1636〜1912
 女真族の大ハーン/ホンタイジが、1636年に満蒙漢三族の君主を宣言して後金国を改号したもので、順治元年(1644)に睿親王ドルゴンの指導下に、明朝を滅ぼした李自成を逐って北京に遷都し、中国王朝として明朝の後継王朝を自認した。 順治年間(1644〜61)に華南から遺明勢力をほぼ一掃し、康煕年間(1662〜1722)に三藩台湾を平定して中国の一元支配を達成し、諸制度の整備と文芸活動を奨励する傍らでロシアの進出やオイラートの造叛を抑え、最も充実した時代を現出した。
 統制の強化によって君主権と中央集権を著しく進めた雍正年間(1722〜35)に続く乾隆年間(1736〜95)も禁書措置などの大規模な思想統制は続いたが、統制対象の中心は民族主義から反官思想にシフトし、文字の獄の副産物として中国最大の叢書とされる『四庫全書』なども編纂された。 又た前2代の国富を背景に十全功に代表される大征も行なわれ、乾隆年間は中国社会の極盛期とも称されるが、長期の安定から綱紀が弛緩して官界の腐敗や階級格差が進行し、奢侈・軍事を支える為の増税も加わって乾隆末期には各地で大乱が続発し、軍部でも八旗の都市貴族化や緑営の堕落が顕著となって内乱の長期化につながった。
 19世紀には産業革命を遂げた欧米勢力の進出も執拗となり、銀流出と衛生被害の抑止を目的とした阿片戦争(1840)でイギリスに敗れた後、太平天国の乱(1851〜64)・アロー号戦争(1857〜58)で弱体を内外に露呈し、欧米列強による植民地的侵略が進められた。 官軍の弱体化に対しては自警団的な団練郷勇が正式採用されて内乱に対処し、アロー号戦争の後には西洋文明に倣った近代化=洋務運動も進められ、猶も欧米諸国からは「眠れる獅子」と呼ばれたが、日清戦争(1894〜95)によって洋務運動の限界を露呈し、列強の侵略は一層露骨になった。 そのため改革・排外の機運が昂揚して戊戌変法(1898)・義和団事変(1900)などが生じ、やがて滅満興漢の革命思想に転化して宣統3年(1911)の辛亥革命に結実し、その翌年に孫文袁世凱の交渉によって帝政の廃止が宣言された。

順治  康熙  雍正  乾隆  嘉慶  道光  咸豊  同治  光緒  宣統

 

世祖 / 順治帝  1638〜1643〜1661
 清朝の第三代天子。諱は福臨・福倫。太宗の第9子。睿親王ドルゴン・粛親王ホーゲの合議によって即位し、元年(1644)に北京に奠都して清朝による中国支配を布告した。 治世の前半は叔父のドルゴンが摂政王として執政し、明朝の法制を改修して明朝官吏の帰順者を原官に任用する傍ら、中国平定と並行して辮髪胡服を厳罰をもって強制するなど民族主義を以て臨んだ。 8年にドルゴンが歿すると正白旗に加えて正黄旗・鑲黄旗を掌握して旗王勢力の削減につとめ、又た晩年には永明王を雲南から逐って中国本土の復明勢力をほぼ一掃した。
 漢人が傅役だったために科挙を継続するなど漢文化に偏倒し、殊に一族の寡婦を娶る遊牧社会の嫂婚制を嫌悪したが、遺詔では過度の漢文化を謝罪した。一説では、死を装って五台山に隠棲し、重大な国事には聖祖に助言を与え、聖祖が治世前半にしばしば行なった五台山参詣はそのためだったという。

ドルゴン  1612〜1650
 多爾袞。睿親王。太祖の第14子。太宗の死後は白旗王として継嗣の最有力候補だったが、嫡統の黄旗王ホーゲらとの内訌を避けて世祖を擁立し、摂政の筆頭に就いた。 李自成による北京の陥落後、山海関の呉三桂の称藩を受けて李自成を逐って北京を占領したが、南征には自らの正白旗・鑲白旗の他は帝の正黄旗と参謀の洪承疇の漢八旗を用い、実弟のアジゲドドを副将にするなど与党のみで編成して占領後の混乱の抑制と権威の伸長を図っている。
 順治元年(1644)に皇叔摂政王、5年に皇父摂政王とされ、南中国の征服と中国支配の確立を推進したが、太宗の死後にその寡婦を娶ったことが中国文化に心酔する世祖に強く嫌悪され、長城外での狩猟中にカラ=ホトンで歿すると、スクサハらによる大逆の誣告で籍爵を剥奪され、大粛清に発展した。 乾隆年間に名誉を回復されたが、正白旗は皇帝直属のまま、正鑲黄旗と併せて“上三旗”と称された。

周奎
 順天府の人。字は雲路。明朝では娘が毅宗の皇后とされて嘉定伯に封じられたが、北京落城の後、入城した李自成を讃えて即位を勧進すると共に毅宗を罵倒し、清軍の入城後は外孫にあたる毅宗の太子と公主を保護しながら密告するなど、露骨な変節で各界から顰蹙された。朱氏の復仇を公言しつつその根絶を図る清朝に迎合し、両子が偽者であると証言して処刑の名分を与えた。

ホーゲ  1609〜1648
 豪格。粛親王。太宗の長子。 天聡6年(1632)に和碩親王に封じられ、崇徳元年(1636)に和碩粛親王に進んで戸部を掌った。 軍事に長け、6年(1641)に洪承疇らを捕えるなど中国征服にも大きく貢献し、黄旗王として太宗の継嗣と目され、太宗が歿すると紅旗王ダイシャンの支持もあって白旗王のドルゴンと後継を争ったが、黄旗のオーボイらの調停で順治帝が即位した。 順治3年(1646)に靖遠大将軍とされ、陜西・四川を経略して張献忠を平定したが、5年(1648)に誣告で宗籍・爵位を削られると獄中で憤死し、ドルゴンが歿した翌年(1651)に爵位が回復された。

ドド  1614〜1649
 多鐸。豫親王。太祖の第15子。ドルゴンアジゲの同母弟。 和碩貝勒に封じられて正白旗を統べ、崇徳元年(1636)に和碩豫親王に進封された。順治元年(1644)に定国大将軍とされ、孔有徳耿仲明を率いての李自成追討や江南の福王平定の功などで4年に輔政叔徳豫親王とされた。

