華覈
呉郡武進の人。字は永先。文章や学識を以て朝廷に連なり、秘府郎・中書丞などを歴任した。
孫皓の下で東観令に右国史を加えられて草稿での上表が認められ、これに遵わなかった後は起草の際に廷臣が派遣され、浄書を待たずに回収された。
諫言や薦挙・訟冤の上書は百通を超え、瑣罪を以て譴責・罷免され、数年後に歿した。
賀斉 〜227
会稽山陰の大姓。字は公苗。
慶氏礼を行なった慶普の裔にあたり、漢の安帝の世に皇父の諱を避けて賀氏と改めた。
家学と理劇の才を讃えられて孫策に挙用され、東冶に逃れた王朗に閩中が呼応すると、会稽南部都尉とされて閩中を平定した。
205年より鄱陽東部の経略に転じ、丹楊南部の山越を平定すると歙・黝県を6県に分割して新設の新都太守とされた。
以後も山越討伐を主な任とし、215年の合肥遠征では徐盛が奪われた旗を奪還し、翌年の鄱陽の山越の乱を陸遜とともに討平して安東将軍・山陰侯とされた。
豪奢を好み、武具戎器も壮麗に修飾し、洞浦の役では後来となって全軍の壊乱を防ぐ標識となり、仮節・後将軍・領徐州牧とされた。
賀邵 227〜275 ▲
字は興伯。賀斉の孫。孫休の下で内外の諸官を歴任し、孫皓の時に中書令・太子太傅とされた。
孫皓の恩倖重用や非礼非法を蜀を譬えに強諫したことで誹謗と枉陥され、このときは宥恕されたが、後に罹病して致仕すると厭朝を疑われて拷殺された。
賀邵の諫言の時期は不明ですが、内容は武昌遷都についての陸凱の諫言と同様で、この時に朋党として挙げられた楼玄は交阯に配流されています。
タイミング的に陸凱の諫言と同時期なら孫皓としては我慢ならなかった筈で、三者に対する処置の差は実家の勢力差を反映したものかもしれません。
賀邵の家族は臨海郡に配流され、楼玄の家族は族滅されました。
楼玄 ▲
沛郡蘄(安徽省宿州市区)の人。字は承先。
孫皓の下で散騎中常侍・会稽太守・大司農などを歴任し、節行を以て宮下鎮・禁中候に転じて禁中の諸事を管掌した。
直言を忌まれ、賀邵の朋党として交阯に流され、蛮賊の討平に従事した。鎮将の張奕の死後、楼玄枉殺の密詔を発見して自殺した。
郭馬
桂林太守脩允の部曲将。脩允は268年の交阯攻略で晋軍に敗死した前部督脩則の子で、陶璜の軍事に随った。
郭馬は脩允の死後に部曲の解体に抵抗して挙兵し、徴税のための戸口調査を忌んでいた兵や民の多くが呼応し、広州督虞授を攻殺して都督交広二州諸軍事・安南将軍と号し、南海・蒼梧・始興に進出した。
朝廷は執金吾滕循を鎮南将軍・仮節領広州牧として東路から、徐陵(京口)督陶濬を西路から進ませ、交州牧陶璜を両軍に呼応させたものの、滕順は始興で拒がれ、陶濬は晋の征呉に遭遇して武昌に留まった。
その間に郭馬は南海太守劉略を敗死させ、広州刺史徐旗を駆逐したが、以後の事績は伝えられていない。
陶濬 ▲
交州牧陶璜の弟。
279年に広州で郭馬が叛くと徐陵(京口)から討伐の西路軍を率いたが、晋の征呉に遭遇して武昌に留まり、鎮南大将軍・荊州牧とされた。
翌年に王渾が建康の対岸に達したために還都し、建業で水帥督とされて節鉞を仮されたが、出征前に兵は壊乱し、4日後に孫皓が王濬に開城した。陶濬の以後の事績は不明。
闞沢 〜243
会稽山陰の人。字は徳潤。
農民でありながら苦学研鑽して諸書に博通し、諸方に遊学して名を知られ、孝廉から令長を歴任した後に孫権の驃騎西曹掾とされた。
孫権が称帝した後に中書令に進み、242年に太子太傅を加えられた。
経伝の煩多を批判して『礼』の経と注を簡約して二宮に教授し、国事や経典に疑義が生じると諮問されることが常だった。
謙恭篤慎で小身に対しても礼接し、他者を誹謗することはなく、虞翻からも行学斉秀として称賛され、呂壹に対して酷刑が議された際にも定法を重んじて反対した。
韓当 〜226
遼西令支の人。字は義公。弓馬に巧みで孫堅に認められ、孫策・孫権にも従った。
鄱陽方面の経略にあたり、赤壁の役の後に南郡奪取に加わって偏将軍とされ、猇亭の役にも加わって威烈将軍に進んだ。
宿将でありながら遵法したことで嘉され、昭武将軍・冠軍太守・石城侯に至って都督を加えられ、敢死軍・解煩軍を率いて丹楊の山越を経略した。
韓綜 〜252 ▲
韓当の嗣子。
父の喪中の孫権の石陽攻略では武昌に留まったが、喪中の淫逸に対する問責を懼れて家族・部曲を挙げて魏の揚州都督曹休に投じ、しばしば呉に寇して憂患となった。
東興の役で戦死し、首は建業にもたらされた。
韓綜の北奔は、当時増加傾向にあった呉人の北奔でもかなりの衝撃があったようです。
翌年に孫権が周魴に佯降を諮り、曹休がそれを信用したのも、韓綜の転向があったからこそでしょう。
甘寧
巴郡臨江の人。字は興覇。遊侠と伊達を好んで水賊の統領となり、鈴を帯びて標識とした。
後に劉表に帰順し、劉表・黄祖の粗遇に憤って孫権に投じると周瑜・呂蒙らの勧めで用いられたが、以後も粗暴は修まらず、孫権の軍令に背くたびに武勇を惜しむ呂蒙の弁護で宥恕された。
赤壁の役の後、益陽で関羽の南下を防いで西陵太守とされ、呂蒙に従った皖の攻略では先鋒と擒将の功で折衝将軍に進み、濡須の役では前部督となって曹操の先鋒を奇襲で撃破した。
215年の合肥攻略が失敗した際には、逍遥津で張遼の追撃を斥けて嘉された。
太史慈・陳武・董襲亡き後は孫呉随一の猛将として、「魏の張遼、呉の甘寧」として孫権に尊重された…と云いたいところですが、どうも第一次濡須の役までは1千以上の兵を率いた様子がなく、皖城攻略や濡須の役で斬込み隊長をさせられたり、濡須の報償が兵力2千の増強だったりと、孫権からは使い潰す気満々な雰囲気が漂ってきます。
甘寧の家人が過失を犯して呂蒙の営に逃げると、甘寧は呂蒙の母の前で家人を殺さないことを誓って返還されながら帰営直後に射殺して、営中で肌脱ぎとなって呂蒙の討伐を待つということがありました。
この時、呂蒙は母の諫めで討ち入りを思い留まり、和解した甘寧は泣いて呂蒙に違約を詫びていますが、この頃の甘寧は自分の将来に絶望して自暴自棄になっていたような観があります。
『三国志』に「孫権は甘寧の死を痛惜した」とありますが、子の甘瓌は何かの罪で会稽南部に流謫されると一切顧みられることなく病死しています。
