▽ 補注:東漢/人物.4

献帝

于吉
 琅邪の人。曲陽(連雲港市東海)で『太平清領道』170巻を得たと称し、後に呉会(呉と会稽)で符水療病を以て信奉されたが、孫策の宴中に、諸将・賓客の多くが于吉に拝するために中座したことで激怒され、妖言惑民として殺された。 于吉の弟子が順帝に上呈した『太平清領道』は妖妄不経として禁蔵されたが、後に太平道を興した張角も同書を奉じたと伝えられる。

閻忠  〜188
 漢陽の人。信都令を以て致仕したが、黄巾軍を殲滅した皇甫嵩の威名が高まると、紊乱した朝廷に失望して皇甫嵩に大事を勧め、これを拒まれると後難を懼れて逃竄した。後に韓遂らに渠帥となることを迫られて憤死した。

袁胤
 汝南汝陽の人。袁術の従弟。 孫策が揚州刺史劉繇を逐った後に丹陽太守とされたが、孫策に従う徐琨に伐逐された。 袁術が歿すると柩と家族を護って廬江太守劉勲に依り、劉勲を破った孫策に執われた。 袁術の遺児の袁燿は孫氏に仕え、その姉妹は孫権に娶られたが、袁胤の消息は伝わらない。

袁譚  〜205
 字は顕思。袁紹の長子。 公孫瓚の任じた青州刺史を逐い、曹操に徐州を逐われた劉備を迎え、官渡の役では大敗した袁紹を守って黎陽に後退した。 勇猛短慮と評され、弟の袁尚に敗れると曹操に帰順したが、袁尚が鄴を失うと独自に東冀の諸郡を掠取して曹操に討たれ、南皮城外で敗死した。

袁尚  〜207 ▲
 字は顕甫。袁紹の末子。 後妻の子として袁紹に偏愛され、長兄の袁譚が青州刺史、次兄の袁煕が幽州刺史、従兄の高幹が幷州刺史とされた際にも袁紹の許に留められたことで嗣子と目され、袁譚派と袁尚派の確執をもたらした。 袁紹の死後、鄴で立てられると黎陽に拠る袁譚と対立し、曹操を撃退した後に袁譚を南皮・平原へと逐ったが、建安9年(204)の袁譚討伐中に曹操に鄴を襲われて幽州の袁煕に奔り、部将の焦触・張南の離叛で遼西烏桓に遁入した。
 建安12年(207)には曹操の烏桓討伐に遭って遼東太守公孫康を頼ったが、騙し討たれて首は曹操に伝えられた。

審配  〜204 ▲
 字は正南。魏郡の人。韓馥に剛直を忌まれたが、袁紹には信任されて腹心とされた。 逢紀と同じく夙に袁譚に忌避され、又た平素不和だった辛評・郭図が袁譚の幕僚になったことから、袁紹が歿すると半ば強引に末子の袁尚を継嗣に立てて鄴で庶政を総覧した。
 曹操による鄴攻囲では、城兵の半ばが餓死しても堅守したが、甥の審栄の内応で擒われ、投降を肯ぜず殺された。 忠烈にして慷慨、不犯の節ありと評され、曹操からも高く評価されたが、狭量で大局が視えず、独善的だったために同輩からは誹忌された。

逢紀  〜202 ▲
 字は元図。袁紹の幕僚の一人。 大将軍何進の幕僚だったこともあり、袁紹に随って渤海に遁れ、後に公孫瓚を唆嗾しての冀州簒奪を献策した。 妬功が強く、冀州簒奪後は田豊・審配らが重用されることを不満とし、田豊を讒言して獄死させたとも伝えられる。 審配とも倶に袁尚を嗣子に推しながらも不和だったが、官渡で2子を曹操に擒われた審配が叛意を誣されると、審配の忠烈・古節を称して擁護した。 袁紹の死後は袁譚の軍監とされたが、袁尚に増兵を拒まれた袁譚によって殺された。

王匡
 泰山の人。字は公節。 義侠の士と知られ、袁紹とも親しく、何進が外将を召集した際に大将軍府掾として泰山で強弩兵を徴集し、乱後に河内太守とされた。 董卓討伐では河陽津(豫北孟県)に進駐し、執金吾胡母班ら董卓の諭使を袁紹の命で悉く殺したが、程なく奇襲によって敗退し、胡母班の遺族と結んだ曹操に敗死した。
 胡母班は王匡の妹婿でもあり、延熹の獄では八廚に数えられた。 袁紹による諭使鏖殺を遷怒(八つ当り)と罵って獄死し、王匡を痛哭させた。

賈龍  〜191
 益州の人。州従事の時に発生した馬相の乱では、犍為から北上して劉焉の入蜀前に平定し、校尉に叙された。 後に劉焉が著姓の弾圧を強めると、犍為太守任岐と共に叛抗して敗死した。

