モンゴリア.2

契丹  タタール  ケレイト  メルキト  ナイマン  モンゴル  モンゴル帝国
 
 


 庫莫奚。4世紀頃から南部漠東に遊牧し、鮮卑宇文部の別種と認識され、388年に北魏の道武帝に敗れて服属した後も北朝に叛服を繰返した。 やがて5部に分れて突厥に服し、隋代には“奚”と略称され、630年に東突厥が解体されると饒楽都督府の下に5州が置かれて唐の羈縻支配下に入ったが、東突厥の再興と共に活動を活発化させ、安史の乱での唐の統制力の減退に乗じて勢力を伸張させた。
 晩唐には契丹の拡大によって一部が嬀州に西遷したが、本土は10世紀に契丹に征服されて奚大王府が置かれ、契丹の五院部・六院部・乙室部と並ぶ四大部を構成して遼の歴代皇后蕭氏を輩出した。 1122年に回離保が自立して称帝したが、数ヶ月で金に滅ぼされ、滅遼後は一部が耶律大石の西遷に従った他は次第に女真・漢族に同化した。
 モンゴル系遊牧勢力としては最も早く中国に接触し、隣接するシラ=ムレン流域の契丹は、中国では初め“奚種に属する丹族”として奚丹と呼ばれた。 尚お、奚の発祥と考えられている奚琴は、胡琴・二胡の源流とされる。

室韋
 6世紀頃から松嫩方面に現れた勢力で、5部に分れて突厥に服属し、東突厥の覆滅後は20数部に分れて唐の羈縻支配下に置かれた。 突厥はバイカル以東の非テュルク系遊牧種を総称して指し、黄頭室韋などの中核的集団は奚・契丹と同種の言語を用いたが、言語が異なる事が指摘されている大室韋などはツングース系と目され、又た唐代に羈縻したアルグン川流域の蒙兀室韋はモンゴル部だとされる。
 当初は黄頭室韋が最も有力だったが、後に黒車子室韋が抬頭してウイグルを援けてキルギズに対抗し、10世紀初頭には契丹にしばしば伐たれて服属した。 興安嶺西方の集団は突厥ではタタルと呼ばれ、シネ=ウス碑文に「セレンガ川下流域の九姓タタル」、ホショ=ツァイダム碑文には「バイカルと契丹の間の三十姓タタル」との表現がある。
 アルグン河とハラリ河の合流点付近の小都市/室韋は、室韋の根拠地だったことに由来する。一名は吉拉林。

 
 モンゴル系遊牧種。はじめはシラ=ムレン上流域で類族のと雑居していたが、4世紀中頃にラオハ=ムレン流域に遷り、柔然、次いで突厥に従属し、7世紀頃には両河合流点一帯を根拠地とした。 牛フラトリー(審密=sharmut)と馬フラトリー(耶律=jalaga)の二大集団の下で十数の氏族集団に分かれ、唐の羈縻支配下に置かれてからフラトリーへの結集が強まり、648年に8集団を率いて唐より松漠都督(ラオハ=ムレン流域一帯)に任じられた大賀氏族長が契丹の代表と認識されるようになり、府下に12州が置かれた。8世紀に入ると内訌に親突厥派と親唐派の対立が加わって分裂し、唐の遠征もあって大賀氏は没落した。
 大賀氏に替って主導勢力となった遥輦氏は唐に激しく抵抗し、751年には安禄山を大破し、安史の乱後は中国による干渉の減少と漢人流入によって次第に内部の組織化が進んだ。 ウイグル帝国の崩壊後は公然と可汗を称するようになり、奚・室韋を服属させて大勢力となり、しばしば大同の沙陀族幽州節度使を苦しめた。
 10世紀に至って迭剌部の耶律阿保機が中国の混乱に乗じて建国を宣し、満洲〜アルタイを支配する大帝国に成長し、中国の宋を圧迫し、西夏ウイグルを服属させて東アジア最強の勢力となった。 国家としての組織化が進むと共に、フラトリーは婚姻規制の機能を有するに過ぎなくなって中国風の姓氏と同一視されるようにな、後に国号を遼と定めた頃に耶律族は劉氏を、外戚の審密族は蕭氏を称した。
  
 契丹帝国は12世紀に入ってまもなく満州から興った女真族の金国に滅ぼされ、一部は皇族の耶律大石に率いられて中央アジアに西遼を建国したが、金に征服された契丹人の多くは漠南で金の統制下に入った。 女真人が著しく漢化した後は契丹騎兵は金軍の中核を担うようになり、後にモンゴルのチンギス汗が金国攻略に先立って契丹人を服属させたことで、金軍は有効な抵抗力を失った。契丹人は又た二元支配の先駆者としてもモンゴルから尊重され、色目人に加えられて支配層の一翼を担った。
 
 

 907〜1125
 契丹迭剌部の耶律阿保機が建国。 遼の称号は太宗が後晋を滅ぼした947年〜聖宗が即位した982年、道宗の世の1066年〜1125年の滅亡まで用いられた。 916年に称帝した太祖の下で満洲〜アルタイを支配する大帝国に発展し、太宗の時には華北の勢力争いに介入して燕雲十六州を獲得し、947年に開封に拠る後晋を滅ぼして一時的に華北をも支配した。
 以後の中国との関係は燕雲十六州の帰属が軸となり、979年には失地回復を唱えて北伐した宋太宗を高梁河で大破し、1004年の澶淵の盟で国境の現状維持だけでなく国交上の優位をも認めさせた。 聖宗の時代には諸制度も整備されて中央集権的専制体制が確立し、東アジア最強の国家としての盛時は孫の道宗の頃まで保たれたが、道宗の世より急速に凋落し、満州から興った女真族の金国に滅ぼされた。
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 遼は牧民統治には従来からの部族制を用い、定住民に対しては漢式の州県制に編入する二元統治を特徴とし、百官にも北面・南面の区別があり、北面官は牧民を、南面官は定住民を担当した。 又た全国を五道に分け、契丹人・渤海人奚人・旧燕王国の漢人・沙陀族の故地にそれぞれ上京臨潢府・東京遼陽府・中京大定府・南京析津府・西京大同府の五京を置き、それぞれの支配の中心とした。 盛時には5京156州209県があったとされるが、州県制の実態については不明な点も多く、遼の統治体制を模倣したとされる元朝同様に牧民貴族の投下領の追認として州県制が用いられたとも考えられる。
 澶淵の盟は軍事の減少だけでなく南北交易の公認・安定ももたらし、各州には転運使司・銭帛司なども置かれたが、安定した富の流入は国制の整備と相俟って上層部の奢侈化と定住文化への傾斜を招来した。
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 契丹文化は河北の亜唐文化を遊牧社会に適応させたもので、未解読の契丹文字には漢字の影響が強く示され、漢字を基にした表意文字の契丹大字と、ウイグル文字の表音を参考に大字を改良した契丹小字がある。 又た建国以来奨励された仏教も民族融和と契丹文化の向上に貢献し、象徴的な八角塔が各地に建立された。 契丹から派生したカラ=キタイが中央アジアに覇を唱えたこともあり、トルコ・モンゴル族の間ではキタイの名が中国・中国人を指すようになり、西アジア・ヨーロッパでも“ヒタイ”“カタイ”が中国を指す言葉として長らく用いられた。
太祖  太宗  聖宗  興宗  天祚帝
 

耶律阿保機  872〜907〜926
 契丹帝国の太祖。中国名は億。阿保機は渾名の“アブーチ(掠奪者)”の音訳とされる。 唐末の混乱に乗じて勢力を拡大し、諸部の支持を背景に遥輦氏の痕徳菫可汗から簒奪したのち室韋・烏古などを伐って漠北に勢力を拡大し、916年には皇帝を称して国号・元号を定めた。 沙陀族の李氏に南下を阻まれると919年からタタール親征を開始し、924年にはオルコン河畔のオルド=バリクを経て甘州ウイグルにまで達した。 926年には渤海に親征して滅ぼし、その遺民統治の為に東丹国を建国して長子の突欲を封じ、帰還途中に扶餘府の行宮で歿した。
 即位前からしばしば中国北辺を劫略して漢人を捕虜とし、韓延徽ら士大夫を幕僚に迎えて牧民と定住民を別個に支配する二重統治体制を構築し、又た農耕を重視するなど漢文化の摂取につとめたが、同化を避けて仏教を奨励し、契丹文字の創作など契丹文化の維持・高揚も惰らなかった。

