▽ 補注:三国魏/人物

于禁
 泰山鉅平の人。字は文則。 鮑信の黄巾軍討伐の募兵に応じ、その死後は曹操に従って将略を讃えられ、別将として多くの戦功を挙げた。 曹操が張繍に敗れた際、掠奪に走る青州兵を討ったことで誣告されたが、陣を整えてから曹操に謁した処置を絶賛され、徐州の劉備討伐の際には延津に進駐して袁紹の南下に備え、袁譚討伐で虎威将軍とされた。
 軍律の厳格さでも曹操に篤く信頼され、隷下に降格された朱霊にも異を唱えさせず、後に仮節鉞・左将軍とされ、張遼楽進張郃徐晃とともに五大将軍に数えられた。
 関羽が樊城を攻囲すると援軍とされたが、長雨で陣営が水没したところを伐たれて降り、新参の龐悳が戦死したことで著しく評価を下げた。 関羽の敗死後は呉に遷されて礼遇され、孫権が曹丕に藩属した際に送還されて安遠将軍とされたが、曹操の陵墓に描かれた降伏の画を見て憤死した。
于禁の降伏と龐悳の戦死を知った曹操が、「30年間つき従った者が節義で龐悳に及ばないとは」と述懐したことが、後の于禁評を決定的にしました。又た曹操の陵墓の画は、于禁に見せるために曹丕がわざわざ描かせたと『三国志』にあり、ここまでくるとちょっと眉唾な感じですが、曹洪の事を考えるとやはり曹丕の資質なのでしょう。

昌豨  〜206 ▲
 東海郡の人。 泰山に拠って臧覇・孫観・呉敦・尹礼らと結び、呂布が敗死すると曹操に降って勢力を保った。 劉備が討たれると再び叛いて張遼・夏侯淵に抵抗し、張遼の説諭に応じたものの206年に再び叛き、旧知の于禁に伐たれて殺された。

衛臻
 陳留襄邑の人。字は伯輿。 父の衛茲は三公の招聘に応じなかった隠士で、曹操の挙兵に軍資を援助し、滎陽で戦死した。
 衛臻は正節を重んじ、後に丞相参軍事に挙げられ、父の功もあって文帝・明帝に敬重され、侍中・吏部尚書などを経て司徒に至った。 正始年間に長垣侯に進封されたが、曹爽の秉政を危ぶんで致仕し、死後に太尉を追贈された。
 孫の衛権は晋恵帝のとき汝南王に仕えて尚書郎とされたが、しばしば衛瓘と混同される。

袁渙
 陳郡扶楽の人。字は曜卿。漢の司徒袁滂の子。 礼節を重んじ、漢末の戦乱を江淮に避けて袁術・呂布に任用され、呂布が敗死して曹操に仕え、沛・梁での屯田に成果を挙げた。 諫議大夫・丞相軍祭酒に転じ、魏が樹立されると郎中令となって御史大夫の事を行ない、曹操に進言して天下の書籍を蒐集した。
 従弟の袁覇は同郡の何夔と共に声望があり、袁覇の子の袁亮と何夔の子の何曾とは袁渙と並称され、学説において何晏らと対立した。
袁宏の『後漢紀』によれば、袁安の同族です。 袁滂の司徒就任期間は霊帝の光和元年(178)から1年1ヶ月ほど。同書では「純素で寡欲。他人の短所を云わない」とありますが、ご先祖を悪く云う訳はありません。 まぁ、任期の短さと再起用されていないことから、袁隗とは価値観が違っていたとは思いますが。

王基  〜261
 東莱曲城の人。字は伯輿。 青州刺史王淩の求めで別駕となると久しく叙任に応じることが許されず、後に大将軍司馬懿より中書侍郎に抜擢された。 学説で王粛と対立して安豊太守に出され、曹爽が粛清されると故属として罷免されたが、間もなく荊州刺史に叙され、翌年に王昶の南征が失敗した後は江北の充実を急務とした。
 毌丘倹らが叛くと速戦を強硬に唱え、南頓を占拠して項の毋丘倹らの北上を阻止し、楽嘉攻略のために兵力を二分した毌丘倹を大破して鎮南将軍・都督豫州諸軍事・行豫州刺史とされた。 諸葛誕の叛乱では揚州都督を兼ね、寿春の包囲を徹底して諸葛誕と呉との連携を遮断した。 征東将軍・都督揚州諸軍事、征南将軍・都督荊州諸軍事を歴任し、死後に司空を追贈された。

何夔
 陳郡陽夏の人。字は叔龍。漢の車騎将軍何煕の曾孫。 夙に父を失って孝悌で讃えられ、淮南に進出した袁術を避けて潜山に隠遁した。 197年に帰郷した後は曹操の幕僚に連り、東曹掾とされると人事挙任の法規を定め、魏国が樹立されて尚書僕射となり、後に太子太傅から太僕に進んだ。

毛玠  ▲
 陳留平丘の人。字は孝先。 清潔公正で知られて兗州の曹操に招かれ、遷都後に東曹掾とされて崔琰とともに選挙を司り、虚名のみの士は決して挙げなかった。 魏国が樹立されると尚書僕射となり、曹操からは周昌に比せられたが、後に大政誹謗と誣されて罷免された。
『魏書』には丁儀に枉陥され、又た親しかった何夔も丁儀と不和だったとあります。 何夔は曹丕派で丁儀は曹植派ですから、太子問題の犠牲者の一人といえます。

華歆  157〜231
 平原高唐の人。字は子魚。浮華を好む郷風の中で廉節を重んじ、学友の邴原・管寧と声名を斉しくし、王芬らの霊帝廃黜への参謀を諫めたことで同郡の陶丘洪にも敬重された。 霊帝の死後、鄭泰荀攸と共に何進に召されて尚書郎とされ、長安遷都後は袁術に依って豫章太守とされ、江東を略定した孫策にも礼遇された。
 孫策の死後に曹操に招かれて司空参軍事とされ、荀ケの尚書令を継いで魏国の御史大夫・相国を歴任し、禅譲で司徒に直された。 周到慎重とも評され、道義と清貧を重んじ、俸禄や賞賜は悉く一族旧知に散じて余禄を蓄えず、公卿に官婢が下賜された際は悉く良民に直して讃嘆された。 明帝が即位すると博平侯に進封されて太尉に進んだ。

