匈奴 鮮卑 柔然
突厥 鉄勒 ウイグル
契丹 タタール モンゴル
北元 オイラート
頭曼単于 〜B209
初めて史書に記された匈奴の単于。
B215年に秦の蒙恬にオルドス地方を奪われたが、始皇帝死後の混乱に乗じて奪回した。
末子への継承を謀ったために太子と伝えられる冒頓に殺されたが、冒頓が実際に中国などでの太子と同じ立場にあったかは不明。
頭曼の称はトルコ=モンゴル語のtumen(一万・万長)に由来する。
冒頓単于 〜B209〜B174
頭曼単于の子。伝統的にボクトツと呼ばれる。
月氏に質子に出された後に頭曼単于による月氏襲撃があり、逃帰して暫く後に父を殺して即位した。
当時の匈奴は東に東胡、北に丁零、西に月氏を控えていたが、冒頓はまず東胡を急襲して服属させ、月氏を河西に駆逐し、丁零・鬲昆も服属させて北アジア全域を支配した。
この頃よりシベリアのスキタイ系青銅製品を大量に移入し、オルドス・綏遠でその倣製品を作成させた。
しばしば中国に入寇し、B200年には北上した劉邦を大同付近の白登山に包囲したが、兄国待遇・漢室との通婚・歳幣の貢納でB198年に講和し、漢に対する優位を確立した。
漢からの定期的な貢納と韓王信・盧綰ら有力将領の来降もあって勢力を増し、以後は西方経略に転じてB177年に月氏をイリ地方に逐い、アルタイや西域諸国をも支配した。
老上単于 〜B174〜B161
冒頓単于の子。漢の公主を閼氏に迎え、その従者の中行説を信任して勢力を増し、イリ地方に退いた大月氏を大破し、しばしば中国にも侵攻した。老上単于の時代は、匈奴の勢力が最も充実して発現した時代にあたる。
中行説 ▲
燕の人。漢文帝の宦官だったが、老上単于に降嫁される公主の従者として入漠すると単于に心服し、書記算術や北辺の地勢を教示し、胡風の維持と漢化の抑制を奨めて漢に対する匈奴の優位を強化した。
その役割はしばしば突厥の暾欲谷と比較される。
軍臣単于 〜B161〜B127
老上単于の子。即位後は漢との和約を破って連年中国に冦し、呉楚の乱では劉遂と密通したが、その後に公主が送られて交易が安定すると控えるようになった。
B133年に漢が馬邑を佯降させて単于の襲撃を図った事が露見して再び入寇するようになったが、B129年より開始された漢武帝の挙国的な外征に次第に劣勢となり、B127年には衛青にオルドスを奪われた。
伊稚斜単于 〜B127〜B114
軍臣単于の弟。
オルドスの奪回を図ってしばしば漢に入冦したが、B124・B123年に衛青に大敗し、B121年には霍去病に大破された休屠王が渾邪王と与に漢に投じて河西地方を喪失し、軍事的・経済的に大きく後退した。
B119年にも衛青・霍去病に大敗して漠南を放棄した。
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漢はB115年に河西郡を設置してより同地方の確保を積極的に進め、、河西はほぼ中国の内地化された。
河西喪失の代償を西域諸国からの貢納に求めた匈奴は、張騫の外交と大宛遠征に対抗してB96年に日逐王を新設し、しばしば漢の北伐を撃退してB90年には李広利を擒える成果もあったが、中国との断交による経済状況の悪化や幼君の選出で単于の求心力が低下し、B60年には日逐王が漢に投降し、翌年の西域都護の設置で天山南北道の支配権も失った。
衛律
長水の胡人。漢武帝に仕えたが、友人の李延年に連坐して匈奴に奔り、単于に重用されて丁霊王とされた。
B100年に囚われた蘇武に帰順を勧めた際には変節を強く詰られ、又たB90年に匈奴に来降した李広利が狐鹿姑単于に重用されると、枉陥して処刑させた。
狐鹿姑単于の死後、顓渠閼氏と図って壺衍鞮単于を立て、後に和親の利を説いて蘇武の帰国を認めさせたが、壺衍鞮単于は朝貢より掠奪の利を重んじたという。
壺衍鞮単于 〜B85〜B68
