▽ 補注:三国蜀/人物

閻宇
 南郡の人。字は文平。庲降都督として堅実・精勤と称され、後に右将軍に進んだ。 257年頃、呉の大司馬施績の求めで魏を牽制するために永安に鎮して巴東都督を加えられ、後に姜維の好戦を危ぶむ諸葛瞻・董厥らによって漢中への転赴が図られたが、実現はしなかった。 263年に魏の伐蜀に応じて成都に召還された。
諸葛瞻・董厥らに支持されたことから、姜維の頻繁な北伐に批判的だったことが予想され、そのため黄皓の阿党と評されますが、庲降での手腕や巴東都督に挙げられたことなどから、当時の蜀では実力を備えた有数の将軍と認識されていたようです。

王平  〜248
 巴西宕渠の人。字は子均。曹操の漢中攻略の際に劉備に降って牙門将・裨将軍とされた。 228年の第一次北伐では馬謖の先鋒となって街亭の布陣を諫めたが聴かれず、馬稷が大敗すると散兵を収容して全軍の崩壊を防ぎ、231年の北伐では祁山の南営を守って張郃と対峙した。
 234年に北伐軍中で諸葛亮が歿すると楊儀に従って魏延を大破し、安漢将軍・領漢中太守に進んで督漢中の車騎将軍呉懿の副となり、呉懿の死で督漢中とされて安漢侯に進封され、大将軍蒋琬が進駐した際には大将軍府の事を宰領した。 当時の漢中の総兵力は3万に満たず、244年に魏の曹爽が来攻した際には後退を唱える衆議を退けて防戦に徹し、涪の本軍と費禕の増援が到来して魏軍を退け、蜀の都督として江州のケ芝・建寧の馬忠と並称された。
 識字は十字に満たなかったが、口述で作成させた文書は全て理に適い、『史記』や『漢書』も伝聞によってその大義を理解していたという。 法度を遵守して諧謔を好まず、終日端坐することもあって武将の風に乏しく、狭猜な質で重厚さに欠けた事が難点とされた。

霍峻  177〜216
 南郡枝江の人。字は仲邈。劉表が歿すると部曲を率いて劉備に従い、中郎将とされた。 入蜀後は葭萌に留まって張魯・劉璋の兵を悉く撃退し、成都が陥されると新設の梓潼太守とされて裨将軍が加えられた。

魏延  〜234
 義陽郡の人。字は文長。 荊州で劉備に従って入蜀にも功が大きく、劉備の称王では特に督漢中・鎮遠将軍・領漢中太守とされて関羽・張飛に並び信頼された。 劉備の登極で鎮北将軍に進み、227年に北伐に先だって督前部・丞相司馬・領涼州刺史とされ、230年に羌中を攻略して雍州刺史郭淮を破り、前軍師・征西大将軍・仮節・南鄭侯とされた。
 勇猛過人と称され、士卒を善く養成した一方で剛矜でもあり、北伐の際に子午谷からの長安急襲が用いられなかった後は諸葛亮を怯懦と誹り、亦た直言を憚らない楊儀とは水火の如く反撥した。 234年に諸葛亮が陣歿した際に、遺命を奉じて撤退を進める楊儀らと対立し、互いに相手の造叛を上奏しつつ成都に向ったが、南谷口で楊儀に敗れて漢中に逃れる途上で馬岱に斬られた。
『魏略』では、魏延は諸葛亮より摂行軍事として撤退を託され、褒口まで退いて諸葛亮の喪を発したが、軍律の枉用を猜う楊儀に造叛を喧伝されて急襲されたために呆気なく敗れたとあります。裴松之は、陳寿の書と敵国の伝聞記事は比較するに値しないとしています。

楊儀  ▲
 襄陽郡の人。字は威公。 建安中に荊州の主簿となったが、襄陽太守の関羽に投じて功曹とされ、成都に使者となって劉備にも認められて左将軍兵曹掾とされた。 劉備の称王で尚書とされ、尚書令劉巴との不和から朝廷を逐われたが、225年に丞相参軍とされて府事を司って南征に従った。 230年に丞相長史に進み、事務処理の正確迅速な事を愛され、狷介偏狭と魏延との不和が歎かれた。
 234年に諸葛亮が陣歿すると撤退の事を託され、魏延を斬ったことで諸葛亮の後継者を自任したが、中軍師に留まったことを不満として撤退の際に魏に降らなかった事を失策と放言し、この発言を劾奏されて罷免のうえ漢嘉郡に流され、激烈な時政批判を上書して獄死した。

