▽ 補注:唐末五代

韋皋 〜805
 成都の人。字は武成。徳宗の貞元年間(785〜805)の西川節度使。 21年間の在任中にしばしば吐蕃を撃退し、殊に南詔を離背させた事は吐蕃の弱体化に繋がったと評される。 恵政によって衆望も篤く、神格化されて現今に至るが、保身のために日進を行なったという記録もあり、『旧唐書』では「苛斂によって蜀地を虚竭した」と記された。

劉闢  〜806 ▲
 徳宗の貞元年間(785〜805)の進士。韋皋の死に伴い強請によって西川節度使に直されたが、翌年には三川(剣南西川・剣南東川・山南西道)兼領を強請し、左神策行営指揮使高崇文・山南東道節度使らに討平された。 これは同時期の淮南節度使李リの叛乱失敗とともに、憲宗の対藩鎮強硬策の契機になったとされる。

王重栄 〜889
 太原祁の人。 夙に驍勇を讃えられ、黄巣によって長安が陥されると叛軍に降って河中留後とされたが、鳳翔で黄巣が敗れると帰朝した。 軍功によって河中節度使とされて蒲州(山西省永済)に鎮し、楊復光と提携して朱温の帰順や李克用の参戦を実現し、長安回復では李克用に亜ぐ軍功第二として琅邪郡王に封じられた。 禁軍を再建した田令孜に軍資として解州塩を求められたことで対立し、神策軍系の陝西諸藩に伐たれると李克用の援軍を得て沙苑で破り、僖宗の華州蒙塵をもたらしたが、田令孜の放逐で朝廷と和し、朱玫を討って襄王を誅した。
 罰した牙将に恨まれて殺された後は兄の王重盈(〜895)が節度使を嗣ぎ、その死後は一族間の内訌が発生して901年に朱全忠に征服された。

王鎔  874〜921
 成徳軍節度使王廷湊の曾孫。883年に成徳軍節度使を嗣ぎ、902年に軍号を武順軍と改めた。 李克用・朱全忠に通背転変し、後梁が建国されるとその正朔を奉じて中書令・尚書令を遥授されて趙王に封じられたが、魏博に進出した朱全忠に伐たれると李存勗に帰順した。晩年は仙仏に耽溺して苛政を行ない、部将の張文礼の造叛で殺された。
  
張文礼の乱 (921〜922):張文礼は趙王国(旧成徳藩)の鎮将で、鎮州(河北省正定)に王鎔を攻殺して李存勗に叛き、程なくに病死したが、契丹や後梁が乞援に応じ、又た定州義武軍の呼応があり、平定までに1年以上を要した。
 当初は天平節度使閻寶が対処し、邢州節度使李嗣源・滄州節度使李存審は徳勝城(現濮陽城)や魏州で梁軍を防いだ。 李存勗は契丹の入冦と涿州の陥落で李嗣昭と共に鎮州から急進して定州で契丹を撃退したが、旋軍したのち鎮州城下で大敗して李嗣昭・閻寶を喪い、後任の北面招討使李存進も敗死し、李存審が招討使とされて漸く落城に至った。

郭無為  〜979
 棣州(山東省恵民)の人。 武当山で道士となった後、李守貞討伐途上の郭威に自薦して識見を認められた。 劉鈞の下で累進して国相に至り、継嗣の劉継恩を非才と断じ、劉継恩が殺されると劉継元を擁立した。 宋太宗の北漢遠征に応じて投降を謀った為に劉継元に殺された。

高崇文  746〜809
 幽州、或いは渤海の人。 早くから平盧軍にあって軍幹を称され、789年に寧州を侵した吐蕃を大破して行営節度・御史中丞とされた。順宗の末年(805)に西川節度使劉闢が叛くと工部尚書・左神策行営指揮使とされて神策軍を以て平定し、検校司空・剣南西川節度使・南平郡王とされた。

時溥  〜893
 徐州彭城の人。徐州軍の牙将として黄巣を討ち、後に武寧軍節度使を簒奪した。 蔡州を討って秦宗権の動きを封じ、長安から却いた黄巣を李克用と与に王満渡で大破して尚譲を降し、黄巣を追撃殲滅したことで殊勲第一として検校太尉・中書令・鉅鹿郡王・徐州営兵馬都統とされた。 秦宗権の平定後は朱全忠と争い、893年に大敗して徐州城が破られると楼閣に放火して自殺した。

  742〜784
 幽州昌平の人。李懐仙に仕え、後任の朱希彩に信任された。772年に朱希彩が殺されると、鎮兵から盧龍節度使に推されて朝廷にも追認されたが、774年に入朝して恭順を示し、防西のために777年に鳳翔節度使とされた。 782年に弟の朱滔が魏博藩に与して叛くと長安に幽閉されたが、淮西討伐の途上の原兵が、禁軍との待遇格差を不満として挙兵すると首領に推されて称帝し、河北叛鎮に呼応して徳宗の蒙塵を惹起した(原の兵難)。 翌年(784)に神策将軍李晟・朔方節度使李懐光に敗れ、逃亡中に部下に殺された。

