西トルキスタン

 狭義の中央アジアの西半。トルコ人の住地としてのトルキスタンの西半を示し、歴史的にはアム=ダリア以北、現在のカザフスタン・キルギス・タジキスタン・ウズベキスタンを包摂し、現在ではトルクメニスタンも含む。 シル=ダリアを挟んで東トルキスタン同様に北の遊牧社会と南のオアシス都市社会に大別でき、シル=ダリアとアム=ダリアに挟まれたオアシス地帯はトランス=オクシアナ、ソグディアナ、マーワランナフルなどと呼ばれた。
 シル=ダリア以北のステップ地帯は北アジアウクライナ平原を結ぶステップ=ルートでもあり、古来から多くの遊牧勢力が興亡したが、北アジアの遊牧勢力に影響下に置かれる事も多かった。 西突厥の崩壊後にトルキスタン化が、モンゴルのジュチ=ウルス(キプチャク=ハン国)やドゥア=ウルス(チャガタイ=ハン国)の下でムスリム化が進み、ジュチ=ウルスの崩壊後はウズベク族カザフ族が主流となった。

ソグディアナ  ホラズム  トハーリスタン  ウズベク  南ロシア  キプチャク=ハン国

 
 ソグド人の地。狭義にはサマルカンドを中心とするザラフシャン川流域を指したが、シル=ダリアとアム=ダリアの間の狭義の西トルキスタンと同義に用いられる事も多く、ギリシア人のトランス=オクシアナ(オクソス河の向う)、アラブ人のマーワランナフル(アム河の向う)とほぼ重なり、西にホラズム、南にトハーリスタン(バクトリア)と接する。 土地は肥沃なものの山嶺や沙漠に囲まれて可耕地が狭く、早くからオアシス都市国家が建設されて中継貿易によって繁栄した事や、伝統的に南北の遊牧勢力に支配された事など東トルキスタンとほぼ同じい。
 原住民のソグド人はイラン系と目され、シルク=ロード交易をほぼ独占して東西の文化交流や伝播にも大きく貢献したが、交易路の安定を図って遊牧勢力との結びつきを強めた事もあって、中国人からは「最も狡猾で利に敏く、僅利のためでも肉親を殺して顧みない」と酷評された。 ステップ地帯に一種のコロニーを形成し、突厥ウイグルの行財政を輔けただけでなくソグド文字やマニ教に代表されるイラン的ソグド文化を普及させた。 モンゴル帝国で行財政を担った“ペルシア系”の多くもソグド人だったらしく、国際的な資本と情報網によってウイグル人と並んでモンゴル経済を主導し、モンゴル帝国はモンゴルの武力とソグド・ウイグルの経済力による二重帝国と評されることもある。 西方世界の影響によって早くからソグド文字が考案され、後に突厥文字・ウイグル文字が派生し、モンゴル文字・満州文字もソグド文字を参考に作られた。
 

ザラフシャン川
 パミール高原に発し、西流してアム=ダリアの手前で沙漠に埋没する。 流域一帯は肥沃で、早くからサマルカンドブハラなどの都市が栄え、古くはソグディアナと呼ばれた。原名は不明だが、隋代の史書には那密水とあり、現在の川名は18世紀以降のもの。

シル=ダリア
 ペルシア名ヤフシャ=アルタ、ギリシア名ヤクサルテス、アラブ名はシャイフーン、中国では薬殺水・真珠河、突厥碑文ではインチュ(真珠)川。天山西部に発し、上流部はホージェンド川とも呼ばれ、西北流してアラル海に注ぐ。 右岸支流群を以て長らくオアシス世界と遊牧世界の境界と認識され、上流域のフェルガナタシュケントを中心とした一帯では古くからオアシス都市が発達し、特に遊牧民族との交易で栄えた。

アム=ダリア
 ペルシア名ワフシュ、ギリシア名オクソス、アラブ名ジャイフーン、中国では烏滸水・縛芻河。 パミール山中に発し、西北流してアラル海に注ぐ。しばしば河道が変遷して多くの都市が興廃し、13〜16世紀にはカスピ海に流入していたという。 長らくイランとトゥラーン(非イラン系遊牧民の地)の境界と認識され、下流域のホラズム地方、上流域のトハーリスタン(バクトリア)地方はソグディアナと並ぶ東西交通路の一大中心地として古代から栄えた。 マーワランナフルがイスラム化した後も、象徴的な分水嶺として長らく認識されている。

フェルガナ
 シル=ダリア上流域の盆地・都市名。東西トルキスタンを繋ぐ要衝で、北方遊牧勢力とイラン勢力の係争地の1つでもあった。 古くはアカイメネス朝・アレクサンドロス帝国の東限でもあり、漢代には大宛国と呼ばれてゾロアスター教が行なわれていた。 16世紀にウズベク族の定住化が始まり、18世紀半頃にはコーカンド=ハン国が興り、1876年に帝政ロシアに併合されてフェルガーナ州とされた。都市はウズベキスタンに属しているが、盆地はタジキスタン・キルギズ共和国に三分されている。

タシュケント
 シル=ダリア右岸支流のチルチク河畔のオアシス都市。古名はチャーチュ。中国では石国と記され、東漢後期から知られた。 8世紀半ばのタラス会戦以降は東進するイスラム勢力の前進基地となり、サーマーン朝カラ=ハン朝の治下でイスラム・トルコ化が進展し、モンゴル時代にも重要都市とされた。 16世紀以降はウズベク族カザフ族の係争地の1つとなり、18世紀には一時トルグート部に征服されたが、1780年以降はコーカンド=ハン国が領してその発展を扶け、19世紀後期に帝政ロシアに征服された。