管寧  158〜241 ▲
 北海朱虚の人。字は幼安。 父の葬儀での典賻を悉く辞して清節を讃えられ、学友の華歆・邴原と斉しい声名があった。 天下が乱れると遼東に逃れて公孫度に敬重され、久しく公孫康に留められた。
 223年に華歆の進言で辟されて帰郷したものの叙任には悉く応じず、241年に安車を以て招聘された際に偶々歿した。

邴原  ▲
 北海朱虚の人。字は根矩。 夙に品行で管寧と並称され、黄巾軍が興ると一族と共に遼東に遁れ、帰郷後に曹操に招かれて司空掾属とされた。 方直の士として重んじられ、後に五官将長史となり、征呉の途上で歿した。

国淵  ▲
 楽安蓋県の人。字は子尼。 鄭玄に師事した後、邴原・管寧とともに遼東に避難し、帰郷後に曹操に招かれて司空掾属とされた。 屯田の事務を司って制度を定め、関中攻略では府長史として後事を統轄し、後に太僕のまま歿した。

賈逵  174〜228
 河東襄陵の著姓。字は梁道。夙に軍略を好み、袁尚が郭援に河東を襲わせた際に絳を堅守したことで孫資に知られ、後に曹操にも認められて丞相主簿として夏侯尚と共に軍事の計策を司った。
 性は剛毅かつ厳獅ナ、曹操が歿すると鄴への葬送を宰領し、この時に魏王の璽綬の所在を尋ねた鄢陵侯曹彰を窘めた。 鄴令・魏郡太守・豫州刺史を歴任し、水利を重視して賈侯渠を開鑿するとともに、呉に対する諜報と防備を強化し、洞浦の役にも従軍した。 揚州牧曹休とは不和だったが、228年の南征では前将軍満寵・東莞太守胡質らを督して東興に進みながらも曹休の大敗を予見すると西転し、石夾の呉軍を排除して敗走する曹休を収容した。

賈詡
 武威姑臧の人。字は文和。 臨機の警略に富みながらも謹慎によって無名だったが、漢陽の閻忠からは張良・陳平の輩と評された。 董卓に従って牛輔に属し、牛輔の横死で解散を図る李傕らに「単行すれば亭長にすら捕わる」と長安攻略を進言した。 長安では李・郭の和解や百官の解放、献帝の東帰実現などを介助した後に長安を離れ、南陽の張繍に帰属して劉表と連和させて曹操を撃退したが、後に張繍に勧めて与に曹操に帰順した。
 執金吾・冀州牧を歴任しつつ従軍し、荊州接収時には国力の涵養を是として東征を諷諫し、関中攻略では韓遂と馬超の離間を上申した。 後進として私交を断つなど謹慎に徹しながらも多く時宜に適った建策をして重んじられ、継嗣問題では曹丕には謹慎と孝順のみを奨め、曹操には袁紹・劉表を譬えて暗喩した。文帝が即位すると太尉とされ、禅譲後は治先征後を唱え、77歳で歿した。
陳寿からは荀ケ・荀攸と同列に扱われましたが、李傕らに長安攻略を勧めた一事を以て、裴松之からは徹底的に糾弾され、“犯罪の極致”とまで酷評されました。

夏侯淵  〜219
 字は妙才。夏侯惇の従弟。 曹操の挙兵に従って累功があり、夙に「三日五百里、六日一千里」と称されたが、曹操からは勇に任せた戦法を戒められていた。 209年に行領軍とされて陳蘭らと呼応した廬江の雷緒を討平し、関中討伐に従って安定で楊秋を降伏させた。
 以後も行護軍将軍として朱霊らを指揮して関西略定を進め、一度は涼州を陥した馬超に敗れたが、後に楊阜らに府城を逐われた馬超を漢中に撃退し、氐羌を討平して韓遂を大破し、ついで仮節を加えられて枹罕(臨夏自治州臨夏)の宋建を平定した。 張魯が降った後は張郃徐晃を率いて巴郡を平定し、征西将軍に叙されて漢中で劉備と対峙したが、張郃に増援を送ったところを急襲されて敗死した。
 夏侯淵の諸子は概ね文才に長じ、殊に第4子の夏侯恵は奏議に定評があった。 夏侯淵の嗣子の夏侯衡は曹操の姪を娶り、次子の夏侯覇羊祜を婿とした。 又たその弟の夏侯威の子/夏侯荘は羊祜の姉(司馬師の正夫人=景陽皇后の姉)を娶って権勢があり、その子の夏侯湛は文人として世に著聞した。

夏侯尚  〜225
 字は伯仁。夏侯淵の族子。司馬として曹操の征旅に従い、後に五官将文学に転じて曹丕と親交した。 禅譲で征南将軍・荊州刺史・仮節都督南方諸軍事とされ、蜀の上庸郡を平定して征南大将軍に進んだ。 222年の南征では曹真と共に江陵を伐ち、以後は荊州の再建に注力して荊州牧に進み、昌陵郷侯に転封された。
 文帝に特に寵任されたが、正妻の曹氏を疎んじて側妾を寵愛したことで文帝に愛妾を殺され、精神を病んで妾の遺骸を掘り出した。

夏侯楙
 字は子林。大将軍夏侯惇の第2子。 曹操の清河公主を娶り、曹丕とも親しく、文帝が即位すると安西将軍とされて夏侯淵の都督関中を継いだ。 しばしば失策があり、228年の蜀の北伐後に召還されて尚書に直された。 金策や好色によって公主や諸弟と不和で、その誣告で死刑に擬されたこともあったが、夏侯惇の遺功も配慮されて不問とされた。

郭循  〜253
 郭脩とも。西平の人。蜀の姜維が西平郡を攻略した折に捕虜とされた。 253年に正月の宴席で蜀の大将軍費禕を刺殺し、魏帝から聶政傅介子に優ると絶賛されて長楽郷公に追封された。
同年8月の詔勅では“中郎”とありますが、費禕伝には魏将とあり、中郎将かもしれません。 『魏氏春秋』では字は孝先。蜀で左将軍とされたとあります。