朱滔  〜785 ▲
 朱の弟。兄の引退で盧龍節度使を襲ぎ、回鶻兵の編入に成功するなど財・兵ともに最強の藩鎮と称された。 建中の兵乱の当初は兄の影響で官軍に与したが、行賞を不服として反側に転向し、朱の称帝で盧龍の強大化を警戒する諸鎮に背かれ、成徳軍に大敗して程なく病死した。

朱玫  〜886
 邠州の人。田令孜系の陝西節度使の1人。 長安を陥した黄巣に降ったが、程なく帰朝すると田令孜に通じて邠寧節度使とされ、田令孜と王重栄の対立では、鳳翔節度使李昌符と与に田令孜を支援して李克用に大敗した。田令孜が僖宗を奉じて棄京すると襄王を擁立したが、李克用との融和には失敗し、王重栄に討たれて部下に殺された。

朱友謙  〜925
 朱全忠の仮子。後梁の冀王。本名は李簡。河中(山西省永済)の護国軍節度使の時、朱友珪による簒奪があって晋に投じ、李存勗にも軍才を認められて仮子とされ、李継麟と賜名された。後に李存勗に疎まれ、讒言で殺された。

朱友文  〜912
 博王。字は徳明。朱全忠の仮子。秀貌と学識から朱全忠に親任され、908年より東京留守を任とした。 実子の凡庸を厭う朱全忠の晩年には継嗣に擬され、これを不服として朱全忠を殺した朱友珪に殺された。

尚譲
 はじめ王仙芝に従い、分裂後は黄巣に従った。 敗死した王仙芝の残兵の糾合に成功して黄巣の右臂と目されるようになり、西征では潼関を陥して本隊の関中攻略を可能とした。 藩鎮による長安包囲網の形成と、朱温ら有力部将の転向などによって関中を放棄した後は梁田陂などで累敗し、陳州包囲にも失敗して北上したのち王満渡で武寧軍節度使時溥に敗れて降り、黄巣追撃の先鋒とされた。

蘇逢吉  〜950
 京兆長安の人。太原に鎮した劉知遠に近侍して吏事を以て親任され、刑事を典ると連坐を拡大させ、又た清獄(冤罪の再審理)を曲解して囚人を鏖殺した事で“静獄”と呼ばれた。 劉知遠の登極に際して同平章事・集賢殿大学士とされて朝政に参与し、中書侍郎・吏部尚書・左僕射などを歴任したが、臧賂によって挙任を左右するなど貪欲で綱紀を乱し、この頃から文士と結んで史弘肇郭威らの排斥を策していたとされる。
 史弘肇・楊邠・郭威らと並んで託孤されたが、隠帝の側近と結んで勲貴の排斥を進め、郭威を魏州節度使に出し、史弘肇・楊邠らの粛清に成功して枢密使に進み、郭威に敗れた隠帝に随って遁れる途上で自殺した。

張濬  〜886
 河間の人。昭宗期の宦官。楊復恭から田令孜に転向した為、昭宗の即位後は宦官誅滅を進言して楊復恭の失脚を謀り、朱全忠とも通款した。 888年に李罕之の救援に赴いた李克用が朱全忠に敗れると、幽州・雲州の藩鎮の求め応じて890年に李克用討伐の軍を起し、朱全忠・李茂貞李匡威らを動員したが、朱全忠は李存孝に、李匡威は李嗣源に敗れ、李茂貞は戦わず退き、自身も晋州で李克用に大敗した。 李克用に「将器に非ず」と評されたことが開戦の原因ともいわれ、李克用の訟冤によって連州刺史に遷され、後に朱全忠の仲介で赦されて尚書右僕射に至ったが、洛陽遷都に反対して殺された。

李匡威  〜893 ▲
 盧龍節度使李全忠の嗣子。 盧龍藩の李氏は880年に李国昌を塞外に逐ってより、沙陀族の李父子と対立していた。 890年に張濬の主導する李克用討伐が失敗した後も吐渾部の赫連鐸と結んで攻伐を続け、893年に李克用に伐たれた成徳軍節度使王鎔を救援したが、このとき弟の李匡籌の自立に遭って王鎔に依り、程なく造叛して滅ぼされた。

陳敬瑄  〜893
 許州の人。田令孜の実兄。 神策軍の出で、撃毬に長け、田令孜の昇任によって左金吾衛将軍・西川節度使を歴任し、黄巣に逐われた僖宗を迎えて同平章事を加えられ、後に潁川郡王に封じられた。
 失脚した田令孜を迎えて蜀への勢力扶植を助けたが、昭宗が即位すると更迭を拒んで逆賊とされ、891年には王建に敗れて成都で捕われ、後に殺された。