狐鹿姑単于の子。父の死後、輿望のあった叔父の右谷蠡王を措いて立てられた為に威望に欠け、漢に対して掠奪で臨んだために国力の没落も著しく、B80年に河西に侵攻した際には張掖太守と属国都尉に大破された。
B79年には烏桓にも叛かれ、天災による国力の激減もあって西方に活路を求めて烏孫を攻略したが、B72年に烏孫と漢の挟撃に大破され、丁零をはじめ服属諸族の離叛が続発した。
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嗣子の虚閭権渠単于の死後には傍流の握衍朐鞮単于(在:B60〜B58)が僭称同様に立てられた為に国内は分裂し、握衍朐鞮単于が敗死すると5単于が並立し、虚閭権渠単于の2子/郅支単于と呼韓邪単于の争いに収斂された。
郅支単于 〜B56〜B36
虚閭権渠単于(在:B68〜B60)の子。
握衍朐鞮単于を敗死させた異母弟の呼韓邪単于の統制が脆弱な事に乗じて自立し、B54年に呼韓邪を単于庭より逐って部民の多くからも認められた。
漢への朝貢や烏孫攻略はいずれも失敗し、漢の援助を得た呼韓邪や周辺諸部族の攻勢でB43年頃には単于庭を逐われて鬲昆の地へ遷り、次いで康居を伐ってしばらくタラス上流域を占有した後、漢の甘延寿・陳湯に伐たれて敗死した。
呼韓邪単于 〜B58〜B31 ▲
父の虚閭権渠単于(在:B68〜B60)の死後に握衍拘鞮単于が立てられたことを不満として西奔し、舅父の烏禅幕や左翼の姑夕王らに擁立されて握衍拘鞮を大破して自殺させたが、各地に僭称者を割拠させた。
B56年には匈奴の再統合に成功したものの、間もなく郅支単于との抗争に敗れてオルドスに逃れ、B53年に漢に称藩して乞援し、B51年に入朝を認められて諸侯王の上位に置かれた。
郅支単于を西奔させてオルコン河畔の単于庭に帰還した後は残部を統合して漢との和を保ち、B33年に王昭君を降嫁された。
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以後も匈奴は漢に対して和親を保ったが、漢を簒奪した王莽が匈奴の爵位を貶降した為に烏珠留若鞮単于(呼韓邪単于の子/在:B8〜13)の時に中国に叛き、A10年には北伐軍を撃滅して匈奴の復権を示威し、烏桓・鮮卑・西域諸国を服属させて往時の勢威を回復させた。
以後、匈奴は王莽政権の崩壊もあって中国に対して優位に立ち、呼都而尸道皐単于は彭寵・盧芳ら華北の群雄を支援しつつ頻りに入冦して光武帝に北辺を放棄させたが、兄弟相続を反故として嗣子継承を図ったことで甥の日逐王に離叛され、匈奴は南北に分裂した。
檀石槐
鮮卑の大人。「弱冠にして勇健、智略あり」と評され、2世紀半ばに大人に推されると諸部族に帰服され、弾汗山麓(陰山東麓?)に拠って漠南鮮卑を統合した。
丁零の南下を退け、奥満洲の扶餘を圧し、イリの烏孫を伐って匈奴の盛時を再現したと称され、右北平〜遼東の20余邑を左翼に、右北平〜上谷の10余邑を中央、上谷〜敦煌の20余邑を右翼とし、それぞれを数名の大帥に統率させて支配したが、大帥の下の各邑は旧来の大人を小帥とし、匈奴と同じく部族連合体の域を脱しなかった。
中国の伝統的な招撫策を拒んで156年からは頻りに入冦して「息災の歳無し」と歎かれ、177年には北伐軍を大破して「十に七,八を喪」わせた。
光和年間(178〜184)に歿したが、嗣子の和連は人望に欠け、そのため檀石槐の後裔は左翼を統べることすら困難で、内紛から諸部に分裂して部族集団への再編が進行した。
この当時の鮮卑の強盛は、東漢の禁網の弛緩に起因する漢人の流出と鉄器の密輸によるものだと蔡邕が指摘し、亡命漢人の中には幕僚とされる者もいました。
又た晩年の檀石槐は急増する帰服者の糧食を補う為、東の倭人国から千余家を水滸に徙して漁労に従事させていますが、この倭人は沿海地方の住人で、漢末の倭が日本だけを指していなかった事をも示しています。
社崙 〜402〜410