許靖  〜222
 汝南平輿の人。字は文休。 従弟の許劭とともに人物評を行なって高名だったが、許劭とは甚だ不和だった。 陳紀に兄事して袁渙華歆王朗らとも親交があり、後に尚書郎に就くと吏部尚書周に荀爽・韓馥らを推し、周が処刑されると王朗を頼り、孫策の進出で交阯に逃れて士燮に厚遇された。 後に劉璋に招かれて211年には蜀郡太守となり、成都を陥した劉備に長史とされ、劉備の称王で太傅に進められた。
 成都が劉備に攻囲されると投降を図って失敗し、このため劉備に軽視され、法正からも「虚名のみで実質を伴わない」と評されたが、輿論への配慮から厚遇された。

呉懿  〜237
 陳留郡の人。字は子遠。 父が劉焉と旧知だったこともあって劉焉の入蜀に随い、劉璋より中郎将とされて墊を守って劉備に降り、平蜀後に護軍・討逆将軍とされた。 劉瑁の寡婦となっていた妹が皇后に立てられて漢中都督とされ、230年に魏延とともに南安郡を破って左将軍に進み、諸葛亮が歿すると仮節・車騎将軍・領雍州刺史を加えられて済陽侯に進封された。
 族弟の呉班は大将軍何進の部曲将/呉匡の子で豪侠として知られ、劉備の領軍から累進して仮節・驃騎将軍に至り、緜竹侯に封じられた。

黄忠  〜220
 南陽郡の人。字は漢升。 劉表に中郎将とされて長沙の攸県を守り、荊州を接収した曹操より裨将軍とされたが、荊南を経略するする劉備に降って入蜀に従い、常に先鋒となって“勇は三軍の冠”と記録された。 219年に漢中の定軍山で夏侯淵を敗死させて征西将軍に昇せられ、劉備の称王では諸葛亮の反対を排して後将軍とされた。

黄権  〜240
 巴西閬中の人。字は公衡。 益州主簿として劉璋に劉備の入蜀を強諫して広漢県長とされ、成都が開城してから劉備への降伏を肯って偏将軍とされた。 張魯が曹操に敗れた後は三巴の確保と漢中の接収を主張し、劉備の称王で治中従事とされた。
 登極した劉備の東征を諫めながらも江北の軍を率いる鎮北将軍とされて魏軍に備えたが、江南の劉備が猇亭で陸遜に大敗したことで帰路を失い、魏に降って侍中・鎮南将軍・育陽侯とされたものの、蜀の家族は劉備の特命で庇護された。 司馬懿にも高く評価され、239年に車騎将軍・儀同三司に進んだ。

諸葛瞻  227〜263
 字は思遠。諸葛亮の嗣子。 243年に公主を降嫁されて騎都尉に叙され、尚書僕射・軍師将軍に累進した。 諸葛亮から将来を嘱望された一方で早成が危ぶまれ、長じては書画に巧みで、善政や慶事の多くが巷間では諸葛瞻の功に帰せられ、実質を超える声望を博した。 261年に行都護・衛将軍とされて輔国大将軍董厥と共に平尚書事となり、魏の伐蜀では墊県から進まずに先鋒の敗北で退却し、緜竹でケ艾に敗死した。

董厥  ▲
 義陽の人。字は龔襲。 相府令史として諸葛亮に絶賛され、陳祗が歿すると尚書令となり、後に輔国大将軍・平尚書事に進んだ。 陳祗の死後は諸葛瞻・董厥・樊建が政務を担ったが、姜維の頻繁な軍事に批判的だったために黄皓の阿党と称されることもあった。 劉禅と共に魏に降り、洛陽で相国参軍・散騎常侍とされて蜀人の慰撫にあたった。