サマルカンド
 ザラフシャン河畔のオアシス都市。B10世紀頃には城壁都市が営まれ、次第にソグディアナの中心都市として発展し、アレクサンドロスの頃にはマラカンダと呼ばれ、中国では概ね康国と記された。 8世紀前期、ウマイヤ朝に征服されてイスラム化が進められ、アッバース朝が衰えるとサーマーン朝の治下に入り、カラ=ハン朝以後の東方系・トルコ系諸王朝の下で次第にトルコ化が進んだ。 ウルゲンチから国都が遷されたホラズム朝の末期の人口は20万に達していたとされ、モンゴルの征服で破壊されたものの程なく再建され、ティムール朝で再び国都とされてイスラム文化圏の中心として空前の繁栄を示した。 ブハラ=ハン国を経て、1868年に帝政ロシアに征服され、1871年に旧市街の西方に建設された新市街が現在の城邑となっている。

ブハラ  ▲
 サマルカンドと並ぶソグディアナの歴史的都市。ザラフシャン川下流域のオアシス都市で、B5世紀頃には城壁都市が存在していた事が確認されている。ソグド人の都市国家の1つとして中国では南北朝時代に“忸密”、隋唐時代に“安国”と記された。 709年にウマイヤ朝に征服されてよりイスラム化が進み、9世紀に成立したサーマーン朝の首都として飛躍的に発展し、都市の規模・文化ともサマルカンドに替るマーワランナフルの中心都市となった。 サーマーン朝の崩壊で国都の地位を失ったが、シャイバーニー朝の首都となった16世紀頃より再興が進み、その後もブハラ=ハン国の首都として、中央アジアのイスラム文化の中心として繁栄した。 1868年に帝政ロシアに征服された後も、現在のウズベク共和国に至るまで首都の地位を保っている。

 
 

ホラズム

 アム=ダリア下流域一帯の呼称。フワーリズムとも。 沙漠に囲まれたオアシス地帯で、古くからアム=ダリアを利用した灌漑農耕が発達し、交易上の立地と西アジア文化の影響などからB8世紀頃には国家も形成され、君主はイラン系の“シャー”を称した。 8世紀にアラブ=イスラムに征服され、996年にアッバース朝のホラズム総督マームーン=ビン=ムハンマドがウルゲンチでホラズム=シャーを称して新政権を興すとイラン=イスラム文化が開花し、11世紀にガズナ朝、次いでセルジュク朝に征服された後も繁栄を維持し、言語のトルコ化が進行した。
 セルジュク朝のホラズム総督は世襲ののちホラズム=シャーを称して12世紀に独立し、13世紀初頭にはマーワランナフルやイランを支配する大勢力に発展した。 モンゴルによるホラズム=シャー朝の崩壊とモンゴルの内戦によって荒廃したが、程なく復興が進められてティムール朝時代にイスラム圏の中心的な地域となり、後にウズベク族のヒヴァ=ハン国が成立した。 現在はウズベキスタン共和国とトルクメニスタンに二分され、主要部の殆どはウズベキスタンのカラ=カルパク自治共和国に属している。
 

サーマーン朝  875〜999
 ササン朝の貴族を称したサーマーンを名祖としたイラン=イスラム王朝。 サーマーンの曾孫ナースィルI世がターヒル朝の滅亡に乗じてブハラに拠って独立し、マーワランナフルを支配して875年にアッバース朝カリフよりアミールとして認められた事より始まる。 スンナ派の保護者を自任してトルコ族に対する防衛と聖戦を進め、900年にはサッファール朝を破ってホラサーンをも支配し、独自の貨幣の鋳造やマムルークの供給によってイスラムの東方の雄として全盛期を迎え、王朝の貨幣は南ロシア〜北欧の諸地域からも多量に発見されている。
 学問・文学でペルシア語の使用が始められるなどイランの文芸復興もこの時代に始まり、ルーダキー(〜954)やダキーキー(〜978)ら民族的叙事詩人を輩出した。 貴族階級の横恣や、マムルーク勢力シーア派の拡大などによって衰退し、カラ=ハン朝に滅ぼされた。

ホラズム=シャー朝  1097〜1220
 支配者がシャーを称したホラズム政権にあたるが、通常はセルジュク朝のホラズム総督が世襲を認められた後の政権を指す。国都はウルゲンチ。 1153年にセルジュク朝が滅ぼされるとカラ=キタイに従属したが、トルコ系のキプチャク族やカンクリ族を用いて強盛となり、1194年にレイ(テヘラン近郊)に拠るイラク=セルジュク朝を滅ぼし、1197年にはアッバース朝カリフよりイラク・ホラサーンのスルタンとして正式に認められた。
 1200年に即位したアラー=ウッディーン=ムハンマドII世はカンクリ族のテルケン=ハトゥンの子で、短期間でゴール朝やカラ=キタイを滅ぼし、イランを征服してソグディアナ・アフガニスタン・イランを支配する大勢力となった。 1218年にオトラル太守がチンギス=ハーンの通商使節団を虐殺した為にその西征を招き、母后との確執からカンクリ兵の造叛を警戒して兵力を集中できず、都市ごとに各個撃破されて瓦解した。チンギス=ハーンはかねてソグディアナの征服を図り、通商使節団は間諜を兼ねていたとも伝えられる。
 ムハンマドII世は壊走を続けて1220年にカスピ海上の孤島で病死し、第3子のジャラール=ウッディーンがモンゴルに抵抗しつつインドからイラン北西に転戦してタブリーズを中心に勢力を回復させたが、アナトリアに進出してアナトリア=セルジュク朝とアイユーブ朝に大破され、その翌年(1231)にモンゴル軍に追われてクルディスタンの山中で殺された。