丘豆伐可汗。柔然の初代可汗。雲中・五原西方にあって後秦と結んで高車・北魏と抗争したが、北魏の遠征を受けて漠北に遷り、402年にセレンガ流域の高車族を征服するとハルハ流域を王庭として可汗を称し、柔然勃興の基礎を築いた。
さらにオルコン流域の匈奴を併合し、近隣諸族を征服して全モンゴリアのみならず満洲・タリム諸国をも支配した。
しばしば中国北辺を侵寇したが、410年に北魏明元帝の北伐を受けて敗走中に歿した。
斛律 〜410〜414〜416
藹苦蓋可汗。社崙の弟。
北燕との通婚で北魏を牽制したが、甥の歩鹿真との抗争に敗れて414年に北燕に出奔し、帰国の途上で殺された。
大檀 〜414〜429
牟汗紇升蓋/ミュクゲセク可汗。社崙の従弟。
柔然西面の大人だったものが、藹苦蓋可汗を殺した歩鹿真から可汗位を簒奪したもの。
即位直後に中国を侵して明元帝に親伐された後は雌伏し、国内の統制強化や河西・西域への進出を進め、424年に明元帝の死に乗じて再び南下して盛楽を占拠し、遠征に出た太武帝を包囲撃退した。
これよりしばしば北魏に伐たれ、428・429年には太武帝の親征で牙庭のフルン=バイル地方を蹂躙され、敗走中に歿した。
この大敗によって柔然の統制力は著しく衰え、セレンゲ流域の高車が北魏と結んで抬頭した。
呉提 〜429〜444
勅連可汗。大壇の子。北魏との通婚によって頽勢の回復を図ったものの河西・西域の支配を巡って対立し、438年に太武帝に親伐されてオルコン流域に退き、翌年にも北涼の乞援に応じて北魏を侵して敗退した。
以後も南朝宋への朝貢や伊吾・高昌の内訌に介入するなど西域への影響力の保持を図り、443・444年には再び太武帝の親伐に遭って敗れ、敗走先で歿した。
因みに、この444年の遠征の軍中で、太武帝の弟の拓跋丕を擬主とした謀叛が発覚しています。
豆崙 〜485〜492
伏古敦可汗。呉提の曾孫。
呉提の後、柔然はしばしば魏帝の親伐を受け、高車の叛抗に苦しみつつも漠朔の盟主としての立場を保ったが、481年に高車に高昌を抑えられて西域諸国に対する影響力を失っていた。
487年に北魏の北伐に乗じた高車にも敗れて東遷し、そのため諸部の離叛が相次ぎ、492年に高車討伐の失敗と北魏孝文帝の北伐に遭って国人に殺され、叔父の那蓋が立てられた。
醜奴 〜508〜520
豆羅伏跋豆伐可汗。豆崙の後に立てられた那蓋の孫。高車に敗死した他汗可汗伏図の子。
かねて西域の支配を争っていた高車を516年に大破して漠朔に勢威を回復し、南朝への朝貢を保ちつつ北魏とも修好を図った。
可敦と太后との反目から内訌を生じたところを高車に伐たれて敗れ、太后に殺された。
阿那瓖 〜520〜552
勅連頭丘豆伐可汗。勅連はテングリ=天、頭はクト=霊威のこと。醜奴の弟。
即位の直後に族兄の示発に敗れて北魏に投じ、孝明帝より朔方郡公・蠕蠕王に冊立されて漠南に置かれた。
本国では従弟の婆羅門が示発を討滅して可汗に立てられ、高車に敗れた婆羅門が涼州で北魏に帰順した後も漠北には還れず、523年には飢饉に逼られて塞内に入冦し、そのため李崇に伐たれた。
525年に北魏の要請で六鎮の乱の討伐に加わって破六韓抜陵を大破し、北魏の承認で可汗号を用い、北魏の分裂後は両魏を圧して通婚を強いるなど優位に立っていたが、アルタイ方面に抬頭した突厥に敗死した。
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阿那瓖の太子の菴羅辰と阿那瓖の従弟の登注、登注の子の庫提が北斉に亡命した為、国人は庫提の弟の鉄伐や阿那瓖の叔父のケ叔子を可汗に立てて突厥に抵抗したが、翌年には鉄伐も契丹に敗死し、登注が迎立された。
登注が内訌で殺されると庫提が立てられたものの、程なく突厥に敗れて再び北斉に亡命し、代って菴羅辰が北斉によって立てられたが、菴羅辰は北斉の辺寇となって文宣帝に親伐され、殆どの部衆を失って西魏に亡命した。ケ叔子も同じ頃(554)に突厥に敗れて西銀に亡命したが、555年に突厥の要請でともに鏖殺された。