韓延徽  882〜959
 安次(河北省)の人。字は蔵明。 劉守光の使者として契丹に入って耶律阿保機に認められ、奚・室韋征服では献策が多く用いられた。 国事に常に参与し、城郭の築造による流入漢人の保護と積極受容を勧めて契丹の経済力を飛躍的に向上させた。 建国期の漢人幕僚の筆頭と目され、太宗のとき魯国公に封じられ、世宗の下で南府宰相に至った。

応天皇后  879〜953
 太祖の皇后。述律皇后、淳欽皇后。 太祖の西征中に来攻した室韋を自ら撃退して輿望を集め、以後もしばしば国事について建言して多く聴許された。 太祖の死後、かねて不和だった東丹王の即位を嫌って承制を行ない、1年後に太宗を即位させ、後に太宗が華北を征服した際には漢地併合に反対して兵站を停滞させ、太宗の帰還を実現させた。太宗の死後はその末子の季胡を立てて東丹王の遺児の世宗と争い、自ら率軍したものの敗れて祖州に幽閉された。

太宗  902〜927〜947
 契丹帝国の第二代君主。名は堯骨、漢名は徳光。太祖の第2子。東丹王の実弟。 国家草創期には天下兵馬元帥として六院部を率い、東丹王を嫌う応天皇后の承制を経て太祖の歿した翌年に即位した。 928年に曲陽で後唐に敗れた後は幽州の防備強化もあって西方経略を重視し、耶律突呂不(トルプ)を派遣して漠東の烏古(ウクル=タタール)を征服し、契丹人を移住させてタタールの統制を強化した。
 唐制に倣って官制を整え、衣冠・服飾を改めるなど中国文化の受容を進め、中国に対しては大同方面の攻略に転じて石敬瑭と対峙したが、936年には内戦で劣勢となった石敬瑭を燕雲十六州の割譲を条件に支援して後唐を滅ぼし、長城南辺を獲得した。 947年に離背した後晋を親征して滅ぼし、華北を占有して国号を“遼”と改めたが、打草穀騎と称する殺掠によって各地で頑強な叛乱に直面し、兵站の停滞もあって漢地を放棄し、帰還途上に河北の欒城で歿した。

耶律突欲  899〜936
 東丹王。中国名は倍。太祖の嫡長子。太祖の征戦に五院部を率いて従い、926年に渤海国を滅ぼすとその故地に東丹国王として封じられ、太祖の天皇帝、皇后の地皇后に対して人皇王を称した。 916年に立太子されていた事もあり、太祖には東丹王と匈奴の左賢王を同義とする意思があったともされるが、間もなく太祖が歿すると、かねて不和だった太后の圧力で即位を放棄した。 東京(瀋陽)への遷徙後の監視の強化などから930年に後唐に亡命し、明宗より李賛華と賜名されて滑州節度使とされ、明宗の死で後唐が混乱すると契丹に介入を促し、李従珂に暗殺された。
 諸学芸に通じて絵画に長じ、医巫閭山上の望海堂に万巻の書を蔵し、建国初期には太祖に孔子廟の建立と春秋の祭祀を勧めたという。 又た酒乱の気があり、酔うと殺人・飲血を好む奇癖があったとも伝えられる。孫の世宗が即位すると義宗の廟号が贈られた。

趙延寿  〜948
 恒山の人。本姓は劉。後梁の将軍趙徳鈞の養子となり、後唐では明宗の娘婿となって枢密使まで進み、後に石敬瑭に呼応した契丹に降って燕王・幽州節度使とされた。 次いで南京留守・総山南事とされ、947年の太宗の伐晋では先鋒となり、太宗の黄河渡渉を成功させて大丞相・中京留守に進んだ。 太宗の死後に遺詔と偽って全権掌握を図り、永康王(世宗)により拘禁された。

世宗  918〜947〜951
 遼の第三代君主。名は兀欲、中国名は阮。東丹王の嫡長子。 太宗の華北征服に従って永康王に封じられ、太宗が歿すると直ちに燕京で即位し、上京に耶律李胡(太宗の弟)を擁した応天太后を制圧して入京した。失地回復を唱えて枢密院の権能を強化し、中央集権を進めたが、南征の途上で泰寧王(太祖の甥)に太后と与に暗殺された。

穆宗  931〜951〜969
 遼の第四代君主。名は述律。中国名はm、後に明。太宗の長子。 世宗が暗殺されるとその一族を鏖殺して即位したが、太祖派と太宗派の反目が続いて国威が低迷し、自身は遊戯・飲酒を好んで朝政を顧みなかった。 964年に始まる松嫩の黄頭室韋の叛乱は、烏古も呼応して一時は上京にまで迫り、966年に至って鎮圧すると西北路招討使を設置した。 邪宗に傾倒して男児の生胆を多く求めたとも伝えられ、行宮で近侍によって暗殺された。

景宗  948〜969〜982
 遼の第五代君主。名は明扆、中国名は賢。世宗の長子。穆宗が殺されると群臣に推戴されて即位した。 突厥沙陀族の北漢を支援して新興の宋と対峙し、979年には北漢を滅ぼした宋太宗の親征を高梁河で大破した。

承天皇后  953〜1009
 景宗の皇后。睿智皇后。北府宰相蕭思温の娘。 夙に聡明で、景宗の国事の多くを主導したとも伝えられる。 景宗が歿すると実子の聖宗を立てて皇太后として臨朝し、軍国の大事を韓徳譲耶律斜軫耶律休哥らと支え、1004年の南征では自ら三軍を指揮して澶淵の盟を成立させた。 在世中は聖宗は拱手するのみで府庫の物すら自由にできなかったとも伝えられ、死の前月に漸く聖宗の親政を認めた。

聖宗  971〜982〜1031
 契丹帝国の第六代君主。名は文殊奴、中国名は隆緒。景宗と承天皇后の長子。 即位当初は皇太后を中心とした執政体制が行なわれ、即位の翌年に国号を契丹に復した。 1004年に宋との間に澶淵の盟を結んで多額の歳貢を獲得し、それによって経済・文化が発展して内治も安定したが、太后の死後は高麗攻略に固執して称藩を認めさせたものの軍事は悉く失敗し、又たタタール女真の叛乱などが絶えなかった為、中央集権と軍の組織化を推進した。
 即位の年から開始された阻卜遠征では、耶律速撤(スサ)・蕭撻凜(タリム)らによって酋長の達剌干(タラカン)・鶻展(フチャン)を敗死させて服属させ、1004年にトゥーラ河畔の可敦城に西北路招討使に属する鎮州建安軍を設置して阻卜統治の中心とした。

韓徳譲  941〜1011
 耶律隆運とも。薊州玉田の人。太祖の謀臣として元勲に列する中書令韓知古の孫。 景宗の下で枢密院通事・上京留守・南京留守などを歴任し、979年の宋太宗の北伐では燕京を堅守し、後退する宋軍を援軍と与に追討して高梁河に大破して遼興軍節度使・南院枢密使とされた。 景宗が歿すると聖宗擁立に参画し、政事令に転じて承天太后を輔佐し、986年にも宋軍を撃退し、994年には漢人でありながら北府宰相・北院枢密使に進み、後に斉王に封じられて南北の枢密使を兼ねた。 1004年の澶淵の役でも承天太后に従って全軍を節度し、宋との間に澶淵の盟を成立させて遼に極盛期を招来し、耶律隆運と姓名を下賜され、晋王として諸王の上位に置かれた。

耶律休哥  〜998
 字は遜寧。夙に将来を嘱望され、穆宗の世に烏古・室韋の叛乱鎮定に功を挙げた。 宋太宗が北漢を滅ぼした勢いで燕京を攻囲すると援軍とされ、高梁河で宋軍を大破して北院大王とされ、翌年の景宗の親征では瓦橋関を攻囲して勇略を絶賛された。 聖宗が即位すると南京留守とされて南面軍を統督し、986年に三路から来攻した宋軍の主力の曹彬を大破して宋国王とされ、989年に宋軍を易州で殲滅すると免拝不名が認められた。 軍紀は厳正で秋毫も犯さず、また軍事だけでなく律法の整備や勧農によって政情を安定させ、燕雲十六州を確保して遼朝第一の名将と称賛された。

耶律斜軫  〜999
 承天皇后の姪婿であり、その父の枢密使蕭思温の薦挙で景宗にも重んじられ、北漢救援の功で976年に南院大王とされ、高梁河の役では耶律休哥と与に宋軍を挟撃して大破した。 聖宗の即位後も承天太后に信任されて北院枢密使とされ、986年に宋が北伐軍を起すと山西路兵馬都統となって潘美を大破し、楊業を擒えて守太保を加えられた。988年にも南伐して涿州を抜き、後に魏王に封じられ、承天太后の南伐に従軍中に病死した。

