東晋
317〜420国内では琅邪王氏・陳郡袁氏・陽夏謝氏ら北来の門地二品を頂点とする貴族制が確立され、江南開発の進展に伴い大土地所有・荘園経営が発達した。 貴族文化も開花し、詩の陶淵明、画の顧ト之、書の王羲之など中国屈指の文化人を輩出した。
桓玄平定の後は北府軍を掌握した寒人の劉裕が急速に抬頭し、後秦の覆滅による洛陽回復などの声望を背景に、420年に簒奪が行なわれた。
元帝 276〜317〜322
東晋の初代。中宗。諱は睿、字は景文。魏の太傅司馬懿の曾孫。琅邪王覲の嗣子。
散騎常侍夏侯湛の外甥。
蕩陰の役では東海王に随い、敗退後は幕僚の王導の勧めで琅邪に就国し、永嘉元年(307)に安東将軍・都督揚州諸軍事とされて建業に鎮した。
顧栄・賀循らを幕僚に迎えて呉姓の支持を集め、王導を介して僑姓の糾合にも成功し、洛陽の陥落後は江東の盟主とされて愍帝より丞相・大都督中外諸軍事を遥授された。
陽羨周氏の制圧で北主南従の体制を確立し、長安陥落とともに宗室唯一の生存者として晋王を称し、愍帝の殺害を享けて318年に登極する頃には江東・淮南と荊州以東を支配していたが、軍事・政事の実権は王敦と王導にあり、「王と馬と、天下をともにす」と評された。
江北の軍事力を背景に王氏削勢を図って王敦の叛乱を招き、王敦の軍権を容認して間もなくに憂死した。
王導 276〜339
琅邪臨沂(山東省)の著姓。字は茂弘。太保王祥の弟/光禄大夫王覧の孫。
清談に長じて声望が高く、東海王の幕僚に連なった後に下邳の琅邪王に招かれた。
琅邪王に建業への移鎮を勧めて従兄の王敦を招き、僑姓と呉姓の提携を進めるなど江東に琅邪王の勢威を確立し、316年の長安陥落で琅邪王を晋王に立てて揚州刺史・監江南諸軍事・領中書監・録尚書事とされ、318年の登極で驃騎大将軍・儀同三司とされた。
建国の元勲として“仲父”と尊称され、後に君権強化を図る劉隗・刁協らによって疎外されたが、王敦の元帝廃立や元帝の太子廃黜を諫止し、明帝が即位すると司徒に進められた。
王敦の平定後は太保に進められて始興郡公に封じられ、門地二品の筆頭としての琅邪王氏の存在を不動のものとしたが、成帝の即位後は外戚の庾亮に権勢が集中した。その施政は諸氏の協和と寛容を旨としたが、王敦平定後は放縦に傾いたという。
顧栄 〜312
呉郡呉の名族。字は彦光。呉の丞相顧雍の孫。
平呉まもなくに上洛して陸兄弟と“三俊”と称され、洛陽で諸王に仕えて太子中舎人・中書侍郎などを歴任したが、斉王には泥酔に徹して出仕しなかった。
長安遷都で散騎常侍とされたが、間もなく中原の紊乱に失望して帰郷し、自立した陳敏と江南諸豪との連和を模索したものの陳敏の不器を厭って征東大将軍劉準に応じ、甘卓を離叛させて周馥・周玘らと共に陳敏を討平した。
琅邪王の幕僚に迎えられた後は呉姓の領袖として僑姓との提携にによる江東の安定を図り、東晋の基盤確立に大いに貢献したが、僑姓優位が進行する中で歿し、侍中・驃騎将軍が追贈された。
洛陽政権当時の特権の維持を図る僑姓と呉姓とでは根源的に政局志向が異なり、江南に基盤を持たない僑姓は、呉姓の内訌を醸成・助長しつつ懐柔を進めて政治的優位を確立し、僑姓主導体制の既成事実化に成功します。
亦た当時、中原では玄学と清談が主潮で、畿外で重んじられていた伝統儒学は前時代的として賤しまれていましたから、被征服地というだけでなく文化的後進地域という蔑視も、呉姓の政界進出を阻害する大きな要因となっていました。
賀循 260〜319 ▲
会稽山陰の名族。字は彦先。孫呉の中書令賀邵の子。
平呉で帰郷が叶い、家学のみならず諸経に博通して文章にも巧みで、陸機・顧栄らの薦挙で太子舍人となったが、趙王の簒奪後は出仕を肯んじなかった。
江南での輿望は顧栄に亜ぎ、石冰討伐や陳敏の平定に加わり、琅邪王の諮問にもしばしば応えて宗正や中書令などに擬されたが、悉く応じなかった。
顧栄の死後は江南の宗として執拗に出仕が迫られて太常に就き、廟礼を定めて儒宗と敬された。
元帝が即位すると太子太傅を加えられたものの病を理由にしばしば骸骨を求め、重篤となると元帝の臨駕で左光禄大夫・開府儀同三司に叙され、死後に司空を追贈された。
周玘
呉郡陽羨(江蘇省宜興)の人。晋の平西将軍周処の子。
陽羨周氏は晋末には呉興沈氏と並ぶ江東最大の豪門と目されていた。
顧栄を盟主に石冰・陳敏を鎮圧し、司馬睿の政権確立にも協力したが、家格は呉姓でも次席とされ、顧栄の死後に露骨となった僑姓優位によって憤死した。
子の周勰は314年に造叛したものの一族の協力を得られず鎮圧され、まもなく周玘の弟の周札も横暴を理由として王敦に滅ぼされ、周氏は勢力を大きく損った。
20世紀に発掘された周処の陵墓からは、様々な副葬品とともにアルミニウム合金が発見されて物議を醸した。
華軼
平原の人。字は彦夏。河南尹華澹の子。魏の太尉華歆の曽孫。
夙に度量を以て声望があり、東海王に信任されて兗州の留府長史とされ、後に振威将軍・江州刺史とされた。
陳敏が叛くと陶侃を揚武将軍として夏口で防がせたが、琅邪王への帰順を諾わなかったために王敦に伐たれ、内応によって敗死した。
祖逖 266〜321
范陽逎の人。字は士稚。夙に侠風を称され、中山の劉琨とはともに司州主簿となってより親交し、斉王・長沙王・豫章王らに仕えた。
永嘉の乱では行主に推されて淮泗に南遷し、琅邪王に帰属して京口に鎮し、豫州刺史に転じた後は義兵を募って石勒・石虎から黄河以南を奪回し、石勒も祖家の墳墓を改修して交誼を求めた。
