朔漠

 内陸アジア東部、興安嶺アルタイ山脈に囲まれた高原地帯を指し、北はシベリアに連なり、南は陰山山脈万里の長城によって中国と隔てられる。 草原に沙漠が点在する乾燥気候で、中央のゴビ沙漠によって南北に大別され、一般に南部は内モンゴル、北部は外モンゴルと呼ばれ、大興安嶺東麓を併せて北アジア文化圏を形成する。 北アジアは伝統的に馬・羊のほか牛・山羊・駱駝などを飼育する遊牧的牧畜経済を主力とし、西方アジアで騎馬文化が発生して以来、自然条件の類似性などからウクライナ平原に連なる遊牧騎馬文化=ステップ文化圏の一翼を担った。
 B3世紀末頃に初めて匈奴が統合に成功してより、トルコ・モンゴル系と目される諸種が興亡し、殊に統一勢力となった際には中国の極めて重大な脅威となり、鮮卑契丹モンゴルなどは征服国家として中国に君臨した。 “モンゴル”の称は13世紀にチンギス汗が創建したモンゴル帝国に由来し、それまで中国では一般的に長城以北を塞外・漠・朔漠、内モンゴルを漠南、外モンゴルを漠北と呼んでいた。
 独自の文字が用いられるようになったのはチンギス汗がタタ=トンガを得てからの事で、当時はウイグル文字でモンゴル語を表していた。 同世紀後半、クビライ汗がラマ僧パスパに国字を製作させたが、一般にはウイグル文字が改良されながら使用され、20世紀に入ると外モンゴルからロシア文字が用いられるようになった。

 遊牧社会では伝統的に血統が尊重され、その伝統はチンギス汗による封建世襲制の導入によって強化されたが、15世紀中葉にオイラートが元朝系のタタールの王公貴族の血統をほぼ粛清した為、現代ではそれ以前に遡辿できる血統は極めて稀となっている。 外勢力によるモンゴルの直接支配は女真族によって行なわれ、17世紀に漠南のタタール宗家のチャハール部が支配され、その後もハルハ部の内紛やジュンガル部との抗争などを経て18世紀中葉には全モンゴルが清朝の支配下に置かれたが、同盟者として高度な自治が認められた。
 17世紀にはモンゴルでも地域集団が社会的・経済的単位として機能しはじめていたことから、女真に服したモンゴルにも旗制が導入されて各部族長や貴族が世襲的旗長に分封され、旗制は清朝によるモンゴル支配の根幹として1691年には外モンゴルのハルハ部にまで及んだ。 また旗の上位単位として“盟”が組織され、清代内モンゴルは6盟49旗、外モンゴルは4盟86旗に編成された。 清朝はモンゴル文化保護の為に漢族の入植を厳しく制限したが、清朝の統制の弛緩と商人などの進出によって次第に漢文化が浸透する一方、外モンゴル北部はシベリアからの南下を図るロシアによって植民地支配の対象とされた。
 辛亥革命後、外モンゴルには1924年に人民共和国、内モンゴルでも1947年に自治人民政府が成立し、旗地改革とともに王公貴族やラマ廟の封建的特権が剥奪されたが、ともに唯物主義的政治体制の指導下にあったために、伝統文化の多くが否定・破毀された。
 

匈奴  鮮卑  柔然   突厥  鉄勒  ウイグル
契丹  タタール  モンゴル   北元  オイラート

 
 
 初めて北アジア遊牧社会を統合した種族。B4世紀末頃よりしばしば中国北辺を劫掠し、B209年に秦末漢初の動乱に乗じて河套地方を奪回してより東の東胡を滅ぼし、西の月氏を河西に逐い、北の丁零鬲昆を服属させて朔漠を統一し、B200年には白登山で漢の劉邦を屈服させて東アジアの覇者となった。 次いで河西をも征服し、タリム諸国やイリの烏孫、西トルキスタンの康居をも支配して最盛期を迎えたが、B129年より始まる漢武帝の大攻勢によって疲弊し、B58年には内訌から東西に分裂して東の呼韓邪単于が中国に臣属した。
 B36年に西の郅支単于が滅ぼされた後、西漢末の混乱に乗じて再び朔漠を支配し、東漢初期の中国を大いに圧迫したものの、天災と内紛によって南奔派が生じ、漢に与して本国と対峙した。

 匈奴国家は“単于”を最高君長とする部族連合体で、他の遊牧・狩猟民族と同様に上天・シャーマニズムを信奉し、夏・冬の営地を移動する5月・9月と、中国の影響を受けてからは正月を加えた年3回、龍城に集会して祭祀と国事決定を行なった。 単于位は屠各種に属する攣鞮氏の男子に独占され、戚族として呼衍・須卜・蘭・丘林氏があり、後に漢の帝室劉氏も加えられた。 単于の選出・決定も龍城での会議でなされたが、相続に明確な規定はなく、年齢・能力のほかに母后の貴賎が重視され、前単于の遺志は殆ど無効だった。
 王族男子は左右の屠耆王(賢王)・谷蠡王・大将・大都尉などとして左右両翼に分封され、左屠耆王には多く太子が任じられた。 又た左右の王将は“万騎”とも呼ばれ、その下には“小王”“千長”“百長”“什長”が小領主として属し、王族内部に家系対立が発生するようになると、戚族から骨都侯が派遣されて各封領を監視した。
 異姓王としては楼煩王・白羊王・休屠王・丁零王・呼掲王など部族名を冠した諸王があり、概ねは匈奴に服属した各部族長が従来の支配構造の維持を許されたものだったが、丁零王・東胡王には漢からの降将の衛律盧綰が任じられ、李陵も右校王に封じられていた。

 北匈奴の主力は南匈奴・中国との対立と天災、物資の欠乏などから次第に劣勢となって西遷したが、朔漠に残留した匈奴の多くは進出してきた鮮卑に服属し、一部は遼東に遷って自ら鮮卑兵を称するようになった。 南匈奴は中国への隷属を経て4世紀初頭に中国内部に自立して十六国時代嚆矢を為し、朔漠の匈奴も鮮卑の南下が本格化した4世紀末にはオルコン河畔で回復しつつあったが、新興の柔然に征服された。
 匈奴の人種類型はまだ不明ながらもスキタイ人に類したユーロポイドと考えられ、言語はアルタイ語族のトルコ=モンゴル語群に属していたとされる。 戦国漢初の匈奴は青銅器文化時代にあったが、漢末頃から鉄器時代に移行し、代表的文化の綏遠文化・ノイン=ウラ文化は青銅器時代のもので、スキタイ系文化を母体にシベリア系文化・漢文化・イラン系文化の影響が示されている。
 

頭曼単于  〜B209
 初めて史書に記された匈奴の単于。 B215年に秦の蒙恬オルドス地方を奪われたが、始皇帝死後の混乱に乗じて奪回した。 末子への継承を謀ったために太子と伝えられる冒頓に殺されたが、冒頓が実際に中国などでの太子と同じ立場にあったかは不明。 頭曼の称はトルコ=モンゴル語のtumen(一万・万長)に由来する。

冒頓単于  〜B209〜B174
 頭曼単于の子。伝統的にボクトツと呼ばれる。 月氏に質子に出された後に頭曼単于による月氏襲撃があり、逃帰して暫く後に父を殺して即位した。 当時の匈奴は東に東胡、北に丁零、西に月氏を控えていたが、冒頓はまず東胡を急襲して服属させ、月氏を河西に駆逐し、丁零・鬲昆も服属させて北アジア全域を支配した。 この頃よりシベリアのスキタイ系青銅製品を大量に移入し、オルドス・綏遠でその倣製品を作成させた。
 しばしば中国に入寇し、B200年には北上した劉邦を大同付近の白登山に包囲したが、兄国待遇・漢室との通婚・歳幣の貢納でB198年に講和し、漢に対する優位を確立した。 漢からの定期的な貢納と韓王信盧綰ら有力将領の来降もあって勢力を増し、以後は西方経略に転じてB177年に月氏をイリ地方に逐い、アルタイや西域諸国をも支配した。