伊利可汗 〜552〜553
イリク可汗。突厥の初代大可汗。
名は突厥碑文ではブミン、中国史料では土門(トゥメン=万人長)。
545年から中国と交易を始めて強盛となり、翌年には柔然に叛いたジュンガリアの鉄勒を征服して独立の基礎を固めた。
柔然可汗の阿那瓖に通婚を拒まれると西魏に通じて551年に公主の降嫁を受け、翌年には柔然を大破して阿那瓖を自殺させ、オルコン上流域を王庭として伊利可汗を称した。
その統治体制は遊牧社会伝統の三分国制で、弟のイステミを西面可汗として中央アジアの征服を進めさせた。
乙息記可汗 〜553/553
突厥の第二代大可汗。伊利可汗の子(『隋書』では伊利可汗の弟)。
柔然の残部を大破して間もなくに病死した。
木杆可汗 〜553〜572
ムカン可汗。突厥の第三代大可汗。乙息記可汗の弟。
555年に北周との挟撃で柔然を完全に滅ぼし、翌年には北周と連合して青海の吐谷渾を大破した。
当時は突厥の発展期にあたり、西方ではイステミがササン朝と結んで567年にエフタルを滅ぼし、東方では弟の地頭可汗が契丹を圧し、自身もキルギズを征服して王庭をウテュケン山に移した。
北周・北斉からの歳貢で支配力を強化し、殊に北周とは通婚を結んで563年には晋陽攻略にも派兵したが、北斉とも不即不離を保った。
佗鉢可汗 〜572〜581
タスパル可汗。突厥の第四代大可汗。木杆可汗の弟。
北斉・北周を朝貢国として突厥の全盛期を築き、北斉滅亡後は亡命者の高紹義を立てて斉帝とし、北周には和戦両面で臨んだ。
当時、西面可汗はソグディアナを押えて大可汗を凌ぐ勢力があり、東面可汗の摂図や木杆可汗の子の大邏便も隠然たる勢力があった。
北斉の仏僧恵琳を捕えたことで仏教に帰依して伽藍を建立し、北斉から浄名経(維摩経)・涅槃経・華厳経などの経典や十誦律を移入し、涅槃経は劉世清によって突厥語訳された。
さらにガンダーラ出身のジャナ=グプタも、北周武帝の廃仏を避けて可汗の請いで十数年間滞在した。
一連の仏教信奉は護国宗教としての呪術的側面が期待されたもので、その信仰は可汗と一部の側近貴族の帰依に留まり、突厥仏教は可汗の死とともに衰亡した。
沙鉢略可汗 〜581〜587
イシュバラ可汗。突厥の第五代大可汗。名は摂図。乙息記可汗の子。
佗鉢可汗の時は東面の爾伏可汗として勢力を蓄え、佗鉢可汗の病死後、その嗣子の菴羅に譲られて即位した。
北周の千金公主を可敦に迎え、隋が簒奪すると中国北辺を侵寇したが成功せず、翌583年の大敗と、隋の離間策で西面の達頭可汗が独立し、これに支援された阿波可汗が自立して大勢力となった。
584年に公主の要請で隋から大義公主に改めて冊立されて楊姓が下賜され、翌年には可汗自ら隋に臣従した。
阿波可汗
名は大邏便。木杆可汗の子。父の死後、小可汗の1人として勢力を保ち、583年に沙鉢略可汗が隋に大敗した事に乗じて達頭可汗と結んで自立した。
これを機に国内の諸小可汗の間でも離背の動きが生じ、大可汗と西面可汗の間にあって西域諸国にも影響を及ぼす大勢力となった。
隋と結んだ葉護可汗に伐たれて擒われた。
泥利可汗 ▲
木杆可汗の孫。阿波可汗の部衆を統べる為に葉護可汗により立てられた。鉄勒諸部を伐って敗死した。
葉護可汗 〜587
ヤブグ可汗。突厥の第六代大可汗。名は処羅侯。沙鉢略可汗の弟。
沙鉢略可汗を嗣いで立ち、国内の統制力を補う為に隋に通誼した。阿波可汗の討平に成功したものの、帰途に流矢によって戦死した。
都藍可汗 〜599
突厥の第七代大可汗。名は雍虞閭。沙鉢略可汗の子。葉護可汗の死によって立てられた。
隋への朝貢を保ち、中国への入冦を煽動する大義公主を殺した後は頻りに公主の降嫁を求めたが、597年に従弟の染干が突利可汗と号して隋に入朝を認められた事から断交し、達頭可汗と結んでしばしば劫掠を行なった。