 

ティムール朝

  1370〜1506
 モグーリスタン=ハン国から独立したモンゴル系のティムールを開祖とし、中央アジア・西アジアのほぼ全域を支配した王朝。 ティムールはサマルカンドを国都として一代で大帝国を築き、その死後の内戦を制した第4子でホラサーン総督のシャー=ルフ(在:1409〜47)はオスマン朝や明朝と親善を保ち、アゼルバイジャンを黒羊朝に奪われたものの嗣子ウルグ=ベク(在:1407〜09)の時代にかけて文化面でも中央アジアの極盛期を現出した。
 当時のモンゴル政権の伝統として各地に分封された王族の自立性が高く、内戦の勝者でもあったウルグ=ベクが実子に殺されると再び内戦状態に陥り、 マーワランナフルを統合したアブー=サイード(在:1451〜69)が黒羊朝からホラサーンの回復にも成功したが、白羊朝を伐って敗死するとサマルカンド政権とヘラート政権に分裂した。 サマルカンド政権は1500年に、ヘラート政権は1507年にウズベク族に滅ぼされ、フェルガナを逐われた王孫のザーヒル=ウッディーン=ムハンマド(通称バーブル=獅子)は最終的にインドに逃れてムガール朝を樹立した。 ムガールとはモンゴルが訛化したもので、第二次ティムール朝と呼ばれる事もある。
 ティムール朝の君主はモンゴル=キヤト氏の出身ではなかった為にハン号を避け、アミールやスルタンを称するなどイラン=ムスリム化が進んでいたが、重要事項をクリルタイで決し、チンギス汗の大法令が遵守されるなどトルコ=モンゴル的伝統も重んじられた。 諸君主はイラン=イスラム文化の保護者を以って任じ、都市の発展に努め、君主自身が一流の文化人であることが多かった。 王朝が分裂した15世紀後期はティムール朝文化の爛熟期にあたり、サマルカンド・ヘラートとも文化の中心となって栄え、細密画芸術は最高水準に達し、法学・数学・医学・天文学などのイスラム科学も隆興し、バーブルに代表されるチャガタイ=トルコ文学も勃興した。

ティムール  〜1370〜1405 ▲
 ティムール朝の開祖。モンゴルの名門バルラス部の人。 モグーリスタン=ハン国によるマーワランナフル征服の後、同地の混乱に乗じて1370年までにマーワランナフルを統一し、サマルカンドに都してチャガタイ家の王を擁してキュレゲン(娘婿)・アミール(君侯)を称した。 モンゴル帝国の再興を標榜してモグーリスタン=ハン国・キプチャク=ハン国を服属させ、イラン・カフカス・東イラクを征服し、オスマン朝をアンカラ会戦で大破してシリア・アナトリアにも宗主権を及ぼすなどモンゴル帝国の西半をほぼ回復した。 さらにモンゴル王族の要請で東征を進め、途上のオトラルで病死した。
 サマルカンドには建築家・工芸家・学者・文人などが集められ、東西貿易の中継地としても復興し、イスラム圏の学芸・文化の大中心となった。

ナクシュバンディー教団
 イスラム神秘主義教団の一派。12世紀後期にブハラのアブド=アル=ハーリク=グジュドゥワーニーによって創始され、当初はホージャ派と呼ばれたが、14世紀にバハー=アッディーン=ナクシュバンドによって発展するとナクシュバンディー教団と呼ばれるようになった。 ティムール朝後期のサマルカンドで絶大に支持され、そのため政争にも関与してサマルカンド政権の弱体化を助長した。 ブハラの再興と伴にホージャ家の勢力が伸長し、特に東トルキスタンではヤクブ=ベクの乱の頃まで絶大な権威を保った。

 
 
 

ウズベク族

 中央アジアのムスリム=トルコ系遊牧民。ウラル南麓地方のシバン=ウルス(青帳汗国)の領民が中核となり、ジュチ=ウルスのムスリム化を推進したウズベク=ハン(在:1313〜42)を名祖とする。 バトゥ=ウルスの崩壊が決定的になった14世紀後半頃より認識され、アブル=ハイル=ハン(在:1428〜68)に統合されて東・南への拡大を始めたが、1456〜57年にオイラート族に大敗したことでカザフ族が分離し、その死後に再び分裂してカザフ族への大量の離脱者を生じた。
 アブル=ハイル=ハンの孫のシャイバーニー=ハンの時代(1499〜1510)にティムール朝を滅ぼしてマーワランナフルを支配し、定住化が進んで18世紀にかけてヒヴァ=ハン国ブハラ=ハン国コーカンド=ハン国を樹立して三国が並立したが、南下策を採る帝政ロシアによって19世紀後期に相次いで征服された。 20世紀にマーワランナフル南部で独立運動を興したトルコ系住民がウズベクを称し、これがソヴィエト連邦に公認されてウズベク共和国として画境され、ソ連邦の崩壊と共に独立した。

シャイバーニー朝  1499〜1599
 ウズベク族ジュチ家のシバン(ジュチの第6子)を名祖として、中央アジアに樹立した政権。シャイバン朝・ウズベク=ハン国とも。 ウズベクを再統合したムハンマド=シャイバーニー=ハン(在:1499〜1510)が1500年にサマルカンドを、1507年にはヘラートを陥してティムール朝を滅ぼし、マーワランナフルとホラサーンを支配した事で国としての実質を具えたが、メルヴでサファヴィ朝に敗死すると分権傾向を露呈してホラズム地方が分離し(ヒヴァ=ハン国)、サファヴィ朝と結んだティムール朝の再興を阻止した後には更にサマルカンド政権とブハラ政権に分れた。 再統合を果たしたアブドゥッラーII世の時代(1552〜98)にブハラに遷都し、以後はブハラ=ハン国と呼ばれるようになる。
 アブドゥッラーII世はオスマン朝との同盟でサファヴィ朝に対抗する一方、ホラサーンの征服やホラズム・カシュガルへの進出、東西貿易の中継などによって全盛期を現出したが、死の翌年には直系の男子が絶えた為に外甥のバーキー=ムハンマドが立てられ、以後はジャーン朝もしくはアストラハン朝と呼ばれる。