アジゲ  1605〜1651
 阿済格。英親王。太祖の第12子。ドルゴンの同母弟。天命10年(1625)にモンゴルのリンダン=ハーンの征討に従って貝勒とされ、朝鮮侵攻などの軍功で崇徳元年(1636)に多羅武英郡王に進封された。 同年の朝鮮侵攻(丙子胡乱)にも従い、大凌河・錦州攻撃の翌年(1640)には明の洪承疇を破り、順治元年(1644)に和碩英親王・靖遠大将軍とされ、呉三桂尚可喜を率いて陝西に李自成を追撃した。 後に驕慢となってドルゴンに疎まれ、ドルゴン死後の粛清で剥爵・幽閉の後に賜死されたが、乾隆43年(1778)に名誉が回復された。

ジルガラン  1599〜1655
 済爾哈朗。鄭親王。太祖の弟/荘親王シュルガチの第6子。アミンの弟。 ヌルハチに養育されて多くの征旅で軍功があり、天聡3年(1629)の太宗の征明では失脚した兄のアミンに替って鑲藍旗を統べて従軍し、翌年の六部創設で刑部の事を行なった。崇徳元年(1636)に和碩鄭親王に封じられ、順治帝が即位するとドルゴンと共に輔政して信義輔政叔王とされたが、順治4年(1647)に弾劾から解任されて郡王に貶された。程なく復爵して定遠大将軍として永明王を伐ち(〜1650)、ドルゴンの死後はドルゴン派の粛清と並行して貴族会議主導の旧制回帰を意図したが、集権化を主導する世祖によって内三院は内閣へ、内務府は十三衙門へと移行した。 9年(1652)に叔和碩鄭親王に進封された。

孔有徳  〜1652
 遼東の人。本貫は山東。鉱夫から海賊に転じた後、同郷の耿仲明とともに皮島の毛文龍に投じ、尚可喜と併せて“山東三鉱徒”と呼ばれた。 毛文龍が殺されると登莱(山東省)に投じたが、1631年(崇禎4/天聡5)に叛いて山東各地を劫掠したのち耿仲明とともに清軍に投じた。 このとき洋式大砲を伴った事が殊に喜ばれて恭順王に封じられ、天佑兵と命名された麾下の維持も認められ、1636年のホンタイジの登極式では漢族の代表として勧進し、八旗制が漢人にも衍用されると正紅旗に属した。 ドルゴンの入関後は豫親王ドドに従軍して平南王に改封され、永明王の追撃中に定南王に改封されたが、湖南の擾乱で貴州から転東したところを桂林城で李定国に帰路を絶たれて縊死した。
   ▼
 康熙5年に部将の孫延齢が娘婿として桂林に進駐し、12年(1673)に呉三桂が叛くと広西将軍とされたものの間もなく叛軍に与し、15年に敗れて清朝に降った。

耿仲明  1604〜1649 ▲
 遼東蓋州の人。字は雲台。同郷の孔有徳に従って毛文龍に帰順し、“山東三鉱徒”と呼ばれた。 毛文龍の死後も孔有徳に従い、後金に投降したのち清朝の成立で懐順王に封じられ、漢軍正黄旗に編属された。 入関後は孔有徳と共に豫親王ドドの軍事に従って順治6年(1649)に靖南王に改封されたが、広州遠征の途上で逃亡者の隠匿が露見し、追及を懼れて江西の吉安で縊死した。
 嗣子の耿継茂が靖南王を襲ぎ、福建に移封された。

尚可喜  1604〜1676
 海州衛(遼寧省海城)の人。字は元吉。父以来の毛文龍の部将で、毛文龍の死後は遼東海上の広鹿島に拠り、1634年に後金に降った。 麾下の天助兵を率いて各地の征戦に従事し、ホンタイジの登極で智順王に封じられ、1642年に漢軍鑲藍旗に編属された。 入関後は英親王アジゲに従って陝西から湖広を転戦し、広州では“庚寅之劫”と称される明兵鏖殺を行ない、順治6年(1649)に平南王に進封されて藩王としての広東支配が認められた。 康煕12年(1673)に老齢を理由に致仕と嗣子/尚之信の襲封を求めた事から三藩廃止論が生じて三藩の乱を結果したが、自身は朝廷に恭順を示して14年には平南親王に進められ、乱に呼応した尚之信に監禁されて悶死した。

洪承疇  1593〜1665
 泉州南安の人。字は彦演、号は亨九。万暦44年(1616)の進士。陝西での王嘉胤らの討伐が認められて崇禎4年(1631)には延綏巡撫から陝西三辺総督に進み、8年(1635)に兵部尚書を兼ねて河南・山西・陝西・湖広4省の総督とされた。 後に陝甘方面の専任となって闖王を継いで間もない李自成を大破したが、直隷で盧象昇が女真に敗死した為に薊遼総督に転じ、錦州救援に失敗した翌年(1642)に松山で捕虜となって降伏した。
 清に降伏した最初の進士官僚として漢軍八旗の筆頭に置かれ、入関時には殺掠の厳禁と受降の奨励を勧めて短期での華北征服を成功させ、北京遷都と伴に内三院の秘書院大学士に就いた。 翌年より南京に進駐して江南各省総督として南中国の招撫・経略を主管し、順治5年(1648)に徴還されて体制の整備に参与し、10年(1653)に再び南方総督に転じて15年には武英殿大学士を加えられた。 永明王の西奔後には雲南の羈縻支配を提言して呉三桂の就封と前後して帰京し、18年(1661)に眼病を理由に致仕した。

馮銓  1595〜1672
 順天涿州の人。字は振鷺。万暦41年(1613)の進士。 魏忠賢に附和して天啓5年(1625)に内閣大学士に列し、翌年に『三朝要典』の総裁官とされて東林党を三案の首謀者として論じ、毅宗の即位で失脚した。 順治元年(1644)に入関したドルゴンの招聘に応じ、翌年には礼部尚書・弘文院大学士に進み、洪承疇らと票擬の再開や郊社・宗廟の事を議定したが、同郷や縁故を多く挙任して「狐媚成奸、豺狼成性」と弾劾された。 順治11年(1654)に陳名夏に代表される南人41人を弾劾して「平地作浪」として窘められたが、13年に老齢を以て致仕した後も顧問として朝廷に留まった。

陳名夏  1601〜1654 ▲
 江蘇溧陽の人。字は百史。明の崇禎16年(1643)の探花進士。 復社に連なって明朝では戸兵二科都給事中に至った。李自成、次いでドルゴンに降って吏部侍郎に抜擢され、順治5年(1648)には漢人として初めて吏部尚書に進み、8年に弘文院大学士・少保・太子太保を加えられた。 ドルゴンの為に東林派南人の組織化を進めて馮銓ら北人党と対立し、ドルゴン党追及の疑獄では吏部尚書譚泰の訟冤で不問とされたが、以後も明末以来の北人との政争は続き、収賄や子弟の非行などを弾劾されて処刑された。

