西漢.2
昭帝 B94〜B87〜B74
第六代天子。諱は弗陵。武帝の末子。立太子に先んじて、外戚の横行を懸念する武帝によって生母は自殺を命じられた。
遺詔によって大司馬大将軍の霍光が後見となり、人材の登用や賦役の軽減などが行なわれた反面、外朝に対する内朝の優位が顕著で、儒官の進出も活発だった。
桑弘羊 〜B80
洛陽の商家出身。算術に長けて13歳で武帝に近侍し、財務の手腕を認められて侍中に進むと、B119年に製塩家の東郭咸陽・製鉄者の孔僅らと経済策を行ない、以後は財政の中心となって塩鉄専売・均輸平準法などを実施した。
B100年には大司農令に進み、武帝の死に臨んで霍光・上官傑とともに託孤され、御史大夫とされて外朝の中心となったが、諸政策で利権を侵された豪族・大商の反撥は強く、又た運用者の恣意による収奪も絶えず、反対派を内朝の霍光の下に終結させた。
塩鉄会議の翌年には霍光派の楊敞が大司農とされたことで財務権を失い、霍光と対立していた上官傑に通じ、燕王らとの謀叛が露見して誅殺された。
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塩鉄会議(B82):司農府と賢良・文学の60余名が、塩鉄専売制の是非を論争したもの。
政府は辺防のための増収を主張し、全国から薦挙された学士は儒家伝統の重農抑商を唱えて時政を批判したが、学士は桑弘羊の政策で利権を削られた豪族層の代弁者でもあり、論争は政府官僚の桑弘羊が主導する外朝と、外戚の霍光が主宰する内朝の代理政争でもあった。
酒の専売のみの廃止で落着して現行政策が肯定されたが、外戚や官僚予備軍である郎官や、郷挙里選の母体でもある地方豪族が儒学を受容したことを示し、私枉が少ないと評される会議の議事抄録たる『塩鉄論』の編者が、内朝派の儒家であることには注意を要する。
後の元帝代に明経博士から御史大夫に至った貢禹は、儒教的復古思想から冗費削減・賦課年齢の引上げ(3〜14→7〜19)・貨幣および塩鉄専売の廃止などを主張し、このときは古礼・古制に合致するか否かのみが論点となり、貨幣策以外が実施された。
現実と乖離した観念論主導の改革が行なわれた事は、儒家の発言力が圧倒的になっていたことの顕れでもあるが、塩鉄の専売制は3年後には再開された。
燕剌王 〜B80
諱は旦。武帝の子。広陵脂、の同腹。弁舌に長け、経書雑説に通暁していたという。B117年に立てられた。
巫蠱の乱の当時は戻太子に次ぐ年長で、そのため戻太子が歿すると(太子として)武帝に近侍することを求めて不興を買い、国での非法を以て3県が削られた。
弗陵の立太子を不満とし、武帝の死にも哭せずに宗族と大逆を謀り、このときは露見しても昭帝の兄として唯一人不問とされた。
後に霍光と対立した上官桀・桑弘羊らと再び大逆を謀ったが、霍光の不在に乗じた劾奏は失敗し、侍女の父の告発で露見して自殺を命じられた。
上官桀 〜B80 ▲
隴西上邽の人。字は少叔。良家の子弟として羽林期門郎とされ、常に武帝に扈従して大力を愛され、侍中に抜擢された。
李広利の大宛遠征にも従い、武帝が不予となると太僕に左将軍を兼ね、霍光らと共に託孤され、霍光の休日には替って政務を執った。
子の上官安が霍光の婿だったこともあって当初は親密だったが、孫が昭帝の皇后となって上官父子に権力が集まると不和となり、蓋長公主(昭帝の姉)の情人の昇任や叙爵を拒まれると、燕剌王や桑弘羊らに通じて霍光排斥を謀り、燕王の大逆が露見して誅された。
昌邑王 〜B73/〜?
