北朝.2

北斉  北周
 

北斉

 550〜577
 六鎮の乱の後、爾朱氏を滅ぼして関東を支配した高歓を開祖とし、高歓の子の高洋が550年に東魏を簒奪した政権。 と晋陽を両都とし、関中政権とは主に河南・河東の帰属を争い、南朝と通好する傍らで優勢な国力を背景に西軍や突厥の攻勢を悉く撃退し、冬季には北周が黄河の結氷を砕いて来攻を予防したという。
 関中政権同様に北魏に叛抗した鎮兵を軍の主体としながらも制度・文化面では北魏の政策を踏襲し、そのため北族系勲貴と漢人系士族の対立が続き、武成帝の代には恩倖勢力が政争に加わって国策が混迷した。 歴代の君主は概ね酒乱・嗜虐の傾向が強かった一方で政軍の指導者としては優秀だったが、恩倖を信任した後主は有力な勲貴・宗室の多くを粛清して軍事的に凋落し、南朝陳に淮南を奪われた後に北周に滅ぼされた。
 

高歓  496〜547
 北斉の高祖、神武帝。字は賀六渾。懐朔鎮の鮮卑系鎮民で、後に渤海蓚県(河北省景県)を本貫とした。 六鎮の乱に加わり、杜洛周・葛栄に従った後に爾朱栄に投じて重用され、羊侃邢杲の討伐に従って晋州刺史(山西省臨汾市域)とされた。 爾朱栄が殺された後は爾朱兆に通じて山東に進出し、信都(衡水市冀州)の高乾らに迎えられて殷州(河北省隆堯)の攻略を以て爾朱氏と決別し、韓陵の役で爾朱氏を滅ぼすと洛陽に孝武帝を立てて大丞相を称し、534年に孝武帝が関西に奔ると孝静帝を立てて鄴に奠都した(=東魏)。
 高歓の勢力は北魏の華化政策の反動派を軍の基盤としつつ漢人士族と結びついたもので、537年の潼関の失陥に続く沙苑の役河橋の役で河南の西半と河東を失ったものの、関中政権に対して優勢な国力を背景に543年には邙山の役宇文泰を大破し、西魏に政策の転換を余儀なくさせた。 河東の玉壁攻略にはついに成功せず、546年の大敗を痛憤して程なくに晋陽で歿した。

高昂  491〜538
 字は敖曹。高敖曹とも。 高乾高愼の弟。 郷里では侠暴を懼忌されたが、高乾の挙兵に従って胆略を讃えられ、爾朱栄の死で直閣将軍に直されて高乾と行動を与にし、殷州攻略の際の勇武は項羽に比せられた。 元朗が擁立されると冀州刺史・大都督とされ、韓陵の役では左軍を率いて爾朱兆を大破し、孝武帝の親征に対しては高歓の前駆となって斛斯椿らを追討した。 行豫州刺史・司徒公を歴任し、536年の西征では西南道大都督とされて洛州(陝西省商洛市区)を抜いて藍田関に進み、潼関の陥落で却くところを大破されて重傷を負ったが、恢復後に76軍の大都督とされた。
 司徒の時に愛用した小帽が世に司徒帽と称されるなど漢人の支持が篤く、又た鮮卑軍人に漢人朝士が軽視される風潮の中でも高昂のみは畏憚され、高歓も軍中に高昂がいる場合に限っては軍令に漢語を用いた。 又た虎牢で御史中尉劉貴を私怨から襲撃した際や詣府を制止した門者を射殺した際にも不問とされ、538年に京兆郡公とされた。 河橋の役では西軍に対して旗蓋を掲示し続けて大破され、かねて不和だった河陽太守高永洛に入城を拒まれて城下で戦死した。 560年に永昌王に追封された。

高隆之  494〜554
 高平金郷の人。字は延興。 本姓は徐。姑婿の高氏に養われた父が冒姓し、高隆之が後に高歓に従弟とされて渤海蓚を本貫とした。 羊侃討伐の軍中で高歓と交結し、高歓が蜂起すると大行台右丞とされて篤く親任され、給田の膏痩平均化や鄴奠都などを主導して大権があり、高歓が晋陽に鎮した後は鄴で司徒公・監起居事、領軍将軍・録尚書事、太子太師・尚書左僕射・吏部尚書などを歴任して高岳孫騰司馬子如らと“四貴”に数えられた。
 高澄の嗣業後は太保に進められたものの、執権は崔季舒楊愔らに移り、禅譲で平原王に進封されて録尚書事・監国史に直されたが、かねて文宣帝を軽侮していた事から、積怨によって撲殺されて路に棄てられ、諸子も鏖殺された。 かつて魏収を該奏した事から、『魏書』では国史編纂に於いて名目のみの総裁官だったことが強調されている。

温子昇  495〜547
 済陰冤句の人。字は鵬挙。晋の驃騎大将軍温嶠の裔と称した。 博学・能文を常景孫搴に絶賛され、広陽王元淵にも認められて特に御史に抜擢された。 元淵の死後は孝荘帝に近侍し、爾朱栄の粛清にも参与して大赦の詔を起草した為に爾朱兆が入洛すると隠遁したが、韓陵の役の後に出仕して散騎常侍に進み、高歓にも用いられた。高澄が嗣業すると大将軍諮議とされたが、荀済らとの通謀を疑われて晋陽の獄中で餓死した。
 北朝を代表する詩人として魏収と併せて“北地三才”と称され、梁武帝から「曹植陸機の復生」と讃えられ、庾信からも共に語るに足る者に挙げられた。 楊愔からは邢戟E王マ同様に才徳を兼備する稀有な文人とされたが、『北史』では「内、陰険にして紛争に関わるを好み、遂に終わりを全うせず」とある。