興宗  1016〜1031〜1055
 契丹帝国の第七代君主。名は只骨、中国名は宗真。聖宗の長子。 はじめ生母の太后が執政したが、1034年に廃黜の謀議が生じた為に太后を幽閉して親政を始めた。 内政を整備する傍ら、宋と西夏の攻伐に乗じて1042年に宋からの歳幣の増額を獲得し、又たしばしば西夏を伐って1049年には西夏の朝貢国化にも成功した。 興宗の治世は契丹を通じて最も安定し、文化も隆盛して「契丹の盛時」と称された。

道宗  1032〜1055〜1101
 遼の第八代君主。名は涅鄰、中国名は洪基。興宗の長子。即位当初は直言を喜んで国事に注力したが、国内では長期の安定に伴う階級格差の拡大と、契丹貴族の漢化と奢侈がようやく顕著となり、倦怠から次第に仏教に耽溺して耶律乙辛張孝傑らが跋扈した。 1066年に国号を再び“大遼”に戻し、1075年に蔚・応・朔州での国境を南下させる事に成功したが、1063年には既に弊政を糾弾する皇太叔の秦王・天下兵馬大元帥耶律重元と楚王・南院枢密使事耶律涅魯古父子の造叛があり、新国境画定の年には耶律乙辛らの誣告で皇后を殺すなど側佞の弊害が深刻になっていた。
 道宗の治世は内政・外事ともに破綻を示さず、又た契丹仏教の盛行もあって盛世の一翼に挙げられるが、積年の弊政で綱紀は著しく弛緩し、徒食の仏僧の激増や寺院の濫造は国力の疲弊にも影響し、辺外ではタタール女真の叛抗も活発となった。

耶律乙辛  〜1083
 興宗の恩倖として抬頭し、道宗の清寧5年(1059)に南院枢密使とされ、1063年に皇太叔の造叛を鎮圧し、翊聖の忠臣と絶賛されて北院枢密使・魏王とされた。君側に侍して刑賞を濫用し、1075年に皇后を枉陥して殺し、1077年には同様に皇太子を枉陥して配所で暗殺した。 1081年に密輸が露見して莱州に徙され、甲兵の私蔵と宋への出奔が露見して誅された。

張孝傑  ▲
 建州永霸の人。 貧困の中で精学して1055年に進士甲等に挙げられ、1057年には参知政事・同知枢密院事に累進し、1062年に陳国公とされた。 職事への通暁から道宗に信任されて北府宰相に至り、1075年には国姓を下賜され、1079年に狄仁傑の再来として仁傑と賜名された。
 阿諛・迎合に長じ、耶律乙辛と結んで朝政を壟断し、1075年には皇后の不貞を誣告し、皇太子の廃黜にも参画した。 1080年に武定軍節度使に出された後、塩の私易と詔勅の改竄を問われて安粛州に流され、太安年間(1085〜94)に郷里で歿したが、道宗が歿すると棺を暴かれて一族の資産も没収された。

天祚帝  1075〜1101〜1125〜?
 遼の第九代君主。名は阿果、中国名は延禧。道宗の嫡孫。耶律乙辛らに枉陥された父の耶律濬は聡明好学だったと伝えられるが、天祚帝は甘言のみを喜んで遊興に耽り、女真の抬頭が著しい中で外戚の枢密使蕭奉先と上京路都統耶律余覩の対立を治められず、讒言から1121年に耶律余覩の出奔をもたらした。 1122年に金の太祖に大敗した事で国内は分裂し、雲州に遁れた後、1125年に宋と結んだ金軍に大破されて応州(山西省応県)で擒われた。海濱王に封じられ、1128年に長白山で歿したと伝えられる。

耶律余覩
 遼の宗室。天祚帝の文妃の妹を娶り、上京路都統として女真としばしば攻伐した。文妃の子/晋王と継嗣を争う秦王(元妃の子)の伯父の枢密使蕭奉先に不軌を誣されて1121年に金に投じ、これより金の前鋒となって中京大定府を陥し、燕京攻略にも参陣した。 滅遼の後、粘没喝の下で西京(大同)を統轄したが、1130年に伐北した際に退却する耶律大石を追討しなかった事から猜疑され、1132年に出奔したものの西夏に排撃され、金に通誼したタタールに殺された。

天錫帝  1062〜1122/1122
 宣宗、章帝。名は涅里、中国名は淳。興宗の孫。 好学で道宗に鍾愛され、章懐太子が殺された際には継嗣に擬された事もあった。 天祚帝の下で南府宰相・南京留守に至り、1115年には秦晋王・都元帥とされた。 1122年に天祚帝が金に大敗して雲州に奔ると耶律大石・李処温らに擁立されて称帝し、天祚帝を“湘陰王”に貶号した。
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 天錫帝の病死後、天祚帝の太子の秦王定が擁立されたが、翌年に金軍が燕京に逼ると雲州の天祚帝に投じ、燕京では秦王の同母兄の梁王雅里が擁立された。 梁王は間もなく病死し、天錫帝の太子の耶律朮烈(英宗)が立てられたが、翌月には金軍の包囲下で内訌から殺された。

 
 
 
 韃靼。突厥が領内東北面に遊牧する異種族の総称として用いた事に始まり、突厥碑文にはフルン=バイル地方の三十姓タタル、セレンガ流域の九姓タタルなどが現れる。 九姓タタルはウイグル帝国を滅ぼしたキルギズ族を撃退して高原中央部を占拠し、三十姓タタルもウイグル帝国の崩壊に乗じて高原東部に拡大し、10世紀にはオルコン流域ケルレン流域の二大集団に分かれていた。 契丹からはそれぞれ阻卜(ツプク)・烏古(ウクル)と呼ばれ、阻卜はケレイト王国に、烏古はタタール諸部に比定される。
 烏古は928年までに契丹に征服されたが、964年に黄頭室韋の叛乱に呼応して一時は上京臨潢府に逼り、966年に鎮圧されて西北路招討使に統制されるようになった。 この頃より、烏古ではオノン流域のジャライル部とハルハ流域のタタール部が有力となったが、地理的条件のために契丹の統制を強く受け、金朝では烏古系の中でタタール部が最も有力だった為に、烏古系モンゴルを概ねタタールと総称した。

 

ケレイト

 契丹時代の阻卜の中核部族。阻卜は高原中部以東の遊牧種の総称として用いられ、ケルレン流域の集団=ケレイトと、アルタイ方面の集団=ナイマンに大別され、それぞれに統治機関として大王府が置かれた。
 ケレイトは契丹の進出に激しく抵抗して924年に大破され、966年には宋に遣使して遼を牽制したが、大規模な討伐(982〜85)によって部長のタラカン(達剌干)が耶律速撤(スサ)に敗死し、第二次討伐(994〜1000)でも部長のフチャン(鶻展)が蕭撻凜(タリム)に敗死した。 フチャンの弟のテラリ(鉄剌里)が契丹に服属すると、1004年に阻卜統治の中心としてトゥーラ河畔の可敦故城に西北路招討使に属する鎮州建安軍が置かれ、1011年からは阻卜諸部に節度使が任じられて羈縻支配が進められたが、翌年には烏古なども呼応する大規模な叛抗を生じ、鎮圧されたものの一時は可敦城に西北路招討使の蕭図玉を攻囲している。
 ケレイトは東西交易の幹線路上にに位置していた事からウイグルよりウイグル文字を習得しており、又た西域商人によって景教(キリスト教ネストリウス派)が伝わり、テラリは1007年に部族を挙げて改宗し、メルヴの大司教に遣使して司祭の派遣を要請したと伝えられる。
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 西北路招討使蕭恵による甘州ウイグル攻略の失敗(1026)に乗じて部長のトントクズ(屯禿古斯)に率いられて再び蜂起し、これより契丹の阻卜統制は大きく後退した。 これを嗣いだマルクズ=ハン(磨古斯汗)は阻卜の統合にも成功してケレイト王権を確立し、1089年には遼からもその地位を認められたが、1092年には西北路招討使の耶律何魯掃古(ホルサウク)と衝突して漠南に侵寇し、後任招討使の耶律撻不也(タプヤ)を敗死させた後、1100年に招討使の耶律斡特剌(オテラ)に捕われて処刑された(『集史』によれば、タタールのナウル=ハンに敗れて捕われ、契丹に送られたとある)
 この頃より女真族の抬頭によって契丹の介入は大きく後退したが、マルクズ=ハンの嗣子のクルジャクズ=ブイルク=ハンが継嗣を定めず歿した為にケレイト王国は分裂し、モンゴルのキヤト氏族と結んだトゥグリル=ハンによって再統合されたものの、1203年にはキヤト氏のテムジンに滅ぼされた。
 以後はモンゴル帝国の有力な姻族として重んじられ(トゥルイの正妃としてモンケらの生母となったソルコクタニはトゥグリルの姪にあたる)、モンゴル帝国の崩壊後の動向は不明だが、後のオイラートのトルグート部長はケレイト王の裔を称した。

