▽ 補注:南朝/人物.1

殷琰  415〜473
 字は敬氓。 465年に晋安王が挙兵すると豫司二州都督・南豫州諸軍事・豫州刺史とされたものの晋安王に呼応し、晋安王が敗れると北魏への帰順を模索したが、主簿の夏侯詳の勧めで朝廷に降って赦された。

殷景仁  390?〜440?
 陳郡長平(河南省)の人。 典儀に詳しく、宋文帝の即位とともに太子中庶子から侍中に進んで枢機に参与し、揚州刺史・吏部尚書・尚書僕射などを歴任した。 文人としても王華王曇首兄弟や劉湛とは“一時の冠冕”と讃えられた。

殷仲堪  〜399
 陳郡の人。 佐著作郎から謝玄の冠軍長史や晋陵太守をへて、392年に都督荊益寧三州諸軍事・荊州刺史とされて江陵に鎮した。 王恭の挙兵に協力し、王恭の死後は桓玄に与したが、朝廷の離間もあって桓玄の勢威拡大を警戒して雍州刺史楊佺期と結び、楊佺期への信頼も桓玄との対決も定められないまま、荊州が水害に遭ったところを桓玄に襲われて北奔の途上で自殺した。 桓玄に穀倉の巴陵を奪われた際、糧食の確保を偽って楊佺期に来援を求めたという。

楊佺期  〜399 ▲
 弘農華陰の人。漢の太尉楊彪の裔。 夙に門地と驍果を誇り、淝水の役に乗じた北伐では洛陽から潼関に達し、龍驤将軍・新野太守とされた。 後に荊州刺史殷仲堪に与し、王恭の乱では荊州の軍事を管掌して桓玄とともに石頭城に達し、朝廷との和議では桓玄の対抗勢力として南郡相に都督梁雍秦三州諸軍事・雍州刺史を加えられた。
 荊州での勢威を競って桓玄とは不和で、朝廷との講和後は殷仲堪と通婚して頻りに挙兵を勧めたものの雄志を厭われて信任されず、朝廷が桓玄に荊州の四郡都督を加え、桓玄の兄の桓偉を兄の楊広に替えて南蛮校尉としたことで桓氏との武力衝突が生じた際も、洛陽攻略を称しての挙兵は殷仲堪の制止で実現しなかった。 同年、洛陽攻略を称した桓玄が水害に乗じて来攻すると江陵救援に南下し、桓玄に大破されて襄陽に退走する途上で殺された。

殷不害  505〜589
 陳郡長平の人。字は長卿。孝行で知られ、梁武帝に敬重されて東宮通事舎人とされ、庾肩吾と共に東宮政治を主導した。 元帝にも仕えて江陵陥落で北周に徙され、575年に陳に帰還し、平陳後に北に残った長子の殷僧首を頼る途上で病死した。

慧琳
 仏僧。宋武帝の時代には廬陵王に親遇されたが、後に文帝に厚遇されて国政にも参与し、“黒衣宰相”と呼ばれた。

袁憲  529〜598
 字は徳章。 梁代からの宿老で、始安王の立太子をめぐって後主らと争議し、“骨硬の臣”と称された。 台城落城に際しては後主に、梁武帝に倣って玉座で隋兵を迎えるよう諫め、舎人の夏侯公韻とともに身を以って井戸を覆い、後主の逃走を防ごうとした。

袁山松  〜401
 一名は袁ッ。陳郡陽夏の人。魏の郎中令袁渙の裔。 袁宏袁淑の同族。 博学で文章に能く、音楽にも通じ、羊曇・桓伊とは“三絶”と呼ばれた。 秘書監に至った後に呉郡太守に転じ、孫恩の乱で敗死した。 著書の『後漢書』百巻は『世説新語』劉孝標注にも多くが引用されたが、現存しない。

袁湛  379?〜418
 陳郡陽夏の名族。字は士深。魏の郎中令袁渙の裔。 累代で琅邪王氏・陳郡謝氏らと通婚して門地二品に数えられた。 謝安の求めで謝玄の婿となり、娘は宋文帝の皇后とされ、文帝の北伐では太尉・司空・散騎常侍を兼ねた。

王悦
 字は長予。王導の長子。王導に将来を嘱望されたが、早逝した。

王廙  〜322
 字は世将。王導の従弟。 濮陽太守を棄官して琅邪王の南遷に従い、廬江・鄱陽の太守を歴任して周馥の平定にも加わった。 315年に陶侃の後任の荊州刺史となったが、陶侃の離任を拒む州吏を殺して入府を強行したために人望を失い、襄陽で杜曾に大破された。 後に散騎常侍・左衛将軍を歴任し、王敦の乱では諭使となったが成功しなかった。

王舒
 字は処明。丞相王導の従弟。侍御史王会の子。王敦に従って琅邪王に投じ、北中郎将・廷尉などを歴任した後に王敦によって鷹揚将軍・監軍事・荊州刺史とされたが、いち早く朝廷に帰順を示して湘州刺史に転じ、ついで尚書僕射に直された。 庾亮の執政で会稽内史に出され、蘇峻が叛くと呉国内史庾冰ら呉会の諸将を督して義兵を興し、呉会の全損を防いだ。戦後に彭沢県侯に封じられ、死後に車騎大将軍・儀同三司が贈られた。

王允之  303〜342 ▲
 字は淵猷。王導の従弟/王舒の子。夙に聡敏を絶賛され、蘇峻の乱では会稽内史となった父の兵を領して討伐に加わり、番禺侯に封じられた。334年に宣城内史・監揚州江西四郡事・建武将軍に叙されて蕪湖に鎮し、ついで西中郎将に進号され、やがて南中郎将・江州刺史に転じた。 王恬の処遇で庾冰を批判した為に庾懌に毒酒を贈られたが、狗が飲んだために難を逃れた。 間もなく衛将軍・会稽内史に叙されたが、赴任前に歿した。
庾懌の件の原因を王恬の処遇に求めたのは、あくまでも想像です。庾懌が蕪湖での前任者に嫉妬して…、と蘭欽に重ねて考えてみましたが、あれは前任者の嫉妬でした(^^;)

王恬  ▲
 字は敬予。王導の次子。 尊大かつ武事を好んで紀範を軽んじた為に王導に厭われ、又た賓友にも礼を欠いて輿望がなく、中書令に擬された際には王導の進言で中止となった。 342年に王導の喪が明けると豫章の官に叙されたが、王允之が丞相の子を遠郡に置く事を非難して江州の返上に言及した為に呉国会稽内史に直され、後に散騎常侍を加えられた。 余芸が多く、囲碁は中興以来の名手と讃えられた。