当代屈指の驍将として“建康の北壁”とも讃えられ、河北経略を冀望して319年には鎮西将軍に進められたが、朝廷が王敦の抑圧を優先させて戴淵を北面の帥とした為、憂悶の裡に雍丘(河南省杞県)で憤死した。
兵営は弟の祖約が継承した。
劉隗 273〜333
彭城郡の人。字は大連。漢の楚元王の裔と称した。
文学と史書を好んで文翰にも秀で、丹楊令の時に琅邪王に認められて彭城内史に挙げられ、後に建康の琅邪王に投じて厚遇されたが、貴顕に寛容な時流を咎めて王氏を弾劾することも多く、殊に王敦に憎まれた。
元帝の即位で丹陽尹とされた後も枢機に列し、尚書令の刁協と共に王氏の削権を図り、戴淵を征西将軍・都督兗豫幽冀雍幷六州諸軍事、譙王司馬承を湘州刺史とし、自身も鎮北将軍・仮節都督青徐幽平四州軍事となって泗口に出鎮した。
祖逖の歿した翌年に王敦が挙兵すると、元帝に王氏誅戮を求めたものの聴かれず、石頭城と淮陰で敗れて石勒に帰降し、後に石虎の潼関攻略に丞相左長史として従軍して戦死した。
丞相司直の時には護軍将軍戴淵や丞相長史周らも糾察を免れず、指弾の矛先は琅邪王氏に限られたものではないようです。
王氏に対する弾劾は罷遷に至らないことが多かったようですが、王敦にしてみればさぞ鬱陶しかった筈。
王敦 266〜324
字は処仲。王導の従兄。『左伝』への造詣と清談を以て知られて武帝の駙馬となり、懐帝が即位すると中書監に進んだが、東海王に忌まれて揚州刺史に出され、琅邪王を輔けて左将軍・都督征討諸軍事とされた。
杜弢が荊州を侵した311年より江州に進駐し、315年には武昌太守陶侃・豫章太守周訪を督して杜弢を平定し、鎮東大将軍・都督江揚荊湘交広六州諸軍事・江州刺史とされた。
元帝が即位すると大将軍・荊州刺史とされたが、削権を図る朝廷に対して祖逖の死を機に劉隗誅殺を唱えて挙兵し、建康を制圧して丞相・都督中外諸軍事・録尚書事とされ、元帝には退位に言及させた。
襄陽で叛いた甘卓を鎮圧して再び武昌に駐し、明帝が集権化を再開すると再び挙兵して姑孰(安徽省当塗)で丞相・揚州牧を称したが、大病を患ったうえ大敗してまもなく憤死した。
嘗て愍懐太子が許昌に遷される時、太子洗馬の江統らと禁を犯して送別し、又た石崇(『世語』)あるいは王ト(『晋書』)が宴席で客に酌を受けてもらえない侍女を斬った時、王敦のみ一向に酌を受けず平然としていたという。
郭璞 276〜324
河東聞喜の人。字は景純。博学で卜筮や五行・天文暦法に通暁し、予言・解析によって重んじられて京房・管輅に比せられたが、最も得意とした卜筮は、占術としては軽卑に分類されていた。
南渡の後に王導や琅邪王に厚遇されて建康奠都にも助言し、東宮(明帝)からは温嶠・庾亮と斉しく遇された。
佐著作郎から尚書郎に進み、酒色への節度と礼節を干宝に誡められたものの敢えて更めず、元帝の死後に王敦の記室参軍とされたが、再挙後に温嶠・庾亮との密通を猜疑され、王敦の挙兵を不吉と占判して殺された。
訥弁だったが、辞賦は「中興の第一人者」と称されて『詩品』でも中品に位し、江淹の五色筆に示されるように、六朝を通じて高く評価された。古典にも造詣が深く、『毛詩』『爾雅』『楚辞』『山海経』『水経』などに注を施した。
郭璞の伝記・逸話は、『晋書』のほかに『捜神記』『世説新語』などに多数収録されている。
干宝
汝陰新蔡の人。字は令升。若いころ精学して群書に通暁した。杜弢平定に加わって関内侯とされ、南遷後は王導の薦挙で佐著作郎とされて国史編纂にも携わり、諸官を歴任して司徒左長史・散騎常侍に進んだ。
宣帝(司馬懿)から愍帝にいたる西晋史『晋紀』を著し、『易』『周礼』に注を施した一方、幼時から怪異に接することが多かった事から、霊異譚を集めて『捜神記』を著した。
葛洪 283〜343
丹陽句陽の人。字は稚川。号は抱朴子。貧苦の中で儒学と文学を学び、鄭隠・鮑玄より仙術を学んだ。
石冰の鎮圧に加わって伏波将軍とされたが、程なく広州の羅浮山に入って錬丹術・神仙術を学び、又た丹薬を研究した。
一時は建康で晋王司馬睿に仕えて王導・干宝とも交流し、『抱朴子』『神仙伝』などを著した。歿年は363年説もある。
左元放・葛玄・鄭隠から継承した仙道を自ら正統と称し、後に陶弘景が継承発展させて後世道教の根幹となった。
明帝 301〜322〜325
東晋の第二代君主。諱は紹。元帝の長子。かねて勇決の評があり、即位と共に王敦との対立が尖鋭化したが、一方では王導を輔政の大任に就けて貴族層との協調にも配慮した。
王敦が再び叛くと、郗鑒の進言で淮北の蘇峻・祖約を召還して鎮圧に成功したが、そのため石勒の淮南進出を招いた。
成帝 321〜325〜342
東晋の第三代君主、顕宗。諱は衍。明帝の長子。後趙の南下に備えて外戚の庾亮による中央集権・独裁化が進められ、そのため327年には蘇峻・祖約の叛乱を惹起したが、陶侃によって328年に平定された。
335年から親政を始めて王導・庾冰らに輔佐され、山沢封固の禁や土断の試行などで中興と讃えられた。
蘇峻 〜329
長広掖県(山東省)の人。字は子高。晋末、数千家の行主として最強を謳われ、淮北を席捲して琅邪王に帰順し、程なく広陵に南下して鷹揚将軍に叙された。
明帝が即位すると臨淮内史とされ、王敦平定に大功があって使持節・冠軍将軍・歴陽内史に至ったが、次第に驕慢となって削兵が図られ、成帝の即位後に召還されると“誅庾亮”を標榜して挙兵した。
祖約の呼応で328年に建康を陥し、成帝を石頭城に幽閉して驃騎将軍を称したが、兵の掠奪を許して人望を失い、程なく陶侃らに敗死した。