ブハラ=ハン国  1557〜1920 ▲
 ウズベク三ハン国の1つ。 シャイバーニー朝ブハラに遷都した後の称。シャイバーニー朝(1557〜1599)、ジャーン朝(1599〜1785)、マンギット朝(1785〜1920)と続き、いずれもブハラを国都としてソグディアナを支配した。
 ジャーン朝はシャイバーニー朝の直系が絶えた後、アストラハン=ハン国の旧王族のジャーン=ムハンマドと、ウズベク王族の外甥でもあるバーキー=ムハンマド父子がハン位を襲いだもので、アストラハン朝とも呼ばれた。 カザフ族からシル=ダリア流域一帯を奪い、ムガール朝の遠征軍を撃退するなど17世紀に最盛期を現出し、ブハラは交易都市としても栄えた。 18世紀に入ると分離したコーカンド=ハン国との抗争と地方諸侯の自立で衰え、更にイランのアフシャール朝に従属(1739〜47)した事で実権は独立回復を主導したマンギット族のアタリク家に移行した。
 1785年にジャーン王統を廃して成立したマンギット朝は、モンゴル王家ではなかった事もあってカリフの別称のアミール・アル・ムウミニーン(信徒の長)を称し、歴代で宗教を保護してブハラは東方イスラム世界の一大中心地となった。 19世紀前期に軍事拡大に失敗し、帝政ロシアとアフガン勢力による蚕食の後、1868年にロシアのカウフマン将軍に征服されて保護国となった。 1920年にヒヴァ=ハン国とともに王制を廃止され、1924年にウズベク共和国が成立した。

ヒヴァ=ハン国  1512〜1920
 ウズベク三ハン国の1つ。 シャイバーニー朝のムハンマド=シャイバーニー=ハンの死後、サファヴィ朝よりホラズム地方を奪回した王族がウルゲンチに拠って自立したもので、ホラズム=ハン国とも呼ばれた。 アム=ダリアの遷移で1615年にヒヴァに遷都し、カザフ族ブハラ=ハン国に侵されながらも17世紀にアブル=ガーズィー=バハードゥル=ハンの下(1644〜63)で最盛期を迎えた。 遷都後に軍事を担ったトルクメンのクンラト族が次第に抬頭し、イランのアフシャール朝に支配(1740〜47)された後はクンラト族が実権を掌握した。
 1806年に簒奪によってクンラト朝が成立したが、この頃には灌漑設備の荒廃と耕地の沙漠化が深刻で、そのため武力拡大を国策としてカザフやトルクメンを征服したものの、カラ=カルパクへの進出と内乱の続発が帝政ロシアの介入を招来し、1873年にロシアのカウフマン将軍に征服されて保護国とされた。 ソヴィエト政権の成立と共に王制が廃止されてホラズム共和国が成立し、1924年にウズベク共和国のカラ=カルパク自治州とトルクメン共和国に分割された。

コーカンド=ハン国  1709?〜1876
 ウズベク三ハン国の1つ。ブハラ=ハン国の衰退期にフェルガナのホージャ政権を打倒して独立したもので、モンゴルの王族は戴かず、1740年にコーカンドを国都とした。 オイラートのジュンガル王国が滅ぼされると亡命者を多く受容し、1759年に清朝の冊封体制に加わって外圧を緩和すると共に新疆での通商権の獲得や軍備の増強などによってフェルガナ全域の統一を進め、1780年には交易都市のタシュケントを征服して中央アジアで最も強盛となった。
 中国とロシアの通商を独占的に仲介し、19世紀に入ると新疆から亡命したホージャ家の再興を支援してカシュガル・ヤルカンドの間接支配を図り、これには失敗したものの1831年には新疆での無税貿易権を認められて全盛期を迎えた。 1842年のブハラ=ハン国による劫掠以降は内乱や牧民の離叛が絶えず、新疆でのヤクブ=ベクの離叛による交易の停滞や帝政ロシアの進出によって完全に凋落し、1876年にロシア軍に征服された。

ヤクブ=ベク  1820〜1877 ▲
 コーカンドの神官の子。 コーカンド=ハン国で軍人となって将軍まで進み、1852年にはロシア軍をタシュケントで撃退した。 1862年の陝甘の回民起義に端を発した新疆回部の大乱では、コーカンド=ハン国からの援軍となってカシュガルの清軍を駆逐したが、程なくカシュガルを占拠してホージャを排除し、1871年までにイリ地方を含む回部のほぼ全域を支配してアミール政権を樹立した。 英領インドより大量の武器支援を受け、オスマン朝からもアミールに任じられたが、ヤクブ=ベクの独立は却って中国とロシアの東西交易を停滞させてコーカンド=ハン国の没落を助長し、自身も1876年に清朝の左宗棠に大破され、臣下に殺されたとも、自殺したとも伝えられる。


 

