明朝.3

万暦帝  崇禎帝 / 弘光帝  隆武帝  永暦帝

 

神宗 / 万暦帝  1563〜1572〜1620
 明朝の第十二代天子。諱は翊鈞。穆宗の第3子。内閣首輔の張居正の輔弼で冗官整理・黄河治水・税制改革などが行なわれて財政が好転し、李成梁による遼東の安定もあって中興再来と讃えられたが、張居正の死(万暦10年/1582)後は古今未曾有と称される放埓な統治で国力を枯渇させ、立太子問題東林党の抬頭で党争も深刻化した。
 諸皇子の婚儀に1200万両を投じながらも女真の抬頭や三大征(寧夏朝鮮播州の兵乱)で消耗した莫大な軍費(1160万両)を私庫からは一切補充せず、言官の弾劾で致仕した閣僚や地方官の補充すら俸給を惜しんで為さず、閣僚不在・地方長官の半数の欠員にまで至った。 さらに鉱山を再開発させた事で“礦税禍”が続発し、反官感情が蔓延して各地で叛乱が頻発した。
 明朝の没落期にあたる万暦年間は、流通経済は外国銀の流入で好況を呈し、その影響で文化的には明朝の最盛期を現出したが、銀の流通は都市部でのみ循環して農村に貢献せず、地主系商人の進出と搾取によって都市部と農村部の格差がさらに拡大した。 或る言官は「酒を好めば腹を腐らし、色を恋うれば命を縮め、財を貪れば性を堕し、情に溺れれば人を害す。陛下はこの四悪を兼ねしなり」と指弾し、『明史』では「明朝は万暦に滅ぶ」と記された。

張居正  1525〜1582
 江陵の人。字は叔大。嘉靖26年(1547)の進士。内閣首輔徐階の門弟で、隆慶元年(1567)に内閣大学士に列し、徐階の失脚後はその政敵の高拱、次いで反高拱の秉筆太監馮保と結び、1572年の神宗即位とともに内閣首輔とされて国務を摂政した。 行政整理・官紀粛正・冗費節減のほか、万暦8年(1580)からは全国的な検地を行なって一条鞭法を実施するなど財政再建に成功し、李成梁らを用いてモンゴル・女真の南下も善く抑えた。
 長期政権の実現は言官や書院の抑制に成功した為でもあるが、皇太后・馮保に対する迎合や宦官への配慮、帝師としての権威を背景とした独善的かつ独裁的な手法などには批判も大きかった。 殊に父の死(1577)に際しても在職した“奪情問題”は、勅諭であったにも拘らず輿論から強く批判され、万暦10年に歿すると国政改革によって既得権を侵された郷紳系官僚の弾劾で翌年にはすべての位階を剥奪され、朋党とされた多くの朝臣が罷免されて遺族は流刑に処された。 神宗に対する峻厳な帝王教育が、却って死後の過剰な措置と神宗の堕落の大要因となったとされる。

馮保  〜1583
 深州(河北省)の人。嘉靖年間には秉筆太監の職にあり、司礼太監への昇任を妨げた内閣首輔の高拱を怨恚して、穆宗が歿すると張居正と結んで遺詔を改竄し、顧命大臣から高拱を除外して張居正を首輔とし、自身も司礼太監に就いた。 張居正を凌ぐ勢威があったが、貪財好貨と評された一方で太后と共に神宗の教導を担い、張居正の長期政権を内廷から支え、張居正が歿するとその朋党として獄死した。

李成梁  1526〜1615
 鉄嶺(遼寧省)の人。字は如契。朝鮮から亡命した女真人の裔で、鉄嶺衛指揮僉事を世襲し、隆慶4年(1570)年に王治道が戦死すると遼東総兵官とされた。 これより先、嘉靖・隆慶年間に満洲に進出したチャハール部は海西女真・建州女真とともに遼東を侵し、遼東総兵官は10年間で3人が戦死していた。
 李成梁は擢抜した選鋒軍を中心に遼東の軍備を拡充して万暦2年(1574)に建州女直の王杲を大破し、その翌年に三衛を撃退するとともに女真の分裂を図り、建州左衛のヌルハチを支援して海西女真にも遠征した。 遼東防衛の第一人者であったが、馬市の独断開催など張居正との癒着を背景とした汚職・専断が多く、経常軍費のみで数十万両に達したとされる遼東への投下資本の半ばを着服し、独立王国の観を呈した。 万暦19年(1591)に弾劾されて下野し、29年には復職したが、36年(1608)の内閣更迭を機に罷免された。

李如松  〜1598▲
 鉄嶺の人。字は子茂。李成梁の嗣子。夙に良将として知られ、山西総兵・宣府総兵などを歴任し、万暦20年(1592)に寧夏で哱拝が叛くと陝西討逆総兵官として遼東・大同・宣府・山西諸軍を提督して討平した。 続く朝鮮の役では防海禦倭総兵官となって小西行長を撃破して平壌を回復したが、碧蹄館では小早川隆景に敗れた。 万暦25年(1597)に遼東総兵官とされて太子太保を加えられたが、モンゴルの討平中に伏兵に遭って敗死した。

哱拝  〜1592
 ボバイ。嘉靖年間(1521〜66)末に明朝に降ったモンゴル人。 歴功で万暦17年(1589)に寧夏鎮副総兵まで進んだが、洮河の乱平定に際して陝西巡撫党馨に掣肘されただけでなく行賞からも外された為、翌年(1592)2月に寧夏での兵乱に乗じて挙兵した。 オルドス部と結んで陝西全域を席捲したものの李如松に伐たれて劣勢となり、寧夏城とモンゴルとの連絡を絶たれたのち内訌に乗じられて寧夏城が陥されて自殺した。

朝鮮援兵  1592〜1598
 朝鮮では壬申・丁酉の倭乱、日本では文禄・慶長の役。豊臣秀吉が対明貿易の不調の代償として朝鮮を奇襲したことに始まる。日本軍16万は平壌・開京を陥して朝鮮全土を席捲したが、朝鮮の李舜臣の海軍によって制海権が得られず、又た両班地主の抵抗や明軍の来援から苦境に陥り、現地官の間で講和が成って撤退した。
 明室との通婚と朝鮮支配を求める秀吉は朝貢貿易のみの承認を不服として万暦25年(1597)に再征し、このとき秀吉は中国全土の征服と北京遷都を呼号したが、日本軍は朝鮮水軍を壊滅させた他は戦果を挙げられずに苦戦が続き、秀吉の訃報が伝えられると撤退した。
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 両戦役で明・朝鮮両国は深刻な打撃を蒙り、戦場となった朝鮮の国土は著しく荒廃し、破壊された民生は容易に回復しなかった。 中国でも強引な徴兵・徴発はそれまでの内政の紊乱と相俟って内乱を続発させ、800万両の軍費を増税で賄った事は明朝衰亡の大きな原因になった。

楊応龍  〜1600
 播州(貴州省遵義市)の人。唐代から四川に居住して土司を世襲した土豪で、隆慶5年(1571)に潘州宣慰使を襲ぎ、まもなく都指揮使を加えられた。 強圧的な統制によって万暦17年(1589)に管区の諸酋に告発され、これに貴州巡撫英夢熊が乗じて20年に収監され、この時は償金と朝鮮への援兵の供出で赦されたが、再度告発されると出頭を拒否し、22年に造叛と認定された。 この時も最終的に償金と質子の供出、楊応龍の隠退などで和したが、24年(1596)に質子の楊可棟が横死した事で造叛し、苗族を煽動して大乱に発展した=播州の役
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 楊応龍は明朝が朝鮮の役で大兵を投入できない事に乗じて湖広や四川に侵攻して重慶にも逼り、27年に李化龍が湖広川貴総督として来赴した後も地勢を利用して頑強に抵抗したが、火器を伴う大兵力によって翌年には平定された。