高澄  521〜549
 北斉の世宗、文襄帝。字は子恵。高歓の長子。孝静帝の妹婿。北魏で侍中、東魏では左右京畿大都督・大将軍として高歓を輔け、厳獅ネ法治を以て畏憚された。 崔暹ら漢人士族に親しみ、嗣業の直後の侯景の離叛を駆逐してより勲貴軍閥の縮小と覇府への集権を進めた。 孝静帝と通じた荀済らの謀殺を制圧し、549年には南朝の侯景の乱に乗じて淮南を接収して相国・斉王に進んだが、散騎常侍陳元康・吏部尚書楊愔・黄門侍郎崔季舒と禅譲の密議中に給仕の蘭京らに襲われて殺された。陳元康は高澄を庇って殺され、脱出した楊愔と厠に隠れた崔季舒は難を免れた。

文宣帝  529〜550〜559
 北斉の初代君主。顕祖。諱は洋、字は子進。高澄の実弟。兄が殺されると晋陽に潜行してから喪を発して嗣業し、翌年に魏の孝静帝に譲位させた。 魏の宗室3千余人を鏖殺する一方で楊愔ら漢人士族を任用して体制を整え、555年に蕭淵明を送還して南朝への干渉を進め、梁末の内戦では徐嗣徽らの建康攻略を支援した。 又た北方に対しても554年に契丹柔然に親征し、180万人を動員して長城を修築して新興の突厥に備えた。
 深沈果断と評された反面で飲酒による淫虐が酷く、殊に晩年には嗜殺が甚だしくなり、宮庭には虐殺用の刑徒が備えられ、3ヶ月存命すれば釈放されたとも伝えられる。過度の飲酒で不予となり、弟の常山王太子の後見とし、簒奪を容認して不殺を誓わせた後に歿した。

斛律金  488〜567
 朔州の高車人。字は阿六敦。可汗の一族に連なり、騎射と用兵に長けて懐朔鎮で累功があった。 六鎮の乱に従った後に雲州で帰順して第二領民酋長とされ、杜洛周の乱で爾朱栄に投じ、累功で鎮南大将軍に進んだ。 高歓の挙兵に従った後、爾朱兆の追討に加わって汾州刺史・大都督に転じ、沙苑の役河橋の役では別将として河東を経略した。 邙山の役では河陽城(河橋南城)を堅守して大司馬・第一領民酋長に進められ、546年の玉壁攻略にも従った。
 侯景の離叛では河陽を守って西魏の援軍を撃退し、西魏の王思政による潁川占拠でも河陽に進駐して援軍を断ち、高澄の潁川平定を成功させた。 禅譲で咸陽郡王に封じられて三師を歴任し、突厥が抬頭した後は北防に転じて文宣帝の北伐にも従った。 晩年には左丞相に至り、長子の斛律光をはじめ軍の要職にある一門子弟も多く、帝室の外戚としても重んじられて繁栄し、そのため粛清を懼れてしばしば骸骨を求めたものの聴かれなかった。

廃帝  545〜559〜560〜561
 北斉の第二代君主。閔悼王。諱は殷。文宣帝の長子。 好学・温順だった為、太子とされながらも文宣帝からは高家の子に非ずと疎まれたと伝えられる。 即位後は輔政の楊愔・燕子献・宋欽道ら漢人士族と叔父の常山王長広王らが対立し、楊愔らを粛清した常山王に廃されて済南王とされ、翌年に晋陽で殺された。

楊愔  511〜560
 弘農華陰の人。字は遵彦。北魏の司空楊津の子。 好学で清談と音律を能くし、六鎮の乱を避けて父に随って定州に遷り、孝荘帝に散騎侍郎とされたもののと与に嵩山に隠棲した。 父が爾朱氏に殺されると高歓に帰順して大行台右丞とされ、覇府の文書を宰領し、兄が直言が原因で刑死すると変名・隠遁したが、後に徴還されて原職に復した。 高澄の嗣業後から吏部尚書を本官として禅譲で太子少傅を領し、魏の孝静帝の高皇后(文宣帝の実妹)を再嫁され、文宣帝の末年には開封王に進封された。
 長らく詔誥の起草と人事を宰領して漢人の領袖と目され、文宣帝の遺詔で高帰彦・燕子献・鄭子黙らと与に輔政を託され、勲貴層の支持を集める皇叔の常山王長広王と対立したが、勲貴の剥爵を強行して高帰彦ら中立派にも離背され、常山王の転出に失敗して処刑された。

  496〜?
 河間鄚の人。字は子才。邢劭とも。博覧強記で、夙に崔亮に認められて文名があり、族父の邢巒からも絶賛された。 宣武帝の時に奉朝請で起家し、李挺元叉に礼遇されて著作佐郎に転じ、“彫虫(文章の修飾)独歩”と讃えられて一文が成ると書写のために紙価が高騰したとも伝えられる。 江南では“北地三才”として温子昇魏収と並称され、又た“北地第一才子”とも呼ばれて南使として求められた事もあったが、容姿によって選定されなかった。
 声望を袁翻に妬まれて青州府に転出し、程なく爾朱栄を避けて楊愔と与に嵩高山に遁れ、爾朱氏の在世中は出仕しなかった。 崔暹の薦挙もあって高澄にも礼遇されたが、崔暹の無学を公言した為に枉陥されて西兗州刺史に出され、文名を重んじられて太常卿・中書監・国子祭酒に直されたものの枢機には戻されず、特進を以て歿した。
 詩風は温子昇と同様に精緻・艶冶だったが、建安正始への回帰を主唱し、円満な人格と後進の励賞を好んだ事からも温子昇と並んで“文士の冠”・“温邢”と讃えられ、温の死後に漸く“邢魏”の称が生じた。