郭淮  〜255
 太原陽曲の人。字は伯済。建安年間に孝廉に挙げられ、張魯攻略後に夏侯淵の司馬とされ、夏侯淵が敗死すると張郃を軍主として混乱を収拾した。 禅譲で行雍州刺史とされ、228年に蜀軍が街亭に進むと列柳城を陥して張郃を支援し、234年に蜀の諸葛亮が斜谷に進んだ際には、隴右の確保を主張して陽遂を確保した。 曹爽の伐蜀では夏侯玄の前鋒都督とされ、不利を判断して直ちに撤退させたために大敗を免れた。
 羌族に威望があり、夙に蜀と西羌の連携を警戒して羌族の制撫につとめ、247年に隴右の諸羌が蜀と通じて叛くと、蜀軍を撃退した後に叛羌を平定した。 249年に征西将軍・都督雍涼諸軍事に進められ、雍州刺史陳泰とともに蜀将を降して持節都督のまま車騎将軍とされ、死後に大将軍が追贈された。

楽進  〜218
 陽平衛国の人。字は文謙。 短躯ながらも胆略果烈で、曹操の挙兵に従って多く先陣の功を挙げ、官渡の役では淳于瓊を斬り、袁譚討伐でも先登の功を挙げた。 206年には于禁張遼と共に特に功名を上奏されて折衝将軍に叙され(于禁は虎威将軍、張遼は蘯冦将軍)、ついで幷州の高幹を討ち、南征後は襄陽に進駐した。 217年の孫権討伐では仮節とされ、戦後は李典と共に張遼を輔けて合肥に留まり、後に右将軍に進められた。
 嗣子の楽綝も果断剛毅だったが、揚州刺史の時に諸葛誕に急襲されて敗死した。

韓浩
 河内の人。字は元嗣。 漢末の戦乱では徒党を募って県を防衛し、太守王匡に認められて孟津で董卓と対峙した。 夏侯惇の求めで従軍し、陳宮の乱では鄄城救援に向った夏侯惇が叛兵に捕虜とされると、諸営を叱咤して夏侯惇を犠牲にすることを宣し、そのため造叛者が投降して夏侯惇を解放した。
 屯田策を急務と進言したことで曹操にも認められて護軍に昇せられ、漢中平定後は方面の都督に推されたが、護軍の適任者が不在として留任された。

管輅  208〜256
 平原の人。字は公明。 幼時から天文を好み、長じては京房の『周易』に通じ、卜筮も能くして占術の大家と目された。官は少府丞まで進んだ。
『三国志』方技伝は華佗に始まり管輅で終わりますが、陳寿文では華佗と管輅だけで全体の7割以上を占めていますので、両者に対する当時の評価がどれほどのものだったかが想像できます。

邯鄲淳
 潁川の人。字は子叔。 博学で、殊に『説文解字』『古今字指』に通じて文字に詳しく、また篆書は名手と謳われた。 文辞にも長じ、曹丕と曹植はともに招聘を争ったが、曹操の裁定で曹植に属し、後に文帝から博士給事中とされた。 笑話集『笑林』の著者。

戯志才
 籌策に長じて曹操に甚だ重用されたが早くに歿し、後任に足る人物の不在が歎かれた。 ようやく後任として定まった郭嘉は智嚢”と呼ばれて曹操に絶大に信頼された。

許允  〜254
 字は士宗。高陽の人。名族の子弟として侍中・中領軍に進んだ。 李豊・夏侯玄らとの親交から猜疑され、鎮北将軍・仮節督河北諸軍事に叙されて京師での軍権が解かれた直後に横領を誣告され、流謫の途上で歿した。

邢顒  〜223
 河間鄚の人。 孝廉に挙げられると公府の辟徴を避けて右北平の田疇に依り、袁氏の平定後に帰郷して州に出仕した。 後に平原侯曹植の家丞とされ、法を以て統制したために忌まれた。 丞相参軍事から東曹掾に転じ、曹操に継嗣の事を諮問されると順逆の理を以て暗喩し、後に太子太傅に進んだ。 禅譲によって侍中・尚書僕射とされ、司隷校尉・太常を歴任した。

胡遵  〜256
 安定臨の人。張既の薦挙で認められ、司馬懿の軍旅に従って武功を累ねた。 252年の東興の役では諸葛誕と共に諸葛恪に敗れたが、毋丘倹討伐に従って衛将軍に進み、在任のまま歿した。後に車騎将軍が追贈された。

胡昭  162〜250
 潁川郡の人。字は孔明。 袁紹の招聘を拒み、曹操にも無能と自評して陸渾山中に隠棲し、一帯に横行する匪賊も胡昭の徳望を重んじて陸渾は避けたという。 後に宜陽に移住した。隷書の名手とされる。

呉質  177〜230
 済陰の人。字は季重。 学識に富み、文才についても建安七子に亜ぐ声名があり、曹丕に特に親愛されて立太子にも尽力し、振威将軍・仮節都督河北諸軍事まで進んだ。 曹丕の寵を恃んだ言動が多かったことから醜侯と諡されたが、後に威と改められた。娘は司馬師に嫁したが、後に離縁された。

高柔  〜263
 陳留圉の人。字は文恵。張邈が叛くと従兄の高幹に招かれて河北に遷り、高幹に従って曹操に帰順した。 執法の公正適理を認められて高幹が叛いても連坐を免れ、長らく丞相法曹掾として信任され、禅譲後に密告の奨励を撤廃させて廷尉に進んだ。 明帝にも法制の遵守を求めてしばしば恣断を諫め、在任23年で太常に転じて十日で司空に進み、更に司徒に至った。
 司馬懿の兵変では仮節行大将軍事とされて曹爽の兵営を制圧し、高貴郷公が即位すると安国侯に進封されて太尉に至った。