厳o
彭城の人。字は曼才。夙に研学して五経に通じ、『説文解字』を好んだ。
乱世を避けて江東に遷り、学問と質直純厚なことで歩隲・諸葛瑾と親交して“三君”と讃えられ、張昭の推挙で孫権に仕えた。
魯粛が歿して陸口進駐の後任に推された際、軍事への不案内を以て固辞して更に声望を高め、孫権の称帝で衛尉とされ、蜀に使者となって諸葛亮にも絶賛された。
財物は悉く一族・知人に散じて家に余財を遺さなかった。
顧邵
字は孝則。顧雍の長子。
経書に博通して清議を好み、声望は外叔の陸績と斉しく、孫策の娘が妻された。
27歳で豫章太守となると学問を振興し、人士を挙任して知人の才を称揚されたが、在任5年で病死した。
顧譚 ▲
字は子黙。顧邵の子。
若くして諸葛恪らとともに太子孫登の賓友とされ、後に顧雍が歿すると太常・平尚書事とされた。
二宮の変では嫡庶の別を以て孫権の魯王鍾愛を諫めた為、弟の顧承に連坐して共に交州に流され、2年足らずで42歳で歿した。
顧承 ▲
顧譚の弟。字は子直。
嘉禾年間(232〜237)に陸瑁とともに孫権に辟徴され、諸葛恪の丹楊経略では呉郡西部都尉として協力して8千の山越兵を編成した。
芍陂の役の後は京下督に転じたが、数年後に全氏に誣されて交州に流され、37歳で歿した。
高岱 〜200
呉郡の人。字は孔文。見識に優れ、金銭を軽んじて信義を重んじたので人望が篤かった。
『左氏伝』に精通し、孫策の討論に応じた際、ある者の指摘で孫策の矜持に配慮して謙遜するところがあり、同じ人物が孫策に対し、高岱は議論に値しない相手に謙遜すると誣罔した為に投獄された。
このとき、在地の名士のほか多数の民衆が露天に座って高岱の助命を請い、この人望を憎まれて殺された。
高岱処刑のくだりは『三国志演義』の于吉処刑の場面に酷似しています。
于吉についての最初の記述は晋代の『江表伝』に現れますが、人望を妬まれて孫策に殺された者として高岱の事蹟が于吉に収合され、『捜神記』で神仙于吉像が完成したようにも思えます。
黄蓋
零陵泉陵の人。字は公覆。
郡吏となって公府から辟された事があったが、孫堅の挙兵に応じて別部司馬とされ、その死後は孫策、ついで孫権に従った。
常に山越の強盛な令長に任じられ、厳獅ナありながら畏敬された。
赤壁の役では周瑜に火攻を進言した功で武鋒中郎将とされ、戦後も武陵・長沙の山越平定に従事し、偏将軍を以て病死した。
士壱
士燮の弟。
洛陽に遊学して司徒の丁宮・黄琬に厚遇され、長安の混乱を避けて帰郷して合浦太守とされた。
士燮の死後、呂岱と交誼のあった子の士匡が一族の招降を促した為、士徽が平定されると減死に処されて庶人とされたが、ほどなく枉陥されて殺された。
施但 〜266
呉郡永安(湖州市徳清)の人。武昌遷都の翌年、孫皓の異母弟の永安侯孫謙に逼って奉戴し、烏程の陵墓で孫和の儀仗を奪った後に建康に進み、御史大夫丁固・右将軍諸葛靚に討平された。孫謙は丁固に収容された後に自殺した。
永安県は呉が烏程・餘杭県から分立した新県。又たこの事件を機に、呉郡の烏程・餘杭・永安・陽羨、丹楊郡の故鄣などを以て呉興郡が新設された。
施但の行動に対して、『三国志』は「賊」・「聚衆数千人」としつつ、「為乱」とは表現していません。
これは叛乱行為に対しては稀有なことで、孫皓の治世を完全否定するための筆術かとも考えられますが、道中で県を陥したりの記述がなく、今日のデモ行進だったんじゃないかとも思われます。
『漢晋春秋』を引き出すのは気が進みませんが、万余の集団に対して官軍が「数百人で鼓を乱打して建業に入城し、施但の妻子を殺した」というのも、「デモっていたら戦車が突ってきました」なイメージがカブります。
謝厷
会稽郡の人。謝淵の弟。
兄と共に孫権に興利改作を奨め、経済改革を推進した。
又た丞相の顧雍が呂壹に枉陥された際には、顧雍の後任となるのが呂壹を非難してやまない潘濬である事を指摘して顧雍の件を不問にさせたと伝えられる。
『呉書』『江表伝』には謝宏という人物がいます。孫権が公孫淵に裏切られた後、高句麗への使者となって臣従を誓わせ、246年には大銭の流通を提言しています。字面だけでなく流通重視の経済官僚なので、或いは両者は同一人物かもしれません。
謝承
会稽山陰の人。字は偉平。漢の尚書郎謝煚の子。孫権の謝夫人の弟。
五官中郎将・長沙東部都尉・武陵太守などを歴任し、『後漢書』130巻を著した。
謝夫人 ▲
孫権の夫人。後に徐夫人を正妃と認めることを拒んで疎まれ、早逝した。
孫覇の母の謝姫と同一人物と見做されることがありますが、孫覇の偏愛されっぷりを見るに生母は若い筈で、初期組の謝夫人とは別の謝氏と考えるのが妥当なようです。
朱桓 177〜238
呉郡呉の大姓。字は休穆。孫権の将軍府に出仕し、後に呉会で万余の部曲を組織した。
丹楊・鄱陽の山越を討平し、後に周泰を継いで濡須督とされ、222年の魏の南征では大司馬曹仁を曹仁を撃退し、奮武将軍・領彭城相・嘉興侯とされた。
石亭の役では全jと並んで左右督として陸遜の節度を受け、曹休を撃退した。
229年に仮節・前将軍・領青州牧に進み、237年に廬江主簿の佯降に応じて出兵した際は、攻城前に佯降が露見して帰帥の殿軍となり、太守は朱桓の旗幟が殿軍にあることを遠望すると、畏れて渡渉の半ばを襲う事を断念した。
性は激烈で余人に節度される事を甚だ嫌い、廬江佯降の帰途に都督の衛将軍全jと帰路の作戦で諍った際には諫めた側近を殺し、監軍の胡jの殺害を図ったとして狂発として軍権を解かれたことがあった。
平素は磊落で義を重んじ、俸禄は悉く一門に散じ、又た記憶に秀でて部曲の家族の顔も識知し、病臥した際には兵営悉くが憂寂した。
朱異 〜257 ▲
字は季文。朱桓の嗣子。朱拠の従子。
朱桓が狂疾の間は騎都尉として濡須の営を督し、後に朱然の襄樊攻略や廬江攻略に従った。
252年に鎮南将軍に進み、東興の役では浮橋を落して魏を大破する契機を為した。
諸葛誕の受降では仮節・大都督とされて虎林(安徽省池州市区?)より進み、夏口督の孫壹を伐った後に前部督とされて丁奉と共に北上したが、寿春の包囲を崩せずに後退し、三度目の出撃を拒んだことで孫綝に殺された。
朱拠 194?〜250?