樊建  ▲
 義陽の人。字は長元。 董厥の後任として尚書令に進み、諸葛瞻・董厥とともに政務を担い、当時の執政官の中では黄皓との往来が少なかったとされる。 251年に遣呉使となった際に宗預と比較され、才能・見識は及ばないものの雅性で優ると評された。 劉禅と共に魏に降り、洛陽で相国参軍・散騎常侍とされて蜀人の慰撫にあたった。

向寵  〜240
 左将軍向朗の甥。 猇亭の役に牙門将として従い、軍営を損わなかったことで評価され、後に中部督とされて禁兵を指揮した。 諸葛亮の出師の表では、「性行が淑謹で軍事に通暁している」として中領軍に挙げられた。漢嘉郡の平定中に戦死した。

向朗  〜247 ▲
 襄陽宜城の人。字は巨達。 臨沮県長の時に荊州が曹操に接収されて劉備に帰服し、荊南平定後に4県を統轄した。 成都の陥落後は太守を歴任し、後主が即位すると歩兵校尉、ついで丞相長史とされ、南征の際には成都で府事を統べた。 馬謖の敗戦を擁護して罷免され、後に光禄勲に復し、諸葛亮の死後に左将軍に進められて特進が加えられた。
 嘗ては司馬徽に師事して徐庶・韓嵩・龐統らと交わり、長史を罷免された後に改めて典籍を探求し、蜀で最多の蔵書を有した。 後進の教導で時事に言及しなかったことで讃えられ、学師として広く敬重された。

譙周  〜270
 巴西西充国の人。字は允南。 父業を嗣いで六経を研精し、臨機の弁論には長じなかったものの書に巧みで天文にも明るく、長らく勧学従事にあった。 諸葛亮の訃報に接するや馳参し、その後に赴喪が禁じられたために初志を達し、大将軍蒋琬が益州刺史を兼ねると典学従事とされて州の学者を総べた。 後に太子僕・太子家令を歴任し、しばしば後主の遊興を諫め、光禄大夫に進んだ後も政務には関与しなかったが、大事の毎に諮問されて経典に則って応答した。
 263年にケ艾の接近で朝廷が混乱すると、依呉論を再屈の辱、奔南論を非現実的として魏に降ることを主張し、そのため国君に恥辱を奨めた者として後世で非難されることが多かった。 開城後に陽城亭侯に封じられたが病を理由に上洛を肯んぜず、267年に入洛した後も入朝せず、宿駅で騎都尉を授けられた。
 主著の『仇国論』は尚書令陳祗との軍国論を述べたもので、現状を六国の世に準じたものとして国力の涵養を第一とし、姜維の頻繁な外征を婉曲に否定している。

秦宓  〜226
 広漢緜竹の人。字は子勑。 文学や弁論に長じて夙に讃えられ、劉焉・劉璋の辟招には応じなかったものの劉備には応じて従事祭酒とされた。 劉備の東征を諫めて投獄されたが、後に釈放され、224年に諸葛亮が益州牧を兼ねると別駕とされ、左中郎将・長水校尉に転じた。 呉使の張温と論議して敬服され、後に大司農に進んだ。

宗預  〜264
 南陽安衆の人。字は徳豔。張飛に従って入蜀し、劉禅が即位すると丞相主簿とされ、諸葛亮の死後に呉蜀が国境の兵力を増すと遣呉使となって折衝し、孫権からケ芝・費禕に亜ぐと賞賛された。 驕傲で知られたケ芝にも畏憚せず、247年に屯騎校尉に叙された際に耳順(60歳)になってからの参軍を非礼として揶揄されると、ケ芝が70歳を越えても兵権を返上しないことを指摘した。 後に永安に進駐して征西大将軍に進み、258年に病で召還されると鎮軍大将軍・領兗州刺史とされ、滅蜀後に洛陽に護送される途上で病死した。
廖化から、平尚書事となった諸葛瞻に通誼することを勧められたところ、今さら年少者に阿る必要はないと拒否したことや、永安都督の後任が閻于だったことから、258年の召還は政局上の理由がメインだったのかもしれません。