織傭の変  1601
 宋代の頃より絹織物の中心地として栄えていた蘇州での、織工を中心とした民変。 礦税使として派遣された織造太監孫隆織機に課税した事を発端とし、先だって府城の城門で関税として商税を徴収してより物資の流通が激減していた事に加えて商人の罷市(ストライキ)や蚕の不作による生糸の高騰で多数の労働者が失業し、織工を中心とした反税闘争に発展した。 織工は徴税吏とその一党の家屋を破却したものの殺人を避けて商税撤廃を求め、孫隆が杭州に逃れた後、知府の朱燮元の説諭によって急速に沈静化した。 首謀者として自首した葛成は、巡撫曹時聘や江南の輿論によって杖刑に処されたのみで万暦41年(1613)には釈放され、商税もまもなく撤廃が告示された。

李時珍  1518〜1593
 蘄州(湖北省蘄春)の人。字は東璧、号は瀕湖仙人。医家に生まれ、幼時から医書を読んで薬物学に通じた。郷試には及第できず医業を継ぎ、楚王の招聘に応じた後その推薦で京師の太医院に出仕したが、程なく致仕した。 万暦6年(1578)、薬学知識の集大成として『本草綱目』を著し、上呈が叶った直後に病死した。

石星  1538〜1599
 東明(河北省)の人。字は拱宸、号は東泉。嘉靖44年(1565)の進士。万暦15年(1587)より工部・戸部・兵部尚書を歴任して兵部尚書の時に哱拝の乱と壬申倭乱(文禄の役)に対応し、碧蹄館の役の後に対日講和を進めたが、丁酉の再征(慶長の役)が生じると交渉の失敗を弾劾されて獄死した。

真可  1543〜1601
 句容(江蘇省)の人。本姓は沈、号は紫栢。呉江(蘇州市区)に住まって17歳のとき剃髪し、20歳で具足戒を受けた後は諸方を歴遊して廬山で法相宗を修め、五台山で学んだのち華厳宗の心印を得た。 念仏を鼓吹する一方で仏法の敷衍のために経典の普及を望み、大蔵経刊行を図って万暦17年(1589)より五台山で刻蔵を開始し、これは真可の死後に完成して明蔵・嘉興蔵・万暦版などと呼ばれる。神宗の金剛経手写を論じるなど仏教普及のために諛俗の気味があり、誣告によって獄死した。

李贄  1527〜1602
 泉州晋江の回教徒。本名は林載贄、号は卓吾・宏甫・温陵居士。李卓吾として知られる。26歳で挙人となって地方官を歴任し、雲南の知姚安府を以て万暦8年(1580)に致仕した後は麻城県(湖北省)龍潭湖の芝仏院で半僧半俗しつつ精学・著述した。 陽明学左派の思想を極端に発展させ、“童心”の発露を尊んで『水滸伝』などの俗文学を絶賛し、又た南京でのマテオ=リッチとの交流で西洋の文物に理解を深めた一方、道学者・礼教の偽善を罵倒して孔子・孟子すら否定した。 狷介・偏狭を自任して奇矯に映る言動も多く、異端として迫害されて北通州で逮捕されたのち北京の獄中で自殺した。 その著作は明清を通じて禁書とされたが、清末に留日学生によって再発見され、五四運動以降は解放的思想の先駆者として再評価されている。

胡応麟  1551〜1602
 蘭渓(浙江省)の人。字は元瑞、号は石羊生。万暦4年(1576)に挙人となった後は科挙に及第できず、詩を王世貞に激賞されたものの官は員外郎で終わった。 退官後は山中に隠棲して4万余の書物を集めて精学と著述に専念し、評論書である『詩藪』『少室山房筆叢正集』『少室山房類稿』など多くの著作をものした。

王錫爵  1524〜1610
 太倉(江蘇省)の人。字は元馭、号は荊石。嘉靖41年(1562)の榜眼進士。累進して万暦5年(1577)には翰林学士承旨とされ、奪情問題では張居正を徹底的に批判し、張居正が是とされると棄官した。 12年に招聘されて内閣大学士に列し、19年に致仕帰郷したものの21年に招聘に応じて首輔とされ、太子問題で神宗に迎合して三王並立に賛同した事を言官に弾劾されて翌年(1594)に致仕した。

マテオ=リッチ  1552〜1610
 利瑪竇。イタリア人のイエズス会宣教師。インドのゴアで布教したのち万暦11年(1583)にマカオから肇慶府(広東省)に入り、儒服を着用して華南各地で布教した。 科学知識によって高名となり、29年(1601)には『貢献土物表』を上呈して北京での在住と布教が許可され、翌年には城内に会堂の建設も認められた。 『天主実義』『幾何原本』『坤輿万国全図』などを介して中国に西洋知識をもたらし、又た中国文化を西欧に積極的に紹介した。 徐光啓李之藻ら士大夫層にも多大な影響を及ぼしたが、デウスを天帝と漢訳し、又た宗廟崇拝を肯定するなど宣教を優先した姿勢は後代の典礼論争を結果した。

徐渭  1521〜1593
 山陰(浙江省紹興)の人。字は文清、後に文長。号は天池・青藤など。陽明学を学んで文名が高かったが、郷試には悉く落第し、後に胡宗憲の幕僚となって倭寇討伐に随い、胡宗憲の失脚後に精神を病んで妻を殺して入獄した。 釈放後は郷里に退き、文人墨客と交わりつつ各地の名勝を遊歴し、晩年には家族と離れて創作に耽った。 奔放不羈の質で、擬古派を批判して真情の発露を是とし、袁宏道らに多大な影響を及ぼした。 書は蘇軾米芾黄庭堅らの行・草書を学んで「字林の侠客」と評され、画も亦た奔放な花卉図を好んで描き、倶に清の四大名僧揚州八怪らに範とされた。

袁宏道  1568〜1610
 公安(湖北省)の人。字は中郎。万暦20年(1592)の進士。礼部主事・吏部郎中などを歴任した。 李贄に師事して真情の発露である“性霊説”を重んじ、擬古派を批判して格式に捉われない個性・独創を重視し、兄の宗道・弟の中道とともに“三袁”と称されて公安派を形成した。 その詩風は清新軽妙・平俗とも評され、近年では市民詩家の水準が独創力を備えたことの反映として中国現代文学の源流と見做される事もある。

張国祥  〜1611?
 正一教の第五十代天師。万暦5年(1577)に天師を嗣いで北京に居し、勅命で仏教の大蔵経に対抗した道蔵の編集を完成させた。 道蔵は正統年間に480函5305巻の正蔵が完成していたが、これに32函180巻を追加して512部5485巻とし、37年(1609)に刊行した。

顧憲成  1550〜1612
 無錫の人。字は叔時、号は陽。万暦8年(1580)の進士。 神宗の皇太子問題では三王並封を提唱した王錫爵らの内閣を指弾し、万暦22年(1594)に言官を一掃した神宗を批判したのち棄官すると無錫に東林書院を再興し、弟の顧允成ら在野の同志と講学に専心した。 その学問は実践尊重の傾向が強く、頻りに政治問題を討議して在朝在野に多大な影響を及ぼし、批判勢力から東林党と呼ばれた。

高攀龍  1562〜1626 ▲
 無錫の人。字は雲従、号は景逸。万暦17年(1589)の進士。21年に立太子問題で王錫爵と対立して罷免され、顧憲成らと与に無錫に東林書院を再興した。 万暦帝が歿すると光禄寺少卿に抜擢され、天啓4年(1624)には都察院左都御史に進んだが、魏忠賢や外戚の鄭氏と対立して下野し、東林邪党として指弾されると逮捕の前に入水自殺した。

申時行  1535〜1614
 長洲(蘇州市区)の人。字は汝黙、号は瑤泉。嘉靖41年(1562)の状元進士。張居正に認められて累進して万暦6年(1578)には内閣大学士に列し、12年に首輔に就いたが、在任中は寛容を旨として帝意に迎合し、綱紀・政治を弛緩させた。 殊に言官が神宗を極諫して廷杖に処された後に一切の上奏を検閲選別したことは強く非難され、皇太子問題で言官に弾劾されて19年(1591)に致仕した。