呉郡呉の大姓。字は子範。
姿貌と膂力に秀でて議論にも長け、呂蒙の後継を期待されて湖孰に駐し、建業遷都を機に公主(魯育)を降嫁されて左将軍に進められ、雲陽侯に封じられた。
呂壹に横領を誣告されて投獄され、半年後に典軍吏の訟冤で赦免されたが、朱拠すら枉陥を免れなかった事で孫権は漸く呂壹に対する追求を始めたとされる。
246年に驃騎将軍に進んだが、二宮の変では太子廃黜を強諫して廷杖百が加えられ、新都郡丞に遷される途上で中書令孫弘の讒言で自殺が命じられた。
孫亮が即位すると朱熊・朱損の2子が部曲を嗣ぎ、ともに朱公主を枉陥したとの全公主の讒言で殺されたが、娘婿の孫休が即位したことで朱熊の子の朱宣が雲陽侯を襲ぎ、孫皓の時代に驃騎将軍に至った。
朱熊は虎林督、朱損は孫峻の妹婿ですから明らかに孫峻派ですし、孫峻に殺された朱公主の実子ではないようです。
全公主の讒言がそれほど疑問視されなかったのは、朱公主との不和が肯定される下地があったということでしょう。
朱公主 ▲
諱は魯育、字は小虎。全公主の実妹。
朱拠に嫁し、二宮の変では孫覇の寵遇に反対して全公主と反目し、朱拠が殺された後は劉纂に再嫁したが、孫儀による孫峻暗殺未遂に同謀したと全公主に誣されて殺された。
朱皇后 〜257 ▲
朱拠と朱公主の娘。
赤烏の末に孫休の妃とされ、虎林に随った。
孫休が立てられると皇后とされ、孫休の死後に継嗣の事を諮られると丞相濮陽興・左将軍張布に一任し、迎立された孫皓から皇太后とされたが、まもなく景皇后に貶されて安定宮に徙された。
朱治 156〜224
丹楊故鄣の人。字は君理。
州郡の吏となった後に孫堅の征伐に従い、荊南の討平で長沙都尉とされ、董卓討伐の後は別軍となって徐州牧陶謙を支援した。
孫堅の死後は孫策を輔けて江東経略を勧め、孫策の家族を曲阿から招いて劉繇から庇護し、呉郡太守許貢を大破して孫策の会稽攻略を側面から支援した。
孫策の死後は張昭らとともに孫権を輔け、202年に呉郡太守・扶義将軍に叙されて婁・由拳・無錫・毗陵を奉邑とされ、孫権の称王で毗陵侯に封じられ、翌年には安国将軍を加えられて故鄣侯に転封された。
15歳の孫権を孝廉に推挙した故将でもあることから特に畏敬され、郡の文書行政は督軍と御史に担当させて朱治には奉邑の租税を自由に扱わせ、呉郡の府署には宗室や四姓の多くが出仕した。
後に郷里を恋い、山越鎮撫を称して故鄣に屯すること1年で呉郡に戻り、太守のまま歿した。
嗣子の朱才が襲爵し、その弟の朱紀は孫策の娘を降嫁された。
孫策の自立を推進した謀首的な存在で、加えて呉将の任地と管区と封爵の関係をよく示しているので、少〜しだけ詳しくしました。
一応、正史に従って「朱治が徐州牧陶謙を支援した」と書きましたが、どうなんでしょう?
二人は同郡人ですし、朱儁同盟を考えれば袁術が陶謙を援けるのは妥当です。
ですが、“徐州牧”が正しければ董卓の死後となり、陶謙が自立を模索している時期です
(例えば、陶謙は曹操に襲われた際、袁術ではなく公孫瓚に求援しています)。
陶謙に対する軍事行動と解釈できなくもありませんし、陶謙が孫策を迫害しようとした理由としても頷けます。
朱然 182〜249 ▲
字は義封。本姓は施。朱治の外甥。13歳で朱治の養子とされた。
孫権とは同齢として親交・信頼があり、朱然のために一郡が設けられた事もあり、荊州攻略では潘璋に従って関羽を追討した。
呂蒙に後任に挙げられて江陵に駐し、猇亭の役では蜀軍の先鋒を大破して征北将軍とされ、劉備を撃退した後は魏の南征を警戒して劉備の追討を否定し、そのため冬に魏兵が来攻した際も江陵を陥されず、魏でも名将として認識された。
孫権の称帝で車騎将軍・右護軍・領兗州牧となり、234年の北伐では全jとともに孫権の左右督とされた。
明朗豪胆で、軍器に装飾を用いたほかは質倹で、平素から兵の調練には実戦に擬して軍鼓を用いたと伝えられる。
諸葛瑾・歩隲の死後はその嗣子を統督し、陸遜の死後は唯一の宿将として孫権に甚だ厚遇され、246年には左大司馬・右軍師とされた。
後に朱治が嗣子を得た事から、朱治の喪が明けると施姓への回帰を求めたが、孫権には認められなかった。
朱然の墓は1984.06.07に安徽省馬鞍山市で出土し、木簡に“持節右軍師左大司馬当陽侯朱然再拝”とあったことで朱然墓と確認されました。
盗掘済みではありましたが、生活用品を中心とした副葬品が多く遺され、漆器や陶器は当時の絵画・造形資料として重視されているそうで、脇息や下駄が出土したことは、椅子が普及していなかった事を証明しています。
又た“謁”“刺”の二種の名刺が出土したことで、「西漢の謁が東漢で刺となった」との趙翼の定義が否定され、“謁”は公式の、“刺”は半ば私的なものと判断されました。
周循
周瑜の子。
周瑜の遺風を称され、孫権の娘/魯班を娶って騎都尉とされたが、早逝した。
周胤 ▲
周循の弟。孫氏を娶って公安に進駐したが、後に酒色に溺れたとして廬陵郡に流された。
諸葛瑾・歩隲・朱然・全jらがしばしば赦免を求めたが、実現前に病死した。
周峻 ▲
周瑜の甥。
偏将軍として部曲1千人を率いたが、その死後は子の周護の不行跡を理由に世襲が認められなかった。
周泰
九江下蔡の人。字は幼平。
蒋欽とともに孫策に投じ、江東で求められて孫権に仕えた。
山越討伐の最中に宣城で襲撃されると身を挺して孫権を護り、12瘡を負って重篤となり、孫策に忠烈を嘉されて春穀県長とされた。
黄祖討伐や赤壁の役、江陵の曹仁攻略にも加わり、213年の濡須の役の後は平虜将軍・濡須督とされた。
当時、督下の朱然・徐盛らは周泰の門地を卑しんで統制に従わず、そのため孫権は宴席で周泰の瘡の由来を逐次語らせて信頼を示し、これより違背する軍将はいなくなった。後に奮威将軍とされ、黄武年間(222〜229)に歿した。
周魴
呉郡陽羨の著姓。字は子魚。夙に好学で孝廉から令長を歴任し、銭塘や鄱陽を経略して鄱陽太守とされた。
228年に蜀の北伐(街亭の役)に連動する際に、魏への投降者が絶えない状況を利用して揚州牧曹休への佯降が諮られると自薦して曹休に南征を行なわせ、石亭の役では陸遜に従った。
周魴の投降に対して曹休は半信半疑だったが、孫権からの問責使に周魴が剃髪して謝罪したことを知って信用したという。
以後も鄱陽太守として山越討平の手腕は高く評価され、在任のまま歿した。