廖化  〜264 ▲
 襄陽郡の人。旧諱は淳。字は元倹。 前将軍関羽に主簿として随い、関羽が殺されると呉に依ったが、老母を伴って西に逃れて東征中の劉備に投じ、後主が即位すると宜都太守から丞相参軍に転じた。 果烈で知られ、後に右車騎将軍・仮節・領幷州刺史に至った。滅蜀の後、洛陽に護送される途上で病死した。

張嶷  〜254
 巴郡南充国の人。字は伯岐。劉備の入蜀に乗じた賊から単身で県長夫人を救出して名を知られた。 232年に馬忠に従って汶山羌を平定し、南中遠征でも有用な献策が多く、劉冑平定では勲功第一とされた。 南征後も騒乱が続く越雟郡の安定に尽力し、恩威並び行なって住民に敬愛され、成都に到る旧街道を百年ぶりに開通させて交易を振興した。
 風疾の悪化で254年に帰還が認められて盪寇将軍とされ、慷慨の質は多くの士人に貴重されたが、儀礼の軽視を批難されることも多かった。 魏の狄道県長の李簡が受降を求めると病を押して姜維らと共に北上し、優勢な徐質の軍に倍の損害を与えたが、陣中で病死した。
 南中での張嶷は説諭と招撫を多用して造叛した部酋を釈放することもあり、これが後に諸葛亮の“七縦七擒”の素題となった。 又た来歙岑彭を譬えに費禕の降人に対する無配慮を諫め、諸葛瞻に対しては諸葛恪の性急な軍事を諫めるよう求めるなど、常に大局にも注意した。 越雟の住民は張嶷の死を知ると皆な慟哭し、祀廟を建てて祀ったという。

張松
 蜀郡の人。外貌は矮小で、放蕩且つ節操に欠けた反面、識理精果を高く評された。 平素から劉璋の才器を不満として外将による益州簒奪を図り、荊州を陥した曹操に答礼使となって謁したものの、兄とは反した冷遇を恨んで劉備に通謀した。 同志の法正孟達らと劉備による益州簒奪を進めたが、兄の張粛に告発されて刑戮された。
 張粛は威容に定評があり、南征途上の曹操に使して振威将軍を加えられた。

張表  ▲
 字は伯達。張松、または張粛の子。 馬忠の後に庲降都督とされた。恩威や功績では馬忠に及ばなかったが、名士としての声望は上だったとされる。後将軍・尚書を歴任した。

張飛  〜221
 涿郡の人。字は益徳。関羽と共に劉備の挙兵に従って関羽に兄事し、劉備が曹操に投じると中郎将とされた。 劉表が歿して劉備が新野を遁れる際には殿軍となり、長阪で橋を断ち曹操軍を叱咤して追走を控えさせ、劉備を危地から逃れさせた。 荊南が平定されると宜都太守とされ、劉備の蜀経略が膠着すると諸葛亮らと共に長江を遡上して郡県を平定し、江州の巴郡太守厳顔を帰順させたことで多くの城砦を開城させた。 成都陥落で巴西太守とされ、漢中から南下した張郃を撃退し、劉備の称王で右将軍・仮節とされ、娘が太子妃とされたことで車騎将軍・領司隷校尉・西郷侯に進んだ。
 関羽同様に“万人の敵”と畏憚されたが、士大夫を敬重した半面で下士を虐待し、劉備にも窘められていた。 東征の直前に部将に暗殺され、首は孫権にもたらされた。

張翼  〜264
 犍為武陽の人。字は伯恭。漢の広陵太守張綱の曾孫。 平蜀した劉備に書佐とされ、守令を歴任して231年に庲降都督とされたが、厳格な法制運用から大帥の劉冑の造叛を惹起して徴還された。 諸葛亮の北伐にも従い、尚書・征西大将軍を歴任し、夙に姜維の北伐や攻勢を諫めた為に嫌忌されたものの堅実な手腕は評価されて常に従軍が求められ、259年に左車騎将軍・領冀州刺史に進んだ。
 263年の征蜀では陽平関への援軍とされたが、漢寿で姜維と合して与に剣閣を守り、姜維とともに鍾会に降った。 翌年、鍾会に随って成都に入り、兵乱で戦死した。