馬相  〜188 ▲
 益州刺史郤倹の暴政に対し、黄巾を称して挙兵して州治の緜竹(徳陽市)を陥し、雒(徳陽市広漢)で郤倹を敗死させた。 蜀郡犍為郡巴郡を攻没して天子を称したが、州従事の賈龍に平定された。

蒯越  〜214
 南郡の人。字は異度。はじめ大将軍何進の掾とされ、誅閹での逡巡から何進の失敗を予見して汝陽令に転じた。 劉表の荊州経略に謀首として大きく寄与したが、後に蔡氏の閨閥によって政治的に不遇となった。劉表の死後は劉jに勧めて曹操へ帰順させ、光禄勲とされた。 曹操から「荊州を得るは蒯異度を得るに如かず」と絶賛された。

韓嵩
 襄陽の著姓。字は徳高。好学で操行を讃えられ、黄巾軍を避けて南下したところを劉表に逼られて別駕とされ、官渡の役では曹操に与することを進言し、許への慰問使とされた。 この時、朝位に叙されたなら天子の臣となると陳弁して辞退したが聴かれず、朝廷から侍中・零陵太守に叙され、帰還後は劉表に質子を勧めて刑死に擬されたところ、蔡氏の諫止と前言を以て減死に処された。荊州が降ると大鴻臚に叙され、倶に帰順を勧めた劉先は尚書令とされた。

韓馥
 潁川の人。字は文節。董卓の秉政で御史中丞から冀州刺史に転じ、袁紹を討董の盟主としたが、その輿望を忌んで軍糧の供給を滞らせたと伝えられる。 後に公孫瓚の南下に狼狽し、高幹と幕僚の荀ェ(荀ケの弟)の勧めで袁紹に州事を移譲した。 奮威将軍とされたものの、かつて軽視した沮授・田豊・審配らが重用されたことを愧じ、且つ兵権の無いことを猜懼して張邈に奔ったが、他事で袁紹の使者が到ると懼れて厠で自殺した。

麹義  ▲
 冀州牧韓馥の部将だったが、やがて袁紹に帰順し、これを機に袁紹による冀州簒奪が進められた。 袁紹と冀州を争う公孫瓚が南下した当初、冀州では公孫瓚に内通する城邑も多く、実勢力や軍事実績の面からも公孫瓚有利とされていたが、麹義は界橋で先鋒となって冀州刺史厳綱を斬り、ついで公孫瓚を大破した。
劉虞の遺衆を都督し、興平2年(195)にも鮑丘で公孫瓚を大破したが、驕慢を忌まれて公孫瓚敗滅の前に処刑された。

牛輔  〜192
 董卓の娘婿として信任された。長安遷都の後は陝に屯して校尉李傕・郭・張済らを督し、河南尹朱儁を破って陳留・潁川を殺掠したが、董卓が誅されると軍営の離叛を懼れて逃竄し、従士の胡赤児らに殺された。

張済  〜196 ▲
 武威の人。董卓の部曲将。 牛輔に従って中牟で朱儁を破った後は陳留・潁川を劫掠し、董卓が殺されると李傕らと共に長安を陥し、鎮東将軍とされて弘農に鎮した。 李傕・郭の内戦を鎮めて驃騎将軍に進められ、献帝の洛陽還御を認めた後に変心して追撃したが、張楊らの介入で断念した。 後に飢荒に逼られて荊州に冦し、穣(南陽市ケ州)で流矢に当たって戦死した。

樊稠  〜194 ▲
 董卓の部曲将。董卓の死後、李傕らに合して長安を陥し、右将軍とされた。 大度・果敢で兵に帰慕されたことから李傕に畏忌され、興平元年(194)に郭と倶に馬騰らを撃退した後、宴席で李傕に殺された。

胡軫  ▲
 涼州の人。董卓の部曲将、東郡太守。北上する孫堅撃退のために大督とされたが、騎督の呂布との反目もあって陽人聚で大敗した。 董卓が誅されると徐栄と倶に朝廷に降ったが、西行する李傕らに合流して与に長安を攻陥した。

徐栄  〜192
玄菟郡の人。董卓の部曲将。同郡の公孫度を遼東太守に薦挙した。 190年に豫州に進出した曹操を滎陽で大破し、翌年にも梁県で孫堅を撃退した。 董卓が誅されると朝廷に降ったが、西行する李傕らを迎撃して胡軫らの離背に遭い、新豊で敗死した。

段煨  〜209 ▲
 董卓の部曲将。寧輯将軍。 長安を退去する献帝を華陰(渭南市)で迎え、物資を供して驕慢となり、かねて不和だった楊定に伐たれて李傕らに救われた。 建安3年(198)に勅旨に応じ李傕を殺して安南将軍・閿郷侯とされ、後に大鴻臚・光禄大夫に進んだ。