王規  492〜536
 字は威明。王倹の孫。 幼時より孝童・千里駒と称されて将来を嘱望された。梁の昭明太子や湘東王繹・太子綱らに仕え、文才を讃えられた。

王凝之  〜399
 琅邪臨沂の人。字は叔平。王羲之の次子。 書を善くし、庸懦として知られながらも安西将軍謝奕に婿とされた。 王羲之の家は天師道に対する信奉が殊に強く、会稽内史に進んだ後も信教に没入して政事を疎かにし、孫恩の乱でも天佑のみを信じて殺された。

王筠  481〜549
 琅邪臨沂の人。字は元礼。 学問と詩文に優れ、韻律重視の技巧的な美文は沈約に「独歩の名家」と絶賛された。 劉冉と並んで昭明太子に敬重され、後に司徒左長史・臨海太守・度支尚書などを歴任して簡文帝から太子・事とされたが、寓居していた蕭子雲邸で賊に襲われて井戸に墜落死した。

王騫  474〜522
 王倹の子。 字は蕭道成に避諱して玄成から思寂に改めた。 梁で侍中まで進んだが、夙に隠逸を慕って武帝に叱責され、爵位を公から侯に貶された。

王僧達  423〜458
 琅邪臨沂の人。宋の太保王弘の子。王僧綽の従兄弟。 夙に聡明・好学で文章を能くし、文帝より臨川王の婿とされた。 尚書僕射・中書令などを歴任したが、三公に就けない不満を公言して孝武帝・顔竣に憎まれ、叛徒との通謀に陥されて獄死した。 死に臨んで顔竣の朝政誹謗を暴露し、顔竣刑死の原因となった。
 子の王道琰は新安郡に徙され、前廃帝の即位で帰京を許された。

王沖  492〜567
 琅邪臨沂の人。字は長孫。長らく湘東王(元帝)に従い、台城が陥ちると太尉や司空を称することを勧めて拒まれたが、密勅の到来を理由に承制を実現した。陳朝でも重んじられた。

王曇首  394〜430
 琅邪臨沂の人。王華の実弟。宋初に宜都王(文帝)の幕僚となり、その腹心として文帝の即位とともに侍中・驍騎将軍とされた。 徐羨之が誅された後は枢機を執り、太子・事に至った。

王僧綽  423〜453 ▲
 琅邪臨沂の人。王曇首の子。文帝に将来を嘱望され、武帝の娘/東陽公主を降嫁された。 簒奪した劉劭に吏部尚書とされたが、廃黜の議に参与していた事が発覚して殺された。

王微  415〜453
 琅邪臨沂の人。字は景玄。王徽とも。太保王弘の甥。博学多芸で医術や陰陽にも通じた。 その文名は南朝文化の精華として北朝にも達し、瓜歩の難の際には北朝から動静が問われ、仕官を厭ったことで更に名声を高めた。

王謐  360〜407
 字は稚遠。王導の孫。 夙に盛名があって秘書郎で起家し、清官を歴任して桓玄にも敬重され、簒奪した桓玄より太保・中書監とされたものの夙に劉裕を認めていた事もあり、建康が回復されると揚州刺史・録尚書事を加えられた。 太原の王愉が謀叛として族滅されると呉会への逃亡を図ったが、劉裕の説得で帰京し、死後に侍中・司徒を追贈された。

王球  393〜441 ▲
 琅邪臨沂の人。字は倩。司徒王謐の子。宋文帝のとき吏部尚書とされた。 偏狭で知られた顔延之に資糧を援助し、又た姻戚だった劉湛とは交誼しなかった。

王瑩
 琅邪臨沂の人。字は奉光。499年に中領軍とされた。 崔慧景の平定に失敗した後も官位を保ち、後に蕭衍に従った。

王琳
 琅邪臨沂の人。侍中王份の子。王粛の従弟。 梁武帝の妹の義興昭長公主を娶り、官は司徒左長史に至った。長子の王銓を筆頭に、9子はいずれも才名が高かったために元帝に憎まれた。
 王銓は武帝の永嘉公主を娶って侍中・丹陽尹に至った。

王份  446〜524 ▲
 字は季文。黄門侍郎王粋の子。 宋で寧遠将軍・始安内史に進み、袁粲の葬列に参じた事で名を知られた。 兄の王奐王粛父子が叛いた後も武帝に慰撫されて寧朔将軍に進み、梁でも武帝に信任されて蘭陵太守・太子右衛率・丹陽尹などを歴任して金紫光禄大夫を加えられた。

王奐  435〜493 ▲
 字は道明。黄門侍郎王粋の子。宋で著作佐郎から進んで侍中・祠部尚書・丹陽尹などを歴任し、斉では尚書右僕射に至った。雍州刺史に転じると寧蛮長史劉興祖と諍って殺害し、召喚に叛抗して討平された。

王述  305〜368
 太原晋陽の著姓。字は懐祖。晋の司徒王渾の弟/王湛の孫。王承の子。 夙に“王佐の器”と謳われて王羲之と比較され、王羲之から敵視された。 服喪中に会稽内史の後任の王羲之の訪問が弔問のみだったことから怨恨を強め、後に揚州刺史となると会稽郡の治政を批判して王羲之を失脚させた。 能治には定評があったが、短気で怒癖があり、王羲之との不和もこれが原因と予想される。

王坦之  330〜375 ▲
 字は文度。王述の長子。夙に高名で清談を排撃して刑名学を重んじ、矜持の強さから郷選第二位の尚書郎に擬されたことに憤って挙任を拒んだことがあった。 撫軍将軍司馬c(簡文帝)の属官や大司馬桓温の長史を歴任して侍中に進み、桓温への譲位を容認する簡文帝の詔勅を御前で破いて桓温の簒奪を防いだ。 孝武帝が即位すると中書令・領丹陽尹とされたが、翌年には都督徐兗青三州諸軍事・北中郎将・徐兗二州刺史とされて広陵に出鎮した。

王国宝  〜397 ▲
 太原晋陽の人。中書令王坦之の第3子。岳父の謝安には厭忌されたが、従妹が司馬道子の王妃だったこともあって孝武帝・司馬道子に寵任され、謝安の失脚にも関与したとされる。 謝安の失脚後は秘書丞・琅邪内史・侍中などを歴任し、390年には中書令・中領軍に進んで朝政を壟断し、安帝の即位後に尚書左僕射・左将軍・丹陽尹に進んで領選した。 397年にかねて不和だった青兗二州刺史王恭の削兵を図ったことで王恭らの挙兵を招き、事態の収拾を図る司馬道子によって賜死された。

