漢晋春秋
東晋の習鑿歯の撰。
桓温の簒奪を婉諫する目的で著された。漢から晋への継承を主張して分裂期の正統性を否定し、特に曹氏を貶めている。全54巻。
襄陽耆旧記 ▲
『襄陽記』とも。習鑿歯の撰。
九州春秋
西晋の司馬彪の撰。全10巻。漢末の事について記している。
献帝春秋
東晋の袁曄の撰。全10巻。袁曄は袁暐とも。裴松之が『山陽公載記』と共に 「穢雑虚謬」 と糾弾した。
魏書
魏の王沈の撰。高貴郷公の正始年間に荀・阮籍・傅玄らと著した。全48巻。
司馬氏に承旨した点で批判されるが、それ以外の信頼性は高いとされる。
魏略
魏の魚豢の撰。通史『典略』の一部とされる。
『三国志』裴松之注に多く引用されたが、後に散逸し、近年になって輯本が編まれた。
賈逵伝注に引かれた甘露二年(257)の記事が最後とされ、避諱がないことが特徴となっている。
劉知幾からは「記事の取捨選択がなされず、内容が繁雑」と批判された。
魏氏春秋
晋の孫盛の著。編年体の魏史。全20巻。『三国志』裴注にも多くが引用されて『漢晋春秋』と共に「異同に漏洩なし」と賞賛された反面、典故を衍用した潤色や曲筆が多いと批判された。
異同雑語 ▲
『雑記』『異同記』とも。孫盛の撰。三国時代の異説を紹介したものとされる。『異同評』は同書の評の部分とされ、裴注の 「孫盛曰」 は『異同評』からの引用だともされる。
英雄記
『漢末英雄記』の略。漢末の王粲らが荊州の接収後に編纂したとされる。
漢末の群雄の事績が記載され、全10巻とされるが夙に散逸し、明代に王世貞が逸文を集めて輯本を編纂した。
曹瞞伝
呉人の作とされる。曹操を揶揄する為の逸話が多く、『平話』や『演義』に多く衍用された。
傅子
魏末晋初の傅玄の撰。全120巻。思想論・歴史評論・詩歌などを収めた一種の百科全書。
魏の記事が多く、司馬昭の側近だった経歴から司馬氏支持に立脚しているが、学敵である劉陶の祖父/劉曄の品行を貶めるなど、私情による毀誉褒貶の傾向がある。
魏末伝
著者不明。曹氏に肯定的で、裴松之からは「鄙陋(下品)」「曲筆」と批判されている。
魏晋世語
『世語』とも。西晋の郭頒の撰。全10巻。逸話集として巷間で好まれ、孫盛・干宝らも採録したという。
呉書
呉の韋昭の撰。紀伝体の呉史。全55巻とされる。『三国志』呉書の主な典拠とされた。
呉録
西晋の張勃の著。紀伝体の呉史。全30巻。張勃は呉郡呉の人で、父は呉の大鴻臚張儼。
呉歴 呉暦とも。西晋の胡沖の撰。全6巻。胡沖は呉の胡綜の子。
江表伝
西晋の虞溥の撰。全5巻。江南の人物伝。東晋の裴松之は資料として高く評価しているが、江南の人士に対する称賛や過大評価の傾向がある。
志林
東晋の虞喜の撰。全30巻。虞喜は虞翻の後裔。博学で知られながら出仕しなかったという。歳差の発見者として知られる。
蜀記
東晋の王隠の撰。蜀の歴史書。全7巻。裴松之は創作の多さを糾弾している。
益部耆旧伝
陳寿の著。全10篇、もしくは14巻。益州の人物伝。
晋書
東晋の王隠の撰。全93巻。父の王銓からの遺業として完成させた西晋史。虞預に剽窃・枉陥された後、庾亮の援助で完成したという。検証の甘さが気になります。
晋紀
東晋の干宝の撰。勅撰の西晋史。全23巻。『春秋左伝』に倣った独自の毀誉褒貶を展開する。
都督制
三国時代に始まる統軍制。
魏では単数以上の州を統べて4都督区が設定され、次第に単州都督が増え、晋では10都督区に再編された。
東漢の非常置官である督軍に起源し、例えば滕撫は督使徐揚二州とされたことが滕撫碑で確認されているが(『後漢書』では督揚徐二州事)、三国それぞれに内容は異なった。