杜重威  〜948
 石敬瑭の女婿。 成徳軍節度使・鄴都留守などを歴任し、946年の契丹侵攻では元帥として河北の正定に進駐したが、石敬瑭に倣わんと契丹に降って晋軍の大敗をもたらした。 戦後は鄴に遷って劉知遠に降り、改易に抗っての叛乱が失敗した後も中書令として遇されたが、出仕のたびに衆に罵礫を浴びせられたと伝えられる。劉知遠が歿すると殺され、市民は争ってその肉を啗ったという。

李守貞  〜949 ▲
 河陽(河南省孟県)の人。 兵卒から累進して石敬瑭に重用され、反契丹の出帝が即位した後、来攻した契丹に杜重威と与に帰順した。 後に秦王を称し、称帝した劉知遠に帰順して河中に移鎮したが、948年に永興(長安)の趙思綰・鳳翔の王景崇と結んで叛き、郭威に伐たれて窮して自焚した。

楊復光  842〜883
 閩の人。本姓は喬。 幼時に楊玄价の仮子とされ、楊復恭とは義従兄弟となった。仁義を重んじ、軍略にも通じ、877年には行招討使として王仙芝を大破し、秦宗権の帰順でも諭使として大功があった。 後に天下兵馬都監とされて東南招討使王重栄と与に黄巣軍を討ち、朱温を招撫した後には王重栄に李克用の参戦を提言し、長安回復の功で883年に東面都統監軍使とされた。兵に親接して軍部に輿望があり、訃報に接した兵は皆な哭したという。

楊守亮  〜892 ▲
 曹州(定陶)の人。本名は訾亮。はじめ王仙芝に従い、王仙芝の死後に楊復光に降って仮子とされた。 山南西道節度使に至って王建と対峙したが、中央を逐われた楊復恭らを迎えたことで李茂貞に討たれて敗死した。

楊守信  〜894 ▲
 本名は訾信。楊守亮の実弟。 兄と与に楊復光に降り、楊復恭の仮子とされた。 興平軍節度使のとき中央を逐われた楊復恭を護って楊守亮を頼ったが、李茂貞に敗れて楊復恭と共に閬州に逃れ、李克用を頼る途上で殺された。

李懐光  729〜785
 幽州の人。本姓は茹。 軍事での累功によって国姓を下賜され、検校刑部尚書、寧・慶・邠寧節度使を経て朔方節度使とされた。 建中3年(782)に魏博の田悦を討ち、翌年には原兵を以て叛いたを大破したが、宰相の盧杞に軍功を忌まれて誣され、李晟の移屯を機に挙兵した。朱とは結ばず、李晟に敗れると河中(山西省永済)に奔って河東節度使馬燧に敗れて自殺した。

李罕之  842〜899
 陳州項城の人。農民の出で、黄巣の下で勇名を知られ、黄巣の敗亡で高駢に降って光州刺史とされた後、蔡州の秦宗権に敗れて懐州刺史(河南省沁陽)に転じ、884年に河南尹・東都留守とされた。 張全義と結んで河南の回復に努めたが、粗野・驕慢から不和となって河東経略の間に河陽を陥され、このとき(888)乞援に応じた李克用が初めて朱全忠に敗れた為、張濬による李克用討伐が行なわれた。 898年に潞州を奪って朱全忠に帰順し、翌年に孟州河陽軍節度使とされ、赴任途上の懐州で病死した。

李吉甫  758〜814
 趙郡の人。字は弘憲。山東郡姓に数えられた名家の出で、博識で典故に精通し、元和2年(807)に同平章事に至って程なくに鎮海節度使の鎮圧を理由に宦官によって淮南節度使に出され、同6年に中書侍郎・同平章事に復した。 武元衡裴度と与に憲宗の藩鎮抑制策を強固に支えたが、政策に批判的な李宗閔牛僧孺らを冷遇した事が、牛李の党争を胚胎させたとされる。
 この有名な、時政の対策論を巡る事件は『新唐書』には載っておらず、対策文も伝わっていないので党争の起因は正直不明瞭です。 当時は小説が盛行していましたから、捏造された噂話が採用された可能性すら否定できません。 ただ、李吉甫と李宗閔らが基本政策で対立していたのは事実で、藩鎮に妥協的だった穆宗時代に李宗閔が宰相に列していた事を考えると、両者の政策の相違は藩鎮対策を軸としていた事は確かなようで、自尊心を害された李吉甫が恣意から李宗閔らを貶めたという解釈が、根本から事態を誤らせているようです。
 ちなみに、“筆削に恣意有り”とまで評される『新唐書』は『旧唐書』以上に牛僧孺らを否定的に書いていて、故意に牛僧孺落第の件を載せなかった可能性も否定できません。