王愉  〜404 ▲
 字は茂和。中書令王坦之の次子。 司馬道子に寵遇され、異母弟の王国宝が誅されても減死罷免に処され、翌年には王恭殷仲堪の交通を断つために司馬尚之の勧めで江州刺史・輔国将軍に叙され、豫州の四郡都督を加えられた事で豫州刺史庾楷の離叛を惹起した。 桓玄らが来攻すると臨川郡に奔って擒われたが、桓玄の僭称で尚書左僕射に直され、劉裕が建康を回復すると前将軍を加えられた。 嘗て劉裕を軽侮した事があり、又た桓氏の婿でもあったことから翌日には謀叛を理由に子の王綏らと共に殺された。

王蘊  330〜384
 太原晋陽の著姓。字は叔仁。司徒左長史王濛の子。 佐著作郎で起家し、呉興太守のときの飢饉に独断で官倉を開放したために晋陵太守に遷された。 哀帝の皇后の兄でもあり、娘が孝武帝の皇后とされると光禄大夫・領五兵尚書とされたが、外戚である事に配慮して京口の徐州刺史に転じ、後に尚書左僕射・丹陽尹を歴任したものの求めて会稽内史に転出した。 晩年は酒に耽溺したという。

王敬則  435〜498
 晋陵南沙(江蘇省)の人。斉の高帝・武帝に武功があり、そのため明帝に猜忌されて会稽太守に出され、明帝の末年の諸王屠戮に対する造叛を娘婿の謝朓に告発されて敗死した。 事件後、謝朓の妻は常に懐剣を携え、謝朓は終生面会を避け続けた。

王神念
 太原祁県の人。儒術を好んで典儀に明るく、魏で潁川太守に進んだものの子の王僧辯と共に梁に帰順して南城県侯に封じられ、内史を歴任して青冀二州刺史に進んだ。 随所で淫祠を厳禁して治績があり、又た騎射・二刀楯に長じ、524年に魏の河間王に敗れたものの、後に右衛将軍に至った。

王僧孺  464〜522
 東海郯の人。字も僧孺。 諸王の幕僚を歴任して竟陵王の西邸にも連なり、梁武帝の下では“後来の選”と讃えられた。 その文は麗逸と評され、蔵書の多さを背景に好んで新事(新奇な故事)を用いた。何遜の文集の編集者でもある。

王珍国  〜515
 沛国相の人。字は徳重。斉の鎮軍将軍王広之の子。才幹を武帝に絶賛されて游撃将軍に叙され、裴叔業の渦陽攻略や王敬則の討平にも功があって輔国将軍・徐州刺史に進んだ。 蕭衍が挙兵すると徴還されて朱雀門を守ったが、王茂に敗れると密かに蕭衍に通誼して張稷・張斉らと東昏侯を弑し、禅譲後に散騎常侍・都官尚書とされた。
 505年に梁州長史夏侯道遷が離背して梁州が失われると使持節都督梁秦二州諸軍事・征虜将軍・南秦梁二州刺史とされ、魏興から進めずに失地回復は果たせなかったが、以後も太子右衛率・湘州都督・護軍将軍・丹陽尹などを歴任して宜陽県侯に封じられ、死後に車騎将軍が追贈された。

王茂  456〜515
 太原祁県の人。字は休遠。夙に兵書に通じて驍勇を謳われたが、為人りは静謐で交際を好まなかった。 斉末に朝廷を忌んで辺職を求め、雍州長史・襄陽太守となって蕭衍にも重んじられ、東昏侯放伐では先鋒となって建康を陥し、勲功第一として護軍将軍に叙された。 蕭衍に潘玉児の納室を断念させ、禅譲後には東昏侯の余妃を寵幸して朝政を怠る武帝に対し、范雲の失敗後を受けて再度諫めて聴許され、余妃が下賜された。
 禅譲直後に江州の陳伯之が叛くと江州刺史に転じて討ち、臨川王の北伐では荊州に進んで楊大眼に敗れたものの上下の信望は損われなかったが、朝廷が文雅偏重に傾くと怏怏として楽しまず、しばしば宴席で酔折したために司空から驃騎将軍・開府儀同三司に徙されて江州刺史に転じた。死後に太尉を追贈された。

何長瑜
 東海郯の人。会稽太守謝方明の下客として謝恵連に講学したが、永嘉太守を辞めた謝霊運には「王粲の再来」と絶賛された。 後に臨川王の記室参軍となったが、宴席で王の幕僚を揶揄する度が過ぎで広州に遷され、王の死後、廬陵に赴任する途上で溺死した。
何長瑜の揶揄は、東晋であれば教養を交えた遊戯として是認される範疇で、桓温すら、自身の眇眼を材とされても余興として割り切っています。 両者の違いは、軍府の実権が貴族から王家に移行した世相の差異を示すだけでなく、文人が時流の変化を感知できていない様も示しています。

何点  437〜504
 廬江潜の大姓。字は子ル。宋の司空何尚之の孫。仕官を肯んぜず、“通隠”と称された。 三教や群書に博通し、知人の才を讃えられて夙に丘遅江淹の才を認め、蕭衍とも交流があったが、畢に出仕には応じなかった。

何胤  446〜531 ▲
 字は子季。兄の何休・何点と共に早くに致仕して会稽に隠棲した。国子博士のとき、“魚食非肉食”を題目に国子生に議論させたところ、鍾岏(鍾エの兄)が「貝類非生」と論じて竟陵王に叱責された。

夏侯亶  〜529
 譙郡譙県の人。豊城県公夏侯詳の嗣子。斉初に奉朝請で起家し、崔慧景の討平に功があって驍騎将軍に叙され、蕭衍が挙兵すると南康王の即位を認める宣徳皇后令を荊州にもたらし、禅譲後は内外の顕官を歴任した。
 豫州刺史裴邃が北伐中に歿すると後任の都督とされて淮河の堰堤を修築しつつ合肥への後退を指揮し、翌年に淮河を決壊させて北道の元樹と呼応しつつ寿陽(寿春)に進んで揚州刺史李憲を降し、一帯の52城を併せて開城させた。 寿陽に豫州が、合肥に南豫州が置かれると使持節・都督豫南豫霍義定五州諸軍事・雲麾将軍・豫南豫二州刺史とされ、賦役の減免や農業の勧奨など一帯の回復に尽力し、平北将軍に進んだ翌年に州で歿した。