曹魏では217年に夏侯惇が南面を総べる督二十六軍とされた後、220年に曹仁が都督荊揚益州諸軍事としてこれを継ぎ、暫くは督軍と都督が併用されたが、翌年には軍管区の設定と伴に都督制に一本化された。
建国時には南方・関中・青州・河北に都督が置かれたが、程なく南方都督は揚州と荊州に分割され、大都督がこれらを統べた。
“資”が軽い場合は都督諸軍ではなく監諸軍(南朝ではさらに下に督諸軍がある)とされたが、いずれも四方の将軍号が加えられて開府も認められ、数万〜十万程の外軍を擁し、刺史の兼領や加節される事も多かった。
諸都督の頂点でもある大都督が帯びる“中外諸軍事”は、中軍と外軍の総帥権を意味する。
刺史兼領は晋初に禁じられたが、恵帝の時代に復旧した。 ➤
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蜀漢の都督は基本的に郡レベルの方面駐屯軍を指揮し、漢中都督・江州都督・永安都督(巴東都督)・庲降都督が四大都督とされた。
又た中央軍では督軍との明確な区別はなく、前・後・左・右・中の五部督と別督が各軍を統率し、時に大督が統帥した。
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孫呉の都督区の規模も蜀漢の四大都督と大差なく、特に長江沿岸には県を単位とした督が多数置かれ、都督や大督は複数の督を統べ、都護を加えて方面元帥を示す事もあった。呉郡都督や、江夏太守を兼ねる夏口督などもあり、又た広州都督・交州都督などが置かれる事もあったが、刺史を兼ねる事は稀だった。
孫呉でも督軍制・監軍制が併存し、中央軍も当初は左・右・前・後・中の五部督と水軍督を設けて大都督は臨時官だったが、後には魏に倣って大将軍が督中外諸軍事を兼ねた。
加節
節は皇帝権力を象徴する符節。蘇武が堅持して忠臣の鑑とされ、馬日磾が袁術に奪われて悶死した。
節の序列は、使持節>持節>仮節となり、使持節は二千石以下に対する処刑権、持節は無官者に対する処刑権、仮節は軍律違反者に対する処刑権を示し、持節と仮節は軍時には1級上の権限が認められた。刺史職同様に、統軍に必ずしも加えられるものではなかった。
しばしば“仮節鉞”として併記される仮黄鉞は、独断での軍事行動を認められたもの。
中外軍
都督制の成立によって生じた禁軍の区別。中軍は京師の内外を固める宿衛諸軍の総称となり、外軍は諸都督に属して各地に進駐した。
曹操直属の兵団を司空府の領軍・護軍が指揮した事に始まり、後に領護の軍が中領軍・中護軍と改称されて軍制の中枢に置かれた。
中軍は京城内の宿衛諸軍と城外諸軍に大別され、宿衛諸軍には天子親衛の武衛営(武衛将軍)と、宮城防衛の中堅営と中塁営(中堅将軍・中塁将軍)、宮門に屯営する領軍営と護軍営(中領軍・中護軍)、京城の治安維持を担った驍騎営と游撃営(驍騎将軍・游撃将軍)があり、東漢以来の五校尉営も数百人規模の兵力を保って存続した。
城外諸軍は正始の変後に中外兵の転用で大規模に拡充されて中護軍に統率され、魏末には四護軍が置かれた。
中軍の最高指揮者は大将軍とされたが、平時には武衛将軍や中領軍が統轄し、明確な統属関係は確立していなかった。
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孫呉の中軍は主に羽林・武衛・虎騎・五校尉から成り、他に水軍督や遊撃的な無難営が確認できる。
中外軍が制度化されていなかった蜀漢でも実質的な区別は為され、羽林・虎賁・虎歩・虎騎が中軍にあたるとされる。
中領軍 ▲