老上単于  〜B174〜B161
 冒頓単于の子。漢の公主を閼氏に迎え、その従者の中行説を信任して勢力を増し、イリ地方に退いた大月氏を大破し、しばしば中国にも侵攻した。老上単于の時代は、匈奴の勢力が最も充実して発現した時代にあたる。

中行説  ▲
 燕の人。漢文帝の宦官だったが、老上単于に降嫁される公主の従者として入漠すると単于に心服し、書記算術や北辺の地勢を教示し、胡風の維持と漢化の抑制を奨めて漢に対する匈奴の優位を強化した。 その役割はしばしば突厥の暾欲谷と比較される。

軍臣単于  〜B161〜B127
 老上単于の子。即位後は漢との和約を破って連年中国に冦し、呉楚の乱では劉遂と密通したが、その後に公主が送られて交易が安定すると控えるようになった。 B133年に漢が馬邑を佯降させて単于の襲撃を図った事が露見して再び入寇するようになったが、B129年より開始された漢武帝の挙国的な外征に次第に劣勢となり、B127年には衛青にオルドスを奪われた。

伊稚斜単于  〜B127〜B114
 軍臣単于の弟。 オルドスの奪回を図ってしばしば漢に入冦したが、B124・B123年に衛青に大敗し、B121年には霍去病に大破された休屠王が渾邪王と与に漢に投じ河西地方を喪失し、軍事的・経済的に大きく後退した。 B119年にも衛青・霍去病に大敗して漠南を放棄した。
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 漢はB115年に河西郡を設置してより同地方の確保を積極的に進め、、河西はほぼ中国の内地化された。 河西喪失の代償を西域諸国からの貢納に求めた匈奴は、張騫の外交と大宛遠征に対抗してB96年に日逐王を新設し、しばしば漢の北伐を撃退してB90年には李広利を擒える成果もあったが、中国との断交による経済状況の悪化や幼君の選出で単于の求心力が低下し、B60年には日逐王が漢に投降し、翌年の西域都護の設置で天山南北道の支配権も失った。

衛律
 長水の胡人。漢武帝に仕えたが、友人の李延年に連坐して匈奴に奔り、単于に重用されて丁霊王とされた。 B100年に囚われた蘇武に帰順を勧めた際には変節を強く詰られ、又たB90年に匈奴に来降した李広利が狐鹿姑単于に重用されると、枉陥して処刑させた。
 狐鹿姑単于の死後、顓渠閼氏と図って壺衍鞮単于を立て、後に和親の利を説いて蘇武の帰国を認めさせたが、壺衍鞮単于は朝貢より掠奪の利を重んじたという。

壺衍鞮単于  〜B85〜B68
 狐鹿姑単于の子。父の死後、輿望のあった叔父の右谷蠡王を措いて立てられた為に威望に欠け、漢に対して掠奪で臨んだために国力の没落も著しく、B80年に河西に侵攻した際には張掖太守と属国都尉に大破された。 B79年には烏桓にも叛かれ、天災による国力の激減もあって西方に活路を求めて烏孫を攻略したが、B72年に烏孫と漢の挟撃に大破され、丁零をはじめ服属諸族の離叛が続発した。
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 嗣子の虚閭権渠単于の死後には傍流の握衍朐鞮単于(在:B60〜B58)が僭称同様に立てられた為に国内は分裂し、握衍朐鞮単于が敗死すると5単于が並立し、虚閭権渠単于の2子/郅支単于と呼韓邪単于の争いに収斂された。

郅支単于  〜B56〜B36
 虚閭権渠単于(在:B68〜B60)の子。 握衍朐鞮単于を敗死させた異母弟の呼韓邪単于の統制が脆弱な事に乗じて自立し、B54年に呼韓邪を単于庭より逐って部民の多くからも認められた。 漢への朝貢や烏孫攻略はいずれも失敗し、漢の援助を得た呼韓邪や周辺諸部族の攻勢でB43年頃には単于庭を逐われて鬲昆の地へ遷り、次いで康居を伐ってしばらくタラス上流域を占有した後、漢の甘延寿・陳湯に伐たれて敗死した。

呼韓邪単于  〜B58〜B31 ▲
 父の虚閭権渠単于(在:B68〜B60)の死後に握衍拘鞮単于が立てられたことを不満として西奔し、舅父の烏禅幕や左翼の姑夕王らに擁立されて握衍拘鞮を大破して自殺させたが、各地に僭称者を割拠させた。 B56年には匈奴の再統合に成功したものの、間もなく郅支単于との抗争に敗れてオルドスに逃れ、B53年に漢に称藩して乞援し、B51年に入朝を認められて諸侯王の上位に置かれた。 郅支単于を西奔させてオルコン河畔の単于庭に帰還した後は残部を統合して漢との和を保ち、B33年に王昭君を降嫁された。
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 以後も匈奴は漢に対して和親を保ったが、漢を簒奪した王莽が匈奴の爵位を貶降した為に烏珠留若鞮単于(呼韓邪単于の子/在:B8〜13)の時に中国に叛き、A10年には北伐軍を撃滅して匈奴の復権を示威し、烏桓・鮮卑・西域諸国を服属させて往時の勢威を回復させた。 以後、匈奴は王莽政権の崩壊もあって中国に対して優位に立ち、呼都而尸道皐単于は彭寵盧芳ら華北の群雄を支援しつつ頻りに入冦して光武帝に北辺を放棄させたが、兄弟相続を反故として嗣子継承を図ったことで甥の日逐王に離叛され、匈奴は南北に分裂した。


 

北匈奴


 47年に日逐王が光武帝に帰属した後の漠北の匈奴本国の称。 中国との交易が認められた日逐王には帰順者が絶えず、北匈奴は連年の天災で弱体化して烏桓・鮮卑なども離叛し、63年に漢との交易が認められたものの、南匈奴の妨害と度遼営の設置で漢との対立を強めていった。 北匈奴はタリム諸国の支配の強化と中国北辺の劫略で勢力の維持を図ったが、竇固の北伐伊吾を失い、班超の西域経略の進展と連年の災異によって南奔者が絶えずに弱体化し、85年には南匈奴・丁零・鮮卑の攻勢に大敗した。
 87年に北単于が丁零に敗死すると58部20万が漢に詣降し、89年には車騎将軍竇憲の北伐に大敗し、翌年にも南匈奴に大破され、91年に耿夔に大破されるとバルクル湖に退き、93年に任尚らに敗れた後はイリ流域に遷った。 以後もしばらくは西域諸国の支配権を東漢と争ったが、156年の河西劫略を最後に中国の史書に現れなくなった。
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 4世紀に東欧を席捲したフン族が匈奴の末裔であることは、文献学上・考古学上からほぼ肯定されている。 “匈奴”の中国音は現在では“Xiong-nu”だが、古代中国音では“xbron-no”“Hu-na”で、ヨーロッパ史料の“phryni”は原音にやや近く、“phuni”,“hun”は略形とされる。 尚お、4世紀中頃の洛陽のソグド人は、匈奴を“xwn”と音写している。


 

南匈奴


 47年に日逐王に率いられて漢に内附した匈奴を核とし、凋落する北匈奴からの新降者を加えて1世紀末には34千戸・24万人余を擁した。 オルドスを牙庭とし、中国北辺に分居して北防を担ったが、新降者の動静は安定せず、94年には継嗣抗争に加わって15部20万人が離脱した。 中国からの掠奪が不可能となったことや貧富の拡大、鮮卑の抬頭などで単于の求心力は次第に低落し、140年には句龍部の吾斯が左部を以て離叛し、東漢末の張挙・張純の乱では右部が親漢的な単于を否定して独自に単于を立てて分離した。
 中国内地に残った単于派は独立性を失い、三国時代には魏によって五部に分割統治され、各部は匈奴人都尉と漢人司馬に共治された。 匈奴の分割支配は晋でさらに進められたが、八王の乱で統合が進んで前趙北涼の領域国家を樹立し、北魏の華北統一後も宇文部独孤部などは貴種として認識されたものの多くは漢人に融合同化した。