徐琨
呉郡富春の人。母は孫堅の妹。
孫堅の軍事に従って偏将軍となり、その死後は孫策に従い、揚州経略の緒戦で渡江場の確保に大功があった。
廬江平定にも功があり、後に平虜将軍・広徳侯とされ、黄祖討伐で戦死した。
『江表伝』では、袁術が任じた丹楊太守の袁胤を撃破して丹楊太守とされたが、丹楊での呉景の信望と、徐琨が大兵を擁していることを勘案した孫策によって更迭されたとあります。
徐夫人 ▲
呉郡富春の人。徐琨の娘。
陸尚の死後に孫権に再嫁し、孫登の養母としても重んじられたが、武昌に遷る際に妬忌を理由に正妃を廃され、孫登が太子とされた後も皇后には立てられなかった。
徐盛
琅邪莒の人。字は文嚮。
呉郡に戦乱を避けた後に胆力と義侠で知られ、江東の統領となった孫権に仕えると柴桑県長として武名を挙げた。
濡須の役では乗船した蒙衝が北岸に流されると諸将に率先して下船し、曹操の兵を駆逐してから帰還を果たして勇略を称賛された。
孫権が魏に称藩すると建武将軍・領廬江太守とされ、猇亭の役でも功があり、洞浦の役では残兵を糾合して全軍の壊乱を防ぎ、安東将軍・蕪湖侯とされた。
後に魏文帝が親征すると、江岸に疑城を連ねて渡江を断念させた。黄武年間(222〜229)に歿した。
蒋欽 〜219
九江寿春の人。字は公奕。
江淮で孫策に仕えて各地の征伐に従軍し、会稽西部都尉とされて山越を討平して2県を奉邑とされ、ついで賀斉の新都経略を支援した。
合肥の役では呂蒙とともに孫権を張遼より救って盪冦将軍・濡須督とされた。
嘗て豫章経略中に蕪湖令の徐盛が営吏を罰したことがあったが、以後も徐盛を称揚したことで公明を讃えられ、右護軍に転じて訴訟の事を典領した。
関羽攻略の軍中で病死した。
諸葛融 〜253
字は叔長。諸葛恪の弟。
父の諸葛瑾の死後、諸葛恪が既に封爵されていたために嗣子となり、公安に駐して朱然の督下に置かれた。
調度は綺羅を尽くして遊戯や宴游を好んだが、卒吏・幕僚を慰撫して敬慕された。
魏の王昶に伐たれた江陵の施績を支援しなかった事では諸葛恪に対する配慮から不問とされ、諸葛恪が執政すると奮威将軍に進み、北伐では仮節とされて漢水を上る別軍を率いた。
諸葛恪が誅されて諸将に伐たれると、狼狽の末に自殺した。
薛瑩 〜282
字は道言。薛綜の子。
学識と文才を知られ、孫亮の下で秘書中郎将に進んで韋昭・華覈らと国史編纂を進め、孫皓の下で選曹尚書・太子少傅に進んだ。
何定の建議になる運河の開削に失敗して広州に流されたが、右国史の華覈の擁護で左国史とされ、『呉書』編纂を再開した。
後に光禄勲に進み、孫皓が晋に降伏する際の降文を起草し、晋では散騎中常侍とされた。
薛綜 〜243 ▲
沛郡竹邑の人。字は敬文。
夙に弁辞と文藻を讃えられ、戦乱を交州に避けた後に士燮の称藩に伴って孫権に仕えた。
合浦・交阯の太守を歴任して呂岱の交州遠征にも従い、231年より孫慮の鎮軍長史となり、孫慮の死後は尚書官を歴任して240年に選曹尚書とされ、孫和が太子に立てられると太子少傅を加えられた。
全柔
霊帝の時に孝廉から尚書右丞となり、董卓の秉政で棄官したが、後に州府に辟されて別駕従事となり、会稽東部都尉に転じた。
江東に渡った孫策に従って丹陽都尉とされ、孫権の車騎長史を経て桂陽太守に進んだ。
全j 〜249 ▲
呉郡銭塘の著姓。字は子璜。全柔の子。
呉会に亡命した中原の人士を庇護して声望が高く、山越討伐で大兵を擁した。
洞浦の役では中洲を守って勇名を挙げ、綏南将軍・銭唐侯とされ、225年には節を仮されて九江太守に進んだ。
石亭の役の後、三郡(丹楊・呉郡・会稽)の山越討平のために特に東安郡を新設され、廃郡後に再び牛渚に駐した。
孫権の称帝で衛将軍・左護軍・徐州牧とされて公主(魯班)が降嫁され、246年に右軍司馬・左軍師に進んだ。
若くして驍果を讃えられたが、督将となった後は軽挙を慎んで万全に備え、又た大節を重んじて厳辞を口にすることがなく、恭謙によって孫権に信任された。
次子の全寄は、二宮の変で魯王孫覇の腹心となって誅された。
全j伝を読んだ限りではワリと人格者なのでうっかり騙されかけましたが、この人、朱桓を発狂させた張本人だったりします。
237年の廬江攻略に失敗した帰途の事、戦果を求めて予定外の攻略戦を主張する全jと撤退を主張する朱桓が対立しましたが、このとき全jは監軍の胡綜に責任をなすりつけています。
つまり、胡綜が勅命として作戦変更を云ってきた、と。
副帥の朱桓相手に、これはどうしたってバレる嘘です。で、朱桓は全jが言い訳できないように確認しようと胡綜を呼び出したところ、日頃の行いがアレなんで、変に気を遣った側近が胡綜を朱桓に会わせず、これで激怒った朱桓による側近の斬殺になるんですが、この時の全jの応対はどうしたってダメです。ダメダメです。
上司にしたくないランキング上位入賞間違いなし。政治的野心がどれほどあったのかは不明ですが、人格面では結構アレな部類でした。
全懌 ▲
全jの嗣子。
兄の全緒の死後は牛渚(馬鞍山市区)の部曲も嗣ぎ、魏の諸葛誕の造叛を支援するために文欽・全端・唐咨らと寿春に入城したが、全緒の子の全禕・全儀が母を伴って魏に奔ったことで孫綝による族滅が喧伝され、全端と共に魏に降って平東将軍・臨湘侯とされた。
全公主
諱は魯班、字は大虎。孫権と歩夫人の娘。
はじめ周循、ついで全jに嫁した。
孫和の生母の王夫人との不和から、二宮の変では孫権が寵愛する魯王を支持してしばしば孫和らを誣し、そのため長幼の順を重んじる実妹の朱公主とも不和となった。
孫権の死後は孫峻と密通して朱公主を枉陥し、後に孫亮が朱公主の死因を追及すると朱拠の子の朱熊・朱損を誣告者だとして両者を殺させたが、この件で孫亮と孫綝との関係をさらに悪化させた。
諸葛誕救援で族勢が著しく退潮した後、孫亮とともに孫綝粛清を謀ったものの失敗し、孫亮の廃黜に伴い豫章に流された。
『三国志』屈指、と云うか恐らく随一の悪女とされています。一身の権勢の為に嫡庶を乱し、実妹と義甥を殺した、と。
ただ、朱熊兄弟は孫綝派と見做せる状況なので、孫綝削権の手始めとして両甥を排除したと見做せます。
『三國志』呉志の底本となった『呉書』が編纂された孫休・孫皓の時代は、全公主被害者の会の朱公主や孫和の子の時代で、殊に孫皓は孫和や王夫人の名誉回復に躍起となって国史編纂にも容喙している程で、こうした時代背景も全公主が悪女として描かれた一因なのでしょう。