トゥグリル=ハン  〜1203 ▲
 ケレイト王。クルジャクズ=ハンの長子と伝えられる。 ナイマン部の干渉もあって一族の離叛に苦しみ、一時は王位を逐われたもののモンゴル部のキヤト氏族長エスゲイと結んで復辟した。 金にも王位を追認され、1196年にはフルン=バイル地方に拠るタタールのオンギラト部を金と挟撃・大破してグル=ハンを称し、金からはワン=ハン(王汗)の称号を与えられた。
 キヤト氏族のテムジンの自立を援け、ナイマンの分裂に苦しむタヤン=ハンとも結び、テムジンを先鋒としてセレンゲ流域のメルキト族やアルタイ北方のナイマン分派を大破し、ケルレン流域のユルキン氏族、オノン流域のタイチウト氏族などを征服して1200年頃までに分裂前のケレイトを凌ぐ勢力に発展した。 1202年にはナイマン・オイラートと結んだメルキトの襲撃を斥け、翌春、ジャダラン氏族長のジャムカと結んでテムジンを襲撃し、オノン河北のジャルジュナ湖畔に逐ったが、秋には奇襲を受けて大敗し、西奔したところをナイマン兵に殺された。

 

メルキト

 ケレイトとバイカル湖の間にあって阻卜を構成していた遊牧種。 唐代にはキルギズに服属していた木馬突厥の1部族として“彌列哥”と記された。 『集史』によれば、12世紀にはモンゴル部を大破して統一を崩壊させ、ケレイトのマルクズ=ハンらを破って東部漠北のタタル諸部を支配していたという。 モンゴルのテムジンと同時代のトクトア=ベキもケレイトに拮抗する勢力を保っていたが、1198年にケレイト王トゥグリル=ハンとテムジンの連合に大敗して没落し、1202年の敗戦で瓦解して次第にモンゴルに吸収され、1208年にトクトア=ベキが敗死した事で活動を終えた。

トクトア=ベキ  〜1208 ▲
 メルキト部長。初めセレンガ流域に拠ってケレイトに伍す勢力を有していたが、1198年にケレイトのトゥグリル=ハンに大敗してバイカル湖東のバルグジン渓谷に後退し、モンゴルのタイチウト氏族と結んだ後、1200年にタイチウトがトゥグリル=ハンとテムジンに滅ぼされた為にナイマンのブイルク=ハンと同盟した。
 1202年にナイマンのほかオイラートやモンゴルのハタギン・サルジウト氏族などと与にトゥグリル=ハンを急襲して興安嶺西麓のウルグイ河畔まで後退させたものの、金との衝突を懼れて停滞したところを悪天候で壊乱し、勢力を大きく失った。 1204年にはナイマンのタヤン=ハンの下に反テムジンの一員として集結したが、ここでも敗れてブイルク=ハンに庇護を求め、ブイルク=ハンの敗死でイルティシュ流域に奔った後、オイラートを先鋒としたテムジンに敗死した。

 

ナイマン

 乃蛮。アルタイ山麓に拠っていたトルコ語族系の遊牧種。ステップ=ルートの一大中継地を押さえて開明化が進み、南に隣接する天山ウイグルの影響でウイグル文字を用い、部衆の多くは景教を信奉していた。 12世紀後期にイナンチュ=ビルゲ=ハンが強力な王権を築き、東方の大勢力のケレイトの内紛に介入してその分裂にも成功した。 その死後は2子/タイ=ブカブイルクの争いで分裂し、メルキトやオイラート、ケレイトのトゥグリル=ハンと結んでモンゴルのテムジンに対抗したものの、1206年までに征服された。
 ナイマンは後にモンゴル帝国の分裂に際して反クビライ連合としてドルベン=オイラト(四オイラト)を形成し、ドルベト部・チョロス部はその裔だとされる。 内モンゴル自治区通遼市(旧ジェリム盟)のナイマン旗にその名が残り、又たカザフスタン東部に40万人以上のナイマン族が居住している。

タヤン=ハン  〜1204 ▲
 塔陽罕・太陽可汗。ナイマン部長。名はタイ=ブカ。 父の死後、兄を殺して立った為に異母弟のブイルクが離叛したが、イルティシュ上流域〜アルタイ山脈一帯のナイマン歴世の本拠地を保持し、メルキトと結んだブイルクに対抗してケレイトのトゥグリル=ハンと連和した。 ケレイト王国の崩壊後はモンゴル部のテムジンに対抗するために陰山のオングート部との連盟を模索したが、オングートはテムジンに与し、オイラートやモンゴル=ジャダラン氏族のジャムカと結んだものの、1204年にオルコン河畔でテムジンに敗死した。

ブイルク=ハン  〜1206 ▲
 タヤン=ハンの弟。父の死後、一部の部民を率いてアルタイ西北方のキジル=バシ湖畔に拠った。 1199年にケレイトのトゥグリル=ハンに討破され、1202年にメルキトのトクトア=ベキと結んでトゥグリル=ハンを急襲し、一時は興安嶺方面まで追撃したものの寒波によって多くの兵力を失った。 兄の死後はナイマン王となってテムジンに抵抗したが、1206年に狩猟中に急襲されて敗死した。

グチュルク=ハン  〜1218 ▲
 ナイマン部長タヤン=ハンの子。 タヤン=ハンがテムジンに敗死すると叔父のブイルク=ハンを頼り、1206年にブイルク=ハンが滅ぼされてイルティシュ河畔に奔った後、1208年にチンギス=ハーンに大敗して西遼に逃れた。 西遼では国婿とされたが、ナイマン・メルキト残党の糾合を進めた後、ホラズム=シャー朝と通じて1211年に簒奪した。
 簒奪後は東トルキスタンに対する統制を強化したが、景教徒でありながら契丹人の支持を得るために仏教を国教化し、他宗を弾圧した為に国内ムスリムだけでなくナイマン人や契丹人にも非難され、ジェベを主将とするモンゴルの侵攻で自壊同然となり、1218年にパミール山中のバダフシャンで敗死した。


 

オングート


 トルコ系、或いはタングート系とされる。“長城付近の住人”の意で、タタールのうちでは最も文明化し、景教を信奉した。 陰山山脈北麓に拠り、歴代の部長を輩出した趙氏と、天山に拠った馬氏が有力だった。遼末に耶律大石を推戴したが、金の進出と伴にこれに服属した。 趙氏は13世紀初頭にナイマンの勧誘を断ってチンギス=ハーンに降った事で代々戚族として優遇され、馬氏はモンケ=ハーンの時代に降った。


タタル部


 ウイグル帝国の崩壊後、高原東部に拡大した烏古の代表的部族。烏古が黄頭室韋の造叛に呼応して鎮圧された10世紀半ば頃よりハルハ流域に抬頭したが、地理的条件から契丹・金の統制を強く受け、時に烏古系諸部の総称としても用いられた。 12世紀には金と結んでモンゴル部を崩壊させ、ジャライル部やオンギラト部を服属させて東部漠北の雄となったが、12世紀末よりモンゴル=キヤト氏族のテムジンを支援するケレイトのトゥグリル=ハンにしばしば討破された。 テムジンのモンゴル帝国に吸収されたが、モンゴル帝国の貴戚として重んじられ、チンギス=ハーンの四大オルドのうち2つはタタール出身の皇后が管理した。