  1541〜1620
 江寧(南京市区)の人。字は弱侯、号は澹園。万暦17年(1589)の状元進士。 翰林院修撰から東宮講官に進んだが、言官に忌まれて万暦25年(1597)に福寧州同知に遷され、程なく致仕した。陽明学派左派(泰州派)に属し、引退後は講学と著述に専念して時の碩学と称され、又た友人の李摯の庇護に尽力した。

熊廷弼  1569〜1625
 江夏(武漢市区)の人。字は飛百。万暦26年(1598)の進士。辺務に通暁していたために36年(1608)に遼東巡按とされ、サルフの敗戦後に遼東経略使とされると後金軍を悉く退けて防備の強化を進めたが、怯懦との弾劾が続いて致仕した。 天啓元年(1621)に瀋陽・遼陽が陥落すると再び遼東経略とされ、水陸両面からの北伐を図ったものの巡撫の王化貞と対立し、翌年には王化貞の軽挙で広寧を失って共に山海関に却き、楊漣左光斗らの弁護で却って東林派と見做されて処刑された。

鍾惺  1574〜1625
 竟陵(湖北省天門)の人。字は伯敬。万暦38年(1610)の進士。 福建提学僉事まで進んで天啓3年(1623)に致仕した。擬古派の形式主義と公安派の軽佻を排撃し、同郷の戴元春とともに独自の詩観によって撰述した評書『古詩帰』『唐詩帰』は、時の詩人の必携書とされた。 又た幽深孤悄な詩風は“竟陵体”と称されたが、僻渋と評される事もある。

光宗 / 泰昌帝  1582〜1620/1620
 明朝の第十四代天子。諱は常洛。神宗の長子。神宗が寵妃/鄭貴妃の子の常洵(第3子)を鍾愛した為に長らく嗣子とされず、立太子問題は朝議の重要議事としてしばしば内閣の更迭にも発展した。 万暦28年(1600)に太子と定められた後も挺撃事件が生じるなどその地位は安定せず、即位の翌月に丸薬を服用して頓死(紅丸)した。立年称元によって万暦の後半に泰昌の元号が用いられた。

三案  ▲
 明末に内宮で生じた重大な疑案を、魏忠賢らが東林党の所業として『三朝要典』で総称したもの。 帝室内の確執を伴う帝位の継承に言官と内閣の対立や内監と東林派の政争が複雑に絡み、最終的に天啓4年(1624)に宦官魏忠賢による東林党弾圧と独裁化を結果した。

  • 梃撃 : 万暦43年(1615)/棍棒を携行した賊が皇太子の慈慶宮に侵入した事案。 反皇太子の鄭貴妃派の策動としてその内侍が処刑されたが、鄭貴妃を弾劾した東林派の王之采らも処分され、真相の追及はされなかった。
  • 紅丸 : 万暦48年(1620)/即位まもない光宗が、内侍の崔文昇の調剤した丸薬で体調を崩した為に鴻臚丞李可灼の勧めた丸薬を服用し、恢復したのちに続けて服用して急死した事案。 言官の高攀龍楊漣左光斗らの追及は事態の糊塗を図った内閣首輔の方従哲にも向かったが、崔・李は流罪とされたものの方従哲の罪は問われなかった。これも鄭貴妃の関与が噂された。
  • 移宮 : 万暦48年(1620)/光宗の死後、内廷の容喙を嫌う楊漣ら廷臣が、皇長子(熹宗)を乾清宮から慈慶宮に移して即位させた事案。 乾清宮は天子の寝宮として皇帝と皇后のみ居住が認められていたが、光宗の寵妃だった李選侍が慣行を理由に元服前の皇長子との同居を主張し、これに内官が与した。 廷臣派は李選侍を乾清宮から逐ったのち熹宗を還宮させ、東林派による朝廷運営を実現したが、内宮では皇長子の乳母の客氏と、客氏と結んだ魏忠賢が抬頭した。

朱常洵  1586〜1641
 神宗の第3子。福王。神宗の寵妃の鄭貴妃の子として偏愛され、長兄(光宗)と太子位を争い、万暦29年(1601)に福王に封じられた後の莫大な賞賜と浪費は国庫窮乏の一因となった。 42年に洛陽に就国した後も放縦を黙認されて怨嗟の的となり、崇禎14年(1641)に洛陽を陥した李自成に処刑された。

熹宗 / 天啓帝  1605〜1620〜1627
 明朝の第十五代天子。諱は由校。光宗の子。即位当初から東林派と非東林派が対立し、東林派が他派排斥を進めた事で斉党・浙党・楚党が宦官の魏忠賢に通じ、天啓3年(1623)より東厰提督を兼ねた魏忠賢による疑獄と暴政が行なわれた。 熹宗は細工物の製作を好んで政務には一切携わらず、政争は地方の末端にまで波及して献金・贈賄・詐功が常態化し、地方行政や軍部でも人材を得ず、遼東方面では後金に対して敗績が続いた。

魏忠賢  〜1627
 粛寧(河北省)の人。賭博の負債返償のために自宮した宦官で、無学でありながら万暦中に鄭貴妃に通じて抬頭し、熹宗が即位するとその乳母の客氏に通じて司礼秉筆太監に進み、程なく掌印太監王安を失脚させた。 天啓3年(1623)には東廠を兼督して反対派に対する弾圧を進め、翌年に楊漣に弾劾された事を機に反対派を東林党とする一大疑獄を惹起し、熹宗の厭政に乗じて朝政を専断した。 6年には『三朝要典』を編纂させて三案の首謀者を東林派と周知させ、又た粛寧侯に封じられると堯天舜徳至聖至神と称して「九千歳」と呼号させ、これには多数の官僚が追従し、孔子に比す生聖として祀廟を建立する者すらあった。 毅宗の即位と共に十大罪を弾劾されて鳳陽に徙され、追訴があって自殺した後に磔刑に処された。 没収財産は劉瑾を上回り、人々は争ってその肉を啖らったという。

趙南星  1550〜1627
 高邑(河北省)の人。字は夢白。万暦2年(1574)の進士。顧憲成らとともに張居正の四大害を上疏して致仕したが、その死後に起用されて京察に進み、21年にも内閣派官僚を厳罰に処して罷免された。 光宗の即位後に擢挙されて天啓3年(1623)に吏部尚書に進み、官界粛正と並行して高攀龍・楊塽・左光斗らを挙任し、内閣を主導して内監派と対立したが、同年の考課で東林派を優遇したことで反対派と魏忠賢の結託を招来し、間もなく失脚して代州の卒のまま歿した。

楊漣  1572〜1625
 応山(湖北省広水)の人。字は文孺。万暦35年(1607)の進士。給事中の時に紅丸の案があり、言官では初めて託孤に連なった。 移宮の案で熹宗を李選侍・魏忠賢から隔離する事に成功したのち首輔方従哲をも弾劾して失脚させた。 天啓4年(1624)には左副都御史とされ、魏忠賢を二四大罪を以って弾劾した処、却って東林派に対する大弾圧が行なわれて獄死した。

左光斗  1575〜1625 ▲
 南直隷桐城(安徽省)の人。字は遺直・共之、号は滄嶼・浮丘。万暦35年(1607)の進士。 中書舎人から御史に累進して能名があり、移宮の案では楊漣を支持して世に“楊斗”と並称された。 内閣首輔の葉向高に信任されて天啓4年(1624)に大理少卿から左僉都御史に進んだが、楊漣と与に魏忠賢を弾劾して獄死した。

米万鍾  〜1628
 安化(陝西省)の人。字は仲詔、号は友石、石隠。万暦23年(1595)の進士。 天啓5年(1625)に山東右布政使に進んだ後、東林党として失脚して太僕少卿として歿した。米芾の裔と称してその書画を学び、殊に行・草書の名手として知られ、董其昌とは“南米北董”と称された。