魏収  506〜572
 鉅鹿下曲陽(河北省晋州)の人。字は伯起。北魏の驃騎大将軍魏子建の子。 博学と詩文の才を吏部尚書李挺に認められ、節閔帝の下で起居注として国史編纂にも携わり、高歓の下では忤意や崔陵との対立から任用されなかったものの高澄には重用され、詔令の多くを草した。 の失寵後は枢機にも列して禅譲の詔勅を草し、中書令を加えられて律令編纂にも参与し、554年には『魏書』を完成させた。 孝昭帝が即位すると文事を陽休之に、史事を祖珽に移され、武成帝の下で執政の高元海に通じて開府・右僕射を加えられたものの、後に罷免された。
 不断の軋轢の原因となった矜競は高澄にも不遜と顰蹙され、殊に邢撃敵視し、又た従叔の“大魏”魏季景と“二魏”と並称されたり“小魏”と呼ばれる事を嫌悪した。 遣梁副使となった際(539)に娼婢を公館に伴うなど礼節に悖る言動も多かったが、その文才は南朝でも温子昇・邢撃ノ並ぶ“北地三才”と絶賛された。 殊に文章を高く評価されたが、自身は文化の第一として詩賦の才を誇り、任ムを模した詩風は当時から「魏収を譏るは任ムを誹るに同じ」と称された。
 『北史』では「後進の薦奨は節行を重んじ、才があっても浮華軽険は用いなかった」とあるが、『魏書』編纂での曲筆の恨みから、平斉の後に墓が暴かれて遺骨を遺棄された。

孝昭帝  535〜560〜561
 北斉の第三代君主。粛宗。諱は演。文宣帝の実弟。禅譲で常山王に封じられて幷省尚書令・大司馬などを歴任し、文宣帝が歿すると太傅とされた。 勲貴勢力に支持があり、楊愔ら漢人託孤を粛清して大丞相となり、半年後に太皇太后の令を用いて簒奪した。 酒毒に犯されておらず、賦税の減免や石鼈(江蘇省宝応)に大規模な屯田を興すなど名君として期待されたが、望気者を信じて晋陽の済南王を殺し、翌年には落馬が原因で歿した。 死に際して太子百年を廃して弟の長広王を皇太弟とし、百年の助命を遺言したが果たされなかった。

武成帝  537〜561〜565〜568
 北斉の第四代君主。世祖。諱は湛。孝昭帝の実弟。 禅譲で長広王に封じられ、文宣帝が歿すると兄の常山王を輔けて簒奪を成功させたが、間もなく皇太弟を反故とされ、領軍の庫狄伏連の更迭が求められるなど削権が図られた。 孝昭帝の臨終に皇太弟に立てられ、孝昭帝の遺詔に背いて甥の楽陵王を殺した翌年(565)、彗星の出現と二代の弊風に鑑みて太子緯に譲位し、太上皇帝として執政を続けた。
 酒毒の害は文宣帝以上だったが、平時には英主の片鱗を示し、又た段韶斛律光ら名将を擁して北周に対して軍事面でも優位を保った。 性情は遊惰逸楽を好み、恩倖を重用したことで勲貴・宗室と漢人士族の対立が悪化し、宮中の綱紀は紊乱して国力を疲弊させた。 『資治通鑑』には「高洋のころ周人つねに斉兵の西出を恐れて冬に河を守って氷を砕き、高湛のとき却って斉人氷を砕いて周兵に備うる」と記されている。

和士開  523〜571 ▲
 清都臨漳(河北省)の人。字は彦通。西域の素和氏の裔。国子学生の時に琵琶・胡舞などの伎芸を以て高湛に仕え、一時は文宣帝に慢狎を譴責されて北辺に謫されたが、孝昭帝の簒奪で長広王高湛に徴還されて武成帝の即位で黄門侍郎・侍中とされた。 武成帝の代表的な恩倖で、胡皇后にも寵愛されて朝政を専断し、武成帝が譲位した後も権勢を保って570年には尚書令・淮陰王に至った。 君寵を恃んだ醜行も多く、琅邪王高儼・領軍の庫狄伏連らに誅された。

祖珽
 范陽遒の人。字は孝徴。文安県伯祖瑩の嗣子。文才に秀でで音楽・言語にも通じ、機警でもあった事から高歓・高澄に重用された。 性は不羈放縦で節倫に欠け、淫逸と蓄財を好んで宴席で貴器を偸匿することもあり、しばしば横領などで罷免され、禅譲を機に挙用されて詔誥を掌った後も文宣帝からは“賊”と呼ばれた。 常山王高演の執権で罷免されたが、武成帝に中書侍郎に叙されて詔誥を掌り、太子への譲位を進言して秘書監に転じた後は尚書令趙彦深・侍中和士開らと寵を競い、宰相の位を趙彦深と争って敗れ、加鞭200のうえ光州に徙されて獄中で失明した。
 武成帝の死後に陸令萱・穆提婆母子に通誼して赦され、趙彦深の放逐に成功して琅邪王高儼の処刑や胡太后の幽閉にも参与して左僕射・監国史・燕郡公となり、文林館にも加えられ、陸令萱らとの連結で朝政を主宰した。 有力勲貴の斛律光とはかねて不和で、周の韋叔裕の流言「百升飛上天、明月照長安」を以て斛律光の謀叛の預言と強弁し、韓長鸞・穆提婆・高元海らの疑義を排して族滅した。 次いで高元海の排斥に成功して領軍を兼ねたが、恩倖の一掃には失敗して北徐州刺史に出され、在任のまま歿した。