祖約 〜330 ▲
字は士少。祖逖の弟。兄に従って南渡し、兄の死で兵営を継いで平西将軍・豫州刺史とされた。
王敦が叛くと蘇峻・郗鑒らと与に江北に退いて寿春に鎮し、王敦の平定に殊勲があって鎮西将軍に進んだが、庾亮の軍閥削権の対象となり、殊に成帝即位の褒賞から除外されたことを怨恚した。
蘇峻の挙兵に呼応して太尉を遙授された後、宛を陥した石勒が南下すると潁川兵が呼応して大敗し、後趙に亡命したものの季布と丁公の故事に倣って殺された。
郗鑒 269〜339
高平金郷(山東省)の名族。字は道徽。恵帝のとき中書侍郎とされ、永嘉の乱で帰郷して1千余家を率いる行主となり、琅邪王より兗州刺史とされた後に後趙に圧迫されて合肥で北防を担った。
王敦に備える明帝に安北将軍とされ、王敦が叛くと大先鋒の銭鳳を撃破して車騎将軍・都督徐兗青三州諸軍事に進み、ついで蘇峻を平定したことで侍中・司空に進められて南昌県公とされた。
蘇峻が叛いた当初は陶侃を卑しんで共闘を拒んだが、説得する者があって已む無く従ったという。
後に太尉に至り、趙王に仕えたことを終生の恥と秘匿した。
琅邪王氏から婿を選ぶ際、東壁の牀に伏したまま悠然と使者に応対した王羲之を選んだことが、女婿を“東牀”と呼ぶ起源となりました。
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北府軍:郗鑒の組織した自衛団を核に、祖逖・蘇峻らの残兵を併せて合肥と京口に屯した軍団。
郗鑒の後も有力な僑姓が統べ、将号に“北”字を含む事が多かったので北府軍と称され、概ね徐兗青州の刺史と都督諸軍事を兼ねた。
東晋の二大軍団の一柱として建康政府の北防を担い、荊州の西府軍とは潜在的に対立した。
王敦・桓玄らの造叛はいずれも北府軍によって制圧された。
陶侃 259〜334
廬江潯陽(江西省九江市区)の人。字は士行。呉の揚武将軍陶丹の子。鄱陽の五渓蛮の出自とも伝えられる。
洛陽で張華や顧栄に認められたものの軍吏から漸進し、張昌の乱で荊州刺史劉弘に招かれて南蛮長史とされ、先行して張昌を大破して用兵を絶賛された。
武昌で陳敏の西進を防ぎ、ついで東海王や江州刺史華軼に属し、程なく琅邪王に帰順して奮威将軍・武昌太守に転じた。
荊州刺史周を破った杜弢を討平して寧遠将軍・領荊州刺史に使持節南蛮校尉を加えられたが、王敦に功名を猜妬されて騒乱の続く広州刺史に遷され、杜弢の残党を平定して柴桑侯とされ、元帝の即位で平南将軍・都督交州軍事が加えられた。
王敦が叛くと湘州都督に転じ、平定後に征西大将軍・開府儀同三司・都督荊雍益梁州諸軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史に直された。
北族からの軽侮は抜きがたく、殊に庾亮に嫌われて成帝即位の褒賞からも祖約と共に除外され、そのため蘇峻の平定にも難色を示したが、温嶠の求めに応じて庾亮と和し、建康を回復して交広寧州の都督軍事が加えられた。
翌年の郭黙の乱では、幕僚や王導の慎重論を排して江州に急行して平定し、江州都督・江州刺史とされた。
虚名を嫌って質実を重んじ、樗蒲を弄んで清談を嗜む風潮を「浮華を助長し威儀を乱すもの」として湖北から厳重に排斥した。
侍中・太尉・長沙郡公まで進んだ事は南人の寒門としては異例の事とされるが、政争に関わることを嫌って晩年はひたすら隠棲を望み、長沙に帰って歿すると大司馬を追贈された。
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西府軍:陶侃が荊州で組織した私兵団を、後に庾亮・庾翼が再編したもの。
主に武昌に鎮して長江の中・上流域を統制した。
中央を支える北府軍に比肩する勢威を有し、王敦・桓温・桓玄らに代表される権臣が中央と対立する際の基盤とし、往々にして江州の帰趨が東西の優劣を決した。
温嶠 288〜329
太原祁県の人。字は太真。従母が劉琨に嫁したことで幕僚となり、篤く信頼された。
琅邪王に即位の勧進表をもたらして建康に留まり、劉琨の死後、その忠誠を上疏して葬儀が認められた。
王敦・蘇峻の乱では、陶侃との合力を渋る庾亮を説得し、平定後に驃騎大将軍・始安郡公とされた。
庾亮 289〜340
潁川鄢陵の名族。字は元規。魏の太中大夫庾遁の曾孫。
姿貌に秀でて清談にも長じ、夙に陳羣・夏侯玄の再来と謳われた。
中原の乱を会稽に避け、建康に遷った琅邪王に招かれて信任され、明帝からも后兄として重んじられて中書監に任じられ、王導と共に後事を託された。
外甥の成帝の即位で中書令とされると独善を顰蹙されることが増し、王導の寛政から法治的中央集権への転換を図ったことで蘇峻の乱を惹起し、成帝即位の褒賞から祖約・陶侃を除外していたことが事態を悪化させた。
蘇峻が叛くと温嶠の拠る柴桑に逃れてその仲介で陶侃と和解し、乱が平定された後は自ら豫州刺史に出鎮した。
陶侃の死後は征西将軍・江荊豫三州刺史に転じて武昌で西府を掌握し、朝廷では弟の庾冰が執政した。
以後も郗鑒に王導排除の協力を求めるなど庾氏主導の集権を諦めなかったが、石勒の死に乗じた北伐を邾城の失陥で断念した事から発病し、王導の後任丞相となることを固辞して程なく歿した。北伐の真の目的は首都の王氏駆逐にあったとされる。
庾亮の専断を示す逸話を一つ。
南頓王宗(汝南王亮の子)はかねて王導・庾亮と対立して朝政を誹謗するようになり、326年に謀叛を理由に殺されました。