董其昌  1555〜1636
 松江華亭(上海市松江区)の人。字は玄宰、号は思白・香光。万暦17年(1589)の進士。 皇長子講官などの要官を歴任したのち26年頃に失脚したが、光宗に徴還されて『神宗実録』『光宗実録』を編纂し、天啓5年(1625)に南京礼部尚書に進んだ。翌年に致仕し、崇禎4年(1631)に復た南京礼部尚書に直され、この時も翌年に隠退して郷里で歿した。
 画は黄公望を学んだのち董源巨然を修めて画壇の旗手と目され、尚南貶北論を提唱して画院派(浙派)に対する文人画の優越を強調した。 又た書は米芾趙子昂を学び、顔真卿蘇軾黄庭堅らの書風をも摂取して一家を成し、特に行書を得意としたが、知名の後は門人にしばしば代作させたという。 文芸の重鎮として多くの文人墨客と交わり、鑑識や評論にも長け、乾隆帝が絶賛して芸林百世の師と呼ばれるなど以後の書画壇に決定的な影響を及ぼしたが、典当や家属の驕暴によって“獣官”とも称され、万暦47年(1619)には民衆の焼討ちに遭っている。

陳継儒  1558〜1639 ▲
 松江華亭の人。字は仲醇、号は眉公。幼時から異才を称揚されて王錫爵王世貞にも認められたが、万暦15年(1587)に崑山に隠棲して文筆を生業とし、出仕には応じなかった。 殊に画業を本領とし、花石山水は神韻兼備と讃えられて友人の董其昌と並称された。

徐鴻儒  〜1622
 鉅野(山東省)の聞香教徒。世相の乱れに乗じて蜂起を謀り、天啓2年(1622)に計画が漏れたため鄆城で急遽挙兵して福烈帝を称した。紅巾を標識とし、山東各地を劫掠して北京の孤立を図り、3ヶ月で鎮圧されたものの投降者は皆無だったと伝えられる。
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 聞香教は天啓年間に直隷の王森によって始められたもので、元末紅巾が挙兵の際に弥勒像に焼香したことから“香会”“香軍”と称されたように、弾圧を避ける白蓮教が変名した1宗派とされる。上納金による富財を有し、貧民の帰依を集めて陝西・安徽にも広がる教勢があった。 後に天理教・八卦教を称し、義和団成立にも大きく関与した。

周順昌  1584〜1626
 呉県の人。字は景文。万暦41年(1613)の進士。 清直で知られ、天啓5年(1625)の疑獄で魏忠賢を罵って罷免された後、東林党員として錦衣衛に収監されて獄死した。
   
開読の変 (1626):周順昌の処罰に対する蘇州市民の抗議運動。 開読とは、被疑者の護送や処刑に先立って勅令を被疑者と公衆に聴聞させる儀式。 蘇州での開読式の当日、生員を先頭にした民衆が官憲と衝突し、これを説得して解散させた知府は周を密かに北京に送る一方で、民衆を弾圧して首謀者を逮捕した。 参加した生員は資格を剥奪され、首謀者とされた庶民5人はいずれも処刑されたが、周とは面識のない庶民が義によって行動した点で特筆され、庶民意識の変化を示す代表的な事件としてケ茂七の乱や織傭の変などと並称される。

楊鎬  〜1629
 商丘の人。字は京甫。万暦8年(1580)の進士。24年(1596)に日本が朝鮮に再征(慶長の役)すると右僉都御史・経略援朝軍務として援軍を総督し、蔚山で加藤清正・小西行長に大敗しながらも勝報を偽って罷免された。 38年(1610)に遼東巡撫に起用され、46年に撫順が後金に陥されると兵部右侍郎・遼東経略とされて瀋陽から北伐軍を総督したが、翌年のサルフの役での大敗を問われて投獄ののち処刑された。

毛文龍  1576〜1629
 銭塘の人。字は鎮南・振南。 遼東に渡って李成梁に属し、同年(万暦33年/1605)に武科に及第した。天啓元年(1621)に遼陽が失われた直後、鎮江を回復して遼東巡撫王化貞より総兵とされ、程なく鎮江が奪回されると鴨緑江口南方の皮島(椵島)に鎮して鉄山地方を支配した。 しばしば後金軍を撹乱したが、7年に後金の南征(丁卯胡乱)で朝鮮が屈した後は専ら中朝交易の仲介を独占し、又た魏忠賢ら廷臣と結んで軍資の横領などによって巨富を築き、“海外天子”を自認して遼東巡撫袁崇煥と激しく反目した。
 崇禎2年に閲兵式を偽った袁崇煥によって逮捕・処刑されたが、部将の孔有徳耿仲明尚可喜らが明朝に叛き、洋式大砲と伴に北奔して後金の軍事力を著しく強化した。

奢崇明  〜1629
 奢氏は彝族の名家として貴州の永寧宣撫使(四川省叙永)を世襲した。 傍流から嗣子に迎えられた事もあって隣接する姻戚の水西宣慰使(貴州省黔西)安位とは不和で、天啓元年(1621)に遼東援兵の途上の重慶で叛いて四川の指導層を鏖殺し、翌月には成都を攻囲するなど乱の規模や深刻さは楊応龍の乱を凌いだ。 四川巡撫とされた朱燮元と石砫宣撫使の秦良玉らによって翌年には重慶を失ったが、官軍は朱燮元が父の喪で致仕してより後任を得ず、又た水西藩の呼応もあって容易に鎮定されず、毅宗の即位とともに巡撫に復した朱燮元によって平定された。

毅宗 / 崇禎帝  1610〜1627〜1644
 明朝の第十六代天子。諱は由検。熹宗の弟。即位後直ちに魏忠賢の粛清や徐光啓の起用などで諸政の刷新を図って政務に精励したが、性急苛察で猜疑心が強く、徐光啓の死後は讒言や僅過から頻繁に閣僚を更迭・処刑したために官僚が委縮して人材も不足し、宦官が再び抬頭した。 朝政の混乱は北防にも反映してしばしば清軍が入寇し、崇禎12年(1639)には済南城をはじめ70余城が劫掠されて山東布政使張秉文らが戦死して徳王由枢が捕虜となり、15年にも直隷南部〜山東が劫掠されて兗州の魯王以派が自殺したが、朝廷は防衛強化を指示するのみだった。 又た軍事の多発から頻繁に行なわれた増税は多くの民戸・軍戸を破綻させて各地で起義が頻発・拡大し、17年に李自成に北京城が陥されて万歳山で縊死した。 毅宗の廟号は弘光政権によるもので、隆武政権からは威宗、清朝から懐宗・荘烈帝と追諡され、明朝の天子として昌平山の思陵に葬られた。
 17年間に罷免・処刑された閣僚は50人を超え、刑部尚書だけで17人、兵部尚書14人、総督7人、巡撫11人、首輔10余人を数えた。又た増税額は万暦年間を大きく上回る1700万両に達したが、多くは招撫や武器支給の対症策に用いられて実効は挙がらず、匪賊の強化を援ける結果に終わった。

徐光啓  1562〜1633
 上海徐家匯の人。字は子先、号は玄扈。万暦32年(1604)の進士。 天啓3年(1623)に礼部右侍郎に進んだのち東林派として罷免されたが、崇禎元年(1628)に徴還されて礼部尚書に進み、元朝以来の回回暦法を改正して毅宗に信任され、6年(1633)に内閣大学士に列した。
 熱心な天主教徒でもあり、16年(1588)には韶州でイエズス会士と接触しており、28年に南京でマテオ=リッチに就いてキリスト教を学び、31年に洗礼を受け、36年(1608)には上海に天主堂を建立して宣教師の布教を保護している。 キリスト教と共に暦学・数学・水利・兵器などの西洋科学を学び、『幾何原本』の翻訳や『崇禎暦書』の編訳などによって西洋学術の漢学への導入を図った。 特に実用学を重視し、改暦や『農政全書』の著作、サツマイモの普及などもその成果で、又た西洋式大砲(紅夷砲)の購入と配備にも与力した。

李之藻  1565〜1630 ▲
 仁和(杭州市区)の人。字は振之・我存、号は淳庵居。万暦26年(1598)の進士。太僕寺少卿まで進んだ。 徐光啓らとともにキリスト教の洗礼を受け、西洋の天文・数学・暦学を学び、『天学初函』の著作や暦法の改正、『幾何原本』の翻訳、『坤輿万国全図』の刊行など西洋科学の紹介に尽力した。『崇禎暦書』の編訳にも参与したが、完成前に歿した。