高帰彦  〜562
 平秦王。字は仁英。高歓の族弟。 元天穆の娘を娶ったが、声楽・酣歌を楽しんで睦まなかった。 幼時より高歓に寵遇され、禅譲で平秦王に封じられ、侯景討伐に加わって領軍大将軍とされた事は、領軍に大将軍が加えられる嚆矢となった。 文宣帝の死後楊愔らが密かに太子を晋陽から鄴に遷した事を怨恚し、常山王高演・長広王高湛の排斥を諮られると高元海を介して長広王に通謀し、両王の外刺史叙任が阻止されて楊愔らは誅殺された。 孝昭帝の即位後は常に平原王段韶の上位に置かれて厚遇され、天子のみに認められた紗帽を特に許された。
 武成帝の即位を支持して太傅・領司徒に進んだ後は倨傲な言動と高元海らの譏議で忌まれるようになり、太宰・冀州刺史に出されると誅殺を恐れて武成帝の晋陽行幸に乗じて挙兵を謀ったが、段韶に敗れて鄴で斬られた。

段韶  〜571
 字は孝先。段孝先とも。儀同三司段栄の嗣子。 高歓の外甥。騎射に長じて将幹があり、早くから高歓の軍事に近従して信任され、邙山の役では賀抜勝から高歓を救い、546年に玉壁攻略中に高歓が不予となると、軍事については必ず段韶に諮る事が高澄や諸将に遺言された。 高澄の外征ではしばしば晋陽を留守し、禅譲で尚書右僕射・冀州刺史・長楽郡公に直され、553年に梁軍が淮南に進出して宿豫(宿遷市区)を占拠した際には討伐の統帥とされ、梁軍を撃退して広陵・盱眙を確保し、平原郡王に進封された。
 562年に高帰彦の乱を平定し、564年に北周が突厥を先鋒に晋陽を侵すと武成帝の親征に従って撃退し、同年の邙山の役でも斛律光と与に周兵を大破した。 567年には左丞相に至り、571年に周兵が来攻した際には連動した突厥を撃退したのち定陽に転戦したが、軍中で重篤となり、蘭陵王に周兵撃退の計策を授けて歿した。

斛律光  515〜572
 字は明月。咸陽郡王斛律金の長子。 父同様に騎射と用兵に長じて高歓・高澄に信任され、高澄に従った狩猟で“射雕手”と称され、落G都督と号した。 戚縁と累功によっ561年には尚書右僕射に進み、564年に平陽に進攻した周兵が斛律光の出戦を知るや退却するほどの威名があった。 同年の邙山の役では統帥として蘭陵王高長恭・太師段韶らと共に周兵を大破して太尉とされ、翌年には大将軍に進められた。 570年に玉壁周辺に華谷・龍門・平隴などの城鎮を築造して宇文憲韋叔裕らを撃退し、又た汾北の黄河東岸まで拓疆し、左丞相に進んだ。
 段韶と並ぶ軍の双璧と認識され、父の死で咸陽王・第一領民酋長を襲ぎ、又た長女は高百年(孝昭帝の太子)の妃、次女は後主の皇后とされ、弟の斛律羨をはじめ要職にある宗族も多く、勲貴の尤と見做された。 恩倖と結んで勲貴の排除を進める祖珽を奸臣と見做して互いに忌譏し、又た穆提婆からも通婚を拒否した事で怨恚され、韋叔裕の離間によって祖珽らに枉陥され、謀逆として族滅された。
 平素は寡黙・厳粛で、律法の運用も厳酷だったものの恣意を交えず、又た戦死者が少なかった事もあって兵の帰慕が篤かった。 それだけに北周の武帝・韋叔裕に強く畏憚され、宇文泰は斛律光の訃報に接すると歓喜して大赦を発し、平斉の際には「此人が若し在らば、どうして鄴に到れたであろう」と歎じて上柱国・崇国公を追贈した。

後主  556〜565〜576〜577
 北斉の第五代君主。諱は緯。武成帝の嫡長子。 琅邪王高儼による簒奪の予防として武成帝に譲位された。 放埓かつ倦怠的で、自ら作った無愁の曲を好んで“無愁天子”と揶揄され、又た群蠍の中に罪人を投じることを非常に喜び、これを教えた兄の南陽王を大将軍とした。 恩倖を親任して酒色に耽溺し、猜疑と嫉視から多くの宗室・臣僚を殺し、又た漢人士族と勲貴の反目を治めず国力を疲弊させ、段韶が歿した翌年には讒言で斛律光を処刑し、南朝による淮南征服と北周の攻勢を招来した。
 576年に平陽(山西省臨汾)を失陥して親征したものの、逃亡した妾妃を追ったために全軍壊乱して晋陽(山西省太原)も失われ、鄴都に奔遁して太子に譲位したが、翌年に鄴を棄てて南奔する途上の青州(山東省)で幼主と共に捕われた。 北周では温公に封じられたが、穆提婆の謀叛に連坐して族滅された。

幼主  570〜577/577 ▲
 北斉の第六代君主。諱は恒。後主の長子。北周の攻勢で鄴からの奔遁を図る後主に譲位された。 数日後に父と共に鄴を逃れ、瀛州の任城王高湝への譲位を図ったものの使者が北周に投じた為に果たされず、青州で後主らと共に捕捉され、翌年に穆提婆に連坐して殺された。

高長恭  〜573
 蘭陵王。一名は孝瓘。高澄の第4子。文宣帝の末年に封建された。 驍勇果敢で、564年の邙山の役では斛律光段韶と共に北周軍を洛陽から撃退し、このとき500騎で重囲を破って金墉城下に達した際、冑を脱いで面貌を晒して開門させたことから、柔面を隠すために戦場では仮面を被ったとの伝説が生じた。 尚書令・司州牧などを歴任して太尉に進み、571年に定陽攻略中に段韶が重篤となると後事を託されて周兵を撃退した。 後主の嫉忌を自覚してより貪財を装い、定陽の戦勝の後は病を称して戦功の累積を避けたが、斛律光が殺された翌年に賜死された。
 邙山の役の際の驍勇を讃える為に作られた“蘭陵王入陣曲”は、唐代に日本に伝わって雅楽の演目に加えられ、又た京劇でも題材とされている。