領軍の将。領軍将軍とも。中護軍と共に京城内の中軍を統率した。
曹操が司空となった後に司空府の領軍・護軍が曹操直属の兵を統率した事に始まり、衛将軍や衛尉などの職責を併呑し、執政者に側近したこともあって権限は極めて強く、クーデターの成否すら左右した。
中護軍は副官として中軍の人事をも司り、正始の変の後は城外中軍を統督して領軍に亜ぐ要官とされた。
録尚書事
大官が尚書を統轄して国政を統轄する事。職掌名として扱われるが、正しくは“尚書の事を総録する”。呉・蜀では他に平尚書事が散見され、又た領尚書事・省尚書事も僅かに確認できる。漢朝では三公や上公が兼職したが、三国では九卿や二品将軍が兼ねる場合も多く、魏・蜀では陳羣の一例を除けば君主に代って万機を総攬する摂政的な存在だった。その為か君主親政を常態とする呉では録尚書事は少数で、実質を伴わない名誉職に近いものだった。
平尚書事は魏では見られず、蜀では録尚書事が外征に出ている間に留府の統轄者に臨時に加えられ、又た呉では親政する君主に側近して事務を統轄したものと思われる。
兵戸制
兵力の安定供給を目的とし、特定の戸が租税を減免される代償に永代の兵役義務を負う兵制。
軍役の世襲は東漢初期から存在したが、北軍五校・黎陽営などの常備の禁衛軍に限られたもので、従来の兵制が崩壊した漢末、曹操が降した黄巾軍30万から選抜・編成した青州兵を兵戸とした事が起源となって、後に全軍に適用された。
兵戸は士家とも呼ばれて様々に維持が図られ、逃亡には家族が連坐し、吏民との通婚が禁じられた際には既婚者すら士家との再婚が強制されるなど各種制限が課された結果、魏晋を通じて賎民化が進行した。
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兵戸制は永嘉の乱の後の江南政権では廃止の方向に進んだが、華北を支配した北魏に代表される異種族政権は兵戸制的な軍制を行ない、軍戸は支配勢力の構成員として優遇された。
北魏の軍戸は孝文帝の南遷を境に没落して六鎮の乱で崩壊し、続く西魏で府兵制が創出された。
虎豹騎
精鋭で構成された曹操の親衛騎兵隊。
袁譚を敗死させたほか、烏桓遠征や長坂での劉備追討でも威力を発揮し、劉備の2娘を擒えた。
曹休・曹真の後は曹純が督し、その死(210)後は曹操が指揮した。
合肥新城
合肥城に代る戦略拠点として、233年に満寵が西北30里の台地上に造営した。
合肥城は巣湖の北岸に位置し、揚州刺史劉馥による堅城化で魏軍が南下する際の前進基地として機能した。
そのため呉からも攻略対象として最も重視され、湖水に面していることで水軍による攻囲が容易で、寿春からの援軍の到達前に攻囲される欠点があった。
新城の完成後、孫呉は合肥攻略の際には陸路を強いられて兵站の維持に万全を期せなくなり、長期戦を避けるようになった。
庲降都督
蜀漢が南中統制のために建安19年(214)に置いた。
南中は大渡河〜長江以南と認識され、朱提・牂柯・建寧・永昌などの諸郡を統制した。
庲降都督は漢中・江州・巴東とともに蜀の四大都督に数えられ、ケ方・李恢・張翼・馬忠・張表・閻宇・霍弋らが名を残した。
世兵制
部曲の世襲を認めた呉の兵制。
在地豪族の既得権が肯定された呉では豪族の代表者は将軍を兼ね、一族間での部曲や任地の世襲も半ば公認された。
部曲維持のために奉邑の私領化や未墾地開拓が行なわれ、国策として推進された山越討伐も、部曲兵の確保と開拓の側面が強かった。
魏のケ艾は諸葛恪を撃退した後、「呉の大族は皆な部曲を有し、兵を恃んで勢いに乗ずれば自立が可能」と上書している。
山越
主に揚州の山間に居住した異民族の総称。