袁崇煥  〜1630
 東莞(広東省)の人。字は元素。万暦47年(1619)の進士。 天啓2年(1622)に広寧(遼寧省北鎮)が陥されると山海関内外の視察を強行して対策を上奏し、僉事とされた。 辺防論を遼東経略使孫承宗に認められて寧遠城(興城県)を築造し、6年に紅夷砲によってヌルハチを撃退して遼東巡撫・兵部右侍郎に進み、崇禎元年(1628)には兵部尚書に右副都御史・都師薊遼兼督登莱天津軍務を加えられ、遼東回復に5年の猶予を認められた。
 慷慨の質で才気を恃んで独善の傾向があり、2年には夙に猜忌していた毛文龍を後金との通謀を理由に処刑したが、その部将の孔有徳らの離叛を惹起し、後金が西方から北京を攻略した事で毛文龍と通じていた宦官に通敵を讒言されて逮捕・磔刑に処された。 明朝最後の名将と謳われ、その刑死によって明の滅亡が決定したと評する史家すらあった。

楊嗣昌  1588〜1641
 武陵(湖南省常徳)の人。字は文弱。万暦38年(1610)の進士。 天啓年間に魏忠賢を批判して致仕し、毅宗の即位と伴に徴還されて崇禎5年(1632)に永平巡撫とされ、盧龍に鎮して山海関を中心とした北防を強化し、7年には兵部右侍郎兼右僉都御史に進位して宣大総督(宣府・大同・山西の軍務総理)とされた。 10年に内閣大学士に列し、翌年に軍管区の再編“四正六隅・十面張網策”(陝西・河南・湖広・江北軍区が専守して叛軍を分断し、延綏・山西・山東・江南・江西・四川軍区で掃討)を唱えて福建巡撫熊文燦を6省の総督に抜擢し、李自成を大破して張献忠の招降にも成功したが、12万の増兵に伴う剿餉は却って飢民を闖軍に奔らせた。
 張献忠が再度叛くと尚方宝剣を帯びる督師として湖広に出征し、瑪瑙山で張献忠を大破したものの実動の左良玉らとの軋轢を醸成して追撃できず、翌年に洛陽・襄陽が陥されると憂懼して江陵で病死した。
瑪瑙山での軋轢は、統制を逸脱しがちな左良玉の更迭を謀って賀一龍に後任人事を内示していたにも拘らず、瑪瑙山での勝利でこれを反故とした為に賀一龍が内情を左良玉に暴露した結果のもので、両人とも楊嗣昌の措置を怨恚して張献忠追撃を中止しています。 又た掃賊優先に固執するあまり、崇徳11年(1638)に大挙進攻した女真に対して講和論が否決されて迎撃が決した後も、出征した主戦派の盧象昇を執拗に掣肘して敗死させ、結果的に洪承疇孫伝庭による李自成追撃が中断されています。

熊文燦  〜1640 ▲
 貴州永寧衛(四川省敘永)の人。万暦35年(1607)の進士。 崇禎元年(1628)に福建巡撫に就き、鄭芝龍を招撫して海賊の掃討に成功し、兵部尚書楊嗣昌に絶賛されて10年に兵部尚書・右副都御史を兼ねて南畿・河南・山西・陝西・湖広・四川の軍務を総理した。 李自成を大破し、11年(1638)には張献忠の招撫にも成功したが、翌年に張献忠が再叛したために詐功として処刑された。

盧象昇  1600〜1639
 宜興(江蘇省)の人。天啓2年(1622)の進士。崇禎2年(1629)より北防に転じて天雄軍を組織し、河北〜山西の民変鎮圧にも功があって後に江北・河南・湖広・四川・山東の軍務を総督し、崇禎8年(1635)よりしばしば高迎祥らを大破して安徽から回頭させた。 間もなく宣大総督(宣府・大同・山西軍務総理)に転じて京畿に進駐し、11年に清軍が3路から進攻した際には出征論を唱えて朝議を定めたが、出征後も講和派の内閣大学士楊嗣昌によって兵站を妨げられて累敗したのち鉅鹿で戦死した。 後に兵部尚書を追贈されて弘光年間(1644〜45)に忠烈と追諡され、乾隆41年(1776)に忠粛と改められた。

孫伝庭  1593〜1643
 代州振武衛の人。字は伯雅・百谷。万暦47年(1619)の進士。 魏忠賢の秉政を厭って吏部郎中を棄官して久しく出仕しなかったが、招聘に応じた翌年(崇禎8年/1635)には陝西巡撫に抜擢された。 楡林で秦軍を組建して陝北の略定を進め、盧象昇に逐われて陝西に進出した高迎祥を子午谷の黒水峪で大破して擒え、11年には洪承疇と与に潼関で李自成を大破したが、盧象昇の敗死で防京に召還された為に制圧できなかった。
 内閣の楊嗣昌とは不和で、翌年にその弾劾で収獄され、楊嗣昌の死後に陝西総督・兵部右侍郎に直されて李自成を伐ち、追撃を急いで郟で大敗した。 以後は潼関での軍の再建を進めたが、出征を督促されて汝州で大敗し、退去した潼関で敗死した。

徐宏祖  1586〜1641
 江陰(江蘇省)の人。字は振之、号は霞客。徐霞客としても知られる。 郷紳の門に生まれたが、科挙に落第した後は机上の学問に懐疑的となり、地理学に志して死の前年まで各地を遊歴した。 その足跡はチベットや西域・遼東にも及び、旅行記『徐霞客游記』は古今紀游第一の佳作と賞された。

倪元璐  1593〜1644
 上虞(浙江省)の人。字は玉汝、号は鴻宝。天啓2年(1622)の進士。 『三朝要典』の毀却や魏忠賢の遺党の排斥を上奏して認められ、崇禎8年(1635)に国子監祭酒に進んだ後に政争で失脚したが、15年に兵部右侍郎兼侍講学士に抜擢され、翌年(1643)には戸部尚書兼翰林学士に進められて毅宗に信任された。程なく枉陥されて帰郷し、北京陥落の報に接して縊死した。 詩文・書画に秀で、特に行書・草書は“霊秀神妙”と評された。

秦良玉  1574〜1648
 四川忠州(重慶市)の人。字は貞素。 夫の馬千乗の家は東漢の伏波将軍馬援の裔を称し、明初より土司として石砫宣撫使(重慶市石柱)を世襲し、「住民の性、争いを好む」と称された一方、麾下の白桿兵は猛兵として知られた。
 播州の役などで馬千乗に随い、万暦41年(1613)に馬千乗が冤罪で獄死したために宣撫使を継いだ。 天啓元年(1621)に女真を防いだ楡関の役で夫人に封じられて都督僉事の世襲が認められ、同年に始まる奢崇明の乱でも四川巡撫を扶けて総兵官とされ、崇禎3年(1630)には歴功から朝見を認められて晨筆を下賜された。 以後も各地の匪賊を討伐して太子太保・都督を加えられ、北京陥落後は石砫を守って張献忠の招撫にも応じず、弘光帝に帰順して石砫の中立を守った。歴史上、個人の功績で正史に独立した伝を立てられた唯一の女性でもある。

陳元贇  1587〜1671
 杭州の人。字は羲都、号は既白山人。天啓元年(1621)に福建からの使節に随行して渡日し、寛永4年(1627)に尾張藩主徳川義直に招聘されて60石で客事し、後に帰化した。 詩・画・書・建築・陶芸・医薬・針灸・茶道に通じ、名古屋で伝えられた製陶法は元贇焼と呼ばれ、又た江戸国正寺で武術師範を務めて日本の柔術に改良を加えた。 音韻学や典章制度にも造詣があり、日中の文化交流に貢献して日本の学者らから“先哲”と称された。

 
 

王嘉胤  〜1631
 府谷(陝西省)の人。辺戍から郷里に逃避した後、天啓7年(1627)に始まる陝西の大機飢饉に直面して翌年(崇禎元年)に蜂起して府谷県を陥したが、連年の苛斂誅求と旱魃に苦しむ農民や士卒・駅夫らが参加して兵力は3万余に達し、高迎祥張献忠羅汝才馬守応らが呼応して甘粛・山西に波及する大乱となった。 洪承疇に逐われて山西を転戦中に、官軍に内通した部下によって沁水・陽城方面で殺された。
 以後は王自用が継いで全軍を十七家36営に再編したが、崇禎6年(1633)に直隷で官軍に敗死した。