高延宗  544〜577
 安徳王。高澄の第5子。文宣帝に鍾愛され不羈・驕縦が甚だしく、武成帝に近侍9人を殺されてより不法は治まったものの剛直の質は変らず、邙山の役で周兵を追討しなかった蘭陵王を非大丈夫と評したが、兄弟からは勇壮を讃えられた。 蘭陵王の死を痛憤して後主を罵った際には廷杖を乱打されたものの一命を保ち、後に司徒・太尉を歴任した。
 平陽救援に失敗した後主が晋陽に奔る際に相国・幷州刺史とされ、後主らが鄴に退くと将兵の勧進で称帝したが、任城王高湝に与力を拒まれ、周兵に晋陽を囲まれると執矟督戦して一時は武帝に撤退を考えさせたものの、翌日に大敗して擒われた。 長安でしばしば自殺を図った後、穆提婆に連坐して自殺した。

顔之推  531〜?
 琅邪臨沂の人。字は介。顔勰の子。文辞を評されて梁の湘東王に仕え、放埓な遊蕩貴族として世人に軽んじられた。 承聖の江陵陥落で北徙され、大将軍李穆に認められて弘農の陽平公李遠に仕えたが、黄河の増水期に乗じて砥柱山を越えて斉に遁れ、滅梁で斉に留まって文宣帝の側近に加えられた。 祖珽にも博識と文藻で重んじられたが、北徙の後は空疎な玄学を否定して実学に志し、又た政局を避けて中書舎人の叙任を泥酔して回避した。
 573年に文林館待詔とされ、後主にも重用されて通直散騎常侍・中書舎人に進み、祖珽の党人と見做されたものの、陳の呉明徹に寿陽が陥された際には晋陽行幸の諫止に加わらなかった為に崔季舒への連坐を免れた。 晋陽から退走する後主に奔陳策を勧めた為に高阿那肱によって平原太守に出され、隋では太子勇に厚遇されて東宮学士に迎えられた。 主著の『顔氏家訓』では江南名族の実態を批判し、一族に対する処世訓としている。
 砥柱山は河南省陝県の黄河中に屹立する岩塊で、「一夜七百里」と詠われた黄河中流の難所として著名で、座礁の可能性を避けて敢えて増水期の舟航を選んだ事は勇決とも暴挙とも評されました。
 斉は周よりも漢人文化への依存が強く、文人名士の顔之推が重用される素地は充分にありましたが、詔書の起草を掌るだけでなく軍務にも携わる北斉の中書舎人は勲貴派と漢人士族の政争の犠牲になり易く、加えて近侍官でもある為に文宣帝の酒乱で殺される危険も高く、顔之推としては全力で回避した事でしょう。

  
文林館:斉の後主が屏風へ描画する古の名賢・烈士の伝や軽艶詩を集めさせた際、選定に加わった顔之推祖珽らによって設立された。 他に陽休之も加わるなど漢人士族官僚の牙城的存在となり、北族勲貴から大いに憎まれた。 一般的に武平三年(573)の創設とされるが、前年に歿した魏収も文林館待詔とされており、二年の誤記説が有力視される。

 
 
 

北周

 557〜581
 六鎮の乱で爾朱天光に従った西征軍のうち、賀抜岳の率いた北鎮系軍閥を基盤として宇文泰が樹立した西魏政権の後身。 人口・生産力とも関東政権に大きく劣り、この東西格差は553年に巴蜀を併合した事でも埋められず、漠北で柔然を滅ぼした突厥への通誼を余儀なくされた。 北魏の失敗の原因を漢化政策に求めて旧俗回帰を標榜したが、漢人勢力の協力を得る為に古代周制の採用などの配慮が為された。
 宇文泰の死後は弟の宇文護の主導で禅譲や二帝の廃立が行なわれ、宇文護の粛清に成功した武帝によって廃仏府兵制が行なわれて富国強兵の実を挙げ、577年には北斉の併合を達成した。 武帝の死後は外戚の楊堅が急速に抬頭し、尉遅迥の造叛が失敗した後に簒奪された。
 明確な国家体制を定められなかった北斉に対し、南朝的貴族制と決別した事は続く隋唐で科挙制が採用される素地になった。 国事は武川鎮出身の軍人貴族の合議で運営され、八柱国十二大将軍と総称された彼らは国家の最高職を独占する名門として認識された。 宇文泰も八柱国の一員であり、隋の楊氏は十二大将軍家、隋末の李密や唐を興した李淵は八柱国家の出で、唐朝初期に亘る支配層は武川鎮軍閥・関隴集団とも称される。
文帝  武帝  宣帝
 

宇文泰  505〜556
 北周の太祖、文帝。武川(内蒙古武川)の字は黒獺。匈奴宇文部の裔。宇文肱の子。 鮮于修礼の乱に加わった後、賀抜岳に従って軍政の枢機に参与し、夏州刺史の時に賀抜岳が殺されると平涼の趙貴らに奉迎されて侯莫陳悦を討滅し、関西の統領となった。 次いで高歓排除を宣して孝武帝を庇護したが、年末には孝武帝を殺して文帝を擁立し、大将軍・丞相・都督中外諸軍事・大行台・安定公に進んだ。
 武川鎮系の鮮卑兵力による挙国的な軍事で高歓に対抗し、沙苑の役で河東や河南への進出を果たして洛陽をも陥したが、543年の邙山の役での大敗で深刻な兵力難に陥り、鮮卑偏重の体制からの転換を余儀なくされて国制の整備改革を進めた。 新興の突厥に対しては通婚・朝貢などで連和を購い、鄴の高氏との貢納競争は後に突厥の佗鉢可汗をして「南の二児が孝順である限り、我が富貴は安泰である」と云わしめた。
 府兵制が機能した後、553年に吐谷渾を伐って河右を安定させ、並行して南朝の侯景の乱に乗じて巴蜀を併せ、翌年には江陵を陥して沔南を藩屏化し、太師・大冢宰に進んだ。 府兵制は従来の鮮卑偏重を修正して漢人にも兵力供出を求めたもので、その為、『周礼』に基づいた六官制など周制復古を標榜して漢人士族にも配慮したが、胡姓への回帰や胡語の公用語化、八柱国による六官占有など、軍国の鮮卑主導は維持された。
  