夏侯夔 483〜538 ▲
 字は季龍。夏侯亶の弟。父に随って南康王に仕え、禅譲で太子洗馬に叙された。 大匠卿・呉興太守・西陽武昌二郡太守・安陸太守などを歴任して信武将軍に進み、527年に義陽の平靖・穆陵・陰山の3関(大別〜桐柏の関)を攻陥した後、広陵を攻略する兗州刺史湛僧智と合流して北魏の東豫州刺史元慶和を来降させた。 翌年に北魏の郢州刺史元願達が来降して北司州と改められると督司州・北司州刺史に遷り、南兗州刺史劉明が帰順した事で督南豫州諸軍事・雲麾将軍・南豫州刺史に転じ、灌漑などの治績で兄に比す名声を挙げ、使持節・督豫淮陳潁建霍義七州諸軍事・豫州刺史として歿した。

夏侯詳  434〜507 ▲
 字は叔業。孝子として知られて豫州の長吏を歴任し、刺史となった蕭鸞にも厚遇されたが、裴叔業と与に蕭鸞の為人りを危ぶみ、執権した蕭鸞の招聘には応じなかった。 義陽太守となってしばしば魏軍を撃退した後に荊州属に転じ、南康王の下で新興太守とされ、蕭衍が挙兵すると合作を勧めて和帝の即位で中領軍・散騎常侍・南郡太守とされたが、以後の昇任は固辞して受けなかった。梁では侍中・尚書左僕射・金紫光禄大夫・豊城県公に至った。

郭黙  〜330
 河内懐の人。太守裴整に壮勇を認められ、永嘉の乱では塢主となって将士の支持も篤かった。 詐計が多いことでも知られ、そのため劉琨に通じて河内太守とされながらも劉曜に攻囲されても援軍を得られず、石勒への通誼も果たせなかったが、滎陽太守李矩に投じてよりしばしば劉聡・石勒らを撃退して勇猛を謳われた。 後に飢饉に逼られて李矩に勧めて共に劉曜に降ったものの、石聡に敗れると明帝に帰参して仮節監淮北軍事・北中郎将とされた。
 蘇峻が平定されると右軍将軍に進められたが、辺将の事を好んで宿衛を厭い、又た江州刺史劉胤に軽んじられたことを怨恚し、329年に偽勅を以て劉胤を殺して江州刺史を称した。 南昌への移鎮を実行する前に尋陽で太尉陶侃に攻囲され、武勇を惜しまれつつ平定された。

李矩  〜325? ▲
 平陽の人。字は世迴。童齢の頃より計策と軍幹に長け、斉万年討伐で殊勲を挙げ、劉淵が叛くと塢主となって河南に遷って滎陽太守に叙され、石勒を大破して冠軍将軍・領平陽・河東太守を加えられた。 又た河内太守郭黙を救って劉淵を大破し、318年に孟津に劉粲の大軍を潰乱して都督・司州刺史に進められ、平陽県侯に進封された。 320年には一時的に洛陽を回復した事もあり、しばしば石勒らを撃退したが、飢饉に逼られて郭黙らと共に劉曜に降り、郭黙が建康に奔った後はいよいよ劣勢となって石虎に敗れて南奔し、途上の魯陽で落馬して歿した。

甘卓  〜322
 丹陽の人。字は季思。孫呉の折衝将軍甘寧の曾孫。 江南有数の武門と知られ、八王の乱で洛陽から帰郷する途上で陳敏に自立を促して呉姓との連和を成功させたが、程なく顧栄らの勧めで離背し、陳敏覆滅の主力なった。 東晋が興ると王敦に属して襄陽に鎮し、王敦の建業攻略に乗じて挙兵したものの敗死した。

桓彝  276〜328
 譙郡龍亢(安徽省懐遠)の人。字は茂倫。漢の欧陽博士桓栄の裔。 華北の名流として知られ、明帝に信任されて散騎常侍に進み、王敦が平定されると万寧県侯に封じられた。 後に宣城内史に進んだが、327年に蕪湖で蘇峻に破れ、翌年に宣城で敗死した。

桓謙  〜405
 字は敬祖。車騎将軍桓沖の子。 呉国内史・撫軍大将軍の時に孫恩の乱に遭って無錫に遁れた。 司馬元顕桓玄が決裂した当初は元顕の謀首の張法順に重んじられて劉牢之の離叛を惹起し、又た桓玄の荊州刺史を剥奪して後任とすることで西府の分断が図られた。 桓玄の挙兵に従い、桓玄の死後は桓振と結び、劉毅に敗れて後秦に奔った後に蜀に送られて譙縦を輔け、荊州に進出すると2万余の兵を得たが、枝江で劉道規に敗死した。

桓振  〜405 ▲
 字は道全。桓玄の従弟/桓石虔の子。桓玄が敗れると安帝の拠る江陵に入り、桓玄の訃報に接して継嗣を称した。 襄陽を回復して南下した南陽太守魯宗之を大破したが、程なく劉毅らに敗死した。

桓沖  328〜384
 字は幼子。桓温の弟。 桓温の北伐に従って襄陽に鎮し、桓温が揚州刺史に転じた後は江州刺史とされて兄の荊州刺史桓豁とともに西州を分掌した。 桓温が歿すると揚州刺史を継いだものの北府の統領は認められずに姑孰に鎮し、375年に北中郎将王坦之が歿して鎮北将軍・徐州刺史とされた際には揚州刺史は謝安に兼領された。
 孝武帝の元服で車騎将軍に進位されたが、翌年に桓豁が歿すると持節都督荊江梁益寧交広七州諸軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史とされ、江州以東の権益を失った。 荊州では前秦の攻勢に直面して378年には魯陽・南郷・南陽を失い、姚萇慕容垂苻丕らによって梁州刺史朱序の拠る襄陽も陥された。 淝水の役では沔北や巴蜀攻略には成功しなかったものの姚萇らの侵攻を能く防ぎ、謝玄らの圧勝に切歯しつつ病死した。
 後に桓玄が討平された際の大赦でも桓氏は除外されたが、孫の桓胤のみ桓沖の功を以て特赦された。

韓子高  538〜567
 会稽山陰の寒人。 呉興太守の陳蒨(文帝)に麗貌を愛され、将軍に叙された後も文帝に近侍して人事にも影響があった。 軍の統制は疎劣だったが、陳宝応らの討伐に従って右衛将軍に進み、領軍の大兵を領した。 文帝が歿すると執権の陳頊(宣帝)に猜忌されて新安(黄山市)に出鎮し、謀叛の密告で到仲挙と共に廷尉で賜死された。