司馬孚  180〜272
 河内温県の人。字は叔達。司馬懿の弟。温順で経書に精通して文章にも長け、曹植の文学掾となって敬重された。 曹爽の秉政後に尚書令となり、司馬懿の奪権では中護軍司馬師とともに洛陽の宮門を制圧し、司馬懿の死後は一族の宗として重んじられた。
 高貴郷公が弑されると陳泰とともに痛惜し、曹髦の葬儀を王侯の格式で行うことを頑強に主張して認められ、以後も魏家の護持を堅持しながらも害されることはなかった。 禅譲で安平王に封じられて4万戸を食み、太宰・持節都督中外諸軍事とされたが憂悶の裡に歿し、葬儀は東漢の東平王が範とされ、献と諡された。

朱霊
 清河の人。字は文博。曹操の徐州屠掠で袁紹から援軍の将として派遣され、戦後も曹操に従った。 一時は曹操に憎まれて兵権を剥奪されたが、威名は于禁ら五大将軍に亜ぎ、文帝の世に後将軍に進んで高唐侯に封じられ、東興の役では豫州軍の先鋒となって夾石を回復した。

州泰  〜261
 義陽郡の人。荊州刺史裴潜に見出され、宛に駐する司馬懿にも認められて孟達討伐では先導を担った。 250年の王昶の南征には荊州刺史王基とともに従い、後に豫州刺史・兗州刺史を歴任し、諸葛誕の乱では石苞と共に呉の援軍を撃退した。 翌年(259)に荊州の軍区が二分されると都督江南諸軍事とされて襄陽に駐し、江陵の荊州諸軍事には王基が任じられた。死後に衛将軍が追贈された。

徐晃  〜227
 河東楊の人。字は公明。 楊奉に従って騎都尉とされ、楊奉を破った曹操に帰服して多くの征旅に従い、延津では袁紹の将軍の文醜を斬り、南征後は江陵で曹仁を輔け、関中攻略では蒲阪を押えて潼関での曹操の渡河を成功させた。 張魯攻略の前後は夏侯淵に従い、樊城が蜀の関羽に攻囲されると于禁の後任となって関羽を大破した。
 曹丕の襲爵で右将軍とされ、禅譲後に陽平侯に転封され、文帝の死に乗じて来攻した呉の諸葛瑾を司馬懿に従って襄陽で撃退し、227年に病死した。 為人りは慎重で、関羽を破った戦勝の宴でも威令が徹底していたことで周亜夫に比せられた。 軍旅では斥候を重視し、常に退策を設けて進んだが、速戦も得意とした。

蒋済  〜249
 楚国平阿の名族。字は子通。はじめ州郡の吏となり、曹操の江淮からの徙民が失敗すると、これを諫めた事で認められて揚州別駕、ついで丞相の西曹属とされ、樊城で于禁が敗れた際には司馬懿とともに遷都を諫めた。 曹丕が襲爵すると丞相長史に転じ、禅譲で東中郎将に叙され、大司馬曹仁が歿するとその兵営を領した。 ついで尚書に転じ、文帝が広陵巡幸を強行した際には立往生した船団を悉く淮河に収容したことで賞嘆された。
 明帝のとき中護軍に進んで枢機に深く参与し、中書(劉放孫資)の削権を勧め、しばしば明帝の事業を諫めた。 斉王が即位して領軍将軍とされ、242年には太尉に進み、曹爽逮捕の際には弾劾文を奏上して都郷侯に進封された。

甄妃  〜221
 文昭皇后。中山無極の勢族。はじめ袁紹の次子/袁煕の妻だったが、鄴陥落の折に曹丕に保護されて再嫁した。 嫡長子の曹叡の生母でありながら禅譲後も皇后とはされず、翌年に怨言を理由に賜死された。 賜死の翌年に郭后が立てられた事、曹叡が長らく太子とされなかった事などから、後世では郭后の讒言で殺されたとの説が流布した。
 又た曹植の代表作の一つに数えられる“洛神賦”のモデルにも比定され、同賦は粤劇などの題材となって現在でも演じられている。

郭女王  184〜235 ▲
 文徳皇后。安平広宗の人。女王は字名、諱は不明。 漢末の戦乱で零落した勢族で、銅鞮侯家の婢となっていたところを魏公曹操に見出されて曹丕の宮女とされ、姿貌だけでなく曹丕の立太子を扶けたことでも寵愛され、甄妃が賜死された翌年に皇后に立てられた。 曹叡の養母でもあり、明帝が即位すると皇太后とされ、死後に上諡が贈られて文帝陵に合葬された。

申耽
 字は義挙。漢中地方の豪姓で、弟の申儀とともに西平・上庸一帯の数千家を率いて自衛し、張魯・曹操に通じて上庸都尉とされ、後に上庸太守に進められた。 219年に蜀の劉封・孟達に伐たれて降り、劉備から上庸太守を安堵されて征北将軍を加えられ、弟の申儀は建信将軍・西城太守とされた。 魏に降った孟達が征南将軍夏侯尚・右将軍徐晃と共に来攻して劉封が破られると魏に降り、懐集将軍とされて南陽に遷された。
 このとき申儀は魏軍に呼応して劉封を破って魏興太守とされ、後に孟達と不和となってしばしば叛意を上書し、孟達が蜀軍に呼応して叛くと退路を断って楼船将軍に進められた。 地勢の僻辺を恃んだ詔勅の偽造や横恣が咎められて召喚されたとも伝えられる。

曹宇
 曹操の子。字は彭祖。211年に都郷侯に封じられ、217年に魯陽侯に進封され、禅譲の翌年に下邳王に進爵され、225年に燕王に改封された。 明帝に特に寵遇され、明帝が重篤となると大将軍に擬されて領軍将軍夏侯献・武衛将軍曹爽・驍騎将軍秦朗・屯騎校尉曹肇らと輔政が託されたが、中書監劉放・中書令孫資の進言で排された。

秦朗  ▲
 新興の人。字は元明。秦宜禄の子。曹操に諸公子と共に養育され、明帝が即位すると驍騎将軍・給事中に進んだ。 233年に鮮卑の軻比能歩度根を討って塞外に逐い、翌年に蜀が来攻すると援軍の一軍を担い、不予となった明帝からは大将軍曹宇らと並んで託孤に補されたが、中書監劉放・中書令孫資の進言で排された。 『魏略』では、諫言も推挙も行なわない無能の寵臣として“佞倖伝”に載録されている。
 子の秦秀は晋で厳直の士として知られた。