598年に蜀王楊秀に、翌年に漢王楊諒に伐たれ、突利可汗を大破したものの、達頭可汗を大破した楊素に大敗し、敗走中に部下に殺された。
この後、達頭可汗が大可汗を称して啓民可汗=突利可汗と対立し、突厥は東西に分裂した。
突利可汗 / 啓民可汗 〜597〜609
テリス可汗。東突厥の大可汗。名は染干。葉護可汗の子。
突厥の内訌の維持を図る隋の長孫晟の離間策から従兄の都藍可汗に背いて突利可汗を称し、長孫晟の勧めで隋に内附すると公主を降嫁されて啓民可汗に冊立され、五原地方に安置された。
599年には達頭可汗と結んだ都藍可汗に大破されて南遁したが、間もなく啓民可汗に冊立され、都藍可汗が歿した後は達頭可汗と対立した。
当時、漠北では鉄勒諸部が半ば独立し、都藍可汗を慕う部民も多く、啓民可汗の支配力は隋の庇護を背景として漠南に及ぶに過ぎなかった。
始畢可汗 〜609〜619
東突厥の大可汗。啓民可汗の子。
隋の政情不安に乗じて勢力を増し、小可汗を廃して設(シャド)を増設するなど可汗権力を強化し、615年には隋に侵攻して雁門に煬帝を包囲し、隋への朝貢を停止した。
隋末〜唐初には華北群雄の多くが称臣して、殊に薛挙・劉武周らを支援して草創期の唐を苦しめ、東突厥の最盛期を現出した。
処羅可汗 〜619〜620
東突厥の大可汗。始畢可汗の弟。
620年に煬帝の皇后の蕭氏と煬帝の孫の楊政道を竇建徳の下から迎え、楊政道を隋王として定襄城に朝廷を開かせた。
頡利可汗 〜620〜630〜634
イルリグ可汗。東突厥の大可汗。処羅可汗の弟。
劉黒闥と結んでしばしば中国の北辺に入冦し、汾州・潞州に達する事もあったが、一方で鉄勒諸部は自立の傾向を強め、又たソグド商人や漢人の重用に対して宗族の反撥も高まった。
連年の大雪で飢饉となって626年に関中を侵したものの大破され、このため唐に支援された薛延陀部が鉄勒諸部を率いて独立し、鉄勒と唐に挟撃されてしばしば敗れた。
629年には始畢可汗の子/東面の突利可汗が離背し、630年に唐の李靖に捕われ、東突厥第一可汗国は崩壊し、自身は長安で歿した。
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以後、可汗の王庭は漠南に遷され、突厥は多くの部族・氏族に細分されて各族長が唐の羈縻支配に服した。
639年にオルドスの突厥が蜂起してより、唐は突厥諸部を陰山南麓に移して阿史那思摩を可汗に立て、突厥諸族の統制と北防を担わせたが、阿史那思摩は部民の全面的な支持は得られず、644年に逐われて長安で歿した。
唐の離間策と遠征で646年に漠北の薛延陀が崩壊すると、唐は鉄勒をも羈縻支配下に収めて各部族長を都督・刺史に任じ、中国人を都護とする燕然都護府を設置して鉄勒を統制したが、燕然都護府が五原方面に置かれたことは、唐の直接支配が漠北に及ばなかったことを示している。
一方、華北辺境の突厥諸部に対しては氏族ごとに州を設けて各氏族長を刺史とし、帰化城方面の定襄・雲中両都督府に支配させた。
定襄都督には阿史徳氏族長、雲中都督には舎利氏族長を充て、これも燕然都護府が統制した。
660年に鉄勒諸部が蜂起すると、唐の遠征軍はセレンガ流域にまで達して663年に鎮圧し、同年、鉄勒に対する統制強化のために燕然都護府を瀚海都護府と改称して漠北のオルコン河畔に移し、漠南には雲中都護府を新設して突厥諸部の統制に充てた。
雲中都護府は664年に単于都護府と、瀚海都護府は669年に安北都護府と改名された。
突厥・ウイグルの族長がしばしばトルコ語でトゥトゥクと呼ばれるのはこの名残とされ、瀚海都護府はトルコ語でしばしばトゴ=バリクと呼ばれる。
突厥は定襄都督が阿史那氏を擁して679・680〜681年に挙兵したが、いずれも鎮圧された。
イルティリシュ可汗 〜682〜691
突厥第二帝国の可汗。名は骨咄禄(クトルグ)。
