光明経』をはじめ19部131巻の仏典を訳し、殊に『涅槃経』は中国・日本の仏教教義の基礎的仏典として重視された。

沮渠牧犍  〜433〜439〜477
 北涼の第三代君主。沮渠蒙遜の嗣子。南朝宋から涼州刺史・河西王に冊封された。 北魏に妹を入嫁させ、又た太武帝の妹/武威公主を娶ったが、439年に武威公主が毒殺されると太武帝に親征されて姑臧を開城し、皇族として厚遇された。447年に謀叛を理由に処刑された。

 
 

西涼

 400〜421
 漢人の李ロが、敦煌の漢人勢族を中核として400年に北涼から独立したもの。 李氏は西漢の李広の裔を称して河西地方の太守を輩出し、唐王朝の遠祖とも伝えられる。 河西西部を領して西域にも勢力を及ぼし、交易によって一時は諸涼で最も繁栄したが、李ロの死の前後から北涼の圧迫に加えて柔然吐谷渾の入寇が深刻となり、421年に北涼に滅ぼされた。

李ロ  350〜400〜417
 西涼の太祖、武昭王。字は玄盛。隴西狄道(甘粛省臨洮)、或いは成紀(甘粛省秦安)の大姓。 文武に優れ、北涼で沙州の県令となって漢人の支持を集め、398年に刺史の孟敏が歿すると推されて寧朔将軍・敦煌太守とされた。 400年に北涼に叛いた晋昌太守唐瑤らに推されて大将軍・涼公・秦涼二州牧を称し、405年に酒泉を陥して遷都した。
 南北両涼に比しても人口は少なかったが、交易を重視し、又た開墾や灌漑、屯田や養蚕などの農業を振興して経済力を強化し、北涼に対抗した。 学校を興して儒学を振興するなど漢文化の保護にも熱心で、東晋に称藩してしばしば冊封を求めた一方、自立のために後秦にも称藩した。

李歆  〜417〜420
 西涼の第二代君主。字は士業。李ロの嗣子。 南朝による冊封を実現して鎮西大将軍・酒泉公とされた。 造築や酷刑の濫用で輿望を失い、420年に強行した北涼遠征で敗死して酒泉を失陥した。
  ▼
 李歆の甥の李宝は伊吾に遁れて柔然に奔ったものの444年には北魏に帰順し、その子の李冲は北魏の諸制度の策定に多く貢献した。 又た李歆の子の李重耳は南朝に亡命した後に北魏に帰し、その曾孫とされる李虎は宇文泰に重用されて八柱国に数えられた。

李恂 〜420〜421
 西涼の第三代君主。李歆の弟。 北涼に遠征した李歆が敗死すると敦煌に遁れて涼州刺史を称したが、翌年に北涼に敦煌を陥されて敗死した。


Top | Next