秦宜禄  ▲
 呂布に仕え、杜氏を妻としていたが、袁術の斡旋で漢の宗室を娶った。 呂布が滅ぶと曹操に帰服して銍長とされ、曹操に背いた劉備に従うことを拒んで殺された。
 下邳に残された杜氏は関羽が恩賞として求めたが、曹操に側室とされた。

曹休  〜228
 字は文烈。曹操の族子。 天下が乱れると老母と共に呉に渡ったが、曹操の挙兵に接して帰郷して「曹家の千里駒」と激賞され、実子同様に遇されて虎豹騎を率いた。 後に蜀の張飛が下辨に進出すると曹洪の参軍となって従軍したが、曹操からは都帥の任を委ねられ、下辨の呉蘭を伐たせて張飛を撃退し、長安で中領軍に叙された。
 夏侯惇が歿すると後任として居巣に進駐して淮南の諸軍を都督し、ついで征東将軍・領揚州刺史に進み、文帝の南征に際して仮黄鉞・征東大将軍に進められて張遼らを都督し、洞浦で呂範を大破して揚州牧とされた。 文帝の死に乗じた呉軍を廬江の石陽に撃退して大司馬が遙授され、228年には呉の鄱陽太守周魴の佯降に応じて南征したが、石亭で大敗して帰還から程なくに憤死した。
 曹休の墓は2010.05.17に河南省洛陽市孟仁県で発見され、副葬品の銅印から曹休の墓と断定された。

曹洪  〜232
 字は子廉。曹操の従弟。 曹操の挙兵に従い、徐栄に大敗した曹操に乗馬を譲って終生の恩とされ、揚州では刺史陳温との交誼を活かして数千の兵を得た。 帰洛直後の献帝への奉迎使となった際には董承と結んだ袁術に撃退されたが、許遷都で諫義大夫とされ、官渡の役での烏巣襲撃では本営を守って高覧・張郃を撃退した。 荊州経略後に事N将軍に進み、217年には蜀の張飛を下辨から撃退し、文帝の下で驃騎将軍に進んだ。
 吝嗇かつ好色で、漢中に出征する際には曹操から“劉邦の類”として副将の曹休・参謀の辛毗に輔導が求められ、戦後の祝宴で歌妓に艶舞をさせたことで楊阜を激怒させた。 嘗て曹丕からの借財を拒んだことがあり、このため食客の犯罪に連坐させられたが、卞太后の介入で減死に処され、明帝の下で驃騎将軍に進んで特進を加えられた。
『魏書』によると、漢の尚書令曹鼎の甥で、挙兵以前に曹鼎の薦挙で県長に就いています。 『後漢書』で曹鼎は曹騰の弟となっていて、『続漢書』では曹騰が末子となっていますが、いずれにしても『三国志』の“曹操の従弟”とは合いません。 曹騰には齢の離れた庶弟がいたか…?

曹真  〜231
 字は子丹。曹操の族子。父の曹邵が曹操の挙兵に応じて州郡に殺された為、曹丕・曹休らと起居を倶にした。 勇猛を認められて虎豹騎を率い、曹洪の下辨攻略で呉蘭を破り、中堅将軍・中領軍を歴任して、夏侯淵の死後は征蜀護軍として陳倉に駐した。
 222年には上軍大将軍・仮節鉞都督中外諸軍事(?)とされて夏侯尚と共に江陵を攻略し、後に中軍大将軍に転じて文帝の託孤に陳羣・司馬懿とともに連なり、明帝が即位すると大将軍に進んで召陵侯に転封された。 228年に張郃に街亭の蜀軍を大破させて離背した南安・天水・安定郡を平定し、郝昭に陳倉城を修築させて翌年の諸葛亮の陳倉攻略を失敗させ、230年には大司馬に進んで剣履昇殿・入朝不趨が認められた。 同年に荊州の司馬懿と呼応して長安から伐蜀を行なったが、霖雨が30日以上続いて撤退し、翌年に洛陽で病死した。
 将兵と労苦を共にし、賞賜に不足があった場合には私財を充てた為に士卒の信頼は篤かったと伝えられる。

郝昭  〜229? ▲
 太原の人。字は伯道。 雄健で長らく軍にあって河西の事情に通じ、曹真にも認められて陳倉城の守将とされた。 県城の修築中に諸葛亮が来攻すると城兵千余で堅守し、諸葛亮は欠糧と援軍の費曜の到来で撤収した。 功によって列侯に封じられたが、たまたま病死した。

曹仁  168〜223
 字は子孝。曹操の従弟。曹騰の兄/潁川太守曹褒の孫とされる。 夙に騎射を好み、曹操が挙兵すると徒党を率いて従った。 徐州屠掠では常に先鋒となったが、以後は曹操の別将として動くことが多く、官渡の役では豫州を撹乱する劉備を破った。 荊州攻略では行征南将軍に叙され、赤壁で敗れた後は江陵で周瑜と対峙し、武将の牛金が城外で包囲されると数十騎で突して悉く救出した。
 関中攻略では潼関を守り、ついで仮節・征南将軍となって樊に進駐し、関羽に呼応した宛の侯音の乱を鎮定し、関羽の来攻と漢水の氾濫にも城を堅守して徐晃の援軍に救われた。 嘗ては軽率だったが、長じてからは厳整に法令を運用し、宗室諸将の範として曹丕にも絶賛された。 曹丕が襲爵すると車騎将軍・都督荊揚益州諸軍事・陳侯とされて宛に駐し、ついで臨潁に移鎮して大司馬に進められ、222年の南征が失敗した後は合肥に進駐した。

曹霖  〜250
 東海定王。曹丕の子。222年に河東王に封じられ、232年に東海王に転封された。 粗暴の性で、宮女や婢を打擲してしばしば殺すことがあったが、文帝に特に鍾愛されていたこともあって不問とされた。

孫礼  〜250
 涿郡容城の人。字は徳達。 幽州を平定した曹操に召されて司空軍謀掾とされ、ついで守令を歴任して能名があった。 尚書に転じた後はしばしば明帝を諫め、遺詔で大将軍曹爽の長史とされたが、方直を忌まれて揚州刺史に出され、荊州刺史・冀州牧を歴任した。 曹爽と争議して一時は禁錮に処されたが、程なく赦されて幷州刺史・使持節護匈奴中郎将となって鮮卑に対し、曹爽の粛清後に司空に至った。