高迎祥  〜1636
 安塞(陝西省)の人。 郷里で蜂起したのち王嘉胤の叛乱に加わり、王嘉胤を継いだ王自用の下で十七家に数えられた。 王自用が崇禎6年(1633)に敗死すると河南への転戦を指導して闖王を称し、8年に滎陽に張献忠羅汝才馬守応ら十三家72営を糾合して四集団による河南・南征・西征・東征の経略を定め、これよりこの案を提示した李自成の発言力が著しく増したという。 東征で鳳陽(安徽省)を陥して程なくに張献忠が李自成と対立して分離し、又た他軍との連携もままならず、盧象昇に逐われて陝西に転進したのち陝西巡撫の孫伝庭に敗れて北京で処刑された。

羅汝才  〜1643
 延安の人。詐謀が多く、曹操を号した。王嘉胤の蜂起に参加して後に十七家に数えられ、滎陽大会の後は河南の経略を担当した。高迎祥と別れた張献忠に従って入蜀し、14年(1641)に李自成に投じたが、李自成に逼る威勢を忌まれて貪婪・好色を理由に暗殺された。

馬守応  〜1644
 綏徳(陝西省)の人。回族の出身を以て“老回回”と呼ばれた。王嘉胤らの蜂起に呼応し、後に十七家にも数えられ、滎陽大会の後は賀一龍らと湖広を経略して“回革五営”を称した。 羅汝才・賀一龍らが殺されると李自成を猜忌して荊州に退き、翌年に病死した。

李自成  1606〜1645
 延安米脂の人。 傭農に窮して銀川の駅卒に転じ、駅站制の縮小で失業したのち王嘉胤らの叛乱に加わった。 高迎祥に従って駅卒を中核とした兵の組織化を進め、又た崇禎8年(1635)の滎陽大会で起義軍の方針を提言した事で威望を高めた。 高迎祥の敗死で闖王を嗣ぎ、洪承疇らに敗れて山間に潜伏したが、官軍の主力が湖広の張献忠討伐に転じた事や河南の大飢饉に乗じて頽勢を挽回し、厳正な軍紀や免糧均田を標榜した事で各地で支持され、14年に洛陽を陥して福王常洵を処刑し、翌年に襄陽を占拠した。
 17年(1644)には西安に拠って大順国を建て、太原・大同・宣府・居庸関を攻略したのち北京城を陥して明朝を滅ぼし、多くの官僚に奉迎された。 清朝に称藩した山海関の呉三桂を伐って清軍に大敗した為に北京を放棄し、尚も数十万の衆が従っていたとも伝えられるが、翌年には西安をも棄てて武昌に奔り、通城(湖北省)の九官山で土民に襲われ殺された。 北京城に入城した際に減税には言及せず、却って税糧牛馬を徴発したために人心を失ったという。

張献忠  1606〜1646
 延安衛(陝西省定辺)の人。 辺戍から逃れて帰郷したのち王嘉胤に呼応して八大王を称し、勇猛黄貌を以て黄虎とも呼ばれ、後に十七家にも数えられた。 高迎祥と与に安徽を経略中に李自成と決裂して湖広に転じ、高迎祥の死後は叛軍の首魁と見做されて伐たれ、左良玉に大破されて房・竹に退いた翌年(1638)に熊文燦の招撫に応じ、太平鎮(四川省万源)に駐した。 12年に再び叛き、翌年に太平の瑪瑙山で楊嗣昌督下の左良玉・賀人龍らに大破されたが、官軍の内訌で追撃を免れ、14年に襄陽の襄王朱翊銘を敗死させた。 16年には武昌に拠って“大西王”を称し、その翌年(1644)に成都を陥して称帝したが、清軍に成都を逐われて粛親王豪格との交戦中に西充の鳳凰山で射殺された。
 嗜虐心が異常に強く、随所で殺戮を好んだと伝えられる。 明末清初の四川の人口激減(1578年/310万口 → 1685年1.8万口)も“屠蜀”“屠川”と称した張献忠による徹底的な大虐殺が原因とされてきたが、近年では多くが清軍の蛮行だったと見做されている。

 
 

南明

 北京陥落後、南中国各地で朱氏を奉じた地方政権の総称。 南京の福王、福州の唐王、紹興の魯王、肇慶の桂王らが福建の鄭氏や四川の起義軍の協力を得ながら清軍に抵抗したが、それぞれ正統性を争って反目し、政権内でも党争が絶えなかった。 1646年までに閩浙の諸政権が敗滅した後は桂王(永暦帝)が反清復明の象徴となったが、鄭成功李定国ら支持勢力はいずれもそれぞれの拠点に固執して合致できず、桂王は1658年に呉三桂に敗れてビルマに遁れ、強力な水軍を擁して抵抗を続けた鄭氏も1683年に清軍に降伏した。

弘光帝  〜1644〜1645〜1646
 安宗。諱は由ッ。福王常洵の長子。崇禎16年(1643)の洛陽陥落に際して南奔して鳳陽総督馬士英らに迎えられ、北京が陥落すると東林派の推す潞王常淓を制して称帝した。 かねて昏庸貪淫で知られ、福王政権は“聯虜平寇”を主導する文官派と“滅虜復明”を唱える武人派が対立し、朝廷では馬士英・阮大鋮らによる復社派排斥があって早くから分裂した。 翌年4月には揚州が陥落して史可法が戦死し、5月には南京も陥されて安徽の蕪湖で擒えられ、翌年に北京で処刑された。 福王政権の平定を機に、清朝は漢人に対しても剃髪を強制する薙髪令を行なった。

馬士英  1591〜1645
 貴陽(貴州省)の人。万暦47年(1619)の進士。 崇禎5年(1632)に横領で宣府巡撫を罷免されたが、宦官への贈賄で赦免され、後に南京兵部侍郎・鳳陽総督に進んだ。 明末に洛陽を逐われた福王を淮安から南京に迎え、北京が陥落すると福王を即位させて兵部尚書・東閣大学士・都察院右副都御史となって実権を掌握したが、貪婪・恣意で政策に欠け、史可法左良玉ら反対派を弾圧・排除するなど福王政権を崩壊に導いた。 清軍の南京接近で杭州に奔り、次いで台州の山寺に遁れて私度僧となったが、間もなく捕えられて処刑された。

阮大鋮  1587〜1646 ▲
 懐寧(安徽省)の人。字は集之、号は円海・石集。万暦44年(1616)の進士。 はじめ同郷の左光斗と与に東林派に属したが、やがて魏忠賢に与して光禄寺卿とされ、毅宗の即位とともに失脚・帰郷した。 南京に福王政権が成立すると馬士英との親交から兵部尚書とされ、復社勢力の排除を主策とし、南京が陥されて杭州に遁れたのちに清軍に投降して従軍したが、仙霞嶺の攻略中に急死した。明末有数の戯曲家でもあった。

左良玉  〜1645
 臨清(山東省)の人。字は崑山。無学文盲ながらも勇略によって遼東の戦線で立身し、崇禎6年(1632)に総兵官に進んだ後は闖軍の討伐に従事した。 10年には張献忠を大破してその招降の契機を為し、13年に平賊将軍に叙され、楊嗣昌に従って賀人龍らと与に瑪瑙山で張献忠を大破したが、楊嗣昌との軋轢から追撃せず、15年に朱仙鎮(開封南郊)で李自成に大敗した後は武昌に退いて一帯の討伐に従事した。 福王が即位すると太子太傅・寧南侯を遙授され、翌年に「清君側」と称して馬士英討伐の兵を挙げたが、征途の九江で病死した。 軍紀の不統制から「不恨賊而恨兵」とも称され、又たしばしば統制に背くなど自侭の風があったが、よく部下と苦楽を倶にして信望があったと伝えられる。