蘇峻の乱が平定された後に成帝が何気なく「白頭公は何処?」と訊き、この時初めて誅殺された事を知らされて「舅殿は謀叛の嫌疑でさっさと殺したが、誰かが舅殿の謀叛を上書したらどうするのだ」と泣いて問い詰め、庾亮は懼れて顔色を変じたそうです。
宗室の大逆と誅殺という重大事を、おそらく天子が幼いという理由で報告しなかった訳ですが、隠すとか配慮とかではなく素で報告無用と考えたようで、庾亮の、というより当時の貴族の筋目意識が垣間見えます。
庾亮が顔色を変えたのは、成帝の指摘で初めて可能性に思い至った為で、叱責された事が理由ではないと思います。
因みに庾亮の死後に弟の庾懌の悪事が露見した時、成帝は「大舅已乱天下、小舅復欲爾邪!」と赫怒したそうです。
“已”は「すでに〜べし」なのか、「已む」なのかで成帝の怒りの意味が180度変わりますが、平定を“已乱”と表現するとも思えないので、成帝のトラウマ的にもまず前者なのでしょう。
庾翼 305〜345 ▲
字は稚恭。庾亮・廆冰の弟。蘇峻の乱では石頭城を堅守し、乱後は太尉陶侃の参軍のまま中央で宰相の事を行なった。
338年に南郡太守・領南蛮校尉とされて江陵に鎮し、翌年に石虎を撃退して都亭侯とされた。
庾亮が歿すると安西将軍・都督江司雍梁益六州諸軍事・荊州刺史として武昌に鎮したが、前燕・前涼とも連携した北伐は先鋒の桓宣の敗死と康帝・庾冰の死によって頓挫し、憂憤の裡に病死した。
草書・楷書に能く、書家としての名声は王羲之に亜いで郗愔と並称され、『書品』では中品の上に位する。
康帝 〜342〜344
東晋の第四代君主。諱は岳。成帝の同母弟。呉王、ついで琅邪王に封じられ、成帝が歿すると国事多難を理由とした庾冰によって立てられた。
朝廷の庾冰と西府の庾翼が国事を宰領して国舅の褚裒は外鎮に退き、又た前燕との対峙の中で桓温が抬頭した。
穆帝 343〜344〜361
東晋の第五代君主。諱は聃。康帝の子。治世の初期に庾冰と庾翼が歿し、国舅の褚裒の北伐が失敗した後は朝廷の会稽王(簡文帝)と西府の桓温が国事を宰領した。
347年に蜀の成漢を滅ぼし、356年に後趙崩壊の混乱に乗じて洛陽を奪回するなど東晋で最も武威の高揚した時期とされるが、いずれも桓温の執権下で行なわれた。
褚裒 303〜350
河南陽翟の著姓。字は季野。夙に貴顕としての盛名があって司馬岳(康帝)の呉王文学に連なり、蘇峻の乱では車騎大将軍郗鑒の参軍として随い、後に給事黄門侍郎・豫章太守を歴任した。
婿でもある康帝の即位で侍中・尚書に抜擢されたが、庾氏に配慮して建威将軍・江州刺史に転出すると清廉簡約として知られ、以後も庾冰の江州出鎮や褚太后の臨朝、庾冰の死などで入朝輔政を求められても悉く辞退して金城(福建省金門)や京口に鎮し、征北大将軍・仮節都督徐兗青三州晋陵呉国諸軍事・徐兗二州刺史に至った。
349年に石虎の死に乗じて北伐すると彭城・下邳・沛国を攻略して帰降者が接踵し、征討大都督・督徐兗青揚豫五州諸軍事を加えられたが、魯郡攻略で大敗して広陵に退き、征討都督のみ解かれて京口に退いた。
西中郎将陳逵の寿春放棄や慕容皝・苻堅らの中原進出による北伐の完全な失敗によって京口で憂憤死した。
桓温 312〜373
譙郡龍亢の名族。字は元子。宣城内史桓彝の子。明帝の南康長公主を娶り守令を歴任して庾翼に絶賛され、その死後に安西将軍・仮節都督荊梁四州諸軍事・荊州刺史・領護南盤校尉とされて武昌で西府を掌握した。
347年に成漢を滅ぼして征西大将軍とされ、北伐に失敗した殷浩を失脚させた後、混乱が続く中原に356年に北伐して姚襄を破って洛陽の回復に成功した。
北伐後は一族に西府を掌握させて自ら北府を支配し、363年には大司馬・都督中外諸軍事・録尚書事とされたが、外地にあることが常だったために朝廷に対する統制は限定的で、洛陽奠都の要請は畢に聴かれなかった。
365年に前燕に洛陽を陥され、369年の再征は鄴に逼りながらも慕容垂に大破され、そのため威信回復に371年に廃帝を行なって翌年には姑孰(安徽省当塗)から簡文帝に禅譲を迫ったが、謝安・王坦之らの反対で断念し、まもなく病死した。
364年に行なった“庚戌土断”は大規模なもので、劉裕の義熙土断とは双璧とされる。
“竹馬之友”“臭名万年”の元ネタの人でもあります。“竹馬之友”は、失脚させた殷浩を回顧した際の言葉ですが、「オレが棄てた竹馬で遊んでいたようなヤツだから、下風に立つのは当然だ」という、心温まらない発言由来です。
又た“臭名万年”も、今でこそ悪の巨魁的なニュアンスが強く、「嘗ては劉琨・王導に並ぶことを志して王敦に喩えられることを嫌った人物が、北伐に失敗した後は王敦を再評価するようになってしまった」という解説らしきものが付けられることもありますが、本来は「既不能流芳後世、不足複遺臭万載邪」と、どっちも出来そうにないことを嘆いた言葉です。
殷浩 〜356 ▲
陳郡長平の名族。字は淵源。夙に英名があって輿望も高く、庾亮の幕僚を退いて十年余り墓所に起居して盛名を得たが、庾翼には認められなかった。
褚裒の推挙で揚州刺史に就き、桓温の抑制を図る会稽王に重用されて350年には都督揚豫徐兗青五州諸軍事を加えられて北府を掌握したが、冉魏の崩壊に乗じた北伐は姚襄の離叛を招いて失敗し、桓温の弾劾で庶人に貶された。
いちじ桓温によって再登用の動きがあったが、誤って白紙の謝恩書を送った為に用いられず、「咄咄怪事」と常に唱えるようになったという。
王羲之 303〜361?