邙山の役(543):東魏の高慎の転向を機に東進した宇文泰が、洛陽北郊の邙山で大敗した戦。 虎牢の高慎の受降と支援要請に対し、李遠を前鋒とした宇文泰は洛陽に進出し、河橋の破壊を斛律金に防がれて邙山で高歓と対陣したが、夜襲に失敗して諸王将佐48人を擒われた。 翌日の決戦では趙貴を左軍、若干恵らを右軍に置いて戦況を優位に進め、賀抜勝が高歓に肉迫する一幕もあったが、左軍の敗北によって戦線が崩壊して潰走に転じた。 独孤信于謹による佯降を用いた逆撃と、若干恵の陽動で追撃による全壊は防がれ、達奚武の陝への進駐で追撃を断ったが、元々兵力で劣っていた西軍は深刻な人員不足に陥った。

蘇綽  498〜546
 武功(陝西省)の人。字は令綽。 好学博識で、又た実務と計算に長け、西魏で宇文泰に仕えて均田制を伴う戸籍法の改正や農産の振興を行なって信任された。 邙山の役の翌年に度支尚書・司農卿に進められて国制の改革に着手し、冗員の削減や屯田の設置などによって国富の再興を進めた。 北魏・東魏の貪婪浮華の風を否定して実務主義と復古を志向し、官吏心得たる『六条詔書』を定めて徹底させ、文事に於いても公文書の書式を規格化して駢麗体から尚書体への回帰を模索した。『周礼』をもとにした官制改革の実現前に過労から病死した。

李弼  494〜557
 遼東襄平の人。字は景和。武勇に秀で、六鎮の乱に加わった後に爾朱天光に降り、常に先鋒となって畏れられた。 爾朱氏の敗滅後は侯莫陳悦に従って南秦州刺史とされたが、賀抜岳が殺されると宇文泰に密通し、偽報によって侯莫陳悦を秦州に封じて討平を成功させた。 西魏の建国で雍州刺史に転じ、537年の東征では潼関の竇泰を撃滅し、沙苑の役に加わって趙郡公とされ、次いで賀抜勝と共に河東を経略して汾州・絳州を抜き、河橋の役では重傷を負った。 549年に柱国大将軍を加えられ、552年の改姓で徒河氏とされ、官制改革で六官の第二位の大司徒とされて太傅を加えられた。 宇文泰が歿すると于謹と与に宇文護を輔佐し、禅譲で太師・趙国公に進められた。

趙貴  〜557
 天水南安の人。字は元貴、或いは元宝。祖父の代より武川鎮に居し、葛栄が敗滅した事で爾朱栄に属して別将とされた。 賀抜岳の西征に従って都督・鎮北将軍に進み、賀抜岳が殺されると平涼に散兵を糾合して夏州刺史宇文泰を奉迎し、府司馬とされて侯莫陳悦の討平に従った。 洛陽から来奔した孝武帝の奉迎使となって車騎大将軍を加えられ、李弼らと与に霊州刺史曹泥を伐ち、潼関攻略・沙苑の役にも従って雍州刺史とされた。
 河橋の役で左軍の戦線を維持できず、邙山の役では左軍を統制できずに敗戦をもたらして罷免されたが、驃騎将軍・大都督として軍務を続け、間もなく御史中尉・大将軍に復した。 549年に柱国大将軍に進位し、552年の改姓で乙弗氏とされ、556年の官制改革で六官の大宗伯とされて太保を加えられた。 禅譲で太傅・大冢宰・楚国公に進められ、独孤信らと与に宇文護粛清を図ったものの宇文盛の密告で殺された。

独孤信  503〜557
 雲中の人。本諱は如愚。匈奴独孤部の裔。武川鎮に居して騎射に長じ、六鎮の乱が起ると宇文肱らと行動を与にし、葛栄の下では綺羅で知られ、次いで爾朱栄に降って別将とされた。 爾朱栄が殺されると新野郡守とされて荊州刺史源子恭賀抜勝に属し、賀抜岳が殺されると関中に派遣されて宇文泰に帰順した。
 宇文泰とは旧知でもあって信任され、賀抜勝が荊州を失うと東南道行台・大都督・荊州刺史とされて三荊を回復したが、高昂・侯景に敗れて梁に亡命し、537年に帰国した。 弘農攻略や沙苑の役、河橋の役にも加わり、邙山の役では于謹と与に敗兵を糾合して東軍の後方を撹乱し、西軍の撤退を援けた。 岷州や涼州、荊州などを転戦し、隴中では刑政の粛正や勧農などによって数万家の流民が帰服し、宇文泰に嘉されて“信”と賜名された。 548年に柱国大将軍に進位し、556年の官制改革で六官の大司馬とされ、禅譲で太保・大宗伯・衛国公に進み、趙貴に連坐して罷免された後に宇文護に逼られて自殺した。
 長女は明帝に、4女は李虎に嫁して唐の国母とされ、楊堅に嫁した第7女が隋の皇后に立てられると太師・上柱国・冀定相等十州諸軍事・冀州刺史・趙国公を追贈された。
“六鎮の乱に抵抗した後に河北に遷り、そこで鎮民の乱に遭ってやむなく杜洛周・鮮于修礼・葛栄に従った後に爾朱栄に帰順した”という、北周や北斉の有力者にありがちな遷移は、ぶっちゃけ六鎮の乱に参加した鎮民の典型な動きです。 六鎮の乱に積極的に参加したとは書けない史書の苦しい言い訳にすぎません多分。当然、宇文氏や賀抜氏なども怪しいわけで。

