王引之 1766〜1834
江蘇省高郵の人。字は伯申、号は曼卿。王念孫の子。
嘉慶4年(1799)の探花進士。官は礼部尚書に至った。
父に就いて文字・音韻学に造詣が深く、“高郵二王”とも称されたが、父の学問の祖述を旨とした為にその学問の独創性を確認する事は困難とされる。
桂良 1785〜1862
満州正紅旗人。瓜爾佳氏。閩浙総督玉徳の子。恭親王奕訢の岳父。
捐納で任官して道光14年(1834)より各地の巡撫・総督・将軍を歴任し、咸豊3年(1853)に兵部尚書から直隷総督に転じて僧格林沁らと太平天国の北伐軍を撃滅した。
7年に東閣大学士に刑部尚書・蒙古正藍旗都統を兼ね、アロー号戦争が生じると全権として天津条約を締結し、北京条約にも臨席した。
11年(1861)に創設された総理衙門大臣にも連なり、文宗が歿すると恭親王らの辛酉政変に与して軍機大臣とされた。
胡中藻 〜1755
江西省新建の人。字は翰選。乾隆元年(1736)の進士。
太保オルタイの門生で、内閣学士兼侍郎まで進んだ後、オルタイの死によって広西学政に出された。
乾隆19年(1754)に甘粛巡撫に転じたが、広西での試題に怨詩がある事を弾劾されて翌年に凌遅刑に処された。この事件は執政部の一新を図る高宗が、オルタイ党と張廷玉党の軋轢に乗じたものとされ、オルタイも追訴によって世宗廟から撤出された。
黄爵滋 1793〜1853
江西省宜黄の人。字は徳成、号は樹斎。道光3年(1823)の進士。
10年に林則徐・龔自珍・魏源らと宣南詩社を結成した。
15年に鴻臚寺卿に抜擢されると阿片厳禁を主張し、重課税による合法化を唱える許乃済を弾劾し、林則徐の与力もあって朝廷の阿片政策を決定させた。
阿片戦争では福建に赴任して総督ケ廷の抗戦を輔け、しばしばg善・伊里布を批判し、23年に戸部庫銀の虧空(欠失)が発覚すると嘗ての御史としての管庫怠慢を理由に罷免された。
ケ廷 1776〜1846 ▲
江寧(南京市区)の人。字は維周・嶰筠、号は妙吉祥室老人・剛木老人。嘉慶6年(1801)の進士。
地方官を歴任したのち道光6年(1826)に安徽巡撫に進み、15年に両広総督に転じた。
当初は阿片弛禁論に与したが、実態の理解と伴に厳禁論に転じ、欽差大臣林則徐の処置を輔けたのち閩浙総督に転じ、海防を強化して廈門にイギリス艦隊を撃退した。戦後にイギリスの要求もあって解任されてイリに謫されたが、程なく陝西巡撫に直され、在任中に病死した。
錫良 1853〜1917
蒙古鑲藍旗人。光緒元年(1875)の進士。
25年(1899)に湖南巡撫となり、翌年に護京の為に上京して西太后らの西奔を護衛した功で山西巡撫に転じ、河南巡撫兼河道総督、四川総督、雲貴総督を歴任した。
各地で督撫として治安維持にあたりつつ政治・軍事や社会の近代化を進め、宣統元年(1909)には欽差大臣を帯びて東三省総督兼管将軍事に転じ、3年に病を以て致仕した。
松筠 1752〜1835
蒙古正藍旗人。号は湘浦・百二老人。乾隆年間に繙訳生員から理藩院筆帖式に補せられてより累進し、内務府大臣や総督・尚書・辧事大臣などを歴任して三度軍機処上行走に就き、嘉慶19年(1814)に武英殿大学士とされた。
辺地にある事も多く、伊犁将軍時代(1800〜09)の知見をもとに『新疆識略』12巻を編纂させた。
しばしば事に坐して革職され、道光15年(1834)に都督を以って退官した。
聶士成 1836〜1900
安徽省合肥の人。字は功亭。淮軍に従って太平天国・捻軍討伐などで累功があり、日清戦争中に直隷提督に進められ、戦後に淮軍の鼎営を核として武毅軍を編成して北洋陸軍の一翼を担った。
戊戌政変の翌年に北洋陸軍が武衛軍に改編されると武毅軍は武衛前軍として大沽・北塘に進駐し、義和団の討伐を主張したものの剛毅らに掣肘され、義和団事変での宣戦布告後は連合軍・義和団の双方と攻伐して7月に連合軍に敗死した。
成親王永瑆 1752〜1823
字は少庵、号は鏡泉。高宗の第11子。乾隆54年(1789)に成親王に封じられた。