王夫人 ▲
琅邪の人。
孫和を産んだことで歩夫人に次ぐ寵を得、そのため全公主との不和を生じて皇后には立てられず、孫権の晩年には讒言から疎まれて憂死した。
後に孫の孫皓が即位すると大懿皇后と追尊された。
全皇后
全尚の娘。
従祖母の全公主に愛され、全公主の薦めで孫亮の夫人とされ、孫亮が即位して皇后とされた。
孫亮が廃されると候官徙住に随い、一族は零陵に徙された。
全尚 〜258 ▲
全jの甥。
孫綝の姉を娶り、娘が孫亮の皇后とされたことで太常・衛将軍・録尚書事・永平侯に累進し、一族で禁軍を典領した。
孫亮の孫綝粛清に参謀して実娘の密告で露見し、零陵に流された後に殺された。
孫秀
字は彦才。長水校尉孫泰(〜234)の子。孫権の弟/孫匡と曹操の姪との孫。
前将軍・夏口督に進んだが、孫皓に造叛を警戒されて捕縛の兵が動かされた為に270年に晋に投じ、驃騎将軍・儀同三司・会稽公とされた。
平呉で開府のまま伏波将軍に貶されたが、死後に驃騎将軍が贈られた。
孫静
字は幼台。孫堅の末弟。孫堅が郡を離れた後は郷里を守り、孫堅の死後は孫策の会稽攻略を援け、正面突破に拘って苦戦する孫策に迂回策を採らせて王朗を破った。その後も叙任を辞退して帰郷したが、孫権の時に出仕して中郎将とされた。
袁術の将軍となった孫堅が家族を預けなかったり、孫堅の死後も孫賁・孫策が孫静を頼らなかったりと、どうも兄弟不和が予想されます。
孫策を呉郡に還さなかったのは、危機管理としての血縁の分散という発想も可能ですが。
因みに孫静の家は257年まで夏口の守備隊をほぼ世襲し、又た孫峻と孫綝はどちらも孫静の曾孫です。
孫皎 〜219 ▲
字は叔朗。孫静の子、濡須督孫瑜の弟。
しばしば濡須で曹操軍と交戦して勇名を馳せ、都護・征虜将軍に進み、程普に替って督夏口とされた。
黄蓋・孫瑜の死後はその部曲を併せ、沙羨・南新市・雲杜・竟陵を奉邑として経営したが、半ば軍閥化して孫権の意に忤うことがしばしばあった。
はじめ江陵攻略の際に呂蒙とは左右督に擬されたが、呂蒙が二虎共食の譬えを挙げたことで後軍督となり、荊州平定に功があった。
子の孫咨は羽林督、その弟の孫儀は無難督に進んだが、孫儀は孫峻暗殺を謀って255年に殺され、孫咨は孫綝に叛抗した滕胤に殺された。
孫皎の後は弟の孫奐が江夏太守として部曲を継ぎ、234年に歿して嗣子の孫承が継いだ。
孫壹 〜259 ▲
孫奐の子、孫承の庶弟。孫皎の孫。
243年に孫承が歿して部曲を継ぎ、諸葛恪粛清に与して夏口督に仮節・鎮軍将軍を加えられた。
妹婿の滕胤・呂拠が殺された翌年の諸葛誕救援に際し、孫綝の先鋒の朱異に伐たれて魏に投じ、車騎将軍・儀同三司・呉侯とされて曹芳に邢貴人を降嫁されたが、貴人による酷使を恨む奴婢に殺された。
孫賁
字は伯陽。孫堅の同母弟/孫羌の子。
長沙で挙兵した孫堅に従い、孫堅が歿すると部曲を領して寿春の袁術に従い、袁紹の任じた九江太守周昂を追って豫州刺史とされた。
ほどなく丹楊都尉・征虜将軍に転じたが、揚州刺史劉繇を避けて歴陽に退き、呉景・孫策とともに劉繇を駆逐した。
袁術が僭称すると孫策に投じ(何故か妻子は寿春に残している)、劉繇が歿して豫章太守とされた。
嗣子の孫鄰は後に夏口・沔中督に進んで威遠将軍を加えられ、249年に歿した。
孫河 〜204
呉郡呉の人。本姓は兪。字は伯海。兪氏の養子になっていた孫堅の族子とも伝えられる。
孫堅の征旅では常に先鋒となり、孫堅の死後は呂範と並ぶ孫策の股肱として孫姓を下賜され、後に将軍となって京城(京口)に駐し、曲阿・丹徒の経営が認められた。
孫翊を殺した辺鴻と親交のあった丹楊都尉の嬀覧・郡丞の戴員を追求したために、揚州刺史劉馥の奉迎を謀る両者に殺された。
孫韶 188〜241 ▲
孫河の甥。
若冠で孫河の部曲を継いで京城(京口)に駐し、北防の構築に成果を挙げて魏の内情にも深く通じ、225年には広陵から帰還する曹丕を襲って副車・羽蓋を奪った。
隣接する州郡からの帰降者も多く、孫権の称帝で鎮北将軍に進んだが、建業奠都までの十年間は朝覲することがなかった。後に仮節・領幽州牧が加えられた。
孫楷 ▲
孫韶の子。孫韶の死後に武衛大将軍に叙されて京下督(京口)を継ぎ、276年に驃騎将軍に叙されて召還されたが、粛清を猜疑して晋に投じて車騎将軍・丹楊侯とされ、平呉で度遼将軍に貶された。
孫翊 184〜204
字は叔弼。孫権の弟。驍勇果断で、孫策の風を称されて一時は後継に擬されたこともあった。
203年に偏将軍・丹楊太守とされ、嬀覧・戴員ら故の呉郡太守盛憲と交誼のあった著姓の多くを挙用したが、近侍する辺鴻に殺された。
盛憲 〜204? ▲
呉会の人。字は考章。
孝廉から呉郡太守に累遷し、許貢に呉郡を簒奪された際には故挙の高岱の嘆願で助命された。
孫策への協力を拒み、親交のあった孔融の薦挙で曹操に辟招されたが、応じる前に孫権に殺された。
孫登 209〜241
字は子高。孫権の長子。生母が卑賤だったために徐夫人に養育された。
称王した孫権に太子とされ、諸葛恪・張休・顧譚・陳表らが賓友に選ばれて近侍し、建業奠都後も武昌に留まって陸遜に後見された。33歳で病死した。
遺児の孫英は呉侯に封じられたが、孫峻暗殺の謀議に与したとして254年に殺された。
孫慮 213〜232
字は子智。孫権の次子。潘濬の婿。
夙に聡明だったために孫権に将来を嘱望され、230年には封王の議こそ孫権に聴かれなかったものの鎮軍大将軍とされて開府が認められ、半州(江西省安義)に駐した。
陸遜に闘鴨への傾倒を諫められることはあったが、法を遵守して進言を尊重し、治績を挙げた。その早逝は孫権を非常に嘆かせた。
孫和 224〜253
字は子孝。
王夫人の子。好学好士として知られ、兄の孫登が歿した翌年(242)に太子に立てられて闞沢が太傅となった。
孫権が弟の孫覇を偏愛したことで二宮の変を生じ、幽閉の後に太子を廃されて故鄣に徙された。
252年に孫権が重篤となると南陽王とされて長沙に徙されたが、戚族の諸葛恪との通謀を誣されて殺された
(妃の父/張承の後妻が諸葛恪の姉妹にあたる)。
孫亮が廃されると孫皓ら諸子は封侯されて就国が認められ、孫皓が即位すると文皇帝と追諡された。
何姫 ▲
丹楊句容の人。孫皓の生母。