カザフ族


 15世紀半ばにウズベク族から分離した中央アジアのムスリム=トルコ系遊牧民。ジュチ家のオロスの裔/ジャニ=ベク・ケレイに従ってイリ地方に拠ったのち、大量のウズベク族が流入した事でウルスを形成し、時にカザフ=ハン国とも呼ばれる。 カザフ(Qazaq/kazakh)とは“不羈者”“放浪者”を意味し、ロシア語のコサックと本来は同源同義で、ロシア人ははじめ誤ってキルギズと呼び、後にキルギズ族と区別するためにキルギズ=カザフと呼んだ。
 モンゴルやオイラートの圧迫と、シャイバーニー朝の分裂によって17世紀にはカザフ=ステップ西部にも進出し、各地に小部族を形成しつつ、東部より大中小の3大ジュズ(部族連合)に再編された。 同世紀後半には西端の小ジュズを除いてジュンガル王国の勢力下に置かれ、ジュンガル王国が滅ぼされた後は清朝の名目的な藩属国となった。
 19世紀に入る頃よりロシアの進出が本格化し、最東の大ジュズも宗主国のコーカンド=ハン国の征服と共にロシアに支配されてウズベク国家と同様に植民地経営が行なわれ、帝政ロシアと中国清朝との宗主権問題はイリ条約まで最終的な解決が持ち越された。 1936年にカザフ共和国が成立し、この頃より定住化と農耕経済への移行が進められ、ソヴィエト連邦の崩壊後はカザフスタン共和国として独立した。

 
 
 
 

西方ステップ

 

キンメリ人
 キンメリアとも。B9世紀頃にはウクライナ平原に存在した、初めて確認された遊牧遊牧騎馬種族。 原住地や人種的帰属は不明で、イラン種族説と、トラキア系印欧語族説が有力。 スキタイ人によってアルメニアに逐われた後はオリエント諸国を圧迫し、B7世紀半頃にウラルトゥ王国を滅ぼし、リディア・フリュギアを大破してアナトリアを席捲した。 シリアやイラン南部にまで達した集団もあったが、やがてアッシリアやスキタイに圧迫されて衰え、B7世紀末にリュディアに大破されて記録されなくなった。アッシリアはキンメリ人をギミルライ・ガミルと呼び、アルメニア人によるカッパドキアの呼称「ギミル」もこれに由来する。

スキタイ人
 B6世紀〜B3世紀のウクライナ平原に遊牧したイラン系遊牧種。 原住地は中央アジアとも伝えられ、北カフカスに拠ってイラン〜アナトリアの深刻な外患をなし、一時はシリアにまで進出した。 ギリシア人史家ヘロドトスによれば、B7世紀後期にはメディアを大破して28年間イランを支配したという。
 メディア王キュアクサレスによって撃退された後はキンメリ人を逐ってウクライナ平原に遷り、黒海沿岸に植民したギリシア人と交易しつつ一帯の農耕民を支配して大遊牧帝国を建てた。 B6世紀末にはアカイメネス朝のダレイオスI世を敗退させるなど長らく不敗を謳われ、ウクライナ平原はしばしばスキティアと呼ばれた。 B5〜B4世紀が最盛期で、青銅製の武具や黄金製の装飾品の製造に長け、発達した動物意匠を伴う文化や騎馬の風習は内陸アジアの遊牧社会に広く波及し、当時のユーラシア遊牧文化はしばしばスキタイ様式とも呼ばれる。
 王権を伸展させたアテアス王がB339年にマケドニア王フィリッポスII世(アレクサンドロスの父)に敗死したことで諸族の離叛が始まり、サルマト人の侵出でB3世紀末に統一が崩壊したものの、クリミアやドニエプル下流域にはゴート族フン族が進出する3世紀頃まで小王国を保った。

サルマト人
 サルマタイとも。B3世紀〜4世紀頃のウクライナ平原を支配した遊牧種。B5世紀頃はスキタイの東隣に接し、やがて重装騎兵を以てスキタイを圧倒するようになり、B2世紀にはウクライナ平原を支配して中継貿易で繁栄した。 1世紀頃からはドナウ河口域にまで進出して長らくローマ帝国と抗争したが、やがて西方からのゴート族の進出で弱体化し、フン族の圧迫で崩壊した。

ゴート族
 東ゲルマン族。原住地はバルト地方とされ、ウクライナ平原に移動したのち3世紀前期に東西に分裂し、ドナウ中流域に西遷した集団を西ゴート、ウクライナに留まった集団を東ゴートと呼ぶ。 東ゴートはフン族に逐われて375年にパンノニア(ハンガリー)でローマ帝国に保護を求め、これがゲルマン民族の大移動の嚆矢とされる。 西ゴートは主にイベリア半島に、東ゴートはイタリア半島に侵入してそれぞれ王国を築き、ローマ帝国を圧迫しつつローマ文化を摂取してルーン文字を伴う独自の文化創出し、後期ローマ帝国の歴史にも大きく関わったが、やがて民族的にも同化されていった。

フン族
 北アジアの匈奴の末裔。匈奴は北アジアを逐われた後も暫くは中央アジアを支配していたが、この間に土着のイラン系・ソグド系との同化が進んでいたらしく、ウクライナ平原に入った頃にはテュルク語を用いていたという。 フン族がウクライナ平原に入ったのは370年頃の事とされ、サルマト人とゴート族を駆逐して一帯を支配し、故地を逐われたゴート族の東進によって西ローマ帝国が崩壊し、ヨーロッパの民族大移動が始まったとされる。
 5世紀に入ると東欧に進出してパンノニア平原(ハンガリー)に拠るようになり、アッティラ王の下で最盛期を迎え、ローマ帝国やゲルマン諸族を圧迫してガリアにも侵入し、451年にはパリ近郊で「古代史屈指の規模」とされる大会戦をゲルマン連合と演じたが、ともに大損害を蒙って後退した。 アッティラが453年に歿すると統一も崩壊し、しばらくはハンガリー平原の支配を保ったもののローマ帝国とキリスト教に次第に同化された。