李訓  〜835
 成紀(甘粛省秦安)の人。字は子垂。李逢吉の甥。穆宗の長慶年間(821〜24)の進士。 画策を好み、831年に文宗と宋申錫の宦官排斥の謀議を漏洩して広東に配流されたが、鄭注に重幣を贈って文宗に謁し、『周易』の進講と称して宦官対策と吐蕃対策を献言して信任され、翌年から翰林学士・礼部侍郎・同平章事などを歴任した。 李訓・鄭注の執政中は党争はやや沈静化し、仇士良を抜擢して神策軍を分統させた事で王守澄の排除にも成功したが、勢いに乗じて独断した宦官鏖殺に失敗して殺された。

鄭注  〜835 ▲
 絳州翼城の人。本姓は魚。 寒門の出で、医術を以て李愬に薦挙されて王守澄の知遇を得、穆宗の廃黜にも参与したという。 医術を介して文宗にも信任され、工部尚書・翰林学士に進んだが、党人の排除を進めた為に牛僧孺・李徳裕ら有力官僚の評判は概して芳しくなかった。 李訓・仇士良と結んで王守澄の謀殺に成功し、金吾兵との呼応で宦官を誅滅するために鳳翔節度使に転出したが、行軍中に李訓の敗報に接して監軍に殺された。

李継岌  〜926
 魏王。後唐の荘宗の長子。建国後に検校太尉に進み、六軍諸衛の事を統べた。 925年に西南行営都統を兼ねて征蜀の主帥とされたが、平蜀後に側近の宦官李環の讒言で郭崇韜の謀叛を該奏して殺害した。 荘宗の訃報に接して軍を返し、鳳翔で大敗して逃れる途上で李環の進言で自殺した。

李国昌
 突厥沙陀族の人。本名は朱邪赤心。唐に帰順して陰山府兵馬使とされた朱邪執宜の子。 平定の功で大同の振武軍節度使に任じられて李国昌と賜名されたが、東接する盧龍節度使李全忠や吐渾都督赫連鐸に警戒され、877年には潞州の昭義軍節度使李鈞や太原尹を加えた討伐軍が発せられた。 当初は北面行営招討使の李鈞を敗死させるなど勢いがあったが、離間などが併用された880年に至って大破され、塞外に逐われた。

李嗣昭  〜922
 汾州太谷の人。字は益光。原名は韓進通。李克用の弟/李克柔の仮子。 李克用の征戦に従って累功があり、906年に潞州で後梁の北上を阻み、年余の堅守の後に周徳威の援軍があって撃退し、又た胡柳陂の役では無石山を占拠して戦線の致命的な破綻を防ぎ、幽州知府を経て潞州の昭義軍節度使に転じた。
 張文礼の乱が起ると李存勗に従って出征し、契丹の撃退でも勇戦の功があったが、鎮州に旋軍した後、重囲に陥った李存勗を救出した際に流矢によって歿した。この時、頭を穿った矢を抜いて敵を射殺し、帰営して歿したという。

李存進  857〜922 ▲
 振武(山西省代県)の人。原名は孫重進。李克用の仮子。 李克用・李存勗の累戦に従い、915年に天雄軍を接収した際に新附兵の動揺を能く抑えて威服させ、917年に蕃漢馬歩副総管に進められた。 919年より振武軍節度使を兼ね、張文礼の乱で李嗣昭の後任の招討使となって戦死した。

李存孝  〜894
 原名は安敬思。虎を搏殺する勇猛を愛されて李克用の仮子とされた。 軍事に長じ、李克用の征戦に常に従って「驍勇冠絶して万人辟易す。用兵は張遼甘寧に比す」と謳われ、張濬による李克用討伐では沢州の李罕之を救い、転じて潞州を奪って汾州刺史とされた。 891年には邢州留後とされたが、久しく刺史に滞められた事を不服とし、亦た年功から同等に待遇されている李存信を批判して不和となっていた。
 同年、定州の王処存が成徳の王鎔に伐たれると李存信と共に赴援したが、互いに猜疑して出戦せず、盧龍軍の介入で撤退したことで通敵を誣され、これを李克用が信じた為に王鎔に通じて離叛した。 李克用に伐たれて抵抗の末に開城して殺されたが、この時、李克用は刑の諫止を期待したとも伝えられ、落胆から数日は政務を視なかったという。

李存審  862〜924
 陳州宛邱の人。字は徳詳。原名は符存審。 豪侠で智算に長け、初め同郡の李罕之に依り、李罕之が光州を逐われると李克用に投じて仮子とされた。 謹厚を以て寵遇され、李克用の征旅に従って常に功を挙げ、910年には検校太保・忻州刺史・蕃漢副総管に進んだ。 柏郷の役では太原に留守したが、915年に魏搏軍を接収する際には李存勗の前軍となり、翌年に劉鄩大破して河北諸州を接収し、検校太傅・横海軍節度使・兼領魏博馬歩軍都指揮使に進んだ。
 胡柳陂の役では銀槍兵を率いて頽勢を挽回し、翌年に周徳威に代わって内外蕃漢馬歩総管とされた後は澶州に鎮し、922年には北面招討使とされて張文礼の乱を討平した。 923年に幽州盧龍節度使に検校太師・中書令が加えられたものの平梁戦には病臥の為に加われず、又た功名を忌む郭崇韜の妨害で入朝を認められず、翌年に危篤となって漸く宣武軍節度使・諸道蕃漢馬歩総管に叙されたが、勅使の至る前に幽州で歿した。