伍瓊  〜190
 汝南郡の人。字は徳瑜。城門校尉。董卓と対立した袁紹が棄官すると、尚書周・長史何顒らと共に董卓に説いて袁紹を渤海太守とし、又た韓馥劉岱・孔伷・張咨張邈らを薦めて牧守とし、そのため韓馥らが挙兵すると、通敵として周とともに殺された。
謝承『後漢書』には、細鎧を着込んで宮中で董卓に斬りつけたものの、董卓に取り押さえられた人物として伍孚の逸話が紹介されています。伍孚も汝南郡の人で、字も徳瑜。官位はおそらく越騎校尉です。偶然の一致かもしれませんし、同一人物かもしれません。裴松之も判らないと云っています。

呉巨
 荊州牧劉表に蒼梧太守とされ、劉表が歿すると交州刺史頼恭を放逐して自立を図り、孫権から交州刺史とされた歩隲の支配を認めたものの、叛意を察知されて宴席で斬られた

高幹  〜211
 陳留圉の人。字は元才。袁紹の外甥。魏の太尉高柔の従兄。 袁紹に才略を愛されて幷州刺史とされ、建安7年(202)の鄴陥落で曹操に帰順して幷州を安堵された。 烏桓遠征に乗じて上党を陥し、壺口関を抑えて河東の著姓の呼応も得たが、馬騰や南匈奴との連携を鍾繇張既らに阻まれ、翌年に曹操に敗れて荊州を頼る途上で殺された。

郭援  〜202 ▲
 鍾繇の外甥。袁尚の河東太守。 袁紹の死後に曹操が河北に進出した後、袁尚の支持で平陽で曹操に造叛した南匈奴を高幹と共に救援したが、提携を模索していた馬騰が司隷校尉鍾繇の招撫に応じた為に敗死し、高幹・南匈奴は曹操に帰順した。

公孫越  〜191
 公孫瓚の従弟。 公孫瓚の指示により、幽州から南陽への援兵に同道して袁術に奪兵を勧め、そのまま留まって豫州刺史周ミの攻伐で戦死した。 この為、周ミを豫州刺史に叙した袁紹と公孫瓚の関係は急速に悪化した。

公孫範  ▲
 公孫瓚の従弟。公孫越の戦死後、公孫瓚との修好を図る袁紹より渤海太守を譲られたが、青州を逐われた黄巾軍を破って界橋に進出した。 このため公孫瓚は冀・青・兗州に刺史を任じたが、程なく袁紹に敗れて幽州に後退した。

公孫康
 公孫度の嫡嗣子。 父の死で遼東太守を嗣ぎ、建安9年(204)に楽浪郡の南半を割いて帯方郡を設置した。 曹操に敗れて来奔した袁尚兄弟と烏桓大人の楼班らを殺し、曹操に通誼して左将軍・襄平侯とされた。
 死後は弟の公孫恭が推戴された。

朱晧
 朱儁の子。 董卓誅殺後に豫章太守に叙され、袁術が立てた豫章太守諸葛玄を逐って真太守となったが、程なく笮融に殺された。

荀爽  128〜190
 字は慈明。荀淑の第6子。 郷里では“八龍無双”と称されたが士官はせず、党獄では漢水に隠遁して経書を研鑽し、碩儒と讃えられた。 一時は大将軍何進に参謀し、董卓の秉政下では百日足らずで司空に進められた。司徒王允・相国長史何顒らと同謀したが、実現前に病死した。

何顒  〜190 ▲
 南陽襄郷(南陽市棗陽)の人。字は伯求。 節義を重んじ、太学で郭泰賈彪らと親交して名を顕した。 袁紹とは奔走の交を結び、建寧の獄では密かに入京して袁紹と計議し、多くの士人を逃隠させた。 秉政した董卓に迫られて長史となり、司空荀爽・司徒王允らと董卓誅殺を謀ったが、荀爽の死後に他罪で収獄されて憤死した。
 夙に曹操の才器を認め、亦た潁川の荀ケを王佐の器と評したことがあり、尚書令に進んだ荀ケによって、荀爽と並んで埋葬された。

荀悦  148〜209
 潁川潁陰の人。字は仲予。荀淑の長子/荀倹の子。 博覧強記だったが、沈静を好んで名を知られず、従弟の荀ケのみが敬重したという。 鎮東将軍曹操に辟召され、後に献帝の侍講となって勅命で『漢書』を左伝体で再編し、侍中・秘書監に進んだ。