はじめ突厥の東面設だったが、681年に阿史那伏念が独立に失敗した後も陰山に拠って勢力を増し、可汗を称した翌年(692)に通婚氏族の阿史徳氏の暾欲谷の輔佐を得て単于都護府を陥落させ、東突厥の独立を回復した。
これより連年中国に侵寇して勢力を強化したが、唐朝は武則天の監政中で塞外に大軍を動かす余裕がなく、この情勢に乗じて討伐軍を悉く撃退しつつ687年までに漠北の鉄勒を征服し、ウテュケン山を王庭に定めて突厥帝国を再興した。
2人の弟を東西両面の設として国家体制を整えた。
トニュクク 〜724? ▲
暾欲谷。中国名は阿史徳元珍。阿史徳氏は阿史那氏の通婚氏族。
イルティリシュ可汗を輔けて突厥帝国の再興に大きく貢献した。
カパガン可汗の時代には失権したが、ビルゲ可汗の下で宰相とされ、自らも北庭にバシュミルを討つなど、闕特勤と協力して突厥第二帝国を繁栄に導いた。
匈奴の時代の中行説と同じく、中国との友好関係の維持と遊牧文化の堅持を強調し、国内からは極力中国文化の排除につとめた。
チョイレン碑文・バイン=ツォクト碑文がトニュクク碑文として知られ、チョイレン碑文は現状では最古の突厥文字・古代トルコ語銘文とされる。
カパガン可汗 〜691〜716
突厥第二帝国の可汗。名は黙啜(ベクチョル)。イルティリシュ可汗の弟。
693年に霊州に入冦した後は中国に恭順を示し、696年の契丹討伐に協力した事で武則天より大可汗に冊立され、突厥数千戸の返還や、種粟・農具などを得たことで突厥の強盛をもたらした。
次いで唐室との通婚を求め、武氏の男子が送られてより李氏の保護者を称してほぼ連年入冦し、699年に廬陵王が太子に直されると漸く兵を退いたとされるが、中国への入冦は706年まで続いた。
弟を東面設に、甥の黙棘連を西面設とし、両者の上位に自身の子を拓西可汗として配して西突厥の十姓を統制させたが、西方諸部は次第に活発化し、708年に突騎施が叛いて可汗を称した事で再び唐に請和した。
以後は中央アジアの討伐に注力し、突騎施やエニセイ上流域のキルギズ族などを征服したが、圧政で臨んだ事や714年に北庭都護府の攻略に失敗した事もあって諸部の離叛が絶えず、翌年には西突厥の十姓ら1万余帳が唐に亡命した。
九姓鉄勒の向背も定まらず、715年に九姓の思結部を大破したものの甚大な損害を受け、716年にトゥーラ河畔の拔野古を討伐した帰途に残兵の襲撃で敗死し、首は長安に送られた。
カパガン可汗の即位は簒奪同然のもので、即位後はイルティリシュ可汗体制の払拭に努め、そのためトニュクク碑文では“悪賢い可汗”と酷評されている。
ビルゲ可汗 〜716〜734
突厥第二帝国の可汗。毗伽可汗。名は黙棘連。イルティリシュ可汗の子。
カパガン可汗の横死で国内が紛乱すると、弟の闕特勤の協力によって大可汗を奪取した。
岳父でもある暾欲谷を宰相に迎え、その進言で唐に臣事して和親を維持する一方で国内からは中国文化を極力排除し、離叛諸部族を鎮圧・征服して最盛期を現出した。
闕特勤の死後は統制が翳り、734年に大臣の梅録啜に暗殺されたが、翌年、オルコン河畔のホショ=ツァイダムに突厥文字・漢字で記された紀功碑が建立された。
キョル=テギン 685〜731 ▲
闕特勤。ビルゲ可汗の弟。
カパガン可汗の死後、旧民を糾合し、カパガンの子弟らを粛清して兄の黙棘連を大可汗とし、自らは兵馬の大権を掌握した。
暾欲谷と並んで可汗を輔佐して東突厥の復興発展に尽力し、732年にはオルコン河畔のホショ=ツァイダムに紀功碑が建立された。
登利可汗 〜734〜741
ビルゲ可汗の子。暾欲谷の外孫。兄の伊然可汗が急死した為に立てられてビルゲ=クトルグ可汗を称したが、生母が国政を総覧し続けた為に民衆の服従を得られず、左右の設の従叔父2人に実権があった。
唐から登利可汗に冊立された翌年、右設を殺してその部衆を奪ったが、猜懼した左設の判闕特勤に殺された。