到仲挙  517〜567 ▲
 彭城武原の人。字は徳言。梁の侍中到洽の子。到漑の甥。 梁で清要官を歴任し、侯景の平定後は陳蒨に腹心として信任され、文帝が即位すると尚書右僕射・丹陽尹に至り、嗣子の到郁は文帝の妹を娶って中書侍郎・宣城太守とされた。 文帝が病臥すると万機を決裁したが、陳頊が執権すると金紫光禄大夫に遷され、南康内史に遷された到郁と韓子高の謀叛に連坐して廷尉で賜死された。 学術や世事に疎く、章奏は袁枢が代筆したと伝えられる。

顔含
 琅邪臨沂の人。字は弘都。魯より琅邪に移籍した魏の徐州刺史顔盛の曾孫。 晋室の南遷に随い、国子祭酒・散騎侍郎などを経て光禄勲に至り、桓温に通婚を認めなかったことで先見を讃えられ、致仕の20数年後に93歳で歿した。 「家は書生の門にして世々富貴なる莫し。仕官して二千石を過ぎるべからず。姻戚に勢家を貪る勿れ」との家訓を遺した。

顔勰  〜539
 琅邪臨沂の人。字は子和。 梁の湘東王国常侍で起家してより王(元帝)に随ったが、朝官は拒み続けた。 時流に外れた文章は湘東王の『西府新文紀』にも採録されず、子の顔之推は「鄭衛の音(華糜)無きが故」としている。

顔師伯  419〜465
 琅邪臨沂の人。字は長淵。幼少時には貧孤に苦み、元嘉年間に雍州刺史劉道彦や武陵王(孝武帝)の幕僚を歴任した。 458年に輔国将軍・青冀二州刺史となって魏軍を撃退し、後に侍中・吏部尚書・尚書右僕射などを歴任した。 孝武帝の託孤に連なったが、次第に削権されて柳元景らと廃黜を謀って殺された。

紀僧真  444〜498
 丹陽建康の人。征西将軍蕭思話の軍事に従って認められ、後に蕭道成に仕えて簒奪にも参与した。 禅譲後は中書舎人を本官として高帝・武帝に側近し、中書四戸の筆頭として信任された。 姿貌と文筆の才を以て武帝からは「世の常の貴人も及ばず」と称されたが、侍中を望んだ際には貴族の領袖の王倹に同座を拒まれて断念した。

茹法亮  〜499? ▲
 呉興武康の人。高帝の即位後に東宮通事舎人となり、武帝の即位で中書舎人を本官とした。 紀僧真・劉係宗・朱異とともに中書四戸に数えられ、王倹をして「権は茹公に及ばず」と歎じさせた。 宋末には典籤だったことがあり、武帝の死後はしばしば叛乱鎮圧後に安撫使・宣慰使となって出向した。

丘遅  464〜508
 呉興烏程(浙江省湖州市)の人。字は希範。謝超宗何点に文才を認められて蕭衍にも厚遇され、禅譲後に散騎侍郎・永嘉太守を歴任したが、怠慢を弾劾された。 翌年の臨川王の北伐に従軍して陳伯之の招降文を起草し、司徒従事中郎として歿した。
 江淹尽才の逸話では、江淹が張協に返した残余の錦が丘遅に渡ったとされている。 『詩品』では中品に位し、「江淹に及ばずも、任ムに優る」と評された。

元樹  485〜532
 字は秀和。北魏の咸陽王禧の子。 美貌と将幹を知られ、父の死後に南奔して魏郡王に封じられ、後に鄴王に改封された。 六鎮の乱に乗じて524年に起された北伐の主帥とされ、撤退後の525年に郢州刺史に転じたものの翌年には夏侯亶と呼応しつつ寿陽(寿春)の攻略に成功した。
 河陰の変に対する北伐を求めて532年に鎮北将軍・都督北討諸軍事とされたが、譙城を陥した直後に元法僧の撤退で孤立し、佯和を信じて棄城を進めている処を急襲されて洛陽に送られて殺された。

元法僧  453〜536
 道武帝の第3子/陽平王熙の曾孫。 貪婪暴虐で知られたが、元叉に通誼して益州刺史・兗州刺史・徐州刺史を歴任した。 六鎮の乱を収拾できない朝廷に叛いて525年に彭城で称帝した後、討伐軍が派遣されると梁に降って司空・始安郡王とされたが、彭城は摂徐州府事の豫章王綜が叛いたために失われた。 後に太尉・魏王に直され、532年に爾朱氏の内戦に乗じた北伐の主帥とされたが、事態の早期の収束によって撤退した。

阮裕
 字は思曠。陳留尉氏の人。阮籍の族弟。 名士としての令名が高く、王敦の主簿で起家し、太尉郗鑒が琅邪王氏から婿を選ぶ際の使者となり、王羲之を絶賛して選定を薦めたという。後に金紫光祿大夫・侍中に至った。 又た瀟洒な車を誂えて他人に貸す事を好んだが、知人が母の喪に借りることを逡巡した事を知ると無用の贅として車を焼き、“阮裕焚車”の故事となった。

厳植之  457〜508
 建平秭帰(湖北省)の人。字は孝源。 玄学に詳しく、長じて鄭玄の説を修めた。 斉で廬陵王国侍郎で起家し、梁では五経博士とされ、その講義には五館の全学生千余人が集ったという。

許詢
 河間高陽(河北省保定市)の人。字は玄度。会稽内史許帰の子。江州刺史華軼の外孫。 琅邪王の南渡に父に伴われて随ったが、出仕を厭って会稽に隠棲して許徴士と称され、孫綽・支遁・謝安・王羲之らと親交して風情簡素・高情遠致と評された。 玄学の盛行した当時にあって清談・玄言詩の名手として孫綽と並称され、高邁遠大な詩は簡文帝から「時人に妙絶す」と絶賛されたが、玄言詩の域を出なかったことで後世の評は“道家に傾く”と概ね辛い。

胡僧祐  492〜554
 南陽冠軍(河南省ケ州)の人。字は願杲。北魏から梁に降り、湘東王(元帝)に属して侯景討伐に従い、551年に巴陵で侯景を大破した事は、侯景の簒奪を急がせる結果となった。 領軍将軍に進められ、江陵奠都を強く勧めて建康派と対立し、魏の江陵攻略に直面して都督城東城北諸軍事を加えられ、落城の日に戦死した。