琅邪臨沂の著姓。字は逸少。王導の従兄弟/淮南太守王曠の子。
13歳で周に認められて著名となり、王導・阮裕らにも将来を嘱望され、郗鑒に奔放と矜持を大器と評されて婿とされた。
秘書郎で起家して征西将軍庾亮に招かれ、庾亮の死後は国防の第一人者を自負したが、右軍将軍・会稽内史とされた後は参政を断念し、天師道や黄老術に傾倒して山水の遊びを楽しんだ。
かねて王述を敵視し、王述が揚州刺史となると会稽の昇州を求め、又た王述の官職の優位を両子の優劣に帰して嘆き、王述の該奏で致仕した後は出仕せず、遺言して一切の官位を受けさせなかった。
教養全般に通じて六朝貴族文化の象徴にも挙げられ、殊に参政を諦めた事で書は妙経に達して「浮雲の如く飄、驚竜の如く矯」と評され、楷書・行書・草書の新書体を完成させた書道の源泉として書聖と尊崇された。
代表作の『蘭亭序』は後に聖蹟とも称されたが、散文詩の趣を有する文学作品としても重視される。
王羲之を古今冠絶の書聖とする評は庾肩吾の『書品』に始まり、唐太宗の傾倒を経て盛唐期に定着した。
『書品』では「工夫は張芝、天然は鍾繇を第一とするも、羲之は工夫繇に勝り、天然芝に過ぐ」とあり、盛唐の評でも「隷は繇、草は芝。羲之は両者を兼ぬ」と、何れも総合力で王羲之を第一としているが、王羲之自身は「鍾繇には伍すも張芝には及ばず」としていた(『晋書』にある“隷書”は、現在の楷書を指す)。
又た当時は鵞鳥を好むことでも知られ、道士から鵞鳥を譲り受けるのに半日をかけて『道徳教』を書写したという。
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蘭亭序:353年春に開かれた蘭亭曲水の詩会を述した書。王羲之の序文を以て名とした。
当時の王羲之は会稽内史でありながら神仙に傾倒して山水に遊び、名士・文人との交流が繁かった。
石崇の主宰した遊宴を描写した『金谷集作詩』とは論旨・用語の上で共通性が多く、王羲之自身も金谷詩序に喩えられると大いに欣んだという。
『蘭亭序』には多くの模本が伝存するが、『晋書』に記載されているものは一般に流布している『蘭亭序』とは字句の異同が少なからず、現伝している書風も唐代のものに近く、そのため1965年には郭沫若によって偽作説が提起された。
王献之 344〜386 ▲
字は子敬。王羲之の末子。夙に盛名があって新安公主を降嫁され、謝安の長史から中書令に進んだ。
兄弟中で最も書に長じ、特に草書・隷書に巧みで、骨格は父に及ばないながらも逸気で優ると評されて王羲之とは“二王”と並称され、或いは“亜聖”と呼ばれた。
『桃葉辞』に於いて「桃葉復た桃葉、江を渡るに戢(櫂)を用いず、但だ渡るに苦しむ所無し。我自らも汝を接迎す」と詠ったが、後にこれが陳朝滅亡の詩讖とされた。
袁宏 328〜376
陳郡陽夏(河南省淮陽)の著姓。字は彦伯。晋の侍中袁猷の孫。魏の郎中令袁渙の裔。
夙に父を亡くし、弱冠で謝尚に詩才を認められて挙用され、桓温にも重用されたが、剛腹狷介な為人りから罷降も多く、親交のあった伏滔と同列に論じられることも不満とし、揚州刺史となった謝安に従って東陽太守で歿した。
『後漢紀』や『三国名臣序賛』を著し、『東征賦』など詩賦にも史実に取材した作品が多い。
夙に「決して桓宣城に言及せず」と公言し、『東征賦』でも南渡の名士を列記しながら桓彝・陶侃のみ記さず、これを桓温・陶範に難詰されると即興で両者の詩を作って釈明し、『東征賦』の散逸後も両詩のみが逸話とともに諸書に引用されて遺った。『詩品』では中品に位し、「車の天に飛翔するが如く目を惹くが、偏頗多し」と評された。
支遁 314〜366
陳留の人。俗姓は関、字は道林。幼時に江東に避難して25歳で出家した。
大乗教義だけでなく老荘思想にも通じて清談に長け、謝安・王羲之ら多くの名士と交際して格義仏教の大家と称された。
『般若経』『維摩経』を講じ、空(=般若)の意味を現象即空と解釈した。
哀帝 341〜361〜365
東晋の第六代君主。諱は丕。穆帝の従兄。庾冰に排除された成帝の子。
琅邪王から迎立され、即位の翌年には前燕によって洛陽を失った。
前代同様に桓温に大権があり、江南政権の画期と評される庚戌土断も桓温の主導で行なわれ、土断の直後に仙丹の誤用で不予となった後は褚太后が臨朝してしばしば桓温に建康での執政が求められた。桓温の入朝は実現されず、翌年に中毒死した。
廃帝 342〜365〜371〜386
東晋の第七代君主。海西公。諱は奕。哀帝の同母弟。北伐に失敗した桓温によって、威信回復と禅譲の準備のために廃された。
呉郡に徙された後は飲酒への耽溺で韜晦し、酒毒で歿したとも伝えられる。
簡文帝 321〜371〜372
東晋の第八代君主、太宗。諱はc。元帝の子、明帝の弟。322年に琅邪王に封じられ、326年に会稽王に転封された。
穆帝の世に宗師として撫軍大将軍・録尚書事とされて朝廷を宰領し、桓温に対抗して殷浩を重用し、352年には司徒に進められたが、殷浩の北伐の失敗で勢力を失った。
桓温によって廃帝の継嗣に立てられ、翌年に病臥すると桓温に迫られて簒奪を容認する遺詔を起草したが、侍中の謝安・王坦之らに拒まれて諸葛亮・王導の如くするよう改めた。
孝武帝 362〜372〜396
東晋の第九代君主。諱は曜。簡文帝の子。治世のはじめに桓温が歿し、前半は謝安に、後半は司馬道子に輔政された。