第七代天子。廃帝。諱は賀。父の哀王髆は武帝と李夫人(李広利の妹)の子。
B73年に昭帝が歿すると霍光らに迎立されたが、驕慢粗暴な言動と喪中の酒色を理由に27日で廃された。
継嗣未定のまま廃黜が断行された事は突発事の内在を示唆し、扈従200余人の鏖殺と、王への諫言を理由に龔遂らが助命されたことから、王による霍光排斥の計画と龔遂らによる密告が指摘される。海昏侯に貶され、死後に怨言が告発されて廃された。
霍光 〜B68
字は于孟。霍去病の異母弟。武帝に近侍して実直を嘉され、B87年には大司馬・大将軍とされて託孤された。
昭帝が即位すると博陵侯とされ、政敵の桑弘羊・上官桀らを粛清した後はほぼ独裁状態にあり、幼弱な昭帝を支えて政権の安定に尽力した。
昌邑王の定廃と宣帝の迎立を主導して絶大な権威を備え、娘は宣帝の皇后とされ、葬儀には天子に準じた格式が用いられた。
霍光在世中から一族妻子には許皇后暗殺など驕恣な非法が多く、親政を図る宣帝に徐々に権力を削減され、また皇后暗殺の露見を懼れて大逆を謀り、これが露呈して族滅された。
宣帝 B91〜B74〜B49
第八代天子。中宗。諱は病已、後に詢。戻太子の孫。事件後は丙吉に救われて民間で養育された。
迎立された当初は霍光に全権があり、霍光の死後に上書を直裁するために尚書官の権能を削って中書官を独立させ、併せて霍氏の軍権を削減し、造叛した霍氏を族滅して皇帝の専制を回復した。
地方行政を重視して有能な長吏が輩出し、貧民への振恤や租賦の減額、常平倉の創設など農村復興に注力し、その治世は中興の治と呼ばれる。
又た烏孫と提携して匈奴を圧迫し、B60年に西域都護を新設して西域36ヶ国を服属させ、B51年には呼韓邪単于が来降した。
石渠閣会議で五経解釈の統一を図り、武帝の法儒併用に回帰するなど思想と政術の分離を意識したが、晩年には合理主義に反して神仙への傾倒と濫費が目立ち、又た中書宦官が権勢を強め、結果的に太子の儒学傾倒を助長した。
丙吉 〜B55
魯国の人。字は少卿。魯国の獄吏から廷尉右監まで進み、罷免された後に巫蠱の乱の審理を佐け、獄舎から生後まもない病已を密かに保護養育した。
後に光禄大夫に進み、昌邑王が廃されると霍光に病已の存在を進言し、宣帝が即位すると関内侯を加えられた。
B67年に皇太子が立てられると太子太傅、次いで御史大夫に進み、寛大と礼譲を尊んで、官吏の小悪や過失は咎めなかった。
後に宣帝保護のことを知られて博陽侯に封じられ、B59年に魏相を継いで丞相となったが、道中の殺人を無視して牛の喘鳴から陰陽の不調和を憂慮した事は、丞相が名誉職化していたことの象徴とされる。
鄭吉 〜B55
会稽の人。しばしば西域に従軍して西方事情に通じ、宣帝代に諸国の兵を徴して西征し、B67年に車師を破って鄯善以西の西域南道を支配し、後に匈奴の日逐王を帰伏させて西域北道をも制圧した。B59年に初代の西域都護とされ、安遠侯に封じられた。
趙充国 B137〜B52
隴西上邽(天水市区)の人。字は翁孫。沈勇で異民族の習俗に通じ、騎射と軍略を以て弐師将軍李広利に認められた。昭帝のとき氐族叛乱の鎮圧、匈奴の西祁王捕縛によって後将軍とされ、宣帝擁立にも参画して少府・営平侯とされた。
軍律を重んじ、常に斥候を遠方に派して営壁を堅固にし、兵を慈しみ計策を重んじた為に損兵は少なく、久しく羌胡に畏憚された。
匈奴が羌族との連携を不可欠としていることを正しく洞察し、光禄大夫の義渠安国の失策で西羌が斉挙すると、70余歳でありながら自薦して討伐の将となった。
大兵による速戦を促す詔勅に遵わず、諸羌を招撫して先零羌から離背させ、羌族の分割統治と屯田を推進した。
後将軍・衛尉に叙されて程なくに誣告されて致仕したが、四囲に軍事のある毎に諮問され、功徳は霍光と並称された。
元帝 B75〜B49〜B33
第九代天子。諱は奭。宣帝の嫡長子。儒教に傾倒して宣帝の政術には批判的で、繊弱かつ名分主義的なことから「我が家を乱すのは太子ならんか」と廃嫡が諮られたことがあったが、太孫(成帝)の誕生と、暗殺された許皇后との遺児であることから廃議された。
即位後は儒官積極的に任用した一方で宦官・側近を統御できず、殊に中書令石顕は元帝の一代を通じて絶大な権勢を保った。