于謹  493〜568
 河南洛陽の人。字は思敬。本姓は万紐于。沈着大度かつ好学で『孫子』に通じ、六鎮や鎮兵の乱では元天穆広陽王に従い、孝荘帝が即位した後に再び元天穆の軍事に従って征虜将軍に叙された。 次いで爾朱天光の西征に従って征北大将軍・大都督に進み、爾朱氏が敗滅すると関中に投じて夏州刺史宇文泰の長史・防城大都督とされた。
 宇文泰にも勇略を重用され、弘農攻略や沙苑の役にも加わり、543年の邙山の役では佯降を用いて東軍を襲撃して西軍の壊滅を免れさせた。 549年に柱国大将軍に進位し、554年には楊忠と与に宇文護に従って江陵を陥し、10余万の虜囚を北徙した。 556年の官制改革で六官の大司冦とされ、宇文護と並んで宇文泰に後事を託され、禅譲によって太傅・燕国公とされて李弼侯莫陳崇らと朝政に参与し、567年に雍州刺史とされた。

孝閔帝  542〜557/557
 北周の初代君主。諱は覚、字は陀羅尼。宇文泰の嫡長子。北魏の孝武帝の外孫。 556年冬に宇文泰が死ぬと太師・大冢宰を襲ぎ、周公を経て、翌年正月に魏帝から禅譲されて周天王を称した。 剛毅果断と評され、万機を専断する叔父の宇文護の暗殺に失敗して略陽公に貶され、幽閉中に殺された。

明帝  536〜557〜560
 北周の第二代君主。諱は毓。宇文泰の庶長子。賢察・度量寛弘として輿望が高く、岐州刺史から迎立され、内政については宇文護から奉還されて親政したとされる。 宇文護を太師に進め、559年に天王の号を廃して皇帝を称したが、才器を宇文護に忌まれて毒殺された。

宇文護  515〜572
 字は薩保。宇文泰の兄の子。早くから宇文泰を腹心として輔け、歴功によって546年には驃騎大将軍・中山公とされた。 556年に宇文泰が歿すると遺命に従って宇文覚(孝閔帝)を立て、西魏からの禅譲を主導して晋公・大冢宰となって万機を総覧した。 翌年に対立する趙貴独孤信らを殺して独裁体制を確立し、次いで廃帝を行なって明帝を立てると太師となり、560年には明帝を弑して武帝を立て、都督中外諸軍事を加えられた。
 宇文泰の政策を継承して北周の基礎を固めたが、563年に生母が北斉から送還されると突厥と結んで東冦して翌年に晋陽で段韶に大破され、撤退する突厥兵の略奪行は「晋陽以北に人畜の姿無し」と称された。 さらに報復として同年に起した東征も失敗し、北斉の突厥への接近を結果した。 入朝して太后に謁したところを武帝に誅殺された。

武帝  543〜560〜578
 北周の第三代天子。高祖。諱は邕。異母兄の孝閔帝・明帝に次いで宇文護によって立てられた。 沈毅深謀と評され、即位後しばらくは政務を避けて庸惰に徹し、又た儒者や僧侶・道士との論議を好んで宇文護を韜晦した。 572年に宮中で自ら宇文護を斬殺して親政を開始し、574年に著しく堕落していた道教・仏教をともに粛正して国力を増強した後、疲弊著しい北斉の攻略に着手して577年に鄴を陥し、斉主を執えて華北を統一した。 翌年には陳軍を逐って淮南をも征服したが、突厥遠征に転じた北伐の途上で歿した。 北斉の遺族や遺臣、陳の敗将に対して寛容だった一方で刑罰の運用は厳格で、殊に太子に対する体罰はしばしば朝議でも問題となった。

衛元嵩
 仏僧から還俗して成都から上京し、567年に富国強兵の一環としての全宗教の廃禁と、天子を大神とする国家宗教を主張した。 親政を開始した武帝は、道士の張賓からの廃仏の進言もあって道仏二教の代表を召集して論争させたが、二度とも道教が敗れた為に574年に両教の粛正を断行し、多くの寺観が廃されて還俗が行なわれた。 廃仏令の翌月には通道観が設置されて道教・仏教の研究が認められたが、仏教に対する制限は大きく、仏教界は大規模な再編成を余儀なくされた。

王褒  513?〜576?
 琅邪臨沂の人。字は子淵。梁の侍中王規の子。梁武帝の弟/鄱陽王恢の娘婿。 風采や言辞・学識などは文人貴族の典型で、顧野王とは“二絶”と称され、草書・隷書は師で外叔でもある蕭子雲に亜ぐとされたが、貴顕を矜ることがなく、人望が篤かったと伝えられる。 秘書郎・太子舎人などの清要官を歴任し、元帝に厚遇されて領選・左僕射に進み、承聖の難に際しては都督城西諸軍事として最も重要な西門の守備を委ねられたが、朱買臣の突出を止められず、落城後は長安に徙されて車騎大将軍・儀同三司とされた。
 江南文化の象徴として庾信とともに敬重され、詔勅の起草を掌って明帝・武帝の行幸にも常に扈随したが、宇文護に忌まれて宜州刺史に遷され、在職のまま歿した。 江陵で元帝・庾信らと競作した『燕歌行』は、後の北徙を予言した詩讖として知られ、又た江南の旧友の周弘譲に宛てた書簡は駢文の名作とされる。