徐璆
 広陵海西(連雲港市区)の人。字は孟玉。荊州刺史の時に董太后の甥/南陽太守張忠の貪汚を悉く挙奏し、そのため黄巾討伐では中郎将朱儁を援けたにも拘らず、讒誣によって罷免された。 許遷都では廷尉に叙されたが、上洛途上で袁術に遮られ、袁術が敗亡すると許に玉璽を奉じて太常とされた。

沮授  〜200
 広平郡の人。 冀州牧韓馥に別駕とされ、漢の騎都尉に挙げられた。冀州委譲にも反対したが、袁紹には礼遇されて奮武将軍として諸将を統監し、四州鎮定に大功があった。 東帰する献帝の奉迎を勧めて聴かれず、南征が議されると漸進辺鈔による曹操の疲弊を待つことを唱え、多勢を恃んで大挙を主張する郭図・審配らを不義驕兵と罵倒した為、南征が決すると郭図に中傷されて督軍の権を奪われた。 官渡の大敗で擒われると曹操に厚遇されたが、河北の宗族を顧慮して降らず、北奔を図って殺された。

田豊  〜200 ▲
 字は元皓。侍御史を棄官した後、挙兵した袁紹に招聘され、「雄略にして奇策多し」と曹操に強く警戒された。 公孫瓚討滅直後の南征の議では、曹操の徐州攻略に乗じての速攻を強く奨めたが、末子の病臥を理由に聴かれず、南征決定後は沮授の奔命策を是とし、強攻を極諫して投獄された。 官渡の敗戦の直後、進言を用いなかったことを愧じる袁紹によって殺された。
官渡の敗報が伝わると、袁紹の狭量から処刑を予見したと伝えられ、一説には、逢紀の讒言で殺されたという。

曹節(献穆曹皇后)  〜260
 曹操の娘。 建安18年(213)に掖庭に納れられ、伏后の殺された翌年(215)に皇后とされた。 延康元年(220)の禅譲では使者に璽授を擲って涕泣し、献帝に随った。死後は漢制に則って禅陵(献帝陵)に合葬された。

臧洪
 広陵射陽(揚州市宝応)の人。字は子源。臧旻の子。夙に太学で名を知られ、王朗劉繇・趙cらとは同期に県長となり、霊帝の末に棄官したところを太守張超に功曹とされた。 董卓討伐を勧めて陳留太守張邈・兗州刺史劉岱・豫州刺史孔伷・東郡太守橋瑁らとの酸棗結盟を成して牛耳を執り、ついで劉虞への勧進使とされたものの公孫瓚に妨げられて袁紹に迎えられ、青州鎮撫に成功して東郡太守とされた。
 呂布を援けた張超が雍丘(河南省杞県)で曹操に敗死すると、雍丘救援を拒んだ袁紹と断交して伐たれたが、最後まで吏人の離叛は無く、翌年に落城して袁紹を面罵しつつ殺された。
 東郡丞とされていた同郷の陳容は落城に先んじて袁紹の許に出されたが、臧洪の刑に臨んで袁紹を罵倒して殺され、衆人は「日に二烈士を殺す」と嘆息したと伝えられる。 又た呂布に乞援に赴いていた使者も、落城に接して袁紹の軍中に突して戦死した。

臧旻  ▲
 夙に尤異の才を称され、会稽に妖賊許生・許昭父子が挙兵すると揚州刺史とされ、熹平3年(174)に討平した。 使匈奴中郎将に転じたが、光和元年(178)に破鮮卑中郎将田晏・護烏桓校尉夏育らと鮮卑の檀石槐を討って大敗した。 後に中山太守・太原太守を歴任した。
光和の北伐は、以功贖罪を図る故の護羌校尉田晏と中常侍王甫が主導し、朝野の諫止を排して行なわれたもので、護烏桓校尉夏育・破鮮卑中郎将田晏・使匈奴中郎将臧旻と南単于が三路から進み、敗退した三将は皆な死罪を贖って庶人に貶されました。

許昭  〜174 ▲
 会稽の人。熹平元年(172)に父の許生と与に句章(寧波市慈谿)で叛き、父を越王として郡県を攻没した。 後に揚州刺史臧旻・丹陽太守陳夤に討平された。

  〜194
 字は申甫。李傕・郭の乱で戦死した种払の子。 种ロの孫。董卓に剛直を忌まれて益州刺史に出され、涼州刺史を以て致仕した。 益州牧劉焉の子/左中郎将劉範・諫議大夫馬宇らと与に馬騰韓遂に与して長安を伐ち、長平陵で郭に敗死した。