蕭望之 〜B46年
東海蘭陵の人。字は長倩。農業の傍らで五経を修めて長安にも知られたが、霍光を尊大と窘めたことで任用されなかった。
宣帝が即位すると累進して九卿を歴任したが、朝廷の官を重んじて長吏を厭い、平原太守を拒んで少府に直され、左馮翊に叙された際も宣帝の説諭で赴任した。
B59年に丙吉の昇任に伴って御史大夫となったが、儒学の名分論に拘って不敬を該され、丙吉への不遜を以て太子太傅に遷された後は、太子に侍講して儒学への傾倒を助長した。
宣帝より託孤されて前将軍・領尚書事となり、帝師として元帝にも重んじられ、劉向らと結んで中書からの宦官排斥を図ったが、中書令弘恭・中書僕射石顕らに枉陥されて自殺した。
石顕 〜B32
済南の人。字は君房。罪を犯して腐刑とされ、中書官を歴任して宣帝に中書僕射とされ、中書令の弘恭とともに有能を称された。
元帝の即位後に帝師の前将軍蕭望之・宗正劉向らを排斥し、弘恭の死後は中書令となって反対派の多くを弾圧し、元帝の信任を背景に人事を掌握して庶政を壟断した。
成帝が即位すると長信中太僕に左遷され、丞相匡衡らの劾奏で罷免されると帰郷の途上で憂死した。
京房 B77〜B37
東郡頓丘(河南省清豊)の人。本姓は李、字は君明。
元帝のときに褒貶による叙罷を批判して独自の考課を案出し、又た易学を論じて中書令石顕・尚書令五鹿充宗を弾劾したこともあって、考課試用のために魏郡太守に出されると諸侯王との通交を誣されて獄死した。
孟喜・焦延寿の易学を集大成して独自の易解釈を完成させ、京氏学は学官に立てられただけでなく、唐代に李淳風が出るまでは予言の最高峰とされ、京房の説をまとめたとされる『京氏易伝』は、後世の占朴の範とされた。
宣帝の時代に梁丘賀に易を伝えた太中大夫京房とは別人。
陳湯
山陽瑕丘(山東省兗州)の人。字は子公。博学で文章に長じ、長安で叙任の待機中に父の喪に帰郷しなかったために投獄されたが、後に郎官となって西域に遣いし、西域都護甘延寿の西征に西域副校尉として従った。
B36年に甘延寿が病臥すると偽勅を用いて兵を進め、郅支単于を大破して北匈奴を西方に逐い、関内侯とされた。
成帝が即位すると丞相匡衡に横領と偽証を弾劾されて罷免剥爵され、王鳳に知見を認められると従事中郎となって府事を一任されたが、陵墓造営の中止を批判した後に収賄を以て敦煌に流され、後に赦されて長安で歿した。
王莽の封侯を上書したことがあり、そのため執権した王莽から破胡壮侯と追諡された。
王昭君
南郡の人。諱は牆。元帝の後宮にあったが、匈奴との融和のために公主とされて呼韓邪単于に嫁し、寧胡閼氏と称されて1子を産み、単于の死後は継嗣の復珠累単于の閼氏とされて2女を産んだ。
絶世の美女でありながら宮廷画工の毛延寿に贈賄しなかった事で醜女に描かれ、そのため匈奴に送られ、長城を越えるところで嘆き死んだとされる王昭君の悲劇譚は、華北を奪われて圧迫された六朝時代に成立したものとされる。
王昭君伝説は以後も脚色を重ねて戯曲『漢宮秋』となり、傑作として欧米にも紹介された。
成帝 B51〜B33〜B7
第十代天子。諱は驁。元帝の子。
遊興を好んで微行を楽しみ、後に趙飛燕・合徳姉妹を盲愛して皇后・昭儀とし、庶政は王太后(王政君)と大司馬王鳳に一任して一朝五侯と揶揄されるなど、王氏の朝政壟断が顕著だった。
王鳳の死後は、大司馬を保つ王氏と丞相翟方進が対立した一方で、先代から頻発する天変地災に地方行政の腐敗が加わって、各地で農民叛乱が続発するようになった。
趙昭儀と同衾した翌日に頓死したために趙昭儀は自殺を余儀なくされ、趙皇后(飛燕)は王太后が復権すると哀帝の傅太后と共に庶民に貶された。
王鳳 〜B22
魏郡元城の人。字は孝卿。宣帝の時、同腹の王政君が東宮(元帝)の嫡子(成帝)を産み、元帝の即位で皇后とされたことから勢力を得、父の死で陽平侯を襲いで衛尉・侍中とされた。
成帝が即位して王政君が皇太后となると大司馬・大将軍・領尚書事となって執政し、人事を掌握して朝政を専断し、異母弟の王譚・王商・王立・王根・王逢時が封侯されて世に“五侯”と称された。
諸弟の驕横を危ぶみ、又た次弟の王譚と不和だったこともあり、従弟の御史大夫王音を後任に指名して歿した。