趙雲  〜229
 常山真定の人。字は子龍。 はじめ公孫瓚に仕え、青州で劉備に従って主騎とされ、長阪の敗走では劉備の妻子を保護して勇武を讃えられた。 劉備の蜀経略が膠着すると諸葛亮らと共に入蜀し、成都陥落で翊軍将軍に進められ、後主が即位すると中護軍・征南将軍・永昌亭侯とされ、鎮東将軍に進んだ。
 228年の第一次北伐ではケ芝とともに斜谷に曹真と対峙し、馬謖の敗戦で撤退する際に損害を最小限に抑えて讃えられたが、求めて鎮軍将軍に降格された。 261年に関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠に続いて諡号が追贈された。
蜀で諡号を贈られたのは、劉備の生前は法正のみで、後主の時代でも趙雲らに贈られる以前は諸葛亮・蒋琬・費禕・陳祗・夏侯覇のみでした。 この諡号の件から、趙雲を関羽らと同格の大将と見做すようになったようです。 趙雲を廉潔の勇将とする後世の見解は、概ねは『趙雲別伝』に依拠したものです。

董允  〜246
 南郡枝江の人。字は休昭。董和の子。 太子舎人・太子洗馬を歴任して後主の即位で黄門侍郎とされ、諸葛亮の北伐の際の出師の表では郭攸之・費禕と並ぶ顧問役に挙げられ、費禕が参軍に転じると侍中・領虎賁中郎将に進んで宿衛兵を統べた。 諸葛亮の死後はしばしば後主を諫めて黄皓にも畏憚され、存命中は黄皓は黄門丞から昇任できなかった。 244年に費禕が大将軍に進むと守尚書令を加えられて大将軍の次官とされた。

董和  ▲
 字は幼宰。 漢末に劉璋に依って令長を歴任し、奢侈を競う風俗を批判して踰奢を禁じたことで在豪に誣され、成都令から巴東属国都尉に出された。 後に益州太守に転じて西南夷に敬慕され、征蜀した劉備から掌軍中郎将に挙げられ、軍師将軍の諸葛亮を輔けて左将軍大司馬府の事務を処理して評価された。
陳寿から見た、董和に対する諸葛亮の評価の肝は、「諸葛亮との和」だったようです。 諸葛亮は董和が「職務上の不明点は解決するまで何度も相談に訪れた」ことを評価していますが、陳寿がわざわざ「和」を強調したことを考えると、諸葛亮の周辺がピリピリしていて、進言や諫言が行ないにくい空気だったことが想像できます。

ケ芝  〜251
 義陽新野の人。字は伯苗。漢の太傅ケ禹の裔。 漢末に入蜀して巴西太守龐羲に依り、入蜀した劉備に認められて尚書に累進し、劉備の死後に呉に使して連和を成立させ、孫権からも忠直を絶賛された。 諸葛亮の北伐で中監軍・揚武将軍に叙され、諸葛亮が歿すると前軍師・前将軍に進み、程なく督江州に転じた。
 賞罰が公明で卒吏を慰撫し、財利には拘泥しなかったが、粗剛の質で感情を隠さなかったために士人には支持されなかった。243年に仮節・車騎将軍に至った。

ケ方  〜221?
 南郡の人。字は孔山。『季漢輔臣賛』によれば、荊州従事として劉備の入蜀に随い、平蜀で犍為属国都尉、ついで庲降都督・領朱提太守となって南昌県に駐し、安遠将軍を加えられた。

馬超  176〜222
 扶風茂陵の人。字は孟起。漢の衛尉馬騰の子。 夙に勇武を知られ、馬騰が司隷校尉鍾繇に応じた際の援軍を率いた。 馬騰が上洛した後は関中の兵営を領したが、曹操の西進に応じて韓遂ら関中の諸豪と結んで抵抗し、離間策によって韓遂らと攻伐して曹操に大破された。 一時は隴上を支配したが、吏民の楊阜・姜叙らに叛かれ夏侯淵に敗れて漢中の張魯に依り、ついで劉備に投じて劉璋の開城を促し、左将軍・仮節とされた。 劉備が登極すると驃騎将軍・領涼州牧とされて斄郷侯に進封された。

馬良  187〜222
 襄陽宜城の人。字は季常。 眉に白毛があり、5人兄弟の中でも特に俊秀として「馬氏五常、白眉最良」と讃えられた。 荊南を領した劉備に従事とされて随い、劉備が登極すると侍中とされ、征呉では武陵蛮の招降に成功したが、猇亭の役で戦死した。