張咨  〜190
 潁川の人。字は子議。董卓の秉政後に南陽太守とされた。 董卓討伐に応じて北上する長沙太守孫堅に軍糧を給しなかったことで、通敵として斬られた。

張羨  〜198
 南陽の人。荊南の零陵・桂陽・長沙の太守を歴任し、湖南では輿望が高かったが、楚人の通例として剛狷で、荊州刺史劉表と反目した。 張済が敗死した後、三郡を率いて劉表に叛いて数年間平定されなかった。病死の後は子の張懌が立てられ、劉表に滅ぼされた。
『後漢書』では劉表の張繍救援に乗じて叛き、敗死したとあります。

張邈
 東平(山東省)の人。字は孟卓。夙に侠名を謳われ、陳留太守として董卓討伐に参盟して曹操と親接し、曹操からは託孤の友とされたが、興平元年(194)の曹操の徐州屠掠中、弟の広陵太守張超らの勧めで濮陽に呂布を迎え、与に兗州を経略した。 呂布が敗退すると、袁術に乞援する途上で殺された。

張楊 〜199
 雲中郡の人。字は稚叔。 幷州刺史丁原に従事とされ、西園軍が創設されると洛陽に派されて仮司馬とされ、幷州で募兵した。 董卓が秉政すると上党郡を劫掠し、南匈奴と結んで袁紹に通じたが、まもなく決裂して長安より河内太守とされた。 長安を逃れた呂布の為に便宜を図り、又た四囲の諸豪と通交して声望があり、長安から帰洛する献帝を援けて安国将軍とされ、韓暹に逐われた董承に洛陽宮造営を指揮させて大司馬に叙されたが、洛陽還都には随わず野王(河南省沁陽)に帰還した。
 後に曹操に伐たれた呂布救援を図って部将の楊醜に殺され、楊醜を殺した睢固が袁紹に奔る途上で曹操の部将/史渙に討たれると、残兵は曹操軍に帰属した。
スタート時点では張遼と同じ軌跡を辿っています。幷州では呂布とも面識があった筈。 董卓に背いた張楊と帰順した張遼。献帝と距離を措いた張楊と迎えた曹操。感慨深いものがあります。

趙温  137〜208
 蜀郡成都の人。字は子柔。太尉趙謙の弟。廚亭侯趙戒の孫。 長安遷都後に三公を歴任し、李傕の献帝掠拉を強諫した際には、李傕の従弟/李応の仲介で死を免れた。 興平元年(194)より久しく司徒に在職したが、建安13年(208)、三公制廃止を図る曹操の枉陥で罷免され、程なく歿した。

趙謙  〜192 ▲
 字は彦信。初平元年(190)に太尉に至り、長安遷都後に致仕を求めて司隷校尉に直された。 董卓の寵遇に傲る車師王の侍子を刑戮したが、激怒した董卓も声望を憚って司隷都官従事を殺すに止めた。王允の後任の司徒とされ、同年に歿した。

趙韙  〜201
 益州の勢族。 劉焉の死後、年長の劉瑁を措いて温弱な劉璋を立て、庶政を総覧して征東中郎将に叙され、荊州に対する防備を強化した。 張魯が離背した後、暴兵化した東州兵への怨恚を背景に郡中の大姓と結び、建安5年(200)に成都を攻囲して広漢郡・犍為郡の呼応もあったが、東州兵の死戦に撃退されて江州で敗死した。

龐羲  ▲
 河南尹の人。 劉焉の家とは父祖以来の交誼があり、劉焉の子の劉範が郭に敗死すると、劉範の諸子を庇護して益州に遁れた。 劉璋の子/劉循を婿とし、又た士を好んだためにケ芝らに依拠された。 劉焉の死後に巴郡太守とされたが、しばしば漢中の張魯に敗れてその南進を防げず、募兵を猜疑されると趙韙との呼応を図ったが、諫められて成都に詣参して宥恕された。成都を陥した劉備に降って左将軍司馬とされた。

陳紀
 字は元方。陳寔の子。至徳・温和として名高く、解錮の後は仕官を拒んだが、秉政した董卓に迫られて五官中郎将を拝し、長安遷都を諫争しながらも名声の故に不問とされた。許遷都から程なくに大鴻臚に転じた。

陳蘭  〜209
 廬江郡の人。 袁術の部曲将だったが、僭称した袁術が零落すると僚将の雷薄とともに潜山に拠り、袁術の受入れを拒んで憤死させた。 翌年に江淮の混乱に乗じて一帯を劫掠し、まもなく揚州刺史となった劉馥に帰順したが、209年に梅成と叛いて再び潜山に入ると孫権とも通じ、張遼に敗死した。

鄭泰
 河南開封の人。字は公業。大司農鄭衆の曾孫。 家産を傾けての諸豪との交結で関東で声望が高く、大将軍何進に重んじられたが、外将召集に反対して下野した。 秉政した董卓に逼られて出仕し、逐電した袁紹を渤海太守に薦め、袁紹が挙兵すると討将に自薦したが、離叛を猜疑されて用いられなかった。 長安遷都後に何顒との謀議が露見して袁術に奔り、揚州刺史への赴任の途上で病死した。