アヴァール族
 6世紀〜8世紀、ウクライナ平原〜東欧を支配した東アジア系遊牧種。北カフカスに進出して558年に初めてビザンツ帝国と接触し、568年にはパンノニア平原(ハンガリー)を占有し、574年にビザンツ帝国にも歳貢と共に認めさせた。 君主は可汗を称し、バイアノス可汗の下でウクライナ平原やドイツ方面にまで達する遊牧国家に発展し、しばしばビザンツ領にも入寇して626年にはコンスタンティノープルも包囲したが、これはボスポラス艦隊に撃退された。 スラヴ人をはじめとする服属諸部の分離などで衰え、790年に神聖ローマ帝国のカール大帝に大破され、次いでピピン帝に壊滅的打撃を与えられ、多くはフランクの支配下に入って次第に同化された。
 アヴァールの急速な発展は、鐙の普及によって可能となった長弓・大槍や片刃の彎刀の使用が挙げられる。 ビザンツ史料では柔然の後裔であることが示唆されているが、少なくともアルタイ諸語系の近縁種族であった事は、遺物・人骨・習俗・名詞などから確実視されており、種族としてのアヴァールが樹立した勢力の1つが柔然とする説もある。

ブルガル族
 5世紀頃にカフカス地方に現れたトルコ系遊牧種。6世紀頃にはアゾフ海地方の大ブルガリア、ヴォルガ河中流域のヴォルガ=ブルガル、ドナウ川下流域のドナウ=ブルガルの3集団に分れ、大ブルガリアはハザール族に征服・同化された。 ヴォルガ=ブルガルはハザールに服属しつつ定住化が進み、アッバース朝との交流を介して10世紀初頃にイスラム化し、ハザール可汗国の解体と伴に王国を形成して交易で栄え、13世紀にモンゴルに征服されるまで存続した。現在のチュヴァシがその裔とされ、チュヴァシ語は往時のブルガル語の特徴を保持しているという。 ドナウ=ブルガルは680年にブルガル可汗国を形成し、キリスト教の受容と伴にスラヴ人との同化が進み、種族名のみが国名として残った。

ハザール族
 アヴァール族が東欧に進出した頃、ヴォルガ下流域を中心にウクライナ平原東部を支配した種族で、交易と手工業の発達した半遊牧勢力。 起源・系統は不明だが、中国唐代の史書には“可薩突厥”と記され、王の称号を“カガン”とした事から、遊牧トルコ種、もしくはトルコ化が進んだ遊牧種と考えられる。 7世紀前期にはビザンツ帝国と結んだ西突厥に従ってササン朝を攻撃した。
 西突厥の分裂・弱体化と伴に可汗国を形成し、ザカフカスを巡ってアラブ勢力の北上を抑えた一方、王族がユダヤ教を奉じた8世紀末頃よりビザンツ帝国とも対立するようになったが、民間ではキリスト教・イスラム教が信奉され、ヴォルガ河畔の国都イルティは南北交易の中継地として繁栄した。 9世紀半頃より可汗と封建諸王との内戦が続発し、オグズ族ペチェネグ族の侵攻、ヴォルガ=ブルガルマジャール族の離叛が加わって衰え、965年にキエフ=ルースィ公国による遠征で敗亡した。

ペチェネグ族
 鉄勒を構成した北褥の裔とも称され、9世紀初頃にオグズ族に逐われてウラル山を越え、次いでハザール族に敗れて北カフカスに遷り、ハザール可汗国の没落後はウクライナ平原の覇をキエフ=ルースィと争った。 1036年にキエフ大公ヤロスラフI世に大敗して分裂し、一派は故地に残ってキエフ公国に従属し、別の一派はドナウ川下流域に遷移してブルガル族のビザンツ帝国に対する抵抗に与したが、1091年にビザンツ帝国の要請に応じたキプチャク族に大破されてより解体が進み、いずれも多くはキプチャク族に吸収された。

マジャール
 ハンガリー民族の自称。元は遊牧騎馬種で、9世紀頃にウラル地方から南西に移動を始め、ペチェネグ族に逐われてアルパード王(〜907)の時にパンノニア平原に達し、ヨーロッパ諸国と抗争した。 955年にレッヒフェルトで東フランク王のオットーI世(後の神聖ローマ帝国初代皇帝)に敗れて程なく、マジャール王がキリスト教へ改宗してローマ教皇から戴冠を受け、ハンガリー王国が成立した。 定住化が急速に進んだ一方で強兵の国として知られたが、1920年のトリアノン条約での領土画定でパンノニア平原が分割された事により、本来は多数派だったマジャール人はハンガリー以外では少数民族となっている。

キプチャク族
 ポロヴェッツ・クマンとも。アルタイ北辺を原住地とした遊牧トルコ種で、11世紀頃にペチェネグ人を征服してウクライナ平原の支配種族となり、しばしばルースィ諸侯や中欧に侵攻し、キエフ公国によるルースィ諸侯の結束を促した。 13世紀にモンゴル軍を率いるバトゥに征服されたが、バトゥが開拓したジュチ=ウルスの多数派として次第にモンゴル族を同化し、そのためジュチ=ウルスはしばしばキプチャク=ハン国とも呼ばれた。

 
 