383年には淝水の役で前秦を大破して江南の独立を守ったが、西府は一貫して桓氏が掌握し、又た自身は酒色に耽って司馬道子に全権を委託し、民乱も頻発した。張貴人の廃妃のことを口にした為に貴人に縊り殺された。
謝安 320〜385
陳郡陽夏(河南省太康)の人。字は安石。
太常謝裒の子、安西将軍謝奕の弟。鎮西将軍謝尚の従弟。
典雅な風采や挙措、清談や文芸の才から夙に王佐の器と期待されたものの王羲之らと山水に交遊して仕官せず、弟の謝万の罷免を機に360年にようやく出仕して桓温の司馬とされたが、北伐には謝万の喪を以て従わなかった。
後に吏部尚書・中護軍に進み、桓温による簡文帝からの簒奪を王坦之と共に防ぎ、桓温の死後は姻戚の褚太后(康帝の皇后)を臨朝させ、領吏部のまま尚書僕射に進んで王坦之を北府の督将に転出させた。
ついで王坦之と荊州刺史桓豁の相次ぐ死を以て北府の桓沖を荊州刺史に遷して自ら揚州刺史を領し、録尚書事を加えられ司徒に進んで朝廷を宰領し、北府の督将には甥の謝玄を抜擢した。
383年に前秦の苻堅が大軍を南下させると、弟の謝石を征討大都督として一族を将官に擢挙する一方で西府の援軍を拒み、謝氏の主導による江南の保全に成功した。
開戦に先立っての挙措は常と変らず、勝報が届いても泰然と碁を囲んでいたが、対局が終わって部屋に戻ると小躍りして下駄の歯が折れたのにも気付かなかったという。
容姿・言動・識見などから王導の再来とも称されて太保に至り、陳郡謝氏を太原王氏・琅邪王氏と並ぶ著姓としたが、司馬道子の抬頭で北伐の準備を理由に広陵に出されて憂死した。 ➤
謝玄 343〜388 ▲
字は幻度。安西将軍謝奕の子。謝安の甥。桓温の幕僚を経て建武将軍・兗州刺史などを歴任し、377年に兗州刺史・監江北諸軍事とされて北府軍の掌握・再編を進めた。
淝水の役では征討大都督謝石の前鋒となって苻堅を大破し、ついで豫州・青州に進出して都督徐兗青司冀幽幷七州諸軍事を加えられ、康楽県公に進封された。
一時は河北にも進出したが、司馬道子らが執政した事で北伐の継続は認められずに徴還され、翟魏の反攻で河北を失った事も加わって憂憤から発病して京口に退き、頻りに骸骨を求めた末に左将軍・会稽内史に叙されて病死した。
朱序 〜393 ▲
義陽平氏(河南省唐河)の人。字は次倫。西蛮校尉朱Zの子。西府での累功を以て377年に南中郎将・監沔中諸軍事・梁州刺史とされて襄陽に鎮し、前秦の苻丕に攻囲された翌年(379)に内応から落城したが、勇戦と守節を嘉されて苻堅に度支尚書とされた。
淝水の役では先鋒に加わり、降諭使とされると密かに謝玄らに速戦を勧めて内応を約し、苻堅には晋軍の渡渉を誘うと称して軍を後退させ、その最中に諸営に敗戦を喧伝して全軍の壊走をもたらした。
東晋に帰参すると龍驤将軍とされ、謝玄の北伐に加わって洛陽に駐し、謝玄が徴還された後も淮陰に鎮して中原でしばしば翟魏・西燕を破り、征虜将軍に進められた。
388年に持節都督雍梁沔中九郡諸軍事・雍州刺史に転じて襄陽に鎮し、390年には太行山で慕容永を大破したが、勝敗相補として賞罰されなかった。
竺道潜 286〜374
字は法深。王敦の弟。劉元真に師事して法華経・般若経を学んだ。
永嘉の乱を避けて南遷して元帝・明帝・王導らに尊崇され、後に会稽に隠棲したが、哀帝に招聘されて放光般若経を講じた。
顧ト之 344?〜406?
晋陵無錫の人。字は長康。はじめ桓温に仕え、晩年は殷仲堪に属し、義寧初年(405)に散騎常侍に叙されて62歳で歿した。
文人の余芸である絵画を芸術の域に昇華させて謝安から“古来無比”と絶賛され、世に“画聖”と呼ばれた。
人物画を得意とし、神気表現に眼睛を重視して他を省略し、代表作に『女史箴図』『洛神賦図』がある。
文にも秀でたが、矜持と奇行の突出から痴・黠・画(あるいは才・画・痴)の“三絶”とも称された。
南斉の謝赫の『古画品録』では「蹟不逮意。声過其実」として第三品に置かれたが、南朝の人物画家として宋の陸探微、梁の張僧繇と並称されるようになり、唐末の張彦遠の『歴代名画記』では呉道玄らと並ぶ第一品に直された。
安帝 〜396〜418
東晋の第十代君主。諱は徳宗。孝武帝の子。治世の初めから執政の会稽王道子に対する西府・北府や妖賊の孫恩らの叛抗があり、403年には桓玄に簒奪されて潯陽に幽閉された。
建康を逐われた桓玄によって江陵に徙され、桓玄の平定後も暫くは桓氏に帰京を妨げられ、劉毅によって救出された後に簒奪を図る劉裕に暗殺された。
『晋書』に「不慧で発声も儘ならず、寒暑を示すことも出来なかった」とあることから重度の知能障碍というのが公式見解ですが、「凡そ動止は皆な己より出るに非ず」とわざわざ続いている事から、何事にも諾々と従って能動性を示さなかった姿勢に対する揶揄とも考えられます。
実際、桓玄の残党に脅迫された時に、董卓を叱責した陳留王ばりに対応した琅邪王を窘めたりもしています。
車胤 〜400
南平(湖北省)の人。字は武子。貧寒の士でありながら精学し、桓温の属僚から中央に転じると要職を歴任して吏部尚書まで進んだが、司馬元顕の執政を批判して自殺させられた。
夏の夜は蛍灯によって勉学し、寒門から博学を以て高官となった稀有の存在として、雪明りで勉学した孫康と併称され、その故事は“蛍雪”として現代まで伝えられる。孫康は御史大夫まで進んだ。