譚泰  〜1651
 満洲正黄旗人。開国功臣の一族で、自身も太宗の征戦に従ってしばしば立功し、ドルゴンに信任されて順治5年(1648)に征南大将軍に進んだ。 ドルゴンの死後に吏部満族尚書に進められ、ドルゴン派追及の疑獄では訟冤して洪承疇陳名夏ら多くの南人を救い、却って御史の張煊が誣告罪で処刑されたが、程なく専横として詔獄に降され、オーボイらの追訴もあって処刑された。

銭謙益  1582〜1664
 常熟(江蘇省)の人。字は受之、号は牧斎。万暦38年(1610)の進士。東林党員としてしばしば排撃され、北京陥落後は福王に随って礼部尚書とされたが、清軍が接近すると無抵抗で降伏して礼部侍郎とされ、晩年は郷里に隠棲した。 史文仏道の諸学に通じ、詩文では杜甫を宗としつつも古文辞派を批判して内容を重視する“香観説”を提唱し、清初の詩家として呉偉業と並称されたが、その変節は聖祖をはじめ朝野から謗られ、乾隆年間には晩年の詩が時政誹謗とされて全著書157巻が禁書とされた。
 常熟は元末に浙西でも張士誠に従った地で、朱元璋に激しく抵抗した為に明朝一代を通じて圧迫され、明末清初には復社に対する処遇もあって陳名夏ら多くの名士が清朝に帰順した。 又た中心都市の蘇州も薙髪令に無抵抗で従うなど、徹底的に抵抗した浙東に比して変節・柔弱を非難された。

黄宗羲  1610〜1695
 余姚(浙江省)の人。字は太冲、号は梨洲・南雷先生。魏忠賢を批判して東林党員として獄死した黄尊素の子。 復社に参加して阮大鋮の排斥に加わり、北京陥落後は世忠営を組織して清軍に抵抗し、魯王に属して日本に乞援したこともあった。 滅明後は『明夷待訪録』を著すなど著述に専念して博学鴻詞科に推挙されても応じなかったが、『明史』編纂では殉難諸士表彰のために子の黄百家と門弟の万斯同を派遣した。
 劉宗周を学師として経学のほか史学・数学・地学などを学び、科挙的学問や左派の思弁的学問を否定して考証や経世済民に繋がる実践を重んじ、考証学浙東学派の祖とされた。 又た独裁君主の専制支配を否定して君臣合議制を理想とし、合理主義的批判精神と相俟って啓蒙思想家とも評される。

顧炎武  1613〜1682 ▲
 崑山(江蘇省)の人。旧諱は絳、字は忠清、後に寧人。号は亭林。復社に参加し、北京陥落後は福王の南京政権を支持して義勇軍に加わり、南京陥落後は仕官せずに各地を歴遊しつつ研究を進め、晩年に陝西の華陰に定住した。 陽明学の思弁的学問を批判して経世済民に繋がる実学を重んじ、歴遊には2頭の驢馬に書籍を積み、金石を蒐集する傍らで実地調査によって書籍の正誤を考証し、その研究の成果として『日知録』完成させた。 放浪中は家族を顧みず、死に臨んでも言及しなかったという。黄宗羲・王夫之と並ぶ清初三大儒に数えられ、考証学浙西学派の祖とも称される。

王夫之  1619〜1692
 衡陽(湖南省)の人。字は而農、号は薑斎。王船山として知られる。 崇禎15年(1642)の挙人。北京陥落後に義兵を挙げたものの失敗して肇慶に奔り、瞿式耜の推挙で桂王に仕えたが、朝廷の内訌に失望して永暦5年(1651)に致仕し、以後は各地を流亡して順治17年(1660)に郷里の石船山に隠棲した。 博学で、張載の思想を重んじて陽明学の特に左派を強く批判し、又た滅宋・滅明を鑑として尚古主義や中央集権的君主専制、土地兼併や重商主義を否定して中国社会の変革の必要性を説き、強烈な華夷思想に則った独自の正統論・経世的史論を展開した。

呂留良  1629〜1683
 石門(浙江省)の人。字は荘生・用晦、号は晩村。 黄宗羲らと交際して朱子学を奉じ、専ら華夷の別を峻厳にして王者の政と封建制社会への回帰を唱え、清朝への出仕を頑なに拒んで晩年には剃髪した。雍正6年(1728)に思想的影響を受けた曾静が四川総督岳鍾hに謀逆を指嗾して告発されると、連坐して棺を暴かれたうえ斬首・獄門とされた。
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 曾静の事件は文字の獄を伴ったが、曾静自身は誤謬を認めて減死に処され、調取の経緯は『大義覚迷録』として雍正8年に出版された。 同書は即位直後の高宗によって雍正13年(1735)に禁書とされ、曾静も凌遅刑に処された。

アダム=シャール  1591〜1666
 湯若望。ケルン生まれのドイツのイエズス会宣教師。 明の天啓2年(1622)に入国して西安で布教し、月蝕を的中させた事と徐光啓の推挙で崇禎3年(1630)に北京に招聘され、多数の天文観測機器や火砲類を製作するとともに西洋天文学書を漢訳して『崇禎暦書』を完成させ、1643年には元朝以来の大統暦が廃されて西洋暦が採用された。 北京陥落とともに清朝に仕え、『時憲暦』を完成させて欽天監正とされたが、世祖の死後に守旧派の湯光先らに讒言されて康熙4年(1665)には投獄され、キリスト教も禁圧対象とされた。 皇太后の助言で減死に処され、翌年に北京で歿したが、間もなく改暦に失敗した湯光先が罷免され、フェルビーストが後任とされた。

金人瑞  1610?〜1661
 呉県の人。旧諱は采、字は若采、号は聖嘆。金聖嘆として知られる。 反俗・反常識的な独奇な見解を有し、『西廂記』『水滸伝』を『荘子』『楚辞』『史記』『杜詩』と並ぶ中国文学の傑作として“六才子書”と命名し、それぞれに批評を施した。 その警抜な批評に対しては毀誉褒貶が激しく、又た清朝に出仕することを拒み、蘇州の生員の暴動に連座して腰斬刑に処されたが、巷間では『水滸伝』120回本を70回本に腰斬して出版した報いだと称された。

呉偉業  1609〜1671
 南直隸太倉(江蘇省)の人。字は駿公、号は梅村。崇禎4年(1631)の榜眼進士。明朝では翰林院編集・東宮講読官・左庶子を歴任し、北京陥落後は福王に仕えたものの復社に加わっていた為に排斥された。 順治9年(1652)に両江総督馬国柱らの強請で出仕し、国子監祭酒に至ったものの14年に母の喪を理由に致仕し、弐臣となった事を痛恨事として生涯出仕しなかった。清代の代表的な詩人で、墓誌を拒んで“詩人呉梅村”とのみ記す事を遺言した。