劉禹錫  772〜842
 中山(定県)、或いは彭城の人。字は夢得。徳宗の貞元年間(785〜805)の進士。 淮南節度使杜佑の書記をつとめた後、同期の柳宗元と与に王叔文の改革を輔け、財政面を担当した。 憲宗の即位で連州刺史(広東)・朗州司馬(湖南常徳)と左転され、朗州時代に文学に没頭し、大衆とも接することが多かった。 815年に召還されたものの時政誹謗の詩を詠って連州刺史に出され、828年に主客郎中とされた後は裴度に庇護されたが、裴度の引退とともに中央を逐われた。晩年は白居易との親交から“詩豪”と称され、官は検校礼部尚書・太子賓客に至った。

劉季述  〜901
 宦官。僖宗の下で枢密使、右神策軍中尉などを歴任し、楊復恭と与に昭宗を擁立した。 900年冬に兇状の悪化した昭宗を廃して太子を擁立したが、翌年正月には朱全忠らと結んだ崔胤の兵変で鏖殺され、昭宗が復辟した。

李裕  〜905 ▲
 昭宗の長子。廃太子。900年に昭宗を幽閉した宦官の劉季述らに擁立された。 翌春には兵変によって昭宗が復辟して徳王に貶され、昭宗の死後、朱全忠によって兄弟と共に洛陽で鏖殺された。

令孤楚 766〜837
 敦煌の人。字は殻士。徳宗の貞元7年(791)の進士。文才を以て元和9年(814)に翰林学士とされて中書舎人に進み、裴度の淮西藩討伐を批判して罷免されたが、憲宗の末に裴度を逐った同期の皇甫鎛の薦挙で中書侍郎・同平章事に直された。 穆宗が即位してかねて不和だった元稹が起用されると衡州刺史に遷されたが、李逢吉に通じて文宗のときに戸部尚書・吏部尚書などを歴任し、甘露の変後に仇士良に逐われて山南西道節度使で終わった。

皇甫鎛  〜820 ▲
 州臨(甘粛省鎮原)、あるいは安定朝那(甘粛省平涼)の人。徳宗の貞元7年(791)の進士。 判度支・戸部侍郎などを歴任し、元和年間の淮西藩討伐では財務を調整して戦後に同中書門下平章事とされた。 憲宗に方士・仙薬を勧めて信任され、裴度を誣して元和14年(819)に太原に逐ったが、憲宗が仙薬の誤用で病死すると崖州司戸に逐われて配所で歿した。

 
 

河朔三鎮
 安史の乱で招撫に応じた降将が任じられた魏博節度使盧龍節度使成徳軍節度使の総称。 強大な私兵と“河北の旧事”を盾に治外法権を貫き、節度使は世襲もしくは牙軍による廃立で為された。 徳宗代の建中の兵乱は藩鎮驕慢の象徴とされ、憲宗の強硬策で一時沈静化したものの、その死後は再び反側化してその伝統は五代初期まで残った。
 産塩地を有した藩鎮は経済的な自立も不可能ではなかったが、鎮将らを懐柔する為に朝廷の官職を必要として中央と完全に離別することはできず、賦税を私物化した一方で進奉などは欠かさなかった。 三鎮の動向は五代初期の情勢をも左右し、特に魏博節度使の向背は柏郷の役や李存勗の敗死などを惹起した。
 河北の地では宋代に全盛を迎える臨済を中心とする仏教文化が栄え、武宗の廃仏でも仏教を保護し、多数の僧侶が流入した。 三鎮時代の河北の文化水準は中央に比して著しく低下したが、武人・庶民・異民族にも浸透して唐文化を契丹に伝える橋頭堡的な役割を結果として担い、房山で隋代に始まった石経事業は三鎮・遼代にも継続された。

魏博節度使
 河朔三鎮の1つ。 史朝義の死後、田承嗣を招撫するために置かれ、魏州(大名府/鄴)を治所に6州を領した。
田承嗣(〜779)は代宗の大暦10年(775)に昭義軍の叛将と結んで朝廷に叛き、河東・成徳・淮南藩などに討たれたが、翌々年に赦されたことで朝廷の威信を大いに墜した。 田承嗣を嗣いだ甥の田悦は、世襲を朝廷に拒否された成徳軍と与に建中の兵乱を起し、徳宗の己罪詔が出された年(784)に部将に殺された。
 田氏の世襲が続いた後、819年に田興が朝廷に全権を奉還したが、その際に憲宗から重賞を得た軍士の歓呼は他藩を震撼させ、翌年の成徳軍の追倣をもたらしたという。 この一件で田興は田弘正と賜名されて長安に移住したが、河北では結束を乱した戦犯として憎悪され、821年に成徳軍節度使として赴任すると鎮将の王廷湊に殺された。 魏博節度使には子の田布が就いて成徳藩を討ったが、軍士の掣肘などで大敗して翌年には自殺し、魏博藩は再び反側化した。
 904年に至って羅紹威が“天雄軍”と号したが、この頃には牙兵の驕慢が甚だしく、梁初には牙営の制圧を求めて後梁に帰順して柏郷の役を招来し、915年には銀槍兵が中心となって李存勗に帰順した。