  513〜581
 南陽新野の人。字は子山。庾肩吾の子。 経史を博覧して特に『春秋左氏伝』に精通し、又た文藻を讃えられて15歳で蕭綱に近侍した。東宮府では庾肩吾・徐摛徐陵らと名を斉しくし、殊に華麗巧緻な駢文は当世の冠と絶賛され、世に“徐庾体”と呼ばれた。 侯景の乱では朱雀航に営したが、観戦中に流矢に驚いて逃散したことで守備が崩壊し、台城が陥されると湘東王を頼って江陵に遁れたものの、遣魏中に江陵が陥されて長安に留められた。
 南朝文化の象徴として宇文泰らに礼遇され、殊に明帝・武帝から王褒と与に敬重されて開府・驃騎大将軍に進位され、洛州刺史などを歴任した。575年に南朝陳との国交が開かれた後も帰国を許されず、579年に病を理由に致仕した。 魏収とほぼ同時代の人物だが、北朝の文人については温子昇盧思道薛道衡以外は驢狗の輩と評した。
 六朝文人として屈指の作品数が現存し、殊に北徙後の詩の評価は高く“望郷詩人”とも呼ばれ、しばしば六朝文学の集大成とも評されるが、それだけに作品に対する評価は六朝文学に対する褒貶に直結し、『周書』では「淫放を以って本とし、詞は軽険を宗とす」とあり、“詞賦の罪人”と評する書もある。

宇文憲  544〜578
 字は毗賀突。宇文泰の第5子。夙に驍果・大度を讃えられ、明帝の即位で大将軍に進位され、16歳で斉国公・益州総管とされて巴蜀の統治に治績を挙げた。 用兵にも長け、しばしば北斉を伐って撃退されたものの将兵の支持が篤く、宇文護にも信任されて武帝との折衝を仲介し、宇文護が誅されると大冢宰に進められて574年には斉王に進爵された。
 575年の東征では黎陽一帯を席捲したのち武帝の病臥で撤退したが、翌年の再征では武帝に従って晋陽攻略を指揮した。 翌年には高湝・高孝珩を討平したが、武帝が歿して程なくに威望を忌む宣帝によって将校と共に殺された。

宣帝  559〜578〜579〜580
 北周の第四代君主。諱は贇。武帝の長子。 即位直後に斉王を殺すなど恣意による諫臣・宿臣の刑戮が多く、佞臣の親寵と奢侈によって輿望を失った。 宗教に対しては偶像崇拝を容認して両京に陟岵寺を建立するなど禁令は緩和されたが、政策的な志向は認められない。 即位の翌年には太子に譲位し、自身を天帝に擬して天元皇帝を称して5皇后を立て、逸楽に耽って后父の楊堅に大権が集中する事態を醸成した。 東宮時代には資質の不足を危ぶまれ、そのため武帝の教育は厳獅ナ過失の毎に捶搏が加えられ、武帝が歿すると霊柩に対して「死すること遅し」と罵ったという。 病中に楊堅が参内した日に歿した事から、俗説では楊堅に暗殺されたと伝えられる。

静帝  573〜579〜581/581
 北周の第五代君主。諱は闡。宣帝の長子。幼少で宣帝に譲位され、外戚の随公楊堅が丞相となって輔政した。 宣帝の死後は楊堅に大権が集中し、尉遅迥をはじめとする大小の反動はあったものの581年に禅譲して介国公に封じられ、数ヶ月で暗殺された。

韋叔裕  509〜580
 京兆杜陵の著姓。字は孝寛。韋孝寛とも。 経史に通暁して計策にも長け、蕭宝寅討伐に従って国子博士・行華山郡事とされた後、大都督楊侃に婿とされ、530年に荊州刺史源子恭に従って析陽郡守とされた時は政果を以て新野太守独孤信と“聯璧”と讃えられた。 孝武帝の入関後に長安に到り、宇文泰の東征に際して弘農郡守とされて潼関攻略に従い、次いで独孤信に従って洛陽に進駐した。 542年に晋州刺史に転じてより玉壁(山西省稷山)に鎮し、546年に高歓が来攻した際には籠城60日の末に東軍を撃退して驃騎大将軍・建忠郡公に進められた。
 禅譲で小司徒に直され、564年に累功を以て玉壁に勲州が置かれて州刺史とされ、570年に鄖国公に進封された。 斛律光の排除に成功した後は武帝に平斉三策を献じ、平斉での汾北経略の功で戦後に大司空・延州総督・上柱国とされた。 静帝が立てられると徐兗等十一州五鎮諸軍事・徐州総管とされて江北を略定し、翌年には相州総管に転じて前相州総管尉遅迥の造叛を討平し、凱旋の翌月に歿した。
 統治官となっては恵政を以て帰慕され、又た能く間諜を用い、平斉最大の障害と見做した斛律光に対しては、鄴に謠歌「百升(=斛)飛上天、明月照長安」を流布して処刑させる事に成功した。軍中でも読書を楽しみ、晩年に眼疾を患った後は学士に朗読させたという。

尉遅迥  〜580
 代郡の鮮卑人。字は薄居羅。宇文泰の外甥。西魏文帝の娘婿。智勇兼備として宇文泰に信任されて弘農攻略や沙苑の役などに従い、553年には梁の武陵王の東征に乗じて巴蜀を制圧し、尚書左僕射・大将軍に大都督・十八州諸軍事・益州刺史を加えられて剣閣以南を総督し、禅譲で柱国大将軍・蜀公に進められた。
 平斉の後に大前疑・相州総管として鄴に進駐し、宣帝が歿すると徴還されて韋叔裕が後任とされたが、かねて楊堅の奪権を猜忌していた事から更迭を拒んで周室護持を唱えて挙兵した。 軍の柱石として将兵の支持も篤く、関東の19州のほか巴蜀の28州を統べる益州総管王謙が呼応して陳や突厥とも連和する大規模な叛乱となったが、韋叔裕による鄴の急襲で挙兵から68日で大敗し、自殺した。
 孫は後に隋文帝の寵妃となって独孤皇后に殺されたが、この件で宮城を出奔した文帝を還宮させる際に、高熲が皇后を指して「一婦人」と呼んだ事は独孤皇后に怨恚される一因となった。


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