石谿  1612〜1674
 武陵の人。俗姓は劉、字は介邱。号は釈髠残・白禿・石道人など。 幼時に両親を失い、諸方を遍歴したのち40歳頃に剃髪し、南京の牛首山幽棲寺の住持となった。生来寡黙で把筆することは稀だったが、明末清初の奇抜な画風の代表者として八大山人石濤らとともに四大名僧に数えられる。

石濤  1642〜1707
 全州(広西自治区桂林市)の人。本名は朱若極。石濤は字を号としたもの。法名は原済。 明太祖の兄/靖江王家の嫡統。南京の陥落後に父/靖江王亨嘉が福州の唐王と争って敗死した為に武昌に逃れ、後に剃髪して松江で禅を学び、宣城の敬亭山広敬寺の住持となって詩画に親しんだ。 南巡中の聖祖に謁した後に上京するなど清朝に積極的に庇護を求めたものの果たせず、晩年には揚州の大滌草堂に居した。 黄山を描いた山水画や蘭竹花果を好み、王原祁の評には「江南の第一人者にして、我と王石谷(王翬)と皆な未だ逮ばず」とある。 小品に優れた反面、大幅では画面の統一を欠くという。

八大山人  1625〜?
 南昌(江西省)の人。俗名は朱由桵。明の寧王家から分れた石城王家の出で、民籍に降って挙人とされたものの程なく北京が陥落し、辮髪を避けて出家した。 一時は百余の門人を擁したものの官憲に警戒されて法衣を棄て、奇逸な生活を送って80歳前後で歿した。好んで定法に外れた大胆な疎筆画や欠損画を描き、明の遺民を任ずる画人の中でも最も軽快磊落な画風で、殊に山水は秀逸と評されて画史では四大名僧に数えられる。

禹之鼎  1647〜1686
 江都の人。字は尚吉、号は慎斎。清朝随一の宮廷肖像画家と評され、呉道玄風の繊細な白描と淡い着彩を用い、当時の名士像の多くを手がけた。

四王呉ツ
 明末清初の江蘇の代表的画人の総称。王鑑王時敏王原祁王翬呉歴ツ格を指す。 ツ格以外は山水画家で、董其昌に師事した王時敏・王鑑を二王と呼び、その門から出た4人はいずれも独自の画風を拓いて婁東派・虞山派・常州派が生じ、中国絵画史上最後とも称される盛時を現出した。

王鑑  1598〜1677 ▲
 婁東(江蘇省太倉)の人。字は玄照、後に円照。号は湘碧・染香庵。 王世貞の曾孫。明末に廉州知府(広東省合浦)に進んだ。 夙に家蔵の古書画に親しみ、同郷かつ親友の王時敏と共に董其昌に師事して南宗画を学んだ。 王時敏とは二王とも称される。

王時敏  1592〜1680 ▲
 婁東(江蘇省太倉)の人。字は遜之、号は煙客・西廬老人。 内閣首輔王錫爵の孫。父祖の蔭によって出仕して太常寺少卿に進んだ後、滅明に直面して隠棲した。 名画を多く所蔵し、董其昌に師事して特に黄公望の画風を慕い、詩文や書にも長じた。

王原祁  1642〜1715 ▲
 婁東(江蘇省太倉)の人。字は茂京、号は麓台・石獅道人。王時敏の孫。 康熙9年(1670)の進士。内廷供奉とされて内府の書画鑑定を専任し、後に戸部左侍郎まで進んだ。 詩・書・画に優れて“芸林三絶”と称され、晩年には南書房に侍し、多くの文人画家に影響を与えた。

王翬  1632〜1717 ▲
 虞山(江蘇省常熟)の人。字は石谷、号は耕煙散人・剣門樵客・清暉主人など。 同郷の張珂に就いて黄公望の画を学んだ後に二王に師事し、南宗画北宗画を融合して“百年来の第一人”“画聖”と称された。後に招請に応じて北京で聖祖の南巡図を描き、画院に南宗画を導入した。

呉歴  1632〜1718 ▲
 虞山(江蘇省常熟)の人。字は漁山、号は桃谿居士・墨井道人。二王に師事して南宗画を学び、母の死を機に仏門に入ったが、康熙22年(1683)にイエズス会に入信してマカオで西洋画に接し、画風を一変させた。

ツ格  1633〜1690 ▲
 武進(江蘇省常州市区)の人。字は寿平。 ツ寿平として知られ、後に寿平を諱として字を正叔とした。号は南田・雲渓・白雲・東園草衣など。 中年期に王翬に接して山水画から花卉画に転じ、王時敏の下で没骨法を学んで独自の水彩画法によって最も天才的と謳われ、多くの門弟が集って常州派を形成した。

聖祖 / 康熙帝  1654〜1661〜1722
 清朝の第四代天子。諱は玄Y。世祖順治帝の第3子。即位当初は4人の宰輔が執政したが、康熙8年(1669)に15歳で権臣のオボーイを粛清して親政を始め、12年に始まる三藩の乱では遷都論や宥和派を叱咤して討伐を指導し、22年(1683)までに台湾までも平定して清朝の中国支配を盤石にした。 次いで黒龍江方面からロシアを撃退してネルチンスク条約(28年/1689)によって中国王朝として初めて国境を画定し、モンゴルに進出したオイラートのガルダンに対しては親伐して35年(1696)に撃滅し、漠南全域を清朝の藩部とするとともに外ハルハに対しても宗主権を確立した。
 内政面では『康熙字典』『大清会典』の編纂など文化事業を庇護・奨励する一方で基本的に質倹を重んじ、しばしば減税を行なって冗員冗費の削減にも努め、中南米産の洋銀の流入もあって経済は活況に向い、晩年には丁銀(人頭税)総額の固定も定められた。 又た朱子学を尊重する一方でフェルビースト(南懐仁)・ブーヴェ(白進)・ジェルビヨン(張誠)ら西洋人も積極的に登用し、自らも西洋科学を学んで中国全図『皇輿全覧図』を作成させた。
 中国で最も充実した治世を現出して唐太宗とともに歴代最高の名君とされるが、唐太宗同様に皇太子問題では失敗し、以後は頑なに継嗣を定めなかった。