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判闕特勤は自立してクトルグ=ヤブグ可汗(骨咄葉護可汗)を称したが、翌年にはバシュミル部長阿史那施を擁したウイグル・カルルクの三者連合に敗死し、継嗣となった子のウズミシュ可汗も又た744年に三者に敗死して首は長安へ送られた。
その後もウズミシュ可汗の弟の白眉可汗が立てられたが、従う部衆も僅かで、745年に朔方節度使王忠嗣に大敗して程なくに殺された。
菩薩 〜629
ウイグル部族長。父の死後、衆に推されてirkin(俟斤=部族長)となり、薛延陀部長の夷男に従って突厥の頡利可汗から離叛し、トゥーラ河畔に南下すると自らilteber(頡利発=国主)を称した。
懐仁可汗 〜744〜747
ウイグル帝国の開祖。名は骨力裴羅(クトルグ=ボイラ)。
突厥の内紛に乗じて九姓鉄勒を勢力下に収め、バシュミル・カルルクと連合して突厥の骨咄葉護可汗・ウズミシュ可汗を襲殺し、程なく自ら可汗に立てたバシュミル部長の阿史那施をもカルルクと連合して滅ぼし、オルコン・バリクリグ両河の合流点一帯を王庭として骨咄禄毗伽闕(クトルグ=ビルゲ=キョル)可汗を称した。
746年に突厥の白眉可汗を殺して興安嶺〜アルタイを支配し、唐から懐仁可汗に冊立された。
葛勒可汗 〜747〜759
ウイグル帝国の第二代可汗。名は磨延啜(マエンチョル)。懐仁可汗の子。
エニセイ上流域のキルギズ族や、アルタイ・天山方面のカルルク・バシュミルを伐って漠北諸部族に対する支配を強化した。
唐の安史の乱では皇子の葉護を派遣して鎮圧に大功があったが、洛陽・長安を奪回したウイグル兵は3日間に亘って両都を略奪し、大量の絹類を下賜されてようやく北帰した。
唐は葉護を忠義王に封じたが、可汗は功を恃んで公主の降嫁や法外な絹馬交易を強要し、758年に英武威遠可汗に冊立されると共に粛宗の第二皇女/寧国公主を降嫁された。
シネ=ウスに、突厥文字・古代トルコ語で記された紀功碑を建立し、その中に757年にセレンゲ河畔にバイ=バリクを建設した事が記されている。
バイ=バリクは富貴城の意で、商人・農民の居住用に建設されたもので、当時の王庭はオルコン河畔に営まれていた。
牟羽可汗 〜759〜779
ウイグル帝国の第三代可汗。名は侈地健。葛勒可汗の子。登里(テングリ)可汗とも。
762年に唐の史朝義に呼応してオルドスに侵入したが、岳父の僕固懐恩の説得で唐室に協力し、史朝義を討って英義建功可汗に冊立され、可敦(僕固懐恩の娘)も光親麗華可敦とされた。
764年以降は僕固懐恩に応じて吐蕃と共にしばしば中国に侵寇し、後に郭子儀と和して吐蕃を破ったが、中国でのウイグル人の横恣は社会問題となった。
国富の増大は支配層の中国文化への傾倒を促し、オルコン河畔に国都オルド=バリクが造営され、唐制の官名が採用されるほどだった。
又た763年の北帰の際にはマニ教が国教とされたが、ソグド人の影響力が拡大の一途を辿り、代宗の喪に乗じた中国侵攻が聴許されるに至り、反ソグド派の頓莫賀達干=天親可汗による弑簒を結果した。
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ウイグルにおけるソグド人勢力の強さは、商業を含めた経済・行政実務と文化の多くをソグド人が担ったことによるもので、これは匈奴以降の遊牧社会に共通する。
初期突厥でのソグド文字の採用と、ソグド文字から突厥文字・モンゴル文字が派生したことや、マニ教の導入などもその一例で、オルド=バリクなどウイグルの都城プラン・煉瓦などは、唐様式より寧ろソグディアナ・セミレチエのソグド人様式に類似するといわれる。
当時のウイグル社会の中国文化・ソグド文化への傾斜は、可汗と牧民の隔絶と奢侈の風をもたらして遊牧社会の質朴さを失わせ、可汗の暗殺は国粋派に対する定住文化派の敗北を象徴する事件でもあった。
天親可汗 〜779〜789