モンゴル部

 高原のモンゴル種の一部族。室韋の一部と認識されていた唐代には蒙兀室韋と表記されてアルグン川上流〜中流域のハイラル草原に遊牧していたが、1015年に契丹に敗れたジャライル部に逐われてバイカル湖東方のバルグジン渓谷に遷り、後にオノン流域に南下して次第に氏族の分化が進んだ。 1084年に初めて遼に遣使し、遼の統制の後退に乗じて勢力を拡大させ、モンゴルの伝承によれば12世紀前期にはボルジギン氏族のカブル=ハンの下で部族の統合を達成してモンゴル=ウルスを形成し、ウリヤンカ部やジャライル部などを従える漠東の大勢力となったという。 カブル=ハンを嗣いだ従祖兄弟のアンバガイ=ハンはケレイトの前衛として金やタタールと交戦し、一時はケルレン流域にも進出したもののタタールに敗れて金で処刑され、この頃よりカブル=ハンの直系がキヤト氏族を、アンバガイ=ハンの家がタイチウト氏族を称した。
 カブル=ハンの子のクドラ=ハンが金に敗死した後は氏族単位に解体して互いに抗争するようになり、クドラ=ハンの子のエスゲイ=バートルもケレイトと結んで勢力の回復を図ったもののタタールに殺され、零落したキヤト氏族はユルキン氏族(カブル=ハンの長子の家)とともにケレイトに従った。 又たオンギラトに従ったハタギン・サルジウト氏族はオンギラトが金に大敗した後も抵抗を続け、1198年に金と連合したオンギラトに大破された。
 13世紀初頭、エスゲイ=バートルの子のテムジンがケレイトを滅ぼした後、部民のみならず高原牧民をも統合してモンゴル帝国を創始し、支配下の牧民の殆どを“モンゴル”と呼んだ事で、“モンゴル”は国名・国民名となり、同時にボルジギンはチンギス=ハーンと兄弟の直系のみに認められる氏族名となった。 “モンゴル”が民族名・地域名となるのは本土を継承した元朝が中国を逐われた後の事になるが、明朝は高原東部に部族連合(四十モンゴル)を形成してモンゴルを自称した牧民を「韃靼」と呼んだ。

ジャムカ  〜1206 ▲
 モンゴル部でも有力な集団だったジャダラン氏族の長。 当初はテムジンの盟友としてその興隆を援けたが、後にモンゴル部の指導権を争って対立し、提携したタイチウト氏族が滅ぼされた後はタタール部と結んでグル=ハンに立てられたとされる。 間もなくオンギラト部の離背によって敗れ、次いでケレイトのトゥグリル=ハンとテムジンの離間に成功したもののケレイトが滅ぼされ、ナイマンのタヤン=ハンに投じて反テムジン勢力を結集したが、1204年に撃滅され、メルキトに亡命した後に敗死したとも、部下の離背でテムジンに送られたとも伝えられる。

 
 
 

モンゴル帝国

 イェケ=モンゴル=ウルス。1206年に高原部の牧民を統一したモンゴル部のテムジンがチンギス=カンを称したことに始まり、チンギス一代の間に中央アジアやカザフ=ステップ東部をも征服し、黄河以北の中国にも宗主権を行使した。 次のオゴデイ=ハーンの時代には西は東欧ハンガリーまで征服し、中国に対しても黄河を渡って金朝を滅ぼし、秦淮を以て南宋と直接対峙した。 モンケ=ハーンの時代にはは君主権の強化と中央集権化を進め、一方ではイラン・チベットをも征服して空前の領域を有したが、モンケの死に続く内戦で各領邦の自立が強まり、本土を含む極東領はクビライによって大元=ウルスに改編された。
 元朝の成立後も各ウルス間の抗争はあったものの、ジュチ=ウルスフレグ=ウルスはともに元朝とは不即不離を保ち、中央アジアの鎮静化と伴に各領邦は元朝の宗主権を認め、モンゴルは緩やかな連合政体を回復した。
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 本来は遊牧国家の君主号だった“カン(Khān)”“ハン(χan)”は、12世紀の頃には有力君長の一般的な称号となっており、そのためオゴデイは“カァン(Qāān)”と号して差別化し、モンケの時代より Qāān が大汗の称号として用いられた(漢字史料では“合罕”)。 ジュチ=ウルスやフレグ=ウルスの当主は領邦の成立当初から国内ではカンを称したが、オゴデイ=ウルスチャガタイ=ウルスでの君号は明瞭ではなく、オゴデイ=ウルスを再興したカイドゥやチャガタイ=ウルスを再興したドゥア、東方三王家の初代盟主オッチギンやコデン=ウルス初代のコデンらは、カンに亜ぐ称号の“アカ(兄、首領)”を用いていた。
 カァンの称号はモンゴル帝国の解体後も西方では特別なものとして一般君長には用いられなかったが、東アジアでは寧ろ一般化して“カン”“ハン”の称号が廃れ、発音の変化から“ハーン”により近いものとなった。
チンギス  オゴデイ  グユク  モンケ
 

チンギス=ハーン  〜1206〜1227
 モンゴル帝国の初代君主。元朝での廟号は太祖。本名はテムジン。ボルジギン氏族内のキヤト氏の出で、ケレイト部長トゥグリル=ハンの援助で氏族を糾合し、トゥグリル=ハンの征旅に従いつつモンゴル部の再統合を進めた。 トゥグリル=ハンの高原制覇がほぼ実現した1203年秋、奇襲でケレイト王国を崩壊させ、1206年にアルタイに拠るナイマンを滅ぼした後、オノン河畔にクリルタイを召集してチンギス=ハンを称した。
 エニセイ流域のキルギズ族、ダルハト盆地のオイラート族などを服属させた後、1209年に西夏を属国化し、西ウイグル王国を帰順させ、西遼がナイマンに簒奪されたことでイリ流域に拠るカルルク部も帰順した。 1211年から金国攻略を開始して1215年に中都大興府を陥落させ、無政府状態と化した河北には大小の在地軍閥が割拠した。
 1217年に始まる大西征では1218年に故西遼を滅ぼし、通商使節の殺害を名目にホラズム王国に侵攻して1223年までにマーワランナフルをほぼ征服し、ジュチジェベスベデイらを南ロシア方面に派遣すると自身は1225年に帰還し、翌年から再開した西夏征服の終盤に六盤山で歿した。生年は『元史』では1162年、『集史』では1155年となっている。
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 モンゴル帝国の基本単位のミンガン(千戸)は、兵の供出と報酬分配の単位でもあり、テムジン自身も1千戸を有して養子のチャガンが指揮した。 高原東部の62の千戸群はジュウンガル=トゥメン(左翼万戸)と呼ばれてジャライル部のムカリが、西部の38の千戸群はバラウンガル=トゥメン(右翼万戸)と呼ばれてアルラト部のボオルチュが指揮した。
 テムジンの3弟は全て興安嶺東方の左翼に封じられ、8の千戸を与えられた末弟のオッチギンが東方三王家の盟主とされた。 正后ボルテの4嫡子のうちの年長の3人はアルタイ以西の右翼に封じられ、西から長子ジュチはシル=ダリア以北のカザフ=ステップに、次子チャガタイはイリ流域に、第3子のオゴデイはエミル流域にそれぞれ4の千戸を与えられ、末子トゥルイは父の許に在って高原部の101の千戸と四大オルドの相続が約束されていたという。
 四大オルドはキヤト氏族・ケレイト部・ユルキン氏族・ナイマン部の四大集団が再編されたもので、それぞれ可敦(皇后)が掌握し、オンギラト出身の正后ボルテが大オルドを管理した。

タタ=トンガ
 ウイグル族。 ナイマンのタヤン=ハンに仕えてその宰相とされていたが、タヤン=ハン敗死の時にチンギス=ハーンに捕えられ、印璽保持の忠誠を認められた。 チンギス=ハーンの諸子にウイグル文字・ウイグル語・ウイグルの法律慣習を伝承し、又た印章制を導入してオゴデイ=ハーンの時代にも印章の事を典った。

ボオルチュ
 アルラト部の人。チンギス=ハーンの“四駿”の1人。父を失って間もないテムジンの馬群奪回を扶けてより従属したと伝えられ、初代ケシクテイ(宿衛長)に任じられるなど絶大に信頼された。 モンゴル帝国が成立すると、席次はムカリの上位に置かれて右翼の38千戸を統率する万戸長とされ、大西征に従軍した後にアルタイの本領とは別に広平路17,300戸を与えられ、元朝の成宗の時に広平王に追封された。『元史』ではチンギス=ハーンの晩年に歿した事になっているが、『集史』ではオゴデイ=ハーンにも信任されたとある。