呉隠之  〜413
 濮陽鄄城の人。字は処黙。容姿・談論に優れ、清廉孝行でも知られた。 桓温の推挙で晋陵太守に進み、中書侍郎・御史中丞・著作郎を歴任して402年に広州刺史とされた。 施政は清廉で弊風の改善に努め、404年に盧循が広州を攻めると百日間の抵抗の末に捕えられたが、後に解放されて京師に戻り、度支尚書から中領軍に進んだ。

孔子袪  496〜546
 会稽山陰の人。 貧寒の布衣でありながら精学して殊に『古文尚書』に通じ、長沙嗣王侍郎・国子助教とされて『尚書』を講じた。 賀琛の『梁官』撰述を佐け、武帝の『五経講疏』・『孔子正言』撰述に於いても信任され、後に士林館で賀琛・朱异とともに経を講義した。

孔稚珪  447〜501
 会稽山陰の人。字は徳璋。 学問・詩文に優れて蕭道成に起室参軍とされ、永明年間(483〜493)の『晋律』改修にも参与した。 廷尉、御史中丞と進んで493年に王融を告発して自殺させ、斉末に太子・事・散騎常侍とされた。

江湛  408〜453
 済陽考城(河南省蘭考)の名族。字は徽淵。晋の散騎常侍江統の玄孫。 彭城王(文帝)の司徒主簿・太子中舎人などを歴任し、徐湛之とともに文帝に信任されて侍中・吏部尚書まで進んだ。 孝・廉でも知られ、檀道済との通婚を断ったことで先見を讃えられた。 太子の廃黜の詔を起草した事から、大逆で文帝・徐湛之とともに殺された。

江蒨  475〜527 ▲
 字は彦棟。宋の吏部尚書江湛の曾孫。 太子洗馬などの清官を歴任し、斉末には梁に抗しながらも赦され、黄門侍郎・兗州大中正・右軍将軍などを歴任して光禄大夫を加えられた。 江湛と同じく廉孝で、徐勉との通婚を断ったために官界では不遇だった。

崔霊恩
 清河の人。北魏の太常博士だったが514年に梁に奔り、武帝に学識を認められて国子博士とされた。 礼学の大家として重んじられた。

崔道固
 清河の人。字は季堅。妾腹として兄弟に軽侮されたが、徐兗二州刺史となった劉駿(孝武帝)に認められ、後に冀州刺史に進んで歴城に鎮した。 薛安都らと与に魏に投じ、魏人の驕横と明帝の招撫から南帰して徐州刺史を安堵されたが、慕容白曜に歴城を囲まれて468年に降り、平城西北の北新城に僑置された平斉郡の太守とされて延興中(471〜476)に歿した。

沈文秀  426〜486 ▲
 呉興武康の人。字は仲遠。沈慶之の軍事に従って認められ、累遷して465年に建威将軍・青州刺史に叙された。 薛安都らと行動を与にして北魏に降ったものの間もなく南朝に帰し、崔道固が敗れた翌年(469)に落城したが、慕容白曜を泰若として迎えた為に殺されずに平城に送られ、後に献文帝にも剛直を嘉されて外都大夫とされた。

蔡興宗  414〜472
 済陰の人。劉濬とは文学を通じて交流があった。 明帝晋安王の対峙では叛乱の累を当人に限るよう進言するなど明帝の勢力確立に大きく貢献し、乱後は太守や刺史を歴任した。

司馬休之  〜417
 字は季預。譙忠王の末弟。会稽王の腹心に連なり、王恭平定に従って龍驤将軍・襄陽太守に叙されて歴陽に鎮したが、桓玄の乱で南燕に奔り、桓玄の平定後に帰国して荊州刺史・会稽内史を歴任した。
 劉毅が平定されると都督荊雍梁秦寧益六州軍事・平西将軍・荊州刺史とされたが、譙王を襲いだ子の司馬文思が劉裕に京師を逐われてより圧迫が強まった。 415年に在京の一族が殺されて討伐された当初は赦免を求めたが、隷下の鎮北将軍魯宗之らの勧めで挙兵して後秦・北魏にも援軍を求め、劉裕に敗れて江陵を退くと襄陽から後秦に亡命した。後秦が滅ぼされ、北魏に逃れる途上で歿して北魏から征西大将軍・右光禄大夫・始平公が追贈された。
 文思は後に譙王に封じられて懐荒鎮将に至った。

司馬尚之  〜402 ▲
 譙忠王。字は伯道。譙敬王恬の嗣子。司馬懿の甥/譙剛王遜の玄孫。 王国宝兄弟と並んで司馬道子に親信され、王恭の平定で建威将軍・豫州刺史とされ、兄弟も呉国内史・丹陽尹・襄陽太守に叙されて勢威を強めた。桓玄が叛くと征討の前鋒とされたが、先遣軍が桓玄に投じた為に横江で敗れて擒われ、建康で司馬元顕庾楷らと共に殺された。

謝恵連  407〜433
 陳郡陽夏の人。謝方明の子。族兄の謝霊運/大謝に対して“小謝”と呼ばれ、後に謝朓を加えて“三謝”とも称された。 10歳で謝霊運に詩文の才を認められたが、父の喪中に男色の相手に艶詩を贈った廉で官途を断たれ、後に殷景仁の斡旋で彭城王の司徒参軍とされた。 『詩品』では中品に位し、『秋懐』・『擣衣』は絶賛され、楽府体詩にも優れた。

謝方明  379〜426 ▲
 謝安の末弟/謝鉄の孫。劉裕に信任されて国典朝儀・旧章規注の撰録にも携わり、文帝が即位すると侍中に進められて諮問に応じた。何長瑜を冷遇したことで謝霊運に非難され、又た子の謝恵連の素行を察知できなかった。

謝奕  〜358
 字は無奕。太常謝裒の子。 夙に声誉があり、桓温と親交があって安西司馬に辟されたが、好酒が過ぎて同飲を逼られた桓温が南康公主の許に逃げることもあった。 謝尚の後継として357年に安西将軍・仮節都督豫司冀幷四州諸軍事・豫州刺史に進められて北伐を準備したが、翌年には歿した。

謝琰  〜400
 字は瑗度。太保謝安の子。 著作郎で起家し、淝水の役に際して輔国将軍に抜擢され、謝玄とともに苻堅を破って望蔡侯とされた。 王cとは不和だったものの尚書右僕射・太子・事・衛将軍などを歴任し、劉牢之とともに孫恩を撃退して会稽内史に転じたが、孫恩を侮って備えを疎かにして戦死した。