銀刀都
 徐州の武寧軍節度使王智興の創始になる七牙営の1つ。 武寧軍最強の兵団として節度使の廃立を行なうなど典型的な驕兵となり、裘甫の乱を鎮圧した王式が節度使となると数千名が処刑されて解体され、牙兵の分散異動と帰農が図られた。 帰農した牙兵は野盗となる者も少なくなく、そのため朝廷は徐州の治安回復を兼ねて864年に嶺南守備兵3千を徴募して多くの旧牙兵の吸収に成功し、邕(広西)・桂林などに駐屯させたが、任期の順延を続けたために868年に至っての乱を惹起した。 徐州兵の不服従と驕慢は、首領に推された龐を大いに歎かせたという。
  
 王智興は牙兵より累進して朝臣節度使から簒奪したもので、唐律では厳禁事項とされていた私度僧を1人2千銭で募って敬宗の誕生祝と称し、敬宗には嘉されたものの李徳裕の強硬な反対で廃止されたことがあった。

剣南節度使
 玄宗の十節度使の1つ。717年に創設された。剣閣以南の巴蜀のほぼ全域を管轄し、757年に西川藩と東川藩に分割された。 主に蜀を掌る西川節度使は成都を治所として25州を領し、巴を掌る東川節度使は梓州を治所に11州を領した。

建中の兵乱  781〜786
 徳宗の藩鎮抑圧政策と両税法に対する、河朔三鎮を中心とした叛抗。 両税法には藩鎮の恣意的徴税の制限という側面があり、これは反側藩鎮には適用できなかったが、徳宗の削兵・帰農政策は無地傭兵=鎮兵の不満を著しく増大させ、節度使と鎮兵の結束強化に作用した。
 恰かも諸藩は世代交代期にあり、成徳軍節度使の世襲を認めなかったことで李惟岳と魏博節度使田悦が離叛し、これに平盧軍山南東道節度使梁崇義が呼応した。 朝廷は河北には山西諸軍と盧龍軍を、襄陽には淮西軍を投入し、梁崇義の敗死や李惟岳の横死、魏博軍の大敗などで優位に立ったが、行賞への不満から盧龍節度使朱滔・成徳軍鎮将王武俊・淮西節度使李希烈が反側に転向した。 又た関中では征途にあった原兵が朱滔の兄のを擁して造叛し、徳宗が奉天へ蒙塵した事で官軍諸将は前線から撤収した。
 原兵と盧龍藩の提携を嫌った田悦と王武俊が使職安堵を条件に帰順し、784年に徳宗が己罪詔を出した事で兵乱は収拾に向かったが、長安守護に来援した朔方節度使李懐光が朝廷に対する不信から叛いた事で、徳宗は更に梁州に逃れた。 李晟による長安回復の後、朱滔の病死や李懐光・李希烈の敗死によって786年までに兵乱は終息した。
  
 憲宗が即位する頃には中央と藩鎮との地力差が顕著となり、806年に平盧軍節度使の李師道が恭順を示し、西川節度使・夏綏節度使・鎮海軍節度使が相次いで平定されたことで憲宗の藩鎮抑圧策は本格化した。 憲宗の削地令に対して成徳軍節度使王承宗が叛くと平盧の李師道と淮西節度使呉元済が通じ、朝廷を主導する武元衡の暗殺などを交えて抵抗したものの、819年までに順次平定されて平盧藩は三分された。 この間にも沢潞の昭義軍、易定の義武軍、滄景の横海軍、汴宋の宣武軍が帰順・平定され、淮西・平盧の平定によって河朔三鎮も相次いで藩を奉還した。
 程なく、成徳では鎮将の王廷湊が叛し、盧龍でも鎮将の朱克融が簒奪したが、朝廷では憲宗の死によって避戦論が昂揚し、この時は裴度すら王廷湊討伐を朝廷の掣肘によって断念し、822年には王廷湊・朱克融はともに節度使として追認された。 魏博でも“河北の旧事”が再開され、河朔三鎮は再び反側化した。

五坊使
 正しくは内外五坊使。帝の愛玩動物を飼育する五坊に供給する獣禽類を集めたが、職責を名目に掠奪・乱暴などが常態化した。 王叔文の改革で廃止事案の1つとされた。