鄭衆  〜83 ▲
 字は仲師。鄭興の子。 諸経に通じ、永平8年(65)に和使として北匈奴に入った際、拝跪を拒んで幽閉されたが、遂に屈せず任を全うした。 北匈奴の受降には否定的で、決議後も遣使の道中から奏諫して罷免されたが、後に中郎将・武威太守・左馮翊を歴任して政名があり、大司農の時に歿した。

禰衡
 平原般(山東省楽陵)の人。字は正平。弁才に長けて技芸にも通じ、気尚傲慢で好んで貴権を侮毀した。 許都では曹操の幕僚を蔑して孔融楊修にのみ親しみ、殊に孔融とは忘年の交わりを結んで曹操に薦められた。 放言を改めなかったことで憎まれて荊州への使者とされ、荊州でも士大夫に支持されたものの放言を忌む劉表から江夏に送られ、江夏太守黄祖を侮罵して殺された。享年26歳だったという。
 『文心彫龍』では孔融の“気盛”に対して“思鋭”と評された。

董承  〜200
 霊帝の母/董太后の甥。家門と同姓を以て董卓に用いられ、校尉とされて牛輔に属した。献帝の東行では安集将軍とされて最も信任され、陝での渡河では舟に同乗し、自ら舟舷に縋る人を斬った。 洛陽還御後は袁術に通じて兗州刺史曹操の奉迎を拒んだが、韓暹との対立から曹操に求援して許遷都にも従い、以後も国舅として遇されて建安4年(199)に車騎将軍に進められた。 献帝より曹操誅伐の密詔を託されると左将軍劉備・偏将軍王子服・長水校尉种輯・議郎呉碩らと結謀したが、劉備東征の後に露見して悉く刑戮された。

陶謙  〜194
 丹陽郡丹陽(安徽省当塗)の人。字は恭祖。 悪少年として知られたが、奇貌を珍重する名士もあり、幽州刺史・議郎を歴任して車騎将軍張温の西征には司馬として従い、黄巾軍が興ると徐州刺史に叙された。 袁紹らの義兵には名を連ねなかったものの、長安遷都後に洛陽を回復した朱儁に通誼し、董卓の誅殺に乗じて西征を勧進したが、朱儁に続いて献帝への奉貢を再開して徐州牧・安東将軍とされた。黄巾討伐の成功と流民の帰農によって徐州は殷賑となった反面、姦佞を親任して刑政が乱れたという。
 初平4年(193)に境内で東郡太守曹操の父/曹嵩が賊に殺されたことで報復され、郯(山東省)から西帰する曹操軍の虐殺行は「途の城邑を尽く屠り、乃ち男女数十万を殺して鶏犬も余さず、為に泗水流れず、三輔より流移せし者皆な殲尽す」と伝えられる。 翌年にも曹操に琅邪・東海郡が屠られたが、劉備らの来援と呂布による兗州攻略で難を免れ、劉備に州事を委任して病死した。
 長安遷都後、一部の例外を除いて多くの群雄が袁術と袁紹の兄弟喧嘩に捲き込まれています。陶謙は比較的フラットに見えますが、王朗を介して孔融・劉繇・盛憲と提携し、青州・徐州・揚州を支配する第三極を目指した野心家だった可能性を指摘してみます。

馬騰  〜212
 扶風茂陵の人。伏波将軍馬援の裔。父が県尉を以て罷めて天水に土着した。 霊帝の末期に韓遂らの叛乱に呼応し、興平元年(194)には関中進出を図って朝廷の尊王派と呼応したが、長平観(咸陽市陽)で郭・樊稠に敗れて侍中馬宇・右中郎将劉範・治書御史劉誕・种劭らが戦死した。
 李傕らの敗亡後は関中に進出して韓遂と和戦があり、建安7年(202)には袁氏を追討する曹操によって征南将軍とされ、後に衛尉・槐里侯として京師に徴され、兵営は子の馬超が継いだが、馬超と韓遂が造叛した翌年に族滅された。

伏皇后  〜214
 琅邪東武(山東省諸城)の人。諱は寿。不其侯伏完と桓帝の娘/陽安公主の子。 興平2年(195)に長安で皇后とされた。建安5年(200)に董貴人が車騎将軍董承に累坐して殺されてより伏完に曹操排斥を求め、このことが伏完の死後の建安19年(214)に露見すると大逆として2皇子と倶に刑戮され、伏氏は族滅された。