 山陽高平(山東省鄒城)の人。字は鴻予。 鄭玄に学んで建安初期に侍中となり、曹操の腹心として208年の三公制の廃止で御史大夫とされた。 孔融刑戮を主導し、伏后廃黜、魏公封建では使者として策命を奉じたため、『三国志演義』では華歆とともに典型的な逆臣とされた。 『江表伝』によれば、献帝の御前で政術を巡って対立するまでは、孔融と親しかったという。

仲長統  180〜220
 山陽高平の人。字は公理。好学博覧で文辞に長じ、山東を遊歴して異才を讃えられた。 幷州刺史高幹に厚遇されたが、雄志のみの人と評して人事を訓誡して去り、尚書令荀ケの薦挙で丞相参軍とされた。 奔放・慷慨で直言を好み、言行が一定しなかったことで世人からは“狂”と称されたが、東海の碩学として知られた繆襲から、文才は董仲舒賈誼楊雄劉向らに比すると讃えられた。

張郃  〜231
 河間鄚の人。字は儁艾。 黄巾討伐の募兵に応じて司馬とされ、冀州の譲渡で袁紹に属し、麹義の死後は公孫瓚攻滅の中心を担ったが、官渡の役で曹操の本営急襲に失敗すると讒言を懼れて曹操に降った。 烏桓遠征陳蘭討伐では張遼の副となり、関中攻略で夏侯淵の先鋒となって馬超を破り、宋建討伐では湟中に達した。 張魯攻略でも先鋒となり、張魯が降った後は夏侯淵の副として漢中に鎮して蘯寇将軍とされ、夏侯淵が戦死した後は全軍を統御して混乱を鎮め、劉備・諸葛亮からは夏侯淵以上の障害と見做された。
 曹操の死後に左将軍・鄚侯とされ、222年の南征では江陵攻略に従い、以後は関中の曹真と荊州の司馬懿の遊軍的な立場を担った。 明帝が即位すると荊州に進駐して司馬懿とともに呉の諸葛瑾を防ぎ、228年には蜀の馬謖を六磐山地西麓の街亭で大破して南安・天水・安定郡を鎮定し、直後には司馬懿の江陵攻略に従った。
 程なく征西車騎将軍に叙され、231年に諸葛亮が祁山(甘粛省礼県)に進出すると略陽(甘粛省庄浪)から南下し、佯退を追って木門で戦死した(『魏略』では、司馬懿の追撃命令に已むなく従ったとあります)

張繍
 武威祖獅フ人。驃騎将軍張済の族子。 張済の死後、部曲を統べて劉表に帰順して宛に進駐し、一度は曹操に帰順したものの淯水で叛いて大破し、穣に拠った。 曹操と袁紹が決裂すると賈詡の勧めで曹操に降り、官渡での戦功で破羌将軍に叙されて厚遇されたが、烏桓遠征の途上で歿した。

程c
 東郡東阿の人。字は仲徳。黄巾軍に呼応した県丞の王度を討って県城を守り、袁紹と公孫瓚が決裂すると劉岱に勧めて袁紹に通じさせた。 劉岱の死後に曹操に招かれ、陳留の張邈らが叛くと荀ケ・夏侯惇と連携して范・東阿を保ち、東平相に進められた。 許遷都後は東中郎将に済陰太守・督兗州事を兼ね、振威将軍・奮武将軍を歴任し、関中平定後に兵権を返上して致仕した。 剛直でしばしば他者と軋轢を生じ、謀叛を誣されたこともあったが曹操の信頼は変わらず、魏国が興されると衛尉とされ、禅譲で安郷侯に進封された。

丁儀  〜220
 沛国の人。字は正礼。文才に富み、父の丁沖と曹操との親交から曹操の婿に擬されたが、眇眼を理由に曹丕に妨げられた為、弟の丁廙とともに曹植の腹心として立太子のために画策した。後に襲爵した曹丕によって処刑された。

丁謐  〜249
 沛国の人。字は彦靖。 父の丁斐が曹操の同郷かつ腹心として寵任されたことから重んじられたが、交際を好まず静学し、狷介なことでしばしば他者と軋轢を生じた。 曹爽にも敬重されて尚書に叙され、該奏することが多かった為に「三狗(何晏・ケ颺・丁謐)の尤」と謗られた。 曹爽の党人として殺された。

ケ颺  〜249 ▲
 南陽の人。字は玄茂。漢の太傅ケ禹の裔。 夙に声名があり、明帝の下で洛陽令・中書郎などを歴任した後に浮華の徒として禁錮されたが、曹爽が執政すると大将軍長史・侍中尚書を歴任し、曹爽の党人として殺された。

畢軌  〜249 ▲
 東平の人。字は昭先。 夙に文学を讃えられ、曹叡の文学に連なって明帝が即位すると黄門郎となり、息子は明帝の婿とされた。 幷州刺史に転じて鮮卑の軻比能にしばしば敗れたが、中護軍蒋済の進言で召還された。 平素より親しかった曹爽が執政となると中護軍・司隷校尉を歴任し、具申の多くが採用され、曹爽の党人として殺された。

李勝  〜249 ▲
 南陽の人。字は公昭。 談論と機略に長け、京師に遊学した際に曹爽とも親しんだが、明帝から浮華の徒として禁錮された。 執政となった曹爽に挙げられて洛陽令となり、征蜀を進言して征西将軍夏侯玄の長史となり、ついで河南尹に進められた。 248年の冬に荊州刺史に叙されたが、赴任前に曹爽の党人として殺された。

桓範  〜249 ▲
 沛の著姓。字は元則。 曹操の丞相府に入り、明帝の下で中領軍・尚書などを歴任して使持節都督青徐諸軍事に至ったが、徐州刺史と邸を争って罷免された。 博学で、廉直を讃えられた半面で剛情狷介で、曹爽の執政下で大司農とされたが、太尉蒋済と些事で反目し、曹爽からも同郡の先達として尊重されつつ敬遠された。 司馬懿が挙兵すると職事への通暁を以て中領軍に擬されたが、天子を重んじて曹爽に投じ、許昌奠都を進言した。曹爽の党人として殺された。