 
 
 

東胡

 古代、興安嶺南麓に拠っていた狩猟遊牧民。戦国燕の長城は東胡を防ぐ為に築かれた。 しばしば匈奴を圧したが、冒頓単于の急襲で崩壊し、烏桓鮮卑に分裂して匈奴に服属した。 烏桓と鮮卑は異なる種族とする説が有力で、東胡は一種の部族連合体か、当時の北アジア東部の狩猟遊牧民族に対する総称だったと思われる。
 

烏桓

 烏丸とも。匈奴に滅ぼされた東胡のうち、西遼河支流のラオハ=ムレン流域に拠っていた種族。 小集団に分れて匈奴に服属し、匈奴や漢に牛馬獣皮を貢納・交易したが、住地が中国に接していたために鮮卑に比して漢化が進み、1世紀に匈奴が南北に分裂すると遼西では漢に通じて北防を担う集団が出るようになり、班彪の建議で上谷ィ城(河北省万全)に護烏桓校尉が復置された。
 その動向は個部毎に去就を異にして叛服常ならず、109年に雁門烏桓の率衆王は南匈奴に呼応して車騎将軍何煕らに敗れ、匈奴の句龍部の叛抗や鮮卑の檀石槐の入冦にも応じる者が多かったが、それらは概ね北辺の諸将に撃退された。 『後漢書』には「性悍塞にして父兄を殺すこと少なからざるも、讎報の母に及ぶこと無し」とあり、基本的な習俗は匈奴・鮮卑と類似した。 大人(族長)には勇健・公正な者が選ばれたが、次第に血統原理が用いられ、氏族を中心とした部族制への統合も始まった。
 漢末には上谷の大人難楼は9千余落、遼西の丘力居は5千余落を領し、1千余落を領した遼東の蘇僕延は峭王を、8百余落の右北平の烏延は汗魯王を称し、張純・張挙の乱には丘力居・蘇僕延が呼応して青・徐・幽・冀を寇掠した。 遼西烏桓は丘力居が中国から避難した漢人10余万人を収容して最も強勢となり、種族統合の機運も生じていたが、蹋頓が袁氏の再興を支援したことで207年に曹操に伐たれて壊散し、残余の多くは鮮卑系君長の隷下に入って種族としての集団性を失った。
 

鮮卑

 東胡の構成種族で、東胡の崩壊後はシラ=ムレン(西遼河)流域に拠っておおむね匈奴に服属し、しばしば中国に入寇した。 1世紀に匈奴が分裂すると漢の招撫に応じる者も現れて護烏桓校尉に統制されたが、烏桓に比して不羈性が強く、1世紀末の匈奴の西遷に乗じて漠南に進出し、匈奴の余衆10余万落を悉く併せて強盛となると頻りに中国の北辺を寇掠するようになり、118年には上谷に軍屯が開かれ、度遼営の屯兵も増員された。
 鮮卑の原音は“serbe(帯鉤)”とされ、遊牧世界に普及していたスキタイ系獣型帯鉤に由来するという。 習俗は烏桓と同じく牧畜狩猟が主だったが、漢人亡命者の増加によって農耕への依存度が増し、これが後の征服王朝樹立の遠因になった。
 2世紀中頃に檀石槐によって統合され、檀石槐の死で統合は崩れたものの、世襲制と、有力氏族を中核とした部族制への移行が始まり、3世紀に軻比能が暗殺されてからは部族の自立化が顕著となり、大凌河下流域の慕容部、シラ=ムレン流域の段部、大凌河南西域の宇文部、オルドスの拓跋部などが抬頭した。 これらは亡命漢人から漢文化を吸収し、農耕民の獲得で経済力を安定させるとともに君主権と支配体制を整備し、4世紀初頭の八王の乱に始まる中国の混乱を通じて多くの領域国家を華北に乱立させた。 中でも慕容氏・拓跋氏は十六国時代を通じて重要な要素を担い、チベット北部に勢力を張った吐谷渾の王族の慕容氏、タングートの族長の拓跋氏も鮮卑に連なるとされる。

檀石槐
 鮮卑の大人。「弱冠にして勇健、智略あり」と評され、2世紀半ばに大人に推されると諸部族に帰服され、弾汗山麓(陰山東麓?)に拠って漠南鮮卑を統合した。 丁零の南下を退け、奥満洲の扶餘を圧し、イリの烏孫を伐って匈奴の盛時を再現したと称され、右北平〜遼東の20余邑を左翼に、右北平〜上谷の10余邑を中央、上谷〜敦煌の20余邑を右翼とし、それぞれを数名の大帥に統率させて支配したが、大帥の下の各邑は旧来の大人を小帥とし、匈奴と同じく部族連合体の域を脱しなかった。 中国の伝統的な招撫策を拒んで156年からは頻りに入冦して「息災の歳無し」と歎かれ、177年には北伐軍を大破して「十に七,八を喪」わせた。
 光和年間(178〜184)に歿したが、嗣子の和連は人望に欠け、そのため檀石槐の後裔は左翼を統べることすら困難で、内紛から諸部に分裂して部族集団への再編が進行した。
この当時の鮮卑の強盛は、東漢の禁網の弛緩に起因する漢人の流出と鉄器の密輸によるものだと蔡邕が指摘し、亡命漢人の中には幕僚とされる者もいました。 又た晩年の檀石槐は急増する帰服者の糧食を補う為、東の倭人国から千余家を水滸に徙して漁労に従事させていますが、この倭人は沿海地方の住人で、漢末の倭が日本だけを指していなかった事をも示しています。

 
 
 蝚蠕・蠕蠕・芮芮・茹茹とも。郁久閭氏を王族とし、木骨閭を始祖とする。 久閭・骨閭は、アルタイ語族で狼の隠語とされる“虫”にあたり、狼をトーテムとしていたと推定されている。 郁久閭氏は3世紀には鮮卑拓跋部高車に隷属していたが、拓跋部と高車の抗争の中で次第に抬頭し、399年に高車が北魏に大破された事を機に勢力を拡大させて402年に初めて可汗号を用い、高車を圧して北魏と抗争した。 その国家体制は匈奴・鮮卑と同じく部族連合国家で、三分国制を基幹とした。天山オアシスからの収奪、青海の吐谷渾や、これを介しての南朝諸国との通交で経済力を保ったが、429年に北魏に大敗した後は高車ら服属諸部の離叛に苦しんだ。
 485〜486年には西遷した高車が独立してタリム諸国を支配し、6世紀初頃に高車を再び隷属させたものの、その中からアルタイの阿史那氏が抬頭して突厥を興し、552年に突厥に可汗が敗死して柔然国家は分裂した。 乱立した小君主は以後もしばらくは突厥に対抗したが、突厥や北斉・契丹に伐たれて僅かな部衆と共に西魏に亡命した後、555年に突厥の要求で鏖殺された。
 モンゴリアに残留した勢力の多くは突厥に吸収され、部族としての柔然は消滅した。 6世紀半ばに東欧に侵攻したアヴァール族は柔然の一派、或いは近親種族とされ、『隋書』にある開皇5年(585)に突厥の沙鉢略可汗を襲って隋の援軍に敗れた阿抜を、柔然の東アジアでの活動の最後とする向きもある。
 従来、可汗号の嚆矢は柔然によるとされてきましたが、北魏では建国当初に“可寒”号を用いていた記録が発見されています。 又た慕容部から分派したと伝えられる吐谷渾でも可汗号が用いられている事から、どうやら、鮮卑内で使用されていた可汗号が、十六国で濫用された単于号に替って昇格し、柔然にも伝わって君主号として定着したもののようです。
 