麋芳
 字は子方。糜竺の弟。麋竺とともに陶謙・劉備に従い、劉備が入蜀した後は南郡太守とされた。 荊州牧関羽とは隔意があり、関羽の樊城攻略では後方支援を怠ったとして厳罰を予告され、そのため呂蒙が南郡に進攻すると公安督の傅士仁とともに降伏した。

麋竺  〜221 ▲
 東海朐の人。字は子仲。 素封の家に生まれて巨億の資産と万余の傭客を擁し、徐州牧陶謙に招かれて別駕従事とされた。 陶謙の死後は劉備を徐州牧に迎え、呂布に逐われて広陵に逃れた劉備に妹を娶せて資産を軍資に充て、以後も劉備に扈随し、入蜀後に安漢将軍に叙されて諸葛亮の上席とされた。
 幹事の才には欠けた為に兵を率いた事はなく、常に劉備に近侍して厚遇された。 後に弟の麋芳が孫権に降ると面縛し、宥恕されたものの慙愧から発病して劉備の登極から程なくに病死した。

龐統  179?〜214?
 襄陽郡の人。字は士元。龐徳公の従子。 朴鈍な外貌から龐徳公以外に認める者がいなかったが、司馬徽に絶賛されてより名を知られ、周瑜の棺を呉に葬送した後に劉備に仕えた。 行耒陽令としての治績は芳しくなかったが、魯粛・諸葛亮の勧めで治中従事とされると信頼され、諸葛亮と並ぶ軍師中郎将とされた。
 劉備の入蜀に従ってしばしば速戦を奨めたが聴かれず、雒の攻囲中に戦死した。 一般に諸葛亮とは“伏龍・鳳雛”と併称され、陳寿は「曹操に於ける荀ケの輩」と評している。

李恢  〜231
 建寧兪元の人。字は徳ミ。 益州太守董和に認められ、蜀を攻略中の劉備に緜竹から随行して馬超の招降に成功し、221年には庲降都督に抜擢されて使持節・交州刺史を領し、牂柯郡の平夷(貴州省仁懐)に駐した。 劉備の死に乗じて建寧の雍闓らが叛いた後、諸葛亮の南征に応じて建寧を平定し、ついで諸葛亮と合して牂柯を鎮め、安漢将軍を加えられて漢興亭侯とされた。 南征軍の撤収に乗じて諸蛮が叛くと、鎮定した酋帥を成都に徙して叛乱の拡大を防ぎ、貢物を軍資に充てて追徴しなかった。 229年に交州の帰属が呉に決すると領建寧太守に転じ、後に漢中に移住した。
226年の南中諸夷の乱では、雲南太守の呂凱が戦死しています。 又た越雟郡の回復が馬忠の時代に果たされたことから建寧郡の支配も名目だったらしく、李恢の活動は朱提・牂柯郡の確保に費やされたようです。

雍闓  〜225 ▲
 建寧郡の大酋。漢の什方侯雍歯の裔を称した。 劉備の死に乗じて挙兵して越雟郡の高定・牂柯郡の朱褒らが呼応し、呉の士燮に通じて永昌太守とされた。 225年に諸葛亮が南中遠征軍を興すと、内訌から高定に殺された。
 高定は蜀軍に抵抗を続け、敗れて斬首に処された。

李厳  〜234?
 南陽郡の人。字は正方。夙に郡吏として才幹を称されて劉表の下で長吏を歴任し、曹操が荊州を接収すると蜀に奔って成都令とされ、劉備の挙兵で護軍に転じて緜竹で劉備に降った。 成都の平定で犍為太守とされ、高定を撃退して輔漢将軍に進められ、劉巴の死で劉備に招かれて尚書令とされ、諸葛亮とともに後事を託されて中護軍に転じた。
 後主が即位すると仮節と光禄勲が加えられ、諸葛亮の北伐を後方で支えて遺漏がなく、230年に前将軍から驃騎将軍に進み、曹真が来攻した際には漢中に進駐して府事を行ない、子の李豊が江州都督督軍として永安の事を代行した。 翌年(231)の北伐でも督運とされたが、霖雨による遅滞を朝廷に秘して撤退の責を諸葛亮に帰し、事が露見して庶人に貶されて梓潼郡に流された。 諸葛亮が歿すると再挙の途が断たれたことを歎き、まもなく病死した。