 キプチャク=ハン国とも。モンゴル帝国の初期にカザフ=ステップ東部に4の千戸を以て設けられ、ジュチの子のバトゥの大西征でウクライナ平原全域を覆う大勢力に発展したもの。 ウクライナ平原の多数派のキプチャク族に因んでキプチャク=ハン国と呼ばれる事も多く、建国に従ったモンゴル族がキプチャク族に没入したという一面がある。 ヴォルガ川流域のサライ地方を王庭とし、右翼にあたるウクライナ平原一帯をバトゥ=ウルス(金帳汗国)、左翼にあたるカザフ=ステップの故領を兄のオルダ=ウルス(白帳汗国)とし、その間の地方に一族を分封し(青帳汗国など)、ルースィ諸侯に対しては貢納を課して自治を認めた。 バトゥ=ウルスの歴史が中心となるため、バトゥ=ウルス・金帳汗国と同一視される事も多い。
 肥沃な牧草地であるアゼルバイジャンの領有を宿願とし、フレグのアゼルバイジャン進駐によってフレグ=ウルスと伝統的に対立するようになり、エジプトのマムルーク朝とジュチ=ウルスとの同盟、フレグ=ウルスとヨーロッパ諸国の提携をもたらした。 又た双方ともクビライ=ハーンへの通誼を必要とし、中央アジアに割拠したカイドゥの死後はモンゴル同士の紐帯が回復した事で東西交易が活発化し、14世紀前後に最盛期を迎えた。
 1359年にベルディ=ベク=ハンが殺されてバトゥの正統が絶えると内戦状態に陥り、モスクワ公国を中心とするルースィ諸侯の抬頭やティムールの圧迫などによって分解が進み、1502年のクリム=ハン国によるサライ陥落を以てウルスの断絶とされる。 バチカンの修道士カルピニの旅行記でサライに大宮殿(オルダ)が営まれたとされたが、これは牧民の移動式大天幕を意訳したもので、本式の都城はムスリム化が著しく進んだウズベク=ハン(在:1312〜40)の頃に営まれ、人口は20万に達したという。
  
 ウルスの分裂期、ジュチ家の諸王はクリミア半島にクリム=ハン国を、ヴォルガ川下流域にアストラハン=ハン国を、ヴォルガ川中流域にカザン=ハン国を、カザフ=ステップにウズベク=ハン国を、ウラル東麓にシビル=ハン国などを樹立した。 殊にクリム=ハン国はバトゥ=ウルスの正統を自認したが、オスマン朝の与国として次第にモスクワ大公国に圧迫され、第一次露土戦争(1668〜74)を経て1783年にロシアに併合された。

オルダ=ウルス  ▲
 白帳汗国とも。バトゥの兄のオルダが、ジュチ伝来のイルティシュ川流域に封じられたもので、ジュチ=ウルスの左翼を形成した。オルダは病弱だったために宗家を嗣げなかったという。 14世紀半頃にオルダの直系が絶え、トカ=テムル(オルダの弟)の裔のオロスが当主となり、ティムールに支援された同門のトクタミシュに敗死したが、トクタミシュが没落した後はオロスの子が右翼の当主に立てられてトクタミシュを滅ぼしたという。 その頃にはウルスは再び分裂状態にあり、程なくオロスの直系も絶え、オルダ家の傍流のハージ=ギレイによってアストラハン=ハン国が建てられた。

バトゥ  1207〜1255
 キプチャク=ハン国の実質的開祖。ジュチの次子。 内治に於いては温厚寛仁、軍事では勇猛酷烈で知られた。 1236年から始まる第二次西征の主将とされて諸家の王子を率い、ウクライナ平原のキプチャク族・ヴォルガ=ブルガル族・ルースィ諸侯を征服してポーランド・ドイツを席捲し、ヨーロッパ最強を謳われたハンガリー軍を粉砕したが、オゴデイ=ハーンの訃報に接して軍を還した。 征途ではオゴデイ=ハーンの庶長子グユクが激しい諍いの後に帰国しており、そのためグユクを大ハーンに選出するクリルタイに参加せずにヴォルガ河畔に留まって西征の成果をほぼ独占し、以後も召還を悉く無視してウルスの整備を進めた。
 叔父のチャガタイ亡き後は一族の最長老であり、グユク=ハーンの死後はオゴデイ・チャガタイ両家と対立してモンケの大ハーン選出に尽力し、帝国西半に宗主権を揮っただけでなくモンゴル本土に対しても大きく影響力を有した。

リーグニッツ会戦  1241  ▲
 ワールシュタット会戦とも。リーグニッツは東欧シュレジエンの都市。 1241年にバイダル率いるバトゥ軍の支軍がポーランドを席捲してシュレジエンに侵攻し、ドイツ騎士団と共に迎撃に出た領主ハインリッヒII世をリーグニッツ郊外で敗死させたもの。モンゴル軍はまもなくオゴデイ=ハーンの訃報に接して撤退し、西欧は侵攻を、東欧は直接支配を免れた。
 ポーランドにはドイツ騎士団だけでなく神聖ローマ帝国や聖ヨハネ騎士団・テンプル騎士団などが来援したとも伝えられるが、会戦の事は同時代の史料には全く記されておらず、又た当時のドイツ騎士団の動員能力も1千を超えていなかったとされる。 同地は後年に無数の白骨が出土した事で“ワールシュタット(死者の街)”と呼ばれるようになったが、大規模会戦の伝承は出土した白骨への牽強付会とされる。

ノガイ  〜1299
 ジュチの曾孫。バトゥの時代から軍事に従い、ベルケ=ハン(バトゥの弟)の下でしばしばアゼルバイジャンやトラキア(黒海西岸)に出征したが、フレグの死に乗じて行なった南征で大敗し、ベルケ=ハンの親征と征途での頓死をもたらした。 モンケ=テムルが継嗣した後はドナウ川下流域に封建されて東欧経略を担当し、モンケ=テムル=ハンが歿するとその実弟のトデ=モンケの擁立を主導して右翼の最有力者となり、1287年にトデ=モンケ=ハンがクーデターで廃されるとモンケ=テムル=ハンの遺児のトクタを支援して1291年に奪権を成功させた。 やがて非モンゴルの姻族を重用するトクタ=ハンとも対立し、1299年にドン川河畔でトクタ=ハンを大破した事で却って諸将が離叛し、再挙したトクタ=ハンに敗死した。 バトゥ家とフレグ家が和平を模索すると宗家とは別にフレグ家との修好を図り、トクタ=ハンと対立した際にはガザン=ハンに調停を依頼したと伝えられる。