田疇
 右北平無終の人。字は子泰。読書と撃剣を好み、夙に声望があって幽州牧劉虞に従事とされて長安への使者を全うしたが、劉虞が敗死すると塢主となって盧龍の徐無山に隠棲し、5千戸以上が従った。 烏桓・鮮卑とも和し、袁氏には従わず、曹操の北伐に応じて出仕して烏桓討伐を先導した。 終生封爵を固辞し、漢の議郎として歿した。

董昭
 済陰定陶の人。字は公仁。孝廉から令長を歴任して袁紹の幕僚となり、公孫瓚の南下に直面して混乱する鉅鹿・魏郡を平定したが、弟が張邈に従っていることから猜疑されて張楊に依り、安邑に行幸した献帝から議郎とされた。 曹操に許遷都を勧めて198年に河南尹とされ、徐州牧・魏郡太守など新附を経営し、烏桓遠征では運河を開鑿して運糧を支えた。 曹操の魏公封爵を推進し、禅譲で大鴻臚に進み、明帝の下で楽平侯に進封されて司徒に至った。 学問を軽んじて交際や清議に耽る風潮を浮華として糾弾し、諸葛誕ケ颺らが罷免された。

裴潜  〜244
 河東聞喜の著姓。父の裴茂は建安の初めに謁者として李傕討伐を節度した。
 裴潜は戦乱を避けて荊州に依ったが、劉表を危ぶんで長沙に渡り、荊州が接収されると丞相参軍事とされた。 烏桓の横行する代郡太守に転じて理劇の才を讃えられ、典農中郎将・荊州刺史・河南尹・尚書令などを歴任して清陽亭侯に封じられ、死後に太常を追贈された。

繆襲  186〜245
 東海の人。字は煕伯。 祖宗の繆生は申公より『魯詩』を伝えられて楚元王らに尊崇され、儒を家学とした。
 繆襲は曹操に仕え、明帝に信頼されて尚書・光禄勲に至った。軽澹を主流とする正始以来の文学を批判し、嵆康阮籍応璩らとともに名を馳せ、六朝挽歌詩の先駆者とされる。

傅嘏  209〜255
 北地泥陽の人。字は蘭石。傅巽の甥。 司空陳羣の掾とされて九品官人法の制定に参与した。 伝等儒学を重んじて夏侯玄らを浮華の徒と卑しんで交際せず、正始年間に尚書郎・黄門侍郎を歴任したが、曹爽らの秉政を厭って棄官し、司馬懿に与して河南尹・尚書を歴任した。 毌丘倹の乱では王粛と共に司馬師に親征を求めて行尚書僕射として帷幄に加わり、戦後は司馬昭の継承を支持して陽郷侯に進封された。

傅巽  ▲
 北地泥陽の人。字は公悌。漢の傅介子の裔。 公府の辟招に応じた後、中原の戦乱を避けて荊州刺史劉表に依り、博学多芸と知人の才を称され、韓嵩らと共に劉jを説いて曹操に降伏させた。 禅譲で侍中尚書とされ、明帝の太和年間(227〜233)に歿した。

傅幹  175〜
 字は彦材。漢の漢陽太守傅燮の子。 父の死後は馬騰に従い、袁尚との連結を諫めて曹操に与することを勧めた。 やがて曹操に仕えて丞相府の掾属とされ、214年の伐呉では懐柔策を進言したが聴かれなかった。

傅玄  217〜278 ▲
 北地泥陽(甘粛省寧県)の人。字は休奕。傅幹の子。 経学者としての声名から『魏書』の編纂に加わり、司馬昭の参軍としても能名があり、晋が興ると御史中丞・司隷校尉などを歴任したが、剛直かつ峻急で諍うことが多かった為に閣僚には至らなかった。文章と楽府に長じ、漢魏の詩風を重んじた。
 主著の『傅子』120巻は、司馬氏に配慮して曹爽らに対しては批判的で、他に様々な詩歌が採録されている。
北地傅氏は傅介子の裔で、辺地の武門として知られていたようですが、漢魏を通じて伝等儒学を重んじる経学者の家に変容し、何晏に代表される清談派と対立しました。
傅燮の家の本籍地は、『後漢書』(傅燮)・『宋書』(傅亮)では霊州となっていますが、『晋書』(傅玄・傅咸)では泥陽となっています。 漢代の泥陽は甘粛省寧県、霊州は寧夏自治区霊武にあたり、この不統一が気になるところです。 『晋書』が「傅氏だから」との理由で傅玄も泥陽人にしましたか…?

文欽  〜258
 譙郡の人。字は仲若。 曹操麾下の勇士として知られた文稷の子で、魏諷に連坐した際に文稷の功を以て減死に処された。 倨傲の質でしばしば弾劾され、明帝の時には同郷の曹爽に庇護されて廬江太守を安堵されたが、勇将として知られていたために曹爽の粛清では却って前将軍に進められ、東興の役の後に揚州刺史に転じ、夏侯玄らの粛清を機に揚州都督毌丘倹と通謀するようになった。
 255年に毌丘倹とともに造叛して項城に進み、司馬師に敗れると呉に投じて都護・仮節鎮北大将軍・幽州牧とされて孫峻に厚遇されたが、倨傲の質が更まらなかったために呉人に忌まれた。 諸葛誕の造叛への援軍に加わって合肥に入城したが、かねて諸葛誕とは不和であり、糧食の確保を目的に魏人の退去を主張して殺された。

唐咨  ▲
 利城郡の人。225年に郡を挙げて叛き、敗れて呉に投じて持節・左将軍に至った。 諸葛誕の造叛への援軍に加わって擒われたが、赦されて安遠将軍とされ、呉の家族も害されなかった。
利城郡は臧霸らが帰順した際に新設された3郡の1つで、臧霸らの自治区として設定されたようなものです。 臧霸による自治は魏初まで続きましたが、洞浦の役の後に直轄化に転じたようで、利城郡の造叛は直轄化に対する叛抗とする見解もなされています。