ムカリ  1170〜1223
 ジャライル部の人。チンギス=ハーンの“四駿”の1人。智勇を兼ね、騎射に優れたという。宗主のユルキン氏族を征服したテムジンに従い、ケシク(宿衛)に加えられた。 モンゴル帝国が成立すると左翼の24千戸を支配する万戸長とされ、同時に左翼の62千戸を統率して主に満洲・中国経略を担い、1217年までに満州を征服し、チンギス=ハーンの西征の際には華北経略を一任されて国王(ゴイオン)の称を許された。 華北経略には五投下を主力とし、多くの漢人軍閥を帰服させて実効支配を進めたが、反抗勢力の鎮圧に忙殺されて1223年には開封攻略にも失敗し、程なく河中府の聞喜県で病死した。ボオルチュとともにチンギス=ハーンの功臣の筆頭に挙げられ、東平王・魯王を追贈された。
  
 チンギス=ハーンの有力な同盟者として遇された“五投下(ジャライル・オンギラト・ウルウト・モンクト・イキレス)”は、以後も左翼勢力の中心的な軍事力を保ち、クビライのクーデターでは東方三王家と共にクビライ支持の主柱となり、元朝と盛衰を与にした。

ボロクル  〜1217
 フウシン部の人。チンギス=ハーンの“四駿”の1人。 メルキトのグチュ、ベスウト部のココチュ、タタル部のシギ=クトクらとともにテムジンの母ホエルンに養育されたと伝えられる。 長じてテムジンの側近として信任され、ケレイトとの決戦で重傷を負ったオゴデイを救い、トゥルイを救出するなどモンゴル帝国の草創期の元勲として宿衛長たるケシクテイに任じられ、モンゴル帝国が成立すると右翼の第二位として万戸長とされた。離叛したトゥメット部の討伐中に襲殺された。
 子孫は万戸長と第一ケシク長を世襲し、殊に孫のユチチャルはクビライ・テムルに仕えてカラコルム行省右丞相・淇陽王に至り、カイシャンにも近侍して信任された。

スベデイ  〜1248
 ウリヤンカ部の人。チンギス=ハーンの“四狗”の1人。 ウリヤンカ部はウリヤンハイ部とも呼ばれ、興安嶺北西麓にあってジャライル部同様に早期からボルジギン氏族に従属していたとされる。 スベデイは騎射に長け、テムジンがジャムカと決裂した際にテムジンに帰順したという。 1219年に始まる大西征ではジェベとともにホラズム朝のシャー=ムハンマドを追討し、次いでカフカスから南ロシアに入ってカルカ河畔でルースィ諸侯を大破し、ハンガリーにまで進出した。
 オゴデイ=ハーン時代の第二次西征では、第一次西征の経験を重んじられてバトゥの副将とされ、西征からの帰国後に隠退したと伝えられる。後に河南王を追贈された。
  
 兄と伝えられるジェルメはエスゲイ=バートルの存命中からテムジンに従う事が約束され、困窮期のテムジンを扶けて信頼が篤く、モンゴル帝国が成立するとボオルチュとともにケシク(宿衛)を統率して“四狗”にも数えられた。 ジェルメの千戸は後にハラチンと称し、モンゴル帝国崩壊後も長城辺外に勢力を保った。

ジェベ  〜1225
 ベスウト部の人。チンギス=ハーンの“四狗”の1人。 初めはタイチウト氏族に隷属してテムジンを射て重傷を負わせたが、捕われた時にこの事を告げて讃えられ、ジェベ(矢)の名を与えられた。 以後の征戦全てに先鋒となり、モンゴル帝国が成立すると万戸長に任じられ、カラ=キタイではグチュルクを撃破し、続く大西征ではスベデイと共にホラズム王国の首都サマルカンドを攻略し、シャー=ムハンマドを追走したのちアゾフ海〜クリミア半島を転戦してカルカ河畔でルースィ諸侯を大破し、帰還途上で歿した。

邱処機  1148〜1227
 棲霞(山東省)の人。邱長春、長春真人とも。 全真教の開祖の王重陽の高弟/七真人の筆頭。教勢の拡大に尽力し、西征中のチンギス=ハーンに招請されるやサマルカンドに赴き、1221年にモンゴル領内での布教と保護が認められ、帰国後は燕京の長春宮に住して尊崇された。 チンギス=ハーンに不老長生を問われて「衛生の道のみにして長生の薬はなし」と諭した事は当時の全真教の先進性を象徴する逸話として知られ、又た西行に同道した弟子の李志常が著した『長春真人西遊記』は当時のモンゴルや西域の事情を知る上で貴重な資料となっている。

テムゲ=オッチギン  〜1246
 チンギス=ハーンの末弟。 “オッチギン(炉の主)”は、末子が最後まで親許にいて家督を継承する風習から、しばしば末子の通称として用いられた。 チンギス諸弟が左翼に封じられたとき、次兄カサルの1千戸、三兄カチウンの3千戸に対し、8千戸を与えられて東方三王家の盟主とされた。 政略に長け、オゴデイ政権ではチャガタイと両翼をなし、オゴデイが歿すると有力諸子の不在に乗じて中央オルドの掌握を図ったが、監国のドレゲネ妃とグユクの母子によって退けられ、グユク即位の直後に頓死した。
  
 オッチギン家を襲いだ孫のタガチャルはグユクの死後の政変でモンケの即位を支持し、モンケ=ハーンの南征では東路軍を指揮したが、襄樊攻略に失敗して更迭された後はクビライの指揮下に属した。 モンケの死後は五投下とともに真っ先にクビライを支持してその軍の中核をなし、クビライ政権の柱石となったが、タガチャルの死後は中央と不和となって1287年にナヤンの乱を惹起した。

ジュチ  〜1225
 チンギス=ハーンの嫡長子。ジュチ=ウルスの名祖。 生母が誘拐された十月後に生まれたことで終生出自を疑われ、トルコ=モンゴル語で“賓客”を意味するジュチと命名されて疎んじられたという。 モンゴル帝国の成立以前から征戦に従い、1211年の金国攻略では右翼軍を構成して山西地方を席捲した。 はじめイルティシュ上流域に4の千戸を与えられてキルギズ・オイラートの経略を担い、1217年にキルギズ族を征服すると改めてカザフ=ステップ東部が所領とされた。
 1219年の第一次西征では第二軍団長としてシル=ダリア下流域を経略したのちホラズムの中枢に進んだが、弟のチャガタイとの反目から軍事に支障を来す事もあり、両者の反目はジュチの出自に加え、戦闘での損害を極力避けるジュチと速戦を重んじるチャガタイの戦術の差異にもあったという。 ホラズム王国の崩壊後はカザフ=ステップの征服を進め、作戦行動中にカスピ海畔で病死した。
 ジュチ家の所領は嗣子のバトゥを主将とした後の遠征によって西方に大きく拓疆された。

チャガタイ  〜1242
 チンギス=ハーンの第2嫡子。チャガタイ=ウルスの名祖。 諸子分封の際にイリ渓谷に4の千戸を与えられ、アルマリクに拠ってカラ=キタイの故地を鎮撫した。 過察・剛直の質で寛容さに欠け、常に長兄のジュチの出生を批判して早くから継承資格を疑問視されていたが、遵法については信頼されて大法律=イャサの管理を委ねられ、「イャサの番人」とも称された。 次弟のオゴデイの大ハーン選出を推進した事で副帝同様の絶大な権勢を保持し、カラ=コルム建設の際には真っ先にアルマリクへの駅站が整備された。

トゥルイ  1192〜1232
 チンギス=ハーンの第4嫡子。 チンギス=ハーンの征戦では常に中軍に近侍して武功も多く、父の死によって高原本土のオルドと101の千戸群を継承し、監国として華北攻略を指導した。 オゴデイが大ハーンに選出されると父の遺領を譲ってオゴデイに正統性を附与し、金国攻略では右翼軍の将として陝西の山間部を越えて開封に進み、黄河南郊の三峯山で金軍主力を撃滅する偉功を挙げたが、帰途に暴死した。 病臥したオゴデイの身代に毒酒を飲んだとも、声望を忌むオゴデイ・チャガタイによる暗殺とも伝えられる。後に元朝が成立すると叡宗の廟号を贈られた。