トクタミシュ  〜1406
 ジュチの第13子/トカ=テムルの裔。 オルダ=ウルスの直系が絶えた後、実力でウルスの主権者となったオロスに父が敗れて殺された為にティムール朝に亡命し、その支援でオロスを滅ぼした翌年(1378)にはサライをも占拠し、1380年までにクリミア地方を征服してジュチ=ウルスを再統合し、1382年にはルースィ諸侯の盟主となっていたモスクワ大公国を服従させた。 ティムールの西征に乗じてホラズムに侵攻した事で1389年よりしばしば伐たれ、1395年にサライを陥されて求心力を失い、再びティムールと和して命脈を保ったもののティムールの歿した翌年に西シベリアで殺された。

 

クリム=ハン国  1441?〜1783
 クリミア=ハン国とも。ジュチ=ウルスから分立した政権の1つ。 バトゥの弟/トカ=テムル家の一門が13世紀後期頃より封建されていたと伝えられ、宗家の断絶した14世紀半頃より自立の傾向を強め、14世紀末にはイスラム政権の伝統に則って独自の貨幣を発行していた。 1441年頃にハージ=ギレイがクリミア地方でハンを称して自立し、リトアニア大公国の支援と黒海の制海権によって強盛だったが、ハン位を巡る内紛から1475年にはオスマン朝の保護国となって国力を涵養した。 1502年にジュチ=ウルスの正統を称すサライ政権(大オルダ)を滅ぼすとジュチ=ウルスの正統を称してウクライナ平原南部を支配し、カザン=ハン国の主権を争ってしばしばモスクワ大公国に遠征し、1571年にはリトアニアの要請でリヴォニア戦争に参戦してモスクワを劫掠した。
 17世紀には正教徒集団であるコサックの入寇が始まり、コサックの沈静化と前後してモスクワの強大化が著しくなり、オスマン朝の与国として対露戦争に加わった結果、1700年にロシアへの貢納請求権を失い、1736年にはバフティ=サライが破壊された。 露土戦争の結果、1774年にはオスマン朝からの独立が強制され、1783年にロシアに併合された。 建国当初からトルコ=ムスリムが住民の大多数を占め、その後裔はクリミア=タタールと呼ばれている。

カザン=ハン国  1438〜1552 ▲
 サライ地方での内訌に敗れた王族ウルグ=ムハンマドが、ヴォルガ中流域のブルガル族の故地に拠って樹立した政権。 東西交易の仲介で繁栄したが、15世紀後半以降はハン位の争いにクリム=ハン国とモスクワ大公国が介入し、親モスクワ派と親クリム派の反目で政情は安定しなかった。 16世紀前期にウルグ=ムハンマドの直系が絶えたことで事態が悪化し、115年間で19君主が立てられた末に1552年にロシアに併合された。

アストラハン=ハン国  1466〜1557
 バトゥ=ウルスの衰退期、白帳汗家のカーシムが、ヴォルガ河口部の貿易都市アストラハンに拠って建てた政権。 弟のアブドゥル=カーリム=ハンの時代には水陸交易の中継によって繁栄したが、ノガイ=オルダクリム=ハン国などの干渉で衰退し、1554年にロシアに征服されたのちクリム=ハン国との共闘によるロシア人排除が露見して滅ぼされた。

ノガイ=オルダ
 ジュチ=ウルスの分裂期に、ウラル川流域に建てられた部族連合体。 トクタミシュに従わずティムールに与したマンギット部のエディゲがトカ=テムルの裔をハンに立てた事に始まり、以後もマンギット部を盟主としてアラル海に及ぶ勢力となり、交易によって15世紀後期に最盛期を迎えた。 ロシアの南下政策が顕著になると親ロシアの大ノガイ、親オスマンの小ノガイなどに分裂して内部でも分解が進み、小ノガイはクリミア=タタールに吸収され、大ノガイはオイラートのトルグート部に大破されてヴォルガ左岸を逐われた後、1642年にロシアに臣従した。

シビル=ハン国
 バトゥ=ウルスの崩壊後、バトゥの弟/シバンの裔を称したイヴァーク=ハンが、チンキ(テュメニ)に拠るケレイト系のタイブカ家と通婚して樹立した政権。名祖シバンに由来するシビルの称はシベリアの語源となった。 シベリアに於けるイスラム教の橋頭堡の側面を有し、1493年よりイルティシュ河畔のシビルを国都としてオビ・イルティシュ水系流域一帯を支配し、黒貂などの毛皮を交易した。 16世紀後半には東方拡大を図るロシア帝国と衝突し、1582年にイェルマク将軍によって首都を陥され、1585年にイェルマクを戦死させたものの、1598年のオビ河畔での大敗で滅ぼされた。
 コサック兵を先鋒としたロシアの東方進出はシビル=ハン国の征服で加速し、1602年にトムスク、1632年にヤクーツク、1653年にネルチンスクを建設し、まもなく太平洋岸に到達した。 ここからの南下政策は清朝との紛争によって一時頓挫したが、大量の流刑囚による開拓と、農奴の移住奨励などでロシア化を進めた。

△ 補注:西トルキスタン

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