劉向 B77〜B4
元諱は更生。字は子政。高祖の少弟/楚元王の玄孫。
学問を愛好して文章に長け、宣帝の招聘で諫大夫となり、道家の錬金の書を上呈して罰されたものの学才を惜しまれ、宣帝が重んじる『穀梁伝』を学んで石渠閣会議にも加わった。
しばしば時事を上書して嘉され、元帝代には蕭望之・周堪らと通じての石顕排斥に失敗して下獄した。
長兄が歿して陽城侯を襲ぎ、成帝に挙用されると向と改諱して光禄大夫まで進んだものの、王氏排斥を唱えたために九卿に列することはできなかった。
成帝の下で秘書を校訂して『洪範五行伝』『列女伝』『列仙伝』『説苑』などを著し、中国目録学の第一人者とされる。
哀帝 B26〜B7〜B1
第十一代天子。諱は欣。定陶恭王の嗣子。元帝の孫。母は丁氏。
成帝の継嗣が議された際、丁氏と祖母の傅氏が王太后・趙皇后に運動して太子とされた。
即位後は王氏を斥けて傅氏と丁氏を重用し、任子の廃止や限田の実施を試み、三公制を採用するなど改革を志した。
刑政を厳格に運用し、又た男色相手の董賢を寵任して大司馬に任じ、譲位すら図ったことで人心を著しく失った。
哀帝が歿すると王太后は天子の璽綬を奪い、衆望を担って王莽が復し、平帝を立てて哀帝の眷属を一掃した。
董賢 B22〜B1 ▲
字は聖卿。眉目秀麗で、哀帝の男色の相手となって大司馬に至り、妹は昭儀とされた。
家属に対する賞賜は僕童にまで及び、常軌を逸した寵遇に対する批判は丞相王嘉の獄死に発展した。
舜堯の故事を以て禅譲が図られたこともあり、哀帝の遺詔で璽綬が託されたが、王閎に奪われて失権し、臨朝した王太皇太后に罷免されて自殺した。
平帝 B9〜B1〜A6
第十二代天子。諱は衎。中山孝王の嗣子。元帝の孫。
哀帝が歿すると王莽に迎立され、王莽を大司馬・領尚書事・安漢公とし、その娘を皇后とした。
長じて王莽の亶権を厭い、又た生母の衛太后と一族が呂寛に連坐して粛清されたことでも対立し、急死したことで毒殺と噂された。
実際に王莽に簒奪された劉嬰が、劉氏が復漢戦争を起こしても殺されていないことを考えると、王莽による平帝暗殺は釈然としません。
確かに、時系列だけ観れば、あの頃の王莽は平帝を暗殺していても不思議はありません。
ですが、王莽が粛清しているのは、王立のような例もありますが、基本的には明確に叛抗した連中ばかりです。
ただの政敵には、相応の措置しかしていません。
譬えるなら、騒音加害者が殺されて、揉めていた被害者が、実は過去に正当防衛で人を殺しているからクロ確定だ!と云われているような感じ?
平帝が本当に邪魔なら、卑近には霍光の例がありますし、霍光が小者っぽくてイヤなら王莽の大好きな尚古的に伊尹に倣えばいいわけで、天子暗殺のようなリスクまみれの暴挙を、この時期の王莽が踏むとは考えられません。
基本的に理屈屋の学者頭脳な人ですし、偏向的な嗜好も無さそうなので、東漢の梁冀や五侯と同一視するのは危険です。
王政君 B71〜A13
孝元王皇后。元帝の皇后。成帝の生母。元帝が即位すると、嗣子の実母として皇后とされた。
成帝が即位すると皇太后として臨朝し、同腹の王鳳を大司馬として輔政させ、異母兄弟5人を封侯したことで世に誹られたが、成帝一代を通じて王氏は大司馬を独占して秉政した。
哀帝が迎立されると実権を失ったが、哀帝の頓死に乗じて平帝を迎立すると共に甥の王莽を大司馬に任じて奪権し、平帝が急死すると劉嬰を迎立した。
王莽の僭号には批判的で、禅譲に際して伝国璽を求められると地に擲って罵ったが、王莽からは尊重された。
孺子 A5〜A6〜A9〜A25
諱は嬰。宣帝の玄孫。平帝が歿して王莽に迎立されたが、称帝を許されず、劉氏の多くも天子と認めなかった。
摂皇帝、ついで仮皇帝を称した王莽に迫られて禅譲し、定安公とされて諸侯の待遇を受けた。
後に赤眉の乱に乗じて方望に擁立されたが、更始帝の軍に殺された。
翟義 〜A7
汝南上蔡の人。字は文仲。翟方進の末子。
蔭によって任官し、東郡太守のときに平帝が歿して王莽が摂皇帝を称すと、東郡都尉劉宇、厳郷侯劉信・武平侯劉璜兄弟らと通じて挙兵した。
劉信の宗家の東平国を併せて劉信を天子とし、自らは大司馬・柱天大将軍と称したが、官軍に敗死して族滅され、郷里の墳墓も毀たれた。