春秋越の裔の百越の残余と目されたことから“越”と称された。
漢人による江南開発の進展と共に軋轢を生じ、殊に孫呉政権の山越討伐は、軍閥でもある諸将の部曲確保と軍屯拡大の側面があったために熾烈な抵抗が繰り返され、曹魏に煽動されることも含めて政権最大の内患として認識され、孫呉が外征に消極的だった事の一因とすら称された。
孫呉政権の山越経略ははじめ丹楊・会稽・呉郡を対象とし、政権の拡大とともに鄱陽・豫章・廬陵に及び、組織的な山越討伐は孫権の時代をピークとした。
『晋書』地理志には、平呉時の呉兵や揚州の人口の半ばは山越だったとある。
南朝でも山越の抵抗は続いたものの漢人との同化が進み、唐代に山越の称は殆ど確認されなくなった。
呉の国策として進められた山越の平定は越族南下の第三波を惹起し、その一部は日本の能登半島周辺一帯に漂着して“越の国”の語源になったとも云われる。
無難軍
呉の天子直属の親衛兵団の一つ。孫綝伝を補う『江表伝』では、孫亮が挙兵計画の中で「孤は宿衛虎騎と左右無難を率い」とある。
解煩軍
劉備の東征に応じ、胡綜が新たに得た六千人で編成した左右部隊。後に韓当に敢死軍とともに率いられて丹楊の経略に従事した。解煩督としては他に陳脩(陳武の子)の名が確認できるが、その死後の解煩軍の動静は不明。
筑摩版『三国志』では特殊部隊と訳されていますが、特殊の特殊たる所以は不明です。
太常
九卿の1。宗廟・儀礼を管掌して太史令などが属し、礼教主義を標榜した東漢では九卿筆頭とされた。
尚書に実権があった東漢では実質的に名誉官とされたが、孫呉では行政首班の丞相、武昌で荊州統督を兼ねる大司馬と並ぶ要官となり、中軍都督として、宿衛を統べる武衛将軍と並んで京師の禁軍を統督した。
時代が下るとともに軍事官としての性格が薄れ、又た守官の場合は大鴻臚の職責を帯びた。
呉中四姓
呉郡呉県で最も家格が高いとされる顧・陸・朱・張家を指し、代表的な人物として顧雍・陸遜・朱拠・張温が挙げられる。 ➤
二宮の変が泥沼化したのは、全氏が顧譚・張休らの枉陥を成功させてからですが、両者の反目は孫和が立太子される以前の、孫登の死と同時期の芍陂の役には始まっています。
この時の論功行賞で全氏と顧氏・張氏が反目し、更に孫和が太子とされた事で孫和母子を敵視する全公主が本格的に乗り出し、ゴリ押しを仕掛ける外戚の全家と正論派がそれぞれ孫権の継嗣を奉じて対立したのが二宮の変、というのが表面的な流れです。
ですが歩隲や呂岱・呂拠までが孫霸支持に廻ったとなると、それ以前から対立の構造が潜在していた可能性があり、二宮の変はそれが表面化した事件だとも考えられます。
ここで、二宮の変以前に派閥問題が表面化した、孫権の失政とされるものを追及してみます。
孫権としては、当面の諸問題の改革には、どうやっても地付き大姓が障害に見えます。
そんな孫権が頼れるのは、宗族と外来名士の他はせいぜい次級門閥と外戚といったところです。改革派と大姓の潜在的な対立が感じられます。
事実、側近派と思しき丞相孫邵の死後、地元名門の顧雍が丞相に就いたものの、張昭同様に朝廷でその存在感を殆ど示せておらず、名だたる大姓の多くが朝廷から出されて外地に進駐しています。
そもそも謝兄弟の経済策にしても、呂壹の専断にしても、孫権の承認が無ければ行なえないもので、張温らの失脚は政策の是非とは無関係に孫権の感情問題の結果でしかありません。顧雍が丞相だった時代の朝廷は、顧雍ら大姓を蚊帳の外に置いた孫権とその側近団が主導していたと見て間違いないでしょう。
一連の改革派と守旧派の全面衝突が二宮の変、、、というのはどうでしょう?