山南東道節度使
 757年に南陽節度使と襄陽防禦使を合して創設され、襄州(襄樊)を治所に6州を領した。 888年に忠義軍と改称した。

山南西道節度使
 興元府(漢中)を治所として、終南山山系(秦嶺山脈)以南・剣閣以北の14州を領した。

神策軍
 754年に臨洮で吐蕃を撃退した隴西節度使哥舒翰が創設した地方軍を由来とし、臨洮の陥落後も名称が残り、吐蕃の入冦で長安を逐われた代宗を護衛する為に魚朝恩北司に編入したもの。 の乱を李晟の指揮下で鎮圧してより禁軍の筆頭となり、7県の軍鎮を統轄して他の禁軍を圧倒し、憲宗の即位当時は15万に増強されて藩鎮強硬策の根拠にもなった。 禁軍の厚禄は地方軍の隷属化(行営化)を促して更に勢力を増し、宦官将軍の統制を常態化させて宦官専横の重要な基盤となり、殊に神策軍の免死特権は省台の介入すら不可能だった。
 神策軍は京師の禁軍の例として左右両衛があり、将帥としては大将軍(正二品/各1員)・統軍(正三品/各2員)・将軍(従三品/各4員)・護軍中尉(各1員)などがあったが、実権は護軍中尉にあり、又た神策に亜ぐ神威軍の指揮官は中護軍と呼ばれた。 護軍中尉は麾下の将校を陝西の節度使に据えることで城外にも実勢力を有したが、神策軍自体は黄巣の乱で壊滅し、隷下の節度使も朱玫李茂貞王建のように自立化していった。

北司禁軍  ▲
 建国世代の老齢化によって大量補充の必要に迫られた禁軍に、二等戸以上より騎兵百騎を精抜して、宮城北門(玄武門)に屯営させたことを発祥とする。内朝に属して天子の護衛を任とし、南門外にあって京師の防衛を担った旧来の十二衛=南衙禁軍とは伝統的に対立した。
 北司禁軍は662年に府兵からの選抜兵を加えて左右羽林営として独立し、689年に千騎、705年には万騎に達し、738年に左右龍武軍が分立した。 府兵制の崩壊後は京師守備をも担うようになったが、安史の乱で壊滅状態となった。

進奉
 税外方円とも。中唐〜晩唐の藩鎮や地方官による、朝廷に対する私的奉献。 睿宗により禁じられていたものが開元17年(729)に玄宗の生誕を祝った千秋節から恒常化し、安史の乱後は反側藩鎮が麾下の遥授を求める常套手段の1つとなり、これに倣う朝臣系の節度使・刺史や幕僚なども現れて月進・日進なども行なわれた。 内侍省内には進奉専用の内蔵庫が設置され、安史の乱後の財政難から国庫と内蔵庫の一体化が行われたことが宦官抬頭の一助となった。 羨余と同様に官属や民衆に対する苛刻な収奪を伴い、その弊害は政府でも認識されていたが、両税法の実施で分離された内蔵庫からの国庫充当が常態化していた為に抜本的解決は回避された。
  
 後に後漢では契丹侵攻後の中央の武力回復を急務として武器進奉が奨励されたが、貢税の一部を進奉品の製作費に充てる事が認められた為、粗悪品の進奉で私腹を肥やす藩鎮が殆どで、歳入の減少と藩鎮の増強によって相対的に朝廷の力を低下させた。

進奏院  ▲
 藩鎮が交渉・諜報などの目的で京師に設置した機関。藩鎮との進奉の転輸を通じて飛銭(手形制)を発達させ、金融史上の画期をもたらした。宋代では各州の上奏を管掌し、中央集権制強化の一環を担った。

成徳軍節度使
 河朔三鎮の1つ。762年に史朝義から転帰した張忠志を任じ、張忠志は李宝臣と賜名され、恒州(河北省正定)を治所として4州を領し、恒冀節度使・鎮冀節度使とも呼ばれた。 嗣子の李惟岳は朝廷に襲藩が認められなかった事で781年に魏博軍とともに叛き、建中の兵乱に発展した。 李惟岳は翌年に招撫に応じた部将の王武俊に殺され、王武俊は間もなく行賞を不満として盧龍藩の朱滔とともに反側に転じたが、の称帝による盧龍藩の強大化を嫌って魏博の田悦と与に朝廷に帰順し、徳宗の己罪詔によって使職を安堵された。
 王武俊の孫の王承宗憲宗の削地策を嫌って叛き、これには淮西藩平盧軍が呼応したが、両藩の敗北によって元和14年(819)に朝廷に2州を献じて帰順した。 翌年に襲職した弟の王承元は魏博藩に倣って藩を奉還し、後任の節度使には元魏博節度使の田弘正が充てられたが、翌年(822)には鎮将の王廷湊が田弘正を殺して叛し、魏博軍による討伐を退けて朝廷にも使職を追認され、使職の世襲も認められた。
 後梁建国後も魏博藩とともに自立性を保っていたが、魏博の内訌に介入した梁軍に攻められると李存勗に帰順し、柏郷の役を惹起した。