孫権に容色を認められて孫和の妃とされ、孫和に随って新都郡に徙住し、孫皓が即位すると昭献皇太后とされた。
孫皓の末期には一族の驕横は怨嗟の的となり、「孫皓は死して久しく、位にあるのは何氏の子」と称された。
孫覇 〜250
字は子威。孫和の弟。
孫和が太子とされると魯王とされたが、他に封王された兄弟は無く、孫権からは孫和に斉しい待遇が与えられたために太子派と魯王派の対立を惹起した。
赤烏13年(250)に自殺が命じられ、腹心の全寄・呉安・孫奇・楊竺らも誅された。
2子の孫基・孫壱は赦されて封侯されたが、孫皓が即位すると祖母の謝姫と共に烏傷(浙江省義烏)に徙された。
孫慮 〜256
孫憲とも。孫峻の従弟。
諸葛恪粛清に参与して右将軍・無難督に進み、中央の九官を統轄した。
呂拠が叛くと丁奉らと共に江都を抑え、呂拠を挫いて自殺させたが、孫綝の待遇を不満とし、謀叛が露見して自殺した。
劉承 〜258 ▲
諸葛恪が粛清されると、逃亡した長水校尉諸葛竦(諸葛恪の子)を追討して斬り、騎督から将軍に進められた。
後に孫亮の孫綝粛清に参謀して殺された。滕胤を平定した劉丞と同一人物と思われる。
孫邵 163〜225
北海郡の人。字は長緒。
孔融に認められて功曹とされた後、揚州刺史となった劉繇に従って江東に渡り、後に孫権に仕えて廬江太守・車騎長史を歴任した。
孫権の称王に伴って張昭を措いて丞相とされたが、張温・曁艶らから節行を伴わない非任と弾劾された。
呉の初代丞相でありながら『三国志』には伝が立てられておらず、裴松之は、呉書の底本となった『呉書』を著した韋昭が、張温の党与だった為としている。
孫弘 〜252
会稽郡の人。“陰険””狡猾”と評される。
二宮の対立に乗じ、かねて不和だった張休を追訴して賜死に処し、孫和の廃黜に反対した驃騎将軍朱拠が新都丞に出されると、偽勅を用いて自殺させた。
不予となった孫権に諸葛恪・孫峻・滕胤・呂拠らと共に後事を託されたが、諸葛恪の排斥を謀って諸葛恪・孫峻に粛清された。
張温 193〜230
呉郡呉の大姓。字は恵恕。孫権の東曹掾張允の子。風采と節行を以て夙に知られ、顧雍からは全jに優る呉中随一の人材と絶賛され、張昭からも将来を特に嘱望された。
選曹尚書・太子大傅などを歴任し、224年に蜀への修好使となって秦宓との討論で讃えられたが、帰国後は蜀を賞賛したことで孫権に厭われ、豫章での山越経略に失敗した後、曁艶に連坐して収捕されたまま病死した。 ➤
曁艶 〜224 ▲
呉郡の人。字は子休。狷介不羈で人物評を好み、張温の下で考課の制を案出した。
選曹尚書に進むと品行・性質を重視した考課を厳密に行なって百官の多くを降貶したために譏議が連なり、人事の恣断と追及されて自殺した。
曁艶の考課は魏で盧毓が実施したものと同様の趣旨です。
既に清議が主潮となっていた中原でも明帝の世にようやく実施できたもので、その際にも才能をスポイルする事がないよう盧毓自身が言及しています。
張紘 152?〜211?
広陵の人。字は子綱。
京師に遊学した後は公府の辟徴に応じず、戦乱を避けて江東に遷って孫策に敬重され、計策と文学を以て張昭とは“二張”と称された。
199年に許に使して侍御史とされて留められ、孫策が歿すると曹操に孫家との和親を勧め、会稽東部都尉に叙されて復命が認められた。
後に孫権に長史とされ、しばしば征旅での孫権の軽挙を諫め、秣陵への移鎮を勧めて嘉納されたが、移鎮の完了前に病死した。
張承 178〜244
字は仲嗣。張昭の長子。
夙に品行・学識と才幹を知られて諸葛瑾・歩隲・厳oらと親交し、後に父と孫権の奨めで諸葛瑾の婿となり、娘は太子孫和の妃とされた。
孫権の驃騎西曹掾とされて人事を典領し、ついで武陵蛮討伐に成功して部曲を編成し、234年の合肥攻略の後に濡須都督・奮威将軍に転じた。夙に諸葛恪の才気の過剰を憂慮していたと伝えられ、嗣子の張震は諸葛恪と共に殺された。
張休 ▲
字は叔嗣。張昭の嗣子。諸葛恪・顧譚らとともに太子孫登の賓友とされ、文才を讃えられた。
孫登の死後は侍中・羽林都尉として中軍を率い、241年の芍陂の役では顧承とともに尤功とされたが、全氏に戦功詐称と枉陥され、流謫の直前に追訴があって賜死に処された。
張悌 〜280
襄陽郡の人。字は巨先。
279年に軍師から丞相に進み、晋の征呉に応じて副軍師諸葛靚・丹楊太守沈瑩らと北渡して王渾に敗死した。
渡江前に牛渚で長江を盾とする沈瑩の勧めを聴かず、又た諸葛靚の諫めを聴かずに北岸の楊荷橋を守る屯兵の降伏を許し、晋軍との交戦中にこの屯兵の蜂起で軍の統制を失った。
沈瑩 〜280 ▲
丹楊太守の時に晋の征呉に遭い、丞相張悌の出征に従った。
強兵で知られる丹楊兵から選抜した“青巾兵”5千人は屈指の精鋭として知られたが、晋軍の先鋒に勝つことができず、降兵の離叛で張悌とともに敗死した。
諸葛靚 ▲
字は仲思。諸葛誕の末子。
諸葛誕が呉に求援した際に質子とされ、諸官を歴任して右将軍に進み、266年に左御史大夫丁固とともに施但の乱を平定した。
司馬炎とは旧知だったが、建業が陥された後は仕官を固辞して隠棲した。
洛陽の方向を向くことはなかったとも伝えられるが、子の諸葛恢は洛陽に出仕して才名を謳われ、晋室の南遷に随って成帝の時に尚書令に至った。
程普
右北平土垠の人。字は徳謀。
州郡の吏となった後に孫堅に従って黄巾軍や董卓を伐ち、孫堅の死後は孫策に従って盪冦中郎将に進んだ。
孫策の死後は張昭と共に孫権を輔けて三郡(会稽・呉・丹楊)を鎮定し、荊州を接収した曹操との対決が決せられると周瑜とともに左右督となって赤壁で曹操を撃退し、ついで南郡から曹仁を退去させて裨将軍・江夏太守とされ、沙羨に駐した。
孫堅以来の譜代として周瑜には隔意があったが、赤壁の役に際しては諸将を統禦して能く周瑜を輔け、周瑜が歿すると南郡太守を領し、荊南が劉備に割譲されると江夏太守に転じて盪冦将軍に進められた。
程普の歿年は、孫皎が後任の夏口督となっている事、その後に黄蓋・孫瑜が歿している事から、213〜215年に比定することが通常です。
ですが、229年に歩隲が孫登の諮問に応えた文書では、孫登を支えうる在荊州の人物として諸葛瑾・陸遜・朱然・潘濬らと並んで程普の名が挙げられています。
歩隲が挙げた11人全員を追跡することはできませんが、韋昭が勢いで書いてしまった可能性を除けば故人を挙げるとは考えにくく、歿年すら記さない程普伝を最大限活用すれば、死以外で現役引退していたと考える事も出来ます。