呂壹は相手かまわず攻撃するタイプなので全方位的に批判が生じていますが、曁艶に対する批判の殆どが大姓や守旧的学者といった伝統主義者から生じていますし。
孫氏や次級門閥が江南の主導権を握るために改革を理由とした、との解釈だと志レベルが低い政争っぽくてオススメかも(笑)
外戚の全氏が黒幕だった、でもアリかな。呂壹に対する苦言も呈していないっぽいし。
改めて二宮それぞれの代表的支持者を挙げてみます。
孫弘・孫峻も、滕胤同様に二宮絡みの党派色は薄そうです。
孫弘は、政敵が太子派に固まっていただけ。孫峻は、後の全公主との関わりから遡って魯王派に分類されただけ。
孫峻は後継問題で孫権に相談されていますが、その内容は「どっちを立ててもマズイよね」って話で、孫峻の進言内容は不明です。
ひょっとしたら両成敗の発案者かもしれません。
まだ有力なシンパがいない皇子を推すことで、恩を売っておこうくらいのことは考えても不思議はありません。
孫亮の輔佐に諸葛恪を推したのも同じ心理です。ついでに、内朝支配の最大のライバルである孫弘を倒すにも、諸葛恪を利用するのが最善ですから。
おそらく多分、滕胤・孫弘・孫峻は結果から派閥分けがされたんでしょう。 孫弘と孫峻は悪だから魯王派、だから孫峻系に殺された滕胤は太子派。 特に魯王派の匂いが濃厚な諸葛恪に至っては、孫和の外戚かつ孫登の四友だったので、太子派にコスチェンさせるのもさして難事ではなかった事でしょう。 もちろん、証明なんてできませんが(笑)
二宮の変の派閥抗争が有耶無耶のまま放置されたという通説は、諸葛恪と滕胤が太子派という前提で成立するもので、孫呉の凋落の原因を、その派閥抗争を放置した孫権の老害に求める結論ありきのものです。 『三國志』呉志の底本となった『呉書』の撰者が、自分たちの世代の頑張りが実を結ばなかったのは、そもそも先代が播いた種が品種改良に失敗していたからどうしようもなかったのだ、と。そもそも、当の韋昭がバリバリの孫和派でしたし。
実際には有耶無耶どころか、看板が孫亮に替っただけのことで魯王派の勝利です。
孫亮輔政の四人が無党派だったとしても、両派の主要メンバーの生存者を比べれば歴然ですし、何より孫亮の皇后が全氏です。
孫権が非難されるべきは、二宮を並立してしまった事、次代の人材の多くを殺してしまった事でしょう。
以後の孫呉の朝廷は、中央集権による国家運営という孫権の志向を尊重する旧魯王派によって運営されます。そうした意味では、二宮の変はそれ以前から続く、“地元大姓”vs“その他”の主導権争いの氷山の一角に過ぎず、中央集権を看板にした“その他勢力”が勝利した事になります。
孫亮・孫休の時代の孫峻・孫綝を軸とした粛清劇は、主権の所在を君主に集中させるか宗室が担うかという問題を争う旧魯王派の内訌に過ぎません。
事実、孫綝が粛清された後の孫休の時代、大政に関しては伝統大姓の名はほぼ出てきません。
最終的には天子主権派が勝利したのに、最悪のタイミングで孫休が死んでしまい、国難に対処する必要から勢族主導への回帰が確認され、その象徴として迎えられたのが孫和の子の孫皓です。ですが、肝心の孫皓が選りにも選って孫権の政策の信奉者でしたというオチで、孫皓の時代を支えた三羽烏がいずれも勢族側の人間だったというのはしょっぱいものがあります。