史可法  1602〜1645
 祥符(河南省開封県)の人。字は憲之、号は道鄰。崇禎元年(1628)の進士。 明末の流賊討伐などの累功で崇禎16年(1643)には漕運総督から南京兵部尚書に進んだ。 李自成による北京の陥落後、福王を推す馬士英らと潞王を推す銭謙益らの対立では連和を模索したが、馬士英に謀られてやむなく福王擁立に加わり、内閣大学士に列した。 “聯虜平寇”を唱えたものの馬士英らによる排斥が露骨になると政争を厭って江北督帥として転出し、左良玉の造叛に乗じた清軍に盱眙・泗州を陥されたのち豫親王ドドに揚州を攻囲され、降伏を拒んで落城後に自刎した。
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 揚州城での史可法の抵抗は熾烈なもので、落城後にドルゴンは甚大な損害の報復として屠城を行なわせ、生存した王秀楚の『揚州十日記』によれば10間で80万人が殺されたという。

劉宗周  1578〜1645
 山陰(浙江省紹興市区)の人。字は起東、号は念台、蕺山先生。万暦29年(1601)の進士。高樊龍の要請で東林書院で講学した事もあり、魏忠賢に忤って失脚したのち毅宗の即位で順天府尹に直され、工部左侍郎・都察院左都御史に至った。 北京陥落後は南京の福王に仕えたが、馬士英らに排斥されて帰郷し、杭州陥落の報に接して絶食死した。 極端に傾く陽明学の修正を旨として“気一元論”“慎独説”を唱えた大哲学者であり、門下から黄宗羲らを輩出した。

王鐸  1592〜1652
 孟津の人。字は覚斯、号は嵩樵・擬山など。天啓2年(1622)の進士。 崇禎12年(1639)に致仕したが、北京陥落の直前に礼部尚書に叙され、拝命前に北京が陥落して南京の福王に依り、東閣大学士・太子太保とされた。 翌年に清軍に降り、弘文院学士として明史館の副総裁や礼部尚書を歴任し、順治8年(1651)に致仕して間もなく歿した。
 倪元璐黄道周と親交し、二王の行草と顔真卿の楷書を学んで書名は董其昌と並称される事もあり、詩文や山水画にも長じた。

朱常淓  1608〜1646
 潞王。潞簡王翊鏐の嗣子。穆宗の孫。 神宗に同母弟の子として寵遇され、絵画・音律・書法などに造詣があり、製作した事は世に“潞琴”と呼ばれた。 崇禎の末に闖軍の接近で懐慶府(河南省沁陽)を棄てて南京に奔り、次いで杭州に遷った。翌年(1645)に福王が擒われると馬士英・阮大鋮らを迎えて監国を称したが、間もなく清軍が接近すると馬士英らに逃散されて和清派の勧めで開城し、北京に送られた後に謀逆に枉陥されて族滅された。

隆武帝  1602〜1645〜1646
 紹宗。諱は聿鍵。太祖の第23子/唐王桱の裔。崇禎5年(1632)に襲爵した。9年に清兵の北京攻略で独断で義兵を動かした為に徐籍されて鳳陽に謫されたが、そのため李自成による南陽陥落を免れ、北京陥落後に広西に移送される途上で福王の敗死に直面し、福建水師提督の鄭芝龍の支持を得て福州で即位した。 紹興の魯王と正統論を以て対立し、又た強大な水軍と財力を擁する鄭芝龍が清朝に帰順した後は劣弱となり、翌年8月には福州を逐われて汀州(福建省長汀)で擒われ、絶食死した。
   
 唐王を襲いでいた弟の聿鍔が11月に広州で蘇観生らに擁立されたが(文宗/紹武帝)、肇慶の桂王と正統を争い、三水(仏山市区)に桂州軍を撃退したものの12月には清軍に広州を陥されて自殺した。

楊文聡  1597〜1646
 貴陽(貴州省)の人。字は龍友。奢崇明の乱で貴陽城を堅守して名を知られ、挙人のまま崇禎年間に江寧知県に進み、汚職を弾劾されて失職したが、南京に福王政権が成立すると右僉都御史に任じられて京口に駐した。敗走後は福州の唐王に仕えて兵部右侍郎・右僉都御史に任じられ、蒲城(福建省)で清軍に敗死した。

艾南英  1583〜1646
 臨川段溪(江西省東郷)の人。字は千子、号は天傭子。 幼時から好学で、科挙の八股文を不満として韓愈の古文復興運動の再興を冀望した。 天啓4年(1624)の郷試で魏忠賢を弾劾して生員の資格剥奪と3度の応試停止とされ、毅宗の即位後に赦されたものの科挙に及第出来なかった。 北京陥落後は唐王に随って御史に進んだ。

黄道周  1585〜1646
 漳浦(福建省東山)の人。字は幼玄、号は石斎。天啓2年(1622)の進士。 崇禎11年(1638)に政争に敗れて広西に謫された後に致仕したが、後に福王に仕えて礼部尚書とされ、南京陥落で南奔して唐王を擁立して武英殿大学士・吏兵二部尚書とされた。義兵を募って出征したが、徽州で清軍に擒われたのち降伏を拒んで処刑された。 文章書画に秀で、志操からも倪元璐と並称される事が多く、天文暦数にも通じていた。

陳子龍  1608〜1646 ▲
 松江華亭(上海市区)の人。字は臥子、号は鉄符。崇禎10年(1637)の進士で、南京兵科給事中まで進んだ。 黄道周に師事して銭謙益呉偉業と詩名を斉しくし、又た崇禎初頃に夏允彝らと与に畿社を結成し、復社と合して古学の復興と政界腐敗の粛正を唱えた。 南京の福王政権が敗亡した後も義軍を組織して抵抗を続け、呉県で捕われて南京に護送される途上で入水自殺した。

馮夢龍  1574〜1646
 呉県の人。字は猶龍、号は姑蘇詞奴。崇禎3年(1630)に県学に才学を認められて薦挙された貢士。 後に福建の寿寧知県に進んで溺女(新生児殺害)の悪弊を革めて讃えられ、崇禎11年(1638)に致仕したが、滅明に悲嘆して自殺した。 李卓吾の思想を肯定して白話小説や戯曲に親しみ、『三言』『平妖伝』など著作も多かったが、思想は比較的穏健だった。

曹学佺  1574〜1647
 侯官(福建省福州市区)の人。字は能始、号は石倉・西峰。万暦23年(1595)の進士。 南京戸部郎中・浙江按察使をへて天啓2年(1622)に広西右参議となったが、6年に著書『野史紀略』を理由に魏忠賢らに弾劾・罷免された。 崇禎元年(1628)に赦免された後は仕官せずに著述に専念し、北京陥落後は唐王に随って礼部尚書・太子太保とされ、福州陥落とともに自殺した。 詩才に富み、福建の文運興隆に多大に貢献した。

朱以海  1618〜1662
 魯王。字は巨川。太祖の第10子/魯王檀の裔。 崇禎15年(1642)の清軍の侵攻で兗州府で自殺した魯王以派の弟。襲封が認められて間もなくに李自成に北京が陥されて南奔し、南京の福王に従って台州に鎮した。福王の南京政権が敗亡すると馬士英らと対立していた遺臣に推戴されて紹興で監国を称し、福州の唐王と正統性を争ったものの鄭芝龍の勢力を憚って称帝は控えた。 翌年に清軍に紹興を陥されると舟山に逃れて鄭成功に庇護を求め、1651年に舟山を陥されて金門に遷り、1653年には鄭成功が永暦帝を奉じたために監国の号を廃し、金門で病死した。

朱之瑜  1600〜1682
 余姚の人。字は魯嶼、号は舜水。朱舜水として知られる。 朝廷の招聘には応じなかったが、北京陥落後は魯王、次いで桂王に仕え、諸外国の援助による復明を図って日中間を4度往復し、1659年に日本に亡命した。 1665年(寛文5年)に徳川光圀に招致されて水戸藩の賓客とされ、理学と心学の中庸的学問を以って水戸学に多大な影響を与え、光圀より文恭先生と諡号された。