社崙  〜402〜410
 丘豆伐可汗。柔然の初代可汗。雲中・五原西方にあって後秦と結んで高車・北魏と抗争したが、北魏の遠征を受けて漠北に遷り、402年にセレンガ流域高車族を征服するとハルハ流域を王庭として可汗を称し、柔然勃興の基礎を築いた。 さらにオルコン流域の匈奴を併合し、近隣諸族を征服して全モンゴリアのみならず満洲・タリム諸国をも支配した。
 しばしば中国北辺を侵寇したが、410年に北魏明元帝の北伐を受けて敗走中に歿した。

斛律  〜410〜414〜416
 藹苦蓋可汗。社崙の弟。 北燕との通婚で北魏を牽制したが、甥の歩鹿真との抗争に敗れて414年に北燕に出奔し、帰国の途上で殺された。

大檀  〜414〜429
 牟汗紇升蓋/ミュクゲセク可汗。社崙の従弟。 柔然西面の大人だったものが、藹苦蓋可汗を殺した歩鹿真から可汗位を簒奪したもの。 即位直後に中国を侵して明元帝に親伐された後は雌伏し、国内の統制強化や河西・西域への進出を進め、424年に明元帝の死に乗じて再び南下して盛楽を占拠し、遠征に出た太武帝を包囲撃退した。 これよりしばしば北魏に伐たれ、428・429年には太武帝の親征で牙庭のフルン=バイル地方を蹂躙され、敗走中に歿した。
 この大敗によって柔然の統制力は著しく衰え、セレンゲ流域の高車が北魏と結んで抬頭した。

呉提  〜429〜444
 勅連可汗。大壇の子。北魏との通婚によって頽勢の回復を図ったものの河西・西域の支配を巡って対立し、438年に太武帝に親伐されてオルコン流域に退き、翌年にも北涼の乞援に応じて北魏を侵して敗退した。 以後も南朝宋への朝貢や伊吾・高昌の内訌に介入するなど西域への影響力の保持を図り、443・444年には再び太武帝の親伐に遭って敗れ、敗走先で歿した。 因みに、この444年の遠征の軍中で、太武帝の弟の拓跋丕を擬主とした謀叛が発覚しています。

豆崙  〜485〜492
 伏古敦可汗。呉提の曾孫。 呉提の後、柔然はしばしば魏帝の親伐を受け、高車の叛抗に苦しみつつも漠朔の盟主としての立場を保ったが、481年に高車に高昌を抑えられて西域諸国に対する影響力を失っていた。
 487年に北魏の北伐に乗じた高車にも敗れて東遷し、そのため諸部の離叛が相次ぎ、492年に高車討伐の失敗と北魏孝文帝の北伐に遭って国人に殺され、叔父の那蓋が立てられた。

醜奴  〜508〜520
 豆羅伏跋豆伐可汗。豆崙の後に立てられた那蓋の孫。高車に敗死した他汗可汗伏図の子。 かねて西域の支配を争っていた高車を516年に大破して漠朔に勢威を回復し、南朝への朝貢を保ちつつ北魏とも修好を図った。 可敦と太后との反目から内訌を生じたところを高車に伐たれて敗れ、太后に殺された。

阿那瓖  〜520〜552
 勅連頭丘豆伐可汗。勅連はテングリ=天、頭はクト=霊威のこと。醜奴の弟。 即位の直後に族兄の示発に敗れて北魏に投じ、孝明帝より朔方郡公・蠕蠕王に冊立されて漠南に置かれた。 本国では従弟の婆羅門が示発を討滅して可汗に立てられ、高車に敗れた婆羅門が涼州で北魏に帰順した後も漠北には還れず、523年には飢饉に逼られて塞内に入冦し、そのため李崇に伐たれた。
 525年に北魏の要請で六鎮の乱の討伐に加わって破六韓抜陵を大破し、北魏の承認で可汗号を用い、北魏の分裂後は両魏を圧して通婚を強いるなど優位に立っていたが、アルタイ方面に抬頭した突厥に敗死した。
  ▼
 阿那瓖の太子の菴羅辰と阿那瓖の従弟の登注、登注の子の庫提が北斉に亡命した為、国人は庫提の弟の鉄伐や阿那瓖の叔父のケ叔子を可汗に立てて突厥に抵抗したが、翌年には鉄伐も契丹に敗死し、登注が迎立された。 登注が内訌で殺されると庫提が立てられたものの、程なく突厥に敗れて再び北斉に亡命し、代って菴羅辰が北斉によって立てられたが、菴羅辰は北斉の辺寇となって文宣帝に親伐され、殆どの部衆を失って西魏に亡命した。ケ叔子も同じ頃(554)に突厥に敗れて西銀に亡命したが、555年に突厥の要請でともに鏖殺された。

 

 

丁零


 B3世紀頃、バイカル湖南辺一帯に遊牧していたトルコ系遊牧民。先秦時代の狄歴の後裔とも。 冒頓単于以来匈奴に服属していたが、B1世紀前期の匈奴の弱体化と共にしばしば敵対し、1世紀中頃の匈奴の南北分裂と北匈奴の西奔後は漠北を占有して漠南の鮮卑と争った。 一部の大人は231年に鮮卑の軻比能に随って魏に朝貢し、鮮卑拓跋部の南下に伴って華北に遷移した集団もあり、河南に独立政権を樹立したものもあったが、大勢は漠北にあって拓跋部と抗争し、4世紀には高車、或いは敕勒と呼ばれた。
 丁零の原名は高車との関連から“車”を指す古アルタイ語のTerege・Telegen と関連するTerek ・Telek に由来するとも、突厥同様にTürk ・Türklär に由来するとも称される。 又た『三國志』魏書東夷伝に引かれる『魏略』西戎伝では、バイカル湖南と康居の北の二大集団に言及があり、類似する別種とされているが、後の鉄勒の分布などから、ともに丁零の直系である事が確実視されている。

 

高車


 4世紀〜6世紀、高原西部〜ジュンガリアに拠っていたトルコ系遊牧民。史書には「高車はもと狄歴を称す。北方では敕勒と呼び、中国では高車丁零と呼ぶ」とあり、丁零の後裔で、高輪の馬車を使用していたことが名称の由来となった。 鮮卑との抗争を通じて次第に斛律氏を中心とする部族連合体に成長し、4世紀後期には拓跋鮮卑の南下に乗じて漠南に進出した事でしばしば北魏に伐たれ、殊に399年に道武帝に徹底的に大破された事が柔然の抬頭を招来した。
 勃興した柔然に大破された後はセレンガ流域に拠って柔然に隷属したが、429年の北魏の遠征で柔然が弱体化すると副伏羅氏を中心に半ば独立して次第に西遷し、481年には高昌国王を廃立し、487年には阿伏至羅がジュンガリアを王庭に定めて可汗を称し、柔然可汗の豆崙を大破して高原西部の支配を確立した。
 西域諸国の支配を巡るエフタルとの抗争で衰え、516年には柔然に大破されて再び隷属するようになったが、以後も柔然が弱体化すると叛抗する事が常で、又たこの頃より中国史書には鉄勒の称が現れる。 ジュンガリア一帯の鉄勒は高車の直接の後裔と見做され、その中から6世紀中頃には阿史那氏が勃興して突厥を樹立した。

 