濡須の役 212〜213
関中平定直後の曹操の南征。
213年正月より曹操と孫権が濡須で対峙し、緒戦では突風によって呉の董襲が溺死し、徐盛も一時敵中に孤立した。
曹操が中洲の占拠に失敗した後は呂蒙の土塁の構築もあって戦局が膠着し、孫権みずから威力偵察を行ない、甘寧が小部隊で夜襲を行なうなど打開が図られたが、一月余の対峙の後に双方撤退した。
孫権の布陣を遠望した曹操が感歎したことで締めくくられる。
合肥の役 215
荊南分割後の孫権の北伐。
前年に廬江郡治の皖城を陥していたこともあり、陸口から10万と称する兵力を以て合肥に進んだ。
合肥の兵力は張遼・李典・楽進の下に万に満たなかったが、張遼は緒戦の奇襲で孫権の本営に逼って陳武を戦死させ、徐盛から牙旗を奪い、孫権の戦意を喪失させてから篭城に転じた。
呉軍は疫病が発生したこともあって十余日で撤退に転じ、殿軍を指揮した孫権はこの時も張遼・楽進らに急襲されて窮地に置かれ、呂蒙・蒋欽・凌統・甘寧らの奮闘で脱することができた。
張遼の奮戦に対する呉人の畏怖は強く、泣く子をあやす際に「遼来遼来」と口にすることが流行した。
濡須の役 216〜217
前年の合肥の役に鑑み、赤壁の雪辱を兼ねた曹操の南征。
曹操は夏侯惇を督軍として総力を挙げ、廬江・豫章の山越を煽動するなど江東征服を意図した事が推測される。
翌年正月に居巣に進んだものの疫病の蔓延で苦しみ、緒戦で張遼・臧覇が呂蒙に撃退され、劉備との関係が悪化した孫権の臣従があって夏侯惇・曹仁・張遼らを留めて帰京した。
洞浦の役 222
猇亭の役の後、魏への入質を拒む呉に対する南征の一環。
魏は文帝が宛城に行幸し、征東大将軍曹休・前将軍張遼・鎮東将軍臧覇が洞浦に、大司馬曹仁が濡須口に、中軍大将軍曹真・征南大将軍夏侯尚・左将軍張郃らが江陵に南下し、呉では丹楊太守呂範が5軍の水帥を督して洞浦を、濡須督朱桓が濡須口を、南郡太守朱然が江陵を守り、諸葛瑾・潘璋らが朱然の援軍とされた。
呂範の水軍は突風に遭って混乱したところを襲われて大敗したが、京口方面では全j・徐盛が臧覇を撃退し、又た賀斉の来援もあって魏を上陸させずに面目を保った。
▼ 翌年
曹仁は下流の羨渓攻略を喧伝して朱桓の兵を分散させることには成功したが、朱桓の力戦によって濡須を攻略できずに撤退した。
江陵では曹真が江陵城を攻囲する一方で夏侯尚が諸葛瑾を破って中洲を奪い、張郃も別の中洲を占拠して越年の対峙となったが、夏侯尚が潘璋に敗れ、朱然の堅守と長江の増水などによって撤退した。
洞浦とは耳慣れない地名ですが、牛渚(馬鞍山市区)の対岸です。
曹真伝では、「(曹真が)夏侯尚と共に牛渚を撃った」との誤記がありますが、恐らく曹仁が濡須を牽制し、その間に曹休らが渡江する作戦だったのでしょう。
それにしても、以後の曹丕の南征に対する情熱は異常なほどで、天子の面子とやらを潰されたのがよほど悔しかったようです。
江陵攻めが失敗した翌年に長江まで親征したものの、徐盛の疑城の計で撤退し、その翌年にも大船団を組んで広陵まで進んだはいいけれど、水路が凍結して立往生のうえ退路で孫韶に襲撃されています。