司馬道子 364〜402
会稽王。字も道子。簡文帝の末子。孝武帝の同母弟。
淝水の役の当時は既に司徒・録尚書事であり、戦後まもなくに謝安の排斥に成功して揚州刺史・都督中外諸軍事を領し、琅邪王から会稽王に転封され、王国宝や司馬尚之ら寒士や宗室を重用して宗室による集権を図った。
陰謀と道楽を好んで財政を逼迫させ、朝政の壟断に対しては北府や西府が離叛の姿勢を強め、王恭の乱の後は子の元顕に実権を奪われて遊興に耽った。
402年に桓玄に建康を陥され、配流の途上で暗殺された。
会稽王父子の専権と私利の追求は名族の第一人者に過ぎなかった司馬氏に対する輿望を失わせ、民乱の頻発もあって勢族以外による簒奪を容認する気風が醸成された。
司馬元顕 382〜402 ▲
会稽王道子の子。聡慧かつ果断で、397年の王恭の変より腹心の事を行ない、翌年の王恭の乱では耽酒に逃避した司馬道子に代って王c・謝琰らを督し、劉牢之の招撫に成功して王恭を擒え、桓玄らとの和議を進めた。
以後は司馬道子に代って揚州刺史となって朝廷を宰領し(司徒は司馬徳文)、明帝の神風ありとすら評されたが、増兵のために三呉の蔭客を徴発したことは孫恩の乱を拡大させ、乱中に録尚書事を加えられてより驕奢と自矜が甚だしくなった。
桓玄の孫恩討伐を拒んだ翌年(402)に桓玄討伐を宣し、驃騎大将軍・仮黄鉞征討大都督・都督十八州諸軍事となって劉牢之を前鋒都督とし、桓謙を荊州刺史に叙して西州の分断を図ったが、桓玄の東下に接すると兵を進めず、石頭を陥した桓玄に劉牢之が呼応して擒われ、司馬尚之・庾楷らとともに殺された。後に桓玄が誅されると太尉が追贈され、諡は忠とされた。
王恭 〜398
太原晋陽(山西省)の著姓。字は孝伯。尚書左僕射王蘊の子。
謝玄の後任として京口に鎮し、鎮北将軍・兗青二州刺史に進んで北府軍を統領した。
会稽王父子の専権を憎み、王の寵臣の王国宝誅伐を唱えて397年に荊州刺史殷仲堪らと挙兵し、王国宝が誅されて撤兵した翌年にも側寵の王愉・司馬尚之の粛清を唱えて豫州刺史庾楷・殷仲堪・桓玄らと挙兵したが、輔国将軍劉牢之の離背で敗れて建康で斬られた。
王c 349〜400
字は元琳。王導の孫。はじめ桓温の幕僚に連なって謝玄と共に重用され、短躯だったことで“短主簿”と呼ばれた。
謝安の娘を娶り、弟の王aは謝万の娘を娶っていたが、後に謝氏とは仇敵の如くなり、謝安の死後に尚書僕射に進んで吏部を領した。
学識・文才を孝武帝に愛されて殷仲堪・王恭らと近侍し、孝武帝が歿すると詔冊の殆どを起草した。
王恭の乱では衛将軍に進められながらも王恭と攻伐する事を拒絶し、戦後に病を理由に罷免されて間もなく歿した。
行書を能くして“大手筆”と称された。
孫恩 〜402
琅邪の人。字は霊秀。新安太守孫泰の甥。叔父が殺されると海上に遁れて信徒を糾合し、翌年には会稽内史王凝之を攻殺し、会稽王父子を怨恚する呉会の民数十万が呼応して揚州を席捲した。
しばしば北府の劉牢之・劉裕に敗れては海上に逃れたが、400年に会稽内史謝琰を、401年には楼船千余隻を以て呉国内史袁山松を敗死させ、丹徒に寇して建康を震撼させた。
この時も劉裕に大破され、翌年に臨海太守辛景に敗死した。
教勢の拡大とともに集団は狂暴残虐となったが、多くの者が死後は成仙して昇天できると信じたという。
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妹婿の盧循が活動を継続して404年に広州を占拠し、桓玄鎮圧直後の朝廷に帰順を称して広州刺史とされた。
410年に劉裕の北伐に乗じて再度挙兵し、北府の重鎮だった江州刺史何無忌を敗死させ、桑落洲(安徽省宿松)で衛将軍劉毅を大破して建康に迫ったが、北伐から南転した劉裕に滅ぼされた。
劉牢之 〜402
彭城の寒門。字は道堅。謝玄に応募して参軍となり、常に最前線にあって“常勝”と讃えられ、淝水の役では洛澗で前秦の先鋒を大破して龍驤将軍・彭城内史とされた。
北府を実質的に支配し、王恭が挙兵すると会稽王に通じて造叛を失敗させ、孫恩の鎮圧などで鎮北将軍に累進した。
東下する桓玄に転向して奪権を成功させたが、まもなく会稽太守に出されて造叛を図ったところ、部下の多くが“三反”を蔑して逃散した為に北奔して新洲で自殺した。
桓玄 369〜404
字は敬道。大司馬桓温の庶子。才を以て嗣子とされ、桓温の死後は叔父の桓沖に後見された。
夙に朝廷に忌まれて素官を歴任したが、名族文士を幕下に迎えて声望が高く、義興太守とされると「九州の伯の子が五湖の長となる」ことを恥じて下野し、荊州で殷仲堪を輔けて西府に隠然たる勢力を保った。
王国宝が誅されて広州刺史に叙された後も荊州に留まって殷仲堪と共に王恭の造叛に与し、江州を制圧して朝廷からも刺史を追認され、399年には荊州の水害に乗じて荊州・雍州を制圧して仮節都督荊司雍秦梁益寧七州・後将軍・荊州刺史とされた。
以後も会稽王父子と反目し、孫恩孫恩が撃退された翌年(403)に討伐に抵抗して挙兵し、京師を制圧して相国・楚王となって全権を掌握した。
翌年(403)に安帝から簒奪して楚帝を称したが、北府の劉裕・劉毅らに建康を逐われて安帝を奉じて西奔し、追討する冠軍将軍劉毅に大破されて蜀へ奔る途上で殺された。