鉄勒


 隋唐時代の内陸アジアの遊牧トルコ種の総称で、バイカル湖方面〜カスピ海に拡がり、凡そトゥーラ流域群・天山群・アルタイ群・西方群に大別された。 遊牧社会の特徴である生活文化の共有が“鉄勒”と総称された原因で、カザフ=ステップのアラン族やウクライナ平原のペチェネグ族が含まれるなど、同一の集団・種族を指すものではなかった。 鉄勒とは敕勒・突厥と同様にトルコ族を表す“Türk”の音写で、突厥も本来はアルタイの鉄勒の中から抬頭したが、突厥が可汗国を樹立した後は区別された。
 鉄勒諸部は6世紀中頃に相次いで新興の突厥に服属し、トゥーラ群は東突厥に、天山群・アルタイ群は概ね西突厥に属したが、突厥が衰退すると叛抗する事が常で、605年に契苾部が可汗を称し、7世紀には薛延陀部が突厥に替って漠北を支配した。 薛延陀が唐に討滅されると十余部が唐に帰順して13の羈縻府(6都督7州)が置かれ、アルタイの阿史那斛勃や西突厥の阿史那賀魯の討伐にも兵を供出したが、東突厥が再興すると再び阿史那氏に隷属した。
 薛延陀や東突厥との抗争を通じて7世紀に回紇を中心とする九姓鉄勒が抬頭し、8世紀中葉に回紇が突厥を滅ぼして漠北を支配するようになると、トルコ族を表記する鉄勒の称は用いられなくなった。

薛延陀
  ▲
 鉄勒の一部族。 オルコン碑文に見える“シル(薛)”“タルドゥシュ(延陀)”の合成部族ともいわれる。 隋代にアルタイ西南麓に拠って西突厥に隷属し、605年にボグダ山に契苾部の族長を可汗に立てて処羅可汗を大破したが、西突厥の射匱可汗が強盛となると再び突厥に服属した。
 627年に部長の夷男に率いられてセレンガ方面に移動し、鉄勒諸部と結んで東突厥の頡利可汗を大破すると夷男を可汗とし、唐からも東突厥に替る漠北の盟主として真珠毗伽可汗に冊立され、ウテュケン山麓を牙庭に定めて鉄勒諸部を帰服させた。 東突厥の瓦解(630)後、西突厥の統合に成功した肆葉護可汗を撃退・大破して漠北の主人としての勢力を確立し、唐とも和親を保ったが、唐が漠南の支配に尚おも阿史那氏を用いる事を不服とし、641年には大挙、阿史那思摩を襲撃し、李勣ら唐の援軍に討破された。 唐には謝罪したものの阿史那氏との攻伐は続き、アルタイでも阿史那斛勃がカルルク・キルギス族を従えて自立した(〜649)。
 夷男の死後は継嗣を巡って兄弟間で争い、更に突厥の存続を認める唐とも対立した為に646年に李勣に伐たれて崩壊し、650年に薛延陀統禦のために嵠弾州が置かれた。

 
 
 アルタイ鉄勒から興った阿史那氏を王族とした、トルコ系遊牧部族とその国家。 阿史那氏は鍛鉄技術を以ってアルタイ西南麓で柔然に隷属し、同様の条件を備えるエニセイ上流域のケム流域に拠るキルギズ族とは鉄の交易で親密となり、同祖伝説も有した。
 突厥は6世紀中頃に独立してより短時日で柔然を滅ぼし、高原部の統合のみならず西域諸国や中国北朝の上にも君臨してエフタルをも圧倒し、東面可汗や西面可汗を両翼に置く事で興安嶺やカスピ海北方にまで支配力を及ぼした。 国内には方面可汗の他にも複数の小可汗が並立して大可汗権力は脆弱で、殊にシルクロードを抑えた西面可汗が最も強盛で、6世紀末葉には隋の離間策で東西に分裂した。
 東突厥では隋の支援を受けた突利可汗(啓民可汗)が大可汗となったが、漠北では鉄勒が自立の傾向を強め、内外に対する統制の強化に成功した始畢可汗は隋末華北の群雄の上に君臨したものの、唐の中国統一に前後して内紛を生じ、頡利可汗が630年に唐と鉄勒薛延陀部の挟撃で敗れて瓦解した。
 この後暫くは唐の羈縻支配下に雌伏したが、唐が武則天による体制の改編に忙殺された事もあって7世紀後期には骨咄禄暾欲谷によって独立を回復し、これは突厥第二可汗国、又は突厥第二帝国と呼ばれる。 最盛期を現出したビルゲ可汗の横死後は急速に衰え、744年に九姓鉄勒を中心とした鉄勒諸部に滅ぼされた。
 

伊利可汗  〜552〜553
 イリク可汗。突厥の初代大可汗。 名は突厥碑文ではブミン、中国史料では土門(トゥメン=万人長)。 545年から中国と交易を始めて強盛となり、翌年には柔然に叛いたジュンガリアの鉄勒を征服して独立の基礎を固めた。 柔然可汗の阿那瓖に通婚を拒まれると西魏に通じて551年に公主の降嫁を受け、翌年には柔然を大破して阿那瓖を自殺させ、オルコン上流域を王庭として伊利可汗を称した。
 その統治体制は遊牧社会伝統の三分国制で、弟のイステミを西面可汗として中央アジアの征服を進めさせた。

乙息記可汗  〜553/553
 突厥の第二代大可汗。伊利可汗の子(『隋書』では伊利可汗の弟)。 柔然の残部を大破して間もなくに病死した。

木杆可汗  〜553〜572
 ムカン可汗。突厥の第三代大可汗。乙息記可汗の弟。 555年に北周との挟撃で柔然を完全に滅ぼし、翌年には北周と連合して青海の吐谷渾を大破した。 当時は突厥の発展期にあたり、西方ではイステミがササン朝と結んで567年にエフタルを滅ぼし、東方では弟の地頭可汗が契丹を圧し、自身もキルギズを征服して王庭をウテュケン山に移した。 北周・北斉からの歳貢で支配力を強化し、殊に北周とは通婚を結んで563年には晋陽攻略にも派兵したが、北斉とも不即不離を保った。

佗鉢可汗  〜572〜581
 タスパル可汗。突厥の第四代大可汗。木杆可汗の弟。 北斉・北周を朝貢国として突厥の全盛期を築き、北斉滅亡後は亡命者の高紹義を立てて斉帝とし、北周には和戦両面で臨んだ。 当時、西面可汗はソグディアナを押えて大可汗を凌ぐ勢力があり、東面可汗の摂図や木杆可汗の子の大邏便も隠然たる勢力があった。
 北斉の仏僧恵琳を捕えたことで仏教に帰依して伽藍を建立し、北斉から浄名経(維摩経)・涅槃経・華厳経などの経典や十誦律を移入し、涅槃経は劉世清によって突厥語訳された。 さらにガンダーラ出身のジャナ=グプタも、北周武帝の廃仏を避けて可汗の請いで十数年間滞在した。 一連の仏教信奉は護国宗教としての呪術的側面が期待されたもので、その信仰は可汗と一部の側近貴族の帰依に留まり、突厥仏教は可汗の死とともに衰亡した。

沙鉢略可汗  〜581〜587
 イシュバラ可汗。突厥の第五代大可汗。名は摂図。乙息記可汗の子。 佗鉢可汗の時は東面の爾伏可汗として勢力を蓄え、佗鉢可汗の病死後、その嗣子の菴羅に譲られて即位した。 北周の千金公主を可敦に迎え、隋が簒奪すると中国北辺を侵寇したが成功せず、翌583年の大敗と、隋の離間策で西面の達頭可汗が独立し、これに支援された阿波可汗が自立して大勢力となった。 584年に公主の要請で隋から大義公主に改めて冊立されて楊姓が下賜され、翌年には可汗自ら隋に臣従した。

阿波可汗
 名は大邏便。木杆可汗の子。父の死後、小可汗の1人として勢力を保ち、583年に沙鉢略可汗が隋に大敗した事に乗じて達頭可汗と結んで自立した。 これを機に国内の諸小可汗の間でも離背の動きが生じ、大可汗と西面可汗の間にあって西域諸国にも影響を及ぼす大勢力となった。 隋と結んだ葉護可汗に伐たれて擒われた。