「親征には鎮軍が従軍して帷幄に参じ、撫軍が京師に留まって後事を総覧する」事が定められたのも、蒋済が帰路の処置でお褒めにあずかったのもこの行幸です。結局、曹丕は立往生の翌年に歿しますが、ハッキリ云って調査不足の一言で片づけられてしまうお粗末な戦略レベルでした。
石亭の役 228
呉の鄱陽太守周魴の佯降に応じて南征した魏の大司馬曹休を、呉の荊州牧陸孫らが大破した戦役。
呉は仮黄鉞・大都督陸遜に、朱桓・全jを左右督として皖に進ませ、魏は揚州都督曹休が皖に、前将軍満寵が夏口に進み、驃騎将軍司馬懿が漢水を東下した。
呉は魏への投降者が絶えない状況を利用したが、魏でも賈逵の建議によって、孫権の拠る東興を攻略して南進の拠点を得ることが図られていた。
曹休は佯降を悟った後も南下を続け、皖城の手前の石亭で伏兵と朱桓・全jの挟撃で大敗したが、後方支援の賈逵が急転して退路上の石夾の呉兵を駆逐した事で全滅を免れた。司馬懿には街亭から転戦した張郃が加わったが、曹休の敗退と長江の凍結によって江陵から撤退した。
合肥の役 234
蜀の第五次北伐と連動した孫権の親征。
孫権は前年にも全jに六安を牽制させて合肥新城攻略を試みて失敗しており、この年には合肥新城に進んだ孫権の他に、襄陽に上大将軍陸遜・大将軍諸葛瑾が、淮陰に鎮北将軍孫韶・濡須都督張承が侵攻する挙国的なものとなった。
孫権が寿春から来援した揚州都督満寵との緒戦に敗れた後、曹叡の親征に接して撤退したことで失敗に終わり、孫権の早々の撤収によって陸遜・諸葛瑾の後退は難渋を極めた。
芍陂の役 241
孫呉の大規模北伐の一環。
衛将軍全jが淮南に、大将軍諸葛瑾が柤中に、車騎将軍朱然が樊に、威北将軍諸葛恪が六安に侵攻する7年ぶりの大征となったが、全jは芍陂で王淩に撃退され、他の諸軍も司馬懿の出征によって撤退した。
芍陂では顧承・張休が魏兵の猛攻を支え、全端・全緒が魏兵を撃退して全軍の崩壊を防いだが、顧承・張休の功が第一とされた事で全氏との遺恨を生じた。
東興の役 252
呉の大将軍諸葛恪が、魏の征東将軍胡遵・揚州刺史諸葛誕を撃退した戦役。
孫権が放棄して久しい巣湖の東興堤を諸葛恪が修築し、堤の両端に2基の山塞を構築したことが原因とされる。
堤上から山塞を攻略していた魏兵は丁奉の奇襲で混乱したところを留賛・唐咨・呂拠らに襲われ、堤から後退するところを朱異に浮橋を壊されて大敗した。
魏は東興攻略と同時に征南大将軍王昶を南郡に、鎮南将軍毌丘倹を武昌に進ませたが、東興の軍が大敗したことで全戦線の撤収を余儀なくされた。
東興堤は濡須水の両岸に逼る山を繋いで230年に構築された堰堤で、孫権の合肥攻略に際して巣湖に船団を入れる為に破壊されていました。
巣湖は北に合肥、南に濡須を控える魏呉の係争地で、諸葛恪の築城から魏の南征まで間がないので、孫権の死に乗じた魏の南征の機先を制して、諸葛恪が東興を押さえたものと思われます。
『漢晋春秋』によれば、魏の執政の司馬師は、東路軍の監軍の司馬昭を削爵した以外は諸将の責を問わなかった事と、同年の雍州刺史陳泰の要請に基づいた幷州での募兵で雁門・新興郡が乱れた事について自責したことを紹介し、司馬師の姿勢を大絶賛しています。