廖立  ▲
 武陵臨沅の人。字は公淵。 荊南を領した劉備に辟されて従事から長沙太守に抜擢され、諸葛亮には荊楚の良材として龐統と並称された。 215年の湘東割譲で巴郡太守に転じ、劉備の称王で侍中とされた。 諸葛亮に亜ぐ才名を自負していたが、後主が即位すると長水校尉に遷されて李厳の下位に置かれたことを不満とし、時政や劉備の戦略を誹謗したために罷免されて汶山郡に流された。 諸葛亮が歿すると再挙の途が断たれたことを歎き、後に配所で歿した。

劉巴  〜222
 零陵烝陽の人。字は子初。 夙に声名が高く、劉表の辟招には応じずに荊州を接収した曹操に詣降し、荊南の招撫中に劉備の進出で交阯に遁れて劉備を後悔させた。 交阯では士燮に厚遇されたが、上洛を図って牂柯を経由したところ劉璋に留められ、成都を陥した劉備に西曹掾とされた。 法正の死で尚書令を継ぎ、劉備登極の際には文誥策命を起草したが、自身の経歴から誣網を懼れ、私交を断って謹慎に徹した。 猇亭の役から間もなく白帝城で歿した。
『零陵先賢伝』によれば、劉備が成都陥落の際に卒吏に府庫を開放し、そのため物資の欠乏を来たしたところ、劉巴の建議で高額貨幣を発行して難局を凌いだそうで、「帷幄での計策は子初に遠く及ばないが、陣頭指揮なら論議できる」との諸葛亮の述懐も紹介しています。
 因みに、劉巴の父の劉祥は江夏太守・盪冦将軍のときに董卓討伐に北上する孫堅を支援し、そのため南陽の士民に伐たれて敗死し、劉表にも憎まれていたそうです。劉巴が出仕しなかったのも頷けます。

劉封  〜220
 長沙羅県の人。本姓は寇氏。 荊州に寄寓した劉備に養子に迎えられ、長じて武勇に秀で、征蜀の際には諸葛亮らに従って副軍中郎将とされ、宜都太守孟達を督して上庸郡を降して副軍将軍に進められた。 襄樊攻略中の関羽から援軍が要請されると新附の騒擾を憂慮して応じず、関羽が敗死したことで劉備に憎まれた。 魏に降った孟達が夏侯尚・徐晃と共に来攻すると西城太守申儀に背かれて敗走し、関羽の敗死と孟達の離叛を追求され、劉禅の禍根となることを憂慮する諸葛亮の進言で賜死された。

孟達  〜228 ▲
 扶風の人。字は子敬、後に子度。漢の涼州刺史孟佗の子。 建安の初に同郡の法正と共に劉璋に依り、法正・張松らと劉備の奉迎を謀図して平蜀後に宜都太守とされた。
 219年に魏の房陵郡を陥し、ついで劉封と合して上庸郡を降したが、襄樊を攻囲した関羽に援軍を送らなかったことで関羽を見殺しにしたと劉備に憎まれ、又た劉封とも不和となって魏に投じて建武将軍・新城太守に叙され、征南将軍夏侯尚・右将軍徐晃とともに劉封を敗走させた。 散騎常侍を加えられて曹丕から寵遇されたが、曹丕が歿すると誣告を忌んで蜀の北伐への呼応を謀り、魏興太守申儀の密告から司馬懿に伐たれて敗死した。

呂凱  〜226?
 永昌不韋の人。字は季平。 郡功曹の時に雍闓らの造叛に遭い、太守が更迭された直後でもあったために府丞の王伉と共に関門を閉鎖して抵抗した。 南征した諸葛亮に絶賛されて雲南太守に叙されたが、諸葛亮が帰還した直後に発生した叛乱で戦死し、一帯は馬忠が都督となるまで安定しなかった。 王伉は永昌太守に叙された。

△ 補注:三国

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