伏完  〜209 ▲
 司徒伏湛の嫡裔。 家学を伝え、深沈・大度を称されて桓帝の娘/陽安公主を娶り、娘は献帝の皇后とされた。 建安元年(196)には輔国将軍儀同三司とされたが、曹操を憚って印綬を奉還し、屯騎校尉とされた。 皇后の求める曹操排斥を黙殺し、一族の軽挙を抑制して存命中は伏氏に大過無からしめた。

辺譲
 陳留浚儀(開封市区)の人。字は文礼。 博学で論・文に能く、『章華賦』は「淫靡の辞多けれども正義あり、司馬相如の諷の如し」と評された。 汝南の謝甄と親交し、大将軍何進をはじめ郭泰・王朗・蔡邕・孔融ら名士からも重んじられた。 初平年間(190〜193)に九江太守を棄官したが、才気を恃んだ言辞が多く、建安年間(196〜220)に曹操に対する侮辞を挙げられて刑戮され、文章も多くが遺失した。

謝甄  ▲
 汝南邵陵(河南省郾城)の人。字は子微。 談論の才を以て陳留の辺譲と並称され、郭泰も論才を喜んで親交したが、不道の質を歎じてもいた。後に不軌不礼として世人に廃毀された。

徳公
 南郡襄陽の著姓。峴南に居して城府には入らず、家内でも礼節を遵守した。 劉表の請聘には畢に応じず、鹿門山に隠遁した。 同地の司馬徽は10歳の年少を以て龐徳公に兄事し、又た諸葛亮は龐徳公の家に詣る毎に牀下に拝したが、慰留されることはなかった。

楊奇
 太尉楊震の曾孫。 弊政を自覚する霊帝から桓帝との比較を求められると、「虞舜の徳を唐堯に比す如し」と諷して「強項は楊震の如し」と評された。 霊帝の死後に衛尉に進み、長安陥落後に黄門侍郎鍾繇・尚書郎韓斌と与に李傕の部曲将を離背させ、郭との兵力差を均衡させた。

楊彪  142〜225 
 字は文先。楊賜の嗣子。楊震の曾孫。 家学を伝えて博聞を知られ、馬日磾盧植蔡邕らと東観で『漢記』を編纂し、京兆尹の時に王甫の横領を司隷校尉陽球に発告した。 献帝の永漢元年(189)に司徒に至り、董卓の長安遷都を諫止した後に謝して減死とされ、長安では尚書の事を録した。
許遷都後は、袁術の姉妹を娶っていたことで大逆を誣されたこともあり、建安11年(206)に恩沢侯が剥奪されると病を称して出仕せず、漢魏禅譲の後に太尉に擬されても受けなかった。

楊修  175〜219 ▲
 字は徳祖。楊彪の子。好学俊才を愛されて曹操の枢機に参与し、“機警”と称されたが、後に曹植の謀首として画策したことや袁術の外甥であることから、将来の禍根となることを警戒されて機密漏洩を理由に処刑された。

楊奉・韓暹
 共に白波黄巾。楊奉は長安で李傕に与し、長安を退去する献帝に従って興義将軍とされた。 車駕の護衛に韓暹ら白波黄巾を招き、安邑で車騎将軍とされた後は洛陽還御に従わず梁(洛陽市臨汝)に拠った。
韓暹は白波黄巾の帥として発言力を増し、安邑で対立した董承を逐い、洛陽還御で大将軍領司隷校尉とされたが、董承が兗州刺史曹操を招いたために梁の楊奉に奔った。
 楊奉と韓暹は許遷都に献帝奪取を図って失敗すると袁術に奔り、江淮を鈔掠して劉備に敗死した。

陸康  〜195?
 呉郡呉(蘇州市区)の人。字は季寧。陸続の孫。 刺史臧旻に義烈を嘉され、長吏を歴任した後に廬江太守に転じ、江夏蛮を平定した。 後に寿春に拠る袁術に合力を拒んだことで孫策に攻囲され、2年間の抵抗の後に開城したが、この間、休暇を得ていた吏士の多くが暮夜に乗じて城に帰り、落城時には半数が餓死していた。 開城から月余で病死し、少子の陸績より年長だった従孫の陸遜が一族を統領した。

陸続  ▲
 会稽呉(蘇州市区)の人。字は智初。 楚獄が太守尹興に及ぶと掾史5百余人と倶に詔獄に下され、拷死者が続出する中で正言を持した。 後に饋餐の肉と葱の裁寸で母の来訪を知って涕泣し、これを知った明帝に嘉されて尹興ら郡の生存者は赦免され、終身禁錮に減死された。

劉和
 劉虞の子。侍中の時、長安から幽州への使者とされたが、南陽で袁術に留められて幽州に求めた援兵を奪われ、この奪兵が公孫瓚の進言によるものだったため、両者の反目は仇怨の域に達した。 後に解放されて袁紹に依り、幽州従事の鮮宇輔らが挙兵すると袁紹軍の麹義に属して鮮宇輔らと合し、公孫瓚討滅に力戦した。