戦勝で増長して孤立していった諸葛恪とは好対照で、両者の資質の差を示す好材料ではありますが、出典が『漢晋春秋』なので事実かどうかは別問題です。確かに、諸葛誕と毌丘倹の配置交換の他は、『三国志』では司馬昭を含めて諸将の問責記事はありませんがね。
毌丘倹の乱 255
揚州三叛の第二。
遼東の驍将/揚州都督毌丘倹と、勇将として知られた揚州刺史文欽が連結して叛いたもので、両者は項に進出して文欽が遊軍を指揮した。
大将軍司馬師みずから征討して先鋒の王基が南頓に進駐し、豫州都督諸葛誕が西から寿春を、征東将軍胡遵は青・徐の兵を督して項と寿春の遮断に動いた。
司馬師が交戦を厳禁して戦線を膠着させた後、文欽が楽嘉で兗州刺史ケ艾に敗れたため全軍が壊乱し、文欽は呉に奔りおおせたものの、毋丘倹は南奔の途上で安風津都尉の民兵により射殺された。
諸葛誕の乱 257〜258
揚州三叛の最後。
揚州都督諸葛誕が叛いて呉と結んだもので、魏帝の親征が求められた点で三叛で最も危険視されたと見做される。
諸葛誕は揚州刺史楽綝を急襲して攻殺したのち呉に称藩して左都護・仮節驃騎将軍・大司徒・青州牧・寿春侯とされ、鎮南将軍王基による寿春包囲と前後して、援軍の文欽・唐咨・全懌・全端ら呉兵3万余を寿春城内に収容した。
魏では司馬昭がクーデターを警戒して天子を項に親征させ、自らは中外諸軍26万余を督し、安東将軍陳騫に王基を援けさせるとともに監軍石苞・兗州刺史州泰には呉の援軍に備えさせた。
そのため呉の後続の朱異・丁奉は魏兵の包囲を崩せず、糧秣の欠乏もあって後退し、孫綝は再征を拒んだ朱異を殺して建業へ撤収した。
司馬師が厳重な包囲による兵糧戦を採ったために寿春でも糧秣が欠乏して諸葛誕と呉将との対立が深刻となり、本国での諍案から魏に投じた全氏の勧告もあって年末には全端・全懌が魏軍に投降した。翌月(258.01)には呉人のみでの寿春篭城を主張した文欽が諸葛誕に殺されて文叔・文虎も司馬昭に降り、諸葛誕は司馬昭が来着した後に突出に失敗して大将軍司馬胡奮に殺された。
これを実地に即すと、駱谷は武功県から漢中に南下するメジャーなルート。
鍾会の兵力を考えれば当然ですが、それでも10万を支えられるルートではないので、子午道や褒斜道と並進したようです。
駱谷道や子午道の前には楽城が、褒斜道の先には漢城が控えています。
祁山は甘粛省礼県東端の祁山郷。狄道は甘粛省臨洮。沓中はいまひとつ不明ですが、白龍江沿いの舟曲の西、岷県の南あたり。
大まかに云うと、蘭州と天水から隴南の姜維を挟撃する形勢です。
ちなみに楽城は城固、漢城は勉県。関城は漢中市寧強県の陽平関鎮のあたり。
当時の陽平関はもっと東の、勉県市街の西20kmほどの勉県定軍山鎮蓮水村。武侯祠や馬超墓が市街との中間付近にあります。
沓中からケ艾に追撃されつつも漢中救援に向った姜維は諸葛緒を躱して南下したが、蒋舒の投降で関城が陥された為に漢寿(広元市区)から転進。
途中で廖化や張翼らと合流して剣閣に入って鍾会と対峙。
ケ艾は鍾会と姜維の睨み合いを尻目に陰平(甘粛省文県)から山谷を跋渉して江由に南下。
この為、諸葛瞻は涪(綿陽市区)から緜竹(徳陽市綿竹)に後退し、諸葛瞻を破ったケ艾が雒(徳陽市広漢)に達したところで劉禅が降伏使節を派遣。
やはり雒が最後の砦のようです。