龐悳  〜219
 南安狟道の人。字は令明。劉備に仕えた龐柔の従弟。 はじめ馬騰に仕え、袁尚が河東を襲わせた際には馬超に従って郭援を斬り、中郎将・都亭侯とされた。 馬騰が衛尉になった後は馬超に従って共に張魯に依ったが、漢中を平定した曹操に降って立義将軍とされた。
 関羽に通じて背いた宛を平定して樊に進み、関羽を負傷させたことで白馬将軍と畏怖されたが、漢水の氾濫で敗れて擒われ、旧主と従兄の存在を以て降伏を勧められたものの肯んぜずに劉備を罵倒して殺された。

満寵  〜242
 山陽昌邑の人。字は伯寧。 勢族の糾察を認められて兗州を領した曹操に従事とされ、遷都後に許令に転じた。 曹洪の食客の犯罪を看過しなかった事で讃えられ、曹操と袁紹が決裂した際には汝南太守とされて叛抗する諸豪を平定した。 後に曹仁を輔佐して共に関羽の攻囲を凌ぎ、曹丕の襲爵後に伏波将軍とされて新野に進駐し、222年の南征では曹丕の前部督を担い、224年に前将軍に進められた。
 賈逵の死で豫州刺史を兼領したが、翌年に曹休が歿すると都督揚州諸軍事を継ぎ、転赴の際には多数の兵民が歎慕した。 230年に征東将軍に進められ、呉の入冦が連年に及んでいる事から合肥新城を造営して233年に移鎮し、同年と翌年に孫権を撃退して呉の北進策を修正させた。 238年に老齢を以て召還され、斉王の即位で太尉に叙された。

楊阜
 天水冀県の人。字は義山。 刺史の韋康に認められて別駕とされ、張魯と結んだ馬超が来攻すると韋康に従って降ったが、韋康が殺された為に歴城の外兄の姜叙と結んで安定・南安とも密通し、212年に挙兵して冀城を奪回し、夏侯淵の来援を得て馬超を撃退した。 漢中攻略後に武都太守に転じ、吏民に絶大な信頼があって関中への徙民を成功させた。 明帝の下で城門校尉・将作大匠・少府を歴任し、しばしば明帝を諫めて畏敬された。

劉馥  〜208
 沛国相の人。字は元穎。揚州に戦乱を避け、建安の初めに袁術の部将を説いて曹操に帰順させ、司空掾とされた。 廬江の陳蘭らが孫策に呼応して叛くと揚州刺史とされて合肥に入り、陳蘭らを帰順させた後は学校の振興や、灌漑施設の修築による屯田の拡大などで揚州を安定させ、同時に合肥城の防備を著しく強化した。
 曹操の南征に前後して歿したが、赤壁の役に合わせて来攻した孫権が合肥攻略に成功しなかったのは劉馥の功とされ、水利事業も後世にまで利をもたらした。

劉放  〜250
 范陽涿の人。字は子棄。漢の燕剌王の玄孫/西郷侯の裔。 袁紹の死後に曹操に降り、文章を嘉されて司空参軍事・主簿記室を歴任し、魏国が興ると孫資とともに秘書郎とされた。 禅譲で中書監とされて政治の枢機を掌握し、明帝の世に侍中を加えられて方城侯に進封された。
 特に章奏に長じて曹操以来の詔令や諭書の多くを起草し、明帝が不予となると燕王が託孤を辞退した事を機に太尉司馬懿を招くことを強く勧め、曹宇らの排斥に成功した。 斉王が即位すると左光禄大夫に進位して儀同三司が加えられ、245年に驃騎将軍に進んだ後も中書の事を行ない、曹爽の秉政中に骸骨が認められて特進を加えられた。 張華の舅でもあり、後に文才を張華と並称されることもあった。

孫資  〜251 ▲
 太原郡の人。字は彦龍。 太学に学んで王允に高く評価され、賈逵の勧めで出仕して郡功曹となり、計吏として上京した際に荀ケにも絶賛された。 禅譲で中書令とされて劉放とともに枢機を管掌し、正始年間には右光禄大夫・金印紫綬・儀同三司を加えられて衛将軍・中都侯に進んだ。 曹爽の秉政中に老齢を理由に退官して特進が加えられた。

劉曄
 淮南成悳の人。字は子揚。光武帝の子/阜陵質王の裔。 許劭からは王佐の才と評され、漢末の混乱で郷党の領袖に擬されると親交のあった魯粛の奉戴を図ったが、断られて廬江太守劉勲に依り、劉勲に従って曹操に帰順した。
 張魯攻略に際して主簿とされ、禅譲で侍中となり、明帝が即位すると東亭侯に進封されて大鴻臚に至った。

令孤愚  〜249
 字は公治。旧諱は浚。 烏桓校尉田豫の軍事中の些事を弾劾した為に詔獄に下され、勅で“愚”と罵られたことで改名した。 正始年間に曹爽の長史から兗州刺史に転じ、曹爽らが粛清されると外叔の王淩を説いて楚王擁立を首謀した。

盧毓  183〜257
 范陽涿の人。字は子家。漢の尚書盧植の子。 10歳で父を喪い、袁紹と公孫瓚の抗争中に一家を養って学識・品行でも讃えられた。 五官中郎将曹丕に起用されると曹操にも認められ、禅譲後は守令を歴任し、譙への徙民を制限したことで文帝に疎んじられたが、明帝には重んじられて吏部尚書に進められ、品行・性質を重視した選考を行なって諸葛誕ケ颺らは浮華の徒として禁錮された。
 正始の変後に司隷校尉とされ、後に人事を掌ったまま尚書僕射に進み、毌丘倹の乱では都にあって大将軍の事を代行した。 256年に重病となって致仕すると司空を贈られ、容城侯に進封された。

路粋  〜214
 陳留の人。字は文蔚。 蔡邕に師事して夙に文名が高く、建安の初めに尚書郎とされ、曹操に従って陳琳阮瑀らと与に記室を典り、後に秘書令に進んだ。 孔融の弾劾文も識者に嘉称されたが、その譏筆は世に忌まれ、後に刑死した。

△ 補注:三国

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