泥利可汗  ▲
 木杆可汗の孫。阿波可汗の部衆を統べる為に葉護可汗により立てられた。鉄勒諸部を伐って敗死した。

処羅可汗  〜619 ▲
 正しくは泥撅処羅可汗。名は達漫。泥利可汗の嗣子。 605年に独自に可汗を建てた鉄勒諸部を伐ったものの大敗し、突厥による西域諸国の確保に失敗した。 又た隋とも対立し、そのため隋に支援された射匱可汗(達頭可汗の孫)に大破され、高昌に奔って隋に帰順した。
 611年に入朝すると留められ、第一次・第二次高句麗遠征にも従って曷薩那可汗に冊立され、以後も煬帝・宇文化及に扈従し、李淵に降って帰義郡王に封じられたが、入冦した東突厥に殺された。

葉護可汗  〜587
 ヤブグ可汗。突厥の第六代大可汗。名は処羅侯。沙鉢略可汗の弟。 沙鉢略可汗を嗣いで立ち、国内の統制力を補う為に隋に通誼した。阿波可汗の討平に成功したものの、帰途に流矢によって戦死した。

都藍可汗  〜599
 突厥の第七代大可汗。名は雍虞閭。沙鉢略可汗の子。葉護可汗の死によって立てられた。 隋への朝貢を保ち、中国への入冦を煽動する大義公主を殺した後は頻りに公主の降嫁を求めたが、597年に従弟の染干が突利可汗と号して隋に入朝を認められた事から断交し、達頭可汗と結んでしばしば劫掠を行なった。
 598年に蜀王楊秀に、翌年に漢王楊諒に伐たれ、突利可汗を大破したものの、達頭可汗を大破した楊素に大敗し、敗走中に部下に殺された。 この後、達頭可汗が大可汗を称して啓民可汗=突利可汗と対立し、突厥は東西に分裂した。

 

突利可汗 / 啓民可汗  〜597〜609
 テリス可汗。東突厥の大可汗。名は染干。葉護可汗の子。 突厥の内訌の維持を図る隋の長孫晟の離間策から従兄の都藍可汗に背いて突利可汗を称し、長孫晟の勧めで隋に内附すると公主を降嫁されて啓民可汗に冊立され、五原地方に安置された。 599年には達頭可汗と結んだ都藍可汗に大破されて南遁したが、間もなく啓民可汗に冊立され、都藍可汗が歿した後は達頭可汗と対立した。 当時、漠北では鉄勒諸部が半ば独立し、都藍可汗を慕う部民も多く、啓民可汗の支配力は隋の庇護を背景として漠南に及ぶに過ぎなかった。

始畢可汗  〜609〜619
 東突厥の大可汗。啓民可汗の子。 隋の政情不安に乗じて勢力を増し、小可汗を廃して設(シャド)を増設するなど可汗権力を強化し、615年には隋に侵攻して雁門に煬帝を包囲し、隋への朝貢を停止した。 隋末〜唐初には華北群雄の多くが称臣して、殊に薛挙劉武周らを支援して草創期の唐を苦しめ、東突厥の最盛期を現出した。

  • 葉護 yabghu :副可汗。西面可汗の別称でもあり、西突厥で好まれた。
  • 設 shad :封建領を有する阿史那氏族の男子で、小可汗の権力を大きく削減したもの。
  • 特勤 tegin :親王。一般に王子・王孫に限られ、後に人名にも用いられた。
  • 頡利発 ilteber ・俟斤 irkin :国内の異種族長。
  • 吐屯 tudun :頡利発・俟斤の監察。貢納徴収者。
  • ※irkinは契丹では“大君長”に近いニュアンスとなり、耶律阿保機は902年に迭剌部 irkinを称し、登極後は迭剌部 irkinは国家枢要の地位となり、太宗はこれを大王と改称した。遼の中央集権制が確立すると純然たる行政官となったが、羈縻部族に対しては本来の機能を損なわなかった。

処羅可汗  〜619〜620
 東突厥の大可汗。始畢可汗の弟。 620年に煬帝の皇后の蕭氏と煬帝の孫の楊政道を竇建徳の下から迎え、楊政道を隋王として定襄城に朝廷を開かせた。

頡利可汗  〜620〜630〜634
 イルリグ可汗。東突厥の大可汗。処羅可汗の弟。 劉黒闥と結んでしばしば中国の北辺に入冦し、汾州・潞州に達する事もあったが、一方で鉄勒諸部は自立の傾向を強め、又たソグド商人や漢人の重用に対して宗族の反撥も高まった。
 連年の大雪で飢饉となって626年に関中を侵したものの大破され、このため唐に支援された薛延陀部が鉄勒諸部を率いて独立し、鉄勒と唐に挟撃されてしばしば敗れた。 629年には始畢可汗の子/東面の突利可汗が離背し、630年に唐の李靖に捕われ、東突厥第一可汗国は崩壊し、自身は長安で歿した。
  
 以後、可汗の王庭は漠南に遷され、突厥は多くの部族・氏族に細分されて各族長が唐の羈縻支配に服した。 639年にオルドスの突厥が蜂起してより、唐は突厥諸部を陰山南麓に移して阿史那思摩を可汗に立て、突厥諸族の統制と北防を担わせたが、阿史那思摩は部民の全面的な支持は得られず、644年に逐われて長安で歿した。
 唐の離間策と遠征で646年に漠北の薛延陀が崩壊すると、唐は鉄勒をも羈縻支配下に収めて各部族長を都督・刺史に任じ、中国人を都護とする燕然都護府を設置して鉄勒を統制したが、燕然都護府が五原方面に置かれたことは、唐の直接支配が漠北に及ばなかったことを示している。 一方、華北辺境の突厥諸部に対しては氏族ごとに州を設けて各氏族長を刺史とし、帰化城方面の定襄・雲中両都督府に支配させた。 定襄都督には阿史徳氏族長、雲中都督には舎利氏族長を充て、これも燕然都護府が統制した。
 660年に鉄勒諸部が蜂起すると、唐の遠征軍はセレンガ流域にまで達して663年に鎮圧し、同年、鉄勒に対する統制強化のために燕然都護府を瀚海都護府と改称して漠北のオルコン河畔に移し、漠南には雲中都護府を新設して突厥諸部の統制に充てた。 雲中都護府は664年に単于都護府と、瀚海都護府は669年に安北都護府と改名された。 突厥・ウイグルの族長がしばしばトルコ語でトゥトゥクと呼ばれるのはこの名残とされ、瀚海都護府はトルコ語でしばしばトゴ=バリクと呼ばれる。 突厥は定襄都督が阿史那氏を擁して679・680〜681年に挙兵したが、いずれも鎮圧された。

 

イルティリシュ可汗  〜682〜691
 突厥第二帝国の可汗。名は骨咄禄(クトルグ)。 はじめ突厥の東面設だったが、681年に阿史那伏念が独立に失敗した後も陰山に拠って勢力を増し、可汗を称した翌年(692)に通婚氏族の阿史徳氏の暾欲谷の輔佐を得て単于都護府を陥落させ、東突厥の独立を回復した。 これより連年中国に侵寇して勢力を強化したが、唐朝は武則天の監政中で塞外に大軍を動かす余裕がなく、この情勢に乗じて討伐軍を悉く撃退しつつ687年までに漠北の鉄勒を征服し、ウテュケン山を王庭に定めて突厥帝国を再興した。 2人の弟を東西両面の設として国家体制を整えた。

トニュクク  〜724? ▲
 暾欲谷。中国名は阿史徳元珍。阿史徳氏は阿史那氏の通婚氏族。 イルティリシュ可汗を輔けて突厥帝国の再興に大きく貢献した。 カパガン可汗の時代には失権したが、ビルゲ可汗の下で宰相とされ、自らも北庭バシュミルを討つなど、闕特勤と協力して突厥第二帝国を繁栄に導いた。 匈奴の時代の中行説と同じく、中国との友好関係の維持と遊牧文化の堅持を強調し、国内からは極力中国文化の排除につとめた。
 チョイレン碑文・バイン=ツォクト碑文がトニュクク碑文として知られ、チョイレン碑文は現状では最古の突厥文字・古代トルコ語銘文とされる。