ウイグル帝国の第四代可汗。牟羽可汗の従兄弟。頓莫賀達干(トン=バガ=タルカン=宰相)の時、ソグド勢力の傀儡と化した牟羽可汗とその派2千人余を粛清して合骨咄禄毗伽可汗(アルプ=クトルグ=ビルゲ可汗)を称し、唐に臣従して武義成功可汗に冊立された。
唐に対しては概ね和親を保ち、晩年には咸安公主を降嫁されて長寿天親可汗に冊立された。
可汗の簒奪を機に唐は国内のソグド人を放逐し、又たウイグルは漢字表記を“廻鶻”とするようになった。
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長子の多邏斯(タラス)が可汗に立てられて唐より忠貞可汗に冊立されたが、翌年には可敦に殺され、幼嗣の阿啜(アチュル)が立てられると唐より奉誠可汗とされたものの、無嗣のまま歿した為に宰相の骨咄禄が可汗に立てられた。
懐信可汗 〜795〜808
ウイグル帝国の第七代可汗。名は骨咄禄(クトルグ)。後のウイグル族伝説の卜古罕(ブク=カン)。
九姓鉄勒の阿跌部(エディズ部)の孤児で、天親可汗の頃より軍功を重ねて奉誠可汗の養子とされ、その死と共に可汗位を継ぎ、同年に唐からも冊立された。
ブク=カン伝説や“九姓ウイグル可汗碑”によると、懐信可汗の時代にウイグルは著しく発展し、特に西方ではシル=ダリア流域までを征服してインド・ペルシアからも来貢があり、又たマニ教が再び公認されている。
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遊牧社会では血統は聖別基準の最たるもので、支配氏族が変わることは混乱期には稀にあっても、他部族から後継者を迎えることはなく、九姓ウイグルですらなかったエディズ部から新可汗を迎えたことは、後のオイラート=モンゴルのエセン汗が大元大可汗を称したことと並ぶ特異事とされる。
事実、懐信可汗以降の可汗も公けにはヤグラカル氏を称し、モンゴル時代の西ウイグルまでその王統は続いた。
尚お、『新唐書』では懐信可汗と次の保義可汗の間に滕里野合倶録毗伽可汗(在:805〜808)が存在しているが、唐への入朝後も冊封されていないなど実在性が疑問視され、懐信可汗もしくは保義可汗の別号とも考えられる。
保義可汗 〜808〜821
ウイグル帝国の第八代可汗。
808年に唐に入朝して保義可汗に冊立された。
マニ教に篤く帰依するなど再びソグド人勢力が抬頭し、可汗の紀功碑であるオルコン西岸のカラ=バルガスン碑文は突厥文字による古代トルコ語の他に、漢文・ソグド文字でソグド語が記されている。
唐に対しては時に武力を用いて公主の降嫁を求め、唐は吐蕃対策の必要もあって降嫁を決定したが、可汗の急死で次の可汗を崇徳可汗に冊立して太和公主を降嫁した。
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ウイグル帝国は保義可汗の後、安定した絹馬貿易の利もあって定住文化に傾斜して急速に弱体化し、崇徳可汗を嗣いだ昭礼可汗が暗殺された後は内訌が絶えず、840年に劣勢の一派に呼応したキルギズ族の介入でオルド=バリクが破壊され、帝国は崩壊した。
846年には吐蕃帝国も分解し、唐王朝も安史の乱の後は国内問題に忙殺されて内訌的となり、支配的勢力が不在となった北アジア世界では諸部族の活動が活発化した。
ウイグル族は陰山以南西〜天山・アルタイ方面にかけて広く散在し、ウイグル帝国を崩壊させたキルギズ族は、バイカル湖東北辺から南下したタタール族によってアルタイ北麓に押し返され、陰山以東にはタタール系の諸部族が割拠した。
又た大興安嶺東麓、嫩江流域には黄頭室韋に代表される室韋が、室韋の南方、シラ=ムレン流域には契丹が、ラオハ=ムレン流域には奚が遊牧して唐の北辺に接し、大興安嶺西南麓には黒車子室韋が、その南方の大同盆地には西突厥系の沙陀部が、オルドスにはチベット系の党項が遊牧していた。