オーボイ
 鰲拝。グワルギャ(瓜爾佳)氏。満洲鑲黄旗人。太祖ヌルハチの腹心だった驍将フィヤントン(費英東)の甥。 太宗の時代から征旅で軍功があり、太宗の死後にソニンとともに正黄旗・鑲黄旗の兵力を背景として内訌の鎮静化と6歳のフリン(世祖)の即位に尽力した。
 入関後は英親王アジゲの征旅に従って李自成や張献忠の撃滅に功があり、世祖の親政とともに議政王大臣に列して信任された。 世祖が歿すると遺詔で四輔政大臣の末席に連なり、首席のソニンが康熙6年(1667)に歿すると、かねて不和だった第二席のスクサハを聖祖に逼って族滅させ、次いで第三席のエビルンを屈服させて専権を確立したが、8年に宮中で逮捕され、減死に処されたものの獄死した。 康熙52年(1713)に旧功によって原赦され、雍正年間には超武公と追諡されて一等公の世襲が認められたが、乾隆年間には一等男に貶された。

ソニン  1601〜1667
 索尼。満洲正黄旗人。ヌルハチの時代から各地を転戦し、漢満蒙3語に通じていた事でも重用され、ドルゴンの入関にも従い、世祖が親政をはじめると内大臣・議政王大臣として内閣府を総轄した。 世祖が歿すると輔政大臣の首席となり、内閣・十三衙門等を国初の内三院・内務府に改めるなど前代の漢化政策を修正し、又た長老として閣内の不和を能く抑えたが、一等公に封じられた年に歿した。

スクサハ  〜1667
 満洲正白旗人。ナラ(納喇)氏。 ドルゴンの側近として立身したが、その死後はドルゴンの弾劾とドルゴン派の粛清を先導し、世祖が歿すると輔政大臣の第二席とされた。 末席のオーボイとは殊に不和で、主席のソニンの死後にオーボイとの政争に敗れて族滅された。 オーボイとスクサハの政争は、ドルゴンの恣意で畿輔旗地を設定された鑲黄旗の、正白旗に対する反撥が表面化したものでもあった。

耿継茂  〜1671
 漢軍正黄旗人。耿仲明の嗣子。 父の死後に尚可喜とともに広東経略を進め、順治8年(1651)に襲封が認められた。永明王を追撃して両広・雲南に転戦したが、広州での圧政を弾劾されて16年に四川に、その翌年には福建に移封されて鄭成功と対峙し、康熙2年(1663)に鄭成功の死に乗じて金門・厦門を陥した。

呉三桂  1612〜1678
 遼東の人。本貫は高郵(江蘇省)。字は長白。 錦州総兵官の父の蔭で都指揮使となり、総兵に進んで寧遠城(遼寧省興城)で清軍を防ぎ、京師救援の途上で北京陥落の報に接して山海関を守ったが、李自成の部将に愛妾が掠奪されたことで清朝に降った。 ドルゴンの北京入城と伴に平西王に封じられ、清軍の先鋒として山西・陝西、次いで四川・雲貴の略定を進め、永明王を滅ぼした康熙元年(1662)に親王に進爵されて藩王として大幅な自治が認められた。
 康熙12年(1673)の藩王廃止に抵抗して復明を呼号して靖南王耿精忠と与に挙兵し、一時は南中国全域を勢力圏としたが、説得力に乏しい大義名分や積極性と連携に欠けた戦略などから次第に劣勢となり、17年に衡州(湖南省衡陽)で僭称してまもなく病死した。
     
三藩の乱 (1673〜81):雲南の平西王呉三桂・福建の靖南王耿精忠・広東の平南嗣王尚之信の叛乱。三者はいずれも藩王として外交以外の自治を認められていただけでなく多額の予算を支給され、軍閥として隠然たる勢力を有した。 康熙12年(1673)の平南王尚可喜の帰郷請願を機に藩王国の廃止が決した為、耿精忠と通じた呉三桂が挙兵して巡撫・総督を敗死させた事に始まる。 尚之信のほか広西将軍孫延齢(孔有徳の娘婿)・陝西提督王輔臣や台湾の鄭経らが呼応し、八旗兵の弱体化もあって一時は陝西〜福建以南の南中国全域を勢力圏とする大乱に発展し、チャハール王ブルニやベトナムの莫氏らも呼応するに至った。
 北京では遼東への遷都論も審議されたが、排満興漢の大義名分が説得性に欠けた事、指揮系統の不統一や明確な指針の欠如などから、緑営が主力として投入された後は各個撃破が進み、15年に尚之信が背き、耿精忠と王輔臣・孫延齢が降伏して一気に劣勢に陥った。 17年には呉三桂が歿し、その孫の呉世璠が20年(1681)に雲南の昆明城で自殺して三藩の乱は終息し、22年には台湾の鄭氏も降伏して清朝による中国支配が確立した。

耿精忠  〜1682 ▲
 靖南王耿継茂の嗣長子。粛親王ホーゲの婿。 襲封の2年後(康熙12年/1673)に廃藩問題から朝廷と対立して呉三桂と結んで挙兵し、総統兵馬大将軍を称して福建を制圧して浙江・江西・広東にも進出した。 台湾鄭氏の呼応も得たものの以後も鄭氏とは確執が解消されず、15年(1676)に康親王ギェジュ(傑書)に本拠地の福州を陥されて降伏した後は鄭氏の討伐に従事したが、呉氏の敗滅後に北京で磔刑に処された。

尚之信  〜1680 ▲
 平南王尚可喜の子。父の致仕によって廃藩が決した為、康熙12年(1673)に呉三桂・耿精忠が叛くと父を軟禁して呼応した。15年に朝廷の招撫に応じて官軍に加わり、削権による存続が認められたが、逆心を疑われて賜死に処された。

施琅  1621〜1696
 泉州晋江(福建省)の人。字は尊侯。鄭芝龍に従って清に降ったのち鄭成功に回帰して水師の将として重用されたが、厦門の回復後に軍律の運用から鄭成功と対立して離背し、家族を鏖殺されて清に投じた。 以後は鄭氏に対する軍事に水師の将として従って北伐撃退の後に同安総兵に進み、康熙元年(1662)には水師提督とされて靖南王耿継茂・福建総督李率泰らの厦門攻略と連動して金門・嶼を抜き、右都督・靖海将軍とされた。 7年に内大臣とされて漢軍鑲黄旗に編属され、しばしば台湾攻略を上書し、20年(1681)に鄭経が歿すると再び福建水師提督とされ、22年(1683)に鄭氏を降して靖海侯に封じられた。