刻薄吝嗇で知られたが、書に長けて父帝に寵愛されてしばしば南巡に帯同され、嘉慶4年(1799)には親王としては初めて軍機処行走とされ、又た和珅の没宅を与えられた。
二王・欧陽脩の書法を学び、古人の用筆要領を考察し、董其昌が筆を三指で把筆して腕に掛けた例に学んで“撥灯法”を考案した。
天理教徒の乱の鎮圧にも功があったが、祭祀に不備ありとして罷免され、十年間の年俸半減や謁見停止によって憂死した。
曾国荃 1824〜1890
字は沅甫。曾国藩の弟。
湘勇の指揮官として各地を転戦して同治2年(1863)に浙江巡撫に進み、しばしば虐殺と掠奪を非難されたものの天京陥落で伯爵に封じられた。戦後に湖北巡撫に転じ、捻軍の鎮圧に失敗して同治6年(1867)に病を称して致仕したが、光緒元年(1875)に河道総督に直されて巡撫・総督を歴任した。
端華 〜1861
鄭親王。満洲鑲藍旗人。鄭親王ジルガランの裔。
道光26年(1846)に襲爵し、文宗が即位すると顧命大臣として領侍衛内大臣に任じられた。辛酉政変で自殺を命じられた。
張洛行 1811〜1863
亳州渦陽(安徽省)の人。
闇塩を扱う地主として捻党に加わり、太平天国の北伐に応じて蜂起すると捻党の領袖とされた。
咸豊7年(1857)より太平天国の陳玉成と連携して豫南〜江北を転戦し、洪秀全より征北主将・沃王とされたが、陳玉成が敗滅した後は僧格林沁に伐たれて劣勢となり、渦陽の雉河聚で大破されて亳州で処刑された。
張宗禹 〜1868? ▲
張洛行の甥。太平天国より梁王に封じられた。捻軍の領袖を継ぎ、太平天国が壊滅した後はその遺勢の遵王頼文光と連合して騎兵を主力とした組織に改編し、同治4年(1865)には曹州荷沢で清の僧格林沁を敗死させた。
程なくに曾国藩に逐われて湖北に入ると西捻を率いて陝西に入り、回民とも結んで左宗棠に抵抗し、東捻救援のために東転して直隷を劫掠したが、茌平南鎮(山東省高唐)の徒駭河畔で大敗して消息を絶った。
頼文光 〜1868 ▲
広西省の人。金田村以来の拝上帝会信徒で、軍事の累功によって遵王に封じられた。
天京が陥されると捻軍に合流し、同治4年(1865)には猛将として知られた僧格林沁を敗死させた。
曾国藩に逐われて湖北に入った後に東転し、しばしば湘勇・淮勇を破って山東に進出したが、同年末(1868)に大破されて南奔し、揚州で捕われて処刑された。
陳宝箴 1831〜1900
義寧(江西省修水)の人。字は右銘。咸豊元年(1851)の挙人。
太平天国が興ると団練を組織し、義寧州城の回復に功があって署知県とされ、曾国藩から“海内奇士”と激賞された。
曾国藩の洋務運動を輔け、光緒11年(1895)には湖南巡撫に進み、熊希齡・黄遵憲・唐才常・譚嗣同らの活動を支援して湖南時務学堂の開設や南学会の設立を援助し、戊戌政変で罷免された。
東太后 1837〜1881
慈安皇太后。文宗の正皇后。満洲鑲黄旗人、鈕祜禄氏。
東太后とは紫禁城東部の鍾粋宮に住した事による通称。辛酉政変の後、西太后とともに垂簾して穆宗を後見し、同治12年(1873)の穆宗の大婚を機に還政したが、徳宗が即位すると再び共同垂簾した。
性は温厚・謙譲で、西太后の寵閹が無許可で皇城を出た事が報じられると直ちに処刑させた事はあったものの概ね朝政には容喙せず、死因は当時から西太后による毒殺説が有力視されている。一説には、文宗から西太后処刑を許可する遺詔を受けていたとも伝えられる。
馮桂芬 1809〜1874
呉県(蘇州市区)の人。字は林一、号は景亭。道光20年(1840)の進士。郷里での服喪中に太平天国が興って団練を組織し、咸豊10年(1860)の蘇州陥落後は上海で在留外国人や湘勇と連携して上海防衛に尽力した。
同治2年(1863)に蘇州が回復されると帰郷して教鞭を執ったが、程なく李鴻章の幕賓となって洋務運動を支えた。
楊乃武・小白菜案 1873〜76
清末四大疑案の1つ。挙人の楊乃武が姦通相手の小白菜(畢秀姑)の夫/葛品連を暗殺したとする疑案。