謝尚  308〜357
 陳郡陽夏(河南省太康)の大姓。字は仁祖。豫章内史謝鯤の嗣子。 博識で音楽・弁論に長じ、王導からは王戎の再来として“小安豊”と呼ばれた。 東晋になって抬頭した“新出門戸”で、妹が国舅の褚裒の後妻となったことで顕職を歴任し、褚太后が臨朝した穆帝の下で安西将軍・都督揚州之六郡諸軍事・豫州刺史とされて歴陽に鎮した。
 褚裒の死後は桓温の北伐を扶け、352年に許昌で姚襄に敗れたものの翌年には豫州刺史のまま尚書僕射を本官として都督豫揚州江西諸軍事を加えられ、355年には北伐に備えて督幷冀幽三州諸軍事・鎮西将軍に転じたが、程なく歿した。 死後に衛将軍・散騎常侍を追贈され、北伐の事は従兄弟の謝奕が継いだ。
 従弟の謝安が桓温の死後に褚太后の臨朝を強行したのは、外戚として家勢を確立するためだったとも伝えられる。

謝鯤  281〜323 ▲
 字は幼輿。『老子』・『易』を好み、歌や鼓琴を能くして阮咸・王澄らと交遊があった。病を理由に東海王の下を辞して豫章に避難すると王敦の求めで長史となり、杜弢の平定に従って咸亭侯に封じられた。 王敦の異志を察した後は桓彝らと縦酒に遊んで“八達”と称され、王敦の起兵を諫めて豫章内史に出されると能治を讃えられ、名士の任用や元帝への朝見を進言した。 王敦が平定されると太常を追贈された。

烏衣巷  ▲
 呉の烏衣営の旧地にあたる、建康の秦淮河の南の街巷。呉兵が黒衣を纏っていたことに由来する。 東晋以後は王・謝に代表される門地二品の邸宅が営まれ、貴族子弟の巷内での交遊は“烏衣之遊”と称された。

謝述  390〜435
 陳郡陽夏の人。字は景元。謝安の兄/謝據の孫。范曄の姉婿。 子の謝緯は宋文帝の婿とされた。

謝石  327〜388
 字は石奴。謝安・謝万の弟。秘書郎で起家して尚書僕射に累遷し、淝水の役では仮節征討大都督とされて苻堅を大破し、中軍将軍・尚書令に進んで南康郡公に封じられた。 謝安が歿すると衛将軍に進んだが、公事で吏部郎王恭と忿恨を結んだ為に病を称して棄官閉門し、出仕の詔勅にも悉く応じずに病死した。

謝万 ▲
 陳郡陽夏の人。字は万石。謝安の弟。 宰相となった司馬cに辟招された際には綸巾鶴氅履版で出仕し、歓談は移日に及んだという。 352年の北伐では殷浩の前鋒となって許昌に達し、北伐の失敗で尚書僕射に直されたものの安西将軍謝奕が北伐の直前に歿すると西中郎将・仮節監司豫冀幷四州諸軍事・豫州刺史とされて軍事を継ぎ、359年に下蔡に進んだが、友軍の郗曇が病で退却したものを敵襲によるものと誤って軍を潰乱させた。
 かねて謝安には矜傲で慰撫の念に欠ける事を憂慮され、王羲之にも将来を期待されつつ剛情・圭角が窘められ、桓温には認められなかった。

謝超宗  〜483
 陳郡陽夏の人。字は幾卿。謝霊運の孫。 父の謝鳳とともに謝霊運の累で嶺南に流され、元嘉(424〜53)末に赦されて帰京すると謝霊運の再来として文名を馳せた。 才を恃んで酒席での不遜の言動が多く、さらに張敬児の娘を子に娶ったことで誣告され、越州に流される途上で自殺を命じられた。

謝朏  441〜506
 陳郡陽夏の人。字は敬仲。中書令謝荘の子。謝密の孫。 宋末に侍中とされ、禅譲に際して印璽の譲渡を拒んで罷免された。 後に蕭鸞(明帝)の簒奪に際しても賛同せず、呉興令への転出を求めた。

謝密  392〜433 ▲
 陳郡陽夏の人。字は弘微。“謝弘微”とも。謝万の曾孫。 劉裕が即位すると黄門侍郎とされて枢機に参与し、王華王曇首殷景仁劉湛と並んで五臣と呼ばれた。 謝晦謝霊運らと謝混の烏衣巷に遊び、謝混が殺されると家産を管理して寸毫も侵さず、後に謝安の孫の謝峻の家を継いだ際にも謝琰の遺産で諍う事がなかった。 兄の謝曜が人物評を好んだのに対し、評言を口にする事がなかったという。

釈恵休
 俗姓は湯。湯恵休とも。鮑照徐湛之と交誼があり、孝武帝の命で還俗して揚州従事史まで進んだ。 華美・通俗的な詩で鮑照と並称されたが、「淫靡にして情は才に過ぐ」と後世の評価は低く、六朝盛時に典型の詩風とされる。

朱買臣  〜554
 梁元帝の宦官。武陵王平定時は武昌太守で、遷都の議では西人でありながら建康奠都を唱え、魏軍の南下に際しては東遷論を排した吏部尚書宗懍・太府卿黄羅漢・領軍将軍胡僧祐の誅殺を主張した。 江陵城が攻囲されると防備の要の宣陽西門を守備したが、王褒の督促もあって突出して大敗し、後に内応者が西門を開けたことで落城した。

周弘正  496〜574 ▲
 汝南安城(河南省正陽)の人。字は思行。 梁元帝の下で建康遷都を唱え、「東人の策を国計にする莫れ」と主張する帝の側近に対し、「西人の策も私計也」と論争した。

周弘譲  ▲
 周弘正の弟。茅山(江蘇省句容)に隠棲して梁の招聘に応じなかったものの侯景には仕え、王褒との親交から元帝の遥授を受けて陳でも無位無冠のまま太常卿・光禄大夫として遇された。

  269〜322
 汝南安城(河南省正陽)の著姓。字は伯仁。周馥の甥。 夙に操行によって声望があり、広陵の戴淵とは“南北之望”と並称され、琅邪王(元帝)より荊州刺史・仮節護南蛮校尉とされたが、杜弢に敗れたことで後任の王敦の勢力が伸張した。 元帝に信任されて吏部尚書・尚書左僕射を歴任し、王導にも重んじられたが、酒席での失言が続いて盛名を損ない、「三日僕射」と揶揄された。 王敦の乱で戴淵らと共に殺された。
王敦の挙兵で劉隗が王氏誅殺を求めた際、周は王導に弁護を求められても一顧だにせず、密かに元帝に助命を嘆願した後も王氏誅戮を公言しました。 後に建康を制圧した王敦から周と戴淵の処刑の是非を問われるた王導は、無言を貫いて助命を求めず、後に周の弁護を知って終生悔やんだそうです。 ツンデレもほどほどに?