フェルビースト  1623〜1688
 南懐仁。フランドルのイエズス会宣教師。順治16年(1659)にに入国し、西安での布教中に世祖の招聘に応じて欽天監アダム=シャールを輔佐した。 楊光先らの西教排斥運動では広東に追放・投獄されたが、翌年(1666)には楊光先の失脚で欽天監副に直され、洋暦に基づいた改暦を進めて康熙7年(1668)に完成させ、12年には欽天監正とされた。 北京観象台の観測機器の充実を進めるとともに天文学・地理学・地質学などを進講し、又た天球儀や坤輿全図(世界地図)・蒸気機関だけでなく三藩の乱では多数の火砲を鋳造して工部侍郎とされた。 17年に公開状を発してヨーロッパの宣教師に渡中を進め、ブーヴェらがこれに応じた

ブーヴェ  1656〜1730 ▲
 白進。フランスのル=マン出身のイエズス会宣教師。 ルイXIV世が組織した宣教団の一員として康熙24年(1685)にフォンタネ(洪若翰)・コント(李明)・ヴィズドルゥ(劉応)・ジェルビヨン(張誠)らと共に入国し、特に聖祖に信任された。 会士招聘や布教の傍らで学術研究に従事し、フランス人宣教師の布教活動の極盛期をもたらして北京で歿した。 康煕帝の侍講として側近して『皇輿全覧図』作成にも参画し、又た著作『康煕帝伝』は第1級の資料とされている。

ガン=チムール
 ネルチンスク地方、シルカ川流域のツングース系ネリュード族長。 ロシア勢力の進出に圧されて順治9年(1652)に中国に亡命したが、清朝によるロシア勢力の排除が難航すると康熙6年(1667)に帰郷してロシアに帰順し、貴族に列して優遇された。同家の帰属問題は、アバルジン要塞の存廃と並ぶ清露交渉の懸案事項として長期化した。

ネルチンスク条約  1689
 清朝・ロシア間の国境問題を中心とした条約。 当時のロシアはシベリアに進出して太平洋岸に達した後に不凍港を求めて南下し、1651年(順治8)には黒龍江岸のアルバジン(雅克薩)に築塞して清朝との軍事衝突が絶えなかった。 清朝は三藩の乱を終息させると本格的な討伐軍を発してアルバジンを攻囲するとともにロシアとの交渉に応じ、イエズス会士の仲介によってシベリア方面の中心基地たるネルチンスクでの条約締結に至った。
 同条約では両国国境は外興安嶺(スタノヴォイ山脈)〜ゴルビツァ川(シルカ川北支流)とされ、黒龍江の航行権は清朝が独占し、アルバジンを含む中国領からのロシア人の撤収、逃亡者の捕捉と送還などが定められ、旅券携帯者の両国間の通行・交易が認められた。

フィヤング  1645〜1701
 費揚古。満洲正白旗人。世祖の孝献皇后董鄂氏の弟。 順治15年(1658)に三等伯を襲ぎ、三藩平定にも従って議政大臣に列した。ハルハ=モンゴルの内訌に介入したオイラートのガルダンを康熙29年(1690)にウラン=ブトン(烏蘭布通)に破り、35年の聖祖によるガルダン親伐では撫遠大将軍として前鋒たる西路軍を率い、ジョー=モド(昭莫多)でガルダンを大破した(聖祖の親率する中路軍は行軍中の支障で後退し、東路軍はロシアに備えて進発しなかった)。 翌年に罹病して徴還され、領侍衛内大臣一等公とされた。

李光地  1643〜1718
 泉州安渓の人。字は晋卿、号は厚庵。康熙9年(1670)の進士。 三藩の乱が生じると討伐論の主張や台湾平定の進言によって聖祖に「朕は彼を最も正しく知り、朕を知るはまた光地に過ぎる者なし」と云わしめた。 翰林院編修・侍読学士・直隷巡撫などを歴任して44年(1705)年に吏部尚書・文淵閣大学士に至った。

徐乾学  1631〜1694
 崑山(江蘇省)の人。字は原一、号は健庵。康熙9年(1670)の進士。外叔の顧炎武に師事し、任官後は聖祖に信任されて27年に刑部尚書に至ったが、当時の官界の例に漏れず朋党を結び、その魁として翌年には罷免された。 万斯同閻若璩胡渭顧祖禹らと交際し、時の学宗と目されて『明史』では総纂官、『大清一統志』『大清会典』では副総裁に就き、万斯同らと『資治通鑑後編』184巻を著述するなど公私に亘って多くの著作をものした。

顧祖禹  1631〜1692 ▲
 無錫の人。字は景范、通称は宛渓先生。 科挙に志したものの滅明の後は父の遺訓に遵って出仕せず、学問に没頭した。父の遺志を継いで『大明一統志』の不備修正を以って任じ、職方・広輿を修正し、山川の険易や歴代戦守の成敗を精考し、20年を費やして康熙17年(1678)に『読史方輿紀要』130巻を完成した。 後に徐乾学の要請で『大清一統志』編纂に参与し、その意見の多くが採用された。

万斯同  1638〜1702
 翟県(浙江省寧波市区)の人。字は季野、号は石園。兄の万斯大とともに黄宗羲に師事して共に浙東学派の旗手と目され、博覧強記で殊に史学に通じ、明朝歴代の実録の暗誦が可能だったと伝えられる。 康熙17年(1678)に博学鴻詞科への薦挙を固辞したものの、翌年に明史館が開設されると黄宗羲の名代として布衣のまま『明史』編纂に参与し、王鴻緒を扶けて文体の統一を担うなど『明史稿』編纂を実質的に総裁した。

王鴻緒  1645〜1723 ▲
 松江華亭(上海市区)の人。字は季友、号は儼齋・横雲山人。康煕12年(1673)の榜眼進士。 21年(1682)に翰林院侍講から侍読に転じて『明史』編纂の総裁官とされ、『大清会典』では副総裁に就いた。 28年に収賄を弾劾されて罷免され、33年(1694)に召されたのち工部尚書・戸部尚書を歴任したが、48年に立太子を奏請して罷免された。
 41年(1702)に『明史』の列伝を脱稿した後も正確公正を期し、48年の罷免では原稿を悉く郷里に携行して修訂を続け、康熙53年(1714)に進呈した後も編纂を続けて雍正元年(1723)に『明史稿』310巻が明史館に収蔵された。 これは本紀は未完で、欽定を経なかった為に“稿”とされるが、『明史』の基本資料として現在も独自の価値を有している。

閻若璩  1636〜1704
 江蘇淮安の人。本籍は山西太原。字は百詩、号は潜邱。塩商の家の出で若冠で学官に列し、科挙には及第しなかったものの当世の碩学としてその名は上聞にも達し、徐乾学の求めで『大清一統志』の編纂に参与した。 夙に『尚書』に疑義を呈し、博識に基づいた細密な考証によって『尚書古文疏証』8巻で古文尚書25編が後世の偽作であることを立証し、考証学の権威を確立した。 黄宗羲顧炎武の経世の為の考証に対し、考証の為の考証を専らにした。