拷問による自白で両者に凌遅刑が宣告されたが、冤訟と再三の再審のすえ検屍によって病死と判定された。
両者とも拷問で身体を損い、又た審理を通じて厳罰を主張した両湖派と冤罪を主張した翁同龢ら江浙派の対立に発展し、事件後の両湖派の没落は領袖の左宗棠にも影響した。
葉名琛 1807〜1859
漢陽(武漢市区)の人。字は崑臣。道光15年(1835)の進士。
27年に広東巡撫に進み、南京条約締結後も耆英の後任の徐広縉と与にイギリス人の広州入城を拒絶し続け、咸豊2年(1852)に両広総督・通商大臣とされてからも一貫して排外主義を堅持した。
アロー号事件でもイギリス領事・香港総督とは一切の妥協を拒んで戦争を惹起したが、英仏連合軍による広州城攻撃では無抵抗で捕虜とされて六不将軍(不戦・不和・不守・不死・不降・不走)と謗られ、“海上の蘇武”を自任してカルカッタ(コルカタ)で絶食死した。
劉鶚 1857〜1909
江蘇省丹徒(鎮江市区)の人。字は鉄雲。
博学多才で金石学・数学・医学などに通じ、「洋為中用」を唱えて洋学も摂取し、水利や鉱山開発、鉄道敷設などに携わる実業家でもあり、1887年には河道総督呉大澂の黄河治水を輔けて河図局提調官とされた。
義和団事変に際して独断で官庫を貧民に開放した為に1908年に新疆に謫され、翌年にウルムチで病死した。
王懿栄と与に蒐集した甲骨文字を図録した『鉄雲藏亀』は以後の甲骨文字学に大きく寄与し、又た社会の弊害を批判した小説『老残遊記』は、筆鋒の鋭さから“譴責小説”と称される。
川鼻条約 1841
穿鼻草約。欽差大臣g善とイギリス軍提督エリオットによって締結された。
香港の割譲、阿片の賠償金600万ドル、対等の外交権の確立、広州の開港などが要点とされたが、イギリス艦隊の撤収による北京での強硬派の抬頭によって批准が拒否され、殊に香港割譲が宣宗を激怒させたと伝えられる。
イギリスでもエリオットの独断と弱腰が糾弾され、同条約は仮調印のまま発効されず戦争が再開された。
天津条約 1858
第一次アロー号戦争後、イギリスのエギルン・フランスのグロ・ロシアのプチャーチン・アメリカのリードの4全権大使と、清朝全権の耆英・桂良・花沙納が締結したもの。
償金合計600万両の支払い、英仏両国公使の北京駐在、英仏国籍船舶の長江の航行の自由、キリスト教布教と外国人の国内旅行の保障、開港場の追加、公文書上の欧米人に対する“夷”字の使用禁止などが定められた。清朝は公使の北京駐在に難色を示し、仮調印後に公使の入京を武力排除して第二次アロー号戦争が勃発した。
伊犁通商条約 1851
道光25年(1845)に開始されたオレンブルク〜伊寧・塔城間の貿易を、20年間の期限付きで公認・拡大したもの。
ロシアは伊寧・塔城での通商権・居住権・領事任命権・領事裁判権・布教権など、イギリスの南京条約以上の利権をイリ地方に獲得し、新疆・モンゴル方面での特権的立場を確立した。
塔城条約 1864・1870 ▲
タルバガタイ条約。北京条約で大綱が示された中央アジアの国境の、細部を定めた協約。サヤン山脈〜パミール地方の国境を確定した塔爾巴哈台界約・烏里雅蘇台界約・科布多界約・第二塔爾巴哈台界約を包摂し、ザイサン=ノールやバルハシ湖を両国国境と定めた。
リワディア条約 1879
十八ヶ条条約とも。イリ地方の清朝とロシアの権益を定めた条約。同地方はヤクブ=ベクの乱に乗じたロシアが既得権と居留民の保護を名として征服し(イリ事件)、ヤクブ=ベクが討滅された後も返還に応じなかった。
9ヶ月の折衝のすえ1879.10に全権大使崇厚との間に同条約が締結されたが、占領地の全面割譲と償金500万ルーブルの供出、新疆主要都市への領事館設置、冰嶺(ムザルト峠)の自由通行とロシア商人の通商免税など全面譲歩的な内容だった為に中国の朝野では崇厚の処刑と開戦論が沸騰した。
諸外国も又たロシアの一方的な権益拡大を警戒して崇厚の処刑を回避させつつ干渉し、駐英公使曾紀沢(曾国藩の長子)を全権大使とした再交渉が実現した。