羨余
 節度使などの転任時に上計された、藩鎮の一種の余剰財。使職の考課として次第に重視されるに伴い、管内での収奪や兵の減俸・削員が行なわれて宮市とともに徳宗期の二大悪弊とまで称され、後の黄巣の乱が拡大する要因ともなった。 順地藩鎮の任期は通常2〜3年で、短期的な任期が収奪を更に苛酷なものとし、羨余の一部を財源とした進奉によって就任した使君が負債回収を兼ねて収奪を強め、世に“債帥”と呼ばれた。

宮市  ▲
 宦官による、市での宮中用度品の調達。 市価の1割を常態として徴発し、運搬や門銭も商人の負担とした為、後には宮市が宣布されると皆な門を閉じたという。 亦た宦官が代価としたのが銭ではなく絹・綿などだった事から、当時すでに長安一帯すら貨幣経済が破綻していたと考えられ、銭納を基本とした両税法の矛盾が間接的に示されている。

鎮海軍節度使
 781年に置かれた浙江西道観察使の後身として、805年に蘇州を治所として設置された。 6州を領し、治所は後に杭州に移転した。

平盧軍節度使
 范陽節度使に属した平盧軍使が、開元7年(719)に昇格して営州(朝陽)に置かれたもの。玄宗の十節度使の1つ。 管下には安東都護府を含み、室韋靺鞨契丹渤海の防禦を任とし、鎮兵には異種族を多く擁して精強を謳われた。
 757年に史思明とともに招撫に応じた王玄志が節度使とされ、翌年に王玄志が歿すると侯希逸が鎮将によって立てられ、これを朝廷が追認したことが河朔三鎮の独立性を謳う“河北旧事”の嚆矢となった。 幽州の李懐仙と対峙したすえに史朝義に敗れて青州に遷移し、761年に侯希逸を追放した李懐玉が淄青平盧軍節度使として追認され、併せて李正己と賜名された。
 平盧軍は反側藩鎮中最大の領域を有し、781年に李懐玉を嗣いだ子の李納は程なく成徳軍の挙兵に呼応して建中の兵乱を拡大させ、その後も李師古・李師道兄弟へと父子相伝した。 李師道は806年に襲藩すると朝廷への帰順を称しつつ成徳軍淮西藩に通じ、河陰の軍資焚却や武元衡暗殺などで討伐の停止を図ったとされる。 淮西藩が平定されると朝廷に3州を献じたものの赦されず、李師道が819年に敗死した後は平盧・兗海・天平節度使に三分された。

鳳翔節度使
 関中の鳳翔府と隴州を領した。鳳翔府はもとは雍県(鳳翔)を治所とした岐州で、天宝元年(742)の廃州為郡で扶風郡に改められて8県を領し、756年に鳳翔郡、757年に鳳翔府に昇格した。治所は西京とも呼ばれ、黄巣の乱後は地の利によって朝廷に大きな発言力を有した。
 834年に節度使を襲いだ李昌符朱玫とともに田令孜を援けて王重栄に大敗し、襄王擁立後は朱玫の主導を不服として僖宗に帰参したものの、887年に僖宗の拉致を図って失敗し、隴州に逃れて武定軍節度使李茂貞に滅ぼされた。

盧龍節度使
 范陽節度使とも。712年に設置された、玄宗代の十節度使の1つ。幽州を治所として10州を領し、幽州節度使とも呼ばれた。 安禄山の勢力基盤の1つでもあり、762年に招撫に応じた李懐仙(〜768)が既得権として使職を認められ、李懐仙が部将の朱希彩に殺されてより盧龍節度使と呼ばれるようになった。 772年に朱希彩が将兵に殺された後は朱滔の兄弟が相襲ぎ、朝廷は何れも襲職を追認した。 建中の兵乱では初め朝廷に与したが、後に反側に転じて785年までに平定された。
 朱滔の後は劉氏が三代続き、劉璁が821年に朝廷に奉還したが、後任として派遣された張弘靖が鎮将の朱克融に逐われて再び反側化し、以後は牙営主導での節度使の交替が続いた。
 875年に回鶻系の李茂勲が簒奪してより李氏の世襲が始まり、李茂勲の嗣子の李可挙は隣接する吐谷渾都督の赫連鐸と与に大同での李国昌の軍閥化を警戒し、諸藩と結んで李国昌を塞外に逐った後、885年に定州攻略に失敗した一族の李全忠に簒奪された。 李全忠の子の李匡威が嗣いだ後も沙陀族の李父子との抗争は続き、李匡威を逐った弟の李匡籌が894年に李克用に敗死した後は劉仁恭劉守光父子が世襲し、913年に李存勗に滅ぼされた。

△ 補注:唐末五代

Top