オゴデイ=ハーン  1186〜1229〜1241
 モンゴル帝国の第二代君主。太宗。チンギス=ハーンの第3嫡子。旧ナイマン王庭のジュンガリア西部のエミル方面に4の千戸を与えられた。 チンギス嫡子では最も寛容・調和の人と称され、チンギス=ハーンの死後、実兄のチャガタイの強力な支援で、本土を嗣いでいたトゥルイに譲られて大ハーンに選出された。亦たトゥルイの子のモンケをモンケを養子とする事で、トゥルイ領をも支配したという。
 1234年に金朝を完全に滅ぼすと統治体制の整備と君権の強化につとめ、オルコン河畔に行政都市カラ=コルムを建設して首都とし、駅伝制を整備して全国を網羅するとともに都市部・農耕地帯の行政統轄機関として、ウイグル人のチンハイを首班として中書省を新設した。 中書省の創設と前後して大規模な南征・西征を決定し、西征軍には甥のバトゥを主将として各王家から太子や有力王子を従軍させ、南征軍は太子に擬せられていたクチュを主将として東方三王家と五投下が主力を構成した。 西征軍は東欧を席捲したが、南征軍は征途でクチュが急死したことで本隊は撤退し、無統制のまま進んだ両翼は南宋の孟珙らに各個撃破されて漢水中流域を放棄した。
 自身は開封攻略後は首都圏を離れることは殆どなく、過度の飲酒が因で病死した。

チンハイ  1168〜1251
 鎮海。ウイグル、或いはケレイトの人。 ウイグル文字への通暁から夙にチンギス=ハーンに近侍し、モンゴル帝国が成立すると宮廷書記の筆頭に挙げられた。 拓屯や興業を指導し、大西征では兵站を担い、オゴデイ政府が行政実務機関として中書省を設置するとその首班とされ、帝国の文書行政に於いて絶大な権限があった。 オゴデイが歿すると監国のドレゲネ太妃に寵任される財務官のアブドゥル=ラフマンと対立してコデン=ウルスに遁れ、ドレゲネの死後に復官した。
 グユクの死後はオゴデイ家からの大ハーン選出に尽力した為、モンケに殺されたとも伝えられる。 ルイIX世のフランスがグユク=ハーンをキリスト教徒と誤認したのは、景教徒のチンハイが重用された事によるともいわれる。

耶律楚材  1190〜1244
 字は晋卿。契丹の東丹王の裔とされる。 父祖の代より金に仕えて博識で知られ、1215年の燕京陥落でチンギス=ハーンに仕えて書記官とされ、天文・卜占に通じていた事からも重んじられて大西征にも従った。 オゴデイ=ハーンにも信任されて中書省の閣僚に列し、金国滅亡後は華北の戸籍と税制の整備に尽力して掠奪的統治を否定し、モンゴル帝国の中国経営の基礎を固めたが、中国に投下領を設定する事への諫止は聴かれなかった。 西アジア型財務官僚のアブドゥル=ラフマンと対立してオゴデイの死後に失脚し、不遇の中で憤死したと伝えられる。嗣子の耶律鋳が後に元朝で中書左丞相に至った為、太師・広寧王を追贈された。
 耶律楚材の自伝では、耶律楚材が中書令となり、ウイグル人チンハイが右丞相、女真人の粘合重山が左丞相とされていますが、実際には中書省発行の公文書にはチンハイの花押が不可欠だったそうで、『集史』ではチンハイを政府首班と明記して耶律楚材・粘合重山の名は現れないそうです。 そもそも中書省自体が徴税業務と行政文書の処理を主体とするもので、耶律楚材には国事の決定権まではなかったものと考えられます。

厳実  1182〜1240
 泰安(山東省)の人。字は武叔。もとは無頼だったものが金末の混乱で自警団を組織して軍閥に成長し、1220年にムカリに降って中国経略に従事し、東平路行軍万戸とされて東平一帯の支配を追認された。漢人四大世侯にも数えられ、死後に魯国公を追贈された。
 嗣子の厳忠済はモンケ=ハーンの南征でも武勲を示して最も不羈性が強かったが、李璮の乱の後のクビライが進める軍閥解体の際には、幕僚の建言によって真定史氏とともに率先して応じて諸侯に範を示した。

張柔  1190〜1268
 易州定興(河北省)の農夫の出身。字は徳剛。金末に一族で自警団を組織し、1218年にモンゴル軍に投じた後は華北経略に従って河北東西等路都元帥とされ、順天府を中心に軍閥を形成し、金が滅ぶと万戸とされて漢人四大世侯にも数えられた。 モンケ=ハーンの南征にも従い、モンケの死後はクビライを支持し、大都造営を指揮して1267年に蔡国公に封じられた。1318年には仁宗より汝南王が追贈された。

ドレゲネ  〜1246
 オゴデイ=ハーンの第6夫人。ナイマン出身。 オゴデイが歿して間もなく、オッチギンのクリルタイ開催を挫折させ、長子グユクの生母である事や、上位の諸皇后が歿していた事もあって監国となり、実子グユクの大ハーン選出に奔走した。 チャガタイ亡き後の一族の最長老となっていたバトゥがクリルタイに応じなかった為にグユクの選出は容易に決しなかったが、トゥルイ未亡人のソルカクタニ=ベキの合意を得てグユク選出に成功し、ジュチ家からもオルダ・シバン・ベルケら諸王が派遣された。 正嫡を無視したクリルタイの強行と、権力掌握の過程で苛酷な徴税吏として知られたアブドゥル=ラフマンを重用した事で、オゴデイ家の求心力は著しく低落した。

アブドゥル=ラフマン  〜1246 ▲
 西域の商人出身。 財務官としてチンハイに薦挙され、西アジア式の徴税請負制を導入して帝室の歳入増を確保し、オゴデイ=ハーンに信任された。 オゴデイの死後は監国となったドレゲネ太妃と結んで政府首班となったが、横恣な行為が多かった為にドレゲネが歿して程なくに処刑された。 『元史』では奸臣伝に記されるが、『集史』ではオゴデイ政権の財政難を回避した財務官として評価されている。

グユク=ハーン  1206〜1246〜1248
 モンゴル帝国の第三代君主。定宗。オゴデイ=ハーンの庶長子。1233年に蒲鮮万奴を討滅し、バトゥの西征にも従軍したが、チャガタイ家のブリと結んでバトゥと激しく反目し、オゴデイに叱責・召還された。 この為、オゴデイの死亡当時は地理的に最も優位にあり、生母ドレゲネの奔走もあって紛糾の末に大ハーンに選出された。 ドレゲネの死後はアブドゥル=ラフマンを粛清してヤラワチチンハイらを再任し、チャガタイ家の当主を更迭するなど政治の刷新を図ったが、バトゥとの抗争はバトゥ討伐を目的とした西征に発展し、征途のビシュ=バリク近郊で急死した。バトゥによる暗殺説が根強い。
  
 グユクの死後はメルキト出身の第一皇后オグル=ガイミシュが監国となってオゴデイの孫のシレメンを擁立し、トゥルイ家のモンケを奉じるバトゥと対立したが、オゴデイ・チャガタイ両家からもバトゥのクリルタイに応じる者が少なくなかった。 ジュチ家・トゥルイ家によってモンケ=ハーンが選出されると反対派の多くは処刑され、オゴデイ・チャガタイ両家の中央アジア領は細分されてウルスとしての実質を失った。

シレメン  ▲
 オゴデイ=ハーンの嫡孫。クチュの子。オゴデイの存命中は継嗣に擬されていたとも伝えられ、そのためグユク・モンケが相次いで大ハーンに選出された事を不満とし、オグル=ガイミシュ(グユク后)・ホージャ=オグル(グユクの子)らと結んでモンケ暗殺を謀ったが、露見して鏖殺された。

コデン
 グユク=ハーンの弟。トゥルイの死後、その4千戸を分与されて旧西夏領を支配するコデン=ウルスを形成した。 クチュを主将とした南征では陝西から四川に南下して撃退されたが、1239年よりチベット征服を進めて青海地方から中央チベットに進攻し、1244年にチベット仏教サキャ派教主のサキャ=パンディタと会見した事は、チベット仏教のモンゴルへの浸透の布石となった。兄のグユクに先んじて歿した。
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 コデン家はグユクの死後の政変でモンケの大ハーン選出を支持し、そのためアルタイ方面のオゴデイ=ウルスが細分化された後も所領を安堵された。 その後、京兆地方を所領としたクビライとの関係が強くなり、1253年に始まるクビライの大理遠征にも従い、モンケ死後の内戦でも当主のジビク=テムルはクビライを支持してアリクブカらと攻伐した。
 クビライ政権下でコデン=ウルスは安西王家の統制下に置かれ、西方からは親クビライのチャガタイ諸王が勢力を拡大し、諸王に中国式王号が与えられた際には最高の格式の一字王号(荊王)が認められたが、甘粛地方の統治は永昌等処宣慰使司都元帥府に次第に移管された。