丁固 198〜273
字は子賤。会稽山陰の人。旧諱は密。
滕皇后の父/滕密に避諱して改名し、滕密も又た滕牧と改めた。
夙に虞翻・闞沢らに絶賛され、刑理や山越討伐で名を顕し、262年に左御史大夫に進み、268年には司徒に至った。
陸凱や孟宗らと共に国を憂え、陸機の『弁亡論』では末期の呉を支えた一人に挙げられた。
266年末に大将軍丁奉・左丞相陸凱らと謀叛したともされるが、実態は不明。
呉は基本的に丞相・大司馬or大将軍・太常が三公相当です。
司徒や太尉や御史大夫などは末期まで滅多に出てこず、実権のほども分りません。
孟宗 〜271 ▲
江夏の人。字は恭武。孫皓が即位すると避字して孟仁と改名した。
好学の孝子として知られ、呉令のときに母が歿すると禁を犯して棄官して服喪し、陸遜の擁護で減死に処された。
孫亮の廃黜にも連なって262年に光禄勲から右御史大夫に進み、268年には司空に転じた。
厳冬の中で母の好物の筍を得るため、竹林で哀嘆したところ筍が生じたという逸話によって“二十四孝”に数えられ、又た孟宗竹の語源となった。
驃騎将軍朱拠の下で塩池司馬となった時、漁で得た魚の漬物を母に贈ったところ、横領の嫌疑の危険を窘められて送り返されたりしています。
まぁ、実話なのか孝子を強調するための創話なのかは分りませんが、服喪の件といい、当時の呉の私権と公権のバランスが看て取れます。
丁奉 〜271
廬江安豊の人。字は承淵。
勇猛を嘉されて甘寧・陸遜・潘璋らの征旅に従い、常に抜群の功を挙げて、孫亮が即位すると冠軍将軍に進んだ。
東興の役では徐塘から急進して東興堤に先登し、魏軍壊乱の端緒を為して滅冦将軍に進み、文欽を受降する際に虎威将軍とされ、追兵を撃退して安豊侯に進封された。
諸葛誕救援での先登の功を以て左将軍とされ、孫綝誅殺に参与して大将軍に進められて左右都護を加えられた。
孫皓策定に列して右大司馬・左軍師に進み、268年には離間によって合肥の石苞を更迭させたが、翌年の穀陽攻略は成功せず、死後に讒言があって穀陽攻略の失敗を以て家族が臨川に徙された。
滕胤 〜257
北海劇の人。字は承嗣。
漢末に伯父の滕耽に従って江東に遷り、12歳で父を失ったが、呉王となった孫権に挙用されて孫奐の娘(孫壹の妹)が降嫁された。
三郡(丹陽・呉郡・会稽)の太守を歴任して能名があり、251年に孫権が病臥すると太常に進められ、諸葛恪らと並んで後事が託された。
孫亮が即位すると衛将軍を加えられ、姻戚の諸葛恪が粛清された後も孫峻に重んじられて高密侯に進封された。
孫綝の秉政で武昌に駐する大司馬とされたが、石頭城で呂拠の挙兵に応じて族滅され、妻女のみ孫壹に救われて共に魏に亡命した。
滕耽 ▲
北海劇の人。
華北が乱れると一家を挙げて姻戚の劉繇を頼って江東に遷り、後に孫権が車騎将軍とされると右司馬とされた。
死後は弟の滕冑が用いられ、奏章の事を担った。
滕皇后
滕胤の疎族。五官中郎将滕牧の娘。
孫休の即位による大赦で帰京して烏程侯孫皓の妃とされ、孫皓の即位で皇后とされた。
滕牧は衛将軍・録尚書事・高密侯とされたが、しばしば孫皓を諫めて憎まれ、蒼梧郡に徙される途上で病死した。
滕后は何太后の庇護と巫覡の進言で廃黜を免れ、平呉で孫皓に従って洛陽に遷された。
潘濬 〜239
武陵漢寿の人。字は承明。
襄陽で碩学の宋忠に師事して王粲にも讃えられ、劉表・劉備の下で厳正と能名を称され、劉備が入蜀した後は荊南の州事を司り、孫権の荊州征服に伴って呉に降った。
中郎将・奮威将軍を歴任した後、孫権の称帝で少府とされて劉陽侯に進封され、後に太常に進んで武昌で陸遜を輔け、231年には太常のまま五谿蛮を討平した。
信賞必罰を旨として孫権の信頼も篤く、義兄の蒋琬との内通が誣された時も猜疑されなかった。
呂壹排斥の急先鋒としても周知され、朝議で呂壹の刺殺を図ったこともあり、折にふれては孫権を諫めて呂壹を指弾し、呂壹の失脚には潘濬の運動の占める部分が大きかったとされる。
潘璋 〜234
東郡発干の人。字は文珪。
陽羨県長の孫権に投じて大度を親愛され、理劇の才と軍略を認められて偏将軍として半州(江西省安義)に駐した。
関羽捕縛の功で宜都郡西部に新設された固陵太守とされ、振威将軍を加えられて溧陽侯に封じられ、甘寧の死後はその部曲を併せ、猇亭の役では劉備の護軍を大破して平北将軍・襄陽太守とされた。
223年に諸葛瑾を輔けて魏の夏侯尚らを斥けた後は陸口に駐し、孫権の称帝で右将軍とされた。
為人りは粗暴かつ豪奢を好み、部曲を峻厳に統制して数千を以て常に万人の働きをさせ、戦後にはただちに市を開いて営利を行なった。
晩年には奢侈が昂じて富者を枉陥没財することが続いたが、旧功を以て不問とされた。
歩隲 〜247
臨淮淮陰の人。字は子山。
乱世を避けて江東に遷り、農耕の傍らで苦学して諸学に通じ、鷹揚で辱を忍ぶことは韓信の風があった。
討虜将軍に叙された孫権に招かれて、210年に交州刺史とされて蒼梧太守呉巨を討滅したことで威名を謳われ、士燮にも心服された。
呂岱が後任となった後は劉備の東征で動揺する荊南を鎮定して臨湘侯に封じられ、孫権の称帝で驃騎将軍に進んで陸遜の後任の西陵督とされた。
呂壹を任用する孫権に対しては顧雍・陸遜・潘濬への信任を強く薦め、陸孫が歿した翌年に丞相を継いだ。
陋居にありながら妻妾らが華美を好んだことで謗られることはあったが、『呉書』撰述に連なった周昭からは厳o・諸葛瑾と並ぶ“三君”と絶賛され、張承・顧邵を併せて“五君”とも称された。
歩夫人 〜238
臨淮淮陰の人。歩隲の宗族。
漢末に廬江に遷り、孫策の廬江平定で江南に渡り、孫権に娶られて寵愛は後宮で随一だったが、男児には恵まれなかった。
長女の魯班は周循、ついで全jに嫁して全公主と呼ばれ、次女の魯育は朱拠、ついで劉纂に嫁して朱公主と呼ばれた。
温厚で幹事に長じて孫権から皇后に擬されたが、太子孫登の生母/徐夫人を推す声も強く、皇后は久しく空位とされたものの宮中では皇后・中宮と呼ばれ、死後に皇后の位が追贈された。
歩夫人の死後も、袁夫人を推す孫権と太子孫和の生母/王夫人を推す衆議がまとまらず、二宮の変の後に漸く潘夫人が皇后とされた。
潘皇后 〜252 ▲
会稽句章の人。孫亮の生母。