桓玄の死後も江陵の安帝を確保した桓振・桓謙や豫章の桓亮らが抵抗を続けたが、翌年にはいずれも討平された。
劉毅 〜412
彭城沛の人。字は希楽。広陵で桓弘の中兵参軍とされ、桓玄が簒奪すると劉裕・何無忌らと挙兵して広陵・京口を制圧し、建康から桓玄らを駆逐して冠軍将軍とされた。
ついで桓玄を追討して崢エ洲(湖北省鄂城・黄岡県境)で大破したが、桓玄の西奔に乗じなかったために江陵を桓振に奪われ、改めて桓振を討滅して安帝を奉迎し、撫軍将軍・豫州刺史に進められ、409年には衛将軍・開府儀同三司に進んだ。
翌年に盧循に大敗したが、まもなく江州都督として姑孰(安徽省当塗)に鎮し、江州刺史・荊州刺史を歴任して西府を差配した。
沈毅驍果で劉裕の対抗勢力として通誼する貴顕も多く、412年には持節都督荊寧秦雍四州及四郡諸軍事が加えられたが、荊州の荒廃を以て督交広二州の兼領を求め、又た官員を大きく改易して腹心を要路に据えた事などから専断として劉裕に伐たれ、敗走の途上で絶望して自殺した。
謝混 368?〜412 ▲
陳郡陽夏の人。字は叔源。司空謝琰の嗣子。謝安の孫。
夙に声望が高く、孝武帝のとき晋陵公主の婿として「真長(劉惔)に及ばずとも子敬(王献之)に劣らず」との王cの評で選ばれ、謝混との通婚を図る袁山松を窘める王cから“禁臠(豚の頸肉:物資に欠いた南渡の往時、最も美味として帝の膳に供された)”にも喩えられた。
桓玄が謝安の旧宅を軍営用に接収した処、「召公の仁は甘杜に及ぶ。文靖の徳は五畝の宅をも保たざるか」と嘆いて中止させたこともあり、門地二品として中書令・中領軍・尚書左僕射を歴任した。
劉毅に与して殺されたが、後に劉裕と謝晦は、禅譲の事を謝混に宰領させられないことを大いに惜しんだという。
抽象的哲学論に偏っていた玄言詩を変革して高く評価され、謝霊運ら一族子弟にも大きく影響を与えたが、他氏との逸話は殆ど伝わらず、僅かに現存する詩や諸書の評などから、その詩風は『詩』・『楚辞』への回帰を図ったものと想像されている。
『詩品』では中品に位し、「張華を源とし、才力弱く、清浅をつとめて風流媚趣を得たり」とある。
慧遠 334〜417
雁門楼煩(山西省朔州市区)の人。本姓は顧、あるいは賈。
はじめ洛陽・許昌に遊学して儒学・老荘を学び、中原の戦乱を恒山に避けて道安に師事した後は各地を巡って襄陽で般若の学を修めた。
独立後は潯陽廬山に東林寺を建立して多くの信徒を得、鳩摩羅什への質疑応答と仏典翻訳への協力の要請、西域への求経使の派遣など教義研究と布教・経典翻訳に尽力した。
402年に僧侶・隠士123人と“白蓮社”を組織したことは中国浄土教団の嚆矢とされるが、存命中から組織の肥大化に伴う堕落が見られ、桓玄による王権への従属要求に対しては“沙門不敬王者論”で勝利したものの、組織運営の修正を余儀なくされた。
覚賢 359〜429 ▲
仏陀跋陀羅。北インドのカピラ出身の仏僧。カシュミールから海路交趾をへて中国に到り、408年に長安に入って鳩摩羅什と法相を論じて禅法を広めたが、まもなくその門下に逐われて廬山に入り、慧遠の勧めで建康に遷った。
法顕とともに訳出した『大般泥洹経』は涅槃宗成立の基となり、また『華厳宗』・『僧祇律』の翻訳は中国仏教界に多大な影響を遺した。
法顕 ▲
平陽武陽(山西省)の人。本姓は龔。3歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。
渡来僧による経典訳出の盛行に対して戒律の不備を不満とし、律蔵を求めて399年に出国して30余ヶ国を経て405年にマガダ国(ビハール州西部一帯)に到り、天王寺でサンスクリット語を学んだ。
『摩訶僧祇律』・『雑阿毘曇心論』など経典・経像を入手し、さらにセイロンに渡って『五部律』・『長阿含』などを得、南海諸国を経て412年に海路青州牢山に漂着すると、翌年から建康の道場寺に入って経典の翻訳に当たった。旅行見聞をまとめた著書として『仏国記』がある。
恭帝 〜418〜420〜421
東晋の第十一代君主。諱は徳文。哀帝の弟。当時「昌明の後なお二帝あり」との讖緯が人口に膾炙し、孝武帝の年号に昌明があったことから、劉裕による安帝暗殺後に立てられ、翌年に禅譲した。禅譲の翌年に自殺を逼られ、信仰を理由に拒絶して絞殺された。
陶潜 365〜427
潯陽柴桑(江西省九江市区)の人。字は淵明。号は五柳先生。淵明が諱、字は元亮とも。大司馬陶侃の曾孫と伝えられる。
経世済民の志があって孫恩討伐にも加わったが、やがて隠逸を慕って桓玄・劉牢之の幕僚となっても続かずに帰郷し、貧窮に逼られて405年に彭沢令を拝したが、督郵への応対を厭って『帰去来辞』を賦して棄官した。
著作佐郎の叙任や、檀道済・王弘の招聘にも応じず、周続之・劉遺民とともに“潯陽三隠”と称された。
仕官は嫌ったが交遊を選ぶことは少なく、かつての同僚の顔延之の赴任途上で連飲し、王弘の招宴にも快応した。
又た貧窮を厭わない半面で好酒は抑えがたく、彭沢では官田の醸造米用への転用を試みたこともあり、妻子の反対で1/6を食用米に残したという。
先唐最高の詩人としての評が確立したのは趙宋以降で、『詩品』では中品に位し、隠逸詩人・田園詩人の祖という認識が一般的だった。
仕官を諾わなかった理由としては、晋の元勲の家門としての矜持や文人としての桓玄への同朋意識から、寒門軍人の劉裕への反撥もあったようです。