モンケ=ハーン  1209〜1251〜1259
 モンゴル帝国の第四代君主。トゥルイの嫡長子。トゥルイ家を嗣ぎ、『集史』によればオゴデイの養子となっていたという。 バトゥの西征に従ってキプチャク族征服やキエフ攻略にも加わり、軍中ではグユクと対立したバトゥを一貫して支持し、召還されたグユクの監督を兼ねて帰国した。 グユク=ハーンの死後、バトゥの強力な支援を背景に左翼勢力とも結んでオゴデイ・チャガタイ家の抵抗を排して大ハーンに選出され、チャガタイ家当主を更迭するとともにオゴデイ・チャガタイ両家の反対派を粛清し、両家の中央アジア領を細分してジュチ家との両頭体制を構築した。
 即位とともに財務官のヤラワチ父子を重用して財政体制を整えるとともに、次弟のクビライを漠南漢地大総督として中国経略を一任する一方、三弟のフレグには西征を委ねたが、大理征服後の1257年にはクビライの幕僚を大量に処刑するなどクビライとの亀裂が表面化し、南宋攻略からも除名した。 翌年に開始した南宋攻略では末弟のアリクブカをカラ=コルムの留守として自ら中軍を率いて陝西から四川に進み、ベトナムから北上するウリャンハダイ軍と、オッチギン家のタガチャルを主将とする左翼諸軍を両翼としたが、左翼軍の遅滞とタガチャルの更迭によって戦線が膠着し、合州の釣魚山で陣歿した。疫病とも暗殺ともいわれる。
 軍事や政治のみならず、数ヶ国語に通じてユークリッド幾何学をも修めるなど有能多才の人だったが、矜持が強く且つ峻厳で、モンゴルの慣行より集権化を優先させた同族の大量処刑と独断での当主更迭・ウルス解体は、トゥルイ家に対する後の中央アジアの反抗と混迷の原因を醸成した。

シギ=クトク
 タタル部の人。12世紀末頃にテムジンに執われ、ホエルン太妃、或いはボルテ妃の養子とされた。 ウイグル文字に通じていた為、モンゴル帝国が成立すると大断事官とされて徴税を担当し、1215年に金の中都が落城した際には接収の為に派遣された。 チンギス=ハーンの西征に従軍して1219年にパルワーンでホラズム軍に大敗し、これは西征中唯一の敗戦とされるが、黄金氏族の一員として不問とされた。 後に金が滅ぼされると華北の戸籍編纂と税制の整備を担い、モンケ=ハーンにも信任されて中都の大断事官とされ、モンケの南征ではカラ=コルムにあってアリクブカを輔佐し、そのためクビライの覇権が確立すると政権中枢から排斥された。

マフムード=ヤラワチ  〜1255
 ホラズム出身。1221年、西征途上のチンギス=ハーンに降ってモンゴルに遷ったとされるが、1215年のホラズム朝への答礼使節団員や、1223年にガズヴィーン=ダルガチとされた同名人と同一ともされる。 財務手腕に長けてオゴデイ=ハーンにも信任され、中央アジア諸都市の賦税を司り、後に華北の財務を委ねられたが、オゴデイの晩年にはアブドゥル=ラフマンの抬頭で失脚した。 グユク=ハーンが親政をはじめると復官して華北の財政を担当し、モンケ=ハーンが即位して燕京等処・別八里等処・阿母河等処の3行尚書省が置かれると燕京行省の断事官とされた(別八里行省の長官は子のマスウード=ベイ、阿母河行省の長官はアルグン

マスウード=ベイ  〜1289 ▲
 ヤラワチの子。父と共にチンギス=ハーンに降って西域統治に携わり、オゴデイ=ハーンの時代にはその代官としてホージェンドで大ハーン直轄の定住地帯の財政を担当し、マーワランナフル復興に尽力した。 ヤラワチが失脚すると一時バトゥの許に逃れたが、グユクの即位で復帰し、モンケ時代にはビシュ=バリク等処行尚書省の長官として西ウイグル王国以西の財務を司った。 モンケ=ハーンの死後、自立したバラクに仕えて財政長官として徴税事務を司り、カイドゥにもその手腕は高く評価され、死後、その3子が相次いで職を継いだ。

アルグン=アカ  〜1278
 オイラート出身。アカは首長の尊称。大アミールとも。ケシク(宿衛)としてオゴデイ=ハーンに近侍して書記・財務によって信任され、オゴデイの死後にホラサーン総督としてイラン方面の行財政を一任された。 モンケ=ハーンが即位すると阿母河等処行尚書省の長官として旧職を追認され、フレグの西征後はフレグ=ウルスに従った。

ウリヤンカダイ  1200〜1271
 スベデイの子。 蒲鮮万奴討伐でグユクに扈従して功があり、1236年に始まるバトゥの大西征でも父と共にグユクに従ったが、グユクが召還された後も遠征軍に留まって各地を転戦した。 グユクの死後はモンケを支持し、シレメン選出を主張するオグル=ガイミシュの抗議を一蹴した。
 モンケ=ハーン即位直後のクビライ大理攻略では副将として従い、大理平定後は都元帥とされてクビライ召還後も雲南各地を転戦し、1257年には陳朝大越の首都大羅城(ハノイ)を攻囲して藩属を認めさせた。 モンケ=ハーンの急死で南征が中止されると鄂州に留まるクビライ軍と連携して桂林から北上し、鄂州の殿軍のバアトルと合流して上都に帰着し、クビライ側の有力な支持者となった。

アリクブカ  〜1260〜1264〜1266
 モンゴル帝国の第五代君主。モンケ=ハーンクビライの末弟。 モンケ=ハーンの南征ではモンゴル本土の統制を託され、そのため当時はモンケの継嗣と目され、1259年にモンケが陣歿すると葬儀を主催した。 クビライの僭称に遅れて国都カラ=コルムにクリルタイを召集すると、トゥルイ家と正后の実家のオイラートのほかチャガタイ家にも支持されて大ハーンに選出され、ジュチ家フレグにも追認された。
 クビライを討伐したものの漢地からの供給を断たれ、1261年にシムルトゥ=ノールで撃退されるとカラ=コルムを放棄してアルタイに退き、中央アジアからの物資供給を条件にチャガタイ家当主に立てたアルグにも離叛されて完全に劣勢に転じた。 イリからアルグを逐った後もマーワランナフルは得られず、またアルグ派の将僚を多数処刑したことで同族からも孤立し、自壊状態となって1264年にクビライに降伏した。

 

プレスター=ジョン
 地中海東岸の十字軍国家が衰えた12世紀頃より、十字軍国家やヨーロッパで行なわれた一種の救世主伝説。 プレスター=ジョンは英名で、司祭ヨハネ(プレスビテル=ヨアンネス)を意味し、東方の景教(キリスト教ネストリウス派)国の国王にして司祭のヨハネが、イスラム教徒を滅ぼしてエルサレムを回復するというもの。
 セルジュク朝を撃破した耶律大石が淵源になったらしく、以後も風説が独歩拡大し、チンギス=ハーンの西征の頃にはジョンの子のダヴィデ王がバグダード近郊に迫ったと伝えられ、そのため協働を期待した十字軍諸国がアイユーブ朝の首都カイロを攻略して惨敗するという椿事も発生した。 アジアのプレスター=ジョン伝説は、最終的にはバトゥの西征で終わり、これよりバチカンやフランスから事実確認を兼ねた使節が送られるようになった。
 プレスター=ジョン伝説の昂揚は、ローマ教皇と対立する神聖ローマ帝国の喧伝に依るとの見解もある。

プラノ=デ=カルピニ  1180?〜1252?
 イタリアのプラノ=デ=カルピニ出身のフランチェスコ会修道士。名はジョヴァンニ。 教皇インノケンティウスIV世の使節として、布教と偵察を兼ねてモンゴルに派遣され、バトゥのオルドを経て1246年にカラ=コルムでグユク=ハーンに謁見し、翌年に帰国した。 その報告書である『モンゴル人の歴史』は、長らく第一級史料として以後のモンゴル観の根源となったが、独善性が強くモンゴルの野蛮性を強調しているとも評される。

ギョーム=ド=ルブルク  1215?〜1270? ▲
 フランドルのルブルク出身のフランチェスコ会修道士。 モンゴルの協力を想定した第七次十字軍(アイユーブ朝のカイロ攻略)に失敗したルイIX世により、親書をも携えながらも私人の資格でモンゴルに派遣された。 1253年にカラ=コルムでモンケ=ハーンに謁見し、7月余の滞在後に帰国した。 1255年に著した報告書『モンゴル帝国旅行記』は、曲筆や誇張の少ない一級史料として、近年になって再注目されている。


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