毛奇齢  1623〜1716 ▲
 蕭山(浙江省杭州市区)の人。字は大可。 幼時に母から『大学』を講義され、滅明後は土室に篭って精学して博覧を以て知られた。 康熙18年(1679)に博学鴻詞科に挙げられ、翰林院検討として『明史』編修に参与し、病を以て致仕した後は著述に専念した。 顧炎武胡渭に私淑して考証に長け、宋学の誤謬の修正を旨として考証学の隆盛に寄与したが、閻若璩の『古文尚書疏証』に対して『古文尚書冤詞』を以て反証するなど、恣意的な譏議駁論を好んで「学者の道徳に欠ける」とも評された。

胡渭  1633〜1714
 徳清(浙江省)の人。字は朏明、号は東樵。地理学に対する造詣を以て徐乾学の『大清一統志』編纂に参与し、又た『尚書』禹貢篇の研究成果である『禹貢錐指』20巻・附図47枚は地理沿革の専門学の指標とされた。 易学にも通じ、『易図明弁』10巻の中で、朱子学者に信奉された‘河図洛書’‘太極図’が『易経』と無関係であることを論証した。

王士禎  1634〜1711
 新城(山東省)の人。本諱は士メB字は貽上、号は漁洋山人。 王漁洋としても知られる。順治15年(1658)の進士。 康熙43年(1704)に下僚に連坐して刑部尚書を以て致仕した。 出仕の頃に同郷人と“秋柳詩社”を結び、その折に詠んだ詩が絶賛されて全国的に知られ、朱彝尊とは“南朱北王”と併称された。 清代の詩壇の第一人者でもあり、王維孟浩然らを尊崇し、公安派に象徴される明代の詩風を空疎放恣の先蹤として批判し、古典的典故を重視しつつ音調を追及して“神韻説”を唱え、沈徳潜に絶大な影響を与えて“性霊説”・“格調説”と鼎立した。 『池北偶談』の著者でもある。

朱彝尊  1629〜1709 ▲
 秀水(浙江省嘉興市区)の人。字は錫鬯、号は竹垞。 各地を流寓して経史を学びつつ金石などから考証を行ない、学問を顧炎武閻若璩に、詩を呉偉業王士禎に認められた。 康熙18年(1679)に博学鴻詞科に挙げられ、翰林院検討として『明史』編纂に参与し、28年に致仕した後は著述に専念した。 清初の詩人としては王士禎に亜ぐ大家とされ、『清史稿』では「詩・文・考証を兼ねる」と絶賛された。

蒲松齢  1640〜1715
 淄川(山東省淄博市区)の人。字は留仙・剣臣、号は柳泉居士・聊斎。 博覧強記で、商賈に転じた父に就いて修学し、童試・県試・府試・道試をすべて首席で合格して将来を嘱望されたが、畢に科挙には及第できず康熙29年(1690)年に断念し、49年に貢士の資格が与えられた。 王士禎から奇才として高く評価され、代表作の『聊斎志異』の校訂にも助力を仰ぎ、蒲松齢の死後に刊行された同書は王士禎の序文によって広く流布した。

黄鼎  1650〜1730
 常熟(江蘇省)の人。字は尊古、号は曠亭・浄垢老人など。明代の山水画を学んで特に王蒙の臨模に長けたが、王原祁に師事してより画風を一変させ、後に四王呉ツと並称された。 画人として年羮堯に招かれて戸部左侍郎・掌院学士に至り、雍正・乾隆期の画風の先駆をなした。

沈宗敬  1669〜1735 ▲
 松江華亭(上海市区)の人。字は恪庭・南季、号は獅峯。書家として聖祖に器重された沈荃の子。康熙27年(1688)の進士。 倪瓚黄公望の山水を学び、南画の正統を継承して黄鼎と並称された。詩・書も能く、音律にも通じ、官は翰林院編修から太僕寺卿に至った。

ソエト  1636〜1703
 索額図、ソンゴト。ソニンの子。聖祖の奪権を輔けて信任されたが、ミンジュと対立して三藩問題では宥和を唱え、後の廃太子問題の際には太子を支持した。 康熙40年(1701)に致仕したものの、翌年には皇家の内訌を助長した首謀者として巡幸先の徳州に召喚され、幽閉中に歿した。

ミンジュ  1635〜1708
 納蘭明珠。イェへ=ナラ氏の人。サルフの役の直後にヌルハチに敗れて処刑されたイェへ王ギンタイシの孫。祖父の妹はホンタイジの生母。 ドルゴンの粛清以来常に勝者に与し、聖祖の奪権で兵部尚書とされた。大学士のソエトと寵を争い、三藩問題では撤廃論を唱えて信任され、程なく貪財弄権として弾劾されたものの内大臣として権勢を保ち、太子の素行が問題となった後は廃太子派に与した。

允礽  1674〜1725
 聖祖の第2皇子。 嫡出であり、外叔のソエトの権勢もあって2歳で皇太子とされた。康熙35年(1696)の聖祖のガルダン親伐では京師留守として庶政を決裁したが、次第に驕恣となって信を失い、ソエトが失脚した後は簒奪や謀叛人保護などの風評もあって47年(1708)に不軌として廃された。 翌年に復権したものの諸皇子間の内訌は収まらず、51年には狂疾として再び廃嫡・幽閉され、獄中で歿した。以後、立太子問題は康熙政権の禁忌となり、進言者した大学士が処刑された事もあった。

世宗 / 雍正帝  1678〜1722〜1735
 清朝の第五代天子。諱は胤メB聖祖康煕帝の第4子。聖祖の密勅を得たロンコドらによって擁立されたが、その経緯については疑義が絶えず、程なく御製朋党論を布告して前代の寛容の気風を一掃し、宿臣や兄弟を排斥して独裁権を確立した。 厳格な法治を旨として随所に密偵を送って官吏の素行を把握し、又た自身も深夜まで執務して質倹を実践するなど、その厳格勤勉は歴朝屈指と称された。 統制の強化は地方でも徹底され、総督巡撫以下の官僚・将官に個別に上奏させ(親展状)、これを人物鑑識の具とするとともに自ら硃批(晨筆の批答)・訓戒を加えて返送し、ここでも実情把握のために密偵が併用され、又た各地に書院を設けて北京官話の普及にも努めた。
 オイラートが支配するチベットに対してはホシュートジュンガルの提携を危惧して聖祖の寛緩策を一変させ、即位当初より積極的に派兵してチベットを分割支配し、ジュンガルに対しても雍正10年(1732)ガルダン=ツェリンの東出を撃退して漠北を保持したが、この時に置かれた軍機処が後に常設の最高機関となった。
 雍正帝の施政は清朝の基礎を盤石のものとし、嗣子決定法についても、紫禁城乾清宮の玉座の背後の“正大光明”額の裏に継嗣者の名を記した勅書を隠し、天子の死後に開封する“密勅立太子法(太子密建)”を定めた。