カパガン可汗  〜691〜716
 突厥第二帝国の可汗。名は黙啜(ベクチョル)。イルティリシュ可汗の弟。 693年に霊州に入冦した後は中国に恭順を示し、696年の契丹討伐に協力した事で武則天より大可汗に冊立され、突厥数千戸の返還や、種粟・農具などを得たことで突厥の強盛をもたらした。 次いで唐室との通婚を求め、武氏の男子が送られてより李氏の保護者を称してほぼ連年入冦し、699年に廬陵王が太子に直されると漸く兵を退いたとされるが、中国への入冦は706年まで続いた。
 弟を東面設に、甥の黙棘連を西面設とし、両者の上位に自身の子を拓西可汗として配して西突厥の十姓を統制させたが、西方諸部は次第に活発化し、708年に突騎施が叛いて可汗を称した事で再び唐に請和した。 以後は中央アジアの討伐に注力し、突騎施やエニセイ上流域のキルギズ族などを征服したが、圧政で臨んだ事や714年に北庭都護府の攻略に失敗した事もあって諸部の離叛が絶えず、翌年には西突厥の十姓ら1万余帳が唐に亡命した。 九姓鉄勒の向背も定まらず、715年に九姓の思結部を大破したものの甚大な損害を受け、716年にトゥーラ河畔の拔野古を討伐した帰途に残兵の襲撃で敗死し、首は長安に送られた。
 カパガン可汗の即位は簒奪同然のもので、即位後はイルティリシュ可汗体制の払拭に努め、そのためトニュクク碑文では“悪賢い可汗”と酷評されている。

ビルゲ可汗  〜716〜734
 突厥第二帝国の可汗。毗伽可汗。名は黙棘連。イルティリシュ可汗の子。 カパガン可汗の横死で国内が紛乱すると、弟の闕特勤の協力によって大可汗を奪取した。 岳父でもある暾欲谷を宰相に迎え、その進言で唐に臣事して和親を維持する一方で国内からは中国文化を極力排除し、離叛諸部族を鎮圧・征服して最盛期を現出した。
 闕特勤の死後は統制が翳り、734年に大臣の梅録啜に暗殺されたが、翌年、オルコン河畔のホショ=ツァイダムに突厥文字・漢字で記された紀功碑が建立された。

キョル=テギン  685〜731 ▲
 闕特勤。ビルゲ可汗の弟。 カパガン可汗の死後、旧民を糾合し、カパガンの子弟らを粛清して兄の黙棘連を大可汗とし、自らは兵馬の大権を掌握した。 暾欲谷と並んで可汗を輔佐して東突厥の復興発展に尽力し、732年にはオルコン河畔のホショ=ツァイダムに紀功碑が建立された。

登利可汗  〜734〜741
 ビルゲ可汗の子。暾欲谷の外孫。兄の伊然可汗が急死した為に立てられてビルゲ=クトルグ可汗を称したが、生母が国政を総覧し続けた為に民衆の服従を得られず、左右の設の従叔父2人に実権があった。 唐から登利可汗に冊立された翌年、右設を殺してその部衆を奪ったが、猜懼した左設の判闕特勤に殺された。
  ▼
 判闕特勤は自立してクトルグ=ヤブグ可汗(骨咄葉護可汗)を称したが、翌年にはバシュミル部長阿史那施を擁したウイグルカルルクの三者連合に敗死し、継嗣となった子のウズミシュ可汗も又た744年に三者に敗死して首は長安へ送られた。 その後もウズミシュ可汗の弟の白眉可汗が立てられたが、従う部衆も僅かで、745年に朔方節度使王忠嗣に大敗して程なくに殺された。

 
 
 韋紇・回紇・廻鶻・畏兀児。6世紀には鉄勒の構成部族の1つとして漠北セレンガ流域に遊牧し、7世紀にオルコントゥーラ流域に遷って東突厥に従属していた。 ヤグラカル(薬羅葛)氏族を中核として9〜10氏族が連合してウイグル部族=九姓ウイグルを構成し、東突厥の衰退と伴に強盛となり、8世紀中頃には九姓鉄勒ほか諸部族を糾合し、744年に突厥を滅ぼして漠北を支配した。
 安史の乱では唐室を援けて討伐の主力となったが、長安を掠奪し、公主の降嫁や法外な絹馬交易を強要した。 オアシス諸都市や交易路からの徴税や、諸制度の整備を担ったソグド人の発言力は強く、マニ教なども導入された一方で、親ソグド派と国粋派の対立を招いた。
 ヤグラカル王統は6代で絶えて懐信可汗よりエディズ(阿跌)王統に移ったが、以後の可汗もヤグラカル氏を称し、9世紀前期に最盛期を迎えた。 この頃から定住文化への傾斜が著しく、これに天災と可汗位を巡る政争が加わって急衰し、840年にキルギズ族に急襲されて国都オルド=バリクは破壊され、ウイグル帝国は崩壊した。
 四散したウイグル人のうち、13部10万余人が唐の北辺に南下し、15部は西奔して河西〜東トルキスタンに複数の地方政権を樹立し、現在、その後裔は新疆ウイグル自治区の主要民族となっている。

菩薩  〜629
 ウイグル部族長。父の死後、衆に推されてirkin(俟斤=部族長)となり、薛延陀部長の夷男に従って突厥の頡利可汗から離叛し、トゥーラ河畔に南下すると自らilteber(頡利発=国主)を称した。

懐仁可汗  〜744〜747
 ウイグル帝国の開祖。名は骨力裴羅(クトルグ=ボイラ)。 突厥の内紛に乗じて九姓鉄勒を勢力下に収め、バシュミルカルルクと連合して突厥の骨咄葉護可汗・ウズミシュ可汗を襲殺し、程なく自ら可汗に立てたバシュミル部長の阿史那施をもカルルクと連合して滅ぼし、オルコン・バリクリグ両河の合流点一帯を王庭として骨咄禄毗伽闕(クトルグ=ビルゲ=キョル)可汗を称した。 746年に突厥の白眉可汗を殺して興安嶺〜アルタイを支配し、唐から懐仁可汗に冊立された。

葛勒可汗  〜747〜759
 ウイグル帝国の第二代可汗。名は磨延啜(マエンチョル)。懐仁可汗の子。 エニセイ上流域のキルギズ族や、アルタイ・天山方面のカルルクバシュミルを伐って漠北諸部族に対する支配を強化した。 唐の安史の乱では皇子の葉護を派遣して鎮圧に大功があったが、洛陽・長安を奪回したウイグル兵は3日間に亘って両都を略奪し、大量の絹類を下賜されてようやく北帰した。 唐は葉護を忠義王に封じたが、可汗は功を恃んで公主の降嫁や法外な絹馬交易を強要し、758年に英武威遠可汗に冊立されると共に粛宗の第二皇女/寧国公主を降嫁された。
 シネ=ウスに、突厥文字・古代トルコ語で記された紀功碑を建立し、その中に757年にセレンゲ河畔にバイ=バリクを建設した事が記されている。 バイ=バリクは富貴城の意で、商人・農民の居住用に建設されたもので、当時の王庭はオルコン河畔に営まれていた。