周馥  〜311 ▲
 汝南安城の著姓。字は祖宣。 夙に声名が高く、諸王の文学や王渾の司徒掾属を経て侍中・徐州刺史・廷尉などを歴任した。 成都王から守河南尹、東海王から鎮東将軍・都督揚州諸軍事とされたが東海王の執権に批判的で、陳敏の平定後に寿春遷都を上書た事で関係はさらに悪化した。 東海王の徴参に応じなかった為に討たれ、揚威将軍甘卓に敗れて項に奔る途上で殺された。

周続之 377〜423
 雁門広武(山西省代県)の人。字は道祖。経学・玄学を修めたのち廬山の慧遠に師事した。陶潜・劉遺民とともに“潯陽三隠”と呼ばれた。

周盤龍  415〜493
 北蘭陵の人。劉裕の土断で東平郡に移籍した。 豪胆で弓馬に熟達し、軍旅では先鋒となることが多く、桂陽王の乱が治まると南東莞太守・前軍将軍とされ、沈攸之を討って都督司州軍事・司州刺史に進んだ。翌年には淮陽の角城で魏軍20万を大破・撃退し、勇名は北方に轟いたという。 南琅邪太守・済陽太守を歴任して後に平北将軍・都督兗州縁淮諸軍事・兗州刺史に進み、散騎常侍・光禄大夫で歿した。

周訪   259〜320
 廬江潯陽(江西省九江市区)の人。字は士達。 為人りは沈着剛果で救恤につとめ、建業に進駐した琅邪王(元帝)に招かれて鎮東参軍とされ、ついで揚烈将軍とされて潯陽に駐した。 華軼討伐の功で振武将軍・潯陽太守に進み、陶侃甘卓らと共に杜弢を大破して龍驤将軍・豫章太守・潯陽県侯とされ、319年に杜曾を平定してより襄陽に移鎮して能治を讃えられ、在任のまま歿した。
東晋の潯陽は前代までの尋陽(湖北省黄梅)と異なり、柴桑を郡治として新設されたものです念のため。

習鑿歯
 襄陽の人。字は彦威。荊州刺史桓温の幕僚として滎陽太守まで進んだが、病で致仕して郷里で歿した。 病中で著した『漢晋春秋』は、『世説新語』で卓逸と評された。 桓温の前で“荊蛮”と揶揄する孫綽を“薫育”と呼ぶなど、しばしば辛辣な諧謔を応酬した。

荀ッ  262〜328
 潁川臨潁の人。字は景猷。漢の中書令荀ケの玄孫。 学問を好んで文章に善く、泰始(265〜74)の末には濮陽王に仕えて陸機・王敦とも交流した。南遷に随い、東晋では顕職を歴任して光禄大夫に至った。

淳于量  511〜582
 済北の人。字は思明。累代建康に住まった。梁で湘東王(元帝)に仕え、江陵陥落後は陳覇先に属した。 侯安都の死後は章昭達と並ぶ軍の重鎮で、華皎を討平して中護大将軍・侍中・儀同三司に至ったが、573年の北伐では呉明徹を大都督とすることに反対せず、第6子に自軍を預けて従軍させた。

徐孝嗣  453〜499
 東海郯の名族。字は始昌。宋の孝武帝に婿とされ、斉では高帝・武帝に信任されて武帝の託孤に連なりながらも、明帝の簒奪を輔けて尚書令・丹陽尹などを歴任した。 明帝にも後事を託されて六貴人の筆頭に数えられ、始安王の謀逆には中立を保って司空とされたが、間もなく虎賁中郎将許淮との謀叛を以て東昏侯に誅された。 蕭衍からは「人の牛鼻を穿つに任せるほどの好人物ではあるが、重臣を統制して一王に仕えさせる手腕も忠誠もない」と評された。

江祏  〜499 ▲
 済陽考城(河南省)の人。字は弘業。 叔母の子の蕭鸞(明帝)との親交から明帝の世に大権を有し、498年には右僕射に進んで託孤にも連なったが、東昏侯が立って程なくに始安王擁立を謀り、内訌から失敗して殺された。 六傅中で最も堅実と称されたが、謝朓からは常に軽視されて遺恨があった。

徐嗣徽  〜556
 高平の人。侯景の乱で湘東王(元帝)に従って羅州刺史とされ、巴丘での侯景撃退に加わって太子右衛率・監南荊州とされ、後に譙秦二州刺史(建康対岸の一帯)に叙された。 王僧辯が殺されると南豫州刺史任約らと結んで石頭城を陥し、斉の来援も得たものの建康攻略で大敗して任約らと斉に亡命した。 翌年に王琳への援軍に従って蕪湖で敗れた後、建康急襲に加わって敗死した。

任約  ▲
 もとは侯景に属した武将。551年に湘東王に捕われ、晋安王司馬に抜擢されて王僧辯に属し、南豫州刺史に進んだ。 王僧辯の敗死直後、秦州刺史徐嗣徽とともに石頭城に入城したものの建康攻略に失敗してともに斉に逃れ、翌年の蕪湖の役や建康急襲にも加わったが、以後の消息は伝わらない。

徐湛之  410〜453
 東海郯の名族。字は孝源。武帝の外孫。振威将軍徐逵之の子。 奢侈を好み、安成公何勗・臨汝公孟霊休らと贅を競い、南兗州刺史のとき広陵城内を修築して文士を集め、風雅の歓を尽くしたという。 親交のあった劉湛に連坐した際には生母の会稽公主の奔走で赦されて太子・事に直された。445年に彭城王の謀叛を告発し、元嘉の末には尚書僕射となって吏部尚書江湛とともに権を集めたが、太子劭の廃黜を諮議中に襲われて文帝・江湛とともに殺された。

徐逵之  〜415 ▲
 晋の秘書監徐欽之の子。 劉裕の長女/会稽公主を娶り、劉裕の荊州討伐では振威将軍に叙されて前鋒となったが、司馬休之の部将の魯軌に敗死した。

徐摛  474〜551
 東海郯の人。字は士秀。 庾肩吾とともに早くから晋安王(簡文帝)に近侍して文書を掌り、“軽妙艶麗”と称される独特の詩風は、太子府の文人に模倣されて世に“宮体”と称された。 侯景の乱でも太子に近侍したが、開城後は謁見が認められずに憤死した。

△ 補注:南朝.1

Top | Next