年羮堯  1679〜1726
 安徽懐遠の人。漢軍鑲黄旗人。字は亮工、号は双峰。康熙39年(1700)の進士。 ジュンガルのチベット侵攻に対して康熙57年(1718)に四川巡撫から四川総督に進められ、チベットよりジュンガル兵を撃退した。 聖宗が歿するとロンコドと与に妹婿の雍親王(雍正帝)を擁立して太保を加えられ、雍正元年(1723)に撫遠大将軍としてチベットに遠征して青海ホシュートを制圧し、アムド地方(青海)を藩部とするなど第一次チベット分割を実施した。 擁立の功を恃んで増長し、チベット制圧の翌年(1725)に川陝総督から杭州将軍に遷されると大逆などの該奏が続き、減死に処されて自殺した。

ロンコド  〜1728
 隆科多。満洲鑲黄旗人。聖祖の皇后佟佳氏の弟。聖祖より「舅舅」と呼ばれて顕職を歴任したのち理藩院尚書・歩軍統領に進み、聖祖の臨終に立会って遺詔として世宗を即位させ、一等公に封じられたうえ吏部尚書とされて総理事務大臣に列した。 年羮堯を弁護して剥爵のうえアラシャンに流され、翌年の追訴で減死監禁に処されたものの病死した。

キャフタ条約  1727
 ネルチンスク条約の補完協定。 ネルチンスク条約の締結後、ジュンガルのロシアへの接近もあってクーロン(庫倫)などでは通商協定が無実化し、清朝は貿易の制限を、ロシアは拡大を求めていたが、清朝は叛抗的なジュンガルを牽制する必要もあって同条約を批准・締結した。 内容は先のネルチンスク条約を再確認するもので、貿易場の指定や外交使節の承認など11ヶ条から成る。

胤祥  1686〜1730 
 怡親王。聖祖の第13子。世宗の異母弟。 夙に雍親王胤メi雍正帝)と親しく、世宗の即位と伴に怡親王に封じられ、戸部と侍衛を総理した。 世宗の絶大な信頼があって軍・政の枢機に参与し、世襲降爵を免除される鉄帽子王とされて避諱も免除された。 雍正7年(1729)のジュンガル遠征では、創設された軍需房(軍機処の前身)の主事とされた。

田文鏡  〜1732
 漢軍正黄旗人。監生から地方官を歴任して康熙の末年(1722)に侍読学士に挙げられ、華岳での祭祀の帰途に実見した山西の凶作を報告して山西布政使とされ、賑済の手腕を認められて翌年には河南巡撫に進んだ。 雍正5年(1727)に河南総督とされ、翌年に山東総督を兼ね、綱紀粛正や財務の整理、黄河治水、開墾振農などで治績を挙げ、“模範疆吏”としてオルタイ李衛と並称された。10年に病によって致仕した。

李衛  1686〜1738 ▲
 銅山(江蘇省徐州市区)の人。字は又玠。 康熙56年(1717)に捐納で兵部員外郎となったのち雍親王(世宗)に近侍し、世宗が即位すると累進して浙江巡撫に抜擢された翌年(1727)には浙江総督に進み、塩政の粛正や松江府の海塘築造などに成果があり、特に郷紳の阻撓を排して地丁併合を進めた事は高く評価された。雍正10年(1732)に直隷総督とされ、在任中に病死した。

オルタイ  1677〜1745 ▲
 鄂爾泰。満洲鑲藍旗人。字は毅庵。康熙38年(1699)の挙人。 内務府員外郎の時に雍親王(世宗)の要求を拒否した事を機縁として信任され、雍正元年(1723)に江蘇布政使に抜擢され、雲南巡撫・雲貴総督・雲貴広西総督を歴任して改土帰流を中心とする西南異民族政策で成果を挙げ、田文鏡・李衛と共に“模範疆吏”と賞された。 10年に保和殿大学士に兵部尚書を兼ねて軍機の事務を弁理し、張廷玉と共に託孤されて太保として高宗を輔弼し、在任中に歿すると世宗の遺詔によって太廟に合祀された。 乾隆20年(1755)に門生の胡中藻に連坐して賢良祠から撤出され、甥の鄂昌は自殺を命じられた。

張照  1691〜1745
 婁県(上海市区)の人。別諱は黙、字は得天・長卿、号は南・天瓶居士。康熙48年(1709)の進士。 博学多識で書・音律に長け、54年に南書房に入り、雍正年間に刑部尚書に進んで『雍正会典』編纂にも参与した。 かねてオルタイの雲貴での帰流策を批判し、雍正の末年(1735)に生じた貴州苗族の乱では撫定苗疆大臣とされたものの鎮圧できずに罷免されたが、程なく赦されて乾隆7年(1742)には刑部尚書に復した。父の喪に赴く途上で歿した。 董其昌顔真卿米芾らの行・楷書を学び、帖学(手本書の臨模によって学ぶ宋以来の書学の主流。拓本から学ぶ碑学の対語)の大家として世宗・高宗に寵遇され、後に劉墉と並称された。

方苞  1668〜1749
 桐城(安徽省)の人。字は霊皐、号は望渓。江寧府上元(南京市区)に住い、夙に李光地万斯同らに認められたが、康熙45年(1706)に稍く進士に及第したものの母の喪で殿試には臨まなかった。 50年に南山集案に連坐して旗人の奴隷とされたが、李光地の薦挙と文名によって南書房に加えられ、世宗即位の大赦で良民に戻り、雍正11年(1733)には内閣大学士に列して庶吉士の教導を任とした。
 朱子学と古文辞の大家として知られ、文の義法を重視して簡潔を貴び、唐宋八大家以降は明の帰有光のみを認め、その文章学を継承した派は桐城派と呼ばれた。
   
南山集案 (1711):翰林院編集の戴名世が嘗て撰した『南山集』中に、永暦の元号が使用されている事を以て起された文字の獄。戴氏は大逆として族滅され、寄稿者を含め数百人が連坐した。
 戴名世(1653〜1713)は桐城の人で、康熙48年(1709)の榜眼進士。


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