牟羽可汗  〜759〜779
 ウイグル帝国の第三代可汗。名は侈地健。葛勒可汗の子。登里(テングリ)可汗とも。 762年に唐の史朝義に呼応してオルドスに侵入したが、岳父の僕固懐恩の説得で唐室に協力し、史朝義を討って英義建功可汗に冊立され、可敦(僕固懐恩の娘)も光親麗華可敦とされた。 764年以降は僕固懐恩に応じて吐蕃と共にしばしば中国に侵寇し、後に郭子儀と和して吐蕃を破ったが、中国でのウイグル人の横恣は社会問題となった。
 国富の増大は支配層の中国文化への傾倒を促し、オルコン河畔に国都オルド=バリクが造営され、唐制の官名が採用されるほどだった。 又た763年の北帰の際にはマニ教が国教とされたが、ソグド人の影響力が拡大の一途を辿り、代宗の喪に乗じた中国侵攻が聴許されるに至り、反ソグド派の頓莫賀達干=天親可汗による弑簒を結果した。
  ▼
 ウイグルにおけるソグド人勢力の強さは、商業を含めた経済・行政実務と文化の多くをソグド人が担ったことによるもので、これは匈奴以降の遊牧社会に共通する。 初期突厥でのソグド文字の採用と、ソグド文字から突厥文字・モンゴル文字が派生したことや、マニ教の導入などもその一例で、オルド=バリクなどウイグルの都城プラン・煉瓦などは、唐様式より寧ろソグディアナ・セミレチエのソグド人様式に類似するといわれる。
 当時のウイグル社会の中国文化・ソグド文化への傾斜は、可汗と牧民の隔絶と奢侈の風をもたらして遊牧社会の質朴さを失わせ、可汗の暗殺は国粋派に対する定住文化派の敗北を象徴する事件でもあった。

天親可汗  〜779〜789
 ウイグル帝国の第四代可汗。牟羽可汗の従兄弟。頓莫賀達干(トン=バガ=タルカン=宰相)の時、ソグド勢力の傀儡と化した牟羽可汗とその派2千人余を粛清して合骨咄禄毗伽可汗(アルプ=クトルグ=ビルゲ可汗)を称し、唐に臣従して武義成功可汗に冊立された。 唐に対しては概ね和親を保ち、晩年には咸安公主を降嫁されて長寿天親可汗に冊立された。 可汗の簒奪を機に唐は国内のソグド人を放逐し、又たウイグルは漢字表記を“廻鶻”とするようになった。
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 長子の多邏斯(タラス)が可汗に立てられて唐より忠貞可汗に冊立されたが、翌年には可敦に殺され、幼嗣の阿啜(アチュル)が立てられると唐より奉誠可汗とされたものの、無嗣のまま歿した為に宰相の骨咄禄が可汗に立てられた。

懐信可汗  〜795〜808
 ウイグル帝国の第七代可汗。名は骨咄禄(クトルグ)。後のウイグル族伝説の卜古罕(ブク=カン)。 九姓鉄勒の阿跌部(エディズ部)の孤児で、天親可汗の頃より軍功を重ねて奉誠可汗の養子とされ、その死と共に可汗位を継ぎ、同年に唐からも冊立された。 ブク=カン伝説や“九姓ウイグル可汗碑”によると、懐信可汗の時代にウイグルは著しく発展し、特に西方ではシル=ダリア流域までを征服してインド・ペルシアからも来貢があり、又たマニ教が再び公認されている。
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 遊牧社会では血統は聖別基準の最たるもので、支配氏族が変わることは混乱期には稀にあっても、他部族から後継者を迎えることはなく、九姓ウイグルですらなかったエディズ部から新可汗を迎えたことは、後のオイラート=モンゴルのエセン汗が大元大可汗を称したことと並ぶ特異事とされる。 事実、懐信可汗以降の可汗も公けにはヤグラカル氏を称し、モンゴル時代の西ウイグルまでその王統は続いた。
 尚お、『新唐書』では懐信可汗と次の保義可汗の間に滕里野合倶録毗伽可汗(在:805〜808)が存在しているが、唐への入朝後も冊封されていないなど実在性が疑問視され、懐信可汗もしくは保義可汗の別号とも考えられる。

保義可汗  〜808〜821
 ウイグル帝国の第八代可汗。 808年に唐に入朝して保義可汗に冊立された。 マニ教に篤く帰依するなど再びソグド人勢力が抬頭し、可汗の紀功碑であるオルコン西岸のカラ=バルガスン碑文は突厥文字による古代トルコ語の他に、漢文・ソグド文字でソグド語が記されている。 唐に対しては時に武力を用いて公主の降嫁を求め、唐は吐蕃対策の必要もあって降嫁を決定したが、可汗の急死で次の可汗を崇徳可汗に冊立して太和公主を降嫁した。
  
 ウイグル帝国は保義可汗の後、安定した絹馬貿易の利もあって定住文化に傾斜して急速に弱体化し、崇徳可汗を嗣いだ昭礼可汗が暗殺された後は内訌が絶えず、840年に劣勢の一派に呼応したキルギズ族の介入でオルド=バリクが破壊され、帝国は崩壊した。 846年には吐蕃帝国も分解し、唐王朝も安史の乱の後は国内問題に忙殺されて内訌的となり、支配的勢力が不在となった北アジア世界では諸部族の活動が活発化した。
 ウイグル族は陰山以南西〜天山・アルタイ方面にかけて広く散在し、ウイグル帝国を崩壊させたキルギズ族は、バイカル湖東北辺から南下したタタール族によってアルタイ北麓に押し返され、陰山以東にはタタール系の諸部族が割拠した。 又た大興安嶺東麓、嫩江流域には黄頭室韋に代表される室韋が、室韋の南方、シラ=ムレン流域には契丹が、ラオハ=ムレン流域にはが遊牧して唐の北辺に接し、大興安嶺西南麓には黒車子室韋が、その南方の大同盆地には西突厥系の沙陀部が、オルドスにはチベット系の党項が遊牧していた。

甘州ウイグル王国
 〜1028 ▲
 ウイグル帝国の崩壊後、甘州(甘粛省張掖市)に建てられたオアシス都市国家。 初め吐蕃に投じて河西北辺のエチナ地方に遊牧していたが、9世紀末の沙州(敦煌)の張氏政権の内訌に乗じて甘州を占拠し、甘州ウイグル王国が成立した。 隣接する沙州とは概ね友好を保って姻縁を結び、又た五代諸王朝や宋にも朝貢して甘沙両州の支配を認められたが、やがて夏州の定難軍節度使と衝突するようになり、1028年に李徳明に滅ぼされた。
 甘州に移住した後は農耕や通商に従事する者が殆どで、遊牧を堅持する者は稀だったと伝えられる。君主は権知可汗を称し、ヤグラカル氏が世襲した。

 

キルギズ族


 堅昆・鬲昆・結骨・黠戛斯。古くエニセイ上流域に拠っていた遊牧種。 匈奴の冒頓単于に支配された部族の1つで、6世紀頃にはケム川盆地の森林地帯にあって狩猟・農耕を行ない、冶金技術を以って柔然に従属していた。 一帯は鉄の一大産地でもあり、その関係で突厥の阿史那氏と密接な関係があり、突厥から伝えられて使用された文字はエニセイ文字と呼ばれる。 840年にウイグル帝国を崩壊させたが、タタール族の進出でその故地を占有することはできず、13世紀初頭にモンゴルのチンギス=ハーンに服した。
 16世紀頃にセミレチエの集団がカザフ族に帰属し、18世紀には清朝に支配されて天山北麓・フェルガナ渓谷に移動したが、ロシア人がカザフ族を誤ってキルギズと呼んだため、カラ=キルギズとして区別された。
 尚お、チンギス=ハーンに服属したエニセイ=キルギズは起源的にはアーリア系、もしくはフィン=ウグール族とされるが、セミレチエの天山キルギズとの関係については定説がなく、その後の動静も不明となっている。
 天山キルギズはスンナ派のイスラム教を奉じ、1924年にロシア=ソヴィエト連邦の下でカラ・キルギズ自治州が置かれ、2年後に自治共和国に転じ、1936年にキルギズ=ソヴィエト社会主義共和国となり、ソ連崩壊後にキルギスタン共和国として独立し、1993年にキルギズ共和国に改称された。 又たキルギズ Kirghiz は他称であり、現在はクルグズ Kyrgyz が正当である事が公認されている。


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