吏人だった父に連坐して織室にいた時に孫権に召され、孫亮の立太子の翌年(251)に皇后とされた。
孫権が存命中に立てた唯一の皇后だったものの袁夫人ら妃嬪を殺すことが多く、孫権が重篤になると呂后の事績を調べさせたが、就寝中に宮女に扼殺された。
袁夫人 ▲
袁術の娘。袁術の死後は袁胤に護られて廬江太守劉勲を頼り、ついで劉勲を逐った孫策に庇護されて後に孫権に嫁した。歩夫人が歿した後は皇后に擬されたが、男児がないことを理由に固辞し、後に潘夫人の讒言で殺された。
濮陽興 〜264
陳留郡の人。字は子元。
中原から避難した北来名士の子で、夙に声望があり、会稽太守となったことで琅邪王孫休と親交し、孫休が即位すると太常・衛将軍に抜擢された。
260年に宛陵での干拓を強行した際にも批判されたが、262年に丞相に進んだ後は左将軍張布と結んで朝政を壟断したことで輿望を失った。
孫休が歿すると、亡蜀の直後を理由に成人した明君を勧める左典軍万ケの進言もあって太子孫𩅦を廃して烏程侯孫皓を迎立したが、程なく万ケに朝政誹謗と誣され、広州への配流の途上で殺された。
陸績 187〜219
呉郡呉の大姓。字は公紀。漢の廬江太守陸康の少子。
6歳で袁術に謁した際、母のために橘を懐にしたことで孝子と称された。
長じて姿貌雄偉となり、経学や暦法算術にも博通して讃えられ、孫策の賓客に連なって虞翻・龐統とも忘年の交を結び、孫権が統領となると掾属とされた。
正論を持して直言を憚らなかったために鬱林太守に出され、その間も精学して『渾天図』を著し、『易経』『太玄経』に注解を施した。
陸尚 ▲
陸康の子。
父の廬江討平の功で郎中とされ、後に同郡の徐琨の婿となったが早逝した。
陸康の死後は、傍流の陸遜が陸績より年長ということで陸氏の統領となっているので、陸尚の死は陸康より先という事になります。廬江の攻防で死んだ可能性もあり、そうなると徐夫人は最悪の政略結婚をさせられた事になります。
陸瑁 〜239
呉郡呉の大姓。字は子璋。陸遜の弟。
夙に好学で、又た一面識もない同郡の徐原が会稽で客死すると遺言を重んじてその遺族を養うなど、義人として著聞して志操の人を多く庇護した。
曁艶の手法を危ぶんで諫めた事もあり、232年に公府に辟されて議郎・選曹尚書とされ、孫権の遼東遠征の断念にも功があった。
孫の陸曄は東晋で衛将軍に進んで車騎将軍を追贈され、その弟の陸玩も司空まで進んで太尉が追贈されています。
陸曄については、建康を制圧した蘇峻が最後の一歩を踏みこめなかったのは、帝側に近侍する陸曄の輿望を憚ったためとも伝えられ、陸遜の家が滅んだ後は呉邑陸氏の宗家的存在だったことが伺えます。
因みに、陸玩の司空就任は庾亮を継いだもので、死後は帝陵へ陪葬されました。
陸凱 198〜269
呉郡呉の人。字は敬風。丞相陸遜の族子。好学で、殊に『太玄経』に精通して筮竹に長じ、叛民の討伐で255年より巴丘に鎮して巴丘督・武昌右部督を歴任し、孫皓が即位すると鎮西大将軍・巴丘都督・領荊州牧とされ、266年に左丞相に進んだ。
しばしば孫皓の恣政を強諫し、又た恩倖の何定と対立して讒言され、陸氏の門地と陸抗の存在が憚られて枉陥されなかったが、陸抗の死で遺族を建安に流された。
『三国志』陸凱伝は、ほぼ孫皓に対する諫言で構成されています。陸凱の為人りや官歴などは、巻頭にホンの申し訳程度に載っているだけです。
逆に云えば、この諫言で(陸凱が考える)孫皓政権の問題点がほぼ網羅できます。長いので別枠に設けました。
陸胤 ▲
陸凱の弟。字は敬宗。
御史・尚書選曹郎のときに太子孫和に厚遇され、楊竺らの誣網で投獄されたことがあったが、拷問されても正論を堅持した。
後に衡陽督軍都尉に進み、呂岱が武昌右部督に転じた後の248年に交州が乱れると、交州刺史とされて恩威を併用して鎮定して安南将軍を加えられた。258年に西陵督とされ、後に虎林督に転じた。
劉纂
はじめ孫権の中女を娶り、その死後に朱公主を降嫁された。
呂岱の山越討伐に従い、文欽の建議になる256年の孫峻の北伐では車騎将軍として出征した。
武昌遷都の翌年に孫皓が弋陽攻略を諮問した際、間諜による偵察を条件に賛同したが、実行はされなかった。
二宮の変の後の朱公主に対する孫権の感情がどんなものだったかは想像するしかありませんが、歩夫人の娘が降嫁された以上、劉纂はそれなりの家門だったと思われます。
江南の劉氏となると、真っ先に出てくるのが劉繇の子の劉基。次に劉璋ですが、さすがに劉璋では求められる求心力は無かったと思われます。
あと、強いて挙げれば孫皎の幕僚として重んじられた廬江の劉靖あたりですが、やはり弱いように感じます。
劉基 ▲
字は敬輿。劉繇の長子。14歳で父を喪い、服喪の礼儀を讃えられた。
孫権にも敬重されて驃騎東曹掾に挙げられ、孫権の称王後は大農・郎中令を歴任して登極で光禄勲・平尚書事とされた。
虞翻が刑死を免れたのは劉基の諫争に依るところが大きく、又た船上の賜宴で雷雨に遭った際には特に蓋に入る事が許された。
49歳で歿し、後に娘は孫覇に嫁し、弟の劉鑠・劉尚は騎都尉となった。
留賛 183〜255
会稽長山の人。字は正明。
慷慨烈気の性で、黄巾軍との戦いで足を負傷して伸ばせなくなると、自ら筋を截ち切って動かせるようになり、凌統の推挙と戦功で累進したが、孫権には直言を厭われた。
東興の役での丁奉に続く先鋒の功で左将軍に進み、諸葛誕救援では孫峻の左都護とされたが、途上で罹病して帰還する途上を襲われて戦死した。
呂範 〜228
汝南細陽の人。字は子衡。
姿貌雄偉で、寿春に戦乱を避けて孫策に交わり、孫策が曲阿に遷る際に江都のその家族を迎えに行ったところを陶謙に執われた事があり、不遇な時期の孫策の股肱として孫河とは双璧とされ、常に太妃の前で酒食が饗された。
孫策の死後は孫権に仕え、江夏遠征の際には張昭とともに後事を総裁した。
赤壁の役に加わった後は彭沢太守とされて柴桑に進駐し、彭沢・柴桑・歴陽を奉邑とされ、劉備が京口に来謁した際には拘留を進言した。
建威将軍・丹楊太守に転じると奉邑を丹楊の3県に改易され、洞浦の役で敗れて南昌侯に徙封され、後に揚州牧に進んで建業に還り、228年に大司馬に進んだが、印綬を受ける前に病死した。
威儀を好んで陸遜・全jらにも敬粛され、奢侈については職事に勤めた事と紀範を外れなかった事で黙過された。