永暦帝  1625〜1646〜1662
 桂王。諱は由榔。神宗の第7子/桂王常瀛の子。 崇禎年間に永明王に封じられ、隆武2年(1646)に兄の桂王由𣜬が歿して紹封された。唐王の福州政権が壊滅すると、旧の両広総督丁魁楚・広西巡撫瞿式耜らによって肇慶(広東省)で称帝し、広州の紹武帝と対立した。 大西国系の孫可望李定国、福建の鄭成功らと提携して清軍に抵抗し、一時は広西・貴州・雲南を支配して広東や四川・湖南にも進出したが、連携は円滑を欠いて内紛も絶えず、永暦4年(1650)には桂林を失った。 李定国に迎えられて昆明に遷った翌年(1657)に孫可望が叛いた事で劣勢が決定的となり、13年(1659)にビルマに亡命したものの呉三桂に屈したタウングー朝に執われ、昆明に護送されたのち処刑された。
 一家の多くがキリスト教徒で、日本のみならずバチカンにも乞援使を送ったことがあった。 鄭成功によって昭宗の廟号が贈られ、台湾では永暦の元号が続けられた。

瞿式耜  1590〜1651
 南直隷常熟(江蘇省)の人。字は伯略、号は稼軒。万暦44年(1616)の進士。 崇禎年間に戸科給事中に進んだが、銭謙益に師事していた為にその朋党として罷免され、郷里に逼塞した。 福王の南京政権に出仕して広西巡撫とされ、南京が陥された後は桂王を擁立して内閣大学士とされ、桂林に駐してしばしば清軍を撃退したが、永暦4年(1650)に敗れて擒われ、翌年に処刑された。

馬進忠  〜1659
 陝西延安の人。字は葵宇。崇禎年間に陝西から河南・湖北を流寇したのち左良玉に敗れて降り、左良玉が歿した後も清に降った左梵庚に従わずに湖南に蟠居して清軍に抗い、後に李定国と結んで湖南の回復に従事した。 永暦12年(1658)に漢陽王に封じられ、清軍に敗れて貴陽から雲南に退いたのちに病死した。

李定国  〜1662
 延安の人。字は鴻遠。張献忠に従って義子とされ、軍略と驍勇を以て孫可望の次席の安西将軍とされて大西国の四将に数えられ、張献忠が歿した後も孫可望らと与に清軍に抗いつつ雲貴を経略して安西王を称した。 桂林を逐われた桂王を貴州に奉迎して西寧王に封じられ、次いで湖南に進出して桂林では定南王孔有徳を敗死させ、靖州・衡州などを抜いて湖南の殆どを回復した。 このため天下は震動したと伝えられ、この事を伝聞した黄宗羲からも近年未曾有の快挙と絶賛されたが、孫可望の嫉視と両者の不和を惹起した。
 永暦8年(1654)には鄭成功と呼応して広東を経略し、慶肇を回復したものの鄭軍の遅滞や疫病の流行などから広州城外で大敗した。 10年に孫可望の下を逃れた桂王を迎えて晋王に封じられたが、翌年に孫可望が離叛した後は呉三桂らの経略もあって頽勢が顕著となり、12年に昆明を逐われ、勐臘方面を転戦しつつ抵抗を続けたものの桂王の訃報に接して憤死した。 その軍は綱紀粛正で、非漢族が大部分を占めていたという。

孫可望  〜1660
 延長(陝西省)の人。張献忠の蜂起に従い、膂力と驍勇を愛されて義子とされ、後に平東将軍とされて四将に数えられた。張献忠が歿した後も李定国らと抗戦を続けつつ雲貴を経略して平東王を称し桂林を逐われた桂王と結んだが、内閣と主導権を争って内訌が絶えず、程なく閣僚らを粛清して桂王を貴州の安隆に奉迎して秦王に封じられた。 残暴善妬と称され、李定国の戦功を悪んで不和となり、桂王が李定国に投じた翌年(1657)に雲南を伐って大敗して清に降り、漢軍正白旗に加えられて義王に封じられた。 招撫を交えて桂王政権の崩壊を助長し、桂王をビルマに逐った翌年(1660)に病死したが、狩猟時に清軍に暗殺されたとも伝えられる。

 
 

李旦  〜1625
 泉州の人。王直の晩年にマニラで海商に従事していたが、スペインの官憲に逐われて日本の平戸に移住し、王直の貿易ルートを再構築する傍らで徳川幕府から朱印状を獲得し、南海貿易を掌握してヨーロッパ商人との仲介も担った。 平戸で歿し、その組織は副帥の鄭芝龍に継承された。 清代の『台湾外記』で鄭芝龍の頭目とされた顔思斉のモデルとも見做される。

鄭芝龍  1604〜1661
 南安(福建省)の人。字は飛黄、号は老一官。素行不良で勘当されてマカオに奔り、李旦の下で海商として抬頭して李旦の死後にその勢力を継いだ。 台湾に拠り、強大な水軍力を擁してしばしば閩浙沿岸を寇掠し、崇禎元年(1628)には明朝の招撫に応じて福建巡撫に叙され、同業の敵対勢力を攻滅する一方で、ポルトガルに代って対日貿易で抬頭した台南のオランダ東インド会社と積極的に関係して巨利を博した。
 南京の福王政権から南安伯に封じられ、その敗滅後は福州の唐王を支持して軍事の主柱とされたが、清軍の優勢を認めると隆武2年(1646)にその招撫に応じ、このとき水軍の多くが扶明を唱える子の鄭成功に従った為に軽んじられた。 鄭成功の招撫に失敗して寧古塔に流された後、鄭成功との内通を家人に誣されて殺された。

鄭成功  1624〜1662 ▲
 生地は長崎平戸。旧諱は森、俗称は国姓爺。 鄭芝龍と田川氏との子。7歳のとき福建に戻り、生員となって南京の太学でも俊秀と讃えられ、北京陥落後は父とともに唐王に随い、朱成功と賜名されて忠孝伯に封じられた。 隆武2年(1646)に父が叛いて福州が陥落した後も抗清を続け、広州陥落後は桂王を奉じ、永暦4年(1650)に厦門を奪って拠点とする一方で日本・琉球・ルソンや東南アジア諸国と交易して経済力を強化し、9年に延平郡王に進封された。 日本への乞師は徳川幕府に公許されなかったものの鉄人隊や倭銃隊などの日本人傭兵が存在した事が知られ、12年(1658)に開始した北伐では江南に進出して一時は南京も占領したが、兵站が続かずに敗退した。 桂王政権の凋落や順治末年(1661)の遷界令に対し台湾よりオランダ人勢力を駆逐して移拠し、移民を招致するとともに台湾開拓や貿易拡大を進めたが、まもなく病死した。 中国人による台湾開拓の促進者として、又た国民党政府と類似した境遇から台湾では民族的英雄とされている。

鄭経  1642〜1681 ▲
 字は式天、号は賢之。鄭成功の長子。 父の死後に厦門より帰島し、叔父との抗争に勝利して襲号したが、間もなく厦門を失った。 康熙13年(1674)に三藩の乱に呼応して靖南王耿精忠を支援し、厦門を回復して泉・漳・潮州府を陥したが、三藩の廃滅で孤立して19年には厦門のみを保って台湾に後退した。 乱中、厦門・台湾へのイギリス東インド会社の商館設立を許可して貿易し、ルソン島進出の計画中に歿した。
 実際には鄭経のリーダーシップは然程でもなく、“臥龍”陳永華や劉国軒が軍政を支えていました。鄭経の最晩年、侍衛から抬頭した馮錫範が劉国軒と通じて陳永華を排斥し、鄭経の死後には陳永華の婿であり鄭経の庶長子として監国に就いていた鄭克𡒉を殺して娘婿の鄭克塽を擁立しました。 康熙22年に澎湖で施琅に大敗すると、ルソンへの移転と徹底抗戦を唱える馮錫範を水師提督の劉国軒が説得して降伏が決し、明朝遺臣の抵抗は完全に終息しました。 鄭克塽は漢軍正紅旗に編入されて海澄公に、馮錫範は忠誠伯に封じられ、劉国軒も漢軍八旗に加えられて後に天津総兵まで進みました。


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