鮮宇輔  ▲
 漁陽郡の人。幽州の従事。 劉虞の復仇を唱えて散兵を糾合し、烏桓に衆望の篤い燕国の閻柔や遼東烏桓の峭王とも合し、漁陽を大破して麹義・劉和に合した。 官渡の役の頃に曹操に帰順して左度遼将軍とされ、幽州を統轄して烏丸遠征にも随行し、魏文帝の世に虎牙将軍・輔国将軍を歴任して鮮卑大人の軻比能との折衝も担当した。
 閻柔も官渡の役の頃に曹操に通降して護烏桓校尉とされ、烏桓遠征にも従軍した。 鮮卑大人の軻比能の朝貢を仲介するなど鮮卑・烏桓との折衝を担当し、魏文帝の世に度遼将軍とされた。

劉勲
 琅邪郡の人。字は子台。袁術配下の古参で、孫策が廬江太守陸康を降すと廬江太守とされた。 袁術の死後はその遺勢の争奪を孫策と競い、成悳の劉曄にも帰順されるなど声望があったが、孫策の佯和を信じ、その勧めで豫章経略に出た間に皖城を陥され、旧縁を頼って曹操に投じた。曹操の下で枢機に連なったものの次第に驕慢となり、非法を弾劾されて処刑された。

劉繇
 字は正礼。太尉劉寵の甥、劉岱の弟。 193年に袁術に敗死した揚州刺史陳温の後任とされて振威将軍を兼ね、寿春の袁術を避けて曲阿(江蘇省丹陽)に拠り、士人を厚遇して名声があった。 翌年には孫策に敗れ、豫章での再起を図ったものの病死した。
『三国志』呉書には、劉繇を頼って江東に逃れた名士が多く載せられています。 殆どが北海人ではありますが、鄭玄の学友や門人から同郡の星と仰がれていたようで、遺児の劉基は外来名士の中でも特に重んじられていました。

劉岱  〜192 ▲
 字は公山。入洛した董卓によって兗州刺史に叙され、士人を厚遇して名声があった。 東平(山東省東平)で青州黄巾に敗死した。

鮑信  〜192 ▲
 泰山平陽の人。漢の司隷校尉鮑宣の裔。節義を重んじて士を愛し、将略があった。 大将軍何進に騎都尉とされて東方で募兵し、何進の横死後に帰京すると董卓の寡勢を看取して袁紹に捕縛を勧めたが、聴かれなかったことで部曲を率いて帰郷した。 曹操の大器を認めてしばしば同心し、後に済北相となって刺史劉岱の黄巾討伐に従い、軽進を諫めて聴かれず戦死した。

劉g  〜209
 劉表の長子。生来病弱で、異母弟の劉jが蔡氏を娶ると疎んじられ、枉陥を避けて江夏太守に転出した。 劉表の危篤には蔡瑁らによって臨床を妨げられ、劉jが刺史を襲ぐと赫怒して挙兵を図ったが、曹操の南下に逼られて夏口(武漢市武昌区)の劉備と合した。 赤壁の役の後に劉備から荊州牧に擁立されたが、翌年に病死し、劉備は荊州占有の名義を失った。

呂布  〜198
 五原九原(包頭)の人。字は奉先。騎射と卓絶した驍武を幷州刺史丁原に愛されたが、入洛した董卓に帰順して丁原を殺し、後に司徒王允に与して董卓を殺して温侯とされた。 長安陥落後は誅董の功を以て袁術、ついで袁紹に依り、黒山討伐では「人中の呂布、馬中の赤兎」と讃えられたが、驕恣を憎まれて逐われ、陳留太守張邈に迎えられた。
 曹操の東征に乗じて兗州を経略したものの、敗れて徐州刺史劉備に投じ、劉備と袁術の攻伐に乗じて徐州を奪うと、一時は劉備を庇護して袁術と敵対したが、泰山の群賊との提携に失敗した後は劉備を逐って袁術との連合を鮮明にした。 翌年(198)に曹操に伐たれると内応から捕われ、刑に臨んでは自らを曹操唯一の患と称して、己を騎将とすれば天下平定は容易だと豪語したが、丁原・董卓を比喩する劉備の勧めもあって殺された。

丁原  〜189 ▲
 字は建陽。騎射に善く、有事には常に陣鋒となったことから、“粗略にして勇あり”と評された。 霊帝の末に大将軍何進の檄に応じて入洛したことで執金吾とされたが、董卓に篭絡された呂布に殺された。

魯旭  〜192
 司徒魯恭の孫。 献帝の長安遷都に随って太僕とされ、司徒王允による董卓誅戮に参与したが、李傕らによる長安陥落で戦死した。

△ 補注:東漢

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